フランス、モン・サン=ミシェル。 『西洋の驚異』とも称されるその場所に、巨大な樹は佇んでいた。 曇天の下、やけに冷たい風が海から島へと入り込み、巨木の枝葉をざわざわと揺らす。 その陰には幾つもの実が生っており、巨木の頂には一際大きな実が、その陶器のような滑らかな表面を震わせていた。 それは、明らかに風のせいではなかった。まるで寒さに凍えているようにも、喜びに打ち震えているようにも見える。 その動きは次第に大きく、鮮明なものとなって行き――やがて、ぱちり、という音と共に、その表面にひびが入り、そこから一筋の光が暗い空を指し示すように漏れ出した。 また一筋、一筋と光は増えて行き、ほどなく実は粉々に砕け、崩れ落ちる。 そこから現れたのは、とても美しい顔だった。 著名な芸術家の作り上げた彫刻品のように、妥協を許さずに追求された美がそこにある。 けれども完璧なバランスともいえるその双眸には、慈愛に満ちた光も、秋霜の煌きもない。口もとに笑みを浮かべることもなく、彼のものはただ虚ろな眼差しを周囲へと向けた。 海鳴りが、轟々と警笛のように空気を震わせる。 彼のものは空を見上げ、背中に持つ純白の翼を大きく広げる。雲間からこぼれた光を映し、白銀の鎧が眩い輝きを放った。 そして、右手の剣が振り上げられる。 ぱちり、ぱちり、ぱちり、ぱちり。 それに呼応するかのように、巨木に生った実が次々と爆ぜた。その音はより多く、より大きくなって、ファンファーレのように周囲に鳴り響く。 気がつけば、翼を持つ数多の者たちが生まれ出で、巨木の周囲を取り囲むように浮かんでいた。 彼のものはそれを確かめるように見、今それに気づいたかのように、左手に持った金色の天秤を眺める。 そして眼下の美しい小島を一瞥すると、天秤をがらくたを扱うように放り投げた。 爆発音と共に、修道院の尖塔が砕け散る。そこに飾られていた大天使の像は支えを失い、瓦礫の中へと落ちていった。配下の者たちはそれを玩具のように取り合って、あっけなく壊れてしまうとすぐに興味を失い、やがてその視線を周囲の建物や海の向こう側にも向け始める。 彼のものもまた、表情を変えずに遠くを見た。その先には、煌びやかな街の光がある。 そして再び、剣は振り上げられた。 ◇ 予言された未来は、世界樹旅団によってもたらされる。 世界司書が知った出来事はまだ不確定な未来だ。しかし、このままでは確実に訪れる出来事でもあるのだ。 壱番世界各地の「世界遺産」をターゲットに、何組かの旅団のパーティーが襲来することが判明した。かれらは「世界樹の苗」と呼ばれる植物のようなものを植え付けることが任務のようだ。その苗木は急速に成長し、やがて、司書が予言したような惨劇を引き起こす。 言うまでもなく……「世界樹の苗」とは、世界樹旅団を統べるという謎の存在「世界樹」の分体だ。 だが、この作戦を事前に察知したことにより、世界図書館のロストナンバーたちは、苗木が植え付けられてすぐの頃に到着することができるだろう。周辺の壱番世界の人々を逃がす時間は十分に確保できるはずだ。 むろんそのあとで、苗木は滅ぼさねばならない。苗木は吸い上げた壱番世界の『歴史』や『自然環境』の情報をもとに反撃してくるであろうし、旅団のツーリストも黙ってはいない。 司書は、引き続き、戦うことになるはずの、敵について告げる。 ◇「今回モン・サン=ミシェルに現れるのは、ジルヴァという男、そして彼が作った『人形』です」 リベル・セヴァンは、いつもの淡々とした口調でそう告げた。「ジルヴァは『世界横断運動会』に参加をした際にも人形を使用していました。しかし、あの時のものとは性能がかなり違います」 彼女は導きの書へと再び目を落とす。「人形は見た目は同じように見えますが、それぞれの体の一部分に『剣』、『鏡』、『玉』という文字が刻まれていて、それがその人形の特性を表しています」 『剣』は高い攻撃力で積極的に攻め、『鏡』は相手の攻撃を反射し、『玉』は癒しの力で仲間の人形を修復する。「基本的に三体の人形は、それぞれの判断で行動しているようです。ジルヴァは自ら攻撃するよりも、道具やその場にある物を利用したり、罠をかけたりすることに長けています」 そして、とリベルは続ける。「敵は修道院に『世界樹の苗』を植えつけようとしています。そこに誰も近づけないために手を尽くしてくるでしょう。現地は道も狭く入り組んでいますから、思うように身動きが取れない可能性があります。ですがそれは敵も同じではあるでしょう」 それから彼女は少し考えるようにしてから、再び口を開く。「可能な限り町並や修道院は傷つけないで欲しいですが――まずは任務の遂行が先決ですね」 そしてその青い瞳を、真っ直ぐにこちらへと向けた。「健闘を祈ります」========!注意!イベントシナリオ群『侵略の植樹』は、、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『侵略の植樹』シナリオへの複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。========
「壱番世界を同時にとは、何とも大仰なことじゃ」 すっかり人気のなくなった島を眺め、天摯は呟いた。 「だが、いかなる聖人とて生くるために罪を犯しておる。そして、その罪を犯さぬものはすでにヒトではない」 長い年月を生き、年若き頃から戦場を渡り歩いてくれば、様々なことを見聞きする。天摯もまた、人の業を目の当たりにして生きてきた。 だから彼に、旅団に対する嫌悪や憎悪の念はなかった。彼らも同じように生きる者だからだ。 しかし、この侵略を許すことは出来ない。それは相容れない信念だ。 ここにいた人々の避難は、既に済んでいる。 警備員たちは、修道院の中に突然現れた不審な男たちに対処しようとしていたようだが、取り押さえようと近づいても全く歯が立たず、そして急速に成長する不気味な木に身の危険を感じ、観光客や住民を避難させ始めていたので、それを島外へと誘導するのは比較的容易だった。 「本当なら、ゆっくり観光したいところなんだけどねぇ」 「事が済めば造作もないであろうな」 劉 谨泽はいつものようにのんびりと、ボルツォーニ・アウグストは威厳に満ちた、対照的な冷静さで島を見る。 「ニコルさん、どうかした?」 どこか皆とは違い、遠くを見ているようなニコル・メイブの横顔に、谨泽はその円らな瞳を向けた。 天使がひと目見れたら、なんてね。 ニコルはその言葉は口に出さず、代わりに不敵な笑みで答えた。 「いや。――シメていくよ」 そうして、花嫁衣裳をはためかせ、駆け出す。 皆も、後に続いた。 ◇ 誰もいなくなった修道院の中に、舌打ちの音が響く。 「もう来やがったのか。手が早いこって」 男――ジルヴァはそう言うと、手の中にある四角い物体を見た。それは赤く明滅している。 今回は『苗』を植えつけるという任務が主であったし、精度の高い人形を作るのに高度な儀式が必要だったため、世界図書館を迎え撃つための罠を用意する暇もなく、接近を知らせる仕掛けをするので精一杯だった。 「面倒だよな、こういうのも」 彼は隣に立つ『人形』たちに目を遣る。腕に『剣』と文字が描かれた人形は大人の男の姿、首元に『鏡』という文字がある人形は女、頬に『玉』という文字が浮かび上がっている人形は少女の姿をしていた。 遠目に見れば人間だと勘違いする者も多いだろう、それだけ精巧に出来ている。だが、ジルヴァの呼びかけにも表情は全く動かない。 「あのガキどもなら、めんどくさいならやんなきゃいーじゃん! っつーかね」 そうして、彼は小さく笑う。 「ま、俺もオトナだしな。――さ、仕事の時間だ」 指を鳴らすと、控えていた人形たちは動き出し、それを見送った後、彼もまた動き始めた。 ◇ 世界図書館の一行は、グランド・リュの狭い路地を迅速に、けれども注意深く進む。土産物屋やレストランなどが立ち並ぶ通りには、今は賑わいはない。 「人が作り上げたこの美しい風景を、苗木の手によって壊されるのはとても勿体無いね」 谨泽はそう言い、周囲を眺めた。 小ぢんまりとした町には、沢山の人が行き交い、かかわりあった年月が熟成した味わい深さのようなものが感じられる。 だが、何よりもまず『苗』を破壊し、そのためにはそれを守る者たちを倒さねばならない。予言通りになれば、この景色も跡形もなく破壊しつくされてしまう。 急勾配の道を進み、サン・ピエール教会に差し掛かった頃だった。 「来おったな」 天摯はそう言って身構える。目前に、三体の影が迫っていた。 「よく出来てるねぇ」 谨泽が人形を見て呑気なことを口にする。 「ジルヴァってやつはいないのね」 ニコルは素早く辺りを見回し、そう言った。 虚を突けたら即ジルヴァを狙うつもりであったが、向こうは人形でこちらを食い止めているうちに何かをする作戦なのか、それとも本人はあまり戦うつもりがないのだろうか。 「それなら」 彼女は視線を、少女の姿をした人形へと向ける。 「強敵を相手取るなら、まずは余計な横槍を排除するものと相場は決まっておる」 天摯もまた、『玉』の方へと意識を向けた。その間、他の人形にも油断なく注意は払っている。 ニコルが地を蹴り『玉』に組み付こうとした途端、『鏡』が素早く目の前を遮った。 「――っ!」 掴みかかられるような力を感じ、ニコルは急いで後ろに跳び退る。 そこに襲い来る『剣』の人形。 ――速い。 「危なかったねぇ」 手に持った剣の鋭い切先がニコルに届く前に、白と黒の巨体とのんびりとした声がそれを防ぐ。 『剣』が積極的に攻めてくるのを待ち構えていた谨泽が、三節棍でその動きを止めたのだ。 彼はそのまま入り組んでいる道へと人形を誘導することを試みたが、『剣』は深追いをすることはせずにその場を素早く離れ、態勢を立て直していたニコルに再び剣を振るう。彼女は咄嗟に地面に転がり、それを避けた。谨泽は急いで戻ってきて、彼女を庇うように三節棍を振るう。 『鏡』も跳躍し、天摯が空中に出現させ、一人おろおろとしている『玉』を狙って降り注いだ大量の剣に対峙した。するとその剣は瞬時に向きを変え、天摯の方へと向かう。彼はそれを手に出現させた刀で事も無げに叩き落し、視線を逸らさず大地の属性を持つ剣を人形の足元から出現させた。そのうねる刃は、不意を突かれた『鏡』を貫く。 しかし後ろに控えていた『玉』が腕を振ると、砕けた『鏡』は一瞬にして元に戻った。そして『鏡』は『玉』を抱えて飛び退る。 『剣』は素早い動きで谨泽の腕や足を狙うが、彼は巨体で三節棍を器用に扱いながらそれを防ぐ。そこへ、何かが横から投げ込まれた。『剣』はそれに即座に反応し、身を翻す。投げられたものは地面へと落ち、赤い色を撒き散らした。 それは、ボルツォーニの使い魔が投げたペイント弾だった。 勿論ダメージはない。しかし、一瞬の隙は生まれた。そこに間髪を入れずボルツォーニの魔術武器が叩き込まれる。それは『剣』の体を易々と引き裂いた。人形は苦悶の声すら上げず、無表情のまま崩れ落ちる。 だが。 『玉』が腕を振ると、バラバラになったはずの『剣』が一瞬にして元に戻った。そして『剣』はそのままボルツォーニへと突進する。しかし突き出された剣は、ロングコートを掠めただけだった。彼がコートの裾を刃の形にして翻すと、『剣』は空中で体を捻り、転がって着地すると同時に跳躍する。 その後ろで、『玉』は所在なげにうろうろとしていた。 普段の動きは決して良いとは言えないのに、回復への対応だけは早いようだ。 「この世界のエレメントを利用しておるのか」 天摯はそう言って人形たちを見る。 『玉』の癒しの力は、この世界に漂っている力により起こされるようだった。それだけではなく、人形そのものがこの世界の要素によって構成されているようだ。それならば力が尽きることは、まず無いといって良いのだろう。 ボルツォーニは、人々が避難した方向へと人形たちが向かわないように注意を払いながら戦いを続ける。今のところはその気配はないが、気をつけておくに越したことはない。 個々の能力でいえば、こちらの方がずっと高いだろう。だがその差を補うほどの連携能力が人形たちにはあった。同じように作られただけあって、一人の人間が手足を動かすようなものなのかもしれない。混戦であっても的確なサポートにやってくるし、人間が見せないようなトリッキーな動きも平気でする。 そして人形たちには傷を負う痛みも、死の恐怖もない。ただ効率を第一に動くだけだ。 じりじりとは追い詰めてはいるものの、先ほどからほとんど前へと進めていない。 「それならこっちだって」 ニコルは油断なく周囲を見ると、仲間の位置を把握し、声をかける。 「天摯、ボルツォーニさん、『剣』と『鏡』をお願い!」 「承知した」 天摯はそう言って赤い刀を手に『剣』へと向かい、ボルツォーニは頷き『鏡』へと向かう。 「谨泽は『玉』を!」 続いて『玉』のそばにいた谨泽にも声をかけ、ニコル自らもそちらへと向かって走る。 「どこへ行く」 危うい空気を感じ取ったのか、横へと跳んだ『剣』の目前に赤い刃が現れる。身を捩ってそれをかわしたが、極限まで高めた切れ味に、肩口をすっぱりと切り落とされた。その傷は『玉』の力によってすぐに癒されたが、『剣』は天摯と向き合うしかなくなった。 「さて、私の相手を願おうか」 ボルツォーニの振りかぶった大剣が『鏡』に向かって振り下ろされる。直接的な攻撃であっても反射を行うことが可能な『鏡』は、それを待ち構えるかのように動かない。だが体に触れる直前になって剣は瞬時に巨大な斧へと変わり、軌道も一瞬にして変化した。軽々と払われた斧に咄嗟に対処できず、『鏡』は這い蹲るようにしてそれを避ける。そこへさらに、今度は槍となった魔術武器が襲い掛かった。 「びゃうっ!」 気合の入った鳴き声と共に、ボルツォーニの使い魔がペイント弾を投げる。今度は青い色だった。それ自体は大したダメージにはならないが、避けるために労力が割かれ、また他の人形よりも動きの鈍い『玉』は比較的簡単に当たってしまう。それを癒しの力で落としたりと、余計な対応に追われていた。 その隙を突き、谨泽の三節棍が繰り出される。攻撃能力がほとんどない『玉』はただ逃げ回るしかない。程なくして三節棍は人形の胴体を砕いた。 だが、人形は腕を振る。それで、あっけなく元通りになるはずだった。 「つかまえたっ!」 しかしそこに、谨泽の陰で機会を窺っていたニコルが飛び出して組み付く。そのまま馬乗りになると、彼女は両の拳銃で人形を打ちのめした。動きを封じられてはどうしようもない。人形は抵抗しようともがくが、段々と動きを鈍らせていき、体の破損も広がっていく。そこへ、谨泽の三節棍が止めを刺した。 『玉』の人形は一瞬青白く光ったと思うと、空気に溶けるかのように消えた。 もうこれで、人形たちを修復する手立てはない。 「中々やりおるが」 天摯はそう言うと、『剣』人形の方へと大きく踏み込み、赤い刀を閃かせる。人形の剣先は、僅かに天摯に届かない。 紙のように容易く幾重にも切り取られた人形の体は、花が咲いたかのように地面に散らばり、やがて赤い光と共に消える。 「まだまだ甘いのう」 それから、天摯は小さく笑う。 「気持ちは解らないでもないがな」 そして『鏡』の人形も、ただ翻弄される一方だった。ボルツォーニの魔術武器は、次々に形状を変え、まるで重さがないかのように自由な軌道で人形に向かう。反射を全く行うことが出来ず、何とか状況を変えようと、自らも攻撃に転じようとはするが、『剣』ほどの能力を持たない『鏡』の攻撃が通ることはなく、かえって隙を作ってしまう。 「そろそろ終幕としようか」 ボルツォーニの振るう鎖鎌が人形の首を跳ね、銃に変わって胴体に無数の穴を開け、剣になり切り裂く。 人形は、黄色い光を浮かべると、ふわりと風に流され、消滅した。 大階段をのぼり、修道院の内部を目指す。 すると途中にあった壁の一部が崩れ、落下してきた。 「小賢しい」 ボルツォーニがロングコートの裾でそれを払えば、誰に当たることもなく散らばり、破片は階段を転げ落ちていく。 その直後、何やら騒がしい音がし始めた。 「あれ、何だろう? ――缶?」 谨泽が指差した階段の上の方から転がってくるのは、確かに円い缶のようだった。 その数は見る間に増え、さらに増え、やがて瓶や箱なども落ちてくる。 「もしかして、お土産!?」 「勿体ないことをするのう」 ニコルと天摯も声を上げる。 クッキーの缶やジャムの瓶、ワインボトルにスノー・ドームなど、転げ落ちてくるのは恐らく、グランド・リュの店で販売している土産品の数々だろう。先ほどの壁の落下がトリガーとなっていたようだ。 「これだけあると、階段の上まで運ぶの大変だっただろうなぁ」 谨泽は相変わらずのんびりと言いながらも、軽やかなフットワークでそれを避け、上へとのぼっていく。この程度の罠をやり過ごすことなど、皆にとって造作もないことだが、多少面倒ではある。 その後も罠はあちこちに仕掛けられていた。 モン・サン=ミシェルは要塞としての歴史も持っているので、敵を迎え撃つための場所も随所にある。それに加え、世界樹旅団には世界遺産への配慮もない。 ジルヴァの罠により、今度はステンドグラスが降り注ぎ、長椅子が跳ね上がる。しかしボルツォーニの使い魔が少し弄っておいたせいで、不発に終わったものもあった。 「あそこにいるよ!」 前方にジルヴァの姿を発見し、谨泽が声を上げる。 「げっ」 ジルヴァはこちらに気づくと小さく声を発し、すぐに逃げ出した。 「ちょっと! 貴重な世界遺産になんてことすんの!?」 「仕方ねーだろ! 俺だって命がけなんだよ!」 ニコルが大声を上げながら後を追うと、ジルヴァも大声を返しながら逃げる。 こちらはリベルになるべく町並や修道院は傷つけるなと言われたが、そもそも『苗』を使って破壊を行おうとしている旅団の者に、そんなことは関係ない。 ニコルはジルヴァの背中をしっかりと見据え、意識を集中させる。 血が一気に目に流れ込んで来るのを感じた。長くは無理だ。一瞬の勝負。 狙いを定め――今。 銃声が轟く。 「ぐぁっ!」 銃弾は、ジルヴァの左肩と右足を貫いた。彼は鋭い痛みに苦悶の声をあげて床へと転がる。 ニコルも少しだけ眩暈がした。だがぐっと堪え、再び前を向く。 「苗を何とかしなきゃ!」 もう時間はあまりないはずだ。四人は中庭の方へと急いだ。 回廊を走り、柱の間を抜け、中庭へと出る。 ぱちり。 その時、どんよりとした空に、一筋の光が走った。 見る間に光はその数を増して行き、周囲が眩い光に包まれる。 絵画に描かれた楽園の木のように現実味のない、巨大な『苗』に生った実は熟し、まるで純白の卵から孵化するかのように、白い羽を持つひとが生まれる。 「この世の終わりみたい」 ニコルが思わずそう呟いてしまったほど、それは禍々しくも、美しい光景だった。 世界司書によって予言された未来は、もたらされた。 だが今、予言では語られなかったロストナンバーたちが、ここにいる。 ボルツォーニもまた、導きの書が予知した天の軍勢があらわれるのを、どこか心待ちにしていた一人だった。 彼の表情は変わらないが、吸い寄せられるかのように、次々と生まれ出る天使たちに近づいていく。 そして、その待ち人を――迷わず蹂躙した。 「わしは神とかいう連中とその腰巾着が大嫌いでな!」 そう言いながらも、天摯もまた嬉々としてその渦中へと突き進む。 天使の軍団の誕生の阻止は出来なかったが、まだ数は少なく、被害は周囲へと広がってはいない。苗を守ろうとするならば、まずは最優先で自分たちを排除しようとするだろう。それならば、早々に決着をつければ良いだけだ。 二人が多くの天使たちを引き寄せてくれている間に、谨泽とニコルは苗木の方へと向かっていた。 近づいてくる天使は三節棍と拳銃で殴りつけ、とにかく苗木のもとへとたどり着くことを考える。 「させはせぬ」 二人に後ろから近づき、襲い掛かろうとしていた三体の天使は、天摯の刃の雨に打たれた。そして地面へと堕ちると、ピンで留められた羽虫のように暫しもがいて消える。 礼は後ほどすることにして、とにかく二人は走る。それほど長い距離ではないのに、噎せ返るような白い色と輝きに遮られ、中々前へと進めない。その間に細かい傷や疲労が重なり、体力を奪っていく。 ボルツォーニは銃へと変えた魔術武器をミカエルへと向けて発砲した。 阻止しようと群がってきた天使たちを引きちぎりながらも勢いを失わないまま、弾丸はミカエルのもとへと届く。 それを炎を纏った剣でいなそうとした時には、すでに剣となったボルツォーニの魔術武器が目前に迫っている。ミカエルは、それをさらに受け流した。 来た時のように天使を踏み台にし、後ろへと素早く退いたボルツォーニの目前を、灼熱の炎が通り過ぎる。前髪が少し焦げたが、どうということはない。 「ふむ」 天摯は天使たちの動きが変化したのを見て取り、視線を走らせた。 ボルツォーニがミカエルを攻撃しようとする度に、多くの天使がそれを防ごうと動く。そして、その他の天使の動きも僅かだが緩慢になる。それは、ジルヴァの人形のような連携ではなく、ミカエルの立場が明らかに上であり、司令塔としての役割も果たしているということであろう。天使たちは、ミカエルが剣を振り上げる度に実から生まれ出ていた。 しかし、全ての根本は言うまでもなく――『世界樹の苗』だ。 「ボルツォーニ、避けるのじゃ」 天摯の言葉の意味を、ボルツォーニは即座に理解した。彼の姿は一瞬にして黒い霧へと変わり、散る。 その後を、大量の剣が通り過ぎた。ミカエルへと迫る危機を防ごうと、離れていた天使たちも一斉にそちらへと向かう。 そして、ニコルと谨泽が苗木のもとへと到着した。 幹は目前にある。ニコルは二丁の拳銃の先を苗木へと押し当てた。この至近距離なら外しようがない。 「ありったけ行くよ!」 二発、四発、六発、八発――怒涛のごとく銃弾を撃ち込んだ。切れる間もなくリロードをし、さらに続けて撃ち続ける。 苦しみもがき、それを止めようと迫る枝葉は、谨泽が叩き落した。 「高いところの枝も何のその! ……って、通販番組みたいだね」 戦いの中でも動じない心は強い。三節棍は自由自在に伸縮し、焦る苗とは対照的に、的確にその数を減らしていた。 「飛蛾の火に入る如し、か」 苗を救おうと慌てて戻り、そして生まれる頼みの天使たちは、天摯の放つ無数の剣の餌食となる。 上空では輝きを放つ大天使ミカエルに、黒い影が覆い被さる。風に揺らめく衣の裾は、幾重にも重なった羽のように見え、その姿は堕ちた兄とも言われる者を思わせた。 「終わりだ」 ボルツォーニの大剣が、ミカエルの体を切り裂いた。 それと同時に、『苗』の絶叫のような揺らぎが、空気を震わせた。 「片がついたか」 ボルツォーニが大剣を一振りすると、それは一瞬にして手の中に納まる立方体となる。踏みつけていたはずの天使の骸は、いつの間にか消えていた。 谨泽は自らの氣を整え、そして仲間たちの傷も癒す。 「流石に強ぇな……世界図書館」 ジルヴァは荒い息でそう言うと、観念したかのように目を閉じる。ニコルはロープを取り出し、手早くジルヴァを拘束した。谨泽が近づき、もこもことした手のひらをそっとかざすと、ジルヴァの傷が見る見る癒えて行く。 彼は急に体が楽になったのを感じてはっと目を開け、すっかり塞がった傷をぼんやりと見た。 「ふん、博愛主義ってやつか」 「博愛主義? まさか。お前の処遇を決めるのは私じゃなくて世界図書館。負けたんだから言うこと聞いてよ」 縄の端を引っ張りながら言うニコルの隣で、天摯が思わず笑みを浮かべる。 「ぬしも手を抜いていたであろうに」 人形たちは、的確に急所以外の場所を狙ってきていた。向こうがこちらを殺すのも厭わない戦い方をしていたなら、戦況はまた違っていたものになっていたかもしれない。ジルヴァの攻撃も、一般人相手ならともかく、高い能力を持つ世界図書館のロストナンバーたちに致命傷を負わせられるようなものではなかった。つまり、一貫して彼らは足止めに徹していたということだ。 「知らねぇな」 そう言ってジルヴァは大きく息をつき、その場に寝転がる。 「ほら、立って!」 即座にニコルに言われ、ジルヴァは渋々と立ち上がった。 「さて、帰るとするかの」 天摯は周囲を見渡して言う。 元のままというわけには行かなかったが、回廊に囲まれた中庭は、少なくとも静けさは取り戻している。 「せっかくだから、美味しい料理でも食べていきたいねぇ」 「フランス料理かぁ、いいね!」 「捕虜を連れたままレストランにでも向かうのかね。そういう趣味なら止めはしないが」 ボルツォーニの冷静な突っ込みを受け、谨泽とニコルは憮然とした表情のジルヴァを見ると、思わず吹き出した。
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