呪え、魔の都を。 滅ぼせ、真なる都を。 彼の国を沈めよ。 大地の理を曲げてまで玉座を手にした、不逞の王を頂く国を――。 ◆「来たね」 集まった四人のロストナンバーの顔触れを眺めて、世界司書・灯緒は小さく頷いた。「恐らく君たちも事情は判っているだろうけれど、もう一度説明しよう」 獰猛な黄金の瞳を細め、前肢の傍らに置かれた導きの書へと視線を落とす。「東国の都、真都(シント)の程近くに、『河内(カナイ)』という地方がある」 そう言うと虎猫は、導きの書の上に広げた朱昏の地図に、朱金の前肢で戯れた。東西を別つ大河のすぐ左側に位置する真都の、更に左下を、にゅっと伸びた鋭い爪が指し示す。「かつて、龍王の化身である大河が東西を別つ前は、二股に別れた川の合間に位置した地方だったらしいね。だから河内――、けれど、今は深い森に包まれている」 濃密な朱霧に深く鎖されて、人が住むには影響の強すぎる場所だ。数日滞在しているだけで、肺に含んだ霧から心身に強い害を及ぼすと言う。 その森に聳える木々もまた霧の影響を受けて朱く、住むの者の絶えて久しい、廃村が散見する。 訪れた者は決して戻れぬ――《還らずの森》とさえ称される、鎖された場所だ。「《皇国》は河内一帯を立ち入り禁止区域としている。……まあ、現地調査に赴いた『六角さん』でさえ気が触れる程の場所だから、仕方ない事だろうね」 六角さんと言えば、真都守護軍の第六小隊――退魔、怪異調査を専門とする特殊部隊の事を指す。云わば彼の世界に於ける妖異の専門家であり、朱霧への耐性も一般人以上に無ければならないはずなのだ。 それが、数日の滞在で散り散りになり、その殆どが森から帰還する事もなかったと言う。「その森の噂は真都にまで届いたみたいでね。立ち入り禁止の御触れが出ているにも関わらず、森を訪れる人間は後を絶たないらしい」 強い怨恨を抱き、人ならざるものと化して復讐を果たさんとする者。 今生で為しえぬ願いを、生まれ変わることで叶えんとする者。 一切の望みを絶たれ、捨鉢になった者。 朱霧の力を取り込み、人である事を捨ててでも、様々な願いをかなえようとする輩が、監視の目を盗んで森に踏み入ってはやはり姿を眩ませているのだと言う。 ――捜索に向かおうにも、ただの人間が分け入るには危険に過ぎる場所だ。「今回君たちを呼んだのは、そういう理由だよ」 言って、獰猛な黄金の瞳が集った四人のロストナンバーを順に見遣る。二対の翼を携えた猛禽の物怪、雪女の力を宿す半人半妖の青年、漆黒の翼に縛られる天狗と、化け猫。「つまり」 赤茶色の目を瞬かせ、雪深終が言葉を挟む。「その森に足を踏み入れれば、並みの人はたちまち狂ってしまう」「――即ち、我ら化生であれば、如何なものか、と」 玖郎が言葉を受け継いで、世界司書の意図を汲めば、巨躯の虎猫はそういうことだ、と頷く。「なんや、判りやすいお話やねぇ」 葉団扇の奥に微笑む口許を隠し、森山天童が紫の目を細めた。「それが、そうでもないんだ」 しかし、その言葉には否定を返し、灯緒は微かに顔を歪める。「『導きの書』の予言によれば、君たちが森を訪れれば、その場所に留まる妖に襲撃を受けるだろう、と出ている」 森を侵す異物を排除せんと、森に訪れた人間の成れの果て――朱の妖が、群れをなして襲いかかってくるのだ、と。 人ならざる力を持つ四人ならばそう苦戦する事もないだろうが、問題は戦いそのものではない、と猫は語る。「……おかしいとは思わないか?」「何がですにゃ?」 虎猫が警鐘を鳴らすように問えば、三毛猫はその意味を察しきれずに首を傾げる。「……《朱》は感情に左右される呪力だ。そして、その森に足を踏み入れる人間は、様々な事情を抱えている――そうだな」 朱昏の事情に詳しい終が疑問点を整理し、それを受け止めるように天童が葉団扇の奥から息を零す。「慟哭なり、怨恨なり、憤慨なり。いろんな情を抱えてはるはずの妖魔が、統率された動きを見せよる……それが妙や、ちゅうわけやね」 それが真実、ただの朱の侵蝕により発生した鬼妖ならば、もっとばらばらな動きを見せてもおかしくないはずなのだ。少なくとも、全ての妖がいつまでも河内の森に留まり続けている事はないだろう。「なれば」 猛禽を模した鉢金の奥から、玖郎が鋭い視線を世界司書へと向けた。「何者かによって、歪められているのか」「そう。もしかしたら、その森には未だ、住んでいる誰かがいるのかもしれないな」 《朱》を介し、人を越えた力を得んとやってきた者を操っている、誰かが。 ――それを《ヒト》と呼んでいいのかどうかは、また別の話だけれど。 眠たげな瞳でそう呟いて、虎猫は擡げていた顎を書の上に落とした。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>玖郎(cfmr9797)雪深 終(cdwh7983)森山 天童(craf2831)三池 幸太郎(ctxr4035)=========
遠く、怨嗟の声が響く。 或いはそれは、獣の咆哮だったのかもしれない。 深い霧中で鬱蒼と茂る森は、影さえも朱に染まっているようだった。 「玖郎はんは?」 「後から合流する、と言っていた」 樹海の入り口で、人数が足りない事に首を傾げる天童に、終は伝聞の形で応える。彼のあまきつねは彼らと共に東国に降り立って、すぐに何処かへ飛び去ってしまったのだ。 「おれ様達を集めた割に、自由な奴ニャね」 軽口を叩く三池幸太郎に、終は幽かに苦笑してみせた。司書の話を聴いていた時より、あまきつねの様子が何処となく張り詰めていたように見えたのは気のせいだろうか、と口に出すでなく想う。 「何か、思う所があったのだろう。俺達は先を進もう」 そう言って霧の奥へと足を踏み入れた終に、二人は否を唱える事もなく後を追った。 「……ああ、せや」 道すがら、天童は出した侭にしていた己の黒い翼から、羽根を幾枚か千切り取る。 「これ、持っててや。通信機代わりにつかえるで」 「ノートで充分じゃないのかニャ?」 「備えあれば憂いなし、っちゅうやろ」 首を傾ける三毛猫に、からからと笑って返す。 「それと、」 ふと何かを気取ったように天童は呟いて、自らの翼から羽根をもう一枚引き抜くと、終へと差し出した。 「終はんにはもう一枚あった方がええやろな」 「俺に?」 あどけなさを残した貌をゆるりと傾けて、終は訝しげに声を上げる。気だるげな丈夫はやんわりと微笑み、ええから受け取っとき、と繰り返すのみだった。 「なるべく懐に近い所に仕舞っとくんやよ。お兄さんとの約束」 「俺はそれ程子供ではないが」 それでも天童に言われたとおり、羽根を懐に仕舞う終の姿を見上げて、幸太郎が拗ねるように小さく鳴いた。 「なんニャ、おれ様には無しかニャ?」 「あんさんは獣寄りやさかいね。わいの支援はいらんやろ」 妖域の中に在る事を忘れさせる、朗らかなやり取りを裂くように、突如、吹き込んできた風が凝る朱霧を流し薄めた。 二対の翼が力強く空を掴む音。枝葉の合間を縫って、颯爽と舞い降りる赤褐色の猛禽に、三人は警戒するでもなく顔を上げた。 「玖郎」 「遅かったのニャ」 「何処行ってたん?」 口々に彼に声をかける三人に、鉢金の奥から視線を滑らせて、玖郎は素朴な仕種で首を傾げる。 「都へ。確かめたいことがあったゆえ」 「確かめたい事、ニャ?」 鸚鵡返しに問いかける幸太郎に一瞥だけで応え、それ以上は何を語ろうともせず猛禽の物怪は木々の間を飛ぶ。赤褐色の翼が風を斬る度、森を覆う深い霧が僅かに晴れた。 「……ほな、玖郎はんも戻ってきた事やし、わいが居らんでも大丈夫やね」 合流した玖郎にも己の羽を渡した後、言うが早いか、天童は漆黒の翼を広げ、羽根と風を散らしながら高い木々の合間に身を滑り込ませた。黒天狗は朱凝る森の影と成り、すぐに目視できないほどに紛れてしまう。 「あ、天童、単独行動は避けた方が――」 追い縋る終の言葉にもいらえはない。 淡々とした表情のまま僅かに嘆息を零し、終は彼が遺した黒い羽根を手の中に握り締めた。 ◆ 深い深い妖力の霧の中では、自慢の千里眼も、いささか見通しが悪い。 「おーい」 片手で筒を作り、声をやんわりと張り上げる。霧深いこの森で何処まで声が届くかも判らないが、幾ら隠れた所で見つかるのであれば変わらぬだろうと天童は呑気に構えた。 「主はん、居るんやろう? 危害を加えるつもりはないさかい、出てきてくれんかなあ」 片手に提げた瓢箪を揺らしてたぷたぷと音を立て、蓋を開けて内側に納められた芳醇な香りを霧の中に溶け込ませる。大気にそっとささやきかけて、それを周囲に広めるように微風を立てた。 「手土産も用意しとるよ。一杯付き合ってやー」 やがて、呼び掛けに応えたのか否か、千里眼の視界に奇妙な光景が映り込んだ。何かの気配を感じ取って、高度を下げた天童はそちらへと向かった。 朱に沈む集落の中で、朱の鳥居が静かに佇んでいる。 天童の眼をもってしても、ここまで近付かなければ判らないほど、その色彩は霧の持つものとよく似ていた。神域への入り口を示すものでありながら、何よりも禍々しい瘴気を孕んでいる。――恐らくは、此処こそが、天童の探していた場所だ。 鳥居の向こう側から、うっすらと人影が近付いてくるのが判る。 影は濃い朱の色彩を纏い、次第に大きくなりながら、ゆらゆらと左右に揺れる。蜃気楼よりも実体を持っていながら、水面の鏡像よりも不確かな輪郭だった。 「……あんさんが、この森の主はん?」 『如何にも』 影は厳かに、それとだけ答えた。 長く伸びた髪が、風に靡くでもなく膨らんでいる。 額と髪の境目から生える、二本の角は歪みねじくれて天を目指し。 まさに異形と呼ぶに相応しい姿の中で、人の知性を残した瞳だけが静かに輝いている。 ◆ 玖郎の風ですらも掻き消しきれない霧の中、三人は姿を消したという六角の調査隊が進んだ道をそのまま踏襲する。近くでは幸太郎が、持参してきたタオルを霧に浸し、瓶に詰め込んでいる。持ち帰って世界司書に調査させるつもりなのだろう。 「……この一帯に、かつて人が棲んでいた、と言うのか」 湖沿いに広がる、朽ち果てた集落の淵を歩きながら、終は俄かには信じ難い想いで呟いた。 朱の霧は人を狂わせる。東国の人間は霧の深い場所には決して集落を作らぬ筈ではなかったのか。此処に人の棲んでいた址が遺されていたというのなら、それは即ちかつてこの一帯に霧は籠っていなかったという事だろうか。 崩れ落ちた住居の様式を見る限り、此の地に在ったという集落は随分と旧い時代のもののように見えた。西に比べ文明の進んだ東國のものとは思えないほどに。 「何時、どのように、此処に人が住めなく……?」 「大河で世が別たれるよりもずっと以前のこと、と」 独り言のように零した疑問を、玖郎の朴訥とした声が拾い上げた。 「神代の昔、此の地にはあまつかみの一柱とそれにつらなる一族が居を構えていた」 「神代? 天津神?」 朱昏に縁の深い終でさえ、初めて耳にする言葉だ。目を瞬かせ、青年は天狗の言葉に耳を傾ける。 「東の人間に、國――王朝のなりたちと、河内の伝えを問うてきた。此の地のものの言葉とくらべることができぬかと思うたが、手頃なものがおらなんだ」 「確かに、森の中だけでなく外にも棲んでる人間はいなかったニャね」 まるで未開の地のようだ、と幸太郎もまた首を傾げる。都会に棲み付く猫の王たる彼にとって、人の手が入らない場所は珍しいのか、周辺の光景に対し黒い猫の眼がきらきらと輝いているようにも見えた。 「……それで、此の地に住んでいた天津神とやらは」 終が続きを促せば、寡黙な物怪は軽く頷いて口を開く。 「中つ国を統べる王に叛き、黄泉の水底に封ぜられた」 「王……龍王の事か」 「おそらくは」 ――ただ、それは王朝による一方的な謂れである可能性が在ると、いつになく真摯な声で物怪は続ける。森の伝承に何やら思う所が在るようだが、その理由を己自身も解せずにいるようだった。 勝者の側から見た真実。それを鵜呑みにしても良いものだろうか。 「……話を、聴きたいな」 「その必要があろう」 此の地を統べる、もうひとつの真実を知るモノから。 ◆ 朱の漂う、神域と見紛う張り詰めた空気の中を、天童は異形の背を追って進む。 鬼の身に纏う装束は宮司のソレに似ている。かつて此処が神域だった頃、神職に就いていた者の末裔だろうか。 鳥居を潜ってしばらく進んだ後、巨大な――廃村にはそぐわぬほど立派な社の前で立ち止まり、鬼は振り返って、視線だけで天童を促した。天童は頷き、その場にどっかりと胡坐をかいて座る。鬼もまたそれに応じた。 「肴は何がええん? 饅頭稲荷寿司生肉生血生魚――陸の海亀、まで一揃い用意しとるよ」 『……なれば、その海亀とやらを』 長い髪の奥で、朱の瞳が煌めいた。長い血色の爪を備えた、岩肌のように罅割れた指先が天童へと伸ばされる。黒天狗は慄くでもなく、気だるげに笑って袂から一切れ、今にも血のしたたり落ちそうな肉を差し出した。血色の指先がそれを摘み取って、一切れ齧り付く。 静謐ささえ漂うその面を眺めながら、何かに似ている、と天童はゆるり、首を傾げる。 長く捻じれた角。広く裂けた口。削ぎ落とされた耳。何処かで見たような異相だ。聲は肌と同じように罅割れ、“元”が男であったか女であったかすらも判断付かない。 『して、異郷の妖魔よ、何故此の河内へ』 ふと話を指し向けられて、天童はその柔和な顔立ちに穏やかな笑みを浮かべて答えた。 「いやぁ、なんであんさんは妖たちを此処に留まらしとくんやろおもてなあ」 天童の千里眼が、鎖された森の彼方此方で彷徨い嘆く妖魔の姿を捉える。人の容と心を棄てた彼らは、森の中に於いてのみ自由に歩き回る事が出来るようだった。 「あのひとら、他に行く場所がないん? せやからあんさんはここに置いたっとる、とか」 『否。朱は世界を廻る。其を源とする彼奴らもまた、国中を躙る事が出来よう』 つまり、彼らが自分から望んでこの場に居る訳ではないのだと。 言葉の端々から感じる、何ものかへの悪意を明白に察して、天童は酒を流し込みながら一瞥を寄越した。 「なら」 その一瞬、瞳に鋭い光を燈した天童の前で、鬼は嘲るようにぞろりと嗤う。 『我らの領域に自ずから飛び込んできた命知らず共ぞ、好きに使って何が悪い?』 ――噫。 見覚えがある、と茫と思っていた鬼の異相、その理由へ、不意に辿り着いた。 能面だ。 真蛇――言葉を聞く耳を喪い、鬼へと姿を変えた女の姿が、そこに在る。 『河内の森、その全てが我らが領域。足を踏み入れた者は囚われる他無い。――良くぞ参られた、異郷の同胞達よ』 歓迎しよう。 朱の霧と長い髪とが異形の貌に濃い翳りを落とす中、唇が弧を描き、いびつに裂けた。 ◆ 霧の流れが変わる。 同時に、近くの草叢が不穏な音を立て、幸太郎が毛並みを逆立てた。 「無駄口を叩いてる暇はないニャ。来るニャよ」 司書の予言の通りだ、と内心で溜め息をつきつつ、猫の王は気を研ぎ澄ませて霧の奥に隠れる敵の姿を探る。 ひとつ、ふたつ、みっつ――把握できるだけで、十を超える数の気配が彼らの周りに点在している。こちらから仕掛ければ、すぐに挟撃されかねない布陣だ。 「将としての才はあるか」 茫と呟いて、玖郎はひとり高くへと飛ぶ。短く印を切れば一陣風が走り抜けて、彼らの周囲の視界が開けた。高みから妖の位置を把握し、牽制するつもりのようだ。玖郎の補助を得られると見、幸太郎が素早く動いた。近くの妖を袈裟切りに屠り、振り返り様に脳天を噛み砕く。 「お前たちは、何故ここへ――?」 戦う彼の後ろで、粉雪のように静かに響いた終の声が妖魔の塞いでいた耳を融かす。朱の瞳をぐるりと回して、妖は一瞬動きを止めた。 『にくい』 「憎い……何が?」 『都を、ほろぼさねば――彼の簒奪者の血を根絶やしに……否!』 うわ言のように喚いた後、何かを祓うように頭(かぶり)を振る。朱に染まった眼球にひととき輝きが燈る。かつてはヒトであったのだと知れる、知性のある色。 『おれはただ……妻の復讐を』 しかしそれも刹那の内に消え、後はただ咆哮を上げながら異郷の妖を狙うばかり。繰り出される嘴を朱の氷で受け流せば、玖郎の雷が鋭くその頭頂を貫いた。 一匹を排しても、彼方此方から響き渡る怨嗟の声は鳴りやまない。 それは個の意思を無視し、数多の憎悪が一カ所に向けられているように感じた。 「……やはり、無理矢理意志を捻じ曲げられているのか」 「自分の意志で戦わない奴らなんて雑魚ニャ、雑魚。何匹いようがおれ様が負けるはずねぇのニャ」 しかしそれは所詮、個の寄せ集めでしかないのだ。 誇り高き猫の王はそれを軽くあしらうと、傍に居た狗めいた妖魔へとその矛先を向けた。円い小判に妖力を籠め、放つ。 獣はそれを身を捻る事で躱したが、何故かそれ以上踏み込んで来ようとしない。窪んだ眼窩の奥から、ただ静かに朱の光が終たちを見ている。 『たい、ちょうは』 襤褸を纏っているようにも見える、臙脂色の毛並みの首裏で、何かが煌めいた。 逆五芒。真都守護軍の、第六小隊の徽章だ。 「天沢の事か……彼なら無事だ、今も都を護っている」 言葉を与えると、獣は僅か安堵したように息を零した。涎の滴るあぎとの奥から、ころして、と人らしい懇願が零れ落ちる。それに応えるように、幸太郎の鋭い牙が獣の首を――五芒星を深々と抉った。 事切れた妖は倒れ伏す事もなく朱に散る。霧へと戻り、また、森を深く染めた。 朱の空を、一筋の黒が駆ける。 不意に地面をよぎった影に振り仰げば、大きな黒い翼をはためかせた天童の姿が其処に在った。 「天童」 「来るで。頭領はんのお出ましや」 警戒か、ただの報告か。 どちらともつかぬ口調で言って、天童は彼らの元へと降り立った。気が付けば、彼らの眼前には霧よりも尚濃い朱の鳥居が顕現していた。玖郎の確保した視界の中で見落とすなど考えられず――空間ごと、距離を縮めたのだろう。 禍々しい気配の奥から、一人の鬼が歩み寄る。 いざなうように、血色の爪と、荒れ地の肌が手招く。 『客人達よ。汝らの力も――國を滅ぼす礎に』 「勝手な事を言うニャよ」 毛並みを逆立てて幸太郎が威嚇するも、真蛇は頓着しない。 「國を憎む、か」 終がぽつりと落とした言葉に、頷いて応える。 『然様。我らの望みは玉座の奪還。我らは――』 「現王朝のなりたちの陰でついえたもの」 ふと、静かな声が霧中に落ちる。 真蛇が動きを止め、貌を上げる。赤褐色のあまきつねが、朱霧の中に浮かびながら森と、社を見下ろしていた。 「……玖郎?」 「どうかしたのニャ?」 問いかける仲間の声にも、いらえを返さない。鉢金の奥の瞳は、ただ茫と何かを見据えるのみ。 「並び立つ他の王と、制圧されし土着の民か」 謳うように言葉を紡ぐ。普段の朴訥とした様子からはかけ離れた、流れるような聲で。 「争いで得た王位を、この地を創りし神を祖とするが故の必然と謳う……」 虚ろな声が響く。鉢金の奥が、不穏な朱の光を燈した。 「……否。おれはなにを言っている?」 はたと、我に帰った玖郎は首を横に振る。朱の霧が肺を浸す度、何か、抗い難い憎悪が、得体の知れない瞋恚が、身の内側から蘇るようだ。 『汝もか、異郷の魔鳥よ!』 ぐわり、と牙の並ぶあぎとを広げ、真蛇は高らかに嗤った。 『まつろわぬ民、力によって弾圧されし者達。――全ての怒りを、我らが神は知っておられるぞ』 「まつろわぬ、民」 『憎いとは思わぬか。我らが祖を貶めた皇が』 「我らが祖――?」 妖魔の声が轟く度、玖郎の翼が不穏な風を孕んで膨れ上がる。天狗が、物怪が、猛禽が、その身の内を流れる何者かの血肉が、玖郎の意志に叛いて朱の侵蝕を許す。赤褐色の羽が根元から鮮やかな朱に染まり、幾枚もの羽根を飛び散らせながら高く跳び上がる。 手甲に覆われた指先で、素早く印を切る。 風が鋭く嘶いて、ひととき、空を覆う霧が引き裂かれた。 何かが迫り来る予兆に、逸早く動いたのは半妖の青年だった。物怪の力を幾度となく隣で見てきたからこそ判る、不穏な予感。自らの前に手を掲げ、濃く渦巻く地表近くの霧へ一斉に干渉する。 意志や力が在ろうが、今、彼の目の前に漂うのは水気だ。 ――ならば。 雪女半妖の口から静かに紡がれた息が、氷に変わる。凍て付いた朱は次から次へ、大気中を伝うように凝る霧を絡め取って氷の壁を創り出した。 次の瞬間、空を鋭い光が走る。 朱の霧を引き裂いて、ロストナンバーたちへと瞬きの間に肉薄する稲妻を、分厚い氷の障壁が遮った。火花が散る。砕けた朱の欠片が地面に散る。 からん、と、場に不似合いな軽い音がした。 常から玖郎の貌を覆う、鉢金が大地に落ちたのだ。人らしい面を晒して、朱色に染まった瞳がぐるりと周囲を見やる。その貌に浮かぶのは、木訥とした物怪にそぐわぬ、焦燥にも似た険しい表情。 「玖郎!」 付き合いの長い終の叫びにも耳を貸さず、忘我の物怪は的確に雷を呼び寄せる。猫の王が放つ小判が枝分かれした雷撃の一部を受け止め、火花を散らして地面へと落ちた。妖気を纏った金ですら、それを捩じ伏せるのは困難のようだ。 「しゃあないなぁ」 ぼやき、天童が一歩前へと進み出る。鉢金を被る猛禽の瞳が彼を捉え、すぐに神鳴の指先が空を滑るが、気だるげな黒天狗はそれにも動じる素振りは見せなかった。 「ほんまは終はんの事を心配しとったんやけど……まさかあんさんとはなぁ。わからんもんやね」 沁み込む毒のようにあまやかな、紫の瞳を柔らかく細める。葉団扇の奥でひっそりと笑みを零し、物怪の其れに劣らぬ見事な造りの翼を大きく広げた。 「終はん、三池はん、防戦は任せたで」 「……ああ」 「何か策があるんニャら乗るニャよ」 二人の妖は頷いて、天童の目の前に分厚い朱氷の壁と、小判の避雷針を配置した。小判を取り込んで、より凝縮された朱が天狗の雷を迎え討つ。 それらに護られながら、天童の小指を戒めていた紐が伸びる。静かに忍び込むような動きで、緋色の軌跡が朱の霧の中を泳ぐ。三人を覆う、半円形の緋色の毬に似た結界を編み出しながら、一方の端が中空で狂える物怪へと狙いを定めた。 瞬間、緋色が奔る。 獲物を捕える蛇にも似た動きで、驚き身を躱そうとした物怪の翼を緋色が絡め取った。引き寄せ、捕え、もがく鳥を中空に磔にした。 「ほな、行ってくるわ」 軽やかな宣言と共に、天童は己の黒い羽根に優しく口付ける。 ◆ 夢を視て、居る。 物怪でも夢を視るものかと僅か感心し、天童は自らの羽根を介して飛び込んだ玖郎の裡(うちがわ)で彼の意識を探した。赤褐色のあまきつねの世界には、何者かに塗り潰された、朱の光景が広がっている。夕空か、暁か、それさえも解らない。 開けた野の中央に、一人の男が這い蹲る姿が在る。都のものではない、独特な紋様の衣裳は血と泥とに塗れている。 『栄えるがよい。皇の国よ。末代まで、祟り続けようぞ!』 長い髪を振り乱し、狂乱の貌で男は朱の天へと瘠せ細った両手を伸ばす。 それに呼応するように、空の果てより何かが飛来した。 赤褐色の、巨大な翼持つ猛禽。この夢を視るあまきつねによく似ている、と思う。鳥は鋭く空を滑空し、男の元へと肉薄する。――そして、大きな嘴をぐわりと開いて、男の無防備な腹部へとソレを捻じ込んだ。飛び散る朱。夢を覆う色よりも一層濃い、深い霧のような。 男は嗤っていた。 鋭い嘴に身を穿たれ、抉られ、命尽きるその瞬間まで。 そこに果てのない執念と瞋恚を垣間見、天童の昏い感情が揺さぶられる。朱の残滓が忍び込もうとするのを拒み、目的の相手を探した。惨憺たる儀式は未だ続いている。 血に塗れた嘴が墜ちる。 翼を備えた巨躯がいびつな音を立てて捻じれていく。 脚が、胸が、貌が、羽毛の下の肉を曝しながら猛禽の骨格ごと姿を変えていくのを、天童はただじっと見つめていた。 これは《誕生》だ。 無念の内に死んだ民が、人の肉を喰らった鳥が、ひとつに融けて。 新たな物怪が生まれようとしている。 (おれは) 人に近しい鳥妖の、朴訥とした声が響く。 帰る場所を喪った、惑い子のような心許ない声。 (おれはなにものだ。物怪は――あまきつねとは、何だ) 天童の他に、誰かが、この鳥葬と誕生を眺めている。 そんな確信だけがあって、黒天狗はふと安堵の息を吐いた。 ――まだ、心を喪っている訳ではないようだ。 「なあ、玖郎はん」 (く、ろう) 振れる。 精神の世界が、玖郎の心が、あまきつねの血に沁み着いた憎悪の祖が。 ◆ 化け猫の鋭い爪が、絶え間なく襲い来る妖魔の群れを切り裂いていく。 「……ッ、流石に二人じゃ辛いニャ! 天童はまだかニャ!?」 精神へと飛び込む寸前、天童が周囲に張り巡らせたトラベルギアの網によって妖魔の動きは制限され、幾分か戦いやすくなっているが、それにしても多勢に無勢だ。 静かに横たわる天童の傍から身を離さぬように、霧を氷に変え桜の花弁を周囲に散らせて妖魔たちをその場に氷漬けにする終もまた、あどけない面差しに不安な色を乗せて、上空に浮揚したまま黙する物怪を見上げていた。 彼らから離れた場所で静かに行く末を見届けている河内の主もまた、不穏に過ぎる。裸木の色をした瞳をじ、とそちらへ向ければ、真蛇は剥き出しの眼で嘲るようにわらい返した。 『何用ぞ』 「聞きたいことがある」 天童の張り巡らせた網の目を繋ぐように、終が手を伸ばした先から霧が凍り始める。無防備な天童と、尽力してくれる幸太郎を護りたいと静かな意志をその朱に籠めれば、霧はより強固な粒子を形成した。感情に左右される呪としての朱の力はこの森でも変わらぬようだった。 緋色の紐と朱の霧で形成された氷のドームの中から、雪女の力を引く青年は言葉を続けた。 「何の故國を憎む。この地に天津神が降臨し、反乱を起こして討伐されたという伝承は本当なのか」 『反乱などではない』 真蛇は終の問いかけを鼻で笑う。人間くさい挙動だ、とぼうやりと半妖は思う。――かつてソレもまた人だったらしいと、司書の言葉が今なら理解できる。 『本来ならば我らがこの國を、世を統べる筈だったのだ。それをあの小賢しい海神(わだつみ)めが世の理ごとねじ曲げた』 「わだつみ」 鬼の言葉を素直に繰り返し、終はじっと思考を巡らせる。海の神。大河へと姿を変え、儀莱への海路を閉ざしていた、龍王のことか。 「……なら、やはりお前がその、天津神の一族――?」 『我が地と、我が血は深い霧によって閉ざされた。我らは生を受けし時より鬼となるが宿命(さだめ)。何処へ去る事も叶わずただ此の森に囚われるのみ』 乾き切った荒れ地のような肌の奥、窪んだ眼窩の中で朱色の瞳が煌めく。その色彩に、憎悪や憤慨に紛れた渇望と、哀切を見て取り、終は僅かにたじろいだ。國の伝承と目の前の妖魔の言葉。どちらを重んじるべきか、冷静な思考が働かない。 ただ、人として生きられればそれでよかったのだと、鬼女は嗤う。自嘲じみた貌で。だが、それも叶わぬほどの罰だ。――此の地を深い霧で覆ったのもまた、彼の龍王なのだというのか。 『猫の王と申したか』 唖然とする終を差し置いて、真蛇は落ち窪んだ眼窩の下から、ぎらぎらとした光を幸太郎へ向ける。 『そなたも王を名乗るならば解ろうもの。纂奪者への憤りが』 「知らんニャ」 しかし、幸太郎は吐き捨てるように言葉を返す。彼は生まれながらの王だ。 「おれ様はおめぇらみたいに弱くないのニャ!」 咥えていた小判を放ち、終の作った朱のドームを破ると、そのまま猫の黄金は真蛇の胸へと突き刺さる。後を追って、堂々たる毛並みを逆立てた三毛猫が、その身を肥大化させ、人型へと姿を変えながら鋭い爪を奔らせた。 一閃。罅割れた岩のような肌が、ボロリと剥がれる。 断末魔の声が響いて、鬼が崩れ落ちた。 「口ほどにもないニャ」 ふん、と鼻を鳴らし、3メートルもの巨躯を震わせて猫は鳴く。勝鬨の声のように。落ちた小判を拾い上げた彼の頭上から、朱の羽根が一枚落ちた。 天童のトラベルギアで雁字搦めに縛られ、空中に吊るされていた物怪が、ふと身体を大きく震わせたのだ。意識は戻らぬまま、緋色の紐から抜け出そうと身を捩り、何者かを振り払おうと頭(かぶり)を振っている。 それを視とめ、終は思わず彼の元へと駆け寄っていた。 今なら、彼に届く気がする。 「玖郎、眼を覚ませ!」 ◆ 世界を覆う朱が薄れていくのが判る。 精神の主、玖郎が己を取り戻している証だと、天童は静かに笑んだ。良い兆候だ。 「玖郎はん、聴こえとるんやろう?」 また、世界が揺れる。 黒天狗の手にも負えなかった、瞋恚の夢が、褪めようとしている。 干渉の手を緩めてはならないと、天童は言葉を重ねた。 「あんさんの種族に何があったかは知らんけどな、それは玖郎はんにはなーんも関係のない事やろ?」 言って、己の小指を常に戒める緋色をなぜる。 「縛られたらあかんのよ」 生まれ持った咎に縛られながら生きるのは、己一人で充分なのだから。 「――玖郎、眼を覚ませ!」 もう一度。 人の境に立つ青年が、山神の名を呼ぶ声がする。 (ああ) じわり、と、夢の世界にその声は染み込んでいく。朱に浸食されていた色彩が、わずかに色褪せながらも、自然の風景を取り戻していく。 赤褐色の天狗が、其処に姿を見せた。 鉢金を外した素のままの面が、静かに、天童を見下ろしている。 (おれは、おれだ。祖の宿願などしらぬ) 素朴で、しかし確かな意志の滲む言葉。天童は葉団扇の奥からくすりと笑んで、手を差し伸べた。 「それでええんよ。ほな、帰ろうか」 二人の天狗の帰りを待つ、仲間の元へと。 ◆ 刹那の静けさの後、あまきつねの翼が大きく開かれた。 細いその身で彼を戒めていた紐が敢え無く弾け、力強い羽撃きと共に、二対の翼を覆う朱の羽根を飛び散らせる。 「玖郎!」 「世話をかけた」 「やっと気が付いたかニャ」 駆け寄る仲間たちに詫びて、玖郎は振り返ると短い印を切った。妖魔へ、その奥――濃い朱の匂いがする方向へ。 あまきつねの呼び掛けに応じ、一条、太く奔った山神の雷が朽ちた社を割る。 霧の中、煙を上げながら二つに立ち割られたその場所に――巨大な、岩肌が姿を見せていた。 「……あれは?」 船の、舳先――のようにも見える、奇妙な形の切っ先が地中から覗く。あまりの規模の大きさに、地に潜るその全容を測り知ることはできなかった。 『天磐船(あめのいわふね)』 妖域の主の、乾いた声が霧中に響く。誇らしげに。憎らしげに。 『我らが神が降臨されたあかしよ』 「あんな大岩が船だって言うのニャ?」 鼻で笑い、幸太郎は高く跳躍すると、鬼が船と謳う岩の上に飛び乗った。天へと向いた舳先の上で、危なげなくバランスを取る。 「おめぇらが何をたくらもうとも、おれ様が全て打ち砕いてやるのニャ!」 そしてまた3メートルの巨躯へと変じ、猫らしからぬ咆哮と共に鬼へと飛びかかるが、掴もうとした長い髪はするりと根元から抜け落ちた。――真蛇は、髪を持たない。 『もう遅い』 怨嗟の主は割れた面の上で笑いを弾けさせる。その姿の通り聞く耳を喪った鬼は、異郷の妖達に背を向けた。 「待て!」 逸早く駆け出した終の背後で、玖郎が再び印を切る。空が嘶き、霧が薄れるのをも厭わず、鬼は嗤いさんざめく。 『宴は始まっている。我らが神は、何れ降臨なさるだろう!』 終の手から放たれた桜の花弁が、妖域の主に到達するよりも早く。 巨鳥を象った稲妻の大きな嘴が、真蛇の腹部を貫いた。 見開かれる瞳。稲光に光景が焼き付く。 飛び散る朱は、血肉は霧へと変じ、禁じられた森を覆い尽くす。欠片一つ残さず融けた霧。ざわりと旅人たちの肌を嘲笑うように舐め上げて、ソレは再び容を変えた。 二対の翼持つ、朱色の巨大な猛禽。 真蛇の面を被った霧の妖が、呆然と立ち尽くす旅人たちの目の前で、北西――真都の方角へと目掛けて飛び立っていった。 <続>
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