彷徨える森と庭園の都市・ナラゴニアは小さな森が集まって出来た島のようなものだ。 正確にいえば、緑豊かな庭園の集まり。 空から見れば、ただの森にしか見えないが、上陸すれば木々に遠慮する形で野鼠の巣のように建物が密集している。 そうした開かれた場所をすべて『庭園』と呼ぶ。 世界図書館にいた者ならば、ターミナル以上の緑に圧倒されるととともに、本来は図書館がみえるべき場所に一本の樹が――この森の都市の中心にして、頂点に君臨する位置に鬱蒼とした樹の存在に注目するだろう。 それが、この都市を構成する世界樹。 銀猫伯爵の屋敷は、北の端、世界樹から最も遠い位置する。 静かな森のなかに大きな鉄門を構えた屋敷が佇んでいる。 そのなかには縦横無尽な樹の姿はなく、かわりに整備された庭には白い花が咲き誇っている。 屋敷には定期的に奉仕品を運ぶ者たちが訪れるのだが、いま、赤い絨毯の敷かれたホールには二十人ほどの者たちが集まっていた。「ほ、本当に、ハンスは無事なんですね? あいつは、あっちで、真っ当に生活してるんですね!」「ああ。間違いない」 真剣な顔で確認する男に銀猫伯爵が頷く。男の横にいた女が俯いて呟いた。「けど、シャドウを殺したって……他にも任務中に死んだ人がいるんですよ! 世界図書館側が殺したのでしょう? 私たちを罠にはめて、殺すつもりじゃないのですか? 伯爵さま」「シャドウは私が手を下したのだ。それに任務中であれば彼らとて守るために戦わねばなるまい。その末の結果ならば世界図書館に非はない……このまま他の犠牲の上に生きるか、それとも私を、世界図書館側を信じて償うチャンスをとるか」 不安と期待の沈黙。「自分は、その賭けにのらしてもらうわ」 集まった者のなかで最初に手をあげたのは着物の男――矢部であった。「ここにおる以上、戦いは避けられんが、一番わり食うのは自分たちや。なら、戦わずに生き残る方法をとらせてもらう」「裏切るのか」「お前、恐くないのか」口ぐちの反論に矢部は肩を竦めた。「今更やな。ここじゃ、強者が弱者を支配する。そんなものの下で生き続けてどないする? 逃げ出すのも一つやろ? 自分は何度か世界図書館のモンに会っとるが、確かにおっかないのもおるが、基本的には争いは望むモンはおらんかったように思うで」 矢部の言葉にふらりっと一人が声をあげた。「もし……もし、戦わなくて済むなら……ここから逃げられるなら……俺は……今までが許されるなら、償うチャンスがあるなら……変われるなら……亡命したい」 亡命希望者二十名について世界図書館へと連絡をいれたのち、銀猫伯爵は矢部と連れだって庭へと出た。「矢部、君が名乗り出てくれて助かったよ。ありがとう」「いやいや、お役に立ててよかったわ。まぁ、亡命希望者っていっても、まだ内心は迷ってるカンジやから、世界図書館のモンを見て心を決めるやろ。にしてもわりと大胆な作戦をやりますなぁ」「……今、侵略は世界図書館という壁のせいで成果がほぼ期待できず、上部には苛立っているのを下の者たちも敏感に感じとっている。ここで亡命者が出れば世界樹に属する者の精神には大ダメージだろうな」 甘い香りの漂う中、銀猫伯爵が見上げたのは世界樹。「古来より希望とは、災いの最後に残る唯一の光にして、最悪の災禍。世界図書館がどちらになるか、この目で確かめてみようじゃないか」★ ★ ★ 世界図書館 黒猫にゃんこ――現在は三十代の男性の姿をしているは集まった者たちを見て不敵に微笑んだ。「銀猫伯爵から連絡がきた。……亡命希望者二十名を移したいとのことだ」 それだけの大人数を、どうやって一気に? どこの世界でロストレイルに乗せる――当然の疑問を投げかけるロストナンバーに黒は頷いた。「銀猫伯爵が俺たちをナラゴニアに手引きしてくれるそうだ。つまりは敵地に乗り込む。 ロストレイルでは目立ち過ぎるからアリッサ館長の許可をとって、スレッドライナーを使用できるようにした。お前たちはこれに乗って潜入し、亡命者を連れ帰ることが第一の目的だ。第二に、これだけの大掛かりな任務、さらには大人数で臨むとなれば、ただ行って帰るだけじゃつまらないだろう?」 黒の尻尾がひらりっと悪戯ぽく動いた。「希望者に限り、あっちに残って情報収集して帰るようにしたい。つまりは亡命者を連れ帰るやつと、敵のなかに残る奴、二手に分かれる。 今回のメインはあくまで亡命者を連れ帰ることだ。それも銀猫伯爵の作戦では、逃亡のあとその情報を世界樹のやつらにリークして、追いかけさせてるとのことだ。ま、自分が怪しまれないためもあるし、敵に潜伏を悟られないための誘導だ。 だから今回は、亡命者を連れて逃げるやつのがんばりが重要ってことだ。 残る奴にしても戻れる保障は低い……あっちには銀猫伯爵がいるが、援軍は無理だし、下手すれば死ぬかもしれん」 だから亡命者を連れ帰るために動くか、潜伏するか――それはお前たちが好きに選択して、悔いのない行動をとってくれ。<ご案内>このシナリオに参加するひとはプレイングの最初に========【1】帰還する【2】残る========のうち、どちらかを選んで、自分の方針として下さい。【1】を選んだ方は、追撃を返り討ちにしながら亡命者を載せたスレッドライナーで帰還します。【2】を選んだ方はそのままナラゴニアに残り、以後、「ナラゴニア潜入部隊」として諜報活動を行っていただくこととなります。※選択肢を書いていない場合は【1】を選んだものとします。このシナリオのノベルは、【1】を選んだ方を中心に描写されます。【2】を選び、「ナラゴニア潜入部隊」になった方は、これ以降、隊員のみが参加できるシナリオが連続してリリースされますので、できるだけ参加をお願いします。ほかシナリオや掲示板への参加はシステム上は制限しませんので、ロールプレイ上の整合性などは各自にお任せします。!注意!このシナリオに参加し、ナラゴニアに残ることになったキャラクターの、その後の任務は非常に危険度の高いものです。自身に落ち度がない場合でも、容易に死亡する可能性がありますので、あらかじめご承知下さい。
Ⅰ・祈りのはじまり 銀猫伯爵の手引きにより、スレッドライナーをナラゴニアの北の尖端に無事につけると、早速レナ・フォルトゥスはインビシブルで、スレッドライナーの隠蔽作業にとりかかった。 それに一役買ったのはヘータだ。 「ワタシ達のコト、世界樹旅団に知られる、多く悪いことなんだよね。スレッドライナーの光と熱、音、気配、ナレシフと同じくすれば多く良いかな?」 とマントから不思議な触手を出して情報の書き換えを施した。 屋敷までは百田十三の術で光学迷彩を施し、チェガル フランチェスカが先頭に立って建物で身を隠しながら進み、辿りつくことが出来た。 「まずは第一突破!」 「そうね。けど、なにもはじまってないわよ。おねぇさん、これからもっとがんばらなくちゃ!」 フランチェスカの軽口にリーリス・キャロンが応じる。 「さてと、私はこの世界をうんと楽しむわよ」 観光のノリである幸せの魔女はベルファルド・ロックテイラーの腕に自分の腕を巻きつけるとしなだれて歩き出す。 「ねぇ、ベルファルドさん」 「うーんと、ここには遊びにきたんじゃないよ。魔女さん」 「あら、どんなときも楽しむものよ。それに私とあなたが一緒にいれば何も恐れることはないわ」 「そうかもしれないけど……ボクは、亡命者さんのところに行きたいんだけどぉ~」 ずるずると幸せの魔女に引きずられるベルファルドの姿にアマリリス・リーゼンブルグは 「まるで遊びに来たような態度だな」 苦笑いして呟く。隣にいるアルティラスカも口元に美しい笑みを浮かべた。 「無事についてはしゃぐのはいいことです。しかし、ここからは気を引き締めなくてはいけませんね」 「そうだな……ディーナ」 部屋の隅にいたディーナ・ティモネンは顔をあげた。サングラスをかけていている顔からは何を考えているか読みとれない。スレッドライナーの移動中もずっと沈黙を守り、誰とも会話しようとはしなかった。 母性の強いアマリリスはディーナを気にかけていた。旅立つ前に目を通した報告書ではディーナは仲間をわざと危険に晒す行動に出るなどの危うさがあった。 「君はどうするんだ」 「なにを?」 「幸せの魔女がアンケートをとっていたのに答えていなかっただろう?」 スレッドライナーでの移動中に幸せの魔女がいちごみるくのジュースをダシに今回の作戦の参加者たちに、今後の身のふりについて質問したのだ。 数名が答えた結果、ターミナルに戻る者、潜伏する者とちょうと半々くらいなことが判明している。 その結果にアマリリスは迷わず潜伏を選んだ。余計なお節介であることはわかっているが、残る者たちをほってはおけない。出来れば皆でターミナルに戻りたいからこそ、最悪の結果も覚悟の上での決断だ。 「……私は、亡命者たちを連れて、ターミナルに戻る予定だよ」 「そうなのか」 アマリリスは片眉を持ち上げた。てっきりディーナは潜伏を選ぶと思っていたのだ。そしてもしもの場合は幻術で強制的にディーナを眠らせ、帰還させようとも考えていた。 横にいるアルティラスカは月色の瞳を細めてディーナを見つめた。 「ディーナさん……世界図書館に属する者、世界樹旅団に属するものと、それぞれ思うところがないわけではないでしょうが、戦うことを強制されるのは拷問にも等しいことです。自由になりたい人が、そうしなくてもいい場所にいけるという希望を抱くことは自由だと思います」 瞳は冴えた月を見るときに感じる畏怖を、しかし声は優しさが滲み出る。アルティラスカの心は常に慈愛に溢れているが、それは他者を甘やかすわけではない。ときには厳しさも存在する。 世界樹に対してアルティラスカも思わないところはないわけではないが、彼女が第一に考えるのは亡命者のこと。そのために危険も踏まえて参加した。覚悟の証拠として女神の力も一部とはいえ解放した。そのせいかいつもの人好きする雰囲気は消え、よく研いだナイフのように鋭い高貴なオーラがある。それでもやはりアルティラスカはアルティラスカだ。 「私は来る人達も、残るしかない人達も傷つくような状況にだけはしたくありません。それが私の考えです」 「……そう」 ディーナは一言だけ呟くと背を向けて歩き出した。 ★ ★ ★ 「僕は身体を使って戦うことは苦手だが、舌と目を使う戦いは得意な方でね。これから出会う、その亡命者とやらの本心を見抜くことができると思う。よろしく頼むよ」 メルヴィン・グローヴナーは挨拶もそこそこにさっそく仲間たちを代表して、作戦の入念な打ち合わせを申し出た。 場所は誰でも出入りできる、一階の書斎。会議そのものは自由参加制の体制をとったのは、自主性を重んじてのことだ。 ずらりと並べられた本棚にはぎっしりと本が詰まり、室内を外から覗くといった不埒な真似は出来ないようになっている。本棚に囲まれた奥、猫足のテーブルには果汁のジュースが置かれ、背もたれのあるソファも多く用意され、誰でも参加できる雰囲気が作られた。 亡命希望者をターミナルに連れて行く帰還組は、銀猫伯爵の「彼らも不安がっている」との助言もあり、作戦を実行するまでは亡命者の相手をするためにそちらへと向かった。彼らがそうしていられるのは、作戦をまとめてくれるメルヴィンがいることも大きい。 この場に集まったのはターミナル帰還組のまとめ役であるメルヴィン、潜伏を選択したヴェンニフ 隆樹、グレイズ・トッド、ヒイラギ、森間野・ ロイ・コケ。 「三日後に?」 メルヴィンは聞き返した。 「焦る気持ちはわかるが、急ぐとことを仕損じる。準備のためにも時間がいるだろう? ……三日後に私のところに奉仕人が来ることになっているし」 「しかし、それでは君が疑われるのかね?」 「二十名のなかには私に奉仕する者以外もいるから関連性を疑ったりはしないだろう。証拠がなければドクタークランチも私を追い詰めることは出来ない。……逆に三日間しか待てない。その間に準備も整えてほしい」 メルヴィンはこれから三日の間に計画を詰め、さらには二十名それぞれに個人に会って、彼らが信用に足りるかの「審査」もせねばならなかった。 以前、亡命者がいた場合はターミナル側の代表が審査すると取り決めをかわしている。 それに嘘を見破ることのできるメルヴィンはうってつけであるのは全員が承知していた。 メルヴィン個人がこの作戦に参加したのはお節介だと思いながら、このなかに軽い心で留まる者がいれば引き止めたい。多忙なスケジュールを縫って、仲間たちの精神ケアも出来るのか、ざっと頭のなかで計算する。否、やってみせるのだ。 そのための計画の打ち合わせは、屋敷に到着着後から開始され、休みなく二時間も経過していた。 さすがに肉体的に疲労したメルヴィンが飲み物で喉を潤している間に隆樹が質問を投げた。 今回の作戦は亡命者を連れて逃げることがメインなので、メルヴィンの打ち合わせの邪魔をしないように黙っていたが、出来れば時間が許す限り、ナラゴニアの情報を聞きだしたいと思っていた。 「世界樹旅団のトップの名前、姿は?」 「トップ……園丁だな。そのなかで特別であるのは「原初の園丁」シルウァヌス・ラーラージュ……はじめて世界園丁になった者と言われている」 「はじめて……じゃあ、複数いるのか?」 「ああ。それを彼が束ねているんだ。何千年も昔から……彼自身の本来の年齢は不明だが、見た目だけをいえば白い衣を纏った知的な青年だ」 その言葉に隆樹はシャドウ・メモリの尋問をまとめた報告書を思い出した。シャドウに園丁の姿に変身させることに成功したのだ。その姿が目麗しい知的な美青年だった。 「予知能力があるらしいが、具体的には?」 「予知能力?」 銀猫伯爵は首を横に振った。 「あるとすれば、遠くのものを見るというものだけだ。もしかしたらその力を君たち側が予知能力だと誤解したのだろう」 隆樹はさして表情も変えず、矢継ぎ早に次の問いを投げた。 「イグジストはなんなのか、銀猫伯爵が知っている範疇で教えてほしい」 「……私もすべて理解しているわけではない。ただはっきりと言えるのは、イグジストは世界樹であり、どの世界にも属することはなく、強い力を持つ……そうだな、たとえていうならば神のようなものだ」 「神」 隆樹が繰り返す言葉に銀猫伯爵は、そうだ、と微笑んだあと果汁の飲み物を口に含んで唇を湿らせた。 「ろくでもない神だ……次は?」 グレイズがむすっとした顔で手をあげた。 「ここの人口はどれくらいなんだ? 俺たちみたいなのが紛れこむとわかるほどに少ないのか?」 「全員が知り合いということはない程度には……そうだな。君たちがただ歩いていて見咎められることはないだろう。でなければさすがに潜伏する者の面倒見ようとは私も思わないさ」 「ちっ。そうかよ。じゃあ、衣服は? この世界で一般的なものとかあるのか?」 「君たちの属する世界図書館側にも様々な世界から覚醒したものがいるだろう? それと同じだ。みな、それぞれ好きな姿をしている」 ふぅんとグレイズが相槌を打つと質問は終わったと察して二人が手をあげた 「コケ、聞く」 「私も」 ほぼ同時に元気な声をあげたのはコケ、その横にいたヒイラギが静かに挙手していた。 「えっと」 「先にどうぞ」 ヒイラギが譲ってくれたのにコケは感謝をこめてぺこんと頭をさげたあと、銀猫伯爵に向き直った。 「この世界の常識、知りたい」 「ああ、私も同じです。出来れば、私たちの知らない常識があれば……不審に思われるわけにはいきませんから」 情報は武器になるというのがヒイラギの考えだ。今一番の武器は「見つからない」だ。 「常識か……先ほども言ったように、様々な世界から集まった者たちの集団である以上、共通した常識といえば世界樹に従うということ以外は基本的にはない」 「そうですか」 「……じゃあ、特別に勉強することない?」 コケは念を押す。 「ああ、安心していい。ほかには?」 「もう一つ」 「ある」 同時に挙手した隆樹とグレイズは互いに顔を見合わせ、隆樹が黙って身を引いて譲った。それにグレイズはちっと舌打ちしたあと、金色の目を眇めた。 「ここは木が多いよな、あれは火がつくのか?」 「世界樹以外はほとんどが普通の樹だ。火をつけようと思えばつく」 「あと、あんたがここにいるうちは面倒みてくれるっていうが、他にいいところがあればそっちに移ってもいいんだな」 「君の仲間がそれを承知しているならば、構わない。ただし、園丁には視る力がある。ここにいれば私の力の及ぶ範囲で君たちを守ることは出来る」 「それについて気になってんだ。あんた、園丁に目をつけられてんだろう? ここは監視されてるんじゃないのか?」 「私が、覗き見を許すと?」 銀猫伯爵は嫣然と微笑んだ。 「私の力は、以前、君たちに示したよう、大雑把にいえば干渉能力だ。この屋敷は私のテリトリーであるから他の干渉を拒絶する程度のことは出来る。もっと言えばこの屋敷にいるならばあいつらの目を多少とはいえ誤魔化すことは出来る。ただし、それ以上は無理だ」 「案外、あっさり言うんだな」 グレイズが探るように片眉を持ち上げる。 「自分の能力の限界を知っているのさ。シャドウの一件で、私は一応、従っていると思っているようだからな」 「ちっ。そうかよ。じゃあついでに聞くぜ、あの亡命者は全員、無事なんだろうな? 針を埋め込まれてるとかねぇんだな?」 「その点については大丈夫だ。つけくわえるなら、君たちも針を恐れることはない。あれは本来覚醒しない存在をした状態にするものだから、すでに覚醒している君たちをどうこうできるものではない……隆樹くん、なにかあるかい?」 「シャドウはどうやって作られた物なんだ?」 隆樹の問いに銀猫伯爵の耳がぴくりと動いた。 「作られた? そんなことをあれが自分で言ったのか?」 「違うのか?」 「私の知る限り違う。シャドウは覚醒してここにやってきたはずだ。あれがここにきたとき数名の者が食われて大変な騒ぎになったからよく覚えている」 「じゃあ、類似品は? 今後あいつみたいなのが作られる可能性はないのか?」 「今のところ、似た力とすれば、ウォスティ・ベルだろう。彼は変身能力があるが、一時間しか出来ないはずだし、シャドウのように記録する術はないはずだ。……彼以外にいるかと問われれば、さすがにこの街の全員を知っているわけではないのでわからないとしか答えられないが」 そこで銀猫伯爵は言葉を切って、眉間を寄せると己の唇を指でなぞった。 「なにか気になることがあるのか?」 「……何か大切なことを、そう、シャドウについて忘れている気がする……まさか、記憶を消したのか」 「記憶を消す?」 「ああ、あいつは、自分に関する記憶ならば消すことも出来る。ただし、接触しない限りは不可能だが……引き渡しのとき私はあいつに鈍姫を通して接触しているからな……作る、……だめだ。思い出せない。ただ、作る、そう、何か作れたはずだが」 しばらく銀猫伯爵は考えていたが、諦めたように首を横に振った。 「あとで矢部に尋ねてみてくれ、彼ならわかるかもしれない」 そのとき、遠慮がちにドアがノックしてアマリリスが顔を出した。 「邪魔をするぞ。そろそろ休憩してはどうだ? もうかなりの時間が経っている夕食の準備をしようと思っているのだが、キッチンを借りても構わないか?」 「台所は、屋敷の一階の右奥にあるので好きに使ってくれて構わない」 と銀猫伯爵が応じる。 「……もうかれこら僕たちは三時間もここにいるようだね」 メルヴィンが懐から懐中時計を取り出して時間を確認すると周りにいる者たちを見回して、頷いた。 「あまり根詰めて我々が参ってしまってはなににもならない。休息も仕事の一つだ」 その言葉に張り詰めていた空気が抜け、各自、椅子から立ち上がる。 最後まで椅子に腰かけていたのは銀猫伯爵だった。小さなため息とともにゆっくりと腰を浮かせると、 「伯爵」 わざと残っていたコケが遠慮がちに近づいていく。 「なにかな?」 「伯爵を、コケ、信用する……コケに出来ることあったら言ってほしい。世界図書館の一員として、出来ることはやる。やってみせる」 彼がシャドウを殺したことは報告書でコケは知っている。 コケにとってシャドウは仇であった。 コケのインヤンガイの知り合いのほとんどはシャドウの手によって殺され、食われてしまった。 それはコケの心を深く抉った。 出来れば、自分の手を汚してでも殺すことを望んでいた。しかし、冷静な自分が自分に問う。自分がシャドウを殺せただろうか? 言葉に出来ない激しい葛藤はずっと心の底で燻り続け、未だに答えを出ていない。 銀猫伯爵が自分の意思ではないにしろ、シャドウを始末してくれたことには感謝はしている。しかし、それで礼を口にすることは今のコケには出来そうにない。 「君はこちらに残るのだったね」 こくんとコケは頷く。メルヴィンにも最初に確認されて引きとめられた。――危険だから帰るべきだと……それにコケは頑なに首を横に振って拒否した。軽い気持ちでないこと、揺るぎない決意を知ってほしかった。 メルヴィンは眩しいものを見るように目を細めて問うた。 「なぜ、きみはそこまで潜伏したいんだい?」 「……ここで何も出来ないこと……コケは、コケが許せなくなる」 ――自分も戦える。ちゃんと戦力になる。覚悟もしてきた。 今まで常にコケは仲間たちから守られる立場にいた。そのたびに自分の幼さと無力さに落ち込んでいた。 必死に考えて、考えて、自分なりに戦う訓練もしてきた。 「この仕事をこなす力がついたら、戻る」 「帰れないかもしれないのだよ? 仲間のなかには君のことをとても心配している者もいるだろう。メルヴィンは君に帰るようにすすめたのではないのかね?」 「うん。けど、コケ、決めた」 「ならその仲間たちの元へと戻る努力をしなさい。死なない努力を、愛する者に涙を流させない努力を……生きる者には、それぞれに役割がある。出来ることがある、出来ないことがある。それを我々は共にいて補い合う。戦うことも必要だろうが、待つ者も必要なんだ。己の帰るところを、癒してくれるところを、戦う者は常に求めているのだから……君自身が君の役割をよく理解し、その上で、最もいい選択ができるように私も出来るかぎりしよう。さぁ、今は夕食の準備を手伝いに行ってきなさい」 「うん。コケ、手伝う! 出来ること、する!」 コケは葡萄の形をした瞳を大きく開いたあと、とてとてと小走りに駆けていった。 「矢部さぁん! こっちに来てくれるんですかぁ? 本当の本当にぃ? いやぁーん、すごくうれしいですぅ☆」 「! 撫子はん、たんま……!」 川原撫子は二十人のなかから着物姿の矢部を見つけ出すと、赤い色を見た闘牛よろしく突進した。それも両手を広げて。 がしぃ。 何度も何度も依頼でぶつかりあった矢部の心変りが嬉しくて、撫子は力いっぱい喜びを抱擁で表現した。 結果、ごきぃ――骨の砕けるような音とともに圧迫された矢部はがくりっと気を失った。 「よかったです。よかったでぅ~……って、あれ? 矢部さん? どうしたんですか?」 「気絶してるで、この人」 撫子の肩に乗っている黒い蚕姿のムシアメが冷静につっこむ。 「えっ? なんで気絶しちゃうんですかぁ? あ、嬉しいからですねぇ~☆」 ちょっとだけ人よりも優れている腕力のことをど忘れして全力を出してしまった撫子はぶりっこで誤魔化す。 「撫子はん、他の亡命者が怯えてるで」 「矢部がいきなり締め技かけられてるぞ」 「ありゃ死んだか?」 「拷問か? なぁ、あれは歓迎を装った拷問なのか? 銀猫伯爵、ちょ、助けてくれ。殺される!」 「えーと、えへ☆ 嬉しくて、失敗しちゃいました☆」 舌を出して自分の頭をぽこっと殴ってみる撫子。しかし、気絶している矢部を片腕で持っている地点で、怖いだけである。 「完璧に怯えてるで」 「あ、あーん。違うんです。違うんですぅ!」 ゆさゆさと気絶した矢部を振りまわして撫子は必死に弁解する。その姿がますます亡命者を怯えさせていることにそろそろ気がついたほうがいいかもしれない。 「意図したことではないにしろ、傷つけてはいけませんね……撫子さん、こちらに来てください」 「へ? アルティラスカさん? なんですか?」 「私の力で、撫子さんの力を少し使えないようにしようと思います」 「使えない?」 「ええ。みなさんに迷惑をかけるわけにもいきませんから、隣の部屋に行きましょう」 アルティラスカに手招かれるままに撫子は横の部屋に移動する。 五分後。 撫子はふらふらとした足取りで戻ってきた。心なしか、顔がやつれている。その横にいるアルティラスカは優しい笑顔を絶やさない。 「……なにしたん?」 ムシアメが尋ねる。 「私自身を遮二無二なものへと変えて、疲労させたんです」 「へー、それはええかもしれんなぁ」 肉体的に疲労の極限に達している撫子は無意識に馬鹿力を発揮することはなく、本当にただの女の子になっている。 「あぅ~、これならぁ~、だいじょうぶですよぅ~☆」 亡命者たちはなんともいえない顔で、ふらふらと寄ってくる撫子相手に困り果てている。 「悪気はなんいだよ。この子も。こんにちは! ボクはフランチェスカ! 気軽にフランって呼んでよ!」 「悪気はないって……力加減もできないようなやつがこの件に関わるのか……俺たちを助けること以外を目的にしている奴もいるみたいだし」 亡命者の一人が怪訝な顔をして、次にはジャック・ハートを見た。 「俺サマはジャック・ハート。半径50m最強の魔術師ッてナ。大船に乗った気で居ろヨ、ヒャヒャヒャヒャヒャ」 ジャックの見た目としゃべり方は無意識にも他者を威圧する雰囲気があるせいか、亡命者は怯えている。 「あー、あれはね。ああいう人なんだよ。こらー、ジャックー、怯えさせちゃだめだよー」 「アン? 俺がいつ怯えさせたァ」 睨みつけてくるジャックにフランチェスカは肩を竦めた。 「そのしゃべり方と君のカッコだよ。うーん、いきなり噛みついたりしないよ?」 「俺は猛獣かァ! アアン? 辛気臭いツラしてンじゃねェヨ。テメエら自分で自分の運命掴み取ろうと思ったンだろォ? 手助けならいくらでもしてやるゼ……俺たちゃそのために来てンだからヨ」 「そうそう、ジャック、いいこと言った! ……気になってたんだけどさ、君たちのところの依頼システムってどうなってるの?」 「どうって……銀猫伯爵や、ドクタークランチみたいな指揮官がそれぞれに見合った仕事をわりふるんだ。……戦争みたいな大きなものは募集がかかるけど」 「ふぅん。コッチはさ、完全に挙手制の自由型なんだよね。それを上は否定しないんだ。ねぇジャック」 フランチェスカの説明にジャックも同意して頷く。 「アァ世界図書館じゃ戦うのは義務じゃねェ。依頼も戦うモンや調査とイロイロと自分がやりてぇことを好きに選べる。みんな普通に零世界で生活してるゼ。ハンスも今は普通にパン屋してるしヨ。最初はホワイトタワーで質問されるかもしれねェが……じきに後見人がついて普通に生活できるようになると思うゼ」 「そういうコト。ここに来るのはそれだけ自分なりに覚悟があるからさ。信用してよ」 「そ、そうですぅ! 嬉しくて、つい矢部さんを気絶させちゃいました。お話して良い方だと思いましたからぁ、ずぅと世界図書館側にお誘いしてたんですぅ! 人はいくらでも変われると思うんですぅ。戦いたくなくて、今苦しんでる方が居て、それを助けられるなら……出来ることをしたいじゃないですかぁ☆ これ、用意したんですよぅ! みんなで食べましょぉ」 撫子がディパックから取り出したのはパンだ。 「ハンスさんのパンですぅ! いっぱい作ってもらったんですよぅ~☆」 現在疲れ切っている撫子にとってはこれらの荷物は重いらしく、必死に引きずっているのにフランチェスカにアルティラスカ、アマリリスが配るのを手伝った。 「本当だ。これ、あいつのパンだ」 「銀猫伯爵が言ったことは本当なのか?」 まだ疑いが拭いきれないでいた亡命者たちはパンに顔を緩めた。 「ターミナルはそれぞれ色々なものを抱えた人も多いが、基本的に愉快なイベント大好きな者達の集まりだ。よければターミナルの風景を見てみないか?」 アマリリスの誘いに亡命者たちは互いに顔を見合わせ、困惑げに頷く。彼女が指を鳴らすと、ぱっとターミナルの風景が現れ、ほぉと亡命者たちから感嘆のため息が漏れた。 「あら、あなた」 幸せの魔女は目ざとく、その女――肉体的な年齢でいえば、三十代に足を踏み込んでいるにもかかわらず、なんともいえないゴスロリを身に付けた魔女、否、魔女っ子のグルナッシュだ。 「なによ」 「なんでこんなところにいるのかしら」 幸せの魔女の胡乱げな視線にグルナッシュは肩を竦めた。 「ナラゴニアじゃ、完全に負け組なわけよ。つきあってらんないわ」 「まぁ、負け犬なのね。そうね、そんな恰好をしているイタイタイプじゃねぇ」 幸せの魔女がずけずけと言う。 「魔女っ子でイタイ姿のおねえさん? うふふ。おねえさんもこっちにくるんだ」 リーリスがにこりと笑って幸せの魔女の反対方向からグルナッシュを囲んで逃げ道を塞ぐ。 ひと癖もふた癖もある二人の女の子に囲まれた魔女っ子はいやな顔をしているのをベルファルドは不思議そうに眺めた。 「え、じゃあ、この人も魔女さんのお友達になるの? 魔女っ子さんなんだよね?」 「ベルファルドさん!」 きっと幸せの魔女が親の仇を見つけたような怖い顔で叫んだあと、すぐに冷静な笑みを浮かべるとベルファルドの片腕をとり、さらには腰をとって自分に引き寄せた。間近で見つめ合いたまま幸せの魔女は優しく説明する。 「魔女と魔女っ子は似て非なる存在なの、決して同じではないの。むしろ、敵なのよ。出会ったら最後、己の存在を賭けて戦わなくちゃいけないのよ」 「え、えーと、そうなの? けど、亡命者サンとは仲良くしないと、ね……?」 魔女と魔女っ子の違いについてははっきりとわからないが、幸せの魔女の全身から放たれる怒りを察したベルファルドはそれとなく話題を逸らした。 「彼女が亡命者である以上は、まぁ守ってあげてもいいわ」 「あ、アルティラスカのおねえちゃんにこの人の監視をお願いすればいいんじゃないのぉ? だってぇ、なにか企んでいるにしても、もう計画を知った以上はほっておけないものぉ~。アルティラスカのおねぇちゃんのこと、呼んできてぇ!」 「まぁ、リーリスさん、この私を顎で使おうなんて……ふふふ、まぁいいわ。魔女っ子といると、ターミナルで最も寛大だと有名な私の我慢もすぐに切れてしまいそうだし。さぁ、ベルファルドさん、一緒にいきましょう」 「え、ええ~」 (んふふふ~。これで、アルティラスカは大丈夫よね?) リーリスにとって一番脅威なのは相性最悪のアルティラスカだ。出来れば近づきたくない。 だからリーリスにしてみれば、うさんくさい亡命者は大歓迎だ。 (あとはレナとアマリリスも) 呑気に考える今も他から精神応感させないか警戒を怠ってはいない。 二重構造――人に見せる用の精神の殻のなかに本性を隠しているのだ。それにもし誰かが干渉してきたら撃退するつもりでもいる。 気になっていたのはジャックだが、幸いにも彼は無闇やたらと探る様子はない。 メルヴィンがいるからことさら精神を盗み見るような真似はしなくていいと判断したのだろう。それに亡命者を疑う真似はこの作戦においてはマイナスにしかならない。 んふふふ。よかったぁ。 私、ちゃんとアンケートに答えたわよ? 幸せの魔女が行ったナラゴニアで自分がどういう行動をとるのかという簡単なアンケート。 そのときリーリスは言った。 「帰還するわ。だって、少ない人の味方をしたいもの。……リーリスは亡命者の味方よ!」 けど、それが「ナラゴニアからの亡命者」とは一言も言っていないわよ? リーリスは楽園とディーナに目をつけた。 楽園は前から世界樹旅団に寝返った男を探していた。ディーナはある依頼で心を壊して世界図書館を敵視している。 つまり、二人は依頼されたこと以外――帰還するのと潜伏する以外のどちらかを選ぶ可能性がある。 私が味方をするのは世界図書館側から世界樹旅団へと亡命するひとたち。 それって二人だとしたら、すごく、すごく少ないよね? つまりね、そういうこと。 嘘は口にしていないわ ただ、言うべき言葉を省いただけ。 (だって、ね。そうでしょ?) オニキスの指輪を冷ややかに見つめて、キスを落とす。己を縛る忌々しい首輪。いつかそれを破壊してやりたい怒りの炎は未だに心の底で燻り続けている。 けどね、いまは、まだそのときじゃない。 悪辣な悪女のようにリーリスは頭を巡らせる。 今回は、世界図書側からの亡命者に協力してあげる。 ただし表だって行動したせいで司書に報告が行ったりしたら、今後の行動に支障をきたしてしまう可能性がある。 だから、こっそり。 邪魔になりそうな相手をリーリスは実にさりげなくチェックし、楽園とディーナの二人を守ることにした。 これで、少しは行動しやすいかな? まだ二人は事を起こさない。 楽園は大人しすぎる……もしかして読み間違えた、かな? けど、ディーナは――スレッドライナーでの移動中、恐ろしいまでの集中力を発揮して頭のなかで歌を唄って、自分の精神を誰にも読まれないように守り続けていたことをリーリスは知っている。 誰にも邪魔させない、深い深い決意。ああ、美味しい! 絶望と怒りと焦燥の闇! 楽園に期待ができないならば、ディーナを全面的にサポートしてあげればいい。 ――この甘美さのぶんだけ、サービスしてあげよっと 「お姉ちゃん」 部屋の隅にいるディーナにリーリスは軽やかな足取りで近づいていく。 「なに?」 「我慢しないでいいよ、貴方の想いを」 優しい毒をリーリスはさりげなく注ぐ。ディーナの返事など待たない。待たなくていい。ただ背中を押すだけ。 「さーて、私も御挨拶しなきゃ!」 スキップしながらリーリスは困惑している亡命者に歩み寄る。 「初めまして、ナラゴニアのお兄さん、お姉さん。私はリーリスで、世界図書館の一員よ。リーリス、生きる者全てが自分の生きたいように生きる権利があると思うの……行動を起こそうと思ったお兄さん、お姉さんたちの意志を歓迎するわ」 そう、歓迎するわ、ディーナ! 夕食は比較的和やかに進んだ。 四十人近い者がいても、全員が食事出来るテーブルと椅子が食堂にはあった。 ターミナルで喫茶店を営むアルティラスカや料理の腕前は壊滅的なので準備にまわったアマリリス、力仕事ならば誰にも負けない撫子が率先して動いた。料理はコケと七夏が大いに腕を振るった。 ヒイラギはなぜか執事の装い、まるで使用人のように人々のなかを働いていた。 今回の潜伏がばれた場合のため、使用人のふりをしたいとヒイラギは銀猫伯爵に提案したが、屋敷には使用人はいないそうだ。隠居の形をとっているが、幽閉された身分である銀猫伯爵は人との関わり合いを極端に制限され、屋敷も一人で暮らしているのだ。生活の不便から街から数日に一度の奉仕人が訪れることは園丁が許可したのだ。 ならば奉仕人のふりをするぐらいは叶うかもしれないと、亡命者の一人が持っていた執事の服を拝借し、さらに屋敷の間取り、敷地をすべて頭のなかに叩きこんでおく。 「七夏さん、夕食、大変おいしいですよ。あなたががんばったおかげですね」 「今の私には出来ませんから」 ヒイラギの賞賛に七夏は照れて言い返す。七夏はこの世界の虫に接触し、情報を引き出せないかと考えたのだ。――ナラゴニアには誰かの管理・支配している生物しかいないので、もし虫がいたとしてもそれは百足か、それ以外の蟲使いの使い魔なので下手に近づくのは危険だと銀猫伯爵から言われたのだ。 「出来ること、する。コケもする。植物、探す」 コケは食事が終わったあと、レナに協力してもらい屋敷から少しだけ外へと出るつもりだ。この周辺に生えている樹は世界樹と関わり合いのない普通のものもあるので調べたとしても問題ないらしい。ならば調べて、もし毒性のものがあればそれを武器にしたい。 それに世界樹が見えるならば、見ておきたい。あれだって、植物のはずだ。 「それでしたら、私も、及ばずながら協力させてください。薬の知識は多少ありますので」 ヒイラギの申し出にコケは頷く。 「うん。一人でするより、二人がいい!」 「矢部さぁんは、刀の使い手を探しているんですよねぇ? ターミナルについたら私、協力しまぁす」 「いや、それはもうええねん」 「え?」 「はじめて会ったときに言ろ? 自分の刀、使える人が一人だけおったて。それが銀猫伯爵でな。あの人が戦うなら、それで満足や……問題は夢破る剣や、あれは人を不幸にしすぎた。壊さなアカン」 「あれってぇ、ディーナさんが持ってるんじゃないですかァ~?」 撫子が問うとディーナは首を横に振った。 「……あの剣は……司書に預けてあるから」 「そうですかぁ~。残念ですねぇ」 ディーナを見た矢部は険しい顔で口を開こうとしたとき 「あんたが矢部さんか」 「隆樹はん? どないした」 突然隆樹に声をかけられた矢部は不思議そうに首を傾げた。 「シャドウについて知りたいんだ。こいつが気に入っていてね」 隆樹が自分の影からぬっと顔を出した相棒を指差す。銀猫伯爵に投げた質問をそのまま尋ねると、矢部は頷いた。 「シャドウは作られたもんやない。自分たちと同じで覚醒してきたんや。あれがここに来たとき、数名食われてずいぶんと大事やったのを覚えとる。わかる範囲で言えば……同じ能力やと、カップ=ラーメンやな。あれは旅団のモノに数分やけど変身出来る。……あと、シャドウの人格のベースになっとるんはあの笑い方からして一番はじめに食われた死者使いやろう」 「死者使い?」 「そうや。死者を使う能力を持った男でな、……いや、待て。そういえば」 矢部は考えるように顎に手をあてた。 「シャドウは死者使いの能力ももっとるって以前言うとった、自分の記録のコピーをとって、死者のなかに埋め込むん」 「コピー? あいつは自分の記憶をコピーできるのか?」 「え、そうなの」 ひょこんと横から顔を出したのはなんとか幸せの魔女から逃げてきたベルファルドだ。 「あ、ごめん。ちょっと、シャドウについてはさ、気になってて……だって簡単に死ぬタイプじゃないし、ずっと、報告を受けてからもやもやしてたんだ。だからシャドウのこと、話しているなら混ぜてほしいかなーって」 「ハハ、ええよ。ええよ。……コピーの話はな、本人が言うことを信じればある。……ここからは推測やけどシャドウはな、もう滅んで影も形もない世界の記憶が実体化したモンやろうって。それが人間を喰って、知識を得て、人格ぽいものが出来た……伯爵がシャドウ・メモリって名を与えたんよ」 「それだと、シャドウって、銀猫伯爵とすごく仲がいいんじゃ……?」 ベルファルドの当然の疑問に矢部は苦虫を噛み潰した。 「シャドウは破壊や破滅を、伯爵はマチルダと反対のことを願ったから決別したんよ……シャドウっていうのはな、実態のない幻、何者でもない、誰にもなれない、不幸な存在って意味や。あいつの口癖の、誰でもない、何者でもないっていうのは、名前の意味や」 ベルファルドは胸の前に手をおいた。もし、シャドウに自分のことを大切にしてほしいって言ったらどうするだろうって、ずっと考えていた。 やはり胸がもやもやする。――ギャンブルするとき、絶対に席についちゃいけないテーブルに間違えて座った感じだ。 「シャドウそのものは記憶やけん、コピーそのものは簡単らしいわ。けどそれを留めておく器がないとあかんらしい。コピーでは具現化までは出来んらしいから死者使いの能力でなんぞ器を作るとかいうとったけど、詳しいことは誰にもいうてへん……そもそもシャドウが器にするための覚醒したモンの死体なんてそんなぽんぽんあるわけもないしな」 「あの、ここにお墓とかあるんですか?」 おずおずとベルファルドは尋ねた。 「墓地はあるにはあるが」 「……そこ、近づいたらだめだと思う」 真剣に、きっぱりとベルファルドは断言する。 「なんや?」 「理由は、わからないけど」 ふぅん、隆樹は気のない相槌をうつ横でヴェンニフは何かを期待するようにちろちろと尻尾を震わせた。 ★ ★ ★ 夕食のあと銀猫伯爵は書斎にこもり、安楽椅子に腰かけてしばしの休息をとっていた。目を眇めて窓の外、庭を埋め尽す白い花を見つめる。 「……マチルダ」 「それがあなたの恋人の名前かしら?」 ドアの前に両手には紅茶とポットを載せた盆を持って東野楽園が立っていた。夜色のドレスは華奢な肉体を包み、金色の瞳が三日月のように細く、唇は赤い花弁のように艶やかに笑みを浮かべる。 「ごめんなさい。立ち聞きするつもりはなかったのだけど、聞こえてしまったから……紅茶はいかがかしら?」 「ありがとう。狭いところで申し訳ないが、さぁ、ソファに」 部屋にはいる許可を得た楽園は猫足のテーブルに紅茶を乗せた盆を置くと、窓から外へと視線を向ける。 「この庭の花は真っ白で、どれも美しいのね。確か、『マチルダ』……あなたの恋人は、この花のような人だったのかしら?」 「……マチルダは、そう、強く、気高く、温かな人だよ」 「その方のこと本当に好きなのね、墓守として余生を過ごす位に」 そのとき銀猫伯爵は過去形でマチルダのことを語っていないことに楽園は気が付いた。 「それは言葉が美し過ぎる。私は幽閉されたんだ……友人たちが園丁に懇願してくれたおかげで生きている。そのあとはずっとこの屋敷に隠れていたにすぎない」 「あら、あなたは今、動いているわ」 楽園にしては珍しい寛容さを示した。 それは銀猫伯爵のなかに自分を見ている気がしてならないからだ。 「あなたさえよければお墓に行けないかしら? ご挨拶に伺いたいの。庭にお墓があるのよね?」 「構わないよ。……本物に会いに行こう」 「ほんもの?」 楽園の言葉に銀猫伯爵は頷いた。 「この庭にある墓にはなにも埋まっていないんだ。私が……あのとき、私が怒りに身を任せて世界樹に斬りかかった。そして、ここに閉じ込められた。私の浅はかさゆえに彼女にはそれから会えていない。耐えきれない寂しさから庭に花を作り、彼女の剣を埋めたが……本当の彼女はこの街の墓場にいるはずだ。表向き従う今ならば会いにいけるだろう」 「そう、だったの……銀猫伯爵、私はこちらに残るつもりなの。好きな人がいるから、その人を殺すことが私の宿命なの。あなたは知っているかしら? そちらに寝返った……ヌマブチさんというのだけれど」 楽園は滔々と感情のこもらぬ声で語る。 「彼がどうしているのか噂でもいいから知りたいの」 「直接は会っていないが、任務にも赴いているようだね」 「ええ。……私はね、彼に会えるチャンスに賭けて、ここにきたの……紅茶が冷めてしまうわ。すぐに用意するから」 ソファに腰掛け、紅茶の用意を楽園がはじめると、主人思いの毒姫がひょっこりとあらわれると首を動かして見上げてくる。優しい毒姫の頭を撫でながら、楽園は続けた。 「私はなんの力もない、ただの小娘。けれど、世界樹を憎む気持ちは誰にも負けるつもりはないわ。ねぇ、そうでしょう。誰が恋敵に寛容になれるのかしら? さぁ、紅茶が出来たわ。飲んでちょうだい」 一度、話を打ち切った楽園は膝の上に毒姫を抱え、両手にカップを包み、ゆっくりと茶色の液体を飲んだあとぽつりと独り言のように漏らした。 「私はあなたに近いものを感じるの。どうしてかしら? この胸に秘めた復讐の心が共鳴しあうのかしら?」 銀猫伯爵はその問いにはあえて答えず、紅茶を味わった。 「とてもおいしいよ」 「よかったわ。コケさんが安心できる葉っぱをくださったの」 「……君は復讐というが、ヌマブチくんと会えた場合は殺すのかい?」 「それが私の宿願ですもの」 祈るように楽園は目を伏せた。 「そして、今度こそ永遠を手に入れるの」 「……永遠は、人の手に余るものだ」 楽園は閉じていた瞳を開く。その瞳は剣呑な輝きを宿していた。 「永遠はすべての停止であり、無であり、後退でしかない。……私はただ理想を追っているにすぎない。それが力あるものの義務だからだ。私のなかに憎悪がないとは言わないがね」 耳に痛いほどの静寂が二人を包んだ。 「……ねぇ、銀猫伯爵……体のなかに爆弾を埋め込まれてるそうだけど、もしその埋め込まれた部位……手なり足なりを切り落とせば、こちらに帰ってくるのかしら?」 刹那の光を、虚ろな瞳が宿して遠くを見つめる。 「以前、クランチを殺せば支配から解放されると私は答えた。クランチの能力は部品に頼っている。その理屈でいえば、君の考えは正しい。……部品の埋め込まれた部分を切り落とせば自由になれる。ただし、その部分が心臓や脳の可能性も否定できない」 「そう……素敵、ステキね」 なら、部品のある邪魔な肉体を切り落としてしまえばいいのよ。楽園を作りましょう。私の永遠の幸せはそこにあるもの。そうしたら永遠に私のお人形さん。どこでもいいわ。どこでもいいの。切り落として持って帰れば。ずっと、ずっと一緒! 「楽園」 深く、優しい、幸福な永遠を孕んだ奈落に沈みゆく楽園の手を銀猫伯爵の手がとった。 「許せないことは許さなくていいんだ。憎んでも、悲しんでも……けれど、いつかすべてを許してあげなさい。いつか、でいいんだ。楽園」 じっと楽園の目が銀猫伯爵を見つめる。銀猫伯爵は手を握ったまま見つめ返した。 沈黙を、ドアのノック音が破った。 メルヴィンとアマリリスの二人が顔を出す。 「……私は失礼したほうがよさそうね」 すっと楽園が立ち上がるのに銀猫伯爵は手を離して頷いた。 「君と彼が会えるように出来る限り協力しよう……おいしい紅茶をありがとう、片付けは私がしておく。君さえよければ、明日は庭で飲もう。そして、墓地に行こう。約束だ。楽園」 「……ええ。おやすみなさい」 毒姫を両手に大切そうに抱えて、楽園は迷いのない足取りで部屋を出ていくのにメルヴィンがちらりと一瞥を向け、銀猫伯爵に向き直った。 「あの子は確か、こちらに残ると言っていた」 「少し世間話を……気を配ってあげてくれ」 銀猫伯爵の言葉にメルヴィンは頷き、アマリリスを見た。 「アマリリス、残る者のことは君に任せるよ」 「わかった。出来る限り気を付けよう」 夕食のあと、メルヴィンが潜伏する者たちを心配して、説得を試みるのにアマリリスはきっぱりと断言した。 「残るのは自由意思。皆それ相応の覚悟は決めている。自分の人生の選択だ。周りがとやかく言うものではないだろう……心遣いには感謝している。私は全員で帰還するために努力する。あなたは、帰還する者たちに気を配ってほしい」 その言葉に、メルヴィンは帰還組を全力でサポートすることを誓い、かわりに潜伏組のことはアマリリスに任せることにしたのだ。 三人での意見交換のなか、アマリリスが切り出した。 「私から提案なんだが、ウッドパッドを借りられないだろうか? あれでターミナルにいるハンスやキャンディポットの状況を知れれば、亡命者たちも安心すると思うのだが」 タイミングを図ったようにドアがノックされて、隆樹が顔を出す。 「僕もいいか? ウッドパッドについて聞きたいことがある」 隆樹も亡命者のウッドパッドを手入できないのかと考えていた。連絡をスムーズにとれる手段として、ウッドパッドは申し分ない。しかし個人が特定される、情報が盗み見られるという危険性を気にしていた。 隆樹、メルヴィン、アマリリスをソファに座らせた銀猫伯爵は立ち上がると、樫の木で作られた机から二枚のウッドパッドを取り出した。 「亡命希望者のものは私がすべて預かっている。……これは個人の特定が出来る。たとえば、私が矢部に連絡をした場合は、こうなる」 銀猫伯爵は三人の前の座ると、二枚のウッドパッドのうち片方を三人の前に置くと、もう一枚を慣れた手つきで操作した。 三人の前にあるウッドパッドの画面に不思議な文字が、続いて銀猫伯爵の送ったらしい「テスト」の文字がある。 「ウッドパッド一つにつき、決められた番号があって、それで個人が特定できるというシステムになっている。隆樹がいうような他の人間のメッセージを勝手に見るといったことはないが、個人は特定される」 ウットパットの通信システムは壱番世界でいうところの携帯電話による通話・メール機能と良く似ている。 「そして、これは君たちから譲られたノートだが」 銀猫伯爵はノートを取り出すと、真っ白なページを開いた。 「何度か試しに私はこれで君たちにメッセージを送った。しかし、返信はなかった。君たちがこちらへと来たときに確認すると、こうだ」 隆樹や他のメンバーがノートに書いた情報がびっしりと綴られている。 「我々の書いたメッセージは見えている、ということか」 メルヴィンは渋い顔をした。 そもそもトラベラーノートのエアメールは「相手の名前・顔・階層」の三つがわかっていてはじめて届くというシステムだ。 銀猫伯爵が連絡出来たのは世界図書館からノートを入手し、ハンスなどの顔を知っている者がいたからだ。 今回の依頼に携わる者たちは元々、ターミナルから来たのだから、階層を理解しているのでノート連絡がつけられる。しかし、ターミナル側は常に移動し続けるナラゴニアの位置を特定できず、返事が届かないのだ。 「なら、ウッドパッドを借りるのはやめておいたほうが無難だな」 アマリリスは渋い顔でノートとウッドパッドを交互に見つめた。個人が特定される危険性を考えれば、ノート連絡のほうが格段に安全だ。 「ウッドパッドを持ち帰ることは出来るだろうか?」 「私が預かっているのでよければ可能だ。君たちの好きにしてくれて構わない。あと明日、私は外に出る」 「外に?」 メルヴィンが険しい顔をした。 「私は一応、今後の侵略に関わる予定なので、屋敷に籠っていては疑われる。……そのとき、君たちのなかでここに滞在する者を数名連れていきたい」 「しかし、危険だ」 慎重なメルヴィンに隆樹が反論した。 「僕は銀猫伯爵に賛成だ。もしもの事態のとき何も知らないところに放り出されることになる……僕は影のなかに入るが、構わないか?」 「ああ。構わないよ。……街に出ることは無理意地するつもりはない。明日希望者を募ってみよう」 Ⅱ・街 翌日、銀猫伯爵が外に出るのに隆樹、それにグレイズ、ムシアメ、ヘータが挙手した。 昨日のうちに承諾を得た隆樹は、銀猫伯爵の影に身を隠した。 「わいも、この姿やったら目立たんやろう? 踏まれるの避けるためにもちょいと浮いてもええし」 蚕の姿のムシアメはそもそも目立たない。 「旅人の外套と効果の効果が良いよね? 普通にしていれば良いこと?」 ヘータの問いにちっとグレイズが舌打ちした。 「テメェ、それでばれちまったらどうするんだ?」 「ばれる、多く、悪いコト」 しょんぼりとヘータが俯く。 「そもそもや。今回はチケットもらってないから、旅人の外套や足跡効果はないんちゃうん?」 ムシアメのつっこみにグレイズの機嫌がますます悪くなった。 「あぁん。じゃあどうすんだ? 俺らがぞろぞろ動いたら目立つぜ」 銀猫伯爵がやんわりと助言した。 「いや、大丈夫だろう。……心配なら私から距離をとれば同じ方向に歩く通行人ぐらいに目立たないよ。ただ、行動を起こすならば慎重にしなくてはいけないよ? 君たちだって、街のなかで不審なことをしていれば気に留めるだろう? そうなれば「知らない者が、変なことをしている」と目立ってしまう」 グレイズは目を眇めて舌打ちすると頭を乱暴にかいた。 「君たちはまだここを知らない。はぐれてしまったとくはノートで連絡をとってくれれば私が迎えに行こう」 銀猫伯爵に誘われ、一行は外へと出た。 至るところに樹が存在し、そのなかに遠慮がちに建物が建てられている。唯一ターミナルと似ているのは、道を様々な世界の出身らしい風貌の者たちが闊歩しているという点だ。 時折、影にいる隆樹やムシアメが小声で建物を尋ねれば銀猫伯爵は丁重に応えてくれた。結果、わかったのは街にある施設は、ターミナルにある一般的な施設となんら変わりがなく、建物は煉瓦や木造が多い。壱番世界の中世時代を彷彿とさせる雰囲気が漂っている。 ヘータは出来れば動く物がないかと探すが、それらしいものは見かけない。銀猫伯爵に尋ねると、一応、あるにはあるらしいが、木々と庭園によって構成される都市では、徒歩移動が一般的であるそうだ。 外から見たときは森――いや、一つの大きな山の印象があったナラゴニアは中央に立つ世界樹を中心に周りにドーナツ型の街が何重もの層を作り出した構成だ。もし横から見ることが出来れば見事な地層のように上から下まで並ぶ街が見えただろう。それらの街の行き来は階段、エレベーターで行われている。 銀猫伯爵の屋敷は、一番下の階の端だ。 迷いのない足取りで銀猫伯爵が向かった建物はナレンシフの工場だ。 「ここで手続きをとって借りるんだ」 銀猫伯爵が潜伏する者たちに早めに見せておきたいと考えていた場所はここだ。もしもの場合は、ここへと辿りつけば逃亡することも出来る。と、工場のなかを見ていると、ドクタークランチがいた。 ムシアメは拳を握りしめる。 「銀猫伯爵」 「やぁ。ドクタークランチ、なんでも最近、ある世界の侵略から早々に手をひいたそうじゃないか? すでに何カ月も経過しているというのに芳しい結果ひとつ出せていないとは君らしくない」 嫌味に対してクランチの顔は険しい。 「君が持っている現在侵略中の世界の情報提供を要望する」 「引きこもりはやめたのか。わざわざここにくるとは」 「君が無能なせいで、ゆっくりしていられなくなったのさ。あと、世界図書館から寝返った者で……ヌマブチと三日月から話を聞きたい。私の屋敷に来るように」 はっきりとした棘のある言葉にクランチが何か言いたそうな顔をしたが、あえて黙っているのは反論する言葉がないのか、不毛な言い争いを避けているのか。 銀猫伯爵はそれ以上関わり合いたくないとばかりにさっさと踵返してその場をあとにした。 街をぐるりと一周して、だいたいの場所を把握し――グレイズは空屋を見つけることに成功し、そこにヘータはスキャンを設置した。 そして、一日は終わった。 Ⅲ・祈りの果てに 「時間だ」 メルヴィンの厳かな声にフランチェスカがわざと軽口で応じる。 「いつでもいいよ!」 現在、銀猫伯爵は屋敷ではなく、街へと出ている。そこで亡命者を偶然発見する……という筋書きだ。 緊張を深呼吸で落ちつけたメルヴィンは全員を見た。 「作戦を開始しよう」 ★ ★ ★ 作戦が開始される数分前に銀猫伯爵は楽園とともに屋敷を出た。その影には隆樹が潜んだ状態だ。 緑の木々に囲まれた平坦な土地にずらりと墓石が並ぶ墓地。そこに人影を見つけて銀猫伯爵は足を止める。 「楽園、隠れてくれ」 楽園は大人しく樹の陰に隠れて、この場に居合わせた相手が誰なのかと探るように目を凝らした。墓石に腰かけているのは白いワンピース姿に、桜色の髪をたらした女性だった。 「……マチルダ?」 銀猫伯爵の困惑した声に女は肩を竦めた。 「うっけけけけけけけ! この体はそんな名前だったかな?」 「……! そのしゃべり方……まさか、シャドウなのか? 死んだはず」 「以前は、そんな名前だったかなぁ? くくくく、オレサマはコピーだし、これは器に過ぎないからなぁ……オレサマはナニモノデモナイ、ナニモノデモナイ」 ふてぶてしい笑みを浮かべた女の顔は凶悪に歪む。 「あんたが幽閉されている間に、この死体を、本体が消滅した際の記憶の保管場所として細工を施したのさ。さすがに墓の下まで探るやつはいねから誰も気がつかねぇ。 ま、この姿になると力の制限はつくし、この器がなきゃ存在ひとつできやしねぇが……それだけの代償としてはまずまずの情報が手に入ったぜ」 「世界図書館に捕まったのもお前の企みであったような言い草だな……どこまで記憶している」 緊張した面持ちで銀猫伯爵は問うた。 「世界図書館に捕まった所までは……しかし、死んだときの記憶がない上、コピーであるオレサマが目覚めたのも本体が消滅してからのかなりの時差があった。……死ぬ記憶はデータが多すぎるのか? または、データを送ることのできない特殊な空間に本体がいたのかな? ふふ」 女は手をひらひらと蝶のように振る。 「証拠がない以上、どうもしないさ。ああ、けど、面白い記憶があるぜ」 「それは、なんだ」 「チャイ=ブレ。この情報は流石のシルウァヌスもほってはおけねーだろうな」 目を眇める銀猫伯爵を彼女は嘲笑う。 「怖い顔をするなよ。ああ、それらしく振舞ってやろうか? ――銀猫伯爵」 今までの凶悪なものとは一転して優しい声、彼女の顔がくしゃりっと悲しげに歪む。 「……助けて」 彼女の頬に流される一筋の涙に、たまらず銀猫伯爵が手を伸ばすが、彼女はさっと後ろへと逃げた。 ――にちゃりと女は小馬鹿にしたように険しい表情の銀猫伯爵を笑う。 「記憶というものが魂ならば、この女の魂はオレが持ってることになるかもなァ」 「貴様!」 「本当の意味でこの女を失いたくなきゃ、しばらく大人しくしてろよ。うっけけけけ! ……さて、ん?」 宙で何かが弾けている音に銀猫伯爵と女がほぼ同時に顔をあげた。 「なんかあったようだな……まぁ、この体がどれだけ使えるか、試すにはいいか」 女はふぅとため息のような息を吐くと、たちまち小さな竜巻が生まれ、先ほどの音のした場所へと飛んでゆく。 女は意識を集中するように目を閉じていたが、ぱんっ! 面白がるように手を叩いた。 「こりゃ驚いた。銀猫伯爵! ここに侵入者だ。それも世界図書のやつらだ!」 「遠見の魔法……マチルダが最も得意としていた魔法を、お前は使えるのか」 「かわりにシャドウが食べて取得した能力はほぼ失っちゃったけど、記憶を読んだりくらいは出来るんだぜ? うっけけけ! 何人ぐらい侵入者がいるのかね!」 墓石から飛び降りた女は可愛らしく小首を傾げた。 「伯爵、みんな混乱しているし、あんたが今のうちに率いてやれよ。クランチが口出ししはじめたらメンドクセェことになるぜぇ?」 「私が動くことはクランチにとって不都合なことが多いぞ? お前はそれでいいのか?」 「オレサマは別にクランチの味方じゃねーよ。せっかく捕まったと親切に嘘偽りのない情報をあげたんだ。これくらいしてくれなくちゃ!」 ふらふらと泳ぐように歩きだした女は思い出したように振り返った。 「ああ、あと、その気になればオレサマは記憶にあるやつらを、マチルダの力を使ってナラゴニア内はどこにいても見つけ出せるから、いつでも言ってくれよ。うっけけけ!」 礼儀正しい一礼したあと、今度こ女の姿が完全に見えなくなると隆樹が声をかけた。 「……どうするんだ」 「隆樹、何があっても決して表に出てきいけないよ? ……楽園、こちらに……少しの間、不自由な思いをするだろうが、私のことを信用してくれないか。必ず君たちを生きて世界図書館へと帰す」 「どうすればいいの?」 隠れていた楽園が真剣な顔で銀猫伯爵を見つめる。 「この場合、隆樹のように影のなかに隠れたり、アメムシのような姿を変えるなりの方法がない者が下手に隠れるよりは私が君たちを捕えたことにしておいたほうが安全だ。……楽園、ノートで屋敷の者にそのことを伝えてくれ」 「だったら傷の一つもあったほうがいいんじゃないのか? 構わないか?」 隆樹の冷静な提案に銀猫伯爵は頷き、腕にあえて傷を負うとすぐに懐からウッドパッドを取り出した。 「世界図書館の者を発見、確保した! 何人いるか不明だが、動ける者は全員、捕獲に動け! 決して殺すな! 生け捕りにしろ! 指揮は私、銀猫伯爵がとる。彼らの身柄は私の力で他空間に拘束する。捕獲後は速やかに私の屋敷に連行しろ。繰り返す、決して殺すな! 大切な情報源だ!」 ★ ★ ★ 亡命者二十人に帰還組をいれれば大人数での行動となる。 目立たないように亡命者にはレナが透明化の魔法をかけるが、それでは間に合わないので十三が協力したが、それでは世界図書館の者たちまで手がまわらない。帰還組は行きと同様に物陰を隠れて移動することになった。 潜伏組だが街の入り口まで十三とグレイズ、それに観光がてらの幸せの魔女が同行した。 「あら、私たちが捕まったりはしないわよ。なんといっても私とベルファルドさんがいるんだから、それに亡命者さんたちにはコインを渡しておいたし」 幸せの魔女が作った「幸せのコイン」は、入念に魔法がかけられている上、今日の今日までベルファルドに握っていてもらったので十分に効果は期待できる代物だ。 「魔女さんって、なんだかんだっていって、みんなのこと考えてるんだね」 「べ、べつにそんなことないわよ! ……この亡命が成功しないと私が不幸になるから仕方なく協力してあげているのよ。それにこれは貸したものよ? ターミナルに戻ったらちゃ~んと利子つけて返してもらうんだから!」 照れる幸せの魔女にベルファルドはにこにこと笑った。 「魔女さんのそういうところ、いいと思うな。けど、気を付けないとだめだよ? なんとなくいやな予感がするんだ。残るみんなにも言ったけど、成果より生き残ることが大切だよ? 生きていればなんとかなるもの」 ベルファルドの言葉に幸せの魔女は蕩けるような恍惚な表情を浮かべる。 「あら、嬉しいわ。ベルファルドさんが私のことを気にしてくれるなんて……ふふ、必ずみんなで戻るわ。ターミナルで待っていてね……無事に帰れたら伝えたいことがあるんだけど、いいかしら?」 「今じゃだめなの?」 不思議そうに小首を傾げるベルファルドに幸せの魔女は可愛らしく肩を竦めると、ベルファルドの肩をぽんぽんと小突いた。 「やーね。ベルファルドさん、こういうのをフラグっていうのよ。それを全力で回避するのが流行りなんだから。それにこの約束が私をターミナルに連れ戻してくれるわ」 「よくわからないけど、そっか! がんばってね、魔女さん!」 スレッドライナーまであと数キロというところだ。 列の後ろにいたディーナは徐々にスピードを緩めていくと突然足を止めた。次の瞬間には反対方向に全力で駆けだした。 「あれ!」 一番はじめに裏切りに気がついたベルファルドが声をあげる。 「いかん!」 最後尾にいた十三が止めるために伸ばした手をかわしたディーナは懐から信号弾を取り出して、宙に向けて撃った。 ぱん! ――音が叫ぶ。 ディーナの突然の裏切りに動揺する帰還組を落ちつけたのは冷静なメルヴィンの声だ。 「落ちつくんだ! 旅団の者はまだ我々に気がついていない。すぐにスレッドライナーに乗り込むんだ」 焦るあまり足をもつらせる亡命者たちをリーリスがまとめて宙に浮かせる。 「ここからなら飛ぶ方が早いわ! 亡命者さんたちは私に任せて! ジャックおじちゃ~ん、近くまでいったら空間移動をお願いね!」 「チッ、仕方ねェナ! 遅いやつは俺が運んでやる。手を出せヨ! 行くゼェ!」 フル装備でスピードの出ないフランチェスカと樽を抱えている撫子の手をジャックはとると、素早く空間移動する。 「あとの者たちは全員、前だけを見て走れ!」 駆けだす帰還組たちを見送り、十三、グレイズ、幸せの魔女は互いに顔を見合わせた。 「どうするの? ディーナさんを連れ戻す?」 「あそこまで逃げられては無理だ。ここは彼らが無事に逃げられるように注意をひくぞ」 「ちっ。仕方ねぇな」 「あら、私は幸せの魔女よ? ベルファルドさんが大変なことになったらせっかくフラグを作ったのに回収出来ないじゃないの! さぁ、行きましょう」 三人は帰還組が行く方向とは別に駆けだした。 ★ ★ ★ 最後に倒れ込むように車内に飛び乗ったメルヴィンはアルティラスカがドアを閉めたと同時に叫んだ。 「亡命者たちは一番奥へ! ターミナルへ向けて全速前進!」 戸惑っている亡命者たちにメルヴィンは鋭い一瞥を向けた。 「さぁ、ここまできたのだ。逃げることは出来ない、覚悟を決めるんだ」 「そうだよ! ここまでこれたんだもん。ボクや幸せの魔女さんの幸運で絶対にターミナルまで無事につくよ! これでもボクが乗っていた乗り物が落ちたことは一度もないんだから!」 ベルファルドが笑顔で励ます。 「……逃げ切れるのか? 追っ手だってくるんだ。それに伯爵は元から情報をリークすると言っていたし、俺たちが捕まってもいいと思ってるのか?」 亡命者の一人が悲しげな顔をするのにベルファルドは珍しく真剣な顔をして言葉を続けた。 「それは違うよ。……きっと、リークするのはみんなの気持ちを後押しするためだって思うんだ。確かに、ちょっと作戦とは違うから危険は増したけど……伯爵が信頼してくれてるなら、ボクたちはそれに全力で答えるよ。……さぁ、しゅっぱーつ!」 スレッドライナーは駆けだす背を追うのはワームの群れと三つのナレンシフ。 「迫ってきますぅ! どうしましょうぉ!」 撫子が叫ぶ。 「かなりの大人数が乗っている以上、スピードが落ちるのは想定内だ。……スレッドライナーで攻撃を行わない。攻撃をすればそれだけ移動力が削がれる」 ナルヴィンは真剣な面持ちで戦闘に秀でた者たちへと視線を流した。 「そのために君たちの協力が必要不可欠だ。個々で窓や入り口からの遠距離攻撃で接近を防ぎ、距離かを稼ぐ。さすがに相手も深追いはしないだろう。それまで耐えてほしい」 「肉体戦ってコトかヨ」 ジャックが獰猛な笑みを浮かべる。 「そうなる。ただし、常に二人ひと組で行動するんだ。互いに危険なときフォローしあえる。それに定期的に攻撃のパターンを変えれば相手も接近しづらいだろう」 「でしたら、あたしはカードを用意してます。攻撃反射壁、混乱、テレポート……大きなワームはこれで凌ぎましょう」 「よし、俺サマは天井で、あいつらの攻撃を弾いてやる」 「私もいきまぁす! ジャックさぁん!」 撫子がホースを片手に握りしめて真剣な顔で告げる。 「私のコレはぁ、遠いところも攻撃ですまぁす! ワームをぜぇんぶ、うちおとしまぁす!」 「イイぜ! よし、俺らは行くぜ、ぐすぐすしてる暇はねぇ!」 レナからカードを受け取ったジャックは撫子を片手に、空間移動でスレッドライナーの上に移動する。 「じゃあ、ボクは真正面! 亡命者で、協力してくれる人は大歓迎だよ。けど無理はしなくていいからね! キミたちになにかあったら意味がないからさ!」 フランチェスカはこの場にふさわしい、頼もしい笑みを浮かべて入り口に駆ていくあとにレナが続いた。 「あたしがサポートします! メルヴィン、あとをお願いしますね」 「任せてくれ。他の者は亡命者のそばに、僕は道を見る」 残るメンバーは怯えている亡命者に寄り添った。 出発前にコケからもらった心を落ちつける匂い袋を握りしめ、七夏は微笑む。 「今は、不安でもターミナルに行って、どうやって生活するか、そういう楽しいことを考えてください!」 「ハイスラァッ!」 フランチェスカの左手から雷撃を放たれる。 ばちぃ! 闇色のなかを美しい金色が羽ばたき、小型のワームを蹴散らす。 「レナ、スイッチ!」 「……ギガ・ファイアボンバー!」 絶妙なタイミングでレナの炎が踊る。 魔法攻撃が主であると、どうしても行動の前後に隙が生まれる。あらかじめ交代の言葉を決めることで素早く動くことで、互いに無駄を省く作戦だ。 ワームにはレナの作った混乱化のカードも有効に作用した。 七メートルを超えるワームは攻撃反射壁で守る隙をついて混乱させ、フランチェスカの口から放つ破壊光線で炭にする。 「ボクとレナの見事な防御に隙はない! 調子に乗ってるからこうやって痛い目に合う! 次は……あっ!」 正面から追いかけてくるナレンシフの頭上に髑髏で顔を覆った巫女が弓から矢を放つ。矢は紅色に染まり、炎の鳥となって襲いかかってくる。 「ここはボクに任せて!」 レナを下がらせたフランチェスカは盾で入り口を塞ぐ。ごうごうと盾越しに伝わりる熱に手が火傷したようなひりひりと痛む。 「っ……盾ガードを固めたボクに隙はなかった! レナ!」 「いきます!」 タイミングを合わせてフランチェスカが退き、レナのファイアボールが飛ぶ。炎の鳥は大きく口を開けて、なんとファイアボールを飲みこみ、ますます炎を強めた。 「炎同士、吸収するということですか」 「だったら……! 雷属性の左ィ!」 迫ってくる炎の鳥をフランチェスカの輝く左手が消滅する。髑髏巫女は間髪入れずに再び矢を放つが、そのタイミングでレナはカードを放つった。 攻撃反射壁が炎の鳥を反射し、巫女に迫る。 巫女が矢を放って反射された攻撃を消滅させる。と、炎の鳥の背後にあった――フランチェスカの矢が巫女の右肩を貫いた。 くぐもった悲鳴とともに巫女の体が倒れる。 「追撃の攻撃でダメージは更に加速した!」 「やりましたね」 レナとフランチェスカが手を叩いて喜びあう――その影でワームの群れのなかを飛躍する者たちがいた。 撫子の噴出攻撃に、ジャックがタイミングを合わせる。 「黒焦げになりやがれッ……サンダーレイン!」 雷を通した水はワームを吹っ飛ばさし、黒焦げにしていく。 フランチェスカとレナがナレンシフを相手にしている間、二人はワームを近づけまいと奮闘していた。 「このままワームどもを全部、やるぞ」 「はい! あ、ジャックさぁん!」 恐ろしいスピードで横につけてくるナレンシフが二体。右左から挟みこむ作戦らしい。 「チッ、仕方ねぇ、お前はここを守れヨ!」 「え」 「来イ、来イ、あと少しだァ! よしっ!」 止める間もなくジャックが空間移動でどこかに消えてしまったのに撫子は地団駄を踏んだ。 「あ~ん、もぅ。わかりませんけど、がんばってくださぁい! ここは私がぁ、守りまぁす! ……あれは!」 撫子はそれに気が付いた。 なんと無数にいるワームの上を移動する影があるのだ。 ナレンシフにいる巫女の攻撃で守りの注意を逸らしている間に、ワームを移動の手段に単独で接近を試みるとはなんとも大胆な作戦だ。 「っ、けど、落とせば、敵も追いかけるどころじゃないですよねぇ?」 一瞬思案した撫子は頷いた。ここを守ると先ほど言ったばかりだ。 「いきまぁす!」 水を放つ。 その水に進んでぶつかったワームがいた。 見ると黒いコートの男を乗せていた。 その男が片手をあげた瞬間、撫子の噴出した水が言うことを聞かなくなった。 恐ろしい力でひきずられた撫子は目を丸める。 「俺は触れた水ならなんでも操れるんだよ! ……一分、持たせる。シルバィ、ハングリィ、あいつらを生け捕りにしろ――水橋!」 空中で水がうねり、スレッドライナーまでの橋となる。その上を銀色のケンタウロスのシルバィとビキニアーマーに大剣をもったハングリィが駆ける。 「え、え、えっ! だめぇ!」 撫子が必死にホースを握って踏ん張る。問答無用の力で引っ張るのに対抗していた水薙はバランスを失って崩れる。ぐきっといやな骨の音が聞こえた。気がした。 撫子としては意図したわけではないが、ほぼ間違いなく相手の水薙を脱臼させた。 「っ、ごめんなさぁいって……!」 水の橋が消え、――シルバィが飛躍し、落ちてくる。 まるで彗星が衝突するような猛然としたスピードでランスが下腹部を打撃された撫子は声を上げることも出来ずに、意識を失い倒れる。 「LaLaLaLaLaLaLaLaLaLa! すべてを打ち砕けぇええ! ラグナロクっ!」 シルバィは更に片手に持つ剣を撫子の横に突き刺した。 ――めきっ。 いやな音をたてて天井の一部分が破壊され、撫子とシルバィが車内へと落ちた。 「壊れぬか。運のいいことだ」 忌々しげにシルバィは足を踏みならすが、スレッドライナーはびくともしない。乗車しているベルファルドの幸運がいま、まさに発揮されていた。 「我が剣殿、エンジンを!」 投げられた剣は姿を白豹に変えてエンジン室に向かう。その前に七夏が飛び出して身の呈して妨害を試みた。 七夏は右頬に容赦のないパンチを浴びて壁に叩きつけられても、痛みに呻きながら必死に立ち上がる。 「七夏さん!」 アルティラスカが叫ぶ。 「私は平気です! 守ってください。動きを、とめましたからっ」 七夏の声にアルティラスカはネファイラに鋭い眼差しを向ける。七夏と接近したとき、その両腕を縫われ、床に崩れていた。 「こんなものぉ!」 その糸をネファイラは乱暴に己の牙で肉体を切り裂き、唸り声をあげる。 「裏切り者ども! お前たちは誰も許さない! 魂すら残さず殺す!」 「……戦いを望まない者にそれを強いるというのですか」 アルティラスカがみなを庇い、問う。 「私はただお前たちの存在が許せないだけ。……お前たちがなにをした! 何が出来た! 力のない理想や正義はただ傷つけ、失わせていくだけ! わからないならわからせてあげる!」 獰猛なネファイラの攻撃をアルティラスカは守りに徹し続けた。 「私にはあなたが傷ついているように見えます……本当は戦いたくないのではないですか?」 「それは憐れみかしら?」 「……私のなかにある想いです」 「今更だわ、何もかも、もう遅いのよ。……言ったでしょ? 私は、お前たちが許せない……とんだうぬぼれどもがぁ!」 「みんな、ボクのそばにいて、ボクのところは絶対に安全だから! リーリスちゃん、キミの傍にいるとみんなが落ちつくみたいだから、お願い!」 「任せて! みんな、落ち着いて! 大丈夫よ! ベルファルドお兄ちゃんも、しっかりと運の良さを発揮して!」 運良くシルバィの足元から撫子を救出することに成功したベルファルドは、彼女が気絶しただけなのを確認するとぎゅっと抱きしめて、叫んだ。 「ボクの運の全部使ってもいい! ターミナルに無事について!」 背後で行われている死闘を聞きながら、フランチェスカはぎりぎりと奥歯を噛みしめて、盾で防ぐとそれを必死に外へと押し落そうとしていた。 「ああ、ああ、おなかがすいたわ! カワイコちゃん、あなたはどんな味かしら」 「悪いけど、あんたにあげるようなものはないよっ!」 ばちっと金色の光を片手に、タイミングを計って、放とうとしたフランチェスカはぎくりとした。 ――もう回復してるはずなのに……雷撃が不発! 「離れて!」 レナの声に退く。 ハングリィが突然のことに前のりに転がるのにレナのファイアボールが落ちる。 しかし、その炎は直撃する前にふっと消えた。 「なぜ!」 「……こいつ、ボクたちの魔法を無効化してる!」 驚愕する二人の前でハングリィは肩を竦めると、腰につけている袋から紅い果実を取り出してむしゃむしゃと食べ始めた。 「ったく、なにするのよ。おなかすくじゃない? で、カワイコちゃん二人、あんたたちのどっちを食べてやろうかしら?」 「お断りだね!」 フランチェスカが怒声をあげ、猛然と盾でタックルする。 魔力を無効化するといっても、物理的な攻撃は有効だ。あと数歩で――この女は外へと落ちるしかないのだから。 「あら、つれない!」 がっつん! 盾と剣がぶつかりあい、激しい火花が散る。 まるで相手の全てを飲もうとする獣のような、ありったけの力のぶつかりあい。 ハングリィは腰を落とし、全体重を剣にかけてくる。重みにフランチェスカの膝が震えだした。 「ほらほら、どうしたの! カワイコちゃん!」 「たとえ、敵に魔法がきかなくても、フランチェスカさんには効果があるはず!」 レナは強化魔法を発動し、フランチェスカをサポートする。 しかし、睨みあう両者、一歩も引かない攻防戦を続けている。 ――なにか、なにか、……! 必死に頭をめぐらせ、フランチェスカはそれに気が付いた。 「レナ、こいつにありったけの魔法を撃って!」 「わかりました! ……ギガ・ファイボンバー!」 フランチェスカが後ろへと退いたと同時に紅蓮の炎の攻撃は、しかし、ハングリィにあたる前に消えてしまう。 「なによ、もうおなかがすくじゃ……っ!」 ばちっ! ばちいいい! 轟! フランチェスカの口から咆哮のような破壊光線が放たれる。 狙いはハングリィの剣。それは雷撃を反射し、大きく吹っ飛ぶのにハングリィも巻き添えをくらって体が大きく飛ぶ。 フランチェスカは間髪入れずに弓を構え、素早く放つ。 「っ、追撃でダメージ倍増ぉ! ……本人に効かなくても、そばにあるものには効果バツグン! 吹っ飛ぶのは魔法の効果じゃないからね!」 「シルバィ!」 ハングリィの助けを求める声に、シルバィは振り返った。 「いかん! 我が剣殿っ!」 「――っ、仕方ないわね」 再び剣へと戻ったネファイラを片手に握ったシルバィはフランチェスカたちを押しのけて、床を蹴って、ハングリィを片腕に抱いて、退避しようとする。 「まだまだぁ! 行くよ! レナ」 「ええ!」 フランチェスカとレナは体内にあるありったけの魔力を雷と炎に変えて、放たれる。 炎と雷は互いに激しく絡みあい――白銀の閃光となって周囲のワームを飲みこみ、さらには退避するシルバィの背中を容赦なく撃つ。 「くぅううっ!」 「シルバィ! しっかり……きゃあ!」 空中でバランスを失って、ぐったりとしたままディラックの空に漂う二人をナレンシフの一つが慌てて駆けていく。 「やりましたわね。残りはあと二つ……あら、一つの動きがおかしいですわね」 レナは右手にあるふらふらとしているナレンシフを見つめた。 ジャックはナレンシフの上部に飛ぶと、ありったけの力を使ってエンジンの破壊を試みた。 その行動は概ね、成功したといえる。 ジャックの乗ったナレンシフはぐんぐんスピードを落とし、あっと言うのにスレッドライナーが遠のいた。それはジャックの空間移動の出来る距離を超えてしまった。 「覚悟決めるかァ。これを奪って故郷に戻るのもテだよナァ」 にやりとジャックが牙をむき出しに闘争心丸出しの笑みを浮かべる。 「あーあ、これはひどい。修理費は世界図書館にツケときますよ?」 「アァン?」 背後からの呑気な声に振りかえると、この場には不似合いなタキシード姿に眼鏡の優男がにこりと笑って立っていた。 「はじめまして。私、フウマ=小太郎っていうしがない飲み屋の店長してます」 「ハッ、丸焦げになりに来たのかァ!」 ジャックの周囲で金色の輝きが、敵を威嚇する。 「これは高級なんですけど、まぁクランチ様に支払いはしていただきましょうか」 「――イっちまいなァ!」 電光石火の雷撃がフウマの身を焼こうとした瞬間、ぐらっと世界が歪んだ。 「!」 真っ黒ななかに、白く、小さな貝殻が見える。 それが消えて、再び現れたのは―― 「ここは……まさか!」 ジャックはそこを知っていた。 なぜなら、そこはジャックの故郷である流刑惑星エンドアだったからだ ――夢? いや幻術かァ? 今までの経験からすぐに心を落ちつけようと試みるが、肌を突き刺す殺気がジャックから冷静さを奪い取る。 見ると、居たのは緑色の醜い芋虫が蠢いていた。 ジャックが手に意識を集中させるが――風が生まれない! 「っ!」 唖然とするジャックは蟲の突撃を回避できず、地面に肉体を叩きつけられて痛みに呻く。おかしい。傷がなおせない。 これでは、まるで、弱い人間――! 「やっぱりこりゃあ、幻術かァ?」 「いいえ、違うわ。ジャック・ハート」 ジャックははっと顔をあげる。そこにはジャックの良く知る、 「アルナ」 「これは現実よ? 貝楼の見せる偽りのない――ユメ」 アルナの手が伸びて、ジャックの腕に触れると光が弾け――彼女の手に持つ刃が胸を突き刺した。 甘い、甘い死の痛み――貝がゆっくりと閉じられる。 ジャックは心臓に刀が突き刺さった状態で、仰向けに倒れていた いくらすさまじい回復力を持っていたとしても心臓に刃が刺さった状態では身動き一つとることができない。 「私の所有する貝楼の見せる現実の夢『故郷』はいかがだったでしょう? おや、驚いた。まだ生きてますね。では、命令ですし、連れて帰りましょうか。……コーラスアス君、すいません。ナレンシフが動かないので助けにきてもらえますか? お礼に今度、うちの一番かわいい娘にサービスさせますから」 『こちらは、「暴風」のコーラスアス! わかった至急、きゅうし……なっ、なっなっ!』 「本当に女性に弱いですよね。……さて、水薙、そちらは?」 『ハングリィとシルバィを回収したが深手だ。俺も腕が脱臼しちまった。とっとと撤収するぞ。あとは銀猫伯爵の命令に従う』 「了解しました」 『承知!』 無数のワームが襲いかかるなかを、スレッドライナーはただひたすらに走った。ターミナルへと向けて。 ★ ★ ★ 光学迷彩を施した十三、グレイズ、幸せの魔女は街のなかを駆けていく。 三人は影ながら帰還する者たちを助けられないかと考えていた。 「どうする」 「騒ぎの一つも起こせばいいだろう。隠れ家はあるぜ? 亡命者どもの家はもう住むやついねぇんだ。そこを狙えばいいだろう」 グレイズの言葉に十三も頷いた。 「そうだな」 ノートで連絡をとれることがわかっている以上、それぞれに動いて少しでも選択の範囲を広げたいというのが十三の考えだ。 艶やかな緑にグレイズの蒼い炎が襲いかかる傍らでは十三が式神に命ずる。 「火燕招来急急如律令! 我が目となりて敵を探れ! 飛囀招来急急如律令! この札を持って飛べ……俺が命じたところで札を落とし我が呪を繰り返せ!」 十三に従い、美しい式神が宙を舞い、炎を放つ。 「はやり燃えづらいな」 「それでも燃えてるだろう。ちっ」 グレイズが炎に渋い顔をして、ぷいっと視線を逸らす。 「あとはワームを出来るかぎり止めに」 ひゅん! 風が鳴く。 ふわりっと、竜巻とともに現れたのは青いセーラー服を身に付けた白髪の少女のクルスとスーツ姿のハイキ。さらには黒い着物のきぃだ。 三人は顔を見合わせて息を止めた。姿が見えない以上、犬のような嗅覚に優れた者がいない限り見咎められるはずがないはずだ。 しかし、 「スキャン開始、敵、確認……制御、八十パーセントまで解除、戦闘スタイルチェンジ」 「魔力を感知しました、敵、確認……マスターの命令を実行します、戦闘・チェンジ」 ハイキの姿が人型のまま黒い鉄に覆われる。その傍らにいるクルスも服が軍服めいたものへと、その容貌が二十歳くらいの女性へと変化した。 変身したクルスの片手には黒い槍が握られ、それを大きく掲げて竜巻を生み出した。 竜巻はまるで炎を食らうように、一瞬にして炎は消し去った。さらに竜巻は十三の空を舞う式神をめちゃくちゃに引き裂き、無残にも散らした。 ハイキがおもむろに鋭い鉄の刃がついた両腕を頭上に持ち上げてクロスさせる。 とたんに音という音が消えた。 いきなり幻虎が十三に体当たりして突き飛ばす。 (なにを……!) 幻虎は主にかわり胴体を真っ二つに裂かれ、消えた。十三にしても見えない刃によって肩がぱっくりと裂け、血を流す。 「!」 十三は崩れる。 (なぜ、こちらがわかる!) 旅団に属するハイキは戦闘型ロボットだ。その目は生物とは別の目――温度によって敵を感知することができる。またクルスはホムンクルスであるがゆえに魔力を有する箇所を確認して攻撃しているのだ。それは嗅覚という点のみを危険視していた十三の失態であった。 「っ、ここは通さん!」 十三が吼える。 すでに片腕が使いものにならない以上、仲間を逃がすことが今できる最善だ。グレイズと幸せの魔女もそれを承知し、駆けだそうとするが、その前でひらひらときぃが舞っている。 誰も見たことのないような不思議なステップを何度も何度も繰り返す。儚くも、美しい舞い。花の蜜に誘われるように、きぃの周囲に美しい色をした蛾が飛びかい、粉をまき散らしながら十三、グレイズ、幸せの魔女に襲いかかった。 「っ! なんだ、くそっ」 「これは……」 グレイズと幸せの魔女の体から自由が奪われていく。 「毒か!」 十三が叫ぶ。 蛾から放たれる猛毒は容赦なく、三人の力を根こそぎ奪いとっていく。 グレイズと十三が崩れると、その身は完全に蛾によって覆われた。 毒を受けながら幸せの魔女はよろよろと立ち上がる。彼女のなかにある力がこの不幸を振り払っているのだ。 と、宙を泳ぐ黒い塊――蠅の集団の体当たりに宙に飛ばされ、地面に転がる。 全身が痛みに悲鳴をあげる。手は必死に剣を探っていると、容赦なく踏みつけられた。 「っ!」 痛みよりも屈辱が彼女の心を焼いた。睨み上げた先には半月の笑みが浮かぶ。 「これは、これは! まことに偶然! ……あのときの借り、今ここで返させさせていただくでありますよ!」 手を踏みつける足が退くと、体を蹴られて幸せの魔女は仰向けとなった。 見ると百足の片手には幸せの魔女の剣が握られている。吹き飛ばされたとき蠅たちが奪い取ったのだ。その剣は迷いもなく幸せの魔女の心臓を狙って真っ直ぐに落ちてくる。 一撃が突き刺さる。――幸せの魔女の脇の下――あと数センチで心臓を貫かれていた。 「銀猫伯爵から捕虜は殺すなと連絡がありましてな。……ああ、これが貴殿のいう幸せでありますかな?」 半月が、哄笑する。 ★ ★ ★ ディーナは方向音痴だが、一度も袋小路に陥ったことはない。 街については仲間たちがノートに書いた地図を頼りに、ひたすらに中央にある大きな樹を目指した。 走った。ただ走った。息が切れようと、肺が圧迫されようと。ただ、ただひたすむに、がむしゃらに。あの頃と同じだ。闇の中を逃げて、逃げて、見つかれば殺すしかない現実にディーナは抗っていた。だが、生きるために殺し続けるしかなく、助けてくれた大切な人を、殺してしまった。なのに、なぜ、自分が生きているのか、理由がわからない。救いのない闇のなかで見たのは……今度、もし命よりも大切な人を守れたら、そのときは生きていてもいいのかもしれないというささやかな希望。 けど、その願いは、あの瞬間に――血に染まり、崩れる少女――粉々に壊れた。 あの子に巡り合ったとき、この子を守るために、私は生きることが許されていたんだと思った。なのに、なのに また、死なせてしまった。願いは届かなかった。 そのときディーナも死んだ。手が届かなかったばかりに。 もう、すべて曖昧にしか理解できない。 ホワイトタワーにどうして一週間もいたのか――任務に失敗したから? そんな些細なこと、どうでもいい。 ハンスにナラゴニアの詳細を尋ね、持っていたものはすべてを売却した金で目立たない衣服を購入し、余ったナレッジキューブは踵に隠して持ってきた。 なぜか手元にあった白い剣は司書である黒に渡した。 ――黒、夢破れの剣、誰から預かったか忘れちゃったの。代わりに返してくれる? そのとき、黒はどんな顔をしていたっけ? ……ああ、もう思い出せない。 力在る者は弱い者を蹂躙し、奪う権利がある。それにもう私は異を唱えない。 もし逃亡に失敗した場合は、自決する用の毒を奥歯にセットした。旅団と遭遇して殺されるなら、それは仕方がない。 足がもつれて、転がる。サングラスが落ちた。目が焼ける痛みに涙が出てきた。それでもディーナは前へと進もうとした。あと、すこし、 不意に腕を掴まれ、持ち上げられた。目が開けられないディーナはそれが誰なのかわからない。 「お前、こんなところで何をしてる」 「世界樹旅団に投降するために、きた、の……強い者が全てを蹂躙する旅団の考えが正しいと思う、から……」 「ああ、お前……ツカレチャッタンダネ、カワイソウに」 相手はどこか憐れみと優しさすら感じさせる声で呟いた。 「……お前は何を望んでここにきた?」 「力と、新しい名前が欲しいの」 掠れた声でディーナは祈りのように願いを口にする。このあとどうなっても構わないとぼんやりと考える。 不意に体が軽くなった。抱き上げられているのだと数分後に理解した。 「連れて行ってやる。……今は身を守る盾がいるが必要だ、利用できそうなもんは一つでも多いほうがいい」 ディーナは曖昧な意識のなかで肌をぴりぴりと刺激する殺気にも似た冷気を感じた。 「世界図書館からの裏切り者だ。こいつは、新しい名と力がほしいそうだ。オレサマもいい情報を持ってきたかわりに、こいつを仲間にくわえちゃくれないか? なぁに面倒はオレサマが見るよ。……うっけけけ、そうでないと! さぁ、知る限り話せ」 「……今回の件は……矢部とか矢田とかいう人の手引き? スレッドライナーは北の端に、つけた」 覚えている限りをディーナは語り、自分を抱き上げる相手に問うた。 「あなたは、……だれ?」 「……もう死んだ体と本体の残りカスに名なんてねぇさ……ああ、そうだ。新しい名前を決めた。ゴースト! そう呼ぶといい」 ディーナは必死に目を開け、焼けつく痛みに涙を流しながら見たのは自分を抱き上げる美しい女と白い衣服に身を包ませた、それは美しい青年――「原初の園丁」シルウァヌス・ラーラージュの姿であった。
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