※ 月が低くて朱い夜に出歩いてはならぬと、寝物語に親が云い――、 今宵朱月が照らすのは、自ら咲いた朱花の群。討たれて尚も死に切れず、諍い已めぬ兵の群。そして夢幻の戦の渦中、何方より紛れた者か。貴き身形の女が独り、誰ぞ求めて彷徨い嘆く。長い黒髪尾を引いて、茂みの深くへ身を投げた。 其処に何かが在ったのか、俄か鎮まる朱花の園。 仮令何にも無かろうと、直ぐに騒めく朱花の園。 焔の色の海からは、淡雪にも似た肢体が出でて、天地の朱を浴びる狂喜に、朱の唇歪めて哂う。女の背には番い翅、女の尻には肥えた尾が。女の背には女が三人、女におべべを着せて遣る。今宵朱野に染まるのは、女の嬌笑、男の悲憤。 ――特に朱野の咲く山は妖が人を化かして喰らうと、子を誡めた。 ※ 例の如く骨董品屋『白騙』に招かれた旅人達は、売場を抜けて前座敷に通されていた。しかし、朱昏の話だと云うのに、今日は怠惰な虎猫も頓痴気な雀斑女の姿も見当たらない。鬼面の店主曰く「少々厄介な案件に立ち会っている」との事だが。「仕事についてはガラさんから詳しく窺っていますので、御心配無く」 客に茶を奨めがてら左眼を気安く細めてから、槐は自らも座して、語り始めた。「今回皆さんにお願いしたいのは、先日、僕のところへ魚拓と共に届けられた『あるモノ』に、懼らくは深く係るであろう事柄です」 それは大鯉の遺骸の中で守られる様に潜んでいた、謎の欠片。聴けば、彼の事件においては局所的な旱魃を引き起こし、対処にあたった旅人のひとりをして見目に似合わず強い力を感じるとも云わしめた、危うげな代物だ。「僕が見た限りでは何らかの祭具――それも、水晶球の様な物の一部では無いかと」 現時点で朱昏に最も精通している筈の男ですら、この程度しか解らぬ。故に世界図書館としても処遇を決め兼ねている状態だ。今後も零世界で保管するのか、朱昏の然るべき処に返すのか。何れにせよ、正体を識る必要がある。欠片を集め、調査と検証を行う。可能ならばこの白騙で修復する――それが、今の総てだ。 さて。その欠片に纏わる何かが、如何やら西国領内に在るのだと、槐は語る。「場所は花京からほぼ真北の、四方を山に囲まれた平野部。……嘗て、其処では将軍家に反旗を翻した大名が激戦の末討ち滅ぼされたのだ、と聞いた事があります。尤も、現在は野生の朱野が咲き乱れる花園となっているそうですけれど」 朱野と云えば超常なる事象を巻き起こす『朱』の、化身とも喚ぶべき植物だ。それが戦場跡に群生しているとなれば――。 聴き手の胸中を読んだか、鬼面の語り部は頷き、僅か声音を落として続けた。「ええ。御想像通り、其処には侍の死霊達が未だ無念に囚われ、彷徨い続けています、が――問題は彼らよりも遥かに厄介な、妖の存在が確認された事です」 妖は全部で四体。遠目には十二単を纏う姫君と取り巻きの従者達――或いは側女。だが、何れとも其の背には翅が生えており、着物の下には針を備えた太い尾が隠れている。「彼女達は生者が近寄れば捕食対象と見なして襲い掛かります。女王、もとい姫君は人語を解する様ですが、其の性質は人よりも寧ろ――蜂に近いかと」 謂わば、蜂の化生。攻撃的で残忍で、人の情けとは縁遠きものども。「さて、前置きが長くなりました。――皆さんにお願いしたい事はふたつ。先ずは蜂の姫君と側女方、死霊達の調伏。……云いそびれていましたが、如何やら蜂の方は、欠片と縁がある様子。それに、捨て置けば調査に支障をきたすばかりか、後々更なる災厄の火種と為り得ます。何れにせよ避けては通れません」 それは、化生との接触そのものが欠片の手掛かりとなる可能性を示している。「次に、欠片に纏わる調査です。導きの書に此の地が示された以上、少なくとも何かしらの手掛かりが隠されている筈――勿論、欠片が在るならそれに越した事はありませんけれど――それを如何か、見付け出して持ち帰って下さい」「ところで」 一頻り饒舌に物語った鬼面が茶を口に含み、一拍の間を置いて皆に向き直る。「御承知の事と思いますが、朱昏における朱とは、時として禍を喚ぶ一方、様々な用途に役立つものとして常日頃から親しまれてもいる、身近なエネルギイです。そして皆さんがこれから向かう場所には――」 そこ迄云ってから、槐は自ら言葉を失し、目を伏せた。「――……詮の無い事を云いました。忘れて下さい」 まるで、何かを託すべきか否か惑い、それを包み晦ます様に。「彼女達は、月夜の園に、その妖しくも美しい姿を顕す事でしょう。危険な相手です。相対する術を持たぬ者にとって、蜂が恐るべき存在であるのと同じ様に、ね。……悪い予感がします。くれぐれも、お気を付けて」 結局、控えめな忠告を添えるに留め、鬼面の主はそれきり口を閉ざした。
藍深き夜を照らす月。数多の世界に在るそれが今宵朱光を放つのは、未だ高空に無い為か、或いは此の地ならではの、妖気を孕む花に等しき由か。陰の光に浮かぶのは、明かりを更に色濃く染めた、風に戦ぐ朱い花。朱野と喚ばれる怪異の権化であり、同時にこの朱昏では人々の生活を幅広く助ける物。即ち、 「益にも禍にもなる力、と」 そう聞き及んでいるジューンの、やはり照らされ朱味を帯びた桃色の髪が揺れた。微かな駆動音を伴い、仲間に振り向いた為だ。髪と同色に光る瞳が捉えたのは、眼前の園より尚も赤い羽織を纏う美丈夫――灰燕だ。彼は煙管を吹かせてから、未だ何事か云いたげな唐繰仕掛けの女中に「ん?」と微かな笑みを浮かべた。 「焼却は最終手段では?」 「心配せんでも、そがァな無茶はせん。のォ、白待歌」 灰燕は視線を前方の園から自らの得物へ宿る鳥妖へ移す。灰燕の半身にしてジューンの懸念たる者は、応える代わりに白炎をふわりと一筋纏う。その胸中の窺えぬ眼ならぬ眼が見据えるのは朱野の群、と云うよりも――其処で繰り広げられる、刀傷や矢傷に頓着せぬ、透けた身体の侍達。斬り合い、貫き合い、斃れては身を起こしてまた殺し合う、無限にして夢幻の戦絵巻。西国を治める将軍家と、反旗を翻した大名家との、とうに終え乍ら未だ終わらぬ決戦模様。 一方で、その様を恍惚と見詰め、溜息を吐く魔の者が在る。 「朱い朱いお花畑に死霊まみれだなんて、なんて素敵なんでしょう。乙女心がトキメキますわ」 彼の者達と等しき死人の側に立つ、これまた赤い眼をした娘は、自ら死の魔女を名乗る。邪に口元を歪めて尚も愛らしく、そら怖ろしい事を口にする。だが、其処に悪意は無いのかも知れない。少なくとも死の魔女にとり、目の前の彼らは花園で戯れるお友達に過ぎないのだから。 「幾つかの異物を除けば、だけれど」 その異物がまさしく出でようとしている。何方よりか翅音が響いた。前か。後か。天か地面か。兎に角近付く耳障りなそれに、死の魔女は露骨に眉根を顰めて毒づく。 やがて亡者の身体に透ける園の遥か向こう、朱野の狭間に春色の着物の丸い背が浮かぶ。背と解るのは、あろう事か、生地に翅が生えているからだ。恰も嘆きに伏すが如き様は更に三つ、相次いでその周囲に、此方は何れも朱い着物として顕れる。着物は次々と身を起こした。長い黒髪をさらりと靡かせ、春色の――眼を凝らせば幾重にも着重ねたそれは、胸元より肩口を肌蹴て、顕わとなった柔肌を逸らせて一身に月光を浴びる。 「綺麗なもんじゃ」 灰燕は事も無げに、けれど素直な感想を漏らした。彼岸など遥か昔に通り過ぎた男の物見高さが他者の鼻をつく事は無い。美しいものは美しい。それで良いと。 「その綺麗でクソッタレな害虫どもを駆除して平和なお花畑を取り戻さなければなりませんわ」 けらけら哂う少女の並べた罵詈こそが、此度の目的ではあっても。灰燕は敢えて死の魔女の言葉に意を示さず、一方で本懐を遂げるべく無言の男、雀に「編み笠ァ」と聲を掛けた。僅かに面を上げ、無機質な眼を寄越した彼は先程から――そもそも此の旅に出てから、誰とも一切の言葉を発して居ない。 「さっきの話ァ覚えとるか?」 何事か手打ちをしたのか、そのものには言及せずそれだけ問う。編み笠こと雀は、やはり応えぬが、構わず灰燕は続ける。 「出来んかったらそれ迄じゃ。無理にせんでええ」 紫煙を吐く灰燕に雀はまた僅かに傘のつばを摘んで目元を隠す。是、と云う事か。それとも既に――斬るべき標的を定め、其方を見据えているのか。 何処か白々しい斬り合いの掛け声を、嬌笑が劈く。 それと同時か或いはより迅く、雀は身を低くして駆け出した。即座にジューンが追走し、灰燕と死の魔女は戦場の外から二人を見送る。亡者どもは程無く生者の存在に気付き、嘆き、悲しみ、憤りながら雀の元へ逼り来る。死の魔女とは異なる意味で、雀もまた彼らに近しい者、つわものだ。だが――、 「――!」 早速斬りかかる隻腕の武者、抜刀がてらその太刀を往なし鎧の脇に突き、割いて、雀は更に前進する。すぐさま二本の槍が互い違いに編み笠を狙うも、敢えて直線上に飛び込み篭手の継ぎ目を切り払い、次いで振り向き様にまた跳んでもう一体の首を跳ね、また走る。うっとりと此方を見詰める姫蜂に狙いを定めて。 彼我の差。その事自体に憐憫等の感傷は無く、彼は唯想う。 死者の渦中を駆け抜けて、死にも死を齎す己は、未だ生者の側に居る事を。彼らは待たず、己も待たぬ。故に駆けるのみ。そして総て、斬るのみ。 片や散華無き斬り合いの後方では、翅音が生者を討たんと群れ集う。藍と朱の狭間にちらつく無数の黄と黒。更に雀とジューンを早々に見失った侍どもが騒々と押し寄せる。非情と悲情の殺意の到来だった。 「高見の見物とはいかんか、」 灰燕が無造作に朱鞘より白刃を抜き、刃より尚白い焔を放つ。蜂の一群が巻かれ、或いは断たれ、中空に幾つもの小さな白炎が燈る。あわや死の魔女に火の粉が降り注ぐも、灰燕はこれをさり気なく差した傘で止める。 「あらあらご丁寧に」 「なァに、ついでよ」 「では私も……――さぁさぁ死霊さん達、そんなに興奮なさらずに私の言葉に耳を傾けて下さいませ。あなた方は今日から私のお友達になるのですわ」 けらけらとされこうべの如く哂い揺れる死の魔女は、禍々しき書物を開き高らかに告げる。聞こえているのかいないのか、尚も逼る亡者へ向けて、邪なる気がじわじわ逼る。 「……何故かって? 私が”死”を支配する死の魔女だからなのですわ。拒否する事はこの私の名において許されませんことよ」 目に見えぬ、されど黒いと認識される何かが、手近な亡者から染み込む様に一団を蝕んでゆく。彼らが少女の”お友達”になった証だった。その数半数ほど。 「ふ、ふ。好いひと達。……あらまあ、向こうの方々には解って頂けなかったのかしら? あなた達、説得してくれませんこと? 勿論、腕尽くで」 何処と無く黒ずんだ亡者達は、より後方から此方へ進む同類へばらばらに向き直り、一斉に――突撃した。改めて合戦の幕開けである。だが討てど討たれど悉く、展開された死の魔法の影響を受ける事だろう。つまり、 「一人勝ち、じゃのォ」 あれほど乱れていた亡者が何れ総て”お友達”になるのだとすれば、それは実に見事な手並みである。灰燕は些か物足りなくも想いはしたが、ともあれ傍らの娘の手並みに感心した。 それは前線の立ち回りをも好転させる。 ジューンは前方の雀が実に合理的で無駄の無い剣技を繰り乍ら、時折(あくまで彼女からみればだが)露骨に外して朱野を薙ぎ払ったり、また散らせ、飛ばしたりする様子の非合理な行為が見受けられるのを、人間式に云えば訝しんだ。委細は不明乍ら、懼らく灰燕の頼みに纏わるものなのだろうが――、 「雀様、御負担では?」 死の魔法により亡者の流れに隙が生じた折、語りかけてみても、雀は振り向きもせず黙々と淡々と立ち居地を代え、剣を振るい、只管に侍と朱野を刈り取るばかり。当人は何ら不都合を感じて居ないのかも知れない。 ふと、ジューンはその聞こえ過ぎる聴力が不自然なはためきを三つ検知する。次いで低空より二つの朱い羽織、もうひとつは? ――狼藉者め! 真上の聲に顔を真っ直ぐ向けつつジューンは後方へ跳躍する。紙一重で直前に居た茂みに薙刀が突き立てられた。前方では雀が既に二体の側女蜂と切り結んでいる。大きな翅がじじじと高速で揺れ、何事か合図を示しているのか一定の法則性が窺えた。 ――此処を何処と心得る! 『本件を特記事項β59-2、連盟未加盟星系内紛争時のアンノウンからの拠点防衛に該当すると認定』 ――穐原家が姫、さやのきみの居所であらせられるぞ! 『リミッターオフ、アンノウンに対する殺傷コード解除、アンチESPフィールド起動、事件解決優先コードA7、A12、保安部提出記録収集開始』 ――うぬら下賤の立ち入りが認められると想うてか! 『形状より薙刀と確認。バトルマスター起動。指定:ポールウェポン』 鋭くも筋の通らぬ斬撃を難なくかわし、ジューンは雀の居る方へ跳躍した。丁度彼も二人の妖の技を避けて飛び退き、図らずも背中合わせの格好となる。 側女達は各々が異なる速度で二人の周囲を交互に飛び、囲んでいる。そしてその向こうでは――妖しく笑んで此方を、獲物に舌なめずりする姫の姿。 「『最優先事項に該当する対象確認』……それでは私は側女蜂を担当する、ということで宜しいでしょうか」 ジューンが言い切るより迅く、雀が側女の一体の動きを読んで隙間を抜ける。手近な側女は無論往く手を遮ろう薙刀を振るうが、次の瞬間には諸手共に血飛沫を伴い宙を舞っていた。苦痛と憎悪に顔を歪める側女の両腕から、血液代わりに蜂がぼとぼとと零れ落ちて、また思い出した様に飛び始める。 ――待ちやれえっ……かっ、はっ!? 『薙刀を獲得。レーダーサーチ起動。地形及びクリーチャー位置確認』 既に姫蜂の元へと向かう怨敵に縋ろうと振り向いた側女の腰から腹を――四つの手に握られた薙刀が、貫く。そして、 ――ぅががががががががっ 夥しい量の放電を受けた側女は涎をたらし、刺さった薙刀に支えられ乍らだらしなくへたり込んだ。 ――傀儡風情があああ! 憎悪に掻き立てられた残りの側女が、己らに輪をかけて戦場に不似合いな身形と穏やかな面立ちの女。その不愉快極まりない存在の破滅を望み、突撃する。 「――『側女蜂の殲滅を、開始します』」 ジューンもまた、対象の抹殺のみを目的に、けれど彼女達に対する一切の感慨を永久に擁かぬ侭、稲光の如き踏み込みを以って応じた。 そして、真打もまた互いを認め合う。 亡者の層も薄まったとは云え未だ鉢合わせては切り結ぶことを余儀なくされるが、唯斬る事を信条とする雀にとって、それは利であって不利ではなかった。極論を云えば相手は何であろうと構わぬ。斬れれば好い。 死人なればこそ相互の無事など鑑みることなく挟んで同時に突きかかられる。雀は敢えて一方へ近付き身を窄めて払い難い姿勢を逆手に脚を、腕を、首を断つ。なればこそ背に逼る者との間も計り易く、振り向かずとも胴を両断する。つわものどもは断末魔をあげるでもなく芥となりて消え失せた。 更に側面の殺意へ水平に一閃。だがそれはぶつりと刃で肉を叩くに留まり、また振り抜きも出来ぬ。握られた――そう判じる刹那、編み笠の下から紅を引いたふくよかな唇が、く、と哂うのが視得た。 「さやのしもべとあそぶは、たのしいか」 刀身を握る白い手に力が篭る。伝って滴り落ちた血が、朱野に触れるより先に太った蜂と化して去る。ぶうんと通り過ぎる翅音に重ねて、姫――さやは、ほ、ほ、ほと哂い、身を屈めてつばの下から雀を覗いた。可愛らしいが若いのでもない、歳を測れぬ妖しき君。蜂が去っても、未だ聴こえる。さやの背にあるそれでは無い。地の底から響くような、無数の翅音。欠片は其処か。 「おまえもくわえてやってもよいぞ」 睫毛の濃い猫に似た目と視線が遭う。上機嫌なのに淀んでいて、陰気だ。加わるとは蜂か亡者か。何れこの刀に相応しいとは思えぬ。願い下げだった。 「ん?」 妖艶に誘う様は姫よりは花魁等にこそ相応しい。何れにしても興味は無いが、それは思わせぶりに擦り寄って来る。空いている手が伸びたので、雀は想わず振り払った――弾いたと云うべきか。さやは、あ、と小さく悲鳴を上げて、後ろ髪がするりと胸元へ流れる。だが気分を害した様子も無く。 「ぶれい……だが、それもたまにはよい」 「……………………」 埒が明かぬ。 小さく息を吐いた雀は――行き成り、さやの腹に当身を喰らわせた。完全に不意打ちだったらしく、「おっ、げ」と下品に呻いたさやの手から、俄かに力が緩む。すかさず雀は刀を鋭く引き抜くと共に後退した。白い指がぴぴっと二本飛ぶ。並みの相手ならば更に留めに向かうが、さやは掌を斬られる際に逆手の爪を振るう。まともな武には程遠い一撃だが空を裂く音は鈍く重い。捉えられればすっかり肉を削ぎ落とされかねぬ。 「おのれげろう!」 雀の断続的な思考は、一転して怒気に委ねるさやに遮られた。胸の谷間から、袖の口から、股の奥から、霧の如く蜂が溢れる。牙を剥き出す姫蜂に八双の切っ先を向け、雀はたん、と跳ねた。 互いの攻手が交わるより先にぶつかる視線。狭間を花弁がひとひら過ぎた。 雀と蜂の鬩ぎ合い。女中と側女の大立ち回り。二者より早く雌雄を決する果て無き戦の果てを見取り、灰燕は足元の朱野を数本摘み取り、くるりくるりと弄ぶ。赤でも紅でも無い、純然たる朱。その性質もまた、何某かの手を加えぬ限りは純粋な”力”に過ぎぬのであろう。唯、闇と妖気に過敏なだけの。 「益にも禍にもなる力……か」 灰燕は先のジューンと同じ台詞を語散て、含みのある視線を手元に向けた。 「如何されるおつもりですの?」 善からぬ企てをと想うてか、合い傘に与る死の魔女が期待に満ちた眼で灰燕を視る。灰燕は嗜好に素直な隣人に微笑を返す。少し強い追い風が吹き、戦を止めて腑抜けた亡者どもを擦り抜け、園を撫でる。 「手向けるのよ」 灰燕は、掴んでいた茎の房を徐に放した。解き放たれた朱野は地に落ちる事無く、その同胞に起きた波を螺旋を描いて追う。そうしてジューンと側女の元へ波が押し寄せる間際、最前迄二人を取り巻いていた白炎が、矢の如く自らを射る。気を焼く音で場を濁し乍ら――。 ジューンは些か手を焼いていた。 単体としては機動力、膂力共に懼らくジューンが側女を凌駕する。だが、敵は飛べる上、一体に狙いを定めてもその都度隙を狙われる。仮令視界外であろうと検知は容易いが、其方に反応すればまた別の側女が死角より飛来する。かと云って無視すればたちどころに畳み掛けられてしまうに違いない。薙刀を避けるばかりで手を出しあぐねている(ように視得る)女中を、側女はせせら笑う。 ――如何した情けない。 ――先の妖術はまぐれかえ? 若し人であったなら焦燥し、不覚を働きかねぬが、ジューンにそれは無い。彼女自身にその様な”機能”は備わっていないし、そもそも――、 ――あぎあぁ!? 追い風は其処彼処で散って飛んだ花弁を朱い吹雪に代える。 次いで轟音が追い抜いた。同時にジューンは大回りに飛び退く。同時に白炎に包まれた側女が無様な悲鳴をあげる。そもそも――今この時、好機が訪れる事を計算していた。しかし判らぬ事はある。白待歌の火の手は予てより認識していたより遥かに肥大していた。餌食となった側女ばかりか、その周囲で立ち尽くしていた亡者を幾人も巻き込み、火炎流と化している。其処は丁度、雀が切り開いていた辺りだった。 「これは……?」 ――何事か? 「……ちィと燃え過ぎじゃのォ」 灰燕は幾分控えめな表現を用い乍ら眼を細め、朱の世界を煌々と白く照らす己が半身の只ならぬ様子に思案する。 「『ちィと』って……随分じゃあありませんこと?」 さしもの死の魔女もこれには面食らったのか、呆れた聲で息を吐く。 白待歌が宙を漂う朱野を貫いた時の事だ。火矢が勢いを増し火球へと転じ、それが側女を穿ち。燃え上がる側女を芯に炎が吹き乱れた。白待歌には予め畑は焼くなと念を押してあるにも係らず、だ。あれが灰燕に背く道理は無く、ならばこれは――、 「――朱野」 他に原因は考え難い。想えば死の魔法も生者が感じる程の確たる気を帯びては居なかったか。しかし火の様な触れたものの悉くを傷つける力が溢れては。 「白待歌ァ! 焼くんなら月にせェ!」 ジューンの眼前で渦巻く白炎が微かに爆ぜて、細い火柱がぼっと昇る。半身の聲に我を取り戻した鳥妖が空へ逃れたのだろう。程無く地表の火勢は弱まり、後には螺旋状に剥き出し地面と、夥しい数の焦げた蜂の死骸が人型を為して横たわっていた。 ――憎し、憎しや! 最後の側女がジューンを討たんと鋭くも無策に逼る。ヴン、と空気が揺れた。 ――……あっ? 微動だにせぬジューンを目前に、側女は尻に針でも刺されたように仰け反った。ヴ、ヴ、ヴと翅とは似て非なる異音に合わせ、小刻みに痙攣する。やがて側女と、周囲の花が熱を発し、終に発火する。新たに華が乱れ咲くかの様に。 ――~~~~~~っっっっっ! 懼らく呪詛を叫ぼうとしたのだろう、側女は最後まで眼を剥き、口を開けて。その何れからも火の手が上がり、その身は瞬く間に燃えてぼろぼろと黒く崩れゆく。ジューンの電磁波に焼かれた周囲三歩圏内には、消し炭以外何も遺らなかった。 『側女蜂の殲滅を確認』 亡者の群れは沈静化しており最早障害ではない。だが随分白炎で仕留められたとは云え未だ戦場を多くの蜂が飛び回る。レーダーにて動向を把握していた姫蜂と、対峙する雀を視覚情報と照合すべく、女中は振り向いた。 雀はさや姫が上から強襲しても真っ向からは応えず、直進から背面へ回る。真下を通る際のみ低い姿勢を解いて足首を切り落とそうと一閃し、踵を削がれ苦痛と怒りで生じた隙と己の予備動作に抗わず身を転じ、漸く降りた姫の腰へ更に一撃を見舞う。着物の幾重かを切り裂き、溢れ出す蜂の群れより迅くさやの側面へ廻り逆袈裟を放てば、姫は形振り構わず腕を振るい力尽くで剣を止める。直ぐ剣を引いた雀は懐へ忍び、突きを臍に入れて抜き放ち後ろへ飛び退く。さやは血と蜂を吹くが、雀の肩を爪で抉る。その腕を雀は水平に削いだ。 「き、さま……よくも…………よくも!」 さやは憎しみに歪めて尚愛らしい面を雀に向ける。 「…………」 幾つかは手傷を負わせ、また幾つかは急所を貫いてもいる。人ならば既に斃している筈だが、これは中々斃れぬ。ならば斃れる迄斬り続けるだけ。しかし下手に踏み込めば先程の様に刀を捉われる。次は折られるだろう。そうなっては仮令これを斬り伏せたとて無意味。この太刀無くして己無し。 「……っ」 上体が冷たい。肩の傷が深いのか。これ以上長引くのは拙い。次で――。 「たれぞ、たれぞであえ!」 雀の思考は、さやの怒気を孕む喚聲に引き裂かれた。 「ほねのひとかけらまでくらい、ちのひとしずくまでしぼりすいつくせ!」 「あら、あちらの御方」 死の魔女がぴくりと片眉を上げる。 周囲を漂う蜂どもが引き潮の様に後退した。姫の元へ馳せ参じようとするものか。亡者に反応は無いが、遠くジューンの付近でも、絶命した筈の焦げた側女が二体、身を起こし、磁気に吸い寄せられた鉄の様に不自然な速度で飛び去る。 灰燕が気の抜けた聲で一応質した。 「どォした」 「やっぱりですわクソッタレ! あのアマ下等な虫けらの分際で私のお友達を横取りしやがる気ですのよ憎憎憎憎たらしい!」 如何やら死の魔女は己に近しい陰気を感じ取ったらしい。 「そうはさせるものですか! こうしてはいられませんわ。失礼」 妖しげな書物を胸に抱いて、死の魔女は足早に花園を駆けていった。 「……ほうか」 ふーっと、紫煙を吐き、灰燕もまた、ゆるりとした足取りで後を追った。 側女の背目掛け投げた鉄球は確かにその身を抉り貫通したが。 それでもジューンの追撃は一先ず徒労に終わった。避けぬのは、あれが既に死んでいるから、なのだろうか。側女であった物は意に介さず主の下へ尚も飛ぶ。ならば自分は――。次の瞬間、その場にジューンの姿は無かった。只姫蜂に向けて真っ直ぐに薙ぎ払われた朱野と、キュンと甲高い音だけが遺された。 蜂の軍勢と旅人が集結する中、雀の目の前ではそれ以上の異変が起きていた。 さやの殿上眉の上に触角が、十二単を貫いて節足が生え、元より備わる尾は尚も肥大する。それに伴い、さやはゆっくり宙へ浮かび上がると、かあ、と口を開く。雀は異形と着かず離れず円を描いて歩いた。次第に周囲の気配が層を増す。小さきものが無限に囲み、人間大の気配がふたつ。ひとつは雀と逆方向に滑空し、やがて姫の側へ寄り添い、もうひとつは、 「かかれ!」 姫の怒号と共に雀は前へ跳んだ。着地は身を翻して屈み、首の無い側女の抜き手を確かめて――直ぐに振り向き水平に薙ぐ。ぼたりと女の腕が落ちた。続き胴を両断しようとするも、更なる複数の気配に気付きこれも辞して横へ跳ぶ。雀が居た場所には鉄球が凄まじい速さで投げ込まれ、側女の胸に風穴を開けた。ジューンの援護射撃。それでも動きを止めぬ側女に、後方の焦げた側女が斬りかかった。 「なにごとか!」 驚いたのはさやひとり。雀にもジューンにも、最早至極当然な展開だ。 「何事か、じゃないですわ害虫風情が。私はお友達が沢山欲しいだけですの――ああ、なんでしたら。あなたもお友達に加えて差し上げましょうか」 「たわけたことを……!」 けらけらと哂う死の魔女の台詞は、奇しくも先刻のさやのそれと同義だった。 さやの瞳に宿る暗い炎が燃え盛る。時を同じくして一同の周辺には白炎が渦巻き、蜂群を焼き払った。その向こうから、黒傘を差してふらりと現れたのは、焔の主。灰燕だ。 「頭ァ冷えたか?」 『申し訳も御座りませぬ』 「気にせんでええ。それより――のォ、姫よ」 鳥妖との短い遣り取りを経て、灰燕は色町での口説き文句の様な調子と眼差しで、妖姫を見上げた。 「未だ続けるんか。それならそれで構わんが、視ての通りあんたの力ァ粗方押さえて仕舞っとる。如何もならんぞ。あんたが辛いだけじゃ」 どすの利いた甘言。無駄と知りつつ、灰燕は敢えて己が気紛れに任せ、問う。 「……――いまさら」 「あァ?」 さやの顔が俄かにひとのそれとなる。 「いまさらだわ。さやはとうにしにました。このちで。なにもかもおわった」 白い肩を震わせ、泪を浮かべ。それを振り切って、きっと灰燕を睨む。 「どうにもならない? そうさな、どうもなるまい!」 なればこそ、さや姫は殺戮と捕食に手を染める。それは自身の本懐か、宿せし蜂、或いは珠に因るものか。何故戦場にて果てたのかさえも。 「くろうてやる。ひとりのこらず。のこさずくろうてくれる!」 正気を置き去り、瘴気を纏い、さやは上空から四人に向けて蜂の奔流を放つ。 「まァそォ来るじゃろな――白待歌ァ!」 『承知』 直撃を白待歌が炎で薙ぎ払い、その隙に灰燕は死の魔女を抱え、雀、ジューンと三方へ散る。彼らの居た場所に在る総てが、急速な風化の如く小刻みに削れ、失われた。華も、側女も、元居た蜂や亡者でさえ。忽ち滅びた。呪い蜂とでも喚ぶべきか。しかしそれを視て戦慄する者は一人として居ない。 「ちょっとなんてことしてくれますの!? 折角出来たお友達が!」 小脇でぷりぷりする死の魔女を宥めるでもなく、灰燕は奔流の切れ目と、女中、そして彼女に駆け寄る、些か動きに生彩の欠く編み笠を順に見遣る。 蜂どもは花園を手当たり次第に貪っている。捨て置けば一帯があれに満たされ、さや姫の言葉通り遺らず食い尽くされるだろう。その前に片をつけなければ。 ジューンは周囲の呪蜂を焼き殺してから、近付く雀に眼を向けた。雀は先ず上空の姫蜂を指し示し、次いで自らの胸と鞘を順に叩いて最後にジューンの鉄球を握る手を差す。 「……了解致しました。――『灰燕様、此方側の蜂を焼いて下さい』」 「おォ!」 拡聲されたジューンの要請に、灰燕は傘を放り上げ――抜刀を以って応える。それ自体に刃は無いが、刀身より放たれた白待歌の白炎が巨大な炎刃と化し、ジューン達の上空が焼かれ、切り開かれた。其処へジューンは鉄球の代わりに雀をサイドスローで文字通り投げた。小柄とは云え決して軽くは無い鍛えられた身体を、女中は小石の様に軽々と天高く迄送り届けた。 果たして蜂の層をも越えて、雀はついにさや姫の僅か頭上まで上り詰める。 優位だ。この位置ならば傷も関係ない。斬るだけ。 「どこまでもめざわりなすずめが!」 正眼より刃を振り下ろす雀にさやが手を向ける。だが出でた蜂は突如立ち上る白炎に焼かれ、更にさやの肩へ、地上から鉄球が打ち込まれた。身を捩る憐れな女に、それでも雀は躊躇無く斬撃を今しがた窪んだ鎖骨から袈裟懸けに、ずぶりと差し込む。 「い、や」 拍子抜けな程簡単に、刃は深く深く沈み込む。 「いやああああああああああああ」 さやの悲鳴を余所に得物が胎へ達した折、その内より血の代わりに鈍く妖しい光が漏れる。かと想えば雀は両肩と胴を鷲づかみにされた。 「……っ」 「なぜ、なぜおまえたちさむらいは、おとこはっ」 さやは総てを語る前に感極まり、血涙を流して雀の肩を噛み千切った。 「…………!」 刹那、雀の意識に走馬灯にしては乱暴な記憶の奔流が迸った。 ※ 焔の中だ。見覚えの在る合戦、此の地の光景。未だ朱野は無い。誰だ。戦場には不似合いな姫君。さや、か。敵の側女を伴い。誰を捜す。敵の大将――将軍家の者ではないのか。結納を前に互いを見初め乍ら。破談? 戦を仕掛けた故。穐原への恨みを捨てられぬと。だがさやは想いを捨てられぬ。せめて末期を共にと。勝鬨。敵将が討ち取られた。そして、さやは。 熱い。 祭壇。目隠しされ傅く娘と陰陽珠。祭祀と巫者と思しき女の背。見守る民。 痛い。 ・珠が砕け散り天へ? 吹き荒れる朱、先の白炎の様。うろたえる祭祀。愚かな。苦しむ民。逃れる娘――哂う女。狂おしい程可笑しいか。 眠い。 女、尚も哂うか。どこかの村。荒地だ。散らばる屍。珍しくも無い。だが一帯に立ち込める朱は如何だ。霧、でも無いのか。……何だ。此方を、俺を視ている。何故此方が解る。 寒い。 ……ターミナルに似た街並み。雑踏。噂に聞く東国か。 熱い。 ・焼き討ちだ。これは神社か寺社か。悲鳴と――あの女の、嬌笑。 ※ 雀は、白い火に包まれていた。道理で熱い筈だ。肩が焼けて止血されている。目の前には事切れたさやの面。三人は、落ちている最中だった。この鳥妖も、あれを視たのだろうか。どちらでも構わぬが。 『…………』 「…………」 雀はぞんざいにさやの手を振り解き、また胎を蹴飛ばして離れ――下で待ち構えていたジューンに受け止められた。 一方で白待歌は宙でさや姫を焼き尽くしたが、その胎から割れた胡桃の殻に似た物が、朱野の茂みに落下した。妖しき光を放ちながら。 いつの間にか、花園は鎮まり、空は白み始めていた。 灰燕の手には、古びて割れた雀蜂の巣が在る。つい先程白待歌が視た光景と併せて報告を受け、拾い上げた物だ。傾けると中で何かが転がるのが判った。 側で覗き込んでいた死の魔女は、ばっくりと開いた処に手を入れ、それを摘み上げてにやりと哂う。 無色透明乍ら朱い光を薄く帯びた、謂わば災禍の破片。 「……やはり在るかよ」 「想った通りでしたわ」 朱野の群生。姫蜂の出現。何れもこの欠片が関与しているとみて良いと、死の魔女は考えていた。懼らくはその通りなのだろう。 「きっと禁忌に違いないのですわ。きっと触れちゃいけない何かなのですわ。とてもワクワクしますわねぇ」 お友達の事はもう忘れたのか。いつしか機嫌を取り戻した死の魔女の隣で、灰燕は只「ほうじゃな」と応え、煙管に口をつけた。その危うさを肌に感じ乍ら、心地良いそよ風でも浴びるかの様に。
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