司書棟の廊下を赤茶色の犬が四足で駆ける。ふさふさ尻尾は絶えずぱたぱた、三角耳はひっきりなしに倒れたり起きたり、丸い黒の眼は心底嬉しげな三日月形。 通りがかりのロストナンバーの足にじゃれつき、二足で立ち上がる。二言三言、挨拶と世間話を交わして、紐で背中に結わえ付けた『導きの書』を前肢で引っ張って取る。片肢で器用に開く。ぎくりと後ずさるロストナンバーの服の裾を素早く咥え、もう片方の前肢で地図を掲げる。 尻尾を振り振り、『導きの書』に浮かんだ予言を告げ、何処かの世界の何処かの地域を示す。わんわんわん、元気よく吠える。『導きの書』に挟んであったらしいロストレイルチケットを半ば強引に手渡し、「おねがいします、行ってらっしゃい!」 『導きの書』も地図も、全部床に放り出してきちんとお座りの格好をする。伏せにも似たお辞儀をして、首を傾げる。 犬の司書に押し付けられたチケットを手に、ロストナンバーは廊下を歩いて去って行く。「行ってらっしゃい!」 犬の司書は尻尾と前肢を振って立ち上がる。床に散らばった地図と『導きの書』をなんだか不思議そうに見下ろして拾い、「こんにちは! げんき? 元気、していた?」 拾ったものをまた全部放り出し、二本足で駆けて来る。途中で転びそうになって四足に切り替える。「依頼、お探しですか? 資料、お探しですか? それともそれとも、」 体当たりしそうな勢いを何とか止め、その場でぐるぐると回る。「おはなし、聞かせてくれますか?」 行儀よくお座りをして、黒い眼を輝かせる。「あなたのおはなしを、聞かせてください」======<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆するシナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。======
◇ 「近々、帰属するはこびとなった」 猛禽の肢の傍、尻尾を振り振りお座りする犬の司書の前に玖郎が差し出しているのは、ペット用のジャーキー。 「そこで野に至れば狩りもかなう」 淡々と話す玖郎の足元で、犬は伏せの体勢になる。耳をぴんと立て、尻尾を猛然と振り回す。司書室の床に散らばった資料の紙束やストレス解消の道具らしいボールやらが尻尾の風圧に揺れる。 「ゆえ、これを手放そうと思う」 犬の黒い眼が爛々と輝く。飛び上がる勢いで後ろ足で立ち上がる。 「世話になった礼だ。食うと――」 「良い?」 ジャーキーを持つ玖郎の手に、待ちきれないクロハナは渾身のお手をする。はたと気付いて見開いた眼で玖郎の二重鉢金に覆われた顔を仰ぐ。そろり、とお手をした前肢を引きかけて、 「よい」 「良い!」 動じない玖郎が続けた言葉に顔を輝かせる。 肉屋に勧められ、保存食としては悪くないとナレッジキューブと交換したそれは、けれどどうやら人の口には合わぬものらしい。 「知己にもすすめたが辞退されてな」 おまえにはどうだ、と訊ねようとして、やめる。犬はジャーキーを両の前肢で不器用に抱えてひとしきり喜びの舞を披露した後、頂き物を『導きの書』に栞のように挟み込んだ。やはりもとより然様な品であるらしい、と玖郎は納得する。 「ありがと、玖郎。いただきます」 クロハナは顔中で笑う。玖郎は生真面目に頷く。 あの世界に帰属すれば、二度と零世界に戻ることもなくなる。時々依頼を受け、時々話をねだられて聞かせたこともあるこの犬の司書とも二度と会うことかなわなくなる。 「おはなし、聞かせてくれるの?」 犬の司書はいつもと同じように尻尾を振る。 「狩りにゆかぬか」 「狩り?」 首を傾げ、三角耳を真直ぐに向けてくるクロハナに、玖郎は頷く。 「野と林ひろがる、放置されし縄張がある」 「ターミナルに?」 「たあみなる、に」 「チェンバー、かしら」 「ちぇんばあ、だ」 カタカナを言いにくそうに発音して、玖郎はもう一度頷く。 「幾度か様子をうかがったが、警告はおろか主の気配も感じぬ。おそらくきゅうぶより作られ放たれた獣もいる」 髪と同じ、赤褐色の二対の翼が僅かに揺れる。犬の本能なのか、動く翼を追うてクロハナの耳と眼が動く。 犬の口の端から覗く鋭利なかたちした牙も、赤茶色の毛に覆われた地を駆ける力に満ちた四肢も。天を覆われ地を区切られた人じみた居住に埋れさせるは惜しい。天を駆け獣を狩り生きてきた天狗は、地を駆けるに適したかたち持つ犬の司書をそう見る。 「おれは覚醒してのち、他者とちからを供し標的にあたるが幾分身についた。が、帰属先で縄張をもてば、その用も失する」 他者と狩りを共にする締めくくりともさせてほしい、と結ぶ玖郎の脇、仕事を全部放り捨てるや否や犬は司書室を飛び出す。廊下を途中まで駆けて、慌てて司書室に玖郎を呼びに戻る。 「どこ行く? 今すぐ行こう、行こう! やっほう!」 春の野が広がる。菫や蒲公英の花や柔らかな若草を蹴立てて、赤茶色の犬が全身で、全速力で駆ける。犬が標的とした鹿が林に逃げ込むのを上空より確認し、玖郎はチェンバーの青空を翔る。逃げる鹿の動きと追い立てる犬の動きを読み、獲物の行き着く先に回りこむ。 林の中、縦横に駆ける鹿の尻にクロハナがじゃれつく仕種で噛み付く。後ろ足の蹴りを喰らい、撥ね飛ばされ地面に転がってもすぐに起き上がり、執拗に後を追う。吠え立てて逃げ惑わせ、疲弊させ、 「玖郎!」 狩りの連れが空翔けて追うて来ていることを一抹も疑わず、吠える。犬に応え、玖郎は翼を流線のかたちにして空から降る。過たず正確に、猛禽の爪を鹿の首に食い込ませる。鹿の高い断末魔が林中に響く。 地面に叩き付けられた鹿の頸が折れる。細い四肢が宙を掻きながら力を失くしてゆく。息が尽きた途端、鹿はそのかたちを幾つかのナレッジキューブに変えた。 「ひゃっほう!」 鹿に飛びかかろうとして、クロハナがナレッジキューブに噛み付いて終わる。不味そうに吐き出して、前肢で叩く。 玖郎がその肢で押さえつけていたはずの鹿の頸も、ひとつのキューブに変わってしまっている。掌大のキューブを手に取り、眺める。口をつけ、離す。 「くえぬな」 「うん」 こっちにしよう、とクロハナはどこからか『導きの書』を取り出し、挟み込んでいたジャーキーを引っ張り出す。半分に裂き、片方を玖郎に渡す。 「いいのか」 「一緒に食べる、おいしい」 犬は言いながら草地に伏せ、両前肢でジャーキーを押さえて齧りにかかる。 クロハナに倣い、渡されたジャーキーを口に含む。 「玖郎」 「如何した」 「帰属、おめでとう」 以前にも別の人物より受けた祝辞を聞いて、玖郎は唇を引き結ぶ。何処の世界を真似たものなのか、長閑な春の風が渡るチェンバーの空を仰ぐ。 「最果ての駅が見つかれば、郷里をみいだすのぞみもあった」 一刻も早く己が出身世界に帰らねばならぬと思い定めていた。縄張りに戻り、妻の元に帰り、庇護してやらねばならぬと。 けれど十三号の旅路は一年掛かる。運良くワールドエンドステーションが発見されたとして、その後無数の世界群より出身世界を見出すまでには如何程の時が掛かろう。 玖郎は己が頭上に明滅する彼の世界の真理数を視ようとするかのように鉢金の視線を上げる。 帰属の兆候には時限があると聞いた。 「……時が経ちすぎた」 鑑みれば自ずとわかることだった、と。玖郎はただ淡々と述懐する。 「今も、出身世界に帰りたい?」 ジャーキーを平らげ、犬の世界司書はお座りの格好にする。玖郎に向き合う。 「待ってくれている人、いるから、帰りたい。です?」 「残したつまが、おれが帰らぬ場合の忠言を聞き入れ、山を降りておればよい」 主不在の縄張は、ひと月を待たずに他のものに侵されるが常。 「……別の天狗のつまにおさまれば、まだよい」 「いいの?」 真直ぐに問うてくる犬の言葉に、玖郎は感情を交えず応じる。 「獣や妖に食われるよりは」 人よりも獣に近く思考する玖郎は、生き物の本懐を先を繋ぐことと考える。子を成し、己が種を残すこととする。己もまた生き物であるなれば、命を繋ぐ為に選ばねばならぬ。 一縷の望みではない、より確実な道を。 郷里に残してきた妻も、そう在ってくれれば良いと玖郎は願う。 (生きんが為、おれをすてろ) 郷里の妻に届くはずもない言葉を心中に囁き、 「おまえは」 獣のかたちした世界司書を見下ろす。零世界に住まう者の年齢は見た目では判断難いが、とりあえずこの犬の司書の身は子を生めぬほどの老齢ではないだろう。 「おまえはつがう相手をさがさぬのか」 クロハナは黒い眼を丸め、首を傾げる。 「過去を失するとも、先はつくれよう」 「さき……」 犬は横倒しになりそうなほどに首を傾け傾け、 「わたし、こども、だめ」 ひょこり、身体を立て直す。ロストメモリーである前はロストナンバーであった犬は首を横に振る。 「ロストナンバー同士、こども、作られない」 ロストナンバーに課せられた業とも言える摂理を平然と述べる。 「……そうか」 「でも、隣に誰かがいてくれるの、気持ち受け止めたり受け止められたりする決まった誰かがいてくれるの、とても素敵。つがい、わたしもいつかなれたら素敵」 黒い眼をきらきらさせて夢を語る犬は、長く零世界で多くの人と触れ合うて来たが故に、もしかすると人に近い感情も持ち合わせるに至ったのやも知れぬ。 故郷も故郷の記憶も、全て棄てて零世界に生きる世界司書は、 「玖郎、獲物たくさん獲れる。だから、つがう相手、きっとすぐ見つかる」 新しい故郷を得たロストナンバーを祝福する。 先に続く道を見出すロストナンバーの、せめてもの道標となれただろうことを、その道行きを記せたことを心より喜ぶ。 「帰属、おめでとう」 「ああ」 玖郎は頷く。足元で千切れんばかりに尻尾を振る犬の背を撫でる。 「おまえも、達者でな」 ◇ ◇ 「景辰サン」 開け放たれた道場の戸口から差し込む光を華奢な人影が僅かに遮る。閉ざしていた瞼を開き、蔦木景辰は紅の双眸を己が名を呼んだリーベ・フィーアへと向ける。 光を集めたかのような銀色の長い髪と、銀色のドレスの裾を揺らし、リーベは滑らかな動作で板敷きの床を歩き、その央に座禅する景辰の正面に正座する。 「書簡が届いていマス」 「前も同じ事があったな」 リーベの差し出す白い封筒を見下ろし、景辰は笑う。手に取り、差出人を検め、また愉快気に笑う。 「隊長殿からだ」 「アルウィンさんデスカ」 一緒にモフトピアに旅行したこともある少女の名を色の薄い唇に乗せ、リーベは無機質な真白の頬を微かに和ませる。継ぎ目のある機械人形の顔が、彩りを添えたように優しくなる。 景辰は封筒に納められていた画用紙の手紙を取り出し、広げる。色とりどりのクレヨンで書かれた幼子の文字を眼で追おうとし、結局眉間に皺を寄せて止める。眉根を指で揉みながら画用紙を折り畳み、リーベに押し付ける。 「ちっとは上手になってはいるがなあ」 「デハ、失礼して」 リーベは画用紙を広げ、表情を動かさず幼い友人からの手紙を読み込む。淡々とした声で文面を読み上げる。 『カゲタツ リーベ え こんちや おげんき してますか? アルウィン げんき してます モフトピア でわ おかしになり ありがとでした あしたの つぎのひの つぎのひ アルウィンとカゲタツとリーベとイエンスと ほむぱーて したいです イエンス リーベに おそそしる おしえるて いてます りよりきよしつ アルウィンも やる たのしみ してます おうち きてください あるういん・らんずういつく イェンス・カルヴィネン』 淡白な表情を欠片も崩さぬまま、ある意味暗号じみた手紙を読み切り、リーベは続ける。 「三日後の昼過ぎにお越し下さい、とイェンスさんの署名の後に注釈がありマス。『おかしになり』は『お世話になり』、『りよりきよしつ』は『料理教室』と推測されマス、ガ……」 「おそそしる?」 「おそそしる、と確かに書かれテいマス」 解した眉間に再び皺を寄せて首を捻る景辰に、リーベは真顔で頷く。 「まあ、行きゃ分かるだろ」 「デハ了承の旨ヲお送りしマス」 「飴玉の一つも付けてやれ」 「かしこまりマシタ」 いつもの子供用兜に代えて頭に巻いた真っ白な三角巾の両端から、狼の三角耳がひょこんと飛び出している。 「イェンス、にんじん切れた!」 アルウィン専用の踏み台の上に立ち、子供用包丁を握り締めて、アルウィンは緊張と達成感がない交ぜになった笑顔を浮かべる。小さな身体に纏ったエプロンの裾を揺らし、横に立つイェンスに輪切りにした人参を指し示す。 「よくできたね。包丁は危ないからまな板に置いて」 「じょーず? アルウィン、上手?」 「うん、とても上手に切れているよ」 包丁を使っている間、気をつけて見ていてくれたイェンスの言うことを素直に聞き、アルウィンは包丁をまな板の上にきちんと置く。お揃いのエプロンを身に着けたイェンスに今度はこれ、と花の型抜きを手渡され、上機嫌で人参を花形に抜き始める。 「イェンス、どぞ」 「ありがとう」 花形の人参を一枚受け取り、包丁で切り込みを入れれば立体的な梅のかたちとなる。 「ねじり梅、と言う型だよ」 「興味深いデス」 イェンスの手元を覗き込み、リーベは無表情にも見える真顔で頷く。やってごらん、とイェンスに包丁を渡され、正確無比な包丁捌きで人参の飾り切りを再現する。 「流石だねえ」 カゲタツとリーベと何かして遊びたいとねだるアルウィンに応じ、料理教室を計画したのは、リーベに和食のレシピを渡したこともあるイェンスだった。ついでにみんなでごはんを食べよう、パーティをしようとはしゃいだのはアルウィンだった。 「アルウィンも! アルウィンもそれやる!」 「よし、じゃあアルウィンはこっちを手伝ってくれるかい?」 花切り椎茸に花蓮根、六方剥き芋にまつたけ芋、野菜の飾り切りをリーベに見せながら、イェンスは踏み台の上で跳ねるアルウィンに細長く切って真中に切り込みを入れた蒟蒻を渡す。くるりと捻れば、 「手綱こんにゃくだよ」 「やる! たつつこんやく、やる!」 「……子守慣れしてるな」 ダイニングのテーブルにつき、作家であるイェンスの書いた冒険小説を黙々と読んでいた景辰が本から顔を上げて呟く。 「アルウィン、クッキー作れるぞ!」 お客さまである景辰を退屈させまいと、アルウィンは作業の手をわざわざ止めて景辰に話しかける。 「あとおそそしるも作れる!」 「ああ、それ」 アルウィンの料理自慢を頷いて聞いていた景辰が怪訝そうに眉を寄せる。 「おそそしるって何だ」 「おそそしるはおそそしるだ!」 「お味噌汁、だね」 踏み台に仁王立ちになり、ズボンのお尻から出した狼の尻尾を膨らませて必死に説明するアルウィンの三角耳の頭を、イェンスが撫でる。穏かに言い、 「それじゃあ、お出汁取ってお味噌汁も作ろう、アルウィン」 おそそしるとおみそしるはどう違うのだろうと首を傾げて固まるアルウィンを再起動させる。 「そうだ、リーベ」 イェンスから任された野菜の飾り切りに余念の無いリーベに、イェンスはエプロンのポケットから取り出した紙切れを差し出す。 「忘れないうちに渡しておくよ」 美味しい鮭のスープのレシピなんだ、とベテラン主夫は微笑む。 「今日の献立には合わないからね、レシピだけ。貴方ならきっと上手く作られるよ」 「ありがとうございマス。早速明日の景辰サンの食事としマス」 機械人形であるリーベは、人間のような食物を必要としない。その彼女が料理に精を出し、イェンスから料理を習うのは、同居する景辰に美味しいものを食べさせたい、せめて景辰の故郷の味と似たものを食べさせたいと思うが故。 「アルウィン、お出汁は何から取るのか、覚えているかい?」 「アルウィンわかる! こつぶと勝つ武士!」 「うん、じゃあ戸棚から出してくれるかい?」 アルウィンが戸棚をごそごそとしている間に、リーベが飾り切りにした野菜を下茹でにかかる。下茹でした野菜と鶏肉を油で炒め、昆布出汁で煮る。 「アルウィン、おとーふのおそそしるがいい!」 「若布と葱も入れようね」 アルウィンにほぼ掛かり切りになりながら、イェンスはリーベにも的確に調理手順を伝える。イェンスに教わるまま、リーベは正確に手順と味付けをこなす。 「イェンスサン、味見をお願いしマス」 「アルウィンも! アルウィンもー!」 「アルウィンサンにも、お願いしマス」 味見用の小皿に入れて渡された煮物の味に、イェンスは大きく頷く。 「完璧だよ」 リーベの料理は食材の切り方から下処理、味付けに至るまで、只管に丁寧で正確だ。偶に目分量で作ってしまう自分が後ろめたくなって、イェンスはちょっと困ってしまった。 キッチン中に満ち始める米の炊ける湯気に、アルウィンが灰色の大きな眼をぱちぱちと瞬かせる。ひとつにまとめた栗色の髪も狼の耳も元気に揺らしてぴょんぴょん跳ねる。 「カゲタツとリーベとイェンスと、みんなでごはーん!」 つやっつやの炊きたてごはん、鮮やかな緑のわけぎと浅利のぬた、丁寧に飾り切りの施された筑前煮、鰆の西京焼き、それから、 「おとーふとわかめのおそそしる!」 本を片付けた景辰の席に、アルウィンが一碗ずつ運んできたお味噌汁の碗を置く。三人分のお味噌汁をきちんと配膳すれば、食事の用意は出来上がり。三角巾とエプロンをイェンスに半分手伝ってもらって外し、アルウィンはうきうきと自分の椅子に座る。 「一緒に楽しめないのは僕が寂しいから」 食物からエネルギーを得る必要の無いリーベが給仕に徹しようとするのを、イェンスはそう言って椅子に座らせ、 「口に合うといいんだけど」 零世界で調達した、リーベにも口に出来そうなエネルギー触媒の塊を皿に載せて提供する。 「ありがとうございマス」 友人の心遣いに、リーベはそっと頭を下げた。 それぞれの世界のそれぞれの遣り方で食物に感謝の祈りを捧げ、温かな食事の会となる。 野菜も魚も好き嫌いなく旺盛な食欲を見せながら、アルウィンは食卓に眼を配る。 「それ、アルウィンが味つけた!」 景辰がお味噌汁の碗に口を付ければそう言って得意げに笑ってみせたり、 「リーベ作ったこれ、美味しい! カゲタツ、お食べ」 イェンスに手伝ってもらって大皿から小皿に取り分けた筑前煮を景辰に差し出してみせたり、お客様の世話を一生懸命に焼く。 「ごはん終わったら、カゲタツ、侍の話、聞かせてくれ」 合間合間に無心に食事を取りつつも、日頃から立派な騎士となるべく精進するアルウィンは眼をきらきらさせる。 「騎士も侍もそう変わらんだろう」 「そなのか?」 こくり、と首を傾げて、真直ぐに戻す。手にしたスプーンをぎゅっと握り締め、故郷で今も続いているだろう善神と邪神の争いを熱く語る。故郷の人々は己が心に従って、善なる神と邪なる神、其々の陣営について戦いを繰り広げている。 「アルウィンも、帰ったら皆といっしょに戦う!」 だからカゲタツ、と真剣な顔を景辰に向ける。 「アルウィンに出来そうな技、教えてくれ」 「技、なあ。どうするんだ」 「将来、使わせてもらう!」 「そりゃ責任重大だ」 賑やかに和やかに食事を済ませ、イェンスと景辰が後片付けの為にキッチンに入る。 「私がしマス」 「隊長殿と遊んでろ」 リーベはキッチンに入ろうとして、景辰にすげなく追い返された。心なしか肩を落としてリビングに戻るリーベの前に、アルウィンは自室から運んできた箱いっぱいの玩具や綺麗な石やビー玉や葉っぱのコレクションを全部引っくり返す。一緒に見ようとリーベの手を引き、一緒に床に座り込む。 「これ、とてもきれいなびーび玉。カゲタツのおめめとおんなじ色」 夕陽の色したビー玉をリーベの掌に乗せ、床に画用紙を広げる。ビー玉を摘まみ、珍しそうに眺めるリーベの手に今度はクレヨンを握らせ、一緒にお絵かきしようと誘う。 片付けを終えた男二人が和やかに話しながらリビングに戻ってくる。イェンスの手には海色の硝子の一升瓶と切子のグラスが二つ。景辰の手には干し魚を盛った大きめの木の碗と手土産の焼き菓子。ソファに腰を下ろし、大人組はどっしりと呑みに掛かる構えを取る。 「知り合いに教えてもらった日本酒だよ。景辰さんの食の好みからして、きっとこういうお酒も出身世界にもあるんじゃないかと思ってね」 グラス二つに酒を注ぎ、イェンスは眼鏡の奥の若草色の眼を細める。互いに持ったグラスの縁をそっと合わせ、透明な酒を喉に流し込む。小さく息を吐いて、作家は隣に座す侍を真直ぐに見詰める。 「君達ふたりのことを、本に書いてもいいかい?」 少年のような澄んだ眼に見据えられ、景辰は紅の眼を瞬かせる。 「君達を、……友人を、自慢したいんだ」 酒に酔ったわけでもなく、イェンスは眼の縁を僅かに赤らめる。照れながらも眼は逸らさず、静かに請う。 「それ以上に、同胞の為に二人がどれほど努力したかを人に知って欲しくて。……記憶の劣化もあるから、記録に残したいという個人的な我侭も、ね」 もちろん、と作家は遠慮がちに微笑む。 「真理等や、二人が触れられたくない部分はぼかす心算だからね」 「友人か。――ありがとよ」 景辰は莞爾と笑む。グラスの中身を一息にあおり、視線をリーベに移す。銀色の美しい髪をアルウィンに梳かされながら、景辰の恩人である女は真白の頬を淡い笑みに彩らせている。 「リーベ」 銀糸の滑らかな長い髪を丁寧に梳かしながら、アルウィンはすっきりと伸びたリーベの銀色ドレスの背中に見惚れる。耳元に口を寄せて、そっと、そうっと、 「アルウィン、立派な騎士になるけど、でも、リーベみたいなお姉さん、なりたい」 彼女に対する憧れを打ち明ける。 「アルウィンサンは、凛々しくテ美しい騎士にきっとなれマス」 交代で今度はリーベに髪を梳かされながら、嬉しい言葉を貰い、アルウィンはにこにこする。照れくさくてえへへと声に出して笑う。 「そうだ、記念さつまいも!」 玩具箱の中に仕舞っていたデジカメを取り出し、アルウィンはリーベの手を引いて景辰の隣に座らせる。 「記念撮影だね」 イェンスの訂正を聞きながら、覚えたてのデジカメを構える。構え方は、イェンスの真似っこ。 「はい、いいよーいいねー。めせんこっちだよー」 シャッターを切る時の台詞もやっぱりイェンスの真似っこをしながら、アルウィンはふたりの写真を撮る。写真が出来たら、この写真を元にふたりの似顔絵を描くのだ。 記念撮影の後は、 「カゲタツ、リーベ! 今日は来てくれてありがと」 撮影をしている間にイェンスが持って来てくれた、イェンスとふたりで用意した壁掛け時計を贈呈する。絵本も描くイェンスは、景辰とリーベをイメージしてデザインした手拭いも用意した。 「ここ! この時計の縁っこのとこ、紙粘土とアルウィンのフュージョンで作った!」 幸せになってと願いを籠めて、大切なコレクションをたくさん使った。 「二人の時間を共有する、って意味も籠めたんだよ。二人は心が通じているから、今更結婚という形を取らなくても良いかも知れないね」 イェンスが欠片も照れずに口にした言葉に、景辰が耳を真っ赤にした。何を考えているのか分からない淡白な表情のままのリーベの膝に、アルウィンがことんと頭を落とす。夜が来ればスイッチが切れたように眠たくなるのはお子様の仕様のようなもの。 「おわかれ……やだぁ……」 健やかな寝息の合間、うにゃうにゃと呟くアルウィンの頭を、リーベの掌がそっと撫でる。 「そろそろ、お暇ヲ」 「そうだな、帰るか」 頷きあう二人に、イェンスが微笑む。リーベの膝からアルウィンの身体をよいしょと抱き上げる。イェンスの肩に柔らかな頬を押し付け、アルウィンはうううと呻いてイェンスにぎゅっと抱きつく。 「今日は来てくれてありがとう、楽しかったよ」 「お招き頂きマシテ、ありがとうございまシタ」 「楽しかったぜ、ちびっこ隊長殿によろしくな」 イェンスに背中をとんとんされながら、大人達の交わす別れの挨拶を夢現に聞いて、アルウィンは野生動物並みの素早さで眼を覚ます。眠たい眼をごしごしと擦り、眠たい身体を気合で持ち上げる。イェンスにうっかり抱っこされたまま、景辰とリーベの手を、眠たい子供の熱い手でぎゅっと握る。元気いっぱいの笑顔を弾けさせる。 「遊んでくれて有難う。またな!」 「楽しかったな」 「楽しかったね」 イェンスのセクタン、ガウェインを間に挟んで川の字で、アルウィンは今日はイェンスのベッドで一緒に眠る。首の下にイェンスの温かな腕があって、何だかそれがとてもくすぐったくて嬉しかった。 「イェンス、あのな。あのな。……」 嬉しいは伝えなくちゃ。アルウィンはそれを知っている。 「だいすき」 おうちに帰っても、イェンスの事は忘れない。絶対に忘れたりしない。 「……うん」 イェンスは温かな子供の身体を、温かなガヴェインの身体ごと抱きしめる。アルウィンには、色んな物を教えてもらった。無垢な心にたくさんたくさん、助けてもらった。 「僕も大好きだよ」 それは、よく分かっている。分かった上で、何度でも言いたい言葉がある。確認したい思いがある。 「有難う、アルウィン」 この先に別れがあることを分かっていても、それはずっとずっと変わらない。 ◇ ◇ 「お帰りなさい」 一年の無沙汰など無かったかのように、長屋の主は穏かに笑んだ。既視感を覚えて記憶を探れば、嘗て旅団から帰還した日に辿り着く。 「只今戻りました、菖蒲殿」 軍帽の縁に手を掛け、小さく頭を下げる。 「お腹、空いてない?」 「いえ」 変わらぬ柔らかな声で問われ、首を横に振る。出迎えに感謝の意を告げ、幾許かの会話を交わし、仮宿と定めた己が住処に戻る。 障子を開き、窓を開け放つ。一年の間、部屋に籠もっていた空気を入れ替える。北極星号に乗ると決め、旅立ちの前に整理した為、畳敷きの部屋に物は少ない。 何をするでもなく畳の上に立ち尽くす。 流れ込んできた風に空の左袖が揺れる。 「北極星号が帰って来たって」 「駅に帰ってきた皆まだ居るかな」 「話、聞けたらいいな」 窓の外から聞こえる、北極星号帰還に沸き立つターミナルの声。 感情を灯さぬ紅の眼がゆっくりと瞬く。 (帰って、来た) 軍帽を脱ぎ、外套を肩から下ろす。手慣れた仕種で旅装を解き、身辺を整える。 ふと、息が零れた。 今は己が住処としている一室を見渡す。己が零世界に迷いつくよりも先に、ロストナンバーとして死んだ父も、旅から帰ればこうしてこの部屋に戻ってきていたのだろうか。ひとりで旅装を解き、身体を休めていたのだろうか。 畳の上に端座する父の姿を見た気がした。 思い出す父は、いつも此方に背中を向けている。 いつか、長屋の主が己の背を父の背と重ね合わせていると感じたことがあるせいだろうか。幻に見る父の背中は、己の背を鏡で見ているかの如く相似している。 父の座す畳のその下にあるものを思い出す。 幻を幻と理解していて、それに対する感情の動きは何一つ見出せぬまま、畳みで蓋をし床下の闇に押し込み隠した文箱を取り出す。 元に戻した畳の上に膝をつく。文箱の縁からはみ出して汚れた手紙の埃を掌で払って、暫し思案する。 (真似事に過ぎぬ) 腹の底に響く虚ろな声には構わず、戸棚からグラスを二つとその奥に隠した酒瓶を一本、取り出す。 畳の上、酒瓶と氷を入れたグラスを刀代わり、まるで腹を割るかのように重く胡坐をかく。 父の手紙を納めた文箱の前、介錯を頼むかの如くグラスをひとつ置く。 居ぬ父のグラスに酒を注ぎ、己のグラスにも手酌する。 父の住んでいた部屋に律儀に帰り、長屋の主に帰還の挨拶をすることに何らかの感傷があるわけではない。まして、父が最早会うこと叶わぬと思い定めた妻に、子である己に宛てた手紙を相手に酒を交わす、そのことに何かの意味を求めているわけではない。 感情の伴わない感傷は無意味だと、分かりきっている。 所詮は真似事に過ぎぬと、腹の底で哂い見詰める己がいる。 けれど、その真似事をする事にも随分と慣れた。 透明な酒の入ったグラスを小さく掲げ、グラスの縁に口を付ける。舌と喉を酒精に甘く焼かれて、漸く言葉が零れた。 「菖蒲殿は0世界へ帰属する心算らしい」 おそらくは父も気に掛けていただろう長屋の主の名を口にする。 故郷にて亡くした夫と子を忘れるわけではない。胸に抱いて前に進むための、生きて行くための決断なのだと、世間話でもするかのように穏かに、長屋の主は強く微笑んだ。 「心中はわからんが、それも彼女の道でしょう」 窓の外、0世界の住人が駆けて行く足音がする。靴音ではなく、固い蹄で地を蹴る音。翼で風を撫でる音も聞こえる。 北極星号の旅路が心を掠める。様々の世界、その様々の世界の住人。 正直、0世界に住み、ロストレイルに乗車して旅しているだけでも充分に異なる世界を見たと思っていた。それだけでも、故国に収まっていたのでは知り得なかったものばかり、胆が幾つあっても足りん、そう思っていた。 「まこと世界は広い」 窓の外を眺める。視界を広げれば、足を踏み出せば、どこまでも見果てぬ世界が広がっている。果てを知れるとは到底思えぬが、旅をする価値はある。 「道中、友の故郷を見つけた。流石に驚いたよ」 見つけ得るものは必ずある。 居ぬ父に向け、訥々と語る。 友を語る息子の双眸を、居ぬ父は如何に見るだろう。 「彼奴が故郷へ帰参するのかは分からんが……それも彼奴の道でしょう」 風が吹き込む。 グラスを畳に置きかけて、もう一度取り上げる。減ることのない父のグラスの酒を見つめ、酒を口に含む。 友の顔が浮かぶ。正確には常日頃被っている兜が。もっと正確に言えば全身に纏うた暑苦しい筋肉が。 唇が笑みに歪む。歪む口を酒で湿す。 あの男の故郷を見つけた際に思った。帰って話を聞かせなければ、と。友の待つこの0世界に。 そう思うまでは、最悪、乗組員の誰か一人でも帰れば良いと思っていた。北極星号にて立ち寄る世界は過酷な場所も多くあった。命の危機を幾度も感じた。命を投げ出すつもりは毛頭ないが、旅のうちに死ぬのならばそれも致し方あるまいと。己が帰らぬも仕方あるまいと。 けれど帰る理由が出来たと思った。生きて帰らなければと思った。 グラスを置き、姿勢を正す。 あの時に思った『帰る理由』を、今後も使おうと思う。 紅の眼に、父の手紙を見据える。 『死ぬな』 父の願いが乱れた筆跡で強く記されている。 「貴方の言葉は僕には響かない」 父の言葉を否定するのに、何の感情も湧かなかった。己は伽藍堂なのだと、それは様々の世界を見、様々の人々に会うた今も変わらぬのだと、己で己を否定する。 「けれど母は違いましょう」 母なれば、と思う。 母なれば、貴方の真情を心より理解しましょう。 母なれば、貴方の歩んだ道程を知りたいと願いましょう。 感情を灯さぬ眸を瞬かせる。 「或いは貴方を知る友が、彼の世界には未だ生きているかもしれぬ」 背筋を伸ばし、宣言する。 「ならば自分はそれを届けよう、それを己の帰る理由とさせて頂こう」 感情を映さぬ紅の眸に、己の虚ろに挑むような強い光が閃いて、消える。軍人らしく伸びた背が、張った肩が、風に撫でられ緩む。 「貴方の言葉を利用する事しか出来ぬ、不出来な息子を許せとは言わん」 父の手紙が風にかさりと震える。父が感情に任せて書いた文字が眼に飛び込む。 『愚かな父の願いだ。生きろ、誠司。生きてくれ』 強い言葉を発する為に力籠もっていた頬が不意に緩む。 「説教は死後に頼む」 端座したまま、酒をあおる。酒の力を借りる振りをして、 「父さん」 父を、呼ぶ。 「これが僕の選んだ道だ」 己が腹の底の底を掻き出して曝け出させてみせる。そうして破顔する。 ――己の内の虚ろと対峙して、足掻き、もがき、のた打ち回り、 「精々、生きるさ」 風が吹き込み、手紙が捲れる。 手紙の前のグラスの氷がカラリと音を立てて崩れる。 父の返事を、聞いた気がした。 ◇ ◇ ターミナルでの相棒だったキースが帰属したヴォロスの片隅の森。中央にもうひとつの森とも見紛う巨木を抱いたその森の細道で、フォッカーは立ち止まる。 キースがシエラフィと呼ばれるこの地に帰属して、もう二年になる。その間にフォッカーは北極星号で一年にも及ぶ旅をした。それから後も色々な旅と冒険の経験を重ねた。 別れてから二年の月日を短いと言うべきか長いと言うべきか。 旅から旅への二年が過ぎて、ふとキースに会いたくなった。会いたいと思った次の日にはヴォロス行きのロストレイルに飛び乗っていた。 それなのに。もうすぐキースに会える森の道の中で、どうしておいらは立ち止まっているのだろう。 艶やかな黒の猫毛に覆われた三角耳や透明な髭を花の匂いのする森の風にそよがせて、フォッカーは空色の眼を瞬かせる。瞼を閉じて開いた、その僅かの間に、目の前に赤狼の仮面を被った少女が立っていた。 「にゃ?!」 思わずうなじの毛を逆立てるフォッカーに、少女は躊躇いなく手を伸ばす。戸惑うフォッカーに焦れたように足を踏み出し、フォッカーの片手を掴む。木洩れ陽に金緋色に透ける深紅の長い髪を背中に揺らし、無言のままフォッカーの手を引く。森の奥へと、キースの住む所へと、フォッカーを導く。 木洩れ陽の細道を抜ければ、森の央、空高く聳え広く梢を広げる大樹とその傍らに寄り添うように錨を下ろす巨大な飛空船に護られた小さな集落に辿り着く。 「にゃ、ちょっ、待っ……」 自分よりも頭ひとつ分背の高い少女の手を振り解くか振り解くまいか迷う横から、 「あ、フォッカー」 キースの声がした。 「久しぶりだぁ」 離れていたのがまるでほんの少しの間のような気軽な口調で笑うキースの声に、フォッカーの肩の力が思わず抜ける。 振り返れば、何かの資材らしい木材をごつい肩に担いだキースが立っていた。別れる前に生やし始めていた顎鬚が、今は立派に生え揃っている。どこまでもお人よしな元相棒は、力仕事に重宝されているのだろう、肩も腕も、前以上に逞しくなっている。 「ひさしぶり、にゃ」 もしかして背丈も伸びたのだろうか。大樹を見仰ぐ勢いで首を持ち上げ、フォッカーは透明髭を震わせて笑う。会わずにいた二年の月日が確かに過ぎているのを見た。 「元気にしてたか、……にゃにゃ?」 繋いでいたはずの少女の手が、知らぬ間に消えている。案内の礼も言ってないにゃ、と慌てて見回しても、周囲をうろついているのはキースと同じに木材を担いで作業する男達や、新築らしい木造家屋の前で洗濯ものを干す女達ばかり。赤狼の仮面被った少女の姿は見当たらない。 「フォッカーは元気にしてたかいー?」 作業する男達の元に木材を届け、キースがのんびりとした足取りで戻ってくる。赤茶色の獅子の頭に巻いたタオルを解く。 「おいら?」 キースがヴォロスに帰属して後のことが頭を巡る。 北極星号の冒険や、ワールズエンドステーションをかたちづくる途轍もなく巨大な世界計や、ターミナルの変容や―― 「話すと長くなるのにゃ」 青空色の眼を細めてフォッカーは笑う。 「色々あるけど、おいらは元気にしてるにゃ」 「そうかー」 キースは以前と変わらぬ笑顔を見せる。 「キースは? ここでどんな生活してるにゃ?」 尋ねながらぐるり見回す。 一年前よりも人の数が増えている。人の数と、それからキースよりも大きな鳥の数。確かあの鳥は飛空船の中に数羽いただけだった。 「砂漠に戻ってた人達がこっちに移ってきてねぇ、随分賑やかになったんだよー」 「だから新しい家を建ててるのにゃ?」 「箱舟の竜刻がこの辺の地面に作用してねぇ」 キースが巨大な飛空船を指し示す。次いで大きな肉球の手が示すのは、樹の根這う地面のあちこちに固まって咲く白い花。 「あの花が一年中咲くようになったり、」 良い蜜が取れるんだよぉ、とキースはちょっぴり自慢げに言う。 花の脇にはほとんど決まって透き通った青の泉。近寄ってみれば、地面から絶えず美しい水が湧き出ているのが分かる。 「いい湧き水もあちこちから出るようになってねぇ、森の外に住む村の人たちも時々来てくれるんだぁ」 森の中を通る細道の整備も考えているのだとキースは言う。 かつて呪われし孤児の王と伝承に呼ばれた王が、独り、死んだように眠っていた古城は、今は緑豊かな大樹と代わり、その大樹を囲んで一族の末裔達が新しい村を造り生活を営んでいる。 「みんな元気にやってるよぉ」 穏かに笑むキースに、フォッカーは安堵する。 「王さまは元気にゃ?」 王城を呑み込み、その身の内に巨大な虚をかたちづくりながら、未だ育ち続ける大樹。キースに案内され、大樹の根が絡み合って出来た王の居室である宝物庫まで真直ぐ続く隧道を潜る。 木洩れ日の揺れる隧道のところどころ、光が灯るように白焔花が白く白く咲いている。 「おやキース、おともだちかい」 「銀狼婆ちゃん」 道の途中、フォッカーは通りがかりの銀狼の仮面被った老婆から、お土産にと瓶詰めの蜂蜜を押し付けられた。 「シロはまだ帰って来んか」 「隣村までのお使いだし、もうそろそろ帰って来るんじゃないかなぁ」 「また寄り道でもしとるんかの」 全くあの子は、とぷりぷりしながら住居としている箱舟に戻る老婆を見送り、キースはどこか楽しげに顎鬚の口許を緩める。 再び歩き出すキースの背を仰ぎ、フォッカーは小さな小さな息を吐く。キースは、もうちゃんとシエラフィの大地に根付いて生きている。狼の仮面の一族の人々にも受け入れられ、頼りにされている。 「フォッカー?」 ほんの小さな溜息に気付いたのか、キースが大きな肩越しに振り返った。フォッカーは何でもないにゃと肉球の猫の手をひらひらと振る。 帰る場所を見つけ、自分の居場所を掴み取った元相棒。 昔の相棒である自分は、もうここにはあまり訪れない方がいいのかもしれない。新しい生活をしているキースを邪魔しちゃいけないのかもしれない。 「俺からはもう会いに行けないからねぇ」 フォッカーの悩みを見透かしたように、ふとキースは肩をすくめる。 「会いに来てくれて嬉しいんだぁ、フォッカー」 フォッカーは思わず口をへの字に引き結ぶ。キースが振り返らない内に、 「そんな情けないこと言わずにしっかりするにゃ、キース」 元気な声で元気な言葉を返す。でも、と小さく付け足す。 「会えて嬉しいのはおいらも同じにゃ」 元相棒のふたりは顔を見合わせて笑いあう。 樹の根の隧道よりも明るい、宝物庫に入る。 樹肌に埋め尽くされた広い宝物庫の央には、黒柩を根元に抱いたもうひともとの樹木が立つ。その柩の上に腰掛けるは、白狼の仮面を背に負うたひとりの少女。 「シエラ」 キースが呼びかければ、一族の王は伏せていた顔を勢い良く上げた。 「キース」 肩で切り揃えた白髪が、空の見える天井から吹き降りて来る風に揺れる。柩の蓋の上に広げて読んでいたらしい本の頁がパラパラと捲れる。本の傍でとぐろを巻いていた翼を持つ小さな赤い蛇が苺色の眼を瞬かせて頭を上げ、自分の体に眠たげに落とす。 「冒険飛行家のフォッカー、じゃの。息災にしておったかの」 名を呼ばれ、フォッカーは眼を丸くする。王様に会ったのはキースが帰属する直前のほんの僅かの間だけだ。 「キースがよく話してくれるからの」 飛行機の操縦や修理屋としての腕の確かさや、ふたりで開いていた修理屋兼喫茶店をしていた頃の話、旅人だった頃にふたりでした冒険の話。 「お茶を淹れて来るねぇ」 フォッカーが仰ぐと、キースはちょっと照れくさそうに顎を掻いて宝物庫の端へと歩いて行った。向かう先には、樹と天幕で作られた小屋がある。 「ここで宴をすることも多くての。キースや私はあの場所で寝起きをしとる」 王に手招きされるまま、フォッカーは王と並んで黒柩の蓋の上に腰を掛ける。 「ゆるりとの、して行くが良い」 言いながら、王は膝の上で本を広げる。とぐろを巻いて寝た振りをする小さな蛇のフィーの胴を無造作に掴み、文字よりも絵が多い本の上、読めとばかりに乗せる。 「文字を覚えて皆と話したいと言うたのはお主じゃろう」 「休憩も必要だよー」 蜂蜜と果汁を湯で割ったものと焼き菓子を盆に載せ、キースが黒柩の前に腰を下ろす。助かったとばかりにフィーが翼を広げて羽ばたき、キースの膝に下りる。盆の上で湯気を立てる樹のカップを興味津々覗き込み、熱い湯気に当てられて悲鳴を上げる。 「あ、いいなあ、おれもおれも!」 宝物庫の出入り口、白狼の仮面被った少年が声を上げる。両手を掲げて主張する。 「帰ったか」 「お帰り、シロ」 「ただいま」 王とキースに迎えられ、ちゃっかり紛れ込むシロの胸元から、ひょこりと赤い小さな頭が覗く。もそもそと這い出すもう一体の翼持つ蛇に、フォッカーはきょとんと首を傾げる。 「あ」 キースの大きな身体の影に半ば隠れていた旅人に気付いて、シロはしまったと青い眼を丸めた。一族の皆にはナイショにしておいて、と顔を顰めるシロの傍ら、二体の翼持つ蛇はぺたりとくっつき、一体になる。 「こいつがどうしてもどーうしても外に行きたいって言うから、身体ふたつに分かれさせてたんだ」 「便利だにゃ」 「これでもこの森の護り神さまじゃしの」 得意げに胸を張る蛇の頭をシロはがしりと掴む。指定席のように自分の肩に乗せて立ち上がる。 「皆にただいまの挨拶して来る。キースの友達なんだろ、たまにはゆっくり話してなよ」 「ありがとうねぇ」 「ありがとにゃ」 少年の心遣いに、キースとフォッカーの声が重なる。フォッカーが笑えば、同じ気持ちのキースが同じように笑う。 同じ言葉が同じように重なったのが妙に嬉しかった。 どれだけ違う空の下に暮らしても変わらないものもある。そう信じようと、フォッカーは思う。 ◇ ◇ 『神託の都』メイムを旅したロストナンバーを介して、死の魔女に一通の手紙が届けられたのは、北極星号帰還の年より五年が過ぎた頃。 「まあ」 血の通わぬ頬に緩やかな笑み浮かべ、死の魔女は渡された手紙を零世界の空に翳す。ターミナル・カフェから見える空は、いつもいつもいつまでも、時の動かぬ薄青の空。 カフェに集うロストナンバーたちの賑やかな談笑の声を耳にしながら、死の魔女は青紫の唇に笑みを佩く。 「楽園さんですわ」 ヴォロスへの帰属を果たし、メイムの夢守となった、懐かしい友人からの手紙。 長い髪と同じ金糸の睫毛に縁取られた血の色の瞳を細める。手紙を住処に持ち帰るのは待ち切れない。古めかしいドレスの袖から覗く、白骨が剥き出しとなった指先で手紙の封を切る。 流麗な文字で綴られる時節の挨拶の後、友人の文字は思いがけぬことを知らせる。 『この度、同じメイムの夢守の男性と結ばれる事が決まってね』 「あら」 友人の不意の祝い事に、死の魔女は少女の姿そのままの可愛らしい声をあげる。 『親愛なる友人の貴女をぜひ式に呼びたくて……。私は天涯孤独の身の上、だからせめて貴女に花嫁の付き添いをして欲しいと思って』 「あらあら」 『勿論、式なんて関係なく遊びに来てくれていいの。ロストナンバーだった頃の事を思い返して貴女と昔語りに浸りたいわ』 「あらあらあら、まあまあまあ!」 向かいの椅子にその友人が座っているかのように、死の魔女は立ち上がる。椅子が倒れるのも構わず、手紙を両手で高く掲げる。友人にするかのように、ドレスの胸に手紙を抱き締める。昂ぶる気持ちを抑えきれず、その場でくるりと一回転する。 「もちろんですわ、楽園さん」 青褪めた色を通り越し最早病的な紫色となった頬を喜色に染め、死の魔女は大きく頷く。 「早速ヴォロス行きのチケットを手配致しますわ! たとえ私が死んだとしても!」 親愛なる友人のお誘いとあれば、この死の魔女、何処へでも駆けつけましょう。 ヴォロスの広大な大地に、乾いた砂の風が吹く石の町に、死の魔女は立つ。穏かな眠りの静寂に包まれた『神託の都』メイム。 ドレスの裾を風にひらめかせ、手紙に記された住所を探せば、友人の新居は容易く見出せた。 通りに並ぶ『夢見の館』よりも随分と小さな、普通の民家とも見紛うほどの『夢見の館』。 乾いた風の吹く土の上で育つ植物は少ないのか、玄関に至る前庭に緑は少ない。それでも、枯れた土を耕し、肥料を梳き込み、新しい種を蒔き続けている様子が窺えた。遠くない未来に、この庭はきっと緑で溢れるだろう。 「素敵なお庭ですわ」 庭の真中に立ち、予言をするように死の魔女は呟く。 「今日は」 背後から声を掛けられ、振り返る。 「ありがとう、来てくれたのね」 砂風に惑う黒髪を片手で押さえ、金の眼を春の陽に和む猫のように柔らかく細め、明日花嫁となる友人がメイムの街を背に立っていた。 「『神託の都』メイムに、ようこそ」 帰属した頃には肩の長さに断っていた艶やかな黒髪は、今は背の半ばほどに伸びてたおやかに揺れている。少女の華奢さを残しながらもしなやかなまろみと張りを内包する肩から腰には、この遥かな大地に根差して過ごした確かな歳月が宿っている。 あの頃にはどこか危うさを孕んでいた少女の瞳には、穏かでいて強い光が灯る。乾いた強い風の中で凛と伸ばす背には、過去に怯える少女の影は最早見当たらない。 数年ぶりに見る友人の姿に、死の魔女は見惚れた。 「見ない内に随分と綺麗になりましたわね、楽園さん……いえ、エデン」 微かな嫉妬と、それを遥かに上回る誇らしさを華やかな声にする。 「ご機嫌よう。そして、お久しぶり、エデン」 ドレスの裾と沈みかけの月の金色した髪を翻し、死の魔女はメイムの夢守に駆け寄る。手に手を取り、少女のように声をあげて笑いあう。 「今日は夢守の仕事はお休みにしたの。貴女とたくさんお話がしたくてね」 エデンは死の魔女の手を引いて自宅に招き入れる。手製らしいクッションを置いた椅子を勧め、慣れた動作でお茶を淹れる。 「花婿は?」 「仕事よ」 木製の食器棚から素朴な茶菓子の入った木碗を取り出してテーブルに置いてささやかな茶会の席とし、エデンは向かいの椅子に座る。 「どんな殿方?」 「少し、父に似ているかしらね」 砂避けの厚い布を下げた玄関を潜ってすぐの小さなダイニングキッチン、奥には『夢見の館』としての機能を果たす為のものだろう、日避けの布を幾重にも吊った小部屋。脇の扉は主の部屋だろうか。 小さな小さな、けれど居心地のいい場所。 遥かな大地に一人で立つことを決めた少女が懸命に築き上げた己が居場所。 「ここがエデンのお家ですのね」 死の魔女は常にない柔らかな笑みを浮かべ、 「それにしても」 不思議そうに首を傾げる。 「同業者の、同じ夢守の殿方とご結婚なさるだなんて、とても驚きましたわ」 女二人揃えば、始まるは恋愛話。 「私はてっきりあの軍人さんと結ばれたものだとばかり……」 炎の眸持つ軍人を思い出して、けれどエデンは懐かしむように微笑む。 「昔の失恋はもう吹っ切ったわ」 迷いのない眼で真直ぐに死の魔女を見る。悪戯っぽく笑う。 「小娘から卒業するなら、いい加減過去に囚われず前を向かないとね」 友人の中で確かに過ぎた五年の歳月を、死の魔女は想う。彼女は確かに、前を向いて歩み続けている。 「私も、貴女の事は意外だったわ」 「私?」 「てっきりあの先生と恋に落ちて、同じ世界に帰属したものとばかり思っていたもの」 「……私は、」 死の魔女は金糸の睫毛を伏せる。長い睫毛の影が落ちるその頬が、恋する乙女の薔薇色に染まったように見えて、エデンは瞬く。 「今の私では先生に追いつけない。先生を追う資格はない」 己で己に呪縛を掛ける死の魔女の、けれど彼を呼ぶ唇は恋の命を得て淡く色づいている。 「私は未だに過去に囚われているという事ですわ」 己をそう断じて血の色の瞳が持ち上がった途端、死の魔女を彩る温もりは消える。 「でも、いつか、……返さなくてはならないものがあるのですわ」 いつか、と死の魔女は決意するように唇に力を籠める。それは思いがけず強い笑みに見えて、エデンは微笑む。 思い出話は尽きず、二人のお茶会は日が暮れるまで続いた。 聖堂に入ることが命の危険に関わる花嫁の付き添い人の事情もあり、夢守たちの結婚式は、二人の新居でもある小さな『夢見の館』で、人前式のかたちで行われた。 メイムの夢守たちが集い、祝福の言葉を、色とりどりの花びらを、夫婦となった二人に掛ける。 雪白の頬を花の色に艶やかに染め、花嫁のブーケを手に、エデンは幸せに笑う。 「私が付き添いを務めるからには、あなた方二人の愛は永遠になのですわ」 死の魔女は花嫁の手を取り、花婿の手を取る。 「死が2人を別とうとも、その絆は決して断ち切れない事をお約束致しますわ」 二人の手を繋ぎ合せ、言葉の魔法を掛ける。 夢守の夫婦は共に生きて行く誓いを死の魔女と仲間の夢守たちの前に宣言し、賑やかに囃し立てられながら静かなくちづけを交わす。 花嫁はブーケにそっと願いを籠める。 願うは親愛なる友人の恋の成就。 願い籠もった花束はどこまでも青い空へと舞い、惑うことなく花嫁の付添い人の胸元に、――ふわり、届いた。 ◇ ◇ 以前訪れた時には獣道のように荒れた道しか無かった森に、今は一本の石畳の道が敷かれている。 丁寧に石の敷かれた道を木履で歩く。ぽくぽくと心弾む自分の足音が楽しくて、黄燐はゆっくり歩いてみたり、足を早めてみたり、蒲公英色の眼を笑ませて道を辿る。 「ヴォロスは久しぶりね」 晴れた空から降る甘い花の香含んだ風に、歌う鳥の声に、大きく伸びをする。この地に帰属したキースに会うのは、 「……やだ、もう三年ぶり?」 過ぎた年月を思い、黄燐はちらりと首を傾げる。森に住む狼の一族の人達は元気にしているかしら、キースは皆と仲良くやっているかしら、シエラ王は変わりないかしら。思った途端に懐かしさがこみ上げて、黄燐は皆が住む森の央へ続く道を辿る足を早める。 キースに話したいことがあった。頼まれていたこともあった。 それに、 (こんないい所!) 梢に覆われた道の先の青空を仰げば、森のどの木よりも巨大な、それ自体ひとつの森のようにも見えるひともとの大樹の梢が見える。 緑濃い梢の下、幾本もの木が縒り合ったように見える太い幹に蔦を巻き付け白く咲く何千もの花が見える。花の名を、確か白焔花とキースは言っていたっけ。 (一回だけってもったいないじゃない) 狼の一族の集落に近付くにつれ、黄燐の耳は賑やかに奏でられる鈴と弦楽器の音を捉える。 「お祭りでもやってるのかしら」 ほとんど駆けるようにして、森の央、大樹の下の集落に入る。 以前訪れた時には仮設置の天幕ばかりだった森の集落に、今は大樹に寄り添うように、大樹に並ぶ巨大な飛空船に寄り添うように、幾つかの木造の家が建てられている。 「たびの、ひと?」 赤狼の仮面被った赤い髪の少女が、どこかたどたどしい口調で黄燐に話しかける。八歳の姿のままの黄燐と同じほどの年頃だろうか。 「今日は」 「こにちわ」 「久しぶりに来たんだけど、何だか賑やかなのね」 華やかな音楽は大樹の中から聞こえてくる。以前は大樹の内に城ひとつ入るほどの虚があり、その虚の内、宝物庫と呼ばれる王の居室があった。宝物庫より一歩も出ることの叶わないシエラ王の為、一族の人たちがお祭りか宴でも催しているのかしら。 それを問えば、少女は首を横に振った。おまつり、と答えるのと同じほどに明るい口調で答える。 「おそう、しき」 お葬式、と頭の中で変換して、その言葉に似つかわしくない少女の声音と大樹からの明るい音楽に黄燐は眼を丸くする。 「……誰の?」 「銀狼、ばあちゃ。おいで?」 「え、でも、」 少女のひやりとした手に手を取られ、黄燐は集落を横切る。 手を引かれながら、黄燐は三年前の記憶を掘り起こす。キースが帰属したあの日の祭祀で、飛空船を飛ばしていた竜刻使いのお婆さんが、確か銀狼の仮面を被っていた。一族の皆に銀狼婆と呼ばれていた。あの時にも随分とお年のように見えたけれど。 「百と、ふたつ。ひゃくふたつ才」 「そう、百二歳だったの」 白焔花のアーチを潜り、大樹の根と蔦が絡まって出来た隧道を歩く。三年前と較べて随分と広く明るくなった宝物庫までの道すがら、 「あんた確かキースの友達の」 「あ、ほんとだ、久しぶりだ」 ひと一人入れるほどの大鍋を二人掛りで運ぶクロとシロの父子と挨拶を交わす。 「あの、ね。ご葬儀って聞いたんだけど……」 遠慮がちに聞けば、父子は黒狼と白狼の仮面で揃って頷いた。 「ああ、宝物庫でやってる。行ってやってくれ」 「キースも居るよ」 親しい人の葬儀をカラリと笑う父子に見送られ、少女に手を引かれるまま、木洩れ陽が風に揺れる隧道を抜ける。重なり合う梢が天井となり、空の光が降り注ぐ宝物庫に入る。 流れ寄せる陽の光と陽気な音楽に黄燐は思わず眼を細める。 白焔花に満ちる宝物庫の中央、黒い柩を根元に抱いて、大樹の虚のその内にもうひともと生える樹の傍、歌い踊る狼の仮面の人々の輪がある。笑い歌う輪の内、黄燐は木洩れ陽を浴び柔らかな金色に染まる赤茶色の鬣の獅子の獣人を見つけた。 「きー、いたね」 赤狼の少女に行ってらっしゃいと手を振られ、黄燐は頷く。 「ありがとう……そうだわ、あなたの名前」 名を問われて、赤狼の仮面の奥、蒼眼の多い一族にしては珍しい深紅の瞳が笑う。 「ひー」 「ヒー、またね」 赤狼の少女と別れ、車座の端に座す獅子の獣人に歩み寄る。広い背中を覆う若草色のマントの端をちょこんと摘まみ、 「こんにちは、お久しぶり」 歌う人々の邪魔にならぬよう、そっと声を掛ける。 肉球の手を叩いて拍子を取り、獅子の透明な髭を揺らして唄っていたキースは、懐かしい声に振り返る。 「やあ、黄燐君」 数年前に別れたときと変わらない、大きな笑顔を見せる。 「百まで生きればお祝い、らしいよぉ」 白い布で幾重にも巻かれた銀狼婆の遺体が、狼の一族の者達の手で抱え上げられる。この地で亡くなった一族の者は、宝物庫の央の樹の根元から潜ることのできる地下の一室に安置される。 幼い声で唄うシエラ王の先導で、遺体が地下へと運ばれて行けば、その場はたちまち宴の会場と化した。 大鍋で猪肉や野菜が大量に煮込まれ、魚が焼かれ、パンが焼かれ、酒や果汁が酌み交わされる。 銀狼婆は実はワシに惚れていた、若い頃の銀狼婆は美しい竜刻使いだった、銀狼婆の思い出話が宴の場に満ちる。 「久方振りじゃの」 「今日は、シエラ王」 白狼の仮面を背中に負い、一族の王が黄燐に果汁の入ったカップを差し出す。いつかの祭祀の時と同じように、酒の瓶を抱えて皆に注いで回っているらしい。 「息災そうで何より」 「シエラ王もキースも、元気そうね?」 「元気だよぉ」 「相変わらずじゃの」 黄燐の右隣にどっしりと座るキースが笑い、左隣に陣取った王が蒼の眼を細める。 「ここで変わったこととか、あるかしら」 キースと王は眼を合わせ、ほとんど同時に首を捻る。 「シロが背が伸びんと悩んでおったの」 「森の外に伸びる道を皆で修繕してねぇ、森の外の村の人達と交流するようになったよー」 王、と一族の者に呼ばれ、王は酒瓶を抱えて立ち上がる。 「ゆるりとの、して行くが良い」 幼い顔をのんびりと笑ませ、王は黄燐とキースの傍を離れる。 「黄燐君は、変わりないかい?」 「ああ、あたし?」 カップを両手で包み、黄燐は顎を引く。 「元の世界は見つかったわよ。その、ワールズエンドステーションから地道に検索かけて探してね」 「フォッカーが北極星号で行ったんだっけねぇ。しばらく前に来てくれたときに話してくれたよぉ」 「すごいところだったわ」 黄燐はちょっと遠い目をする。どれだけ細かく検索条件を伝えても、返って来る結果数の途方も無いことと言ったらなかった。何度も投げ出しそうになりながら、淡々と地道に気長に諦めず延々と検索を続けて、やっと見つけた自分の世界。 「でも、まだ旅は続けてるわ」 それに、と黄燐は堪えきれぬ笑みを零す。 「再帰属しちゃったら、今回の一番の報告ができないしね!」 カップの中身を一息に飲み干して、勢いつけて立ち上がる。これを伝えるために今日はここまで来た。あのね、と言った途端、笑顔が弾ける。 「キースがずっと気にしてた彼」 もったいぶって口を閉ざせば、キースはまん丸な金色の眼を宝物を前にしたこどものようにきらきらと輝かせた。 「故郷見つけて、再帰属したの! それでね、」 「それで?」 身を乗り出すキースの耳に、内緒話をするように口を寄せる。 「そこで恋も成就してるの」 「……て、ことは」 「婚約よ、結婚よ!」 「わあ、祝電書かなきゃ!」 思わず拍手をするキースに、黄燐は忘れず付け足す。 「もちろん、キースが知ってる彼女よ」 ふふ、と得意げに腰に両手を当てて胸を張る。 「あたしがこの目で、しっかりと見届けてきたから間違いないわ!」 本当は、幸せな二人を物陰からこっそり偵察して見届けるつもりだったのだ。それなのに、物陰からちょこっと顔だけ覗かせた途端、彼女の方にあっさりと見つかってしまった。 その時の気まずさを思い出して、黄燐はちらりと舌を出す。狩衣の乱れを整え、キースの隣にお淑やかに座り直す。 「友人達の幸せって、いいわよね」 幼い少女の姿でしみじみ言う黄燐に、キースは大きく頷いて、ふと、顎鬚に覆われた口許をくすりと笑ませた。 「いつもみたいなイタズラはしなかったかいー?」 「もちろん」 黄燐は唇を尖らせる。 「そこではイタズラしなかったんだから!」 場所はわきまえるわよ、と頬を膨らませれば、大きな肉球の掌で頭を撫でられた。 ロストナンバーである自分と、ロストナンバーでなくなったキースと。それでも以前と同じように話せることが嬉しくて、黄燐は蒲公英の瞳を笑みに細める。 ◇ ◇ 森を深く包み込み、招かざる客を迷わせる霧が流れる。 乳のようだ、と飛天鴉刃は思い、窓の外に向けていた月光の金の色した眸を瞬かせた。 寝台に横たえた身を起き上がらせる。黒曜石の色した鱗がさらさらと清かな音をたてる。鱗に覆われた柔らかな筋肉を隠す肩に、雪雲色の髪が滑り落ちる。常には高く結い上げ纏める髪が、縛め失くして視界に入ってくるのが邪魔で、両手で束ねる。寝台脇のシェルフから結い紐を取り、束ねた髪を緩く結うて、 「……ん」 眸と同じ色した竜人の髭が揺れた。 鴉刃とその夫のためにあてがわれた部屋の扉の外、霧の森の如く静かに佇む者が居る。 気配を鋭敏に察する髭を小さく震わせ立ち上がろうとして、 「そのまま」 扉の外の人物に、まるで動きを察しているかのように制せられた。 「辛くはないか」 問われた言葉に、鴉刃はらしくなく戸惑う。鋭い月光の眼が飴でも呑んだかのように丸くなり、飴の甘さを感じるように淡く溶けて笑む。 「……はい」 ならば良い、と素っ気無く言い捨てて立ち去ろうとした足音が躊躇うように留まる。 「大事にな」 「はい」 息を吐くようにそっと告げられた言葉に、大きく首是する。 今度こそ足音が遠退いて後、堪え切れぬ幸せな笑みが零れた。知らず、夫の名が唇から漏れた。今はこの場に居らぬ夫にするかのように、己が身を抱き締める。最も、そんなことをするのはどちらかと言えば鴉刃からではなく夫からの方が多いが。 恋人の世界に帰属し、恋人の故郷に共に棲み、婚約を交わした。義父にとことん反対されながらも、恋人が押し切る形で結婚を果たして、数年。 かつて敵を倒すために振るっていた己が腕を家庭のために振るうことに最初は酷く戸惑った。慣れぬ家事をせねばならぬと焦り苛立った。 けれど、最初は慣れなかった家事も随分と慣れた。慣れた己を穏かに笑うことも出来るようになった。 時折訪ねて来てくれるロストナンバーの友人たちと、夫も交えて霧の森を歩いた。ことに黄燐はしょっちゅう押しかけて来ては、お義父様との仲はどうだだの、料理は上達したかだの、賑やかな声を響かせてくれる。 己の身の変化に気付いたのは、そんな日々がいつまでも続くのだろうと信じたくなってきた頃。 深く、息を吸い込む。 腹の底に溜めた空気を吐き出して、 「黄燐」 くすり、笑う。 窓の外を覗けば、家屋の外の樹木の陰に身を潜ませ、顔半分だけを出して此方を窺おうとしている少女と眼が合った。 春まだ浅い頃に咲く健気な花の髪と眼を持つ、ロストナンバーであった頃よりの友人は、見つかるとは思っていなかったらしく、目が合った途端に大袈裟に跳ねた。 「久しいな」 そう言えば、婚約が決まった時もそうして物陰から覗こうとしていた。あの時もすぐに見つけはしたが。 「お久しぶりー!」 隠れていたことは無かったことにして、蒲公英色の少女は元気一杯の明るい笑顔を弾けさせる。元気良く駆けて来て、躊躇なく窓から部屋に入って来る。 「元気してた、鴉、え、えええぇえ?!」 ひらりと床に着地した途端、黄燐は眼を丸くする。 「相変わらず騒がしいな」 「や、だっ、だって鴉刃」 着地の格好のまま、黄燐は言葉を詰まらせたかと思うと、身に纏う狩衣の裾を揺らし、寝台の縁に掛ける鴉刃の足元に滑り込む。床に膝立ち、鴉刃の顔を仰ぐ。ついさっきまでの笑顔は何処へやら、心底心配げな顔をしている。 (まぁ、そうであろうな) ふふ、と苦笑いが零れた。 (私とていまだに信じられはせぬ) 傍目に見ても膨らんだ己の腹に手をやれば、返事をするかの如く、宿した子が腹の内側をぐいと蹴り上げた。 「……なんだ、そんなに驚いたか?」 黄燐に言いながらも、鴉刃自身、己の身がこうなるまで信じられなかった。確かにこの世界に帰属したとは言え、異種族どころか、世界すらも違う者同士で子を成せるとは。 黄燐は子供の仕種でこくこくと頷く。あの、ね、と遠慮がちに唇を開く。 「さすがに妊娠はビックリしたわ」 狩衣の胸を両手で押さえ、黄燐は深呼吸する。 「身体、大丈夫? 辛くない? 無理してない? 旦那は、旦那はこんなときに何処行ったの?」 かと思えば、鴉刃の膝を掴み、黄燐は笑っていいのか泣いていいのか分からない顔で矢継ぎ早に質問攻めにする。 「うう、でも。これって幸せって言うことね」 質問しながら心を落ち着けたのか、蒲公英の瞳に喜びいっぱいの光が灯る。うふふ、と堪えきれない笑みが浮かぶ。 「応援してて良かったわ!」 立ち上がり、舞い踊るようにぴょんと跳ねる。くるりと一回転してみせる。ふと思い出して、心配げに眉を寄せる。 「それで、本当に身体は大丈夫?」 「大事無い。今は安静にしている。夫は、」 おっと、と口にして、面映い笑みが鴉刃の口許を和らげた。 妊婦の笑顔に安心して、黄燐は小さな子供のように頬を膨らませる。 「もう、まだそんなことで照れるの?」 まだまだ新婚さんね、と悪戯っぽく笑う。 「私が水を飲みたいと言った途端、森の奥の泉に駆けて行ってしまった」 待っててね、すぐ戻るから。そう言って必死な顔で家を飛び出した。森の泉の水は清冽に澄んで甘く旨い。随分と前に言ったことを覚えていてくれたのかと嬉しくもあり、どこまでも甘やかそうとしてくれる夫にほんの少し申し訳なくもあり。 「本当に付きっ切りで心配していてな」 「そうなの?」 「子は親に似るとはこのことか」 鴉刃は淡く笑う。この地に帰属してより、笑うことが増えたように思う。霧に護られるこの森では、敵と相対し、命の遣り取りをする必要がない。刃を掴むことも魔力を練ることも、神経を尖らせることもなく、穏かに生きてゆける。 出身世界に戻れば、アサシンとして再び生きることとなっただろうが、……今は、この森に根付くことが出来て良かったと思える。腹に子を宿した今なれば、尚更。 「……とはいえ」 しなやかな髭をゆったりと揺らし、鴉刃は鱗の両腕を天井に向けて伸びをする。 「流石に何も出来ぬとあると退屈なのも事実だ」 帰属する直前まで潰れていた右の眼は、今はもう癒えている。傷が癒えた代わりに、眼窩に魔力の眼を生成する魔法は使えなくなったが、この森に生きて行く身に、その魔法は最早必要ないだろう。 「久しぶりであるしな、たまにはゆっくり語るとしようか」 鴉刃は癒えた右目をぱちりと瞑って見せる。 「なぁ黄燐」 そうしてまた、微笑む。 ◇ ◇ 哀しいくらい青く碧い空から、葡萄の甘い香りを含んだ冷たい風が流れて落ちる。風に栗色の毛皮に覆われた頬を撫でられて、キリル・ラルヴァローグは茶色の丸い瞳を細めた。右眼の下に残る切り傷が僅かに歪む。狼の髭と黒い鼻が小さく震える。 猫の尻尾をゆらりと揺らし、キリルは眼前に広がる緩やかな丘の道を辿る。段々に連なる葡萄畑を、大きな風車塔の脇道を、長閑に広がる小さな家々を、石畳の広場と野薔薇のアーチを通り過ぎ、穏かに流れる小川に掛かるささやかな石橋を越えたその先に、白い教会。目的の場所の近辺に辿り着いて、キリルは感情を映し難い狼の双眸をゆっくりと瞬かせた。肩に掛けた鞄の紐をぎゅっと握り締める。 「みゅー……」 小さく吐き出した息が、風に白く流される。青い空に散る自分の息を仰いで、教会の尖塔の鐘が揺れ始めるのを見た。小首を傾げるキリルの双眸の先、磨きこまれた銅の鐘が大きく揺らされる。青空に澄んだ音を響かせる。 鐘楼の音を合図に、わあっ、という歓声が教会傍の孤児院から聞こえる。視線を向ければ、開いた孤児院の扉から子供達が次々と飛び出してくる。 孤児院前の芝生広場に飛び出すなり、駆けっこや縄跳びやままごとで遊び始める子供達のその中に、懐かしい蜂蜜色の髪の少女を見つけて、キリルは微かに眼を細める。透明な髭を震わせる。ゼシカ、と声を掛けようとして、生来の口下手のせいで、掛けようとした言葉を何度も白い息に変える。 村中に鳴り響いていた鐘の音が、遠い響きを残して空に消える。 幼い子供を抱き上げて笑っていた蜂蜜色の髪の少女の空色の瞳が、キリルを捉える。その瞬間、光をまともに見たかのように、ゼシカ・ホーエンハイムは大きな瞳を眩しげに細めた。抱えていた子供をそっと地面に立たせ、白いワンピースの裾を翻して真直ぐにキリルの元に駆けて来る。 「キリル!」 笑顔で飛びつかれ、抱き締められて、 「ゼシカ」 やっと、声が出た。 「なかなか、なかなか会いに来れなくて、ごめん」 「会いに来てくれたのね、嬉しい」 覗き込んで来るゼシカの瞳を見詰めて、キリルは気付く。会いに来れずにいる三年の間に、キリルがロストナンバーで在り続けていた間に、壱番世界に帰属していたゼシカは確実に成長している。 背も、言葉遣いも、なんだかすっかりお姉さんになっていて、キリルは言おうと思い続けてきた言葉を上手く声に出せずに俯く。 「キリル」 俯いた芝生の上、静かな声と共、背の高い影が差す。影を追って顔を上げれば、教会の扉から出てきたらしい青年の姿。ゼシカと共に壱番世界に帰属したハクア・クロスフォードだ。 「久しぶりだな」 葡萄の甘い香りの風に束ねた白銀の長い髪を揺らす。深い森の色した眼を淡く笑ませるハクアに、キリルはちょっと首を傾げる。しばらくハクアをその丸い眼で見詰め、ふと感じた違和感のもとにすぐに気付く。 服の色だ。 キリルの記憶の中のハクアは、大抵白い衣服を纏っていたように思う。けれど今は、黒を基調とした服を細身の身体に纏わせている。 「牧師さまー」 「鐘撞きお疲れさまー」 孤児院の庭で遊ぶ子供達が口々に言いながらハクアの元に集まる。その一人ひとりに笑みかけ、頭を撫で、両腕を掲げてねだる幼子を抱き上げ、ハクアは静かに笑む。 「だあれ?」 「俺とゼシカの友人だ」 子供の問いに穏かに応じるハクアの言葉に勇気を得て、キリルはゼシカの手を握ったまま、言葉を声にする。 「ゼシカ、ハクア、久しぶり」 言葉にして伝えなくちゃ、と黒い鼻をひこひこさせる。 キリルの様子に何かを感じ取って、ハクアは纏わりつく子供達を庭に戻らせた。 ゼシカと手を繋ぎ、キリルは大きく息をする。 「ぼくの世界、探してた、」 思いを言葉にすることが不得手なキリルの不器用な言葉に、ゼシカとハクアは耳を傾ける。 「オルグやアルド、みんなと一緒に」 「郵便屋さんの世界、見つかったの?」 「うん、見つけたんだ、ぼくの世界」 見つけたから、とキリルはゼシカの手を握る手にぎゅっと力を籠める。 「見つけたから、ぼくは帰る、じいじのいるぼくの世界に」 それを伝えるために、今日は二人を訪ねて来た。出身世界に帰属してしまえば、零世界での大切な友達だった二人にはもう二度と会えなくなる。 「だから、最後のお別れ、お別れを届けに来た」 二人に本当の別れを告げて、帰属の準備を始めなくてはならない。 「……そう」 ゼシカは知っている。郵便屋さんは、伝えたい大切な言葉を二度言う癖がある。郵便屋さんの言う『お別れ』は、だから本当の『お別れ』だ。此処でさよならと言って別れてしまえば、もう二度と会えないお別れ。でも、会えなくなるけど、居なくなっちゃうわけじゃないことも、ゼシカは知っている。 「郵便屋さんは、故郷に帰るのよね」 キリルの手を握り返して、ゼシカは懸命に微笑む。 「最後のお別れ、きちんとしましょう」 行っておいで、と送り出してくれるハクアに手を振って、キリルとゼシカは石畳の道を歩く。 「こっちよ」 空を渡る風の音を聞きながら、道を外れる。秋草の揺れる小川のほとりで、ふたりは手を繋ぐ。いつか歩いたように、でもいつかよりはずっと言葉少なに、お互いの体温でお互いの掌を温めあいながら、冷たい川のせせらぎを聞いて歩く。 「ぼく、ゼシカのこと、絶対に忘れない」 「ゼシも、絶対に忘れないわ」 肩を並べて歩きながら、お互いに誓う。 小川に沿ってしばらく歩いて、ゼシカは不意にキリルの手を離した。丸い眼を瞬かせるキリルから数歩距離を取り、ゼシカはほんの少しの間、空をじっと仰ぐ。悲しみを払うように、スカートの裾を翻して、くるり、振り返る。 「かくれんぼ、しましょう」 言うなり、川の小さな土手を駆け登る。 「ゼシのこと、見つけてね。郵便屋さん」 殊更に明るい声で笑って、ゼシカは小川沿いに広がる葡萄畑に飛び込む。収穫期を迎え、葉を黄金色に、みっしり実った果実の房を紫紺に染める葡萄の樹々の隙間に小さな身体を隠す。金色の葉っぱの中に埋まってしまえば、ゼシカの姿はキリルからはきっと見えない。 緩やかに連なる葡萄畑の間を縫うようにして丘の天辺まで続く小道をしゃがみこんで窺いながら、ゼシカは息を殺す。 「郵便屋さん」 ぽつり、呟いて、呟いた途端に涙もぽろりと零れて、ゼシカは両掌で顔を覆う。大丈夫、此処に隠れているうちは郵便屋さんに泣き顔を見られたりしないもの。 (さようなら、郵便屋さん) 甘くて冷たい葡萄の房と、お陽さまの光を集めて暖かな葉っぱとに頭や背中を撫でられながら、ゼシカは大好きな郵便屋さんに見つからないように泣く。 (さようなら、ゼシの初恋) スカートのポケットから取り出したハンカチで涙を丁寧に拭い、ゼシカは故郷の風を胸いっぱいに満たす。ほんの少し大人びた、青空色の瞳を上げる。 (思い出をありがとう) 「見つけた、見つけた」 風に揺れるのとは違う葉の動きに気付いたのか、キリルの声が背後から近づいてくる。 「ゼシカ」 郵便屋さんの柔らかな肉球の手で肩を叩かれ、ゼシカは蜂蜜色の髪を葡萄の風になびかせて立ち上がる。涙でほんの少し赤くなってしまった 青空色の眼で笑う。 「郵便屋さん」 「……ゼシカ」 キリルは栗色の瞳でゼシカをしばらく見詰める。言葉を探して探して、でも見つけられなくて途方に暮れる。笑ってくれるゼシカの手を取って、葡萄畑の真中、今度はふたりで一緒に隠れる。 「ぼくは、手紙屋だから」 肩から提げた鞄から一通の手紙を取り出して、ゼシカに手渡す。 手紙の宛名は、『ゼシカ・ホーエンハイム様』。 頬を薔薇色に染めるゼシカに、キリルは僅かの間、見惚れる。手紙を大切にスカートのポケットに仕舞うゼシカの隣、キリルは立ち上がる。「もう、行かなきゃ」 ゼシカに手を差し伸べる。 自分との別れのせいで泣かせてしまったゼシカの手を強く握り、ハクアの待つゼシカの家への道を辿る。 (別れるのは辛いことだって、わかってるけれど) キリルは隣を歩くゼシカの、真直ぐに前を向いた横顔を見る。 (別れることは大切なことだって、じいじが言ってたから) ――ぼく、きちんとお別れ、出来たかな、じいじ? 人気の無い、秋の茜色に染まる夕暮れの森が、キリルを迎えるロストレイルの停車場となる。 「ハクア、ゼシカと仲良くね」 「ああ」 見送りに出て来てくれたハクアと、お別れの握手をする。 「元気でな」 柔らかく微笑むハクアに励まされた気がして、キリルは栗色の瞳を笑みに細くする。ハクアの牧師服の裾を掴んだまま俯くゼシカの手をもう一度だけ取る。心を籠めて、さよならの握手をする。 「郵便屋さん」 握手の手を握り返して引っ張って、ちょっとびっくり顔でよろけたキリルの頬にゼシカはキスをする。キスされた頬を押さえて瞬きするキリルに手に、お土産に、と葡萄畑で摘んだばかりの葡萄を渡す。 黄昏の空に線路を創り、ロストレイルが暗い森に停車する。どんな時も表情の分からぬ車掌に、無言のまま乗車を促され、キリルは精一杯の笑顔を二人に向ける。 「二人とも、さようなら、さようなら」 列車に乗り込み、車内を駆ける。窓を勢い良く開ける。身を乗り出すようにして、壱番世界の住人である二人に手を振る。手を振ったせいで眼から零れかけた涙をぐっと堪えて、動き出す列車の動きにぐっと足を踏ん張る。 あっと言う間に遠くなる二人の姿に、手を振り続けてくれる二人の姿に、キリルは手を振り続ける。 黄昏の茜空に線路を構築して、ロストレイルが駆ける。線路が解け、虹色の雲になって空に散る。いつかゼシカと並んで見上げた虹をそこに見た気がして、キリルは栗色の瞳に涙を封じて瞼を閉じる。 ゼシカの故郷が遠くなる。壱番世界の遠い大地に、二人の姿は隠れてしまう。もう、見えない。 座席にすとんと腰を下ろす。たった今お別れしてきた二人を思う。ゼシカに手渡した自分の手紙を思う。 (……ぼくから、ゼシカへの、手紙) ゼシカの故郷にある風車とよく似た、キリルの故郷の風車の前で撮った写真も同封した。ゼシカに対する精一杯の気持ちを籠めて、微笑んで撮った自分の写真。 手紙に添えた写真と同じように、キリルは微笑んでみる。 (――ゼシカ) 『ゼシカ・ホーエンハイムさま ぼくは喋るのが苦手だから、手紙にすることにしたよ。 初めて会ったとき、ぼくに一通の手紙を出してくれたとき、うれしかった。 宛先がなかったこと、びっくりもしたけど、それから楽しいこと、辛いこといっぱいあったね。 ぼくと出会ってくれて、ありがとう。 そして、さようなら、あなたの行く先が幸あることを、祈っています。 手紙屋ギルド所属 キリル・ラルヴァローグ改め、キリル・ディクローズ』 ◇ ◇ 全てを焼き尽くす白銀の焔の色して、桜が咲いている。陽炎のように花が揺れる。火花のように花が散る。 着物の肩に触れる鋼の色した柔らかな花びらを掌で払いのけ、湊晨侘助は緩く結った長い黒髪の頭を振る。溶けない雪の如く髪に降り積もった花びらが踊りながら地面に落ちる。 「遅い」 白銀の桜に対面する縁側から掛けられた低い声に視線を向ければ、陽の金色した眸を不機嫌に細めて仁王立つ灰燕の姿。 「道に迷うてしもて」 停滞していた世界に新たな力が加えられ、ターミナルや世界図書館は色々と変化した。けれども、鍛冶師のもとに暮らす侘助の日常は変わらない。 抱えた風呂敷を格好の言い訳に掲げる。 「せやけど、お使いの和菓子はようさん買うて来ましたえ」 「どうせ道の途で油を売っていたのでしょう」 縁側の奥から足音もなく現れた白待歌が、滑らかな長い白雪色の髪を揺らして言い捨てる。陽を透かした氷の青の色の瞳を冷たく瞬かせ、主である灰燕の斜め後ろに端然と立つ。 お使いの途中で出会った友人とお茶を嗜んでいたことを言い当てられ、侘助は呻く。 「まァ、ええ」 言葉を詰まらせる侘助に頓着せず、灰燕は縁側の下の踏み石に置かれた履物に足を通す。石に立てかけていたトラベルギアの黒地の番傘を手に取る。ちょっとそこまで散歩するかのような身軽さで、けれどその腰に鍛冶師の無二の愛刀である朱鞘の打刀、熾皇を佩いていることに侘助は気付く。 縁側に立つ白待歌が、和装の人の姿をふわりと白銀の焔纏う鳥妖へと変えて羽ばたく。舞い散る花びらにも似た白銀の火の粉を宙に煌かせ、灰燕の熾皇の刃へとその身を宿らせる。 それが鍛冶師の旅装であることを、侘助は知っている。 「行くか」 番傘を開き、黒の傘布に描かれた銀の鳳凰に翼を広げさせながら、鍛冶師は黄金の眸をゆっくりと瞬かせる。白銀の花吹雪に黒髪を遊ばせて立ち尽くす、刀の付喪神が化けた青年の姿を映す。 「わぇも行ってええんですか」 侘助は眼を丸くする。 鍛冶師は時折ふらりと異世界に旅に出、気に入った刀剣を持ち帰ってくる。それはいつものこと。その間、侘助は鍛冶師のチェンバーである焔桜屋敷でひとり留守番をする。それもいつものこと。誘われることなどほとんど無かったと言っていい。 己が従者のみを連れ、ふらりと異世界を渡り歩く鍛冶師は、けれど出身世界を、帰属する世界を、一箇所に留まるための世界を探しているわけではないらしい。様々な世界の文化に触れて気儘に生きる方が己には似合うている、そう考えているのだろうと、鍛冶師のもとで暮らす刀の付喪神は読んでいる。 番傘を差し、悠然と歩み始めていた鍛冶師が意外そうに整った眉を持ち上げる。侘助が断るとは思ってもいないような一瞥を応えとし、灰燕は侘助の脇をすり抜け様、侘助の抱える和菓子を包んだ風呂敷を取り上げる。 「行きます、わぇも行きますて」 振り返りもせずに旅立とうとする灰燕を追い、侘助は着物の裾を翻す。髪や肩に付いた白銀の花びらが、久々の遠出に沸き立つ心中のように宙へ跳ねる。 海とも見紛う水平線は、けれど巨大な湖のそれなのだと、『墓地』の管理人は言う。 「湖の管理人も心得ていてね、」 話しながら、訪れた鍛冶師と刀の付喪神に視線ひとつ向けず、地に深く突き立った刀の一振りを丁寧に抜く。曇りひとつない刃が、カラリと晴れた青空から注ぐ春の柔らかな光を白銀に弾く。 「此方にはこの子達に丁度良いくらいの湿気を寄越してくれる」 袴の膝で砂の大地に端座し、横に手入れの道具を広げた敷き布の上に刀を横にする。 「人と話すのは何年振りだろう」 丁寧な動作で刀の目釘を抜き、柄を外す。 「最も、……人ではないようだけれど」 拵を外し、女の柔肌に付いた雫を拭うかの如く、刀に付着した砂や汚れを拭い布で取り除く。鬼とも呼ばれる妖憑きの男と、妖刀に憑いた付喪神とを、きつく纏めた白髪の頭を巡らせ肩越しに見遣り、『墓地』の管理人である女の姿した何者かは化粧気のない唇を引き結ぶ。 「何の御用?」 刀の古い油を拭う作業に戻りながら問われ、侘助は目前に広がる景色を改めて見遣る。 湖を背にして見れば、視界一面を埋めるは白い砂地に突き刺さる無数の武器。刀に槍に剣に薙刀、細剣に短剣に大剣、様々のかたちした、美しい刃を持つ武器が墓標のように並ぶ。 全て、役目を終えた武器なのだと管理人は言う。 役目を終えた武器達がこの地に集まり、朽ちる時まで静かに眠り続けているのだと。 「此処の話を聞いてな。興味があっただけじゃ」 刀の手入れを行う管理人の小柄な背中に、灰燕は言葉を掛ける。管理人はふうん、と小さく首を傾げ、刀に打粉を掛ける。 管理人がこまめな手入れをしているのか、大地に突き立つ武器のどれもが、野晒であるのにも関わらず錆一つ浮かず良好な状態を保っている。刀剣に対する確かな敬意と愛情を見て取り、灰燕は黄金の眸を上機嫌に細める。 「好え仕事をしよる」 衒いのない賛辞を受け、管理人は身に余るとでも言いたげに小さく肩を竦めた。 湖から僅かに湿気を含んだ風が流れ寄せる。ただ静かに終わりを待つ武器達が、澄んだ刃に風と陽を纏うて煌く。 灰燕は腰に佩いた愛刀の柄に、刃に宿る焔の鳥妖に、職人の手を触れさせる。焔により鉄に返さずとも、此処の刀は晴れやかな終わりを迎えることが出来る。 「まだまだ知らん事が多いの」 焔を操り、鉄から新たな刀を生み出す鍛冶師は、武器の『墓地』たる世界を双眸に映す。 「墓参してもええか」 「皆、喜ぶ」 刀に油を塗り直しながら、管理人は初めて笑んだ。 黙々と刀の手入れに勤しむ管理人の傍を離れ、灰燕は白砂の大地を静かに歩む。様々の刀に、それこそいわくつきの妖刀でさえその手に触れ続け、刀に対して狂気とも呼べるほどの執着を持つ刀匠であるなればこそ、分かる。 この地の武器達は皆、役目を終えている。 鋭く美しい刃の内に各々滾らせただろう望みを、――人斬りの望みを乱世の望みを、陽よりも月よりも美しく在ろうとする望みを、主の為に在ろうとする望みを、凪の海の如く平穏に在ろうとする望みを、――焔が燃えつきるに似て果たして、武器達は今は静かにその身が朽ちるまで眠り続けている。 その身に抱いた望みを果たした彼らは、悉く静かだ。最早何の役目も負わず、何も望まず、強靭な己が身を己が墓標としてそこに在る。 佇む墓標の群の中を祈るように通り抜ける。僅かに草の萌えるなだらかな坂を登り、『墓地』を見下ろせる高台に至って、灰燕は足を止める。 「付き合え、雲龍」 後に続く侘助を振り向きもせずに呼ぶ。大切に提げていた風呂敷包みと一升瓶を砂地の丘に置き、その場に大胡坐をかく鍛冶師の隣、刀の付喪神はそっと正座する。 鍛冶師は侘助を真の銘で呼ぶ。首斬りの妖刀と成り果て、ともすれば血に酔うことすら覚えてしまった己にその銘は相応しくないと名乗らずに来ていた銘。魔を断ち災いを斬る刀であれと己を鍛えた刀工が願いを託して刻み込んでくれた、雲龍の銘。 隠し続けていた真の銘を鍛治師に暴かれ、その後から、侘助は鍛冶師からのみ雲龍の名で呼ばれ続けている。最初は雲龍と呼ばれる度に困惑し、時には嫌悪を示してみたりもしていたが、――いつからか、鍛治師にならば呼ばれても良いかと思うようになっている。 灰燕は持ち込んだ杯に酒を注ぎ、それを刀達への弔い酒として捧げる。 猪口を鍛冶師から渡され、断る理由も持たぬことを理由に、侘助は灰燕の酒を受ける。灰燕の杯に酒を注ぐ。鍛冶師と共、眼下の刀達に向けて杯を掲げる。 白の大地に眠る刀達と、その背後に碧く広がる湖と空を見晴るかし、灰燕は杯を傾ける。侘助を使いに出し零世界で買い込ませた好物の和菓子を酒のつまみにする。 「……それ、合うんですか」 辛い酒と甘い和菓子の取り合わせが分からず、ただ酒を含むばかりの侘助に、灰燕は逆に首を傾げて見せる。黄金の眸を旨そうに細めてみせる。 言葉少なに杯を傾ける鍛冶師の端正な横顔を見、侘助は猪口を満たす酒に己が薄墨色の眼を映す。鍛冶師の視線の先に広がる『墓地』を見遣る。静かに終わりを待つ武器達を眺める。 彼らのように、静かに美術館で眠っていたいと思っていたはずだった。それなのに、どうしてだろう。 (帰ろうと思えば帰ることが出来るんやけどなあ) 出かける前に共にお茶を楽しんだ友人は己が世界に帰属が叶うとはしゃいでいた。どれほど時間が掛かろうとも、きっと出身世界を見出すのだと決意を固めていた。 けれど侘助自身は、元いた世界を見つける事が出来ると幾度聞かされても、帰ろうという気が不思議とわいてこない。 (なんでやろなあ) 自分自身の心に首を傾げ、侘助は酒を喉に流し込む。 元の世界に愛着はある。会いたい人も親しい人達もいる。それでも、ターミナルで出来た縁や生活の方が気に入っているのかもしれない。 偶に依頼を受けて色々な世界へ行ってみたりするのは、それがたとえ厄介なものであったとしても、楽しかった。そこで武器として誰かに使ってもらえるのも悪くなかった。 (ターミナルの友人とお茶を嗜んだり、) (鍛冶師はんに怒られたり甘味を買い出しに行かされたり、) (白待歌姉さんに小言を言われたり惚気られたり、) 酒を舐めながら、ターミナルでの日々を数え上げてみて、気付いた。 (わぇは、こっちのが楽しいんや。この人達と過ごす日々が手放せのうなってしもとるんや) 得心がいって、小さく息を吐く。 そうとなれば、美術館にひきこもり計画はやめにしよう。ターミナルが終わるか鍛冶師がいなくなるかするまでは、このままロストナンバーでいよう。 (ああ、どうせなら、) ――朽ちる時は鍛冶師はんに新しい刀をうつ材料にしてもらえたらええかもしれへん。 そっと思えば、唇に笑みが滲んだ。己が終わりを己で定められることは、刀である己にとってなんと幸せなことだろう。 「鍛冶師はん」 「何じゃ」 「あー……、」 呼べば応えを返してくれる鍛冶師の黄金の双眸に、侘助は言おうとしていた言葉を喉に詰まらせる。鍛冶師の眸は、刀である己を全て見透かしているのではないかと思う。 「まあ改めていうのもなんやけど、」 景気づけに酒をあおる侘助を、鍛冶師は面白そうに眺める。 喉を通る香りの良い酒精に背中を押され、侘助は正座の背筋を伸ばす。薄墨の眼で鍛冶師と眼を合わせる。 「これからもよろしくお願いしますわ」 零世界で生活を共にし続けてきた刀の妖からの言葉に、灰燕は形の良い唇を僅かに歪める。浅く、笑う。 「今更何じゃ」 役目を終え、晴れやかな終わりを迎えようと眠る刀達へと視線を移す。ああして眠る刀達がその身に孕んでいた願いを思う。戦を望んだもの、美を望んだもの、平穏を望んだもの。 「お前はそうやって自由に生きとるんが一番似合う、そう思うただけよ」 雲龍の銘を持ちながら侘助と名乗る刀の望みを叶える為には、己が傍に在るが一番良い。稀代の刀匠はそう思う。 口では美術館を望む刀が心の底で何を求めていたか、判らぬ己ではない。灰燕は刀と焔を見詰め続けてきた眸を細める。 「ほんま、鍛冶師はんにはかなわんなあ」 呟いて、侘助は『墓地』の武器達に酒杯を掲げる。 鍛冶師と刀の付喪神の弔い酒に応じるかの如く、大地に突き立つ武器達がその刃に陽の光を集めて白銀に輝く。刀身に風を纏わせ、笛の音にも似た声で唄う。 「あんたも如何や」 振り返りもせず、灰燕は高台に至り背後に立つ『墓地』の管理人に声を掛ける。 「仕事に障る」 「ほうか」 誘いを断られたことにもさして頓着せず、己が杯を傾ける鍛冶師の後ろ、管理人は膝をつく。 「頼みがある」 肩越しに振り返る灰燕の眼を、緋色の小袖に包まれた懐刀が絡め取る。艶やかな漆塗の黒鞘と柄に、鮮やかに咲く紅百合の描かれた、 「……何やまた曰くありそうな刀やね」 管理人に抱かれた懐刀を覗き込み、侘助が素直な感想を述べる。隠す気もないのか、管理人は気を悪くした風でもなしに頷いた。 灰燕は無造作に懐刀に手を伸ばす。業物と見れば検分したくて堪らなくなる、 「悪い癖や」 鍛冶師の性を侘助が咎めるのも構わない。 「連れて行ってくれるかい」 刃が鞘から開放されるを恐れるかのように、管理人は小袖に包まれた短刀を胸に掻き抱く。刀を持ち帰ると約束するまでは渡さぬとばかり、指先が白くなるまで刀の鞘と柄を握り締める。 「この子はまだ、……生きているから」 感情持つ生き物を扱うかのように懐刀を抱く管理人に、鍛冶師は嘘を吐く必要もない強い眸を向ける。 「相応しい持ち手に出逢える時まで、大切に預かるけぇの」 鍛冶師の心強い言葉に、管理人は安堵して笑う。くれぐれも頼む、と丁寧に頭を下げ、小袖に包んだ懐刀を灰燕の手に渡す。 受け取った懐刀を、まるで愛しい者の手を導くかの如く己が懐に仕舞いこみ、灰燕は刀達の美しい屍に酒を捧げる。 その刀剣のように研ぎ澄まされた白皙の横顔に、侘助は酒のせいではない甘い笑みを見て取る。零世界の屋敷に帰って後に繰り広げられるだろう、懐刀に纏わる騒動を予見する。 「ほんまもう、かなわんなあ」 侘助はいつものように力の抜けた笑みを零す。 ◇ ◇ 春の風に背を押され、ハクア・クロスフォードは小さな礼拝堂の扉を開ける。己よりも先、礼拝堂の入り口に色とりどりに咲き乱れる百花の花びらを集めた春風が入り込む。風に流され、伸ばしたままの白の髪が視界の中に惑う。 髪を押さえて眼を上げれば、窓の全てを飾るステンドグラスの極彩色に染め上げられた光が視界を覆う。眩いばかりの色鮮やかな光のその先、春の色に染まる古びた板床に跪いて、一人の男。 ハクアと共に礼拝堂に雪崩れ込んだ春風に陽の金色した髪を乱されながらも、礼拝堂の最奥に安置された神像に最後まで祈りを捧げ、軽い身のこなしで立ち上がる。適当に着崩した神父服の裾が揺れる。 声を掛けようとして掛けられず、扉の前に立ち尽くすハクアをのんびりと振り返り、 「よう、ハクア」 長年の無沙汰など無かったかのように、青空色の瞳を笑みに満たす。 「……ギル」 「どうした、何かあったか」 近所の子供の悩みを聞くかのように、金髪に付いた花びらを払いながら笑う、――ハクアが生まれ出でた世界の住人である、ギル。壱番世界に帰属を決めたハクアが別れを告げようとしている世界で、嘗てハクアとハクアの妹の命を救うてくれた、妹の里親となってくれた、恩人。 ハクアがロストナンバーとなって、何年が過ぎたのだろう。生活を共にしていた頃は同じ年頃だったギル神父は、今はもうハクアよりも多く年を重ねた姿となっている。けれど、 「メシもちゃんと食ってるみたいだな、感心感心」 悪戯気に笑うその表情も、此方の憂慮を吹き飛ばすような軽口も、ハクアが此処に居た頃と、此処を離れた頃と、変わっていない。 戸口に立ち、言葉も見出せず身動ぎも出来ぬハクアに大股に近付き、遠慮の無い仕種でハクアの両肩を幾度も叩く。 「っけど、相変わらず肩に力入ってんなァ」 くすりともう一度笑う。家族にするように、無造作にハクアを両腕で抱き締める。 「生きてるな、良かった」 心底から己が生存を喜ばれ、漸く、ハクアの喉から言葉が零れる。 「すまない」 「詫びる必要なんかねぇよ」 「別れの挨拶に、来たんだ」 ハクアを抱き締めるギルの肩が僅かに強張る。深い息と共、神父服に包まれた身が萎む。腕が離れる。 「……そう、か」 青空色の瞳を瞼に閉ざすギルに、ハクアは深く頭を下げる。 「オウカを、……妹を、頼む」 ハクアの懇願に、ギルは眼を開ける。 「あの子は、見た目には古人とは分からない。俺と居るよりも此処で暮らす方がきっと良い」 何故とも問わず、ハクアの一族を異端扱いし迫害する教会に属する神父は、ハクアの頭に手を伸ばす。白く長い髪の頭をくしゃくしゃに掻き回して撫でる。 「律儀だな、ハクア」 教会に追われる古人である己がこの地に留まれば、ギル神父にも妹にも教会の手が及ぶ。己が此処に留まりたいという望みのせいで、二人を危険に曝したくはない。 両親も弟も、一族の同胞たちも己から奪った教会から、せめて妹だけは守ってみせる。たとえ二度と会えなくなろうとも。 開け放った扉から、春の花の香りを抱いた風が流れ込む。 「ああもう、顔上げろ」 ギルに肩を掴まれ、折り曲げた腰を強引に伸ばされる。そのまま、ぐるりと背後を振り向かされる。 目前に、春の花と摘み立ての野菜を入れた籠を抱えて、栗色の髪の少女が立っていた。ひと目で、妹だと理解する。別れた時には子猫のような声でハクアを呼ぶばかりだった幼子は、鹿のように健やかな手足と生き生きと煌く瞳を持つ少女に成長していた。そのことに深く深く、安堵する。妹に寄り添い育ててくれた神父に感謝する。 亡き母とよく似た新緑の瞳に、怪訝そうな色が浮かぶ。 まだ言葉も覚束ぬほどに幼かった頃、己を神父のもとに置いて姿を消した兄の記憶など、 (忘れてしまえ、オウカ) 「……今日は」 妹が兄の記憶を呼び覚ますよりも先、ハクアは今日初めて会ったかのように微笑む。 「今日は。ギルのおともだち?」 「そう、友達だ」 人懐こく笑う少女の頭を、そっと撫でる。以前よりもずっと高い位置にある妹の栗色の髪に、過ぎた時間をどうしようもなく思う。 「わ、わっ」 「いいのか」 「いいんだ」 くすぐったそうに笑う妹に、悲しい眼をするギルに、 「どうか、幸せで」 別離の決意を籠めて、精一杯に微笑む。 ――俺はいつだってここに居るから ギルがいつか言っていた言葉が、今も心の奥に蘇る。最後の別れの時も、そんなことを言っていた。そう言って笑って手を振っていた。 「……ハクアさん?」 涼やかな声に、ハクアは伏せていた睫毛を上げる。椅子の肘置きに突いていた頬杖を下ろし、顎を持ち上げる。 キッチンの奥、パイを焼き上げる最中のオーブンを背に、見習いシスター姿のゼシカが慎ましやかに立ち、美しい空色の眸を淡く笑ませる。 「どうかしましたか」 「いや、何でもない」 ゼシカの故郷に帰属して十数年が経つ。あどけない少女は、今は淑やかに美しい女性に成長している。 彼女の両親が遺した教会と孤児院を、彼女の両親の後を継いで守り続けてきたシスターから、彼女が引き継いだのが数年前。忙しくも充実した日々を送る彼女を支える為、此処に帰属してより纏うた、彼女の父の神父服を身に着け続けた。彼女の故郷の言葉を学んだ。彼女と共、日中は孤児院の子達の為に働き、眠りに就くまでの時間を信仰への理解を深める為に費やした。満ち足りた、穏かな日々だった。 「焼けたか」 「焼けましたかしら」 立ち上がり、ゼシカと顔を並べてオーブンを覗き込む。 神父であった父とよく似た、ゼシカの白い横顔を視界の端に映す。故郷の地に育まれ、少女は大人になった。この子はもう、一人で立って生きて行ける。あの時彼女と交わした約束は、もう果たされようとしている。 オーブンの窓に映る、壱番世界に帰属した頃と変わらぬ容姿を保ったままの己を見遣る。この世界に帰属しても、己の持つ古人の血は変わらない。この世界の人々とは、ゼシカとは、年の取り方が違う。 (いずれ) 外見の変わらぬことを周囲の人々に訝しがられぬうちに、 (この場所を出ていかなければ) 居心地の良いこの暮らしとも別れの時が近いのかもしれない。 「いい色に焼けました」 ゼシカが華やいだ声で笑う。白い両手にミトンをはめ、二人で作ったパイをオーブンから取り出す。 「そうだな、上手く焼けた」 「子ども達もきっと喜んでくれますわ」 蜂蜜色の髪を揺らし、幼い頃と変わらぬ笑顔を見せるゼシカに微笑み返す。 「子ども達に出す前に」 一ピース分を切り分け、それを半分にする。片方をゼシカに渡し、味見の名目で分け合う。美味しい、と笑うゼシカにつられ、笑みを深くする。二人で笑い合えば、別れの気配に冷えた心にふわり、幸福の温もりが宿る。 おやつの時間のその前に、二人は孤児院の庭で花を摘む。風車塔の前の道を過ぎ、石畳の広場と野薔薇のアーチを潜って、ゼシカの両親が眠る墓地へと向かう。 母の墓に花を、その隣に並ぶ父の墓にも花を供える。ハクアと並んで跪き、祈る。 父の遺体は結局見つかることはなかった。だから墓石の下に在るのは、結婚指輪だけだ。 両親にせめて並んで眠ってもらいたくて、けれど空の墓を建てることに意味があるのかと悩む己が背中を押してくれたのは、ハクアだった。たとえ空の墓であろうと作る意味はある、と頷いてくれた。両親の事を祈る場所が出来るだろうと、心が休まるだろうと、そう言ってくれた。 そう言った後、どこか懐かしげな眸で、受け売りだ、と短く笑った。 ゼシカは隣で瞳を伏せて祈るハクアを見遣る。出会った頃と変わらぬ、静かな横顔。一人で立って生きて行けるまでは共に居ようと約束してくれた頃と、僅かにも老いぬ、玲瓏たる横顔。 此処に至るまで、色々な事があった。 昼下がりの温かな陽を浴びる両親の墓前で、ゼシカはもう一度瞳を閉ざす。父親を追い求め、ロストナンバーとなって過ごした冒険の日々を、その中で出会った大切な人々を、初恋の人を、嬉しかった事を、悲しかった事を、思う。 (今思い返すとあの頃の事が夢のよう) そうして、柔らかく唇を笑ませる。 壱番世界に帰属してからも、様々の事があった。それでも何とかやってこれたのは、父親代わりとなって支えてくれたハクアのお陰だ。 けれど、それも―― (ご報告がありますの) 胸に重くわだかまろうとする寂寥感を振り払い、故郷の地に眠る両親に、ゼシカは告げる。 (このたび布教と奉仕活動を兼ねて、日本のとある小島に派遣される事になりました) そこの小さな教会で、一人前のシスターになる修行を積む。今度は、たった一人で新天地に向かう。いつも隣に居てくれたハクアは、居なくなる。 遠い異国の地での新たな出会いに、不安がないわけではない。けれど、同じ程に希望もある。暫く故郷を離れる寂しさを凌駕する、信仰に対する熱い思いがある。 (きっと私を必要としてくれる人がいるはず) 旅立ちを思い、高鳴る胸を押さえる。 (豊富な経験を積み見聞を広げ、その方に助けの手をさしのべたい) いつか、ハクアがしてくれたように。 いつか、父がそうしようとしたように。 ゼシカは瞼を開く。真直ぐにたじろがぬ、澄んだ青空色の瞳で両親を見詰める。 ハクアも、孤児院の子ども達も、村の皆も応援してくれた。 「がんばります、私」 父と母の温かな掌が、肩に触れた気がした。 トランク一つを手に、蜂蜜色の髪を朝陽に煌かせ、ゼシカは孤児院の庭で振り返る。 「それでは、――きゃあっ?!」 孤児院の入り口に集まる皆に出立の挨拶をしようとした途端、 「シスター・ゼシカ!」 「ゼシカおねえちゃんー!」 寂しさを堪えきれず孤児院から飛び出した子ども達に一斉に抱きつかれた。シスター服の足に胸に腕に、泣き喚く子ども達がしがみつく。 「やっぱり行っちゃやだよ」 ぐずぐずと泣く子ども達を一人ひとり抱き締める。頬擦りをし、小さな額に額を押し付ける。 「泣かないで、ね?」 「行ってらっしゃいを、言おう」 ハクアが声を上げて泣く子どもを両方の腕に一人ずつ抱え上げる。胸に縋って泣く子どもの髪に頬を寄せてあやす。 「離れても、絆は、縁は、生涯変わらない」 ゆっくりと諭すハクアの言葉に、ゼシカは微笑む。子ども達に対して、ハクアはいつも正面から対峙する。小さい子どもと侮らず、自身と同等の人間として言葉を掛ける。 「行って来ます」 子どもを両腕に抱いたハクアを、ゼシカは全身で抱擁する。 「今まで見守ってくれてありがとうございます」 親愛のキスをそっと贈り、深い森の色した瞳を間近で見詰め、心からの感謝を述べる。柔らかな木洩れ陽が差し込むように、ハクアは微笑んだ。子ども達をそっと地面に下ろす。妹のように慈しみ育てて来たゼシカを、改めて抱き締め返す。 「俺の家族だから」 華奢で柔らかで、けれど出会った頃よりずっと芯のしっかりとしたゼシカの身体を抱き締めながら、ハクアは世界を違えた故郷の二人を思う。二度と会えぬあの二人が、それでも家族であり友人である事と同様に、ゼシカがどれほど己から離れようと、この先の未来でいつか会えなくなろうと、己の家族であることは変わらない。 「貴方がいてくれたから頑張れた、……幸せになれた」 ずっと傍らで支えてくれたハクアの胸に、ゼシカは頬を寄せる。神父服の背中に両腕を回して、幼い頃に見た広く高い背中が、いつの間にか近くなっていることに今更ながら気付いた。 「貴方は私の父、……いいえ」 言いかけて、温かな胸の内で首を横に振る。幼かった私のわがままを聞いて、父の形見でもある神父服を黙ってずっと着ていてくれた。ずっと傍で見守っていてくれた。ずっと傍で支えていてくれた。 「守護天使です」 ハクアの言葉を待たず、抱きついた腕を離す。一歩後ろに下がり、上気した頬を片手で押さえて微笑む。 「むこうで落ち着いたら必ず手紙を書きますわ」 小さい頃に魔法使いさんと呼んでいたハクアに対して、魔法を掛けるかのように十字を切る。 「我が恩人にして育ての親、ハクア・クロスフォードに祝福あれ」 どこまでも澄んだ空から降り注ぐ春の陽射しの中、新たな旅立ちを前に、嘗ての幼い少女は大切な家族の為に真摯に祈る。 ふわり、春風にシスター服のスカートを翻す。トランクを片手に、一人で立って歩み始める。 ◇ ◇ ターミナルに空のロストレイルが滑り込む。停止した車内から制服の色以外に姿の変わらぬ車掌達が出て来る。車掌の帽子を定位置にしたアカシャが機械仕掛けの翼を羽ばたかせ、ロストレイルの発車時刻を告げる。 「ね、」 脇坂一人は隣に立つドアマンの肘にそっと指先を触れさせる。 「はい」 控えめに触れてくる一人の手を、ドアマンは白手袋の手で押さえる。 「樹海農園の時も、戦闘訓練の時も、本当にありがとう」 「小気味良いツッコミでした」 「笑ったりツッコんだり、楽しかった」 くすくすと笑う一人の襟元から、ひょこりと三角耳の頭が覗く。フォックスフォームのポッケが顔を出し、もそもそと一人の肩によじ登る。前肢を一生懸命に伸ばし、ドアマンの腕にしがみつく。つぶらな目を瞬かせ、鼻先をドアマンの頬に押し付ける。 「ポッケ様」 別れを惜しむポッケに、ドアマンは頬擦りをする。 「訓練の時はナイスファイトで御座いまし……」 言葉の途中、可愛いポッケのふっかふかぷりにドアマンは堪らなくなる。すりすりすりすり、ポッケの毛皮が剥げそうなほど激しく頬擦りして、最後には過剰スキンシップに我慢できなくなったポッケに肉球パンチを食らわされて我に返る。 何事もなかったかのように襟を正し、紳士然とポッケの頭を撫でる。 「今は、全て愛しい思い出です」 「……ええ」 白線の内側に二人は立ち尽くし、静かに言葉を重ねる。思い出話を重ねる。 「一人様」 ドアマンは出立の時間を待つロストレイルを見つめたまま、零世界で得た愛しい人の名を呼ぶ。肘に掴まる一人の指に力が籠もる。 「なあに」 一人はドアマンをその故郷とする世界に運ぶロストレイルを見据えたまま、努めて平静な声を返す。指に触れるドアマンの手の力が強くなる。思わず彫りの深い彫像のような横顔を仰いで、 「わたくしと八百万廟に参りませんか」 決意を宿らせ見詰めてくる深海の眸に射抜かれた。切なく痛む心を宥めて繰り返し瞬けば、シルクハットを被ったドアマンの頭上に浮かび上がる、彼の出身世界を示す真理数が眼に入った。 ワールドエンドステーションで己が世界を見出して後、ドアマンは帰属の段取りを粛々と整えた。最後のチケットを手に、彼は己が世界に帰る。そうして、もう二度と会えなくなる。 一人は震える息を吐き出す。頬にどうにか浮かばせ続けていた笑みがとうとう強張る。ドアマンから眸を逸らし、溢れそうになる涙を幾度も瞬いて堪える。もう一度ドアマンを見上げる。途端、視界が堪えきれない涙で滲んだ。唇が震えた。 (愛している、離れたくない) そう喚いて縋りつきたくなって、寸でのところで踏み止まる。それをしてしまえば、どれほど楽だろうと思う。ドアマンはきっと断らない。言った通りに彼の故郷へと連れ去ってくれる。けれどそれは、 (わたしの望みじゃない) そんなことをしてしまえば、わたしはわたしを認められなくなる。 わたしは、彼が誇りに思う人間であり続けたい。 ドアマンの手を両手で持ち上げる。その掌に頬と唇を寄せ、涙を隠す。微笑む。 「分かっているくせに。ひどい人ね」 甘えるように、ドアマンの誘いを断る。 (だってね、ドアマンさん) 美しいばかりではないけれど、わたしは壱番世界と人々を誇りに思うの。今の自分を作ってくれた、生まれ育ったあの世界と人々を。 「この命が終わるまで、わたしをわたしにしてくれた周囲の人達と過ごしたいの。故郷や人々に恩返しをしたいの」 だから、と一人はドアマンを見詰める。 「ごめんなさい」 「いいえ、いいえ……!」 涙の伝う一人の頬を、ドアマンは両手で包み込む。首を繰り返し横に振る。 「試すが如き無作法、どうかお許しを」 赦しを請いながら、愛しい人の弱さが、強さが、誇りが、心が震えるほどに眩しかった。この方はどこまでも素晴らしい、そう心から敬服した。 「お別れとなりますが、どうか泣かないで下さい」 一人の眸を覗き込む。愛する人の魂と心を内包する身体を思わず抱き締める。ドアマンをドアマンと成さしめる器である義骸に押し込めた己の正体を、真名を、告げる。 「我が名はサフォルス・エルカル・ソ・イゾル・アロウレル・ロフ・ディロエギッシュ・ヴァルフシュ・エ・ゾルド」 意味するところを『万象届かざる七ツ眼の門番、大邪神の侍従、深淵の太守サフォルス』。 高度な霊的守りの無い者が目にすれば即刻死ぬか発狂する、邪神群の一柱であるドアマンの正体を改めて伝えられて、けれど一人は両腕をドアマンの背に回す。 「キャア」 愛しい人に強く抱き締め返され、ドアマンは可憐な乙女のような悲鳴を上げた。一人はくすりと笑む。もう一度名前を聞かせて、と一人に囁かれ、ドアマンは絶対の呪文を唱えるように己が名前を名乗る。 「何度聞いても長くて立派な名前ね」 微塵も動じぬ美しい人に、 「一人様が天寿を全うするその時、必ずお迎えに参ります」 ドアマンは全霊を掛けて求婚する。 「我が存在と大邪神聖下に誓ってお約束致します」 ドアマンの広く厚い胸の中、一人は頷く。長い別れとなる。けれど、永遠の別れにはならない。そのことに深く安堵する。嬉しくなって、少し不安になる。 「迎えに来る頃はお爺さんかも知れないわよ?」 「そんな、外見など瑣末な事! わたくしは一人様の魂と心を愛して御座います。メロメロなので御座います」 どこまでも大真面目に口説かれ、一人は泣き笑いの表情になる。 「待っているわ。きっとよ」 「お迎えは、月の美しい夜が宜しいですね」 涙を拭い、気丈に微笑む一人を、ドアマンは美しいと思う。愛しいと、心から思う。 発車を告げるベルが鳴り響く。 「口付けを交わしても?」 紳士の仕種でドアマンがそっと問いかければ、一人はターミナルを行き交う人目を僅かに気にして周囲に目を遣る。それでもはにかんで微笑み、ドアマンの深海色の眸を仰いで小さく頷く。 約束のキスを、交わす。 ――そうして、二人は世界を違える。 闇の住人の領域である八百万廟の入り口、『賢者の脳髄市』。 緻密な浮き彫りを施した重厚な樫の扉が、花蔦が隙間無く描きこまれた分厚い石壁ごと吹っ飛ぶ。ホテルの廊下をそぞろ歩いていた、可視不可視亜人邪神お客従業員関係なく、全員が破砕された石壁と共に宙に舞う。窓の外へと放り出される。 ぶち破られた扉の奥から、大地の震える咆哮も高らかに全長二十メートルはあろうかという魔獣が走り出る。扉と壁を打ち破った、凶悪な棘つきの尻尾が振り回される度、廊下を飾る呪いの花瓶が割れて砕ける。尻尾の棘に刺された蝙蝠の翼持つ邪神が黒い血を吐いて断末魔を上げる。勇ましくも魔獣の前に飛び出した狐耳の亜人が、牙だらけの口でぱくりと一口に呑み込まれる。 「うおおお! 総支配人! 総支配人ーッ!」 暴れる魔獣に追い立てられ、従業員の邪神が必死の形相で走る。風を切って繰り出される前肢の爪の攻撃をかいくぐり、床を踏み砕く勢いでどすどすと下ろされる肢に彼が踏み潰されそうになった瞬間、 「総支配人兼ドアマンで御座います」 音も無く扉が現れた。扉が開く。扉の向こうから現れたは、シルクハットにタキシード姿、正しくドアマンの姿をしたドアマン。 「廊下を走っては――」 いけません、と穏かに従業員を叱ろうとして、当の従業員がうっかり魔獣の前肢に掴まり握り潰されていることに気付いた。 「おや」 ドアマンは片眉を上げて困った顔をしてみせる。 折角八百万廟に帰属して作り上げた自分のホテルが、一匹の魔獣によって破壊されようとしている。 握り潰した従業員を窓の外にぶん投げ、魔獣は目前に立ち塞がるドアマンを八つの目で眺める。あぁお、とちょっと甘えた声で鳴く。鋭利な刃じみた爪の前肢で耳の後ろを掻き、もう一度駆け出そうと全身で伸びをする。無造作に振り回した棘つき尻尾がホテルの壁を窓を打ち破る。 「派手なおいたに御座いますね」 壁の破れる風圧で僅かに歪んだシルクハットを被り直し、ドアマンは首を傾げる。タキシードの裾が激しく翻る。 「さ、もうそろそろ」 ドアマンは穏かな口調で、お客様のペット(二十メートル級魔獣)と対峙する。両手を広げる。焔の鬣の頭を低くして飛び掛る体勢に入る魔獣に対し、朗々と声を響かせる。 「マロンちゃん、ハーウス!」 言うことを聞かないマロンちゃんは地獄の業火を吐き出し、手を出すわけにはいかないドアマンは焔に焼かれ、何日かぶりに死んだ。 けれど死んでいては総支配人兼ドアマンは勤まらない。 「あちちち、ち、あッ、マロンちゃん!」 一度は灰塵と帰しながら、頑張って生き返るドアマンを跨ぎ越して、マロンちゃんは再びホテル中に死を撒き散らすべく大暴れを始める。 「ハウス! ハーウス!」 お客様のペットに乱暴をするわけにもいかず、ドアマンはよく響く声でマロンちゃんに呼びかけ、ホテル中を奔走する。ラスボス戦の様相を呈しているが、これも八百万廟の日常茶飯事。 (御蔭様で元気に過ごしておりますよ) 狂乱の日常の最中、ドアマンは愛しい人を想う。 (一人様) 世界の果てよりも遠く離れて過ごすドアマンの声を聞いた気がして、一人は春も間近な空を仰ぐ。 明るい空に鳥が唄う。何枚かある畑の真中に仲間と共に植えた咲き始めの白梅が甘く香る。 「どうかしたか、一人君」 隣の畝に種を撒いていた義兄が顔を上げる。 「今年も綺麗に咲いてくれそうね」 雑草を集めた袋を持ち上げ、一人は微笑む。 「そうだな」 立ち上がって腰を伸ばし、義兄は青空に向けて花を開かせる梅に帽子の頭を向ける。 「一人君がJA辞めた時もびっくりしたけどさ」 天職だと思ってたからなあ、と男は笑う。 「でも、有志で田畑の共同経営やろうって誘ってくれた時はもっとびっくりした」 「そう?」 畑の脇に設置したコンポストに雑草を放り込み、一人は再び地道な草引き作業に戻る。 「梅の実がたくさん成ったら梅酒作ろうぜ梅酒。近所の蔵元に話してさ、梅酒用の酒造って貰えないもんかな」 「梅干もいいわよね。お祖母ちゃんレシピの酸っぱくてしょっぱい梅干。そのまま卸販売してもいいけど、うちの米でおにぎりにしてお弁当にもしたいわ」 「お義父さんの米、旨いもんな。つっても、梅はまだ先だけどなあ」 「そうねえ」 のんびりと話しながらも、作業する手先は素早い。新芽を避けて草を抜き、ついでに間引きし、虫避けネットを掛けるための支柱を立てる。 「思い切って一人君の話に乗って良かったよ」 撒いた種に水を遣りながら、義兄は呟く。 「なあに、しみじみと」 「まだまだ若造でさ、卸売りの時に足元見られて、やってられっかって思うこともあるけど、……でも、俺、会社で数字と格闘してるよりか、土や虫と食いもんの話してるのが性に合ってる」 温かな日差しを浴びて、一人は瞳を細める。つと手を伸ばしかけて、いつも隣に居てくれていたふかふかのポッケちゃんはもう居ないのだと、ふと淋しくなる。 「そうだわ、前から考えていたんだけど」 寂しさを振り払って、一人は顔を上げる。 「経営が軌道に乗ったら、企業と連携してね、途上国や災害地へ保存の利く商品を無料提供したいの」 自分の生まれた世界に、育ててくれた世界に、自分の出来る恩返しがしたかった。自分には何が出来るだろうと考えた末、それを思いついた。 「そりゃまた大変そうだなあ」 「あら、そうかしら」 「一人君はこの仕事始めてから、なんかこう、芯が通ったなあ」 「そう?」 「勤めてた頃はしがらみに雁字搦めにされてもがいてた感じが時々したけど、今はなんかこう、やるべきことを見つけた感じ? かな? 何だろう、……好きな人でも出来たか」 言われた途端、脳裏にドアマンの優しい眼差しが浮かんだ。別離の際に交わした約束のキスの感触が唇に蘇った。もう随分と前のようにも思えるのに色褪せぬ感覚に、思わず頬に熱が集まる。 「……そ、それでね、無償提供の商品ラベルなんだけどね」 草と泥のついた軍手の手で頬を擦り、話をすり帰る。 「『美味しさの旅路を』って。空を走る汽車のイラストとか入っていたら素敵ねえ」 「ああ、いいな」 義兄は楽しげに笑い、 「おーい、こっちこっちー」 蒲公英の咲き乱れる畦道を歩いてくる自身の家族を見つけて手を振る。義兄の視線を追い、一人も顔を上げる。大きなお弁当箱を小さな身体で持ち、姉の子供たちが一生懸命に歩いてくる。子供たちの後ろには、敷物と水筒を抱えた姉も居る。 「お昼にしましょうー」 姉の声に応え、田畑のあちこちで作業していた仲間達が春の青空に歓声を響かせる。 (私は、あなたに誇れる私であり続けたいの) 遥か遠い空に向け、両手を差し伸べるように伸びをする。 (ねえ、ドアマンさん) 酷く重い瞼を押し上げる。布団の上で組んだ両手が視界の隅にある。自分の手であるはずの、皺と染みの浮いた老いた手は、けれど自分の手ではないように重く、思うように動かせない。 ついこの前まではそれなりに動き、田畑を耕せていた足腰も、今は鉛のように重く、最早起き上がることも叶わない。 己が鼓動に耳を澄ます。命の終わりが迫っている、そう静かに思う。 八十三、と己が齢を数える。大往生だ、と乾いた唇で淡く笑む。悔いの無い良い人生だった。 傍らで深く眠る家族に別れを告げようとして、窓から流れ込む眩しい月明かりにそっと瞬く。枕元に並ぶ幾つものあみぐるみやポッケのぬいぐるみを蒼白い月光が照らし出している。――月が、美しい。 身体は土塊になったように動かぬその癖、意識だけは明瞭だった。月に照らし出されて視界だけがどこまでも澄んでいた。 もう一度の瞬きのその次に、音も無く扉が現れる。 息が震えた。長い長い別離の時間が、一瞬の内に駆けて過ぎる。 月明かりに扉が開く。ドアマンが別れた時と変わらぬ姿で現れる。 「お待たせ致しました、我が伴侶よ」 愛しい人の枕元、ドアマンは恭しく膝をつく。手袋を脱ぎ、一人の組んだ両手に手を重ねる。ああ、と感嘆の声を零す。 「老いて尚美しい。実りある人生をお過ごしになられたのですね」 「貴方は変わらないのね」 声は、声になっていたかどうか。 「恥ずかしくはないが、嫌ね」 笑って、思いがけず軽やかな笑い声が唇を通ったことに驚く。指先ひとつ動かせなかった手が思うように動いて、ドアマンの手を握り返す。 「神様は、……貴方は約束を破らないのね」 邪神群の一柱であるドアマンは、その深い海の色した瞳をそっと笑ませる。一人の両手を己が両手で包み込み、立ち上がる。 ドアマンの誘いに、一人の心が、魂が、肉体を離れる。 「ありがとう」 一人は眠る家族に別れを告げ、ドアマンの肘に指を絡める。 「永久の愛と共に、いざ参りましょう」 ドアマンが長い別離の終わりを宣言する。 「あなたとならどこへだって行くわよ、サフォルス」 微笑む一人が扉を潜る。ドアマンが優雅な目礼を扉の外に残し、――扉が、閉じる。 ◇ ◇ 「おかえり、アクラブ! おかえり、サイネリア!」 司書室の扉を開けた途端、赤茶色の犬が尻尾を振り回して駆け寄ってきた。 「ただいま、クロハナ」 サイネリアは紫水晶の眸に穏かな笑みを浮かべる。零世界に立つ時の常で、人のかたちを取ったまま、旅装の膝を折ってクロハナと視線の高さを合わせる。肩を滑り落ちる深い湖の色した髪を耳に掛け、犬の司書の三角耳の頭を撫でる。 「変わりはないか」 サイネリアの傍ら、同じく旅装を解かぬままの姿のアクラブ・サリクが落ち着いた低い声を響かせる。紅蠍の色した三つ編みの髪を揺らし、黄金の眸に幽かな笑みを滲ませる。 「はい、わたし、元気!」 「土産だ」 旅先で買った蜂蜜色の石を飾り紐で巻いたお守りをアクラブが差し出せば、 「災難から護ってくれるそうだよ」 サイネリアがお守りの効果を解説する。 ずっと旅を続けていても構いはしない二人が、偶に零世界に帰還するのは、この世界を自分たちの巣のようなものと認識しているためもあり、どんな事にも休息は必要だ、とサイネリアが考えるためもある。表にはあまり出さないが、不器用で真直ぐなアクラブはうっかりと根を詰めすぎる観がある。 「すてき、綺麗! ありがとう」 ターミナルに帰還してすぐ、旅装も解かず帰還の挨拶のため訪ねてきてくれた二人の旅人を歓迎して、犬の司書はその場でぐるぐると回る。入って入って、と司書室に二人を招き入れ、座って座って、と司書室の床に敷いた畳の上にお客様用座布団を引き出す。署名代わりの肉球印を捺した紙の束が乗った炬燵に二人を強引に引き摺り込む。 「おはなしおはなし」 呪文のように唱えながら、二人の前にお茶と焼き菓子を並べ、尻尾を振りながら自分の座布団にお座りする。炬燵の前に胡坐で座すアクラブを見、炬燵に足を入れお茶を口にして寛ぐサイネリアを見、 「聖地巡礼の旅、五十年目」 犬の司書は幾度目かもわからなくなるほどふたりの前で繰り返して来た言葉を口にする。 「どんな世界に行きましたか。どんな聖地がありましたか。どんな神さまに会いましたか。どんな旅、ふたりでしてきましたか」 一言も聞き逃すまいと耳をぴんと立て、嬉しそうに尻尾を振るクロハナに黄金の眼を真直ぐに向け、アクラブは顎鬚の口許に淡い笑みを浮かべる。クロハナが尻尾を振って楽しそうに話を聞く様子は、見ていて心地が良い。 「おはなし、聞かせてください」 アクラブの隣でサイネリアが微笑む。常に共に居るアクラブがそうであるように、彼女もクロハナを気に入っている。 何よりも、口よりも能弁な尻尾が可愛らしかった。十年も前だったか、アクラブが席を外した際、アクラブに尻尾があればよいのに、とクロハナに零したことがあるくらいには。 いつもと変わらず、背筋を伸ばして座すアクラブをちらりと見る。人を射抜けるほどに強い黄金の眸は、出会った頃より随分柔らかくなったように思う。考えている事も、昔よりは口に出してくれるようになった。だから尻尾が欲しいと思うのは、五十年を共にし、これから先も共に在りたいと願うアクラブの心の内を知りたいからというわけではない。 ただ、尻尾があれば。厳かな神官然としたアクラブの心を素直に表してしまう尻尾があれば、 (きっと可愛いな) そう、思っただけだ。 言えばきっと困惑しきった顔をするだろうと思うが故、本人に教えたことはないけれど。 クロハナの尻尾がぱたぱたと畳を叩く音を聞きながら、アクラブとサイネリアは視線を交わらせる。さあ、どの旅の話から始めようか。 ヴォロスの片隅、遠目には丘とも見紛うほどの巨木を央に抱いた杜がある。甘い香りを放つ白い花を幹に纏うた巨木は、その内に巨大な虚を持ち、虚の内には古に滅んだ王国の王と杜の守り神が棲むと言う。 「守り神となったのは五十年程前のようだ」 サイネリアが花の香り含んだ風に長い髪を揺らしてアクラブを振り返る。竜を本性とする彼女は、けれど人と交わることを好む。人の優しさや美しさだけでなく、嫉妬や怠惰や、――清廉であろうとするアクラブから見れば醜い部分までも知りたいと願う。 彼女の友好的な態度がそうさせるのか、彼女の周りにはいつも人が集う。そうして、アクラブが知らなかった情報をさらりと知悉してのける。 「最近は守り神が村までお使いに来ることがあるらしいな」 楽しげに笑うサイネリアの隣に、アクラブは巨木へと続く石畳の道を踏んで並ぶ。各地の神を訪ねて回る、聖地巡礼などと言われる行為をし始めてから、五十年。 アクラブは隣を軽やかに歩く美しい人を見遣る。いつの間にか、この美しい人が隣に居ることが当たり前になってしまった。 アクラブの視線を受け、サイネリアがくすぐったそうに微笑む。 最愛の人であるサイネリアの微笑みに、 「今でこそ言えることだが……」 アクラブは思わず打ち明ける。 「俺は初めから君に惹かれていたよ」 初めて会った時、彼女は人の姿をしていた。ひと目見た時、アクラブはサイネリアに清らな水を見た。清冽な水を思わせる蒼い髪に、水底を思わせる紫の瞳に、生きとし生けるものを癒す柔らかな水を感じた。己が燃やすだけ灰にするだけの炎であると思い知らされていたために、尚の事、どこまでも美しい蒼に焦がれた。 神への祈りにも似た真摯な言葉に、サイネリアはふわりと頬を熱くする。 いつからか、アクラブと共に居る事が当たり前になった。 ふたりで各地を見て回り五十年を過ごすうち、人に然程興味を抱かず生きていた頃には知り得なかった感情をいくつも知ることができた。 アクラブに出会わずにいれば、今の己は無かった。 (これが同じ時を共に過ごすという事か) サイネリアは思慮深げに瞳を細める。想像していた通り、悪くない。悪くは無いが、しかし、 「改めて、その、惹かれていたと昔の話を聞くと照れてしまうな」 胸に宿る熱と鼓動を確かめて、掌を胸に当てる。 この感情もアクラブに教えられたのだと思えば、尚更に胸の鼓動が不思議に増えた。 (否、不思議ではないな) 滑らかな頬に幸せな微笑みを浮かべ、サイネリアは歩みの先に聳える大樹を仰ぐ。 神木であろう大樹の周囲には、小さいが賑やかな村が造られていた。様々な色の狼を模した仮面を身につけた人々が暮らす村をふたりで歩く。 焔の髪を持つ厳かな男と清らな水の髪持つ美しい女の旅人に惹かれるのか、村の人々がふたりに視線を集める。けれどそれは好奇のものではなく、穏かに優しいもの。サイネリアが柔らかな視線を返せば、顔に被った仮面を上げて笑顔が返って来る。アクラブが視線を返せば、好意的な会釈が返って来る。 駆け寄ってきた赤狼の仮面被った少女から歓迎の花一輪を受け取り、サイネリアは水底の瞳を細める。 「ありがとう」 村の央、幾本もの樹が捩れ絡み合い、森を村を護るように梢を広げる神木を仰ぎ、アクラブは呟く。 「この地の神は今が盛りのようだ」 クロハナは聖地巡礼などと言うが、アクラブにすれば、この旅は要は色んな世界の神の形跡を辿っているに過ぎない。この森の神のように人々の信仰を集めて栄える神が在れば、反面、人々に忘れ去られひっそりと滅びて行くだけの神も在る。 もともとは一柱の神を崇めていた己が、様々の世界を渡り歩くにつれ、様々の神を知った。様々の宗教を知った。そうするうち、それに興味を覚えた。多様性を秘め、それでも神聖なそれらを知りたいと望んで始めた神々の地を巡る旅は、今も続いている。 己にとっては興味深い旅ではあるが、とアクラブは隣を歩いてくれているサイネリアを窺う。 サイネリアにしてみれば、つまらない内容かもしれない。 「退屈はしていないか」 「退屈なぞしないぞ」 ひとひらの屈託もなく、サイネリアは笑う。 村を過ぎ、甘い香を放つ白い花に包まれた、樹の根が絡まり出来た隧道を潜る。道の向こうに杜の護り神が座すというのに、番をする者はひとりも居らぬ。 「長き旅は目新しいものばかり」 サイネリアは隧道を灯す火のように白く咲く花に白い指先を伸ばす。樹の根の隙間から木洩れ陽のように差し込む光を集めて温かな花びらに触れる。 「新しい神や忘れられてゆく古い神」 唄を紡ぐように、淡く色づいた唇を開く。 「土地により変わる信仰や文化を見る事も飽きない。お前との会話でも常に得るものがある」 サイネリアの言葉にアクラブは安堵する。 「もっとこの目で見てこの耳で聞きたいほどだ」 まだ傍に居ることを赦されている、そんな気がした。 旅人の傍らを、赤狼の仮面被った少女と白狼の仮面被った少年が駆けて追い越す。アクラブが纏う紅蓮の色にぎくりと少年が仮面の奥の眼を瞠り、少女の手を掴む。 どうした、と声を掛けようとして、アクラブは言い澱む。サイネリアと旅を始めて五十年が過ぎても、未だに子供を知らぬ間に怖がらせてしまう。 怯えたように足を止める二人に、サイネリアが優しく笑みかける。 「この地の神に会いに来たのだが、……会わせてもらえるか?」 柔らかな声に安堵したのか、子供らは大きく頷く。案内を任されたと思ったのか、弾む足取りで旅人ふたりの前を歩き出す。 子供の背を眺めながら、アクラブは紅の顎鬚を指先で掻く。 己が強面を気にする素振りを見せるアクラブを笑んだ瞳に映し、サイネリアはアクラブにだけ届く小さな声で囁く。 「案外、お前も聖人ではないかと思われているかもしれないな」 今迄に訪れた様々の聖地で、サイネリアはそう感じていた。聖地に集う巡礼者達の中には、アクラブに畏敬の念を抱いて視線を向けている者も居ると。 「そんな」 アクラブが眼を剥く。とんでもない、とその場で平伏しそうな勢いで首を横に振る。蠍の尻尾にも似た紅の髪が激しく揺れる。 「皆にそう思われているのは貴女の方です」 神官であるアクラブは、昔、サイネリアに対して神に仕えるが如く接し、彼女をひどく怒らせたことがある。五十年を共にしてきても、その癖は時折顔を出す。それはアクラブの生真面目な性根の現れでもあったが、 「アクラブ」 サイネリアはアクラブに神として扱われることを良しとしない。 華奢な首を横に振るサイネリアに、アクラブは失言に気付いて口を押さえる。すまん、と低く呟く。 鷹揚に微笑むサイネリアの目前、青空の光が降る。 神木の虚の内には、何れの不思議の力が働いたのか、もうひともとの樹が空へと伸びる。虚内の樹の梢が縦横に巡るは、虚内の暗闇ではなく、大きく開いた蒼空。 「ほう」 木洩れ陽の眩しさと笑みに水底色の瞳を細めるサイネリアにどこか得意げに笑いかけ、少年と少女は案内を終える。樹の根が張り巡り、白い花が広がる床を駆け、神木の虚に生える樹の幹に立つ。幹の傍には黒い柩が神器のように置かれ、その蓋の上に座して、白狼の仮面を背に負うた古の時代の王。王に寄り添うように、赤銅の鬣持つ老いて尚躍動的な身体持つ獅子の獣人。 「ようこそ、旅の人」 王の隣に座し、赤狼の仮面の少女が笑う。その姿をこの杜の護り神である翼持つ小さな蛇の姿に変える。 自由を謳歌しているように見える新しき神に、アクラブは巡礼者の礼をする。サイネリアは楽しげに眼を丸くする。 ヴォロスの遥かな大地に生きる小さな神を前に、アクラブは誓うように言う。 「いつか故郷に帰るまで、……君と共にいることが出来るならば俺は幸せだ」 愛しい男の告白を、サイネリアは微笑んで受け止める。アクラブよ、と柔らかな水の声で応じる。 「故郷に帰るまでではない、故郷に帰ってからもだ」 初見の神に対し礼を尽くすことすら忘れ、アクラブは息を飲む。そうして、己が焦がれているが為に、この慈悲深き女神は隣に立っていてくれる、心の奥底でそう思っていた己に今更気付く。 「巡礼を始めしばし経った頃、恋愛をしようと言っただろう」 アクラブの思いに気付いていたのかいないのか、サイネリアは少し呆れた顔をしてみせる。 「同時に伝えたはずだ、故郷に戻る時は共にゆこうと」 手を伸ばし、アクラブの指を掴む。 「それに、お前の生まれ育った場所を我も目にしたい」 アクラブに倣い、サイネリアも異世界の神に頭を下げる。まるでプロポーズだなと頬を桜色に染める。 (お前の隣は心地よい) 手を繋がれたことにたじろぎ、逃れるか逃れまいか迷うアクラブの指をきつく握り締める。 「我も共に居ることが出来たなら、幸せだ」 異世界の神の前、蒼き水の女神は宣言する。 「では、またな」 「はい。きっとまた、来てください」 司書室の扉を潜り出て行くサイネリアに、クロハナが手と尻尾を振る。 「クロハナ」 先に外に出、扉の向こうで知己を見つけ立ち話を始めたサイネリアの耳には届かぬ声で、アクラブは犬の司書にそっと問う。 「彼女が、俺についてクロハナに何か言ったりしていないか」 炬燵の前でお座りする犬の傍らにアクラブはしゃがみこむ。サイネリアとクロハナが、時折ふたりで楽しげに話しているのを知っている。 アクラブの黄金の瞳に見据えられ、クロハナはくしゃみを我慢するような顔になる。もぐもぐと口を動かし、ぱたぱたと尻尾を振って、 「どうかしたのか」 扉の向こうからちらりと顔を出したサイネリアを勢い良く見上げる。アクラブを見、サイネリアを見、もう一度アクラブを見る犬の司書の不審な動きに、サイネリアは小首を傾げ、ややあって悪戯気に自身の唇に人差し指を立てる。 ここだけの話だぞ、とサイネリアに言外に言われ素直に頷くクロハナを、アクラブは不満そうに見遣り。けれど仕方なしにそれ以上は問い詰めず、犬の頭を撫でて立ち上がる。 まあ、いい。 ふと、笑む。 ロストナンバーでいる限り、先は長い。 その上、何よりも美しい人が、これより先もずっと傍らを共に歩いてくれる。それは確かなのだから。 ◇ ◇ 少し長い旅を終え、担当司書に報告を終えて司書棟を後にしようとした相沢優のズボンの裾を、赤茶色の犬が咥えて引き止める。 尻尾をしょんぼりと垂らして悲しい眼をした犬の司書の前にしゃがみこむ。元気のない三角耳の頭を撫でる。 北極星号の帰還より六十年を経ても、犬の司書は変わらず司書を続けている。 また何か難しい予言でも抱えているのかと問おうとした優の足元、両の前肢を揃えてお座りし、犬の司書は短く悲しく鳴いた。 「キース、亡くなった」 「……え?」 咄嗟に意味が分からずきょとんとする優の手に、犬の司書はヴォロス行きのチケットを押し付ける。 かつて孤児の王の森と呼ばれたこの地は、王が目覚め六十余年が過ぎて、周辺の村の人々からシエラフィの森と呼ばれるようになった。 森のあちこちに清冽な水が湧き、良質の蜜が採れる白焔花が季節を問わず咲き、先の戦で森に錨を下ろした箱舟さえも呑み込んで生長した大樹に護られた森の村には、今は一族の人々のみならず多くの人々が集い暮らしている。 夕暮れの空の下、黄金色にくすむ冷たい空気の中、ひっそりと樹が立つ。 ぐるりを見回す。樹を囲うは、その樹よりも数倍巨大な、最早ひとつの森とも見紛うほどの大樹。壁のような大樹の虚の内側、白焔花が無数に咲いている。 「埋葬は済んでるんだ」 大樹の内に生える樹の傍らに立つ、白狼の仮面を被った少年が、古びた槍を片手に優に告げる。根元に暗く口を開ける、樹の根に支えられた地下に続く道を、もう片手に持った角灯で示す。 永の眠りに就いた地を這う一族の者は、樹の下に広がる地下の空洞に葬られるのが常。 「キースは、誰よりも王に近かった。一族の誰よりも勇敢で優しかった」 少年は俯く。 「シロ」 朱の蛇獣の血をその身に受け入れた為、少年は六十年を過ぎても姿を変えられずに居る。 「行ってやって」 シロは優に角灯を手渡す。地下に設けられた墓所への道筋を伝える。 角灯を掲げ、木造の階段と道が設置された地下の道を降りる。樹の根が絡み合って壁や天井を形作り、地下とも思えぬ空間を幾つも通り過ぎて、――両開きの扉に道を遮られた。白焔花と大樹が精巧に浮き彫られた扉には、幾人もの故人の名が刻み込まれている。 角灯の光を翳し、扉に刻まれた名を指先でなぞる。 刻まれて間もない、『キース・サバイン』の文字。 文字に掌を押し当てたまま、動けなくなる。暫く何も考えられず、呆然と彼を示す文字を見つめる。 (キースさんが死んだ) 掌が拳に変わる。 友が、死んだ。 『やあ、優君』 丸めた背中に、肉球の大きくて温かな掌が触れた気がした。 「キースさん」 声を絞り出して呼びかけた途端、涙が溢れた。 お弁当と土産話を持ってシエラフィを訪れる度、いつも変わらぬ笑顔で迎えてくれた。白焔花から採れる蜂蜜入りのお茶を淹れてくれた。お手製のお菓子を出してもてなしてくれた。 宝物庫の真中に生えた樹の下で、シエラとキースとフィーとシロと、みんなでお茶を飲むのが好きだった。 何でもない話をたくさんした。シエラとフィーが読んでいる本の話、キースが最近凝っている蜂蜜を使ったお菓子の話、段々と遠くを巡ることも多くなっていったシロの旅の話、シロの知らないずっとずっと遠くの世界を駆ける優の話。 訪れる時期によって、旅に出ているシロに会えないこともあったけれど、時を重ねるごとに大樹の周囲に村を作る一族の人々の顔ぶれは変化していったけれど、それでも、大樹の内に居を構えるキースとシエラと、森の護り神となったフィーは変わらず居てくれた。 『よく来てくれたねぇ』 そう言って迎えてくれた。 世界司書からの依頼を受け、旅に旅を重ねるロストナンバーであるが故に、時に刃を構え戦わなくてはならなかった故に、この森で過ごすあの穏かな時間が、とても好きだった。 シエラフィに帰属し、シエラの傍で過ごしたキースの六十年を、思う。 老いることのないロストナンバーで在り続けた己が六十年を、思う。 両親が死んだ。帰属した友が幾人も死んだ。親しい人の死を、大切な人の死を、いくつも経験した。 (でも) いくら経験しても大切な誰かが亡くなるのはこんなにも、 (辛い) 思い出に詰まる胸を押さえ、溢れて零れる涙を拭いもせずに泣いて泣いて。深く、息を吐く。 「……シエラ」 キースが六十年傍に居た王の名を呟いて、不安に駆られる。そうだ、シエラはどうしているだろう。さっきは宝物庫のどこにも姿が見えなかった。いつもは宝物庫に入った途端、名を呼んで駆けて来てくれるのに、今日はどこにも―― 宝物庫に施された魔方陣の上で何百年と眠り続けていた王は、魔方陣の力及ぶ範囲を一歩でも離れれば、その身を灰塵と帰す。死ぬ。 足元に置いていた角灯を引っ掴み、来た道を駆ける。まさかとは思う、万が一にでもそんなことはするまいとは思う。 樹の根の地下道から飛び出す。門番のように静かに佇んでいたのは、シロではなく、赤狼の仮面被った少女。 「フィー」 呼びかければ、驚いたようにふわりと元の翼持つ小さな赤い蛇の姿となる。赤い眼を瞬かせ、何か言いたげにもぐもぐと口を動かし、もどかしげに蛇の頭を横に振る。もう一度人の姿となる。 「シエラを探しているのでしょう」 一度は呪いに呑まれ生きとし生けるものを殺戮せんとした少女は、呪いより解き放たれ、この森の護り神となって後、人というものを、世界というものを知りたいと希求した。人の言葉を発する為にと人の姿をとるようになった。 六十年前は、シロに通訳してもらわねばほとんど話すことの出来なかった彼女は、今は苦労なく喋ることが出来る。 「こっちよ」 少女の姿したフィーは傍らに立つ樹に登り始める。 フィーに導かれ、白焔花の蔦が絡み花を咲かせる樹を登れば、人を抱くように大きく広がる枝の上、緑濃い葉に隠れるようにしてうずくまる白狼の仮面を被った少女の姿を見つけられた。 フィーに背中を押され、シエラの傍らに立つ。ひと二人を受け止めて揺るぎもしない枝の上、膝を抱えて動かぬ王の横に膝を突く。 「シエラ」 呼びかけ、小さな肩と頭を胸に抱きしめる。六十年経っても変わることすら出来ぬ少女の華奢な肩が震えて強張り、次いで身体中が萎むような息が零れた。仮面の下で小さな嗚咽が洩れる。 優はシエラとキースの過ごした六十年を思う。月日を重ねるごとに強めていった二人の絆を、思う。 小さな蛇の姿に戻ったフィーが、シエラの足元でとぐろを巻く。苺色の眼で心配そうにシエラを仰ぐフィーの頭を、優はそっと撫でる。 いつか陽は沈み、空に月星が輝き始める。 (変わらない) 六十年を、思う。過ぎた年月を、思う。 (俺もシエラも) それが辛くて、同時にとても安堵して、そうして、苦しくなる。 成し遂げたいことがあって、ここにこうして踏ん張っている。それはよく分かっている。それでも。それでも―― 「みんな、いってしまう」 シエラが悲しく呟く。優の胸にしがみつき、泣く。 陽が昇り始めて、樹を下りる。 泣き疲れて眠ってしまったシエラをフィーとシロに託し、もう一度、改めて地下に潜る。キースの墓標と向き合う。 角灯の揺れる火に、間違いなく浮かび上がる、友人の死。 少し前訪ねたときは元気に笑っていた。一緒にお茶を飲んで笑いあった。 (キースさんが、死んだ) その事実をまだ受け入れたくはなかった。けれど受け入れなくてはならない。大切な人の死を受け入れて、生きていく。 (それが『生きる』事なんだ) 生と死を分けて隔てる扉に刻まれたキースの名を掌で撫でる。いつかキースがそうしてくれたように、優しく、力強く。 「キースさん」 溢れそうになる涙を、深く呼吸することで堪える。 「また会いに来ます」 努めて明るい声で、伝える。 また会いに来ます。シエラにも、キースさんにも、フィーとシロにも。 ◇ ◇ ――そうして、その全てを見届けて、ゼロはターミナルより旅に出る。 目指すはディラックの空の更に外。 目的は、世界群の階層を一気に上げ、全世界群をモフトピアのような楽園とする計画の完遂。 ワールドエンドステーションに辿り着いて尚得られなかった答えを得る為、世界群の法則を変更する手段探求の為。 「行って来るのですー」 身に付けた腕世界計を確かめる。銀と白の少女の細い腕に巻かれた小型世界計は、ターミナルとワールドステーションの方向を正確に示している。 「じゃあねー、なのです」 ディラックの空を駆けるロストレイルの車内から、ゼロは身軽に飛び出す。 永遠に広がる闇の海に、ゼロの透けるような銀色の髪が波打つ。華奢な身に纏った純白のワンピースの裾がふわり揺れる。虚空に落ちるように、一歩を踏み出す。慌てて止めようと駆けて来る車掌の姿を視界の端に捉えると同時、 ゼロは巨大化を開始する。 イグシストの力であるギアの制限を自力のみで破れるのならば、イグシストに頼らぬ存在証明やディラックの空の移動も問題ない。ゼロは独自の探求により、そう結論付けた。そして、二世紀半に及ぶ巨大化鍛錬を行い、己が結論を裏付け、―― 永遠の空を、ゼロは常時巨大化しながら歩み始める。腕世界計を確かめ、ターミナルとワールドエンドステーションから離れる方向へ。 星が瞬くかの如く、数え切れぬ世界繭がディラックの空の闇に輝いて見える。 数多見える周囲の世界繭を傷つけぬよう、ゼロは無に等しい増大率で己が身を巨大化させ続ける。 (早く進むのです) 刹那に無限倍の増大を己に課しながら、ゼロは願う。 (早く、ディラックの空を追い越すのです) 永遠を打ち破るべく、光よりも速く膨れ上がりながら、ゼロは思う。願う。 一日がいつ過ぎたのか、いくつ過ぎたのか、それすらも分からなくなる刹那の永遠の流れを歩むその旅の中で、 ふと。 ゼロは瞬く。 巨大と言うもおこがましいほどに巨大化し続けるゼロにとっては無限に小さく、巨大化し続けるゼロから更に刹那に無限に小さくなり続けている世界を、無に等しく増大し続けているが故に全ての矛盾をすり抜ける銀の瞳でそっと覗き込む。イグシストを無限に超越する、今のゼロの視線の圧力で世界繭を崩さぬよう、そっと、そーっと。 紺碧の海が広がる世界では、大海賊達が人魚の姫を求めて船を駆り、砲弾飛び交う海戦を繰り広げていた。 古代竜の力が今も世界繭を取り巻き護る、不思議の力が大地に宿る世界では、竜の末裔たちがのんびり暮らしたり、時々攻めてくる異種族と壮絶な空中戦を繰り広げたりしていた。 大地を石で覆い尽くした世界では、暗い眼をした王様が、空へ毒の雲を撒き散らし、毒から生まれた姫君が王様を止めようと奮闘していた。 妖の支配する世界、霧に覆われた世界、汽車が海を走り魔法が空を渡る世界、命尽きた刀剣たちが大地に突き立ち眠る世界、邪神たちが跳梁跋扈する世界。 流れ見る世界の中の人と話をしてみたかった。 友人たちと共に冒険した世界に似ている気がした。 友人たちが探している故郷に似ている気がした。 再帰属した友人が暮らす世界に似ている気がした。 流星の如く、世界から世界を渡り歩く、シルクハットを被った誰かを、その誰かの腕に抱きついて幸福に微笑む誰かを見た。 虹色の線路を造りながら虚空を駆けて行くロストレイル号を、車窓に額を押し付け、声を殺して淋しく泣く誰かを見た。 けれどその何もかもが、瞬間よりも短い刹那の一幕。 友人たちと、話がしたかった。 (でも) 今のゼロが僅かにも声を発せば、その幽かな声だけで無数の世界繭が崩れる。数多の世界が滅ぶ。そんなことを、ゼロは望まない。 せめてノートに垣間見た出来事を記し、ターミナルに待つ友人たちに知らせようとして、止める。彼らからはもう永遠に近く離れてしまった。通信が届くかどうかも分からない。届いたとして、向こうからの返事が届くかどうかも分からない。いつかは書き記す気になるかもしれないけれど、今はまだ書かずにおこう。 もうどうしようもなく寂しくなったときに、友人たちを想って、友人たちに向けて、手紙を書こう。 星の数の世界を、星の数の生命を、無に等しい己が身の内に内包しながら、一個の宇宙と化しながら、ゼロはただ一人、ディラックの空を歩む。 遥かなディラックの空を見渡して、故郷と少し似ている、とゼロは思う。故郷の世界でも、ゼロはただ一人だった。ただ一人、暗闇の中をたゆたいまどろんでいた。まどろむことを仕事としてきた。 けれど、今は。 今は、身体を無限倍に膨張させなければならない。一歩進む間に世界繭を数十数百と跨ぎ越し、永遠の旅路を永遠で無くすために進まなければならない。まどろんでいる暇などない。 (そこが故郷とは違うのです) ゼロは首を横に振る。 銀河よりも巨大な銀糸の髪がふわふわと揺れる。闇に輝く世界繭が雨粒のように髪にまとわりついて踊る。ゼロの存在に気付かぬまま、ディラックの落とし子が虚空でくるりと回る。 大きくなり続けながら、旅を続けながら、ゼロはターミナルの友人を思う。宇宙に等しく膨大なゼロの脳裏に、友人の笑顔が浮かぶ。行ってらっしゃいと言ってくれた時の心配げな顔が浮かぶ。 (きっと帰るのです) 目的を果たし、無事に帰還し、友人と再会する。 今のゼロには、確たる目標がある。 (いつか、きっと) 水溜りを飛び越える幼子の仕種で、ゼロは大きく跳ねる。銀と白のその身に、世界繭の輝きが舞い踊る蛍のように纏わり付く。 ディラックの空に、果ての見えぬ永遠の闇のその先に、ゼロは星雲よりも巨大な白く輝く己の指を伸ばす。 歩みと巨大化を少し早める。 (みんなに、ただいまを言うのです) どこまでも終わりの見えぬ遥かな旅であっても。 今は誰の声も届かぬ、誰に声も届かぬ、全くの独りきりの旅であっても。 ――これは、いつか帰るための旅。 ◇ 終
このライターへメールを送る