どぉぉぉぉんっ! ターミナルが揺れ、軋むような音は商店街や画廊街にも響いていた。轟音が人々の心を不安に染め上げる。 今までこんなことなどなかった。だから、どうしていいいのかわからないといった様子の者が多い。「いったい何が……」 爆音続く空を見上げた夢幻の宮へ、ノートの着信に気づかない人への伝令役を負ったのであろうロストナンバーが走り寄ってきた。「えっ……世界樹旅団からの攻撃でございますか!?」 それはにわかに信じがたい内容で、けれどもこの現状を鑑みれば信じざるを得ない情報だった。伝令役のロストナンバーは他にも伝えるべく、走り去っていく。 その間にも商店街の建物は揺れて、ぱらぱらと崩れかけている場所もあった。夢幻の宮は錫杖を握りしめて息を吸い込んだ。「皆様、取り急ぎ夢現鏡と隣接店舗から地下倉庫へ御避難くださいませ! わたくしが結界を張り、危険を食い止めましょう!」 その声に我に返った人々が、ある者は悲鳴を上げ、ある者は悲鳴すら出て来ぬ状態で店舗へと駆け込んでいく。 夢現鏡は香りを扱う店であるからして、わざと飲食店とは離れた立地を選んであった。画廊街に近い商店街の隅であり、その地下には他の店舗と共有している倉庫があるのである。 ひとまず騒ぎがおさまるまで、そこに避難しておくのが良いだろう。幸いにも最近倉庫整理を行ったおかげでスペースは十分に空いていた。かつ店舗ごとの荷物が混ざらないように壁で幾つかに仕切られているので、プライベートスペースの確保もしやすい。「あ……」 駆け込んでくる人々の中には足から血を流し引きずっている者、額から血を流してふらついている者、お気に入りの洋服が破れたと大泣きしながら手を引かれている者もいた。 大きな音と揺れは、二次的な被害も生んでいた。驚いて転んだり、倒れてきた食器棚の硝子の破片や落下物で怪我をした者も少なくない。手当が必要だ。 だが、夢幻の宮一人では手が回らない。どうしましょう、そう考えている間にも轟音と衝撃は続く。「夢幻の宮さん」「! リリイ様!」 その時救いの主のように現れたのは、仕立屋のリリイ・ハムレットその人だった。近くに店を構える彼女は、皆がここに避難していくのを知ったのだろう。彼女は白い木綿の布を二巻き程抱えて、足元にオセロを従えて小走りに近づいてきた。「怪我人は任せて頂戴。包帯を作るために清潔な布を持ってきたわ」「おねがい致しまする。わたくしは地上で結界の維持に努めますゆえ……」「ええ。私は地下で怪我人の手当と、避難者達の心のケアをするわね。地下の部屋、一部屋怪我人専用にさせてもらうわ」 リリイは頷いて、地下へと赴くべく店舗の扉をくぐっていった。「けれどもリリイ様とわたくしだけでは手が足りませぬ……どなたか……!」 明らかに手が足りない。大規模な結界を維持するのも避難者を安心させるのも、夢幻の宮とリリイだけでは全てに手が回らない。 誰か、来てくれる者はいないものか――夢幻の宮がトラベラーズノートを開いたその時。そこには新着メールが届いていた。 送信者はルティ・シディ。大切な物を旅団員に略奪されぬように告解室まで運んで欲しいという内容。 確かに旅団員が略奪に走らないという保証はなく、中には奪われて困るものがあるのも事実。「皆様! どうしても破壊や略奪が心配なものがおありでしたら、告解室へと運びます。運び手のロストナンバーに預けますのでわたくしの元へ持ってきてくださいませ!!」 再び夢幻の宮は叫んだ。人々の、大切な物を守りたいという思いを乗せて。 ある程度、普段店舗に並べているものはしかたがないだろうが、二度と手に入らぬもの、どうしても壊されたくない思い出の物などもあるはずだ。それらの守りを、告解室に託すべく、夢幻の宮は一つ一つ大切に預かった。 *-*-* 程なくして駆けつけてくれたロストナンバー達は、この場を手伝うために来てくれたのだという。夢幻の宮は内心ほっと胸をなでおろした後再び気を引き締め、彼らに向き直った。「地下には避難者の方々が怯えておられます。傷を負っている方々は今リリイ様が包帯を作ってくださって、何とか応急処置を行なってくださっているはずですが、勿論人手が足りません。他の避難者のケアまで手が回っていない状態です。まだまだ避難者は増えるはずです。ですから地下で手当や避難者のケアにあたっていただきたいのがひとつ」 夢幻の宮は声のトーンを落として続ける。「地上では私が結界を張ります。けれども広範囲のため、特殊なアロマディフューザーを五芒星を描くように五カ所に設置しなければなりません。それを手伝っていただきたいのと……」 彼女は言葉を区切って。少し迷うようにして。「……混乱を招きたくないので避難者の方々には伏せてくださいませね。広範囲の結界は術者の精神力を削ってゆきますゆえ……そのままではわたくしの気力が長時間は持ちませぬ。ですから、結界を長持ちさせるための協力をお願いしたいのでございます」 五カ所に設置するアロマディフューザーからは結界起動の香りをくゆらせる。結界を長持ちさせるためにはそこにアロマオイルを継ぎ足して、強い香りを重ねていく必要があるのだ。「今回の場合、ただ香りを継ぎ足せばいいというわけではありませぬ。皆様や避難者の好きな香りに守りたいという思いを乗せて継ぎ足せば、結界の力となるでしょう」 つまり自分の好きな香りや、避難者から聴き出した好きな香りを五カ所に置いたアロマディフューザーに継ぎ足していけば、夢幻の宮の負担が軽くなるというわけだ。それがこの避難所の安全維持にもつながる。「この結界は『敵意を持つもの』と『危険なもの』を弾くように編み上げまする。ですから、皆様は避難者のケアや結界の維持に集中してくださいませ」 たとえ戦いが得意でなくともできることはたくさんある。 今が動く時だ。======!注意!イベントシナリオ群『進撃のナラゴニア』について、以下のように参加のルールを定めさせていただきます。(0)パーソナルイベント『虹の妖精郷へ潜入せよ:第2ターン』および企画シナリオ『ナレンシフ強奪計画ファイナル~温泉ゼリーの下見仕立て観光風味~』にご参加の方は、参加できません。(1)抽選エントリーは、1キャラクターにつき、すべての通常シナリオ・パーティシナリオの中からいずれか1つのみ、エントリーできます。(2)通常シナリオへの参加は1キャラクターにつき1本のみで、通常シナリオに参加する方は、パーティシナリオには参加できません。(3)パーティシナリオには複数本参加していただいて構いません(抽選エントリーできるのは1つだけです。抽選後の空席は自由に参加できます。通常シナリオに参加した人は参加できません)。※誤ってご参加された場合、参加が取り消されることがあります。======
0世界はにわかに騒がしくなっていた。今までにない喧騒がすべてを覆い、恐怖感を煽る音が各所で響いていてる。 人々は恐れ、惑い、混乱し、不安を抱いていた。 ここ、香房【夢現鏡】を中心とした商店街の一部には、近隣から住民が次々と避難してきていた。いずれも不安そうな顔をしている。それも当然だろう、今までこのように0世界が外からの襲撃を受けたことはないのだから。 「夢幻の宮さん!」 「皆様っ……!」 避難誘導にあたっている夢幻の宮の元に、駆けつけてきたのは5名のロストナンバー達。いずれも手伝いがしたいと申し出てくれた。 「ありがとうございまする。それでは……」 夢幻の宮は簡潔に現在の状況と、やってもらいたいことの手順を説明していく。 「近隣の店舗にあるものは使わせてもらっていいんだよね?」 ポニーテールを揺らして問うた南河 昴に夢幻の宮は頷いてみせる。 「急いでいこう!」 不思議とこういう時に肝が座っているのは女性の方だったりして、昴はノラ・グース、岩髭 正志、福増 在利に声をかける。ニワトコは地上で、結界に欠かせないアロマディフューザーの設置を行うと告げた。 0世界中で人々が慌ただしく行き来しており、戦闘音も聞こえてくる。恐れるな、という方が無茶なのかもしれない。 「……」 在利は震える自分の身体を抱きしめながら、ゆっくりと移動を開始した。早く行かなくてはいう思いはあれども、身体が恐怖に襲われて上手く動いてくれないのだ。 (か、身体の震えが、止まらないよぉ。やっぱ、やっぱり戦争とか、怖いよ……。移動だけでも、死んじゃうかもしれないなんて……) ワームが0世界の空を蹂躙しているという。遠くに見える要塞群は砲撃の準備をしているだろう。移動中にそれらに出くわしたら、確かに怪我をせずには――怪我だけでは済まないかもしれない。 とん、とん、とん、とん……ゆっくりではあるが規則正しい音を立てて在利は階段を降りて地下を目指す。薄ぼんやりとした明かりがだんだん大きくなり、階段をおりきった時にはそこに集った人々の不安を凝らせたような淀んだ空気が満ちていた。 (……でも) 壁にもたれてぐったりとしているおじさん、傷を負って泣いている少女、この世の終わりのような暗い顔をしているおばあさん――沢山の人が避難してきていて、そして一様に怯え、疲れた顔をしている。リリイが手当のための包帯をものすごいスピードで切り出している。それを見た時、在利の心の中に芽生えた思い。 (……僕にしかやれないこともある。頑張らないと……!) 戦争は怖い、戦うのは苦手だ――けれどもここにはここの戦い方が、在利には在利の戦い方があるではないか。できることは山ほどあるではないか。 「深い傷や骨折等を負っている方はこちらに来て下さい! 数はあまりないですが薬があります!」 普段はおとなしい在利だが、思い切ってたくさん息を吸って、そして地下中に響き渡るような大声を出した。 背筋を伸ばして目印にと手を上げて、言葉を繰り返す在利の姿は医療従事者そのものだった。 「これを包帯代わりに使ってちょうだい」 その姿を頼もしく思ったリリイが、今裁断を終えたばかりの白い布達を差し出す。持ち込んだ添え木を止めるのに役立ちそうだ。 怖いという気持ちが完全になくなったわけではない。けれども今やらなければいけないのは怖がることではない。それに気がついた在利の顔は、真剣で頼もしいものになっていた。 *-*-* 旅団が襲撃してきたと聞いて驚いたのは、0世界の住人だけでなく世界図書館のロストナンバー達もだ。驚きつつも自分にできることを探してここまで来た正志は、近隣の店舗でロウソクやランプ、懐中電灯などありったけの明かりをかき集めて地下へと向かう。 「大丈夫ですよ。そのハンカチでしっかり傷を押さえていてください。下に降りたら手当しますから」 途中、ガラスで足を切ったというおじいさんに肩を貸しながら階段を降りた。 (本当は……) 本当は正志自身もかなり不安でびくびくしている。けれどもそれを見せてしまっては、他の人を徒に不安にさせるだけだということはわかっていた。だから正志は必死でそれを隠す。そして不安そうなおじいさんに優しく笑いかけた。 「ああ……ありがとさんよう」 すると不思議で、それまで不安一色だったおじいさんの顔に安堵の色が浮かんだのだ。それを見た正志の心にも、少しばかり安心が広がる。 「在利さん、この方の傷も見ていただけますか?」 「はい。ゆっくりでいいですから、こちらに座ってくださいね」 傷に響かないよう時間をかけて階段を降りて、おじいさんを在利に預ける。そして正志はまず、地下をぐるりと見回した。 (予想していた以上に暗いですね) 広い地下に明かりは数個しかなく、治療を行なっているリリイや在利の元に優先して置かれているため、集まった避難者達の元には明かりが行き渡っていない部分が多い。漏れくる細い明かりだけで過ごすのがどれほど心細いか。暗闇がどれほど心細いか、不安を煽るのか、正志は知っている。だから、設置型の灯りを暗い所中心に置き、明かりを灯す。そして不安に怯えるだけで、何をすることも出来ない避難者達にはロウソクを一本ずつ配っていった。 「これをどうするの、お兄さん」 「皆さんに行き渡りましたか? こうするのですよ」 おばさんに問われた正志はやわらかな表情でおばさんのろうそくに火をつける。するとぽうっと温かい炎が、おばさんの顔を照らしだした。 「隣の人に、順に炎を渡していってください。顔見知りの人も、初めて会った人も、ここでは区別はありません。隣の人、側の人、ここに集った人達で助けあいましょう」 正志の提案にわぁ、と小さな歓声が上がる。小さな子供には危ないので、子供は親の持ったロウソクに点った炎を眺めて。徐々に広がっていくロウソクの明かり。クリスマスのキャンドルサービスにも似たそれは人々の心を落ち着かせ、地下内の明るさを増す結果となった。 何もやることがないと気が滅入るだけだ。こうして小さな事でもやることができただけで、気が紛れるというもの。 正志は弱々しいが人々につかの間の笑みが戻ったのを見て、安心して胸をなでおろした。 *-*-* 地上では、結界の設置が急務とされていた。地上に残ったニワトコは辺りの混乱を見渡して、心配そうに呟く。 「なんだか……たいへんなことになっちゃったね」 「そうで、ございますね……」 自ら守りを固めるという任を負った夢幻の宮は少しばかり緊張しているのか、錫杖を持つ手にいつも以上に力が入っていた。 「夢幻の宮さん、ぼくもお手伝いするから、がんばろうね」 その手にそっと触れるニワトコの白い手。それは暖かくて、優しくて。こわばった手をほぐしてくれて。 「……はい」 錫杖を握る手を優しく包まれて、夢幻の宮は安心したように微笑んだ。 「それでは、残り4箇所にこのアロマディフューザーを設置してくださいませ」 ニワトコが夢幻の宮から渡されたのは、壱番世界で言うところの和風の加工がされたアロマディフューザー。聞く所によれば、容量も香りの拡散も普通の品より多いのだという。使い方を教わり、結界発動用のアロマオイルを預かって、ニワトコは走る。 普段はのんびりしているのだが、今回ばかりはそうはいかない。少しでも急がなければという思いが、靴を履かぬ足を急がせる。 「ここがよっつ目……」 記してもらった地図通りにアロマディフューザーを置き、オイルを入れて作動させる。最初のひとつは夢幻の宮がいる地点にあるから、ニワトコが置くのはあとひとつだ。 「あれ……?」 と、泣き声が聞こえた。子供だろうか。泣き声に釣られるようにして積荷の置かれている倉庫を覗けば、男の子が泣いているではないか。 「どうしたの? お母さんとはぐれちゃった?」 声をかけると一瞬びくっと身体をこわばらせた少年だったが、ニワトコの優しい表情を見て警戒を解いたようだ。 「かくれんぼしてたら、怖い音がいっぱい聞こえて……誰も見つけに来てくれないから……」 「ん、わかった……多分お母さんが探しているよ。みんな避難しているから一緒に行こう?」 幸い5箇所目の設置箇所は香房までの道筋にある。きっと避難所にいけばこの子の母親も見つかるだろう。ニワトコは少年と手をつないで歩き出す。 「夢幻の宮さん!」 一人で走るより時間はかかってしまったが、何とかディフューザーを全部設置し終えてニワトコと少年は香房の前へ戻ってきていた。その姿を見て夢幻の宮は安心したように息をつく。 「ご苦労様でございました。それでは結界を張ります」 シャラン……シャラン……夢幻の宮が錫杖を振るごとに清涼な音色があたりに広がる。5箇所に設置されたディフューザーからは結界の礎となる香りが発せられているはずだ。 「――、――……――」 ニワトコの耳に馴染みのない言葉で祝詞が唱えられる。彼女の故郷で使われた古い言葉なのだろうか。 音は、しなかった。 目に映る風景も、変わらなかった。 ただ静かに、香りと魔力で結界は編みあげられていく。 「結界の設置は完了いたしました」 そういった彼女だが、安心した表情は浮かべてはいない。襲撃はどれだけ続くかわからない。結界をいつまで維持すればいいのかという目標さえないのだ。 「あとは……皆様のお気持ちの強さが頼りでございます」 背筋を伸ばしたまま錫杖持ち、常に念じるようにしている夢幻の宮。少しでも彼女が楽になるように、ニワトコはポケットから小さな瓶を取り出した。それは、以前彼女がニワトコのために調香したおひさまの香りのオイル。 (夢幻の宮さんが選んでくれた、おひさまの香り……夢幻の宮さんもほっとしてくれたらいいな) ぽた、ぽた……彼女の側のディフューザーに継ぎ足せば、ふわり広がる晴れの日の匂い。一瞬、彼女が目を見開いて口元をほころばせたように見えた。 ニワトコが想うのはターミナルでの日々。皆の笑顔。無くなってしまうのはとても悲しいから。 (だから、また皆の笑顔が戻りますように、守れますように……) 強く、想いを込めて。 *-*-* (はうぅー、いろんなトコが大荒れなのですー) 地下に降りたものの、ノラは心配事があっておろおろしていた。それは彼が慕うリーダーの安否がわからないからだ。治療や環境整備にあたっている仲間達の邪魔をしないようにしながら地下を探すも、それらしき姿はない。 (リーダーはご無事なのでしょうか、どこに避難してるんでしょうか) もう一度ぐるり、見回してみたが見つからず……。 (ノラは心配なのです、ここにいらっしゃるのかと思ったのですが……いないのです) しょぼん。いつもピンと立っている耳がくてっとたれた。 「リーダーはこちらに避難されていないようなのです、メールは届くでしょうか」 トラベラーズノートのメール機能は生きているようだが、この混乱だ。相手がすぐにメールに気づいてくれるとは限らない。けれどもいつか気がついたら返信をくれるだろう、自分を納得させて一筆したためたノラは気持ちを切り替える。 「リリイさん、ノラにもできるお手伝いを教えてほしいのです」 「手伝ってくれるのね。じゃあ、これを子供達に配ってくれるかしら?」 いつの間に用意したのだろう――ここで作り上げたのか、作ってあったものを持ってきたのか。リリイの手の速さはいつも謎だ――布で作って中に綿や穀物を入れた小さな人形やぬいぐるみ。不安に敏感な子供達。状況をうまく理解できない子供達。おもちゃの一つでもあれば気を紛らわせることができるだろう。 「わかりましたです!」 ノラはとたたたっと小走りで、まずは泣いてぐずっている子供を困ったように抱いているお母さんの元へ向かった。その時。 「ぎゃーぎゃーうるせえんだよ! 早く泣き止ませろ! 出来ないなら出てけ!」 男の野太い大声が響いて、ノラはびくっと身体を振るわせて足を止めた。その大声で更に子供は泣き出し、それまで何とか泣かないでいた子供達も伝染したかのように泣き出す。 「ぴーぴーうるせえなぁっ!!」 「まあまあ、不安なのは皆いっ……!?」 ガツッ! 男をなだめようとしたおじさんが、問答無用で殴られた。人々は怯えと非難の瞳を向けるも二の舞になりたくないのだろう、男に突っかかっていく者はいない。 ヒステリーを起こしているのだろう。誰でもこうなる可能性はある。けれども皆我慢しているのだ、お互い様なのだ。 「だめ……」 「待ってください」 ノラが勇気を振り絞って男の声をかけようとしたその時、背後からぽんと肩を叩かれた。振り返れば外には在利がトラベルギアを構えている。 シュンッ! 在利のギアから何かが噴射された。それは男のうなじあたりに刺さるようにして吸収されていく。 どたんっ! 「きゃぁっ!?」 男が突然倒れたものだから、悲鳴が上がった。在利は進み出て、男の様子を見る。 「大丈夫です、麻酔薬を打っただけですから。申し訳ないですけど、これ以上他の方へ迷惑をかけさせるわけにはいきませんので」 「ありがとうございます」 最初に怒鳴られた母親が、ホッとした表情で礼を言う。いいんですよ、と優しく在利は答えて。 「おじさん、あちらで手当をしましょう。ノラさん、後は頼みますね」 「任せてくださいです!」 治療スペースへ向かう在利を見送って、ノラはまだ泣いている子供達の頭を順番に撫でていく。 「だいじょぶなのです、ノラや皆さんが側にいるのです」 ぽむぽむと柔らかい肉球で撫でられ、子供達は不思議なのかきょとんとした後「ねこさん、ねこさんー」と笑顔になった。 「お人形とぬいぐるみ、どっちがいいですー? 男の子なら、この車の形がいいです?」 リリイの作ったおもちゃの入ったバスケットを見せると、わぁぁぁっと子供達が寄ってくる。 「一人一つですー。他ので遊びたかったら、きちんと貸してっていうのですー」 なんだかお兄さんになった気分で、ノラはおもちゃを配っていく。児童も、幼児も、赤ちゃんも、みんな嬉しそうにおもちゃを手にして。 こういう時もやっぱり子供には、日常に近い状態が必要なのだ、とノラはノラなりに思ったのだった。 *-*-* (お姉ちゃんやみんなが帰ってくる場所を護りたいんだ) 戦場へ向かう姉を見送った時のことを思い出し、昴は気合を入れる。昴は昴なりにを、みんなを守るのだ。 昴は店舗と地下を何往復もして、セクタンのアルビレオが心配そうに見守る中、物品を運び込んだ。運び込んだのは簡易ガスコンロや鍋、ヤカンや食材。お腹が減っては不安も大きくなり、イライラも募るだけ。 「私にも手伝わせてちょうだい」 傷の手当を在利と正志に任せたリリイが炊き出しスペース作りを手伝ってくれたおかげで、思ったより早く準備にとりかかることができた。なるべく暖かいものを振舞いたい。温かいものは身体だけでなく、心も温めてくれるから。 湯を沸かし、具材を入れ、味付けをして煮込む。簡単だがあたたまる、具だくさんのスープを作っているのだ。ちょっとだけすくって、ふーふーと冷ましてから味見。 「ん、美味しい」 我ながらよくできたと思う。隣でリリイが私にも味見をさせてと器を差し出してきたのでそっとよそってリリイの様子をうかがう。 「……美味しいわ」 「本当!?」 にっこり、彼女が微笑んでくれたから、昴は安心してスープを器によそっていった。すでに調理段階からいい匂いがしていたので、人々の視線がこちらを向いているのがわかった。ちょっと緊張するけれど、零さないように、零さないように……。 同じ種類の器をたくさん用意することは出来なかったのでそれぞれ形も大きさもまちまちだけど、誰も文句は言わなかった。 「ありがとうな!」 「お腹すいてたの!」 皆、笑顔で器を受け取っていく。すると不思議、昴の心も温かみを増して行った。 スープを配り終わって地下を一望してみると、目についたのは小さな子供をつれたお母さんやお父さん達。子供に食べさせた後は子供に相手をせがまれて、自分の食事も満足に取れないようなのだ。 (親って大変なんだ) そこで昴は子供達を呼び集めて、持参した壱番世界の童話の本を取り出した。 「今からご本を読むからね」 そう告げれば子供達は喜んで昴の前に並んで座った。 「昔々ある所に、それはそれは綺麗なお姫様が――」 語って聞かせながらちらり視線を上げると、落ち着いて食事を取れるようになった親たちと目が合った。親たちは笑顔で頭を下げて、スープに口をつける。 (よかった) 昴は安心して、本へと視線を戻した。子供達の瞳は、本に釘付けだった。 *-*-* 治療スペースでは在利と正志が活躍していた。幸い包帯やガーゼはリリイが作っておいてくれたから、不足することはなかった。 「擦り傷でもばい菌が入れば大変なことになってしまいますからね」 持参した応急キットで正志は軽い擦り傷や切り傷の者を治療していく。反対に在利は怪我の酷い者を担当していた。しっかりと手分けができているから、効率よく治療に当たれる。 「これで明日には骨折も治ってるでしょう。今は安静にして下さいね」 「いてて……ありがとうなぁ」 治療薬を塗布して包帯と添え木を当てた応急処置だが、在利の薬は非常によく効くのだ。 「これを塗っておけば血は止まりますから。後はこれを飲んでくださいね」 出血が激しい人には活性剤を入れた紙コップを渡す。忙しくはあるが、誰かに必要とされていると思えば恐怖に押しつぶされずに済むのだ。 「しばらくここを頼めますか?」 「いいですよ」 治療も少し落ち着いたかに思えた時、正志が在利に声をかけた。きけば子供達にチョコや飴を配りがてら好きな香りを聞いて回るのだという。 「貴方の好きな香りはなんですか? 代わりに伝えておきますよ」 「僕は……」 その言葉に在利は首を傾げてしばし考えて。 「……畳ですかね、イ草の匂いが好きです」 「渋いですね」 「なんだか薬草の香りにも似てますから」 二人で軽く笑い合う。そんな余裕も出てきたことが、互いを落ち着かせた。 正志は順番に、子供達に優先的にチョコや飴を配り、好きな香りを聞いて回る。 「おれは焼き鳥かな」 「わしは味噌汁じゃのう」 「僕はソーセージ!」 「あたしココア!」 食べ物ばかりじゃないの、そう言って笑ったおばあちゃんはラベンダーの匂い。隣りに座っているお姉さんはポプリの匂いが好きだという。 いろいろな人に好きな香りを聞いて回ることで、正志は改めて思った。好きな匂いというのは普段の生活に根付いているものなのだと。正志自身の好きな匂いは懐かしい桜の香りや梅の花の香り、本の匂いにインクの匂い。ほら。 だからこそ、早く普段の生活に戻れたらいい思わずにはいられない。 「沢山の人がターミナルを守ろうと頑張っている。だから、大丈夫ですよ」 安心させるように、自分に言い聞かせるように、正志は優しく告げた。 *-*-* 男の子を連れて地下に降りたニワトコは、無事に男の子と両親を再会させることができた。怪我をしていて、何とか地下まで避難したものの動けなかったらしい。再会を喜ぶ三人を見てよかったねと微笑んだニワトコは、香りの聞き込みに回る。 と、泣いている女の子を見つけた。ニワトコはゆっくりと近づいてしゃがんで。 「きみはどんなにおいが好きかな。お花のにおい? それともあまーいお菓子のにおいかな。ぼくに教えてね。楽しいことを思い出していたら、きっと怖い気持ちはどこかへ行ってしまうから」 「すきなにおい?」 「うん。あるかな?」 少女はきょとんとした顔を見せた後、首を傾げて。そして思いついたのか、弾けるように声をげた。 「ケーキのにおい! ままの作ってくれるやつ!」 「そっか、おいしいんだね」 「うん!」 少女を抱いたお母さんも、嬉しそうに笑って。聞けば天気のいい日の洗濯物の香りが好きだと教えてくれた。隣に座っていたおじさんは、昔どこかのチェンバーで見た海の香りが忘れられないという。 「ありがとう……!」 ニワトコが急いで階段を上ろうとした時、ちょうど昴と一緒になった。彼女は香房の香り棚から少しずつサンプルとしてオイルを借りて、それを使って好きな香りを教えてもらっていたという。 階段を駆け上がろうとした時、下りてくる二つの足音が聞こえて二人は出口を空けた。勢いよく駆け下りてきたのは、ティリクティアとキアラン・A・ウィシャート。 「0世界を護るための兵器を使用するのに、大量のナレッジキューブが必要なの。お願い、協力して!」 駆け込みざまにそう告げられて、詳細は理解できなかったもののニワトコと昴はごそごそと持ち物を漁って手持ちを取り出す。 「これでいいかな? 持って行って」 「がんばってね」 快く応じてやれば、二人はナレッジキューブを抱えて地下を回って声をかけていく。ニワトコと昴は階段を駆け上がった。 光の眩しさに目を細めながら店から出ると、店の前から美しい歌声が聞こえてきた。オペラ=E・レアードが静かだが力強い歌を披露している。別の階段から上がってきたティリクティアとキアランと共に、外にいた人達からナレッジキューブを貰って、三人は急いで帰っていく。 「みんながんばってるんだね」 「うん」 ニワトコと昴は頷きあって、ディフューザーの場所を確認する。そして別れて香りの継ぎ足しに走った。 ケーキの香りに洗濯物の香り、海の香り。普通ならば混ざり合って不快な香りになるかもしれないが、今は不思議とそれらが混ざり合って、香りを濃くしていた。不快感のない、人々の思いのこもった香り。 昴は地下の人達から聞いた香りを間違えないように取り出し、ディフューザーに継ぎ足していく。間違えないように、使わない小瓶と使い終わった小瓶はアルビレオに持っててもらって。 (これは、わたしの好きな香りだ) 昴が自分の好きな香りとして継ぎ足したのは、金木犀や桜などの日常に馴染みのあるもの。 0世界は変化に乏しい。けれどもその日常が壊れて初めて、早く元に戻って欲しいと願わずにはいられない。 ニワトコは香りを継ぎ足し終わると夢幻の宮の元を目指した。彼が思うのも、日常の復活。 (ぜんぶ終わったら……、また夢幻の宮さんと、お茶とかお話とかしたいな) 彼にとって日常となったその風景を思い浮かべ、取り戻すべく力を尽くそうと改めて心に思いを抱く。 (そんないつもの日が、きっと戻ってくると信じてる) *-*-* 夢幻の宮に該当の香りの在り処を聞いたノラは、香房で困り果てていた。示された棚に背が届かないのだ。 「とってあげましょう」 そこにタイミングよく現れたのは正志。ノラのために幾つか小瓶を取ってあげて、同時に自分の聞きこんできた香りの小瓶を探す。 「ありがとうなのですー」 「行きましょう」 ここが安全な避難所として機能できるのは、結界があるおかげだ。だからその結界をなんとしても守らなければならない。ノラと正志はディフューザーの場所を確認して手分けする。 「子供さんは林檎がお好きなんだそうです、ノラとはちょっと違うのです。好きなものは、少しだけズレてるほうがいいのですー」 ノラは自分の好きな蜜柑の香りを継ぎ足して。次に林檎の香りも足して。辺りにフルーツの甘い香りが広がる。 (……リーダーも一緒がいいのです) そっと、檸檬の香りを足して、満足気に笑む。 「結界が長持ちしますようにです」 祈るように目を閉じた。 正志は在利から聞いたイ草の香りを継ぎ足し、地下の人から聞いた香りを継ぎ足した。最後に自分の好きな香りを継ぎ足して。 「不思議ですね。これだけの香りが混じっても、嫌な香りにならないなんて」 むしろ、それぞれが交じり合って『日常』の香りになっているようにすら感じる。 「普段は忘れていますけど、日常とはかけがえの無いものですね」 砲弾の音やワームが飛び交う空を見て、正志は呟いた。 *-*-* 店舗前へ戻った昴は結界を張り続けている夢幻の宮へと遠慮がちに声をかけた。少しばかり額に汗をかいている彼女に何かしてあげたいと思ったのだ。疲れが和らいだり集中力を持続させる効能のある香りを尋ねる。すると直ぐに香りの名前とどこの棚にあるか教えてくれた。 香房に取って返した昴は電池式のディフューザーを持ち出し、夢幻の宮のそばで今聞いたばかりのその香りを焚き始めた。驚いたような彼女に、昴は答える。 「夢幻の宮さんの役割を肩代わりすることは出来ないから、せめて香りで支援できればと……迷惑だったかな?」 「いいえ。うれしゅうございますよ」 夢幻の宮の顔に笑顔が浮かんだから、昴はほっと胸を撫で下ろす。そして声を上げた。 「わたしにできる事があったら、なんでも言ってください!」 すると声をかけてきたのは、ワイテ・マーセイレだった。告解室で保管して欲しい物品リストを作って欲しいという。後ほど取りに来る人がいるから、と。 元々、商店街への旅団の略奪を危惧していた昴は店員の人達に相談して、告解室に持って行ってほしいものを教えてもらうつもりでいた。ワイテの頼みを引き受けた昴は、戻ってきたニワトコと正志と共にリスト制作と物品集めにかかる。夢幻の宮の元にすでに幾らかの物品が集められていたので、そこに集めることにした。主に結界外に店を持っている人達の物品や、子供が大切にしているおもちゃ、ナレッジキューブなど、それぞれに『大切な』ものが集められた。 程なくして訪れた新月 航がそれらの品物を運んでくれるという。昴はリストを渡し、よろしくお願いします、と頭を下げた。 航と入れ違うようにして地下へと下りていった人物がいる。褐色の肌に金色の髪、メイド服のその女性はロストナンバーだ。彼女はリリイを見つけると駆け寄って、何やら話をしている。 「それではお願いするわね、助かるわ」 リリイはポーチから出した鍵をサシャ・エルガシャに渡し、微笑んだ。どうやらサシャはリリイの作った服を略奪から護るために店の鍵を借りに来たのだという。 リリイの笑顔には、大切な店の鍵を預けるだけの信頼の色が浮かんでいた。 *-*-* 「夢幻の宮さん、結界のお手伝いをノラもしていいです?」 香りの継ぎ足しを終えたノラは夢幻の宮の隣で彼女を見上げた。 「ノラも魔力はそれなりなので、少しお力になれればと思うのですー」 何かできることはないか、次にノラが見つけた答え。夢幻の宮はそれを否定せず、おねがいいたしますると笑顔で頷いた。正直言えばありがたい。魔力を注いでもらえれば結界の効果も長引くし、一人あたりの負担も減るから。 「それでは、この錫杖に魔力を注いでいただけますか?」 「わかったのですー」 ノラは金色の錫杖の下の方をぎゅっと握って集中する。自らの中から魔力が流れ出るのを感じた。 結界が、術者と違った魔力を受けてふわんとたわむのを感じたけれど、それもしばらくして収まった。だんだんとノラの魔力も結界に馴染んでいくだろう。 「あれは……?」 と、ニワトコが声を上げた。ふわふわと空を飛ぶ白い物体がこちらに近づいてくる。 「けが人がいるわ! 手当てをお願い!」 その白いものの近くを歩いている女性が叫ぶ。だんだんと近づいてくるごとに、その白い空飛ぶ物体はフラーダであることがわかった。そしてその女性はフラーダの世話人。どうやらけが人に肩を貸しているようだ。 「てつだうよ!」 「診ましょう」 ニワトコと正志が走り寄り、世話人からけが人を預かる。そして結界内まで連れてきて、正志が傷に応急手当を施していく。 「私達もここに避難させてもらっていいかしら?」 「もちろんだよ」 昴が頷いて地下へ案内しようとしたその時――。 *-*-* ドス! ドスドスッ!! 「きゃああっ!」 「わぁっ!?」 地下で薬草を譲ってもらって薬の補充を行なっていた在利は、突然の騒音と揺れに驚いた。それは他の人々も同じで、思わず声を上げてしまった者もいる。遠くで聞こえる砲撃音とは明らかに違ったその音は、そんなに遠くではない場所から聞こえるようだった。 折角落ち着いた人々の顔に、不安が色濃く出始める。 「なにか起こったのかしら」 「僕が見てきます」 リリイの言葉に在利はぎゅっと拳を握る。本音を言えば怖い。でも、ここはロストナンバーである自分が行くべきだろう。 一段一段階段を上がって地上を目指す。 「何……あれ」 「こわいですー」 「ナラゴニアが……」 「あれ、根っこか蔓みたいだね……」 香房の外から仲間達の声が聞こえる。在利は思い切って外に出た。そして――。 「!!!」 そこには恐ろしい光景が広がっていた。 特別なことのない限り表情の変わらぬ0世界の上空に浮かぶナラゴニア。そこから植物の根のような、蔓のようなものが無数に舞い降りてきているのだ。 ドス! ドスドスッ!! それらは容赦なく、0世界の地面へと突き刺さっていく。 「な……」 あまりのことに恐怖と言うよりも驚愕で身体が固まる。 いったい何が起こったのか、これからどうすればよいのか、誰にも分からなかった。 今はただ呆然と、一同は0世界が蹂躙されていく光景を眺めているしか出来なかった――。 【了】
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