いにしえの寺院は、水と緑に取り囲まれている。 五つの塔堂はかつてそれを建築した人々の信じていた宇宙観を表現していた。ひときわ高くそびえる中央のそれは、世界の中心にあると考えられていた須弥山をかたどっているという。 この地に、王国がさかえていたのは何百年も前のことだ。 今は、密林に抱かれるようにして、遺跡群はまどろみ……しかし、国が滅んでなお、その建築の美しさは人々を魅了していた。 今日も世界中から観光客が訪れ、その足が途切れることはない。 カンボジア、アンコール遺跡群――。 かつてこの地に栄華を誇ったクメール王朝の威光を伝える仏教美術の数々は、「議論の余地のない傑作」として、世界遺産に数えられていた。 その中心的な存在が、カンボジアの国旗にも図案化されている寺院遺跡・アンコールワットである。 その日、名高い石の伽藍を一目見ようと同地を訪れたものたちは、銀色の円盤が飛来するのを見た。「蒸し暑いわ~」 ぱたぱたと、大ぶりな扇子で風を起こしながら、女が言った。 長い髪に、豊満な肢体を強調した露出の高い服装。美しい女である。「はやく済ませましょうよ。あたし、ここ嫌いだわ」「そんなにすぐには済みませんよ」 答えたのは、スーツ姿に眼鏡をかけた、一見して生真面目なサラリーマン風と見せる男であった。黒髪をぴったりと七三に分けてなでつけ、手にはアタッシュケースを携えている。 そのうしろに控えているのは、大柄な男で、あきらかに人間ではなかった。皮膚はごつごつした岩肌であり、ところどころに水晶だろうか、透き通った結晶がのぞいていた。 巨漢は、肩に一本の樹木を抱えている。 3人は、銀の円盤から、アンコールワットの上に降り立ったのである。「はやく逃げたほうがいいわよ~」 女が、かれらに好奇と戸惑いの視線を向けている観光客らに向かって言った。「死んだってしらないからね」 どしん、と、巨漢が樹木をおろした。 するとどうだろう。 植物の根が、アンコールワットの石の床に食い込んでゆくではないか。無理やりに、根を張っているのだ。 そして、幹が、枝葉が、映像を早回しにするように伸び、茂っていくのだった。 ものの一時間と経たないうちに――、その植物は塔堂を超える高さにまで成長していた。駆けつけた現地の警官は、女が扇子をひとあおぎすると物言わぬ石像に姿を変えた。 そして。「始まったようですね」 眼鏡の男が見守るなか、巨木は、大きく茂った枝に奇怪な「果実」を実らせ始めたのだ。 果実として生み出されたものたちは皆、巨大であった。それらは、あっけにとられて事態を見守っていた観光客を容赦なく踏み潰し、または払いのけ、遺跡群に阿鼻叫喚を巻き起こしたが、それもひとときのこと。 たちまち死の静寂に閉ざされたアンコールワットを取り囲み、整然と隊列をかたちづくったさまは、仏教の宇宙観――マンダラそのものであった。 陣容の外縁部には獣の頭をもつ天部たち。 次に憤怒の相を浮かべ、隆々たる体躯に武具をまとった明王の一団。 そして美麗な衣や冠に、微笑を浮かべる菩薩の群れ。 それらに守られるようにして、内側には如来たちが結跏趺坐の姿勢のまま人智を超越した瞑想に耽っていた。 * * * 予言された未来は、世界樹旅団によってもたらされる。 世界司書が知った出来事はまだ不確定な未来だ。しかし、このままでは確実に訪れる出来事でもあるのだ。 壱番世界各地の「世界遺産」をターゲットに、何組かの旅団のパーティーが襲来することが判明した。かれらは「世界樹の苗」と呼ばれる植物のようなものを植え付けることが任務のようだ。その苗木は急速に成長し、やがて、司書が予言したような惨劇を引き起こす。 言うまでもなく……「世界樹の苗」とは、世界樹旅団を統べるという謎の存在「世界樹」の分体だ。 だが、この作戦を事前に察知したことにより、世界図書館のロストナンバーたちは、苗木が植え付けられてすぐの頃に到着することができるだろう。周辺の壱番世界の人々を逃がす時間は十分に確保できるはずだ。 むろんそのあとで、苗木は滅ぼさねばならない。苗木は吸い上げた壱番世界の『歴史』や『自然環境』の情報をもとに反撃してくるであろうし、旅団のツーリストも黙ってはいない。 司書は、引き続き、戦うことになるはずの、敵について告げる。「聞いてのとおり、世界樹旅団が壱番世界で一斉に作戦を始めた。連中が持ち込んだ『世界樹の苗木』は、植えられた土地の記憶をもとに『果実』を生み出す。おまえたちに行ってもらうのは、アンコールワットという、大昔の寺院の遺跡だ。連中がここに植えた苗木は壱番世界の人々が信仰しているホトケという神々の姿をしている。だが姿が同じだけで、こいつらは単なるバケモンだ。なにせ、周辺にいた観光客らは全員、このホトケどもに皆殺しにされちまうんだからな」 世界司書、シド・ビスタークはそう語ったが、幸いにも、それはまだ実現していない。ロストナンバーたちは苗木が『果実』をつけはじめる寸前に到着できるからだ。周辺にいる観光客たちを逃がしている時間はあるだろう。「そのかわり、おまえたちがこのニセモノの神と戦う必要があるぞ。苗木を持ってきた旅団の連中もいるしな」 予言にあらわれた旅団のツーリストは、人を石化させる力を持つらしい女に、鉱物の巨躯を持つ大男、そしてスーツ姿の男、の3人組だ。 苗木が生み出す神仏は、内側から順に如来・菩薩・明王・天部という配置で陣形を固め、アンコールワットを取り囲むように展開する。この陣の中心で、苗木はさらに成長を続けており、旅団のツーリストたちがそれを見守っているようだ。このまま苗木が成長し続ければどのようなことになるのか想像するのもおぞましいことだろう。========!注意!イベントシナリオ群『侵略の植樹』は、、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『侵略の植樹』シナリオへの複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。========
1 密林から姿をあらわした石の寺院遺跡に、ハルカ・ロータスは息を呑む。 石を積み、削り、この寺院を築きあげた人々の思いの蓄積のようなものを感じたからだ。それは彼のテレパス的なものではなく、純然たる『歴史』の重み――この地に刻まれた世界の記憶によるものだった。異世界人にさえそれが感じられるのだから、ここが「世界遺産」として壱番世界の人々の思いを集めるのも当然だろう。 「この企みは、止めなくちゃいかんだろ」 うっそり、とグランディアが言った。 「ああ。絶対に」 ハルカは、仲間とその意志を共有するようにグランディアの背にふれる。美しい獣の毛並みは滑らかだった。 虎であるところのグランディアの姿は、緑深いアジアの密林になじんで見えた。彼もまた、アンコールワットが惨劇の舞台になろうとすることに全力で否を唱えるつもりだ。 遺跡周辺は円盤の飛来に騒然としていた。 「みなさーーん」 ナウラが声をあげた。 「今すぐ離れて下さい。爆弾が仕掛けられたそうです」 「こっちだ、急げ!」 一二 千志が、わっと動き出す観光客らに方向を指示する。 密閉された場所でないのは幸いだった。多少、パニックになろうと、とにかく一般人を遺跡から遠ざけないといけない。 「……」 レオンハルト=ウルリッヒ・ナーゲルが、塔堂を見遣った。すでに、そこに樹冠が届き始めている。 「即攻だ」 傍らにいたラス・アイシュメルが低い声で言った。 「行こう。旅団のやつらを――仕留める」 仲間たちが振り向いた。 それに応えてラスは、 「情報集めなら、死体からで十分」 と返すのだった。 「よし」 グランディアの尾がゆらりと揺れる。 トラベルギアの能力で、その姿が空気に溶けるように消えてゆく。 「俺様の接近に気付けるのは少ねぇからな」 チェシェ猫のように残ったつぶやき。 「気をつけて」 ナウラが言った。 「人がいないわ」 遺跡の上から周囲を見下ろし、女が言った。 「逃げるのが早い。カンのいいやつらね」 「いや」 スーツの男が眼鏡を正しながら口を開く。 「違う。きたぞ」 石の階段を駆け登ってくる一団があった。 「止まりなさいな!」 女が階段のうえに立ち、登ってきたものたち――ロストナンバーを迎える。 女が扇子を構えた、その瞬間! 「っ!?」 その額に鮮血の花が咲く。 先頭にいたラスの瞳に、暗い炎が宿っている。彼が行きの車中、持参した髑髏におのれの血を垂らしながら、鉄杭を打ち込んでいた。それを見たものなら、女の頭部に出現したのがまさにそれと同じ傷だと気づいたろう。 間髪入れず、グランディアが姿をあらわし、牙を剥いて襲いかかっていた。 が、ふいに、足元の石が盛り上がると、もうひとりの旅団員、石の巨漢に姿を変えた。グランディアの攻撃を身をもって防ぐ。その背後で、男が、崩れた女の身体を受け止めていた。 「なるほど、侮れませんね」 男がアタッシュケースのロックに手をかけた。 「私たちだけなら骨が折れたでしょうが、ほどなくこの『世界樹の苗』が実をつけます。この地の記憶に、勝つことができますか? ……『この場所、買った!』」 アタッシュケースからあふれでたのは紙幣のようなものだった。 それが男の声とともに地面に染み込み、カッと光を放った。 「うお!」 グランディアがはねとばされる。 「この土地を『買収』しました。立ち入りは許可しません」 女を抱えて、男は後退する。 その先で、すでに巨木の高さにまで育った謎の植物が、奇怪な『果実』を実らせはじめていた。 「一旦、下がれ」 レオンハルトがトラベルギアの銃を構えて言った。 その手首から血が流れている。暗紅色の血流は、生き物のように這いうねりながら彼の銃に吸い込まれ、弾丸になって撃ち出された。 「ごめんなさい! 後で必ず直す」 ナウラが言いながら、石の階段にふれた。 石材が鋭い石の刃になって敵へと飛んだ。しかし相手方の巨漢もまた、石壁をつくりだしてそれを弾く。姿からしてやはりと思ったが、近い能力を持つツーリストのようだ。 「あれは……」 ハルカは、植物が生み出す『果実』が、異形の彫像となって隊列を組み始めるのを見る。 「司書が予言したのはアレか……この土地の神、ってことらしいな」 と千志。 一同はいったん態勢をたてなおすため、石の階段を駆け下りていた。 その背後に、生み出された“神々”による陣形ができあがっていく。 「あいにく信仰心とやらとは縁がねぇんだ」 千志が微笑った。 「神だろうがなんだろうが叩き潰してやる」 2 もしまだ観光客らの避難が終わっていなければ、生み出された神仏らによる虐殺が始まるはずであった。 だが早めに到着したロストナンバーたちによって周辺の人々は逃げおおせている。 そのため、偽りの神々はただ整然と陣形を固め、寺院遺跡を護るのみだ。 むろん、ロストナンバーは、だからと言って手をこまねくはずもない。この陣形を衝き崩し、中心に守られている『世界樹の苗木』を滅ぼすのだ。 「まずは、あの外側の連中をどうにかする必要があるな」 グランディアが遺跡の上を見上げた。獣の頭を持つ異形の神像が、かれらを睥睨している。 「司書の予言のおかげで大雑把にだが敵の傾向がわかっています。……私に考えが」 ラスが言った。 グランディアが、再び、石の階段を登りはじめた。 その後ろに、レオンハルトが続く。 「……血が必要なら私も喜んで提供しますよ」 ラスがそう言って、平然と自身のてのひらを鉄杭で貫いた。聖痕のように、血があふれる。レオンハルトは顔色ひとつ変えず、わずかに頷くばかりだ。 「いくぞ」 グランディアがスピードをあげた。 神像が反応した。 複雑な装飾を施された甲冑をまとい、手には刀剣や槍などの武器をもった外縁部の神像――天部たちが一斉に曼荼羅陣を飛び立ったのだ。 鳥の頭部を持つ神が、ケェーーッ、と怪鳥のような叫びをあげたのが、戦いのはじまりを告げる。 負けずに咆哮するグランディア。 そのとき、アンコールワットの石の階段のうえを、真っ赤な血の流れが奔った。それは複雑な魔術の文様を描き、そのまま中空にも伸びてゆく。 ラスとレオンハルトの血が描き出す魔方陣は、そこを異なる空間につなげ、魔のちからを召喚する。 「ヘカトンケイル……なぎはらえ」 静かに、レオンハルトは命じた。 魔方陣から出現するのは、筋骨隆々の巨人の腕だ。無数の豪腕が、飛びかかってきた天部たちを殴りつける。 ひときわ激しい怪鳥の叫び――それは鳥の頭部の神像の喉元にグランディアが喰らいついたからだ。獣王候補の牙に、神も死ぬ。断末魔の声をあげて、いつわりの神の身体はその力を失い、崩れてゆく。 グランディアは仕留めた得物を爪の下に、誇らしげな吠え声をあげた。 だが敵はまだまだいる。仇とばかりに、武器を手に押し寄せてきた。 「ブラックウイドウ。縛りあげろ」 そのとき、鮮血が描く陣からは、黒い巨大な蜘蛛が這い出てきていた。 レオンハルトに応えて、血の万魔殿よりきたるものは、糸を吐き、天部たちを絡めとってゆく。 動きを奪われた天部たちを踏み台にして、グランディアがさらに敵陣に食い込んでいった。 「四方八方と! 敵がごちゃごちゃしてやがるぜ」 飛びかかってくる敵を爪で切り裂きながら、グランディアが吠えた。 「だがひとつひとつの力量はさほどでもない。援護する。そのまま先へ」 と、レオンハルト。 「承知! さあ、こいよ雑魚ども!」 獣王候補は架けた。 そのあとにレオンハルトがぴたりとつける。 ふたりは曼荼羅陣の外縁、天部の群れにつっこみ、そのまま外周をなぞるように動く。おそろしい数の敵が、濁流のように動き、ふたりを飲み込むが、虚空からあらわれた巨人の腕が敵を押さえつけていった。そこへブラックウイドウの糸がふりかかり、敵をアンコールワットの石の床に貼り付けてゆく。そのうえを、飛び石を渡るように踏みつけてゆくグランディア。まれに、万魔殿の魔の攻撃をかいくぐるものがいても、グランディアの爪と牙がしとめる。 「今だ」 曼荼羅陣の外周がかき乱され、手薄になる。 そこへ、残る4人が突っ込んでいった。 「ハルカさん!」 千志が呼んだ。 「光か火を出してもらいたい」 彼が睨むのは空である。 苗木が果実を生み出しはじめたときより、空は不穏な曇天となっていた。これでは頼みとする「影」が生まれないのだ。 「わかった」 ハルカは頷く。 「誰かに何かをしてもらうのは難しいけど、俺が、何かをすることだったら、簡単だ」 「なんスかそりゃ」 千志の顔に本当にうっすらとした微笑が浮かんだのもごくわずかのこと。 ハルカの発火能力が火炎を生じさせると、千志は険しい顔つきに戻って、石の床に仁王立ちに立つ。 行く手には、光背を背負った明王たちがいた。 仏法を守護する武神たちだ。筋骨たくましい闘士の姿は敵にするとこのうえない威圧感である。 ハルカの炎は千志の背後に燃え盛る。 そうなれば、千志の足元から長い影が伸びるのが道理。それこそが彼の武器だ。 「来いよ」 神だろうが叩き潰す。そう言ったのはハッタリでも何でもなかった。 沸騰したように影が沸き立つ。 明王が炎をまとう剣を手に突進してくるのへ、影は無数の刃となって襲いかかる。神像は血を流すことはないが、一定以上の損傷を受けたらぼろぼろと崩れてゆく。すでにグランディアたちが何体もの天部を仕留めていることからもあきらかなように決して不死ではないのだ。 別の明王が、憤怒の相で新たに飛来する。光背が炎を発し、竜蛇のようなものが巻き付いた剣を振り上げる。 その周囲に、霧のように闇が集った。 「穿たれろ」 どす――、と鈍い音を立てて、明王の身体に風穴が開いた。 ラスの呪いの力が、戦場に広がってゆく。 異なる方角からさらに別の敵の攻撃。これをよけきれずに、ラスの身体が宙を舞った。 「ラス!」 千志が影を伸ばして、彼が地面に叩きつけられるのを防いだ。 「お構いなく」 陰鬱な声で、ラスは言った。 肩の骨が砕けたようで、腕がおかしな方向に曲がっており、血まみれだ。 だが、いっそう、濃い闇が彼から発せられたようになり、ラスを襲った明王の身体に、目に見えぬ杭が打ち込まれたかのような穴が開いてゆく。おのれを傷つけたものにこそ、ラスの呪いはもっとも強く作用するのである。 グランディアとレオンハルトで天部をかき乱し、残りのものが陣の内側へ。その際、千志とラスが組むと提案したのはラス自身だ。影を操る千志と、闇を帯びて戦うラスのスタイルが相性が良いと考えたか。 ラスが問題なさそうなのを見ると、千志はおのれの敵へ向かい合う。 意識を集中し――敵をまっすぐに見据えた。 影がいくつもの刃にかわる。だが、今度は、それはすぐさま敵に飛来するのではなく、中空にとどまり、そして後から後から生み出される刃がどんどん重なってゆく。影でできているはずなのに、金属がこすれるような音がした。 さながら漆黒の羽のように、影の刃がかさなり、広がって、黒い巨大な翼となった。 気合の声が千志からほとばしる。 不吉な大鴉のごときはばたきは、黒い刃の嵐となって、周囲の明王たちを貫いていった。 3 明王たちはこの曼荼羅陣の要と言えた。 天部たちは数は多いが一体一体はさほどでもない。対して明王はかなりの破壊力を持っている。 千志とラスが中心となって奮闘するも、そうたやすく崩れてはくれないのだ。 まして、天部のように陣形を乱されることもなく、密集した陣形を保ちながら戦うため、なかなか突破口が開けないのである。しかも。 「あ、あれは」 ナウラは、一度は千志の影槍に貫かれて崩れた明王が、再び起き上がるのを見た。 その後方に、優美な衣に身を包んだ菩薩の姿を見る。 リィン……と鈴の音。ビィイン、と弦の調べ。よく聞けば、笛や鐘の音もする。 それが明王たちの傷を癒し、力を与えているのだろう。 「あっちから先に倒さないと」 「わかった。行こう」 ナウラとハルカは頷き合った。 だが明王の、肉の壁とも言うべき陣容をどう越えていけばよいのか。 その難問を、しかし、ナウラとハルカならクリアできるのだ。 ナウラの身体が、地面の中へ消えた。 そのまま土中をまっすぐに進む。再び、地上に姿をあらわしたところは、菩薩たちの真下である。同時に、上空には瞬間移動したハルカの姿がある。 ハルカの念動力が、見えないプレス機のように降りかかり、菩薩の数体を瞬時に葬り去った。美しい宝冠や手にした宝具もろとも崩れてゆくその姿が、天上の存在も死ぬ前には衰えがあらわれるという天人五衰の様さながらである。 菩薩たちの微笑を浮かべたおもてに、悲しみの翳りが差した。 そしてその視線は上空のハルカへ。菩薩たちの身体にまとわれていた薄衣が、一斉に彼へと向かった。 「こっちだ、こっち!」 しかし、響いたのはナウラの声だ。 轟音とともに、下から突き上げてくる石の槍。ハルカへ向かっていた菩薩の注意をナウラが一気に引き受けた。その隙だけで、次なる念動力の発動に要する集中には十分だった。再び、幾体かの菩薩を破壊する。 その期に及んで、明王の陣形の内側にいた何体か、うしろを向き、菩薩の陣にまで飛び込んできたふたりをみとめる。 菩薩が奏でる楽の音に乗せるように、明王の光背が輝き、炎が渦を巻いた。それは螺旋を描き、陽炎を生む熱波とともに、菩薩の足元を駆けまわっているナウラに迫った。 「うわ、わ!」 地面に潜り込めば直撃は避けられる。だが熱で蒸し焼きにされかねない。と、目の前に菩薩の足が降り立った。美しいおもてが、今はひどく冷酷に見えてナウラを見下ろす。そして後方から業火が吹き付ける! 「……っ」 次の瞬間、ナウラの身体ははるか上空にあって、曼荼羅陣を見下ろしていた。 ハルカが瞬間移動で助けてくれたのだと悟る。 「あ、ありがとう」 「アキはいつも、俺をこうやって助けてくれるから」 小さく、ハルカは言った。 隙のない陣形を組む曼荼羅の神々を攻略するには連携が必要だろうと世界司書は言った。だが連携と言われてもどうやって――?と、ハルカは行きの車中で考え続けていたのだ。 ロストレイルの中で、グランディアは眠っているようだったし、千志は目を閉じてじっとしている。レオンハルトは読書をしていて、ラスは髑髏に血を垂らしてあやしい儀式に没頭していた。ナウラとだけは、ぽつぽつと会話ができたが、誰かと連携して戦う、というのはどうすればいいかわからなかった。 が、それでも、現場につけばみな、それぞれの力でてきぱきと動いている。 そんな中、ハルカは、かつてともに戦った仲間がどうだったかを思い出したのだ。 「さっきの手でいこう。危なくなれば、またこうして助ける」 「それなら心強いです。任せて!」 ナウラは笑った。そしてハルカに告げて、下へ落としてもらう。菩薩たちのただなかに落下し、落下地点に潜り込むと同時に周囲をアリジゴクのような砂の窪地に変える。バランスを崩した菩薩たちへ、上空からハルカの念動力が襲いかかった。菩薩の群れが消滅するたびに、明王たちは後方からの支援を失う。一方で、千志とラスは確実に敵を倒していた。 曼荼羅陣は、その要を失いつつあった。 グランディアが走る。 喰らいつき、引き倒す。爪で薙ぐ。 そのうしろを、レオンハルトがあやつるコキュートスの冷気が追い、天部を凍りつかせてゆく。 千志がトラベルギアを装着した腕で明王の拳を受け止め、そのまま投げ倒す。 ラスへと槍を突き立てた明王が、同じ傷をおのれに受けてくずおれる。 そしてナウラとハルカが、また一体の菩薩を屠った。 「なんてこと。これは危ないんじゃないの」 女が、いくぶん血の気のひいた顔で言う。 さきほどラスに与えられた傷は消えているようだ。おそらく菩薩のもたらす治癒の術を受けたのだろう。だが頼みの神仏群も次々に倒され、図書館のロストナンバーたちが陣の中心に近づいてきていた。 「思いのほかでした。私の『買収』の効果も切れ始めている。とっさに土地を買い取ったはいいが、この世界遺産というやつ、この世界でかなりの価値を持つと見える」 「退却したら?」 「まだです。苗木が生きている以上、放棄はできない」 眼鏡の男は、かれらを取り囲む最後の砦ともいうべき、如来たちへと目を遣った。 (観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄) 如来の唱える念仏が、低く、地を這っていた。 戦いがはじまって以来、陣の中央部分にて座禅の姿勢のまま動くことのない如来たち。アルカイックスマイルを浮かべるそのさまは、周囲の状況に頓着していないようにも、なにがあろうとおのれが揺らぐことはないと自負しているようにも見えた。 今――、ついにその如来たちのまえにロストナンバーが立つ。 「……動かないな。何のつもりだ」 グランディアが威嚇の唸りをあげる。 「気をつけて。なにを仕掛けてくるかわからない」 ナウラが警告する。 司書の告げた予言は曖昧なものだった。 如来たちは一切を虚無へと導く――。 だがここで睨み合っているわけにもいかない。6人は曼荼羅陣の再奥へ踏み込んでいった。 4 瞬間! (是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減――) 如来たちの半眼が、一同を捉えた。 すると、どうだろう、如来の周辺の地面が、いや、空間そのものが歪み、溶け、崩れ、消えてゆく。 「アンコールワットが!」 「消えていく……いや、消しているのか」 ハルカは、それが彼の『分解』に類する能力と悟る。 「物騒な神もいたもんだ」 千志の影が唸りをあげて、鋭く空を裂いた。が――、それさえも如来に到達する寸前で消えてゆく。 「通常の攻撃では無理だ」 レオンハルトが冷静に指摘する。 ふん、と千志が鼻を鳴らした。影からつくった刃が、“通常の攻撃”なら、いかなる方法であれを倒せる? 「どうする」 「ここは俺が」 ハルカだった。止める間もなく飛び出した。 惜しげもなく、『分解』の力を解放した。すべてを消滅させる如来の力の波動と、ハルカの力がぶつかっても、見た目にはなにも起こらない。しかし。 「あんたたちの撒く虚無と俺の作る無……どっちが強いか、比べてみよう」 如来が、衣の裾から、蒸発するように消し飛んでいった。 消える寸前にさえ、穏やかなアルカイックスマイルだ。 「や、やった……!」 「けど、まだいるぜ」 そうだ。如来は一体ではない。ハルカは休むことなく向かってゆくが、あの能力をふるい続ける消耗を思えば有利とも言えなかった。 「……。あの力、逆流させられる?」 ラスが言った。 「やってみよう」 と、レオンハルト。 「よし、じゃあ、あとは旅団のやつらを」 (是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法) (無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽) 一瞬たりとも気を抜くことはできない。 ほんの少しでも押し負ければ、こちらが虚無に巻き込まれて死ぬ。 ハルカはある意味で淡々と、目の前に立ち現れる如来たちを分解し、消してゆく。すでに疲労は極限に迫っている。だが退くわけにはいかない。 ――と、ふいに、『分解』の範囲が広がったような錯覚があった。 ふ、と足元に影が差す。 おそらく味方だろう。なら心配はいらなかった。礼を言っている暇は、しかし、なく、ハルカは続ける。 影は、3対6枚の翼を宿していた。 「神であると? このようなものが神を名乗るか。笑止なり」 レオンハルトの声だが、彼以上の威厳と尊大さが、そこにあった。 「退け」 黒い翼を広げ、レオンハルトが手をあげれば、凄まじい炎が壁となってあらわれる。通常の火であれば、それも如来の虚無に呑まれるはずだ。だがそうはならなかった。火として顕現してはいても、そうではないのだ。如来たちが消滅していく。 「跳ね返されてる。……自分の悟りで自分を救済するなら、如来も本望ですよ」 ラスが言った。 レオンハルト――いや、彼であって彼でないものは、ラスを一瞥すると、構わず、次々に仏を葬り去ってゆく。 限界に達し、ぐらりと、傾いだハルカを受け止め、片手でうしろのラスに投げ渡すと、彼にかわってレオンハルトは進んでいった。 ふっ、と、ラスは唇を歪める。 「神なんか消えちまえ。下らない瞑想に溺れて消えろ」 「こ、この……!」 女が扇子を振るった。 だがそこから放たれた風が、グランディアには届くことなく、ナウラが立ち上がらせた石壁に遮られる。女が放つ風は石化の力を持つようだが、石を石にしてもしかたがあるまい。 「死にてぇなら殺してやる。死にたくねぇなら、目障りだ。さっさと失せろ」 と、千志。 鉱物の身体をもつ巨漢が、自身の身体から石つぶてを射出する。 「それが答えか。じゃあ、遠慮はしねぇぜ」 影の刃でできた翼がはばたく。幾百もの刃が石の巨漢へと向かってゆく。 「『その影、買った!』」 スーツの男が、アタッシュケースから取り出した札束を投げた。影の刃が、途端に、方向をくるりと変えて千志に迫る。 「ンだと!」 すんでのところでかわした。 だが。 「いただき!」 「あっ!」 その隙に地面に潜り込んでいたナウラが、アタッシュケースを奪い取ったのだ。 一方、グランディアが、透明になって死角から女に襲いかかり、地面に突き倒す。 「ま、待って!」 「旅団はいったい、どういうつもりでこういうことをするんだ!」 「し、しかたないのよ。この世界に、『世界樹』が根を下ろそうとしてるんだから! ここが選ばれたの!」 男はナウラとアタッシュケースを引っ張り合う。 「でもこんなやり方は嫌いだ!」 「離しなさい! ……くそ、どうやら潮時ですか。……ゲベル!」 石の巨漢が吠えた。地面がでたらめに隆起して、あるいは陥没して、はげしく震えた。 「……ここがだめでも、どこか他の場所で苗木が育つ。そうすればそこに『世界樹』が降臨する。『世界樹』に選ばれた世界は滅びるしかないんです」 3人の旅団のツーリストは、退却のかまえだ。 そのときすでに、曼荼羅陣の仏たちは、ほぼ全滅していた。 悠然と、レオンハルトがこちらに歩いてくるのが見えた。 『苗木』と呼ばれた植物は、かなりの高さまで育っていたが、レオンハルトの赤い瞳はそれを見上げていても、まるでとるにたらないものを見下す表情をしていた。 苗木の上空を、ナレンシフが退却していくなか、レオンハルトが――いや、〈無価値の名を冠するもの〉と言おう――が、放った地獄の業火が、苗木を包み込んだ。 * 苗木が灰になってしまったあと、崩れ去った神仏の彫像もまた、はじめからなかったかのように消えてしまっていた。 アンコールワットが受けたダメージは、ナウラが修復しようとしたが、すべてを戻すのは骨が折れそうだ。あとでターミナルから応援を呼んだほうがいいだろう。 周囲をくまなく探索したが、旅団の痕跡は特になく、このポイントは防衛に成功したと言っていいだろう。 トラベラーズノートを開けば、各地からも、報告があがってきていた。 旅団のツーリストは、この世界が選ばれた、と言った。 そして、『世界樹』に選ばれた世界は滅びるのだ、とも。 この戦いが、真の決戦の緒戦なのだとしたら――この先にどのような激しい戦いが待っているというのか。 真っ赤な夕日に染まりゆくアンコールワットの塔堂を見ながら、旅人たちは次なる戦いの予感に表情を引き締めた。 (了)
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