鉄仮面を被った者が、《世界司書》モリーオ・ノルドと無名の司書の命を狙った事件は記憶に新しい。 その一方で、長くホワイトタワーに収監されていた《鉄仮面の囚人》が、ナラゴニア襲撃の際に命を落としたこともそれなりに周知の事実として受け入れられている。 だが。 かの囚人が実のところ生きており、そうしてターミナルに解き放たれたことを知るモノはごく一部の人間に限られた。 ――ヒトはヒトを殺す。だが、それ以上の罪がここにはあるのではないかね? ひそやかに、けれど確実に、囚人が囁く《悪意》は人々の中に浸食していく。 囚人の囁きによって、ある者は悪意そのものに取り憑かれていく。 そして。 ――コレはありふれた復讐じゃない。コレは神に代わって行われる断罪なんだ 容易くヒトはヒトを殺すに至る。 ヒトでありながら、ヒトでなくなり、そうして殺し続けることを選ぶモノが現れる。 *「……ターミナルで殺人事件が起きたというのは本当なのね?」 世界図書館の館長室に赴いたヴァン・A・ルルーを前に、アリッサはその表情に深い陰りを宿して問いかける。「ええ」 対してルルーもまた厳かに、そして痛ましげに頷きを返す。「それも、一晩のうちに4件起こっています。未然に防ぐどころか、事件の予兆に気づけず、犯人の足取りを掴むことさえ叶いませんでした」 事件の発覚とほぼ同時に手を尽くして情報収集に向かったルルーの手には、事件の概要が報告書の束となって抱えられていた。 最初の被害者は、画廊街でカフェを経営する青年だった。彼は自身の店のキッチンで、大量の食材にまみれて毒殺されていた。 2人目の被害者は、自宅の一階で書籍を扱う古本屋の店主だった。朝、いくら待っても店主が店に降りてこないことを不思議がった店員が上階に行き、ベッドの中で冷たくなっている彼を発見した。 3人目の被害者は、異世界から仕入れたキャンディやチョコを扱う土産物屋の看板娘。トランクいっぱいのお菓子の傍らで事切れていたのを見つけたのは、異世界旅行から帰ってきたばかりの仕入れ業者だった。 4人目の被害者は、森林のチェンバーで薪や木製細工を作って売ることを生業にしていた壮年の男性だった。彼は山と積まれた薪の傍で、真っ二つにされて転がっていた。 一見すると彼らには、彼らがターミナルに帰属したロストメモリーである以外に共通点も接点もない。 ただ、彼らの傍らには罪の告発を綴った紙が一枚置かれており、ソレが犯行動機だということだけは強く印象づけられていた。「……《鉄仮面の殺人者》が狙うのは《世界司書》だけではなかったということね」「ええ」 鉄仮面の存在が明らかとなった時点で、司書に向けて今後命を狙われる可能性があるからと、アリッサはレディカリスとともに警戒するよう呼びかけていた。 思わぬところから《悪意》が噴出することもある。 矛先が誰に向けられるのかは分からないが、それでも、自ら警戒することで身を守ることもできるはずだった。 しかし、現実は予想のはるかその上を行っていた―― そして、「そして、ロストメモリーを標的とした《断罪》はこれからも続きます。十を数えるまで、延々と。ゆえに、我々は事件を全力で止めなくてはなりません」 一体何の因果がそうさせるのか。 彼の《導きの書》に浮かび上がるのは、不吉な死の連鎖だった。 ある者は矢で胸を射抜かれ、ある者は崩壊したままのホワイトタワーで首を括られ、またある者は海辺で溺死させられて、そうして次々と死の世界に旅立っていく予告が綴られている。「その十人の中には、あなたも入っているのね?」「ええ、どうやらそのようです。時期も順番も特定はできませんが、そう遠くない未来に。そして、今この瞬間にも誰かの《命》が危険に晒されています」 何を持って罪と呼ぶのか。 誰の許可を得て、その罪を断罪するというのか。 断罪するモノの手もまた、血に塗れ、罪にまみれていくのではないのか。「とにかく早急に手を打ちましょう」「ええ。誰もがいなくなる前に。十の断罪すべてを成就させるわけにはいきませんから」 *「ボクは知っているよ。罪が見えるんだ。あんたはヒトを殺してる。あんたが売ってる《蜂》を使って、異世界に死を撒き散らした輩の存在をあんたは知らないというかもしれない、だが、歴然とした事実さ。あんたがその蜂を売ることで、誰かの命が砕けてるんだ、信じられないだろうけどね」 鉄仮面を被った男は、その手に弓と矢を携え、嗤う。「ボクはけっしてあんた達が犯した罪を見逃しはしないからね。でもなによりも、生きているのに死んでいるということが、生きているのに時が静止しているという奇妙さそのものが、まさしく神への冒涜だ」 だから、懺悔するといい。 そう言って、男は矢を放った。 立った一撃、それだけで相手はいとも容易く絶命する。「ああ、最後に教えてあげよう。ボクの名前は、ザフィエル。神の監視者の名を持つ天使さ。……ああ、もう聞こえないかな? ふむ。さあ、次の罪人の元へ行かなくちゃ……次は、そうだ、あいつにしよう」!お願い!【鉄仮面の亡霊、再び】を冠するシナリオは、時系列的には別のものですが、なるべく多くの「プレイヤー」の方がご参加できるようご協力いただければさいわいです。
かつて図書館を裏切り、旅団へ寝返り、そうして数多の罪を犯し続けた男がひとり、ロストメモリーになったという。 そのものの名は、ヌマブチ。 己が罪の重責に堪えきれず、記憶を捨て、トレードマークでもあった軍帽をも脱ぎ捨てて、男は、日々幽鬼のようにふらふらとホワイトタワーを彷徨い歩く。 その顔に生気はなく、心そのものをどこかに置き忘れてきたかのようだ。 虚ろな視線を彼方に向けて、聞き取れぬほどに小さく小さく呟かれる独白は、およそ意味を為しているとは言い難い。 一切を失うことで、一切から逃亡した男。 悪名高き男の末路としてはあまりにも情けなく、あまりにも痛々しいと、誰かがそっと呟いた。 * ロストメモリーになるということは、0世界に帰属するということなのだよ。 本来ならば帰属することで、覚醒によって止まっていた《時》は再び流れ出すはず。 しかし彼らは、記憶を捧げることで、永遠に停止した世界で永遠に自身の時を停止し、生き続ける―― 停止した世界で、停止したまま、ロストナンバーではないのに忘却を糧に生き続ける。 その手に罪を握りながら。 * シーアールシーゼロがターミナル全域を見下ろせるほどに巨大化し、無限の視野を手に入れて、そうして得たのは、天使が行った5つめの断罪の痕だった。 胸を矢で射抜かれ、鮮赤に染まり、絶命してしまった男が、蜂の巣箱に囲まれた養蜂場で仰向けに倒れているのが見える。 瞳孔の開ききった虚ろな双眸が、ゼロを通り越したどこか遠くを眺めていた。 もうどうしようもないくらいに手遅れとなってしまった彼の《咎》は、一体何であったのか。 ゼロはほんの少しの間だけ目を閉じ、彼への安寧について想いを巡らせ、そして仲間に向けてトラベラーズノートでメールを放つ。 ――『5人目は既に殺されてしまっているのです』 蜂を飼う男の死によって、次に何が起こるのかをゼロは理解していた。 かつて、百貨店ハローズの不可思議な事件をキッカケにして読むようになった、壱番世界の英国に伝わるマザーグース。 十人のインディアンが次々と退場していく数え歌。 あの童謡に擬えるなら、6人目はおそらく―― 「……期間を置いて動くかと思えば、成程、既に次なる行動を起こしておりましたか」 ラグレスは村崎神無とともに、ゼロからのメールをルルーの司書室で受け取った。 闇雲にターミナルを駆け回ったとしても、次の犠牲者を救えるとは思えない。 だが、導きの書に現れる《予言》がけっして誤った情報を与えないことを鑑みれば、自ずと次に打つ手も見えてくるということだ。 ふたりはともに、司書が収集した事件資料の検分に多少の時間を費やしていたのだが、自分たちの計画を早めることを決める。 「4人の犠牲者は自分の職業に関連のある場所で死んでいるわ。ホワイトタワーで死ぬのは看守かしら、それとも囚人……?」 彼女の呟きの傍らで、ラグレスは無表情のまま小さく首を傾げてルルーを見やる。 「ルルー殿、ベアハッグの自信は如何程でございますかな?」 「ベアハッグですか」 「童謡に擬えるが鉄則とあらば、此即ち、皮の内にて貴殿が死すが成就なるかな」 神無の手元で、彼女を繋ぐ手錠の鎖がじゃらりと鈍い金属音を立てた。 「童謡によれば、熊の件は8番目ね。現在5番目の殺人が確認されたところだから、ルルーさんに辿り着くまでにもう2件の殺人を要するはずだけど」 「なるほど、私はこの身に抱かれて死ぬということですか」 自分の身が危険にさらされているその事実に、この着ぐるみ司書はあまり動揺していないようだった。 己が身が脅かされることを、どこか客観視している。 「あなたは恐ろしくはないのかしら?」 だが、その感覚に対し、問いかけたのはラグレスではなく神無だった。 「殺されるかもしれないと知って、ソレがいつなのかも分からないまま、怖くはないのかしら?」 「おそらく、すべての覚悟はロストメモリーとなった瞬間に完了してしまったせいでしょうね」 目を細めて、微笑む。 その不思議な表情に、ロストナンバーへの信頼という感情を見て取ったのか、彼女はそっと手元の資料へ視線と意識を戻した。 「一晩の内に4件、告発文の内容は……」 思考を整理するつもりの神無の呟きを受けて、ラグレスは資料に目を向けることなく神無を凝視し、機械のごとき正確さで言葉を羅列していく。 「“誰が老婆を殺したのか。それはおまえだ、おまえに持ち込む食材を求め、いつしか彼らはブルーインブルーへ出かけ、そして彼女たちを殺した”」 第一の殺人は、カフェオーナー。 「“誰が少女を殺したのか。それはおまえだ、おまえが見つけた本を受け、いつしか彼らはヴォロスへ出かけ、そして哀れな城主を殺した”」 第二の殺人は、古本屋の店主。 「“誰が青年を殺したのか。それはおまえだ、おまえが渡したその菓子で、いつしか彼らはインヤンガイへ出かけ、そして”」 第三の殺人である土産物屋の看板娘に差し掛かったところで、神無はそっと首を振って、彼の抑揚のない言葉を止めた。 「……共通しているのは、断罪された彼ら自身が直接手をくだしたわけじゃないって事ね」 「如かして元凶と捉えているのならば、断罪もまた正鵠を射ているのでは」 「辿っていけばそうなるかもしれない、けれど」 そこで、神無の瞳に強い光が宿る。 「被害者達は、断罪されたその罪の内容をきっと理解していなかった。知らなかった。何も知らないままに、裁かれることに一体どんな意味があるというの?」 彼女の想いをラグレスは理解できない。 しかし、無碍にもしない。 理解し得ない存在に興味は持つが、排除はしない。そういうふうにできている。 「ルルー殿、ひとつ提案がございます」 「はい、なんでしょう?」 ぽたり、とラグレスの手袋を嵌めた右手の指先から、ゲル状の《何か》がしたたる。 それがルルーの額に落ちて、馴染んで消えた。 「有事の際の目撃、並びに対処となります故、どうぞ暫しのご寛恕を」 したたり落ちたのは彼の一部、彼の分身、端末であり、本質だ。 そしてふたりは、図書館を後にした。 * 罪は罪。 では罪とは誰が作るのだろう。 * 時折不定期に訪れる《夜》を除けば、永遠の停止を約束されているターミナルに《昼》以外の時間帯は存在しない。 軍帽を脱いだヌマブチは、ただ無言のままに、崩壊してなお圧倒的な存在感を放つホワイトタワーを見上げる。 見上げる。 見上げている、そこへ、舞い降りてくる影があった。 ホワイトタワーを背景に、降り注ぐ光を遮り、バサリと大きく羽ばたいて、その手に剣を携えたモノがヌマブチの元へ降りてくる。 「沼淵誠司、あんたがロストメモリーになったと聞いたのだけど」 天使だ。 金とも銀ともつかない髪をなびかせて、美醜の好みを超越し、見るモノに美しく神々しいと思わせる存在感を放つ有翼者。 「あんたの頭上に《真理数》はないね。予定を変更してやってきたというのに、残念だよ、とてもとても残念だ」 剣先をするりと沼淵に定めたその姿で、彼は微笑んだ。 「演技は不要となりましたな」 やれやれと肩を竦めながら、そうしてヌマブチは隠し持っていた軍帽を取り出し、被る。 「やはりこれがなければ落ち着かないでありますな」 「ずいぶんと単純な手を使ってきたみたいだけど、ソレでボクを油断させるつもりだった? それとも囮? ボクを神の監視者ザフィエルと知っての挑戦?」 「囮かと問われたならば、その通りだと答えることもできるであります。しかし、自称天使が模倣劇を演じる、ソレを笑いに来たのだと思っていただいて結構」 「どうやら、あんたはボクをここへ誘き寄せたつもりかもしれないが、それほどに命が惜しくないのだろうか?」 「某は思うまま見たまま感じたままを告げるのみ。まさしく、ヒトが作り出した歌を真似て悦に入る幼稚な殺人者は、なるほど、姿形まで浅はかにして間抜けて見えるでありますな」 笑いを堪えるのにやっとだと、口の端をほんの僅か、嘲りのカタチに吊り上げてみせる。 「挑発しているというのなら、ボクはそれに乗ってあげなくちゃいけないね」 天使もまた、口の端を吊り上げ、くつりと笑った。 その笑いは次第に大きくなり、喉を震わせ、肩を震わせ、可笑しそうに猛禽類のような瞳を細めて嘲り嗤う。 「あんたの罪がボクには見えるよ」 天使がけっして人間の味方ではないのだといったのは、さて、誰だっただろうか。 神に絶望したあの牧師ではなかったはずと記憶しているが、はっきりとしない。 いずれにせよ、神だの罰だのと言う輩に良い想い出がないことだけは思い出す。 「ボクには見える。あんたの罪、あんたの犯している罪は、裏切り……」 「それはとうに理解しているでありますが?」 「いや、違う違う、全然違うよ。あんたが裏切っているのはね、世界図書館でもなければ、旅団でもなく、仲間でもなく、そのココロさ。罪を罪と思えない、ヒトでありながらヒトたり得ない精神性で人に交ざろうという罪悪さ。殺してなお殺した事実を淡々と眺めるだけの空虚さだよ」 「それがどうしたというのでありますかな?」 「あんたは告発されたところで痛痒を感じない。哀れな存在。ボクはね、生きているのに死んでいる、生きているのに生きていない、ロストメモリーたちの罪を正すためにいるわけだけど」 天使は微笑む。 とても鮮やかに、小さく首を傾げ、いっそ切ないほどに慈愛に満ちた笑みで、ヌマブチを見つめる。 「本当なら、あんたも本当は終わらせてあげるべきかもしれない。あんたがロストメモリーであったなら、ボクは今すぐあんたを楽にしてあげられたのに。ああ、けれど、そこまで君を壊してしまった罪人をこそ、ボクが見つけ出すべきなのかもしれないね」 「いらぬ節介であります。そもそも」 そう、そもそも、とヌマブチは続ける。 「物事の定義はヒトにより違える。すべては各人の主観であります。有象無象が集うターミナルとあらば殊更」 軍帽の下から天使を眇め、淡々と冷酷に、ありのままの事実を告げる。 「ここに善悪など生まれない」 瞬間。 これまでの対話がまるで夢だったのかと思うほどに唐突に、ヌマブチは一切の躊躇いなく、銃剣を手に、天使の懐へ滑り込んだ。 急所を狙っていた。 そのまま深く剣を突き立て、絶命に追い込む心づもりであった。 しかし、 「――っ?」 ソレを止めたのは、手錠をした少女の細腕が握る日本刀、そして不定型なゲル状の触手だった。 「何をするでありますか」 「生きて罪を償わせる。殺したら、償うこともできない。だから殺させないわ、誰にも」 いつの間に追いついていたのか。 いつからそこに居たのか。 互いに一歩も引かないまま、ヌマブチは本来仲間であるはずの神無と問答する。 「証人は既に白雪姫等を確保済み。有益な証言を得られていないとも伝え聞く。ならばこれ以上の証人は不要。ここで始末するが合理的であります」 「それを決めるのはあなたじゃない。罪の償いに、命を奪うなら、それはあの天使と同じよ」 「同じであろうと構わんではないか。優先すべきは、その男が二度とロストメモリーを殺さぬ事であります」 「殺すことで解決なんてさせない」 「何を論ずれど、頑迷なるが仮面の効用。然らば仮面を剥ぐが優先、その後に情報は得ねばなりますまい」 「それが不要と言っているであります」 ヌマブチは本気で殺そうと考えていた。無用な証人が増えたところで事態を収拾できるわけではない。 「神の監視者たるボクに刃を向けるとは、なるほど、あんたは罪深い」 その身にまとわりつくように、黒い霧は立ち上り、天使の顔を覆っていった。 「そして、そこにあんた達もだ。まったく、ボクを糾弾しようだなんて、どれほど傲慢なんだろうね、村崎神無、ラグレス」 次第に、天使の声はくぐもっていく。 くぐもり、そして。 「あれが、鉄仮面……」 噂に聞く仮面が果たしてどんなモノであるのか、神無はそこに着目していた。 仮面それ自体が意思を持って相手を動かしているのか、あるいは仮面を媒体として何者かの干渉を受けているのか。 一見すれば、アレに意思が宿っているように思えるのだが。 思考を巡らし続ける彼女に対し、天使は悠然と構え、告げる。 「見えるよ、あんたの罪も」 天使は笑いをこぼした。鉄仮面の下でくぐもった言葉を発しながら、なお、くつくつと可笑しげに肩を震わせ、笑い続ける。 「ボクの前で懺悔していくかい?」 右の手に漆黒の剣を、左の手に真珠色の剣を携えたザフィエルに、神無は真っ正面から対峙する。 「間に合っているわ」 「残念だね」 だが。 一触即発と言うべき緊迫した空気を、盛大に、唐突に、圧倒的に、破壊するモノが現れる。 白く巨大な幼い手が、ホワイトタワーの瓦礫ごと、左右からぐわりと地面を掬い上げた。 * 罪に囚われる前に、一度確認すべきではないだろうか。 何故に、この罪は生まれたのかと。 * 『これまでのすべては、天使さんをゼロの手の中に収めるためのものなのです』 純白の視界。 それ以外にはないもない空間に、ゼロの声だけが響き、囚われた天使たちに注がれる。 ずっと、自身の気配を消し去り、機会を窺っていた。 観測者の位置づけで、じっとじっと仲間と天使のやりとりの途切れる瞬間を見計らっていた。 『計画通り。もう、逃がさないのです』 「このボクを捉えたつもりかい?」 『どんなチカラがあっても、ゼロの手からは逃げられないのです』 無限に増大していく空間は、同時の無限の圧縮を受けながら、誰も逃れることのない、けれど誰も傷つけられることもない、純白のゼロ領域に天使達を閉じ込める。 シーアールシーゼロだからこそ、可能となった方法。 不条理の一言に彩られた、不条理の摂理。 取り込まれてなお、天使は不敵に笑う。 「ボクを出してくれないというのなら、ボクは自力で出るまでで、なるほど、そうするとまずあんた達と対峙しなくちゃいけないらしい。ボクの使命を全うするために」 「神の御遣いと称するが故の傲慢なる哉」 「神の遣いであるという事実の他に、一体何が必要だと言うんだろうね?」 ザフィエルは再び剣を構え、笑う。 「何も知らない人の命を突然奪って、それで裁きになると思ってるの? もしその人に罪があるなら、本人がそれを自覚した上で生きて償うべきだわ。あなたはただ断罪と称して人殺しを楽しんでいるにすぎない」 きつい眼差しで、神無がソレを受ける。 「……その罪はどう償うつもり?」 「神がそれを許したんだよ。ボクに、償うべき罪などない」 神無は仮面を剥ぐことを最優先に考える。 その彼女の太刀筋を、天使は容易く読み解き、躱す。 「何を以て自身を神の遣いと称するのか……すべては、“おまえがそう思っているだけ”だ」 辛辣な言葉の刃が、天使へと突き立てる。 「罪人はいつも己を正当化する。何も見えていないのにね」 「罪を犯すには前提として守るべき法律が無くば始まりませぬ。法律とはヒトが成す社会集団を秩序立てる目的で、その集団の権力者や識者が寄って集って作り上げるものです。各々が個人的な都合で他者を害し、治安の悪化が共同体制の崩壊を招かぬ様、違反者を第三者が処断する為の基準です」 法律の書を読み上げるが如く、無感動に、無感情に、無機質に、ラグレスが言葉を重ねる。 「然しここに法は見当たらず、概ね上層部の密約と気分次第。危険とあらば対処もしようが、認識されねば動かぬも事実。即ち当地に於いて認可も権利も介さぬ誅戮は、総て感情論に拠るものにて断罪に非ず」 ヌマブチを襲った剣は、銃剣に弾かれ、その切っ先をラグレスに向けてきた。 「主観的な正義を謳うは自由ですが、独断で行えば畢竟私刑となり、故に私は隠蔽工作を推奨致す所存」 「神を代行する行為を、なぜ隠蔽しなければならないのか、分からないな。見せしめとしなければ、ヒトは学ばないじゃないか」 天使の顔目掛けて手を伸ばす、ラグレスのその攻撃を紙一重で軽やかに交わしながら、天使は器用にも首さえ傾げてみせた。 神無の剣を、ヌマブチの銃剣を、ラグレスの触手を、天使は平すら受け流し、すれ違う瞬間に飛び交うのは《言葉》の火花だ。 「村崎神無、あんたに罪を犯させた、そもそもの元凶はどこにいるんだろう?」 「罪はすべて私自身で背負う。私は私自身で、贖罪の方法を探していくだけ」 手錠に繋がれることで償いになっているとは思っていない。 けれど、罪を償わなければならない、己が罪人であるという意識を常に持ち続けるために必要なモノだ。 「あんたが自分を縛るのも良いけど、父親殺しに至った、その原因を罰するのが先じゃないかな? ねえ、だからその鎖、ボクがここで断ち切ってあげようか?」 「いらないお世話ね」 言いながら、神無はふとした違和感を覚える。 ソレは、ルルーの司書室で報告書を目にしたときから感じていたモノだ。 今、その答えに自分は触れた。 思わず攻撃の手が緩んだその隙を突き、ザフィエルは己の翼を以て、大きく距離を開ける。 もう一度斬りかかるには、接近が許される距離まで詰める作戦を練り直さなければならない程度にまで、逃れている。 「さて、そろそろ話は終わりにしようよ。ボクは殺しに行かなくちゃいけないんだから」 『罪とは世界の安寧を減少させる行為なのです。裁きとは局地的に安寧を減少させるが社会全体の安寧維持に必要なのです』 ゼロの声は、穏やかに、ゆるやかに、どこからともなく注がれていく。 『正義も裁きも、ソレはすべてヒトが社会を維持し、人々の安寧を増大させるための道具なのです。人は脆弱で、たったひとりでは居きられず、社会なしに安寧が得られないのだから必要なものなのです』 「神の規律は存在しているよ? だからこそ、ソレを破れば罪じゃないかな?」 『罪とはヒトが作ったモノ、ソレが正義でソレが裁きとなるのです。だから、ヒトを裁けるのはヒトだけなのです。ヒト以外がヒトを裁くことはしちゃダメなのです』 「ヒトは神の元で生かされているのにかい?」 「ヒトを作ったのがどこの神様なのか、ゼロは知らないのです。でも、その人を作ったのはあなたが知っている神様ではないと思うのです」 それに、とゼロの声は言う。 「過干渉は反抗期を呼ぶのです。反抗して、グレて、あっという間に家庭崩壊の危機なのです」 「面白いことを言うね。それはアレかな、自分の過干渉が引き金となった過去を持つが故かな?」 天使は、純白の領域を作り出し続けるゼロに向けて、言葉を放つ。 「その強大なチカラが世界の終末を決定的にしたんだよね?」 「……ゼロは、あのことを自分の過ちと認識しているのです」 そこに言い訳など欠片も存在しない。 「なんて素直なんだろう!」 嬉しそうに、楽しそうに、ザフィエルは声をあげて笑った。 「だけど、考えてごらんよ! あんたが関わったのは誰のせい? あんたがあの世界にないチカラをもたらしたことで世界は滅びたけれど、あんたがその罪を犯すようにそそのかしたのは誰だろう?」 『ゼロは、ゼロの意思で動いたのです』 「違うよ」 その一言で、天使はゼロの告白を撥ね除ける。 「まるで、罪だと断じながら、罪ではないと言っているようでありますな」 ヌマブチもまた、天使の言動に些かの疑問を感じる。 会話は噛み合わない。 噛み合っているようで、永久に交わることがないと知れるほどに、互いの主張も感覚も遠く隔たっている。 だがその隔たりの理由を、神無同等、ヌマブチもまた気付きはじめていた。 「もしや」 「……もしかして」 天使が見ているモノ、天使が罪と呼ぶモノ、天使が断罪すべき対象は、『元凶』――そもそも、アレさえなければ罪を犯すことはなかったと、そう言えてしまうモノを、彼は捉えているのではないか。 神無の動きが止まった。 ヌマブチの動きも止まる。 「なぜ、ロストメモリーを殺したの?」 初めて、別の意味を含んだ問いを、神無は天使に投げかける。 天使は微笑む。 「彼らは記憶を捨てた。故に、彼らは罪の元凶にして終着点になるんだよ。彼らがいなければ、誰も罪を犯さずにすんだのにね」 穏やかな口調でありながら、限りない憎悪を滲ませて天使は答え、そして至極当然のように、彼は何もない天井を振り仰いだ。 「そう思わないかい、シーアールシーゼロ? 世界司書があんたをそそのかさなければ、あんたは世界を壊すことに加担なんてせずにすんだんじゃないのかな? ほら、断罪したくなる」 『それでもゼロは、常に裁かずにすむ手段を模索したい、なのです』 毅然とゼロは返す。 迷いを見せず、惑わせず、まっすぐに、まっさらに、沈黙ではなく言葉で以て意思を返して見せた。 「へえ」 面白がるように、天使は仮面の奥で目を細める。 その鉄仮面の覆われた顔目掛けて、ラグレスの触手が伸びた。 「ボクには勝てないよ」 剣で振り払えば、触手は容易くカタチを失い、飛散する。 ――だが、 「なっ!?」 「……油断をなさいましたか」 ゲル状のソレは、飛び散ったその破片それぞれが意思を持ち、鉄仮面に張り付くと、仮面と皮膚とのわずかな隙間から入り込んでいく。 「う、わぁ……っっ」 「――!?」 窒息するほどに膨張していく物体により、遂に仮面が内側からはじけ飛ぶ。 同時に、その衝撃を受け手なのだろう、あれほどに饒舌だった天使の意識もまたはじけ飛んだ。 「外からの衝撃でも宜しいのでしょうが、斯様な方法とさせて頂きました」 右腕からゲル状の何かを滴らせながら、ラグレスはやはり無表情のままに深く頭を垂れた。 「翼を拝見したく思っておりました。その身体構造に興味と疑問がございます」 ねっとりと絡みつく不定形のゲル状物体は、気を失った天使の翼をも隈無く観察し、そしてひっそりとその一部を呑み込んだ。 「成程」 理解したというように、幾度も頷き、そして、ラグレスの背がずるりと音を立てて盛り上がっていく。 ソレが完璧な《天使の羽根》を模倣したのは、いささか奇妙な光景であったかもしれない。 魔法、と呼べるモノでもあるのだろう。 ヌマブチの目が一瞬何ともいえない色に輝き、見開かれたのだが、その口から歓声を洩らすことはギリギリ耐えたらしい。 「……帰してくれるかしら?」 神無の言葉を合図に、ゼロは自分の閉じていた掌を、そっと解いた。 * 忘却は何にも勝る罪ではないかな? * ゼロ領域から解放された4人は、ホワイトタワーの瓦礫の中で、ラグレスの触手に拘束されたまま倒れ伏した天使を前に思案する。 ザフィエルの手に掛かったロストメモリーは5名。 5名の命があっけなく奪われた。 その《罪》はけっして軽くはない。 「きっと、幽閉することになるでしょうね」 「でも、ゼロは、天使さんの悪意は鉄仮面さんに吹き込まれたモノだと思うのです。鉄仮面さんにそそのかされた場合には、情状酌量の余地があったりするかもなのです?」 「童謡をモチーフにして殺害に至るとは、はて、異世界からやってきた天の御遣いもリビング進出を狙い、好感度と庶民性をアピールする算段だったのでございましょうか?」 「ソレもやっぱり、鉄仮面さんから吹き込まれたと思うのです」 見立て殺人すらも、用意されたモノだとしたら。 「ゼロは最初、天使さんはロストメモリーに成り立てなのかと考えたのです。全部の記憶を捧げた、その空白につけいられたかもしれないと思ったのです」 「まるで、囮になったこの軍人さんの《設定》みたいね」 「はいなのです。だからヌマブチさんは、ちょっとゼロが考えていた天使さん像に似てたのです。ぜんぶ真っ白なのはつけ込み放題、自分色に染め放題なのです」 「しかし、彼の頭上には真理数はありませんでしたな」 「はいなのです」 そんなやりとりを交わす3人の横で、ヌマブチだけは警戒を解かずに、男を見下ろしていた。 「仮面のせいだとなぜ言いきれるでありますか? アレはこの男の本心であったとしたら、同様のことを再び繰り返すでありますよ」 「それなら、繰り返させないようにするだけよ」 そこで、神無の台詞は途切れた。 わずかな呻き声とともに、片翼の一部を失った天使は、その痛みの中でゆるやかに覚醒する。 「……目が、醒めたのです? 気分はどうなのです? 仮面がなくなって、新しい朝な感じはしてるですか?」 「貴方様の翼、聢と研究させて頂きます」 「あなたがどういうつもりであろうとも、生きて、罪を償ってもらうわ。それ以外の方法なんて選ばせないわよ」 安易に死なせたりなんかしない、逃避によって楽にさせたりはしない、と神無はきつく言い渡す。 そうすることで天使の心を労るように。 しかし、彼はぼんやりとした顔つきから、次第に《笑み》のカタチへとその表情を変えていく。 「……罪の意識に苛まれ、ボクが自害を選ぶとでも?」 「その可能性も考えただけよ」 「何か覚えていることはあるのです?」 ゼロの問いに、彼は更に笑みを深める。 「……ぼんやりとだけど」 「覚えているのね?」 「あの人は、夜に紛れてやってきたんだ……いつの間にか傍にいて、ボクはぞくりとしたよ、とてもとても。《彼》の囁きはまるで、そう、神の啓示のようだった。心地よくて、優しくて……すべてから解放させてくれるみたいで」 おぼろげな記憶をたぐり寄せながら、天使はぽつりぽつりと呟いていく。 「あんたたちも、あの人に出会えたら良かったのにね……鉄仮面の、囚人、に……」 その告白を最後に、天使は再び意識を手放した。 ラグレスは神無とゼロに請われるままに、ザフィエルを抱き上げ、事件の収束の報告を兼ねて図書館に赴くことにする。 鉄仮面の囚人、その分身によって作り上げられた殺人者の物語は、こうしてひとつに幕を閉じた。 しかし、ヌマブチだけは、コレを解決とは見なしていなかった。 この天使は、野放しにすれば再びヒトを殺めに走る。 仮面など関係なく、おそらくは再びロストメモリーを殺しに掛かる。 その確信は、たったいま交わした会話の中で、温かな慈愛とはほど遠い、肌が粟立つほどに冷たく残酷な、捕食者のソレに近しいモノを内側に見て取れたからに他ならない。 仮面さえ外せば元に戻る――即ち、もう罪は犯さないだろうという《希望的観測》とも言うべき甘美な可能性は砕けたのだと察した。 「あの瞬間に殺しておけば……」 だが、ヌマブチの《悔い》とその真意に気づいたモノはいなかった。 * 後日。 世界図書館に引き渡された天使ザフィエルは、そのまま囚人として収監されることが決まった。 しかし、新たに用意された牢獄に足を踏み入れるその直前、彼は看守達の前から忽然と姿を消したのだ。 逃亡した天使は数日の後、ターミナルを囲む樹海の傍で無残な姿となって発見されるに至るのだが、ソレを巡って自殺と他殺でさらなる議論も湧き上がるのだが、それらはまた別のお話。 END
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