「ん……よし」 世界司書、鳴海は背中を丸めて屈み込んでいたPCから顔を上げる。「あ、こんな時間か」 時計を確認すると、打ち終えて推敲を終えた報告書を保存しかけて、ちらっとカレンダーに目をやる。 「新ターミナル法」の制定、「ターミナル警察」の設立、『ホワイトタワー』の修復・改築、裁判所の設置、世界園丁ユリエスの存在とナラゴニア政権の世界図書館への吸収、「十三人委員会」の発足、ロストレイル13号の帰還、エドマンドとロストレイル0号の救出、ワールドエンドステーションへの到達と、全ての世界群への道の発見。 何と大きな変化がターミナルを襲い、それを乗り越えてきたことだろう。 ほ、と小さく溜め息をついた鳴海は、次の瞬間悲鳴を上げる。「うわああっっっ!」 あり得ないあり得ないあり得ない。 書き上げたばかりの報告書を吹っ飛ばすなんて、保存もし損ねたなんてあり得ない。 けれども、PCの画面には、踊り回るジェリーフィッシュフォームのセクタンがぐるぐる動き回っているだけで。「あああああ………何やってんだ俺…」 三日徹夜がまずかったのか。二つ報告書平行がまずかったのか。いやきっと。 鳴海は司書室の棚に目をやる。 仕上げたご褒美にと残しておいた『山崎 25年』。壱番世界の酒造、サントリーの創業100年を記念して、1998年に仕上げられた特別限定品。「……うん、一応仕上げたのは仕上げたんだから」 言い訳をしつつ、グラスと氷を取り出した。 もう一度取りかかるのは、一杯やってからにしよう。「まりあさん…暇かなあ…」 呟いた声音は柔らかい惑いを満たした。「ロン、これはどうする!」 フェイに呼びかけられて、『フォーチュン・グッズ』の元店主、ロンは振り返る。黒い小箱に入ったものを認めると、「もちろん、持っていく」「いきなり何もかも持っていくってのは」「淋しいか?」 薄笑いを浮かべて問い返され、フェイはむっとしたようにそっぽを向く。「しかし、まさかお前がヴォロスに帰属するなんてのはなあ」「世界が旅だとわかったんだ、行動としては遅すぎるほどだろう」 ロンは黒い小箱の中身を黒い革鞄に詰め直す。「ブルーインブルーじゃなかったのかよ」「何か言ったか?」「ご執心の女性がいただろ?」「……失礼なことを言うな」 ロンは微かに瞳を翳らせた。「彼女は幸福に暮らしている。それでいい………っ」「へえ」 転がり落ちた小さな箱をフェイはにやにやしながら拾い上げた。「これ、取り戻してたのか」「…返せ」 『歌う小箱』と呼ばれたそれをフェイの手からひったくり、ロンは鞄に納めながら呟く。「ハオのことを頼む」「わかってる」 もう大丈夫だよ、と優しく続けるフェイにロンは微かに頷く。「元気でいろよ」 でないとハオが哀しむぞ。 付け加えたフェイに、ようやくロンは笑みを返した。「おかあさん、これでいいですか」 尋ねられて、インヤンガイの月陰花園、『弓張月』のリーラは顔を上げる。青い瞳を瞬く花海棠(ファハイタン)が両手に抱えたすり鉢には、薄茶色の粉が丁寧にすりつぶされている。それを小指で触れて、少し味わったリーラは頷く。「うまく出来たわ。後はあの小瓶の薬を二匙入れてよく混ぜてから、金鳳さまに持っていって差し上げて」「わかりました」 娘はいそいそとすり鉢をもとの台へ運んでいく。「これで少しはお元気になられるでしょうか」「疲れが出たようだとおっしゃってたけれど」 リーラは少し考え込んだ顔になる。「そればっかりじゃねえだろ」「おとうさん!」 扉を開けて覗き込んだ顔に、花海棠は顔を輝かせる。月陰花園の「紅蓮の虎」、楊虎鋭と言えば、今では他の街区にさえ顔が利く。「戻りました」 その後ろから、まだ少年の面影が消えない黄金の瞳で細面の虹龍(ホンロン)が顔を出した。「金鳳は昔っから見えねえところで無茶しやがるからな」 舌打ちしながら呟く横顔にリーラは頷く。「病気が思わしくないかも知れませんね」「兄貴にも苦しいって伝えねえのはどうだと思う?」 近寄ってきた虎鋭はまとわりつく娘と息子を適当にあしらいながら、リーラを軽く抱えた。「心配ですか」「……ああ」 金鳳が倒れたとなれば、またごたごたが始まる。「……大丈夫です」 リーラはその腕をそっと抱いた。「『弓張月』には『紅蓮の虎』がいますから」「お友達もいるんでしょう?」「またきっと力を貸してくれるんでしょう?」 歳が離れているのに、申し合わせたように左右から覗き込む花海棠と虹龍に、虎鋭は呆れ声になる。「あいつらにはあいつらの事情があるんだ、当てにしてばっかりってのはいけねえぜ」「僕、頑張ります」「私も、もっといろんな薬を覚えます」「「そうして二人、『弓張月』と『菊花月』を必ず守ってみせますから」」 やはり申し合わせたわけでもないのに一言一句ずれずに声を揃える二人に、は、と虎鋭は笑い声を上げ、二人の頭をぐりぐりと撫でた。「ああ、頼むぜ」「リーラ、先日の処方に問題がありますのん」 奥の扉が開いて、元『銀夢橋』の『涙宮妓』、今は改め『涙月』が白い前垂れに受けた薬草を持ち込んでくる。「問屋に、物申しておきますのん。違う野草が入っておりますのん」「これは…確かに違いますね」「では至急。ほんとに役に立たない問屋ですのん」 ぷりぷりして身を翻す『涙月』は、今では立派に『菊花月』の薬事方を務めている。「ぼちぼちお昼にしましょうか」 もうすぐリオも戻ってくるでしょう。「手伝います」「僕も」 二人の子どもが寄り添うリーラは、ゆっくりと義足を操りつつ奥へ向かう。「あれ? 誰もいないの?」 入れ替わるように、ひょいと顔を覗かせたのはリオだ。「今昼飯の支度にかかってる。……どうだ、金夜叉組は」「今回は引くそうだ。次は荒事になるかも知れないね」 薄く笑うリオには以前より凄みが出たと人は言う。銀鳳が隣の街区での世話役も務めるようになり、留守を任されている故の貫禄だろう。「楽しんでるか?」「まさか。平穏に済めばと思ってる…いてっ」 パシリと叩かれてリオは片目を閉じる。「嘘つきは『花塚』に埋めるぜ?」「じゃあ虎鋭から埋めないと」 肩を竦めながらリオは笑った。「ごたごたなんか、心配してないくせに」「ばれたか」 細めた黄金の瞳は妖しく鋭い。「同情するよ。リエに手を出した阿呆の末路を心配する」 くつくつ嗤う虎鋭にリオは深く溜め息をつき、やがて一緒に笑い出した。「いらっしゃいませ」 ハオは明るく声をかけて扉を振り返る。常連客ではないし、あまり見覚えのない顔だ。「あの、ここ…『フォーチュン・カフェ』ですか?」「ええそうですよ」「僕、ナラゴニアから来たんです。……今日のお勧めを教えてもらえますか? あの、この子は、昨日ターミナルへやってきたって」 この子、と呼ばれておどおどと不安そうに真っ白な尻尾を抱える猫型獣人にハオは笑いかける。「メニューを持ってきます。どうぞお席に」『見送りに来るなよ、絶対に』 言い渡していったロンの顔がふいに脳裏を掠める。ヴォロスで旅から旅への生活に入るのだ、もう二度と会えないかも知れないけれど。 ここは『フォーチュン・カフェ』。 支えられて取り戻した店だから、今度は誰かが自分を取り戻すのを支える店でありたい。「お待たせしました」 笑顔とともにハオはメニューを差し出した。「ターミナルへようこそ」======<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆するシナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。======
「やー、どうモ。占っていかなイ? 安くしておくヨ」 0世界の駅前、簡単な露天の店を開いて、ワイテ・マーセイレは道行くロストナンバーに声をかける。黄竜を擬人化した姿で、フードの下できょろりと剥く銀の瞳に戸惑ったり怯んだりする相手もいるけれど、顔なじみは探し物を見つけたように近寄ってくる。 「おや、大きい依頼? 頑張ってネー」 受けた依頼の成果を占って欲しいと頼まれ、捲るカードをワイテは淡々と読み解いていく。 「あっしは依頼に行かないのかっテ? 昔は色々やったけどね、やっぱりあっしは戦闘向きじゃないシ。見てわかるでショ?」 笑って手を振り去っていく相手に、ぴらぴらと手を振り返す。 相手は微かに不穏な影を滲ませて、ロストレイルに乗り込んでいく。結構危険な旅だ、同行者にもいささか問題あり。けれど、度胸は十分、気合いも入っている、依頼は何とかこなしてこれるだろう、命さえ惜しまなければ。踏み込むことで見えてくる勝機もある。 いつものように、いつものごとく。 (たくさんの人を見送っテ。そしてたくさんの人を迎えル。毎日毎日、その繰り返シ) ワイテはカードをまとめて空を見上げる。どこからか戻ってきたロストレイルが緩やかにターミナル目指して降りてくる。 (たまにはあっしも旅に出るけど、前に出たのはいつだったかナ? インヤンガイで昔一緒に顔合わせた人達と会った時が最後だったかナ) 懐かしい顔が脳裏を過る。既に帰属したもの、行方不明になったもの、天寿を全うしたもの、今も旅を続けているもの。 (ま、いいヤ。あっしが旅に出るのは、占いでその方がいいと出た時だケ。もうあれから何年経つんだろうネ。相変わらず0世界は0世界だシ) 『北極星号の年』は一つのターニングポイント。幾つもの物語がそこで交わり大きく進路を変えていった、珍しくも美しい星の年。 (帰属した皆は変わっていくし、駅前を通りかかる人の顔も徐々に変わっていくけれド) 捲ったカードは愚者だった。意味深く、慎み深い、運命の指先。 (さて、今日はどんな日になるだろうネ) ワイテは再び駅の方へ眼を向ける。 ロストレイル13号出発年、三月末。 坂上 健はアリッサにギアとノートを返却した。自警団関係の一式もまとめてアリッサに。再帰属するまではポッポと居たかったから、パスは持っていた。 四月には警察学校に入校。半年後には地域部に配属されていた。 「おおお、何じゃこれ、可愛い子じゃないか」「あ、何見てんですか、伊藤さんっ、いくら上司だからって」「新人にプライベートなし、鉄則だろ、何ならこのまま知ってる限りのアドレスに添付メール送りつけて」「うわあああ!」 取り返したケータイから優しい顔が頬笑み返す。 警官は、予想した以上に辛かったり厳しかったり切ないことが多かった。それでも辞めようと思わなかったのは、脳裏を過った幾つもの笑顔、今もきっと異世界を駆けているだろう、友人達の頑張りで。 そういう縁の一つが壱番世界に帰還後五年で結ばれた。 結婚式で披露されたエピソードは、二人の初デートのものだ。 『金町さん!? お茶!? 喜んでっ』 飛び上がって承諾し、いそいそとターミナルの『フォーチュン・カフェ』に出かけた。気に入ってもらえるかなと心配したが、 『初めて来たけど、なんて言うか既に好き! 雰囲気が好き!』 零れる笑顔に救われた気がした。 薦めたのはマーラーカオ、それに加えて彼女が選んだのは春野菜のリゾットとふわふわアイス、健の緊張をほぐそうとしてくれたのか、積極的に話を振ってくれた。 『初めて会った時、規格外な事態だったし凄い同行者が多かったですよねぇ「先輩」?』 覗き込むいたずらっ子のような瞳。 『結構動ける人だ、って見直した』 よく知らなかった時は同行者と合流してほっとしてしまった、ごめんなさい、と小さく謝られたけど、どきどきする胸の鼓動で可愛い声だなと思っただけ。 これまでの依頼のことや、なくしてしまった恋のことや、今までなら、話せば重くて苦しくなってしまうようなことさえ、信じられないほど簡単にことばにできて。 『俺の家の住所と電話。あとスマホの番号とメアド。四月に警察学校入ったら会いにくくなるかもしれないけど…また会って貰えないかな』 当たって砕けても痛くない、むしろここは当たって砕けないと駄目だ。 そう直感したのは、ロストナンバーとして過ごした日々の賜物だった。踏み込む時に踏み込め。そうやって生き延びたし、そうやってチャンスを掴んできた。 もっとも、それでいきなり吹き出されたのは結構ショックだったけれど。 『いやゴメン、ホントに素直だよねぇ。結構直接的に行っちゃって玉砕とかあった?』 さりげなく聞き返す相手の顔がどんどん薄赤くなるのを、何だか感動して見つめていたら、 『ええと、あたし自分に言われた事がほんと無くて』 もごもごとした口調は、一転してはにかんで照れくさそうで、今の今まで姉御的だった対応もあっという間に消え去って。ああ、いいんだ、とわかった瞬間、相手にもそれははっきり伝わったのだろう。 『よ、要はあれよ、友達以上恋人未満から始める感じで一つ!』 『…俺でいいんだよな』 たぶん、ずっと、この先も。 『あ、ああははは何いってんの!』 バシバシバシバシ。叩かれた背中が温かくて嬉しくて。 『それで、次はどこに行きます?』 どこまでも行こう、一緒に。 伸ばした手で、相手の手を包んで、小さい、と思った。 守ろうとして、守ろうとし過ぎて、時に大げんかもしたし、離れそうにもなった。授かっていた二児の父親である自覚さえ、投げ捨てかけたときもあった。職務一番、何日も帰れない、離ればなれの日々に、家族なんて意味があるのか、そう思った時もあったけど。 帰還後、三十八年。 街角で優の姿を見かけた。 変わらない姿、変わらない仕草。壱番世界もあれこれ変わって、手首のラインで空中にパネルを開き、都市システムや交通網にアクセスする世界、それを難なく使いこなしている後ろ姿に、思わず周辺検索パネルで呼びかけて。 訝しげにこちらを振り向く顔、そうだ、俺の顔なんてもうわかんないだろう、先日定年退職した老いぼれ、部下はまだ『坂上のオヤジ』と呼んで慕ってくれるけど、それでもあっという間に記憶から消されていくのだろう、そう思っていたのに。 だが、優はきちんと健を見つけた。顔がほころぶ。それでも、遠く離れて近づいてこないまま、慣れた様子でパネルを通して会話する。 『やあ、健』 「……何だよ、来てたのかよ」 顔ぐらい見せろよ。若い頃の口調のまま絡んでしまった。 二人の間を無数の人間が行き交う。過ぎる人々の中で歩みを止めている二人は、まるで時の狭間の対岸で向かい合うようだ。 『依頼の途中なんだ』 「……ああ」 ロストナンバーの保護か、それとも壱番世界の新たな危機か。詳細に教えろと口を開きそうになって、踏み出した足の膝の痛みに顔を歪める。 『大丈夫か? ちょっと前の事件で傷めたんだろ』 呼びかけてくる心配そうな表情は昔のまま、いやちょっとまた、深みを増したか。 「何で知ってる」 『……関わってたんだ』 「……道理で」 健は苦く笑った。妙な爆発があったり、巻き込まれたはずの人間が無事だったり、証拠物品が急に現れたりしたはずだ。 『助けられなくて、ごめんな』 懐かしい懐かしい、懐かしい『友』の声。 そんな風に対等に話してくれる友人を、健はもうかなり失っている。 「馬鹿言え」 ガキがナマ言うんじゃねえよ。 大人びてはいるけれど、外見はまだ大学生にしか見えない風貌に、思わず年齢が出た。 「そっちの事情なんざ、よく知ってるんだ、おかしなところに気を遣うな」 『うん』 「大丈夫なのか? 元気なのか?」 『ああ』 柔らかく笑う顔。 『ターミナルでも虎組で頑張ってるし、「こっち」でも短期の仕事にはついているよ』 短期の仕事。それはきっと、変わらないその容貌のためもあって。 人混みの中で佇む姿にふいに胸が詰まった。 「無茶すんなよ、お前は昔っから」 人の心配ばかりしてやがって、自分ばっかりワリ食ってやがって。 『そんなことないよ』 微笑む顔が霞み、揺れる。ああ、歳を取ったんだと健は思う。すぐに涙が出てくるのも歳のせいだ。 「楽しかったな」 『楽しかったよ』 「お前と会えて、良かったよ」 『俺もだ、健』 奥さんによろしく。 穏やかな優しい声が告げて通話が切れる。すらりとした背中が人混みに紛れる。上空を思わず振り仰ぐ、あいつのタイムが飛んでいないかと。 きっと最後だ、これが最後になる。 そうわかった。 「優…」 大丈夫なのかよ、お前。 健は心優しい友人を、その孤独を案じた。 帰還後、七十四年。 坂上 健はその生涯を終える。 子ども五人、孫七人に囲まれ、妻に看取られる、静かな終末だった。 「ふう…」 結婚式前夜。金町 洋は壁際にかけられたウエディングドレスを前に溜め息をつく。 「一回しか着ないのに、こんなの買っちゃって」 どうしても、と健は譲らなかった。たった一回なのに、と反論したが、一回だからこそ大事なものだと笑った顔は、初めてのデートから変わらない。 『金町さん!? お茶!? 喜んでっ』 宙に浮くようなはしゃぎっぷり。 『俺が良く行くのは「フォーチュンカフェ」かな。マーラーカオとお茶がお勧めだけど、女の子にはフォーチュンクッキーの人気が高いかな。あと、材料さえあれば食いたい物作ってくれるのも俺的に高ポイント』 好きな店は知っていた。そこの店主、ハオにまつわる話も、健が加わった依頼も、そして新生『フォーチュン・カフェ』を取り戻させた経緯も。 『ハオっ! 表からあんまり見えなくて奥にも引っこみ過ぎない席空いてねぇ!? 恩に着るっ!』 いやいや丸聞こえだってば。 こちらが赤くなりそうな舞い上がり方、それでも準備された席に案内してくれる仕草は、丁寧で柔らかくて大人びている。 場慣れているんじゃない、洋を大事にしようとしてくれているんだ、と気づいて、顔が熱くなった。 決してスマートな振舞いができるわけじゃない。どちらかというと、周囲の空気を読まずに突っ込む時もあるし、無駄に熱血する時もあるし、女の子の描く王子様とはかけ離れているけれど、それでも健は、守るべき者を守る時、一歩も引かない。 『金町さん、調査船乗りたいって言ってたけど大学? それとも国とか財団?』 あまりにも無謀かなと思ったこともある夢、選ばれる人員は限られている、その能力を満たしているとも思えない時もある、けれども、健が眼を輝かせて尋ねてくれると、叶いそうな気がしてくるから不思議だ。 『狭き門だな…頑張れって簡単に言っちゃいけないと思うけど、頑張らなきゃ辿り着けもしないもんな。応援する…出来ることないかもしれないけど、あったら手伝うよ、頑張れよな……、…ごめんっ』 うんうんと大きく頷いて、本当にごく自然に洋の頭を撫でかけ、寸前気づいて真っ青になって手を引いた。慌てて何度も平謝りする、テーブルについた分厚い手に、撫でられたかった、と一瞬思って、洋は我ながら固まった。 届いた料理はどれもおいしかった。熱々のリゾット、温かなマーラーカオ、皿まで冷やしたアイス。平凡な食べ物がこれほど心に響くのは、シェフの腕か、それとも健と居るからか。 『うちの妹は5歳下。可愛いけど最近チョコ作りしか頼ってくれないんだよな』 追加で頼んだハンバーグステーキのセットをぱくつきながら、健は唇を尖らせる。 『妹のチョコ制作、8割俺。妹はデコってラッピング』 そう言えば、健は料理男子だったんだと思い出す。その口に合ったこの店だから、これほど食事が楽しいのか、それとも健と居るからか。 雰囲気なのか、健なのか。 「……」 ウエディングドレスを見上げる。 死に別れるのは理不尽だ、突然そう思った。いや、十二で母を失った、だからその理不尽さはわかっているし、どうしようもない気持ちの処し方も身に着くほどには乗り越えてきた。 だからと言って、慣れるわけもない、慣れるはずもない。 ましてや健は警察官なのだ。 数々の縁が繋がって、数年後、洋も調査船に乗り込める見通しが出て来た。嫌がるかと思った健は笑って行ってくればいいと後押ししてくれている。 『あっちでロストナンバーの依頼に行くこと考えたらさ、まだ何があっても常識の範囲だろ』 けれど、常識の範囲でも、人は死ぬのだ。 結婚してしまうんだよ、ほんとにいいの? いつどんな時に、失うかわからないような絆なんだよ、いいの? 洋はウエディングドレスの掴み、顔を埋める。 死なないで。死なないで。死なないで。 忘れていた声が耳の奥で響き渡る。 「死んだら……化けてでてよぉ…」 あのいつかの依頼の、水底に沈む村のお化け達のように。 洋は思い切り泣いた。 式には最大級の笑顔で健を叩きのめしてやろう。 ロストレイル13号帰還直後に『とろとろ』アルバイトに応募して、料理の腕前と接客術を見込まれ採用された。カグイ ホノカは現在週6日アルバイト中、イェンへのラブコールもかかさない。 「ここが『フォーチュン・カフェ』ね」 陽射しを弾く赤い髪、宝石のように煌めく赤い瞳、炎を操るクノイチは、今はその職務とかけ離れた仕事についている。 休日のカフェ巡りは自己の研鑽を兼ねた趣味だ。時々に耳にするターミナルの店を順番に回っていって、八割ぐらいはクリアしたか。 「いらっしゃいませ!」 明るく迎えたハオをまじまじと眺める。 「一人でゆっくりしたいんだけど」 「では、こちらへ」 誘われた席に腰を落ち着ける際、軽く相手の手に触れると、ひくりとハオは体を震わせた。 「メニューです、どうぞ」 「ありがとう」 差し出されたメニューを受け取る時にも、やはり微かに不安定な気が漏れる。 房中術は人の気配、相手の望みを読む事から始まる。この人は大事な何かを押さえている。 そう言えば、店に入る直前、黒づくめの少年が黒い革鞄を持って出かけたようだが、あれがロンか。二度と帰ってこない気配を持つ人間は一目でわかる。 「……これなら私でもいけそうね」 メニューと店内の配置、客層を確認した。頷いて、バッグの中の予備エプロンとバンダナを引っ張り出す。 「店長さん、ちょっとお節介いいかしら?」 「はい?」 ちょうど一渡り、客に料理が行き渡ったあたりで、声をかけ、柱の陰に引っ張った。 「貴方の用事は何時まで? 心に痕を残す位なら、行ってらっしゃい? 代わりの接客はきちんとやっておくから」 「え、いえ、あの、あなたは」 ホノカは素早くバンダナとエプロンを身に着け、メニューの全品名と金額を諳んじてみせる。 「ここはみんなの幸せを願ってくれるカフェなんでしょう?」 嫣然と微笑む。 「ならまず貴方が幸せになる努力をしなきゃ。心に残った痕が膿むのはずっと先、だからそうならないようにお互い助け合いましょう?」 行ってらっしゃい…お礼はいつか『とろとろ』に食べに来てくれればいいから、そう付け加えると、ハオははっとした。 「『とろとろ』の…」 おうむ返しに呟いて、しばらくホノカの顔を見つめていたが、それでもなお惑うように、入り口を振り向き、厨房を振り返る。 逡巡するハオを追い立てるように、ホノカはするりと厨房に入り込んだ。 「そういうわけでヘルプを認めてちょうだいね? お勧めソースも舐めさせて?」 「…」 一瞬ちらりと後ろに立ち竦むハオの顔を見やった料理長は、小さく頷き、皿を差し出す。 思ったよりも深い味だ。舐めた瞬間とじんわりとしみこむ味、後から来る薫りが厚みを加える。説明は少し変えた方が良さそうだ、とホノカは見極めをつける。 「どうぞ。『とろとろ』のマスターならばよく知っています。彼が雇っているのなら、疑う筋合いの方じゃないでしょう。…いかがですか、店長」 私も居ます、どうぞ。 料理長に微笑まれてハオは心を決めた様子だ。振り返ると、大きく頷いてエプロンを外し、入り口を飛び出す姿があった。 「ごめん、すぐ戻るから!」 ハオとすれ違うように入ってきた客が戸惑うように戸口を振り向くのに声をかける。 「あれ、今のハオじゃね?」「どうしたんだろ、慌てて」 え、今日休みとか? 不安がる顔の二人に、 「いらっしゃいませ」 ホノカは華のように笑って客を出迎える。 何時か私も別の私になるだろう。今の私と少しずつ、ほんの少しずつ変化していき、時間の止まったこのターミナルでも、過ごした時間を自分の内に積み重ねていくのだろう。 「『フォーチュンカフェ』にようこそ」 明るい声に、二人の客が嬉しそうに笑う。 「……やれやれ、今日も平和だねぇ、シャーロット」 『えぇ、ワールドエンドステーションが見つかって、貴女が故郷に帰ると言い出して、ようやく召使いから解放されると喜んでいた事がまるで昨日のように思い出されますわ』 店の一画、穏やかな光の中で瀬尾 光子はのんびりと使い魔と話を続ける。 「何あほな夢見てんだ、帰るとはいったが帰属するとはいってないし、第一、帰属したとしてもあんたがあたしの使い魔であることは変わらんよ」 『……そ、それにしてもあっちでも色々ありましたわね……』 自分に向けられた矛先を、微妙に逸らそうとするように、シャーロットはことばを返す。 「まぁね、霧人の奴が、まさか世界の危機を救って飛ばされてたって事実は中々衝撃的だったが」 予想外中の予想外、そういう奴だったかねえ、と首を傾げれば、 『人生何があるか分かりませんわね……そういえば、さよならも言わずに別れたお友達はよろしいんですか? あれはしつこそうでしたわよ?』 シャーロットがもう一人のことを口にした。光子は少し肩を竦める。しつこいもしつこくないも、そういう段階はとっくに過ぎているだろう。 「……あんたが知らんだけで色々話したさ、また来るっていっといたから大丈夫だろ……人間捨てて、50年もまってたくらいだしね」 単純に五十年と簡単に口にはするものの、時間の流れとしては結構な量だ。 『……しかし随分棲みやすそうな世界でしたけどね、あっちを拠点にしようとは思わなかったんですか?』 「……あたしは契約で帰属しないと誓ったんだ、自分から魂を捨てたりはしないさ……ただ、あたしのせいで死んだあの子の墓参りができただけでもう十分だよ」 人生を安定した場所で味わおうなどとは業が深すぎる望みだろう。自分の在り方を思えば、選択肢など無いも同然かもしれない。 『本当、物好きな方、こんな世界でずっとふわふわ生きようだなんて』 呆れ果てたシャーロットの顔に冷ややかに笑む。 「もう50年さ、多分ずっと変わらんよ」 『……少しは丸くなったりとか……?』 期待を込めたシャーロットの顔に吐息を吹き付ける。ほんとにどこまでいっても、幻の期待を捨てない奴だ。 まあ、だからこそ、光子に付き合ってこれているのかも知れないが。 「ナマいってないでさっさと店の掃除してきな!」 ひええだか、はああだか判別困難な声を返して、シャーロットは急いで離れていく。口調とは裏腹に、光子の微笑は一瞬柔らかく空中を撫でて、空へと向けられる。 今日も晴天は続きそうだ。 「金鳳の具合が思わしくないらしいな。見舞わせてくれ」 「これは鷹遠様」 『弓張月』に現れた鷹遠 律志を、もう皆見慣れたものだ。『紅蓮の虎』のお父上、とは密かに知れ渡っていて、虎鋭だけではなくリーラや始めに産まれた花海棠を見守り、次に産まれた虹龍の時も出産に立ち会い、それぞれの成長を見届けてきた。 「来たのか」 すぐに姿を現した虎鋭にはさすがに少し苛立ちが見える。 「金鳳はどうだ?」 「寝付いたまんまだ。最近はリーラの薬も十分呑めねえ」 銀鳳が他の街区に出ばっている間、病状が悪化していたのをずっと堪えてやったに違いねえんだ。 「結局、俺達を信じてねえってことかよ」 「…それは違う」 律志は苦笑する。 「信じており、大事にしたい絆だからこそ、心配させたくなかったのだろう」 「…ちっ」 金鳳の気持ちも満更わからなくもないのだろう、虎鋭は舌打ちをする。 「? どこ行く気だ?」 「軍籍から抜けたとはいえ元諜報員。隠密活動はお手の物だ。俺でよければ力を貸そう」 「そんなこと頼んでねえ」 「なら、ここでお前を不安がるな、大丈夫だと抱きかかえて慰め続けてやればいいのか?」 「……『金界楼』が落ち着かねえ。妙な客が出入りしていると噂があるが、尻尾を掴めてねえ」 「わかった。すぐに突き止めよう」 背中を見据える瞳に微笑みながら、律志は花街の闇に身を溶け入らせる。 (虎鋭は長寿を得ていずれ花街の顔役になる。その時俺はどうしている?) 少し前から胸に漂う問いを思い返す。 今はまだわからない、が、ロストナンバーだからこそできる貢献もあるだろう。世界からはみ出ているが故に、見えてくる道もあるはずだ。 (虎鋭が家族と生きる場所を、身命を賭し築き上げたモノを縁の下で守り支えていく、それが俺の務めだ) 『さっさと隠居しちまえよ、「菊花月」に部屋は余ってるぜ』 いつぞやぼそりと言い放った声にそう応じたら、意地っ張りめと笑われた。 (似た者同士だな、俺達は) 親の心子知らずとはよく言ったもの、隠居にはまだまだ早い。現役でいけると身をもって証立てようと薄笑いする。 途中、花塚に立ち寄った。買い求めた菊を捧げ、じっと闇に目を凝らす。誰かがやってきたのだろう、細い蝋燭が風にゆらゆらと揺れながら光を放っている。 好んだ花を買い求めはできても、死に様を虎鋭から聞きはしても、律志は秀芳の墓がどこにあるのか知らない。愛しい女の居る世界に繋がる術を持たない。ならばせめて、ここで弔おう、と微かに目を閉じる。 途切れた絆は戻せない。失った時間は取り返せない。それでも、時間を越えて結んだ想いは、今見事な花を咲かせつつある。 (今度こそ守る) かっと見開いた金の瞳は闇を貫く刃のようだっただろう。 『金界楼』に出入りしていたのは、隣の街区に勢力を広げようとしていたマフィアの一派だった。ハワード・アデルに追い立てられて逃げ延びてきた一群れが、同じように力を求めて足掻く『金界楼』に繋がろうとした、それだけだ。まだ互いに不信を抱えている、今なら叩けばかき回せるだろう。 『弓張月』に戻り、虎鋭に伝えると、微かに安堵した目になった。 「早速手立てを打つ。……どうだ? いい酒があるぜ」 「もらおう」 盃を差し上げる手つきに誘われて、月光が降る『弓張月』の縁側で虎鋭と酒を酌み交わした。遠くから聞こえる嬌声、賑やかな音曲、階下では酒肴の準備に忙しく立ち働く華子達、威勢よく響く男衆達の挨拶。 ふいと目を上げて尋ねた。 「虎鋭よ。覚醒した事を悔いているか」 「何だよ、薮から棒に」 問いに驚いたように見張る瞳に問いを重ねる、長き旅路でなにを見つけたか、と。だが、酔いも手伝ったのだろう、とろりと蕩ける黄金の瞳が満足そうに『菊花月』へと向けられて、律志は苦笑いした。 「……愚問だったな、顔にそう書いてある」 本当はその問いは自分に向けたものだろう、そう思って自答する。 俺が見つけたものはここに在る。ここに居る。 それだけで十分だ。 (いつかお前に歳を越される日がくるのだろうか。その日が怖いような楽しみなような、気恥ずかしいような待ち遠しいような……複雑な心境だ) 「…おじじ! 来てた!」「これ、花海棠…」 沈む気持ちを掬い上げるように、賑やかな声がして振り返った。 「いい、構わん。元気にしていたか?」 「おじじも元気にしてた?」 リーラの制止を振り切って駆け寄って来た花海棠は、まっすぐ律志の膝へしがみつく。その温かな体をゆっくりと抱き上げてみれば、遠慮なく甘えてくる孫に満幅の信頼を感じ取って、胸が震える。 何かに呼ばれたような気がして空を見上げれば、鮮やかで明るい月は煌々と光を放っている。 「ああ……綺麗だ」 インヤンガイの月も上海の月も同じなのだな。 目を閉じて思い返す瞼に秀芳の笑顔が甦る。 「……いい人生だった」 思わず知らず、辞世じみたことばが零れた。 「……おい、何をおさまってやが…」 「あ、いいことやってる!」 虎鋭の声を遮って、弾けるような声が響き渡った。 「俺らも混ぜて混ぜて! リーラさん、こんばんは。虹龍、花海棠、パパだよ~!!」 「お邪魔します、リーラさん、鷹遠さん。来たよ、虎鋭」 「怜生、律、お前らまた!」 感傷に浸っていた律志は膝の上から花海棠をかっさらわれ、ついでにリーラも腕の中から虹龍を奪われ、いつもながらと二人顔を見合わせて苦笑する。きゃいきゃいとはしゃいで怜生に頬ずりされる花海棠は、すぐに怜生の手を振り切り、今度は律に飛びつく。甘えんぼで抱っこ大好きの虹龍は特に怜生がお気に入りで、 「えおー!」 自分からもべったりと涎塗れの顔を相手に押しつけ笑い声を立てる。 「では、お任せしますね、皆さん」 私は酒肴を見繕ってきます、とリーラが楽しそうに場を離れていく。 こんなに何度もやってきて、大丈夫なのかよ。 まだ膝の上に抱えた花海棠と虹龍に頬ずりをし続けている怜生と、それをいささか複雑な顔で眺めている律志を横目に、少し案じ顔のリエに律は笑み返す。 「大丈夫だよ、依頼もそこそここなしてるし、修行も続けてるし」 何より、怜生がうるさいんだ。少し時間が空くと、花海棠と虹龍がどんどん大きくなっちゃってパパの顔を忘れちゃうって騒ぐから。 「おいおい、何言ってやがる、あいつらの親は俺だろが」 「それはそうなんだけど」 呆れ顔のリエに律は微笑む。 「怜生も俺も、出産に立ち会ってるだろう。虹龍の時も運良く側に居られたしね。産まれたときからずっと見てるから、人の子どもとは思えないんだ」 怜生の膝で甘えて抱かれて、背中にしがみつきおぶわれて、転がるように笑う子ども達の幸福そうな笑顔、それを見やった律は、少し居住まいを正す。 「それに、今日はちょっと伝えたいことがあって」 「……帰属か」 「うん」 鋭い指摘に苦笑した。それとなく気配を察したのだろう、律志も座り直すのに軽く会釈する。 「そろそろ壱番世界に帰属しようって考えている。けれど、そうなると、ここにはもう来れなくなる…」 律は怜生の膝に抱かれたまま、にこにこと手を振る花海棠に頷き返す。リエがそっと盃を満たしてくれる。そこに鮮やかな月が映り込む。 「……正直、寂しいね」 声が微かに震えた気がした。 「でも、やっぱり愛する人がいて子供がいて、家族がいるってすごく憧れるし羨ましい」 リエを見、律志を見、居るだけで場を明るませる二人の子ども達を眺め、ほ、と珍しい、断ち切るような吐息を零した。 「だから、壱番世界に戻って俺も家族を作るよ」 まっすぐ見つめる四つの瞳に、誓うように感謝を述べる。 「ありがとう、ここに何度も来てるうちにようやく決心が固まった」 律は盃を取り上げた。唇を湿らせて含む。まろやかで膨らみのある味わいに、目を閉じた瞬間、通り過ぎてきた過去が一気に甦った。 「俺の両親は事故死してしまった。両親は駆け落ち同然で結婚したから親戚関係も疎遠だ。だから、ずっと考えたんだ、ロストナンバーを続けて行くにはちょうど良い身の上なんじゃないかって」 リエは口を挟まない。律のことばをじっと聞いていてくれる。 その沈黙に心を許して目を開け、それでも盃の月を見下ろす。 「けど…けれど、さ、リエたちを見ていると俺の描いてた家族像みたいで凄く暖かいし羨ましい……ほっとするっていうのかな………生きるということの意味を見いだせる気がする」 生死に関わる幾つもの出来事を、律は繰り返し考え抜いてきた。命を奪い奪われする刹那にも、穏やかに歩く平凡な日常の中でも。 どちらか片方で命は成り立っているんじゃなくて、その両方が関わって命が成り立っているとわかった。死は習い覚えた殺人技術を継承すること、ならば生とは何だろうとずっと考えてきた。 顔を上げる。ちょうど酒肴を揃えてきたリーラ、歓声を上げて母親に飛びつく花海棠、怜生の膝の虹龍があーと声を上げてリエを振り向き、リーラに手を伸ばす、それを律志が心配そうにみやっている、その光景。 それぞれの気持ちが、想いが、見えない糸のように絡みあって、柔らかく輝いている。 「俺が決めた生き方に必要なものが分った気がする」 律の命を待ち望み、生み出し、世界へ送り届けてくれた、大きな流れ。 たった一本の流れではなくて、いろいろな流れが寄り集まり、綯い合わされて、今の律が居る。 今度はその流れの一つとして、律が誰かを生み出す流れの一つとなる。 生とは家族を作り子を成して、生命を受け継ぐことなんだ。 そう気持ちが固まったのは、こうして何度もここへ訪れてきたからだろう。 「再帰属することになったら、その前にはちゃんと会いに来るから」 「ああ」 待っている。 その時はとことんまで飲み明かそうぜ、覚悟して来いよ。 「…わかった」 ずっと早くにそれを知っていたのだろう、リエの笑顔に見惚れながら律は頷く。 「律が再帰属するからさ」 子ども二人が眠たげにぐずり出して、リーラだけでは連れていけそうになくなったので、律が付き添って寝かしつけに行ったのを見計らい、残された律志とリエの前で怜生はいつものように軽く言い放つ。 「俺は再帰属しないことにする」 訝しげに眉を上げる律志に、にやりと笑った。 「だってさー、チャイ=ブレ、放置しておけないじゃん?」 どんな時でも律を守り続けると決めた男は、今回も自分の人生を軽々と親友の未来のために使い尽くす。 「律が家族を持つと決めたから、万が一の時、壱番世界を守るために動けるようにしておきたいわけ」 だから、律が帰属した後も俺はちょこちょこ顔見にくるわ。 「なんなら、リエぴょん看取るかもよー」 ひょいと上げた視線は律志とぶつかる。 だよな? 大事な相手を守るんだぜ、そんくらいのリスクは折り込み済みだよな、おじっちゃま? 「…いいのか、それで」 リエは厳しい顔になる。 「お前はいいのか」 「いいも悪いも、必要性ってことかなー」 俺は律が死ねって言うなら死ぬし。それを命じたことで律が苦しまないっていう条件付きで。 「でも、今の律ってばさー、そういうこと、さらっと言いそう、しかも簡単に死なせてくれなさそう」 いい意味でしたたかになって強くなったよね〜。 「やっぱさ、ロストナンバーになったこと、意味大きかったよ」 親友を見やる瞳はどこか羨ましげで、どこか誇らしげで。 見て取ったリエは苦笑しながら盃を干す、不器用な奴め、と呟きながら。 その後、怜生は年一回はターミナルで外見の加齢・体型の変化を施すようになった。あくまでも自然に、あくまでも壱番世界に溶け込んでいけるように。 けれど、インヤンガイに来る時は、本来の歳のまま訪れている。 来るたびに、パパだよー、と花海棠と虹龍に抱きつくのを繰り返し、年頃に華やいでいく花海棠は苦笑しながら、線は細いながらも気のきつい少年に育っていく虹龍はいささかうっとうしがりながら、それでも二人とも、異世界から訪れる『パパ』をこよなく愛した。 それはきっと、赤ん坊の頃から自分達を知っている怜生が、背が伸び体重が増え、年頃の男女として健やかに成長する二人を見る、眩げな懐かしげな、そして愛おしげな視線を感じ続けていたからだろう。 『パパは二人の他に子どもがいないからねー。パパにとって、花海棠と虹龍はかけがえのない大切な子どもなんだよー』 なぜそれほど私達を大事にしてくれるの、と尋ねた花海棠に、怜生は笑って応えている。実の父母以外に、それほどまでに深い想いで見守ってくれている大人を得ている安心は、思春期の危うい時期を巧みに切り抜けさせた。 いずれ娼館を仕切るという苦しい役目を負わされた花海棠も、他の世界を知りたいと一旦は月陰花園を離れた虹龍も、それぞれの背負う荷の重さを理解してくれた『パパ』が居たからこそ、素直になれない親子関係を修復できた。 特に、早くに子どもを為した虹龍は、その赤ん坊の名付け親となってくれ、もう孫ができちゃったじゃん、たーいへん、といつもの口調で笑ってもらえて、どれほど安堵したことか。 だから勿論、『紅蓮の虎』が没した時も、まず一番に探偵から怜生に連絡を伝えてもらった。 『忙しいのはわかってるんだ、パパ。けど、リエの最後の顔を見に来てやって』 父親のもう一つの名前を知ったのは死ぬ間近、求めに応じて現れた怜生の姿は相変わらず、外見年齢で彼をとっくに越してしまった二人は、駆けつけた怜生には手放しで泣きついた。 『パパ、ほんとにおとうさん、ここで暮らして幸せだったかな』『私達が産まれちゃったから、おとうさんをここに縛りつけてしまったんじゃなかった?』 既にリーラはいなかった。『紅蓮の虎』は最後まで浮き名を流した粋な男だったけれど、その黄金の瞳は孤独を堪えていたんじゃなかったのか。 『おいおい、リエぴょん、信用ないのね〜』 いつもの軽い調子で怜生パパは一笑した。 『子どもの一人二人で縛れる男じゃなかったよ。けど、何にも代え難い大事なもののためには、笑って命を張れる男だったよ』 怜生の語る『リエ・フー』を、花海棠と虹龍は繰り返し飽きるまで聞いた。 一度だけ、突然やってきた怜生が、ことば少なに一人にして欲しいと望んだ夜、二人は奥座敷を怜生のために封じた。誰も一切近寄らぬように、怜生が再び姿を見せるまで、どれほど時間がたとうとそのままに。 月の満ちる縁側で、彼が何を想っていたのか、誰を想っていたのかは、月しか知らないことだ。 「劉!」 ヴァージニア・劉は体重差で押しつぶされて地面に突っ伏す。締め上げられかけたのを体を捻って逃れながら、相棒の顔を振り返った。 「気にするな、やっちまえ!」 頷いた星川が例の馬鹿馬鹿しくふざけたギアを振り回し、きらきらエフェクトが発動する。こっちは派手に殴られたが、そんなことじゃ堪えない。ついでに、盛られた毒も不味い酒程度の効き目でしかない。 押さえつけていた奴らが次々吹っ飛んだ隙に形成逆転、鋼糸を張り巡らせて死なない程度にぎったんぎったんにさせてもらった。 「はあ疲れた…」 「大丈夫か?」 何とかな、と劉は星川をみやる。 (もう一年か) 劉は今ターミナルで事務所を開いて便利屋稼業を営んでいる。 浮気調査、ペット探し、ストーカー退治。 トラブルシューティング全般を請け負う何でもありの仕事だが、これが結構性にあっている。 (頼れる相棒がいるからだな、きっと) 「大体、あんな奴らに捕まってる場合じゃないだろう」 「テメエがさっさと追って来ねえからだろが」 「あんなに素直に毒を呑まされるとは思ってなかった」 「いいじゃねえか無事だったんだし」 「過信し過ぎだ」 「ちっ…」 (まあ、確かに今回のは俺が甘かったけどよ) 星川が苛立つのもわからなくもない。それは心配の裏返しだと最近はわかってきている。相変わらず口喧嘩は絶えないが、まあまあうまくやっているほうだろう。 自警団や警察が見回っていても、目が届かない場所や手が回らない事はある。そういう零れ落ちたモノを拾って痒い所に手を届かせるのが劉達の役目、そう思っている。 暇な時はフォーチュンカフェに入り浸ったり、ついでに仕事募集のポスターを貼らせてもらったり、ビラをまいたり、たまに鳴海をからかいにいく。金欠時は星川が働いてるホストクラブの助っ人に雇ってもらったり……まあぼちぼちそんなかんじでやっている。 (家じゃうるせえ居候がメシはまだかと待ってやがる…) 「ああ畜生、今日は呑みに行くか」 「今日は、じゃない。昨日も呑みに行っただろう」 「ごちゃごちゃうるせえよ、鳴海も誘おうぜ、仕事は片付いたんだ」 「……鳴海は泣くだろうな」 苦笑しながらも、星川は付き合ってくれた。 引きずり込まれた鳴海は案の定、報告書の山がぁあと泣き喚いたものの、やっぱり酒には目がなくて、一緒に付き合ってどんちゃん騒ぎ、今隣で潰れた所だ。 新しい酒の封を切りながら、劉は鳴海の介抱にかかる星川をまたみやる。 なんだかんだ色々あったが、今はそこそこ幸せだと思う。 (お前がいるからだ、星川) 口には出せない感謝だった。 (いつもスカしたかっこつけでむかつくこともあるけど、てめえと出会って人生180度変わった。今の俺があるのはお前や仲間のおかげだ) 酔い潰れたらおぶって送ってやっから安心しな。 心の中で呟くが、今まで星川が潰れたところは見たことがなかった。いつもしたたかで、いつも冷静で、いつもどこかで劉を案じてくれているのを感じる。 (いつまでこの仕事が続くかわかんねーけど、お前さえいりゃ十年でも百年でもいつまでも続けられる気がする) そんなことを口にすれば、当然だろうと言わんばかりに冷笑されるのだろうが。 「……お前と飲む酒はうまい。これが一番大事なこった」 「ん? 何か言ったか?」 「何でもねえよ。それより、鳴海はもうそのへんで寝かせとけ、こっちでやろうぜ?」 酒瓶を上げると、星川がほんの少し嬉しそうに笑った。 『星川&劉探偵事務所』 星川 征秀がヴァージニア・劉と一緒にターミナルに事務所を構えて一年になる。 安直な名前だが変に格好つけるよりは俺達らしい、と征秀は思っている。 探偵事務所といっても、名前ほどかっこいいものではない、要はなんでも屋だ。日常の雑用から異世界への用事までジャンルを問わずなんでも請け負う。 掛け出しだから地道な宣伝活動も欠かせない。『フォーチュン・カフェ』にビラを貼ってもらったり、司書の鳴海に宣伝を頼んだり。 特定のロストナンバーに肩入れするのはどうかと鳴海は悩んだようだが、とっておきの酒があると見せてやれば、『一回』だけですよ、と話に乗った。 その『一回』が、通算すればそろそろ十本の指を越えるあたりはご愛嬌という奴だ。 「なあ、星川、こいつぁ、ちょっと妙だぜ?」 失せ物探しの品は確かにこれでいいんだろうけどよ、この押されている所蔵印、この間、自警団で広報していた盗品じゃねえのか? 劉の指摘はいつもながら鋭いところを突いていた。少し調べてみると、その工芸品はターミナルの古物商から盗まれた代物で、しかもその古物商が最近行方知れずになっている。インヤンガイでの依頼に出かけたままだと聞いて、チケットを都合して乗り込んで見ると、これが『旅人』を利用してターミナルの品物をこっそりインヤンガイで売買しようとしていたという事がわかった。 「物騒なことするんじゃねえよ、おっさん!」 「ひえええええ! いでよ、漠々人!」 「うわ、何だ、こいつら!」 うろたえた古物商がうろ覚えのインヤンガイの術で妙な黒い生き物を呼び出したから始末に困ったが、征秀のギアと劉の鋼糸で何とか取り押さえる。動きを止めると、あっという間に消えていってしまう、何ともお粗末な代物だった。 けれど、劉でなければ、こうもうまく立ち回れたかどうか。 (やっぱり、俺達は相性いいな) 事件解決祝いはホストクラブ『色男たちの挽歌』で呑むと決まってる、と言っても、そこは征秀の職場でもある。探偵事務所だけでは食い詰めると考えて、征秀はまだホストを続けている。 故郷に帰るのをやめたと言った時、店長のチャンは泣いて喜んだ。店には後輩のサキもいるし、こっちはこっちで繁盛してる。 「鳴海も誘うか」 「あ、酒もって来させようぜ!」 「おいおい」 「いいじゃねえか、減るもんじゃねえし!」 「減るだろ」 劉に引きずられて来た鳴海はしっかり酒瓶を数本抱えていた。覚悟は決めてきたようだから、チャンや劉に次々奪われても代わりに店の酒を呑みまくっていたようだから、早々に潰れたが、後は周囲の客達も巻き込んで皆で飲んで騒ぎまくった。 「じゃあ、ドンペリ追加!」 シャンペンタワー入ります! きゃああと客は歓声を上げ、劉も手を打ってはしゃいでいる。征秀はだんだん仕事をしているのか飲んでいるのか分からなくなってきたが、まあいいか、依頼解決記念だ、と思い直した。 「劉、見ろよ見ろって! 猫が歩いてるぜ!」 「マジ! 猫歩いてる、ぎゃはははは!」 「わはははは! 犬みてえ!」 「猫のくせに!」 「犬も歩くのか? 歩くんだっけ?」 「猫は歩かねえよなああ!」 何が面白かったのかわからないほど、久々に大声で笑った。 「おーい、劉、大丈夫か?」 「ほし…かわ…こそ…」 「俺はだいじょ……、ぶっ」 さすがの劉が酔い潰れ、征秀もかなり足下が危うい状態で支え合うようにして、何とか事務所に戻って鍵を開けると、窓際でネリネの鉢が煌めいているのが目に飛び込んだ。 「あ…」 ふいに征秀は思う。 そうだ。 ここが俺達の巣、なんだ。 「……居場所があるって…いいもんだな…」 ソファに沈んだ二人、肩にもたれて寝息をたてつつある劉、酔いにぼんやりしつつ、征秀は小さく笑う。 ターミナルの街をチャンは足取り軽く歩く。 世界図書館に立ち寄ってめぼしい依頼がないかと当たり、ついでに司書の鳴海をからかった。チャンのことばに右往左往するのをほどほどに楽しんだ後は『フォーチュン・カフェ』で昼飯兼ねて一休み、ハオの料理を味わいながら、他愛ないおしゃべりをする。 「アイヤ! 絶世の美女ある、ちょっとお話良いあるか?」 見かけた美女は種族年齢問わずナンパして名刺を渡して勧誘する。一年経ってターミナルは激変しても、チャンは相変わらずだ。フリーにフリーダムに人生を満喫中だ。 「ロメオにようこそジュリエットある!」 波打つ黄金の髪の美女は苦笑しながらも一度店に来てくれると名刺を受け取ってくれた。絶対来てくれるとは限らないが、名刺を受け取りチャンに微笑を返してくれただけでもそこそこ、人生の目的は半分もクリアすれば悪くないものだ。 ホストクラブの経営も、お得意様が増えて軌道に乗り始めた。 この間なんか、星川と相棒の劉がやってきて、打ち上げにロメオを使いたいと言ってきた。 『しかたないアルねー稼ぎ頭の頼みは断れないある。今日は特別大盤振る舞い、どんどんドンペリいれるよろし!』 どんちゃん騒ぎのただ中に、運良くというか運悪くというか、鳴海が報告書を書く為に事実確認をとやってきたので、ついでに巻き込んでがんがん呑ませた。飲んで飲ませて酔い潰して、見事書類に判を押させてある。 『何の書類かって? 言わぬが花ある!』 真っ青になっている鳴海に安心するよろし、人生塞翁が馬ね、とからかっていると、もう一方で互いにしなだれかかるように呑みまくっている星川と劉に、女の子達がむくれているので宥めにかかる。 『にしても星川と劉はラブラブあるね~。結婚式には呼ぶあるよ? 大丈夫、チャンそういうのに理解あるよ。この業界そーゆー性癖の持ち主多いね』 『おい待て、こいつはいいとして俺は』『こいつはいいって何だよ、それっ』 『夫婦喧嘩犬も喰わないね。ついでにここで絡んでくれてもいいあるよ、それはそれで需要供給バランス良いある』 赤くなったり青くなったりする二人に、女の子達の機嫌も多少盛り返したあたりで、声高らかに宣言した。 『シメは王様ゲームある!』 響いた歓声は恐怖だったのか狂喜だったのか。 賑わう顔を見回して、いなくなった面々のことを思い出した。 ロメオの入れ代わりも、『ワールズエンド・ステーション』発見以降激しくなった。故郷に帰ったものも、死んだものもいる。 けれど、一つの席だけは埋める気がない。 (ジャックの席は永久欠番ね。帰ってきた時の為のキープしてるよ) 思い出に湿る気配をさらりと追い出して、チャンは食事を終え、『フォーチュン・カフェ』を出る。 チャンは当分ロストナンバーをやめる気はない。自分の店を放り出すなんて、経営者失格だ。もっともっと店を大きくしていって、ゲームセンターメンタピの吸収合併も目論んでいる。 『野望はでっかく異世界進出。手始めにインヤンガイ支店作るある!』 根回し頼むあるよ鳴海、そう言ってこの間の書類を見せたら、鳴海はきっと泡を吹くだろう。 チャンはくすくす笑いながら、ターミナルの中を歩いていく。 リンシン・ウーが積極的に依頼を受けるようになったのは、メイムで夢を見てからだ。一度は薄くなっていた帰りたいという意志、狂気じみた恋の酔いが冷めて、改めて考え直して、それでもやはり帰りたいと気がついた。 時々鳴海司書の司書室(酒場)に訪れる。 いろんなカクテルを御馳走になりながら、ぽつりぽつりと自分の心をことばにする。メイムで見た夢に突き動かされるように。 三年後、出身世界が見つかった。涙が零れる程嬉しかったが、リンシンはどうしてもチケットを受け取れなかった。 (様子を見に行くだけ、でも、怖い) 誰もが私の事を忘れていたらどうしよう。 震えながら冷たくなった指先で頬を押さえる。 (ジンヤン様は私の事を忘れているかもしれない) 強い憎しみは関心の裏返しであることを知った。見えないふりは、私の存在を認めているからこそ。 けれど、生贄にしたはずの私はあの人の心に居るのだろうか? 「鳴海さんは私があんなに故郷に帰りたがっていたことを知っているから疑問でしょう?」 なぜチケットを受け取らないのか、訝られているように思って尋ねる。 「うーん、そうですねえ……でも」 僕だって、忘れてしまうことにした過去の世界に、どうしても戻らなくてはならないと聞かされたら、怖くて恐ろしくて、その世界は見つからなかったことにしたくなるかも知れませんね。 鳴海が作ってくれたのは『エメラルド・ミスト』と呼ばれるカクテルだった。タンブラーの中に注がれた美しい青色の液体が、クラッシュアイスを煌めかせている。 「甘い……でも、強いのね」 にこりと微笑む鳴海は、リンシンの中の恐怖を読み取ったような目をしている。 「そうね、私は元々忘れられた存在…これ以上、怖いことなんてきっと、ない」 あの夢が本当にリンシンの未来を示しているのなら、世界はきっと、リンシンを優しく迎えてくれるだろう。けれど、夢に甘えて寄りかかるばかりじゃだめだとも知っている。流され、待っているだけではだめだということも。 「私、行くわ……自分の目で、今のあの世界を確かめて来るわ」 決心した声は、今までよりうんと軽やかに響いた。何がそこまで声音を沈ませていたのだろうと振り返るなら、それは『失いたくない』という想いだった。 けれど、その『失いたくない』ものは、かつてもう、見事なほどに切り裂かれて飛び散り、『失ってしまっていた』ものだったのだ。失いたくないとばかり思い込み抱え込み、その実、何も残っていない空の掌を、ただただ握りしめていたとようやくわかった。 「背中を押してくれてありがとう。慧国の一番美味しいお酒、お土産に買ってくるわ」 立ち上がったリンシンに、鳴海は頷き、ずっと持っていたかのように一枚のチケットを滑らせて寄越す。 「待ってますね、リンシンさん」 そのチケットに触れた瞬間、ふいに辺りが生々しく輝き、全ての音や匂いが胸迫るほどはっきりと感じ取れた。 「鳴海さん…」 「はい?」 「あの…おかしなことを言うかも知れないけれど」 世界って、こんなに鮮やかだったかしら。 一瞬鳴海はリンシンの頭上に視線を上げ、それからリンシンにもう一度にっこりと笑いかけて、たぶんね、と頷いた。 「いい加減しつこいぞ、グリス!」 「またそんなこと言って」 シィーロ・ブランカは忌々しげに振り返る。 『北極星号の年』から数年後、彼女は故郷のレルシアに再帰属していた。 「あれ見てみろよ、ハーフだぞ」「珍しい」「おお嫌だ」「高く売れそうだな」 「……ふん」 「待ってよって、シィーロちゃん。そんな一人で先先に行くと、またこの間みたいによからぬ輩に捕まったりするから」 「…とうに捕まっておるわ、お前に」 「え? 何?」 「何でもない、うろうろくっついて回るな、目障りだ」 言い放って、きょとんとしたまま、とことことくっついてくるグリス・タキシデルミスタを睨みつける。そのシィーロをまた、周囲を通り過ぎる人々が、声高に、あるいは密やかに顔を寄せ耳に唇を寄せて囁き合いながら見つめている。 どこに行ってもこうだ。 けれど、以前はこれは日常だった、単に元に戻っただけだ。 両親を捜して世界中を回っている。目撃情報を辿りつつ、追いかけてきて、もう少しで出逢えそうな気はしてきたものの、この世界はシィーロにとっては優しくない。死と隣り合わせの危険な故郷、本当ならば別の世界へ帰属した方が良かったかも知れないけれど。 少し吐息をついて空を見上げた。 ターミナルでの落ち着いた日々が脳裏を掠める。 人の視線に過敏になることもなく、様々な人種と種族が入り乱れる空間では、誰もシィーロの姿にあえて違和感や不快感を訴えることはなかった。 あちらの方が安心だ。あちらの方が穏やかに過ごせた。 (それでも) それでも父さんと母さんに望まれてこの世界に私は産まれた。 (それはきっと二人が幸せだったからだろう) ならこの世界だって悪くはないはずだ。 繰り返した旅を思い出した。世界群での旅で出会った人々はどんなに苦しくても 諦めず、明日や幸せを掴むために足掻いて生きていた。 (私もそんな風に此処で幸せを見つけてみたいんだ) 好奇の目線やヒソヒソ話に囲まれたり、突然人身売買されかけたりといろいろ嫌にはなるけれど。 「ねえ、シィーロちゃん、暑くない? どこか店に入って休もうよ」 きょろきょろと周囲を見回しているグリスを横目で見やった。赤い髪の毛、灰色の目、黙っていれば優しい顔立ちの青年だが、中身はぶっ飛んでいる。ついでに、グリスは相変わらずシィーロを剥製にしたいようだが、今は「キミが死んだら、剥製にするよ」と手は出してこない。 (ハイエナか) けれど、困っていると助けてくれる。矛盾しているとしか思えないが、どうやらシィーロを死なせたくないようだ。 (確かに彼のおかげで旅はすごく捗っているが…) 今までのことを思い出すと素直に感謝などできないし、シィーロはやはり剥製にはなりたくない。 (だから私は私のままでこの世界で生き続けよう) グリスが惚れたシィーロの毛並みは、部屋で飾られるよりも自然の下で輝く方がより美しい。 (剥製にするのがもったいなくなる位に存分に見せてやるから、早く諦めろ…なんてな) かつっ、と音をたてて向きを変えるとびくりとグリスがこちらを振り向いた。その顔にさっさと背中を向けて歩き出す。 「グリス。次の街へ行くぞ遅れるな」 「え。休憩なし? そんなことしたら、せっかくのツヤツヤな毛並みが傷んじゃうよ、シィーロちゃん、ねえって」 慌てて駆け寄ってくるグリスの声が、何となくくすぐったい。 ロストナンバーになって消息不明だったけど、思わぬ再会、思わぬ興奮。 実家の方には生存を連絡済みだ。グリス・タキシデルミスタの身内はみな大らかで、「生きてたのか」で済んでしまった。それどころか、「ハーフの剥製作れそう!」と報告したら、「よっしゃ作ってこい!」と旅の援助をしてくれる事になった。 だから今、両親探しの旅をするシィーロに勝手に同行している。何度か不気味な生物のように無下に追っ払われたが、最近ではめげずについていくので諦められた気配、まあまあ喜ばしいことだ。 「僕の家が剥製バカで良かった」 そう語ると、シィーロはとんでもなく嫌そうな顔をした。何でさ? 今日も実は危機一髪で、襲われたシィーロを拉致されたものの、犯人を即効性睡眠薬で眠らせた隙に逃げ出せて良かった。 (僕が居る限り彼女には手を出させないよ!) 空を見上げているシィーロの輝く毛並みに見とれながらしみじみと思う。 (まあ僕だって剥製にして永遠に残したいんだけど、彼女はこんな敵だらけの世界で生きるって決めたんだ。なら僕が味方になってもいいかなって思うんだよね) 照れるから直接言わないし、まともに聞いてもくれないだろうけれど、生き様を見守ってあげたいと思う。 (でも不慮の事故とかで死んだら即剥製にする!) ぐっと強く拳を握って、心密かに決心する。 (両親に会いたいだなんていじらしい願いも叶えてあげたいし) ああ、そうだ、僕も「お嬢さんが死んだら剥製にさせて下さい」って挨拶しなくちゃならないよね。 グリスはうんうんと一人頷く。 (ほんと、タキデルミスタ家の剥製って、レルシアでの『悲願』って言えるほど切望されてるものの一つなんだけど、シィーロちゃんには判って貰えないようで残念だよ!) けれど、グリスの気持ちは真剣そのものなので、シィーロには「キミが死んだら剥製にするよ」って言っておいてある。 (また、すんごく嫌な顔をされたけどね) 自分で言うのも何だが、グリスは結構使える男だ。結構、ヒトや獣人に顔の効く立場なので、交渉の仲介役をしたり、有権者から情報を聞き出し両親の行く先を割り出したり、何かと旅の手助けをしているつもりだ。 だから、いつかはきっと、そう願い続けるし、想い続ける。 (だってさ、何かを為そうって考えるなら、時間をかけないとね) 見事な剥製を作るためには、沢山の工程を寸分違わず積み上げていかなくてはならない。 (人の心の開き方も同じようなものじゃない?) グリスは家業で、積み上げて行く過程の大切さ、面白さを学んでいる。こうしてシィーロのすぐ側にグリスが立っていても、それだけで毛を逆立てられたり、さっさとどこかへ行け、と詰られたり、お前の顔なんか見たくない、と激怒されたりするのもずいぶん減った。 (後もう少しだよ) 輝く剥製を手にしたときの興奮を想像すると、どれだけ細かな手順を踏まなくてはならないにしろ、胸は躍る。 「グリス。次の街へ行くぞ遅れるな」 「え。休憩なし? そんなことしたら、せっかくのツヤツヤな毛並みが傷んじゃうよ、シィーロちゃん、ねえって」 慌てて駆け寄る。 シィーロをじろじろ眺める周囲なんて気にならない。それよりも、次こそは両親の居た、あるいは今滞在している場所かも知れない、と体を薄ピンクに染めて駆り立てられているシィーロに魅せられた困った輩が現れることだけが心配だ。 あ、そこに典型的な奴がいる。 シィーロの翻る尻尾や柔らかそうな耳を喰いちぎりそうな顔で眺めている奴。 (危ない危ない) 後を追ってくるようなら、早めに始末しておこう。 「次こそは会えると良いね~って待ってよシィーロちゃん!」 速度を上げて、シィーロに追いすがる。 ちらりと執着心丸出しの見物客を、心の中でそそのかす。 こっちを見ろよ、そして罠に飛び込んでくれ。 好みじゃないけど、僕の腕を磨く実験体ぐらいにはなれるだろう。 グリスはくすくす笑って、シィーロを追いかける。 僕はついに帰った! この森に、猫族の故郷に! 霧深き森、ヴェルクアベルに! アルド・ヴェルクアベルは深く濃い緑の森に向かって大きく深呼吸する。 懐かしい薫り、鼻の奥を疼かせる、この湿度。 しかも一人じゃないんだ。 無意識に顔中に溢れ出る笑みを隣に立つ飛天 鴉刃に向ける。 背後の茂みを見遣っていた鴉刃は、視線に気づいて治療した両目でしっかりとアルドの顔を見下ろす。右目の眼窩に魔力の目を生成する魔法は使えなくなってしまったが、帰属する身だ、おそらく必要はないだろう、そう思って、くすぐったい感覚を味わう。 「鴉刃、ここが僕の故郷、ヴェルクアベル、そしてこれから君と僕が暮らす…」 銀の瞳を蕩けさせて微笑んだ相手に、鴉刃は視線を流す。 「それはいいが、誰かが物凄い速度で近づいてくるぞ」 「え? あ…あれ!」 鴉刃の視線の先を見やったアルドは、ぱあっと二倍の明るさで顔を輝かせて、もう一度鴉刃を振り仰いだ。 「前に紹介したっけ! あれが僕のお父さんのヴェルテ・ヴェルクアうわっ!」 ああ、夢の中で紹介された―――。 「うおおおおアルドォォォォ何も言わず旅立ってから十三年今まで連絡も寄越さないでどこで何をしていたんだ父さんがどれだけ心配したことかオルグが付いていながらこんなことになるなんでうわぁぁん寂しかったよぉ」 ……見事に子煩悩丸出しであるな。英雄とは……。 ぱっと見には、アルドをやや大きくした感じの猫族が、アルドを飛びつき押し倒し後方一回転させるぐらいの勢いでしがみついて、全力で泣いている。あけっぴろげな感情表現、どうもどこかで見たことがあると思いついたのは、その父親の猛攻に必死に堪えてもがいているアルドの顔を見て、だ。 (そう言えば,いつか思い切り詰られて叱られたことがあるな) あの時のアルドの動きとそっくりではないか? (なるほど、血の濃さとは凄まじい) 鴉刃は何となく感動する。 「お父さん僕も嬉しいけどこれにはいろいろ事情がってちょっと落ち着いて苦しいよ!」 アルドはじたばたともがきながら、何とか父親をもぎ離そうとしている。父親は何とかもぎ離されまいと、剥がした手を次々と別の場所に引っ掛けるようにしがみつき、視点を変えれば、手練の二人がぱぱぱぱぱぱと派手な音をたてながら殴り合っているように見えないこともない。 だが、それほどの騒ぎを演じながら、この父親にはしっかり鴉刃の姿が視野に入っていたらしい。 「これが落ち着いていられるものか一人息子がやっと帰って来たんだ、ああアルド、愛しの我が子よーってそちらの黒龍はお友達かな」 「…こほ」 ふいにくるりと首を振り向かせて、鴉刃を見たものだから、つい軽く咳き込んだ。その鴉刃を心配そうに眺めたアルドが、次の瞬間には再び輝き溢れる笑みを満面に広げて言い放つ。 「あぁ、紹介するよ。飛天 鴉刃って言うんだ、僕の恋人」 「それはそれは、うちの愛息子がお世話になって……恋人?」 同じような笑みを溢れさせて頷きかけた父親は、突然動きを止めた。 きょとん。 そんな感じで鴉刃を見、アルドを見、再び鴉刃を見、アルドを見て。 「……恋人?」 「うん、恋人。僕が大人になったら、奥さんだね」 あっけらかんと言い切るアルド、さすがに鴉刃もそれなりに人生経験を積んできたから、父親の戸惑い半分の声音と視線の意味はわかる。 けれど、ここで退くぐらいなら、そもそもアルドについては来ていなかっただろう。 再びちらりと背後の気配に目をやって、鴉刃は心を決めた。 「飛天鴉刃と申す。……アルドの、恋人である」 口に出して言うのは気恥ずかしい。 「…奥さん…」 茫然とした父親の声。 「うん、奥さん」 平然と応じる息子の声。 (お、奥さん……む、むぅ……) 身悶えたいのは鴉刃一人か。 三すくみを破ったのは父親だった。ひくりと髭を引き攣らせ、 「ええと、アルド? それってどういうことか…」 だが、彼の愛息子は父親が思うよりもずっと大人になり、ぶっ飛んでしまっていた。はっとしたように瞬きすると、 「あ、そうだ父さん、吸血衝動の抑え方教えてよ! それを聞きそびれたせいでいろいろ大変だったんだからさ!」 ああ、そうだ、吸血衝動を抑える方法はあるのかどうか、と思わず身を乗り出した鴉刃に、父親は軽く身を引いて、 「え、この森の樹液吸えばいいことじゃないか、って話誤魔化さないで! 異種族を妻に迎えるなんて!」 (…何、この森の樹には魔力でも詰まっているのか? あれだけ苦労していたというのにそんなあっさりと、と軽く眩暈起きそうである。環境というのは大事であるな) 鴉刃は一瞬思わず現状と全く関係ないことに思考を飛ばせた。 予想はしていたが、案の定、父親の抵抗は強そうだ。うろたえたようにこちらへ向けた視線、華やかでも可愛らしくも愛らしくもない我が身を見つめ、どう考えたものかと戸惑う顔に、鴉刃は小さく吐息を漏らす。 もちろん、アルドは火種をぶち込まれた火薬のように弾けた。 「止めてもダメだからね、僕はいつまでも子供じゃないんだ! 僕は鴉刃と、この森で暮らすの!」 「そ、そんなあアルド少しは父さんの気持ちを考えてくれてもいいじゃないか急に戻ってきて急に恋人とか急に奥さんとか急に異種族とか…」 すがりつく父親、胸を張って言い返すアルド、その二人を眺めながら、鴉刃の脳裏にはこの三年の月日が巡り巡る。 結婚などは、縁のないモノだと数年前まで思っていたのに。ましてや、こんなふかふかもふもふの全くの異種族となんて、そう思ったのはアルドの父ばかりではないのだが。 それでもここにこうして、アルドと共に、アルドの世界へ帰属する、その意志は、揺らぐことなく鴉刃の身内を温かく照らす。 これから先の生活が思いやられる、アルドはああ言ってはいるが……さて、上手くやっていけるであろうか、そう案じる一方で、まずは父親に認められねばなるまいな、どうしたものか。 そんな風に悩ましく思う自分の心の変化を思う。 (……とりあえず、花嫁修業はしておくか……) 薄紅に染まるような想いで辿り着いた答えに、鴉刃はやいのやいのとまだまだやりあっている親子から目を逸らして後ろを向いて呼びかける。 「ところで黄燐、お前は料理とか、そう言ったことは得意か?」 「ぴ!」 表現し難い声を発して、木の影で固まったのは隠れて騒動を眺めていた黄燐。 「……バレバレである。視線をこちらにずっと向け過ぎであるからな」 あっさり続けるとふにゃああ、とばかりに相手の緊張が解けた。まだなお言い争いを続けている似たもの親子を尻目に、鴉刃はそろっと視線を空に向ける。 「まぁ、その、なんだ。良ければ、その……花嫁修業とやらを、手伝って欲しい」 霧を纏い漂わせる森は、お世辞にも晴天好日とは言い難い。 それは鴉刃の歩いて来た道のりにも似ている。 数々の過去を切り捨ててきた。 故郷も、私を想うあの彼女も。 だが。 気のせいだろうか、この身を包む湿気も深く闇を宿す森も、まるでもう一つの故郷のように、この体に馴染んでくるような気がするのは。 (私は、幸せになって良いのであるな) 「ふふ」 微かに零れた笑みを見れば、誰もが思うだろう、鴉刃は今が一番幸福そうだ、と。 (アルドと鴉刃が、アルドの世界に再帰属、それに結婚するって聞いたからね。 さて、今回こそ、こっそり偵察よ!) 黄燐は並々ならぬ決意で二人の後を尾けてきた。頼まれてもいるし、見逃しちゃいけない大事なことだ、物陰から最後の最後まで見届けるつもりだった。 (結婚、いいわね。女の子としても憧れるわよ。ふふふ、影から応援してきた甲斐があったわ) 鴉刃にとっくの昔にばれているとは思いもせずに、黄燐は目の前でがっぷり四つに組んで大騒ぎしている親子をしみじみと眺める。 (でも、本当に子煩悩ね? アルドの父親。頑張りなさいよ、鴉刃。でも……何か、前途多難っていうの?) 異種族だの何だの、なかなか面白くないことを口走ってないか? 大丈夫だろうか、アルドはしっかり鴉刃を支えきれるのだろうか。鴉刃はあの子煩悩すぎて周囲が全く見えていないような父親と、うまく付き合っていけるのだろうか。 不安に思わず身を乗り出した瞬間、くるりとこちらを振り向いた鴉刃の視線に捕まった。 (バレて、た!?) 視線を向け過ぎだと言われても仕方がない、何としても見逃すまいと思ったのだ。でも、おかげでいろいろと参考になった。 「で、料理ね? あたしは得意よ、0世界にいたときは、持ち回りで料理してたんだし」 「そうか」 露骨に鴉刃がほっとした顔になる、その一瞬の弱気に、思わずことばを続けていた。 「花嫁修業、いいじゃない。いいわ、手伝うわ。滞在期間、結構あるんだし。そうとなったら、この森で取れる材料とかも知らなきゃね!」 「む、そうか……確かにこの森で過ごすのであれば食材と調理法も知っておかねばなるまいな」 改めて気づいた鴉刃の顔は、なぜか不安というより甘やかな微笑に蕩けるように優しくなっていって、黄燐は少しだけ見惚れる。 その黄燐の目の前で、鴉刃はひどく柔らかな声で、こう呟いた。 「もう、私は水だけでは生きてゆけぬ、ということか、ふふ」 (あ、) 鴉刃は喜んでいる。 黄燐は瞬きした。 自分の変化を、水だけで生きていけないということはある意味ひどく不自由なことだとも言えるのに、その縛りを彼女は楽しんでいる、新しい自分の特性として。 幸せなのだ、と確信した。 鴉刃は今一番幸せなのだ。 目の前で受け入れるの受け入れないのと揉めていても、大好きな人が全身全霊をもって、自分の属す世界を敵に回しかねない勢いでもって、鴉刃を受け入れて欲しい認めて欲しいと、力の限り叫んでくれている。 恋人の在り方として、これほど心強く、嬉しい姿が他にあろうか。 彼のためなら変わってもいい、鴉刃は全身でそう伝えてきている。 それこそ、結婚、そのものよね? 「ふふふ」 黄燐は笑みを零した。友人達が幸せになるのは嬉しいことだ。イタズラ抜きで、協力したっていいだろう。 「ふ、ふふふふっ」 何だか自分までふわふわと軽い。 これからの日々に喜びしか見いだせない気がしながら、黄燐は弾む足取りでぽくぽくと鴉刃の方へ歩き出した。 (……そういえば、処刑の前の日も挨拶回りしたっけ、懐かしいな……これもその延長になっちゃうね) あちらこちらの見世に掲げられた赤いぼんぼり、嬌声が闇に響く、鮮やかな色を翻して軒先に飾られた垂れ幕が風に舞うのを見ながら、アストゥルーゾは少年の面差しで通りを抜ける。 本日、月陰花園は『華小夜』、普段は出入りできない年端もいかない少女少年達が、並ぶ屋台の間を駆け回る。 元々はハワード・アデルと銀鳳が始めた、インヤンガイでの抗争に巻き込まれた死者を弔う小さな祭りだったのだが、いつの頃から年一回、様々な理由で理不尽な死に方をした者達を悼むための催しとなった。 閉ざされた大門が開かれ、見張りの目も緩む。ならば、逃げ放題暴れ放題なのかと言われれば、そうではない。 数年前、『華小夜』をいいことに娼妓をかっさらい、盗み暴行の限りを尽くそうとした集団が居たが、逸早くそれに勘づいた『弓張月』の面々が動き、月陰花園の男衆だけではなく隣街区の銀鳳配下まで繰り出して、それはひどい仕置となった。 主犯格は始末され、引きずり込まれた者もそれぞれの娼館に放り込まれ、中には死ぬよりきつい責めを追うことになった者もいる。知らずに内通をすることになってしまった娼妓の一人は、各娼館で夜伽に回され、今もまだ『闇芝居』で身を売っているが、ただの一回分も花代にならないばかりか、きつい客ばかりに回される。死ぬまで使い尽くされる運命だ。 そういう闇を呑み込んで、今夜は穏やかな祭りの夜だ。 「で『弓張月』はこっちでよかったかなぁ? って、子ども?」 ふいに角を曲がってきた子ども達がぶつかってきて、彼は足を止めた。 「ごめんよ」「ごめんなさい」 真っ青な瞳と金色の瞳が、慌てたようにアストゥルーゾを振り仰ぐ。 「かーわーいーいー、食べちゃいたいくらい! でもこういうとこうろつくのはどうかなぁ?」 満面の笑みでアストゥルーゾはしゃがみ込んだ。確かに今日はお祭りだけど、にしては二人とも幼すぎる。背後の闇を透かしてみたが、大人一人付き添う様子もない。すぐ側では柔らかな喘ぎ声を漏らして抱き込まれる娼妓がいるし、きわどく絡みながら路地に入っていく男女の姿も居る。屋台が並ぶのは大通りの方だ、そう考えて思いつく。 「ひょっとして、お父さんとお母さんがここの人なの? お父さんの名前は?」 「『紅蓮の虎』っ」「だめよ、虹龍!」 誇らしげに口走った弟を、姉が諌めた。 「おとうさんの名前、勝手に言っちゃダメっ」 「なんでさ、ほんとのことだもん!」 「紅蓮の……ああ…」 アストゥルーゾは毒気を抜かれた顔で二人を交互に見やった。額から垂れおちた髪をゆっくりとかきあげる。 「……そっかぁ、子供できてたんだっけ…」 あれからどのくらいたったのだろう。依頼に忙しく振り回されていたし、出身世界をようやく見つけた興奮と、それに関わるあれこれの始末でうっかりしていた。そういやそうだよね、この目元なんかそっくりじゃないか、と虹龍と呼ばれた少年を見やる。 「キミ、お父さんによく似てるって言われない?」「…お父さん、知ってるの!」「虹龍!」 興奮して前に乗り出す弟を、慌てた顔で背後に庇う姉に、アストゥルーゾは安心させるようににっこり笑った。 「僕はね、お父さんのお友達、愚痴とか聞いてもらったりしたんだ、フフフ、友達って年齢には見えないかな?」 「見えません」 固い声で姉が弾く。警戒心を満たしている。 「でも、お父さんのお友達なら、失礼いたしました。わたしは花海棠。『弓張月』に居ります」 きっとした顔でこちらを見据えると、青い瞳がリエそっくりの鋭い光を宿した。 知り合いと言っても、どんな知り合いかわかったものじゃない。だが、もし正しい客なら粗相があってはならない。数瞬の間にそれだけの判断をしたらしい。 屋台を覗き込むには足りない背丈ながら、その気迫は確かに『紅蓮の虎』譲り。 「そうなんだー。で、お父さんは元気? やっぱりまださ」 「いないと思ったら」 ふいに声が降ってきて、アストゥルーゾは顔を上げた。 「こんなところで道草か。誰だ、そいつは」 (……しまった、子供たちと戯れすぎた) 「えっっ」 知り合いのはずの父が知らないと言ったも同然、子ども達が二人同時に真っ青になる。 かっちりとした引き締まったからだつき、銀色に光る灰色の長衣の袖をたくし上げて腕を組み、いつの間にか路地から半身体を乗り出し、リエがアストゥルーゾを見つめている。こちらも隙あらば一気に踏み込み、子ども達を引きながら一発かませようという気配に、苦笑しながら両手を上げて攻撃意図のないことを示す。 その隙に、状況変化を察した花海棠は虹龍の襟首を掴んで身を翻し、父親の背後の路地に滑り込んだ。時間、僅か数秒、だが、『紅蓮の虎』が臨戦体制に入るには十分すぎるほど十分で。 子どもを背後に庇ったのを確認して、ゆっくり振り返る黄金の瞳、凄みのある笑みを浮かべながら小首を傾げる仕草が妙に色っぽい。 「名前を聞かせてもらおうか?」 だが、アストゥルーゾが口にしたことばに、瞬きをしたリエは笑み崩れた。 「……ハローリエちゃん……いや……楊虎鋭? ちょっと大きくなった?」 「……お前かよ、アストゥルーゾ」 何だ、いつぞやの別嬪姿じゃねえのか。 からかわれた口調に、アストゥルーゾの胸に思い出が甦る。名前を覚えててくれたんだね、とは口の中で呟いたことば、それを呑み込んで、くい、と唇を引き結んで、にっこり笑った。 「……実は今度、帰るんだ、故郷に。だからこれでお別れ……いや、何かちゃんとお別れって言ってなかったなって思ってさ」 「…帰属か」 背後を振り向き、母さんのところへ行きな、とリエは子ども達に声をかけた。頷いて急いで走り去る小さな背中が二つ、名残惜しく、アストゥルーゾは見送る。 「……子供ができて親になって……僕にはできなかった生き方ができてるリエちゃんが羨ましい……けど、これからもそう生きてほしい」 零れた台詞は格好つけじゃない。心底、そう思っている。 「だからリエちゃんは、これからも今みたいでいてね」 きっともう二度と会うことはないだろう。お互いの世界は離れている。むしろ出逢うはずのない二人だった、出逢ったことが奇跡だったのだから。 俯く脳裏で、ターミナルでお茶したことが甦った。中国茶をいれてくれたリエのしなやかな手つき。目を上げれば、既に少年のものではない彼の手は、大きく広くなっている。 こうやって、時は二人を分っていくのだろう、永遠の彼方へと。 「あ、そーだ子どもたちに花の種をあげるよ、これはねぇ文字通り自家製、血肉を分けるかのごとく丹念に作り上げた世界一美しい花を咲かせる種だよ、でも皆にはないしょにしてね」 ふいに思いついた風を装って、ポケットから用意していた小さな袋を取り出した。黒ビロードで作られ、口を金の紐で縛ってある。 (故郷に帰って、僕は約束を果たす、あの場所を花で満たす、その為にどうするべきか答えが出たんだ。あの人にはもらってばかりで、死までもらおう何て図々しかったよ………だから僕は、あの人に夢をあげるんだ………この命を以って) 本当に言いたかったことは、全て呑み込んだ。 「…そうか」 渡された袋をリエは静かに見下ろした。 「もう戻ってこないんだな」 「うん、戻ってこれないよ」 「帰属するからな」 「うん、帰属しちゃうからね」 それが『死』を意味することを、お互い何となく察していた気もする。 けれども、リエは引き止めなかったし、アストゥルーゾもそれ以上語ることはなかった。ただくしゃくしゃと、くしゃくしゃくしゃと、自分で自分の前髪をかき混ぜるアストゥルーゾに、リエは無言でビロードの袋をポケットに片付けただけだ。 こういうの、どういうんだろうね。 最後にはどうやって離れればいいんだろうね。 愛しくて大事でかけがえのない女王、その想いは一瞬たりとも揺らいでいないのに、どうして花の種をインヤンガイに残せて嬉しいなんて思ってるのかな、僕は。 「じゃ、さ、行くよ」 「ああ」 「バイバイ、リエちゃん」 踵を支点にくるりと体を回し、片手を振って歩き出す。 (あ〜、あの子達の頭、撫でときゃ良かったかな。リエにもうちょっと笑ってみれば良かったかな) 最後に挨拶回りをした時には、こんなふうにあれこれ考えなかった気がする。自分を捧げるだけで十分だったし、一杯一杯だった気がする。 ……頑張れよ。 「っ」 背中から、嬌声の間に間に溶け入るような声が響いた。思わず立ち止まりたくなって、けれど背中を見ている視線を強く痛く感じて、アストゥルーゾは歯を食いしばり、がつり、と一歩を踏み出した。 胸がどんどんと波打っている。 「う…う」 思わず唸り声が漏れてしまうほど、体の震えが一歩一歩の歩みを震わせてしまうほど、アルウィン・ランズウィックは息を詰めて周囲を見回す。 変わってないんじゃないか。 全くここは、変わってないんじゃないか。 あれほど長くターミナルで過ごしたのに。 あれほど長くこの世界から離れていたのに。 まるでここは。ここは。ここは。 時が止まっていたようで。 「…くっ、う!」 壁に囲まれた町が見えた瞬間が限界だった。走り出すのを止められなかった。身体中震えていたので、何度も転び、叩きつけられ、地面に投げ出されては、焦って慌てて跳ね起きて走り出し、なおも足下をもつれさせながら速度を上げた。 「じーちゃん、とーちゃ…っ」 かーちゃん、にーちゃんたち、ねーちゃんたち。 喘ぐ呼吸に今呼ばなくてもいいだろうに、けれど今呼ばなくては一生記憶から奪い去られるような気がして、大きく口を開いて叫び出す。 「イェンス!」 「ゴウジン!」 「ヴィンセントぉ!」 息が切れる、涙が溢れる、鼻水も一緒だ、視界がだぶだぶ波打っている、突っ込んだ、転がった、また飛び起きた、走り出す。 「ナウラぁ!」 「シズオぉ!」 ガウェイン、ガラハッド、カゲタツ、リーベ、ナガレ、ゴエモン、ケン、エーリヒ、めんたぴ、ティア、魔法使いいいいい!!!! 会いたかった家族と会える。けど、会っていたかった『家族』ともう会えなくなる。 「かえったあ! かえってきたあぁ!」 「…お……おおおお!」 前方から声が響き渡った。駆けてくる家族の顔がはっきりと見てとれる。 「アぁルウィぃいいいいンっっ!!」 ただいま、皆っ! 飛び込んだ腕は温かくごつく優しく甘かった。誰もが涙ぐみ、労ってくれ、喜びと歓声で迎え入れてくれた。 実は故郷では三年たっていた。 三年しかたっていなかった、というべきか。 月の女神は特別な配慮で時間を流れを送らせてくれていたのだった。だからこそ、アルウィンは行方不明になった時とほとんど変わらない時間の中に戻ってこれた。 「あのな、あのな、イェンスがな…」 「ほお…そうかそうか」 「そんとき、カゲタツはな…」 「むむむ、それは凄まじい」 「めんたぴというのはな…」 「……ふうむ、なんと」 旅の様々な出来事を、笑いと号泣を繰り返しながら話し続けた。改めて口にして今更分った思いやりや、後々の事件を加えて話し、聞いていた家族に諭され気づいたこともある。色々な価値観や勇気の在り方、優しさ強さ。見聞き、経験し、少し大人になった自分が居ることに、アルウィンは話しながら気づいていく。 「良い人達に会えて良かったね」 「うん、アルウィンはまほうものだ!」 「いや、たぶんそれは果報者と言うのだぞ」 「うん、あっちでもよくそうやって…」 ことばを教えてもらったのだ、そう口にするとまた涙が溢れた。 懐かしい涙だけではない。 なぜもうちょっと、あっちに居る間に深く理解できなかったのだろう。なぜもうちょっと、旅の途中で成長できなかったのだろう。そうすれば、もっと多くを語り合え、わかりあえ、より分かち合えたものもあったかも知れない。 その悔しさも胸に芽生えつつあった。 失ったものに気づいて焦るアルウィンに、月の女神は優しく語りかけた。 「彼らとの旅を無駄にしない為にも。これからも頑張れますね?」 「は…はいっ」 はっとした。 ああそうだ、そうだとも。 彼らとの旅、はアルウィンの中に種となって埋められている。それを育て、健やかに美しい花を咲かせて実らせる、それこそが、アルウィンが旅をしてきた意味の一つかも知れない。 アルウィンは頷く、何度も何度も、頷き続ける、聖なる誓いを捧げるように。 溢れ続ける涙で溺れそうになりながら。 命はそうやって、一つまた一つと、貴重な体験を身の内に蓄える。 十数年後。 邪神と善神、それらに従う者達が国境で睨み合う戦が始まった。互いに一歩も譲れない緊迫した空気、どちらかが仕掛ければ、均衡は一気に崩れるだろう。 誰がその一歩を踏み込むのか。 誰がその瞬間を見極めるのか。 空気を重くする非情の責務。 その凍てつくような気配の中に、悠々と進み出た一人の女性がいる。 「我が名は、アルウィン・ランズウィック!」 歴戦の傷に輝く鎧兜にぴんと立った耳、誇らしげに張るはち切れそうな胸、伸びやかな手足にまとわりつくマントを留める木の実のブローチ、豊かに振られる尻尾。懐には異世界に分たれた景辰から託された刀の笄と小柄が小袋に入れておさめられている。 「我が騎士団の誇りを掲げて、今この槍に誓う、栄光よ、あれ!」 差し上げた槍とともに、背後に控えた兵達が地鳴りのようなどよめきを上げる。 先陣を切って走り出す、怯みなどない、彼女を支えるのは景辰に教わった技巧だけではない、今も異世界で戦い抜く仲間の存在だ。 気迫に押された敵が、顔を引き攣らせつつ押し出されてくるように挑みかかる、それに腹の底から叫びを上げる。 「でぇえええいいいっ!」 煌めく灰色の瞳に射抜かれて、敵は闘志を失って倒れ伏す。 「まだまだああっっ!」 包み込むような軍勢の中、一筋の矢のように戦場を駆け抜ける。 その一瞬、ひどく懐かしい光景を見たような微笑が、彼女の唇を綻ばせた。 思わず知らず、胸の中で呼びかける。 皆、元気か。 アルウィンは元気だ。 いつかどこかでまた会おう。 いつも共にある。 どこかで必ず繋がっている。 蒼天に香り高い風が吹く。 後に最年少の将軍となる、アルウィン・ランズウィックの伝説の一戦が、今始まる。 「…ぁんた…」 「へ…?」 茫然としていた家族が徐々に呆れ果てたり俯いたり喜びに顔を輝かせたり戸惑ったりする中で、氏家 ミチルは次第に俯いていった母親が気にはなっていた。 「あの…母さん…?」 おそるおそる声をかける。 「結婚……です…って…?」 母親の、少し皺の寄った年取った手が、がつっとちゃぶ台を掴む。 「氏家君、こいつは」 来るぞ。 さすが人生経験豊かというか、それほど愁嘆場を見て来たというか、とっさに有馬 春臣がミチルを背後に庇った、その前で、母は一気にちゃぶ台を持ち上げひっくり返した。 「どういうことよ、それええっっ!!」 「お母さんっ!」 一体何がどうして。 飛び散る食器、料理、驚愕する家族と自分、その前で顔を歪めて泣きそうな母。 悪魔との決着から数十年後、有馬春臣と帰属することにした。悪魔の贈り物で、家出から2年しか経っていなかった。決戦後、ロナルドが悪魔と同化した。 全て忘れず受け入れているけれど、ミチルは罪を冒し、殺意や嫉妬も抱いた。だから、玉砕も覚悟した上で、有馬に結婚を申し込んだ。 どんな顔をしていたのだろう、厳しい顔をしたままで有馬は次々と質問した。 「念の為に確認するが、中身は頭の固い爺さんだ」 マイペースで性癖も特殊。浮気しないがSMの会合は行くぞ。 自分の生き様を変えるつもりはないと言い切る一方で、有馬は深い目をして言い添える、責任は自分にもある、と。 「前にも言ったろう。罪を一緒に背負うと」 「じゃ、なくて!」 そういう罪とか性癖とか爺さんとかじゃなくて。 ことばがもどかしいほどに伝わらない。これほど真剣に望んでいるのに、その根っこのところがわかってもらえない。 ミチルは両手を拳に握り、必死に年上の男をかき口説く。 「浮気しないなら会合参加OKッス!」 「性癖もチャームポイントッスよ、自分もマイペースだし!」 「結婚は元々他人同士だから、最初は合わなくて当然ッス、とにかくよろしくガイシャス!」 色んな事を認め許し知り合い、育みたい。今までがどうだとかじゃなくて、これからどうするかを語り合いたい。 「結婚せずとも傍に居る。すれば苦労する。撤回するならまだ間に合うぞ」 じっとこちらを見据えた瞳にぞくりとしてぶるりと震えてアンタ最高ッス、とむしゃぶりつきそうになった矢先、 「私を陥落させた責任、無理に取れとは言わんが」 「!!!!!」 世界が爆発しても良いと本気で思った。 「ハウス! ハウスハウスハウス!」 殺気に身構えた有馬が叫ぶ。構わず飛びかかる飛びつくしがみつく。 抱えた薄い胸と腰が温かくて確かに生きて動いていて、その感動に頭が真っ白になったミチルの耳元で、 「結婚してやるか」 そのことばだけが鮮明に残り。 家に同行してくれた。心配していた家族に抱きつき、悪魔と契約し、飛び出してしまったことを謝罪した。分ってもらえるとは思わなかったが、有馬に手を握ってもらって、声を震わせながら繰り返し話して、何とか狂ったのではないと信じてもらえた。 有馬は立派だった。氏名と職業、そして自分も悪魔と契約した者だと包み隠さず話して自己紹介し、惚け始めた家族の前で両手をつき、 「お嬢さんを私に下さい」 深々と頭を下げてくれた。 「私は彼女に心も命も救われた。理性と誇りと優しさを失わなかったのは彼女のお陰です。……年の差や、いろいろなことに皆さんが心配されておられること、不安に思われることも、重々承知しております、だが」 静かに顔を上げて、一言一言噛みしめるように呟いた。 「愛しています」 その結果が今の状態だ。 「あんたね、何を血迷ってうちのミチルに…っ」 「やめて、やめて、やめてよお!」 ミチルは急いで有馬の後ろから滑り出た。掴みかからんばかりの母親の前に両手を広げる。 「やめて、お母さん!」 「だって…!」 「彼のお蔭なんだ!」 「…っ」 「彼の、お蔭なんだよ」 まっすぐ見開いた目から溢れ落ちる涙に曇らされまいと瞬きし、微笑んだ。 「無事に帰れたのも、ここにこうして居られるのも」 「でもミチル、それはきっと」 「違う。違うよ、お母さん」 首を振る母親の言いたい事は察せた。一所懸命に笑いながら、ゆっくり距離を取る。背後の有馬の気配をすがりつくように探る。力を貸して。お願い。 「守られたからの錯覚じゃない。そんな簡単なもんじゃない」 脳裏に過った踏みにじられたピンクの花弁。 あの時前へ進めたのは。自己憐憫にぐずぐず浸り切らずに済んだのは。 「人として、生きてこれたのは、彼のお蔭なんだ、だから」 許して下さい、この結婚。 歯を食いしばり、しっかり手を付き、土下座した。このままどれほど詰られてもののしられても、たとえちゃぶ台を改めてひっくり返されても引かない、その気概が伝わったのか。 「……いいじゃないか、母さん」 戸惑いつつも滲んだ家族の声がした。続いて、別の声が、もう一つ。 「家族が増えただけだよ」 「…だって……だって!」 私、もう少し娘と一緒に暮らしたかったわ! 怒りながら言った母親は、次には笑いながら泣き出してしまった。 「こんなに綺麗になっちゃったのに!」 両腕で包んで抱えて、もっともっと愛しみたかった。 母親は号泣した。 夜、与えられた部屋で、有馬と布団を並べて眠る。 「…激しかったな」 とても許されるはずがないことなのに、最後の大きな関門はするりと通り抜けてしまったようで、深夜の優しい会話さえ唇を触れ合う距離でかわせる。 「初夜先取りッスね、は…はる、おみっ、さんっ」 初めて名前で呼んでみた。ん、と振り向いて体を寄せられて、思わず伸ばした手に温もりが宿る。 「こ、今後とも、いや今夜からかなっ、ガイシャス!」 「調子に乗ると本気を出すぞ」 「ひ」 覗き込まれて一瞬息を引いた。何だろう、この瞳、何だろう、この指先。 さっき少しだけ触れた体、間近に与えられてつい触りまくろうとしたのを思わず止めてしまう。 「いやあ本気ってあの本気ッスか、そりゃ今まで本気見たことないッス、けど、あ、あ、あ、あのっっ!」 思わず声が高くなった。だって、枕元の灯、消えていない。開かれた胸が小さいのが目立つ! 脱がされかけているズボンの下、お尻だって灯に晒すのは嫌だ嫌だ嫌だ! 「消灯よろしくガイシャス!」 「体つきは、関係ない」 感度の問題だ。 ひんやりと笑った相手が囁いて、うぁ、と漏れた声を慌てて掌で押さえる。 「どれだけ愛しているか教えてやる」 指先はもう辿り着きそうになっている。自分を止める気はない、むしろよく我慢したと褒めてやりたい。 はあ、と甘い喘ぎを漏らした氏家の首筋に、春臣は唇を埋めた。 悪魔との決戦から数十年後、ついに氏家と帰属する。 決戦前後、ずっと考えまいとしていた愛を自覚してしまった。 端々に彼女の成長を見る、見れば気づく、氏家がどれほど成熟し艶やかに溢れそうに喜びを満たしているのか。 だが。 果実をもぎ取ってしまうのがどれほど簡単か、そしてもぎ取った果実が腐り落ちてしまうのがどれほどあっけないものか、春臣はよく知っている。 だからこそ、氏家に手を出すのも結婚も、まず彼女の家族に頭を下げてからだと思っていた。 さもないと自分の中で筋が通らない。大人や男として彼女を支える行動をとること、家族に対する礼儀も忘れないこと、それらは瑞々しく熟れた果実を丁寧に口に運ぶのに絶対必要なステップだ。 氏家は成長した。悪魔に食ってかかり弾かれた日より、人を殺したことに吐き戻し続けた夜より、ずっとしたたかに強く美しく。 陥落したのはとうの昔だ。 認めることが痛かった。 怖がらせないように触れていく。培った技術はこのためにあったのかと本気で考える自分が、甘ったるくて困る。 「……泣いてるのか」 「……痛いんじゃないッスよぉ、」 掠れた声で解説されなくともわかっている。けれどあえて聞いてみたいのは、氏家が聞かれたいと望んでいるからだ。 「う…れし……」 仰け反る体が応えをくれる。 「何も……かも……とどいた……っ」 翻弄される自分に照れたのだろう、氏家が一瞬だけ我に返って、真っ赤になり、 「わー…男の人だあぁ…」 腑抜けた声で茶化してくれた。 「まだ、そんなことが言えるのか」 精進が足らんな。 不満げな呟きに我ながら呆れ返る。 「これ…からも…」 「うん?」 「まも…る……ッス…」 「ああ」 守ってくれ。 涙をこぼしながら顔を背ける氏家に、敬意を込めてキスをした。 北極星号帰還十五年後。 ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは黒生地に菊の文様のチャイナドレスを着て『弓張月』を訪れた。 「ジュリエッタ! どうしたの、急に。珍しいね」 出迎えたリオは目を見張り、眩げな視線で彼女を見下ろす。 いつの間にか骨格が変わった。筋肉質になった、というより、青年から壮年に変わりつつある気配、内側の成長の速さは花街ゆえだろうか。 「何、花海棠に料理を教える約束をしていたからのう。それに、虹龍には居合道を手ほどきしてくれと頼まれておった」 「ああ、そう言えば、そんなことを言ってたなあ。けれど、済まない、今花海棠はリーラに付き添って『菊花月』で金鳳の看病をしてるし、虹龍はリエと見回り中だ」 「構わぬ、今回は一日滞在する予定できた。済まぬが、部屋を用意してくれるか」 「もちろん」 にこやかに受け答えしたものの、どうしても、ほ、と小さく吐息が零れてしまうのを、リオは察したようだ。 「何かあったの? ……ターミナルで」 それとも、壱番世界で? 赤蟻や他の面々とは違い、リオやリエはジュリエッタの暮らす世界を知っている。それが抱える問題も今も覚えていてくれて、インヤンガイと同様に行く末を案じてくれている。ましてや、ジュリエッタの想い人がターミナルにいる今は、リオの心配はより広げられているようだ。 「いや、ターミナルは落ち着いておる。ディアスポラ現象がなくならぬのは残念じゃが、新しいロストナンバー達はうまくターミナルに馴染んでおる。壱番世界も、相変わらずじゃ」 「そう、なら良かった」 安堵したような顔を見せるリオに微笑み返し、その後は戻ってきた虹龍相手に居合の稽古をつけた。 「居合は無駄な動きを排し、確実に相手の急所を突くもの。きっとそなたの役に立つはずじゃ、それっ!」 「、い、てえっ!」 ジュリエッタの細い腕が翻るのと同時に、最近では父親の背に迫りつつある虹龍が床に転がり呻きを上げる。 「あっつ、もうちょっと手加減を」 「父上からは、そのようには聞いておらんぞ」 ジュリエッタは明るく笑う。 「もっと厳しくと頼まれたばかりじゃ」 「ひでえっ」 「ジュリエッタさん!」 リオから聞きつけたのだろう、『菊花月』から戻ったらしい花海棠が、顔を紅潮させて飛び込んできた。 「お待ちしてました! どうしても教えて欲しいスープがあって。お母さんも作り方がわからないって」 「ほう、どれどれ」 汗を拭いて着替え、今度は厨房で花海棠に料理を教える。 「なるほど、じゃが、このスープも、決め手はアクを丁寧に取ることに尽きる」 「たったそれだけですか?」 「そうとも、たったそれだけじゃ」 外見から言えば、そろそろ花海棠と同い年に見られてもおかしくないのだが、今でも花海棠は出逢った頃のままに、ジュリエッタを目上の女性として丁寧に応対する。 「それに今日は、ふんわり卵とトマトの中華炒めを披露しようぞ。炒め加減を間違えるとぐちゃぐちゃになってしまうし味加減も難しい、単純と思えて奥が深いのじゃ。それは薬の調合にも言えることじゃのう」 「はい、やってみます」 ジュリエッタが差し出す匙を頷いて含み、花海棠はジュリエッタの手元を食い入るように見つめる。新しいスパイスの調合を教え、料理の工夫について導き、本来ならば母親との時間を横取りしてはおらぬかと密かに気にしつつも、ジュリエッタもまた花海棠との時間を楽しんだ。 翌日、リオに見送られてロストレイルに乗り込もうとしたジュリエッタは、ようやく決心をつけてリオを振り返った。 「本当にたくましくなったのう…と言うと母親のようじゃな。もうそなたの娘と言ってもいいぐらいに…いや、もうリーラ殿達の子らとそう外見は変わらぬか。じゃが、これでお別れじゃ」 ぽんぽんと肩を叩きながら告げると、予測していたのだろう、ステップに立ったジュリエッタを、リオは生真面目な顔で見返す。 「やっぱり、何かあったんだね?」 「祖父が亡くなった」 「……」 「一つの区切りをな、つけようと思っておる」 まだ旅はやめないが異世界での長旅はもうしないだろう。 大学を卒業してからイタリアに移住していた。後見人のジョヴァンニ・コルレオーネの支援のもと、イタリア各地の郷土料理を学んだ。 祖父を看取ってからは日本の実家は譲渡した。想い人と共に歩むため、次のロストメモリーの儀式には参加する心づもりをしている。 「ここにいる皆と会うのが嫌になったわけではない……むしろ逆じゃ」 思わず漏らしてしまったことばに、一瞬唇を噛み、ジュリエッタは僅かに首を振った。 「ただロストメモリーになる身で未練を残してはならぬからのう、ここで区切りをつけたいと思う」 目を閉じ、思い出の数々を思い返してから、ジュリエッタは目を開いた。目の奥が熱くなる。別れを告げないままに離れてきた、花海棠と虹龍に、もう一度戻ってさようならと言ってくるべきではないか、そんな分り切った揺らぎが甦るのを、しばし噛み締めてから微笑んだ。 「どうかリオも皆も幸せに…Addio eternamente」 ふわり、とリオが両手を広げた。 ジュリエッタを包んで抱き締める。 邪気のない、まるで子どもが母親にしがみつくような、幼い抱き方で呟いた。 「貴方も、どうか、幸せで」 俺達のことを、ずっと見守っていてくれて、ありがとう。 「リオ」 腕を回し抱き返す。ついに溢れた一筋の涙を、リオは見ることはなかっただろう。 「…ありがとう」 リオを抱えつつ微笑んで見上げたインヤンガイの空は、珍しく明るく澄んでいた。 金鳳の葬儀は『菊花月』でひっそりと行われた。 月陰花園を仕切る銀鳳の実弟、その気になれば、どれだけ華々しく執り行われても、どこからも文句はでなかっただろう。 だが、死の床についた金鳳の口から漏れたことばは、『ここの主役は娼妓(おんな)だろう。俺達黒子が舞台に上がるもんじゃねえ』。 実力のある兄を恨み、娼妓達を欲望の道具としてしか扱わなかった男は、そこまで深みを増して成長していたのだった。 「見ろよ、笑ってるみてえじゃねえか」 奥の広間にあっさり置かれた棺桶の前、伝法な口調で言いつつ盃を干す虎鋭は、隣に座するリオを見やる。 「ああ、いい顔だな」 俺もあんな顔で死にたいな。 くい、と慣れた仕草で酒を含むリオも、虎鋭同様、壮年を越えつつある。 「まだ早えぜ、お互いに」 あいつをちゃんと見送ってやらねえと。 視線で知らせた先には、庭に向かって戸を全面開け放った縁で、仁王立ちとなって上空の月を見上げている銀鳳が居る。その名の通り、豊かな銀髪を肩に広げ、矍鑠たる背中は未だ衰えることのない姿、二人の会話に気づいたのだろう、肩越しに振り返って渋い顔で笑った。 「聞こえてるぞ、ガキども」 再び顔を月に向けながら、俺より先に逝くんじゃねえぞ、と低く呟いた。 「ああ、わかってる」「安心してくれ、銀鳳」 二人が口々に頷き、リーラや『涙月』が聞けば眉をひそめるような明るさで言い放った。 「てめえの骨は拾ってやるさ」「でっかい幟を立てて悼んでやるよ」 「頼んだぞ」 銀鳳は楽しげに笑った。と、そのとき、お客様です、と声が響いて三人は振り返った。 「こんな時間にやってくるのは」「こんな時間しか体が空かねえ奴だろう」「相変わらず忙しそうだな」 構わない、その客人を通せ、と銀鳳は頷いた。 踏み込んできたのは、黒のコートに女性用のスーツを身に着け、まだらの長髪を無造作に垂らしたキサ・アデルだった。 「おや」「ふむ」 「邪魔をするぞ」 その姿からはいくつもの街を支配に置く大手マフィアの女ボスとしての威厳が滲み出ている。背には黒い影のように付き従う壮年の男性が一人。 キサは手ずから下げてきた酒瓶を一つ、置いて微笑んだ。怯えることもなく金鳳の死に顔を覗き込む。 「いい顔だ。良い人生を送ったんだな。極上の酒を用意した。あの世で好きな女と、愛しい者たちと楽しめ」 「ハワード・アデル本人はどうした?」 三人の男たちの視線にキサは笑みを深くした。 「もう九十も超える老いぼれがずっと前線にいては困るだろう?」 キサは二十歳のときに父からボスとしての座を譲り受けている。肩を竦めて、 「父は殺しても死なないような人だ、いまもセリカをそばにおいて元気にいろいろと活動している。……あの人は旅人に会えて、あんたたちとこうして深く交流を持てたことを感謝していた。それはここで伝えておく」 鋭い視線を揺らせもせずに見返す顔、三人は薄く笑み返す。 「おう、無理しないようにな。女ボスさん」 キサはひらひらと手を振って去っていく。 長い廊下を歩きながら、ふとキサは足を止めた。 「私も、感謝してる」 「キサ」 背後に立つ男の声にキサは無邪気な少女の笑みを浮かべた。 「マフィアは嫌い、地位も名誉もなく自由に生きたい。けど、私は旅人たちにいろんなことを教えられた、責任を持つこと、逃げないこと、もう名前だって忘れてしまってわからないけど、彼らが教えてくれた心は私のなかにある」 そっと左胸に手を置く。覚醒してターミナルにいたのは赤ん坊のころ、記憶はないが与えられた心はきちんと残っている。 「だから私はこの世界を少しでもより良くすると決めたんだ」 したたかで鮮やかな笑みを浮かべる。 「そのためにばりばり働くぞ」 「そうか」 頷く相手に、キサは瞳を和らげた。 「エク、あなたには一番感謝してる。大変だったのも、苦しいのも、すべて乗り越えて、きてくれて、私のことを守ってくれて、慈しんでくれて、愛してくれて、ありがとう」 「俺は……理沙子やお前がいたから」 エクは微かに笑う。 「ふふ、私が行き遅れたら今度こそお嫁さんにもらってね?」 「なぬ!」 してやったりの顔でキサが歩いていくと、白いチャイナ服を身に着けた男が入り口で待っていた。キサが若いときに行き場がないのを拾った男だ。素性もなにもわからないがよく働く。 「待たせたわね、緋、行きましょう」 「……俺はキサのいるところなら、どこでも、どこまでもついていく。ずっと、」 「占いの結果は吉と出ました」 背の低い猫足のテーブルで占っていた女の恭しい声に向かいあうハワード・アデルは目を細めた。今年ですでに九十歳近い高齢だが、衰えることを全く知らない。 「蝶の街はこれからも幸多いでしょう。……昔の災いで潰れてしまった街ですが、多くの旅人が支援してくれ、今では立派な街です。あそこのリーダーである蝶さんは旅人に多くの感謝をしていましたね。彼女がよき導き手になるでしょう」 「そうか。では、セリカ、頼む」 ハワードは背後にいるセリカに微笑み、眼を細めた。多くの者を踏みつけてのしあがってきただけに瞳の鋭さは変わらない。ただ信じる者を近くに置いた彼は少しだけ穏やかになったようだ。 セリカの横にいた知的な眼鏡にスーツ姿のロイドはため息をついた。 「あんまり、セリカを働かさないでくださいよ。ボス。俺らもたまには二人でゆっくりしたいんですから」 「なら私からセリカを奪ってみるんだな、坊や。しかし、魔女の未来視の的中率は依然変わらないな。ハフリ、いつもながら素晴らしいものだ。お前の兄の白龍にも礼を伝えてくれ」 占い師であるハフリは小さく笑う。 「はい。それにこれ、私がすごいのではなく、私の夫が支えてくれるからこそ、です」 「探偵をしている夫か? ふむ、相変わらず幸せにも夫自慢か」 ハフリはくすくすと笑った。 「はい。私を救い、未来を見せてくれた。だから私も幸せな未来を見れる。ではもう行かなくては。夫が心配します、子どもたちも」 ハフリが立ち上がると同時にドアが開いて年取った中年の理沙子が入ってきた。 「あなた、キサが月陰花園から戻ってくるそうよ」 「久々に私たちが出迎えてやるか、理沙子」 仲のよさそうな夫婦を横目に、ハフリはその場から下がると屋敷の門の前に待つ夫に笑顔で駆け寄った。 「ただいま、かずい」 「おかえり。どうだった」 「大丈夫、ずっとずっと幸せな未来しかみえないよ。だって、あなたがいるもの。みんな大切な人がいるもの」 内側に光を含むような、柔らかな声が喜びを告げる。 タイムは二年後に故郷の『崩壊螺旋戯曲』に再帰属した。 十年後、父親を殺すまで、ずっとずっと父親を、『最後の魔王』を殺さなくていい方法を探した、探して探して、探しまくった。 けれど、それは、ついに見つけられなかった。 「外野にとやかく言われる筋合いは、ない」 澄み過ぎるほど澄んだ紫の瞳で、タイムは言い放つ。 『最後の勇者』であるタイムと、『最後の魔王』である父親の戦いは、戦いというほどのものでもなかった。 タイムは父を殺す覚悟をしていたし、父親は殺される覚悟をしていた。 だから、ほんとあっさりしたものだった。 「あ、もちろん、『ありがとう』は伝えたぜ? 伝え逃すはず、ないじゃんか。最後なんだから」 魔王は死んだ。 勇者が倒した。 世界のシステム上、それは知れ渡り、周囲はそれをあがめ奉る。 壊れてしまっている世界の仕組み。 代々の魔王は『世界の礎』とされてしまった愛する女を取り戻すために動いているだけで、『救おうとするが故に破壊を引き起こす力』は、魔王にとっては愛する女を取り戻すための力であり、その他にとっては純然たる破壊の力に過ぎない。 愛する女を救い出すと同時に、『生まれる前に死した我が子』である勇者に倒される。その際、『生まれる前に死しているために存在しない』存在である勇者も消滅する。そして、役目は次代へ。新たな命の誕生を待ちわびる、何の罪もない夫婦へと受け継がれていく。 けれど今回は、タイムは消えていなかった。 ただ『魔王』が倒されただけ。 タイムの尊敬する父が、死んだだけ。 「どうしようもない差だけれど、周囲はこの世界のシステムを知らないから仕方ないんだよ」 タイムは笑う。 どこか壊れた歪んだ笑顔だ、透明過ぎて、何もなくて。 「会いに来た人には、必ずこう言うんだ、『家族、大切にな』って」 『最後の女神』も、『最後の魔王』が倒れると同時に消滅している。 「まあ、母さんなんだけれど」 あくまで明るい口調。あくまで明るい瞳。 父親を倒し、そのせいで母親も消滅して。 父親は、著名な小説家だった。話の豊富さに、読む人全てが驚くとされるような。のんびりした口調だが、抜け目がないところもあった。 母親は、日だまりのような、春のような人だった。父親とはとてもラブラブだった、見ているこっちが恥ずかしいほど。 家族、大切にな。 システムに動かされて、倒す必要がない関係なら。 タイムが手にすることのできない繋がりなら。 『最後の魔王』も『最後の女神』も消えたのに、本当ならば、二人がいなくなったから、存在しなかったはずの『勇者』であるタイムも一緒に消えたはずなのに。 「何だろう、『最後の女神』だからこそ持てた力で、世界を安定させるとか何とか」 タイムが『最後の勇者』だったから。 もう同じようなシステムに動かされる役割はいないから。 「たぶん、それだけがこの世界での救いなんだろうな」 言い放った後は、何事もなかったように窓の外へ目をやった。 それで、と尋ねてみると、タイムはきょとんとして振り返る。 「それで?」 それでって、何? 『魔王』が『勇者』に倒されて、『女神』も消えてなくなって。 世界は安定し、救われて。 「平和そのものだろ」 またタイムは外へ目をやった。 道行く家族がタイムの視線に気づき、立ち止まって深く頭を下げる。父親は帽子を取り、母親はかぶりものを外し、幼い子ども達には何かを言い聞かせて一緒に頭を下げさせて。 物語の成就とはこういうものを言うんだよね。 呟いたタイムの前髪を風が揺らす。 穏やかで明るい、優しい風が。 タイムが天寿を全うするのは二十年後。 彼は、三十六歳で没した。 相沢 優が久しぶりにインヤンガイの『弓張月』を訪れたのは、あれから三十年後だった。もっとも、三十年来ていなかったのではなくて、ここのところちょっと忙しくて、一ヶ月ほど訪ねてこなかったというだけのことだが。 優は未だロストナンバーのまま、壱番世界を救う方法を模索している。 「いらっしゃい、優伯父さん」「今夜は泊まれますか?」 見かけは優を越えつつある姿で、花海棠と虹龍がぞれぞれに声をかけてくる。 「大丈夫だよ、ゆっくりしていける」 「やった!」「嬉しい!」 虹龍はきらきらと目を輝かせて冒険譚をねだり、花海棠は合気道について学びたがる。厨房では料理人達が優の腕を待っている。 「新しい食材が入ってやす、見て頂けやすか」 「後でいいかな」 「もちろんでやす!」 料理人達は密かに囁きかわす、見とけよ、あの人の腕から一つでも多く盗み取るんだ、とっておきの飯を作って下さるぜ。 「ゆう!」「ゆう、来た!」 きゃあきゃあとはしゃいで走ってきたのは、リオと『涙月』の子ども、リシュとカジュの双子だ。まんまるの目は淡い空色で、ピンクの頬に甘い顔立ち、よく女の子達と間違われる。 「はいはい、お客の邪魔をしてはならないんですよ」 後からやってきた『涙月』はいつぞやの威丈高な様子はすっかり消えた。ふっくらとした頬に小さなえくぼを作って優に笑みかける、まるで別人のようにも見える。 「リオが待っておりましたのん。ご無沙汰でした」 「あちらこちらへ行っていたからね。すまないな」 「旅人はいつもそう言いますのん」 くすりと『涙月』は笑った。 「貴方は約束を守る、そこが違うところですのん」 「ありがとう」 リオとリエが帰ってくるまで、子ども達と遊ぶことにしようと言うと、『涙月』はほっとした表情になった。 「助かりますのん。『菊花月』の薬が足りませんのん。花海棠だけでは手が回りませんが、私も今はそれほど多くを作れませんのん」 軽く腹に手を当てる仕草に、優はどきりとする。 「赤ん坊?」 「順調ですのん。リーラの見立ては正確ですのん」 愛しげにさする掌に、優の胸の奥がちくりとする。 インヤンガイの闇の中、所在なげに数え唄を歌っていたリオの姿が脳裏を掠めた。 今にも消えそうだった命は、こうやって『涙月』を通して見事にインヤンガイに根付いている。特殊な体になったからと妻を娶ろうとしないリオに、試してみなければわかりませんでしょう、と挑んだ『涙月』の勝利ということか。 「ゆう、来て!」「ゆう、おんぶ!」 「はいはい」 双子に連呼されながら、優は転がり回る子ども達の元へ向かった。 「待たせたな」 「ごめんね、遅くなって」 夜、泊まりの時にいつも使う座敷に、リオとリエが姿を見せた。 女顔には不似合いだと思えたリエの髭も、削いだように鋭く痩せたリオの頬も、最近はようやく見慣れてきた。 「酒は準備したぞ」 「肴はこっちだ。優ほどうまく作れないけど」 「十分だよ」 卓に並べられた厚手のぐい飲みに、リエは慣れた手つきで黄金色の酒を注ぐ。伸ばした髪を後ろに括っているせいか、かつての銀鳳に似てきている。 「箸をつけてみてくれ、貝を味噌で和えてみた」 どうかな、と小鉢を差し出されて箸をつける。『弓張月』の突き出しは、今は八割リオの考案だ。 「うん、いいな、この酸味が」 「酒が欲しくなるだろ」 くつくつと笑うリエの顔に若いときの表情が重なった。 「商売上手だよな?」 「リエに言われたくないよ」 優が来ている時には、二人とも虎鋭の名を使わない。それとなく気遣ってくれているのを思わせもしない滑らかさだ。 「酒が飲めて良かったって味だな」 優は小鉢を平らげて返し、ぐい呑みを手に取った。 リオに身長がこされたのは、もうずいぶんと前だ。この世界へ帰属し、この世界で生きている二人の前で、あの時のまま変わらない外見の自分が居る。 選んだのは自分だ。でも時折、変わらない自分が辛くもなる。 「うん、これは新しい銘?」 「『銀龍月』という。今度取引しようかと思ってる」 「毒味役か」 「お前の舌を買ってるんだ」 楽しげに笑うリエは、優の眼鏡に叶ったぞ、これを使おうとリオに頷く。伝えてくるよと軽く立ち上がるリオは、どう見ても優より肩幅がある。なるほど、三人目を宿せるわけだ、と考えて、優は微かに気持ちが揺らいだ。 「銀鳳が居たら、喜んだだろうな」 リオが銀鳳の後を継ぐような形で、リエとともに月陰花園を仕切り始めたのは知っている。表看板は向いてねえ、とリエが蹴った結果だが、時にぎらつく殺気をまとうリエが先遣隊を率い、布陣をリオが固める今の形は、『弓張月』を強固に守っている。 「安心して逝ったぞ、あいつは」 「そうだろうな」 静かに干したぐい呑みに、リエがゆっくり酒を満たしてくれる。 いずれリエもリオも死に、そして彼らの子がまた命を繋いでいく、それが世界と共に生きていくと言う事だろう。 その時自分はどこに居る。一体何をしているだろう。 「優、これで仕上がりはいいのかって、聞かれたんだけど」 「おいおい無粋なマネすんじゃねえよ、せっかく楽しんでやってるのに」 戻ってきたリオが両手に皿を掲げていた。 中身は先日優が教えて帰った、魚の揚げ浸しと肉のとろみあんかけだ。 「いいよ、だってさ、俺が役に立つのって、こんなことぐらいだし」 「え」「おい」 そんなつもりはなかったのに、思わず零れたことばに、リオが瞬きし、リエが眉を寄せた。 「どうした」 「何が」 「珍しく弱気じゃねえか」 「そうかな」 「そうだよ」 交互に受け答えしてくれる顔を、もう一度眺める。 そうだ、やがて、この二人とも。 「酔ったのかも知れないよ」 「こんな程度で?」 「今夜はよく回る」 「昼間、ガキどもに振り回され過ぎたか」 「はは、そうかもしれないな」 何を言ってるんだろう、そう思った。二人はもっと大変なものを抱えている。リエは金鳳銀鳳亡き後の月陰花園を守ろうとして頑張ってるし、リオは他の街区との抗争を解決しようと奔走していると聞いた。 「俺は、何をやってるのかな」 「優」 「この十年、いや、この三十年、何をやってきたのかな」 「…」 「どうして見つからないんだろう。それとも、もともと、救う方法なんてどこにもなかったのか……っ」 こんな風に弱みを言ったり、愚痴ったりしちゃ駄目だ、もっともっと強くならなければ駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ、俺なんて、ほんと何も背負えないほど駄目だ、そう思いかけた頭を、いきなりがしりと抱え込まれた。 「もういい」 「…リ…エ…」 驚きに息が詰まった。目では見ていたが、いつの間に自分は、リエに抱え込まれるほど華奢になってしまっていたのだろう、いや逆か、リエはいつの間に、優を抱え込めるような太い腕を育てていたのだろう。 「いいか、よく聞けよ」 リエの声が低く耳に届く。 「お前ほど強い奴はいねえ。俺がそう言うんだ、間違いねえ。その強い奴が探しても見つからねえんだから、他の誰も見つけられねえ」 「そんなこと…」 ないよ、きっと。俺はずっと同じところをぐるぐるしていて、別れに怯んで、旅立ちに竦んで、そうして動けずに居るだけなんだ。 「黙って聞いてよ、優」 肩に手が置かれた。 「忘れないで欲しいな。俺が今ここで無事に生き長らえてるのは、優が居てくれたからだよ。リシュやカジュの顔を見たろ? あれは奇跡だと思うだろ?」 けど、あの奇跡を起こしたのは、紛れもなく優なんだから。『ボク』は忘れないよ、と掠れた声が付け足した。 命を量る天秤の下、闘うことでしか生きられなくて、幻のような希望にしがみついたモフトピア、今も忘れない、樹海の空に広がった闇を切り裂く光の波。 何度も何度も、生きていていいんだと教えられた。 「気がついてないの? 自分が何をやり遂げたのか、見てなかったのか?」 「わかってねえんだよな、お前はいつも」 「った」 ごん、と手荒く一発喰らって、頭を離された。 「甘ちゃんの顔して、誰よりきつい道ばっか選びやがって」 ぼやけた視界は酔いのせいか、それとも加熱する視界のせいか。 「迷うならここに来い、俺達が保証してやる」 「なに…を…」 ぐらぐらする。強烈な眠気が襲ってくる。『銀龍月』は思った以上に強い酒だったのだ、そう思いながら倒れ込む体に抵抗する気が失せた。 「お前は、ずっと俺達の仲間だ」 「リエ…」 「たとえ何があっても、どこへ行っても……何百年、たとうとも」 「リ…オ……」 次に産まれる子どもに、優の名前をもらうけど、許してね。 リオの最後のことばを夢現で聞いた。 リエとリオは前後して病に倒れた。リーラはその前に逝っていた。月陰花園全体を覆う惨い病を何とか押さえようと、先頭に立ち奮闘し、何とか凌いだ矢先だった。 二人が倒れて残った『弓張月』を、まだ年若い花海棠と虹龍が歯を食いしばり支え切った。もちろん、影になり日向になり支えた律志や怜生の協力なしには困難だったろう。今ではリシュとカジュを片腕に、かのキサ・アデルと交渉を構えるほどにまで成長している。 二人が葬られたのは『花塚』だった。 俺は『ここ』の人間だ。娼妓と同じく土に戻り塵に消える。妙な未練で汚すなよ。 言い放ったリエの最後のことばを、花海棠と虹龍は違わず遂行した。 派手な弔いは一切なし。その夜も『弓張月』は、月陰花園は通常通り客を呼び………だが、誰が始めたわけもなく、その夜はどの見世も、菊の花と紅の布で飾った灯を一つ、見世の前で掲げた。これは何だと客が問えば、あだな夢が消えましてございまする、と口上を述べる。 夜闇に点々と並ぶ灯を見て、知らされて急ぎ駆けつけた怜生は苦笑したものだ、『最後までリエぴょん、派手好きなんだからぁ』と。 記憶あるものは数える。 北極星号の年より、およそ百年後。 『花塚』に、一人の青年が佇んでいる。 ほっそりとしてしなやかな、けれど尋常ならぬ気配を満たす後ろ姿、穏やかな微笑を浮かべて、塚に優しく語りかける声。 「……そうなんだ、もうすぐ、ユウが一人立ちするよ」 見えているんだろう、リオ。 「わかってる。あの子にもちゃんと教えるよ、身を守る術と人を信じること」 安心してくれ、リエ。 歳月がたとうと変わらぬ姿の彼の名前を、月陰花園の住人は畏敬を込めて呼ぶ。 相沢 優。 『弓張月』の守護、と。 ターミナルの駅前では、ワイテがカードをシャッフルしている。 (あっしはカードを捲り続けるヨ。占いを続けるヨ。この0世界デ) 鮮やかな手つきは、何年、いや何十年、何百年たとうとかわらない。ただ、伏せる目線は最近いささか弱くなった、彼を知る者はそう思い始めている。 (あっしは、いつまでもここにいるヨ。あっしが消えるその時まデ。ずっと、ここで占おウ。あっしはこういう運命みたいだし、それがお似合いと思うかラ) カードは両手の間を翔る、彼方の手からこなたの手へと、世界の果てから果てへと。その中に全ての運命が彩りを煌めかせながら飛び過ぎていく。 (未だに、ずーっと見かける顔もあるけれド。その人もいずれはいなくなるのだろウ。どのような理由であれ、旅には終わりはあるかラ) さて、今日はもう店仕舞い。 立ち上がった矢先、駅からきょろきょろと周囲を見回しながらやってきた、茶色の髪の幼い少女が、青いドレスを翻しながら駆け寄ってきた。 「あの、ボク、ここからどこへ行けばいいのか、わからなくて。占ってもらえますか?」 「あ、ごめんネー。今日はもう店仕舞イ……自由に歩き回ってご覧ヨ。お腹が減ったならいろんな店があるシ、世界図書館に行けば、依頼もある…」 ふと視線を上げたとたんに、視界に入った真っ青な瞳。まるで、遥か昔に出逢ったような。ボク、ということばに改めて見直せば、どうやら男の子らしい、暑苦しそうに胸元を下げると薄い胸が見える。 「簡単なのでいイ? それなラ」 つい、そう聞いてしまったのは、その眼差しと姿に甦った数々の思い出が、一瞬にして全身を駆け抜けたからかも知れない。 頷く相手に最後に捲ったカードは。 「これは…」 「世界だヨ」 「世界?」 「ウン、そこから一歩踏み出せバ」 指差してみせると、相手は慌てて自分の飾られた青い靴の爪先を見た。 「え…? え?」 「もう、君の世界ダ」 「あ」 はっとして上げる顔の驚いた瞳に、ワイテは軽く片目をつぶる。 「楽しんデ」 戸惑った顔が、見る見る明るみ、笑みを広げる。 「うん、わかった!」 『彼』はドレスを翻し駆け去っていく。 世界図書館へ。 数々の物語が始まったきっかけの場所へ。 そうだ、今また、『彼』の新しい物語が始まるのだ。 見送るワイテの視線に気づいたのか、振り向いて笑い、もう一度、手を振った。 「ありがとう! また、いつか!」
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