世界図書館からの依頼は簡単なものに思えた。 インヤンガイに飛ばされたロストナンバーの保護。幸いに現地の親切な人間に匿われて安定しているが、周囲への影響が出ないうちにターミナルへ連れ帰って欲しい。まかせておけ、とフェイは請け負った。 ロンと向かった先はインヤンガイの下町の小さな部屋。主が留守の間にそっと連れ出すのが得策、そう判断したのはフェイだ。 突然入ってきた二人に、ロストナンバーは驚かなかった。「フォンの友達? よろしく、僕はハオ」 名前は同居人に付けられたのだと言う。記憶喪失でインヤンガイを彷徨っているときにフォン・ルゥに拾われた。地回りの怪しげな男達と関わらないように部屋に匿われて、今は穏やかに暮らしている、と。 フォンがいない間にターミナルへ移動することに、ハオは渋った。「とても大事にしてもらってるんだ、お礼も言わないうちにどこかへ行くわけにはいかないよ」 確かにとても大事にされている、ならばこそ、フォンの帰りを待てば、一悶着起こるのは目に見えている。今なら何かの抗争に巻き込まれて行方不明になった、で済む。 首への軽い一撃で気を失ったハオを連れ出そうとした矢先、フォンが戻ってきた。「ハオ! 何をするんだ! 貴様らもあいつらの仲間か!」 叫んで走り寄ってきたフォンはなぜか傷だらけになっていて、どこかで何かやらかしたのだとは気づいたが、もう説明できる時間も余裕もなかった。フェイとフォンの互いの骨身を削るようなぎりぎりのやりとり、もう無理かと思った時に、ふいにフォンが耳を押さえて崩れた。「う、あっ!」 何が起こったのかはわからない。だが、好機を逃がす訳に行かない。 「ハオーっ! ハ、オォオオオ!」悲鳴のような呼び声を背中に、フェイとロンはハオを連れてインヤンガイを去ったのだが……。 今、フォン・ルゥはマン・ファージと化している、という。 世界図書館はフォン・ルゥの討伐依頼を出した。「ケリはつけなくちゃな」 フェイは整理の済んだ店と住まいを見回した。十分楽しい思いをした。その年月を胸に。「あいつに付き合ってやるか」 薄く笑って、家の鍵を白い封筒に落とし込み、封をした。「……馬鹿ですね」 ロンは届けられた白い封筒を眺めた。 差出人の名前はなく、代わりに真っ赤なキスマークがついている。相変わらず馬鹿馬鹿しい遊びの好きな男だ。 触れてみれば中身は鍵だとわかる。おそらくは『フォーチュン・ブックス』の。「責任など、取れるわけがないでしょうに」 ハオはターミナルで穏やかに暮らしている。フォンがマン・ファージとして討伐依頼が出されたのは聞いている。 だが、ロンには一つ気になることがある。「……何か、起こっていますね」 銀色に輝く、掌に乗る金属の珠。それは『二つの月』と呼ばれたおもちゃだ。繋がれていて、転がして遊ぶ他愛のない、けれど美しいもの。それが、インヤンガイで不愉快きわまりない使われ方をしたのを知っている。 『二つの月』を買い求めた男はコートを翻し、顔を隠していた。子供のみやげにと言った。客の詮索はしない、支払いに問題がなければ。けれど、店を去り際に、男の耳のあたりから、何か妙なものが零れ落ちたように見えた。すぐに閉まったドアに、それ以上は追わなかったけれど。 フォン・ルゥのマン・ファージ化報告に、同じような奇妙な符号がある。 人の中身を作り替え、世界を破滅させようとする、何かが存在している。「いつから? どこから? どうして? 何のために?」 確かにロンも、助けたロストナンバー、ハオの幸福を祈る。だが、それはフェイとは違う方向だ。マン・ファージの背後にある、何かを見極める、それが自分の動き方だと心得る。「もし、僕が考えていることが正しければ」 この世界は遠からず終焉を迎える。「……そんなところで死んでる場合じゃないだろ、フェイ」 低く呟いて、ロンは封筒を開けないまま、引き出しに片付ける。「…あれ…?」 ふいに何かが頭に過って、ハオは手を止める。 作っていたマーラーカオは間もなく完成だ。甘い香ばしい匂い。懐かしくて優しい、誰かの笑顔が見える気がするので、時々発作的に作りたくなる。「…っつ」 ずきん、と痛んだのは耳の奥。視野の奥に、何か銀色の、丸い奇妙な光が曇り空を過っていく、そんな光景が閃く。頭痛、というより、針を差し込まれたような、鋭い痛みに顔をしかめる。 だが、それは一瞬だった。すぐに消えて、跡形もない。「風邪引いたかな…」 少し肌寒いかもしれない、と窓を閉めに行く。「マーラーカオ……届けに行こう」 フェイやロンや……ここで知り合った友人達に。「……足りないかもしれない……」 いつも山ほど食べて、すぐなくなってしまう。「……あれ……?」 それって、誰、だっただろう? 閉めた窓に額をあてて俯いた。「……インヤンガイ、マン・ファージ、フォン・ルゥの討伐をお願いいたします」 世界司書、鳴海晶は『導きの書』を震えながら読み上げた。「フォン・ルゥは、インヤンガイの工場で周囲の人間を巻き込みつつ、勢力範囲を広げています。地回りが対抗しようとしましたが……呑み込まれた状態です」 顔は白く、生気がない。「『フォーチュン・ブックス』のフェイ・ヌールが同行します…皆様に生命の危険が及ぶことはないと保証する、とのことです」「なんだよ、それは?」 ヒーロー気取りで、俺達を馬鹿にしてんのか? 不愉快そうに気色ばむ周囲に鳴海は怯んだ。「いえ、あの、それは……既に問題になっている工場の周囲にはある種の結界が張られており、最悪事態ならば、そこから脱出すれば、結界で閉じ込められた空間を無理矢理押し縮めることができるということです。けれど、それでは、巻き込まれた人間にも被害が及ぶので、できる限り、フォン・ルゥ単体を攻撃して頂きたいのです」「……で? フォン・ルゥの状態は?」「……人間形態は何とか保っているようですが、攻撃を受けてできた傷から黒い粘液のようなものを出し、攻撃してきます。成分は不明ですが、引き込まれ巻き込まれると、フォン・ルゥ側として動くことになります。炎は少しは有効ですが、一気に焼き尽くさないと手勢を繰り出して消し止めます。魔法系は効くものと効かないものがあるようで、詳細はわかっていません。打撃系は有効ですが、近距離に近づくと」「呑み込まれる、ということか」「おそらく。ただ」「ただ?」「何かとても奇妙な物………どの時点の攻撃だったのか、明らかではないのですが、何かがフォン・ルゥの前に転がり出した時、一瞬攻撃が止んだそうです」 その瞬間に、結界が張れたそうですが。「それが何なのかがわかれば……隙を作ることができるかもしれません」 どうぞ、よろしくお願いします。 頭を下げた鳴海の顔はなぜかまだなお白かった。
運命は絡み合い、交錯する。 どこかで違えた道は、引き返せず、ただ遠ざかる。 うぉ、ぉ、ぉ、お! インヤンガイの工場廃墟を中心とした空間には、どろどろした黒い粘液のようなものを引きずった人間達が、お互いに果てしなく殺し合っている。 お前が間違っているんだ!!! 世界を救うために、己の正義を貫くために、真実、守りたい存在を守るために、皆、それぞれの体が粉々になるまで戦い続けている。 フォン・ルゥもまた、その中央で、必死に戦い続けている。 「ハオぉおおおおお!!!」 悲痛な叫び。自分達を襲った男達に連れ去られて、ハオもまた惨い目に合わされているのだ。何としてでも助けなくちゃならない。 『フォン、おいしく出来たよ!』 脳裏に振り返るハオの笑顔。マーラー・カオを山盛りにして。好きなんだろ、だから作り方を覚えたよ、と満足そうに、誇らしげに。 インヤンガイは汚い街だ。汚れていることが勲章のような街、その中で、奇跡のように差し出された信頼を、どうして裏切れる、どうして手放せる。 どれほど敵が巨大でも、伊達や酔狂でインヤンガイで生き延びてきたわけではない、裏でも表でもあらゆる手段と方法を使って、ようやく突き止めた、密かに人を連れ攫っていく謎の機関、接近して探ろうとしたとたんに立て続けに妙な奴らに襲われて、やがてその手がハオに及んだのだ。 俺のせいだ俺のせいだ俺のせいだ。 だから救うんだ、何としてでも救うんだ、もう一度ハオの笑顔を見るんだきっと。 ぎゃあああああああ!! 放った粘液の中で、殺し合い続ける人々の乱舞、怨嗟と怒号を引きずってフォンは闇を広げる。 世界を、変えるんだ。 塔、愚者、世界、運命。 「なるほド」 開いたカードに黄竜人、ワイテ・マーセイレは肩を竦めて見せる。正位置と逆位置、どう読むかが占い師の力量だが、必ずしも占いに従う必要はない。 「……今回は抗わせてもらうヨ。その抗いこそ、実際に示された運命の導きなのかもしれないしネ? 解釈は幾通りでもできるかラ」 最後のチケットを受け取って、だらりと垂れた鳴海の指先を眺める。相手が虚ろな視線でこちらを見やってくるのに、きょろりと銀色の竜眼で見返す。 「それはそうとして、鳴海君、ちょっと顔色悪すぎるんじゃなイ? 何かあったノ?」 鳴海が今にも吐きそうな顔で口を押さえた。 「人を救うとか…世界を変えるとか……」 そんなことを考えると、何だか大声で泣きたくなって。 「ふぅン……お大事ニ」 ワイテは次の目的地に向かう。 「とうとう俺も人殺し、かぁ」 坂上 健は何度も報告書を読み返していた。 フォンに関わるもの、『二つの月』のもの、関係がありそうなもの全てに丹念に目を通し、準備を進める。フェイと戦ったなら符。兄妹を気にかけるならボーラ。耳の中にあるのはトラベルギアかワーム…そう思う。 報告書に明らかになっていない何か、の気配がある。ぶつかるなら、きっとそれも頭にいれておかないと無事に生還できない。 報告書を閉じてベルトに何個も手榴弾を装着する。 通常の手榴弾は、間に人間を1人挟めばほぼ威力を殺せる。狙いさえ正確なら殺傷コントロールしやすい武器といえなくもない。 「…よ…っ」 準備は道具だけではない。 戦う自分の体にも、万全をしみ込ませる。武器は使い方一つ、逆に言えば得物に頼り過ぎる愚も嫌というほど知っている。 手榴弾を投げ、何度も繰り返し、ピンを抜いてから爆発するまでの時間を身体に覚えこませる。相手が打ち返せないタイミングで手榴弾を爆発させるために。 どむっ。 重く深い音が『人殺し』になる自分の頬を叩きつける。吹き付けた風が髪を嬲らせるのに片目をつぶって呟く。 「悪いな、フォン…あんたの頭、吹き飛ばすぜ」 触らず回収するためのマジックアームや手袋、瓶を用意しながら、小さく呟いた。 「あんたが探偵になったのは…取り返したかったからだ、守りたかったからだ。その気持ちに付け込んで、あんたを変えたヤツがいる。今のあんたに言葉が届くとは思わない…だから倒す。あんたのことは忘れない…落とし前は必ずつけさせる」 心の準備も十分に。 これから向かう戦場には、人の心を斬る覚悟が要る。 「ハオさん!」 「い、らっしゃいませ…?」 突然『フォーチュン・カフェ』に飛び込んだ赤ジャージの日和坂 綾に、ハオが瞬きする。 「ハオさんが『人にあげるならコレ』って思うお菓子いろいろ、バスケットに一杯ちょうだい! それと…この前貰ったクリスマスカードに『貴方も幸せに』って書いて!」 一気にしゃべったのは胸が一杯だからだ。 これから綾は、ハオを大事に想う人、おそらくはハオも大事にしている人を叩きのめす。最悪、その命を奪ってくる。 両手のこぶしを握って迫った綾に、ハオは戸惑いつつも、作ったばかりのマーラー・カオを振り返る。差し出されたクリスマスカードを受け取り、 「う、うん、ちょっと、待ってね」 何かよくわからないけど、綾の様子はただごとではないし、凄く急いでいるようだし、とあわててバスケットを探し出し、フォーチュン・クッキーの袋詰めと、カラフルなねじり飴やキャンディを配置、それから最後にマーラー・カオを幾つも幾つも乗せる。 「さっきもワイテさんが急にやってきてマーラー・カオが欲しいって言ったから…もうあんまりないけど」 「そ、うなんだ」 綾はひくり、と唇が引き攣ったのを意識する。ワイテさんもきっと気づいたんだ、と感じる。 フォンの足止めをする、ハオとの大事な記憶のもの。 「で、カードだね、誰に贈るの? 季節外れだけど……僕が書いていいのかな?」 無邪気に微笑んで言われた通りに書きながら見上げてきたハオに、綾はぐ、っと歯を噛み締めた。 幸せそうだ。 店の中を見回す。温かな湯気、穏やかな日差し、柔らかく響く談笑、店の奥の隅に揺れているだろうかぼちゃ頭の人形、幸せそうだ、確かにハオはここで幸せそうなんだ。 けれど、それを、フォンは知らない。 「ハオさん…っ」 「っ!」 ふいに抱き締められて、ハオが驚いて固まるのに、呻くようにつぶやく。 「ゴメン、帰ってきたら全部説明する…」 「…う…うん……?? 依頼、に出るんだね…?」 それじゃあ、これは君に。 口を開けて、と促されて放り込まれたクッキーが甘く、しゃり、と口で解れる。 「どうか、無事で戻って」 笑顔で送り出されて、フェイのことは知らないんだ、と綾にわかった。 「……おや、これは珍しい」 『フォーチュン・グッズ』のロンは入ってきた百田 十三に微笑んだ。 「どんなものでも商うと聞いた。情報が欲しい。神と上について、だ」 のっそりと立った十三はパスホルダーを見せながら、軽く指先で叩く。 「人狼化は上が神に願った結果だと知れ渡った。変生を願えば叶うのだ。今回も上の自作自演かもしれん…我々の目をファージだけに向けさせるために」 ロンは曖昧な微笑を浮かべて、側にあった空の箱を丁寧に積み重ねる。 「狙いを逸らせるには効果的ですね」 閉じた箱の表には二つの白い円と、それを繋ぐ銀色の糸が描かれている。 「使いようによっては自分の首も締めかねませんが」 ああ、いえ、このおもちゃの話ですよ、とロンは断る。 「かなり前に一つ売れ、さきほどもまた、一つ売れ」 商人というのはどうしようもないものです、売りさばけるとなると食指が動く。 「情報と引き換えに人の命を弄ぶことになってもか」 「自らは安全圏で世界の動きを物語として楽しむという存在の仕方もあるんでしょう」 ロンは冷ややかな視線を上げた。 「それとは逆にまっすぐ突っ込んで、人と関わりあって自らも変化していく存在も…そういうのを世間では馬鹿と呼ぶようですが」 持たなくていい関わりを持って、失わなくていいものを失う。 「我々は神の掌で遊ぶ仮初の命に過ぎないかもしれん…それでも譲れぬ矜持はあるのだ」 十三は低い声で唸った。 「敵が上だろうが神だろうが…人を害するものには相応の代償を支払わせる」 「あなたも馬鹿の一人だということですね」 冷笑を返すロンに、十三は護法童子を込めた符を1枚カウンターに置いた。 「依頼料がわりだ。1度だけどんな攻撃からも身を守ってくれる。悪いな、仕事前でこれしか渡せん」 「……命を賭ける依頼の前でしょう?」 守りを減らすなど愚の骨頂ではありませんか? ロンは静かに符を眺めた。 「美しいものですね」 何かを極めるために洗練されたものというのは、欠けようがないという点において、誠に美しい。 「世界もそういうものかもしれない」 賢い者だけでは成り立たない。真実も知らないのに動き回る愚かな者も山ほど必要。 「私もきっと、その一人でしょう……しかし」 世界を支えてきたのはそういう愚か者だとも言いませんか? 黙ったまま、けれど、そこを動こうとしない十三に、ロンは小さな溜め息をついた。 「……この先の情報はお約束できませんが、フォンの動きを追っていると、どうやら世界図書館以外の存在が世界に干渉しているらしいことが透けてきます。彼らの意図はよくわからない。けれど、フォンは『世界を変えよう』としている。ファージの動きには共通項があるのかもしれない……その共通項が、ひょっとすると」 「妙な報告があるのは知っている。お前の今の情報が、上からの陽動ではないと保証できるのか?」 十三は思わせぶりなロンのことばを切った。 つまりは、お前は『どこに属しているのか』という問い。 「……『天秤』」 「何?」 「『二つの月』を買っていった男は友人の話をしていました」 ロンは独り言のように符を眺めつつ呟く。 「パパ・ビランチャ。一緒に居た少年にそう呼ばれていたとか」 ビランチャは壱番世界のことばで『天秤』の意味です。 「『二つの月』はその子へのみやげ、そう話したんですが」 話の途中で男はふいに呟いた、耳を押さえ、まるで誰かに命じられたように。 『今度はこの美しい世界群を秤にかけよう』 「何のことだと尋ねても、答えはなかった」 ロンは符をゆっくり撫でた。 「世界を秤にかける、妙なことばだと思いませんか」 秤にかけて、それからどうするつもりなのか? 「今度は?」 十三は眉を寄せた。 「どういうことだ?」 「何か聞こえましたか?」 ロンはゆっくりと目を細めた。 「たとえば、私の独り言が?」 「……明言できぬ情報なのか」 十三の追求に再び符に目を落とす。 「依頼に向かわれるそうですね。あの馬鹿をどうぞよろしく」 ロンは微笑み、これは有難く頂きます、と符を片付けた。 「フェイ」 呼びかけられて振り返る白づくめの姿は、やはりどこか儚く見えた。 「今張っている結界の外側にもう一層、結界を張る」 指差してみせる空に微かな煌めきが走っている。 「俺達が居る、この外側に、だ」 フェイと4人が立つ路地の遥か後方、術師と思われる数人が腰を屈めてそれぞれ待機しているのがわかった。 「フォンは?」 「あちらか」 結界を確認した十三の視線がまっすぐに前方を見た。 「大気が震えている」 「外側の結界が張られた直後、内側の結界を消して、俺達が突入する」 「結界と結界の間の人間の避難は」 健が険しい顔になった。 「出来る限り済ませたが」 フェイは薄く笑った。 「最下層の人間も多くてな、死んでても生きてても同じだと動かない奴らも居る」 フォンは昔から寂しがり屋だ。 「その孤独を、もう少し埋めてやれてたらよかったのかも、な」 フェイのつぶやきは揺れる大気に消えていく。 「行くぞ!」 背後から声がかかった。 「これ以上はもう!」 「了解」 健がゆらりと脚を踏み出す。ワイテがカードを取り出し、両手にそれぞれシャッフルを始める。 綾のバスケットを覗き込んだフェイが、一瞬くしゃりと笑った。 「マーラー・カオか」 フォンの好物だったな。 「ハオさんが作ってくれたんだよ」 綾は胸に込み上げた傷みを呑み込む。 「大切に、作ってた」 「それがわかるほど、正気であってくれたら、な」 低く嗤ったフェイの横で、十三は背後に結界が張られ、前方の結界が消えたことを感じ取る。抜き放ったのは長さ30㎝はある鉄串、様々な紋様を書いた符を巻き付けていく。 「待ちかねているようだな」 うごぉあああああああ!!! フォンの居場所は遠くからでもすぐにわかった。あたり一面を揺るがす怒号、悲鳴と絶叫、激しくぶつかりあう様々なものの衝撃音。 「あ、あれ!」 綾が体を強張らせた。 びしゃっ、ぐちゃっ、と聞くに耐えない音が響き渡っている彼方から、悲鳴を上げながら走ってくる親子連れが目の前で転ぶ。 「いやああああ、おとおさああんん!」 「だめえええっっ!」 結界と結界の間で逃げ損ねたのか。 抱きかかえられた子どもは母親の肩越しに必死に背後に手を伸ばす、顔を振り泣き叫びながらがくがく前のめりになる母親が、 「あれはちがうううっっっっ!!!」 否定する声に被さるように 「待っておくれええええっっ」 「おとおおおお……きゃあああああ!」 背後の暗闇からぬらぬらと黒色の液体に塗れた男が立ち上がった、と次の瞬間、その男が四肢を弾け飛ばしながら転がった親子に襲いかかってくる。 「エンエン、火炎属性ぷりーず! 燃やし尽くすよっ!」 真っ先に走り出していったのは綾だ。真っ赤なジャージ、黒短パン、格闘用グローブの手に抱えたバスケットを一瞬高く放り上げ、 「行っくよ~! 狐火操り火炎乱舞っ!」 火炎属性を付与した鉄板入りシューズの連脚、親子に張り付こうとする黒い液体にたて続けに火炎弾を放つ。 「日和坂っ!」 ったく、突っ走り過ぎなんだよ! 飛び込む綾を狙うように、周囲から駆け寄ってくる男達に舌打ちした健が、仕込んでいた手榴弾のピンを抜き放ち、巧みに、敵との間に別の敵を数人ずつ挟みながら投げる。 どんっ、どんっ、どんっ。 響く爆音、跳ね上がる体、綾の放った火炎弾に、今しも襲いかかろうとした男が粘液もろとも弾かれて背後に吹っ飛ぶ。 「よしっ!」 ぐっと拳を握って笑う綾。 「こっちへ!」 「あ、あっ」 体を震わせて動けない親子を健が抱えて後退し、綾はくるくる回りながら降り落ちてきたバスケットをしっかり受け止めて、次の敵に備えて構える。 「早速乱戦ですカ!」 ワイテが次々投げたカードが、味方の周囲に防御陣として配置されていく。ぐるぐるとゆっくり回る色とりどりのカードは、綾や健や十三、ワイテの視界を遮らない位置を緩やかに漂っていく。 「おとうさああああんっ」 「あれは、あれは、おとうさんじゃ、ないのよっ」 もう、違うものなの…っ! 激しく泣く子どもをしっかり抱えた母親の悲鳴に、綾は強く唇を噛んで、吹き飛ばされた男の彼方を見つめる。 「来る…っ」 「なんだ…っ、あれ…っ」 うごあああああ! お前がああ! きさまがああ! 死ねえええ! じりじりと、ひたひたと、建物の間を埋めるように、黒い粘着性のある液体が押し寄せてくる。そしてまるで、その中で互いにもつれ合うように、巻き込まれた人々が激しくののしり合いながら戦いあっているのが見えてきて、綾も健も息を呑んだ。 「これってもう、」 誰か一人をどうにかしたらいいってレベルじゃないよね? 「く…っっ!」 手榴弾や火炎弾、ワイテの準備していた火炎瓶もきっとあっという間に呑み込まれてしまうだろう。巨大な塊と化しながら、殺し合い続ける人々は、腕を切られ、脚を失い、胴を千切られながら、その傷から次々と黒い粘液を噴き出して、なおも互いを攻撃し合う。 「だから…結界、か!」 隙を見て必死に張るしかなかった結界、確かにこの状態では引きずり込まれたら最後、溢れ変える殺意の渦に巻き込まれるしかない。 「ぐ…っ」 健は一瞬後ずさった。このままでは皆が殺される、そう思った瞬間に心の中に動いた凶暴な意志にひやりとする。そうだ、傷つけられる、仲間が、みんなが、綾もまた。 「く、ああっ!」 走り込んだのは戦うためだったのだろうか、それとも巻き込まれたかったのか。自分の中の殺意を、世界を守ろうとする正当な攻撃だと納得させようとするその力、踏み込んだ爪先があれほど用心していたのに粘液の一部に触れる、その瞬間流れ込んだ、切なく激しい祈り。 『守りたい、助けたい、誰も、仲間を、死なせたくない』 ああ、それを願わない者がどれほどいるだろう、ロストナンバーとして生きて。 「フォンーっ!」 ふいにすぐ側で起こった叫びに、揺らぎかけた心が目覚める。 「ハオさんは、今カフェの店主をしてる! キミがファージになったコトなんて知らない! 優しそうに笑ってる!」 綾の顔が歪んでいる。しっかり抱えたバスケットに闇が迫る。 「ハオさんは今、幸せだよ! それだけはキミに伝えておきたかった!」 「日和坂!」 この激情にことばなど通じない、そう制しかけた健の背後で、 「火燕招来、急急如律令! 我が目となりて敵を探れ。燃やせるならば燃やして構わん」 十三の声が響き渡った。 同時に撃ち放たれる鉄串が炎の燕となって、体の周囲を掠めるように前方の闇に次々と炎を叩きつけていく。 「炎王招来、急急如律令! 炎でマンファージを殲滅しろ! 邪魔する者は燃やし尽くせ!」 現れたのは身の丈6mはあろうかという炎の猩々、火炎を吐きつつ、黒い液体に絡まれかけたが、そこから一気に炎は燃え移り、殴りつける拳からもまた火が走り、見る見る闇に穴が穿たれていく。 千切れてぼろぼろぼろになっていく粘液に苛立ったように、その中で蠢いていた人間達が襲いかかってくる。防御のカードが何枚も攻撃で飛び散り、千切れ飛ぶ。すぐにワイテがカードを飛来させる、失った場所に失った数を的確に、素早く、しかもより効果的な配置に変えて。 「なかなか素早イ」 「雹王招来、急急如律令! 氷の息で延焼を防げ! 操られた者どもを凍らせろ!」 十三が吠えた。今度は体高が2m近い氷で出来た雪豹だ。氷の息を吹き掛け、あっという間に広範囲を駆け巡り噛みついて、人を凍らせ動きを止める。 その中で、ワイテのカード防御を受けながら、綾が走り出した。抱えたバスケットの中身を落とさないまま、繰り出す蹴りと火炎弾。 健も引きずられるように走り出しながら、なおも綾が必死に叫んでいるのを聞く。 「ハオさんのトモダチだったんだから…キミだって優しくて親切なヒトだったんだと思う! だから、今のキミは倒す!」 傷みを帯びて、悲痛な声。 「世界の敵になってるキミを倒して、優しいキミの想い出を連れて帰る!」 ああ、違う、俺のための叫びだ、これは。 ただの人殺しになっちゃ、フォンは倒せない。 体を倒しても、回りに巻き込まれたやつらのように、正義の名の下に『人であること』を捨ててしまって、いつしか何のために戦っているのかさえわからなくなる。 だから、だから。 「フェイ!」 隣をいきなり白い人影が飛び出していってはっとした。目の前の闇にまっすぐ突っ込んで行く姿はフェイ・ヌール。 「ば…っ」 無防備過ぎる、そう考えた瞬間には、すぐ側から突き出された鉄棒にフェイが激しく殴られるのが見えた。よろめいた体に伸びていく黒い粘液、かろうじてとんぼを切って戻るが、顔を片手で押さえている。翻る姿から紅が散る。 「フェイ!」 何やってるんだ! 「護法招来、急急如律令!」 十三の声が朗々と宣して、続いて襲い掛かりかけた周囲が衝撃で跳ね飛ばされる。 「術師が複数居て、犠牲者を出すなどあってたまるか! 無事連れ帰って性根を叩き直してやる!」 十三の怒号は同感、何のためにみんなで来たんだ、とまたもや怒りに呑み込まれそうになった健を、よろめいて立ち上がったフェイが振り返り、腫れ上がり流血して潰れかけた片目で薄笑いして、その意図に気づく。 「おい、ここだ!」 闇の塊に向かって叫ぶフェイに、健の確信は強まった。 「俺はここだぞ、フォン・ルゥ!」 「やっぱり」 こんな状態じゃ、フォン・ルゥの居場所なんてわからない。だからフェイが、自ら囮になっておびき出そうというのだ。 「洗脳じゃなかったのカ」 突っ走ったフェイがてっきり相手に飲み込まれたと思ったワイテが、とっさにフェイに放ったカードを回収する。アキレス腱を切って動けなくしておくか、と思ったのが。 「どんな小さな異変も見逃すなよ、ポッポ!」 健が放ったセクタンは、フェイの行動に刺激されて蠢いた一角を正確に知らせてよこした。粘液と一体化してしまっていたフォンの顔が、ふいに闇から現れ、フェイに向かってぐうっと伸びていく。 「そこかっ!」 だが、その下には既に体はない。ねばつく黒い液体を引きずりながら飛びついてくる姿、同時に周囲から無数の触手がフェイに向かって伸びるのに、 「止まってる相手への効果が薄いなんざ百も承知だっ」 健はボーラを投げつけて、触手を搦めた。絡まれてはぞぶりと落ちる触手、すぐに跳ね飛ぶように起き上がってくる粘液は、今度は人の体を引きずっている。 「近接でトンファーは最強なんだよっ!」 足下が危ういのは十三が新たに放った符で凍らせた。バランスを取りながら、トンファーを繰り出し、隙を見つけては飛び掛かって来る体を盾に、その向こうへ手榴弾を投げ込む。避け切れない攻撃はワイテのカードが、十三の鉄串が、叩き落とし、跳ね飛ばし、切り飛ばしていく。 きりがねえな。 本体をやっつけない限り、そう思った瞬間、突然目の前に銀色の二つの珠が飛来し、首を狙うかのように交差してぎょっとした。 「あレ?」 意外そうなワイテの声。 「二つの月?!嘘っ?!」 綾がうろたえた。 「って、これがあの時のか!」 健も報告書を思い出す。そこへ、 「ちょっと計算違イ。使えると思ったんだけど、操られたりしてル?」 ワイテの呑気な声が響く。 「アレの弱点…前は紐だったけど。ゴメン、任せた!」 綾が指示してくれて、ちぇっ、何してくれてんだよもう、そう思った一瞬、思ってもみなかった苦笑が零れて、気が解れた。 飛び回り、こちらの首を狙ってくる『二つの月』、ボーラを投げる、絡ませる。勢いをなくして落ちたそれを的確に手榴弾で始末する。 そうだ、焦るな、煽られるな。 自分を信じろ、仲間を意識して、連携しろ、一番効果的に、一番強く力を出せる瞬間を狙え、激情なんかに振り回されるな。 「っ、っ、っ!」 綾が飛び回るフォンの首相手に苦戦している。手にしていたバスケットのせいだ、なぜ、あんなものをずっと後生大事に。 「下がれ日和坂!」 隙を見計らって、健は手榴弾を投げる、フォンの目の前で爆発するように。 だが、首で飛び回るフォンには効果がない。するりと躱されて、リズムを一瞬狂わせた綾にぎゅうっと顔を寄せてきた。 「っっっっっ!」 殺される。 目の前に近づいたフォンの顔は、綾にはまるで、黒いゴム風船に人の皮を張った人形のように見えた。見開いた目から黒い涙が頬を伝っている。頬の傷からだらだらと零れる液体がぬるりと光る。くわりと開いた口の中かべっとりした黒いもので一杯で、その口で。 「ハオぉお……今……タスケテ……やる……からぁ…」 吐いた声は、外見と全く違って、ただ切なげで。 「…フォン…」 胸が詰まって、綾は立ち止まった。 手にしたバスケットを差し出すと同時に、自分の顔を正面から呑み込もうとするフォンの口の闇を覗きながら、つぶやいた。 「ハオさんから、だ」 あれほど探し、あれほど望み、あれほど願ったその人のことさえ意識に入らないほどの憎しみに狂う姿は、哀しみ以外の何だろう…? 綾の前髪を、額を、フォンの唇が触れる、その瞬間に体を反らせ、バスケットを高く跳ね上げ、渾身の力を込めて振り降ろす、炎の蹴撃、踵落とし。 「フォンっっ!!!」 めしゃり、と脚に伝わった衝撃、確実に入ったそれは、綾の胸をも引き裂く。 がああっっ!! さすがに仰け反ったフォンの首が、それでもすぐに黒い粘液によって引き戻されてきた。 「まだかっ!」 炎で溶け崩れた顔、黒い液体をまだらに滴らせ、憎しみに燃える眼だけが白く剥き出され、頬を裂きながら開かれた口に光る歯牙、体勢の崩れた綾を今度こそ噛み千切ろうとする。 「く、そおっ!」 跳ね上げたバスケットが落ちてきてフォンの視界をゆるゆると遮るのが、綾の目にスローモーションのようにゆっくりと映り。 そのとき。 ほんの一瞬、フォンの目が、バスケットを追った。 セロファンが破れ、空中に散った甘い黄色のマーラー・カオを。 「はお………?」 甘い、優しい、声。 瞳が細められる、彼方の時を追うように。 マーラー・カオに差し伸べられる、だがその手はもう人ではなく。 「やってくれ百田さん、ワイテ!」 次の瞬間、飛び込んだ健が、その口にピン抜き手榴弾を押し込み、すぐに飛び離れて転がった。ワイテのカードが一気にフォンを押し包むように集められる。そのカードの隙間を縫って、十三の鉄串が突き刺さっていく。 「炎王招来、急急如律令! 殲滅しろ!」 爆発と同時に十三の符が爆炎を吹き出す。 ぎいいいい!!! のたうつ炎は人の形をしていない。 燃え盛る業火、闇の体を焼き尽くしていく炎は鮮やかに目を射る、響き渡る声。 はぉおおお…………っっ。 歌のように、祈りのように、あるいはただの、吐息のように。 そして、ついに辿りつけなかった遥かな高みを願うように、天へ伸び上がった炎がゆるやかに落ちてくる。 「生まれ変わって戻って来い…待ってるから。今度こそちゃんと世界を守れるように」 健のつぶやきに、フォンを包む炎の籠が崩れていく。 「ハオさんに伝えたい言葉があったら届けるよ…」 綾は頬を伝うものを拭わなかった。 答えを待つように耳を澄ませる。 だが、炎はもう何も語ることなく、静かに地面に身を伏せ、やがてひっそりと消えていく。 「何も…ないの…?」 それとも、それさえ思いつかないほど、人から離れてしまったのか。 それでも。 静かに近づいてくるフェイを振り向かないまま、 「ゴメン、フェイさん。私、ハオさんに伝えるね…」 綾は歯を噛み締めた。 だって。 だって。 「あの声を、聞いた、もん」 『はお………?』 まるで、日だまりで、隣に居る愛しい人を呼ぶような、声。 「フォンの声、聞いたもん」 絆を切る権利なんてないよ、誰にも、どんな正義にも。 「……ロンの仕置きは俺が受けるか」 フェイが血に濡れた右目を押さえながら、掠れた声で笑う。 「また馬鹿なことをしたとののしられるんだろうな」 既にフォンの姿は骨さえ残らず、そこに残っているのは焼け残ったカードがただ一枚。 『戦車』 白と黒のスフィンクスが引く戦車。 人は皆、己の本能と理性を御している。 「そのカード……君の運命サ」 ワイテが読んだ。 制御した暁の成功と、呑み込まれた果ての破滅。 「ならば、この姿に供そう」 十三が携えていた酒を静かにカードに注ぐ。 「我等の未来が、この有様にはならぬように」 『戦車』のカードの王は、焼け爛れて顔を失っていた。
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