物音ひとつなく、密やかに、唐突に、大小三つの歪な影がそこへ降り立った。 その中で最もごつく大きな影が、最初に口を開いた。「もう一度確認する。《世界》のダメージはそのままあんたに跳ね返る。それでも構わないんだな?」「ええ、構いません……これがあの方に役に立つのなら、そしてここに私の故郷が構築されるなら、もう一度故郷の景色を目にできるのなら、それで構わないのです」「覚悟ができているなら、いい」「ええ」 淡く微笑んだ華奢な青年の胸へと、大男は土木作業員のような剥き出しのごつい腕を伸ばす。 その手が掴むのは、すぅっと相手の胸から生えてきた紙面だ。 無造作に取り出したソレを、ばさりと広げる。 広げられたのは男にしか読めない“設計図”であり、目を眇めて“読”み込んで行った後―― 男の身体が、めきめきと軋んだ音を上げながら凄まじいスピードでめまぐるしく変化していく。 鍛え上げられた鋼の肉体に次々と生えてくるのは、巨大なショベルであり、ドリルであり、工事現場に溢れた重機の数々だ。 そして、男は作り替えていく。 《見知った景色》を《見知らぬ光景》に空間ごと建築しなおす《工事》を、彼はたったひとりで始めてしまった。 そこにある世界が、別の世界に浸食されていく。「……それじゃあ、ボクも仕込んじゃおうかな」 それまで沈黙していた小さな影――幼さの残る少年が、笑って両手を天にかざす。「さあ、行っておいて、黒羊! 食べて食べて食べまくっちゃえ!」 命じられるままに、小さな手の中から無数の黒羊がもこもこと増殖し続けて、方々に、建築されていく漆黒の館へ散っていった。「全部全部、ここにいる奴らの記憶を食い荒らして、ただの木偶に変えちゃえばいいんだ!」 * ディラックの空を、山羊座の号を与えられたロストレイルがターミナルに向けて走っていた。 ブルーインブルーでの冒険を終えた者たちの武勇伝などが飛び交いつつも、そこには穏やかな時間が流れていた、はずだった。「あれ?」 最初にその違和感に気づいたのは誰だったのか。「なんか、いつまでたっても帰ってこないんだよな」 首を傾げながら、様子を見に行ってくると席を立ったその青年も、やはりそのまま戻ってこなかった。 行ったまま、戻らない。 1人、2人、3人と、行ったまま戻らない者たちが増えて行くにつれて、後ろの車両で一体何が起きているのかとじわじわと疑問と疑惑が沸き上がり、広がる。 何かが起きている。 このロストレイルの内部で。 これはもう、疑いようのない事実のように思えた。 誰かの思いついた悪ふざけに、ノリの良いロストナンバーたちが揃って協力体制を取ったというのなら、リベルにでも叱ってもらえばソレで棲むはずだ。 しかし、拭いがたい不安がちりちりと肌を刺す。 何か、あり得ないことが起こっているような、イヤな予感が胸を締める。 だからこそ、確かめずにはいられなくなるのだ。 そして。 最後尾に位置するその車両に踏み行った者は一様に息を呑み、立ちすくんだ。 天井の近くで揺れる葡萄を模したシャンデリア、座り心地の良いベルベットのボックス席、シックな木目が美しい車内――それら一切が一変している。 車内だったそこには、漆黒の鉄柵が立ちはだかり、漆黒の庭がその向こうに広がり、そうして漆黒の時計塔を取り囲んで聳える漆黒の館に、漆黒の雨が降り注いでいた。 一体、何がどうなって、こんな有様となったのか。 その問いを口に仕掛けたそのタイミングで、館の内部から歯車の軋む音が大きく響いてきた。 振り仰げば、漆黒の塔に掲げられたな巨大な時計の針が、ガコンと音を立てて、ひとつ時を刻んで進む。 まるで、そうするたびに、ロストレイルが見知らぬ漆黒の異世界に作り替えられて行ってしまうかのように思えた。「――っ!」 不意に、悲鳴が耳を打つ。 はじかれたように視線を向ければ、ふくれあがった黒い羊に食いつかれ、内部へと引きずり込まれていくロストナンバーの姿を目撃する。 更に目をこらせば、開かれた扉の向こう側で、腹がふくれてまどろむ羊たちや、血を流して倒れ伏す者たちが垣間見えた。 ぐっと、拳を握る。 このままでは、自分たちの乗るこの列車はターミナルどころか何処にも辿り着けなくなるだろう。 乗り合わせたロストナンバーも、永久に戻れなくなるはずだ。 だとしたら、いま自分が選ぶ道はただひとつ。 ここを動かしているのは、あの時計だろうか。 いかにして羊をやり過ごし、いかにしてあの場所へ辿り着くのか。 いかにして、この事態を収拾するのか。 挑まれているのだと分かるから、ソレに応えるべく行動を起こす。 方法は、いくらでもあるはずだ。*「……私の世界は、美しい機械仕掛けだったんですよ」 バルコニーから漆黒の庭園を望み、青年はうっとりと笑う。「抜け殻を取り込んで動き続ける永久機関――ヒトを取り込んで巡る機械。すべての命が歯車の一部となればいい。0時の鐘が鳴る時、私達はこの列車を完全に制圧する……」========!注意!イベントシナリオ群『ロストレイル襲撃』は、内容の性質上、ひとりのキャラクターは1つのシナリオのみのご参加および抽選エントリーをお願いします。誤ってご参加された場合、参加が取り消されることがあります。また、このシナリオの参加キャラクターは、車両が制圧されるなどの状況により、本人のプレイングなどに落ち度がなくても、重傷・拘束等なんらかのステイタス異常に陥る可能性があります。ステイタス異常となったキャラクターは新たなシナリオ参加や掲示板での発言ができなくなりますので、あらかじめご了承下さい。========
扉ひとつ隔てた向こうに広がるのは、光という光、色という色を拒絶した漆黒の世界だった。 ひしめき蠢く黒羊たちが牙を剥き、意識を失ったロストナンバーを館内で引きずり込もうとする。 その身体を、一本の矢が貫いた。 どさりと音を立てて倒れ込む同胞によって、方々好き勝手に動き回っていた羊の瞳が一斉に庭園の一点へと注がれる。 そこには荷見鷸が、半ば反射的に放ったトラベルギアたる和弓を構えたまま、苦い表情を浮かべ立っていた。 むっつりと引き結んだ口元には突然の襲撃に対する怒りが宿るが、その瞳には羨望めいたモノが揺れている。 美しい、と思えるのだ。 見慣れたロストレイルが漆黒に染まった空と地と雨と庭園と屋敷に作り替えられた事実を踏まえてなお、この光景がどうしようもなく歪で美しい。 「気にくわないね」 対してダンジャ・グイニは、30代前半とは思えない老成した表情で、まるでかつての己の所業を見ているかのように目を眇める。 漆黒の雨に煙る漆黒の館、聳える漆黒の時計塔は漆黒の炎を宿した文字盤の上でじりじりと時を刻んでいた。 「他者を浸食して何かを得ようなんて考えてんだとしたら、気に入らないねぇ」 「とんでもねぇな、あの羊ども」 灰色狼たるロボ・シートンにとって、アレは本来獲物でしかないというのに、違和感がソレを許さない。 「あの屋敷の中からも奴らのニオイがスゴイしてくる……アレは幻覚か、それとも?」 その問いに答えるカタチで、ヴィヴァーシュ・ソレイユは周囲を見回す。 「ただの幻覚でないのなら、空間そのものを作り替える能力者がいると判断した方が良さそうですね」 「走行するロストレイルを空間ごと作り替えちまえるって事かい?」 「ええ。ですが、物理的に構築されていくものならば、食い止める方法もまた物理的に可能だと思います」 「……だったら、まずは連絡だな」 渋い表情のまま、荷見はトラベラーズノートを開く。 最後尾車両で起きている異変は襲撃だろうということ、そして可能な限り先頭車両へと避難し、その誘導を頼みたいということ――それらを今回の依頼を共にした仲間呼びかけるために。 「それじゃ、こっちはこっちで念のために結界を張っておくかね」 まるで繕い物をするように腕を振る、その僅かな動作で以て仕立て上げられていくのは《結界》だ。 羊がこの庭園を抜けてさらなる犠牲者を生み出す前に、ダンジャは己の背後に聳える庭園の門を結界で閉ざした。 「さあて、あとは浚われちまった仲間を取り返すだけだ」 その台詞に重なるように、時計塔からなのだろう、重く荘厳な鐘の音が辺り一帯に響き渡った。 ガコン…ッと何かが大きく動き、何かが組み替えられていくのを、何かが起き、何かが起ころうとしている不吉な予感を、全感覚で認識する。 「要はここを破壊すればいいんだろう!?」 ロボの四肢が地を蹴った。 「細かいことはあんたらに任せる。オレはただ全力で行くだけだ。羊どもに捕食者はどっちなのか思い知らせてやるぜっ」 「ロボ――!?」 いつの間にか庭園を埋め尽くすほどに集った黒い羊の群れの中へ、狼はすべてを切り裂くナイフのごとく切り込んでいく。 黒の世界を貫く灰色の軌跡は、身ひとつで庭園から館へ、その外壁を伝って屋根へと駆け抜けていった。 「我々も急ぎましょう」 ヴィヴァーシュの声に頷きながら、仲間が切り開いてくれた道を3人はまっすぐに進む。 * 黒はすべてを飲み込み、駆逐するのです。 * 庭園を抜け、両開きの巨大な扉を開け放てば、館は、黒硝子のステンドグラスとシャンデリア、そして獲物を狙う黒羊で以て客人を迎えた。 荷見は和弓を構えたまま、無言で周囲を観察する。 ざっと4、5階分はあるだろう高い天井に吹き抜けの玄関ホール、そこから伸びた広い通路は、左右に大きな扉を連ねながら館を貫き、その最奥に二手に分かれる突き当たりの廊下と二階へ上がる階段を有していた。 だが何よりも目を引くのは、《階段》だ。 縦横無尽に交差する様は、荷見に、エッシャーの《階段の家》を彷彿とさせた。 互いに干渉し合い、2階と4階、5階と3階、3階と1階が繋がりあいながら、部屋と通路と階段が入り組んだ錯視画のごとき様相を呈している。 もしもこの屋敷に『色』が存在していたならば、目眩を起こしていたかもしれない。 「カラクリ屋敷か何かかい?」 天井を見上げて微かに笑うダンジャに、ヴィヴァーシュが視線を巡らせ、耳を傾ける。 「時計塔と連動している可能性はあります。先程10時の鐘が鳴った時、この館自体も震えたように感じましたから」 黒一色のこの場には雑多な音がひしめいていた。 何かを引き摺る音、何か堅いモノがぶつかり合う音、悲鳴じみた金属音、軋む不穏な音、音、音。 「……時計を、合わせるべきか」 荷見は他のふたりを振り返り、問う。 意味深に掲げられた時計塔――アレにどんな意図があるのかは分からないが、意識して時計の文字盤を追えば、時を打つ間隔が壱番世界と同じであることは分かる。 胸ポケットから下げた懐中時計と見比べてみても、大きな差異は見いだせなかった。 「あの時計がタイムリミットを表しているのなら、私達は常に時間を意識せねばならんだろう」 「そして、時計塔までの安全かつ最短のルートを見つけ出す必要があるということですね」 ヴィヴァーシュは風の精霊に命じる。 漆黒に染め上げられたこの館の至る所に密やかなる進入を果たし、数多の情報と解釈を持ち帰るために。 黒羊たちの足音、気配が、このホールに集まりつつある。 「引きずり込まれた仲間を取り戻さなくてはいけません。羊たちはどうやら時計塔を目指しているようですし」 「なぁに、進路妨害ならお手の物さね」 「……あの灰色狼はどうなる」 「彼は私がフォローします」 ヴィヴァーシュの操る精霊が、この場で最も機動力を持っていると考えていいだろう。 そうしている間にも時計塔の針は時を刻み、羊が至る所で鳴いている。啼きながら、迷宮のように折れ曲がった廊下や扉の向こう側から押し寄せてくる。 「それじゃあ、各自最短目指して、あの時計塔で落ち合うとしようかね?」 「ご武運を」 「……ああ。お互いな」 三つの視線が交錯し、そして、別れた。 * 漆黒の雨に濡れた漆黒の舞台へと作り替えられ、浸食されてゆく景色たち。 世界を工事し続ける男の手が、ふと止まった。 * 時計塔を囲む漆黒の館は、俯瞰すれば歪なコの字型に見えなくもない。 細かく折れ曲がった渡り廊下の多さ、外階段の存在が、この暗黒の屋敷を奇怪なオブジェに変えていた。 「とにかくこの異様な景色を壊していけばいい、壊して、潰して、仲間を取り戻すっ」 ロボの傍らには、ヴィヴァーシュの操る風の精霊が寄り添い、援護する。 庭園を抜け、館の外壁を伝って屋根に上り、風のごとく漆黒の雨の中を駆け抜ける姿は灰色の弾丸さながらだ。 羊を狩り、漆黒の館の外壁を砕き、壊し、突き進む。 羊たちがロストナンバーを咥えて時計塔を目指しているのは分かる、だからその前に仕留めなければという使命を抱いて。 強靱な爪が獲物を捕らえ、捕食者の牙が次々と黒羊の喉笛に突き立てられていく。 血の代わりに白い粒子を振り撒きながら、羊たちは一頭…また一頭……と、地に落ちては塵に還ってゆく。 だが、意識を失ったロストナンバーを加えた羊を捕らえたくても、そいつを護るように別の羊が邪魔をし、さらには館自体から狙撃を受ける。 時計塔へ辿り着く前に強固な防護壁に行く手を阻まれ、館内部からのアプローチ以外を排除するためだろう、結界とも取れる電磁ネットがロボの進入をはじきに掛かる。 それでも追いかけて、追いかけて、追いかけ続けて。 時折、ふっと意識が遠のきはする。 自分が誰なのか、なんの為にここにいるのか、どこへ行こうとしているのか、真っ白になりかける。 だが、目の前の黒羊たちを食いつぶす度、いま自分が為すべきことを思い出すのだ。 そうして研ぎ澄まされた嗅覚が、血のニオイと仲間達の動向、それから見知らぬ異質な存在の出現を嗅ぎ取った。 「ボクの羊にずいぶんなことしてくれるじゃん!」 頭上から降ってきた子供の声に、ロボは動きを止め、屋根から空を仰ぎ見る。 雨が避けて落ちていく、空に浮いた幼い少年――相手から発せられるのは明確な殺意と攻撃性であり、ざらりとした異質感だった。 「どうせ0時になればぜんぶ呑まれちゃうクセに、ホント気に入らないんだから!」 不愉快さを隠そうともしない少年の前で、ロボはたったいま首を噛み砕いた羊を放り、低く唸りながら問いかける。 「おまえ、世界樹旅団とかいう輩のひとりか」 それは最近耳にするようになった言葉だ。 けっして友好的とは言えない行為をこの世界群にもたらす者たちの総称。 「何故こんな真似をする?」 「“何故”? なんでって聞くの? 聞かれたって答えるわけないじゃん! とにかくすんごい迷惑してるってこと、分からせてやんなきゃね」 だから、と、冷ややかな眼差しで告げる。 「死んじゃえ」 少年が腕を振り上げ、振り下ろす。 途端――生み出されるのは、鋭い牙を持った深紅の仔羊だ。 漆黒の雨を受けて鮮赤を滴らせるレッドラムが、一斉にロボへ向けて空を駆け下り、押し寄せてくる。 四方の壁という壁から突き出されるナイフを躱し、ヴィヴァーシュはひとり、階段で繋がるダンスホールから鏡台の置かれた化粧室へ移り、僅かにタイミングが遅れながらも折れ曲がって上階へ伸びる廊下を走る。 「本当に塗り込められた絵のようですね……」 かつて訪れた壱番世界の館もまた、趣向を凝らし、隠し通路や隠し部屋といったカラクリにあふれていた。 だが、他者への愛情と情熱とささやかな遊び心が満ちていたあそこに比べ、ここには機械仕掛けの無機質な攻撃性しか感じられない。 ここを構成するモノに興味はあるけれど浸りたいとは思えない。ソレを赦さない冷ややかな拒絶を肌で感じる。 かの建築家が手掛けたならば、きっともっと美しく心惹かれるモノとなっただろうに。 「ん?」 不意に、ヴィヴァーシュの足が渡り廊下の角を折れたところでひたりと止まった。 「……その方をどこに連れて行くつもりです?」 問う声に抑揚はない。だがその瞳は冷ややかに閃いて、対象を見据える。 両側に30号ほどの絵画と木製の扉が一定間隔で並ぶ回廊の真ん中に、ロストナンバーを咥えた黒羊が群れている。 囚われの青年は人形のように無反応で、まるで部品の一部になってしまったかのように無機質めいていた。 うかつに羊へ攻撃すれば、彼もまた傷つけることは容易に想像できる。 だから、ヴィヴァーシュは手を伸ばす。 その掌に光球を生み出し、破裂させ、漆黒の羊たちの群れが固まったその隙に、更に手を伸ばして。 羊を薙ぎ払い、囚われの仲間を腕の中に引き寄せたその瞬間、何かが自分の中で弾ける音を聞く。 やわらかな笑みを浮かべた兄の、優しい手が頬を撫でる。 優しい笑みを浮かべた姉の、やわらかな手が髪を撫でる。 幼い自分を見つめるふたりの視線は、とてもあたたかな愛情に溢れていた。 『今日はどこへ行こうか、ヴィー? おまえが望む景色を見せてやりたいんだが』 『あの森の泉はどうかしら? ねえ、まだ行ったことがなかったわよね?』 ふたりに手を引かれ、城を取り囲む森の奥まで、歌いながら、笑いながら、木漏れ日が注ぐ緑の道を歩く。 光に満ちた、優しい時間。幸福であり、愛されているのだと、確かに感じられた、あのやわらかな―― 「……いまのは」 青年を横抱きにし、頭上で交差する階段を越え、更なる上階まで飛んでなお、ふつりと生まれた自身の中の空白に眉を顰める。 何かがいま、消えた。 不可解な喪失を覚えながらも、ヴィヴァーシュは腕の中の青年に視線を落とす。 「しっかりしてください。わかりますか?」 だが相手はこちらの問いの一切に答えることなく、名を問うても弱く首を横に振るのみですべてが判然としない。 あらゆるもの、自身に対してさえも語る言葉を持ち合わせていないかのように虚空を見つめるのみだ。 訝しむヴィヴァーシュに、精霊たちが囁きかける。 「……つまり、アレが《過去》を奪い取っているということですか」 通路という通路すべてを塞ぐかのごとく集った黒羊たちの視線を浴びながら、得たのは、あれらが触れたモノの記憶を喰らうのだという事実だった。 記憶によって、ひとは形作られる。ソレを根こそぎ奪われてしまえば、ヒトは抜け殻にも等しい存在となるだろう。 いまの、この青年のように。 「ですが、躊躇うことも無意味ですね。必要とあらば、いくらでも差し出しましょう」 生きてさえいれば、未来は紡がれ、記憶も増え、大切な想い出も増えていき、そうして自分を支える糧となる。 だから、彼を安全な場所――この館の外へ連れ出すことを精霊に託し、ロボがそうしたように羊の群れを突き進む。 「なるほど、罠だ。こんなレトロな仕掛けを考えるヤツがまだいるなんて、ババア、ビックリ」 天井から振り下ろされる刃のすべてを《糸》で紡いだ結界で防ぎきり、ダンジャは軽く肩を竦めた。 「やたらと屋敷に干渉すれば、トラップが発動するってコトなのかねぇ」 吹き抜けから、《糸》の結界を駆使して一足飛びに館を抜けようと試みるが、黒羊と屋敷の罠が行く手を阻む。 落とし穴。 左右から迫ってくる壁。 落ちてくる天井。 壁や階段から飛び出してくるナイフ。 すべてがすべて、機械仕掛けだ。 連鎖し、侵入者を排除しようとするこのカラクリを統括しているのもやはり、あの時計塔なのだろう。 空に足場を生成し、羊相手に舞う《仕立て屋》の技は、もしも観客がいたのなら、腕を何度も交差するだけで相手が次々と墜落していく不可解な光景に映っただろう。 可視と不可視の境界で《糸》を繰り、突き進む彼女の視界には、時計塔がずっとその姿をさらしている。 不吉さをまして輝く漆黒の塔まで、あともう少し。 途中、ロストナンバーを咥えた羊を仕留め、仲間をひとり取り戻したが、あの少女を逃すために結界で確保した館外に向けた通路は、役目を終えるのとほぼ同時に羊に食い破られた。 「意地汚いねぇ」 可能な限り戦闘を避けてきたダンジャに、進路を変えられ、邪魔だてされた羊たちが、草食動物たり得ない鋭い牙を閃かせ、一斉に襲いかかる。 四方八方からの総攻撃に、防御が間に合わない。 そして、黒い波に呑まれたダンジャの中で、何かの弾ける音が響く。 『あんたはなんでソレをするんだい? ソレをやる意味を考えているのかい? 自分で考えたと思っているその行為は、ただ他人の知識を丸ごと流用しただけじゃないのかい?』 『やめて、分かんない、そんなモノ全然分からないっ』 『分かろうとしないから分からないのさ。あんたが手にしているのは、“分からない”で済まされるモノじゃぁないんだよ』 2年、たった2年間だけ共に旅をした自分を生み出した母のような存在。 不老不死ではあっても、その肉体には限界が来る。 死期が迫れば、己の分身を作り上げ、育て、世代交代をするのだ。そういうふうにして、《ダンジャ》は存在し続ける。 かつて犯した大罪のために、永遠にさまよう罰を受けながら、長い長い時間を贖罪のために生き続ける。 傲慢になるなと繰り返す彼女は、笑うことを忘れているかのようだった。 でも。 そうだ、でも。 『難しいかも知れないけど、思いあがっちゃダメだ。自分の為にしかならない』 そっと頬に触れた、彼女の手のぬくもりが蘇る。 『赦されたいと思い、行動するうちは、ソレはまだ本当の意味で贖罪とはならないんだよ。本当の贖罪ってのは』 哀しく、けれど優しく暖かな眼差しで、彼女は自分に微笑みかけて―― 喪失感が胸に去来する。 けれどそれが何であるのか、思い出せない。 「あんたら、あたしの記憶を食ったのかい?」 腹を膨らませて眠る黒羊たちに視線と問いを投げた、その途端――頭上から凄まじい衝撃音と振動を供に、何かが降ってきた。 「おおっと…っ!?」 羊もろともに落下するロボの身体を、瞬時に編み上げた蜘蛛の巣を模したネットで受け止める。 降り注ぐのは鮮赤の水滴。 灰色の毛並みを染める赤が彼のモノかどうかは一見分からない。だが、むくりと起き上がったロボの瞳に閃く強靱な意志と身震いが、捕食者の優位性をはっきりと示す。 「大丈夫、と聞くまでもないかね?」 ダンジャに、ロボは頷いてみせる。 「羊ごとき、たいしたものじゃない。それより……」 「ああ、急がないといけないらしいねぇ」 時計塔の鐘が、遠く近く響き合いながら、11回、大きく存在の声を上げた。 「キリがないな」 絵画的な漆黒の光景の中、近くの標的には打撃型、遠くには貫通型と矢を変え、立て続けに黒羊たちへ矢を放ちながら、荷見は微かに眉を寄せた。 上に行ったはずが階下に降り、奥へ進んだはずが玄関ホール前に戻り、時計塔は見えているのに辿り着けないまま時間だけが過ぎてゆく。 唐突に口を開ける落とし穴、横から突き出てくる壁を回避し、凶悪な牙を剥いて襲いかかってくる羊を時には素手で払いのけながら、ではなおさらだ。 心惹かれる景色。 ファージに浸食された世界に似て非なる異景。 「ここは美しいが…」 自分はもっと別の景色を求める。 しかし、思えばこの異界への思慕は、幼いあの日から培われていたのかもしれない。 故郷には、すぐ傍にうっそうと茂る原生林があった。 捩れて互いに重なり合う枝と、葉擦れのさざめき、遠く響く鳥の鳴き声――昼間でも薄暗いそこに足を踏みいれてみれば、日常から切り離された空気を肌で感じることができた。 幼い自分に、神隠しが起こるのだと教えてくれたのは、猟師をしていた祖父だった。 祭りの夜、石灯籠が灯る参道からはずれ、親とはぐれて踏み込んだ先で見た幻想的な光景はいまもまだ焼き付いている。 幽玄の闇。 夢幻の狭間。 『あなたはいつもどこか夢を見ているみたいなのね』 亡き妻は、そんな想い出を語りながら歩いた地元の祭りで、小さく微笑みながらそっと手を握ってきた。 『あなたの見たい世界を、私も一緒に見ることができればいいのだけど……ねえ、あなた……』 夜闇に広がる祭りの景色を見つめながら、僅かに手に力を込めて。 自分を現世に繋ぎ止めてくれていた妻は、あの時―― ふつりと何かが途切れる。 眠る黒羊、ソレをつれて逃げる黒羊たちの群れを弓で狙いながら、小さく荷見は呟く。 「何が起きた?」 分からない。 分からないままに、今はただ時計塔に辿り着くことだけを考え、進むことを選んだその足が、不意に止まった。 頬に当たる雫の感触に顔を上げれば、天井はなく、漆黒の雨が降り注ぐ中庭へと出てしまったらしい。 そこで荷見は見知らぬ男の姿を認めた。 無精ヒゲを生やしたヘルメット姿の巨漢が、日に焼けた太い腕を組み、無言で館を見上げ、佇んでいる。 「……ふん。結界を張ったのは、別の輩か」 羊に襲われるでもなく、怯えるでもなく、むしろ建築現場で作業を見守るかのような風情は、ここにはあまりにも不釣り合いだった。 「あんた、この“館”に関係しているんじゃないのか? 何故、こんな真似を」 「それを聞けば納得するのか? 違うだろう?」 問いに答える声に抑揚はなく、現場監督を彷彿とさせる男は、あっさりとこちらへ背を向け、歩き出す。 「おい」 引き留めようと一歩を踏み出した、その目の前に黒羊が飛び込んでくる。 が、ソレは光の刃に貫かれ、無様に地へと失墜する。 「荷見さん」 思わず身を引き、頭上を振り仰げば、せり出した空中回廊から、ヴィヴァーシュがこちらを覗き込んでいた。 「時計塔へのルートが見つかりました。こちらへ」 「ああ」 差し伸べられた手に頷けば、ヴィヴァーシュの操る精霊が彼の元までこの身体を一気に引き上げる。 「ところで今の方は?」 「……世界樹旅団、だろうな」 話し合いに応じる風ではなかったが、しかし、彼らはロストレイルを浸食するその理由が知りたい。 「あの羊は?」 「あれはヒトの記憶を喰らうようです。喰らい、機動力を奪い、……捕虜にするつもりであるのかは分かりませんが」 「そうか」 その言葉に、だからこんなにも羊に触れる度ざわざわとした空虚な感覚が肌を撫でていくのだと納得する。 失われたのに何が奪われたのか分からないという恐怖が、そうさせるのだ。 「……だがな、少しばかり記憶を無くしたところで私は変わらんよ」 荷見の呟きは、雨音の中に消えた。 * 漆黒の床に鮮赤が散る。 * 無数の階段、無数の回廊、無数の部屋を経て、ダンジャはロボと共に時計塔に辿り着く。 漆黒の石を積み上げ作られた塔、そこに設えられた鋼鉄の扉が大きく口を開き、自分たちを迎える。 中では巨大な歯車が、螺旋階段に取り巻かれながらゆっくりと稼働していた。 身の背丈を超えるもの、この掌に収まる程度のもの、それぞれが互いに干渉し合い、複雑に噛み合いながら聳え立つそのオブジェの終わりは、頭上高く闇に霞む。 その一部にヒトのカタチを見た気がしたが、確かめる術はない。 「まずはこれを破壊、だね」 「時計が0時を打てばすべて呑まれるとか言ってやがったからな、あの羊飼い」 「つまり、それまでにこのカラクリを止めなくてはならないわけですね」 「やあ、ヴィー。荷見と一緒に登場かい」 振り返ったダンジャに、彼は小さく頷きで返す。 「遅くなりました。羊に浚われた方々は全員、結界の傍まで送り届けています」 「なら、やることはひとつってヤツさね」 「試すか」 荷見が弓を引く。 放たれた矢が扉の境界を越えて機関内部に突き刺さろうとしたその一瞬で、駆動部が変形し、鋭利な刃物が飛び出し、駆逐した。 「いい反射速度じゃないかい。それじゃ、始めようか」 「ええ、可及的速やかに」 「思いっきり行けばいいんだな」 「後ろからもくるぞ」 獲物を求め館から押し寄せてくる黒赤の羊の群れをロボが一手に引き受け、作動する自動防御装置の攻撃を仕立てた結界でダンジャがはじく、その隙を縫って荷見が矢を立て続けに打ち込み、ヴィヴァーシュが風を操り折れた刃を歯車に差し込んで―― 「その程度で私の時計が止まるとでも?」 その行為を嘲るように、螺旋階段の上から彼らの中に青年の声が落とされた。 彼の姿は機械に阻まれ、シルエットだけがかろうじて捉えられる。 「血のニオイがする」 顔をしかめるロボの傍らで、紡ぎ糸で鋼鉄のナイフを払いのけながらダンジャが影に向けて声を上げた。 「あんたがここの主かい? 何が目的か是非聞きたいところなんだがね。話し合う余地ってヤツはないのかねぇ」 「間もなく時計は0時を指す。そうすれば、あなた方もこの時計に組み込まれ、世界は呑まれ、変わるのです」 しかし、相手から還ってくるのは冷ややかな死刑宣告のみだ。 「本当にできると思っているのか」 ぼそりと荷見は呟き、問う。 「……いいか?」 「任せるぜ!」 「準備はすでに終えてあります」 「じゃあ、こっちも結界を解くよ!」 すでに交わしていた取り決めを、4人はその短い言葉で以て決行する。 「止めてみせるよ、あんたの目論見ごと。踏み躙られるわけにはいかないんだよ、大事なもんをさ」 不敵に笑って、放つ宣戦布告。 青年は、大きく息を呑み、沈黙した。 物理的干渉には物理的手段で。 荷見とヴィヴァーシュ双方から寄せられた提案を、ノートと精霊、そしてダンジャの結界操作で完遂する。 ――仲間の手を借りた、連結部切断による最終車両切り離し。 そうして4人は、刻々と迫るタイムリミットに向けて為すべき事を為す為に動く。 己がトラベルギアすらも歯車を狂わせる楔へ変えて。 漆黒に映える、ソレはある種とても美しい光景。 矢束も巨大針も、もろともに歯車の内部に噛み砕かれていくが、砕かれた破片は機械の内部へ運ばれ、やがて《異物》となる。 精密であればあるほど、僅かな歪みが全体に影響を及ぼすのだ。 僅かずつ、軋みが広がる。 軋みは歪みを呼び。 ヴィヴァーシュが精霊に命じ剥ぎ取ってきた《文字盤》の針を歪みの最奥へ差し込んで―― 規則正しく時を刻んで射た歯車が、ついに甲高い悲鳴をあげた。 それは、崩壊の兆し。 世界の終わりを告げる音。 「……まさ、か……」 呟きと共に青年の身体が崩れ、螺旋階段の手すりからゆっくりと落下する。 描かれるのは、鮮赤の軌跡。 全身から流れる、青年の血。 「なっ」 咄嗟にダンジャが落下を食い止めようとするが、それより早く彼の身体は空で別のごつい腕に抱き留められた。 「負けたヤツを回収するってどうかと思うよ、ドンガッシュ」 一体いつからそこに居たのか、少年が不機嫌に口を尖らせ、空に立つ。 「それとも可哀想とか思っちゃった?」 「……死は覚悟の上。ならば薄っぺらな憐憫の情などヤツには無用だ」 「そっか。じゃあ、まあ、あいつらにこっちの情報を渡さない為って考えればいいかな?」 言って、少年はドンガッシュと呼ばれた男の腕を取る。 「おまえ、羊飼いのっ」 羊を食い千切りながら吠えるロボの声に、少年は思いきり盛大に舌を出す。 「おまえら、いつか絶対ボクの羊のエサにしてやるんだからな!」 それだけ告げて、彼らは空に消えた。 「――っ!?」 追いかけようとする行為を阻むがごとく、時計塔内部が崩壊を始める。 歯車が分解され、更なる欠片に砕け虚空に散り。 降り注ぐ雨も空も何もかもが、硝子のようにひび割れ砕け。 漆黒の世界が剥がれ落ちて。 呪縛から解き放たれるように、ロストレイルの車両は急速に様々な色彩と本来の姿を取り戻していく。 それを、記憶を失った空虚な痛み、この世界の破壊がひとりの青年の命を奪うことになったという哀切と共に、4人は無言のまま見つめ続ける。 それでも、この代償に見合うものは手に入れたはずだと信じて。 「さて、これからどうするかねぇ?」 できるだけ陽気に、ダンジャが声を上げる。 この車両の破損は大きく、機関部を失ったまま自力で走行することなど不可能に近いことは明白だ。 それでも切り離しを選択したのだ。 そんな仲間に、荷見が手にしていたトラベラーズノートを掲げてみせる。 「……連絡だ」 そうして。 窓の外へと視線を移す彼につられて同じ方角へ向けば――ディラックの空の中、遠く、傷ついた別のロストレイルの姿が浮かび上がる。 目を凝らせば、双子座のエンブレムが見て取れた。 更に目を凝らせば、その後ろに天秤座のエンブレムも窺える。 予備エンジンで稼働する双子座の車両が、漂泊する仲間達を拾いながら先行する山羊座を追いかけているのだという。 山羊座本体は、その車両の特徴とも言える燃費の良さにより、少ないナレッジキューブによる走行を可能としている。 多少の回り道をしても、確実にターミナルへと辿り着けるだろう。 3つ目の車両として双子座に連結を果たした4人は、そこで各々が対峙した《世界樹旅団》の情報と共に辛く長く痛みを伴う物語を紡ぎあうことになるのだが。 それはまた別のお話。 END
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