―― 副制御鍵の消失を確認―― 冗長化構成破綻による影響を再算定―― 主制御鍵との同調率固定化過程を再定義―― 阻害要因排除の必要性を認む ディラックの空。 その広大無辺の地に浮かぶ、巨大な球の形をした、かつて竜刻だったもの。 その世界にあった際の本来の役目を忘れさせられ、別の目的の為に構成を組み替えられたもの。 それは繭のような球形の物質によって包まれて、静かに本格的な目覚めの刻を待っている。 64の竜刻と、あと一つの何かを鍵とし、ドクタークランチの手によって完成に導かれた巨大な力持つ竜刻の要塞は、現在ではディラックの空に揺蕩い、最終調整を重ねる段階に突入していた。「ドクタークランチ」 今やその要塞と一体化し、不可分となりつつある少女が、静かに口を開いた。 応じたのは、別の場所にいる男。「どうした、マスカローゼ。何か問題があるとでも?」「ええ、まぁ、はい」 何がしかの思考を邪魔されたせいか、クランチの声は少し不機嫌なもの。 それでも少女は慣れたものとばかりに、おざなりに対応しつつ、要件のみを告げる。「先日の世界図書館の手のものによる研究所襲撃を受け位相転移を行いましたところ、起動前の準備が完全に終了していなかったため、出力強化およびエネルギーの補充の必要性を叢雲が訴えています。このままでは予定している位相転移が不可能な状況だと――」 いかがいたしましょう? そう問いかける少女の声に、クランチは鷹揚に頷いた。「相変わらずお前を通じてでしか意志を解しえぬのがつまらんな。まぁ、それもこの解析が終わるまでの事――好きにさせるがいい。手段、方法等特に配慮すべき点はない。ただし、データの収集及び蓄積を忘れてくれるな」「了解いたしました。後一つ、問題があるのですが」「好きにせよと言った」「……かしこまりましたドクター。それでは叢雲と共に作業にあたります」 通信が途切れ、要塞の中心部には全裸のまま、叢雲の一部と融合した少女の姿だけが残される。 今や囚われの身となった魔神はここにはなく、最終調整を行うにあたってマスカローゼのみが事にあたることとされた以上、彼女がこの場を離れるわけにはいかなかった。 仮面は外され、体内の殆どがファージに染め上げられた彼女は、要塞とのつながりを得て、ようやくにその意識を保っている状態に近い。 体の外側までしみだす黒い瘴気となって存在を主張するファージ。 その全てを受け入れながら、彼女は静かに瞳を閉じる。「この感情」 ぽつり、と少女は呟いた。 先日の襲撃で、一人の青年に再会した。 その際に目覚めた――否、ずっと押し込めていたかつての彼女。 彼女の身体に宿るファージの影響か、叢雲の意志か、或いはクランチの技術によるものか。 マスカローゼとはもう別の人格といってもよいレベルで切り離されつつあるかつての彼女の心と記憶だったが、それが今、逆に問題となっていた。「もう、いらないの――捨ててしまったんですもの。ねぇ、叢雲。あなたのいう通りにするわ。だからそのための力、少しもらいますね」 そう彼女が呟いた瞬間、部屋全体が静かに鳴動し、虹光を放つ。――存在事象の定義を再編成、構成分子の一部流用を許可 マスカローゼの中から染み出したファージの闇と相まって不可思議な光彩を織りなすその輝きが収まった時、部屋の中には二人の少女の姿があった。 一人はマスカローゼであり、今一人もマスカローゼであった。 竜刻の要塞にその身を融合させたマスカローゼの方は、瞑目したままに微動だにしない。 逆に、新たに表れたマスカローゼが、体の動きを確認するかのような動作を繰り返している。 ふと彼女は、右の顔半分に着けられた仮面の存在に気づき、これを取り外した。 単純に再構成されただけであるがゆえだろう、その裏側に貼り付けられていたものは、そこにはない。「いらないわ」 言葉と同時に、彼女の力によって仮面は分子の砂となり消えていく。 それはかつて彼女の左胸に収まっていた竜刻の力。 同時に、今彼女本体の左胸に収まり、そして体全体に根を張っている、竜刻の力を引き継いだファージの力でもある。「さて、行きましょうかフラン? いい夢を見せてあげる。生ぬるい微睡の中に引き籠る貴女にぴったりの、素敵な悪夢――それで、終わりにしてあげる」 くすくす、と少女は微笑んだ。 「生贄は、そうね――彼の世界の、平和に暮らしている人々がいいわ。だって、ねぇ、面白くないのですもの。わたしだけが、こんな運命にあるなんてつまらないわ……あの人達や、都市の人達にも絶望を味あわせてあげる」 私だけで独占するわけにはいかないくらいに素敵な味だったもの――そう嘯いた彼女の密やかな含み笑いが、静かに叢雲の中に作られた制御室の中で奇妙に響いていた。 叢雲となった竜刻に本来あるはずのなかった制御室に溢れる数多の光。 それらが、本当ならば別の運命にあるべきだった少女の、完全に昔のままの姿を断続的に照らし出す。 貧しい暮らしながらも平穏な暮らしだったあの頃の服。 天より落ちた石に胸を貫かれる事もなく、傷一つなく両親と穏やかな日々を謳歌していたころの、十全な体。 違うのは、その心の有り様と、体内の殆どがファージによって織りなされたものであるという部分だけ――形態だけが奇妙に完全に構築された、フランとしては異質で、マスカローゼとしてはかくあらんという少女の姿がそこにはある。 部屋の光は、世界を統べる力持つ巨大な竜刻を手にした小さな女帝に何事か語りかけてでもいるかのように明滅していた。************************************************************** 緊急性が高いとして呼び集められたロストナンバー達。 その彼等を前にして、宇治喜撰はスクリーンへと依頼内容を映し出す。:order_4_lostnumbers → 旅団員、マスカローゼと思われる者によるヴォロスの一地方、アルヴァク地方にある 神竜都市アルケミシュへの襲撃に応戦し、この排除を行ってください。:warning→ 人体及び竜刻をエネルギーとして取り込む事で力を強化してきています。→ 現状の戦力分析は難。逐次増強中の見込み。ただし先日の戦闘解析より能力は下記を見込む。 ・突出した運動能力による肉体戦闘への対応 ・竜刻の力によると思われる分子破壊能力:submission → 調査対象である神竜都市への被害を可能な限り軽減してください。→ 可能であれば、同都市上層部との連携体制を構築してください。:remarks → 旅団員「マスカローゼ」 宇治喜撰の傍らについていた司書アインが、預言書を片手に、ロストナンバー達へ相対した。「緊急の事態が預言されました、詳細はご覧のとおりです」 宇治喜撰のモニターに映された文字を見つめるロストナンバー達をぐるりと見渡し、彼は言葉を続ける。「壱番世界において旅団の活動が活発化していますが、ほぼ同時のこのタイミングです。何かしらの関連性があるのかもしれません」 そして、とアインは告げる。「壱番世界への大規模な侵攻が予想される中、この事態です。可及的速やかな解決を望みます――すみません、こちら側ではこれ以上の戦力の増強は、難しいです……皆さんだけが、頼りとなります」 申し訳なさそうに、耳を垂れる彼は、しかし決意と願いを込めたかのように顔を上げてロストナンバー達へと視線を合わせた。「現地では都合のよいことに、民間戦力も募集する意向のようです。うまくすれば、彼の地の人々と連携し、協力行動をとることができるかと思います。敵の戦力を確定できず、応援を頼めず、殆ど交流の無い人々との共闘、と悪い条件が重なっているところではありますが、皆さんなら、やっていただけると信じています――どうか、よろしくお願いします」 ************************************************************** 星海の如き穏やかな空間に包まれ、「少女」は微睡みの中、夢を見る。 そこはかつて彼女が暮らした地。 父は亡くなったけれど、残してくれたわずかな財産と畑、村の人の好意でどうにか生計を立てている日々。 重い水瓶を運ぶのに難儀し、はかどらない畑仕事をそれでも懸命にこなす日々。 やがて出会う、一人の男性。 顔の見えない青年に抱きしめられ、少女の心は暖かく、心地よい感情に見たされていく。 穏やかな暮らしの中で、ある日となりのおばさんが声をかけてきた。 旦那さんに精のつくものでもつくっておあげ、と言われ、みずみずしい野菜を渡された。照れ臭いけれども、同時に不思議な嬉しさがこみ上げてくる。 ありがとう、おばさん。 そう言って笑みを浮かべた瞬間、突然に視界が眩しい光に覆われた。 目を開けた時、そこにいたのは怯えた顔をした隣家のおばさんで、彼女は己の家の床で、腰を抜かしているかのようにへたり込んでいた。 外はまだ夕暮れ時のようで、空が赤く染まっているように見えた。 「現実」のおばさんのほうへ、少女がそっと歩みを進めていく。――おばさん? 不思議に思って声をかけようとするのだが、出てきたのは別の言葉。「あら、ようやく起きた? 丁度よい頃合いね」 それは確かに「少女」自身の声。「わたしはあなた、あなたはわたし――でもわたし達には、もうあなたはいらないの。だから、ねぇ――?」 絶望の中で、消えて行くというのはどうかしら。 そういうと、少女はそっと目前の女性へと手を延ばした。「フランちゃん……やめとくれよぉ……たす、け、て――」 伸ばした手が、そっと対象の首に添えられた。 助けを求める声に耳を貸すことなく、少女は対象の体を片手一本で持ち上げる。鍛えているようにもみえない少女の細腕からは想像もつかない程の力。 その力で女を宙吊りにした少女の手が、そっと女の胸のあたりへ添えられる。「おばさん、ごめんなさいね」 添えられた手が、人として生きる為、物理的に必要な部分を崩壊へと導いていく。――おばさん!!「おばさんも、叢雲の糧にしてあげます。ごめんなさい、『そういう運命だった』のだと、あきらめてください」 心の内で「少女」が悲鳴を上げるが、その口からは冷酷な言葉がついて出る。 表面部分だけではなく、内部の臓器の一部までもが一瞬で分解された女であったが、逆にいえばそれだけにとどめられた事で、ほかの部分は残された。 胸の部分にぽっかりと空いた女の身体からあふれ飛び散った鮮血が、片手でその首をつかみ続けている少女の顔へ、体へ、服へと盛大に浴びせられる。 朱い飛沫をその身に浴びながら、心の内で恐慌状態となっている「少女」の慟哭を感じ、少女は嗤う。「いい声――でも、これだけではまだ駄目だわ。村一つ程度では、ね」 村一つ、という言葉に疑問を思った「少女」が、再び意識を外へと向けた。 それに応じるかのように、少女が隣家の扉をくぐって外にでる。 視界に収められた光景は、惨状。 累々と転がる死体と、今や盛りを迎え煌々と光を放つ、家々を燃やす炎。 外が明るい理由は、太陽が照らしていたからではない。 雲一つない月夜の空を炎が赤く染め上げて、村が一つ、灰塵に帰そうとしていた。 微睡の中で見ていた平和な光景が崩壊していく様に、「少女」からは言葉もでない。 ただ、耐えきれぬ思いが凶器となって襲い掛かってくるばかり。 そんな最中、近郊の森が、鳴動した。 飛び立つ鳥達の姿と、折れる木々。 数多の木々が根付いた土壌の一部が起き上がると、人型の姿を見せ、稼働を開始する。 体長は壱番世界の尺度で8mを少し超える程度。 膝までもない少女はその巨体を見上げ、感心したように目を見張った。 「それ」は、つい先日に世界図書館のロストナンバー達がヴォロスの一角で、必死の攻防の末に倒した巨人と同等のものである。 異分子とみなされる対象を排除する役割をもたされたまま眠りについていた、その存在。 何処にでもあるわけではないが、少なくともこのアルヴァク地方には存在していたらしい。 今明白な目標を感知したことで、かつて暴走の果てに討伐された同輩とは異なり、目的意識をもった行動を見せていた。「――これも、叢雲と同じ、防衛のための様々な機構の一つなのですね」 遥か離れた地にある叢雲の意識とリンクされた少女が、その異形の巨人の存在理由を悟った。「でも、残念。気づいて起きだしてきたのは誉めてあげますけれど、それだけではどうしようもないですよ」 近づいてきた巨人から、少女に対し数多の攻撃が繰り出されてくる。 惨状であった村は今やその攻撃に巻き込まれ、跡形もなく姿を消していた。 それでも、主目標たる少女が傷一つ負う様子はない。「単純な消耗戦をするしか脳のないトラップとは、つまりませんね」 幾多の防御壁を貫き、巨人の再生能力を上回る速度で少女の攻撃が巨人に襲い掛かる。 肉体による攻撃や、武器による攻撃は無駄だと悟っているためだろう。 ひたすらに巨人の再生能力を削るため、分子レベルでの崩壊を促す特殊能力でこれに対抗していく。 やがて、「その時」が訪れた。 鎧は破壊され、巨人がその身に纏う再生の能力が徐々に崩壊の速度に対抗できなくなっていく。 巨人の肉体を次々と崩壊させていく少女の攻撃は、ついにその深奥部。腹部に宿る竜刻にまで到達した。「その力、わたしと叢雲で有効活用させてもらいます」 竜刻の周囲を崩壊させた少女の手によって、巨人の核を成していた竜刻が、その体から引きはがされる。「さようなら――わたしとは、少々相性が悪かったようで、残念でした」 地に伏し、大量の液体をまきちらして苦しむ巨人の身体に手をあてた少女が、その能力を最大限に発揮したことで、巨人の身体は急速に崩壊していった。 後には惨状と、眉を顰めざるをえない凄絶な匂いが残されるばかり。 その中で、巨人の竜刻をもエネルギーとして取り込んだ少女は、己の裡で外の景色を見まいとするかのように引き籠った「少女」の気配を感じながら、ため息をつく。「これでもまだ叢雲は満足いたしませんか――そういえば、メンタピ殿が目をつけていた彼の者の創作物がありましたね」 ふと少女が村の遥か北方に座する北嶺に目を向けた。 つい先日、本来は今の彼女が果たしている役割を持っていた老人が散った地。 その地に眠る、竜刻による構成体。 そしてその山脈の麓に位置する、この地方ではかなり大きいといってよいレベルの都市、アルケミシュ。 数多の竜刻使いの加護を受け、同時に背後に眠る巨大な竜刻や、無数の竜刻が存在する地。 そこを冒すとなれば、無数の竜刻使い達を敵に回すことになる。だが――「わたしだけ、はつまらないですしね」 叢雲に在った時と同じ言葉を、少女はこともなげに呟いた。「皆、一緒に消えてなくなってしまえばいいと思うわ」 くすくす、と笑う少女。 その笑声は、ヴォロスの地に吹く風に煽られ、やがて高らかなものへと変わっていく。 かつて何の力ももたず運命の重さに押しつぶされそうになっていた少女は、見た目こそかわらぬ無垢な少女のまま、その内面だけを歪に変貌させていた。 ディラックの空に揺蕩い、血にまみれ、数多の命や竜刻を取り込んだその女帝が、次の目標へ向けて、今ゆっくりと歩みを再開させていく。**************************************************************「なんたること、この都市がたった一人の小娘に攻められるとは――!」 神竜都市アルケミシュを治めるは、時の教皇アルドルフ。 人格者としてしられた先の教皇が死亡した後、竜刻使いとしての傑出した能力とその政治的手腕を買われ就任した人物で、まだ四十を少し過ぎたばかりの男だった。 今彼は、就任直後でありながらかつてない難題を突き付けられていた。 近郊の村が消滅し、そこからアルケミシュに至るまでの村々が滅ぼされているという報告を受け竜刻使いの一団を送り出したのがつい一昨日の事。 騎兵であれば一個師団にも相当しようという戦力を、「やりすぎだ」という声も無視して投入したにも関わらず、殲滅されたという結果が届いたのが昨日。 第一次防衛線を張ったのが今日の朝であるが、昼をすぎた今、攻防の地点は城壁からわずかばかり離れた地点となっている。「都市の民へ避難勧告を出せ! 竜刻使いたるものは司教から侍祭に至るまで全てでよ! 通常兵も応戦にあたらせ、民間からも戦力にならんとするものがあれば受け入れよ! 全力を持って対象を排撃する――私も出よう」 教皇の証たる錫杖を振って彼は部下へと指揮を飛ばす。「東の動向が怪しいこの時に、よもや斯様な事態に陥るとは……」 ぎり、と唇を噛みしめた教皇の口からは、呻くような言葉が漏れ出るだけだった。
白き北嶺に足の遅い春が訪れ、硬く凍った地表が緩む季節が今である。 神竜都市アルケミシュ。 その周辺の地においては、この春の訪れを待って寒さの緩んだ大地に鍬を入れ、草々の芽吹きを促し、新たな作物の苗を植える。 北嶺で一度地下にもぐり、麓近くから再び染み出してきた水の流れは凍った大地の溝を通り清流を成す。 この川の畔に様々な野草の花が咲く様が、常においては春の訪れを告げる自然の合図である。 これを周辺の人々は、かつて竜に仕えた娘の逸話になぞらえて、アイリスの息吹と呼んでいた。 だが今年、アイリスの息吹の代わりに周辺の地を訪れたのは、死の女神である。 数多の村々を気まぐれに訪っては、川辺の草花を手折るようにして住人達の命を容易く摘み取っていくマスカローゼ。 彼女が身に纏うのは、春の陽気に似合わぬ、死を招く暴虐の風。 その意志持つ嵐から逃げるようにして、人々は城を目指した。 北嶺を背にし、麓に向かって三重に敷かれた城壁がこれを受け入れていく。 その人々の流れを足下に見ながら最も外側の城壁に立つ無数の兵達の姿がある。 その中に、志願兵として戦線に参加したロストナンバーの内の何人かの姿も含まれていた。 「人の流れが、そろそろ尽きようとしていますわね」 城壁の外側の切り込みに立って様子を見ていたパティが、傍らの青年に声をかけた。 「そうだね、パティ・ポップ。この地に宿る大気の子等が、とても騒いでいる――ごらん。あの雲の下に彼女はいるようだよ」 そういって視界に収まるぎりぎりの辺り、ほんの少しだけ空を埋めている雲をイルファーンが指し示す。 「うん、感じますわ。なんだか、とんでもない敵のようですわ。全力でいかなければいけないわね。あら、来たようですわ」 雲が消えて久しいこの地において、不自然に表れる雲塊。 それが死神の来訪を訪れる報せであるということは、この数日間にわたって城に逃げ込んできた避難民の証言から明らかだった。 一つ証言と違うのは、雲が地平の端から動かない状態でありながら、死神は既に城からほどない地点まで歩みを進めているということである。 その報せはトラベラーズノートを経由して、最前線で竜刻使いを含む大隊と共にいる小竹からもたらされた。 「それで、あなたはどうなさいますの?」 「僕かい? 僕はロストレイルの中で話した通り――全力で、この城を守るよ」 イルファーンの口調はまるで「明日も晴れそうだよ」と言っているかのような何気ないもの。 だが、それはやる気がないわけではない。 むしろ逆だった。 「僕は人が好きなんだ」 彼の足元の門をくぐる最期の一人を眺めながらそう呟く青年の白い衣が、山肌から吹き降ろす冷たく乾いた風に揺らされる。 「限りある命の中で数多の悲劇に巡り合う」 白いターバンから漏れた髪が、次第に強まる風によって激しく四方に揺らされて。 「それでも人は、種蒔き、命を育み、未来を創りだしていく――その営みを、邪魔させはしない」 轟、と地平の彼方から城壁を襲い来る真空の刃。その風が、イルファーンの目前で弾けた。 ゆるりと、しかし厚みのある風の壁が形成されていく中で、青年の腕にはめられた銀の腕輪、その青い宝石が瞬く。 瞼を静かに閉じた彼が思い起こすのは、かつて心に焼き付けられた光景。 天を焦がす炎。悲鳴すらもはや聞こえてこない寂寥の地。その光景が、今再び創りだされようとしている。 「僕の権能が及ぶ範囲に犠牲を出さない。過去の過ちは、繰り返さない」 見開かれた深紅の瞳。その視界の及ぶ範囲で、城郭を覆い尽くすような巨大な風の壁が生み出される。 大気を無理やりに捻じ曲げるその嵐の空間は、内部で雷の精霊を盛んに遊ばせ、侵攻するものを阻む壁となる。 それは、何者をも通さないという鉄の意志が編み上げた、無尽の盾。 「お見事ですわね――では、あたしも出るとしますわ」 城郭が異能の壁に覆われたのを確認すると同時に、パティのブーツが発動し、その身を壁の向こう、目標である少女が遠く見通せる小高い丘陵部へと一気に転移させる。 「あれがレナの逃がした敵ね――さて、接近される前にありったけ投げてみますか」 言葉と同時に高速で投擲を行う魔盗賊の娘。 魔力を付与された刃は、本来では届かないような位置にいる少女へと襲い掛かっていく。 遥か遠距離で竜刻使いやロストナンバー達の部隊と距離を取って対峙していた少女が刃に気づき避ける動きを見せた瞬間、パティの意志に反応して刃が直線軌道から旋回軌道へと変化する。 「魔盗賊の本領、見せてあげるわ」 その刃が叩き落とされた甲高い金属音が、本格的な戦闘開始の合図となった。 † これは、闘いの号砲の時より少し遡る。 ロストレイル車内において、今回現地へと赴く四名が方針を話し合っていた。 「先に言っとくが、俺はカワイ子ちゃんを助けたい派だゼ? 止めるのは賛成だがぶっ殺す気はねェからナ」 決して広いとはいえない空間に足を投げ出し、背もたれに深く体を預けたジャックが、遠慮はしねぇとばかりに宣言した。 彼の様子を眺めしばし黙考の後に口を開いたのは、小竹。 「別にその意見にどうこう言うつもりはないけど、自分は必要なら躊躇しないと、思う。それも了解しておいてほしい」 「まぁ、全ては状況次第――いずれにも対応する心づもりでいるのがよいのではないかな?」 少し荒れそうになった場を柔らかくしようとするイルファーンの言葉を受け、二人は同意の言葉で応じる。 「マ、全てはその時が来たらってことだ」 他の面々の様子を眺めながら、最後にジャックが肩をすくめてそう締めくくったところでイルファーンは本来の話題であったところの、今回の作戦の打ち合わせに話を戻していく。 魔力の付与、囮の役割、とどめにすべき巨大魔法をどう放つか。現地人との協力の段取りをどうするか。 そんなやりとりの中、目的地が近づいたというアナウンスが車内に響いた。 「それでは――互いに、生きて帰りましょう」 「あぁ。自分はあの世界が好きだから、旅団の企みなんかで破壊させたりはしない。絶対に、彼女を止めて見せる。易々と崩壊させたりはしない」 「マ、そこまでは同じってことだ」 「そうですわね」 全員が視線を合わせ、頷いた。車窓から望む眼下の大地。 世界を渡り終えたロストレイルの窓の外には、ヴォロスの雄大な大地と空が広がっていた。 猛烈な速度で流れていく景色はやがて北嶺の峰々へと変わっていき、車体は臨時に設けられたプラットフォームへと滑り込んでいく。 マスカローゼによるアルケミシュの襲撃が行われるまで、後一日といった頃合いの事である。 † そして時は、アルケミシュが暴風と雷の壁に覆われる少し前。 最前線の部隊の視界にとらえられたのは、一人の小さな少女。 派手すぎず、地味すぎないこの辺りの少女が少し畏まった場で着るような普通のドレス。 首筋から裾へ、焦げ茶色から白へとグラデーションをしていく不可思議な文様以外では、至って特別な所のない装い。 その衣装に身を包んだ彼女がゆっくりと歩いてくる様は、気軽に草原を散歩している年頃の若い娘にしかみえなかった。 「死神め!」 トラベラーズノートでマスカローゼの来訪を仲間へ知らせる小竹の背後で、馬上で槍を構える騎兵の一人が声を漏らした。 憎悪。騎兵は先だって討伐部隊として出陣した兵の中に肉親を持つと話していた。その声に宿る響きが、マスカローゼがかつての少女ではなく、まさに死神と呼ばれるにふさわしい存在となってしまっているのだ実感させる。 「傭兵。コタケとか言ったか。貴様確かにあの女を知っているというのだな?」 竜刻使いであり、司教の地位にある前線部隊の隊長が、そう確認してくる。 「あぁ――僕らは彼女を止める義理がある。だから、力の限り協力させてもらう」 「それならば一応聞いておくが、説得する機会はいるか?」 実際のところは問ではなく、確認だった。 この部隊への配置を希望した際に、ジャックが見せた能力の一端は司教に彼らの力を認めさせるに十分なもの。 それ故に使い捨ての傭兵ではなく、協力者として客将的扱いを受ける事となった彼等四人への配慮である。 だが、それは特定の答えしか期待していない、正に一応の問。 「いや、まずは彼女を止めることが先決だ。それに説得なら――」 そう言いさし、小竹は横のジャックに視線を向ける。 その先にいるジャックの髪は青銀色。閉ざされた瞼の奥にある瞳は、おそらく常の煌めく緑柱石から、深みのある菫青石のそれへと変化しているはずだった。 「グッ、二人居やがるのか――益々殺せねェだろ!」 その瞼が、かっと見開かれた瞬間、苦々しげな舌打ちが戦場に響く。 「二人?」 小竹の問いに、ジャックが難儀そうに頷いた。 「殆どがファージのよくわからねェ感覚だったがナ。明確な意思を持ってる女が一人――それと、絶望しきった感じで奥底に引っ込んでる女が一人いたゼ。表に出てる奴、あれだけ身体や精神をファージで構成してマンファージになっていながら、完全にテメェの意志で動いてやがる。大した意志の力だナ」 「そう、か。確かにあいつの報告書でも、急に態度というよりは人格が変わったような事が書かれていたっけか。なら、やることは一つだ。奥底に眠る元の彼女を呼び覚ます、それができなければ、実力行使しかないが――まずは、一当たりしてからだ」 ひゅん、と風を切る音をさせて小竹のトラベルギアが本来の姿を現した。 2mの長さのそれを左手に持ち、右の手で焔の力を宿す小刀を取り出した。 その彼らの頭上を真空の刃が一瞬で飛び去っていく。 明らかに、前方の少女から放たれた力だった。 それと同時に、背後の城塞が巨大な嵐に覆われる音を聞く。 嵐は真空の刃をかきけし、空気が爆ぜる。その音が、合図となった。 「竜刻使いは各々の本分を成せ。我らが敗れれば後は猊下の率いる本軍が城塞に立て籠もるのみ! 決して民に、そして猊下に敵を近づけてはならぬ。騎兵は我らの術式が発動次第突撃、第三波である歩兵部隊はその後に続け! 乱戦になろうが恐れるな、貴様らには常にはない力が付与されているのだからな!」 パティ、そしてイルファーン、さらには同様の能力を持つ竜刻使いから魔力付与をされた兵達は、常にはない機動力と攻撃力、防御力を持つ。 既に出撃し、そして殲滅された部隊とは状況が違っているはずだ、と指揮を執る司教は考えていた。 その彼の横で、ロストナンバーの二人がパティの力の発動を感じ、構えを取る。 「司教さん、いかせてもらう」 「マ、一当たりしなきゃとまりそうにねェナ」 小竹がギアと小刀を構え、投擲が可能な距離へと走り出した瞬間、ジャックもまた、攻撃の為の力をゆっくりと行使し始める。身に纏う電撃の力が、周囲に火花を放ち始めていた。 その時、彼らの背後から無数の物体が100馬身程までに迫った少女へ向けて放たれていった。 直線に進むかと見えたその刃が突如発生した竜巻の壁と衝突し弾き飛ばされたのを見て、ジャックは軽く口笛を吹いた。 「流石、伊達じゃねェ」 「言ってる場合かよ――行けっ!!」 小竹の手から解き放たれた朱金の刃が、少女へと進んでいく。 まだ、遠く離れた少女から声が聞こえるはずはない。 表情すら、定かには見えない。 だが、小竹は聞こえる気がした。 「愚かね」、と囁く少女の声を。 見た気がした。 少女が愉しそうに微笑みを浮かべている様を。 † 「先日の方々よりは、楽しめそうですね」 身に宿るファージの力によるものか、或いは叢雲により生み出された肉体に宿る竜刻の力によるものか。 目前の兵達に宿る魔力の気配を感じたマスカローゼは、同時に異質な存在が紛れ込んでいる事に気づく。 この世界の民が持つ固有の数字を持たぬ者。 「――世界図書館」 ロストレイル号が先日この地に降り立った事は聞いていた。 子供が目の前に現れた蟻をつまむかのような気安さで、彼女は力の一部を発動させる。 周囲の空気が歪められ、爆ぜた。 それにより生み出された刃が風の壁に防がれたのを確認し、彼女は再び歩みを再開させる。 「そうでなければというところですか」 呟いた瞬間、襲い来る無数の刃は召喚した竜巻で叩き落とした。 同時に襲い来る火焔に彩られた朱金の小刀と青年。 愚かね、と彼女は嗤い、心中の少女へ語りかける。 「殺してあげる、全部。全部。ねぇフラン。貴女自身がねつ造したくだらない記憶の拠り所、全て壊してあげるわ。だから。だから。ねぇフラン?」 絶望のままに消えなさい――言葉にならない思いを脳裡に囁き、彼女は目前に迫る刃を弾き飛ばした。 † 「チッ、いい加減とまりやがれっ」 空間を奔る数多の雷撃が、音を超える速度のままにマスカローゼの四肢を襲う。 が、当たらない。 「先読みってレベルじゃないな! なぁちょっとおいジャック! こっちが巻き添えくらうって!」 「ちょこまか動く相手に言いやがれ!」 「あぁもうくそったれ――ってうぉ!?」 強化された身体能力で小竹の裏をとったマスカローゼが、その勢いのままに小竹の背中へしなやかな蹴撃を叩きこむ。 「精神感応は、あなた方だけの特技ではないんですよ?」 弾き飛ばされた小竹を一顧だにすることなく、マスカローゼが至近に位置するジャックへと肉弾戦を挑みかかった。 「ハッ、生憎そんな話はきいちゃいなくってナ」 蹴撃、拳撃、その合間を縫うかのように牽制の魔法。 互いに魔力、或いは異能の力により身体加速、そして強化を経た上での攻防というものは相打ちの可能性があるため、他の者が援護射撃をすることのできない距離でもある。 それがマスカローゼの狙いであるのは明らかであり、一対多の闘いから一対一の闘いへと無理やりに場の条件を変質させていた。 「報告はされてます、ジャック・ハート。朱い月にてワームの強靭な外殻を一瞬で崩壊させた巨大な電力エネルギーを扱える者。特異能力として確認・予測されている物はその他として空間転移及び精神感応。――まだありますが、いりますか?」 「ハッ、こりゃまたご親切にドーモ!」 繰り返される会話の中で、攻守入れ替わりつつの一進一退の攻防が繰り返されていた。 だが、やがて誰の目にもマスカローゼの優勢が明らかになっていくほどに、ジャックが守勢に回っていく。 「チッ」 「あなた、私を殺す気がないのでしょう?」 マスカローゼの、深淵の闇の如き瞳がジャックの視線を捕らえる。 本来は榛色の瞳はどこまでも深く果ての無い闇となり、その視線に囚われたジャックは気づく。 先ほど彼女の精神に触れた時、己の意図の一部を逆に掠め取られていたのだと。 相手が己を殺す気がないと確信した上で殺す気でかかってくるものと、手加減しながら戦う者。 「ご機嫌だゼ」 そう苦々しげに呟いた瞬間、背筋が総毛立つ感覚を憶え、ジャックは反射的に少し離れた場所へと転移した。 彼が一瞬前までいた場所を通過した炎を纏う刀が、死角をついてマスカローゼの腹部へと突き刺さる。 「テメェ、今俺様ごと狙っただろ!?」 「避けてくれるって信じてたぜ」 先ほどの一撃で内腑のどこかをやられたのか、口から大量に血を吐いた跡を見せる小竹の一撃だった。 それでも致命傷にならなかったのは、衝撃をうけきるぎりぎりでパティが魔法によりその身をわずかながらだが転移させていたためらしい。 そのまま機を伺っていた、魔力の付与を受けた小竹によって放たれた刃が少女の腹部に刺さり、纏う焔を増大させる。 身体へと纏わりつく青い焔が少女の服を焼き尽くし、その肌を炭化させていくかに見えた。 「やった、か――?」 呟く小竹。が、眩い光が少女より放たれる。 「どうやらまだみてェだナ」 ジャックや小竹の視界が復活した時にはもう、服さえも再生させた傷一つないマスカローゼの姿が取り戻されていた。 「痛手与えたと思ったんだけどなぁ」 無表情に服の裾を払う様子の少女を眺めつつ、小竹がぼやいた。 「あのレベルではまだまだ無事ってか――多少遠慮しなくても大丈夫そうだが、まァとりあえず? 完全にこっちに注意を向けたようだゼ」 そういうジャックは先ほどから雷撃ではなく暴風の術を小刻みに駆使し、少女の足を止めている。 「もう少し待てって、パティさんが」 いいつつ小竹もまた攻撃魔法をこの機会にとばかりに次々と発動させては叩き込む。 本来ギアの能力を除き特異能力を持たないコンダクターであるはずの彼が、仲間の力によるものとはいえ自在に魔法を操れるのは、彼が本来に持っているイメージ力の賜物か。 二人の魔法を忌々しげに掃うマスカローゼ。 それは、彼女が他への注意を払う事なく、二人の場所へと転移し一気に間を詰めようと動きかけた瞬間だった。 † 「お待たせいたしましたわ」 軍隊の布陣する手前。 星杖・惑星直列を構えたパティが、必殺の魔術の準備を終え、そう後方の司教へ告げる。 「我らも問題ない」 二十数人の竜刻使いが、同時に詠唱を終えたところだった。 「それでは――」 パティが、杖でありそして笛である己が魔術の発動体を口に当てる。 鳴らす音はほんの少し。 その小さな一つの音が、ドミノ倒しのようにパティの周りに充満した魔力に連鎖反応を引き起こす。 物質的な物は分子分解の力で無効化される。 雷や風は相手の得意とする部分でもあり、効果は薄い。 ならば、と導き出した答えは彼女が最も得意とするものだった。 マスカローゼがジャックと小竹のいる方向へ進もうとした瞬間、しかし周囲の違和感に気づいて足を止めた。 「音の波、存分に味わってくださいまし」 キン、とかなりの距離があるパティ達の部分にまで、高い音が響く。 ついで、強烈な衝撃を伴う轟音。 内部からの破壊と外部からの破壊。 共振により物質を崩壊させる音と、物理的に圧力を叩きつける音を組み合わせた破壊音波の魔術。 特定の地点に集中するそれは、死神と称された少女だけに強烈な効果を齎した。 外圧にはじかれ、内臓を破壊され、脳を揺さぶられる。 地についていた足は中空へと投げ出され、口、そして目や耳から血を流している。 いかなる攻撃にも決して倒れる事のなかった五体が、地へとついた瞬間、崩れるように倒れ伏した。 「今だ! 仲間の仇を取る時ぞ! 討ちとれぃ!」 増幅の呪陣を解除し、司教が叫ぶ。 「つづけえええええええええええ!!」 騎馬隊長の号令が、戦場に響いた。 地響きがなり、中隊規模の騎兵と大隊規模の歩兵が次々と死神の首を求め、地を駆けていく。 この時期のアルヴァク地方における二大攻城戦の内の一つ、アルケミシュ攻防戦の第一日目が佳境へと突入しようとしていた。 † 「乱戦状態じゃあ、手が出しにくい、か――」 ぼそりと呟いたジャックに、小竹は一瞬だけ視線を向ける。 だが、それよりも優先すべきことが今はあった。 「自分は行く。このチャンス、逃すわけにはいかない」 「確かにナ。だがそいつぁ――」 様子見をすることなくとどめをさしにいこうとする小竹だったが、ハッ、と戦場へと視線を戻した。 同時に、口を開こうとしていたジャックもまた気づく。 彼等からやや離れた地点。 地に倒れ伏していたはずのマスカローゼが、ゆっくりと起き上がろうとしているところだった。 「やめろ、近づくなぁああああああ!」 全身が総毛立つ予感に突き動かされるように、小竹が叫ぶ。 起き上がった彼女にはやはり、傷一つない。 それどころか、吐き出された自身の血に染まっていたはずの衣装も、ただそれまでの殺戮で流された他人の血で染め上げられただけの状態に戻っている。 その彼女を中心に、巨大な魔力の渦が巻き起こった。 「くそっ!!」 「俺も行くゼ!」 勢いを付けて駆け寄せてくる騎馬隊や歩兵部隊との間にはいるべく、小竹は地を駆け、ジャックは50mの距離を転移を繰り返しマスカローゼの下へと急ぐ。 だが、目標としていたマスカローゼの動きもまた早かった。 地を蹴った彼女が次に現れたのは騎馬隊の目前。 突如現れた少女の姿に、騎馬隊の指揮官は驚き、しかし本能で手に持っていた槍を突き刺しに行く。 その槍を受け流し、柄を掴んだ彼女はそのまま馬上の指揮官へと飛びかかった。 小奇麗な村娘の衣装をはためかせながら繰り出された足の一撃が、指揮官の頸椎をたたき折る。 指揮官を失った騎馬小隊が突撃をやめられずに後方へと駆け去っていく様を一顧だにすることなく、彼女は目前の歩兵大隊へと向き直った。 「くそ、やめろよ!」 少女が何をしようとしているのか悟り、小竹は手元へ戻ってきていた小刀を、走りながら投擲する。 ジャックもまた、歩兵と少女との間に割り入り戦闘態勢を取ろうとした瞬間だった。 閃光。 この地を守護する巨人が有していた、異分子を排除するための光。 極光の瀑布が空間を薙ぎ払い、後方に位置していた城を目指して地を焼き尽くしていく。 家族の為に。或いは国の為に。或いは肉親を殺された恨みをはらさんとするために。 様々な背景を持ち、思いを抱いた歩兵達がまず飲み込まれ、その命を潰えた。 光の波濤は徐々にその範囲を広げ、そしてその進路にいた竜刻使いの小隊を、飲み込もうとする。 逃れえたのは数人。 咄嗟に転移ブーツを発動させたパティがその手につかめた数だけだった。 パティの魔術を増幅し、敵を地に倒したと快哉を叫んだ瞬間に押し寄せた絶望の壁は、それに対する感慨を抱かせる間もなく、十数人の竜刻使いの人生を飲み込んでいく。 声を発するより早く地を進むその光が次に襲いかかったのは、城郭。 ――その脅威が到達しえたのは、そこまでだった。 † 「――これほどとは」 ぎり、とイルファーンが己の唇を噛みしめる。 巨人、そして先だっての戦闘で殲滅された竜刻使い達の持つ数多の竜刻を飲み込み、濃縮された魔力を一気に解放しての巨大な光の一撃。 それはかつて報告された竜刻の巨人の光線を遥かに上回る規模のそれだった。 彼が全能を傾けて織りなした防御壁ですら軋まされたその一撃は、驚愕の一言しか持ちえぬ衝撃を与えるもの。 仲間は、と壁の上から見渡す彼の視線が真っ先捉えたのは、パティ・ポップと数人の竜刻使い達。 ついで、数人の歩兵を伴ったジャック・ハートの姿。こちらも防御を諦め、手近な数人を抱えて空間転移により攻撃を避けたらしかった。 彼等よりやや離れた後方では、あまりの光景に歩みを止め、ただ茫然と立ち止まる騎兵達の姿が。 そして最後に捉えた人影は二つ。 放射状にえぐれた地の傷痕の起点に立つマスカローゼ。 そしてその少女に襲い掛かろうとする、小竹卓也の姿だった。 「守るだけで足りないというならば」 挑みかかる青年の姿を見、イルファーンもまた目を閉じる。 『――フラン』 それは精神へと直接働きかける呼びかけ。 精神を通じて肉体の動きを制限すべくその心に分け入りながら、報告書によっていると考えられる今一人の少女の魂と、己のそれを同調させることを試みたもの。 『目を覚ましたまえ。君は彼女、彼女は君。愛した世界が滅ぼされるのを引き篭もって看過するのかい?』 確かにそこにあるという手ごたえはあった。 『起きてはくれないだろうか。彼女を殺せるのは君だけだ、フラン』 小さく微かな声が、ほんの少しだけ応じたような気がした。 だがそこに宿る意志は弱く、そしてその思いは拒絶。 少女につけられた傷は、それほどまでに深く、重い。 『――無駄なこと。この子が自分の意志で起きる事はもうありません。私に無理やり起こされては、人を己の手で殺す光景を見せられているのですから』 不意に、声が割り込んできた。 『だから、無意味な事はおやめくださいま――』 突然途切れた声。 同調が不意に途切れ戦場に目をやれば――少女の身体に、小竹卓也が繰り出した刃が吸い込まれていくところだった。 † 「うおおおおおおお!!」 小竹にとって幸いだったのは、マスカローゼの攻撃の範囲外を駆けていた事だったのかもしれない。 そうでなければ、空間転移の術もなく、防御壁を張る術も持たないコンダクターの身の彼が今の攻撃を無事にやり過ごすことはできなかっただろう。 けれども今の彼に、その幸運を感じる余裕はなかった。 朱金の刃が閃き、少女の心臓を狙って必殺の一撃が繰り出される。 その刃が刺さったのは少女の右腕。 高エネルギーの放出の反動なのか、若干動きが鈍くなった少女が、避ける選択肢を捨て、その身を盾とすることを選んだ故の結果だった。 「何故殺せる、フラン!」 小刀を引き抜き、後方へと飛んで距離を取る小竹。 「――フランならば、眠っています」 だらりと下げた腕から血をしたたらせつつ、くすくすと笑うマスカローゼの声。 痛みを覚えている気配はなく、血の流れ出る傷口からは同時に瘴気のように黒い気配が漏れ出てくる。 「起こしましょうか? 私が消えて彼女に譲ってあげてもいいのですよ? 最も、あの娘程度の自我では、この身を満たすファージを従える事はできないでしょうけれども。この身を預けられた瞬間に、素晴らしいマンファージになることでしょうね」 からかうような、それでいて、それが事実であると感じさせる自然な口調で告げられた現状。 それを聞いた小竹は、ぎり、と唇を噛みしめながら目の前の少女へ挑みかかった。 それでいて、呼びかけをやめる事も選ばない。 おそらく目前の少女を止めるためには、今一人の少女の協力が絶対に必要だと、彼の直観が告げていた。 「フラン、聞け!抗う前に諦めるな! 抗わず、されるがままでいるな!」 閃く刃は心臓を狙うもの。 対する少女はそれを軽やかな足取りでよけながら、当たれば即座に致命傷を負わせられそうな素手での攻撃を時折返してくる。 「閉じこもるな、絶望するんじゃねえ! 精一杯抗って、動けないほどに打ちのめされても! 大事なのは意志なんだよ。動く体じゃねえ。悪いが俺は殺す気でいる。死にたくなければ足掻きやがれ!」 「無駄な事を――」 小竹の必死の叫びを冷笑の下に切って捨てた少女だったが、不意にその動きを止めた。 「殺して――」 ぽつり、と呟く声は弱々しい少女の声。 小さくか細いその声に溢れるのは、悲痛な思い。 「っ――! 諦めるなって、言ってる! 闘えよ!」 向けられた眼差しに宿る諦観を見て、小竹は一瞬だけ刃に迷いを交えるも、再び必殺の一撃を繰り出した。 その一撃は、動きを止めていた少女の胸に吸い込まれていく、はずだった。 その刃は、突如横合いより発生した鎌鼬により弾き飛ばされる。 誰が、と疑問に思う間はなかった。 目前の少女の瞳から弱々しい色が消え失せ、嘲りの色に染め上げられていく。 「馬鹿な人達ね――」 弾かれた刃。右腕を竜化させるには時がなさすぎる。どうする、そう自問した瞬間、鳩尾への強烈な予感に後方へ飛ぼうとし――間に合わず、そのままに蹴り飛ばされた。 肋骨が何本かいかれたらしい強烈な痛みに、小竹の意識は途絶える。 † 目覚めた瞬間――目に入ったのは、石造りの天井。 「ヨォ、起きたかヨ」 横からかけられた声に目をやれば、開かれた窓の横に立つジャック。 そして自身の寝ている寝台の横には、イルファーン。 どういう状況なのか――そう問いかけようとして、気を失う直前の光景を思い出す。 「ジャック、お前――!」 「まぁ落ち着くんだ。治したとはいえかなりの傷を負っていたんだからね」 勢いよく上半身を起こしてジャックへ掴みかかろうとした小竹を、イルファーンが制した。 「彼にも彼の考えがある――無闇に争うものではないよ」 深い響きを持つ玲瓏とした声で語りかけてくるイルファーンの言葉には、力が宿る。 激昂していた小竹の心を静め、それは同時に向かってくる相手への反射として臨戦態勢をとりかけたジャックに対しても影響を及ぼすもの。 「俺のせいで怪我させちまったのは確かだからな――それについては謝るゼ。だが、俺はあいつを殺さない。殺させる気もない、そいつぁここに来る前に言った通りだ」 「あれだけの事をした奴に、まだそれを言うのか?」 一応の落ち着きを取り戻した小竹が、そう苦々しげな口調で問いかける。 「そんじゃ聞いてやるけどヨ、テメェはもしフランがマスカローゼの意識に勝って体を支配したら、殺すってか?」 「――っ」 壁に背を預け、腕組みをしたまま問いかけるジャックの問いに、小竹は言葉に詰まる。 「殺して」、と囁いた少女の眼を見た時、迷いが生じたのは事実だった。 あの時は激昂のままに刃を繰り出すことができたが、もしフランの意識がマスカローゼの身体を支配したとして、憎しみのままに刃を揮うことができるのか。 その疑問に対する答えは、持っているはずだが、言葉にできない。 胸の奥にあるもやもやした感情を持て余しながら、小竹はイルファーンへと向き直った。 「今、一体どうなっているんだ?」 「あの後、『また明日に』と言い置いて、彼女は姿を消したよ。恐らく魔力を使いすぎたのではないかな。以前の巨人に関する報告書を鑑みても、あれだけの攻撃が可能なのに、殆ど魔力を使わず肉体での戦いを選んでいたのは、魔力の消耗を節約したかったからなのだろう――回復やその他の攻撃に回されていた魔力が健在ざったらと思うと、ぞっとする部分がある」 イルファーンが全力を傾けて織りなした結界壁は、破られる寸前まで追い詰められたという。 その壁がなければ、恐らく三重の城壁等何ら役立つ事もなく、この城は崩壊していたのだろうと、想像がついた。 「兵達は――騎兵中隊と、数人の兵達を除き城外に布陣していた部隊は殲滅されている。そろそろ明日の戦闘にどう対応するかの会議が催されるはず――あぁ、来たようだね」 扉を敲く音。次いで入ってきたのはパティだった。 「そろそろ始まるみたいですわ――あぁ、小竹さんも目を覚まされたのですね。私たちも参加するようにとのことでしたから、起き上がれるなら」 「するよ。教皇に頼みたい事もある。それには、こんなところで寝ているわけにはいかない」 小竹に先だって部屋を出ようとするジャック。だが不意に立ち止まり、肩越しに振り返った。 「俺は俺の信念で動くがヨ、お前がちゃんと信念に基づいて動くっていうなら、それはそれでいいんじゃねぇか? ま、お互いヤれる事ヤりたい事をヤりゃいいんだヨ」 「――心に留めておく」 言葉の軽さとは裏腹に強い視線を向けられた気がした小竹は、一言だけで応じ、頷いた。 † ロストナンバー達が出席を許された御前会議は紛糾した。 打ってでるべきか、堅固な城に拠って立ち、他国へ援軍を頼むか。 野戦等もっての外だ、と訴えるのは軍部の者に多い。彼等にしてみれば、今日最期に繰り出された攻撃が目に焼き付いて離れないが故の主張であり、明確な展望が籠城戦にあるわけではない。 だが直接戦闘をするわけではない官僚らにとっては、彼らに塁が及びかねない籠城戦等御免蒙るという意見がやはり根強く、議論は平行線をたどった。 彼等を統括する立場にある教皇はといえば、本来の性格からいえば打って出るべきと考えるも、彼我の個別戦闘能力の差、そして何より相手が軍勢ではなく、たった一人の人間であるということ――すなわち、軍勢の衝突力が殆ど意味をなさない対象であることが、引っかかり、決断を降せずにいた。 「せめて、もう少し戦力があったならば、総力戦による消耗戦を挑めるものを……」 普段は冷静に事に当たり、苦境にあっても表情にださずにここまで来た教皇の表情ににじみ出る苦悶の色合い。 誰もかれもが議論に疲れた頃合いに、それらは訪れた。 最初に騒がしくなったのは、城壁を巡回し、異常がないか見張っていた兵。 彼らが見たのは、城の裏側――通称神竜門と呼ばれる門の外に灯った無数の松明の灯りだった。 「援軍が――!」 会議室の扉をあけるなりそう叫んだのは、城内の兵達を統括する拠点兵長。 「援軍だと!?」 ざわめく室内が、ついで入ってきた者の姿を見て、シン、と静まり返る。 2m近い上背を持ち、トカゲのような――すなわち竜の気配を色濃く残した人型の種族。 人にありえぬ筋肉を持つ肌を大胆に露出させる簡易な衣装を身に纏うその姿は文明の香りを少しも感じさせないにも関わらず、その瞳が印象を裏切る。 深い知性を宿した深淵を見通す縦長の瞳。 神話の頃より伝わる、北嶺の守り手にして、奥深い深淵の谷の底に集落を為すドラグレットの一族。 彼がその一人であることは、誰の目にも明らかだった。 「我は神竜の里の族長、ヴェルンド。古の不可侵共闘の約定に従い参上した――今一つの部族も、既に城塞の付近に来ている」 「まさか――本当にきてくれたというのか」 堂々とした名乗りを受けて、教皇が呟く。 代々の教皇に伝わる約定の話は確かにあった。 「では、今一つの部族というのは、トロールの一族か?」 錫杖を支えに立ち上がった教皇の問に、ドラグレット族長ヴェルンドは深く頷いた。 「昼の戦闘の気配は北嶺に棲む我らの下へも伝わってきた。我ら山に棲まうドラグレットは本来において人の争いに加担する由はない――だが、今回に限っては事が違う」 彼はそういうと、腰に下げていた大剣を抜き放ち、刃を下に、柄を上へ向けたかと思えば、その柄の半分を片手で逆手に握り、教皇へと示す。 「剣を取れ、人の長よ――我らは共に神竜に仕え、この地を見守る役割を与えられた者。貴殿がこの剣の半分を持つのならば、我らはこの地を守るべく、貴殿らに助力するものである」 「……ありがたく、と言う以外には何もあるまい。その助力、受けさせていただく――トロールの民にも、よろしく願いたい」 開いた柄を握り、共に剣を掲げる。 広間に、歓声が沸いた。 希望が何も見いだせない闇夜の中で、それはほんの少し、天空から差し込んだ光程度のものでしかなかったかもしれない。 しかし、皆無であった希望が、わずかばかりとはいえ見いだせた事――そこに、広間の人々は歓喜していた。 † 「うおー、うおおお!!」 妖しく輝く小竹の目が、ドラグレットの族長の姿にくぎ付けになっている。 何より、人とドラグレットが協定を結ぶ。そういう場に立ち会えた事に、無性に胸を躍らせる何かを感じていた。 「ねぇ、あなた何か教皇に提案したいことがあったのではありませんの?」 そんな小竹を若干引き気味に眺めながらも、パティがくい、とその袖を引っ張り促した。 「……あぁっ、うん、そうだね、うんそうだったそうだよ忘れてたうん、ちょっとええとでもどうやろうかな……」 「――しょうがないね」 手をわきわき、息を荒くして何やらぶつぶつ呟いている小竹の様子に、イルファーンが苦笑して前へと進み出た。 「よろしいでしょうか」 その涼やかな声が、不思議と沸き立つ広間の中に響き、注目を集める。 真白の青年は無数の視線に物怖じすることなく進み出て、教皇と、ヴェルンドの下へと歩み寄っていく。 「こうして私達のような傭兵をも作戦会議に招いてくださったこと、猊下にまずは感謝を――おかげで人とドラグレット族の協定締結の瞬間をこの目にする事ができました」 胸に手をあて淀みなく話す青年がどういう存在か、この場の殆どの人間は知らない。 だが、彼の織りなした結界が絶望の光を遮ったという事実だけは、皆の知る所であり、この場この時においては、それだけで十二分に過ぎた。 「明日の闘いの件で、我々から提案したいことがあります――けれども、これは重大な要素を孕むもの。故に、人払いを願いたいのですが、お願いできますでしょうか?」 「貴殿、名をイルファーン殿と言ったか――よかろう、貴殿がいなければ今宵はなかった。ならばその言、受け入れるにやぶさかではない」 感謝の意を表すように頭を垂れるイルファーン。 傭兵のくせに無礼な、と騒ぐ声を抑え、教皇とイルファーン、小竹、そしてパティがその場へ残った。 「詳細はこちらの者から――」 そう言って、イルファーンは後は任せたとばかりに小竹を前へと押し出した。 小竹の方も冷静さを取り戻し、持ち込んでいた荷物の中から一冊の書物を取りだして示した。 「自分たちはトレジャーハンター兼傭兵として旅している。実は先日北嶺の洞窟に入ったところで、それを見つけたのですが」 「これは……」 それは、かつて別のロストナンバーが持ち帰り世界図書館へと預けた書物。 神になる運命を捻じ曲げられ、独力で神にならんとして運命に挑んだ男の研究の結晶。 「あなた方の同輩だった、ラインヴァルト。彼が行った研究の成果です。自分達にはわからない部分も多いのですが、猊下、あなたなら理解できるのではないですか?」 書物のページを忙しく繰る教皇に、畳み掛けるように小竹は言い募る。 「北嶺の一部に残されたラインヴァルトの研究の成果、そしてその書物。竜刻を制御して、人を人でなく別の物へと変化させるものだとか――追放された人間の研究成果を利用するのは気に入らないかもしれない。だが、あの女は既に人間じゃない。目には目を。化け物には化け物を。その力を利用して、自分はあの女を討ち果たす事を提案したい」 書物を最後まで繰り終えた教皇が、ひた、と小竹を見据える。 「これは、我らが極秘に研究してきたもの、その延長線上にある技術――砂漠都市アルスラの技術と我らの竜刻使いとしての研鑽の成果を融合させ、複数の竜刻を巨大な一つの竜刻として顕現させる研究。その、さらに先にあるものだ」 その声は固く、小竹へと向けてくる視線は厳しい。 「命無きモノに命を注ぎ、意志無きモノに意志を注ぐ。既に消え去った魂の器へ、新たな魂を載せ、神を戴く」 常に人に教えを与える立場の人間独特の、よどみなく、聞き取りやすく響く声。 謳うようなその声が、今小竹に覚悟を問う。 「ラインヴァルトでなければこの方法論に至る事はなく、またその必要性もなかっただろう。そなたの言う事は、その必要性を再び生み出し、二人目の彼を創りだせと言うに等しい。なるほど、確かに私ならば、これだけの資料があれば容易い事だ――だが、我が国の民に、兵に、この術を施す事は、私にはできぬ。それは神を畏れず、神の力を利用し、神を殺すに等しきものだからだ」 ぱたりと書を閉じ、教皇は諭すように言葉をつづけた。 「故にその策を我らが取ることはない。何故ならここは神を畏敬し、その御身を戴き、その力に頭を垂れる敬虔なる民の住まう街アルケミシュだからである。この地に住まう民も、兵も、そして聖職者も。誰一人として犯してはならぬ領分に踏み入る事を、私は彼らに、そして己に強いる事はできぬ」 「――そして明日、また兵を殺すか」 わかれ、というかのような教皇の言葉に、小竹が低い声で呟く。 「何を」 「神を畏れ、兵を殺し、民を殺し、あんたに付き従う人々を殺し、そうして廃墟となった地で人外のモノが高笑いをするのを見逃せと言うのか! 胸に竜刻を埋め込む対象が必要なら、誰もやりたがらなければ僕がやる。だから僕にその術を施せ! それができるのはあんただけだろう!?」 教皇に詰め寄り、一気呵成にそう言い募る小竹。 咄嗟にイルファーンが彼の身体を抑えなければ、殴りかかっていたのではないかと思わせるくらいの勢いだった。 その瞳に宿るのは、無力感と焦燥感、そしてほんのわずかに見えている希望に必死で縋ろうとする人間の切迫感。 真摯な想いを宿すその瞳が、教皇の視線を捉えた。 「――よかろう」 瞑目し、数秒沈黙した後。考えをまとめ終えたのか、再び小竹と視線を合わせた教皇が、そう応えた。 「これよりそなたには私と共にラインヴァルトが構築した北嶺の洞窟とやらへ行ってもらう事となる――そこで術を施そう」 ありがたい、そう素直に喜びそうになった小竹に、教皇の強い意志が宿った視線が言葉を封じる。 「私とそなたが、この地で最後の犠牲者となるだろう――そう心得よ……イルファーン殿だったか。枢機卿を呼んでくれ。明日の段取りを、いや、明日以降の事を託さねばならぬ」 覚悟を決めた教皇の行動は素早かった。 矢継ぎ早に指示をだし、己もまた素早く動いていく。 茫然としてその様子を眺めるしかない小竹達の前で様々な対象に指示が発せられ、ドラグレット族の援軍で薄まっていた倦怠感はいまや完全に払しょくされ、城内は活気に満ちようとしていた。 † 「ナァ、ちょっといいか?」 イルファーンが人払いの礼を述べている丁度その頃、城郭の一角でジャックが先を行く者に声をかける。 「何か?」 振り向いたその人物に、「これを見てほしいんだけどヨ」と言ってジャックが示したのは、小さな石。 だがそこに刻まれた呪文字と石そのものに宿る意味が、見せられた者に与えた影響は大きい。 「その石に賭けて、決してあんたらの為にならないことはしないと誓う。だから、俺の話をきいちゃくんねぇか?」 依頼された相手はしばらくの間ジャックと視線を交わらせ、その瞳に真実を見出したのだろう。 小さく、一度だけ頷いた。 † 「風よ、今一度この地を守っておくれ――」 翌朝。斥候に出ていたパティからの報告を受け、イルファーンの呼びかけに答えた自然の力が再び結界壁を織りなした。 その壁に向かい歩く少女から見えるのは、城壁に鈴なりになった兵、そして障壁の内側になる城壁直下で、静かに闘いの時を待つドラグレットとトロールの軍勢が見える。 やがて、歩み続ける少女の前に現れた「それ」に気づいた時、彼女は硬い表情を見せ、口を開いた。 「世界図書館の方は、人を騙す事しか頭にないのでしょうか?」 嘲るように語りかけられたのは、かつてこの世界で彼女を救おうと奔走した青年の姿を取る、イルファーン。 「そう、確かに僕は彼じゃない、彼の姿を借りた偽者だ――だが、この姿が少しでも彼女に影響を及ぼしてくれるなら……そう願ったまで。元より偽るつもりはないよ」 そう言って、別人の姿をとったイルファーンは、ゆっくりとその手を少女へ伸ばした。 「フラン、君は彼の事をどう思っていた、彼のそばにいたとき、君は安らぎを得ていたんじゃないか? その彼との優しい記憶まで血に塗れさせちゃいけない。そして、運命を諦観の言い訳にしちゃいけない。人は、君は……それを打ち破る事ができる」 轟、と風が哭いた。 マスカローゼの放った刃がイルファーンを襲うも、その刃は体をすり抜け、背後の障壁に吸収されていく。 「実体はここにはない、というわけですか」 そう言って歩みを再開する彼女に対し、イルファーンは最後の呼びかけとばかりに言葉を紡ぐ。 「忘れないで、フラン。そしてマスカローゼ、貴女もだ。僕は、もし貴女達が平穏を望み、僕らとともに過ごしていきたいと願ったときには、きっと、味方をするよ――忘れないで。人は数多の悲劇を紡ぐけれども、同時に数多の幸いを生み出すことができる存在だという事を」 そういって、青年の姿が真白の本来の姿に戻ったかと思えた時、ゆらり、と陽炎のように揺らいで消えた。 「勝手な事を――」 吐き捨て、彼女は魔力を練り始める。 † 闇、だった。 ラインヴァルトの洞窟において施術を受け、教皇職に代々伝わる竜刻をその身へ埋め込まれた。 その後数時間にわたり、激痛にさいなまれたはずだったのだが、不意に痛みから解放される。 そして知覚したのが、闇だった。 天地どころか、己の腕すら見えぬ深い闇の中に放り出されている事に気づいた時、ぞっとする感覚を味わう。 ――汝、如何なる思慮によりて力求めしか 響く声は、遠く小さい。 何でだって? ――竜の力得て、何事を為さん 問いかける声は厳かで、偽りを許さない意志がはっきりと表れた、上位者たるものの声。 全てがわからない闇の中、繰り返される二つの問。 その中で、小竹は自身の胸の内へ問いかける。 どうして、自分はここまで別の世界の事に必死になるのか? 答えを得るのに、時はかからなかった。 教皇に対して想いをぶちまけた時、既に確信が根付いていたから。 ジャックとのやりとりの中ではまだ靄に包まれているかのようにはっきりしていなかった感情が、問いかけられ、自問することで明瞭なものとなっている。 「僕は、この世界が好きだ」 その言葉がきっかけだった。想いは溢れ、次々と口をついて出てくる。 「ドラグレット族が好きだ」 「旅団なんかに、破壊させたりするかよ。死ぬ気はないが、必要だというなら僕を犠牲にしてでも止めてやる」 「止めるまで、どれだけ体が欠損しようが立ち上がってやる」 ――了 声が再び響く。 途端に、闇が眩い光に浸食されていき、小竹は初めて知る。 明るすぎる光はまた、闇と変わらず己の身を見失わせるものであることを。 強すぎる力はどちらの方に向こうとも変わらぬ結果を齎す。 まるで、それを思い知らされているかのようだった。 ――汝の想い、我が遺志に沿う物也。故に我が力汝に委嘱せん。我が身は既に我が物に非ず、唯魂魄のみが地に還らんとするところなれば あんた、一体? 言葉に出さない小竹の想いに応えるかのように、遠くから微かに響いていたはずの声は、今や万雷の如き響きを持って、彼の脳内へと響いてくる。 ――我が名は慧龍クレンホトウ。アルヴァクの地の創生者にして守護者、汝の記憶に在る叢雲は我が身にして我から解き放たれしもの。我が意に然らざる物と化した物を滅すると約するならば、我もまた汝に力を与えん 光の向こうにいた「それ」が、小竹の前に姿を現した。 彼がなりたいと切望し続けていた存在。 「望むところだ――!」 ヴォロスの神代に息づいていた、竜の姿をしたそれが、ゆっくりと小竹の心の臓へとその身を滑り込ませていく。 † 再び少女から発せられた巨大な光。 その波が、イルファーンの防御壁を襲う。 「くっ、これまでか――?」 その力は昨日のそれと比べ物にならず、障壁が軋み、撓む。 光が消えるのとほぼ同時に、風の壁は消え去っていた。 同じだけの障壁を張るには時間が要る。 「すまないが、時間を稼いでくれると助かる」 傍らにいたパティとジャックに告げたイルファーンが、再び風をとらえ、網を織りなすべく力を傾け始めた。 そしてまた、城兵を指揮する指揮官たちも、ここが正念場だと知っていた。 時間を稼ぎ、教皇が立てた何がしかの策が成就すれば、目前の敵を排除できる――その思いだけが、彼等の心を支えている。 「放てぇええええ!」 一斉に放たれる矢は集約され、数秒の停止の後、静々と前進する少女を捉えた。 その矢の内、少女に当たるはずだった矢達は自在に操られた風の壁に捉えられ、方向をそらされる。 パティが放った数多の短剣も同様だった。 「行くゼ」 「我らも続くぞ!」 ドラグレットとトロールの混成部隊が、ジャックとともにマスカローゼの元へと攻めかけていく。 北嶺が揺れたのは、正にその瞬間だった。
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