車輪が轍を踏む音が、規則的に流れる。「……おい、」 ぺしぺし。 何処となく気の抜けた音と声が、その合間に聞こえる。柔らかな感触が頬を叩き、ロストナンバーの意識はゆっくりと覚醒へ導かれた。瞼を開けば、明るい光が忍び込む。「よう。やっとお目覚めか、旅人諸君?」 つぶらな紅の瞳が、瞬きしながら五人を見下ろしていた。「……ブラン?」 寝転がったままの姿勢から、ロストナンバーの一人が寝ぼけた声を上げる。長い耳を揺らす事でそれに応えて、兎獣人ブラン・カスターシェンは手に提げていたレイピアを鞘に仕舞い込んだ。しゃらん、と鞘と刃とが擦れ合う音が、鐘の音の様に鳴り渡る。「ここは……?」「寝ぼけちまったのか? ロストレイルの五号車だよ」 言葉にされて、ようやくこの場所がロストレイルの寝台車であると、ぼんやりとした思考の中で理解する。「ああ……確か、0世界に帰る途中だったっけ。着いたのか?」「いいや」「……?」 未だ状況に思考が追いつかない様子のロストナンバー達を見下ろして、ブランは更に言葉を付け加えた。「襲われたんだよ、この列車は」 兎の貌は、表情の変化を悟らせにくい。ただ紅い瞳が、率直に五人を見下ろしているのみ。「“世界樹旅団”。……以前、壱番世界に現れた謎のロストナンバーがそう名乗っていたな」 おそらく奴らの仕業だ、とブランは白い手で車窓の外を指し示す。「見えるだろう? 我々以外にも、幾つもの車両が襲われている」 指し示す先に広がるのは、世界の外側。永遠とすら呼べるディラックの空。歪で空虚な暗闇の中を、硝子の轍を伴ったロストレイルが駆け抜けていく。弾け、煌めくディラックの光の中、素早い動きでそれに追従する白銀の影がひとつ。「あれが、向こうさんにとっての“ロストレイル”って事だな」 空飛ぶ円盤、壱番世界の謎によく似た形をした銀の船が、逃げる列車に押し迫っている。「あっちも助けてやりたいが……生憎、他人(ひと)の心配をしている場合じゃなくてな」 窓の外を指し示す白い手が、ゆっくりと滑った。ちょうどカーブを描いて走行する五号車の、前方車両が窓枠の中に写り込む。 先頭から数えて二両目、臙脂色の車体に突き刺さる、白銀の円盤。車窓を突き破って這う、色とりどりの蠢虫――“ディラックの落とし子”たち。「あれって……」「御察しの通り。……我々の列車は既に、占領されている」 訝しげな五つの視線に促され、白兎の貴族は飄々と肩を竦めた。 ロストレイル五号車――“獅子座”車両は、冠する星の通り獅子のエンブレムを随所に配置し、勇壮な装飾を施した列車となっている。 滑るように築かれる硝子のレールの上を駆ける、堂々とした姿の獣王はディラックの空に鮮烈な軌跡を描く。華麗な装飾を施された乙女座とはまた違う、目に眩い美しさを備えた車両だ。 それぞれの車両には、星座の名にちなんだ様々な特色がある。 射手の弓は精密に敵を穿ち、牡牛の角は獰猛に敵を抉る。 そして、百獣の王の誇りは圧倒的なスピード。 ――その時もまた、獅子の速度を活かし、下層の世界群から0世界へと帰還する最中であった。 白銀の円盤による襲撃を受けたのは。 高速を誇る獅子座車両と言えど、横腹から飛び込まれては避ける事さえ叶わない。 真横から円盤が突き刺さり、バランスを崩された列車は大きく横に傾ぎ、カーブの描かれたレールの上を暫し片輪のみで走った後、ゆっくりと体勢を整えた。高速で走る獅子座車両だからこそ出来る鮮やかな動きであったが、乗客の誰にもそれを称賛する余裕はない。 食堂車の横腹に突き刺さる銀の円盤から、十数人の人間――中には獣人や異形の生物も含まれているが――が次々とロストレイル車両に降り立ったからだ。 その最後に、金髪碧眼の貴族然とした青年の手を借りて、一人の少女がふわりと現れる。「御機嫌よう」 流れる声は甘くとろける、しかし鋭い苦さを湛えたバニラに似て。 灰色の髪と瞳、冷たささえも感ぜられない白い肌は陶器人形の様とも、深雪の如くとも称する事が出来ない。 鮮やかな色彩の全てを喪った少女は、軽やかにスカートの裾をひとつつまんで御辞儀をした。「誰だ」 食堂車の何処かから、誰何の声が上がる。突然の乱入者に困惑しながらも、ロストナンバー達は極めて冷静にトラベルギアを手に構えた。「“世界樹旅団”と申します。……本日は、ちょっとした御挨拶までに参りました」「――!」 既に興味を喪った様子の少女に代わり、傍に侍る金髪の青年が言葉を返した。 “世界樹旅団”。 階層世界の至る所で世界図書館と諍いを起こす謎の組織の名だ。 ざわめくロストナンバー達を意に介するでもなく、無彩色の少女が踵を鳴らして足を進める。その肩にかけるポシェットから二粒、灰と桃色の飴玉が零れおちて、食堂車と機関室とを繋ぐ扉の隙間を滑り抜けた。「キャンディポット、落ちましたよ」「放っておいて」 青年の忠告を無愛想に跳ね退けて、少女は車内の装飾を見上げて回る。”キャンディポット”、その名にも聞き覚えがある、とロストナンバーが警戒の色を濃くする。 やがて扉の上に飾られた、勇壮な獅子のエンブレムに目を止めて、少女はきっと目尻を吊り上げた。ポシェットの中の瓶から飴玉をまた一つ取り出して、投げる。「華やかなもの」 真鍮のエンブレムにぶつかる寸前、飴玉は巨大な蛭へと姿を変えて獅子の目元に貼り付いた。勇壮な獅子が、触れる傍から溶かされて行く。「綺麗なもの、可愛いもの……みんな嫌い」 硝子の瓶をポシェットに押し込むと、灰色の少女は身を翻した。ふわりと広がるスカートの裾から、一匹のワームが這い出る。少女の指が、愛おしげにそれを撫でる。「こんな気障ったらしい列車、壊れてしまえばいいんだわ。――ローズマリー」 キャンディポットの声に呼応するかのように、激しい振動が列車を襲う。響きわたる轟音、擦れ合う葉のざわめきに似た、しかしいびつな啼き声が列車を覆い尽くし――そして、少女は笑う。「そう……いい子ね。タイム」 生温い風が、車内を駆け抜ける。キャンディポットの髪を柔らかく撫でて、恐怖すら感じさせる緩慢さで流れていく風――宇宙空間にも似たこの空の何処から、吹いていると言うのだろう。 不穏な風は死の気配をいざなう。車内には血の錆びた匂いが充満し、大気は紅い色を纏い始める。否、ごくごく小さな粒子が幾つも幾つも風に乗って流れてきているのだと、よく目を凝らせば判る。 風に乗って流れる粒子。 擦れ合う葉のざわめき。 “ローズマリー”と呟いた少女の声。「――……花粉か!」 食堂に集うロストナンバーの一人が鋭い警告の声を発したが、時既に遅し。紅の粒子は食堂の内外を完全に覆ってしまっている。 世界樹旅団のツーリストが、一歩、キャンディの背後へと退く。 幽かな色彩の愛くるしい少女は、その顔立ちに相応しい、残虐な笑みを浮かべて謳った。「おやすみなさい、いい夢を」 軽やかな音を立て、紅い粒子が鮮やかな色を見せて弾けた。 脳髄を強く揺さぶられるような感覚。――そして、視界は暗転する。 眠りに落ちるその寸前、五号車の乗客は見ただろうか。 機関室を覆い隠し、エンジンを浸食して生い茂った一対の樹を。「“ローズマリー&タイム”。先頭車両の機関室を一瞬にして乗っ取った二本の樹……つまるところ、“ディラックの落とし子”だ」 客車の窓から見えるディラックの空に、時折映る五号車の姿。灰と桃の二色を絡ませ、先頭車両の臙脂色を覆い尽くした二本の大樹は、いびつに輝く夜空の中で堂々と聳え立っていた。生き物がするかのように脈動し、葉をざわめかせる度に怨嗟の叫びとなって最後尾の旅人達の元へと届く。 どうやらキャンディポットが落とした飴玉から変化した物らしい、とブランは長い耳を揺らめかせながら語る。「今、五号車は世界樹旅団の制御下にある。我々を乗せたまま、どこかの世界に落とすのも不可能ではないってことさ」 もちろん、旅団は脱出した上で。 端的に言えば乗員乗客の全ての命を人質に取られたようなものだ。 ワームの放った瘴気により昏睡した乗客は、それぞれ数名ずつに分けられ寝台車両の個室に閉じ込められている。おそらくはまだほとんどが目覚めていないだろう、とブランは顔を顰めた。「乗員は食堂車に集められている。キャンディポットもここだな」 トラベラーズノートに兎の手でさらりと図解を書き上げて、一つ一つの車両に詳しい説明を付け加える。どうやらブランはこの非常事態の全てを見て回ってきたらしい。「乗客のトラベルギアは全て没収され、キャンディポットの監視下に在る」 丸腰である事を表現するように、兎の両手をひらひらと振ってみせる。ならば状況打破の手はないのか、と落胆するロストナンバーに、ブランは続けて不敵な笑みを浮かべた。「そ・こ・で。名門貴族である我輩が貴殿達のトラベルギアを奪ってみせたと言うわけだ!」 やけに自信に満ちた口振りでマントの奥から取り出すのは、五人分のトラベルギア。窃盗に名門貴族は関係あるのかとか、そもそもどうしてブランは捕まらなかったのかとか、様々な疑問がロストナンバーの脳裏を駆け巡るが、それを口にする者は居なかった。「ここまで我輩がお膳立てしてやったんだ、もちろんやるだろう? やるしかないよな?」 何を、とは言わない。五人も聞かない。――判り切っている事だ。「ブランはどうするんだよ」「もちろん我輩も出来る限りを尽くすさ。だが、ひとりでは限界があるだろう」 誰かが問い返しても、あっけらかんと返されるのみ。 やがて、流れる沈黙を耐えがたく思った一人が、大きく嘆息をついた。放られた己のトラベルギアを手にし、軽く素振りをした後にパスホルダーへと仕舞いこむ。それに触発されるようにして、残りの四人も順に武器を手に取った。「……そうか、やってくれるんだな」 ぽんぽん、と毛玉の如き白い手が、一人の肩を叩く。やけに輝く赤い瞳が、五人を順に見回していく。「五号車の命運は貴殿達に掛かっているぞ、健闘を祈る!」 名門貴族は華やかな仕種で剣礼を送ると、ブーツの踵を高く鳴らして颯爽と身を翻した。 声をかける間もなく何処かへと姿を消した兎男を、五人は暫し呆然と眺めていた――。========!注意!イベントシナリオ群『ロストレイル襲撃』は、内容の性質上、ひとりのキャラクターは1つのシナリオのみのご参加および抽選エントリーをお願いします。誤ってご参加された場合、参加が取り消されることがあります。また、このシナリオの参加キャラクターは、車両が制圧されるなどの状況により、本人のプレイングなどに落ち度がなくても、重傷・拘束等なんらかのステイタス異常に陥る可能性があります。ステイタス異常となったキャラクターは新たなシナリオ参加や掲示板での発言ができなくなりますので、あらかじめご了承下さい。========
6. 兎の貴族が去り、代わりに訪れた沈黙を破ったのは、女の声だった。 「……なるほどな」 手の中に握る黒い棒を軽く振って、その感覚を思い出しながらリュエールがひとつ呟く。それほど背の高くない女性の姿を取るこの“名を呼んではならぬ者”は、突然の話にもさして動揺を見せなかった。意識ならはっきりしている。――そもそも、彼女はあの襲撃の中で昏倒などしなかったのだから。 「彼らにとって世界図書館は邪魔な存在だから襲撃をかけてきた、という所か」 「随分と荒っぽい――そして大胆な手口です」 手に持った絵本の表紙から二匹の妖精を呼び出しつつ、クアール・ディクローズが眼鏡の奥の瞳を伏せて言葉を繋いだ。彼の心配をするかの様に、犬と猫、二匹の妖精がクアールの肩の周りをくるくると廻る。 怜悧な青年の言葉に頷きを返して、リュエールは笑いを噛み殺した。 「……これほど露骨に喧嘩を売られたのはいつ以来だろうな」 「ええ、こちらも大人しく捕らわれるつもりなど微塵もない」 金の瞳と茶の瞳が交叉し、不敵な笑みを浮かべ合う。 「はァ……なんだ、めんどくせえことになってんだな」 その傍らで、大柄の男が大きく伸びをする。明瞭な意識のリュエールとは正反対に、男――清闇(さくら)はまだ寝惚けているのか、しきりに欠伸を零していた。 「折角イイ夢見てたってのに」 闊達な光を宿す紅の隻眼が、夢の名残を探してか胡乱に揺らめく。手に取った武器、ブランが奪い取ってきたらしい彼の愛剣【鎮吼王】の刃を検分していたところで、ふと奇妙な事に気がついた。 「そういや、俺のトラベルギアだけ戻ってきてねえな」 鎮吼王は彼が覚醒の際に持っていたもので、本来のトラベルギアは煙管であるはずなのだが。 「間違えたんじゃないかねえ」 「なんつーか、適当だな……まァ、いいか」 蜘蛛の巣模様の織物を羽織り、ひょいと覗き込んだ男、アラクネがのんびりと呟く。訝しげに目を眇め、しかしすぐに疑問を振り払って清闇は漆黒の髪をかいた。黒竜の武人たる彼にとっては、戦うのであればこの剣さえあれば充分だ。 「それで、ここからどうするのじゃ?」 扉に近い位置から、威厳溢れる声が響く。 四人が視線を落とせば、金混じりの黒い鬣を堂々と揺らした獅子――獣王アレクサンダーが、外から鎖された扉を見上げていた。雄々しい鬣の奥で、トラベルギアである【レグルスの王冠】が豪奢に輝いている。 「扉は開かぬようじゃが」 「……開かないのであれば、向こうから開けてもらえばいい」 不敵な言葉を落とすクアールの脳裏には、何か良案が浮かんでいるのだろうか。 「では、私は」 長い髪を翻して、リュエールが個室の壁へと向き直り、掌を掲げた。 しなやかな女の指先が撫でる輪郭に従って、分厚いはずの客室の壁に容易く穴が開く。いびつな色彩の夜空は不穏に煌めいて、冷えた風を客室へと忍び込ませる。 「先に行って、人質達の無事を確認しよう」 返答を待つ間もなく、軽やかな足取りで女は夜空へと躍り出た。 止める暇さえない。目を瞠る四人の前で、壁の穴はごく自然に収束を見せた。繋ぎ目の一つも遺さず、木目の分厚い壁が再び姿を現す。 「行ってしまったのう」 「まァ、何か自信あるみてえだし、任せとけばいいんじゃねえの?」 唖然と呟いたアレクサンダーに、未だ眠気を残したままの清闇が答えた。大きな欠伸を一つ零しながらも、紅の隻眼が客室の中を鋭く走る。 揺らぐ光の下、生き物めいて蠢く影を視界に捉え、目を細めて口端を持ち上げた。 艶やかな黒髪の背後で、同じ色彩の翼がはためく。 宇宙空間に似たディラックの空とは言え、ロストレイルとその周辺には正しく重力が作用しているらしい。落ちぬように翼を羽撃かせながら、リュエールは一つ前の窓へと近寄った。 神力を解放し、撫でるように車両の壁に触れる。容易く開いた穴から内側へと滑りこめば、床の上に折り重なるようにして倒れている四人のツーリストの姿が目に入る。それぞれの呼吸や傷の具合を確かめ、大した怪我を負っていないと判断して安堵に息を緩めた。世界樹旅団の襲撃は荒々しいが、無抵抗の者に害を加えるほど野卑ではないらしい。 ふと、彼女の前で、影が音もなく広がりを見せる。意思を得て動き出したそれは鮮やかな形を描き出す。 穏やかな黒で描かれた、巨大な竜の意匠。 見覚えがある、と僅かに首を傾げ、穏やかな声音でリュエールは問うた。 「……清闇か?」 洒脱な装いをした隻眼の武人の、磊落な笑みが脳裏に翻る。男の左脇腹から背中へかけて、眼前の影と同じ意匠の竜の刺青が彫られていた事を思い出せば、影はひとつ頷くように揺らめいた。 そして、倒れる四人を包み込むかのようにその翼を広げる。 言葉持たぬ竜の意図を的確に察して、リュエールは柔らかな笑みをその唇に乗せた。 「そうか。……ならば、ここは任せても構わないな」 またひとつ、影が応える。 漆黒の髪と翼を翻し、開いた穴を潜って神が飛び立つ。いびつに煌めくディラックの空へ。 一番奥の個室のドアが不自然に揺れている事に気付き、男は近付いた。目覚めた乗客が外へ出ようとして暴れているのだろうと推測し、それに何ら疑問を抱く事もなく。 靴音が苛立ちに早まる。ドアを叩く物音も、愚かな弱者の足掻きにしか聴こえない。扉の取っ手に手をかけ、勢いのままに引き開けた。 「なんだ、大人しくしていろと言っ――ッ!?」 開いた扉の先に、人の影はない。 目を丸くし、そして蒼白になって叫びだそうとした男の後頭部を、強い衝撃が襲った。 声を出す間もなく昏倒する男を跨いで、ローブの裾が翻る。閉じようとするドアを片手で押さえ、クアールは徒労と安堵にひとつ息をついた。左手に握る拳銃のグリップが、鈍い衝撃を残している。 「さて……これで、この車両はあと二人」 振り返る室内に、やはり人の姿はない。 だが、クアールは知っている。己が施した透明化魔法“プリズムコート”により不可視となった仲間が三人、そこに立っていることを。 「うむ」 透明化して尚威厳溢れる口振りで応えるのは、獣王アレクサンダー。ふと香る煙の源は、飄々としたアラクネの持つ煙管だろうか。 まるで意志持つ獣――蛇のようにゆらゆらと蠢いて、白い煙が扉を潜って廊下を曲がる。 やがて、ばたり、ばたりと何かが倒れる音が遠く響いた。 「ん。残り二人は、これで片付いたねぇ」 クアールのすぐ側から、アラクネののんびりとした声が聞こえた。姿は見えねど彼がそこに立っていると知り、心強い、と頷く。 「よし、行くか」 清闇の声が鷹揚と響き、扉を潜る気配。 能面にも似た無表情の奥深く、眼鏡の内に隠されたクアールの瞳に、強い意志の灯が点る。 「ええ。……逆転劇を始めましょう」 誰一人として欠けることなく、生きて帰るためにも。 5. 五両目、寝台車。廊下の前と後ろに立つ二人の仲間を横目に、世界樹旅団の男はそれぞれの個室を調べて回っていた。――先程、後部車両から聴こえた不自然な物音が気に掛かり、もしや誰かが抜け出したのではあるまいかと確認をとる。六両目の事は六両目の仲間に任せておけばよいだろう、と放任とさえ取れる気楽な面持ちで、ひとつひとつ扉を開けて検分する。 だが、いくら調べたところで異変など在るはずもなく。三つ目の扉を開けた部屋にも、やはり世界図書館の人間が倒れて眠っているだけだった。 先程の物音は気の所為だったのかと首を傾げ、訝しげに顔を歪める、男の視界の右端。 燈された灯の光が臙脂色の床へと落ちて、壁との間に淡い影を生んでいる。見飽きたはずのその色彩に惹き込まれるようにして、男は視線をゆっくりと下げた。 淡く穏やかな闇の中で、蠢く黒。 「――!?」 男の背筋を、冷たく鋭いものが走る。 足元に広がる影が、形を変えたのだと気がついて。 たとえディラックの空に於いても、灯の位置が変わらぬ限り影が動く事など有り得ない。――だが、今確かに、男の目の前で影は緩やかに膨らんでみせたのだ。 ふと眼を凝らせば、床の色を残した穏やかな色の影の中に、艶やかな漆黒が見え隠れする。自然物とは思えない流麗な線を描き、まるで何かの意匠の様に編み込まれた黒。それはまるで―― 「……竜?」 翼持つ巨竜のようだと、男は思う。 じわりじわりと、確かな意志を以って広がる影。闇よりもなお深い色の竜が、その領域を広げて行くのに気圧され、男は後退る。 竜が嗤う。鋭利な牙を剥き出し、その獰猛な性のままに。 男の踵が知らず影を踏んだ、その一瞬で世界が闇に沈む。 悲痛の叫びは、黒竜のあぎとに喰らわれて消えた。 五両目の後ろに小さな、個室にすらならない規模の部屋がある事に気がついて、声を上げたのはアラクネだった。 掃除用具だとか、替えのシーツだとか、寝台車両で要りようになる細々とした備品がある程度整頓されて仕舞われている部屋を覗き込み、アラクネは飄々と首を傾げる。 「用具入れかなんかかねえ」 「でしょうね。……ですが、これは都合がいい」 狭いとは言え人が立って歩けるほどのスペースはあるその部屋へ、仲間の協力を仰ぎつつ、昏倒させた見張りを次々と放り込む。五両目の最後尾を見張っていた男も既にアラクネの煙で眠らせ、先頭の旅団員に気付かれぬよう倒していた後だ。 隠れる場所のない真っ直ぐな廊下に立ち、辺りを窺っている世界樹旅団は、残り一人。オレンジ色のゴーグルをかけ、スキンスーツを着たツーリストだ。その銀色の貌には耳も鼻も口もなく、これではアラクネの煙も通用しないであろうと容易に見て取れる。 アラクネを用具入れの傍に残し、プリズムコートを維持したまま、物音を立てぬようクアールは見張りへと近付く。毒が通用しないのであれば、拳銃の狙いが付く程度に近付き、実力行使に出るだけだ。 旅団員の頭が、軋む音を立てながら向きを変える。何かを探すかのように滑った顔の中、ゴーグルの奥に隠れた瞳が、確かにクアールを捉えた。 「――おい、そこの……!?」 (見つかったか) 世界図書館のロストナンバーに様々なツーリストがいるように、世界樹旅団にも様々な出自の者がいる。中には視覚の妨害が通用せぬ者が居てもおかしくはないのだ。迂闊だった、と内心で舌を打ち、すぐさま左手に握る拳銃を構えた。此方へと駆けてくる銀色の旅団員の、腿を狙う。 瞳を細め、照準を合わせるクアールの眼前を、駆け抜ける一筋の影。 振り解かれるプリズムコート。しなやかに地を踏む肉球は、物音ひとつ立てない。鈍く光る黒金の鬣を靡かせて、一陣の風と化した獅子が猛々しい咆哮と共に旅団員へと飛びかかる。叫びを上げる隙すらなく、銀の肌の男は凶暴な獣の牙に抉られ、意識を喪った。 「アレクサンダーさん!」 「案ずるな、殺してはおらぬ」 咄嗟に声をかけるクアールへ、一瞥を返すだけで獅子の王は応えた。 「殺しても問題はないと思うが……まあ、厄介事は避けるべきじゃろう」 きちんと判っておる、と威厳溢れる仕種で頷いて、昏倒した旅団員の首元を荒々しく咥え持ち上げる。アラクネの待つ用具入れへ引き摺って行き、乱暴に投げ込むと、ふと何かに気がついたかのように目を瞬かせた。 「……ん?」 「どうしました」 鋭い牙の並ぶ口を開けて、脳裏を掠めた疑問に首を傾げる。 百獣の王らしからぬあどけない仕種にクアールが問いかければ、アレクサンダーは曖昧な応えを返し、今度は逆向きに首を傾げてみせた。 「いや……見張りの数が足りないように思えてのう」 「……そう言われてみれば」 乱雑に放り投げた男達を、眼鏡越しに見下ろす。 ブランから得た情報によれば、この五両目に居るはずの見張りの数も六両目と同じ三人だったはずだ。それなのに、倒れている旅団員の数は五人。一人足らぬ計算になる。 「アラクネさん、何か見えますか?」 「んー? いんやぁ、俺の『蜘蛛』も見てないよ」 話を振られ、アラクネもまた煙を吐き出しながら首を傾げた。 蜘蛛の妖たる彼が獅子座車両の至る所に放った、六匹の小蜘蛛。アラクネの視界を補助する役割を持つ彼らの目にも、残りの一人は映っていないのだと言う。 「居ないんなら、いいんじゃねえのか? 単にブランが数え間違えただけだろ」 いつの間にそこに立っていたのか、プリズムコートを解いた清闇が緊迫感に欠ける声を上げた。妙に説得力のあるその言葉に、アラクネやアレクサンダーもまた頷く。 「まあ……ブランだしねえ」 「所詮は兎じゃのう」 当人の預かり知らぬ所で濡れ衣を着せられた兎が今何をしているのか、知る者は誰もいない。 4. 乱暴に開いたドアの向こうは、原色に覆い尽くされていた。 「うおっ!?」 寝台車を抜け、四両目の客車へと威勢良く跳び込んだアレクサンダーが、予想もしていない光景に思わず足を止める。四足でたたらを踏み、竦みを振り払うように首を大きく振った。 「何なのじゃ、これは……」 だが、目の前の光景は夢でもなければ幻でもない。 再び顔を上げた獅子の前に広がるのは、やはり原色の群れだった。赤、青、水色、黄、紫、目にも毒々しい様々な色彩の塊――無数の脚を持った無数の蟲が、壁も背凭れも窓も関係ないとばかりにうぞうぞと蠢いている。 「これらすべてが、【ローズマリー&タイム】の子供たち……というわけですか」 「ぞっとしねえ光景だな」 次いでドアを潜ったクアールと清闇の二人が、何処か他人事のように冷静に観察する。 「そのような事を言っておる場合か!」 振り返って吼え立てれば、能面の如き無表情を崩さぬ青年と、磊落に笑う黒竜の二人は揃って肩を竦めてみせた。 「では」 「だな、行くか」 視線を交わし、瞳だけで不敵に笑う。 鎮吼王と彩日、美しい二本の刃が噛み合って、高い音を奏でた。 それを合図に、弾丸のような峻烈さで獅子が飛び込んで行く。鋭い爪はワームの腹を抉り、凶暴な牙はその頭部を穿つ。一片の慈悲すら与えぬ苛烈な動きは、狩りの場面にも似ていた。 眼前の敵に集中するアレクサンダーの背を狙い、真紅のワームが無数の脚を閃かせて跳びかかる。その身を、振り抜かれた一閃が両断した。 紅の隻眼が、好戦的な色を得て煌めく。 「鎮吼王」 手によく馴染む、愛剣の名を口にする。客車の灯を受けて、片刃が鮮やかに閃いて応えた。 「頼んだぜ、相棒」 翻した刃を手に、清闇はその身体一つを以って蠕虫の群れへと飛び込む。『竜』の本性は未だ護るべき同胞たちと共に在り、強すぎる魔法は列車を壊しかねない。だからこそ彼に揮えるのはその刃ひとつで、しかしそれで充分だと竜の武人は笑う。 振るった刃が紙を切り開くかのように容易くワームを屠り、突き上げる切先が天井から降り注ぐ一匹を貫いた。豪放な太刀筋、鮮やかな剣閃。翻すその一瞬で、数多のワームが露と消える。 人と共に生き、人と共に闘う。それこそが、清闇の本分だ。 破壊を司る存在でありながら、『衛る』ために生きる、最後の黒竜としての。 足元から、天井から、或いは背凭れを超えて。 蟲とは思えぬ敏捷さであちらこちらから跳びかかるワームを避けながら、クアールは剣を揮い、拳銃を撃つ。足元では腕力に優れた犬妖精のウルズが小さな剣を振り回して小型のワームと戦っているし、肩の上では二丁拳銃を構えた猫妖精のラグズが持ち前の器用さで以って主の立ち回りを補佐している。 盛大に響く銃声はリュエールが施した神力により、前方車両へは届いていないのだと言う。 遠慮する理由などない。今はただ、客車の脅威を殲滅する事にのみ力を注げばいいのだ。 「……くっ、」 唐突な動揺にたたらを踏む。足元のワームへ視線を逸らした隙を狙い、水色のワームが青年の横顔へと飛びかかった。 間一髪でそれを躱し、返す刃で異形の胴体を真っ二つにするものの、衝撃でクアールの眼鏡が放り出される。少年と呼んでも構わないような、あどけなさを残した顔が曝け出され、クアールは小さく唇を噛んだ。 無表情の仮面が、微かに崩された。 車両後方へと続くドアへ、ワームの一体が近付いている事に気がつき、激情のままにそちらを睨みつける。 「ダンドリーウォール!」 クアールの唱えた魔法が、蟲の行く手を阻んだ。 「そちらにはまだ眠っているロストナンバーが居る。行かせはしない!」 茶色の双眸に、強い光が閃く。客車の座席に片手をかけ、飛び越え様に銀の拳銃【月花】を撃ち込む。粘着質なワームの身体が銃撃を受けて弾け飛び、それもすぐに塵と消えた。 落ちた眼鏡を拾い上げ、かけ直す。激情に震えていた表情は静まり、ただ双眸に強い光を残すのみだ。 立ち止まっている暇などない。 前に進まなければ、この列車を救う事などできないのだから。 3. 舞い遊ぶように、闇色の翼を滑らせる。 四両目から三両目の屋根へと飛び移り、リュエールは客車の外にまでも溢れるワームへと目を向けた。 「おまえたち、私と少し遊ぼうか」 端正な貌が、怜悧に歪む。柔らかく咲き誇る華のようであり、しかし同時に畏怖すら感じさせる美しさを孕んだ笑みを以って、リュエールは翼をひとつはためかせた。 屋根の上を這う異形の蟲達が、不穏な気配にざわめく。おぞましいまでに鮮やかな色をした数多の瞳が彼女を捉え、醜悪なまでに眩い色彩の群れが彼女を目指して身体の向きを変えた。 漆黒の女を覆い尽くすべく、原色の蠢虫が集う。 飛びかかる青を軽やかなステップで避けて、しなやかな仕種で指先を滑らせる。放たれた神力が、近付く蟲を凍て付く氷の中に閉じ込めた 「愚か者」 穏やかな女の唇から、嘲笑う声が落ちる。トラベルギアを滑らせれば、空を踊った金の文字が、原色のワームに触れる。 「私には指一本たりとも触れられんぞ」 鮮やかな光が散って、直後、爆音が轟いた。 五両目先頭の屋根に腰かけて、アラクネは相変わらず緊張感に欠けた様子で煙管を吹かしていた。紫の左目は金文字と原色、鮮やかな爆発の中で踊る女――リュエールを捉え、爆風に長い髪を靡かせる。 「こりゃまた、楽しそうな事で」 穏やかで冷徹、繊細ささえ感じさせる風貌の女が、あのような愉悦に充ちた笑みを浮かべる事自体、アラクネにとっては意外だった。荒事には不向きに見える形をしていながら、こんなにも鮮やかに武闘を繰り広げる。まるで別人みたいだねえ、と笑って、アラクネはまたひとつ煙を吐き出した。蛇のように滑る紫煙が、リュエールの背後へ忍び寄る真紅の蠕虫を覆い、その毒性を以って瞬く間に昏倒させる。 舞踏の最中、アラクネへと向けられた金の瞳は、やはり狂おしいまでの悦楽に染められていた。だと言うのに、唇に浮かぶのは穏やかな笑みのままで。 「礼は言わんぞ」 「何の事?」 素直ではない言葉に、空とぼけながらもアラクネは笑う。 左目でリュエールの姿を追いながら、長い髪の奥に隠した右目が、奇妙な景色を捉えた。 「……んー?」 車両のあちらこちらに放った六匹の蜘蛛――アラクネの『目』が、何かを発見した徴(しるし)だ。人の姿をした彼の右目を通し、映像を伝えてきたのは、六両目を這っていた蜘蛛の一体。屋根の後方に、白い人影が佇む姿が映り込む。 「ブラン?」 アラクネの呟きは、右目の先に居る相手には届かない。 だが、近付いてきた小さな蜘蛛に、相手もまた気がついたようだった。振り返り、その長い耳を大きく跳ね上げる。 「――うわぁっ!?」 鳥肌の様に毛を逆立てたまま、元より丸い目を更に丸くして兎男が跳び上がる。拍子に屋根の縁から手を離し、ディラックの空へと落ちそうになる彼へ、咄嗟にアラクネは――彼の『目』は糸を紡ぎ出す。 兎男の重みに一度撓みながら、しかし糸は危うさも見せずに落ちる男を支えた。 蓑虫の如く糸に巻きつかれ、気を喪った男は寝台車の後方で情けなくぶら下がる。 「……まあ、ほっといても死にゃしないか」 苦笑と共に蜘蛛からの映像を断って、のんびりと煙管を吹かしたアラクネは眼前の舞踏を飄々と眺めた。 2. 獅子座車両の二両目、食堂車の周辺は異様とも言える緊迫感に包まれていた。ひとつドアを隔てた向こうに、今回の襲撃の頭目とも言える人物がいる。 キャンディポット。強力なワームを操る力を持った、無彩色の少女。 如何にして突破するか、ドアを前にしてロストナンバー達は逡巡する。 「わしから行こう」 「……いえ、待ってください」 威風堂々と言った素振りでドアを開こうとした獣王を、クアールの冷静な声が引きとめた。 「私に案があります」 眼鏡の奥で茶色の双眸が強く閃き、その容貌が変じ始めた。 少年と見紛うほどのあどけない顔立ちが、漆黒の毛に覆われて行く。並びの良い歯は鋭く皮膚を抉る牙に変わり、小さな耳は高い位置で三角の形をとる。 鋭利でしなやかな猫の爪と尾を携えた、獰猛なる漆黒の狼。――『災禍の王』、かつてその名で恐れられ、世界の全てを敵に回した魔獣の姿だ。 「こりゃまた、心強い」 三両目の先頭屋根に腰かけたままのアラクネが、頭上から間延びした声をかけた。人の言葉を喪った魔獣は一度彼を振り仰ぎ、想いも寄らぬほどに柔らかな目で頷く。 ローブを身に纏った赤毛の子犬――ウルズが、何やら小さなものを手にして扉の前に立った。するり、と屋根から飛び降りたアラクネが彼らの背後に立ち、一人別行動をとるリュエールが食堂車の屋根の上へと飛び渡る。 突入の合図を出すかのように、狼の魔獣が首を振った。 僅かに開けられたドアの隙間へ、子犬の妖精が駆け込む。数秒の後、鋭い閃光がドアの向こう側で炸裂した。 「閃光弾か、考えたな」 唸るような清闇の声に、災禍の王は再び頷く事で応える。そして、光が弱まる瞬間を狙い、ドアを大きく開いて飛び込んだ。 魔獣の咆哮が、光已まぬ食堂車内に響き渡る。 しなやかに飛び込んだ漆黒の狼が、入り口近くに立っていた旅団員の鳩尾を殴って昏倒させる。 そのすぐ傍を稲妻の如くに走り抜ける一閃。別の男の武器を弾き飛ばす。痺れる腕を抑えて蹲るその首筋へ、追撃とばかりに清闇は愛剣の柄を打ち込んだ。鈍い音が響き、男が倒れ込む。 「まずは二人」 口端を吊り上げて笑い、清闇は身を翻して剣を揮う。ワームが一体迫っている事を悟り、振り向き様に刃を叩き落とした。断末魔の悲鳴すら上げることなく、ディラックの落とし子は塵となって消える。 その脇をすり抜けて走る、旅団の竜人。緑の鱗に覆われた顔を焦燥に歪ませ、閃光の中で人質を捕えようと駆けた。 「卑怯な手だな」 竜人と乗員との間、大気が撓む。 空間の歪みから滑り出でるようにして姿を見せた女、リュエールが、歪んだ美しい笑みを浮かべた。驚きに脚を止める旅団員の、一瞬の隙を逃すほど彼女も阿呆ではない。 指先を男へと向け、神力を開放する。 再び空間が撓み、竜人を包み込んで、消し去った。 「これで三人、か」 相手が上下も左右もないディラックの空の何処へ転移したかなど、彼女にとっては預かり知らぬ事だ。欠片の慈悲も与えずに、その眼を細めて笑う。 閃光に混じり忍び寄る紫煙が、離れた位置に居た旅団員を包み込む。 柔らかに首を絞める真綿にも似て、穏やかな毒は即座に男の身体へと沁み込み、暴れる暇さえ与えずにその意識を奪い取る。 「四人目、だね」 新しい煙を吐き出して、倒れた男から遠く離れた場所に立つアラクネが笑う。飄々と傍観者に戻った男は、壁に背を預けた。 まさに電撃の如く。 閃光に目を眩ませたその一瞬で、彼らは四人のツーリストの動きを奪った。 「な、何よ、あなたたち――!」 光と煙が収まって、初めて惨状に気がついたキャンディポットが声を荒げる。彼女を庇うように、金髪の青年が片腕を広げて立ち塞がる。 端正な容貌に醜悪な笑みが咲く。青年の指先が虚空を滑り――空間が、ざわめいた。 乗員、ひいては戦う五人を取り囲むように、無数の黒い手が床から現れる。人間の手にも似て鋭利な爪を宿した異形は、不気味なまでに統率された動きで立ち上がった。 その“手”の全てに、握られた冷たい金属。 「銃か!」 そう気がついて、ロストナンバーは駆け出した。 無力な乗員たちを守るために。 異形の指が、無情にも引き金を引く。 (――間に合わない!) 『災禍の王』の叫びは、人の言葉を為さずに潰えた。 広がる、漆黒。 轟く銃声の全てが、断ち消える。 硝煙の壁が収まり、其処に広がる光景に、誰もが目を瞠った。 獰猛であり凶悪な爪を備え、しかし慈悲深き色をも併せ持った巨大な黒竜の翼が、乗員たちを護るようにして広げられているのだ。 轟音と共に放たれた無数の弾丸は全て、その漆黒に沈み、受け止められたまま止まっている。――二重にかさなる、竜の影と翼によって。 「……気に食わねえな」 ぽつりと零れるのは、怒りに充ちながらも冷徹な言葉。 「武器も持たねえロストメモリーを盾にしようっていう、その魂胆がよ」 紅の隻眼が宿していた、闊達な光は疾うに失せた。さくら、と悪しき神が名を呼ぶ声にも、最後の黒竜は酷薄な笑みで答えるのみだ。 佇む男の全身から、神威とも見紛う覇気が滲み出、立ち上がろうとする世界樹旅団を威圧する。空気が震え、割れんばかりに軋む音が耳を劈く。 清闇の周囲に広がっていた、竜の形を成した影が、静かに清闇自身へと融けて消える。それに伴って、何もなかったはずの男の左脇腹に、青い竜の刺青が滲み出るようにして現れた。 「てめえらの都合だけ押し付けて、何もかも巧くいく……なアんて思っちゃいねえよな?」 言葉と共にその笑みが浮かべる色は、獰猛。破壊を司る黒竜が持つ、本性。 最早『手』は宛てにならぬ。 少女の傍に立つ、金髪の青年が己が右手に最後の銃を構える。ぎらりと煌めく碧眼が、嗤う清闇を睨め上げた。 「笑止!!」 王の喝破が轟き渡る。 一瞬にして圧し掛かる畏れに、全ての者が呼吸を止めた。 「愚か者ども、身の程を弁えよ!」 トラベルギア『レグルスの王冠』により威圧感を増した、百獣の王の咆哮は世界樹旅団の動きを釘付けにする。 獅子の眼には怒りの色が昇り、噛み締めた牙の間からは荒い息が零れる。床を蹴り、宙へと躍り出た黒金の獅子王は、落ちる勢いのままにその鋭利な爪を青年へと突き立てた。 倒れる青年と、圧し掛かる獣。 その手から拳銃が離れた事を確認して、駆け寄った清闇は愛剣の切先をキャンディポットへと向けた。少女がポシェットに手を入れ、取りだすよりも早く。 さあ、と少女が血相を変えた。元より白い頬が、更に血の気を失って青く染まる。 「嘘、なんで……」 ポシェットに突っ込んだはずの手は、不可視の壁に遮られているかのようにそこから先へ進まない。すぐ傍に在るはずの瓶を掴む事すら出来ず、キャンディポットは当惑と焦燥に唇を噛んだ。 「残念だが、その入り口を封じさせてもらった」 穏やかで冷徹な声が、少女に残酷な事実を告げる。慌てて顔を上げる少女へ、リュエールは柔らかく微笑んだ。 「おまえの武器はその飴玉だけなのかと思ってな。……読みが当たったようだ」 至極楽しそうに、肩を震わせる。 ああそれから、とリュエールの言葉に繋ぐようにして、清闇は口端を持ち上げて笑った。悪戯な少年に似て無邪気な、しかし飄々とした笑みのまま、指をさすのはキャンディポットの背後。 「預けてたもん、返してもらったぜ」 慌てて少女が振り返った先に、目的の物はない。 「!?」 いつの間に、と唇を噛む。 山のようなトラベルギアがまるで溶けたかのように消え去り、そこにはただ臙脂色の空間が広がるだけだった。呆気に取られ、膝から崩れ落ちる少女はただの幼い娘であり、最早対抗する術を何一つ残していない その様子に、青年は敗北を悟ったようだった。 「帰りましょう、キャンディポット」 「……いやよ」 恭しいいざないにも、少女は耳を貸さない。青年が首を振って、銀色の円盤を――その入り口を指差す。 「我々の目的は最早叶わない。大人しく退くべきだ」 穏やかな威圧に、さしものキャンディポットも答えざるを得なかった。獅子の爪に抉られた傷から血を流しながらも立ち上がる青年に応じて、銀色の円盤のハッチを開き、中へと飛び込んだ。 それと共に、床から現れた黒い――人間の手にも似た異形の物体が、倒れる二人の男を引っ掴み、黒へと引き摺り込む。アラクネの『蜘蛛』が、寝台車に置き去りにした見張りもまた黒に攫われる姿を視ていた。 1. 機関室のドアさえも突き破って、灰と桃色の根は一両目の全てを侵食していた。 「デカすぎる置き土産遺して行きやがって……」 嘆息を吐く清闇の言葉に、四人の仲間もまた同意の息を零した。 ロストレイルから離れ、飛び去って行く銀の円盤。彼らワームの親であるキャンディポットが立ち去った所で、植えつけられた脅威が自然消滅するはずもなく。堂々たる巨躯を保ったまま、不穏なまでの静けさでそれは聳え立っていた。 「だが、裏を返せばこれで終わりだ」 「おう、最後まで全力を尽くすだけじゃて」 リュエールが穏やかに言い、アレクサンダーが力強く頷きを加える。勿論清闇も心得ていた事だ。嘆息の名残を快活に笑い飛ばし、提げた剣をじゃらりと啼かせる。 初めに駆け出したのは、変化を解かぬままのクアール――災禍の王だった。 薄紅に染まる世界。噎せ返る血の匂い。風に乗って運ばれる花粉を目にし、唸りを上げながら考える。――おそらくは催眠効果か、ならば。 エアコート。 言葉を編めぬ王の姿であっても、魔法を唱えられない訳ではない。クアールの周囲に風の壁が具現化し、降り注ぐ花粉を跳ね退けた。 (二度も同じ手は通用しない) 獰猛なる狼の口許がごく僅かに持ち上がる。 風の纏いを仲間達にも掛け、大樹の足掻きを無効化しながら、クアールは左手に持つ銀の拳銃を静かに持ち上げた。絡み合う二本の大樹、その中央を目掛け、引き金を引く。 銃声と共に飛び込む弾丸は狙い違わずワームを貫き、その身を震わせた。轟く葉鳴りが悲鳴に変わり、大樹の幹に苦悶の貌が幾つも浮かんでは消える。 立て続けに、金色の神聖文字が空を滑っては二本の大樹へと襲いかかる。リュエールの放ったトラベルギアは文字が触れた傍から爆発を起こし、的確に大樹の幹を抉って行く。 クアールの打ち込んだ銃弾、そしてリュエールの爆発を受けて、中央から、大樹が乖離を見せ始める。 ぐらりと揺らいで、そのまま重力に惹かれて二つの幹は倒れ始めた。 「おっと」 熾烈な状況に似合わぬ、のんびりとした声が響く。爆発の煙が立ち上る中で幾筋もの白が煌めいて、ディラックの空をしなやかに横切る。 「逃げる気かい?」 びぃん、弦楽器を爪弾いたような伸びやかな音が陽気な声を彩った。 先程と変わらずズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、アラクネはからからと笑う。その足元に集う六匹の小蜘蛛が、それぞれ吐き出した糸をロストレイルの手摺に――そして、落ち行く大樹の幹に、張り巡らせていた。 二本の大樹それぞれの重みにも、蜘蛛の糸は張り詰めたままびくともしない。 「斬り倒すなら、根元から、だよ」 しなやかで細く、美しい機織りの指が示すのは、灰と桃色、二色の大樹。臙脂色の列車の屋根から飛び出し、今まさに折れようとしている樹々の根元を指す彼の背後から、黄金の獣と漆黒の竜が飛び出した。 「んなもん、言われねえでもわかってるよ」 獰猛な笑みを孕んだ清闇が、愛剣【鎮吼王】の刃に揺らめく純白の焔を這わせる。眩く燃え立つ色彩は高く高く昇り、いびつに煌めく夜空の中で、灰色に濁った大樹を捉えた。 「応、親玉には全力じゃ!」 その隣を駆けるのは、車両の冠する星と同じ名の獣。全ての生物の頂に立つ、誇り高き獣王アレクサンダーが咆哮と共に剥き出した牙、鋭く伸ばされた爪が、浅ましき桃色の大樹へと向けられる。 漆黒と黄金、二筋の閃きがディラックの空を裂く。 根元から断たれた二体のワームが、二色の塵となって夜空へ消えた。 0. And That's all...?
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