しとしとと、降る小雨の深夜。 暗い夜がますます陰気な色を帯びて、迷宮のようにいりくんだ建物。 そこに若い男が酒場から出て、家路につこうとしていた。「なんだ」「……女か」 男たちは目を凝らして唖然とする。雨に濡れるというのに傘もささずに女が立っている。「おい、お嬢さん」 それは親切心だった。 はやく帰れ、と言おうとしたとき、男は気が付いた。女は濡れてはいなかった。じゅ、じゅ、じゅううう。蒸発する音。焼けつくような匂い。女は長い髪に隠れた顔で微笑んだ。その顔を見て男たちは悲鳴をあげた。 やき爛れた女の、顔。――炎を宿したような紅蓮の瞳。――忌眼だ。 と、紅蓮の瞳に映し出された男の全身が黒い炎が包みこんでゆく。 ブゥウウウウウウウウウウン。―――殺せ。 その囁きは、どこからか。「返して、返して、返して、返して!」 ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥウン。――殺してしまえ。 脳内に響く。「私の、キサを返して!」 ブゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ 炎はうねりあげ、男の全身を燃やした。 もう一人は仲間が燃えるのに、震えながら逃げた。彼は顔をあげ、恐ろしいスピードで駆けだし、男の背までくると、地面を飛んだ。なんと男を飛び超えたのだ。そして振り返り、微笑む。――紅い瞳に映されて男は炎によって燃えた。 あとに残されたのは炭となった人の体。焼けつく匂い。人殺し。「これも違う? また、間違えちゃった? あああ、どうしよう? キサ、キサ、ごめんね。あいつらを殺さなくちゃ。旅人たちを殺さなくちゃ。だって、あいつらがキサを奪ったものね? だから、だから、あああ」 彼女、いや、彼の体もまた自身の強い炎によって火傷を負い、その場に崩れる。 物陰から黒い学生服を来た青年があらわれる。その口元は半月のように微笑んで、死体と、その前に崩れる彼の元へと歩み寄る。――百足兵衛。「炭にされては肉体を材料にすることは諦めねばなりますまい。しかし、魂だけを手に入ればいいでしょう。それがあれば蟲はもっと力を得る」 兵衛は崩れたままの彼に白い薬を無造作に差し出した。それを瞳を閉じた彼は音だけを頼りに両手で鷲掴みにして口に流し込んだ。 がりがりがりがり。飢えた獣のように彼は薬を飲み干す。『夢の上』――インヤンガイに不思議と広まった麻薬。その名の通り、飲んだ者はまるで夢の上を歩くような心地になる。その薬は飲む者の精神を麻痺させ、肉体を極限状態まで発揮させる。 彼は意識を持ったまま夢のなかへと逃げ込む。 兵衛は屈みこみ、彼に視線を合わせて優しい、それはとろける声で囁く。「さぁ、起きなさい。フェイ、あなたはまた間違えたのですよ。大切な妹であるキサを喜ばせるものはこんなものではない。彼女を奪いとり、殺した憎い旅人を殺しなさい。そうすればキサは戻ってくる。あなたの肉体が限界を行こうとも焼けつく苦痛を感じることもなく戦えるように……その耐えきれない心が安心するように」 彼――フェイは瞳を閉じたまま聞きいる。ブゥウウンと、フェイの耳元では蠅が羽ばたきつづける。 ――殺せ、殺せ、殺してしまえ。お前の敵を、「キサが」「ええ。ほら、みてごらんなさい。足元を」 指差すのは水たまり。そこに映るのは――「キサは生きている。けれど、あなたの元には戻れない。殺されてしまったから、それを取り戻すのです」 水たまりにフェイが瞳を開き、手を伸ばすと、じゅうじゅう、じゅうううと蒸発して消えていく。 フェイの脳内に蘇る。無造作に、殺されてしまった、キサ。大切な存在。たった一つだけ。旅人たちが。ああああ、思いだせない。憎い、憎い、ブゥウウウンと羽音――憎め、憎め、殺せ、殺せ、人を、人を殺すんだ。それが妹の望み。――憎め、憎め、殺せ――ブゥウウウウウと羽音。――人を殺せ、魂を捧げろ。さすれば戻ってくる。魂を、魂を、殺せ、殺していけ。人を、人を、実験の邪魔をする者は殺せ。「……取り戻す、取り戻す、取り戻す……殺せばいい、殺せば! 旅人たち許さない。信じていたあの子を裏切った! 殺した! 殺してやる。燃やしつくしてやる。あいつらを!」 無茶苦茶な理論だった。だがフェイにとってはそれが最も正しいことなのだ。『夢の上』を歩む彼にとっては、 妹を殺したのは、旅人たち。 彼らを殺せば妹は戻ってくる。――目の前にいる男こそ、自分の妹を殺した者であるというのに。壊れた心に救う蟲の囁き、まどろむ薬によって、その真実は消されてしまっていた。 そして、また炎は燃える。 罪もない人々を燃やし尽す、無造作に――それが憎むべき者の甘言によって「そう、人を殺し、魂を刈り取り、小生の蟲たちの役立ってもらわなくては……なによりも今、邪魔がはいって実験の邪魔をされては困るのです」 ブゥウウン。――青年の周りで蠅が羽ばたきする。 洪笑いは三日月のごとく。◆ ◆ ◆ 黒猫にゃんこ――三十代の男の姿をして、渋い顔をしていた。「お前たちに討伐してほしいのは、殺人鬼フェイだ。奴は妹が死んじまったという現実を受け入れられず、心のバランスを殺し、挙句に麻薬に溺れて正気を無くして人を殺している。……あいつは通り魔のように人も殺しているが、ターゲットとしているのはお前たち旅人にたいして異常に敵意を持っているようだ あいつはなぜか自分の妹を殺したのはお前たち、旅人だと思いこんでいる。どうもフェイの傍にいるやつが、フェイが正気を失った状態なのをいいことに、麻薬を与え、さらにはなんらかの方法で暗示をかけているようだ。人を殺すように、お前たちを敵と思いこむように」 黒猫は目を眇めた。「フェイの使うのは自然発火。ただし、フェイ本人も自分の能力を使用するには媒介を使わないと通常は炎を操作出来ないはずだったんだが……あいつが仮面をつけて顔を隠していたのは自分の目を隠しているためなんだ。あいつの眼は『紅蓮眼』といって見たものを燃やしてしまう魔眼だそうだ。 生まれたとき母を殺し、幼いときに父すら殺したフェイにとって、唯一の家族はキサだけ。だから妹に対して異常なほどの偏愛を示していた。 それの死にフェイの精神はとことんまで狂気に落ちたのさ。……フェイが飲んでいる薬はあいつから正気を奪いとり、それは激痛を感じさせないようだ。それも炎の能力も通常のフェイが扱えるものよりもぐっと強くなっている。フェイの肉体はもうとっくに限界だ。だがあいつは薬のせいでそれを感じないでいる。……このままだと、インヤンガイの人間もそうだが、お前たちの害となる。それも今回は、もう一件の依頼の邪魔をされないためにも、お前らはフェイの始末の担当だ。薬漬けの精神もそうだが、肉体もとっくに限界は超えてるから、助かることまず無理だ。説得も聞く耳をもたんだろうし、手加減して勝てる相手じゃない。炎で炭にされたくなきゃ、全力で倒せ」 !注意! このシナリオは「【夢の上】インジールの甘き夢」と同じ時間軸です。このシナリオに参加されるPL様は、「【夢の上】インジールの甘き夢」のシナリオへの参加は御遠慮ください。参加されても十分な描写が望めません。
鴉の羽のように黒一色の夜。 命が呼吸をやめてしまい、眠りついたような静寂を抱えた路地に依頼を引き受けた五人は佇んでいた。 森間野コケの瞳からはらはらと止まない雨のような涙が零れ落ち続けていた。それに気がついた緋夏が遠慮がちに軽くその背を撫でるとコケは不思議そうに顔をあげる。 「どうした?」 きょとんと問うコケに緋夏は困ったように首を傾げた。 「コケ、あんまり水を目から出し続けると、身体がからからに干からびちゃうよ」 そこでようやく自分が泣いているのだとコケは知った。 「……フェイ、コケ……ぎりぎりまで諦めたくない。フェイは優しくて、面白くて、妹が大好きで……このままは、嫌」 「コケはん」 ムシアメが渋い顔をして頭をぼりぼりとかいた。道具として生きてきた彼にはこんなときにかけるべき言葉がわからないのだ。 ここにいる者たちは狂気に堕ちて殺人鬼と化したフェイと多かれ少なかれ関わったことがあるのだ。 「死者は蘇ったりはしない、絶対に……お前たち全員に、防火の加護をつけておく。気休め程度だがないよりはましだろう」 普段は眼鏡をかけているクアール・ディクローズは、それを懐のポケットにしまいこみ、いつもとは違う、かたい口調で吐き捨てる。 克己心によって作られた無表情には怒りも、悲しみも、ましてや慈悲も読み取ることはできない。 しかし、その瞳は深い嫌悪を抱えていた。今のフェイに忌々しいほどに過去の己を重なるところがあった。 クアールの胸のなかには黒い嵐が荒れ狂っていた。 「……あっ! あれ」 リーリス・キャロンが声をあげる。 ゆらりっと闇に赤黒い灯が浮かんだと思った瞬間、リーリスのスカートの裾が黒い炎によって燃えた。 「リーリスはん!」 突然だった。気配を感じたと思ったら、即座に炎がやってくる。 ムシアメはすぐさまに水の呪いを使い、リーリスのスカートを燃やす黒い炎を消し去り、それを矢のように闇の中に放った。 闇の中で、じゅっと炎と水のぶつかりあう音。 「フェイ! だめ!」 コケが駆けだそうとしたとき、彼女の左腕に灼熱の痛みが走った。防火の加護とジェルは、闇色の炎には気休めにもなりはしなかった。 「っ!」 腕の痛みよりも、心が痛んで、コケは涙をあふれさせる。 「貴様は女しか狙えないのか! 妹を殺したやつみたいに女子供ばかりをいたぶる最低野郎か! そんな兄の姿を見たら、妹はさぞや悲しむだろうな!」 クアールは挑発しながら銃を構えて、躊躇いもなく撃った。――手ごたえは、はない。 目を凝らすと見えるのは炎の壁。 それを盾にして銃弾を防いだらしい。 炎の壁を乗り越え、ひらりっと黒い影が舞いおりた。 「お前たちがキサのことをいうな。……あの子を、あんな風に殺したお前たちを許さない」 血を吐くように、黒い炎を纏わせた憎悪が吼える。 「許さない、許さない、許さない――! 焼きつくす! 炎蛇!」 フェイが両目をカッと開くと、黒い炎が蛇の形となってクアールに襲いかかる。 「お前たちを殺せば、魂を捧げれば、戻ってくる。戻ってくるんだ!」 「……っ、どんだけ魂を捧げても、戻ってこんもんは戻ってこん」 炎を一瞬恐れて後ろへと下がりかける己を叱咤し、ムシアメは絹糸に乗せた水の呪いを放つ。 矢となって襲いかかる水の攻撃を、一瞥で消滅させようとしたが、濃度が高いそれは簡単には消えずにフェイの肩を撃った。 「!」 フェイが水をいやがり、後ろへと飛びのく隙をついて緋夏が炎を吹く。 それは赤く、美しい色をして、黒い炎を凌駕する。 「馬鹿な私だってキサが帰らないことはわかる! フェイはそんなこともわからなくなっちゃったんだね……あっちにいってキサに殴られろっ! 私はキサに、ごはんを食べさせてもらったんだ。だからキサのためにここにいるんだ!」 緋夏の目に強い怒りが燃え、それは見えない炎となって彼女の全身を包み、周囲の空気がどんどん熱される。 緋夏の悲しみには涙はない。かわりに鮮やかな赤い炎がフェイへと向かう。 炎の攻撃にフェイは顔を険しくさせて後ろへと逃げる。と放たれた銃弾を炎の壁で防ぎ、そちらへと顔を向けた。 炎蛇を消し去ったクアールが銃を構えているのを認めると、フェイは口元に冷ややかな笑みを浮かべた。 ぶんぶんぶんぶん。 ぶんぶんぶんぶん。 蟲の羽ばたきの音がする。 フェイは陽気なステップを踏むように地面を踏み鳴らす。その足元から炎が現れて地面を這い、緋夏とムシアメの前で、炎の蛇が顔を出して襲いにかかる。 「フェイ! やめて!」 コケの叫びにフェイは応じず、地面を蹴ってクアールに真っ向からむかっていった。 銃弾が飛ぶが、全身に纏う炎によって弾の軌道を逸らしてぎりぎりのところで避けて、クアールの懐に飛び込み、その首につかみかかった。 「!」 クアールの首に焼けつく痛みが走る。 「むしゃむしゃと、ぐしゃぐしゃと、蟲に食われて、あの子は死んだ! 肉の一つも、骨の一つ残さすがに! 俺はそれをずっと見ていた。見させられた! あの子の体がなくなるまで! 生きていたのに、その呼吸がなくなるのを! 肉体が冷たくなるのを目を逸らすことも許されずに、ただただ見ていた! あああああ!」 狂気の悲鳴が轟く。 クアールは銃を構えようとするが、自分を包みこむ熱がますます強くなって、周辺の空気が薄らいで、意識がぼやけていく。このまま焼き殺すか、酸欠にして殺すつもりなのか。 クアールは奥歯を音がするほどに噛みしめて現実にしがみつく。 「だからお前ら全員、同じように殺すと決めた! 貴様が銃の引き金をひくより俺が目を開けるほうがはやい! 死ぬがいい!」 フェイの忌み目はそれに映したものをことごとく燃やしていく。この至近距離でフェイが目を開ければ、いくらクアールもただではすまない。 「フェイ! やめなさい!」 リーリスの声にフェイの動きが一瞬とはいえ止まった。 リーリスは強い魅力の力を発揮して、フェイの狂気に堕ちた精神を刺激する。 ぶんぶんぶんぶん。 蟲が羽ばたく。 ぶんぶんぶんぶん。 フェイは金縛りがとけたように素早く動いてクアールから離れると身を翻し、緋色の瞳で開き、片手をあげた。 「火ノ矢」 機関銃のように火の球を放って周囲を牽制しながら、フェイは闇のなかへと消えた。 壁にもたれかかりながらクアールはすぐさまに「弐番目の災禍・ビュイク」を召喚し、さらにプリズムコートをかけると、鋭い目でフェイの消えた方向を睨みつけた。 それにビュイクが飛び立つ。 「ごほ、ごほっ」 小さな咳き込みとともにクアールは起き上がり、首に触れた。ぴりぴりとした痛みに無意識に眉間を寄せていた。 たった数分にも満たない戦いで誰もがフェイの黒い炎を浴び、無事ではすまなかった。 リーリスは決意するように顔をあげた。 「みんな聞いてくれる? ここはフェイに有利すぎるのは今のでわかったでしょ? 私、いい場所を知ってるの。ここよ」 リーリスは精神感応を使い、以前、フェイに案内してもらい訪れた雪路公園の場所、経路を同行者の記憶に焼きつける。 この公園は周りを水に満たされた堀りに囲まれ、渡るには正面にある橋しかない。掘りをくぐった先には左右に別れた小道に緑が多く植えられて散歩コースになっている。正面から奥へと進めばその先は広いグランドになっている。もし戦闘になるならば逃げ道を奪うことも出来るし、これ以上の被害を周囲から出さなくて済む。 「いきなり、記憶に焼きつけるようなことをしてごめんね。けど時間がないから。私がフェイをここに必ず連れてくるから、みんなは待っていてくれない?」 「一人は危険なんじゃないのか」 クアールの言葉にリーリスは肩を竦めた。 「大丈夫、逃げればいいだけだもん。私はフェイが大好きだった。キサのことも。だからへまなんてしない。絶対に」 断固と、ゆるぎなく言い放つ。 魅了の全開にしているリーリスの言葉にはおいそれと反論することは躊躇うほどの力を持っていた。 「私はどういう方法にしろ、フェイを救うためにここにいるの」 「……ビュイクが追ってる。今どこにいるかは教えられる」 「うん。ありがとう」 クアールからビュイクの場所を聞きだしたリーリスはまるで散歩に行くように片手をふりながら路地の中に入っていった。 同行者たちがいないことを確認すると、リーリスは自らの見た目を変化させる。後頭部に目と口を出現させて、魅力の範囲を広げ、強化した。 宙へと飛び、リーリスはフェイを探す。 ――いた 路地の壁に身を預けて蹲っている。フェイの身体のあちこちから白い煙が立ち上り、肉の焼ける香りが漂う。 フェイは頭上にいるリーリスに気がついて顔をあげた。 「……誰だ?」 「フェイ! 私を見て、私だけを見て!」 暗い顔が確かにリーリスを捕えた。片手をあげようとするが、炎が届く範囲ではないと判断したのか攻撃してこようとはしない。 「追って来なさい。私を!」 リーリスが声を荒らげると、黒い炎が獣の舌のように宙を舐める。それをさっと避けると、炎が消えた瞬間、リーリスの目の前にフェイがいた。 目くらまし! ――その上でここまで飛んだ! フェイの赤い目が開き、リーリスを捕える。 黒い炎がすべてを灰にしようという勢いで襲いかかるのにリーリスはその姿を鳥に変えて公園を目指して飛ぶ。 「さすが、フェイ!」 自分の命が危険に晒されているのに、リーリスは気持ちのよい高揚を覚えた。 焼けつくような憎悪、後悔、執念――その中に含まれる不思議な感情をリーリスは読みとった。 ――キサがいなければ、生きてはいけない。 焼き付けた愛情を、自分を固定してくる存在を、自らの手で壊し続けるしか出来なかった悲しみ。 羨望、切望、そして――同調。 フェイはキサになりたかったの? ううん、フェイはキサを見て、幸せだったの。けど、それって―― フェイはキサだった。 同じ顔、同じ魂を半分に割った存在。だからフェイはキサに依存した。自分が手に入らなかったものを、キサが手に入れてくれる。それを見つめて、まるで自分が経験したように感じとった。 純粋というにはあまりにも狂った、たった一つだけこの世にフェイが留まるための、キサに対する偏愛の正体。 だからキサが死んだらフェイは生きてはいけないんだ。 愚かで狂っていて、それでいて切実で、己が狂っているということを必死に隠して当たり前の日常を送っていた。――甘酸っぱくも、喉に焼けつく味がリーリスの舌に流れ込む。 ★ ★ ★ フェイを、止める方法はもうないのかもしれない。 コケはシャベルを握りしめて、また溢れてきそうなしょっぱい雨を必死に押さえつけていた。泣くな、戦え。まだフェイは生きている。 焦げ付く痛みをコケは我慢して、穴を掘る。 グランドであれば、隠れる用の穴を掘って、もしものときはここにはいって炎から身を守ることが出来る。 「……来たで」 ムシアメの声に全員が前を見た。 鳥の羽ばたきとともに闇のなかに黒い炎があらわれる。 全員が身構える。と、黒い炎が龍の形になって、襲いかかってきた。 緋夏が前に出て、紅蓮の鮮やかな炎を吐き出し、黒い炎を打ち消す ムシアメは緋夏とフェイの炎がぶつかりあい、消えるタイミングを傍らで見計らい身を乗り出す。ちりちりと炎の粒が顔に、身体にふりかかる。 「炎は怖い。けどな、わいは今、怒っとるんや」 ムシアメは炎が緩んだ、その瞬間を狙って水の呪いを放つ。 何に怒っているのだろう。道具である自分が、何にこうも感情を揺るがされているのだろう。 キサが死んだこと、フェイが狂って自分たちにこうして牙を向いてくること。彼らをこんな昏い奈落へと突き落としたのは誰なのか。わからないことは山のようにある。それらすべてが理不尽で、ムシアメの心を灼いた。 なぜなら、道具であるムシアメには祈るものはない、救いもない。 濃厚な水が炎の中に飛び込み、じゅうっと音をたてて、白い蒸気が周囲を包みこんで、視界を奪う。 クアールの銃を構え、フェイを狙う。出来れば胴を狙いたいが、白い蒸気のなかで動く的を的確に撃つのは至難の業だ。 「そのまま右にフェイはいるわ!」 頭上からのリーリスの声にクアールは蒸気のなかに隠れたフェイを見つけだし、狙いをつけて引き金を引く。傍らにはラグズは、いつでも援護射撃できるように構えている。 心臓の音だけがする静寂――狂った悲鳴が空を裂いた。 ああああああああああああああああ――狂、狂、狂、狂の、なか――黒い炎。 「フェイ……フェイ!」 コケが慌てて駆けだそうとしたとき、紅蓮の炎が蒸気を払いのけ、襲いかかってきた。 「危ない、コケ!」 緋夏が慌ててコケに駆けよって、庇う。 その身体に灼熱の炎が襲いかかた。 「緋夏!」 コケが泣き出しそうな声をあげると、緋夏は口元に微笑を浮かべたあと、口を開いて火を食べてしまったあとわざとらしくダメージを受けた声をあげた。自分の奥の手をフェイに悟られるわけにはいかない。 「あちちち、あちっ!」 その声にフェイは炎を纏わせて近づいてくる。 足取りはまるで散歩に出るように無防備なのに、襲うことのできない隙のなさがあった。 コケは真っ直ぐにフェイを見つめた。 「フェイ、だめ。事務所、帰ろう。あそこはとても優しい思い出が、いっぱいある。フェイ、知らなくても、きっと帰りを待ってくれている人、たくさんいる」 沈黙は重く。 「コケも、待ってる。キサ、苦しんでる……おにいちゃんなら薬なんかに惑わされないで。……これとってもひどいことわかってる。けど、逃げないで、フェイ! 待ってる、みんな、コケも」 待ってる、じゃない。 「迎えに来た! フェイ!」 手を伸ばせば、あと少しで届くかもしれない。 今まで無表情だってフェイの顔が苦しげに変わった。 「……コケ……?」 「フェイ、フェイ! コケ、コケだよ!」 羽ばたきが響いた。 ぶんぶんぶんふんぶんぶんぶんぶんぶんぶん。 ぶんぶんぶんふんぶんぶんぶんぶんぶんぶん。 ぶんぶんぶんふんぶんぶんぶんぶんぶんぶん。 ぶんぶんぶんふんぶんぶんぶんぶんぶんぶん。 コケの言葉を羽ばたきが撃ち消していく。 ぶんぶんぶんふんぶんぶんぶんぶんぶんぶん。ぶんぶんぶんふんぶんぶんぶんぶんぶんぶん。 ぶんぶんぶんふんぶんぶんぶんぶんぶんぶん。 ぶんぶんぶんふんぶんぶんぶんぶんぶんぶん。 「……っ! あああ! やめろ、やめてくれ。もうやめろ。キサを殺さないで! ……殺せ、殺せ、殺せぇ! 殺してやる!」 フェイは頭を抱えて悲鳴をあげる。その脳裏に蘇る。ぶんぶんぶんぶん。殺せ、殺せ、殺せ。蘇る。血まみれの、蟲たちが食らう。精気をなくした瞳の。むしゃむしゃと、蟲が。ああ、蟲が。殺せ、殺せ。愛しいものが死ぬのを止めたくば! ぶんぶんぶんぶん。 「燃えてしまえ! なにもかも!」 緋夏は腰を捻ってコケをグランドに開いた穴のなかへと隠し、フェイに火を放つ。 しかし、鮮やかな赤の炎は黒い炎によって飲み、勢いをつけた巨大な黒い龍が口を開けて襲いかかってくる。 「ダンドリーウォール!」 「させんへんで!」 クアールの魔法がコケと緋夏を守り、ムシアメの放った大量の水が炎にふりそそぐ。それでも黒い炎は容易くは消えはしない。 「あの蟲か! ……お前の羽ばたき、ほんまに不愉快や、うるさいから、ちぃと黙っとき!」 苛々とムシアメが怒声をあげる。その怒りを嘲笑うように羽ばたきは大きくなる。ぶんぶんぶんぶん。 「……ラグズ、ウルズ、あの蟲を狙え」 クアールは二匹の使い魔に命令すると、銃をしまった。 冷たい目で敵であるフェイを睨みつけ、その姿を変える――その顔は狼、口は白い牙を、漆黒の毛に覆われた手にある猫の爪と長い尾。それはかつて世界を敵にまわした魔獣。 それは――クアールが「災禍の王」の姿を象った姿だった。 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――魔獣は空を切り裂く咆哮をあげ、フェイへと襲いかかる。 圧倒的な力だった。 獣の動きは風よりも遥かに速くフェイが防ごうにも鋭い爪が体を切り裂いて、逃げる暇もなく、地面に叩きつけられる。 あああああああああああああああああああああああああああああああああああ 災禍の王は吼える。 があああああああああああああああああああああああああああああああああ フェイもまた吼える。 狼が互いの牙を相手の喉笛へとたてて噛みあうように、二人は取っ組み合う。 フェイは紅蓮の眸を開く、とたんにクアールの全身を炎が包み、燃やしつくそうとする。 「クアール!」 このままではクアールでも危ない。 緋夏は奥の手を使うことにした。本当はフェイを殺すためにも残しておこうと思ったが――口を開いて、クアールの全身の火を吸いこみ、食べた。 クアールの体を焼く炎が緋夏によって消されたことにフェイが驚き、クアールの腕から乱暴に離れると、両腕から血を流しながら距離をとる。その体がふらふらとよろめきだした。 「ようやく毒が効き出したんか。薬で体も頭もおかしくなってるせいか、えらい遅かったな」 ムシアメは攻撃として放つ水の呪いのなかに、フェイの体が麻痺するように毒を仕込んでおいたのだ。 荒い息を繰り返し、ふらつくその姿は今にも倒れてしまいそうなほどに痛々しい。 それにずっと頭上で見ていたリーリスがナイフを取り出して襲いかかる。狙うのは動脈を。一撃で仕留める。 だが、その攻撃をフェイは片手をあげ、手に炎を纏わせて剣の形にして防いだ。 「っ! フェイ、私がキサに会わせてあげる。賭けだけど、その蟲がきっとキサに会わせてくれるよ。会いたいんでしょ?」 蟲の羽ばたきにリーリスは苛立ちに目を細め、魅力の力を増す。蟲の囁きよりも、自分の声を聞くように。 「……リーリス」 フェイの囁きにリーリスは目を丸め、全身の力を魅了に注ぐ。 「フェイ! そうだよ! 聞こえる私の声が、蟲なんかの囁きに耳を傾けないで! 私の声を聞いて!」 「……リーリス……?」 リーリスの魅了の力が蟲の囁きを凌駕し、現実へとフェイの心を引き戻した。 「フェイ、今ならわかるよね? 私の声や、みんなのこと」 「……ずっと、わかっていた」 「え」 「あの子が死んだのも、会えないのも、わかっていた。お前たちが敵でないことも、けれど」 「フェイ……」 「それを認めたら、俺は……あの子だけが幸せだったから、俺はあの子の影だったから、あの子がいなければ俺は生きている理由がなくなってしまう! 殺せと蟲が囁く。囁き続ける、もう一人はいやだ!」 蟲の囁きはフェイの狂いを蝕み、増長させていった。悲しみの底にいたフェイはそれに縋り、救いを求めた。 「けれど、そうだな。お前たちを傷つけても意味がない、意味がないことぐらい、わかっていても、もし救われるなら、救われたかった」 フェイは乱暴にリーリスを払いのけて、笑う。 「母を殺した。父も殺した。そんな疎むべき俺を、キサだけが傍にいて、必要としてくれた。大勢の人なんていらない、キサだけがいればよかった。あの子が幸せであれば、俺も幸せでいられたから……あの子がいなくては俺は生きてはいけない。……お前たちには礼を言わないとな。本当にしたいことがわかった」 フェイは手に持つ炎の剣を消して、紅蓮の眸を開ける。 真っ赤な炎がフェイの周囲で踊りだす。 「……誰かは知らない者に操られて、こいつらと殺し合いをするなんてまっぴらだ! 蟲の羽ばたきが俺を狂わせるならば……俺はここで、溶解する!」 炎は赤から青に変わり、フェイの体を包みこむ。 その光景にコケは拳を握りしめると、自分の持っているパスホルダーを地面に置いて、そのなかへと飛び込んだ。 「……コケ!」 「一人で、いかせない。絶対に、一人ぼっち、させない」 フェイがいくら力をこめて引き離そうとしても、コケはしがみついて離れない。 「だめだ。燃えてしまう。この炎は自分でも制御できないんだ……! コケ、だめだ! やめろ、やめてくれ。もういやだ。大切なものを燃やすのは、……たけすて!」 大量の水が二人の上に降りかかり、炎の勢いを殺いだ。ムシアメがむっつりとした顔のまま睨みつけ、緋夏がまだ消えてない炎を食らって消し尽す。 フェイがその場に崩れたると、急いで両手を伸ばしてコケの頬を撫でた。 「よかった。コケ、生きてる……?」 「フェイ……」 「よかった。コケが、無事で」 「フェイも、生きてる」 コケに抱きしめられて、フェイは困惑した表情を浮かべた。 「俺は、けど……」 「ええかげんにせえ! 救いや神はしらん。けど、我儘通した挙句に、コケはんまで連れていくつもりか。あんたは!」 「そうだよ! そんなことしたら死んだやつがいるところいってもキサに殴るだけじゃない。口だって聞いてもらえないんだからね!」 「お前ら、だが、また蟲が……」 再び聞こえてきた羽ばたきにフェイは恐怖に顔を歪めたが、それは一発の銃声によって打ち消された。 ラズクが蟲を撃ち落としたのだ。 人の姿に戻ったクアールは何も言わない、ただ鋭い刃のような瞳でフェイを冷ややかに見つめた。 「フェイ、後悔いっぱいするなら、生きていたほうがいいよ」 リーリスがフェイの傍らへと歩み寄ると、手をとって己の生体エネルギーを流し込む。 「……どうやって生きろっていうんだ。もうキサはいないのに……キサ」 その声に応えるようにして、それは何の前触れもなく現れた。 それに一番初めに気がついたのは皆から距離をとっていたクアールだった。顔こそ無表情だったが瞳には動揺が走り、大きく揺れる。 「まさか、キサの魂なのか……?」 ムシアメ、緋夏、リーリスが振り返り、それを認めた。 「フェイ! ……キサだよ」 コケが声をかけると、フェイは首だけ動かしてそちらへと向く。 淡い輝きを放つ魂は黙ってフェイに近づき、包み込む。 「キサ……ごめん。ごめんなさい。狂って、あなたの大切なものを傷つけてしまった……うん、だから、償う。その間、ずっと、ずっと待ってる、ずっと……生きてる間、それしか、もう出来ないから……」 魂は別れを惜しむようにフェイの頭を一度撫でたあと、この場にいる者たち一人、一人に光輝く、雪のような真っ白な、そしてすぐに消えてしまう粉を振りまいた。 それは言葉のない、あたたかい感謝の念の光だった。 そして、魂は再びフェイの傍らにたどり着くと、ひと際大きな光を放ったあと消えた。 「……お前たちにこんな風にして救われるなんて……キサは、救われて、お前たちに感謝していた……ひどい目にあわせて、悪かった」 ぽつりとフェイは贖罪の念をこめて呟く深いため息をついた。 「だから、待ってる。ずっと、生きてる間……また、会えることを祈って」 フェイは囁くように呟いて、コケの手を握りしめた。 「諦めずに、引き止めてくれて、ありがとう、コケ」 「フェイ……戻ってきてくれて、よかった」 その言葉にフェイは泣きだしそうな顔で、笑った。
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