蟹座のエンブレムを掲げるロストレイル四号車は各種計器を搭載し、調査・索敵に有用される車両であったので、その異変に気付くもの素早かった。 空気を震わす警告音。機関士の一人が厳しい顔で、半円の透明ドームに覆われた計器を覗き込む。計器の左半分、ドーム表面と基盤の中間にあたる空間で、無数の赤光が激しく点滅を繰り返していた。その光に埋もれるように、青い光。ドーム状の計器の中心部にも同色の光が灯っている。ロストレイルの存在を示す光だ。そして赤い光が示しているものこそ――……「ファージ観測! 繰り返す、ファージ観測!」「精査モードに入ります。モニター起動、カメラ用意」「カメラ起動完了。……車体番号確認。No.8、蠍座号! 襲撃されているのは蠍座号です!」「ファージの数膨大、計測不能!」 鈍い起動音ともに、望遠カメラによる蠍座号の様子がモニターに映し出される。うじゃうじゃと車体を埋め尽くさんばかりに群がる、ファージ。一体、蠍座号に何があったのか。「蠍座号より通信あり! 『新兵器の実験中、誤ってワームの巣に攻撃を銜えたため襲われた。今は反省している。援護求む』以上。……車掌、ご指示を!」 通信を受け取った機関士が背後に立つ車掌を振り返る。ドーム状の計器とモニターに視線を一つ走らせてから、車掌は常と変らぬ抑揚をかいた声で告げる。「当機のスペックでは援護に十分な火力提供は不可能。早急にこの場を離脱せよ」 車掌の無慈悲な言葉に、機関部がざわりと揺れる。青くなるもの、蠍座号に乗車している同僚の安否に唇を噛むもの……だが逆らうことはしない。ロストレイルの運行において、車掌の決定は絶対だ。「これより安全確認がされるまで、通常運行ルートを離脱。ターミナルに遅延を連絡せよ」「車掌、ファージ群の一体が蠍座号近辺を離れ、当機へ接近中ですが、これについては?」「サイズは」「距離があるため正確な大きさは不明ですが、おそらく小型のワームかと」 アカシャが羽を震わせる時間だけ間があいた。「現状速度を維持せよ。該当ワームが当車両に追いつくまでの時間とナレッジキューブ残量、および該当ワーム本体について計測を続け、詳細が出次第私に報告を」「了解しました」 機関士の返事を聞くことなく、車掌は客席へ向かって歩き出していた。「――以上が当車両の現在の状況です」 平面の声が、状況説明のため集められたロストナンバーの間に染み渡っていく。一人が手を上げた。長手道もがも。「あの、蠍座号の人たちって、今は……?」「おそらく交戦中でしょう」「……助けられなかったの……?」「当四号車は調査と索敵に重きを置いて設計された車両であり、八号車が接近を許すほどの量のファージには到底対応しきれません。ご安心ください。八号車の反応は現在も観測されています。乗り合わせたロストナンバーもおそらく無事でしょう」「ほ、本当? オレ、ちょっと見てくる!」 ばたばたあわただしい足音を立てて、もがものコートの裾は後部車両へと続く扉の向こうへ消えた。残っているのはましても沈黙だ。別のロストナンバーが一つ、咳払いをする。「……逃げ切ることはできないのか?」「ワームの速度、搭載ナレッジキューブ量、車両の長さその他を総合的に考慮した場合、最適解とは言えません。繰り返しになりますが、蟹座号の特色は調査と索敵。戦闘力は低いものとお考えください。ワームを撃退するにはトラベルギアによる直接攻撃が最も効果的です。ワームが有効射程距離に入り次第、各自攻撃及びロストレイルの防衛をお願いします」「……敵がこちらに追いつくまではどれくらいの時間がかかるの?」「現在の速度を維持した場合、凡そ十五分。ロストレイルを停車させ迎撃体制をとる場合は三分少々ですが、原則停車は致しません」 皆様が戦闘中に足場を失った場合の回収が困難になるためですと車掌は続け、上を指さす。「ロストレイルの屋根に出るためのハッチを開放しております。該当ワームはロストレイルのほぼ上空より高度を下げつつこちらに向かっており、そろそろ肉眼で確認できるでしょう」「……敵は一体どういう姿なんだ?」「全体像は不明ですが、下腹部の形状だけで言うなら昆虫、特に百足に酷似しているものと推定されます」 ロストレイルの最後尾、デッキの手すりから身を乗り出し、もがもはじっと目を凝らす。豆電球みたいな光と広々した闇の中、ぽつんと、そこだけ生き物の生々しい塊がうごうごしていた。ロストレイルの姿は見えない。わからない。わからないから不安になる。「そうだ!」 わからないなら聞いてみればいい。鞄に手を突っ込むが、暗い。こんなに星があるのに理不尽極まりないと思う。ありがたいことにもがものトラベルギアである眼鏡は光を発する能力があったから(というかそれ以外はできない)蛍光灯程度に光をともして鞄をがさごそやるとすぐにトラベラーズノートを見つけられた。白いページを開いたところで、はたと気づく。誰があの列車に乗っているのかもわからないのに、連絡をつけることはできない。そもそもノート見てる余裕なんてないだろうし。「…………はあ」 ぱたん、力なくノートを閉じる。小さく咳き込んだ。セクタンのぷにこがドンマイと言いたげな顔つきでぺちぺち頭をたたく。 客室に続く扉に背を預けて、ディラックの空を見上げる。サーチライトとなった双眼の中にあっても世界群のきらめきが衰えることはなかったが、その光はちらちらと細い帯のような影にさえぎられては現れるのを繰り返していた。あれが、群れから湧いて出たワームなのだろうか。 まっとうなロストナンバーなら、戦いに備えるため動くべきなのだろう。だがもがもともがものトラベルギアは戦いにおいては役立たずだ。それでも何か、例えば戦いで割れた窓ガラスを片付けるとか、吹っ飛んだ机を邪魔にならないよう端っこに寄せるとか、人目に付かない場所に隠れているとか、そういうことなら手伝えるかもしれない。そろそろ戻った方が良いだろうと背中を浮かしかけて、喉に張り付く違和感に思いっきり咳が出た。なんだかさっきよりますますほこりっぽくなってきた気がする。ちゃんと掃除してるのかな、と考えたところで、視界をひらりと何かが横切った。「……え? 何? 蝶?」 白く丸っこい羽の蝶がひらひら、もがもの周りを飛んでいた。羽の下の方がふさふさしている。あまりそういう印象はないがひょっとして蛾だろうか。よく見るとそれ自体が微かに光を発しているらしく、ライトの範囲を逃れてもそこだけ白っぽく浮かび上がっていた。妙にゆっくりとした羽ばたき方だが墜落するような様子はなく、代わりにほたほたと重たげな粉が舞うたびに散っていて、さっきから妙にけむかったのはこいつのせいだったのかと一人ごちる。「……なんで蛾? 誰か何かやってるの!?」 客席の方に向かって叫ぶがもちろん応えはない。ぽかんとしているうちに一匹、また一匹と蛾はその数をふやしていた。粉が舞う。また咳き込む。咳をしすぎたせいだろう、頭がくらくらして、足もとまでしびれたようにおぼつかない。「何かするならするって言ってよね、もう……」 痛み出した喉に涙目になりながら扉に手をかける。入るときには簡単に開け放てたのになんだか妙に重たくて、代わりに膝ががくんと崩れた。驚く間もなく、そのまま扉に寄り掛かるようにして沈んでいく。投げ出されたセクタンがべちゃりとつぶれる音。「……あ、れ」 舌が、もつれる。身体が、ひどくだるかった。微かに指先は動いたけれど、全身に力が入らない。焦ってもがくほど体はずるずると支えを失って、遂にデッキの底にへたりこんでしまう。「……え、なん……なん、で?」 混乱するもがもの髪や肩に、ほたほた、白い鱗粉が降り積もっていく。 ディラックの空の上から飛んできた蛾たちは次第にその数を増し、迫る影もまたその大きさを膨らませていた。 *** ディラックの風が強く耳を打つ、ここはロストレイルのはるか上空。 ロストレイルの計器では捉えきれない、ワームの背の上。 飛ばされぬよう帽子を押さえつけ、男は後ろへと吹きすさぶ風景を眺めていた。「随分離れてしまったでありますな」 もしかしてあの時だろうか。別の列車がファージの群れに襲われているところにたまたま遭遇し、男はワームに命じてさっさと迂回したが、ナレンシフの大きさではワームの追跡から逃れるのも一苦労なのかもしれない。「まあいつかは追いつくでありましょう。いや、追いついてくれなくては小生も困るでありますし」 言い捨てて、男は傍らに丸まった「それ」を撫でる。主のいとおしげな手つきにそれはうじゃうじゃと足を蠢かせて喜び、男の口元も綻んだ。それ越しに下を覗き込むと、ディラックの空を四角く、長く切り取っている黒い車体の影が見える。 その最後尾のあたりに、白い光が群れていることに男は内心首をかしげた。男の読みでは列車の左右の窓あたりに張り付いてもらう計算だったのだが……まあ大した誤差ではない。要はあの忌々しい列車の位置を特定できればよいのだ。それが先頭車両だろうが最後尾だろうが、些細な問題に過ぎない。 男は傍らのそれ――赤子なら一呑みにできそうな大きさの巨大な蜘蛛に、猫なで声で語りかける。「もう少し近づいたら、お前の出番でありますからな。……ああ、そういきり立つなであります。お前はあとからゆっくり、小生たちの後を追ってくるのでありますよ。何をすれば良いかはわかっているでありますね? 大丈夫、お前は頑丈な子だから。そう、良い子、良い子。小生、小生の命令をよく聞く子は好きでありますよ」 後半は、己を乗せてディラックの空を進むワームに向かって言ったものだ。男と蜘蛛の乗るそれが、うれしそうにも見える動きで巨躯をうねらせた。 大百足だった。ロストレイルを二巻きしてもまだあまりそうな長さの、尋常ではありえない長さの巨大昆虫だ。どんな原理なのか、獣の爪のような歩肢は存在しない地面を掴んで滑るようにディラックの空を下降していく。「……そろそろでありますかな」 つぶやき、男は傍らの武器を取る。 緑青色をしたそれは鎌だった。身長ほどもあるそれを横一文字に振りぬく。空気が裂け、閉じる感覚が鎌ごしに男の手指に伝わった。 うなずいて、男は蜘蛛を呼ぶ。先よりだいぶ大きくなったロストレイルの影、相変わらず最後尾に群れている白い光めがけて、蜘蛛が糸を噴射した。糸は猛烈な勢いで空を貫き、蛾の群れの真中に着弾。ぱっと白い光が糸を避けて散る。「できれば中のやつらは生け捕りにしたいでありますが、さて」 ――何匹殺さずにいられるでありましょう。 眼帯に覆われた男の横顔に、昏い半月の笑みが浮かぶ。二重回しが風に揺れ、その下の学生服をあらわにした。 男の名は百足兵衛。 かつてインヤンガイで非道な実験を行い逃走した、世界樹旅団の一員である。========!注意!イベントシナリオ群『ロストレイル襲撃』は、内容の性質上、ひとりのキャラクターは1つのシナリオのみのご参加および抽選エントリーをお願いします。誤ってご参加された場合、参加が取り消されることがあります。また、このシナリオの参加キャラクターは、車両が制圧されるなどの状況により、本人のプレイングなどに落ち度がなくても、重傷・拘束等なんらかのステイタス異常に陥る可能性があります。ステイタス異常となったキャラクターは新たなシナリオ参加や掲示板での発言ができなくなりますので、あらかじめご了承下さい。========
■十五分前 「何だ、あれは」 それを真っ先に見つけたのは、ハッチから顔だけを出したヌマブチだった。白い蝶、否、蛾だ。それらが何匹も何十匹も、うじゃうじゃと最後尾の辺りに群れては白く光って靄を生んでいる。 「どうした?」 下から聞こえてきた飛天 鴉刃の声は常よりいささか固い。車内に顔を戻す。壁際に座り込んで武器を磨いていたはずのギルバルド・ガイアグランデ・アーデルハイドもこちらを見上げていた。 「巨大虫か?」 「違う。だが何か起きているのは確かなのであるが、それが何であるかというと」 言いかけて、ふと気づく。 「ツィーダ殿はどこに?」 「ああ、さっき車掌が話してた時、途中でいなくなった奴の様子を見に行ったであるぞ。最後尾に」 ヌマブチが青くなるより早く、銃声が響いた。 さっきまでこんもりと白いドーム状に蛾が群れていた空間は、何かが通り抜けたように丸く開けている。ヌマブチは素早い身のこなしでハッチを乗り越えると、後部車両目指して走り出した。 おそらく。この車両は、奇襲を受けている。索敵に重きを置いて設計された車両にしてはここまでの接近を許すというのも妙な話だが、敵がわざわざ居所を知らせるように発砲するはずもなく、そうすると残る可能性は襲われたロストナンバーによる反撃だろう。それが中座した彼かツィーダなのかまではわからないが、どちらであっても援護する必要があることには変わりがない。 最後尾に近づくにつれ、蛾のまき散らしているらしい白い粉がその密度を増していく。一層深々と帽子をかぶり直し、鼻と口を腕に押し当てる。二発目。三発目。再び蛾が散る。その勢いでまた粉が舞い、喉に微かな違和感が芽生えるが今は無視。トラベルギアである銃剣を振り回して蛾を打ち払い、デッキを覗き込んだ。 「ツィーダ殿、無事でありますか!?」 「その声、ええっとヌマブチ君だっけ? ボクは全然平気だけど、君やこの人は危なそうだから早めに下がった方が良いかもしれないね!」 予想通りそこにいたのはツィーダと、あの時中座したロストナンバーの青年の、ぐったりと抱えられている姿だった。 「この粉、どうも毒性があるみたいなんだ。なるべく吸わない方が良い。急いで中へ!」 降りてきたヌマブチを背中にかばい、ツィーダはいらいらと蛾の群れに向けて発砲を繰り返す。蛾はひらひらと風圧に舞うばかりで、一向に撃ち落とされる気配はない。 開け放った扉から、三人はもつれあうようにして車内へ転がった。ツィーダの畳み掛けるような威嚇射撃のおかげだろう、蛾は室内までは入ってこようとはしなかったが、扉を閉めた途端、ヌマブチは両手をついて咳き込む。指先がぴりぴりした。出来うる限り防護していたつもりだが、やはり少し吸い込んでいたらしい。騒ぎを聞きつけてやってきた鴉刃とギルバルドにツィーダが事情を説明し、そういうことならわしの出番であるなとと胸を叩くギルバルドに解毒魔法をかけてもらって、やっと呼吸が落ち着く。 ふむ、鴉刃が顎に手を当てた。 「これから大百足がやってくるというのに、面倒なことになったな」 「その通り、まずは後方の憂いを絶ちたい所でありますが……ギルバルド殿、貴殿、こう、手から炎など出せたりは?」 「無理であるな」 青年に手をかざしながら、ギルバルドは申し訳なさそうなそぶりで首を振る。 「わしの魔法は傷を癒したり毒を消したり、そういうことが専門であるのだ」 「そうでありましたか……しかし、このままではおちおち屋根にも上れないでありますし」 「なぁに心配はいらん! 虫の毒なんぞいくらでも治してやるし、炎はなくともわしには鋼鉄神が味方しておる。奴ども皆ぺしゃんこにしてやるわ!」 任せろとギルバルドは頷き、それならとツィーダが続ける。その手には数分前までなかったはずの布の塊があった。 「これ、今ボクが作ったレインコートと、あと布なんだけど。完璧に防ぐのは無理かもしれないけど、これ着て布を口に巻いておけば、かなり違うと思うんだ」 「これはありがたい」 遠距離から射撃を行うつもりでいたヌマブチだが、ふわふわと軽い粉は人の挙動に合わせてかなりの距離を移動する。ずっと片腕で口を押えているよりこっちの方がよほど便利だ。 「ツィーダ、これ以外にも、ボディスーツやガスマスクは作れないだろうか?」 「できるよ」 ツィーダは軽い調子で頷き、ただ、と鴉刃の顔をじっと見つめる。 「普通の人用とは形が違っちゃうからちょっと時間、かかるけど?」 「構わない。それと、投擲用の小型ナイフのようなものも頼めないだろうか?」 「OK。……さ、ギルバルドもこれ着てよ」 「いや、わしはそんなもんいらん。自前のバリアがあるからな!」 ギルバルドがちょっと指先を揺らす。と、地面からにゅっと生えるように彼を囲んだのは確かに半透明のバリアだった。軽く叩いてみたが返ってくるのは固い音で、確かにこれなら鱗粉も防げそうではあるが。 「……しかし、それだとこちらの攻撃も向こうに届かないのでは?」 「……む」 ギルバルドはちょっと考えて、それからいそいそとツィーダのレインコートと口布を巻き、ヌマブチと連れだって最後から二番目の車両の屋根に立った。 最後尾に群れていたはずの蛾は先ほどの戦いのせいか、それともそれ以外に何か群れる理由を失ったためか、散り散りになって、今は一番目の車両全体を覆うように音もなく羽ばたいている。 「喰らいやがれ、ゴッドフィストぉ!」 ギルバルドが裂帛の気合と共に片手をつきだす。と、輝く巨大な手が生まれ、蛾の群れに向かう。勢いのまま突き飛んでいく拳は蛾の群れの中でふっと掻き消え、掻き消えた場所から押しつぶされた蛾が二匹、ひらひらと車両の隙間に落ちて行った。 「お見事」 言いつつ、ヌマブチも銃剣を構え、群れのど真ん中めがけて引き金を引く。 命中させることは目的ではない。無論、撃ち落せればそれも良いが、先の様子を見る限りどうもあの蛾はひらひらと捉えどころのない動きをする上、数も多い。ならば有効打は面の攻撃であり、狙うは蛾の振りまく粉を利用した粉塵爆発、起爆剤は打ち出された弾。 「少し揺れるぞ、許せ車掌」 一発目は、コースが悪かったのか何が起こることもなく、そのまままっすぐディラックの空に吸い込まれる。二発目はうまく粉の集まった場所を通ったらしい、小さな爆発が起こり、一気に四匹ほどの蛾が焦げては落ちる。 ギルバルドもフン、フンと声を上げつつ掌を放ち、一匹、スカ、三匹と、少しずつではあるが確実に蛾を減らしていた。 このまま順調にいけば、なんとか大百足到着までに駆逐できるかもしれない……そう思った矢先だった。 鱗粉の霧の向こうに、太く白いロープのようなものが伸びていた。位置と角度から考えるに、最後尾のデッキの壁、辺りに繋がっているのだろうか。視線を上げる。それはロストレイルの上空に先ほどよりも大きさを増して存在するファージの、そのさらに上から伸びていた。 「何だ……?」 ギルバルドが蛾に向けていた掌を、白いロープの発射点へとかざす。ヌマブチも引き金に指を掻けたまま銃口を向け、――何かが、落ちた。 ファージの背中から、人らしい、だがどこか歪な影が飛び降りた。人影はどうやら白いロープの端を握っているらしい。ロープがたわみ、人影は一瞬二人の視界から消えて、すぐに振り子の要領でロストレイルの屋根の上に振り回される。ロープが離され、人影は低い姿勢で屋根の上に着地。白く光る蛾の真っただ中に、黒いコートが風をはらんで翼のように広がった。 影を異形のものに見せているのは、その頭に乗った生き物のせいだと、この距離からならわかる。大蜘蛛。赤子なら一呑みにしてしまえそうな大きさの巨大な蜘蛛が、人影の頭上でくるくると回り踊りながら細い糸を振りまいていた。 貴様は、とヌマブチは唇だけで呟いた。 黒い二重回し、黒い学帽。その下で笑う半月の口。そして虫。その人影を形容する全てが、報告書に書かれていた、ある一人の男を示していた。 「わざわざお出迎えしていただけるとは、小生も有名人になったものであります」 「百足兵衛ぇ!」 言いざま、引き金を引いた。 ■十分前 狙いは完璧だった。この距離、この無風。外す理由はない。 「御挨拶でありますな」 だが弾は百足兵衛を傷つけることなく。その背後へと駆け抜けていた。不幸な蛾の羽が散る音。 「おらぁっ!」 その間にギルバルドが距離を詰め、トラベルギアのハルバードを振り下ろす。重戦士の体重の乗った一撃は、本来なら肉を立ち骨を砕く代物だが、当たると思った瞬間、百足兵衛の背中がふっと反らされる。ハルバードは何もない空間を割ってロストレイルの屋根に叩きつけられた。蜘蛛が金属をこすり合わせたような声で鳴く。 ギルバルドが野性的な勘で横に転がった瞬間、百足兵衛が片手に携えていた青緑色の鎌がひどく無造作に振り下ろされた。 転がりながら距離を取るギルバルドへ、頭上の蜘蛛が糸を吐きかけるのを、ハルバードを振り回して防護。ギルバルドはヌマブチの元まで後退。にらみ合いは一瞬。 一車両目のハッチを蹴破って、漆黒のボディスーツを身にまとった鴉刃が飛び出す。 薄い両刃のナイフが投擲、百足兵衛の背中に巣食う大蜘蛛の脚を狙うが、ぷっと吐き出された糸に絡め取られてナイフは失速、ロストレイルの屋根に張り付く。 百足兵衛が鎌を振り回すが、鴉刃は冷静だった。決して刃の内側に入ることなく、屋根をけりつけた勢いで百足兵衛の頭上を越し、横臥したままのギルバルドと百足兵衛の間を遮るように立ち塞がる。 追撃の刃を振り下ろすべく走り出そうとした百足兵衛の動きは、背後から放たれ、脇腹を貫く凶弾により阻止された。 ツィーダ。 データ体であるがゆえに蛾毒のきかない彼と、ボディスーツとガスマスクで物理的に毒を遮断することが可能になった鴉刃は、ロストレイルの車両の中を通って百足兵衛の背後を強襲したのだ。 百足兵衛の顔に悔しげな表情が浮かぶ。鎌の先を屋根に突き立て、百足兵衛の手は黒く色を変え始めた腹を掴んでいた。 鴉刃が低く、呟く。 「……話には聞いていたが、まさかこんなところで会うとはな。……本当に、私はインヤンガイ絡みの下種とよく出会う」 類は友を呼ぶとでも言いたいかと、後半は心の中でだけ続け、鴉刃は口の端に小さく自嘲の笑みを刻み、すぐに引き締める。手には二投目の投擲用ナイフが構えられ、少しでも不審な動きをすれば喉で笛が吹けるようにしてやると言いたげな、殺気立った雰囲気を纏いだす。 「キサの弔い合戦という訳でもないが、降りかかる火の粉、いや、鱗粉は払わせてもらう」 キサ、と百足兵衛が小さく呟く。インヤンガイで行われたという非道な実験の顛末は、鴉刃もヌマブチも目を通していた。犠牲となった女探偵のことも、故に知っている。 だが。 「……はて、どちら様でありますかな?」 「……外道が」 百足兵衛は心底困惑した、と見て取れる顔で首をかしげて見せた。鴉刃が吐き捨てる。 挑発のためか、本心か。のっぺりとした面のせいで非常に分かりづらいが、ヌマブチはきつくギアを握りしめた。 そこに触れる手がある。ごつごつした武人の、ギルバルドの手だ。「ゴッドブレス」囁くように言われた途端、ギアに小さな灯がともるような感覚が芽生える。 「……これは?」 「神の加護による、攻撃力強化の魔法だ。思いっきりぶち込んでやるがいいわ。鴉刃も、ほれ」 ギルバルドがのっそり立ち上がり、鴉刃の背後から魔法を重ねていく。百足兵衛はそれを止めようとする素振りこそないが、その眼は油断なくこちらと頭上、背後に走らされている。――自分たちと同様、向こうも行動を決めかねているのだろうか? この状況は少しまずいかもしれないと、ヌマブチは鉄面皮の下で歯噛みする。 百足兵衛の眼前にはヌマブチ、ギルバルド、鴉刃。背後にはツィーダがおり、うかつな行動をとれば四方から袋叩き似合うため、行動は慎重を極めるだろう。 だからといってこちらから仕掛けるには、百足兵衛の手数も目的も、不明瞭な部分が多すぎて最善手を探せない。しかし頭上のファージは明らかに先よりも大きくなっている。このまま膠着状況が続けば、いつかはファージと百足兵衛を同時に相手どる時が来、圧倒的にこちらが不利だ。 (一瞬でも気を抜くと、腹から虫を産む事になりそうでありますが) 行動するしかない。ヌマブチは腹をくくり、その思いが通じたのかは定かではないが、迅雷の速度でギルバルドと鴉刃が百足兵衛へ接近する。ギルバルドは長いリーチを生かした突き、側面に回り込んだ鴉刃が蜘蛛めがけて放るのは、タイミングをずらしたナイフの三連撃。攻撃に気づいたツィーダが電子的な壁を生成し、己への攻撃を防ぎ、また百足兵衛の回避動作を阻害する。ヌマブチも素早く足を狙って追撃を放った。 決まったと、ギルバルドは思った。鴉刃もツィーダも、ヌマブチだってそう思っただろう。 だが百足兵衛の行動は予想の範疇を超えていた。 百足兵衛の腕が伸び、蜘蛛の己の身体の内側に抱え込む。さらけ出された肩、二の腕、前腕にナイフが突き立ち、貫通。追い打ちをかけるように左太ももにも着弾。学帽の下から垣間見えた口元には激しい苦痛の色が浮かぶ。醜悪なオブジェの様相に微かな違和感。 ギルバルドも目をむくが動きは止まらず、魔術的な加護も加わり神々しいまでの輝きとなった刃は、今まさに百足兵衛のはらわたを引きずり出すべく迫っていた。 億劫そうに鎌が振られ、シールドオブジェクトの天辺に鎌先がひっかけたれる。ツィーダの羽毛に覆われた横顔にあざけるような笑みが浮かぶ。そんなもので切れるとでも、とその横顔は言っていた。 だが百足兵衛の目的はそうではなかったのだ。 今まさにギルバルドの刃が腹を食い破ろうとした瞬間、鎌がうねった。 金属にはありえない、まるで「生物」の躍動感――折りたたまれが脚が伸びるような動き――でもって、百足兵衛を死の刃の軌道から逃れさせる。やはりと鴉刃は思う。あの鎌は―― そのままシールドオブジェクトを足場に跳躍、百足兵衛はギルバルドの頭上へと跳ぶ。この距離ならば流れきったハルバードより魔法の方が有利と見、ギルバルドはゴッドフィストを放つべく腕を引くが、それよりも百足兵衛が口をあける方が早かった。 ぬるり、白い影が、と気づいた時にはすでにそれは飛び出していた。真っ白く、ぬめついた、芋虫に似た筒状の虫。一刹那垣間見えた先端部には鋸状の歯がびっしりと生えそろい、それらはすべてが外にむき出され、ギルバルドの顔面にくらいついていた。 「むあああああああああああああっ!?」 顔面を虫に食いつかれ、ギルバルドが悲鳴を上げる。百足兵衛の胴に絡んでいた蜘蛛が糸を吐く。ギルバルドの脚に絡み、転倒する。そのまま虚空に滑り出しそうなその身体を鴉刃とヌマブチが二人がかりで受け止め、その間に百足兵衛は屋根の上に崩れ落ちるように着地していた。 「……まさこんな隠し玉を持っていたとはな!」 「……ふ、フフ。良いでしょう? ハラハラドキドキ、エンターテイメント性抜群でありますからして」 口の端に唾液の後を引いた百足兵衛も、しかし無傷ではない。片腕はだらりと垂れさがったままで、足と脇腹からの出血が黒い制服を一層どす黒く変えている。 「でも、それもここまでかな?」 ゴリ、と百足兵衛の後頭部に押し当てられるのは、ツィーダのギア。カム・スラッシュファイア。 「百足兵衛……君、世界樹旅団の一員で、インヤンガイでバイオテロな実験やらかした変態科学者だよね? 結局何なの? 実験台になりそうなロストナンバーでも捕まえに来たのかな? それともこの車両自体を実験台に?」 ツィーダの言葉に、百足兵衛の一つだけの目がすっと細められる。今の言葉の何が引っかかったのだろう。 「……クク、それも良いアイディアでありますが、……どうやら貴殿らには小生の毒蛾は味わっていただけなかった様でありますからな」 「残念ながらボクたちグルメなんだ。で、君、今、こういう状況な訳だけど、まだ何か抵抗したりするつもりなの?」 声だけは軽い調子で、その実引き金には指がかかったままだ。 「いやいや、多勢に無勢とはまさにこのこと。乱戦混戦泥仕合は小生の好む所ではないのであります故、」 返す口調も軽く、百足兵衛はついと顎を上げ、平行に視線を滑らせる。 青白い面に湿った微笑みが浮かんだ。 「逃げさせていただく」 「……は?」 ツィーダが気の抜けた声を上げ、その言葉尻が消えるより早く、百足兵衛が動いた。左腕に握られたままの鎌の、刃の部分だけが跳ね、カム・スラッシュファイアを弾き飛ばす。それは先ほどの、シールドオブジェクトを駆けあがった時の動きそのものだった。 百足兵衛は這いずるように屋根の上を移動し、その傍らにぴたりと寄り添った大蜘蛛が遠く、遠くへ糸を吐く。着弾点は先頭から数えた方が早い号車の窓だった。百足兵衛はそのまま転げ落ちるように屋根を離れ、ディラックの虚空に半円を描く。来た時同様、とはいいがた無様さで、ロストレイル先頭車の屋根の上に着地する。 距離にしておよそ数十メートルの間合いを、百足兵衛は一瞬にして手に入れていた。遠距離攻撃手段は多彩にあるとはいえ、奴に自由な行動をとらせる隙をあたえてしまったのは不覚。 「二つだけ、言いたいことがあるのであります!」 耳元をごうと揺らす風に負けないよう、百足兵衛が声を張る。 「一つ! 小生は科学者に非ず。小生はあくまで『蟲使い』。虫と共に進化の先を求める求道者よ!」 そして二つ目だと、百足兵衛はいやらしく体を折り曲げて笑う。二重回しはますます激しく羽ばたいて、その学帽の下の表情は暗く翳って見て取れない。 「小生の勝ちだ、世界図書館の間抜けども」 ■Time UP ぞるぞるぞるとそれは鳴いた。 あるいは足音だったかもしれないし、もしかしたらロストレイルの車体が軋む音だったかもしれない。 巨大な、百足だった。長さこそロストレイルに匹敵するものではないが、その横幅、速度、重量は比肩するとみてよいだろう。長い尾がツィーダたちを掠め、転がるようにしてその範囲から逃れる。 百足兵衛は目の前の通り過ぎる甲殻を愛おしげに眺める。いつかの猫なで声で囁いた。 「……さあ、行くでありますよ。心配することは何もないでありますからな? ……奴らの度肝を抜いてやるのであります!」 百足兵衛の言葉に呼応するように、大百足は鎌首を持ち上げてロストレイルの正面に回り込む。ロストレイルは振り落とそうともがくが、大百足の足はしっかりと食らいついて離れない。 その長い尾が、ロストレイルと線路の間に差し込まれた。 すさまじい音を立てて車輪が軋む。舗装もされていない悪路を走った時のような衝撃がロストナンバーたちを襲い、体を浮かす衝撃に必死に耐える。意識を失ったギルバルドの服の端々を三人必死で掴み、なんとか開きっぱなしのハッチから車内に移す。これでとりあえずディラックの空に放り出されて永遠に漂うことはなくなったが、現状は最悪だ。屋根のでっぱりにしがみつき、三人は成り行きを見守るしかない。 「百足兵衛は何を考えているのでありますか!? 自らファージを傷つけるなど!」 「わからん。だが……おそらく何か確固たる目的があってのことだろう、と思うが」 「目的……ボク達を実験台に、って訳じゃなさそうだったね?」 「ああ、私もそうだと思ったのだが……しかし、他に理由など」 と、ひときわ大きな衝撃が、ロストレイルを揺らす。 気味の悪い音を立てつつ、それでも健気に走行を止めなかったロストレイルが、完全に停車している。先頭車両にいるのは、大百足。その下半身は、完全に車両の下に埋まっていた。 それを見た瞬間、鴉刃の耳の奥で何かがピンとはじける。口の中がからからに乾いていた。 「……そう、か」 「どうやらそちらのお嬢さん……でよろしゅうございますかな? お嬢さんはお気づきになったようでありますな」 走行音のないロストレイルは普段に増して静かに見える。大鎌が振り下ろされ、大百足ファージの巻き込まれた部分と無事な上半身を切り分ける。 「小生の目的は、足止め」 再び自由を得た大百足が、うじゃらうじゃらと足を蠢かせる。ロストレイルの屋根に張り付き、スタートの合図を待つ車のように身を低く張り付ける。 「目当ては、ロストレイル」 スタートフラッグのように鎌が振り下ろされ、大百足が解き放たれた。 「……ここまであっけないと、つまらないものでありますなあ」 大百足の背に横たわり、百足兵衛は退屈そうにつぶやいた。 ロストレイルの屋根の上に、累々と転がってるのは……ヌマブチ。鴉刃。ツィーダ。虫を引きはがし、戦いを挑み、今度こそ押しつぶされて力尽きたギルバルド。四人の、傷だらけの身体だった。 「一時はどうなるかと思いましたが、奴らも間抜けでありますなあ」 走行中の列車に追いすがれるような速度の、その上大質量の生物に、真正面から挑もうとするのがそもそも間違いなのだ。 一人、あのおそらく雌だろう亜人の女はなかなかだった。百足兵衛の蜘蛛の糸やら蛾の粉やらを利用していて、もしあれで引っかかったらどうしようかと思ったが、そんなこともなくて助かった。 やがて、虚空のかなたより白い円盤が近寄ってくる。やっと追いついたナレンシフから、ばらばらと降りてくる旅団員に適当に指示を出しながら、まあ良いか、とも思う。ロストレイルの奪取には作戦は成功し、面白そうな実験台も手に入った。まだふらつくが歩行も可能。誰かが余計なことをする前に、あの実験台たちを確保しておかなければ。 毒のきかない鳥と、微妙にキャラがかぶっている気がする軍服の中年の襟首を引っ掴み、 ……ざん、と衝撃が走る。何かがぶつかったか、と百足兵衛は足元を見下ろす。そこにはあるべきはずのものがなかった。 左膝から下が、消失していた。 「――ッ!」 認識した途端に襲ってくる痛みに、百足兵衛は膝をつき、またその新鮮な痛みに悶える。真っ赤に染まった視界の中、屋根から今まさに転げ落ちんとする竜人の女戦士がいた。その顔は、笑っていた。 ――ざまあみろ、と笑って、いた。 そのまま、力尽きたのだろう、人形のようにディラックの空に身を投げ出した。 「……ッ、ふ、っふはは! まさかあの状態で動けるとは……完全に見誤っていたでありますっ……何と活きの良い……! 何をしている、早く捕まえろ! いや、小生が行く!!」 「無茶です、そんな怪我で! 敵なんてこんなたくさん捕まえて、怒られますよ! いやそれより、安静にしてくださいってば!!」 世界樹旅団の者たちが総がかりで百足兵衛を抑えにかかる。離せとわめく間にも鴉刃の身体は虚空の海のかなたにに沈んでいった。 ■星間 鴉刃は落下していた。 それはあるいは上昇で、もしかしたら並行的だったかもしれないが、ひとつだけ確かなことは、彼女の身体は一秒ごとにロストレイルとその喧騒から遠ざかっているということだった。 失血と痛みに霞む視界の中、鴉刃は腕を伸ばす。掌にはべったりと百足兵衛の脚をもいだ感触が残っているし、ロストレイルもあんなに大きい。助けねばならない仲間だって、あそこにはいるのに。 足一本、もいでやるのが精いっぱいだった。 もがく指先はディラックの虚ろな闇をすり抜けるだけで、泣きたくなるほどその腕は短い。 脇腹からは絶え間なく黒い血がどくどく、心臓の鼓動のリズムで噴き出し、戦いの記憶もまたぐちゃぐちゃに脳裏を駆け回る。あそこでああしていれば。あの攻撃が決まっていたら。今更、考えてもどうしようもないことだと、わかっていても止めることはできない。悔しさが全身を貫き、鴉刃は拳を握りしめる。鋭い爪が掌を突き破って新鮮な痛みが生まれるが、その痛みが今は欲しかった。 やがて、輝く円盤はロストレイルを牽引し、どこかへと走り出す。刻一刻と小さくなるその車体は、本当に、すぐそこにあるような気さえするのに。 (必ず) 朦朧とする意識の中にあって誓う。腕を伝う鮮血と、痛みにかけて。 (次に会った時こそ、貴様を、) 赤い車体は世界群の輝きの向こうに消え、鴉刃の瞼と意識もまた眠りの闇に滑り落ちていく。 意識が遠のく瞬間、遥か彼方で警笛が聞こえた気がした。
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