そのとき、司書たちは感じた。 ターミナルごと、軋んで揺らぐような、無数の轟音を。『導きの書』を抱きしめて、司書たちは天を仰ぐ。 ――予言はつねに、残酷な未来を映し出す。 しかし旅人たちは、何度もそれを凌駕してきた。その想いを武器として、運命のチェス盤が示す破滅のチェックメイトに抗ってきた。 だから。だから今度も。 だから――ああ、だけど。 † † † ……そもそも。「ねーねー、みなさ〜ん! たまには世界司書有志で、美味しいものでも食べながら親睦を深めて親密度を高めましょうよぉ〜。んねー、アドさん〜。ルルーさん〜。モリーオさん〜。グラウゼさ〜ん。緋穂た〜ん。茶缶さ〜ん(正式名称スルー)、ルティさーん、予祝之命さん〜、にゃんこさ〜ん、灯緒さ〜ん、火城さぁん」 などと言い出したのは、無名の司書だった。気分転換になり、お互い仕事もはかどるだろうし、というのはまあ、後付け設定である。 クリスタル・パレスの定休日を活用すれば、店長のラファエル・フロイトも、セルフサービスを条件にリーズナブルな貸し切りに応じてくれるだろうし、そういうことならと、ギャルソンのシオン・ユングが休日出勤するのもやぶさかではなかろう。 ――という目論見のもと、世界司書たちによる非公式の『懇親会』はいきなり開催されたのだが。 おりしも、皆に飲み物が配られ、乾杯の音頭がなされたとき、第一報は入った。 ウォスティ・ベルによる宣戦布告と、キャンディポットの死亡、そしてホワイトタワー崩壊を。 いち早く50名のロストナンバーたちが、対処するために駆けつけたことも。 懇親会は中断され、カフェは慌ただしい情報収集の場となった。 息を詰め、第二報を待っていた彼らは、天空が割れたかのような、不吉な爆音を聞いた。「皆さん、下がってください!」 異変を察知したラファエルが、司書たちを壁際に避難させる。 喉を焼くような熱風。鉄骨がひしゃげ、硝子の破片が飛び散った。 観葉植物が次々に横倒しになる。鉢が割れ、土が散乱していく。 クリスタル・パレスの天井を突き破り、ナレンシフが一機、墜落したのだ。 † † †「……!!」 紫上緋穂は両手で口を押える。悲鳴がくぐもった。「店長!」「ラファエル!」 走り寄った無名の司書とモリーオ・ノルドが眉を寄せる。 ナレンシフが横倒しに床にめりこんだ際、ラファエルも足を巻き込まれていたのだ。「大丈夫……、じゃなさそうだな。痛むか?」 贖ノ森火城が、傷の具合をたしかめた。「たいしたことはありませんよ。骨折程度ですので」「程度ってあんた」「私はいいとして、中にいるかたがたが心配です。彼らのほうが重傷でしょう」『どれ』 アドは尻尾をひとふりし、するするとナレンシフをよじのぼる。上部に破損があり、そこから中を伺えたのだ。『あー、いるいる。工事現場の監督みたいなおっさんと、他にもいろんなのが大勢。オレより弱そうなのもいるぞー。非戦闘員をどっかに避難させようとして流れ弾に当たったってとこかぁ』「ドンガッシュ、さまと、世界樹旅団の……。皆様、お怪我をしていらっしゃるのですか?」 少しためらってから予祝之命は、ドンガッシュに「さま」をつけた。目隠しの奥から気遣わしげに問う。『んー。みんな、けっこう血まみれー』「それはいけない。シオン、早く皆さんの治療を」「おれじゃ無理だよ。止血くらいしかできねーぞ」 それでもシオンは救急箱を持ってきた。包帯と消毒薬と擦り傷用軟膏と胃薬があるくらいで、何とも心もとない。「その前に、ここから出してあげないとじゃないー?」 ルティ・シディが、コンコンと出入口らしき部分を叩く。「どうすれば開くのかしら」「開閉機能が壊れてるようだ……。だめだ、開かない」 グラウゼ・シオンが進みでて、二度、三度、銀色の機体に体当たりをした。 だが、びくともしない。「茶缶さんが、『とびらのすきまにせいぎょそうちがはさまってます』みたいなことを言ってる……、ような気がするの」 無名の司書が、宇治喜撰241673をふにゃんと抱えながら、よくわからない通訳(?)をした。「隙間――と言っても」 灯緒が、そっと前脚を伸ばし、冷たくなめらかな表層に触れる。「1ミリもないにゃあ」 黒猫にゃんこも、ぽふん、と、前脚を押し付けて思案顔になる。 大小の肉球が、銀の機体に並んだ。 † † †「皆さん、ご無事ですか!?」 ティアラ・アレンが駆け込んできた。画廊街近くに位置する古書店『Pandora』は、クリスタル・パレスからさほど遠くない。 ナレンシフの墜落が『Pandora』からも確認できたため、様子を見に来たのだという。 店内の惨状に息を呑むティアラには、非常に珍しい同行者がいた。「ロバート卿。意外なところでお会いしますね」 ヴァン・A・ルルーに言われ、ロバート・エルトダウンは苦笑する。「僕が古書店を訪ねるのは、そんなに意外かな? マツオ・バショウの『おくのほそ道』を読んでみたくなって――いや、それどころではないようだね」「ええ。開閉機能の故障で、負傷者の救出が困難になっていて」「……ふむ」 ロバート卿はみずからのギアを取り出した。金貨から放たれた光の刃は、ごく僅かな隙間をも貫通し、開閉をさまたげていた制御装置は撤去された。 扉が、開く。 満身創痍のドンガッシュが、ふらつきながら現れた。 額から、ぽたりぽたりと血が落ちる。「……ここは……?」 ドンガッシュは店内を見回した。「世界図書館の非戦闘員たちを保護している避難所のようだな……。壊してすまない」 ドンガッシュはおもむろに、右腕を巨大なショベルに、左腕をドリルに変えた。『世界建築士』の力により、みるみるうちに、破損した天井は元に戻っていく。 修復は、すぐになしえたが……。「ドンガッシュさん!」 がくり、と、ひざをついたドンガッシュが床にくずおれる前に、ラファエルが受け止めた。「シオン、止血を!」「お、おう。無茶すんじゃねぇよ、おっさん。傷、広がってんじゃんか」「治療などしなくていい。この地で果てるなら、これも運命だ。……だが」 ドンガッシュは、ナレンシフの中にいる旅団員たちを見やった。「他のものたちは保護してほしい。皆、戦意はないし、負傷もしている」「ドンガッシュのおじちゃん!」 ナレンシフの中から、純白の毛並みのユキヒョウの仔が、足を引きずり、出て来た。「やだよ。死んじゃやだよ。世界とかじゃなくて、みんなで住める大きな家をつくってくれるって言ったじゃないか」 大きな青い瞳に涙をためて、ユキヒョウの仔は、小さな頭をドンガッシュに擦りつける。 その愛らしさに、ふっと微笑んだロバートは、ユキヒョウに向かって手招きをした。「おいで。傷の手当をしなければ」 しかしユキヒョウは、警戒心をむき出しにして、じりりと後ずさる。「おいで」「やだ!」 かまわずに近づいて、抱き上げようとしたロバートは、手をしたたかに噛みつかれてしまった。 くっきりとついた歯型から、血があふれ出す。「あちゃー。怪我人が増えてやんの。消毒薬少ないのになー」 シオンは新しい脱脂綿を取り出した。「……まあ、なんだ。子ども好きなのに子どもからは好かれないひとってのは、いるよな、うん」「それはフォローのつもりかね? 僕も人並みに傷ついているのだが」「おまえたちなんか信じない。誰も信じない。世界樹旅団のやつらも、世界図書館のやつらも」 ユキヒョウは威嚇を続ける。「みんな、殺すつもりなんだ。ドンガッシュのおじちゃんも、ここにいるみんなも、全部ぜんぶ、殺すつもりなんだろう。近づくなよ!」 † † † 偶然、画廊街付近を訪れ、墜落する円盤のゆくえを追って、居合わせることになった旅人たちの胸に、ユキヒョウの慟哭が突き刺さる。 この幼い獣と、自分たちの間に、どれほどの違いがあるだろう。 彼もまた、硝子の城より儚いものを追い求めている。 ――帰りたい。失った故郷を見いだしたい。 ――旅団のことなんて知らない。ファミリーにも興味はない。 ――大切なものを護ることができれば、それでいい。 月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり―― 松尾芭蕉は、家を売り払い、戻らぬ覚悟で、みちのくへの旅に出発した。 みちのくは『歌枕』の宝庫だ。しかし、そもそも歌枕とは、歌人の想像力から生まれた幻想の名所である。 歌枕の廃墟を訪ねる旅は、異世界への彷徨にも似て、どこか絶望をはらんでいたはずだ。 みずからの『旅』の意味を、あらためて旅人は、考える。======!注意!イベントシナリオ群『進撃のナラゴニア』について、以下のように参加のルールを定めさせていただきます。(0)パーソナルイベント『虹の妖精郷へ潜入せよ:第2ターン』および企画シナリオ『ナレンシフ強奪計画ファイナル~温泉ゼリーの下見仕立て観光風味~』にご参加の方は、参加できません。(1)抽選エントリーは、1キャラクターにつき、すべての通常シナリオ・パーティシナリオの中からいずれか1つのみ、エントリーできます。(2)通常シナリオへの参加は1キャラクターにつき1本のみで、通常シナリオに参加する方は、パーティシナリオには参加できません。(3)パーティシナリオには複数本参加していただいて構いません(抽選エントリーできるのは1つだけです。抽選後の空席は自由に参加できます。通常シナリオに参加した人は参加できません)。※誤ってご参加された場合、参加が取り消されることがあります。======
ACT.1■心の旅 ティリクティアも、視た――視えた。 この戦いの、残酷な結末を。 人知れず悲鳴を押し殺し、巫女姫は果敢に顔を上げる。 (あきらめない。何があっても) † † † 「ここに、ナレンシフが墜落したと聞いてね。……おや? 怪我をしているようだが、何かあったのかい?」 今しがた訪れたばかりのメルヴィン・グローヴナーは、ロバート卿とユキヒョウの顛末を見ていない。ゆえに、心ここにあらずなロバート卿にも、いつもどおりに話しかけることができた。 「いえ、何も」 ロバートは言葉少なだが、メルヴィンはそれを気にするでもない。 「僕は、先ほど妖精郷から戻ったところでね」 「……妖精郷」 さすがにロバートは、メルヴィンを促すように双眸を向ける。 「……ああ、その件はそのうち、正式な発表があるだろう」 はぐらかすように、メルヴィンは言う。 「不思議なものだと思ってね。あのナラゴニアの姿を見てから、“意志”とは一体なんなのだろうと考え続けている。チャイ=ブレと世界樹はなぜ反発しあうのか。彼らにとって我々は何なのか。体内を流れる血の中の微生物にしか過ぎないのか」 ロバート卿は、答えない。 † † † 硝子の破片と砕けた鉢植えのかけらや露出した土が飛び散り、店内はまだ荒れている。洗い張りされて真っ白だったテーブルクロスは、ひどく汚れ、見る影もない。 クロウ・ハーベストは、ちぎれて落ちた観葉植物の葉を拾い上げ、ぼんやりと立ち尽くす。 負傷したロストナンバーたちが、次々に運ばれてくる。 店のすぐ近くには簡易医療施設ができかけており、ここが大規模な避難所となっていることは理解できた。 『あの時』と状況が似ているわけではない。それでも、重なる。 クロウの恋人が、幼馴染が、死に至ったあの時と。 思考がフワフワと螺旋を描く。能力を使う時に似た、世界を見失いそうな感覚がクロウを包む。 あそこで、死ぬとか死ぬなとか言い合ってるのは旅団の奴ららしい。 世界樹旅団。ロストナンバー。世界を見失ったモノたち。思えば俺は元からそんなだった。 なら、あいつも俺みたいに。 「オッサンが死ねば、あのチビはまた世界を見失うのか」 「そういう、ことになる」 表情を変えずに、コタロ・ムラタナは、ぼそりと声を押し出した。 戦う事しか出来ぬ自分に、答える術はないとわかっていながらも。 ここを訪れたのは偶然だ。戦闘物資の補給のために移動していたところ、たまたま一連のできごとを目撃することになった。すぐに戦いの場に戻るはずだったのだが、僅かな時間だけ、踏みとどまることにした。 己の旅の意味を、真っ向から問われているような気がしたのだ。 ――自分は、今も故郷を愛している。 だが、一度祖国を裏切った自分が、あの世界に帰還できはしない。たとえ世界を見いだせて、蒼国にロストレイルの駅が設けられたとしても、真の意味では戻れない。 出身世界に帰ることが旅の目的である旅人は多い。だが、コタロはそうではない。 もはや過去を取り戻すことはできないことを、絶望的なまでに知っているからだ。 では、自分はどこに向かっているのか。 この旅の終点は、どこなのだろう。 「気持ちは、落ち着いてると思うんだ」 沖常花も、己の内面を覗き込むようにして、誰にともなくつぶやく。 「むしろ、脳内はクリアな感じかな」 それはおそらく『お仕事の癖』なのだろうと、花は思う。主に仕える『忍』として、適切に業務を遂行する感覚に似ている気がする。 花の認識は、『旅団』は『図書館』にとっての『敵』だ、という、ごくシンプルな理解だ。 (ボクは所詮忍だから……。命じられて事はこなす……、っていうかそれが楽なんだよねー) 苦笑しながら、花は周囲を見回す。 (誰か冷静な人がいたら、教えてもらおうかな。旅団のことや、今起こってること) ――もし、その中で、強い意志がある人を見つけたら、ボクはその人に従うよ。 そう考えながら花は、司書たちがいる一角に歩み寄る。 (これが、現実……?) 司馬ユキノは、身体の震えを押さえられないでいた。漆黒のロングヘアを白いブラウスに滑らせ、前屈みに自分を抱きしめている。 今まで数回しか0世界に来たことのないユキノにとって、戦乱の恐怖は想像を超えていた。 (私、今まで見てこなかった。どうせ私には何もできないからって、向き合わないで逃げてきた。でも、見てしまったらもう忘れることなんてできない) 私、どうすればいいんだろう……? そっと周囲の様子を見たユキノの瞳に、倒れた観葉植物をひとつずつ丁重に直しているモリーオのすがたが映った。 (お掃除なら、できるかもしれない) 「あの、私、お手伝いします」 「ありがとう。ちょっと待ってて」 ユキノが震えているのを見て取ったモリーオは、厨房に声をかけ、マグカップを持って来た。 カモミールティー特有の、甘いリンゴの香りが立ちのぼる。 「……おいしい」 ひちくちごとに、落ち着いていく自分を感じる。ほどなく、作業は始められそうだった。 ACT.2■愛しき者よ 「力が必要だろ」 レーシュ・H・イェソドはそう言うと、練技「アームブースト」を用い、腕力を強化した。 もともと筋骨たくましい紅鱗の竜人のこと、その効果は絶大である。ひっくり返った大理石のテーブルや椅子、衝撃で倒れた冷蔵庫など、もとの位置に戻すためには相当な力を要するものが、一気に復元されていく。 「すごい!」 カルム・ライズンが、赤い瞳をぱちくりさせる。 「これくらいしか、できねーからな」 レーシュは少し、照れくさそうだ。 「ぼくも。ぼくにできることなら、何でもするよ!」 カルムはずっと、戦いに赴いた義姉をとても心配していた。 それでも、こういう時こそ、何か力にならなければと思うのが、カルムらしいところである。 「モリーオさん。ぼく、何すればいい?」 「じゃあ、ミモザの剪定を手伝ってくれるかな?」 「うん!」 モリーオいわく、ミモザの樹の枝がかなり折れてしまったという。さいわい主幹に影響はないらしい。 「どの植物もそうなんだけど、折れたままの枝をつけているのは、かなり負担になるからね」 カルムは、植物の剪定に尽力したあと、フロア中の掃除や、こまごまと散らばった物の整理整頓も行った。 モリーオが背伸びしてぎりぎりの高い位置にある部分のメンテナンスには、竜形態に変身するなど、八面六臂の活躍ぶりである。 「わるーい、カルム。野菜スープとけんちん汁できたんで、お腹空いてるひとに配ってくんない?」 「カレーが食べられそうだったら、カレーもあるぞ」 厨房のシオンとグラウゼからの要請に、カルムは白い翼を羽ばたかせる。 雪・ウーヴェイル・サツキガハラは、消耗し、ぐったりしていた。なにしろ、ホワイトタワーでカミオロシを行ってから、そう時間は経っていない。 それでも最初のうちは、あらん限りの力を振り絞って店内の片づけを行ったり、店の外へ走り出ては、救助活動を行ったりしていたのだが。 そのうち、とうとう、身動きできなくなった。彼らしいいさぎよさで、前のめりに豪快に倒れ伏す。 「おっと」 念動力を駆使して、硝子の破片をひとところに集めていたアキ・ニエメラが、手を差し伸べる。さいわい雪は、硝子の山に顔ごと突っ込むことは免れた。 「そういやあんた、無茶してたらしいもんな……」 アキはよいしょ、と雪を担ぎ上げ、ユキノが土埃を取ってくれたソファに寝かせる。避難所と化した店内では、そこここで、簡易ベッドが設けられつつある。アキが担いで帰った何人かの負傷者も、ほっと息をついていた。 「なんかちょっと食って休めよ」 「どうぞー。できたてのスープだよ」 素朴な野菜の匂いが湯気とともに漂う。カルムが、温かいスープを運んでくれたのだ。アキは甲斐甲斐しく、雪にスープを飲ませる。 「そういえば、戦時中はこんな感じだった」 雪は苦笑しながら、故郷を懐かしく思い出す。 (ハルカも、怪我してなきゃいいけどなー) どこかで戦っているはずの相棒を心配するアキをよそに、スープを飲み干した雪は半身を起こす。 有事の際には意地だけでカミをオロし、防御結界を展開するつもりだった。 たとえ、また倒れるのだとしても。 グルルル、と、ユキヒョウは威嚇を続けている。 「大丈夫……大丈夫だから。殺したりなんかしないし、させない」 カナンは必死だった。とにかく、ユキヒョウの仔を落ち着かせようと思ったのだ。儚げな面差しを、ひたむきさが覆う。 (どちらにも心はあるのに、ただ殺しあうだけだなんて……哀しい) ユキヒョウが安心できるであろう笑顔を、カナンは見せる。そっと頭を撫でようとした手は、やはり噛まれてしまったが、カナンはかまわずに撫で続けた。 「俺は、君みたいな子達を怖いものから守るのが役目だったんだ……旅団は敵らしいけど、そんなのは関係ない。俺は守ってあげるから」 「……だって、信じられないもの」 それでもユキヒョウは、その牙をカナンから外した。だが。 「落ち着け」 そういって手を差し伸べたフブキ・マイヤーも、やはり噛みつかれてしまった。とはいえ、先ほどよりは多少、その力は弱くなっている。 「お前さんは、帰るべき世界が見つからなくて不安になっているんだろう? 俺だって、同じだ」 やわらかな毛並みを撫でてやりながら、フブキは静かに話しかける。 彼が二児の父であったこと。覚醒した際に、故郷に妻子を置いてきてしまったことを。 「お父さん……、なんだね」 ユキヒョウの表情が、心持ちやわらぐ。 「ぼく、お父さん、いないんだ。ぼくが生まれたばっかりのころ、伝染病で死んじゃったんだって。だから、ずっとお母さんとふたりきりで、でも、ぼくだけ覚醒しちゃって……。お母さん……」 ユキヒョウの目からぽろぽろと、涙がこぼれ落ちる。フブキはその頭を、今度は力強く撫でた。 「かわいそうにな。俺も、いつも平気そうなツラしてるけど、内心じゃ家族が今どうなっているのか、……凄く不安なんだ」 「辛かったネ、怖かっタんだよネ」 ワード・フェアグリッドは、そっと顔を寄せる。純白の蝙蝠の翼に、ユキヒョウの目が見開かれた。 「ここにいるみんなモそうだヨ、僕だっテ」 「……みんな?」 「そうだヨ。君がいタ世界はどんなところだったノ?」 「緑が多くて、お花がたくさん咲いてた。動物たちはみんな、仲良しだったよ。ぼくたちの食べ物は、木の実や果物やお花の蜜だったんだ」 「そうなんダ。僕がいた世界も、童話の中みたいニ優しい世界だっタ。けど今ハもう……僕が消えてしまってかラ、変わってしまっタ」 ――変わってしまったけれど、今も帰りたいと思っている。みんなが傷つく戦いは、とても怖い。逃げ出したいとも思っている。 「けどネ、ここには僕が護りたイ人がいるかラ……、頑張れル」 「まもりたい、ひと」 「君の側にモいるよネ、護りたい人」 そしてワードは、ドンガッシュのほうを見る。 「こんちや。アルウィン・ランズウィックだ」 ユキヒョウに名乗ってから、アルウィンは槍をパスにしまいこむ。兜も外した。 ころころした子犬のような仔狼に変身し、ユキヒョウの前にちょこんと座る。 鼻先をくっつけるようにして語る言葉は、たどたどしくも真剣だった。 0世界には、優しい人たちが沢山いること。自分も彼らに助けられたこと。 戦えない者や怪我人を殺すことを嫌うロストナンバーも多いこと。 だから――心配しなくていいことを。 「アルウィン、騎士だ。嘘つかない。これ約束の印。フュージョン(註:コレクション)のビー玉だぞ!」 「……?」 小首を傾げるユキヒョウに、綺麗な蓋や、きらきらしたシールなど、とっておきのコレクションを次々に渡す。 困惑気味なのを見て取ると、うぅん、と唸って最終手段に出た。 「まだ心配? じゃアルウィン、人質にしろ。あと、お菓子食べる?」 ぐい、と、蜂蜜飴を押し付けられ、気迫に押されたユキヒョウは、とうとう、こっくりと頷いた。 「だいじょぶ。怖くないよ」 甘いピンクのツインテールを揺らし、スイート・ピーは、ユキヒョウと目線を合わせる。 「痛いことなんかしないよ。だってスイート痛いの嫌いだもん。こっちに来て、一緒に、ドンガッシュさんに治療を受けてってお願いしよう?」 色とりどりの飴玉を、スイートは並べていく。まるでビー玉遊びのように。 「キミはドンガッシュさんが大好きなんだね。スイートにも大好きな人がいるの。スイートもキミと同じ、ママのいる世界に帰りたいの」 「ママ……」 「そう、やさしいママがいる世界」 いたいのいたいのとんでけー。スイートは、子守唄をうたうように、おまじないを唱えた。 その隣に黒燐は腰を落とし、まっすぐに笑顔を向けていた。 北都守護の天人は、顔を隠すいつもの布を取っており、黒髪と金の瞳があらわになっている。 「はじめましてー、僕、黒燐って言うんだ。君のお名前、何て言うの?」 「……マルコ」 「マルコか。旅人っぽい名前だね。僕もね、世界を見失ってるの。帰らなきゃいけないんだけれど」 「……帰りたい?」 「だって、故郷には可愛い妹がいるんだよ。妹っていっても、僕より背が高くて、見た目の年齢もあっちが上なんだー」 「きょうだいがいるんだ……。いいな」 「会いたいなー。君も、お母さんに会いたいよね?」 ふたたび、ユキヒョウ――マルコは、こっくり頷く。 「俺たちを信じろとは言わねぇ。それでも、何かあったら俺はお前たちを護るよ」 そう、望んでる奴がいるからな。言い添えて、虚空は自らの腕をぐっと差し出した。 「噛んでもいいぞ」 「……」 「はは、ためらうか。いい子だなマルコ。皆を噛んでみてどうだった? 血が流れたろう? お前たちのためにドンガッシュが流したのと同じ色の血がな」 「みんな同じなんだよ」 そういってハルシュタットは、武装解除のしるしとしてトラベルギアを手放した。 「心配なんだ。でも、おれだって帰れない。ここでみんなの無事を祈ってるだけ」 青銀の猫のギアは、銀の首輪めいた『首飾り』である。 だがマルコには、ハルシュタットの行動が何を意味するか、理解できたようだった。 「みんな、同じ?」 旅団も図書館も、住む世界を失くしたひとびとが集まる場所であることを―― 「カレー持ってきたぞ。食えるか?」 ドンガッシュを説得中の蓮見沢理比古に配慮しながら、いったん厨房の様子を見に行った虚空は、両手にカレー皿を乗せて戻って来た。食欲をそそるスパイスの芳香が、クリスタル・パレス中に漂った。 「食べたことない」 「美味しいんだよ。特に、こういうときにはね」 ハルシュタットはカレーに飛びついた。それはマルコに、毒が入っていないことを示して見せる意図もあった。 「お腹すいたら体力が落ちるんだよ!」 言われてマルコは、おずおずと口をつける。 「袁仁招来急急如律令、モリーオの片付けを手伝って来い」 百田十三は、マルコたちから少し離れたところにいた。店内の現状復帰支援を強化してから、マルコに向かって救急箱を押し出す。 「ドンガッシュを殺したくない、近付くなと言うならば。お前がドンガッシュの手当てをするのだ」 「ぼくが?」 「彼は重傷だ。このままでは死にかねん」 「でも……」 「そうだな、お前では、消毒し包帯を巻くのは難しかろう」 ――だから、俺達にやらせて貰えぬか。 「同じく世界から放逐された身、何の違いがある。知り合った者は誰でも助けたい、助け合いたい。そう思うだけだ」 ACT.3■Home Sweet Home 「何よ。この地で果てるなら運命って。自分だけ納得しないの!」 中央都守護の天人、黄燐は、真っ向からドンガッシュに詰め寄っていた。黒燐同様に布を取り去り、素顔をさらしている。蒲公英色のツインテールがまぶしい。 「いーい、ドンガッシュ。あなたが死んだら、確実に悲しむ人がここにいるの」 「貴様は、あの雪豹の仔に家を作ると約束したのではないか?」 ネモ伯爵が言葉を添える。ふっさりと切りそろえた前髪に浮かぶ天使の輪は、こんなときでも艶やかだ。 「約束を反故にして死に逃げる、建築士の風上にも置けんな」 「あのユキヒョウの子、とってもあなたに懐いてるじゃない。いいの? あの子を傷つけて? そういうのってね、一生、そのひとの心に残るのよ!」 「その家は貴様の『作品』となるはずであろう。己の人生を省みて、会心の最高傑作を世に生み出したと胸を張って逝けるか?」 どうやら、ドンガッシュのプライドを刺激しつつ、男気に訴えつつ、治療を受けさせる作戦であるらしい。 「その子との大事な約束なんだよね? 皆が住める大きなおうちを建てるって」 物好き屋も、説得に加勢した。 「だったら、果てるにはまだ早いんじゃないかな。生きてる間にすべきことを残したまま逝くのは、悔いが残る」 すでに物好き屋は、包帯を取り出し、身構えている。 「それに、僕も家を建てたいと思ってるんだ。手を貸してくれないかな?」 言いながらも、物好き屋はふと、想いを馳せる。 (……テリガンとノラはどうしてるんだろう、避難できてないのかな) 「家か」 ぼそりと、ドンガッシュは息を吐く。 「たしかに、建ててみたい家の構想は、いくつかあるが……」 「うむ、おぬしが死ねば、未だ生まれ出ぬ作品の可能性も同時に潰える。それは芸術への冒涜じゃ」 (ロバートさんって結構繊細なんだなあ) 心ここにあらず状態のロバート卿を遠目に見てから、理比古は、ドンガッシュの正面で膝を折った。 「貴方が助けたいと願った人たちは、皆貴方を頼りにしているよ。貴方が生き延びることは、貴方のためだけじゃないんです。生きる義務というある種の許しを、今は受け入れてもらえませんか」 穏やかに、まっすぐに、理比古は、建築士の目をのぞきこむ。 「君に何かあれば、責任を他の者が負わされるのでは? そうなっても君は平気かね」 有馬春臣の声音は、あくまでも真摯だった。特徴的な薄笑いを消し去っている。 ――ドンガッシュは、非戦闘員たちの心の支えになっているようだ。ユキヒョウのように慕うものもいる。彼にもしものことがあったら、残された者はどうなる。不安なものもいるだろう。彼らの為に生きるべきではないだろうか? 「古い人間の戯言と思ってくれて構わんがね」 「そうですわ。あんなにあなたを慕ってくれる子がいるのに」 そっと近付いて話かけたのは、バーバラ・さち子だった。品のよいふっくらした面差しに、善意あふれる笑みを浮かべている。 「血が出ていますわ。そのヘルメット、取っても構いません?」 ドンガッシュが頷くか頷かないかのうちに、さち子は器用にヘルメットを取った。 おもむろに、ひっくり返す。 ――と。 ぽん。ぽん。 ふわん。 ぽふん。 色とりどりのダリア。ひまわり。マリーゴールド。矢車草。いくつもいくつも、ヘルメットから花が咲いては、あふれ出す。 それはさち子の、手品だった。 「あらあら、こんなところにも」 さらに、自分の鞄を開ける。 そこからも、花々のつぼみが次々に顔を出しては咲き乱れ、床にこぼれていくのだった。 「わぁ、お花だ。ドンガッシュのおじちゃん、お花だよ!」 マルコが歓声を上げる。 「ほーら、あの子も、あなたを見て安心していますわ」 ティリクティアが、聖歌をうたっている。 マルコの足の傷がわずかに癒え、ドンガッシュの出血が止まった。 「はじめまして、ドンガッシュ。私はティリクティア――みんなはティアって呼んでるわ」 どうか、運命なんて言葉で自分の終わりを決めないで。 生きる為に、最大限に出来ることをして。 丁重に礼を取ったティリクティアのそばで、理比古は手早く消毒と応急処置を始めた。 「免許もたまには役立てなきゃねー」 「“医者”の前に敵味方など無い」 春臣も三味線を弾くことにより、負傷者の治療に取りかかる。ドンガッシュだけではなく、ナレンシフに乗っていたすべての旅団員を対象として。 「……そういえば、氏家くんはどこだ?」 春臣の気がかりに、避難してきたロストナンバーが、湾岸の防衛に向かったらしいと答えてくれた。 無事の帰還に祈りを込めて、三味線の音は響く。 ACT.4■永遠のシュール 「おっきなくまさん! 返り血浴びたみたいに真っ赤なのね!」 メアリベルは無邪気に、司書たちに話しかけていた。 中でもヴァン・A・ルルーがお気に入りなようで、抱きついたり、撫で回したりしている。 「ミスタ・ハンプも一緒に踊りましょ。手を繋いで輪になって、はっくしょん! みんな一緒に転びましょ♪」 ルルーは微笑ましげに、なすがままになっていた。 「あ、みみのすりきず、なおった」 「まえあしをくじいたの、いたくない」 「しっぽがすりむけたの、だいじょうぶみたい」 あどけない声がして、仔うさぎが三匹、ぴょん、ぴょこ、ぴょこたん、と、ナレンシフから出て来た。それぞれ白・黒・オレンジの毛並みを持っている。 メアリベルは手を打って喜ぶ。 「かわいいうさぎさん! お名前、なあに?」 「『らぁ』だよ」 「『りぃ』よ」 「『るぅ』です」 「素敵! お茶会しましょ。らぁ、りぃ、るぅ」 「クック・ロビンもよんでいい?」 らぁが声を放つ言と同時に、今度は、銀色のコマドリが現れ、メアリベルの肩にとまる。まだ巣立ち直後であるらしく、その翼はふわふわとやわらかで、銀の綿毛のように見える。 「うれしい。みんなで歌いましょ。Who killed Cock Robin?」 どこかシュールなお茶会が続くなか、音成梓は、シックなウェイター制服の上にエプロンをつけ、厨房とフロアを往復していた。 負傷者にひとりひとり声をかけ、笑顔ではげましては、湯気の立つスープや食事を配っていく。 (こういうときに、もっとみんなのために何かできればいいんだけど) 自分は、強いわけではない。 治療が得意なわけでもない。 何か特別な、いい考えが浮かぶわけでもない。 それでも、今は、できることを頑張る。 もどかしさを感じながら――それでも。 「できること、はんばーがーだぞ(註:がんばるぞ)」 ひとの姿に戻ったアルウィンも、小さな身体で給仕補助を開始した。 その足元で、梓のセクタン、レガートはぷにぷにと愛敬を振りまいている。 † † † ――突然。 旧校舎のアイドルこと、人体模型のススムくん25体が、クリスタル・パレスに駆け込んで来た。 すわ、敵襲か! と、思わず雪がカミオロシしかけたほどの迫力である。 「1キューブでいいでやんす、首飾り発射の寄付をお願いするでやんす」 しかし、その誤解はすぐに解けた。ススムくん20体が募金活動を始めたからである。 「任せるでやんす、得意でやんす」 そういってススムくん4体は、店の片付けを手伝ってくれた。 さらに、最後のススムくんは―― 「イチゴ味心臓を食べて元気を出して、ノブレッソブリージュするでやんす」 大胆にも、ロバート卿の口に心臓を押し込もうとした。 ……しかし。 目にも留まらぬ早業で、ギアのコインが心臓をはじき上げる。空中で一回転した心臓は、ロバート卿の手にすっぽりおさまった。 「むっ? 凹んでいても隙がないでやんすね」 「ハートは、大事なひとにしか渡すものではないよ」 ロバート卿は表情を変えずに、ススムくんに心臓を返却したのだった。 「ああ、集金か。俺は手持ちが無いぜ?」 「それは殺生でやんす」 レーシュに言われて、募金活動中のススムくんは、律儀にも20体全員、がっくりと肩を落とす。 「海パン1つだぞ。どこに入れておけってんだよ」 「それもそうでやんすね」 「……まあ、その代わり。へそくり探しは手伝うぜ」 レーシュは、練技「デオードサーチ」を使った。すなわち嗅覚強化。これで、だれがどれだけナレッジキューブを持っているか、その匂いを嗅ぎ当てることができるのである。 しかし、ススムくんがやってくる前に、フブキは手持ちの財布を持ち、待ち構えていた。 もともと、『集金』には、全額を提供予定だったのである。 ずっと意気消沈していたロバート卿の気力回復のきっかけは、、バレンフォールのところから集金にやってきた、晦と有明の狐兄弟であった。 なにしろ彼らは、 「奮発してくれるんやったら、撫でてもええでー。ユキヒョウくんより尻尾多くて触り心地ええよ?」 と、殺し文句を発したのである。 ダンジャ・グイニとベルダも加勢し、ハルシュタットがひょいと膝に飛び乗って口説き落とし、とうとうロード・ペンタクルから、この言葉を引き出したのだ。 「──君たち、いくら必要なのかな?」 † † † 追って駆けつけたロナルド・バロウズとチャンにも、手持ちのキューブを大盤振る舞いしてから、ロバートは言う。 「図書館にも連絡をとってある。連絡がついた分は現場に集まっているはずだよ」 さらにロバートは、その場にいた司書たち全員にも声をかける。 「きみたちも当然、彼らに協力してくれるだろうね? ああ、それからラファエル」 最後にロバートは、理比古に骨折の手当をしてもらったばかりの店長を呼び、何事かを伝えた。 「かしこまりました」 真面目に頷いたラファエルは、シオンに耳打ちをする。 ええーっ、と、シオンが声を上げた。 「破損箇所はドンガッシュが直してくれたし、皆が現状回復を手伝ってくれたから、店の補修費用はかからないだろう?」 要求されたのは、クリスタル・パレスにある現在の売上金すべてと、シオンの給料全額だ。 がっくりと肩を落とすシオンに、にゃおんとハルシュタットがすり寄っていく。 「ハルぅ〜〜」 青銀の猫を、シオンはぎゅうと抱きしめる。 ACT.5■時の旅人 思ったより長居をしてしまったと、コタロは思う。 これは、戦闘の幕間の小休止に過ぎない。 軍人は、再び戦いに身を投じていくだけだ。 そろそろ医務室部隊が到着しそうだという報をきっかけに、コタロはクリスタル・パレスを後にする。 † † † コタロがもう少し、その場に留まっていたならば。 あるいは、邂逅できたかもしれなかった。 重傷のフランを背負い、ひとり戦場から離脱した川原撫子に。 撫子はただの一度も振り返ることなく、ひたすらに、クリスタル・パレスを目指していたのだ。 医務室部隊が到着しているであろう、この避難所へ。 (フランちゃん……もう少しです……絶対、絶対に助けますぅ) 見覚えのある硝子と鉄骨の建物が、ようやく視界に入った時だった。 撫子は、見た。 緑に覆われたナラゴニアから、忌まわしい植物の根のような、蔓のようなものが無数に延びていく。 それは、0世界のあちこちに突き刺さっていくではないか。 そう、まるで巨大な――植樹のように。 † † † 集金活動に対応するロバート卿を、ティリクティアはじっと見つめていた。 彼に、聞きたいことがあったのだ。 それは未来予知とも違う、第六感が巫女姫に告げたことがら―― 「どうか、したのかい?」 「あなたは……。旅を終わらせたいの? 続けたいの?」 直裁に問われ、ロバート卿は、いつになく直裁に答える。 「まだ、迷っている。まだ、わからない。だがこの迷いは、ベイフルックのお転婆姫たちが断ち切ってくれるのかもしれない」 ティリクティアには視えた。 ロバート・エルトダウンが、何を護ろうとしているのかを。 ――『きみ』を殺しても、まもりたいものがある。 愛するひとに、氷のような敵意と憎悪を、持たれたままになるとしても。 未来は変わる。 表が裏に。裏が表に。残酷でやさしい、ゲームのように。 ティリクティアの頬を、ひとすじの涙がつたう。 「気を、つけて……。デイラック、が」 それ以上は言葉が詰まって、言えない。 このひとが、まもりたいものは。 ――壱番世界。 旧き俳聖の旅とは、違うのだろうけど。 永遠の旅人となった前館長とも、また、レディ・カリスやアリッサとも、その思うところは違うのだろうけど。 おおいなる黄金を手に、名を変え時代を超えて、かの地に踏みとどまってきた生きざまも、過酷な旅であったはずだから。
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