※ 何時からか、三味と共に唄う者が在る。 人は元より鳥獣草木、果ては魚や蟲でさえ、生くる聴衆ひとりも居らず。 剥き出した底が方々罅割れて、骨ばかり散り散りに転がるだけの場所。 そんな殺風景――あどない小女郎の芸など奇矯で、憐れな程に。 ――坊主の発心も穢にゃ克てね ――肘笠雨だの降る前に 柴漬け退かして科者も退かそ ――さもねと亡魂さ打たれて懸かる だが、陋劣なる凶状持ちに取り巻かれし今を、僅か乍ら癒しもした。 絃の太きを巧みに繰るか、聲愛しみに充つるが故か、骨の髄まで音は響く。 ――名主の湖沼も旱にゃ勝てね ――袖笠雨でも降らねかな 柴漬けこさえて魚ば喚ばれ ――そうすりゃ姐やもお里にけえる 童女よ。瞽女よ。妾を寝かせて給れ。聲を届けて給れ。 菊絵よ――。 ※ 骨董品屋『白騙』の前座敷では、ぼりぼりと遠慮の欠片も無い咀嚼音が、暫くの間、旅人達の鼓膜を鈍く刺激した。囲炉裏を挟んで向かいに座る雀斑顔の世界司書――何かいっぱいに頬張った、その口内こそが、発生源である。 ――此処にガラが居る以上、朱昏に纏わる依頼があるに相違無いのだが。 この言葉も無い一種異様な状況は、やがて槐が人数分の湯飲みを用意して戻るまで、殊更長く感じられる程、延々黙々と続けられた。「今朝方、甘露丸さんから試食にと沢山頂いたのだそうで。お茶請けとしても中々、乙なものですよ」 皆さんも如何です――微笑み掛ける鬼面の男が示すのは、白磁の器に盛りつけられた、茄子の紫葉漬け。表皮の黒味を帯びた青紫と赤紫に染まる果肉は、色鮮やか乍らもきつさの無い、上品な落ち着きと精彩さを併せ持つ。 幾人かが箸でそれを突付き始めた頃、漸く本題が――槐の口から語られた。「西国――と云っても今回は花京の都から離れた、北の村落での出来事です」 その地の庄屋が、このところ床に就くと、決まって悪夢を観ると謂う。 夢の中でもやはり眠っていて、誰かがすすり泣く声で眼が覚める。 寝室は如何にも息苦しい。そればかりか、水中に居るが如く身動きも侭ならぬ。 それもその筈、何しろ眼を開けば鰌(どじょう)や鯉(こい)が、室内を自在に泳ぎ回っているのだ。まるで沼底のように。 そうして不可思議な光景を目の当たりにしてから、やっと美しい女の存在に気が付く。彼女は庄屋の枕元で、さめざめと哀願するのだ。 ぬまがそうぞうしゅうてかなわぬ、きよめてたもれ、ねかせてたもれ――と。 訳も判らぬまま辛うじて身を起こすと、先ず呼吸に不都合が無いことに安堵し、次に沼魚や女の姿が消えていることに安堵し、夢だったのだと漸く胸を撫で下ろす。 槐は一頻り話してから茶で喉を潤し、「さて」と挟んで要に触れた。「夢観が悪くなったのは『ある物』を手に入れてからのようです」 それは、一間――六尺を優に超える程巨大な、鯉の魚拓だった。 百年程昔、この付近の武家が沼の主を釣り上げた記念に取ったのだと云う。 その武家はやがて没落したらしく、その際、苦し紛れに手放された魚拓は、持ち主を替えて各地を転々とした。それが何の因果か、由来となる土地に、里帰りの如く舞い戻って来たのである。 何でも素晴らしく見事な魚拓で、庄屋は甚く気に入っているらしい。 しかし、朱昏と云う立地にこの状況を鑑みれば、魚拓が怪異の源――付喪神に化けている可能性が高いと、鬼面は云う。「聞けば、庄屋一家は日に日にやつれているとか――……無理も無い。夜毎夢の中で、懼らくは鯉の化生たる女性に祟られているのですから」 このままでは、命に係わる。「先ずは、夢の女性の願いを叶えてあげること、でしょうか」 取り敢えずそれで、祟りは鎮静化するのだろう。だが、今の話だけでは些か不明瞭にも思える。いっそのこと、女性と直接話せれば手っ取り早いのだが。「また、もし鎮められたとしても魚拓――鯉の霊威は懼らく残留します。鯉幟(こいのぼり)や登龍門の謂れにもあるように、壱番世界でも古くから鯉は龍に連なるものとされ、半ば神格化されて来ました」 心做しか龍のくだりだけ声を押し殺すようにして、槐はそう云った。 ならば、百年前の何某は、不遜にも神を魚拓に取ったと云うことになる。 そもそもが鯉にあるまじき巨躯で、それだけでも彼の地では並外れた霊性を孕みそうなものだ。況してや、龍絡みとなれば――。「そんな物を庄屋宅に残して置いて、祟りが再発しないとも限りませんし……かと云って迂闊に破いたり燃やしたりしては、それこそ何が起こるか判りません――やはり回収した方が、後々の為かと」 とまれ、最前の話通りならば、庄屋がそう易々と手放すとは考え難い。 角を立てずに持ち出そうとするのなら、一計を案じる必要があると云うことか。 槐は、何れも方法は任せる旨を告げて、直ぐに「そうそう」と、どこかわざとらしく、どこか他人事のように続けた。「魚拓は、僕のところで預かりましょう。……何かと物騒ですから」「ん、ぐ……ヌマふっ――」 やっと口内の紫葉漬けをやっつけたのだろうか。気が付けば、もごもご膨らんでいたガラの頬が、すっかり元に戻っていた。 さて、ヌマが如何したのか。「――ふう。それっぽい沼の場所は、村に行けば皆知ってますよう。でも、今はからっからなの。ちょこーっと水溜りが残ってるだけで」 この場違いな世界司書に由れば、一帯は年々雨が減り、既に沼と呼ぶのが憚られる程に干上がりつつあるとのことだ。「なんかね。そうなる前、百年ぐらいはなんかに使われてたみたいですけど」 なんかなんかと繰り返し乍ら、有益とも無益ともとれるガラの胡乱な物言いに合の手を入れるでも無く、槐は、只両の眼を細めて、佇んで居た。
朱昏は西国、北西部。壱番世界で云えば東北地方に差し掛かろうか。四人の旅人が山間を縫うのにそろそろ厭いた、明くる朝のこと。漸く辿り着いたのは何処にでも在る、こじんまりとした、そして少し草臥れた村落。 心做しか――未だ己に心が在るのかは別として――如何とも云い難い独特の窮屈な印象を受ける。それがどうやら「居心地の悪さ」と云う奴なのだと、ツリスガラは自身の経験に照らし合わせて結論付けた。斯様な土地に住み続ける民の心理は如何なるものかと思い浮かべてみても、嘗て自らの心を砕いた彼女には識る由も無いが、少なくとも陽気に振舞える状態で無いことは見て取れる。 酷似した彼の地同様此の地にも雨季が訪れているのか、旅の始まりに降車した折には酷く蒸したと云うのに、この辺りは山間に在って尚、不自然な程空気が乾いている。それは今、件の沼目指して青々と茂る藪を突き進む間も和らぐことは無い。とは言え、木々が些か強過ぎる日光を遮る分、消耗は抑えられた。 この旱(ひでり)も、祟りが関係して居るのだろうか。 (私の経験からすると) 祟りと云うのは恨みや妬み等の負の感情に起因するのかと考えて居たが、一方で庄屋一家の夢枕に立つ女性の正体が何であれ、恨みつらみという雰囲気では無いようにツリスガラには思えた。恨んでいる相手に、清めてくれ、何とかしてくれと云うのも奇妙な話で、やはり一概に怨恨の線ばかりと云い切れぬ。 そも――、 「おっかしいなあ。この辺にあるって聞いたんだけど」 ツリスガラの沈思は、隣人の聲に遮られた。重そうに垂れる背荷物に何を詰め込んでいるのかは窺い知れぬが、この若者は此処までの道中も平然と歩き、今は更に簾や拾い集めた枝葉を小脇に抱え込んで居る。その使途が、ツリスガラにはまるで想像もつかない。 「……それは」 「ん? ああ、柴漬け漁の準備。うちは柴揚げ漁って言うけどな」 場所や地域によっても木の種類や仕掛けの期間が異なる為、村の衆からついでに訊いておいたと、坂上健は云う。何故そんなものをと問えば、世界司書が頬張っていた紫葉漬けが妙に気になったのだと応えた。 「良く判らないが……私の経験からすると、漁と云うからには水場にもある程度の広さと深さが求められるように思う」 「だからさ、沼なんだろ?」 「その柴漬けと云うのは、仮令干上がって居ても出来るものなのか」 「え?」 「……と、着いたようだ」 ツリスガラが背丈程も伸び放題の草を掻き分けた先には―― 「え?」 ――一面に広がる、罅割れた黄土。それでも未だ地中に水気を含むのか、一帯に陽炎が揺らめいて、暑気の只中に在ることを示して居る。所々で僅かに遺る水溜りが、嘗ての残滓を控えめに留めるのみだった。 「そんな……」 見目より逞しい腕が垂れて手荷物がばらばらと落ちるまま呆然と立ち尽くす健に、ツリスガラは気遣いも意地の悪さも孕まぬ事実と予想を淡々と告げる。 「ガラさんが云った通りだ。昔は出来たのかも識れないが」 そう云えば、昔は何に使われたのか。同じ疑問を抱く仲間に解明を委ねはしたが、果たして――、 ※ ――そりゃあアンタ、シバヅケに決まっとる。 「どちらの?」 ――若い娘が『どちら』などと訊くもんじゃないよ。天下泰平も終いかね。 「……御免なさい」 ――やれやれ……両方じゃよ。 「両方?」 ――婆の爺様が生きとった頃ぁ綺麗な沼で、魚がよう獲れたっつう話じゃ。ヌシも住んどったとか。 「主」 ――ところが当時幅利かせとったお武家様がの。周りが止めるのも聞かんでヌシを釣り上げちまった。上方の沙汰か何か知らんがよ、何やら柴漬けの漁場は科人の刑場にゃ色々と都合ええんじゃと。以来、沼にゃ役人が張り付くようんなって、村の者はだあれも近寄らんようになった。 (やっぱり……) ――それから直ぐにお武家様の御家で悪いことが続いてのう。皆ヌシの祟りだと噂した。本人もそう思ったのか、ヌシの亡骸を沼に還したらしいが。 「手遅れだったのね」 ――応や。大きな聲じゃ云えんが……終いにゃ将軍様に何ぞやらかしたとかで、いの一番で沼に沈められちまった。こんな田舎に居って都のお上に何の粗相が出来るもんかよ。まあ……祟りだろうねえ。今じゃすっかり乾上っちまって役人も引き払ったが……村の衆は相変わらず気味悪がって沼に近付かん。 「じゃあ、旱魃の原因は」 ――それは違うと、婆は思うがの。ヌシは大鯉。水気が無けりゃ他の魚もお陀仏じゃ。怨みも何も無い仲間の命をあたら奪るなど―― ※ 「『ヒトぐらいのもんですよ』――か」 健が繰り返した己の言葉を確かめるようにして、村崎神無は伏目がちにこくりと頷いた。霊気に敏感な神無は特に昔話に長けた人物を求めた結果、「つい先日暑気にあてられて亡くなったばかりの」老婆に行き着いた。幸いにして彼女は未だ生前の意識を留めており、また邪な気も持たぬ為、恙無く会話を交わすことが出来たと言う訳だ。一頻り報告を終えた神無は手錠の痕を摩りながら、何事を沈思してか俯いた。 「日照りの原因はやっぱ判んないかあ。沼に何か別のモンが憑いてると思うんだけど……沼絡みの化生は多過ぎて判らん! そう言うのは雪深とか村崎が詳しいだろ?」 心当たりは無いかと訊かれ、目を瞬かせた雪深終とはっとした神無は互いに顔を見合わせてから、共に健の顔を見返した。 「いや特に」 「今のところは……」 「無いのかよっ!?」 人目も憚らず「畜生オォォ!」等と吼えて一寸荒れ気味の健を幾分か気に懸けたり、落ち合った場所が村外れであったことに小さく胸を撫で下ろした終だったが、ツリスガラから「そちらの首尾は」と訊ねられて気を取り直し、兎も角聞いたままの内容を語ることにした。 「庄屋の悪い話は取り敢えず聞かない」 少なくとも終が聞いた範囲では、庄屋一家と村の者達との間柄は良好で、互いに持ちつ持たれつ上手く付き合っているようだった。元々村の纏め役のような立場が嵩じて今の地位にある人物なので、当然と云えば当然か。 「只、無礼を承知で加えれば、煽てに弱く然程賢く無いとも」 「私の経験からすると」 ツリスガラが抑揚無く、けれどすかさず言の葉を挟んだ。 「確かに失礼ではあるが、そしてその話を参考にすれば、だが――例えば一芝居打って祟りのように見せかけ、魚拓を手放すよう説得することも不可能では無いような気がする」 説得と耳にして、其々思い思いに語り掛けるべき言葉を用意していた三人は、ふとおもてを上げる。 「その事だが」 先に口を開いたのは、終だった。 「先に確かめて良いか」 稚児が午睡に就いて一刻程の頃、旅人達は庄屋の邸宅へと訪れた。 良く晴れた空の下、地方の役人にしては随分と立派な漆喰の広大な屋敷は何処に綻びがある訳でも無いのに、神無の金の眼には今にも倒壊するように視えた。原因は、その中に留まる霊威に他ならぬ。 「……っ」 強大で危ういものの気配に、軽い眩暈を覚える。 「気は確かか」 無骨に気遣う終を片手で制して、神無は息を吐いた。 「私は大丈夫。でも、この家の人達は……」 「あまり時間が遺されて居ない、と云うことだろうか」 「だな」 無頓着に屋敷を見上げるツリスガラに、健が頷く。 「勿論構いませんとも。聞けばご立派な御家の出であるとか――」 魚拓の拝見を申し込んだ一行は、ふたつ返事で中へ通された。 この反応は、終が村で聞き込みをする際、地方豪農の放蕩息子を自称したことに端を発する。一応出身世界では真実そうなのだから詐称では無い。しかし、 「耳聡いな。だが、然程大仰では……」 「いえいえとんでも無い。ようこそ御出で下さいました」 「……ああ」 このことが徐々に大袈裟なものとなって村中に伝播し、終には田舎藩主の末息子と云う大層な肩書きの持ち主となって、庄屋の耳へ届いたのだった。軒を潜って四人が最初に視たのは、大名でも迎えた時のように伏した庄屋の姿だった。「大儀」とでも云って遣れば良いのか。 或いは西国に赴くならばと袖を通した、この上等な和装も原因なのか。帯刀しても居ないのに――終は思いの外大袈裟な事態に困惑したが、兎も角潜入出来たので、それについて考えるのは一先ず止すことにした。状況も手伝って『御つきの者』三名が本件について何も云わぬのが、少々居た堪れなくもあるが。 「本来ならば一家総出でお迎えするところなのですが、生憎出払っておりまして。今、茶の湯を支度させておりますので」 終の胸中などつゆしらず、実ににこやかな庄屋の眼は真っ黒に縁取られ、こけた頬も青白い肌も死人宛らの面相だ。良くこの身体で人並みに動き回れるものだと、感心を通り越して心配せずには居られなかった。 「ささ、此方に御座います」 良く手入れされた邸内の中でも一際立派な奥の襖が開かれた刹那、 「――!」 「……!」 「すげえ!」 目の前に広がる客間の向こう側で四人の旅人を迎えたのは、屏風に墨で押された、巨大な魚影。一見すれば大きさ以外に何の変哲も無いそれは、しかし乍ら今にも動き出しそうな躍動感を以って、終の、神無の、健の視線を釘付けにした。暴れて水飛沫さえ跳ねてきそうな程生々しく、生命を感じさせた。 「流石は判ってらっしゃる。相当の御目利きと窺っております」 「あ……いや。好事家趣味が嵩じただけだ」 見惚れていた終は、いちいち慇懃に振舞う庄屋に辛うじて応える。其処にも尾鰭が付いているのかと思うと少しばかり胸焼けを覚え乍ら。 「しかしこれ程見事な品を持ち乍ら、貴方は随分窶れて視える」 「病か心労でも抱えて居るのか」 話題を摩り替えた終をツリスガラが支援する。途端、庄屋は打って変わって世の終末を視たような情けない顔になった。 「は、実は……」 庄屋の話は概ね槐を通して齎された情報そのままだったが、只一点、本当は妻は出掛けているのではなく衰弱して伏せって居る旨のみ、現状認識として新たに付け加えられた。終いに庄屋は涙を流して苦しみを訴えた。その様はやや芝居がかっており、見目よりは壮健なのだろうかとも思わせる。 「……興味深いな。済まんが泊めて貰えないか」 「……は?」 『藩主の息子』の「おれもその夢を観たい」との申し出に、庄屋はぐしゃぐしゃな顔のまま眼を見開いた。 「歩くのも飽きたし、それに」 振り向く終の視線に後ろで控えていた神無が頷き、補う。 「きっとその魚拓が原因です……。このままではあなたたちの身が危ないので」 「は」 庄屋が拒む理由等、何処にも見当たらなかった。 「感情表現の豊かな人物だ」 恐悦至極だとか平伏するなりそそくさと退室した庄屋を見送って、ツリスガラは無感動に感想を述べた。羨ましい、と云うのでも無さそうだが。 「で、実際どんな感じなんだ?」 健が指差す魚拓を一瞥して、神無は重苦しく云った。 「これ自体に意思は無い……けれど、明らかに人の手には余るものだわ」 魚拓に宿るのは力のほんの一部であり、本体は別の場所、懼らくは沼から、この魚拓を通じて庄屋に語り掛けている――それが神無の見立てだ。穢れこそ無いが、妖の悲哀は陰の気となって霊性を孕み、ひとを蝕んで居る。 「それってつまり、沼に魚拓還しても意味無いってことか?」 「うん」 「…………!」 「魚拓は沼の主の持ち物じゃないから……って、どうしたの?」 「私の経験からすると、今はそっとしておくのが良いのでは」 何故か屈み込んだ健に小首を傾げる神無へ、ツリスガラが云い添えた。 「そう……?」 未だ気にはなる様子だったが、それはそれとして神無は結ぶ。 「でも……できることならすぐにでも外に出したほうが良いと思う」 「一夜で話が着けば、か」 終は夢の中で件の女性と交渉してみる気で居た。魚拓以上にその小町が直接の原因なのはほぼ間違い無く、ならばその願いを確実に聞き入れる為には直に話すのが手っ取り早い。下手を打てば如何なるかと一方で不安もあるが。 「ところで、皆は如何する」 「私は夕方になったら、もう一度沼を見て来ようと思う」 「私も……少し気になることがあるから」 ツリスガラと神無は既に決めてあったようで、即座に返答した。 「……健は?」 健は、結局ツリスガラや神無に付いて行くことにした。元より夜間は沼の様子を窺う気であったし、それに仮令己の見立てが外れて居ようとも、干上がって居ようとも、やはり沼は清めねばならぬと判じてのことである。相変わらず何やら重たげなザックを背に下げて、ふたりの仲間を先導するように前を往く。 「少しはいいとこ見せなきゃな。お前もそう思うだろ? ポッポ」 この旅に出て以来パスホルダーに引っ込んでいたオウルセクタンは、今、健の肩でほう、と啼いた。それが応えか、傾く日に応じてのものかは判然としない。 「そんなに先行したら危ないわ」 「もう少しゆっくり歩いた方が良いように思う」 「大丈夫だって! こう見えて俺、結構鍛えてあるんだぜ?」 後方より制する聲を片手を上げて受け流し乍ら、健は尚も無用心に突き進んだ。 「もう夕方なのに……」 「――しっ」 困ったように溜息を吐く神無を、不意にツリスガラが喚び留める。 「え……?」 「…………何か聴こえないか」 前を視れば健も立ち止まって辺りをきょろきょろと見回していた。 創め、阿阿と何処迄も伸びていたそれは、やがて意味を持つ言葉と成って。 朗々として気は震え、けれど染み渡る聲に、杭でも打つ如く鳴る太絃の調べ。 「唄……民謡?」 「沼の方からのようだ」 「行こう!」 二度目と云うのもあってか、躊躇無く先を急ぐツリスガラと健の背を、そしてふたりの向かう先に立ち込める忌まわしい気を感じ取り、神無も後を追った。 果たして辿り着いた、罅割れた沼底には。 境界の胡乱な二本足の先を水飴の如く伸ばして縦横無尽にうねる、憎憎しげに歪めた醜悪な面のひとに似た何かが何体も何体も、透けた身を宙に魚のように漂って居た。それらの中心に、丈の短い着物を着た幼子が、三味を携え唄に興じて居る。懼らく霊と喚ぶべき取り巻きどもは、如何やらその娘に近寄ろうとも近寄れず歯痒きに尚猛り、苦悶とも無念ともつかぬ呻きで自らを慰めて居た。 「悪霊って奴か?」 「駄目……!」 身を隠すどころか鷹揚に踏み出す健を、神無が慌てて制止したが、無駄だった。霊達は手頃な獲物でも見付けた獣のように旅人達へと向き直り、すぐさまぐねぐねと長い尾を引いて一斉に、文字通りに飛び掛って来る。 童女は特に愕くでも無く、突然現れた旅人達の様子を窺って、じっとしていた。 「おわっ!?」 「破っ!」 健が身をかわしたところにひょろりと抜けた一体の霊に対し、傍に居た神無が回し蹴りを見舞う。爪先の突き抜けた頭部からじわりと邪気が染みが落ちたように抜け、程無くそれが全身に回ると、霊はじっと動かなくなった。 「今の、どうやったんだ?」 「穢れを浄化しただけ」 「次、来るぞ」 ツリスガラは慌てず、けれど懼らくははっきりと伝える為に幾分張りの有る聲で仲間達に警告する。三体の悪霊が目前に迫って居た。神無は即座に踏み込んで手近な一体に踵を落とす。地に叩き伏せられた霊は禍々しい瘴気と共に色を失いつつある。 「霊達は私に任せて、ふたりはあの子を……!」 「判った。行こう坂上さん」 「お、おお!」 迂回するツリスガラと健の方へ追い縋ろうとした二体の霊の前に、神無が立ちはだかる。手錠を掛けたままの両手をだらりと下げ乍ら、油断と隙は無い。 「あなたたちを、苦しみから解放させたい……」 忌々しげに啼いて襲い掛かるものに自ら跳び蹴りを穿ち、 「けど――」 続いて背面より迫る霊の気配を認め、振り向き様に浴びせ蹴りで払い、祓う。何れの霊も最早呪詛さえ口に出来ぬのか、意味を為さぬ耳障りな悲鳴を最期に、動くことを止した。 「――罪を犯した今の私に、そんな資格はないのかもしれない」 御免なさい――他者を苦しめる者の苦しみをこそ深く識る娘は、昼間老婆にした謝罪を繰り返して後、未だ漂う怨霊の元へと走り出した。手錠の鎖が、そんな神無を嘲るようにちゃらちゃらと、何処までも着いていった。 既に夜の帳が下りて居て、沼底は藍色に染まっていた。 「あなたたちは……?」 唄も手も止め、童女――菊絵は小首を傾げた。不揃いな前髪に覆われて、その瞳の色を窺うことは出来ず、只、きめ細やかな肌は極端に青白く、あの庄屋の方が余程健やかなように思える。 異世界のことを除けば取り立てて隠すことも無いとばかり経緯を淡々と告げるサキソフォン吹きに、菊絵は「そう」と此方も無感動に応えた。 「ぬまのヌシは、あそこ」 菊絵が撥(ばち)でさした先には、巨大な鯉の骨が横たわる様が、月明かりに照らされて居る。そう云えば、他にも骨らしきもの――尤も此方は人のものだが――が其処彼処に点々として居る。 「いまはでていってて、いないけど」 「それは、庄屋宅に?」 「たぶん」 饒舌に瞽女唄を唄う時とは打って変わってやや舌足らずな言の葉を繰る者は、やがて遠くで大立ち回りを演じている神無の方を向く。 「あのひと」 「ああ。除霊、と云うのか。兎に角穢れを祓って居るらしい」 「すごい。あとはぬまをきれいにして霊を――」 「お、それそれ! なあ。沼を綺麗にって具体的に何すればいいんだ?」 「うん……あ」 身を乗り出す健に頷いた菊絵は、しかし直後、微かに脇へ顔を向けた。もしその眼が開かれて居るならば、視線の先は――健の背後。 「逃げて――!」 神無の悲鳴に似た警告は祓い損ねた怨霊の到来を示す。一拍遅れで身を翻した健の身体を、それは厭らしく哂い乍ら貫通した。 ※ 苦しい。巫山戯るな。(!?)上がらなくては。怨めしい。簀巻きにされて身動きが取れない。苦しい。(ちょっと待て!)ご丁寧に石迄。死骸は還した。苦しい。憎たらしい。拙者が何をした。(やめろ!)死にたく無い。息が。苦しい。御上の意向に沿っただけ。苦しい。憎しい。あれは只の鯉。(やめ……)苦しい。これで。何故。苦しい。未だ――(苦しい……!) ※ 苦しい――それが、終が床に就いて先ず感じたことだった。未だ横になったばかりだ。眼は開くし、身体は重いが動けぬ程では無い。息も――如何やら出来ぬことは無い。 (ならば凍りはしないか) だが、夢も現も胡乱な暗い寝室は沼底の如く薄く澱み、泡の立つ音が時折聞こえて来る。鎮火したばかりで煙る燭台の傍を、鯰の姿が掠めた。そして枕元には、 『もし』 化粧気も無い村娘といった出で立ちの女が、長い睫毛を伏せて佇んで居る。 『もし、そなた』 終は喚ばれるまま身を起こした。やはり真綿を押すような抵抗を覚え乍ら。 「貴女が沼の主か」 思わぬ一言だったのか、女は円らで澄んだ瞳を見開いた。 『そなた、妾を識る者かえ。……はて面妖な。ひとでは……無い、か?』 「生粋の妖に云われれば立つ瀬が無い」 『小僧が抜かしおる。して、何用じゃ』 控えめに膨らむ唇が微かにくっと笑みを作るも、眉はハの字を描いたままだ。 「沼が騒々しいと耳にして」 『おお、しびとが夜毎騒いで困り果てておる』 「……やはり罪人絡みか」 『咎と無念に苛まぬなら何れ還りもしようものをな』 「出来る事なら対処する」 『……まことかえ』 終の提案に、喜色がその面を殊の外美しく彩る。 「ああ。それで礼代わりに其方の姿を写した魚拓は譲り受けたいのだが」 『好きにせい、あんな忌々しいもの。思い出すだけで不愉快じゃ』 かと思えば幼子のように拗ねてそっぽを向く。不思議な女だ、或いは妖とはそんなものか――ぼんやりそう思う終の目の前を、小さな鯉が邪魔するようにひょろりと通り過ぎた。 「……礼を云う。それで如何すれば良い」 鯉が去る迄に気を静めたのか、女は口元を改めて滑らかに云った。 『単純よ。貴奴等を鎮め、されこうべを退いて、後は送れば良い』 「自力では難しいのか」 『動けぬ事情が有る。それ以上語ることは罷りならぬ』 「判った、それはいい。後、旱魃の原因も訊いて置きたいが」 『それは……――』 「なにかおおきなもののちいさなかけらが、ぬまのどこかにあるの」 あまり聴き慣れない、けれどつい最近聴いたばかりの可愛らしい聲。 「それが沼を乾上がらせていると」 「そんな……」 続いて仲間の女性ふたりの聲。 ――俺は……どうしたんだっけ。確か水に沈められ 「ておわぁ!」 健は霊が突き抜ける不快感と、直後に視た誰かの溺死の様子――その追体験を一度に思い出し、堪らず飛び起きた。 「あ」 「起きたか」 「良かった……」 ツリスガラと神無、菊絵迄が、健を囲んで覗き込んでいる。 「大丈夫か」 「……死ぬかと思った」 取り敢えず健は、息が出来ることが素直に嬉しかった。しかし、次の瞬間には悪霊の存在を思い出し、息を乱し乍ら周囲を見回す。おぞましい騒めきは最早無く、代わりに気の早い夏虫の啼き聲が響いていた。 「霊なら村崎さんが総て祓ったようだ」 「……そっか」 「未だ居ることは居るようだが」 「っ!?」 ツリスガラは、やはり健の背後を視ながら事実のみ告げた。 「でも、祓ったから……」 神無と菊絵は目配せし合う。霊に係わる者同士、通ずるものがあるのだろうか。 「もうこわくないよ。あとは――」 「――送るだけだ」 「は、はあ」 終と庄屋は、昨日の昼間と同じ魚拓の間で、今再び向き合って居る。 庄屋がいつもと違う夢を視たと騒ぎ出して起こされたのは、未だ空が白み始めた時分。終は、先ずトラベラーズノートで仲間と連絡を取り合った。そして、これまでの情報を踏まえた上で、総ての解決を図るべく動き出したのである。 「魚拓は矢張り然るに処すべきでは」 「しかし……」 「夢の女もそう云ったのだろう」 ばちっと家鳴りがした。終の凍気が為した温度差に因るものだ。既に怯えていた庄屋は案の定震え上がった。 庄屋が昨晩観た夢。それは――いつもはさめざめと涙して居た女が、あろうことか観るも恐るべき憤怒の相で只管魚拓の放棄を促すと云う――庄屋にしてみれば大層肝の冷える内容だったらしい。それはやはり夢中にて終が女に仕向けたことではあったのだが、改めて聞けば少し可笑しくなった。 「昨夜沼に往った者達の報告も有る。仮令鯉の祟りが沈静しても、罪人の怨念がいつ具象しても不思議は無いと」 「は、それは如何いった――」 「つまり貴方は夢の女性、いや沼主に頼まれた事をお果たしになっていないと言うことです!」 突然襖が開いたかと思えば、健が仁王立ちで高らかに云い放った。当然、神無とツリスガラも付いて来ている。共に眼を瞬かせて居るのは健の振る舞いに面食らった為かも識れない。菊絵と云う童女は、流石に同道しては居ないようだ。 「実は、我々は亡き沼主の声を聴いて参上しました。沼に悪霊が宿ったようです。その魚拓にも!」 「……私達が沼と魚拓の穢れを祓いましょう」 藩主の息子御一行改め、謎の除霊師集団は、庄屋に考える間を与えず次々と言葉を浴びせていった。少々残酷な程に。 「さっき伝えた通り沼の方は後は送るだけだ。だが魚拓は……時間が要る」 「しかし、この魚拓は……」 「頑なだな。私の経験からすると、このままでは村中に祟りが広がるだろう。……いや、もう遅いのかも識れない。既に旱魃が起き始めて居るのだから」 「そ、そそっそんな」 「でも……私達なら間に合いますよ」 「……如何する。一家も村も祟られて良いなら止めないが」 庄屋には断る理由も気概も、最早何処にも見当たらなかった。 そして、未だ涼しい早朝。 旅人達は、乾いた沼底に無造作に転がる、或いは半ば埋まる人骨を、拾い集めて居た。亡骸の直ぐ傍に留まる霊達も、菊絵が唄い出すとそちらに集う。やがて総ての骨が片付く頃には、その姿は殆ど肉眼で視えぬ程薄まり、終には――何処にも居なくなった。 尚も朗々と唄う菊絵に思うところあってか、ツリスガラはサキソフォンで調子を合わせた。彼女はその経験から鎮魂歌なのかとも考えはしたが、馴染みの無い旋律と耳慣れぬ言葉の羅列から窺い知るには至らず――しかし、やはり経験から云えば、それで良いのだろうと思った。 残りの三人は骨を埋葬し、健が支度していた線香を添えて、手を合わせ黙祷した。 その最中のことである。 ふと、ある気配を感じた神無が、そっと終に報せたのだ。 終が其方を向けば――其処に、彼女が立って居た。朝の白い光に溶け込んで柔らかな笑みを浮かべる彼女は、まさしく夢小町と喚ぶに相応しい美を備えて居て。 「いくのか」 ぽつり、呟くように語り掛けた終に彼女は頷き、それから自らの抜け殻となった巨大な魚骨を指差して。すうっと静かに消えていった。 いつしかふたりの奏者も手を止めて、彼女を見送って居た。 沼の主の遺骸の口の中には、菊絵が云っていたものであろう、何か透き通った欠片が、まるで人目を憚って隠されるように転がって居た。 「干ばつの原因て、これ?」 「それは……」 摘み上げて日光に透かし乍ら首を傾げる健の手元を、神無が鋭い眼で射抜く。 「何かヤバいモン?」 「多分……たったこれだけなのに、物凄く強い力を感じる」 屈んだまま神無を見上げる健に、神無は云い難そうに告げた。 「じゃ、どうする?」 「私の経験からすると、それは魚拓と共に槐さんに届けた方が良いように思う」 「……同感だ」 ツリスガラの口添えに、終も頷いた。あの胡散臭い骨董品屋ならば、何か心当りが有るやも識れぬ。または世界司書に何某か導きを齎すものか――。 「…………」 そんな旅人達の様子を、幼い瞽女はじっと、窺って居た。
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