古びた煉瓦造りの路の上に、男は立つ。 男の両脇には人気のない市場が並び、中央には今や役割を放棄した処刑台が聳えている。 街中を時折駆け抜けるのは、武器を手にし、時代錯誤の衣裳を着た男たち。顔を合わせては剣を交わし、切り合い、決着のつかぬまままた離れて行く。暗がりの中で終わらぬ戦いを繰り広げる。 眼下に崩れた地下遺跡が広がるのを胡乱に一瞥し、男は街を覆う禍々しい木々を見上げる。路と同じ煉瓦造りの赤い街並みが広がる筈の風景は、しかし異質な木々によって完全に覆い尽くされていた。――そこは既に、森と呼ぶに相応しい。「此処に居ましたか」 ふと、男の背後で影が立ち上がった。薄布のように翻った黒ははためいて、一人の金髪の青年の姿をその場に遺して消える。 予兆すら見せず現れた青年に、驚くでもなく男は問う。「シルヴィアは」「手筈通り」 短い言葉を交わし、男たちは頷き合う。「では、我々は此処で待つとしよう。モンタギューの御曹司――或いは、辺獄の詩人の訪れを」 意味深に語る男の、癖の強い黒髪を撫でるように、腐臭を孕んだ風が吹き流れた。 探せ、と。風に乗せて森が囁く。 ふと目を凝らせば、木々の一つ一つに怯えたような人の貌が刻まれているのが見える。長く伸ばした枝は二つの腕のようで、妙に隆起する幹は女の胸か、男の躯のようでもあった。 人の身体を持った樹が、幾重にも連なって築かれた森。射し込む光を遮り、薄い暗闇と血の匂いだけを留めおく。 男はうっそりと嗤う。「彼女は何処に居る」 ――大樹の庇護の下。「彼女は誰だ」 ――永遠の淑女、或いは運命の娘。「彼女が何をした」 ――この世の全てに呪いを。永劫の夜を。 ひとつ男が問う度に、森が応える。 まるで、彼こそがこの地獄を統べているかのように。彼の求める答えを発する。「そうだ」 巻き毛の奥で目を細め、男は彫りの深い顔を笑みに歪めた。「怨嗟の念で喰らい尽くせ。この世の全てを地獄に変えよ!」 ざわり。 呼応するようにひとつ蠢いた《自殺者の森》は、やがて怖ろしいまでの勢いを伴い、旧き街を埋め尽くし始めた。 生命を容易く呑み込み、地獄が広がる。 街の全てを、蹂躙する。 ◇ 予言された未来は、世界樹旅団によってもたらされる。 世界司書が知った出来事はまだ不確定な未来だ。しかし、このままでは確実に訪れる出来事でもあるのだ。 壱番世界各地の「世界遺産」をターゲットに、何組かの旅団のパーティーが襲来することが判明した。かれらは「世界樹の苗」と呼ばれる植物のようなものを植え付けることが任務のようだ。その苗木は急速に成長し、やがて、司書が予言したような惨劇を引き起こす。 言うまでもなく……「世界樹の苗」とは、世界樹旅団を統べるという謎の存在「世界樹」の分体だ。 だが、この作戦を事前に察知したことにより、世界図書館のロストナンバーたちは、苗木が植え付けられてすぐの頃に到着することができるだろう。周辺の壱番世界の人々を逃がす時間は十分に確保できるはずだ。 むろんそのあとで、苗木は滅ぼさねばならない。苗木は吸い上げた壱番世界の『歴史』や『自然環境』の情報をもとに反撃してくるであろうし、旅団のツーリストも黙ってはいない。 司書は、引き続き、戦うことになるはずの、敵について告げる。 ◇「チームは三人。男が二人と、女が一人だ」 司書の予言の中に現れた、金髪碧眼の貴族然とした青年に、背の高い巻き毛の男。そして最後まで姿を見せなかった“シルヴィア”と呼ばれる女が、今回派遣された世界樹旅団のメンバーなのだと、灯緒(ヒオ)は眠たげに語る。「現れる世界遺産は『ヴェローナ市街』。イタリアの北、アルプス山脈の麓に位置する街だね」 そう言って、導きの書を猫の手で器用にめくった。ページの間に挟まれていた紙片はいつもの、日本列島によく似た朱昏の形ではなく、斜めを向いた長靴の形――イタリアの地図を記していた。その上部の一点を、子猫がじゃれつくように前肢を伸ばして指し示す。「ここは建物じゃなく、街の全てが世界遺産なんだ。紀元前に建てられたアレーナ――円形闘技場を初めとして、エルベ・シニョーリ広場、ヴェッキオ城ほか、歩んできた歴史をそのまま遺している、実に風情のある街……らしいよ。行ったことある人曰く」 適当極まりない伝聞で説明を切り上げ、虎猫は一度欠伸を噛み殺した。紙片を無造作に畳み、導きの書の次項を捲る。「そんな街だから、世界樹が必要とする『歴史』も山ほどあるだろうけど……今回はそれが判っているのが幸運と言えるかもしれないな」 じゅうぶんに育った世界樹の苗はその地の『情報』を元に、特殊な《実》を生成してその地にばらまく。そしてそれは情報通りの姿を再現し、周囲の生命を駆逐して回るのだという。 そんな不穏な予言と共に、彼はおもむろに物語の名を口に登らせた。 ヴェローナの街を彩る、二つの戯曲を。「ダンテ・アリギエリの『神曲』、そしてウィリアム・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』だ」 紡がれた二つの名は、コンダクターであれば確実に聞き覚えのあるものであっただろう。「知っている人も多いかもしれないが、ヴェローナは『ロミオとジュリエット』の舞台となった街でね。ジュリエットのモデルとなったカプレーティの娘の家が現存している。そして『神曲』の方はと言えば、かつてダンテがヴェローナに長く滞在していたらしい」 ダンテの像が立つシニョーリ広場は、別名をダンテ広場とも呼ばれている。「物語の街から物語が具現化する。詩的だけど、実に迷惑な話だとは思わないか」 美しく旧い街に広がる光景は、地獄の門。《自殺者の森》。 森を彷徨うのは争いを繰り返す二つの家、そして地獄の獄卒と悶え苦しむ罪人たち。 その中で、女は待っている。 男が聖人に導かれ、自分の元へ辿り着くのを。「……世界樹もおおらかだね。二つの物語を混ぜてしまうなんて」 予言を語り終えて、呆れたように虎猫は目を細めた。 とはいえ、さすがに世界樹の苗を放置しておくのは危険に過ぎる。 このまま放っておけば争う両家と地獄の光景は周辺の地域を侵食し、周辺の生物――人間を含む全てを地獄へと引き摺りこみ、殲滅するだろうと、虎猫の予言の書はそう告げていた。「地獄が現出するまでにはまだ時間がある。きみたちはその間に現地の人々の救出をすることができるだろう」 世界図書館のロストナンバーが総出で世界遺産を巡り、旅団のロストナンバーを捕まえたことにより、彼らは早くに情報を掴むことができた。だからこうして、現地への被害をより少なくすることができたのだと、何処か嬉しそうに猫は語った。「だから、あとは世界樹の排除と旅団の撃退に力を入れてくれればいい。――きみたちならば、決して難しい話ではないと思うよ」 そして、何でもない事のように、そう言うのだ。 ◇ 時刻は夕。 空が、薄い紫に染まり始めている。 手分けして市街での救出作業を終え、その場に集まった三人は、互いの成果を語り合う。 最早、街中に人の気配はない。 一通り街を駆け廻った限りでは、司書の言う《世界樹の苗》らしき植物は発見されなかった。――周到に隠されているのか、或いは彼らにも予測の付かない場所に着床しているのか。 次はそれの捜索をしなければならない、と再び別れようとした三人の耳に、ふと、違和感が響いた。 ――それはすぐに、轟音へと変わる。 大地が揺れる。擂鉢状の客席が蠢く。朽ちた石壁が、ぼろりと崩れ始める。眩暈がするほどの揺らぎの中、旅人たちは見た。 眼前に聳える大きな門が、音を立てて形を変えてゆくのを。 罪人に鞭打つように、堅牢な石材に文字が刻みつけられ、焼き付いていくのを。《 Lasciate ogne speranza, voi ch'entrate 》 “この門を潜るもの、一切の希望を捨てよ” いつしか、彼らの頭上にはそんな文章が現れていた。「ようこそ、世界図書館の諸君」 そして、笑み含んだ声が響く。 咄嗟に周囲を見渡すも、人の姿はなく。ただ立ち込める暗雲と、凝縮された血の匂いだけが充満している。時を経て腐り落ちた肉の匂いを孕んだ瘴気だけが漂い、旅人たちを襲う。「諸君の目の前に広がるのは、戯曲の街が創り上げた地獄だ。素晴らしいだろう。この地はこれほどまでの《情報》を蓄えている。世界樹が根付くのに相応しいとは思わないか?」 声は厳かに、朗々と、歌劇の如き口上を述べる。「これより、我々は逃げも隠れもしない。諸君の訪れをこの街の何処かで待っていよう。――諸君はそれを探し出して、討ち果たせばいい。出来るものなら!」 挑むように笑いさんざめく。何処から声を放っているのか、執拗にその姿をとらえようとする彼らを揶揄い、“彼”は語りつづけた。「もちろん無償でとは言わない。諸君にはこの門を潜り、森の中を抜けてきてもらわなければならない。歓迎の用意はできている」 言葉と共に、《門》の上にふと大きな影が降り立った。一対の翼をはためかせ、太い四肢を器用に狭い石材の上に乗せる。 ――翼持つ獅子。 瘴気の中で爛々と輝く血色の双眸が、彼らを狙っている。 がり、と、獰猛な爪を備えた前肢が石壁を削り取った。舌舐めずりをせんばかりに、上肢を屈め獲物だけをただ見据えている。 それが、男の言う“歓迎”の証なのだと、彼らは理解する。 緊迫。 身じろぎひとつ、咳払いひとつだけで、今にも獅子が喉元目掛け噛みついてくるかのような恐怖が、彼らの動きを止める。「さあ、探すがいい。罪深きジュリエットを。――お前たちと同じ、世界の侵略者を!」 嘲笑うような声だけが、高らかに響き渡っていた。======== !注意!イベントシナリオ群『侵略の植樹』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『侵略の植樹』シナリオへの複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。========
「……あちらさんってばほんに、言葉遊びがお上手ねぇ」 肩を竦めて笑う。 その赤茶けた瞳に走った感傷の色をふと見とめ、よく似た色彩の瞳をもった終は不可思議そうにラウロを見上げた。 「どういう意味だ?」 「だってホラ、ロミオもダンテも“彼女”に逢うたら死亡確定やないの」 ――直に“死ね”と言われれば、気も晴れようものを。 ぐるん、と手に持つフラッグ・ポイを大きく振り回して、道化師めいた姿の男は大仰な仕種で光射さぬ空を指し示す。分厚い雲に覆われた天は黒々ととして、まるで深い深い底を突き抜けたようにすら見える。 「確かに、悲劇の主人公に譬えられて良い気はしないな」 飄々と肩を竦めるラウロの隣で、狩野澹が同意するように頷く。激情の焔を孕んだ、鋼刃の如き瞳が眼鏡の向こう側で閃く。彼の世界にも、この舞台となった二つの戯曲は存在していた。 「神の意志、運命、理、その名の元に描かれるのは人間の秩序、か」 終の呟きが、神曲をなぞる。 神が描く人の社会。運命に翻弄される人々。――だからこその喜劇。しかしそれは、喜劇と呼ぶにはあまりにも惨憺たる様相を呈している。 「……地獄ならば擂鉢の最下層――いや、ここが既にそうか」 ひとりごちて呟く終の胸を覆うのは、世界樹の居場所に関する疑問。彼らが立つのは街外れ、アレーナの内部だ。 「一通り歩き回っても見つけられなかった」 陰鬱と茂る木々に遮られた天を仰ぐ。雲の層の隙間から、時折気紛れに差し込む光はさしずめ煉獄からの救いだろうか。――焼き付けられるほどに苛烈な、浄化の炎だ。 「もしや、建物内に……?」 「建物ゆーたら、この街には色々とあるけんねぇ」 探すのも一苦労やわ、とラウロがおどけて肩を竦める。頷き、寡黙に思考する終の脳内で、何かが引っ掛かっている。 何か、何処かで大事な何かを“視た”はずなのだが――。 「ともあれ、あの門を潜らない事には話にならない。往こう」 その言葉には、恐れも、迷いも、躊躇もない。 均整の取れた体躯を颯爽と翻し、澹が二本のナイフを手に門へと歩み寄った。翼持つ獅子は耽々と、その動向を見守っている。――どうやら、あちらから仕掛けるつもりはないようだ。 右手に持った赤い刃を翻す。闘技場の入り口を覆う、瘴気にも似た紫黒の靄を斬り払う。 『この門を潜るもの、一切の希望を捨てよ』 冷酷にして、鋭利な警告がその目に飛び込んでくる。或いはそれは慈悲だったのかもしれない。命が惜しくばこれ以上踏み込んでくるなと、見当違い甚だしい懸念の言葉。 門の向こう側からはひっきりなしに怨嗟の声が零れ、或いは剣劇と怒号とが飛び交っていた。 それでも三人は、怯えひとつ見せずに門を潜る。 ◇ 「獲物を仕留めるのに、全身を叩き潰す必要はない」 まるで狩りに挑む猛禽さながらの言葉を口にして、澹は先陣を切って自殺者の森を駆けた。途中で飛び出してくる男たちを、カプレーティ家の紋章を見とめて、鋭い所作で迫る。 「ジュリエットは何処だ」 問い掛けと共に刃を揮う。翻った黒が男の首筋を容易く斬り裂いた。死体は大地に還る事もなく呆気なく霧散し、しかし澹は銀の瞳を伏せて悼みを落とす。 「ベアトリーチェは?」 そして、また言葉を投げて赤の刃を閃かせる。人体の急所を知り尽くした男の、命を負う揺るがぬ覚悟を抱いた男の一振りは鋭く、的確に敵の命を屠っていく。飛び散る鮮血で眼鏡の硝子が染まり、視界が遮られても、その奥の瞳は真摯な光を燈し続けた。 覚悟なら此処に在る。 「――辿り着いた先が、喜劇でも、悲劇でも、見届けてやるさ」 この胸に宿る、あの日の悼みと共に。 彼らをいざなうように飛んでいた獅子が、突如身を翻して迫りくる。凶暴なあぎとを大きく開いて、喰らい付かんと急降下する獣を、飄々とした仕種でラウロは躱した。 「何、お腹でも空いてるん?」 翼持つ獅子の豹変を笑い飛ばして、ラウロはふと近くで戦う終の姿を捉えた。 人でありながら人でない、曖昧な所に立つ青年だ。 ――その背中に、何処か、己に近しいものを感じる。 忍び寄る感傷を首を振って振り払い、ラウロは努めて明るい声で呼びかけた。 「雪深の坊(ぼん)、ちょい貸してぇな!」 獅子の視界遮るようにフラッグを翻す。それを追うように躍った手袋の指先が虚空を滑れば、その軌道に乗って白が煌めいた。 音を立てて大気が凍る。軋むように風が鳴る。三日月の弧を描いて、ラウロの前に巨大な氷柱が現れる。 「貸す、とは」 「あっはは、まぁあんま気にしんでええよー」 己は特に何もしていないのだが、と首を傾げた終に肩を竦めて応じる。ラウロはただ彼から氷の元素を借りただけであり、それ以上何をしてもらう必要もない。軽やかに道化て笑い、ぐるん、とフラッグに振り回されるようにして身を捻った。 鋭い先端を、中空の氷柱へと叩きつける。 「ここはヴェローナやけん、はよヴェネツィア帰り!」 言葉と共に打ち砕かれた氷柱。無数の礫が、襲い来る獅子へと殺到する。 尾を引くような、獣の断末魔が轟いた。 やがて、三人の進む道の先に、一人の老人が姿を見せた。 瘴気の澱む森の地獄の中で、彼だけが光輝いているような佇まい。 ラウロは微かに笑みを零す。常の彼らしくない、静かで老獪な表情を、二人の同行者に見とめられる前に飄々とした態度で隠す。 「そこなおいちゃん! ワテの声聴こえとるー?」 そして、楽観的な笑い声と共に老人の元へと駆け寄った。 老人もまた三人に気付いて、僅か驚いたようにその白い眉を上げる。 『汝らは』 零れた声までも荘厳で、森の瘴気が微かに揺らぎ薄れた。 「哀れな迷子たちですー。……おいちゃんが待っとる御仁は来ないんよ、残念ながら」 『……そうか』 「あんたの名は」 澹もまた、老人の異質さに違和感を抱いた。他の《世界樹の実》とは違い、彼らを傷付ける意志のない男も、二つの戯曲から現れた人物だと言うのなら。もしかして、と僅かの期待と共に問いかける。 老人は、名を問われて微かに笑った。 時代錯誤の衣裳の長い裾を翻し、己が胸を叩く。 『我が名はウェルギリウス』 ――それは、辺獄の詩人を導く、偉大なる先人の名。地獄の案内人。 『共に逝く事は出来ぬが、何とでも問うてくれ』 待ち人の不在を知った詩人は淋しげにそう微笑んで、しかし彼らに協力を約束した。 「ベアトリーチェ――カプレーティの娘は、何処に居る?」 道すがら、何度でも繰り返した問いを、澹は今またぶつける。 永遠の淑女、運命の恋人。その女の元に、彼らの探すものがあると、確信しているゆえに。 詩人は頷いて、空の一点を仰ぐ。三人がその視線の先を追っても、そこには何もない。 『星の路(Vicolo Stella)を曲がれ』 まるで事実を述べるように淡々と、詩を謳い上げるように朗々と、詩人はその枯れ枝の如き指先をまっすぐに掲げた。 『野菜の市を抜け、山頂の楽園へと登れ』 「楽園」 『最も高き場所へ。其処に《彼女》が居る』 最も高き場所。 その表現に、終は心当たりがあった。 「ランベルティの塔……街を一望する、天国に一番近い場所――か」 顔を上げ、天を仰ぐ彼の声は何処か晴れやかだ。 胸の奥に燈り続けた疑問が、唐突に解消されたような心地。街を駆け巡る内に感じていた違和感の正体。 上部ではない。 地上でもない。 地下に、それは存在していたのだ。 ランベルティの塔の地下には、古代遺跡の名残で大きな空洞が空いている。それはこの街全体――ひいてはイタリア全土に共通する特徴だが、目に見える形でそれを確認できる場所は案外少ない。 地下遺跡を内包する硝子張りの床を歩いた。それを終は覚えていた。――違和感の根源が、そこに在る。 「行こう」 詩人への例と共に身を翻し、歩き出す終を、二人が追う。 『詩人たちよ――汝らの魂が楽園へ辿り着けるよう、私も此処から祈っている』 祈りの言葉だけを残し、偉大なる詩人は消えた。 旅人たちの胸に、導きの光を燈して。 ◇ 森は囁く。 侵入者を、彼らの同胞に変えようと。 ◆ ――瘴気を切り裂くほどの断末魔。 フラッグを振るう手が、叫びに引き摺られて大きく揺れる。はためく布がラウロの惑いを如実に示す。 思わず周囲を見渡しても、木々と暗闇の他に何もない。 「……ル、カ」 震える声が、痺れる思考が、縋るようにその名を口にした。 響き渡る断末魔の主の名を。 常ならぬ異様な叫びであっても、他ならぬ彼の声を聞き間違うはずがない。それが幼子であった頃から聞き馴染み、常に愛情と注意を向けてきた、己が息子の声を。 己が彼を育てたのか、反対に育てられたのか、判らなくなってしまったほどには彼の存在はラウロにとっても大きく、大切なものだ。 (とうさん!) (オヤジ) (あんたは誰だ? 人間――じゃ、なかったのか) 親を慕う素直な子供の声は、次第に思春期の反抗的な態度へと変わり――やがて、人ならぬ何かを嫌悪する言葉に辿り着いた。 口許に、微かに鈍い笑みが宿る。 “子供”の存在は多かれ少なかれ親を変える。 謀略に長け、他人と深く交わらずに生きてきたラウロを、彼の幼子は情深い“人”の親へと変えてしまったのだ。 そして、再び轟く断末魔。 その死。 いずれ訪れるものだとは理解している。 息子でありながら、己よりも先に彼の方が天寿を全うするだろうとも。 ――だから、今更怯える必要など無いのだ。 「……それに、あの子ってば今更護らせてくれるほど弱くもない、んよねぇ」 少し、淋しい事ではあるのだけれど。 両手のフラッグを握り直す。 焦りと当惑を笑みの仮面で塗り潰して、謀略のマフィオーソは森の向こう側を見透かした。 ◆ (厭世主義者) 女の声。 (己の命も捨てられない臆病者) 少年の声。 (人でも妖でもない半端者) 青年の声。 明確な個性を持たぬ、様々な人の声が終へ投げかけられる。一度浮世に厭いて山へと逃げ込んでおきながら、今更生に執着するかと。その身に流れる血は誰のものだと、疑問に近しい声音でそう問うてくる。 (浄化の炎が怖ろしいか) ――裏切り者め、と。 最後に落とされた声に、ふと顔を上げた。 人を已め、妖の側に足を踏み入れた彼を嘲笑っているのか。憐れんでいるのか。恐れているのか。震える囁きは様々な感情を内包しているようだった。 眉間に皺を寄せる。青年のあどけなさを残した顔が、不快に歪む。 「己の生すら厭った自殺者共に言われたくはない」 生に飽いて、浮世を疎んで、そして自ら命を断ったのは誰だ。 「裏切り者と呼ぶのなら勝手にしろ」 利かぬと判っていて尚変わらず囁き続けてくると言うのならば、無視するより他にあるまい。 溜め息を一つ落として、終は首を横に振った。 自らへの嫌悪も、不快も、疑問も、常に抱き続けている。 だが、それこそが人間である証ではないのかと、妖との境に立つ曖昧な青年はそう思う。 ◆ 聴こえて来た森の囁きに、澹は銀の瞳を小さく見開いた。 (護れなかった) (己は無力だ、あまりにも) そう囁くのは、他ならぬ己自身だ。 地獄の森は来訪者を絡め取る為、声すらも模倣するのか。まるで己が彼らと同じだと言われているようでいい気はしない。 「……ああ」 だが、そればかりは事実だ。彼らを護れなかった事。あの日の悼み。己への叱責。それならば受け止めずに居られない。 ――しかし、声は次いで違う人物を象った。 (人殺し) (犯罪者) 男と女、優しい二人の声が、呆れと非難とを籠めた穏やかな声が、降り注ぐ。はたと脚を止め、澹は思わずそれに聞き入った。 澹にとって唯一の肉親である姉と、その夫。いつまでも澹の胸に残り続ける、懐かしい声だ。 (立ち直ってくれたと思ったのに、また同じ事を繰り返しているのか) (澹、どうして) 彼らが詰るのは、今の澹の在り方に他ならない。 生まれ持った力ゆえに破滅しかけた澹を真っ当な世界に引き摺り上げてくれたのは姉夫婦で、澹の行く末を誰よりも心配していたのも彼らだとよく知っている。 「……それでも俺は、第二、第三のあんたたちを作りたくないんだ」 罪の懺悔にも似て、頭を垂れる。 今の澹を見て、彼らが何を思うだろうかなど、痛いほどに理解している。 それでも最早、路を引き返す事など出来なかった。 今までに奪った全ての命と、これから手を差し伸べる命の為に、澹は重い罪と覚悟を担って歩く。 (ほんとうに、身勝手な子) 「ああ、そうだな。すまない、姉さん、義兄さん」 許しを乞う唇は、しかし微笑みを湛えていた。 年の離れた彼を育て、惜しみなく愛してくれた姉の口振りを、思い出させてくれたから。 胸に燈る懐かしさと共に、澹は木々のアーチを潜る。 ◇ エルベ広場は、上空から見ると細い長方形の形をしている。 両側には土産物屋を含めた様々な市場が立ち並び、普段ならばかなりの活気が望めそうな場所だ。 しかし、その面影は今はない。 ――ただ、ひと気のない市と市の合間を駆け抜けながら、その光景を一刻も早く取り戻せるよう力を尽くすしか、旅人たちにできる事はなかった。 「ラウロ、本当に此処か?」 「エルベって野菜の意味を持つんよー。間違いないさね」 自信たっぷりにそう応え、先陣を切って走るラウロの耳が、ふと異変を捕えた。脚を止める。 折しも、広場の中央に差しかかろうとした所だった。 長く続く市場の途切れ、石で出来た古代の処刑台が無言で佇む、禍々しい区画。 「待っていた」 聞き覚えのある声だ、と把握するよりも早く。 死角から飛びかかってきた何者かを、澹が鮮やかな所作で迎え撃った。そのまま圧し掛かってくる力を受け止めて、交叉した両の刃で押し返す。 銀の瞳が、対峙する敵を映す。 ――獣だ。 「獅子……とは、違うな」 引き締まった巨躯の、狼とも見紛う獰猛さを備えた猟犬が、爛々と目を輝かせて赤黒の刃に喰らいついていた。 「これも、世界樹の実か?」 次いで投げる問いは、明確に相手を選んでいた。 拮抗する敵から視線を離す事なく、しかし澹の察知能力は木々の合間に隠れる何者かを捉えている。 「私の飼い犬だ。クランプ、と」 「躾がなってないんと違うー?」 広場の記憶――処刑台の“炎”から元素を取り出して、ラウロはその指先に炎を燈した。終の懐中電灯と共に場には光が溢れ、罪人たちが創り出す凝った闇は焼き払われる。 男はそれ以上身を隠す素振りも見せず、そこに居た。 「ようこそ。辺獄の詩人たち」 褐色の肌を軋ませるように笑み、ケレン味溢れる一礼を送る。黒い巻き毛の奥で、緑の光が彼らを射抜いていた。 「ご案内、どうも」 淡々と、慇懃に応じた終にも男は闊達な笑いを零した。 「その様子ならば《ジュリエット》の場所も判っている事だろう。少しばかり遊んでいかないか」 「お断りします……言うワケには、いかんみたいね」 軽やかでおどけていたはずのラウロの声が、一転して冷たく沈む。細めた赤茶の瞳に冴えた光が燈る。巻き毛の男もそれを見とめ、満足そうに頷いた。 ちらり、と横目に澹を見遣る。 獣の牙を両の腕だけで受け止める男は、しかしそれに気がついて不敵に笑んだ。 「俺の事は気にするな」 鋼刃に似た瞳を細め、一層腕に力を籠める。唸り続ける獣の口端から、喘ぐような熱が零れ始めていた。 「生憎、これしきで音を上げるほどやわな身体はしていない」 対する澹の表情は変わらず冷淡で、言葉通り疲れなど微塵も見せない。どこか自嘲的に唇を曲げる彼に、ラウロは口笛を鳴らした。――この調子であれば、獣は任せてしまっても大丈夫だろう。 「ほんじゃま、よろしゅう頼んますよっと」 軽やかな声と共に、翻したフラッグ・ポイの先端を男へと突き付ける。 男は鮮やかな身のこなしでそれを躱して、腰に下げていたサーベルを抜いた。ラウロの呼びだす氷の礫を剣で叩き落とす。たなびく一対の旗と鋭い剣先、翻弄するように躍るラウロに、息ひとつ乱さず男は追従する。一歩引いて見護る終の眼の前で、二人の男は駆け回る。 ざわり、終の視界の端で闇がざわめく。 「――やはり」 静かに言葉を落として、青年の瞳が鋭く細められた。斧を構え、身を包む大気に意識を集中させる。――ラウロがばら撒いてくれた冷気が、余すところなく散っている。これなら、と微かに笑んで頷いた。 刹那、森の大地から黒が立ち上がる。 三人を取り囲むように、一斉に沸き上がったそれは影。鉤爪を備えた獰猛な手。黒く平坦な指先が、大小様々の銃身を握り締めていた。 男がそれを見とめて、いびつに笑み咲かせる。 「そうだ――撃て、プロテウス!」 哄笑。そして、無数の銃口が一斉に火を吹いた。 瞬間的に撓んだ熱気は、しかし刹那の内に身を刺すほどの冷気へと変じる。急激な変化に空気が軋む。何もないはずの大気が、一斉に凍て付いて、煌めく氷の壁を現出させた。 無数の銃弾は壁に突き刺さり、抉るように回転するも、堅牢なそれを打ち破るまでには至らなかった。煙を立てて氷を溶かし、しかしその内部で動きを止める。 「――!」 息を呑む気配。 しなやかに撓んだ闇が、ひとりの青年を吐き出した。金髪碧眼の、貴族然とした佇まい。――もう一人の世界樹旅団だ。 「竜の翼の次は、氷の盾、ですか。世界図書館も一筋縄ではいきませんね」 青年は肩を竦めて苦笑する。 役目を全うした氷が融け、大気へと散る。水晶の粒に似た光が微笑む終の赤茶色の髪を彩った。氷の、水の成分が多い場でこそ、彼の雪女としての力は真価を発揮する。 「影からの奇襲があるのではと思っていた。これほどに暗い場なら、尚更」 「的確です」 降参だ、とでも言いたげに両手を上げた。 地面から飛び出してきた巨大な影の手が、巻き毛の男を捉える。 「何をする」 「一旦退きましょう、ヴァレンティノ。クランプも疲弊している。態勢を整えるべきです」 噛み付く男を往なし、青年は涼しい顔で森の暗がりへ消えた。それと共に立ち上がった影もまた、男を掴んだまま地面へと溶けていく。 「待て!」 あまりに潔い撤退に、澹の制止の声も届かない。主の消失と共に使い魔らしき狂犬もふと消え、唐突にやり場を喪った力を持て余して腕を軽く振る。 ここで立ち止まっている暇など無い。 三人は、シニョーリ広場へと通ずる道を曲がった。 ◇ ランベルティの塔――その中庭は、既にそれと言われなければわからないほどに変貌していた。 「これは……」 地下遺跡へ通ずる穴を埋めていた硝子は無残にも砕かれ、その中央に、硝子を突き破った主が、我が物顔で聳え立っている。 人肌にも似た淡い色の表皮。いやに滑らかな蔦を幾本も縒り合わせたかのような幹。枝先に繁る葉は大きく、丸い広葉樹の形だ。自殺者の木々とは違う、瑞々しい緑の色が鮮やかに目を焼き付ける。 そろり、そろりと慈母が両腕を伸ばすのに似たしなやかさで、建物の外壁を侵蝕し伝い登っていく樹。中庭の美しい階段も、荘厳な塔の姿も、繁る緑と淡い木肌の色に隠れて見えない。 「世界樹の苗木……これが」 茫然と、呟きを落とす。 苗木と呼ぶにはあまりにも巨大で、あまりにも恐ろしい姿だ。その場の全てを喰らい尽くし呑み込まなければ満足できないとでも言いたげな、傲慢な態度。力を持った宿木に抗える樹などあろう筈もない。 その根元に、一人の女が居た。 最後の世界樹旅団員。シルヴィア、と呼ばれた女。 ざわざわと、それを取り囲むように木々が蠢く。 「――植物使い、か」 「そう。シルヴィアは緑の指を持つ――世界樹の苗とも非常に相性のいい、出来た女だ」 朗々と、それを褒め称える声。 女の背後で、立ち上がり、渦巻いた闇の中から先程消えた二人の男が姿を見せる。 「先程、俺が此処を通りがかった時に姿が見えなかったのも」 「シルヴィアが樹の成長を抑制させていた。お前の足許で」 男の誇らしげな声に応えて、女が微笑む。 手を掲げ、指先で音を鳴らせば――世界樹の枝が、自殺者の木々が、己の領分を越えてその腕を伸ばし始めた。三人の旅人達を絡め取ろうと、いざないの声と共に迫りくる。 (――オヤジ) (半端な臆病者) (人殺し!) しかし、それらの声に動揺するほどの弱い心は既に、誰ひとりとして持ちあわせていなかった。叩きつけるような枝の襲撃を散り散りに飛んで避け、それぞれに己の武器を構える。 フラッグ・ポイを大きく振り回して、ラウロが巨大な氷を呼ぶ。襲い来る木々の行く手を阻むように地面に突き立て、自身は状況を見定めようと背後へ引いた。 立ち上がった氷柱の隙間を、終が縫うように駆ける。 追おうとして身を翻した巻き毛の男を、澹の揮う二本の刃が惹き付けた。 「あんたの相手は俺だ」 いざなうように声掛ける。身を翻して、死角から迫った狂犬の腹を大きく斬り裂いた。潰れるような叫び声が響いて、男の使役獣は呆気なく霧散する。 それを横目に捉えながら、終は繁る木々の合間に身を押しこむようにして、女の眼前へと躍り出た。緑の檻をこじ開ける。上半身を大きく乗り出して、腕を目いっぱいに伸ばす。 「……裏切り者など、何処にも居ない」 ひらり、その袖から、白が散った。 青年の手元から躍るように現れたのは、雪と見紛う桜の花弁。 女の白い顔に、驚きの色が浮かぶ。美しく散る桜のひとひらに手を伸ばす。 ――その指先が、音を立てて凍り始めた。 冷凍睡眠。冬の最後に咲く花が、春を待つ命を眠らせる。 「シルヴィア!」 巻き毛の男の絶叫が轟く。女の異変に気を取られた隙を見逃してやるほど、対峙する相手は優しくはなかった。 一歩足を踏み込み、無防備なその懐に飛び込む。 ようやくその動きに気付いた男が逃れようとするのを許さず、ナイフの柄をその鳩尾に力の限り叩き込んだ。潰れた声を上げて、男の目の焦点が揺らぐ。ふ、と意識の光が消え、前のめりに倒れ込むのを、澹は肩で受け止めた。一片の疲れも見せぬ冷静さで、充足の息を零す。 「ラウロ!」 そして、自由に動ける三人目の名を呼ぶ。 「りょーかい!」 金髪の青年が咄嗟に反応するよりも早く、彼は動き出していた。 翻る白。 美しい円を描いて舞う二本の旗、その軌道を追って焔が現れる。幾重にも幾重にも、旗が翻る度に焔の層は膨らみ、やがてそれは巨大な、無数の鎌の形を創り出した。 一対の旗を、繋げるようにして支え持つ。 ――それは既に、焔の鎌の柄と変じていた。 高く跳び上がる。無数の刃が熱を孕んで掲げられる。 狙いは四散する硝子の中央。大きく開いた、地下への穴。 「嬢ちゃん、悪く思わんで、な!」 勢いづけて、太い幹を横薙ぎに切り付ける。 焔の刃は容易く、溶かすように世界樹を伐り倒した。 熱によって分断された幹。 根に繋がる部分は一足先に溶け、毀れ、砂へと変じて消え去った。 「……やはり、これまでのようですね」 呆れたように首を振って、一人残された青年は微かに笑った。端正な顔立ちが奇妙に歪む。 一歩、背後へと退いた、その脚が地面に沈む。――地面に創り出された影の中に。 「我々はこれにて御暇いたします」 言葉と共に、立ち上がった影の手が容易く男と女を捕えた。旅人たちも、それを深追いはしない。 「それでは、御機嫌よう」 慇懃な別れの言葉と共に、二人の紳士と一人の娘は消えた。 支えを喪った世界樹が、ぼろぼろと崩れ始める。 砂となって溶けていく光景の中に、三人は飛び去る銀の円盤を見た。 あとに残されたのは、青空と、美しい街並みだけ。
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