世界図書館、中央書架室。 様々な司書とロストナンバーが依頼の話し合いを進める脇を通り抜け、漆黒のドレスの少女が窓際へと歩み寄る。陽だまりの中でまどろむ朱金の毛玉を目にし、瞬間黄金の瞳を煌めかせた。「御機嫌よう、司書さん」 悪戯な猫のように眼を細め、東野楽園はスカートの裾をつまんでひとつ礼を送った。のそりと顔を上げる猫が、牙の並ぶ口を奇妙な容に歪めて笑う。「こんにちは。何の用だい?」「面白い話を聞いたものだから、確認に伺ったの。――朱昏の東南の海に、《理想郷》が在ると言うのは本当?」 毒姫の代わりとして、少女が胸に抱いているのは『異世界博物誌』。虎猫はその表紙を一瞥し、緩やかに首を傾げてみせた。「そうだね、朱昏には確かにそんな言い伝えがある。……けれど、彼の世界では海や川、水にまつわるものは全て龍王の領域だ。誰も確認したことがない」「禁忌に護られた理想郷、なのね」「そう」 ひとつ頷いて、ふと虎猫は眼を瞬かせた。「《理想郷》――楽園(エデン)に興味を持ったか、それとも《禁忌》に惹かれたのか……どちらだい?」 あくまでも怠惰に、しかし探るような鋭い視線が楽園を仰ぐ。黒猫によく似た少女は蠱惑的な笑みをただ深くするばかりで、それには応えなかった。 しばしそうやって視線での攻防を続けた後、朱金の虎猫はふと眼を落として溜め息を吐く。「……仕方ないな。ちょうど、機を見計らっていた依頼が一つある。人を集めてきてくれるかな?」「ええ、もちろん」 二つの黄金の猫の目が、交叉した。 ◇ 大河で二つに分けられた朱昏の大陸の内、東から南に竜の尾の如く伸びる《皇国》の、南端。そこが今回の依頼の出発地らしい。「街の名は日向(ひむかし)。都から最も離れた場所だけあって、皇国の統治があまりしっかり為されていないんだ。――そして、龍王の権威も、そこでは幾分か薄い」 だから、なのだと言う。 龍王の司る水辺を、海を越えて、その先に在る《理想郷》へ辿り着く計画が浮上したのは。「それは《皇国》で昔から伝えられてきた御伽噺のようなものだ。本当に実在するかどうかも定かではない。……長年この世界に携わってきたおれでさえ、断言する事は出来ないんだ」 《理想郷》の言葉に惹かれたか、或いは朱昏と言う世界そのものに縁が在るのか、司書の依頼に集った六人のロストナンバーを前に、朱金の虎猫はのんびりと説明を続ける。「船は帆船。だいたいブルーインブルーくらいの技術と見てくれていい」 壱番世界の明治時代に似た技術を備えた《皇国》において、それがやや不釣り合いなものである事は、誰の目にも明らかだ。旅人たちは「海を渡る技術を持たない」という言葉の意味を真に理解する。「現地の貴族が、計画にパトロンとして出資しているんだ。だから物資や設備はしっかりしている。その点については心配はない」 《理想郷》を目指すその船に乗り込み、航海の手伝いと、予期せぬアクシデントから船頭たちを護る――それが、今回の依頼だ。 もちろん無事辿り着けたとしたら、彼の地の調査も必要となるだろう。長年伝説とされてきた場所がどのようなものなのか、その目で是非確かめてきてくれ、と猫は怠惰に目を細めながら告げる。 そして、それと、と言葉を付け足した。「……どうも、そのパトロンの但馬(たじま)氏と言う人物。『不老不死の霊薬』とされる木の実の伝説を信じて、それを手に入れる為にパトロンを引き受けたようだね」 不老不死、それは人類の抱く永遠の夢でもある。 最早時間と言う概念を持たないロストメモリーとして何を思うのか、怠惰な猫の黄金の眼には確かな答えは映らない。「船頭として名乗り出たひとたちが何を思って船に乗るのか、そこまではわからないんだけど」 出資しただけのパトロンとは違い、彼らは実際に海を――禁忌を犯す者たちだ。それ相応の覚悟を抱いて訓練を積んで来たようで、初めての航海と言えど危険はないらしい。「ただ、《皇国》の海だけあって、常時霧に包まれている。視界が効かない分、航海も一筋縄ではいかないだろう。海妖が出るかもしれない不安も……いや、幾つかは【導きの書】で姿を見た」 軍人でもない限り、現地の住民は妖魔に対抗する術を持たない。 しかし、“海を渡る”と言う禁忌を侵す以上、龍王の怒りに触れる事は確実と言ってもよい。世界図書館へ――ロストナンバーへと依頼が届いたのも、そのためだ。龍王の差し向ける追手を、或いはそれ以外の妖魔を、退ける力を求められたのだ。「おれが見たのは、小型の龍、或いはリュウグウノツカイに似た魚のようなものかな。それらが数匹単位で、船を狙っている」 あくまで導きの書に現れただけだ。ひょっとすると、他にも何かが顕れるかもしれない。充分に対策はしておいてくれと、朱金の虎猫はその一瞬だけ目を鋭くさせて言った。 ◇ 人が、海を渡ろうとしている。 海の波を伝い川の波を伝い、朱昏に眠る龍王はそれを聴く。 その中には、かつて彼の拒絶した異邦の旅人たちの姿もあるようだった。 旅人たちが何故、今再びこの世界へ興味を示すのか、彼は知らない。その干渉は初めこそ彼を苛立たせ目覚めさせたが、以降は至って平穏に、真摯にこの世界へと向き合っている、そう感じられた。 故に、必要以上の怒りは示すまいと、再びの眠りに落ちながら龍は想う。 己が何をせずとも、彼の地が旅人たちを受け容れるかはまた、別の話だ。彼らならば、それさえも越えて行くのかもしれないが。『――何故、禁忌を犯すのか』 微睡みの中で投げかけた問いは、静かに波となって広大なる海原に溶けた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>東野楽園(cwbw1545)死の魔女(cfvb1404)雪深 終(cdwh7983)玖郎(cfmr9797)ルーズーイイラ(cctv4934)ドミナ・アウローラ(cmru3123)=========
「理想郷……ヴィクトル様が聞いたら喜ぶフレーズね」 吹き流れる潮風に長い髪を踊らせ、ドミナ・アウローラはほのかに目を細めて呟く。 十九年の生の中、初めて目にする本物の海。霧の中で屈折し水面に落ちる仄かな光は彼女の元まで届いて、その不思議な色合いに眼鏡の奥の黒い瞳を煌めかせて魅入る。 彼女の背後では執事にも似た服装に身を包んだ狼の獣人が、まるで白い影のように寄り添っている。ドミナにとっては弟のような存在である、彼女の従者の一人だ。 「いい報告が出来ればいいのだけれど」 彼方の理想郷へ思いを馳せながら、彼女の脳裏に浮かぶのは紅の竜が空を駆ける姿。 この地を護るのは朱色の龍王と聞く。 その姿は彼に似ているのだろうかと、少しだけ期待を寄せてしまうのだ。 日向の港を旅立ってから、船旅は円滑に進んでいる。 来襲が予言された妖魔の姿もなく、閉ざされた霧の中で行き先を見失う事もなく進む。《禁忌》とされた海の上は、誰も侵さぬからこそ神聖で、そして平穏だった。 船員たちが忙しなく歩き回る甲板上を、黒い日傘が軽やかに動き回る。漆黒のドレスに身を包み、踊るような優雅なステップを踏みながら、東野楽園は鋭い金の視線を周囲に滑らせた。猫のような悪戯さで、しかし油断なく海上を見遣る。周囲の海域にはオウルフォームのセクタンを飛ばし、《ミネルヴァの眼》を光らせてもいた。 ふと、手摺に凭れかかる一人の船員を見とめ、足を止めた。 「船酔い?」 そう問いかければ、船員は青白い顔を上げて弱弱しく笑う。 「情けない事だが」 「いいえ。初めての航海ですもの、当然だわ」 滑るようにその隣に身を寄せる。袂から、小さな白い包みを取り出して、訝しむ男に手渡した。 「これを呑めば、少し楽になると思うわ」 「ああ、ありがとう」 「――安心して。毒薬じゃないから」 あどけない少女の顔に嫣然と笑みを浮かべ、楽園はそう言葉を添える。包みから薬を取り出そうとした船員の動きが止まり、窺うような目を向けてくるのへ、いっそ残虐なまでに美しい笑みで応えた。 するり、と、寄り添った時と同じような軽やかさで船員から離れ、見廻りに戻る。 「楽園さん、紅茶は如何?」 ふと、その横顔に声が掛かる。 楽園は足を止め、振り返ると薄く掛かる霧の中に目を凝らした。甲板の上に白塗りの華奢な椅子を持ち出して、優雅に腰掛ける姿が在る。 白い指先にティーカップとソーサーを握った、陶器でできた人形を思い起こさせる、華奢で可愛らしい少女だ。――毒々しいまでに黒ずんだ、紫色の肌を持っている事を除けば。 「あら」 無邪気ながらも怖ろしささえ感じさせる、死の魔女の不気味な笑みに穏やかに笑み返す。 「御自分でお淹れになったの?」 「まさか。その辺の船員をつかまえて入れていただきましたわ」 優雅に言葉を交わす二人の少女の周りで、動き回る船の乗員たち。立ち止まっている暇など無いような彼らの事情などには頓着せず、己の欲求を貫き通す死の魔女の姿に、楽園は思わず頬を緩めた。 「ええ。いただくわ」 椅子の傍に置かれた、小さなワイヤー造りのテーブル。船の上でも不思議と揺れる気配のないその上から、もう一杯のカップを手に取った。 「随分と楽しそうなのね、魔女さん?」 「ええ。この依頼、実に素晴らしい旅ですわ」 挑むような楽園の笑みにも堪えず、愛らしく不吉な魔女は悠然と紅茶を嗜む。 「禁忌、理想郷、命知らず……。乙女心をくすぐられる要素がてんこ盛りなのですわ」 「……乙女心、ね」 周囲を往く船員たちが、彼女たちの会話に耳を傾けている事に気付いて、楽園はふと笑みを沈めた。幼く美しい少女の貌に感傷的な色を浮かべるが、死の魔女はそれに気付かない。 「禁忌を恐れる事なかれ、死を恐れる事なかれ、禁忌を恐れる者は禁忌に呑まれて死んでしまいますわよ」 何気なくそう言って、優雅な仕種で紅茶を口に含む。 その言葉を受け止める、沈黙。陶磁器と似た色の骨の指先が、カップに触れて立てる高い音さえもが、よく響いた。 (龍王が海の渡りを禁ずるはひとのみか) 鉢金の奥で、天狗(あまきつね)は瞳を伏せて思案する。 人が海を渡れずとも、鳥は己が翼で海を越える事が出来る。それさえも、この世界では禁ぜられていると言うのか。人に似た姿をしていながら、その実人よりも禽獣に近しい処に在る玖郎はそう考えずにはいられなかった。 物見台よりも高く、甲板の帆の頂点に足を掛け、佇む。風の音を聴き、生き物の匂いを探る。軽く印を切って風を操ってはみたものの、立ち込める霧はその瞬間だけ遮られ、しかし操作を止めればすぐにまた視界を覆い尽くす。まるで生き物めいた動きだ、と玖郎は首を傾げた。 (ひとの諍いに端をなすことが、かれらに不自由をしいているならばいたわしい) 静かに腕を掲げ、人差し指を伸ばすと唇を窄ませて喉を鳴らした。人の唇で以って、鳥の鳴き声を上げる。仲間を呼ぶ、高く透る鳴き声を。 ――深い霧の向こうから、力強い羽音が聴こえた。 鉢金の下で瞳を細めても、霧に閉ざされた視界がそれを捉える事はできない。しかし切り裂かれた風の音が、気配が、それが近付いている事を如実に報せる。玖郎の発した鳴き声によく似た、短い声が返って、やがて霧の中に一羽の白い鳥が姿を見せた。 身体に対して横に長く、面積の広い翼の形が、かれが海鳥である事を雄弁に告げる。 玖郎の掲げた指先に優しく留まり、鳥は小さく声を上げた。おおきいの、何用だ、と。 いずこから来た、と問えば、南から、とだけ答える。 少なくとも、かれらが不自由を強いられている事はないようだ。 玖郎は小さく唇を擡げ、今ふたたび霧に閉ざされた龍王の海を見遣った。 日が、傾き始めている。 水面が色を変える。 「すごい……」 手摺からわずか身を乗り出し、ドミナが眼下に広がる海を覗き込んだ。霧に翳みながらも海原は白い波を立て、切り拓くように進んで行く船の動きに応じて表情を変える。 時刻は夕。西の空が赤く、朱く燃え上がって、水面を鮮やかに染め上げている。 「珍しいか」 透徹した瞳を沈む陽に向けたまま、雪深 終が彼女に問うた。水面から視線を離さぬまま、ドミナもまた頷き返す。 「ええ、初めて見た。時刻によって、空と同じくらいに色を変えるのね……」 海だけではない。 空も、霧も、船も、彼らも、全てが横薙ぎの夕陽に朱く染まる。 「ああ、俺も山と雪には馴染みがあるが……海は中々見ないな」 だから、興味深くもあるのだと。 達観したような口振りながら、何処か無邪気な子供のようにあどけなく瞳を輝かせて、青年は海を見下ろしていた。 また別の船員をつかまえて、楽園は問いを投げる。 「貴方は何故船に? 楽園を求めて?」 問われた船員は困ったように笑い、首を横に振る。その瞳には揺るがぬ決意を秘めながら、それを語るつもりはないようだった。 「そう……じゃあ、少しだけ私の推理を聞いてくださるかしら」 男はまっすぐに、楽園へと向き直った。彼女の言葉を聞こうとする意志の表れか、静かな瞳が小柄な彼女を見下ろしている。 楽園は唇を擡げ、その瞳の中に隠された意志を探るように彼を見詰めた。 「きっと、身内や大切な人が患ってるのではなくて? 不老不死の木の実は不治の病を治す霊薬にもなるものね」 「そうだな。そういう奴も多い」 男は端的に頷いた。まるで、己自身はそうでないと言うように。 楽園の蠱惑的な金眼が、ひどく真摯な色を纏って男を見上げる。 「それじゃあ、奥方を……」 「妻を生かすためか」 ふと、会話に声が割り込んだ。 神鳴に海鳥を止まらせたまま、玖郎が船の帆の頂点から彼らを見下ろしている。 見上げる二人の前で、二対の翼を畳み、彼は無造作に身体を傾けて甲板へと身を投げた。隼の狩りにも似た急降下の後、衝突の寸前に翼を広げて勢いを殺す。見上げるほどの高みから何事もなく着地した天狗を目の当たりにし、船員は瞠目し一歩彼から距離を取った。 「御心配なさらないで、彼は私と同じ――」 「鬼妖にはちがいあるまい」 無礼とも取れるその仕種にも頓着せず、繕おうとする楽園の隣を擦り抜けて舳先へと歩いていく。 「待て」 その後ろ姿に、船員が声をかけた。 「……妻を生かすため、と言ったな。お前にも妻が居るのか」 「噫。ひとの妻が、いた」 無意識の過去形。その意味を敏感に捉えて、男は目を伏せた。 「俺にも妻が居た。……彼女を取り戻すために、俺は此処に居る」 痛ましいまでの独白に、それ以上を問うものは無かった。 ◇ 楽園の《ミネルヴァの眼》が、それを捉えた。 夜の色を映して黒く輝く海の中、波よりも白い何かがうねり踊る。 近寄って見極めたそれは、水面近くを泳ぐ無数の――リュウグウノツカイに似た、細く長い白魚の姿だった。世界司書の予言に現れた妖魔とよく似ている。 月の光に照らされて銀の鱗が閃く様は、まるで天上に輝く星を映したようで、いっそ美しくすらある。――大きく開かれた咥内に、グロテスクな牙が覗いていなければ、の話だが。 金糸雀にも似た響きで、警戒の声を上げる。 妖魔たちは驚くべき速度で以って、走る船を容易く捕捉した。数の暴力で周囲をぐるりと囲み、帆船が逃げられぬようその身を呈して止める。 それらを甲板から見下ろしながら、ロストナンバーは各々の武器を手に取り始めた。 「彼らは何故、私たちを襲うのかしら……禁忌を犯したから?」 戸惑いを滲ませて、ドミナが疑問を口にする。猛禽の肢で手摺の上に危なげなく立ち、船体を見下ろしながら玖郎が応えた。 「さて。彼方よりひとを遠ざけたいがゆえかも知れぬ」 「……理想郷からの使い?」 この地を護る、朱色の龍王。禁忌の先にあるのが理想郷だとして、それを護るものもまた彼なのだろう。彼らはその使いなのか。 「どうしても、その地に人を近づけたくないのね……でも、どうして」 「そこに棲むものを慮ってか、訪れる者を慮ってか」 謎かけにも似た言葉だけを残し、寡黙な天狗は手摺を蹴ると二対の翼で風を掴んだ。霧を掻き乱して、船の上から身を躍らせる。指先で印を切れば、刹那雷光が走って海原へと落ちた。 突然の雷光に思わず身を竦め、しかしドミナは怯えもなく空を行く天狗を見上げた。頼もしい、と頬を緩めて、身を翻す。手には彼女のトラベルギアであるロングボウと、愛用する魔笛を持ちながら、甲板から船室へと続く扉へと歩み寄る。 「シーファ、お願い。『重装歩兵のファランクス』を――」 「大丈夫よ、私が護っているから」 隣を歩く白い狼の従者に語りかければ、それとは違う方角から答えが返る。 自らの身の丈と同等にまで巨大化させた、銀の鋏を両手に握り締めた楽園が応える。乗員を船内へと避難させて、彼女はその扉の前に佇んでいた。――此処からは一歩たりとも進ませないと言う、強い意志が窺える。 「……ええ、心強いわ」 ドミナは頷いて、微笑んだ。 魔笛『ヴォルターナ』を唇に宛てる。す、と息を吸い込めば、侍る従者が竪琴を取りだした。 吹き込む息が、幾つもの穴を潜って音へと変わる。 呪歌『晴天の空』。 鮮やかな蒼穹の光を思い起こさせる、高く澄んだ音色が船上を駆け抜ける。深く深く立ち込めていた朱色の霧が、視界を塞ぐほどに凝っていた霧が、旋律に応えるようにして薄くなっていくのが判る。 船上と、その周囲の海原が見渡せる程度には霧を軽減させる事が出来たようで、魔笛から唇を離さぬままドミナは安堵に瞳を細めた。 「……さて、私もそろそろ動かなければいけないかな」 甲板の隅で、惰眠を貪っていたはずのルーズーイイラがうっすらと隻眼を開いた。枕を抱き締めて顔を埋める彼の視界には、はっきりと、敵意を以って船体を登ろうとする幾匹もの妖魔の姿が映る。 「妖魔とはいえ、先がある者を殺すのは気が引けるが……」 知性持たぬ龍魚には、退くほどの賢明さもない。ただ、排他と拒絶によく似た意志だけに囚われている。これでは言葉も通じぬだろうと思いながら、それでもルーズーイイラは声を掛けずにはいられなかった。 「背を向けてくれ」 怠惰な口ぶりだが、どこか懇願にも似た真摯さを残した声音。 ルーズーイイラは隻眼を細めて、小さく首を横に振った。 「そうすれば、私も君たちを殺さないで済む」 しかし、物言わぬ妖にそれを聞き入れる素振りはない。ひたすらに、腕も足もない身体をくねらせて、船の上へと登ろうともがいている。 「やはり、聞かないか……仕方がない」 光映さぬ両の目を、ルーズーイイラの紅目が捉えた。 異国の妖から集積した“死”のイメージを、具現化させる。 ――それは、海だ。 海から現れた妖たちを抱くように、ルーズーイイラの背後から高い高い波が立つ。それは彼と、共に闘う仲間達、そして船員だけを器用に擦り抜けて、襲い来る白龍魚の群れへと苛烈な勢いで迫った。白い波が溢れ、無様にもがく妖を呑み込む。海の中で生きているはずの魚をも、留まらぬ勢いは圧迫する。 息をする事すら許さぬ苛烈さで、高波は押し潰すようにして彼らを追い返した。 「名も知らぬ魂たちよ……お前たちの死を悟れ」 閉ざされた霧の向こう側で、高波の下で、妖がどのような最期を迎えたか、彼は知らない。 ただ先程よりも尚眠たげな顔をして、手摺に凭れかかって枕を抱き締めるだけだった。 二対の翼を用いて上空を滑る天狗に、甲板から声をかける。 「霧を集められるか」 終の問いに、玖郎は顎を引いて応えた。 「造作ない」 胸の前で印を切る。刹那、峻烈な風が吹き抜けて、朱霧を囲むように円を紡いだ。彼らの眼前で、凝縮された霧が濃く美しい朱を閃かせる。その色彩に、誘われるようにして手を伸ばす。ぴしり、と空気が鳴った。 凝る霧が、瞬間的に重みを増す。ただの細かな水の粒子であったそれは終の手によって凍り、霰の礫へと姿を変えた。重力に逆らったまま、宙に留まる。 「水行のものか」 かつて西国で同行した際、彼の青年の能力を目にしなかった事を玖郎は思い返す。水に属する物怪か、と問えば、そんなものだ、と曖昧ないらえが返った。 「何処も彼処も水だ、凍らせてしまえばいい」 「違いない」 終の創り出した霰を、玖郎の呼んだ風が海原へと叩きつける。水面から顔を出す妖魔を次々と、海面下へ鎮めていく。 「一時の永遠にその身を落とせ」 言葉と共に、吐息が雪風となる。荒れ狂う氷嵐へと瞬時に姿を変えたそれは、手摺を越え甲板へ登ろうともがく妖魔を氷の中に閉ざし、海原へと追い返した。 氷に閉ざされ、甲板の上で無残にも屍を晒す、一匹の龍魚を死の魔女の澱んだ瞳が捉えた。 無邪気な、少女らしい笑みを不気味な紫肌に浮かべて、囁きかける。 「貴方、ちょうどいいですわ。私の“お友達”になってくださいませ」 びくり、と、死したはずの妖が跳ねた。俎板の上の鯉にも似た滑稽な動きに笑み零し、息を吹き返した魚をそっと持ち上げて、手摺から放つ。妖魔は勢いよく海原へと落ちて、そして仲間であるはずの龍魚に見境なく噛み付き始めた。 「そうですわ。もっと死体を増やして、“お友達”を増やすのですわ!」 あどけなくも幸せそうな笑みを咲かせる。その眼下で、共食いは続いていた。 ◇ 夜が明ける。 止め処なく襲い来る白龍を追い返す内に、いつしか東の空が白み始めていた。 (何故) 立ち込める朱の霧が、一斉に震える。 天から、海から、背後から、正面から、彼らの面するあらゆる場所から、人間の矮小さを愚弄するようにその声は荘厳に響いた。性の別も高低もない、海鳴りとよく似た音。 (何故、禁忌を犯すのか。異邦の旅人よ) 波が寄せる。 広大な海原を逝く、たった一艘の船を責め立てるように、波音が立ち飛沫が上がる。 しかし、旅人たちに畏れる心はなかった。 「知れている……、何も識らないからだ」 赤みがかった茶の色を持ちながらどこか透いた氷を想わせる、終の鋭い視線が右も左も視えぬ霧の向こうへと投げかけられる。吸い込まれるように、挑むように、彼はただ声のする方を見詰め続けた。その向こうに広がる筈の、広大な海原を。 (人の身に過ぎた慾は人を滅ぼす) 返る応(いら)えに、首を横に振る。 「それでも、だ。禁忌を知りながら、更なる智を望んでは踏み入る。人はそうやって生きてきた……おそらくは」 (おそらく、とは) 「俺自身は……半端者だから」 人に生まれながら、既にこの身は人ではない。 雪女の力を身に受けながら、決して妖とも呼びきれない。 そんな矛盾の中に居る己に、果たして真実ひとの摂理を語る資格はあるのかと、終は常に己にそう問い続ける。 「妖が生れる、この世界の理が知りたいのだろう」 彼にとっては、この身に抱く混沌、何一つ確かではない己に何かしらの整理を付ける事が出来ればそれでいいのだ。そして、彼の求めるものにはこの朱昏が最も近い。だから、何度も、足繁くこの地へと通うのだった。 「決まってるわ。その先に楽園が在るから……いえ、在ると信じるからよ」 華奢な唇を密やかな笑みの形に曲げ、楽園は霧の下に広がる海を見下ろす。その先に、世界を統べる龍が眠っていると知っているように。 (楽園、理想郷、それらは外の者が勝手につけた名だ) 沈着な声が返っても、楽園は微笑みながら語る言葉を止めない。 「ええ。本当にそこが楽園かどうか、私たちには判らない」 だから、と笑い、挑むような不敵な視線を龍王の海へと送る。 「だから、それを信じて往くだけなのよ」 「私はただ――空が見たかったの」 ドミナは静かに、霧を透した空を見上げる。 深い深い朱に遮られた向こうに広がるのは、あの日見た空の色によく似ているだろうか。全てを包み込むような夜明け――暁の色に。 「籠の中の小鳥の幼い好奇心、下らないと言われればそれまでね」 どこか自嘲するように頬を緩める。傍に控える従者が、彼女を気遣って視線を寄越すのだけが判った。 初めてそれを成したのは四つの頃だった。 両親の愛に拠り“鳥籠”に留められ続けていた幼い彼女は、次第に募る外の世界への憧憬を抑えられなかった。だから、真夜中にこっそりと鳥籠を飛び出した。両親を裏切り、彼らの与えた禁忌を破ってしまった。――全ては彼女の、好奇心のゆえに。 「今もきっと、同じ理由だわ」 暁の霧を抱く広大な海を見詰め続ける、その理由は、幼い頃の己と何も変わらないのだろう。 鳥面を模した鉢金の奥で、天狗の瞳は何処を視ているのか。 「与えられた範に、漫然と収まるばかりではいられぬ」 ただ顎を上げて、毅然と――迷い自体を知らぬかのような、ともすれば愚直とも取れる表情を空へ向ける。物怪ゆえの、自然の摂理に生きる禽獣ゆえの静けさを伴って。 「諸般をみずから悟り判じ処するは、生くためのちからだ」 その言葉は難解な響きを伴いながら、どこか朴訥としている。 鳴り響く海原が、押し黙る天空が、龍の王が静かにそれを聞いている。 「生くとはそれを放棄せぬことだ」 《禁忌》は、所以と狙いを伴う。 「その実相が自得に至れば、己が内の確たることわりともなろう」 ――それが、与えられた範を破る行為であったとしても。 「楽しいからに決まってますわ」 軽やかな笑い声を立てて、死の魔女は言う。 骨と化した両腕に死の書を抱き締めて、ビスクドールの如き愛くるしさと餓鬼の如き怖ろしさを兼ね備えた少女は、何を畏れるものでもないと霧掛かる空を見上げた。 「禁忌は犯してこその禁忌、犯されない禁忌なんて一寸の命程の価値も無いのですわ」 命は奪うためにあるもの。 禁忌は犯すためにあるもの。 死を友とし、禁忌を友とする魔女は簡単な事だと笑うのだ。 ルーズーイイラは気だるげに、隻眼を海へと落とした。彼に言葉を投げる何者かがそこに存在しているのではと、底冷えするような色を湛えた眠たげな瞳が彷徨う。 「そうせねばならないから、だと思うよ……」 人の事はわからぬと、人の摂理に生きていない者は語る。 「……人は大きな欲求を持つと、それをどうしても叶えたくてしょうがなくなる、良いも悪いも関係なく……そして禁忌を犯す。……それが人、と言うものだ」 それは彼のような大きな力を持つ者にはない葛藤だ。恐らくは、海原にて眠る龍の王もそれと同じ事を感じているのかもしれない。 人は愚かだと。過ぎたる慾に振り回される、愚かな生き物だと。 「しかしその愚かさこそが、人を大きくする……。良いか悪いかは分からないけど……人のそういう貪欲さが、私はちょっとだけ好きだ」 眠たげな紅い瞳に、ほんのわずか、笑むような色が宿る。 (それが汝らの覚悟か) 全ての答えを聞き届け、返された声に、旅人たちはめいめいに頷いた。 (ならば) 海原が震える。 霧が、朱色の視界が、何者かに怯えるように大きく揺らいで見せた。 (往くがよい。異邦の旅人たちよ) 一陣の風が吹く。 暁の霧を連れて、旅人たちの乗る船を揺るがして、東の果てへと駆け抜けていく。 (禁忌の向こうへ。そして己が目で確かめよ、理想郷とやらを) 突き放すような言葉を最後に、空と海との全てから響いていた膨大なる声は唐突に已んだ。 いとも容易く風に吹き払われた霧、その後に残されたのは、東から陽の射し込む、紫の空。雲一つない晴天が一艘の船をまるく覆っていた。 鮮やかに晴れ渡った空と、透き通った海の狭間に、小さく影が映る。目映いまでの青の中で、一点、二点墨を落としたように深い緑の色を遺しているそれは――。 「陸地だ」 ぽつりと、誰かが言葉を落とす。 「なら、あれが」 「――理想郷?」 ドミナが身を乗り出す。玖郎が風を掴んで高く飛び上がる。ルーズーイイラの眠たげな隻眼が、一度はっきりと開かれた。 船上が歓喜に沸く。船内に隠れていたはずの乗員たちがいつの間にか甲板へと出てきて、互いに労いながら笑い合っていた。――危険は去ったのだと、全ての者がそう悟る。 ふと、晴れていたはずの空が、唐突に雲を帯び始めた。 光を遮り、灰色に翳る空、しかし先程までのような不穏さはない。 魔笛を唇に宛て、ドミナが音を紡ぐ。先刻確かに朱霧を薄めたはずの呪歌が空中を滑るように流れていくも、気まぐれな雲は歌を聴き届けようとはしなかった。 「……晴れませんわね」 死の魔女が呟いて、灰色に沈む空を見上げた。 戯れに差し伸べた、白い骨を晒す指先に、一滴の水が落ちた。ほのかな朱色の、透明な雫が。 「雨?」 訝しがって顔を上げた、その頬にも一滴。 次第に勢いを増して、雨は後から後から降り続く。船員たちを船内へと返し、ロストナンバーは彼らもまた濡れぬように甲板から退いた。――一人を除いて。 「朱色の雨……これは」 見覚えがある、と終は眉を顰め、一歩甲板へと踏み出した。降り注ぐ雨が彼の肩に触れ、しかしその服を濡らすことなく氷結して地面に落ちる。ぱらぱらと音立ててこぼれる朱色にも頓着せず、終は雨を落とす雲と、射し込む光だけをじっと見据えた。 その視界に、映り込む鮮やかな色がある。 ひらりと舞う朱。尾を引くように棚引く紫。 雨音を踏み、その中を駆けるようにして跳び来る、影がある。 花笠を被り、朱色の小袖を纏う、一人の女。 かつて東国の都で見かけた、人ならざるモノ。 朱色の雨の中、暁の空へ向かって飛び立っていった女が、再び彼の前に現れた。しなやかに、細い肢体をくねらせて船の舳先に降り立つ。纏う朱色の袖がふわりと揺れる。 印を切ろうとする玖郎の手を、瞳を細めて見極めようとするルーズーイイラを、楽園が無言で押し留める。女に、先程の妖たちのような敵意は感じられない。 女は一度首を傾げて笑み、再び身を翻した。額に巻いた細い紫の布が、ひらりと残影のように躍る。 そして、再び雨音を踏んで飛び上がる。右へ、左へ、低空を飛ぶ蝶によく似た、不安定な足取りで空を駆ける。船の進み具合に合わせて速度を調節し、時折悪戯にこちらを振り返る、その仕種に、ドミナはふと気が付いた。 「……ついて来い、と言ってるんじゃないかしら」 元よりそのつもりだった。 紫蝶の女が駆けてゆく方向こそが、水平線の向こうに微か見える陸地の在処なのだから。 朱の袖を翼のようにはためかせ、雨の中を飛ぶ女を追って、船が進む。その周囲を並走するのは、死の魔女が“お友達”にした白龍の妖魔たち。雨は彼らを受け容れるように、静かに降り続いていた。 やがて、黒い点のようにしか見えなかった陸地が、はっきりと形を成して見えるまでに近付く。 鮮やかなまでの緑と、大輪に咲きこぼれる花々の色彩が映える、美しい島だった。大陸の控え目な花々とは違う、極彩色とすら呼べる彩り豊かな花弁が、遠く船の上からでも見て取れる。 波を立てて船は岸へと滑り込む。 雲間から射し込む陽射しに照らされる白い浜辺に、一人の女が佇んでいた。 白い衣裳に、華やかな袖を羽織った女。傘も差さず、雨を受け容れている。 朱色の小袖の娘が、降り注ぐ雨を踏んで女へと駆け寄った。迎え入れるように腕を広げる女の、娘と同じ柄の小袖の裾へと、すっと吸い込まれていく。棚引く紫の残影だけを残して。 女の慎ましやかな目が、船の上の旅人たちを見上げる。 「自力で海を渡るものを初めて目にしました」 そう言って、女は微笑む。淑やかに腰を曲げて、旅人たちへと礼を送る。 「歓迎いたします、旅の御方」 穏やかなその眼に、甲板上で立ち尽くす船員たちの姿は映っていないようだった。ただ静かに、やさしく、異世界の者たちだけを見遣っている。その違和感を訝しく思いながらも、許しを得てロストナンバーは船から降り立つ。船員たちが恐る恐るその後を追っても、女は何も言わなかった。初めから、気にかけてすらいないのか。 「……此処は?」 隻眼を興味深そうに周囲の景色へと向けながらルーズーイイラが問えば、女が口を開くより先に、終が応えた。 「袖に憑いていた霊が、ニライと」 青年の茶の瞳は女の朱い袖へ、その中で羽撃く紫の蝶へと向けられている。 「ええ。中津国の方々にはそう呼ばれております。――儀莱(ニライ)と」 遥か彼方の楽園、ニライ。 それが、彼らが追い求めた理想郷の名前だと、女は言う。 「さっきの彼女はどなた?」 楽園が指し示すのは、鮮やかな朱の色纏う女の小袖。その中に吸い込まれていった、紫蝶の残影を落とす妖の行方をそれとなく尋ねれば、女はゆるりと笑った。 「私の使いです。海を渡る術を持つものですから、よく見廻りに」 言って、片腕を広げて袖を示せば、図柄の中の一匹の紫蝶が無邪気に羽撃いたようにも見えた。 ――この地の者は、妖と共存している。 またひとつ、違和感が彼らを襲う。 ◇ 女は、ロストナンバーによる島内の探索を快く許諾した。 コバルトブルーの海に囲まれ、南国の気候により育った木々や花が色鮮やかに咲き誇り、岸辺には洞穴や岸壁も見られた。 また、島には自然豊かな風景の中で、幾つかの村落が点在している。彼らを迎えた女と同じ、白い衣裳を纏う女たち――祝女(ノロ)と呼ばれる役職のものが、それぞれの集落を治めているようだった。 住民たちに不審な点はない。多少の訛りはあるが、言葉は問題なく通じる。海の向こう側に大陸が広がっている事など知らずに、平穏にこの地で生きているようだった。 乗員たちを村の一つに預けて、旅人たちは各々に島内を巡る事とした。 島の半分以上を覆う森は、明るい色の緑に充ちていた。 船旅のパトロンが求める『不老不死の霊薬』を探すため、数人のロストナンバーが森の中へ散る。 「本当に不老不死になれるかどうか、食べてみればわかりますわ」 手の中の果実へ魅入るように視線を送り、魔女はその名にふさわしい不気味な笑みを浮かべた、 「私は死の魔女、死を支配する私からしてみれば不死を見分ける事なんて造作もないのですわ」 そして、小ぶりな歯を朱色の実に突き立てた。小気味いい音を響かせて、新鮮な果肉を齧り取る。それは少女らしい愛らしさに溢れながら、獣が肉を剥ぎ取る仕種にもよく似ていた。 「……外れですわね」 そして、つまらなさそうに呟く。緑の断面を晒す果実には最早一点の興味もないのか、樹の元へと投げ捨てた。 「安易に不老不死をかなえる、都合よきものがあるともおもえぬ」 その樹上に佇み、朱色の雨を避けていた玖郎がぽつりと呟きを落とす。落ちた果実と未だ樹に成り続ける果実とを交互に見遣り、鳥がするように朴訥に首を傾げた。 「そうね……もしそんな果実が本当に実在するのなら、それを口にした誰かが居るはずだもの」 ドミナもそれに同調し、傘の下から頭を巡らせて周囲を見渡した。ロストナンバーとして既に“不老”を叶えてしまった彼女自身は、果実にはさほど興味がない。 「もしいないのなら、その話が偽りだったか……若しくは、真理数を失って、この世界から消えてしまったか」 「そうですわね。……確かに、食べてみた人間がいるかもしれませんわ。探して参りましょう」 丸い傘をくるりと回し、死の魔女は一度ドミナへ可愛らしくお辞儀を送る。そして身を翻し、人里の方へと駆け出して行くのだった。 その背中を見送り、ドミナは朱の降り続ける空を見上げる。 あの日焦がれた空とよく似た青は、この地に来て以来雨雲に覆われて見る事が叶わない。それを少しだけ淋しく思いながらも、天に向かってまっすぐに腕を伸ばす細い木々と、それを覆い尽くすように咲き誇る真紅の花々に魅入られた。まるで、燃え上がる鳳凰が天へと飛翔するような鮮やかな紅。降り注ぐ雨にも褪せないほどに美しい色。 彼女が何よりも気になるのは、この地の事。 この、色鮮やかで美しい島を彼の方が目にしたなら、何を感じるのか。そればかりだった。 軽やかに、踊るように駆けていく死の魔女を、金糸雀のような声が引きとめた。 「何処へ行くの?」 トラベラーズノートを片手に、楽園が樹の下に佇んでいる。大輪の白い花を咲かせる細い樹の姿を、彼女は律儀にノートに書き留めているようだった。 「好奇心を充たしているのですわ。そういう楽園さんこそ、何をなさっているの?」 嘯いて応え、問いを返せば楽園は老獪な笑みをその唇に刷く。 「風物の観察を。初めて見る景色ですもの、ひとつとして見落としたりはしないわ」 降り注ぐ雨を詰めた小瓶を揺らす。この地でも、毒姫を偵察にやりながら周囲をそぞろ歩いているらしい。 「では、私も共に行ってもよろしいかしら」 「ええ、もちろん」 先程までの果実への興味は何処へやら、死の魔女が同行を申し出れば、楽園はよく似た笑みを浮かべてそれを受け容れた。 「……それにしても、面白いですわね」 ついと視線を巡らせれば、色鮮やかな花々に埋もれるようにして、ルーズーイイラが眠っているのが見える。 紅の隻眼をうっすらと開き、男とも女ともつかぬ彼は眠たげな声を上げた。どうやら二人の会話を、微睡みの中で聞いていたようだった。 「おや……キミも気付いたかい」 枕に頭を埋めたまま不明瞭な声を発する彼を、死の魔女は一瞥し、そして隣を歩く楽園に視線を移した。 「ええ。ここは実に私たちと相性の良い場所ですわ」 死した少女がゆるりと微笑みかければ、生きた少女からもよく似た笑みが返る。 「そう、まるで天国に居るみたい――ね」 何ともつかぬ浮遊感に、得体の知れない幸福感。確かに人が息衝き、集落が形成されていると言うのに、この地にはまるで現実味がない。 「住人の『死』のイメージを探ってみたけど、まるでだめだったよ」 肩を竦めて、ルーズーイイラは言う。彼の隻眼は、この島の至る所に――出逢う人のほとんどに死を見出しながら、それを明確にできずにいる。霧がかった海を航海する、先程までの彼らの道程と似たような感覚。 「雨と、海と、村。この島の景色そのものだ」 この地が、真実ルーズーイイラの“理想郷”と成り得るかはまだわからない。それを判断するには、まだまだ見えてこないものが多すぎるのだ。 だから、彼は枕を抱き締めた。 即座に訪れる眠気に身をまかせながら、たゆたう死の気配に微睡む。 「いずこへ」 頭上から声が掛かる。 足早に歩いていた終が足を止めて振り仰げば、朱の雨を翼に受け、玖郎が空から降り立ってくるところだった。鉢金の奥に瞳を隠しながら、天狗は不思議そうに首を傾げて終を見遣っている。 「霧の先へ。雨の先へ」 答えれば、かれは反対側へと首を傾けた。 「雨の先――すなわち天と」 「そうできればいいのだが、生憎俺は空を飛べん」 そして、二人共に空を仰ぐ。晴天を乞うようなその仕種にも応えず、空は無慈悲な灰色を曝したまま朱色の雫ばかりを落とす。頬を伝う朱の雨はどこか温かく、人の身に流れる血潮のようだと終は思う。 「だから、この雨が流れていく先を辿る。この島に於いて朱(アケ)が集まる場所を」 「そうか」 寡黙な物怪はそれ以上何も言わぬようだった。頭を巡らせて、終の視線の先を探る。 「この島にはなだらかに傾斜がある。西から東へ――そして、もっとも低い場所にあるのが此処だ」 地面に落ち、吸い込まれた朱が、通常の水と同じように傾きに従って流れていくとすれば、それは自然とこの場所に集まるはずなのだ。 コバルトブルーの海を湛える入江。弧を描いた岸辺には赤みがかった茶色の柔らかい土を晒し、ぬかるんだ地面のその端に、一際高い木が聳え立つ。 木――と呼ぶ他ない形状をしているが、それは降り注ぐ雨と同じ朱色の、石に似た素地で出来た『植物』とは呼べない何かだ。 「あれは……珊瑚、か?」 海の中で生きる、植物とも動物ともつかぬ奇妙な生物。それが水面から顔を出し、高く聳え立っている事に奇妙な感覚を抱きながら、終はそれに歩み寄る。 近付いて、ふと気が付いた。 降り注ぐ朱の雨よりも、立ち込める朱の霧よりも、咲き誇る朱の花よりも、この樹はずっと濃密で鮮やかな朱色をしている。 「雨が流れ、この地に集い……そしてこの樹に凝っているのか」 茫と呟く終の後姿を眺め、玖郎は改めて背後に広がる島の景色を見遣った。 自然に充ちた地でありながら、何かがちがう。 人も、獣も、鳥も、虫も、この地に息衝く全ての生き物が、あまりにも無防備なのだ。まるで天敵も、餓えも、老いもないと知っているかのように。ただ平穏に、安寧に暮らしているだけ。 それはまるで、彼らの棲むターミナルにも似た光景だった。 「おれにはこの『安寧』が、恐怖にちかい」 ぽつり、と落とした呟きを、半妖の青年と珊瑚の樹だけが聞いていた。 ◇ 数日間の逗留の後、帰還の日を迎える頃になって、突如問題が発生した。 船員たちが一斉に言い出したのだ。 ――国には還らない、と。 「……どういう事なの?」 当惑に瞳を揺らし、楽園は船乗りの一人に詰め寄った。『妻を取り戻しに行く』と、かつて彼女にそう語った男に。 男は申し訳なさそうに眉を下げて、しかし確かに笑みを浮かべる。 「もう、あの地に戻る必要がないんだ。俺にも、彼らにも」 その顔に浮かぶのは、紛れもなく“幸福”と呼ぶべき色で。言葉を失くし、楽園はたたらを踏んで後退する。 「しばらくは此処に留まろうと思う」 「但馬氏には何と言うつもり?」 「船が難破して帰れなくなった、とでも」 そう嘯きながら、男たちはそれを伝える為に船を出す事さえ、しないようだった。 「それじゃあ、私たちはどうやって帰ればいいの」 ドミナが楽園の横から言葉を挟む。ここまで来た際のロストレイルは、東国で、彼らの帰りを待っているはずなのに。 冷静な追及の言葉にも、男は眉を下げたまま、無言で微笑むだけだった。 す、と、祝女が浜辺へと足を進める。 「その心配は御座りません」 白い袖を揺らし、まっすぐに向けた指の先――青い青い海の上に、黒い影が映った。 海の上を滑るように走り来る、臙脂色の車体。 「――ロストレイル……!?」 それは見間違いようもなく、彼らに馴染み深い螺旋特急の姿だった。 誰かがトラベラーズノートで報せたのかと互いに顔を見合わせるが、ひとりとして心当たりのある者はない。皆一様に首を振り、謎だけが残された。 岸辺に車体を横付けて、ロストレイルの駆動が止まる。静かに音を吐き出して、乗車口を開いた臙脂色の車体は旅人たちを無言で待った。 「還られませ、旅の御方。あなたがたの國へ」 祝女が微笑む。拒絶は許さぬと、言外にそう語りながら。 ふと、光が差し込む。 朱色の雨を降らせながら、雲が退いていく。翳っていた陽射しが遮るものもなく大地を照らしだし、羅紗の掛かったようにくすんでいた花や鳥や緑が鮮烈に映える。 いっそ現実味を感ぜられないほどに、美しい光景。 「我らはいつでも、あなたがたの再訪をお待ちしておりますゆえ」 無情とすら取れる言葉が、柔らかく響いた。 ――見上げれば、青く青く透き通った空が広がっている。 旅人たちの目を焼くほどに、鮮やかな色だった。
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