ブルーインブルー、辺境海域。 海上都市サイレスタで、「人魚」が捕獲されたという報らせは、ブルーインブルーの人々のみならず、世界図書館にとっても驚くべきニュースだった。 ヴォロスと違い、ブルーインブルーでは人間以外の知的生物は見つかっていなかった。「人魚型の海魔」はいても、会話ができるような人魚はいないと思われていたのである。だがこの「人魚」は言葉を解し、知性をもつという。本当ならばこれは“ファーストコンタクト”なのだ。 現地に赴いたロストナンバーは、そこで、捕獲された人魚が、「フルラ=ミーレ王国」の「三十七番目の姫、パルラベル」であること。彼女たちの国が「グラン=グロラス=レゲンツァーン王国」なる異種族の国に侵略を受けたため、救援をもとめて人類の海域までやってきたことを知る。 そして「グラン=グロラス=レゲンツァーン王国」は海魔を操るわざを持ち、その軍勢がサイレスタに迫っていることも……。 先だっての経緯から、ジャンクヘヴン率いる海上都市同盟とは距離を置いてきた世界図書館ではあるが、パルラベル姫と会ったロストナンバーたちは彼女に協力したい意志を見せた。 ほどなくサイレスタに押し寄せると思われる海魔の群れを看過すれば、海上都市同盟にも被害が出よう。ジェローム海賊団の壊滅により平穏さを取り戻したブルーインブルーの海に、またも血が流れることになる。「というわけでだな。まだ海上都市同盟は、海魔の群れがやってくることを知らねーわけだ」 世界司書・アドは、ロストナンバーたちからの報告を受けると、図書館ホールに人を集めて言った。「なので、ササッと行って、パパッと海魔を退治してくるだけなら、俺たちの活動はジャンクヘヴンになんの影響も及ぼさない。が、結果的には海上都市同盟を守ったことになる。人知れず戦うヒーローってぇやつだな。問題は海魔の群れがどのくらいの規模か今いちわからないことだが……とにかく、可能な限り退治してきてくれ。チケットの手配は他の司書にも頼んでいる。希望者全員に行ってもらえないかもしれないが、なるべく善処はするからな。興味があれば挙手してほしい」* * * セリカ・カミシロを初めとした六名のロストナンバー達を乗せた船は、さいはて海域のとある一角にて停泊し、周辺の警戒を行っていた。 何時海魔が姿を現すか分からぬ状況に緊張したような面持ちを見せる者もおり、船上は静かながらも何処か落ち着かぬ雰囲気が漂っている。 そんな中、ふと何かに気付いたように口を開いたのはメルヒオールだった。「なぁ、なんか急に寒くなった気がしないか?」「寒気か……どうだろう。俺はあまり感知できない」 応えたのは雪深 終だった。雪女の力を得ている彼は冷気へ耐性を持つが故に明確にそれを断言することは出来ず、他の者はどうかと問うように皆へ視線を寄越す。「確かにちょっと冷えて来たわね……船室から上着を取って来た方がいいかも」 それまで「うみのかわいいいきもの」なるタイトルの本を何故だかとても熱心に読んでいたセリカが顔を上げ、そう言われればというように剥き出しになっていた肩や腕を摩った。「不思議ね、とっても不思議! さっきはぽかぽか陽気でカモメも歌っていたのに、今はお魚もみんな消えちゃったわ」 メアリベルは楽しげにダンスのステップのような足取りで船の縁へ駆けより、静寂さの降りた海を覗きこむ。彼女の言うとおり、いつのまにか船の周辺には先程まで見えていたはずの海鳥や魚影の一切がなくなっていた。 俄かに、船の帆先にとまり海上を見下ろしていた玖郎が何かに気づいたようにある方向へ顔を向ける。彼がじっと睨みつけている水面には、大きな影が一直線にこの船へと迫ってくる様子が映っていた。「魚か。――否、様相が些か異なる」 呟き、一つ羽ばたく。そのまま帆先から甲板へと降り立つと、他のロストナンバー達も玖郎が何かを見つけたことに気づいていたらしく、先程彼が見ていた方角の様子を伺おうと縁へ集まっていた。「気候の急な変化は海魔の仕業ですわ。という事は、ついに海魔のお出ましなのですわ」 恐らく、その場にいたほとんどの者が死の魔女と同じ思考に至っただろう。それぞれに身構え、一行に緊張感が走る。しかし、次に彼らが耳にしたのは予想外なことにハッキリと人間の男性が発したものと分かる声だった。「どなたか! この船にどなたかいらっしゃいませんか!? どうか御力をお貸しください! 急がなくては、フェルミーユ様が!」 海魔は自ら言葉を発するような知恵は持たないはずだ。ということは、これは海魔ではない。一行が船の縁から海面を見下ろすと、そこには金色の兜や手甲、胸当てを装備し、銛を携えた騎士のような趣の風貌をした男の上半身があった。海中に目を凝らすと、大きな魚の尾鰭が揺れているのが見える。 男はフルラ=ミーレ王国の100番目の姫君、フェルミーユの護衛をしていた騎士だと名乗った。100人いるという人魚姫の中の100番目、ということはパルラベル姫の末の妹にあたる。 彼が話によると、フェルミーユはまだ幼く、国の危機とはいえ他の姉達のように王国の外へ向かうことは皆が反対したという。しかし本人はどうしても家族や国の人々の役に立ちたかったらしく、こっそりと国を脱出して姉達と同様に救援の要請をしようとしたそうだ。「私一人がそれに気づき慌ててフェルミーユ様を追いました。しかしようやく追いついたと思ったら、突然海魔の群に襲われてしまって……」 冷気を操る種類の海魔の襲撃に動揺したフェルミーユは、咄嗟にすぐ近くで打ち捨てられていた古い商船の船底に開いていた穴へ潜り込んだらしい。だがそれでやり過ごす事はできず、その周辺を海魔の力によって氷漬けにされてしまったことにより、古船の中へ閉じ込められてしまったのだ。「海魔は地表での動作は遅いのですが、ひとたび海中へ潜ると矢のように突進して船を貫いていくのです。数も非常に多く、私一人ではどうにもなりませんでした……このままでは、船内にいるフェルミーユ様が海魔達に殺されてしまう!」 そこで彼は近くに手を貸してくれる者はいないかと探し回っていたのだ。一通り話を聞き終えると、セリカはきっと表情を引き締める。「……急いで助けないと。船員さんに船を出すよう伝えてくるわ」 彼女に反対する者はおらず、人魚の騎士は彼らに深く礼を告げるのだった。* * * 冷気を操り、放たれた矢のように海中を抉る恐ろしい海魔の集団。過去の海魔に関する報告からも想像できるような如何にも恐ろしく醜悪な海魔の姿を想像していたロストナンバー達の前に、それは現れた。 海上に唐突に形を成す氷の小島。その中央に如何にも古めかしく黒ずんだ商船が絶えず軋みをあげており、時折何かの衝撃を受けて大きく揺れる。 その周りを取り囲むのは――体長およそ65センチ前後、全体的に黒い体にふっくらした白いお腹、身体に対してやや短めな両翼、白い縁模様が特徴的な円らな瞳の――ペンギンだった。 氷の上でわらわらと集っているペンギン達はそれぞれ、両翼を広げ、短い足を一生懸命動かし、よちよちとしたユーモラスで且つ独特な歩き方でロストナンバー達を出迎えている。 あるところでは、数匹が眠たげに目を細めて首を竦め、身体を寄せあっている。 あるところでは、海中から上がってきた一匹が両翼を広げてぶるぶると体を震わせ、水気を払っている。 あるところでは、一匹が海中へ入ろうと小島の縁へやってくると、そこへ段差を越えようと飛び跳ねた一匹が衝突し、そのまま二匹一緒に海へと滑り落ちていく。 ロストナンバー達の船の傍らでは、先程の騎士がフェルミーユを案じ心配そうな声をあげていたが、あまりに予想と違った海魔達の姿を眺める一行の耳にその内容はまったく入ってこなかった。(……可愛い……) ペンギン達が一行に気づき、攻撃を開始するまでその思考のまま止まっていた者がいたとしても、致し方ないのかもしれない。* * * 凍えるような冷気が薄暗い船内を満たしていた。船底を次々貫いていく海魔達から逃れようと必死で船内をよじ登った少女が、今は段差の上に半人半魚の身体を乗せて縮こまっている。 歳の頃は人間でいうと七、八歳といったところだろうか。見る者全てに幸福を与えるような愛くるしい顔立ちは、人魚でありながら天使のようである。しかし今その顔は襲われる恐怖と独りぼっちの心細さに沈んでおり、フェルミーユは先程からずっと啜り泣いていた。「助けて……誰か……」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>セリカ・カミシロ(cmmh2120)メアリベル(ctbv7210)雪深 終(cdwh7983)玖郎(cfmr9797)死の魔女(cfvb1404)メルヒオール(cadf8794)=========
一行の乗る船の接近に気づいたペンギン海魔達は氷の上をぺちぺちという足音を鳴らし、海中へ潜るため一斉に動き出す。戦闘開始と言えば格好はつくが、やはりその姿と動きは些かユーモラス過ぎているようで、船上のロストナンバー達は未だ戦闘態勢に入りきれてはいなかった。 「あらららら。何とも愛らしい海魔ですこと、とても海魔には見えませんわ!」 死の魔女のあげた歓喜の声が、その場の緊張感のなさを何より表現している。ペンギン達をもっとよく見ようと船の縁から身を乗り出しているのは彼女だけではない。その隣ではメアリベルも「本当にとっても可愛いペンギンさんね」とにこにこと嬉しそうな笑顔を浮かべ、そのさらに隣ではセリカが無言ながらつい頬が緩みそうになるのを必死に堪え顔を紅潮させている。 「……かわい、じゃない、駄目よセリカ……今はそれどころじゃ……でも……」 「ああもう、家に1匹持って帰ってモッキュモッキュしてやりたいですわよねぇ~」 「も、もっきゅもっきゅ……!」 必死に自制しようとするセリカの理性を死の魔女の黄色い声が蹴散らしている。自制心を揺るがされ葛藤しているセリカを知ってか知らずか、死の魔女はさらに「触ったらきっと羽毛で柔らかいのですわーふっかふっかのもふもふに違いないのですわ」とペンギンを抱っこするようなジェスチャーをとって見せていた。 「ふっかふか……もふもふ……っ!!」 セリカも思わず釣られて同じジェスチャーをしそうになり、しかし直前でハッと理性を取り戻す。 「~駄目! 今はっ、今はお姫様を助けないとっ、海魔を倒さないと駄目なのよ! セリカしっかりしなさいっ!!!」 そしてついには頭を抱えて蹲ってしまった。そんなセリカの脇を、メアリベルは如何にも機嫌良さ気に通り過ぎていく。 「メアリ、ペンギンさんにご挨拶してくるわ。氷の上でみんなで遊ぶの、きっと楽しいもの」 鼻歌を歌いながら、彼女はそのまま甲板を横切り船員達が縄梯子を準備するのを待ち遠しいように近くでうろうろと歩きまわり覗きこんでいた。 そんな乙女達の興奮と葛藤を他所に、メルヒオールは氷の島に囲まれた古船をじっと眺めている。中にいるのはまだ両の手で歳を数えきれる程に幼い少女だという。教師という子供に接する職についていたメルヒオールにとって、それはつい気にかかってしまうところであった。 「聞いちゃいたが、海魔の数は大分多そうだな」 仲間達の実力に不安があるわけでは決してないが、一掃するとなると時間は掛かりそうだと思考しつつ一度古船から視線を離すと、今度は未だペンギン達に興奮する女性陣の姿が視界に入る。そのあまりの緊張感のなさに、無意識に溜息が洩れた。 「……そりゃぁ、見た目海魔らしくないのは確かなんだけどよ……」 どう思うよあれ、と言いたげにメルヒオールはすぐ傍に立っていた終に顔を向ける。だが終はそれに特に気づいた様子はなく、一心に目前の光景を見つめていた。 「氷の世界、か」 呟く彼の目に映る、冷たく青白く透き通った島の姿。海魔達の力によって生まれたものとはいえ、観光地程度にしか認識していなかったブルーインブルーでこれほど感情を揺さぶられる光景を目にするとは思いもしていなかった。 かつて朱昏で航海の果てに辿り着いた理想郷、あれは鮮やかな極彩色で彩られた南国の地であったが、長く海を渡った先に想像に至らぬ光景が広がっていたあの記憶が呼び起こされる。で、あるならば――、 「即ち、これが……俺の……」 「おい、感慨に浸ってる間に海魔がどんどん岸の方に集まっていってんだが」 何時までも氷の島に釘付けになっていた終に、耐えかねたメルヒオールのツッコミが入る。 「……そうだったな」 「今、目的忘れかけたりとかしてなかったよな?」 「……。いや、大丈夫だ」 「今の間は何だ」 「それはともかく、あの海魔は人魚の敵国の者に操られているんだったな。……改めて、気に入らない」 「話題変えやがった……」 一連のやりとりの末、終は改めて海魔達を見据える。海魔はときに人を害し討伐依頼が出るときもあることは終も認識するところであるが、しかしそれでもブルーインブルーの海に住まう幾多の生命のうちの一つには変わりない。 「生命を道具に扱うようなものだ」 「戦いたくない、か?」 怪訝そうに問うメルヒオールに対し、終は首を左右に振ってみせる。 「弱肉強食も自然の理……それに、操られていなかったとしても、海魔は海魔……でいいはずだ。外見で惑わすのも力の内なら、それこそ油断はならない」 「確かに、すでに惑わされまくってるやつらがそこにいるしな」 メルヒオールは呆れ顔を隠すこともなく、何はともあれとっくに接岸していた船から氷の島へと降りるために、船員達が下ろしてくれた縄梯子がある方へ――メアリベルの姿が見えないのは、もう既に下へと降りていったからなのだろう――向かっていった。終はちらりと再度一面に広がる氷の島と相変わらず可愛らしいペンギン達を見やる。 (……見た目の愛らしさや氷雪の力等は、今は関係ない。おそらく。多分) いろいろ勿体無いとつい傾きそうになる思考は抑えつつ。終もメルヒオールに続いたことで、ようやく甲板の面々はそれぞれ海魔退治へと行動を開始すること流れとなったようだ。 下方の甲板にいた者達が動き出す一方、玖郎は再び帆先より周辺の海魔達をじっくりと見下ろしていた。 「なるほど」 紡がれた言の葉にはほんの僅か、感心の色が含まれているようである。実際、彼は初めて見る鳥型海魔の生態に対し敬する心情を抱いていた。 「水を凍らせた足場は、即席の休憩地となる。陸地に乏しいこの世界において、理に適う力だ」 其ればかりではない。彼らの翼の細さでは、風を切り空を舞う事は叶うまい。しかし其れを潔く捨て去る事により、海中を弓矢の如く駆けることが可能となっているのだ。 そして、下方の――甲板に居る同行者達の様を見るに、その姿態は人を魅了し狩る事を躊躇わせる意味があるらしい。 つまり彼らはこの果てなき海上で生存するにおいて、この上なくよく適し、優れた力を持つ種なのだろう。 「すべて滅するはおしい。かれらを操るものの姿はまだ見えぬが、――まずは退くを促すか」 玖郎の両翼は広がり、大きく羽ばたく。玖郎の体躯が宙に浮き、そのまま風の如くに海魔達の待ちうける氷上へと降りていった。 * * * 手斧をダンスのステッキのように弄びながら、氷上へと降りてきたメアリベルは楽しげに海魔の群の前へ足を運ぶ。小さな彼女の体躯よりもさらに小さな海魔達の前で、メアリベルは手斧を持ったまま軽くスカートの両端を摘まんで淑女らしいお辞儀をしてみせた。 「こんにちは、可愛いペンギンさん」 ビスクドールのようによく整った顔に浮かぶのは、子供らしい無邪気な笑顔。だが海魔達は敵の接近を前にして、一斉に威嚇の声を上げた。それと同時に空中で氷の粒が数多発生し、スパンコールのようにキラキラと輝きだす。 嘴は大きく開かれ、明らかに怒りの篭った鋭い鳴き声を発しながらペンギン達は細い両翼を広げてメアリベルへと迫ってくる。 初めに跳びかかったペンギンの一羽を、メアリベルはその無邪気な笑顔を崩さないままに斧で薙いだ。一撃を食らったペンギンの胴は半ばへし折れながら大きく抉られ、地に伏したその個体は大量の血を噴き出しながら身体を痙攣させる。 「ペンギンさんのお肉はどんな味がするかしら。スープを作ればみんなの冷たい体もあったまるわね」 仲間の死にさらなる怒りの声をあげるペンギン達を前にしても、彼女の笑顔は変わらない。表情に広がった血溜まりはやがて仲間の海魔達の発する冷気によって氷結し、赤い氷として島の一部へと加わる。メアリベルは真っ赤な氷を躊躇いなく踏みしめて、手斧をその細い両腕で支え持つ。 「海も、氷も、全部真っ赤に真っ赤に染めてあげる! そうしたらきっと、とっても綺麗よ」 それでも、彼女の笑顔も、歌うような言葉も、全てが無邪気だった。 表情に降りて直ぐ、メルヒオールは「浮揚」のスクロールを取り出す。それを破る手前で、思い出したように後方から追いついてきた終の方へ顔を向けた。 「真直ぐあの古船まで行きたいんだが、おまえ、道開けられるか?」 二人が降り立った岸から、中央に捉えられた古船までは約百メートルといったところだ。すぐ前方ではメアリベルが斧を手にペンギン達を血溜まりに沈めていく最中であるが、それでも集まっている海魔の数は真直ぐ突っ切っていくにはあまりに多い。 「ああ……冷気と水気は充分にある。なんとかはできる、はずだ」 「なら頼んだ。自分でも多少はやってみるけどな」 そこまで告げると、メルヒオールは手にしていた「浮揚」の言葉の綴られた紙の端を銜え、石化していない方の手で破り捨てる。紙片は宙を舞い、冷たい氷上へと落ちていく。それとは逆にメルヒオールの身体は空中へ数十センチ浮き上がった。 「なるべく真直ぐ進んでくれ。遠くなると俺も狙いをつけ辛い」 「分かった」 簡潔な返事を残し、メルヒオールは古船へと向かって空中を滑るように直進を開始した。 船の甲板には、まだセリカと死の魔女が残っていた。セリカは舳先の方に立ち、右手にしている白い手袋をそっと差し出す。するとそこを中心にして可視性のエネルギー波が球状に拡散し、あっという間に船全体を覆った。 「それは防護壁ですの?」 「ええ。船を壊されて沈没させられるわけにはいかないし……ええと、死の魔女は……何を持ってるの?」 セリカの目がおかしくなってなければ、死の魔女が両手に持っているのは生のお魚だ。数は三尾。しかし今は一応、一応、海魔との戦闘中である。もしかしたら魚に見えても違う何かなのかもしれない。例えば何らかの大きな力が秘められた――「見てのとおり、ただの生魚なのですわ」――というわけではなかったようだ。 「……そうよね。それで、その、生魚は何に使うつもりなの?」 若干脱力しつつセリカが問うと、死の魔女は意味ありげに口の両端を吊り上げる。 「ただの生魚、でも、私の”お友達”……そう。ほんの少し、”お友達”にお手伝いしてもらうのですわ」 魔女の見せたその妖しい微笑に、セリカは視線を逸らす事も出来ずゴクリと喉を鳴らす。そして、その僅かな沈黙の後。死の魔女の手にあった生魚がビクリと体を震わせた。 「!」 そして死の魔女はその三尾の『お友達』を船縁から海へと投げ入れる。 「この防護壁、内側から外には出られますの?」 「え、ええ。外側からの攻撃は防ぐけど、内側から外になら通過できるはずよ。……でも、あの魚で何を……?」 死の魔法により死の魔女の思うがままに操れるとはいえ、それでも所詮はただのお魚である。セリカが素直に疑問を口にすると、死の魔女は如何にも楽しげに答えた。 「ペンギンの観賞会、ですわ」 地上からはペンギン達の甲高い雄たけびが幾度も上がり、その数故にこの冷えきった空気を激しく揺さぶっている。その叫びからは激しい怒り――己の領域を侵され、仲間を害された故か――そして正体不明の猛烈な敵意が篭っていた。 海魔との対話は不可能との旨を、玖郎は既に耳にしている。海魔が意思を持って言葉を操ることはないと。しかし其れは人間が「彼らの言葉」を理解できぬだけのはず。海魔といえど、彼らは鳥には違いないのだ。であるならば、彼らの知能が鳥に劣るとする謂れはない。 ただ、既に興奮している者が相手では対話は難しい。玖郎は数度島の上空を旋回し、未だ落ち着きを保っている物の姿を探る。やがて、仲間の船が接岸した丁度反対の岸で佇んでいた一羽の姿を視止め、彼の目前へと降下した。 その一羽は、目の前に何者かが降りてきたと分かると、大きく嘴を開き、威嚇の声を上げる。 「まだ。おれはおまえを害する意はない」 翼を折りたたみ、玖郎はペンギンの前に座した。ペンギンはというと信用できぬとばかりに威嚇を続け、両翼を激しくバタつかせている。その真ん丸な眼は、なんとなく力強く玖郎を睨みつけているように見えなくもない。 「おまえの群は、なぜあれを襲う」 あれ、と玖郎が指したのはペンギンの背後にある古船である。その中には、人魚の童が身を潜めているという。 「人魚が好物か」 ペンギンはまた一声鳴いた。其れは玖郎の問いに対する答えではなく、また、明確な言葉にもなっていなかった。ただ、ここを去れという意味だけは理解できる。 「いまおれが属す群れは、あれを保護対象と見做した。その意に背くは難い。ゆえに退きはせぬ。……おまえの群は退けぬのか。退かぬなら、おまえたちは群を滅ぼすことになる」 玖郎は言葉を紡ぎながら、視線はペンギンにしかと向けたまま体勢を低く変えた。折りたたまれていた玖郎の両翼が、体勢とは逆に高々と、より大きく広げられる。氷上にも玖郎の影が大きく映り込む。だがペンギンがそれに怖気づく素振りはない。むしろ先より一層力の篭った声で、明確な敵意を伝えてくる。 「もはや聞く耳を持つことも、言葉を交わすこともできぬか」 ペンギンはバタバタと両翼を振るい、玖郎に跳びかかった。それは先程までの氷上を歩く様とは異なり、小さな体躯でありながら鋭い突進である。 玖郎の両脚は地を離れ、体は空へと返る。 「それほどまでに狂うておれば、仕方あるまい」 標的を逃したペンギンは、空を見上げ鳴く。そこに理性はなく、恐れも、退く意思もありはしない。 「……退かぬなら、おれの糧となれ」 赤茶色の両翼は一対の刃のように空を切る。玖郎は彼の頭上に迫る僅かの時の間にその黒い首に己の鉤爪を突き立てた。一羽の鳥の血が赤く飛び散り、黒い体躯は宙に放り出される。玖郎はそれを見届けることもなく、また空へと飛び去っていく。そして其処から次の獲物を定めだすのだった。 「玖郎さん、ペンギンとあんなに真剣に何を話してたのかしら?」 舳先から遠目に見えた光景に、セリカはついついそんな疑問を漏らしていた。必死で翼をパタパタさせて鳴いているペンギンと対峙している姿は、こんな事態の最中とはいえどうにも微笑ましい気持ちにさせられてしまう。玖郎が彼らを狩りだす前に目を離したのは、そんな彼女にとってはやや幸運だったのかもしれない。 「そんなことより、あの海魔達の海中の速さは凄まじいですわね。私の”お友達”もあっという間に食べられてしまうのですわ」 セリカの傍らから顔を覗かせた死の魔女がすっとある一点を指差す。先の生魚を囮に誘導された海魔は、弾丸の如くに海中を奔っている。氷上にわざと一尾を跳ねさせて逃がすと、その真下から一羽のペンギンが厚い氷を貫き破壊し跳び出してきた。 「まさに可愛い顔して何とやら……ただ、海中では氷の能力はあまり活用していないようですわ」 「ということは、氷を使うのは地上に出てるときなのね?」 セリカの問いに答えるように、死の魔女は今度はメアリベル達がいる方の岸辺を指した。するとその海魔達のひしめく上空には、この甲板からでも視認できるほどの氷の結晶が幾つも出現している。その結晶はやがて雹となって氷上へ降り注ぐ。 「……みんな無事だといいんだけれど」 「それで、この船は今どこに行こうとしているんですの? このまま行くと島に乗り上げてしまうのですわ」 船を出すように乗組員へ頼んだのはセリカだった。セリカは舳先から既に正面に迫っている氷の島を睨む。さらにその先の、古船と共に。 「フェルミーユを助けに行くわ」 「氷の上でも走るつもりですの?」 死の魔女のクスクスという笑いを聞きながら、セリカは黒手袋をはめた左掌を正面に向ける。そこへ眩い光が収縮を始め、そして弾けるようにして彼女の前に光の直線を描いた。 レーザー光線を受けた氷塊は深く抉られ砕け散る。セリカはそのまま数度同じ攻撃を繰り返し、氷の島に船の通り抜け可能な「道」を作っていった。 「これなら何とかなる、でしょ?」 「あらあら。あなたも可愛い顔して何とやら~の類だったのですわ」 死の魔女は特に驚いた様子もなく、今度はけたけたと笑いながらセリカに背を向ける。 「何処に行くの」 「いつまでも遠くからペンギンの観賞会とはいかないみたいですわ」 死の魔女はセリカに船の周囲をよく見るように動作だけで促した。それに従い周辺の様子を伺うと、島を破壊し現れた巨大な侵入者を海魔達が取り囲んでいる。幸い先程張った防御壁のおかげで船に実害はまだ出ていないが、数に囲まれれば動きづらいのは間違いない。 死の魔女は持参した旅行鞄を傍らに船の縁に立ち、背表紙に謎の文字の綴られた書物を取り出した。軽やかな手つきでページを捲り、厳かに、ゆっくりと唇を動かす。 「4ページ。霧の向こうに繋がる世界」 『死の書』に綴られた文字を解すものは三千世界の何処にも存在しないという。その書を手にしている死の魔女本人でさえ、それを読むことは叶わない。 それでも、彼女はそれを朗読する。そんな不条理でさえ、魔女である彼女の前には些細なことであった。脇に置いていた旅行鞄を拾い、彼女の脚が船の縁を踏むと、木製の縁は霜が降りたように白く変わる。縁を蹴り、彼女は船を脱する。しかしながらその降下は緩やかで、爪先はふわりと海面に触れた。 途端、彼女の触れた海面は一瞬のうちに氷結する。既に屍となり、元より体温を持たぬ彼女の身体は先の朗読の効果によりさらに自ら冷気を発っするようになっていた。 死の魔女はそのまま海上を優雅に歩き、セリカの残る船から距離をとる。そして手にしていた旅行鞄からある荷物を取り出した。 「ほ~ら海魔ちゃん達、ご飯の時間ですわ。私の元へ寄って来るのですわ!」 生魚である。彼女の大きな旅行鞄には新鮮な生魚がみっしりと隙間なく詰め込まれていた。死の魔女はその生魚をありったけわし掴むと、自分の周辺に思いきりばら撒く。それから魚に釣られて海中から飛び出してきた海魔のうちの一羽を、絶妙なタイミングでキャッチした。 「し、死の魔女!?」 そこへセリカの驚いたような声が聞こえてくる。どうやら気になって様子を伺っていたらしい彼女へ、死の魔女は腕の中でジタバタと暴れるペンギンをここぞとばかりにもふもふしつつ大きく手を振ってみせた。 「ここは私に任せて先に進むのですわ~! いえいえ決して海魔をまとめてモフモフしたいからとかそんなんじゃないのですわ~!」 死の魔女は生魚を餌に捕まえたペンギンやの必死の抵抗をあしらう。そしてこれでもかという程もふもふもふもふする。 「フフフ、本当にモフモフなのですわ! お持ち帰り~なのですわ~っ!」 海中から飛び出してくる他のペンギン達も生魚で狙いを逸らさせ、さらにもふる。抱っこされているペンギンの円らな瞳が「離せこんちくしょう」的な睨みを利かせていようと、「もふる」という大いなる目的の前には何の障害にもならないのだった。 「……いいなぁ」 甲板の上からその光景を一部始終眺めていたセリカの口からは、無意識にそんな言葉が漏れていた。 海魔の群へ、一陣の風雪が吹き荒れる。凍るような冷気を帯びた風の激しさに、ペンギン達はその場に留まりきれず、風を避けて周辺の仲間と体を密着させあった。寒さに強い海魔ではあるようだが、さすがに吹雪の中では平気でいられぬらしい。動きの鈍った海魔達の隙間を、メルヒオールはすかさず真直ぐに抜けていく。 その彼の上から海魔達の生み出した氷の結晶がせめてとばかりに降り注いでくるのを石化した右腕で防ぎつつ、「火炎」のスクロールで瞬時に溶かしてやり過ごす。 終は己の放った風雪が無事に古船の手前まで届いたのを見とどけると、間を置かず自身の背後に氷の壁を出現させた。氷の壁はそのまま大蛇が体を持ち上げるように左右へ伸び、視界に入る限りの海魔の群をぐるりと囲む。 「ミスタ・ユキミ。今の風はミスタの風なの?」 声をかけたのはそれまで海魔たちとの”戯れ”に夢中になっていたメアリベルだった。右手には赤い液体の滴る手斧を引き摺って。左手には首のない哀れなペンギンと手を繋いで。滑らかな髪や柔らかそうな頬に海魔の血を散らさせて。メアリベルは面白いものを見つけた子供の無邪気さのままに尋ねる。 「……ああ、そうだ」 終の肯定に、幼い殺人鬼は目を輝かせた。 「白い風だったわ。雪が沢山散って、綺麗な風だった!」 「綺麗、か」 ここでそんな言葉を聞くとは予想していなかった、と呟きながら。終はまた多量の雪を精製し、風雪を巻き起こす。それが海魔達の生み出した雹を吹き飛ばしていくのを、メアリベルはまた楽しげに見つめていた。 「でも、メアリも素敵な風を吹かせられるわ」 パッと空から目を離し、メアリベルはにこりと笑んだ。持っていた首なしペンギンをその辺に置いてから、鈴の音のように愛らしい声で「歌」を唄う。 『風が東寄りに吹いてるときは 人にも獣にもいいことがない』 雪の混ざらぬ緩やかな風が、メアリベルの髪を揺らす。 『風が北寄りに吹いてるときは 腕利きの漁師も漁をしない』 風はすぐさま勢いを増し、轟々とした音をメアリベルの耳に届ける。終が風雪で自身の周辺のみ風を中和しているのが、ほんの少しだけ視界の端に見えた。 『風が南寄りに吹いてるときは 魚でさえ餌を吹き飛ばされる』 強風は渦巻き逆巻き、竜巻へと変わる。やがてメアリベルの身体が風によって宙に持ち上げられ、みるみるうちに氷の地から離れていく。 『風が西寄りに吹いてるときは 誰にとっても万々歳』 唄うメアリベルの双眸に、氷に囲まれた古船が映る。あのどこかでは人魚のプリンセスが怯え震えているらしい。 「そうだわ、竜巻。メアリをあの古船まで運んでちょうだい。お姫様に会いに行くわ」 氷上を離れた竜巻は、メアリの意思どおりに古船のもとへ移動を始める。雹もペンギンも巻き込み、吹き飛ばしながら。 海魔の群を抜けたメルヒオールは「固定」のスクロールを用いて古船の手前に着地すると、船体に薄く張った氷を火炎で溶かし、腐りかけの木材に蹴りを入れる。長い間海水と風雨に晒され続けた船体は二、三度の蹴りであっさりと壊れてくれた。 船内を覗くと、内部は木材の隙間から射す光があるくらいで、薄暗い。メルヒオールは先程召喚した炎の出力を下げ、灯代わりにしつつ船内へ足を踏み入れた。 「……さすがにあの風の後に付いて行くのは冷えたな」 火炎は明かりだけでなく暖気をも生み出す。この冷気に満ちた島においては、このぬくもりもまた目印になるのかもしれない。 「フェルミーユ、迎えに来たぞー。聞こえたら返事してくれー」 メルヒオールは船底から侵入したという姫を探して、名前を呼びながらここよりもさらに下層を目指す。脚を持たぬ人魚、しかも子供があまり水のない奥の方にまでよじ登れたとは思えなかった。 ときおり何かが船にぶつかってくるような音と衝撃が走ると、船体は低く軋むような悲鳴をあげる。 「大人でもあまり長居したくないところだな」 そう独りごちると、なるべく船を刺激しないよう、少しだけ船底に向かう歩調を早めたのだった。 メアリベルは竜巻をとくと、古船の甲板にすとんと着地した。頬や髪に付いていた血を軽く拭って身だしなみを整えると、船内に続く階段を見つけて降りていく。 「出ておいで、マーメイド。おむかえにきてあげたわよ」 メアリベルは隠れんぼをしている友達を探すような明るい声色で姫を呼ぶ。船の中へ降りると中は薄暗い。 「そうだわ」 いいことを思いついた、とばかりにメアリベルは軽く手を叩くような動作をする。そしてまた彼女は唄い出す。船の暗がりを照らす灯火のような歌を。 船の中は真っ暗でとっても寒い だからメアリは楽しいお唄を唄う 歌が聴こえたらお返事して 歩く度に劣化の進んだ床は軋み、ぎぃぎぃと音を立てる。それすら拍子であるかのように、軽やかな足取りで下へ下へと、彼女は降りていった。 (フェルミーユ、聞こえる? 私、あなたを助けたいの。どこにいるか教えてくれない?) セリカは古船に接近していく船の甲板から、何度もフェルミーユに呼び掛けていた。フェルミーユの思考が何とか自分とシンクロしてくれればという可能性にかけて、何度も、何度も彼女にテレパシーを飛ばしているのだ。 「そうだ、騎士さん!」 「は、何か御入用でしょうか?」 ふと思い出し、セリカは船の傍らに付いて泳いでいた人魚の騎士を呼ぶ。騎士は古船の中が気にかかるのだろう、非常に固い声色で返事をした。 「あなた、名前は何?」 「名前、ですか。バルブロと申します」 セリカは礼を言うとまたすぐにフェルミーユを呼ぶ。 (フェルミーユ、返事をして。バルブロさんっていう騎士に頼まれたのよ、私達はあなたの味方なの) (――バルちゃん、いるの? あなたはだぁれ?) そのとき、確かにセリカの耳にその声が届いた。幼く、泣きだしそうなほど震えた声だ。セリカの表情はほんの少しだけ安心したように緩む。 (あなたがフェルミーユね、私はセリカよ。仲間たちと一緒に、あなたを助けに来たの。今、どこにいるか教えてくれる?) (わからないわ。でも、デコボコしてるところよ……ちじょうって動きにくいから、うまくのぼれないの。海の中にさっきからこわい鳥さんがたくさん泳いでてすごくこわいのよ) (怖い鳥が泳いでる? ということは、船底からあまり移動してないのね) セリカはひとまずフェルミーユが必死に訴えてくる内容から汲み取った情報、それ以外に現在把握のできている状況をできる限りテレパシーで仲間に伝達した。今一番近い位置にいるのはメルヒオール、次に近いのはメアリベルらしい。 (もうすぐ、私の仲間が迎えに行くわ。黒い髪のお兄さんと、あなたと同い年くらいの女の子よ。だから頑張って) (ほんと、セリカお姉ちゃま? フェルミィ、はやくお外出たいわ) (大丈夫、あともうちょっとよ) 玖郎は空中より幾度となく効果を繰り返し、その度確実に海魔の数を削っていく。地上から跳びかからんとする者や海中より氷を突き破ってくる者達の猛攻を縫うように回避していくが、その身体、両翼にも降り注ぐ雹は一粒一粒の大きさも徐々に増し、空中に在っても障害となっていた。翼を一度休めるべく玖郎は目に入った高い氷壁の上へと一度脚を下ろすと、氷壁の麓でペンギン達が戦意の篭った声をあげているのを見下ろす。 「空を飛ばぬゆえに、空を飛ぶものを抑止する術を身につけたか。群全体で敵を退けんと恐れず抗する姿勢、……それもまた見事」 「玖郎」 ふいに名を呼ばれ、玖郎の顔はその方を向く。幾らか離れたところに立って居たのは予想と違わぬよく見知った男だ。終が差し出した拳を開くと、薄桃色の花弁が彼の吐息と共に舞い上がる。雪と花弁と、二色の混じった風が玖郎の止まっている氷壁の麓を覆うと、数秒後にはそこに居た海魔達が皆眠りについていた。 終の周辺には既にそれ以外にも多くのペンギン達が雪と花弁の散る中でくったりと横たわっている。 「氷上にいるのは減らしたが、幾らかは海中に逃がした」 今や島じゅうに巡らされた氷壁は大半の海魔達の逃げ場を塞ぎ、彼らを海中に逃さぬための檻と化していた。しかし、もともと海中に潜んでいた個体らが次々に開けていった穴から逃れたものは少なくない。 「俺達の船はセリカが守ってる。だが、古船は相当脆いらしい」 「海は雷をよく伝わすと聞く」 その一言で、終は玖郎の意図を理解した。頷き、ならばここに残る者はと氷像を想わせる柄の長い斧を手元に呼びだす。だが今度はすぐ飛び立つかと思っていた玖郎の方から言葉をかけた。 「氷塊が翼に当たっては飛びづらい。防げぬか」 「……ああ」 氷の島の空を、吹雪が吹き荒れていた。雹の吹き飛ばされた後を、一羽の天狗が滑空する。天空に黒い雲が渦巻き、低い雷鳴を呻らせていた。 高く昇り、玖郎は改めて氷の島を見下ろす。始め見たときより、島は多くの穴が開き、壊れ、幾羽もの海魔達の血の色が点在するようになっていた。 これほどに至って尚、海魔達は逃れるということをしない。自然を生きる者であれば、不利と悟れば死を免れんと動くはずなのだが、彼らはそういった動きは一切起こさなかった。それは生命としての異常に他ならない。 「……!」 玖郎は島の向こうに、何かの影を見た。仲間のそれではない。海魔でもない。人魚でもない。であるならば。 雷鳴は唸る。呻り、空を裂くような叫びをあげ、「下」へと閃光を奔らせる。幾筋の閃光の降りる先は、古船の近くではない。島より離れたところから此方を伺っていた影。海に閃光が届く手前で、それは深く潜り姿を消す。しかし、続け様の落雷の後に、その影は海面へと力なく浮かびあがった。 それを見届けると、玖郎は音もなく仲間の乗る船の帆先に降りていった。 「フェルミーユ!」 船底に近づくにつれ、波の音もまた近くなる。姫君を呼ぶ声と船の軋む音、それらの音がすべて反響していた。 セリカが伝えてきた情報によると、フェルミーユはおうとつのあるような場所にいるらしいが、かつて物置として使われていたらしい船底の空間は物が多い。メルヒオールは念のためそれらの陰も覗き、人魚の姿を探していた。 そうしているとふいに多くの音が反響する中に、幼い少女の歌声が入り込んだ。メルヒオールが顔をあげて振り返ると、メアリベルも自分に気づいたらしく一度歌を止めて微笑みを浮かべた。 「あら、ミスタに追いついたわ」 「……ああ、おまえか」 お姫様はまだまだ下かしら、とメアリベルはそのまま階段を下りていこうとする。メルヒオールもひとまずここにはいないらしいと見切りをつけると、階段の方へと向かう。しかしメアリベルに続き階段に足を下ろしたところで、彼はふと動きを止めた。 「――ああ、デコボコ、か」 呟き、そのまますぐ下の階には目もくれず、メアリベルを避けて階段を下りる。メアリベルはそんな彼を見て、また楽しげに笑み唄いながら後を追った。 やがて、歌が聞こえてきた。メアリベルの歌に応えるように、震えるか細い声で歌詞のない歌を唄っていた。メルヒオールは次の層に続く階段の手前で一度立ち止まり、下を覗きこむ。 「フェルミーユ、迎えに来たぞ」 「あら。こんなところにいたのね、お姫様」 船底に空いた大きな穴、そこから階段を伝って何とか登ってきたらしい。まだ青い海の見える階段の途中で、彼女は縮こまっていた。 海の泡沫のような銀色の髪に、珊瑚色の瞳。常夏の海を想わせる透明感のある鱗で艶々とした尾鰭の少女。フェルミーユは二人の姿を見ると大きな瞳に涙をいっぱい溜めて差し出された腕にしがみついた。 「もう怖くないわ、隠れんぼはもうお終いよ」 メルヒオールによって抱き上げられたフェルミーユを宥めるように、メアリベルは彼女の尻尾を優しく撫でる。 「ああ、あとは脱出するだけだ。よく頑張ったな」 泣きじゃくるフェルミーユの頭をメルヒオールもまた撫でてやった。フェルミーユは抱き上げるメルヒオールにしがみついたまま、小さく頷く。 (こうなるとお姫様も何もない、普通の子供と同じだな……) メルヒオールが一応心の中だけでそうぼやいていると、メアリベルはまた無邪気に人魚を励ました。 「そう、あとは外に出るだけ。だから一緒に唄いましょ」 彼女はまた唄う。今度は古船に降りたときと同じ歌。 ――風が東寄りに吹いてるときは 人にも獣にもいいことがない 古船の中に生まれた竜巻は、暗く閉ざされた孤独な空間をあっという間に破壊し、三人を外へと運び出す。メアリベルはいつの間にか召喚されていたハンプティ・ダンプティと手を繋ぎ、竜巻に合わせてくるくると回り踊る。 「おいで、ミス・マーメイド。空を泳ぐのは初めてでしょ?」 メアリベルが手を差し出すと、フェルミーユはそれまでメルヒオールの服をしっかりと掴んでいた手を離し、誘われるように彼女の手をとる。 * さあお姫様 マザーグースを教えてあげる メアリと一緒に唄いましょ 二人で唄えば怖くない ペンギンだって飛んでっちゃうわ ミスタ・ハンプとメアリとアナタ 三人仲良く手を繋いで 輪っかになって廻りましょ * 残ったペンギン海魔達は間もなく島を離れ、退散していったようらしい。メアリベル、メルヒオールと共に落ち着きを取り戻した船の甲板へ降りてきたフェルミーユは、先程までの泣き面はどこへやら、とても興奮したようなキラキラとした表情をしていた。 「バルちゃん、お空って泳げるのよ! フェルミィ地上のことご本でいっぱい読んだのに知らなかったわ! お空でくるくるって回って踊って、とってもすごいの!」 安心のあまり泣き出しそうになっている騎士と姫のやりとりは少しばかり滑稽で、ロストナンバー達は幾らか力の抜けた様子でそれを眺めていた。 「あらあら、皆様お揃いのようですわね」 「死の魔女! 随分遅かったわね……って、そこにいるのは」 死の魔女の声にセリカが振り向くと、魔女の青白い腕の中に黒いふかふかの塊が収まっているのが見えた。 「ふふ……私の新しい"お友達"ですわ」 ペンギン海魔は、やけに大人しく彼女の腕に納まっている。その理由は、恐らく最初に脳裏に浮かんだもので間違いないだろう。 セリカはそれにしっかりと思い至りつつ、しかし、それでも、その手はその羽毛に惹かれるようにわきわきと動く。この際、細かいことは忘れてもいいのではないか。そんな考えが浮かびつつ、セリカは死の魔女に問う。 「も、もふもふしても……?」 「構わないですわ」 乙女の意思疎通はスムーズだ。そこへメアリベルが可愛らしく小首を傾げて混ざる。 「じゃあ、その子でスープは作らない? きっとみんなあったまるわ」 「それはまだダメなのですわー」 「……まだ?」 人魚達と乙女達のやりとりを眺めながら、メルヒオールはすっかり疲れ果てた様子で船の縁にもたれかかる。その傍らに立つ雪女の男、終がぼやいた言葉は、聞かなかったことにした。 「氷雪、ペンギン……理想郷、か」 【完】
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