じっとりと湿った闇を背景に、苦しげな息遣いが聞こえる。 ちろちろと揺れるランタンの灯が、無残な光景が浮かび上がらせていた。「どうかな。絶望の味は」「……」 ぎしり、と鎖が軋る。 一人の男が天井から吊られていた。「きみは見たのかな? 自分が死ぬという運命を……きみの『導きの書』で」 相対する人物が、楽器を奏でるかのように指を動かす。 ひゅん――、と、空気を裂く音がしたかと思えば、呻き声がそのあとに続く。 石の床にしたたる鮮血。 吊られた男のシャツは、もとは白かったようだが、今は泥と血に汚れ、ぼろぼろに裂かれていた。その下で、苦しげに上下する男の胸には何本もの細い傷が走り、血が流れ出している。「きみが、ここで、死ぬという運命は……もう変えられない」 闇の中に、細い光の線が躍った。 ぐっ、と、男の喉が鳴る。目を凝らせば、一瞬にしてそこに巻きついた鋼の糸が見えただろう。「この指を引けばそれで終わり。一瞬だ。けれど」 糸はするりとほどけた。「まだだ。……きみはゆっくりと死んでいくんだ。もっとゆっくりと」 男の黒い瞳が、鋼糸を操る人物の動きを追う。 ランタンの暗い炎を、脂汗にまみれた男――世界司書、モリーオ・ノルドの頬が照り返した。 その瞳に何を読み取ったのか、相手は満足そうに笑いを漏らした。 表情はわからない。 なぜなら、その人物の顔は、鉄仮面に覆われていたのだ。 ◆ ◆ ◆「やばい! やばすぎる!!」 忙しなく机のうえをぐるぐる動き回っているのは世界司書アド。勢い余って机に置かれていた誰かのマグカップにぶつかって倒しさえしたが、その落ちつきなさを注意するものなどいない。「探しましょう」 ラファエル・フロイトは言った。「犯人が誰であれ、モリーオの身に危険が迫っていることは間違いないのですから」 数日前、ラファエルはモリーオに店で出すハーブティーのブレンドを頼んだ。トラベラーズノートを通じて了解の返事があり、ひとつの日付を挙げて、その日に店に持っていく、とモリーオは応えたのだった。 しかし約束の日になっても姿をあらわさなかったため、ラファエルは、司書の仕事が忙しいか何かで来れなかったのだろうと思い、店が退けたあと、自宅に寄ることにしたのである。 しかし、そこでラファエルが目にしたものは、荒らされたモリーオの自室だった。 司書の姿はなく、受け取るはずだったハーブティーの茶葉が床に散らばっていた。 ラファエルは胸騒ぎをおぼえ、図書館へ駆け込んだ。 アドを捕まえて事情を話したところ、モリーオは今日も出勤していたという。なにかあったとすればその後だ。 手がかりをもとめて『導きの書』をめくったアドは泡を食った。 予言はいずことも知れぬ場所で世界司書が殺害されゆく未来を告げている。殺人者の顔を覆うのは無機質にして非情な鉄仮面。「あのさー、関係あるかわかんないんだけど」 図書館ホールで善後策を話し合うラファエルたちに、エミリエが話しかけてきた。 エミリエも事情を聞いて調べてくれていたのだ。「モリーオさんが家に帰ったくらいの頃、近くでダレス・ディーを見たひとがいるの」 ダレス・ディーとは世界図書館のツーリストだが、過去にモリーオの依頼をよく受けていたという。だが最近はすっかり姿を見なくなっていたとも。 ダレスは外見は壱番世界人のようで、金髪碧眼の好青年。人当りは爽やかな人物だ。 だが本当は見た目どおりの存在ではない。 ロストナンバーたちの中には、消失の運命を免れる唯一の方法として旅客登録を受け入れてはいるが、それを「できれば受け入れたくない束縛」と考えているものもいる。ダレスもその一人だった。 ダレスは魔力を持つ人間たちが争い合う過酷な世界からやってきた。 彼の能力は強力な『魅了』のちから。一瞬で人の心を掌握し、本人さえ気づかぬうちに従わせる。その魔力を振るうことに何の良心の呵責もないため、冒険旅行においてもやりすぎと思えるような行為が目立った。 モリーオは、時に出かけた異世界の現地の人間を踏みにじるようなやり方は、たとえ任務を遂行したのだとしても褒められない、と言った。 何度もそんなことがあって、しだいにダレスは冒険旅行そのものに関心を示さなくなった。「聞いた話だと、地下の都市遺跡にねぐらがあって、ずっと籠りきりだったらしいよ」「それが急にあらわれたのはおかしいですね。しかも過去にモリーオとトラブルがあったというなら……あやしいと言わざるをえません」「待ってくれ。予言では犯人は『鉄仮面の男』なんだぜ?」「ダレスが仮面をかぶっていたのでは?」「なんのために!?」「それはわかりませんが……。エミリエさん、ダレスのトラベルギアは?」「『手袋』だよ。手の甲についた宝石から光線を出すの」「予言じゃ犯人は『鋼の糸』みたいなの使ってたぜぇ?」 消えたモリーオ。司書が死ぬ予言。ダレス・ディー。そして鉄仮面。 浮かび上がるのはちぐはぐな情報ばかりだ。 だが、ひたひたと何かが忍び寄ってきていることを、誰もが感じていた。その何かは鉄仮面をかぶっており、その中には、したたり落ちるほどの、深い悪意が詰まっている。=====!注意!シナリオ『【鉄仮面の亡霊】悪という命題』『【鉄仮面の亡霊】スノウホワイト黙示録』への、同一のキャラクターによる複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。また、企画シナリオ『シュレディンガーの思考実験』の参加者の方は両シナリオには参加できません。=====
1 「本件を特記事項β5-21、ESPテロリストからの人員保護に該当すると認定。リミッターオフ、アンチESPプロテクト起動、テロリストに対する殺傷コード解除、事件解決優先コードA7、保安部提出記録収集開始」 ジューンがすべらかにモードを移行するのは、普通人における感情の反応のようなものかもしれない。 世界司書の殺害を企てるツーリストに、みな、思うところはあるだろう。 クリスタル・パレスには、事情を聞いた4人のロストナンバーが集まっていた。 「情報通りとらえるならば、『鉄仮面の人物』とダレス・ディーは別人と受け取れるが」 すべての事情を聞き終えたあと、うっそりと、ヌマブチが言った。 「黒幕と実行犯、犯人は少なくとも二人以上の複数犯ってことだな」 と、ヴァージニア・劉。 「断言はできないかと思います」 あくまでも冷静に、ジューンが言った。 「トラベルギアが異なる、ということであれば、ギアを交換することも不可能ではありません。また、ギアとは別に武器を持つこともできます。厳密には『鉄仮面の人物』とダレス・ディーが同一人物と結論できるだけの情報がない、というべきです。もちろん別人という可能性も完全には否定されていませんが」 「『導きの書』の予言だからといって頭から信頼できるとも言い切れん。司書の昏睡事件でもあきらかなように、チャイ=ブレとアーカイヴには異変が起きている昨今だ」 ヌマブチが言い添えた。 「おい、まてまてまて。まてよおまえら」 口を挟んだのはティーロ・ベラドンナだ。 「いいか? 情報が錯綜している時に大切なのは、あれこれ考えることよりも、腰を据えることだ」 皆の視線が集まるを受けて、ティーロは咳払いをひとつ。 「つまり最優先事項を決めるってことだ。――それはモリーオの救出だよな? 違うか?」 「異存はない」 「同意します」 「それで、どうする」 「……まァ、まずはモリーオの居場所を掴むのが先決だわな」 ひとまず、劉とヌマブチははっきりわかっている唯一の事件現場である司書の自宅へ。 ティーロとジューンはクリスタルパレスに残り、ティーロが魔法で収集する情報をジューンが分析することになった。 「無線機です。連絡手段は複数必要かと」 イヤークリップ型の無線機が、ジューンから手渡された。 モリーオ・ノルドの住む家はクリスタル・パレスからそう遠くない。 「ダレスがかかわっているとして」 道すがら、ヌマブチは言った。 「なぜ今になって行動を起こしたのかが謎だ」 「ずっと腹に据えかねてたってことかね。都市遺跡に籠って暮らしてたって? 俺も人嫌いのひきこもりだからな。奴の気持ちもわかる」 「彼奴は己の考え通りに行動しただけなのだろう。世界が違えば常識も違い考え方も異なる。そうしたものが集まって暮らしているのがこのターミナルというところだ。こういった事件は起こりえて然るべきだとも言える。あそこだな」 温室の、硝子の屋根が目印だ。 「だな。……邪魔するぜ」 誰もいないとわかっているが、一応ことわって、ふたりは戸口をくぐる。 敷地のほとんどは温室と園芸道具などをしまう納戸で占められており、あとはごく簡素な生活空間が、温室に寄り添うようにあるばかりの家だった。 中の様子はラファエルが語ったとおりだ。 椅子は倒され、棚からものが落ちている。 「立ち回りがあったらしいな」 「ふむ」 ヌマブチは戸棚のガラスが割れているのに目をとめた。割れて残った、尖ったガラスの先に、わずかに付着した赤。ヌマブチは慎重にガラス片を引き抜くと、そっと布で包んだ。 一方、劉は床に靴跡を見つける。寝室からモリーオの靴をとってきて比べてみるが違うようだ。 靴跡のうえで乾いている泥をすくい、容器に取った。 「血液サンプルについて解析しました。寝室から採取されたモリーオ司書の頭髪の遺伝情報とは一致しませんので、襲撃者の血液と推定されます。ダレス・ディーの遺伝情報が手元にありませんのでダレスであると同定はできませんが、壱番世界人の血液ではないので、『鉄仮面の囚人』ではないと思います」 「っていうと?」 「『鉄仮面の囚人』は前館長の血縁という情報では?」 「ああ、なるほどな」 頷く劉。淡々と、ジューンは続けた。 「次に靴跡から、襲撃者は身長176センチ前後の男性の可能性がもっと強く推定されます。これはダレスの外見特徴と一致します。土の成分は、ターミナル百七十二番地の花壇の土とわかりました。ティーロさんが同地にて同じ靴跡を確認。犯人の移動経路と思われます」 「いつ行ってきたんだ」 「魔法だよ。今、こいつをターミナル中に飛ばしてんだ」 ふわふわと、ラップの切れ端のようなものが空中を漂っていた。 「……魔法か。居ながらにしてなんでもわかるなら、貴殿に任せるのでよかったな」 ぼそり、とヌマブチが言った。 「そいつは皮肉か、それとも嫉妬か。あいにく俺も万能じゃないんで、ターミナルまるごととなると骨が折れる。少しでも地域を絞り込めて助かった。もう少し待ってくれな……」 言いながら、ティーロは腕を組んで難しい顔をしている。集中して魔法を操っているのだろう。 ヌマブチは無言で軍帽のつばを下げた。 「襲撃者がダレスなら、彼は司書を誘拐するのにも魅了の力を使わなかったのですね」 ジューンが言った。 そうなのだ。 ダレスがモリーオを魅了で支配できなかったはずはない。殺す瞬間は、恐怖や苦痛を味わってもらうために魅了を解いたとしても、その前段階では魅了したうえで、たとえば「数日、休暇をもらう」とでも言わせておけば、司書が消えたことに誰も不審は抱かなかった。そのあいだに悠々と目的を遂げられたはずだ。 それなのに、部屋の様子からは、ごく乱暴な手段でモリーオを拉致したことが見てとれる。 「魅了ってなぁ、心の麻酔だろ」 劉が言った。 「一瞬でも与えたくなかったのさ。そんなに、憎くてしようがなかったのかねえ」 2 「モリーオの居場所がわかったのですか!」 ラファエルが駆け込んできた。 テーブルのうえには模造紙が広げられ、そのうえに消しゴムやら飴玉やら置かれているのは、これをコマになにか作戦会議があったのだろう。 「ラファエル」 ティーロが、いつになく真剣な面持ちで口を開き、壁を指した。 そこにはいくつかの映像が浮かび上がっている。見たところクリスタルパレス店内のようだが―― 「もし、オレらが戻らなかったら、こいつを見て何が起こったのかを掴んでくれ」 ラファエルは鋭く息を呑んだ。 あの映像はティーロたちの行く先が、魔法によって中継される類のものなのだろう。万が一、かれら4人が全滅したとしても、かれらが見たものはここでラファエルも目撃することができる。そういうことなのだ。 「どちらへ」 「予想どおり都市遺跡の一画だ」 ラファエルは面々の顔を見渡すが、誰も何も言いはしなかった。 すでになんらかの作戦が打ち合わせられたのだろう。それに賭けるよりない。 ターミナルは、アーカイヴ遺跡のうえに築かれた多層都市。 増築に増築を重ね、古くなった場所は放棄されてそのうえに新たな都市が築かれてきた。 都市遺跡とは、そうした、すでに忘れられた街区の跡である。 都市遺跡は、基本的には廃墟であり、立ち入るものも少ないが、皆無ではない。不変の天候を厭い、闇と静けさをもとめてこの廃墟に棲みつくものもいるという。 そうした「地下の住人」のなかには、剣呑なものたちも少なくない。 また、建物は老朽化が進んでいることもあって、都市遺跡は危険な場所だと認識されていた。 今―― その闇のなかを歩く人影がふたつ。 劉とジューンだった。 劉はヘッドライトを着けている。なんとも野暮ったくうつるが背に腹は変えられない。ジューンはセンサーによって不自由ないため照明は持参していなかった。 ヘッドライトは複雑な廃墟の構造にいくつもの影をつくる。そのなかに敵が潜んでいないとも限らないが、そこはジューンが頼りである。 「まるでラビュリントスだな」 ぽつり、と劉はつぶやいた。 着た道に、劉は糸を巡らせている。 ふと、彼は足を止めた。前方に、ぼんやりと灯りをみとめたからだ。 「183メートル先。街路が右手に折れます。その先に熱源を2体、確認」 ジューンと頷き合い、劉は額の照明を絞る。 そして…… 「……ダレス……」 低い声が、そっと名を呼んだ。 ダレス・ディーは顔をあげる。ランプの灯火が照らすそのおもては、端正だった。 「きみは……自分が『悪』だと思うかい」 「……」 ダレスの瞳は穏やかだった。 やがて彼が口を開いたとき、流れ出す声音もまた、甘い。それでも。 「あなたたちの法においては悪なのだろうね」 そこには、深い憎しみが込められている。 「そういう……ことじゃないんだ……。自分自身を、『悪』だと感じるかどうか、だ……」 冷たい石の床に、モリーオ・ノルドは膝立ちの姿勢でいる。首と、後ろ手にされた両手首とに鎖が巻かれ、天井の滑車につながっているようだ。姿勢を崩せば、一息に首が絞まる。そのままでいれば息はできるが、同じ姿勢を保ち続けるのは存外、苦痛なものだ。まして、散々、痛めつけられたあとでは。 司書の半身はおそらく本人も気づかぬうちにふらふらと揺れはじめていて、長くはもちそうになかった。 「僕は質問されることは好きではない。特に質問者が答えを知っている場合は。そうやって少しでも僕の優位に立とうという魂胆かもしれないが、気に入らないな」 ダレスはモリーオに歩みよると、その腹をつま先で蹴った。 低い喘ぎ。じゃらり、と鎖が音を立てる。 「……」 ふと、ダレスは耳を澄ます。 「……さすがに早いな」 彼は背後の闇を振り返った。 モリーオを残したまま、大またにそこへ歩みよる。 ひゅん――、と、風を切る音が走った。 ダレスの頬に細い傷がかすり、同時に、音を立ててランプが割れた。 「小賢しい!」 閃光が、闇を穿った。 「っ!」 ダレスの手袋型トラベルギアが発した光線が、劉を撃った。だが彼はその衝撃に耐えて、跳躍する。彼が上方の暗闇のなかを、蜘蛛のように這う。空中浮遊か……いや、違う。糸が張り巡らされているのだ。 「そうさ、俺の得物もあんたと同じ、どっちが強いか試してみるか」 劉が中空をたぐるようにすると、再び空気を裂くような音とともに、ダレスの着衣のあちこちにかぎ裂きができた。 「よくも」 ダレスの秀麗なおもてが、醜い怒りに染まった。 そのとき。 「!」 劉は見た。 闇が。 闇としか形容できない黒い霧のようなものが、ダレスの足元から沸き起こり、その身体を這い登ってゆく。それは音もなく彼の頭部に結集すると、たちまちにそこを覆い尽くした。次にまばたきしたときには、そこにあるのは武骨な鉄仮面だった。 ずぶり、とダレスの両手が、自分自身の胸のなかに入ってゆく。彼は両腕に力をこめて、そこから幾本もの鋼糸の束をひきずり出した! 「こいつ、体内から武器を……ッ!」 ダレスの鋼糸が闇のなかを飛ぶ。 すでに仕組まれている劉の糸とぶつかり、糸同士が複雑に絡み合っていった。 「なんなんだ……!? あの『仮面』は一体!」 劉はさらに跳んだ。 だがそのとき、ダレスも彼を追ってきていた。 糸から糸へ飛び移る。異様なスピードだ。気づいたときにはもう、劉の眼前に『鉄仮面』が迫っていた。 3 「ぐ……っ!」 ダレスが劉を蹴った。 バランスを崩した劉の身体は、あえなく自由落下の法則にとらわれる。だが、劉は落ちながら糸を放った。 しゅるるる、と糸が幾重にもダレスに巻きつく。糸を端をもったまま、劉は落ちる。 「かかったな、このまま俺が落ちれば、俺の体重が糸にかかっておまえはバラバラだぜ!」 そう言う間にも糸はダレスの身体のうえを滑り、血があふれだす。 「……バカな。……おまえ、『糸を離せ』」 「!?」 劉は、自分の手が鋼糸を手放すのを見た。 なぜ、と思った瞬間、地面に叩きつけられている。 痛みと衝撃に呼吸が止まる。身悶える劉の傍に、ダレスが優雅に着地した。 「僕の能力のことを聞いていなかったのか。……ちょっと遊んでみただけさ。おまえは僕に会った瞬間から、僕に支配されているのさ。『そこにじっとしてろ』」 「ッ!」 起き上がろうとする劉は、その姿勢のまま凍りつく。 それには構わず、ダレスはつかつかと歩みを止めない。 「気づいているぞ、出てこい!」 手袋からの光線が闇を撃つ。 だが襲撃は別の方向から。音もなく忍び寄っていたジューンの攻撃だ。 見た目は優雅なメイドでも、リミットを解除した彼女の一撃をまともに受ければひとたまりもない。 「『止まれ』!」 「……」 ジューンの手刀がぴたりと止まる。 機械さえ魅了し、支配する。ダレスの力は強力だった。 (魅了される前に殺傷する、しか手はないかもしれません) 事前のブリーフィングで、ジューンは言った。 (ですが私の攻撃方法は至近のみです) (やつの魅了は、どうやって引き起こされる? 声なら耳栓、視線ならサングラス……それで防げりゃ世話ねぇか) そう言ったのは劉。 (小型のスタンガンだ。こいつを自分にバチッとしてだな。正気を保つってのはどうだ) (支配されてしまってからでは、そのような行動がとれないのではないか) ヌマブチが言う。 (遠距離からの攻撃が妥当であろう) (だな。劉とジューンに囮を引き受けてもらって……ヌマブチが遠くからしとめる。俺が魔法でヌマブチの姿を隠して、万一の場合も援護する) ティーロが言うのへヌマブチは頷く。 (よさそうでありますな) だから、劉とジューンが魅了の支配下におかれたのは想定内だった。 ヌマブチは暗視スコープの中で照準を合わせる。 強力な麻酔銃だ。ダレスを無効化するのが目的である。事件の背後関係を尋問する必要があるからだ。 今回の事件は個人的な怨恨だけとは限らない、とヌマブチは考える。ほかならぬ『鉄仮面』がそれを暗示しているのだ。 照準が、ダレスをとらえた。 ヌマブチはひきがねを引く。 サイレンサーによって絞られた銃声だけが発せられる。狙撃手としての彼の腕は確かだった。弾丸はたしかに、ダレスに命中するはずだったのだ。 「何?」 なにが起こったのか、せつなにはわからなかった。 予測していたように、ダレスが倒れなかったのは確かだ。 そのかわり、暗視スコープのなか、こちらへ駆けてくるジューンの姿がある。 「そうか、魅了か!」 『僕を守れ』――ダレスはそう命じたのだろう。ならばジューンは忠実に行動する。彼女なら狙撃から彼を守るのも容易い。身を挺してかばっても、アンドロイドに麻酔銃など無効。 「失敗だ、ティーロ殿っ!」 ヌマブチは振り返り、そこに誰もいないのを見る。 「!?」 こんなときのための援護が得られぬまま、ヌマブチは軍服の胸倉を掴まれた。 ジューンの怪力が、ヌマブチの小兵な身体を容赦なく投げとばす。石の床のうえをバウンドし、転がり……彼を止めてくれたのは皮肉にもダレスの靴だった。 ぐい、とダレスはヌマブチの頬を踏みつける。赤い瞳がきっと睨みつけるが、鉄仮面からのぞく目は嘲笑を返すばかりだ。 「残念だったね」 「……その『仮面』、どこで手に入れた」 ヌマブチは訊いた。 「もらったんじゃない。これは僕だ。僕自身の中にある悪意のかたちだと、彼は言ってた」 「彼とは誰だ」 「さぁ? 名前は聞かなかったな……」 「いつ、どこで会った。そいつは……」 「細かいことはよく覚えていないんだ。……でも。これは素晴らしいよ。僕にはもともと力があるのに、どうして今まで、なにもしてこなかったんだろう。なにに遠慮することがある? たとえそれが悪だろうと、なんだっていうんだ? 僕を縛るものなんてなにもない。縛られるのは他人のほうさ。そうだろう? はは……ははははは」 「すみやかな退避を推奨します」 ダレスの哄笑に、静かに口を挟んだのは、ジューンだった。 「…………何?」 「『僕を守れ』と、おっしゃいました」 「そうだ。おまえはもう僕の」 「この場所からの退避を推奨します」 「おまえは何を言っているんだ?」 「まもなく、この地域は爆破されます。私が事前に設置したプラスチック爆弾によって」 「……!!」 ダレスは逃げ出そうとした。 ヌマブチは、とっさにその足にしがみついた。 「『離せ』ッ!」 瞬時に魅了の力が彼を支配し、その手を離させた。 ダレスは駆け出す。 だが、膝をついた。 「……な、なに…………」 起き上がろうとするが、よろけて、また転ぶ。 「なんだ……これ……体が……」 くくく――、と含み笑いが漏れた。 「かかったな」 劉だった。ダレスに命じられているため動くことはできない。その姿勢のまま、彼は言った。 「糸だよ。俺の糸はこれはただの糸じゃねえ、猛毒持ちの蜘蛛の糸だ。どんな小さなかすり傷でも……そこから毒が回っていく」 「!」 「持久戦に持ち込めば自動的に俺の勝ち。魅了されようが知ったこっちゃねえ。最初に俺の糸で傷をつけられたとき、てめぇはとっくに負けていたんだよ!」 「き、きさまぁあああああ」 ダレスは怒りの咆哮をあげたが、それはただ叫んだに過ぎなかった。 ヌマブチは、廃墟の奥へ目を遣った。 そこに繋がれていた司書を、ティーロが抱え、そしてもろともに消えうせるのを、確かに見た。 消える寸前、二本の指を額にあてて、ニッと白い歯を見せて。 そして、C4が爆発する。 ダレスのいた区画をぐるりと取り囲むように設置されていた爆弾は廃墟の壁も柱も完膚なく破壊したので、都市遺跡の1区画がまるごと崩落する結果となった。 4 「おーーーい、生きてるかぁ~?」 ぺしぺし、と頬を叩かれて、ヌマブチは目を覚ます。 ティーロだった。 ジューンを見れば、微笑が返る。彼女は、石の天井を支えており、その下に、ヌマブチと劉、意識のないダレスとが、匿われるようにしているのだった。 ジューンが崩れ落ちてきた天井を支えなければ、3人とも圧死していただろう。 「ダレスの支配能力が消えるのがあと1秒遅ければ、みなさんは助けられませんでした」 ジューンは言った。 「ヌマブチ。あんたを囮にした。悪かったな」 ティーロが言って、頭を下げる。 「……。モリーオ殿は」 「無事だよ」 「ダレスも生きてる」 劉が身を起こしながら言った。 「なら完璧じゃねぇか」 と、ティーロ。 ダレスの顔から、鉄仮面は消えていた。 (あの。別の案を検討しても良いでしょうか) クリスタル・パレスでのブリーフィングで、作戦がまとまりかけたとき。ジューンが言ったのだ。 (ティーロ様の転移で司書を引き寄せる、もしくは誰かを送り込むのは可能でしょうか) (そりゃあ、できるだろうが) (でしたら――) (! 待った!) ティーロは遮った。 (待ってくれ) (……なあ。俺の武器も糸なんだが、こいつに) (おおっと、それもストップ! みなまで言うな、みなまで!) (なんでだよ) (ダレスの能力は『魅了』だろ? そいつにやられたら、俺たちは俺たちの敵になっちまう。だから……おまえたちは、互いに策を話さずに、それを実行してくれ) (そうか。魅了されて、作戦をバラさないように?) (そうだ。……だから俺も、ヌマブチの援護をすると言ったが、しない。互いが予測しない行動をとるんだ……) 「そういうのは作戦とは言わん」 「まあ、結果オーライだろ。……今度、おでん奢るから、怒んなよ、な?」 「怒ってなどいない」 むっつりと、ヌマブチは言った。 4人は医務室で手当てを受けたモリーオのもとを訪れる。 全身に傷を負わされた司書の姿は痛々しいものだったが、生命に別状はないそうだ。 「モリーオ司書、ご気分は如何ですか」 「ありがとう。助かったよ」 ベッドによこたわったまま、力ないものではあったが、彼はうっすらと笑みを浮かべた。 ジューンが吸い飲みでそっと水を飲ませてくれた。 「少し発熱がありますが、血圧、脈拍は正常範囲ですね。外傷が治癒すれば動けると思います」 「ああ、そうだね。……みなには迷惑をかけた」 「結局、ダレスの私怨だったのか?」 劉が言った。 「彼が私を恨んでいたのは、そのようだね。……もうずっとせんに、彼には少し厳しいことを言ってしまったから……」 「最も責があるのはかのものであることは揺るぎなき事実。だがな――」 ヌマブチはモリーオに問うのだ。 「ロストナンバーの中にはああいった輩もいるものだ。それが予測できなかったとは言わせぬ。いささか、軽率に過ぎたのではないか」 「かもしれないね」 モリーオは、頬をゆるめた。 「けれど……私は世界司書だから……。私たちがその役割を引き受けないで、誰にできるだろうか。……ねえ、きみたち。ダレスは『悪』だったと思うかい」 「そりゃまあ、そうだろうな。どんな大儀や理があったって、このやり口は良いとは言えないだろう」 と、ティーロ。 「では……『悪』とはなんだろう。厳然たる『悪』。『悪』というものの本質を、私は知った気がする」 「厳然たる悪……か。そいつぁ後悔しねえことだ。人間後悔してなんぼ、それをしねえのは怪物か聖人の二択だ。俺なんか悔い塗れだぜ」 劉が言った。 「たしかに、ダレスは後悔なんてしないだろうね。……私はね。『悪』とは『絶対的に存在するもの』だという気がする。……ターミナルにはさまざまな世界の出身者がいる。異なる文化背景のなかで、禁忌とされるものに触れてしまうものがいる。だがそれは『悪』というよりは『罪』なのだと思う。『罪』とは『相対的に存在するもの』だ。法という基準のもとに、外なる誰かによって定められるもの。だから『罪』は、時として『悪』ではなく、それに抗うことだって可能だ。でも『悪』であるとは、そういうことじゃないんじゃないかな。この世には――この世界群には、絶対的な存在としての、『悪』という本質があるんじゃないだろうか」 「ダレスがそうだったと?」 「それはわからない……けど」 「それは、悪魔とか、邪神とか、そういうもののことか?」 「少し違うな。もっと概念的なものなんだ。……ヌマブチくん」 「うむ」 「きみが一度は世界樹旅団にわたり、そして帰還することができたのは、きみがある意味で、『罪』を負っても、『悪』には染まらなかったからだという気がしている。『罪』は他人よって裁かれるが、『悪』は自分自身を蝕んでいく。そう……『悪』とは他人や、社会とは一切関係なく、ある個人に内在するものだ。そして、『悪』である限り、必ず――いいかい、必ずだ――、そのものは破滅する。『悪』って……そういうものだと……思うんだよ……」 それだけ言うと、モリーオは静かに目を閉じ、沈黙した。 ややあって、彼は穏やかな寝息を立てはじめるのだった。 ダレス・ディーは、然るべき措置がとられ、拘束された。 彼に『鉄仮面』をもたらしたもののこと、その経緯が厳しく質されたが、「鉄仮面の男に会った」以上の詳細な記憶がないようだった。 モリーオ・ノルドは一週間後には退院し、そのまた次の週からは仕事に復帰した。 あとでもういちど、あの病室での話をモリーオに訊ねたら、「熱があったのでうわ言を言った」と答えたという。 (了)
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