『世界樹』は沈黙した――。 時間のない0世界に日没はないが、戦いの終わりとともに、世界は静かな黄昏の気配に包まれていた。 人々は、ほとんど畏敬の念と言ってよい感情を抱いたまま、恐るべき戦いを振り返り、眼前の光景に息を呑む。 ホワイトタワーの崩壊にはじまる、ナラゴニアの襲来、そしてマキシマムトレインウォーの発令という一連の出来事は、ほんの一日に過ぎぬ。だが間違いなく、それは0世界のいちばん長い日であったろう。 ターミナルを蹂躙した世界樹の根は、本体の沈黙とともに活性を失ったようだ。もはやぴくりとも動くことはなく、今なら、破壊して取り除くことができるだろう。 本体はそのままの状態で残ったため、ナラゴニア自体は崩壊を免れ、庭園都市は根に支えられるようにしていまだ0世界にとどまっている。 そして、根が突き刺さった0世界の大地――チェス盤の地平は、見渡す限り、緑に覆われていた。 いかなる奇跡だろう。 ゆたかな樹海が、無機質だった0世界を覆い尽くしているのだ。 あたかも、ナラゴニアとターミナルが融合したような、そんな風景であった。 *「ロストレイルはまだ動かせる?」 アリッサは訊いた。「撃墜されたのは天秤座号だけです。ナラゴニアに赴いた車両は損傷を受けてはいますが、走行可能かと。余力的には、やはり山羊座号ですね」「では悪いけどもういちど支度をして。あそこへ――ナラゴニアへ向かいます」 世界樹が沈黙し、世界園丁たちは体内の世界樹の暴走によって全滅した。 支配者と、指導者層を失い、世界樹旅団は事実上、瓦解したと言える。 たった今から、ナラゴニアの市民は、0世界における難民となり、世界樹旅団は、世界図書館の支配下に入ることになるだろう。支配といっても、それは征服を意味するのではなく、この戦いの結果を引き受けるという意味で、だ。 館長アリッサは、それを宣言すべく、ナラゴニアへと向かう。 園丁は滅びても、かつてもドクタークランチや銀猫伯爵のように、ナラゴニアで有力な影響力を持つ人物はいるはずだ。かれらと話し合い、今後について決めなくてはならない。「あとを、お願いできる?」 アリッサは司書たちと、レディ・カリスを振り返った。「私はアーカイヴの様子を見てきます」 カリスは言った。「図書館を……どうにかしないといけませんね」 リベルは沈痛な面持ちで、建物を……いや、建物の跡を眺める。 世界図書館の建物は、ナラゴニア襲撃の時点で爆破され、半壊していた。 特に、ホール周辺はノエル叢雲の衝突のあって被害がひどく、なにより、「世界計」が粉砕されてしまっていた。 これは由々しき事態と言えた。 世界計がなくては、ロストレイルがディラックの空で進路を見いだせないため、車両を動かせても、異世界に行くことができないのだ。早急な修復が望まれるが、世界計について知識のあるものは司書にも少ない。まずは資料を発掘するところから始めねばならないだろう。いずれにせよ、これは司書たちに任せるしなかった。 建物については、世界樹旅団のドンガッシュが、修復を手伝うと申し出てくれた。 彼の能力であれば、早期に再建がかなうだろう。 * 再びアーカイヴへ。 レディ・カリスはターミナルの地下深層へ、もう一度向かうという。 世界樹の侵攻はアーカイヴ遺跡にも及び、目覚めたチャイ=ブレと世界樹の根との戦いが始まっていたことが、目撃されている。しかしその後、チャイ=ブレの覚醒により崩壊した遺跡深層がどうなったのか、何よりチャイ=ブレがどうしているのかはまったくわからないのだ。「おそらく、チャイ=ブレは再び眠りについたのではないかと思われます。念のため、そのことを確かめておくべきでしょう。チャイ=ブレの眠りこそ、0世界の平穏に他なりません。 あの、チャイ=ブレの寝所となっていた空間はアーカイヴの本質にして0世界の要ともいうべき場所です。私たちは『記憶宮殿』と呼んでいたのですが。『記憶宮殿』はロストメモリーの記憶を封印している場所でもありますから、あの場所になにかあれば、0世界の住民に影響が出ることも考えられるので、それも心配です」 レディ・カリスは語った。 彼女ははっきりとは言わなかったが、もうひとつ、懸念すべきことがある。 それは、混乱のうちに姿を消したダイアナ・ベイフルックの行方だ。……と、いっても、あの後、ダイアナがアーカイヴ内にじっと隠れ潜んでいるとも考えられないから、「いないことを確認する」ことになるだろう。 彼女により殺害されたリチャード・ベイフルックの遺体は、かなうことなら回収する。世界図書館の理事の一人でもある人物は、生前のその所業がどうあれ相応の敬意をもって葬送されるべきだからだ。=====!注意!このシナリオは、パーティシナリオ『新しい日のはじまり』『世界図書館ルネサンス』と同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる当該シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。=====
1 どこまでもつづく闇――深い深い奈落のなかに、ぼんやりとした光点がいくつも浮かんでいる。 それは銀河のようでもあり、不吉な鬼火の群れのようでもあった。 「……」 「どうかしたかね」 クロウ・ハーベストが歩みを止めたのへ、ジョヴァンニ・コルレオーネが問いかける。 「いや――。……ここがアーカイヴか……来たのは初めてだが、なんつーか、こう……グルグルする」 「確かに。吸い込まれそうになるの」 アーカイヴ深層。 その巨大な空間を前に、二重螺旋の石階段のはじまりに立ったものなら誰でも、いいようのない不安のようなものを感じるだろう。 それはクロウにとって、彼の能力を使用するときに感じる「世界を見失いそう」な感覚に、どこか似ていた。 「あの光……あんなもの、あったっけ?」 「前はなかったように思います!」 この場所に訪れた経験のある三ツ屋 緑郎と一一 一が言い交わす。レディ・カリスもそれへ頷いた。 「なにか起きているようですね」 目を凝らせば、無数の光は明滅している。あれがなんなのかは、降りて行って確かめるしかあるまい。 五人は、長い階段を下ってゆく。 「ロストメモリーは0世界に帰属する代償にチャイ=ブレに記憶を捧げる。そうであったな」 ジョヴァンニが誰にともなく言った。 「ならばここは記憶の墓場。追憶のカタコンベと言えようか」 「詩人ですね」 緑郎が微笑する他方、一は、眼下の闇を強く見据える。 ここにロストメモリーの記憶が貯蔵されているというのなら、知りたかった謎の答えもあるはずだ。 (知りたい) どうしても、その思いを止めることができない。 たとえそれが禁忌であったとしても……。 どのくらい下っただろう。 遠くに見えていた光の群れが、次第に近づいてくる。 球形のなにかが、いくつも空中に浮かんでいるようだ。見れば、遠目に光点と見えたそれは、なにかの映像を映し出しているようだ。まるでホログラフィーである。それが無数に、アーカイヴの暗闇に浮かび、ただよっている。 「あれって……もしかして」 緑郎の推測に、皆、頷く。事前にカリスから説明があったような、この場所の性質を考えれば、あれがなんなのかは想像がつく。 「こんなことが、あるはずは」 カリスが言った。 「すみません。近くで様子を見ていただいても?」 「わかった」 クロウは、螺旋階段から、深淵の上へと足を踏み出す。 だが万有引力によってそのまま奈落の底へ真っ逆さま――になることはない。そのような法則を無視する「理の外側」に立つことがクロウの能力だからだ。もっとも、この場所自体、そもそも、そうした常識の外にあるような気がしてならないが。 そう思いながら、クロウは、ふわふわ浮かんでいる光球のひとつに歩み寄った。 「どこかの風景だな。見たことない場所だ」 光球の中に映し出されている映像は、切り立った岩肌の、頂が平らになった、いわゆるテーブルマウンテンがいくつも屹立している様子をとらえていた。 ふいに映像が切り替わり、画面はクローズアップになって、テーブルマウンテンの上には集落が築かれているのがわかる。 壱番世界ではないようだったが、かといってどの世界なのか、クロウには見覚えがない。 人々の姿が画面にあらわれる。 素朴で簡素な服に、鳥の羽や動物の骨でできた飾りをつけた人々だった。それによりここが壱番世界でないことは確実になった。かれらはみな、額に第三の目をそなえていたからだ。三つ目の種族なのである。 真理数が見えないかと思ったが、見えなかった。といっても、かれらがロストナンバーであるという意味ではないようだ。なぜなら、推測が正しければ、この光景は…… 「あっ!?」 クロウが思わず声をあげた。 壮年の三つ目人に連れられて、楽しげに笑っているその少女は―― 「エミリエ……! エミリエ、だよな……?」 驚きに続いて、なにか言いようのない感情がわき起こってきた。 周囲には、ほかにもいくつもの光球がある。クロウは思わず、別のものへ近寄って、のぞきこんでしまった。 雨が降る密林が見えた。 そこに倒れている男性を見下ろすような構図だ。怪我をして動けない様子の……世界司書、モリーオ・ノルドである。 また別の光球の中には。 柊マナと思われる女性が、映画館のシートでポップコーンを頬張っている。 あちらの光球の中は、宇宙空間で艦隊が交戦中。この光景の中にもきっと誰かが―― 「……」 思いとどまって、それ以上見るのをやめた。 あたりを見回す。 上にも、下にも。 光球はまだまだいくつもあった。 めまいのようなものを、クロウは感じる。だめだ。これはだめだ。 青ざめた面持ちで彼はカリスたちのもとへ戻り、そして言った。 「記憶だ」 「やはり」 「記憶って……ロストメモリーの? それじゃ、この中には……」 『最初の世界司書』の記憶もあるはず――。一は、その言葉を呑み込む。だがその瞳は、ただよう光の群れにどうしようもなく惹き付けられていた。 「あ、あの」 我慢できずに、彼女は言った。 「私も見たいです」 「なぜですか」 カリスが、ひややかな瞳を向ける。 「あれがなんなのかは確認できました」 「でも」 「これは、かれらの人生なのですよ。本人さえ、もはや思い出すことのかなわない」 そうだ。 クロウが感じためまい、わきおこった感情は、その重さに圧倒されたことによるものだったのだ。 ここにあるのは、ロストメモリーたちが封じられることを決意したかれらの人生である。 「違う……違うんです。私はただ」 「わかるよ」 緑郎が助け舟を出す。 「レディ・カリス。チャイ=ブレや契約の事で僕らが知らなくていい事なんてないと思うんだ」 「……」 カリスは息をついた。 「そのために、記憶の墓暴きは必要ありません。……納得していない顔ですね。ひとまず今は、先へ進みましょう。道々、話します」 そう言うと、さっさと先へ行ってしまう。 ジョヴァンニはさりげなく一の肩に、なぐさめるように触れると、カリスの後を追いながら声をかけた。 「して、このロストメモリーの記憶たちは、普段はこのように浮かんでいるものではないのじゃな」 「むろんそうです。これはアーカイヴの機能に不具合が出ている証拠でしょう」 とカリス。 「悪い兆候?」 緑郎が尋ねた。 「わかりません。あれだけのことがあったのですから、アーカイヴがダメージを受けても不思議ではありません。逆にもっと壊滅的なことにならなくて幸いとも言えます。ここのある記憶群は、封印されてはいますが、ロストメモリー本人ともまだつながりをもっています。ロストメモリー自身に影響が出る可能性もあったのです」 「不具合なら、修理しなくちゃいけないんじゃない?」 「ええ。しかしアーカイヴには自己修復機能もそなわっていると聞きます。時間が解決してくれるかもしれません」 2 さらに下ってゆく。 チャイ=ブレに近づいていると思うと、緊張が高まらずにはいられない。 やがて、闇の中に沈んでいたアーカイヴ最深部の姿が見えてくると、 「これは……」 カリスが息を呑んだ。 彼女だけではない。全員、言葉を忘れてその光景に見入ってしまう。 そしてもっとよく見たい、とばかりに、階段を下りる足も早くなり、ほとんど走り降りるように、5人は階段を下り続けた。 アーカイヴの底の、広大な空間は、世界樹の根にびっしりと覆いつくされていたのだ。 だが動いてはいない。本体同様、すべて静止している。そして、根のあいだに、チャイ=ブレの異様な巨体が、変わらずあるようだった。 「アレが……チャイ=ブレ」 その姿を初めてみるクロウがつぶやく。 (アレがそうなのか。あの存在と……俺は――) すべての世界群を超越したもの。 その謂いは、『理の外』にあるクロウと、ある意味で同じということかもしれない。そう思うと、肌が粟立つような、心がかき混ぜられるような気持ちがする。だが少なくとも、見た目には、クロウとチャイ=ブレではあまり違いがあろう。 「眠っているのかな」 「そのようですね」 びっしりとはびこる世界樹の根は、あたかも脳の神経細胞を思わせる。 その中に包まれるようにしてあるチャイ=ブレをよくよく観察してみれば、眼(それが生物の眼と同等のものなのかはわからないにせよ)が閉じられているようだ。 世界中の根は、チャイ=ブレの巨体にからみつき、そしていくつかは、その身体に突き刺さってさえいた。ふたつの超越存在は、この場所で戦っていたのだ。チャイ=ブレの、世界図書館の建物をも丸呑みできそうな口が、世界中の根の束をくわえたままであることも見てとれた。 「世界樹が沈黙したあと、そのまま眠りについてしまったようですね」 チャイ=ブレの背に渡るための、空中を移動する足場はまだ機能していた。 だが、空間には根がはびこっているため、その中をくぐるように移動することになる。 そして、その合間にも、ロストメモリーの記憶である光球がいくつも浮かんでいた。 「チャイ=ブレはディラックの落とし子なんですよね」 一が聞いた。 「そもそもディラックの落とし子ってなんなんでしょうか。落とし子ってことは、ディラックの空から生まれるってことですか? じゃあ、ディラックの空って何なんです?」 「何でもないのです」 カリスは答えた。 「何でもありえない、絶対的な『無』。それがディラックの空です。落とし子たちはそこから生まれた。だから――」 「『知りたがる』?」 「ええ。……あるロストナンバーが、チャイ=ブレを評してこう言いました。『チャイ=ブレは寂しいのかもしれない』と。あれに人間のような感情はないでしょうが、言いえて妙かもしれません。真空が物質を吸い込むように、チャイ=ブレは情報を吸収するのですから。ディラックの落とし子はそういう、いわば、情報のブラックホールのようなものです」 「ではここにあるロストメモリーの記憶を、チャイ=ブレはなにかに利用しているというわけではないのかね」 とジョヴァンニ。 「その点ははっきりとはわからないのですが……情報を収集することそれ自体が、『イグシスト』たちの目的だと考えられています。それ以上のことは、あったとしてもわれわれには関知し得ないものですから。『イグシスト』とは『存在する』という意味。ディラックの落とし子は、絶対的な無のなかに出現した、ただ単なる存在です。おそらく出現自体には、何の意味もないでしょう。だからこそ、情報を欲する。それは人間的な目で見れば、『寂しいから』と解釈しても、そうはずれてはいないのかもしれません」 「ふむ。ただただ情報を集め続けるだけの存在か」 「でも仮にすべてを知ったとしたら」 クロウが言った。 「そいつはきっと何もしなくなるよ。『何かをする』事に価値を見いだせなくなる。人が『知りたい』という欲をもつのは、『知らない』ことがたくさんあるから。でも『知らない』ことがまったくなくなってしまったら? 大切なものも、大嫌いなものも、『すべて』の中に砂粒みたいに埋もれるんだ。意味がなくなってしまう。チャイ=ブレも、だからいつも寝てるんじゃないか?」 「哲学じゃな」 「それって、ロストナンバーになることと、なにか関係するんでしょうか」 覚醒は、真理を知ることによってもたらされるという。ならば。 「わかりません。ですが、『知りたい』と欲することで引き起こされる悲劇や災いは、数多くあったことでしょうね」 ちょうどそのとき、かれらを乗せた足場が、チャイ=ブレの背である森に到着した。 「あ」 緑郎が小さく声をあげたのは、茂みのなかにセクタンを見つけたからだった。 セクタンが生きているということは、チャイ=ブレは眠っていても、あの『生命の樹』と『知恵の樹』は機能しているということだ。その点では今までどおりである。 「ねえ、ここにあるナレッジキューブを少し持って帰ってもいい?」 緑郎はカリスに尋ねた。 「ターミナルの復興とか……いろいろ物入りになるでしょ?」 「必要ならセクタンが運んでくると思いますが……持ち運んでも構いませんよ」 「ありがとう。それと、さ。ひとつ聞きたいんだけど……。このまえ、貴方はチャイ=ブレを目覚めさせるためにここへ来ようとしていたよね」 「ええ」 「結果的には、ダイアナが来ていて、彼女が起こしちゃったわけだけど、もしそうなっていなければ……どうやって目覚めさせるつもりだったの?」 ふっ、とカリスは頬をゆるめた。 「わたくしが死ぬつもりだったのか、という質問ですか?」 「……」 「チャイ=ブレへ声を届けるには、契約者――『ファミリー』の血をもってする必要があります。ですが、それはほんの一滴でよいのですよ」 「あ、そうなんだ。……え。それじゃあ……!」 カリスの言葉は、かれらに衝撃をもたらした。 今まさに、かれらが分け入り、進んでいる茂みの先が、その現場だ。 ふたつの樹木のあいだに、うやうやしくしつられられた祭壇。『ファミリー』の儀式場。その場所で。 「……リチャードは……」 乾いた声で、ジョヴァンニが言うのへ、カリスは頷く。 「殺す必要などありませんでした」 「……」 深い息を吐きながら、ジョヴァンニは天を仰いだ。 神よ―― 思わず、そんな言葉が声なき声として漏れた。 ここにいかなる神がいよう。いるとすればそれはチャイ=ブレのことか。 ならばなんと不条理で、理不尽で、なんと残酷な神が支配する運命であったろう。 3 「そ、それじゃ、どうして」 「想像でしかありませんが」 カリスは美しい眉を寄せた。 「必要がなくなったということなのでしょう」 「ひどい」 一が搾り出すように言った。 「そんなのひどすぎる」 「……」 ジョヴァンニは、その場に踏み出す。 惨劇のあとは変わらず、そのままだった。したがって、リチャード・ベイフルックの骸も、そこに置き去りになったまま、無言で5人を出迎えたのである。 王侯貴族のごとき衣装も血に染まり、今やそれは乾いて変色している。 すっかり血が失われて皮膚に色はなく、うつろな瞳は濁って宙をにらんでいるのが、あまりに惨たらしく、悲愴であった。 「なんということじゃ」 ジョヴァンニはかぶりを振る。 「卿は愚かな男じゃった。しかしその無知は死をもって償わねばならぬほどの罪か?」 「俺は妖精郷の件は伝聞でしか知らないんだけどさ、リチャードは知らなかったんだよな」 クロウの言葉に、ジョヴァンニは頷く。 そして悲しげな視線を、よこたわる骸に送った。 虹の妖精郷――神秘的なチェンバーにつくられた玩具の街と、子どもたちの住処。 「他人には欺瞞の楽園でも、貴方にとっての妖精郷は愛する妻と添い遂げる安住の地……終の棲家じゃった」 ジョヴァンニはリチャードに向けて言った。 「貴方はただそこに、理想を創ろうとしたのじゃろう」 「リチャード卿は幼くしてきょうだいを失い……若い頃から福祉事業に心を寄せていたと聞いています」 カリスがそっと告げる。 「その夢を、妻とともに実現しようとしただけだったのじゃ」 「わかるよ。ただ、好意で行動してた。……あの環境も、死ぬ瞬間までそのままなら俺はいいと思うよ。どんな異常も、他を知らなければ正常だしな。でもそれを受け入れない子どもがいることも、そいつらの末路も知らなかった。……無知ってのは楽だ。でも……それだけだ」 「知らなかったのは、卿の愚かさじゃ。しかし、知らされなかったということもある。……儂にはわかる。卿は妻を愛していた。信頼していた。じゃがその信頼に、裏切りで報いられたのじゃ」 「殺す必要がなかったのに、あんな」 緑郎の脳裏に、あのときの光景がまざまざと甦る。 「ひどい。許せない。殺されていい人間なんていないのに」 一が声を震わせる。 「然り。……儂はダイアナを許せん。卿の純情を踏み躙った所業に義憤を感じておる」 ジョヴァンニは、彼のために、花を持参していた。可憐な白――いや、ごくごく淡い薄桃色の薔薇……アスピリンローズをそっと手向けると、彼の瞼を閉じさせるのだった。 「どうか安らかに、リチャード卿」 一同は、静かに、黙祷をささげた。 あまりにも凄惨な最期は、このとき、ようやく穏やかな哀悼の中に包まれたのだ。 リチャードの遺体回収も目的のひとつであったから、骸を包む白い布(シュラウド)が用意されていた。遺体を包み、担架でターミナルまで運ぶ算段だった。それから、然るべき葬送の儀が執り行われるのだろう。 儀式場の草地に布を広げ、ジョヴァンニとクロウが、リチャードの遺体をそのうえに動かそうとしたとき、ふいに、彼の服のふところがもぞりと盛り上がったので、クロウが思わず声をあげた。 「なんだ!?」 「む」 ひょっこりと顔を出したのは……フォックスフォームのセクタンだった。 「ジャック」 「えっ?」 人々が振り返った。 「ジャック。……卿のセクタンです」 とカリス。 するとセクタンは、するりと這い出すと、新たなセクタンが生み出されている『生命の樹』と、ナレッジキューブを実らせている『知恵の樹』のもとへと走ってゆく。そして。 「ああっ!?」 「おお、これは……」 ぽう、とセクタンが光に包まれたかと思うと、ぱあん、と弾け飛んだのだ。 周囲に、きらきらと、無数の光の粒がまい、スノードームの中の雪のように降り注ぐ。そのなかに……あの、宙に浮かぶロストメモリーの記憶同様、いくつもの映像が浮かび上がった。 「これ!」 一が勢い込む。 映像には、どれもリチャードが映っている。 「卿の――記憶か……!」 「それじゃ……! それじゃあ……!」 一は、思わず、降り注ぐ光の粒を掴んだ。 ぱっと、目の前に広がる……どこか豪奢な屋敷の一室で、テーブルについているリチャードと、『ファミリー』の面々――これは、いつ、どこの記憶だろう。探しているのはこれじゃない。これではなくて…… 「この中に!」 一は、次から次へ、光へと手を延ばす。シャボン玉がはじけるように、さまざまな場面があらわれては消えていく。 「なにをする。やめんか!」 ジョヴァンニが声を荒げた。 「だって……この中に! この中のどこかに! 答えがあるんですよ! 『ファミリー』たちの『真なる契約』、チャイ=ブレの謎も……ロストナンバーの秘密も……!」 「じゃが……卿の記憶は、卿のものではないのか」 「でも知りたい! 知りたいんです!」 「……それじゃチャイ=ブレと同じことになってしまうよ……」 ぼそり、とクロウが言った。 緑郎は、一の気持ちもわかる。たとえ妄執と言われても、捜し求めていた答えがあるのだとしたら。 思わず、彼もまた、降りてくる光の粒に触れてしまった。 ぱあっと、広がったのは。 (リチャードさま。リチャードさまあ) 子どもたち。 それはいつかの、妖精郷のある日の場面。 さざめく笑い声。玩具の兵隊たちが楽しげな音楽を演奏する中、リチャードが子どもたちに囲まれている。みな笑顔だ。リチャード自身も、柔和な、子や孫を見守る祖父のような穏やかな笑顔で。大勢の子どもらがリチャードの服をひっぱたり掴んだりしているが、ニコニコと応じている。 (今日は何をして遊んだ? おお、そうか。それは良かった) (明日も平和に楽しく暮らすがよい) (おまえたちはここにいる限り安全だ) (死も老いも病もない。ずっとずっと幸せなまま) (わしがおまえたちを、永遠に守ってやろう) (だから安心して、暮らしているがいい……) きらきらと―― 白昼夢のまぼろしのように、その美しい記憶はやわらかく溶けていった。 気がつくと、すべての光は地面に……すなわちチャイ=ブレに吸収され、なくなっている。 セクタンはもういない。 コンダクターが死んだとき、セクタンは飼い主の記憶とともにチャイ=ブレに還えるということか。 しばらく、誰も、何も言えないでいた。 「あなたたちに、あの方との面会を許可したのは、妖精郷を牽制する意図がありました」 カリスは、一に向かって言った。 「あの方こそ、かつてはエルトダウン家の当主であった方ですから。『ファミリー』はふたつの家の力の均衡により公正が保たれています。エドマンドが不在でも、あの方が自由は与えられないにせよ、まだおられることを示す意味があったのです。でも、それがあなたにおかしな火をつけてしまったようですね」 「それだけが理由じゃありません」 一は言った。 「私は自分たちが何故覚醒したのか、なぜ今ここに居るのかが知りたいんです」 「ロストナンバーの意味、ですか。残念ながら、その答は私も、そしてこのアーカイヴでさえ、答えることはできないと思いますよ」 それがカリスの答えだった。 「これは誓って、隠し立てしているのではありません。覚醒とは森羅万象のしくみなのであって、それに意味を見出すのは人のなすことです。あるいは、エドマンドならこう言うでしょうね。『答は旅の向こうにある』と」 「でもさ」 緑郎が口を開く。 「『真なる契約』のことなら、話せるよね」 4 「貴方はあのとき、『今はまだそのときじゃない』って言った。チャイ=ブレが一時的にでも目覚めようとしたあのとき、貴方の記憶の封印も解けたんじゃないんですか、レディ・カリス」 緑郎の視線がカリスを射抜く。 「勘違いしないで。責めてるんじゃないんです。……呪いも代償も儀式も生贄も――それがなんであれ、図書館とロストナンバーを成立させているものは、僕ら全員にとって無関係じゃない。貴方はそれが自分たちの罪だというけど、その罪は全員で背負う責任があるんじゃないのかな」 よこたわるリチャードを見る。 「彼はその犠牲になった。その責任ひとつとっても、僕は僕らが無関係とは言えないと思うよ」 「……私たちは」 カリスの瞳に逡巡の色が宿った。 四対の目が、彼女の次の言葉を待っている。長い沈黙。そして彼女は、口を開いた。 「私たちは、チャイ=ブレに至り、そして知りました。壱番世界が滅びの危機にあることを。だから『契約』によって世界図書館を創造しました」 「滅びを回避するために?」 「ええ、そう。でもそれは真実でもあり、虚偽でもあるの。たしかに、わたしたちは滅びを免れようとした。けど……その滅びとは、他ならぬチャイ=ブレによりもたらされようとするものだから」 しん、とした静寂が降りた。 頭上は闇。 ちろちろと、記憶の灯火がゆれる暗い宇宙だ。 「プラットフォーム現象の原因はとうにわかっていました。チャイ=ブレが、次に吸収する世界であることを決めた証なのです。世界樹が、ディラックの空をさまよい、手当たりしだいに世界を貪っていくのと違い、チャイ=ブレは長い長い年月をかけて、ひとつずつ世界を吸収してゆく。階層番号の順番に」 「!」 「チャイ=ブレが壱番世界の吸収を本格的に開始する時がいつになるのかは誰にもわかりませんでした。ですが世界群の情報を捧げ続けている限り、チャイ=ブレは一定の満足を得て、その時が先延ばしになるであろうと……それが、わたしたちのひとまずの結論だったのです」 「あ、貴方は……エドマンド前館長も、ヘンリーさんも……貴方たちはみんな、それぞれのやり方で救おうとしてくれていたんだ」 緑郎は、カリスの手を握った。 「……ありがとう」 「え」 「今まで僕たちを守ってくれていて、ありがとう」 「……」 「でもそんな重い役目は、もう独りで背負う必要はないよ。アリッサだってあの時よりもずっとたくましくなったよね、だから、大丈夫。貴方が血の道を進むなら、どうか僕達もその隣を歩かせて欲しい」 一拍の、間。 そして、レディ・カリスの瞳から、すうっとひとすじの涙がこぼれた。 * リチャードの遺体を運びながら、一行は地上への帰還を開始した。 チャイ=ブレは目覚める気配はまったくない。世界樹の根と一部が融合したようになったまま、死んだように沈黙していた。 0世界の大地が樹海と化したのは、おそらくこれが原因であるだろうとカリスは述べた。 0世界の風景はチャイ=ブレの意識が反映している。世界樹の情報がそこに混入することで、それが変化してしまったのだろう、と。 「レディ・カリス、率直にお聞きしたい。彼女の――ダイアナの居場所に心当たりは?」 「……」 「もしかして妖精郷に隠れてるんじゃないかな?」 と緑郎。 「夫妻がいなくなって、妖精郷にはあるじがいない。一時的に世界図書館が管理ってことで子どもたちを保護して……ダイアナに従っていたロストナンバーはしばらく拘束すべきじゃない?」 「それが妥当でしょうね。理事会によりダイアナ卿の権限は剥奪できるでしょう。そうなると夫妻の資産はヴァネッサおばさまが継承権を持つことになるけれど、そこはなんとでもなります。……妖精郷のすみずみまで、捜索を行いましょう」 「樹海は?」 クロウが発言した。 「樹海は隠れるのに格好の場所だ」 「その可能性もないとは言えません。さいわい、有志による探索が行われるようですし、その成果に期待しましょう」 「もうひとつ可能性があるの」 そしてジョヴァンニ。 「儂は英国に潜伏してると推理しておるのじゃが」 「そうですね」 カリスは肯定した。 「え、でも今はロストレイルが動かなくて……あ、『ラビットホール』!?」 一がその答えに至って、声をあげた。 「左様。唯一、壱番世界へなら直接渡ることができる。英国ならダイアナも勝手知ったる土地じゃ」 「ロバート卿を通じて、警戒したいと思います」 「して、レディ。ダイアナの目的はなんだとお思いか」 「……そこがわからないのです。チャイ=ブレによる世界の吸収を、受け入れているように思えましたが……」 「彼女はベイフルックゆかりの男性の骸を湖の遺跡に保管しておった。ヘンリーもじゃ」 「それ、気になってました。あれも、儀式のいけにえかなにかなんでしょうか?」 「でもヘンリーはファミリーの血筋ではないよね?」 「ええ。ラッチェンス家は両家とはつながりのない家です」 「ディラックの子孫だったりして」 「ディラックって、ディラックの空の? すまん、俺、よく知らないんだが……」 クロウの問いに、緑郎は、 「ディラックは壱番世界で最初に真理に到達したとされている人だよ。12世紀の修道僧だったらしいけど、後には錬金術師として伝わってる人物」 「詳しいな」 「会った事あるしね」 「ベイフルック家にとって、ディラックとはどのような存在なのかの」 「どのようなといっても……ただ、『虚無の詩篇』は、読むように言われていました。わたしたちは退屈で暗い詩だからとあまり真面目に読んだことはありませんでしたが……そういえば、ヘンリーは気に入って熱心に読んでいたような……」 「……儂はヘンリーの肉体は儀式の憑代にされるのではないかと恐れておるのじゃよ」 ジョヴァンニは言った。 「ダイアナがヘンリーを欲した理由も説明がつく。ここから先は想像じゃが、ダイアナはディラックを召喚しようとしているのではないのじゃろうか。ヘンリーという空の器に」 「……。だとすればヘンリーが0世界にいる以上は安全です。ダイアナ卿が奪いにこないよう、気をつけたほうがよさそうですね」 「よくわからないけど、私はダイアナさんを許せません」 一が言った。 「彼女は『ファミリー』の罪にも開き直っただけでしょ。それにロストナンバーが身勝手だなんて……そんなの、人それぞれ考え方が違うのは当然じゃないですか。ロストナンバーに限らずどの世界に生きる人々でもそれは変わらないのに」 「まあ、妖精郷の一件とリチャードを殺したことだけでも、十分、黒いよな」 「儂は、もう一度ダイアナに会ったら本心を聞きたいものじゃな。二百年連れ添った伴侶に一片の情も抱いてなかったのかどうか」 その後、『ラビットホール』が変わらず機能していること、そこから壱番世界のイギリスには転移できることが確認された。 妖精郷は閉鎖され、大々的な捜索が行われているが、今のところダイアナの行方は掴めていない。 妖精郷の子どもたちについては、ターミナルにいくつかある同様の施設や、引き受けを了承してくれるロストメモリーの里親たちのもとに預けられる算段が進められることとなった。 リチャードは、妖精郷の湖畔に、葬られることになった。裸の王様は、自らが理想を夢見た楽園の土に、200年を超える生涯を終えることとなったのである。 (了)
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