▼0世界、ターミナルにて はい、今日和。メルチェット・ナップルシュガーですよ。 ――ふふ、そうね。今日もあなたは、60分の遅刻だわ。 大丈夫ですよ。少しくらい遅れたって、私は怒りません。だってメルチェは大人ですもの。 ……。 ……。 ……怒っていませんよ。 ……。 ……。 ……そうですね、まずは「ごめんなさい」が必要ですよね? はい、よく気がつきました。 メルチェは大人ですから、おっきな心の器であなたを許してあげましょう。あとでアイスクリームをくださいね。 ……それにしても、ここも随分と様変わりしましたよね。 ロストレイル13号がすごく大切な情報を持ち帰ったこと、皆さんにとっても大きな転機になったようです。 もとの故郷世界に無事、帰属できたひと。 帰属の可能性を信じて、膨大な数の世界候補から故郷を探し出そうとするひと。 新たな居場所を求めて、旅を続けているひと。 うんうん。ひとの旅路は様々ですね。 ……私ですか? 私の故郷世界はもう、滅んでしまっていたようです。ですから私は新しい第2の故郷を探している最中ですね。 どこか別の世界に帰属をするのも良いですし、いっそロストメモリーになるのも良いかもしれません。 それにメルチェは大人ですから、誰かお嫁さんにしてくれるひとを探すのもいいですね。 ……。 ……え、涙? あ、あぁ……ごめんなさい。大人なのにみっともないですね。 ……ぐすっ。 う、く、えぅ――あ、ごめんなさいやっぱりダメですちょっとお胸貸してください。 ……。 ……。 はぁ……。 ……。 ……。 ……撫でてください。 ……。 ……。 ふぅ……ありがとうございます、もう大丈夫です。 取り乱してしまいました、すみません。 さ、気分を切り替えなくちゃいけませんね! 今日はどんなお話をしてくれるんですか? 先日に行ったばかりの冒険のお話? そういえば、お友達と企画している冒険旅行のお話はどうなったの? それと、途中で終わってたあなたの故郷のお話も聞きたいわ。 お友達の中で、帰属したひともいるのでしょう? その人のお話も聞かせて頂戴。 あ、そうそう。今度、私と一緒にあの世界へ行こうってお誘いしてくれましたよね。 その件で、ちょっとスケジュールを立ててみたんですけど――。 ……あ、何笑っているんですかっ。むー、レディに失礼ですよっ。 お話することは、悪いことではないんです。そこに性別も年齢も関係ありません。 だって本当だったら皆さんは、出逢うことなんてなかった人たちなんですよ? 貴重なお話をいっぱいして、見聞をうんと広めるの。 ……え? どうせ最後には別れちゃうのにって? 確かに、仲良しさんとのお別れは寂しいけど……でも、寂しくないお別れなんて味気ないです。 せっかくならたくさんお話して、その人のことをいっぱい知って、いっぱい好きになりたいの。 お別れのとき、泣いちゃうくらいに「好き」って……すごく、素敵なことだと思うから。 だから聞かせてください。 あなたのこと、 あなたの世界のこと、 あなたの冒険のこと! その後は私と一緒に、漢字の読みかたをお勉強しましょ。 ふふふ、今度はとても難しいですよ? あなたはいくつ読めるかなぁ……。 もちろん私は全部読めます、当然です(きぱっ) だって、メルチェは大人ですから。======<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆シナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。======
▼エピローグ:マスカダイン 0世界、ターミナル。 異世界での依頼を終えたロストナンバー達を乗せる車輌が、0世界へと戻ってくる。 駅前は世界図書館へ報告に向かう者や、自分のチェンバーに足を向ける者達の姿でごった返している。 駅前のカフェでひとり、のんびりとお茶をしていた猫耳フードの女の子――メルチェット・ナップルシュガーは、帰還した一団の中に見知った顔を見つけたので、手を振ってアピールした。 少女に気づいた人物――ポップな形と色合いの、お菓子みたいなアクセサリーをしゃらしゃらと提げている男性、マスカダイン・F・羽空が、彼女の席に歩み寄ってくる。 「やっほー。今日和だよー、メルチェちゃん」 「今日和、マスカダインさん。……荷物を手にしている様子からしますと、先ほど帰ってきたところですよね。お疲れ様です」 「うん、まぁねー。メルチェちゃんはゆっくりお茶の時間かなー?」 「はい。今日はおやすみなので、ちょっと行きつけのカフェでお茶をしている最中です。よろしければご一緒しません?」 空いている向かいの席を手で示すメルチェ。 「あはは、そうだね。じゃあせっかくだし、ご一緒させてもらうよー」 緩い調子でそう返すマスカダイン。少女に相席し、テーブルに置いてあるメニューを開いた。 † 「マスカダインさんは、調子は如何ですか」 「ボク? 道化師のお兄さんは、ずっと道化師だよー。元気に道化師をやってるさー」 デザートばかりをテーブル一杯に注文したマスカダインは、それを幸せそうに堪能しながら言葉を交わす。 「みんなと笑って、一緒に駆け回って。楽しく人を笑顔にしたり、お節介して世話をしたり、ムチャやって叱られたり。そうやって笑うみんなの顔、たくさん見たりしてるのさー」 「ふふふ。相変わらず、ふわふわと気まぐれなご様子ですね」 メルチェはすました表情で紅茶を傾けている。元気良くケーキやアイスを頬張るマスカダインを見て、微笑ましそうにしている。 「ほんとう、まるで道化師さんのようだわ」 「僕は夢を現に化える男、希望の道化師だからねー。ひとつの観念に囚われないのさー」 「あはは。もう、何ですかそれっ」 チチチとスプーンを振りながら得意げに語るマスカダインの様子に、メルチェは思わず笑いを零して。口許に手をそえ、くすくす。 「でも、こんな言葉も……昔は使ったりしなかったんだよねえ」 平らげたプリンの皿を重ねつつ、マスカダインは懐かしそうに目を細めた。 「僕はね。ずっと、ある人をずっと探してるんだ。絶対また逢うんだって、決めているひとがいる」 「そうなんですか?」 意外そうな目を向けるメルチェ。ティーカップを持つ手がおもむろに止まる。 「そういった方、マスカダインさんにもいらっしゃるんですね」 「あれれー? ひょっとして意外なのー?」 「マスカダインさんは、いつもふわふわ気まぐれなおひとだから、特定の誰かに強い興味を抱いたりすることは無いのかなって思っていました」 「あはは。そっかー、意外なんだねぇ」 「それでっ、どんな方なんですか?」 「な い しょ」 わくわくとした様子で訊ねたメルチェに、マスカダインは愉しそうに笑んだ唇の前に、立てた指を添えてそう返すだけ。 メルチェは、ぷうっと頬を膨らませて。 「えーっ、そこまで振っておいて、なんで秘密なんですかーっ」 「ボクの大事な、秘密の宝物だからねぇ」 むふふふ、と意地悪そうな笑いを浮かべるマスカダイン。 けれど、ふと。その視線がどこでもない遠くへと向けられて。懐かしむような寂しいような、哀愁の漂う微笑で、ぽつぽつと呟き出す。 「本当はね、僕も色々あるんだ、いつも笑っているけど。怒りに頭が灼かれそうな苦しい夜も ある。心が凍てつき麻痺しそうな寒い夜もある。優しさを手放そうになる時も、ね」 普段はお茶目で陽気で、ボールが弾むような軽さのあるマスカダインだけれど。今はどこか、憂いげで、静かで。 「その道化師なら、こんなときどうするんだろうって考えて……そうやって落ち着くようにしてるんだ」 「心の底から、その人のことを想っているんですね」 「想ってる……そうだね、そうかもしれない。そう、愛してさえ、いる」 いきなり唐突に、そんな歯の浮くような言葉を走らせる。メルチェは思わずどきっとして、顔をほんのり赤くした。 動揺するメルチェを気に留めることなく、マスカダインは詩を紡ぐような静けさを漂わせて。 「そんな人を愛せた僕は、きっと一番幸せな人間なんだよ」 だから、と。ふとメルチェに向き直り、いつもの緩い笑みを向けて。 「世界のみんなを笑顔にするんだ。だったら自分も幸せにならなくちゃね。そう思わないー?」 「そうですね。今のように素敵な笑顔ができるマスカダインさんなら、きっとたくさんの人を笑顔にできると思いますよ」 「お褒めに預かり光栄です、大人のお嬢さん」 「やだもう、マスカダインさんったら」 演技掛かった色気ある声音で、でもからかうような表情でマスカダインが言うものだから、メルチェは冗談交じりに手を一振りし。 「あっ、そういやさー」 ぴ、と指を立てて、マスカダインが気さくな様子でこう言った。 「この前、またチャイ=ブレさんの所に忍び込んだのよ」 とんでもないことをさらりと言ってのける。 「……あなたは何をしているんですか」 とがめるような視線でじとりと睨むメルチェ。マスカダインは相変わらずへらへらと笑っている。 「だってさー。なんか討伐論も高まってるし、これは早く仲良くならなきゃと思って」 「チャイ=ブレさんと仲良く、ですか……私達のようなヒトとは違って、言葉や感情による交流は不可能であるといったようなことを聞いていますけれど」 「でもでも、友達ってそういった理論とかより、やっぱりフィーリングじゃない?」 「それはそうですけど、それはヒトに限った話では……?」 「んで、じゃあ仲良くなるためにはやっぱ直にフィーリングってことでさ、チャイ=ブレさんの心を覗いてたんだよね。そしたら向こうは寝惚けてたのか、こう、バクッと喰われちってさー」 「べふっ」 紅茶を飲んでいた手が止まり、げほげほと咳き込むメルチェ。 「……ちょっと前に世界図書館が騒がしくなっていたのは、あなたが悪戯をやらかしたからだったんですね」 「あはは、そうそう。あんまり表沙汰にはならなかったんだけど、中じゃ結構な騒ぎになっててさー。いやーリベルさんにも他のみんなにも、すっごい怒られちゃって」 「当たり前ですよ。マスカダインさんは子どもですね……メルチェのような大人にならなくちゃダメです。いいですか、大人というものは――」 「そしたら色々と検査とかされてさあ」 「話を聞いてくださいっ」 たしたし、とテーブルをはたいてメルチェは抗議する。 でもマスカダインは気にすることなく、あっけらかんとこんなことを言った。 「そしたらなんか、僕――不死身になってた☆」 「……」 メルチェは目が点になる。マスカダインはにこにこしている。 「ふ、不死身、ですか」 「そ、不死身だよ。何しても死なない、殺しても死なないっていうアレさー」 マスカダインはのん気な様子で、ずずっとお茶を啜る。一方メルチェは予想外のカミングアウトに、どう答えてあげればいいのか分からない様子だ。視線が泳ぐ。 「そ、そうですか」 「そうなんだよー。いや、本当に試してみたら死ななくてさ、びっくりどっきりしちゃったよー」 「試したんですか……」 「そうそう。具体的にはまず――」 不死身をテストするために実行したあれこれを、指を折って数え始めるマスカダイン。ちょっと聞いただけでも鳥肌が立つような内容がちらついたので、メルチェは顔を蒼白にさせながらガタッと席を立ち、ぶんぶんと首を振る。 「い、言わないでください! いいですいいです、やめておきますっ」 「えー。ちぇ、つまんないなー」 マスカダインは、遊んでくれないのを不満がる子どものように、ぶーと不満げに頬を膨らませる。 メルチェはこほんと咳払いを挟むと、諭すような声音で語り始め。 「いいですか、マスカダインさん。人を笑顔にするには、驚かせる手法があるのも確かです。でも驚くこと全部が、すべての人に笑顔や幸せをもたらすとは限りません。そこは慎重になってくださいね」 「大丈夫大丈夫。分かってるよー」 「本当に分かってるんですか……」 手をひらりひらりと軽く振りながら、にゅふふと笑っているマスカダイン。メルチェは怪訝そうな表情を向けつつ、そっと席に戻った。 「マスカダインさん。もし本当に不死身になっていたとしても、だからといって命が軽くなったわけではありませんからね」 「そうだねー。不死身って言っても、やっぱり痛いし苦しいしねぇ」 「いいえ、そういうことではありません」 ぴしゃりとメルチェが強く断言する。マスカダインは「おっ」と面白そうな声をあげ、メルチェが真剣に語る内容に耳を傾けた。 「マスカダインさん。あなたは何でも愉しそうに取り組む方ですから、きっと不死身になったということもおもしろおかしく捉えているんだと思います。心の裏では違うかもしれないけれど、少なくとも表面上は、そう思えます」 「うんうん、メルチェちゃんの推理は当たってるよー」 道化師は緩く笑みながら、少女の続く言葉を待つ。 「命の大切さは、不死身だとか蘇生するとか傷つかないとか、からだの特性で決まるわけじゃないんです。どんな風に命を扱うかです。自分の命も、他人の命も……」 メルチェは今まで、人造生命でもある人形を数多く製造し、行使し、使い果たしてきた。自分以外の命を己の力としている。それ故か、メルチェは個の大切さを必死に真剣に、マスカダインへと説いている。 「だからいくら不死身になったからと言って、無茶はしないでください。死なないから粗末にしていいのでは、ないのです。どんなことをしてもされても、死ぬことはなくても……マスカダインさんは、生きています。だから生きてるということ、もうちょっと大事にしてくださいね……」 そこまで言うと、言葉は尻すぼみに小さくなっていき。顔や視線も俯いて、どこか寂しそうに肩を落とす。 「ありがとうねー、メルチェちゃん。ゆるーいボクを、こんなにまで心配してくれて」 マスカダインは席を立ち、椅子の上でしょんぼりしている少女の頭を、ぽふぽふと撫でる。 「でも、ほら。ちっちゃくて可愛くて大人なキミは、笑ってる方がうんと素敵なのさー。だからお願い、これで元気を出しておくれよー」 優雅な振る舞いでメルチェの傍に跪いたマスカダインが、くるんと大げさに手首を捻る。すると何も無かったはずの指先に、次の瞬間には一輪の花が摘まれていたのだ。 メルチェは涙交じりの双眸で、その花とマスカダインの顔を交互に見つめて。そしてくすりと笑いを洩らして。 「しょうがないですね。メルチェは大人ですから、あなたの気持ちを受け取ってあげます」 「ではお詫びに、希望の道化師たるこのマスカダインめが、涙で頬を濡らす姫君のために、とっておきの芸を披露致しましょうー」 芝居掛かった声音で、そんな前口上を紡ぐ。小さなひとりの観客が、涙を拭ってからぱちぱちと控えめに拍手をした。 そうして道化師は今日もまた、誰かひとりの心を笑顔と驚きで満たしていくのだ。 <エピローグ:マスカダイン 了> ▼エピローグ:ユーウォン 0世界、ターミナル。 異世界での依頼を終えたロストナンバー達を乗せる車輌が、0世界へと戻ってくる。 駅前は世界図書館へ報告に向かう者や、自分のチェンバーに足を向ける者達の姿でごった返している。 駅前のカフェでひとり、のんびりとお茶をしていた猫耳フードの女の子――メルチェット・ナップルシュガーは、帰還した一団の中に見知った顔を見つけたので、手を振ってアピールした。 少女に気づいた人物――人よりも竜に寄った外見特徴を持つ竜人のユーウォンが、その席に歩み寄ってくる。 「やぁ、今日和。メルチェ」 「今日和、ユーウォンさん。……荷物を手にしている様子からしますと、先ほど帰ってきたところですよね。お疲れ様です」 「うん。本当に今、帰ってきたところさ。メルチェは?」 「今日はおやすみなので、ちょっと行きつけのカフェでお茶をしている最中です。よろしければご一緒します?」 空いている向かいの席を手で示すメルチェ。 「ちょうどいいや。おれ、小腹が空いてたんだよね」 口許に細い手を当てながら、ユーウォンはけししと笑う。少女に相席し、テーブルに置いてあるメニューを開いた。 † 「そういえば、ユーウォンさんはどこに行っていたんですか?」 「ん、故郷世界が見つかったんでね、ちょっとそこまで」 運ばれてきたサンドイッチを口の中へ放り込みながら、ユーウォンは淡白な様子でそう語る。 メルチェは表情を輝かせ、絡ませた両手を胸の前へ持ってきて。 「あ、無事に見つかったんですね! おめでとうございます。久しぶりに里帰りができて、良かったですね」 「んーでも、別にそこまで感動してるわけじゃないんだよね。へー見つかったんだーくらいで」 「え、そうなんですか?」 まるで他人事のように語るユーウォンの様子に、メルチェはきょとんと首を傾げる。 「てゆーか、別におれは今まで、故郷の世界を探し求めてたわけじゃないんだよね。今回そこへ行ったのは、おれと同じ故郷世界からやってきてたニンゲンが、実はロストナンバーとして混ざっていたってのを知ってね。そいつの集落を見つけるのを手伝ってあげたのさ」 「同郷の好、というものですか?」 「ま、そんな感じかなー」 サンドイッチをしゃくしゃくと頬張りながら、ユーウォンはまったりとそう話して。 メルチェは相槌を打ちながら、紅茶を傾ける。 「なるほどー。そのお友達は、故郷世界に帰属をするのでしょうか……あ、ユーウォンさんはどうするんですか? 特に、故郷に対するこだわりはないみたいですけど……今回、久しぶりに帰って懐かしく思ったりはしなかったんですか?」 「そうだねぇ……」 ユーウォンは骨ばった指先に生えている鉤爪で、ぽりぽりと顎の下を掻きながら。 「今回の旅でさ、随分久しぶりに元の世界を旅してみたんだ。相変わらずじっとしてることのない騒がしい世界だったし、でも思いがけない変わり方してるところもあって、退屈はしなかったんだよね」 でも、と言葉を挟む。腕を組んで瞳を閉じ、どこか軽い調子で思考をして。 「何てゆーかな。やっぱり……うん、つまないんだよな。あー別にダメっていう意味じゃなくてさ。こう……」 うまく言葉にできないもどかしさなのか、わきわきとユーウォンの手が蠢く。 口許に指をあてがいながら思考していたメルチェが、彼の言葉を反芻しながら代わりの言葉を探す。強い否定でもなく肯定もないのだとすれば。 「悪くはないけど、プラスへの振れ幅が物足りない感じ……といったところでしょうか」 「そうそう、そんな感じ!」 ぱちんと指を鳴らし、納得の様子を示すユーウォン。 「ほら、おれ達って、元々は故郷世界が唯一の世界だって思ってたワケじゃない? 世界はそこひとつで当たり前って。そりゃ、その世界ひとつとっても、全部の謎が解明されているわけでもないし分からないことだってたくさんあるんだけどさ……でもロストナンバーになって、異世界っていう物凄く広い概念を知っちゃうとさ。やっぱり、こう……目覚めちゃうんだよね!」 「あ、それはメルチェも大人なのでよーく分かります。未知との遭遇、未知の体験……見聞がぐーんと広がる感触がするんですよね」 お互いにうんうんと頷きながら、愉しげな様子で会話は続く。 「そうなんだよね。故郷世界の他にも、もっと色々な全然違う異世界があるって分かって。そこを行ったり来たりする面白さを知っちゃったらさ……故郷世界に帰属するのが、何だか勿体無い感じがしちゃったんだよね」 「ひとによっては、故郷世界を見つけると同時に帰属の徴候が見られるケースも少なくなかったようですけど、ユーウォンさんはそうではなかったようですね。うふふ、大人なメルチェと一緒ですね」 「へー、メルチェもそうだったんだ?」 瞼をぱちくりさせるユーウォンに、メルチェは胸の前で祈るように掌を合わせながら、うっとりとした様子で。 「ええ。御伽噺や空想でしか在り得なかったはずの世界がそこにあるだなんて、ほんとうに感動で。それに、そうした架空の物語ですら描くことのできなかったようなすごい世界もたくさんあって……それを見たい、知りたい、感じたいって思ったんです。だからやっぱり、世界ひとつに帰属しちゃうのが勿体無いって思う気持ちが、今の私にはあるんですよね」 「おれも同じ気持ちだよ。ひとつじゃ物足りないんだよね」 大皿に乗せられたクッキーを、ふたりでちょこちょことつまみ始める。 「それにさ、世界を探索するだけじゃない、それと同じくらいに気になるもの……あるでしょ?」 「世界を旅すると同じくらい、好奇心をそそるもの……ですか?」 うーん、と真剣な様子で考え込むメルチェ。ユーウォンはにまにまと期待に口許を緩めていて。 「……アリオさんはいつ主人公になれるのか、とか」 「そりゃ無理だと思うよ。なんか風格ないもん、あのひと」 「そうですよねー」 当たり前のようににこやかな表情を浮かべるメルチェ。 一方、どこかにいるアリオは大きなくしゃみをしていた。 「他には……ブランさんがどんな世界に帰属するのか、とか」 「あのニンゲンモドキの雄うさぎかー。ブランは貴族っていうひとだよね。それと同じ生き方をするやつが多い世界なんじゃないの? 共通点も多い方が暮らしやすいだろうし」 「けど、意外に遊び心に溢れているところもあるひとですし、貴族社会のような堅苦しさとは無縁の世界で、ユーモアに満ちたホテルの支配人に……なんて似合いそうじゃないかしらって思うんですよね」 「ブランが支配人のホテル? 何かチェックインするたびに延々と長話を聞かされそうだなあ……」 げえ、とまずそうに舌を出すユーウォン。 一方、どこかにいるブランは大きなくしゃみをしていた。 「アリオでもブランでもないよ。正解は今、おれ達がいるココのこと」 ユーウォンはついつい、と足元の石畳を指差す。 「ここ……0世界、世界図書館……あっ、チャイ=ブレさん?」 「なんでさん付けなの?」 「な、何だか一応、生きてるみたいですし、神様のようなものだって聞いていたので……」 ちょっと恐れ多い様子で、戸惑いがちにメルチェはそう返す。ユーウォンはさして気にも留めない様子で。 「ふーん。で、そうなんだよ。ココがこれからどうなるかってことさ、おれが気になっているのは。チャイ=ブレは現状維持が手一杯のようだけど、ワールドエンドステーションから色々と情報が得られたみたいだし、きっと何か変わっていくと思うんだよね」 「世界図書館自体も、色々と内部の組織構造などで改革が始まっているようですしね」 メルチェはおかわりの紅茶を自分に注ぐ。つつつ、とティーカップを差し出してきたユーウォンにも、紅茶を注いであげる。 「ん、ありがと。――でもさ。この0世界に在るものって、基本的に変わんないよね。こうやって人の手が入ってターミナルとかが作られて棲めるようになってるけど、このずっと向こう側って、何も無いって言われてるじゃん?」 「そういえば、そうでしたね。地平線が霞むくらいに離れてしまったら永遠の迷子になってしまいますもの。ここは……ターミナルの外には、本当に何もありませんからね」 「そうそうそこなんだよポイントは」 「……?」 メルチェは、ティーカップを傾けたまま静止して考え込んでいたが、やがて難しそうに眉をしかめた。 ユーウォンは分かりやすい言葉を選ぶために、紅茶を口にしながら思考をして。 「んーとさ。この0世界には何もない、変化がないってさ……皆、当たり前のように受け入れてるじゃん? どうして? なんで疑問に思わないの? なんでここには何もないんだろうって、ふつー思わない?」 「0世界の謎、という感じですか? うーん。きっと今まで、気になったひとは居ると思いますよ」 でも、と。メルチェはカップの紅茶に目を落としながら、ぽつぽつと言葉をつなげる。 「でも、その疑問を解決するような情報がまったく何もありません。材料もないのに料理が作れないと同じで……何もないのだから、何もないということ自体に理由や根拠を、見出せないのだと思います。考えようがない、とでも言えますね」 「そう、考えようがないよね。でも……何もないって絶対、不自然だよね」 「ふーむ。大人な推論ですね。何か根拠があるのでしょうか」 「大抵の世界ってそうだと思うけど、誰も手を加えないけど勝手に何かが働いて勝手に何かが起こる……っていうのが基本だと思うんだよね。自然の仕組みとかさ、あれって別に誰かが操作してそうなってるわけじゃないじゃん? 勝手に昼から夜になって、勝手に晴れたり雨が降って、勝手に命が生まれて死んでいく。そう、世界って自分勝手が必ずあるものだと思うんだ。世界もきっと、自分勝手に生まれたはずなんだよ。自分勝手があるから世界として成り立っているし、世界が存続してるんだと思うんだよね」 身振り手振りを加えながら、ユーウォンはどこか興奮した様子で話を続ける。 「けど0世界は、そういった自分勝手が、何もないでしょ? 自分勝手が存在しない世界って、じゃあどうやって生まれたの? 何もない世界が、何もないところから生まれるかな?」 「……生まれない、と、思います。たぶん」 「うん。たぶんきっと。生まれない。0世界は自然には生まれない。生まれたら不自然なんだ」 「でも存在しています、ね」 「そう、そこだよ。存在してるってこと自体が不自然なんだ。生まれるはずのないものが、なぜか、こうやって、在る」 両手を広げながら、周囲を見渡すように顔をめぐらせるユーウォン。メルチェも釣られて、ここから見える0世界を眺める。様々な世界からやってきたロストナンバーやロストメモリーが作り、拡げていった街並みはすべて後から作り上げていったものだ。 「最初はアーカイヴ遺跡意外は何も無かった……そう、聞いてはいますけれど」 「そう。まるで誰かが、最初から他は何も無いように作り上げたみたいだよね」 背もたれに体重を預け、椅子を傾けさせながら。ユーウォンは感慨もない様子で0世界を見渡す。 「なんでこんなとこ、作ったんだろうねー。変化がないって、つまらなくないかな」 とん、と傾けていた椅子を戻して。 じぃ、とどこか手元の一点を見据えながら、ユーウォンは淡々と語る。 「世界ってさ、変わっていくんだよ。次の日にみたら、いきなりそこに有ったはずのものが無くなってたり、無いはずのものが有ったりするんだ。街や村、国や社会、もっと大きく言えば土地や環境自体。目まぐるしくいつも変わっていて、そこに停滞し続けるってありえないものなんだ」 「土地も人も、一期一会。今のそれは、今そこにしか存在し得ないもの。当たり前で残酷な、誰にも止められない流れそのもの……」 ふたりは互いに、どこともない場所を見据えながら会話を続けている。 「そう。おれは、そんな変化が大好きなんだ。変わってゆく様を見るのが大好きなんだ。目の前に見える今は、どうなっているんだろう。今まではどうだったんだろう、これから先はどうなっていくんだろう……そんなことに想いを馳せるのさ」 「大人ですね」 「そう?」 「メルチェほどでは、ないですけどね」 く、と顔を上げていたメルチェが、得意げに唇を尖らせる。 ユーウォンはまた出たよ、と言わんばかりに、呆れるように仰々しく肩をすくめて。 「ま、だから、何も変わることが無い0世界って、おれにとってはもどかしい場所でしかないんだよね。ごはんを食べるまで、何もない牢屋に閉じ込められている感じ。おれにとっては、ごはんは旅そのものなんだ。いつまでもどこまでも、ずっとずっと旅をしたいもんだよ。まぁナレッジキューブを貰わないと生活していけないし存在が保証されないし、仕方なく帰ってくるけどね」 そう弾む調子で語るユーウォンだが、何やらメルチェは顎に手をあて神妙な面持ちで思考している様子で。 「今、ユーウォンさんのお話を聞いていて……メルチェは大人なので、0世界についてある考えが思い浮かんだんですが――」 「へぇ?」 「世界にはプラスとマイナスの階層がある、という話はご存知ですよね」 こくこくと頷くユーウォン。興味深そうな話に、彼の目がわくわくと輝く。 「ユーウォンさんがおっしゃるとおり、何も無いという不自然な0世界が、何者かによって作られたものだとして。なんでプラスでもマイナスでもないところに、変化のない世界を、わざわざ作ったのか……」 メルチェは、ぴっ、と指を立てて。どこか憂いを帯びた微笑みを浮かべながら、優しく言葉を紡ぐ。 「それは、0世界自体を、思い出のアルバムになるようにしたかった。帰る場所のない誰かを、いつでも受け入れてくれるおうちにしたかった……そんな気がするんです」 ユーウォンは掌の上に顎を乗せ、ふんふんと興味深そうに耳を傾けている。 「大切な記憶、大事な記録、掛け替えの無い思い出……たくさんのメモリを、いつまでも保存しておく場所。それには、世界が自分勝手な作用で自分勝手に変化せず、いつまでもそのままでいる必要があると思うんです。だから0世界には、保存するための装置であるアーカイヴ遺跡とチャイ=ブレさん以外には何もないし、何も起きない」 故に0世界には変化が無い。メルチェはそう語る。 「そして……世界というものが、自分勝手な作用で自分勝手に変化していくものであるから、無数の世界の中にも自然と消滅してしまうところだって、きっとあるはず。そうなったら、偶然その滅び行く世界を脱出できたとしても、ただぽつんと取り残されちゃうだけです。あったはずのおうちも無い、家族も友達もいない……それはとても、寂しいものです。そうやって、誰かが世界の迷子になったり、世界のひとりぼっちになったとき……そんな自分を受け入れてくれる、拾ってくれる、招待しておいしいごはんを食べさせてくれて、あったかいお布団で眠らせてくれる……そんな場所があったら素敵だから、どの世界からも遠くて近い、ゼロという場所に世界を作った。いつでも誰でも受け入れられるように、変わることのない世界を作った……」 故に0世界には変化が無く、いつまでも在り続ける。メルチェはそう語る。 「おうちって……ゆっくりできる場所だと思うんです。そのゆっくりを極端にすれば、いつまでも変わらずいつまでも在り続ける場所、と言い換えられるとも思うんです。変化に苛まれることなく、ほんとにゆっくりできる場所……それが、0世界なんですよ。メルチェは大人なので、そう哲学します」 ゆっくりたっぷりと語ったメルチェは、疲れた様子ではふ、と溜息洩らし。ぬるくなり掛けている紅茶で喉を潤す。 その間に、ユーウォンは腕を組んだまま天を仰ぎ、静かに考えをまとめていて。 「こんなおれだからさ、ロストナンバーになる前も旅が日常だったし、帰る場所っていうのが無かったんだよね。行く場所だけがあったんだ」 今度はメルチェが聞き、ユーウォンが話をする番だ。 ユーウォンは思い浮んだ考えを確かめるように、ゆっくりと言葉に変換していく。 「ロストナンバーを保護する依頼や、故郷への帰属を願ってたロストナンバーとの出会って話してきてさ……『うちに帰るって、どんな感じなんだろう』って、ずっと思ってたんだ。帰るって感覚がいまいち分からなかったんだ。でもメルチェの言葉を聞くとさ……それが、ちょっと分かった気がする。行く場所って、進むことと同じなんだよ。前に進まなくちゃ、そこに行けない」 ユーウォンは掌を見下ろし、試すように動かしながら言葉を紡ぐ。 「でも帰る場所は、進むんじゃなくて……きっと〝とまる〟ってことなんだ。休むってことなんだ。休憩所や宿泊所とは違う。何もしなくても、そこに〝とまって〟いることが許されるっていう場所なんだよ」 並べられる言葉を耳にしていたメルチェが、にこっと表情を弾ませて。 「そして、そんな場所が心地よいと思うのだったら、いつでも帰ってくればいいってことなんでしょうね」 「で、そんな場所をつまらないって思うんだったら、愉しいって思える場所に飛んで行けばいいってことなんだろうな」 ふとふたりの視線が交錯する。お互いにお互いの結論を導き出せた、ということを視線だけで理解し合い、ふたりは元気良く、同時に席を立って。 「なので、私のようなひとにとっては、旅は通過点なのかもしれませんね!」 「だから、おれみたいな奴にとっては、旅はそいつそのものなんだろうな!」 生きるということが、点と線で形作られているのなら。点にたどり着くことを人生とする者もいれば、線を引くことを人生とする者もいる。そういった結論だ。 しばらくふたりは、言葉を交わさぬままにこにこと笑い合った。そしてゆっくりと再び席について。 「ふー、何だかスッキリしたよ」 「すごい壮大なお話に膨らみましたけど、結局は近しい日常のことに戻ってきちゃうものなんですね」 「あはは、ほんとだ」 おもむろにふたりが同時に、皿の上のクッキーに手を伸ばした。クッキーはそれが最後の一枚だった。 ユーウォンが先にそれを手に取り、半分に割った片割れをメルチェに差し出し、にかっと快活に笑う。 「ただのニンゲンだと思ってたけど、きみって面白いやつだな」 「ただの竜人かと思っていましたけれど、あなたって面白いひとですね」 メルチェはすました様子でクッキーを受け取り、同じような笑みを返す。 「私達、改めてお友達になりましょ? こんなに深いお話をできるひとなんて、そうそう居ないですから」 「ん? 別にいいよー」 差し出された少女の手に、竜人の細い手がしっかりと応えた。握手にぎにぎ。 「せっかくですし、何か一緒に依頼でも受けませんか?」 「そいつはイイね。ちょうど暇になったところなんだ」 「じゃあ早速、世界図書館に向かいましょ!」 「面白そうな依頼、あるといいなあ」 「ありますよ、きっと。だって世界はたくさん有るんですから――」 そうして二人は、いつもの日常へと回帰していく。 大切な数字を失っていたとしても、生き方を見失ってはいないふたりの道は、これからもまだまだ続いてるのだ。 冒険は、終わらない。 <エピローグ:ユーウォン 了> ▼エピローグ:メルヒオール 0世界、ターミナル。 ロストレイルが0世界上空を往来する様子と、駅に出入りする者の姿がよく見えるカフェテラスに、メルチェは居た。 「あ、そうですね……」 駅を出入りするまばらな冒険者達をぼんやり眺めていたメルチェは、ふと気がついた。 「もうメルヒオールさんとイーリスちゃんは、ここで出会うことはないんですよね……メルヒオールさんは故郷世界に帰属して、イーリスちゃんはそれに付き添って」 彼らはもう、その世界の番号を手に入れてしまっている。ナンバーを持つ者は、ナンバーを持たない世界に足を踏み入れることはできないのだ。 未だ番号を失ったままである自分がチケットさえ手に入れれば、会いに行くことはできる。でももう、自分と彼らの間には、大きな隔たりが出来てしまっているのだ。 すなわち、番号を得た彼らの〝時〟は、もう。動き出している。 「ふたりとも、元気にやっているのかなあ」 先生と生徒。そのふたりに、のんびりと想いを馳せるメルチェであった。 † 「本当に、良かったのか」 「うん?」 「俺と来るなら、すべてを捨てなければいけない。このミスタ・テスラにあるもの、すべて。故郷も家も友人も、家族も……この世界で生まれて育ったという歴史すらも。すべて、無くなっちまうんだぞ」 「……」 「旅人は、人々の記憶からも消え行く存在なんだ。おまえ達が今まで、都合よく俺達を忘れられてそれを不自然に思わなかったのにも、そういう理由がある。……旅人っていうのは、永遠の孤独の寂しさに苛まれ続ける、呪いのような存在なんだぞ。それなのに――」 「大丈夫だよっ」 「……」 「記憶も歴史も思い出も……失っていくなら、作っていけばいいでしょ? 今の先生と私みたいに、さ」 「……」 「ねっ?」 「……そうだな」 「ふふふ」 「……幸い、俺は研究だったらできないことも、ない。おまえを魔法でメンテナンスする方法も、あるかもしれない。いつか必ず、見つけてやるよ。おまえの努力に、今度は俺が報いる番かもしれないからな」 「何よ、私が大人しくしていたら先生らしくもないこと、ペラペラとお喋りしちゃってさ」 「な、なんだよ……」 「なーにが、俺が報いる番だー、よ。そんなの当たり前でしょ!」 「当たり前なのか……」 「それだけじゃなくて、たくさんたくさん報いてもらうんだからね。覚悟しててよね」 「ぐぐっ……」 「その分、私……先生のお傍で、うーんとご奉仕してあげるね」 「……」 「……あ、今照れてる?」 「うっせぇ」 「あはは、先生可愛い! ……未熟者ですが、これからよろしくお願いします」 「……今更、かしこまることもないだろ」 「それじゃあ――これからもよろしくね、せーんせっ♪」 「あーもう、抱きつくんじゃない!」 石の魔女を撃退した直後。イーリスとそんなやり取りをしたことを、メルヒオールは思い出す。 それも、もう2年前のことだ。 あの前後に、調査隊がワールドエンドステーションを見つけ、重要な情報の数々を持ち帰ってから、早くも2年が経過した。 メルヒオールは、ついに自分の故郷世界を探し当てることに成功していた。 (砂漠から一粒の宝石を見つけるような確率なんだろうが……思ったより早く見つかるもんだな) 故郷が見つかって嬉しくないわけでは、ない。ただ少し呆気ないだけだ。気の遠くなる時間がかかってしまうだろうと予測していたから。 ワールドエンドステーションでの接触によって、故郷世界を発見し帰属を済ませる者は自分達以外にも大勢いたが、世界は星の数ほど存在する。見つかるケースの方が稀なのだ。 (しかし結局、故郷世界にイーリスを連れて行った際の〝言い訳〟はうまいもんが思いつかなかったな……) そこが本当に求めていた故郷世界である、という確証を見つけるために、下調べに何度か事前に訪れてはいた。言語や歴史や地形などを慎重に調査していった結果、ここが自分の故郷世界そのものであると判断した。そして今回は本格的な帰郷のため、こうしてロストレイルに搭乗しているのである。 ただし、ふたりの真理数は相変わらず消失したままだ。何をきっかけに再帰属に至るのかは検証が不足しており、いつ真理数を獲得できるのかは分からない。 「まぁ何とかなるか……」 「心配なの?」 ロストレイル車輌内部。メルヒオールと向かい合うように座っている同行者の少女、イーリスが声を掛けてくる。 「まさかいきなり帰属できるってわけでもないでしょうし、細かい部分はロストナンバーの〝旅人のちから〟が、都合よく理解を修正してくれるわよ」 「だが、いくら不都合を都合よく受け入れてくれるとは言っても〝行方不明だった男性教師が突然、歳の離れた女子と一緒に帰ってきた〟というのは、さすがにすんなり受け入れられはしないだろ……」 「それについては、ばっちり対策済みよ。安心して頂戴、先生っ」 イーリスは、とんと己の胸を軽く拳で叩き、自信ありげに微笑んだ。この件に関しては彼女に任せよう、と思うメルヒオールである。面倒だからだ。 「そういえば、きちんと帰郷をするのは今回が初めてで、確証が持てるまでは知り合いの人と接触することは無かったんでしょ。今回はどうするの?」 「教育学会とか役場への手続きとか、面倒なのは後だ。まずは知り合いに、きちんと顔を合わせる。家族に会って、生徒に会って、それから――あ」 メルヒオールが頭を掻くのをやめ、ほふ、と気づいたように口を開けた。それから肩をすくめるように揺らして、小さく笑うのである。 イーリスが不思議そうに小首を傾げる。 「どうしたの?」 「家族や生徒よりも、まずおまえと一緒に行くべき場所があるな」 「なーに? どこか連れて行ってくれるの?」 席から身を乗り出し、わくわくとした笑顔を近づけてくるイーリス。メルヒオールは、車輌の窓越しに見えてきた故郷世界を眺めながら、懐かしそうに呟いた。 「墓参りさ。それも、うんざいりするくらいに、うんとデカい墓だぜ」 † それは、個人が所有するには大き過ぎる塔だ。 灯台のように、ただ高みに登っていくだけの施設とは構造がまるで違う。住居であり倉庫であり図書館であり研究施設でもあるそこは、塔というよりも城に近い。しかも、それを上へ上へと重ねていったようなものなのだ。無秩序に。 広くて、大きい。どう考えても、個人ではその広さを持て余す。 「ちょっと……待ってよ、先生……放熱、追い、つかない……」 「なんだ、元気が取り得のおまえにしちゃ、俺より先にバテるなんて珍しいな」 イーリスより十段程を先を行くメルヒオールは立ち止まり、疲れてふらふらしている女生徒を見下ろした。彼の顔はいつもより、どこかいじわるだ。 「なんで、平気なのよ……いつ、もは……そっちが、すぐ……疲れる、くせ、に」 「……ま、慣れだな」 塔は大半が物置になっていた。使っていない空き部屋も多く、埃と蜘蛛の巣だらけ。生活するための設備もまるで整っていない。きちんと整備すれば、数十人は暮らすことができるような場所ではあるけれど。 しかも、この高い塔は自分の足で登る以外の移動手段がない。文明レベル的には昇降機があってもおかしくないのに、それが無いのである。いくつもの階層を挟んで、ぐるぐると螺旋状に伸びている階段の連続は、人間よりも体の丈夫な機械人形であっても、相当過酷のようだった。 「だめ、もう、熱暴走しそう……一気に放熱、する」 イーリスは投げ出すように手荷物を放ると、石の壁にてろんと寄りかかった。 億劫そうな手つきで、女中服を思わせる白いエプロンの紐を解き、黒いワンピースのボタンを外して、球体間接を外気に露出させる。わき腹や二の腕、腰やスカートといった、普通なら無い箇所にもボタンがあつらえてある。それらをすべて外すと、イーリスは半ば服を脱ぎかけたような状態となる。傍目から見れば、ちょっとだらしない格好だ。体の肝心な場所は見えず、けれど露出の多いその姿は、ひとによっては扇情的に映るのかもしれないが、メルヒオールにそういった趣味はない。ましてや相手は生徒だし。 露になった肩口や背中、首元、腕や太もも、腰。各所にある小さなコックを捻ると、体の表面装甲に隙間が生じ、そこから高熱を伴った蒸気が甲高い音を立てて放出される。蒸気の勢いに、脱ぎかけた衣服が無造作にはためく。 「ふー、すっきりした……もう何なのよ、ここ」 「最上階に着いたら教えてやる。ほら、放熱済ませたら早く来い。置いてくぞ」 「あーん、早いっ。関節に油差すから待ってよ、せんせー!」 わたわたと服を着直すイーリスを置いて、メルヒオールはさっさと先に行ってしまう。 そうしてふたりが最上階に辿りつく頃には、イーリスはすっかり疲れ果ててしまっていた。 今、イーリスは最上階にある個室のテーブルに着き、自分の腕や脚を外し、持ち込んだ専用の工具を使って自力で分解・整備している。 メルヒオールは埃の積もった机の上に放置されていた、色褪せた紙の資料を手に取っている。遠くを見つめるかのように目を細めている。 「先生って、前からずぼらって思ってたけど……本当にずぼらだね。ここ、絶対に掃除したこと一回も無いでしょ」 機械を弄るカチャカチャとした音に乗せて、心にぐさっと突き刺さるような呆れの声音が、メルヒオールの耳に届く。 「……否定は、しないけどよ」 「なんでこんなとこに案内したの? 普通、人間のお墓って土の上に作るものなんじゃないの?」 「この塔自体が、墓のようなもんだ。俺に魔法を教えてくれた、うんと意地の悪いババアのな」 ババア、と乱暴な物言いこそするけれど。メルヒオールの声音は、これまでイーリスが耳にした声のなかで一番優しく、穏やかだった。思わずそんな教師の横顔に見惚れてしまい、回路内部が無意味な熱を持ち始めるのを自覚する。イーリスは慌てて、分解した自分の腕に視線を落として。 「そそっ、そ、そういえば、先生はどうして紙に魔法を書くの? 普通、魔法って杖や宝石とか、そういった媒体に魔力を込めて、簡単に何度でも使えるようにしておくものでしょ」 「武器や道具に魔法を封じて使うのが、まあ主流ではあるな。自然の素材……とくに旧い樹木や宝石には見えない力が宿るとされているし、金属なら銀は魔力を帯びやすい」 よく調べたな、という言葉にイーリスは「偉い?」と、はにかみ笑いを浮かべて。 「でも先生、そうはしないよね。魔法の式と紋様と印を、わざわざ小さな薄い紙に書いて……魔法をひとつずつ、時間を掛けて準備してる。もっと効率の良いやり方もあると思うけど」 「紙の命は、一度きり――」 長らく開いていなかったであろう本の表紙を撫でながら、メルヒオールは歌うように呟いた。 「俺の先生が、そう言ってたんだ。……紙は、脆い。せっかく魔法を込めても、一度発動させたらすぐに無くなっちまう。紙の命は、脆くて繊細だ。一度きりしか、役に立たない。でも一度きりだからこそ、強い想いがこもる。魔法の力は想いの力、想いの強さは魔法の強さ。一度きりの命に、一度きりの命をしたためる……それが、想いという魔法の力の、根源だってな」 メルヒオールは思い出す。顔中に走るくちゃくちゃのしわを歪めながら笑う、ある老人女性教諭の顔を思い出す。 言動は意地悪なのに、瞳に宿る光は明るく優しかった。紙に式を記述して発動させる魔法も、この人から教わった。 腰の曲がった小さな体躯に、大きな自信と大きな心を秘めた、名前を知らぬ恩師。 それにまつわる話を、メルヒオールはイーリスに語り始めて。 「――という感じで、ババアは死んで、俺にはこの塔が任されたってわけだ」 「じゃあ結局、先生の先生の名前は分からなかったんだ?」 「まぁな。っていうか、先生の先生ってややこしくないか」 「でも事実でしょ? まぁ、大先生とか先生の師匠とか、色々と呼び方はあるけどさ」 なるほどね、と納得した様子のイーリス。外していた部品の数々を、再び自分の体の内部へと戻していく。接続・装着していく。 「まずはこの塔を掃除する。家族と住んでいた家は別にあるんだが、俺はもうこっちに住んでいたんでな」 「はーい。こんなにおっきくて広い塔なんて、私じゃないと掃除なんてできないでしょうしね」 「ま、それには同意だ」 「さて、それじゃあ着替えて始めよっと。掃除用具はあるけど、まずは地図がないと始まらないわよね……」 そう言いながら準備を始めるイーリスを微笑ましく見守りつつ、メルヒオールは天井の窓から差し込む陽光を見上げて。 厳しくて、毒舌で、人使いは果てしなく荒い、名も知らぬ恩師。眼鏡をずらして上目遣いにこちらをじとりと覗き込んでから「やれやれようやくご帰還かい。ったく、せっかく預けたモンをほったらかしにするんじゃないよ、このバカもんが」と、呆れ混じりの吐息を洩らすような、そんな幻像が脳裏に過ぎる。その後にきっと、くしゃりと顔を歪めて、企むように笑うのだ。あの恩師は。 (大丈夫さ、もう放っておきはしねぇよ……だから安心して、眠ってくれ) 内心でそう伝えてから、メルヒオールもイーリスと共に塔の大掃除に取り掛かった。 † メルヒオールは、務めていた学院に顔を出した。長い間連絡が取れず、一切の手かがりも残さず失踪していた彼が戻ってきたこともあり、同僚の教員達は慌てふためき、そして喜んだ。 「今までどこで何をしていたんだ」という問いかけには、イーリスが丁寧な口調で分かりやすく、けれど詳細に、その偽りの顛末を皆に聞かせた。 賊に囚われていた身寄りの無い自分を助けてくれたのがこのメルヒオールだとか、賊の追っ手から逃げるために船を使っただとか、途中で船が難破しただとか。 (冒険小説の読みすぎじゃないのか……) そう不安がるメルヒオールだったが、特に疑いもなく皆信じてくれたらしい。それどころか「色々と大変だったな」「しかし見ず知らずの女の子を助けて引き取るだなんて、おまえそんな気概があったんだな」などなど、涙ぐみながら手を取ってくれたり、抱きしめてくれたり、至れり尽くせり。 苦笑しながら、そんな教員達の対応をしているメルヒオールは、ふとイーリスと目が合った。ぱちんと星が弾けるようなウインクを飛ばす彼女は「どう? うまくいったでしょ?」と言いたげに、得意そうな笑みを浮かべていた。 † 「それで、きみがかつて担当していたクラスの子に、そのことを伝えたんだけど……」 締め切られた固い扉の前で、同僚は戸惑うようにそう言った。 「そいつは悪魔だ、先生じゃない! って言って聞かないんだよ。あげく、こうして教室に立てこもってしまった。何とかならないか?」 「何とかって……言われてもなあ」 帰ってきて早々、長らく顔も合わせていなかった生徒から、なぜ悪魔扱いされねばならないのか。メルヒオールは意味が分からず、閉ざされた扉の前で面倒くさそうに顔をしかめた。 「……合い鍵はないのか?」 「どうやら内側から、開錠を不可能にする魔法を使っているらしいんだ。鍵は使えない」 「っていうか、生徒の悪戯ひとつ止めることができないなんて、先生方としては問題があるわよね」 イーリスが素直にそんなことを口走るものだから、メルヒオールは咄嗟に彼女の口を押さえて。 「とりあえず、ここは俺が何とかしておく。復帰ための手続きとか調べておいてくれるか」 そう言って、同僚には引き取ってもらいつつ。 「……中に居るのは、アルスとクルスのふたりに、シュアとルカラだな。事前に聞いてるぞ。馬鹿なことやってないで、早く出て来い」 「うるさい、この下級悪魔め!」 男子生徒の声が扉の向こうから飛んできた。アルスとクルス、双子のどちらかの声だろう。 「前のように、また僕達の先生に化けて出てきたようだけど、もう騙されないぞ!」 「そうだそうだ! ほんとは妖精を召喚したかったのに、こっちが呪文を間違ったからって、なんでおまえのような意地の悪い下級悪魔が出てきたんだ。あんなことやこんなことまで、先生の振りして指示しやがって。おかげで、こっちは罰として余計な課題に追われるハメになってるんだぞ」 「もともと研究レポートの提出もあって、今まで手付かずでこれから始めようってときに、こんな目に遭わせて……」 「てゆーか、またアルスが召喚したんじゃないの」 「違うよ、クルスだろ。僕はそんなヘマなんかしない! 前も課外講義で、黒魔術の召喚手順を間違えて、とんでもないもの召喚してたのはそっちじゃないか。あの竜のたまごが孵化してたらどうする気だったんだよ」 「おまえだって錬金術のクリエイト・キメラで失敗してたくせに何言ってるんだ」 間違って下級悪魔を召喚とは、双子は相変わらずくだらないことに意気投合していたようだ。 「レポートが間に合ってないのは、どう考えてもおまえ達の責任だろうが……あれだけいつも、前から早めにやっておけって言ってただろ」 呆れるように返すと、扉の向こう側から発せられていた攻撃的な空気に、戸惑いが混ざった。 「……あれ? 今先生、僕達の昔のことを知ってた、よな……」 「下級悪魔は、そんなこと知らないはずだし……」 「ううん、待って! ひょっとしたら他の先生から情報を引き出したのかもしれないわ!」 溌剌とした声が聞こえる。おそらくはシュアだろう。相変わらず元気なようだ。 「他の先生も知らない、私達とメルヒオール先生しか知らないこと、言ってみなさいよ」 「俺とおまえ達しか知らないこと……?」 ぼりぼりと億劫そうに頭を掻きながら、メルヒオールは思考する。別に秘密など共有していたわけでもなく、どうすればいいか思い悩む。 「ほーら、言えないでしょ? やっぱりこいつも悪魔だわ! まだ他にも残ってたのよ。何を企んでるか分かったものじゃないわ、絶対に開けないからね。ルカラにも酷いことして……」 「ルカラに? おいルカラ、大丈夫だったのか」 女の子らしき名前が挙がったことに、イーリスの眉がぴくりと動いたのを、メルヒオールは気づかない。 「ルカラ、悪魔があんたと誘惑しようとしてるわ。何か言ってやりなよ!」 「……あ、あの」 大人しい性格と気弱な性分が声だけで分かるような、か細い声。おずおずと扉の向こうから聞こえてくる。 「その……ほ、本当に、先生なん、です……か……」 「ちょっとルカラ、やめときなよ」 「そうだよ、あいつ絶対悪魔だぜ」 「こっちを騙そうとしているんだって」 「も、もし先生なら……!」 懸命に震える声を張り上げて、ルカラが扉越しに話しかけてくる。 「先生なら……私達の、こと……いっぱい、知ってる、はずです……そそそ、それを、教えてくだ、さい……」 最後にはもう掻き消えるような小ささになってしまった女生徒の声。相変わらずびくびくと弱気なようだ。けれど勇気を振り絞る強さが表れていたことに、失踪していた間の成長を感じて。メルヒオールは微笑ましくなる。 「そうだな……まずはルカラ。シュアと大の親友だ。性格はまさに正反対だが、妙にうまが合う。ふたりはいつも一緒だな。ルカラは、悪く言えば奥手だが、それは慎重ということだ。ただし成功体験が少ないこともあって、自分に自信がない。本当ならうまくいくことも、焦りと緊張で失敗しちまってる。でも泣きながらでも、最後まで物事を成し遂げる根性がある。弱気だが頑固だ。怖がりというのも、想像力がある証拠だ。自信の欠如は、思考を負の感情に沈ませる要因にはなっているが、悪い事態を想定する広い視野を持ち、未知に対して慎重に警戒することができる、鋭い感性を持っている。小さな仕草や言動ひとつで、ひとの感情を看破できる優秀な生徒、それがルカラだ」 「先生……!」 感極まったようなルカラの嗚咽が、向こうから聞こえてくる。 「そんなルカラとは逆に、シュア。おまえは人に対して積極的で行動力に溢れている。即断即決即行動をかたちにしたような人間だ。少し乱暴なところもあるが姐御肌で、ひとの面倒が良い。皆から慕われていると同時に、まぁなんだ。乱暴だから男子どもに恐れられてる」 「うるさい!」 扉を蹴りつけて来るような、大きい音と振動が届いた。 「相変わらず口と一緒に手が出る奴だな……。しかしそんな一方、シュアはお洒落が好きだったよな。今は分からんが、髪はいつも長くしていただろ。それを洒落た布でいつも綺麗に飾ってた。がさつに見えて、実はそういった小物にもこだわるような部分がある。弁当箱を包む布も、おまえはいつも日替わりでお洒落だったな。そんなおまえは一部の男子からはやたらと人気があったし、男勝りの性格からか女子にも人気があった」 「な、なんで……そこまで……」 シュアの声に戸惑いの色が浮かんでいる。 「次はおまえ達だ。アルスとクルス。一卵性双生児。今はどうか知らないが、俺は正直見分けがついていない。性格も行動も似ていて、ふたりはいつも一緒だったからな。男子にしては小さいその身長、少しは伸びたのか」 「ま、まぁ少しは――」 「全然変わってないわよね」 強がろうとする双子に、シュアが容赦の無い真実を告げる。思わず笑ってしまった。 「ははは、そうか伸びてないのか。背を伸ばしたくて牛乳一気飲みして吐いてたのも懐かしい記憶だ。それと、おまえらは小柄の割りに力が強かったのを覚えてるぞ。そうだな……よく、俺が大量の資料の束を上に運ぼうとしてると、おまえらは手伝ってくれたな」 「先生……」 「よ、よく覚えてるね……いや、よく調べたな下級悪魔め!」 「だから悪魔じゃねえよ……あぁ、そうだ。悪魔でもさすがにこれは調べがつかないだろ」 メルヒオールの口許が、にやりと悪戯っぽく歪む。 「おまえらそうやって俺を手伝うふりしながら、階段昇るとき、上にいる女子のスカート覗いてただろ」 「ぶっ」 「ぶっ」 「はぁ? 何よあんた達、そんなことしてたの!」 双子が吹き出すと同時、シュアが呆れと怒りを露にして彼らを非難する。 「そういった点で、俺は唯一ふたりを区別できる。確か年上好きがアルスで、年下好きがクルスだったよな。覗こうとしてる相手が両極端だからすぐに分かったぞ。あとおまえら酔狂なことに、いちいち下着の色まで鮮明にメモを――」 「分かった、分かったよ先生! もう本物だって認めるから」 「だから頼むよ、それ以上言わないで! これ以上、シュアに弱み握られたら僕達、ここで生きていけない」 「おまえらどんだけ立場弱いんだよ……」 呆れを含んだ笑み、つい洩らして。 そしてしばらくしてから、扉や窓を含めた教室全体に掛かっている侵入不可の魔法が解けて、鍵も開けられた。 重たく大きな扉を押し開くと、夕暮れに染まる太陽の光が差し込む教室に、懐かしい生徒達がいた。学院の生徒であることを示す制服を着込み、学年ごとに分かれている専用の外套を羽織っていて。 「アルスにクルス……おまえらやっぱチビだな」 「「余計なお世話!」」 同じ黒の髪、同じ髪型、同じ背格好をした双子が、顔を真っ赤にして憤慨している。 「シュア……相変わらず髪は綺麗に伸ばしてるな。その髪帯も似合ってるんじゃないか」 「先生……本当に先生なんだっ?」 流れるように髪をさらりと揺らしながら、シュアが駆け寄ってくる。 「ルカラ……少しは勇気を出すこと、できるようになってるみたいだな。大したもんだぜ」 「せ、せん、先生っ……」 ルカラは口許に手をあて、ぽろぽろと涙を零している。そうだ、彼女はすごく泣き虫だった。 「そんなわけで、まぁいきなりだが……帰ってきたぞ」 「「「「おかえりなさい、メルヒオール先生!」」」」 顔なじみの生徒が、そうして歓迎してくれた。 「ところで先生、後ろの子誰?」 シュアが、ぴっとメルヒオールの背後を指差した。 手を後ろで組みながら、少し居場所がなさそうに顔を俯けている。 「せんせの世界……知らないひとばかり……私よりも皆、先生のこと……知って……」 「ああ、こいつはな……おい、イーリス。入って来い」 ぶつぶつと小言を呟くイーリスの態度に、メルヒオールは気づかない。イーリスは腕をぐいっと引かれて、前に出てきて。 「紹介するぞ。こいつはイーリス。身寄りが無いんだが、色々と事情があって俺が引き取り――」 「私、先生の妻です」 イーリスはつんとすました態度で、当たり前のようにそう言った。顔馴染みの生徒達は、驚きで目と口が塞がらない。 「私、妻です。イーリスです。一緒に暮らしてます」 「お、おいイーリス……! 冗談は――」 「本当です。ひとつ屋根の下で暮らしてます。服も脱がせてもらうし、先生の前で裸になります」 「ぶっ」 今度はメルヒオールが吹き出す番だった。 もう年頃の生徒になっている生徒達は、顔を真っ赤にしている。 けれど、その中で。瞳いっぱいに涙を溜めたルカラが、つかつかとイーリスの前にやってきて。立ち尽くして、凝視して。 「わ、わた、私……」 「何よ。先生はもう私、イーリスのものよ。ざーんねん」 「だからイーリス、おまえは――」 「わ た し !」 焦るようなメルヒオールの声を振り切って、ルカラが叫んだ。いつも掠れるような声しか出さない、ルカラが。この時ばかりは、強く勇ましく声を張り上げて。 「私! ままま、負けません……! 私も、せんっ、先生のこと、すすすっ、しゅきでっ」 「噛んでるじゃない」 イーリスが、しれっとそう指摘した。 ルカラはぷるぷると震えながら、でも涙は流すまいと、ちょっと上向きに顔を上げていて。耐えていて。 そんな態度も反抗的に見えたのか、イーリスは不機嫌そうに腕を組んで、ぷいっと顔を逸らす。 「先生のためだったら、私はなんでもできるわ。私、先生に寄り添うって決めたんだもん」 「わっわ、私、だって……」 「じゃあ今すぐここで服を脱いで裸になってみせなさいよ。私はできるわ。でもあなたじゃできないで――」 「わ、ちょっとルカラ!」 シュアが静止するのもやむを得ない。思いつめた表情のまま、ルカラが外套を脱ぎ捨て、上着のボタンに手をかけて制服を脱ぎ始めたからだ。アルスとクルスもびっくり仰天している。シュアが怒気を含んだ顔を双子に向け、声を張り上げる。 「男子はむこう向いてなさい!」 「「ひっ」」 「ほら先生も! ――ちょ、ちょっとルカラやめなってば! 挑発に乗らないでよ」 「わたたたし、私、ほん、ほほ、本気だだだっももん」 「いい度胸じゃない。でも私だって中途半端な覚悟でここに来てるわけじゃないんだからね!」 そう言ってイーリスも服を脱ぎ始め。 「だからおまえら何やってんだ! いいから服を――」 脱ぎ捨てられた衣服を掴んで、イーリスとルカラに押し付けるメルヒオール。 と、そこへ同僚の教師が「様子はどうですかー」とのん気に戻ってくる。先輩方の教師も数名連れて。 「……」 服を脱ぎ、肌を露にしている女生徒達と、その前に立ち尽くしているメルヒオール。両手には、少女達の体温で暖かく湿った、甘い香りのする服が握られていて。 「いや、あの、これは……」 その後、緊急職員会議が開かれることになる。 † そんな騒動を挟みつつ、メルヒオールとイーリスは実家へと顔を出した。 基本的には、あまり変わらない。 母は帰ってくるなり人の話を聞かずに豪勢な夕飯を作り始めるし、父は「おかえり」以外には何も言わなかった。 姉のフロラは、メルヒオールが行方不明だった間に嫁に行っていて、今日はたまたま赤ん坊と一緒に帰ってきていて、そして誰かの妻になっていてもやっぱりパワフルな部分は変わっておらず、むしろより強くなっているように窺えた。もはや母・小型版というよりも、母がもうひとり増えたようなものだ。 玉のように小さく可愛かった弟と妹は大きくなっていたが、やんちゃと甘えんぼうな部分は全く変わっておらず、遊んで遊んでとせがむばかり。遊び相手はイーリスに任せた。 あれこれと騒々しい夕食を挟み、帰ってきたことと今までの(用意しておいた偽りの)顛末を語る。イーリスを引き取ることも、反対なく受け入れてくれた。 停滞していた時が、一気に忙しなく回りだした感覚。メルヒオールはこの賑やかさを目の当たりにして、はじめて「そうだ、帰ってきたんだ……見失っていた故郷世界に」と強く実感していた。 † その日は母の強烈な勧めもあって、そのまま実家に泊まることとなったふたり。今は、かつてメルヒオールが使っていた寝室にいた。イーリスは寝台に、メルヒオールはソファーに寝ている。 「私、嬉しかった」 ランプも消した部屋は、月明かりが差し込んで青白く照らされている。 そんな中で、イーリスは満たされたように呟いた。 「イーリス、あなたうちの家族になりなさいよ――先生のお母さんがそう言ってくれたとき、すごく嬉しかった。拒絶されるんじゃないかって思ってたもの」 「うちの母親は……いや、ただ何も考えてないんだけだぞ、きっと」 苦笑しながら返すメルヒオールに対し、イーリスは首を横に振り。 「ううん。それが嬉しかったの。私に対して何も、特別な感情を抱かないでくれて。私自身を見て、そう言ってくれたことが」 イーリスは人間では、ない。球体関節のある機械仕掛けの人形だ。 この世界に、そうした存在はない。かつては魔法で動くゴーレムがいたという話が、旧い歴史で残っているのみだ。少なくとも一般的には、イーリスのような人形は異質である。 でも。彼女の顔を見て、母ははしゃぐように言ったのだ。 「まあ、まるで一級の人形師が作ったように綺麗な子ね! あたしの小さい頃にそっくり!」 姉は呆れ半分に言った。 「あーあ、あんたはお人形さんと禁断か……ま、私はこう見えても結構懐は深いのよね。別に気にしないわ」 父は穏やかな雰囲気で、静かに言った。 「きみの目を見ていると分かるよ。別に、甘い恋の熱に浮かされて着いてきたというわけでは、なさそうだ。きみの目は優しい目をしてる。強くて優しい目だ。だから、信じよう。受け入れよう」 こうして、イーリスはメルヒオールの身内からも、家族として迎え入れられることとなったのだ。予想外に、あっけなく。 「先生……この世界、私、好きになれそう」 「そうか……」 イーリスのあたたかな声音に、メルヒオールも頬を緩める。 「先生の世界って、平和だね。だからこそ、魔女は狙いを定めたのかもしれない……」 魔女。その言葉を聞いて、メルヒオールの心がうずいた。 そう、石の魔女。 その欠片とミスタ・テスラで邂逅した限りでは、本体である石の魔女はさらなる力を持つと推測できた。あのような存在がその気になれば、この世界の日常はたやすく破壊されてしまうだろう。 そうなる前に。魔女を倒さなければいけないのだ。 (石の魔女……今度こそ、決着をつける……!) † 「あれだけ大きな力を持った存在だ。きっと何かしら、旧い歴史の文献にも情報が記されているはず」 そう考え、メルヒオール達はまず文献調査を開始したのだが――見当らない。石の魔女に関する記述が全く見当らないのだ。 「ここじゃダメか? 国立のもっと大きな図書館に……ああっ、申請が通るまで何日かかる? くそっ、こうなったら――」 なりふり構ってなど、いられなかった。 歴史的な事情から処分された禁忌の本などが秘蔵されている、といった噂もある古代図書館。メルヒオールとイーリスは、そこにの地下深くにある進入禁止区域へと無断で潜入する。 迷宮のように本棚がそびえる広大な地下にて、魔法の灯火を明かりにふたりはひっそりと文献を読み漁る。 「くそ、これもダメか。ここでも見つからないとなると、もう後がないぞ……!」 わしわしと乱暴に頭をかきむしるメルヒオール。そこへ、イーリスが走り寄ってくる。古めかしい本を胸に抱えている。 「先生、どういった題目で調べてた?」 「それは――」 「人物として、よね。そう、魔女だもの。あれだけの力があるだから、きっと永い時間を生きて、少なからず歴史に干渉し、名前を残しているはず……私もそう思ったわ」 でも、と言葉を切って。イーリスは携えていた文献を開いて見せた。 「でも、魔女が……最初からヒトじゃなかったとしたら?」 「どういうことだ?」 「私、気になって学術書を調べたの。それと、神話や伝承の類もね……ここを見て。泥と肉に魔力を与え、人間を模したヒトガタを作り上げた、っていう記述があるの」 「伝承に残る邪悪な人形……人から迫害された魔法使いが、狂気と復讐の想いで作り上げた、人間を苦しめるための人間もどき……だと?」 「ゴーレム、ホムンクルス……錬金術の類から発展した魔法技術がこの世界には存在するようだし、きっと出発点はそこね」 「……よく見極められたな」 「私と同じ、だから」 「同じ……?」 イーリスの声が震えている。悲しみで表情がかげっている。そうしながら頁をめくり、とある記述を指し示す。瞳を切なそうに潤ませながら。 「私達オートマタは、人間の道具の延長として造られた。だから人間を支え、手伝い、奉仕するわ」 ――人間の隣人になるように造られた。だから人間を慕い、敬い、信頼する。 ――人間に育てられるように造られた。だから空っぽで育つ余地がある。 「でもこれは……魔女は、違う。ただ人間を憎み、妬み、苛み、苦しめるために造られてる。あいつに言葉は通じない。あいつの心は、この世に生を受けた時点で……もう、どうにもならないくらいに、捩れて捻じれて、歪みきっている」 魔女を稼動させる際に組み込んだとされる、魔法式の記述があった。そこには魔女の創造主となる何者かの想いが、アナグラムとして隠されていたのだ。 負の感情だけが、狂ったように記されていた。まるで断章石に犯された、ひとの心のように。 この世界に断章石は存在しない。けれどあの魔性の石がなくとも、ここまで暗黒に堕ちてしまうほどに、この創造主は追い詰められてしまったのだ。狂ってしまったのだ。 「同じ人造の命なのに。世界を隔てた場所に存在した、同じ仲間なのに。私、あいつ、救えない。救ってあげられない……。根本が違いすぎる。私達オートマタのようにできてない。魔女は、人間を愛するように……できてない」 「イーリス……」 「酷い、酷いよ。憎い人間がいたら、自分の手で仕返しすればいいじゃない。どうして関係の無いひとまで巻き込むの? ひとに復讐するために、復讐のためだけに生きる命を造るなんて……そんなの悲し過ぎるよ。命は、愛から生まれるものなんでしょ。どうして憎しみから、こんな生き方しかできない命を造ってしまったの……」 すすり泣くイーリスを慰める言葉が、メルヒオールには見当らない。ただその肩に手を伸ばし、そっと己の胸に寄りかからせてやるしか、彼にはできなかった。 (石の魔女……おまえがどこから来たのか、どうやって生まれたのかは分かったよ……けれど、どうするんだ……おまえは。おまえはそうやって、一体どこへ行こうとしているんだ……?) † 古代図書館にて得た、石の魔女に関する真実。 それらは少なからず、ふたりの心に揺さぶりを掛けた。 けれど、けれど。 魔女を放置しておくわけにはいかなかった。同情こそしても、容赦はできない。ミスタ・テスラ世界で接触した通り、あれは危険な存在だから。 今、ふたりはとある辺境の村に向かっている。地形的には発生しないはずの深い霧が立ち込めて、ひとが近寄れなくなっているという村だ。偶然、そこに立ち入ることの出来た旅人の目撃証言では、村の住人が石像のようになっていたという。 そこへ向かう旅の途上。旅装に身を包んでいるふたりは、焚き火を囲んでいた。 「まさか魔女が、何体も量産されていたなんてね……」 メルヒオールと同じような外套に身を包んだイーリスは、手元の古文書をめくっている。ここ記されていた、暗号のように奇怪な文章で隠匿されている内容を解読した結果、得た情報だった。 「まだ確証があるわけじゃないがな」 ペン型のギアを用いて大量の紙片に魔法式を記述しながら、メルヒオールは視線も向けずに応えて。 「人造の生命という以上、その作成方法さえ見極めれば複数の命を創造することは理論上、可能ではあるんだろうが……」 「でも製造の過程で、666の赤子の命を犠牲に作り上げたって記述もあるよ。まさに魔性の人形ね……こんな存在が本当にたくさん造られたのだとしたら、それだけでも恐ろしいことだわ……」 こんな命を造る方も、造られた命も。常軌を逸脱していると、イーリスは切なそうに首を振って本を閉じた。 メルヒオールは相変わらず、手元だけを見て作業を続ける。 「まぁいずれにせよ、魔女は倒さなくちゃいけない相手だ。これ以上、被害が拡大する前に……な」 書き終えた紙片が重ねられ、束ねられ、留められていく。まるで一冊の書物のように。 「俺は呪いに打ち勝って、右手を取り戻した。でもまだ、心の底にはまだ……〝石〟が残ってしまっている。俺は仲間に頼らず、自分の手と自分の意志で、この石を取り除かなくてはいけないんだ……」 石化の呪いが解け、自由になった右手。長年、石のままで使い物にならなくなっていたこともあり、今ではすっかり左利きだ。かつての利き腕を、戸惑うように動かしながら。メルヒオールは固い表情でそう呟いた。 そこへ、イーリスが悲しそうな視線を投げかけてきて。 「先生、因縁の相手だから、力むのは分かる。でも私のこと……少しは、頼ってよ」 「仲間には、頼らない。そう言っただろ」 イーリスの寄り添う言葉にも、頑なな様子でそう返すメルヒオール。イーリスが顔を俯け、しゅんとする。 そんな彼女の心中を察したわけではないけれど。メルヒオールはイーリスに顔を向けて、こう言い放った。 「だからイーリス、おまえの力が必要なんだ」 「頼って……くれるの?」 恐る恐る顔を上げ、窺うような上目遣いを向けるイーリス。メルヒオールは口許を緩め、呆れ混じりの溜息ひとつ。 「……おまえが、俺を追ってロストナンバーになることを望んだ、あのとき。俺は言ったはずだぞ――ついてこい、一緒に行こうって」 「先生……」 「だからおまえには悪いが、今回も道連れだ。俺一人じゃ〝光の剣〟も使えない。嫌でもついてきてもらうからな」 「悪くなんかない、嫌なんかじゃ……ない!」 肩をすくませながら、軽い調子で言うメルヒオールに。イーリスは首を大きく横に振って、痛切に叫ぶ。 「私、嬉しいよ……。先生にとって必要で、仲間よりも身近な、そんな道具になれて……私は、嬉しい」 ヒトの道具たる己の生きがいを感じ、涙目で幸せを噛み締めるイーリス。 けれどメルヒオールは、難しい顔をしながらイーリスの言葉を遮って。 「待て、イーリス。ひとつだけ……憶えておけ」 「なぁに?」 「おまえは、道具じゃない――」 イーリスを真っ直ぐに見つめながら、メルヒオールは告げた。強く、静かに。譲れない想いを。 「おまえは、イーリスだ。使い捨ての道具なんかじゃない。……それだけは忘れるな。例え魔法で惑わされようとも、それだけは、絶対に」 「でも私は――っ」 イーリスは悲痛に言いよどんだ。 どれだけ、この男性が自分を大切にしてくれようとも。自分の中に、血肉の代わりに魔力を帯びた機械仕掛けが内蔵されていることは、変わらない事実だから。どんなにヒトらしく振舞ったとしても、人間もどきの人形であることは変わらないから。 でも目の前で男性は。メルヒオールは。イーリスの頬に両手を添え、顔を己に向けさせながら。真摯な面持ちで語るのだ。 「人の道具として造られたオートマタだってのは、知ってるさ。把握してるさ。でもそれは、単なる生まれた事情だろ」 「……」 「生まれがひとを決めるんじゃない。その環境でどう育ったかが、ひとを決めるんだ。例え人造の機械仕掛けであっても、それは変わらない」 「先生……」 「道具として生きるな。ひととして生きろ。イーリスという掛け替えの無いひとりの命として、生きろ。いいな?」 厳しく諭すような声音だった。でもその表情には優しさがにじんでいて。覇気のない顔立ちに、微笑みが浮かんでいて。 「……うん」 イーリスは笑みながら小さく頷く。不器用に笑いかけた双眸がきらきらと輝いているのは、そこに涙がたまっているからだ。悲しさとは別の理由で溢れてきた雫が、煌きながら乙女の頬を伝った。 † 濁ったスープのように深い霧が、立ち込めている。森を抜ける最中でも、動物の気配はまるで感じられなかった。緩やかな丘陵地帯を抜け、点在する家屋を通り過ぎ、やがて村の中央広場らしき場所へとたどり着いても。 「ここまでで人っ子ひとり見当らない、か……」 馬車は村のはずれに置いてきた。メルヒオールは石畳を踏みしめながら、ひとの気配が全く無い村を怪訝そうに見渡して。 「途中の家屋にもひとの姿は見当らなかった……そうだな、イーリス?」 「うん。勝手に入ったらいけないとは思ったけれど……家の奥にも、誰もいなかったよ」 生活の音や匂いが皆無で、ただ沈黙ばかりが漂っている、煉瓦造りの家々。イーリスはそれらを不安げに見つめながら、メルヒオールの後ろをついていく。彼の外套の一部を握る手にも、力がこもる。 「旅人の証言にもあった石像も全然見当らなかったし……でもこんな様子は、どっちにしても異常よね」 「あぁ、そうだな。それに――」 メルヒオールは外套の間から右腕を出して見下ろした。右腕が、びくびくと引きつっていた。指も痙攣したように蠢いている。 冷たい汗を背中に感じながら、メルヒオールは無理に笑った。 「右腕が、喜んでやがるんだ。元の石に戻れる、根源たる石に近づいている……ってな」 「それって……!」 「あぁ、間違いない。石の魔女は……いる。この村に」 抑えこむ様に、右腕を左手で掴んで。爪を喰い込ませて。おまえは俺の腕だ、と叱るように。 そしてメルヒオールは恨めしく目を細めて、前を見据える。 ミルクのように濃い霧で、向こうの景色は全く見えない。ほんの先の足元が、見えるのみ。イーリスがメルヒオールの外套を掴んで離さないのも、数m離れてしまえばお互いに姿を見失ってしまうからだ。 そんな、深い霧の奥。霞んでいてよく見えないが、腕の疼きを頼りにある一点を注視していると、ぼんやりと浮かび上がってくるものがある。人家の明かりだ。丘の上に立つ館らしき建物の窓から、明かりが洩れているのだと推測される。 けれどその明かりは、ひとの暖かさを感じさせる光ではなかった。膿のように淀んだ色を霧の中ににじませていた。生暖かな腐臭をも漂わせて。 「……いくぞ、イーリス」 「うんっ」 逃げ場なくふたりを包み込む、濃くて怪しい霧に飲み込まれてしまわないように。離れてしまわないように。ふたりは、指をかたく絡ませて。魔女が待ち受ける館へと歩み寄っていく。 † 霧の中に溶け込み、腐臭と戦慄を漂わせる館へと、入り込む。 中には誰も居ない。誰も居ない。生命有るものは、誰も。 ただ、ただ。 元は人間で、この村の住人であったはずの者達が、居るだけ。恐怖で顔を凍りつかせたまま、冷たい石の像になっている者達が。何も言わずに佇んでいるだけ。まるで墓標のように。 「……声が、聞こえる」 メルヒオールの左腕にすがりながら、イーリスは苦しそうに言った。 「胸の中にある断章石の残滓が、教えてくれるの。ここの人達の、心の声。石の魔女に誘(いざな)われ、惑わされ、精神の苦痛を増幅されたまま、永遠に固定された皆の……悲痛な、叫び……うっ」 胸に手を当て、抑え込むようにして呻くイーリス。 それはメルヒオールも同じだ。彼女と接触している左腕から流れ込む、断章石の力がそうさせているのだろう。声が、聞こえる。石像にされた者達の叫びが。 それは館の地下室へと向かっていくたびに、強く大きくなっていく。人の心を苛む、負の感情が。 嘲り、喚き、悲鳴、慟哭、断末魔。それがメルヒオールの心を蝕んでいく。 ふと気がつけば、右の手の甲が薄く石化していた。それだけではない。イーリスが抱きついている左腕も。そしてイーリスの頬ですら。醜い瘡蓋のような石が、皮膚に張り付いてしまっている。目に見える速度で少しずつ、メルヒオールとイーリスを侵蝕していた。 そんなふたりの耳に届く声がある。 くすくすと。 金属同士が擦れる耳障りな音にも似た哂い声、洩らしながら。 (な ん て 僥 倖 で し ょ う!) 謳うような響きもって、ふたりを見下す声がある。 楽器のように美しい声音でありながら、それはもの寂しい廃墟に鳴り響き、不吉を告げる鐘の音にも似ていて。 (まさかまた、せんせぇと逢えるなんて。わざわざ私に逢いに来てくれたのね。今度こそ、そう今度こそ……せんせぇの、すべて。そう、すべてを私のモノにしてあげる……私は魔女。ヒトを支配し、蔑み、貶め、我が物にする魔女。すべてを凍てつかせる石の魔女。さぁ遊びましょう。凍てつく永遠の墓標の中で――) くすくす。賞賛と侮蔑の混じった言葉を、ふたりの心へと投げかける。 「俺は……決めたんだ」 メルヒオールは絶望を振り払うかのように、言葉を紡ぐ。搾り出すような声で。 「神託の夢を通じて、俺は決めた。ただ魔女を恐れるばかりでなく、立ち向かうと。魔女という壁を乗り超えると……決意したんだ」 「そしてミスタ・テスラで、拡大変容した欠片とはいえ、私達は魔女を打ち破り、呪いを克服した……」 イーリスが応えるように、言葉を紡ぐ。痛みに耐え忍ぶような声で。 「だったら。できないはずは……ないもの」 「そうだ。指輪を預けっぱなしにしている相手もいる。生徒からもらった指輪。故郷と自分とをつなぎとめる指輪は今、ある人物に預けたままだ」 だから。死ねない。こんなところで。やりっぱなしで、死ねるものか。 石の魔女が囁く闇への誘惑に堕ちかけていた、メルヒオールの瞳に。強い意志が、再び宿る。静かに、けれど強く燃え上がる炎のように。その意志が、ふたりの体を蝕んでいた石化を弾き、消滅させる。 「紙の命は、一度きり。ひとの命も紙のようなもの。だから想いを込めて……強く、確かに、生きていく」 そうして、明かりの無い地下回廊をふたりは進む。導かれるように。誘われるように。一歩、一歩と踏みしめながら。決意を噛み締めながら。 そしてたどり着いた。そこは冷たい回廊の果て。静謐な広場。 「来たのね……愛しい愛しい、私のせんせ。愛らしいお人形さんと一緒に」 狂った創造者の夢の残滓が、そこに居た。玉座に在るその姿は少女のそれであるものの、支配者の如き威厳を漂わせている。 光の無い闇の中でも、淀んだ黄金色に輝く長い髪。造形物のように美しい裸体へ、扇情的にまとわせて。 そして暗闇の中でぼうっと灯る、飢えた獣のような真紅の双眸。愛しげに歪ませて。 「会いたかった、逢いたかった……私の、私だけの、せんせ」 くすくす。 金属同士が擦れる耳障りな音にも似た哂い声、洩らしながら。 「どこに消えちゃったのかと思っていたわ……私から逃げられるわけないのに。私を忘れられるわけないのに。随分と探したけれど、ふふふ……結局はまた、私を求めてきてくれたのね」 「ある意味では、そうかもしれないな……おまえのくれた〝石〟は、これまでずっとずっと俺と共に在った」 メルヒオールは、今はもう自由に動く右手を見下ろし、確かめるように動かした。 そう、呪いは解けたはずだ。けれどまだ、すべてはが終わりになったわけではない。こうして故郷の世界も見つけた。生きる場所も確保できそうだった。 けれど、けれど。 「こうして呪いを克服し、元の腕を取り戻しても。おまえが俺に与えた〝石〟は、いつまでも俺の心に残っちまってる」 メルヒオールは石の魔女を見据えた。頑なな意志を湛えた瞳を向けて。 「だから、もう。終わりにしよう、石の魔女」 「終わりにする? ふふふ、駄目よ。だって私、せんせぇと再会したときのために、うんと頑張ったんだから。せんせぇのこと、体だけじゃなくて心も愛して。心だけじゃなくて魂までも愛して。そうして支配し、蔑み、貶め、私だけの物にするために、こんなに用意したのよ――」 魔女は弾むように玉座から立ち上がる。両手を左右に広げ、恍惚に表情を赤らめながら。 「ほら! これが私の妹達!」 その一声で燭台に炎が灯る。一斉に。メルヒオール達を取り囲むように、全部で12つ。地下回廊の果て、そこに広がる陰鬱な場を、炎が照らし出す。12つの柩を。壁に埋め込まれるように安置されているそれを。未だ眠る、12体の石の魔女を。 「これは……!」 「ふふふ、どう? 皆、私に似て綺麗でしょう、魅惑的でしょう」 上品な深い光沢を放つベルベットで飾られた、硝子の柩だ。端々は金や銀の細工が施され、純白の薄布が掛けられている。その中で亡骸のように眠るのは、白いドレスを纏った金髪の少女達。皆、対峙している石の魔女と同じ顔をしている。 「妹達と一緒に、あなたのすべて……そう、すべてを愛してあげる。停滞する時の中で。凍てつく抱擁で」 両手を左右に広げ、少女はくるくると舞い踊る。愉しげに、妖しげに。 溶けた黄金を思わせる、欲深い輝きに満ちた髪。ふたりの前で翻しながら。 「石の魔女。あなたはきっと、教えられたことをずっと守ってきたんだと思う。創造主が刻んだとおりのことを。忠実に。創造主を自らの手で殺した後も、ずっと、ずっと……そうやってヒトを支配し、蔑み、貶め、我が物にしてきたのね。皆を石に変えて」 悲しそうに、苦しそうに、イーリスは言う。 「自分は価値の無い人間だ、だから自分を殺す人形をつくった……別にそれは、ひとの勝手よ。とがめる気はないわ。価値の無い自分を殺すために造った人形に、価値のない人間である創造主が、望みどおりに殺される。それは自由だもの――」 けれど、けれど。 そこから、言葉は続かなかった。どんな言葉を投げかけていいのか分からなかった。 イーリスは唇を噛み締めながら、たまらず顔を背けるしかできない。 同じ人造の命として、こうも生き方が違ってしまった仲間を憂う。環境がひとを作るとメルヒオールが言ったように、石の魔女はこうなるように造られ、生きてしまったのだ。 だから魔女は、ただただ嗤うばかりだ。イーリスの言葉は、届かない。 メルヒオールの胸の中に、不快感がこみ上げる。どうにもできない己の不甲斐なさに。そして自分達が知らない創造主の歪んだエゴに。 (魔女の欠片がかつて言ったことと、同じだ。どれだけの輝きで照らそうとも、石の魔女は冒されない。どれだけの言葉と想いで訴えようとも、それは届かない。石のように固く冷たくなってしまった魔女を、救う手立てはない……それは、決して解くことのできない呪いのようなもの……) 絶望にも似た喪失感が、メルヒオールの胸の奥で渦を巻く。 「くすくす。ふたりの想いは無駄、無駄、無駄よ。可愛く惨めなお馬鹿さん達」 そしてあの時と同じように、魔女はふたりを蔑んだ。 魔女の瞳が見開き、邪な輝きを走らせる。鮮血を思わせる赤、絶望を告げる赤。石の魔女という怪異から染み出る、深淵の真紅が蠢き泡立ち、上下左右から押し寄せる。 「……先生」 何かを心に決めたイーリスの横顔は、戦士の顔になっていた。それに応えるべく、メルヒオールもまた覚悟を決める。強く言い放つ。 「ああ、やるぞ」 ふたりはもう、迷いを見せなかった。ただ静かに、右腕を前に差し出して。掌を向けて。 「石の魔女。愛するようにひとを殺す愛玩人形」 「私と同じ、人造の生命」 ふたりは語る。謳うように、諭すように。魔女への想いを。 「おまえの役目は、創造主を殺した時点でもう終わっている」 「あなたに愛するように殺されて、創造主は死んだ。愛すべき対象はもう、この世界にはいないの――」 「だから、もう。眠ってもいいんだ。それを、俺達が。教えにきた――」 だから。だから。 メルヒオールは、イーリスの背後で告げる。静かに、厳かに。揺るぎない決意を。 「イーリス、機械仕掛けのおまえ……御伽噺の如き幻想の力が必要だ。力を、貸してくれ」 「もちろんだよ、先生」 腰に回された彼の腕を感じながら、イーリスは返す。静かに、愛しげに。揺るぎない決意を。 「先生の敵は、誰?」 「敵はあいつだ。悲しみと狂気から生み出され、愛するようにひとを殺す、石の魔女」 「分かった。それなら――」 言葉に、祈りに、願いに応じて。 メルヒオールが持つ魔法のちからと、イーリスに宿る断章石のちから。そしてふたりが抱く、希望のちから。それらが混ざり溶け合って、ふたりの右腕は白の光を纏う。それは魔女を切り裂く光の剣。 「輝きと共に!」 「敵を屠れ!」 ふたりが同時に腕を振るう。優しくも眩い純白の輝きが柱のように長く伸び、山のように膨れ上がる。 巨大な光の剣、その横薙ぎ。白き光が、魔女の放つ真紅を退ける。魔女を打ち据え、光で包み込む。 ――しかし。 「な ん て 惨 め で し ょ う !」 くすくす。 金属同士が擦れる耳障りな音にも似た哂い声、洩らしながら。 魔女は居た。未だそこに居た。ただ愉しげに、左腕を前に差し出して。掌を向けて。 「あぁ、私の背後の愛しいあなた……我がマスター……御伽噺の如きの力が必要なのです。どうか、御力を、貸してくださいまし」 石の魔女は背後に告げる。切に、儚げに。揺るぎない決意を。 それに応えるかのように。左手を伸ばす魔女の背後で、何かぐらりと揺らぐ。顕現する。 どの黒よりも濃くて深くて、すべてを黒で飲み込んでしまうような、歪んだ人型の漆黒が。魔女の背後に。 「先生……魔女の後ろ、何か居る! 精神感応性、情報思念体、暗い力、負の根源……つっ、ダメッ! 私の回路じゃ演算し切れなっ――」 イーリスのこめかみが、内側から爆ぜる。細かな金属の部品と、体内を循環する液体金属の一部が飛び散った。魔力を帯びた体液が、青白い火の粉のように漏れ出して。 「イーリス!」 力なく体を傾がせた乙女を、メルヒオールは強く抱き止める。膝をつきながら。 その間にも、魔女は無慈悲に言葉を紡ぐ。 「敵はあのひと。マスターと同じ、強くて弱くて意固地なあのひと。せんせ……」 言葉に、祈りに、願いに応じて。 魔女がそっと真上に掲げた左腕。そこから迸る、赫々の真紅。塔を思わせる程に巨大な真紅の剣は、地下回廊の天井を容易く貫いている。瓦礫は落下しない。触れた物質はすべて消滅しているから。 その赤には闇が渦巻いていた。負の感情が集積されていた。魔女の背後に寄り添う漆黒の人影の一部が、赤い光の帯にまとわりついていた。 「あぁ――せんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせせんせ!」 狂った響きを伴って連呼する魔女。狂気の連なりが、死刑宣告のように地下回廊でこだまする。 「輝きと共に! 墓標となりなさい!」 真紅に輝く、魔女の左腕が疾る。赤い軌跡が容赦なく空間を縦断する。 (くそ、ここまでか……ここまでなのか! 俺は、俺は――!) 視界を染め上げていく赤。絶望の赤。それが迫る中、メルヒオールはイーリスを己の胸に抱き、せめて彼女だけでも守れればと願うことしかできなくて。 魔女から放たれた光が、ふたりの全身を包み込む。そして音も無く、塵ひとつ残すことなく――ふたりが、瞬時に、消滅し ――しない。 消滅、しない。 なぜならば。 (まったく、老いた体に鞭打つのは堪えるねぇ。ま、今はその体すら埋葬されちまったわけだがね) なぜならば、メルヒオールの視界の端から、前へと立つ人影が在ったからだ。ふたりを庇うようにして前に立つ何者かが居たからだ。 自分達以外に誰もいなかったはず。真紅を迸らせる魔女以外には。眠ったままの12の魔女以外には。 でも、確かに佇んでいた。メルヒオールの前に。 その後ろ姿を、メルヒオールは知っている。何者であるか、メルヒオールは知っている。 「あ、あんたは……」 腰の曲がった小さな背中に、大きな自信と大きな心を秘める、名前を知らぬ恩師。 幻のように、向こう側の景色を透かしながら。亡くなったはずの恩師が今、メルヒオールの前に立っていた。ふたりを庇うように。右手をかざし、押し寄せる真紅の洪水を受け止めていた。 (おや……はじめてみる顔だね?) 悠然と右手を伸ばしながら、恩師は振り返る。肩膝をついて乙女を抱きかかえるメルヒオールを見つめ、にまりと悪戯っぽく笑ってみせる。 メルヒオールは、驚きに目を瞬かせていた。思考が追いついていなかった。 けれどやがて。暖かみのある苦笑いを恩師へと返して。 (何が初めて、だ。歳を取り過ぎてついにボケたか) メルヒオールは心で語りかける。意地悪く笑み、からかうようにして。 恩師は唾を飛ばすような勢いで、早口にまくしたててくる。 (何言ってんだい! あたしゃ、そんなにやわじゃないさ。あたしの知ってるメルヒオールって生徒は、そんなに立派で勇ましい表情はしなかったもんでねぇ、一体誰かと思ったんだよ) (相変わらず口が減らねぇひとだな、あんたは) 軽口でそんなやりとりをする。かつてのように。 (……成長したね、メルヒオール) 恩師は、歓喜を抑え込んだ震える声で、そう言ってくれた。 (先生……) 赤い輝きの奔流に邪魔されて、恩師の顔には陰が差している。その表情は窺えなかった。 恩師は振り切るように前へ向き直る。悠然と言葉を口にする。 (あんたのその瞳を見れば、何をしてきたか分かる。何を言いたいかも分かる) (先生、俺は――) (だが、今やることは何だい? とっくに死んだ年寄りと思い出話に浸ることかい? 違うだろ) (……!) (あんたがすべきことは、何だい) 恩師の声が響く。問いかけてくる――いや、促してくる。心の内に決まっているであろう想いを、決意をはっきり口にせよと。 だから、メルヒオールは告げる。静かに、厳かに。揺るぎない決意を。 「右手を伸ばして……虚空を、掴む」 (その虚空には何がある、何が見える? あんたはその手で何を掴むんだい) 「それは、もう……決まってる」 メルヒオールは膝をついて乙女を抱きかかえたまま、突き出すように右手を伸ばす。 人差し指、中指、薬指、小指、そして親指。確かめるように一本ずつ、時間をかけて指を折り曲げ、ひとつの拳をその手でつくる。 何かを掴むような、右手。その中には何もなかった。目に見える何かは無かった。掴んだのは虚空。そう見える。 「あぁ、そうだ。俺は掴むんだ。一度きりの未来を!」 恩師の幻が、白い光となって霧散した。同時、真紅の奔流が消滅する。驚愕の表情でふたりを見据える石の魔女が見える。 「イーリス……」 腕の中のイーリスを見下ろす。 抱きかかえられているイーリスは、意識を取り戻していた。穏やかな表情でメルヒオールを見上げていた。破損して火花を散らすこめかみの破損部位を、気にも留めずに。 イーリスは真っ直ぐな眼差しで、メルヒオールを見つめている。ふたりの視線が交錯する。 「私と先生の、家族の未来。生徒の未来、みんなの未来……この世界の、未来……それが、石の魔女に弄ばれちゃ、いけないよ。せんせ」 「……あぁ、そうだな。だから掴むぞ、イーリス……俺とおまえで、一緒に」 優しさをにじませるメルヒオールの笑みを見て、イーリスはゆっくりと、けれど強く。頷いた。 「うん! ふたりで、一緒に。未来を掴み取ろ……せんせ」 そう、今はひとりじゃない。メルヒオールには、イーリスが、イーリスには、メルヒオールがいる。 姫を導く騎士のように、メルヒオールはイーリスの体を支えながら。そうしてふたりで立ち上がる。 向き直り、魔女を正面から見据えるイーリス。その背後にメルヒオールが寄り添う。そしてメルヒオールの背後には、恩師の幻影が寄り添っている。 それを見た石の魔女。真紅の負で飲み込んだはずの相手が、健在しているという事実。それが信じられないといった様子だ。引きつった哂いを浮かべながら、一歩退いて。 「ふ、ふふふ。亡者の残滓が、私の真紅を弾いたようね……けれどもう終わり。どれだけの輝きで照らそうとも、石の魔女は冒されない。これは絶対の真理……覆ることは決して、ない。ふたりのあがきは無駄、無駄、無駄よ。可愛く惨めなお馬鹿さん達」 魔女の瞳が見開き、邪な輝きを走らせる。鮮血を思わせる赤の輝きを、双眸に湛えて。 魔女が掲げる左腕に、再び赫々の光が宿る。巨大な真紅の剣となる。 けれどふたりは一切の動揺を見せなかった。ただ静かに、右腕を前に差し出して。掌を向けて。 「イーリス、機械仕掛けのおまえ……未来をこの手で掴む、強い想いが必要だ。力を、貸してくれ」 メルヒオールは乙女の背後で告げる。静かに、厳かに。揺るぎない決意を。 「もちろんだよ、先生」 腰に回された彼の腕を感じながら、イーリスは返す。静かに、愛しげに。揺るぎない決意を。 「掴む未来は、何?」 「石の魔女を、止める。そしてその後の世界に帰属し、暮らしていくんだ。ふたりで、一緒に」 「分かった。それなら――」 言葉に、祈りに、願いに応じて。 ふたりがそっと真上に掲げた右腕。そこから迸る、赫々の白。塔を思わせる程に巨大な純白の剣は、地下回廊の天井を容易く貫いている。瓦礫は落下しない。触れた物質はすべて消滅しているから。 その白には希望が渦巻いていた。暖かな心が集積されていた。ふたりの背後に寄り添う、小さな人影の幻が、白い光の帯に溶け込んでいく。 「輝きと共にっ!」 「未来を照らせっ!」 純白に輝く、ふたりの右腕が疾る。白い軌跡が勇ましく空間を縦断する。 「か、輝きと共に! 墓標となりなさい!」 真紅に輝く、魔女の左腕が疾る。赤い軌跡が容赦なく空間を縦断する。 巨大な光の剣と剣、その一閃。白き光と、真紅の光。ふたつの光がぶつかり合う。その果てで白が赤を打ち据え、包み込んでいく。 「――――――」 輝きを身に受け、急速に全身を崩壊させていく中で。魔女は愉悦に満ちた面持ちで、甘く妖しく哂っている。 その唇が紡ぐのは、呪詛だ。すべての人間に対する憎悪だ。創造主によって生まれながらに刻まれた、宿命の闇だ。 「――――――」 愉しげに微笑みながら呪詛を吐く魔女を、拒絶し、圧倒するかのごとく。白き光の奔流が魔女の身を両断・分断・破砕して、その呪いを遮った。 そして音も無く、塵ひとつ残すことなく――魔女は、消滅する。 † 「魔女はなんとか倒せたね、先生」 「……」 「それにしても、まさか先生の先生が助けてくれるなんてね。私もあんな風に素敵でかっこいい先生になってみたいなあ。……ちょっと先生聞いてる? どうしたの、難しい顔しちゃってさ」 「イーリス。おまえは、こいつらのことをどう思う?」 「魔女の妹達のこと? でも確かにどうしよっか。このままにしておくのも危険だよね」 「おまえ、言ってたよな。同じ人造の命なのにこいつらを救えない、救ってあげられない……って」 「……」 「魔女を作った人間が、どういうつもりでいたかは知らない。あいつが創造主から何を託されたのかも、知らない。魔女は危険な存在だ。あれは人々に災厄しかもたらなさい。だから、止めた。そして残ったこいつらを葬れば、すべてが終わる。俺が覚醒することになったきっかけでもあり、おまえを覚醒させるきっかけにもなった石の魔女、その因縁が……そう、終わるんだ。そうすれば、世界が救える」 「……」 「でも……こいつらは、どうなる?」 「どうなる、って……」 「創造主が実際にどんな人間だったのかは、俺達の知ったことじゃない。何を想って何を悩んで、魔女達を造ったのかなんて……本当の意味では分かりようがない。でも遺されたこいつらは……? 誰か導いてやるんだ? 誰が寄り添ってやるんだ?」 「……先生、まさか」 「俺は、こいつらを――殺さない。見捨てたくないんだ」 「……」 「なんだよ」 「この魔女達が可哀想だから? 同情したから?」 「……そう見えたのなら、別に俺は否定しねぇよ」 「……」 「ただ、このままこいつらを葬ってしまうのは、何か、違う。それは違うんだって、俺の中の何かが言ってるんだ。俺がミスタ・テスラ世界に何度も行きたくなったときのように」 「先生……」 「だから、今回もそうする。何もかもを歪めて造られたこいつらだ。きっと一筋縄じゃいかないだろうし、ひょっとしたら新たな世界の危機になっちまうかもしれない。けどこのままじゃ、こいつらは……創造主の造った都合のいい道具として、終わるだけだ。俺は魔女達を……道具のままにしておきたく、ない」 「……先生は馬鹿だね」 「……そうかもな」 「ほんとに馬鹿だよ。でもたぶん、魔女達には……ううん、この子達には……先生の授業が必要なのかも、しれないね」 † このひとならきっと……私達、人造生命を導いてくれる。私達の先生になってくれる。 一生、ついていこう。寄り添っていこう。このひとを、ずっと、支えていくんだ。 私、そう決めたよ。せんせ――。 † 窓から差し込む光が、ちょうどメルヒオールの顔を照らしていた。瞼越しに感じる陽光は、彼の意識をまどろみから覚醒させようとする。 「ん……もう、朝かよ……あと、少し……」 目を閉じたまま、億劫そうに顔をしかめる。ソファーの上で横になった姿勢を崩さず、手を伸ばして何かを探る。床に落ちていた毛布を乱暴に引っつかむと、それを頭から被った。膝を抱えて身を縮ませ、二度寝の態勢に入る。そして意識が再び遠のきそうになって――。 ノックも無く、ばん、と無遠慮に開かれた扉。ばたばたと忙しない様子で入ってくる小さな影。それが複数。 「先生、おはよーございっまーす! 朝ですよー」 「朝だぜ、この寝ぼすけ! 起きろ起きろぉー!」 「時間だ、マスター。速やかな起床を求める」 「お、おおっ、おは、よう、ござい……」 黄色い声を上げる女の子、4人。まるで人形師が造形したかのように美しく整った顔立ち。10歳前後の、まだまだ幼い容姿。金の糸を思わせる金髪と、紅玉のように真っ赤な瞳。 それらは、石の魔女だ。その妹達だ。 彼女達はソファーの上で丸くなっているメルヒオールに飛びつき、揺さぶり、布団を引っぺがし、髪の毛を引っ張り、頬をつねる。 「だー、朝からうるせぇ!」 台風みたいにはしゃいで騒ぐ少女達が来訪しては、もう眠ってなどいられない。メルヒオールはがばっと体を起こし、悪戯娘どもを一喝する。 隅っこで大人しくしているひとりを除いた3人が、寝起きで機嫌の悪い教師の怒号に驚き、ころころすてんと床を転がる。 「ったく、もうちょっと静かに起こせないのか……」 「だって先生、静かに起こしたらちっとも起きやしねーじゃんか」 床であぐらを掻きながら、頬をぶーと膨らませ、ひとりの少女がそう反論する。 それに同意するように、すました顔の少女がこくこくと頷く。 「確かにマスターは、一定以上の衝撃と騒音を以って強制的に睡眠から覚醒させる必要がある」 「それにも限度があるだろ、ティリア……」 大きなあくびをかみ殺しながら、首元をぼりぼりと掻き毟って。メルヒオールがのそりと立ち上がる。 そんな彼を、少女達は何故かきょとんと見つめていた。そしてお互いに顔を合わせた後、お腹を抱えて笑い始める。 「先生、また名前間違えてやんのー! バカだー!」 「やだーもう、頭ボケちゃったんじゃないのーっ?」 「クハハハ! これは実に滑稽だな!」 「ん? また間違えてたか……」 メルヒオールが、やや気まずそうに頬をかく。 「はい、テストしまーす」 するとひとりの少女がぴっと片手を挙げて、皆を一列に整列させた。もちろん、壁際で静かにしていた少女も含める。 皆、身長も髪型も違う。けれど金髪と赤い瞳と寝巻き姿は共通で。 「先生、俺は誰だか分かってるか?」 抜けた前歯を隠そうともせず、ひとりの少女が己を指差しながら尋ねてくる。 「んーと……髪が短くて、口調と言動が乱暴。おまえはヒーナだ」 「お、正解だぜ!」 「じゃあ先生、あたしは誰か分かるっ?」 両手の指で己を指差しながら、別の少女が弾むように尋ねてくる。皆を整列させた少女でもある。 「髪の一部を編んでお洒落に着飾って、いつも笑顔を絶やさず元気なおまえ。……ティリアだろ」 「はい、正解でーすっ」 「ふむ。我がマスターならば、私のことは無論、見分けがつくであろう?」 腕を組みつつ、涼しげな表情をした別の少女が問いかけてくる。 「尊大な喋り方に、背も小さいくせに見下ろすような視線。おまえは、シュマだな」 「うむ、正しい答えだ」 「あの、あの、あの……」 ティリアの後ろに半ば隠れるようにして、もじもじとメルヒオールの様子を窺う少女がいる。身長は一番小さい。 「引っ込み思案で恥ずかしがり屋の甘えんぼう。寝癖みたいに毛が跳ねちまうおまえは……シゼルだろ」 「う、う、うん。うんっ」 こくこく何度も頷いて。でも目が合えばびくっと体を弾ませ、急いでティリアの背後に隠れてしまう。臆病な小動物を思わせる仕草。 そんなやり取りをしていると、別の人物が部屋にやってきた。この少女たちとは違って、大人しく品のある歩き方だ。 「まったくもう。女の子が寝巻き姿のまま出歩かないって、いつも言ってるでしょ」 黒のブラウスとスカート、それに白のエプロンやカフスをつけ、女中のような格好をした乙女がそう言った。呆れ混じりの笑みを浮かべながら、でも愛しげな視線を向けて。 「ほら、メルヒオール先生に挨拶は済んだんでしょ? だったら各自、お部屋に戻ってさっさと着替えるの。他の8人はもう、着替え終わって朝の掃除してるんだからっ」 「「「「はーい、イーリスせんせー」」」」 少女達は、仕方がないなといった様子を隠しもせず、のん気で間延びした返事をし。 「今朝は、フロラ姐さんが差し入れに持ってきてくれたパールフィッシュよ。早く支度しないと冷めちゃうぞっ。」 それを聞くと、いきなり動きがきびきびとなる少女達。ばたばたと忙しなく部屋を後にする。喧騒が遠のいていく。 「ったく、いつまで経ってもあいつらは大人しくならないな……」 「名づけたロストナンバーのひとの性格、変な風に受け継いじゃったんじゃないの?」 「まさか、そんなことないだろ……」 小さく笑いながら、メルヒオールは机の上の書類を整え始める。イーリスは放られていた布団を丁寧に畳み、脱ぎ捨てられた彼の衣服を手早く回収し始めて。 「私、どうしてあの子達にロストナンバーだった仲間の名前をつけたか、分かるよ」 くるんと体ごと振り返りながら、イーリスは言った。長いスカートが翻り、裾から覗くペチコートが愛らしく弾んで。 イーリスの言うとおり、魔女の妹達には彼がロストナンバーとして何度も旅を共にした、仲間達の名前をもじったそれが与えられていた。 「新しい名前を考えたり憶えたりするの、面倒だからでしょ」 図星だった。メルヒオールは黙って手元に目を逸らす。 「まぁいいわ。そんなとこも先生らしいし。今のところ、立派に育ってくれてるしね。もう、一気に12人も面倒見なくちゃいけないんだから大変よ」 「感謝してるよ、おまえには」 「もちろんよ。私は先生の、一番の助手で理解者でパートナーなんですからねっ」 当たり前のように言ってのけるイーリスに、メルヒオールは苦笑するしかできない。実際、衣食住のすべては彼女に任せっきりだからだ。 「さ、先生も早く支度を済ませて頂戴ね。今日は講義に講演会に、王都のほうで教育委員会の召集会議もあるし、スケジュールが詰まってるんだから。それに研究の発表会だって提出物の期日が近づいてますし、後で私と叩き会をしますからね。覚悟しておいてよ?」 「……レポートのチェックまで手を回さなくていいぞ。おまえだってあいつらの世話で大変だろ」 「そう言って提出物に手を抜こうとするから、私がチェックするんです! ごはん食べていくには、面倒な研究だってしなくちゃいけないんだから仕方ないでしょ」 抜け目がない助手の指摘に、肩身の狭いメルヒオールだった。 「はい、新しい着替えは置いておくので、早く降りてきてくださいね」 「へいへい……」 「返事は一回!」 「……はい」 「うん、よろしい」 毅然とした態度で教師の緩みを正すと、機械仕掛けの助手は満足そうに部屋を後にしていく。 メルヒオールは石鹸の香りがする清潔なシャツに腕を通しながら、窓に手を掛ける。 窓の向こうには、雲も少ない爽やかな朝の空が広がっている。塔の頂上にある部屋から見下ろす景色は絶景で、丘陵地帯や森を抜けた先にある山林まで見渡せた。点在する家屋の煙突から上がっている煙が、人々の生活感を漂わせている。 平和な光景を、そうして眺めて。ふと、視界の隅に何かが見えた気がした。 青空の向こう。小さな白い雲に隠れて、赤くて細長い物体がゆっくりと横切ったように見えた。きっとおそらくは、この世界にロストナンバーがやってきたのだろう。何かの事件か、あるいは休暇なのかは分からないけれど。 「良い旅を、な。ロストナンバー」 懐かしそうに目を細めながら、メルヒオールは空に消えていく螺旋特急を見送った。 † 恩師より受け継いだ、大きすぎる塔。その最上階にある部屋で、メルヒオールは寝泊りをしながら生活をしている。 引き取った魔女の妹、12人と共に。お世話役で助手で頼りになるパートナーの、イーリスと共に。 無論、ふたりの頭上には、この世界の階層を示す数字が点灯していた。 そう。 ふたりの時は、もう。動き出している。 <エピローグ:メルヒオール 了>
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