頭上に赤い提灯が連なっている。遠くからはシャンシャンと何か鈴や銅鑼の音が聞こえてくる。それに時折、パンパンと爆竹の爆ぜる音が混ざった。賑やかな祭りの音だ。 少年はその音を耳にしながら、必死に細い路地裏を走っている。 小学生ぐらいだろうか。辺りを見回しながら、どの道を行けばよいのか迷い、立ち止まり、考える。 そこは横浜中華街。世界最大規模のチャイナタウンだ。 四百近くの店がひしめき合い連なる一大観光地だが、奥に入り込めば細い路地裏がまた数多く残っている。 彼が迷い込んだのもそんな路地裏の一つだった。 ああ、何故こんなところに入り込んでしまったのだろう──。 少年は後悔しながら思う。 両親に連れられ、中華街で大きなイベントがあるからと彼はこの街を訪れたのだった。 まだ漢字を思うように読めない彼は「春節」の意味するところを知らない。ただ、赤い提灯が並び街が赤いものでいっぱいになり、獅子舞や龍舞を見ることができる、というぐらいの認識しかない。 少年は、大通りから少し中に入ったところの土産店に並んだパンダの玩具に惹かれ、見ているうちに両親とはぐれた。 道はどんどん細くなり、すれ違う人もどんどん減っていった。遠くでは大勢の人の声が、喧噪が聞こえるというのに。 煙草を吸いながら現れた白服の青年に道を訪ねてみたが、日本語が通じなかった。彼はその場で美味そうに煙草をふかしているだけだ。 道はさらに細くなる。 料理店の裏口であろう。その通りには青いポリバケツがたくさん並んでおり異臭を放っていた。 少年はついそれに興味をもってしまい、ふたをそっと開いてみた。 中に入っていたのは豚の頭の残骸だ。 ヒッと悲鳴を上げて、恐れおののいた少年は、蓋を放り出して走り出した。 涙が出てくる。お母さん、と口に出して叫ぶ。走りながら曲がった道の先で、ドンッと誰かにぶつかった。「どうしたの?」 それは中折れ帽を被った一人の男性だった。優しく肩に触れられ、少年は彼を見上げた。 黒いコートの下は伝統的な中華風の長袍を着ているようだ。中国の人かな? 少年は思う。それにしては流暢な日本語を話している。「あのね、お父さんとお母さんと、ここにきたの。それでね……」「ああ、迷子になってしまったんだね」 うまく説明できない彼の意を見事に汲み取り、男性は柔らかく微笑んだ。50代前後だろうか。不思議な佇まいだが、この街にしっくり馴染んでいる。「──人が迷ってしまうのは、見るべきものを見ていないからだ。さあ、ついておいで」 少年は男性に連れられ細い道を歩く。彼は道すがら話す。「君が覚えているのは青い門、なのだったね。まずはそこに向かおう。それでどうだろう?」「うん」「青い門は朝陽門という。青龍が守る牌楼(パイロウ)で、東の方角にあるんだ。さて、そこを目指すにはどうしたらいいと思う?」「分かんない」 男性は少年の頭を撫で、目線を合わせようとその場で腰を折る。「こんな都会の街でも、太陽は出ている。その太陽の位置で、方角を知ることが出来るんだ。今は真昼だから太陽は南にある。南を向けば東は左ということだ」「そっちに行けばいいの?」「そうだよ」 さあ、と男性は少年に太陽を見つけさせ、方角を示すと、あとは何もしなかった。ただブラブラと少年の後に着いて歩くだけだ。 少年は不思議に思った。こういう時、父や母はいつも「早くしなさい」と彼を急かした。両親はいつも彼の先を歩いたものだった。 ──この人は大人なのに、どうして僕の後ろを歩くのだろう。どうして僕を連れて行ってくれないのだろう? 少年は道を行ったり戻ったりしながら、そのつど太陽の位置を確かめて選ぶ道を決めていった。そうしている間にも男性は何もせず、微笑みながら少年に話しかけ着いてくるだけだ。 やがて、少年は大きな通りに出ることが出来た。東を目指したつもりだったが……。土産店と焼き栗売りでごった返す人ごみの向こうに青い門が見える。「やった! おじさん、青い門だ!」 振り返った少年は、あの男性がいつの間にか姿を消していることに気付いた。 慌てて周りを見回しているうちに、両親とも再会することが出来た。朝陽門の近くには交番もあるのだ。それが分かっていて、彼は少年にここを目指すことを勧めたのかもしれない。 少年はのちほど知ることになる。 彼が出会った中折れ帽の男性は“白虎叔叔”とか“白虎おじさん”と呼ばれている人物で、中華街に住んでいても稀にしか会うことが出来ない人物なのであった。 彼は何かに迷い、思い悩む人間の前に現れ、出会った人間の話に丁寧に耳を傾け、何某かの示唆をくれるのだという。 都市伝説に近い人物だった。 ただ、件の少年は首をかしげるばかりだった。 ──黒い服着てたのに、白い虎だなんて変なの。変なおじさん、と。======<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆するシナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。======
* 俺の名前は蘇芳鏡音。目撃し、監視する者だ。 詳しくはあまり聞かないでくれ。俺は何の変哲もない男で、あんたと同じロストナンバーだ。それでいいだろ? ずいぶん前の話だ。ワールドエンド・ステーションが発見され、多くのロスナンバーたちが自分の世界を見つけ再帰属して帰って行ったり、自分の目的を遂げるために世界を探して旅を続けていった。 俺は監視者だ。だから彼らを追って、彼らがどうなったかを見続けた。 そう。未だここ0世界にとどまってるのもその興味が尽きないからさ。今だって、いろんな奴のことをノートに書き溜めているのさ。記録としてな。 ……なんだよ。聞きたいのかい? 彼らの話を? 構わないが、長いぜ? それでもいいかい。 分かった。ならいいよ。話してやる。 だが、俺がどうやって彼らロストナンバーたちに肉薄したかは聞かないでくれ。それは特殊な技術で、いわゆる企業秘密なんでな。 * それは、口減らし、あるいは村の規範から外れた者を合理的に処理するための仕組みとして構築されたのだと思われる。 ── 荷見 鷸 * 暑い。 こめかみを汗が伝って流れてくる。 森の空気はひんやりと冷たいというのに、獣道を分け入っているせいか、汗だくになってしまった。冴木ヒバリは空を見上げ手の甲で汗をぬぐう。もうひと時もすれば日が沈むだろう。急がねば。 静かな森の中で、しばし一息吐く。 足を止めれば、すぐに無音の空間になる。人里からそれだけ離れているということである。どこか遠くで鴉か何かの鳥が鳴くのが聞こえ、ヒバリは少しだけ安堵した。 さて、と独り呟きながら、就職活動のために買ったショルダーバッグをタスキ掛けに掛け直す。 彼はまた歩き出した。目前には暗い森の奥へと続く獣道が続いている。 バッグの中にはノートが数冊入っていた。彼が探す人物が書いたもの、そしてその失踪の手がかりになりうる情報が詰まったものだ。 ヒバリが探しているのは、荷見鷸という男だった。 名前はシギと読む。年齢は60代後半──のはずだ。 ヒバリからは遠縁にあたり血の繋がりはほとんど無かった。しかし彼は鷸を実の祖父のように慕っていた。盆や暮れには彼の住んでいた古民家によく遊びにいったものだった。 以前は教師をしていたらしい。質素な生活を送っていて、生きていて何が楽しいのか分からなかったぐらいだ。ヒバリが話しかけても返事がない時もあった。 無愛想で、偏屈だ。 なのに何故だか……放っておけないのだ。 鷸はヒバリが成人式を終えた春先、まだ寒い時期に忽然と姿を消した。 彼が住んでいた古民家は綺麗に片付けられ、いつの間にか家自体も売却されていた。ヒバリの両親はそれを知り、彼は自分から消えたのだと警察に形だけの行方不明者届を出した。 ヒバリには、和弓一式が手渡された。鷸が愛用していたものだ。 それだけだった。 ──俺、鷸ジィに言ったんだ。どこかに行っても、絶対に帰って来いって。 ヒバリは諦め切れなかった。 鷸がこんな風に突然姿を消すなんて思いも寄らなかったし、どこかに出かけているだけで、必ず帰ってくると思った。 バイト代を叩き、様々な人に会い鷸の話を聞いた。彼の故郷のことや友人のことが分かり、失踪する直前に何を調べていたのかも凡そ分かってきた。彼の熱意が幾分か身を結んだのだ。 鷸は人が消えるという怪異について執着を見せていたそうだ。 そして彼の故郷には人が消える山がある。 ──すなわち、今、ヒバリが分け入っている山だ。 鷸の育った村は、山間の地区にあった。山と森に囲まれた地域の川沿いに中規模の集落が点在している。住民が減り高齢化を迎えていて、限界集落とまでは行かなくてもそれに近い有り様だ。 以前は林業や養蚕業で地域経済が回っていたが、それが産業として成り立たなくなり、若い働き手は山を降りていくようになった。その結果である。 地域で最も大きい集落に村の機能が集中しており、宿もそこに一軒だけ存在していた。 ヒバリは必然的に宿を求め、偶然にも鷸の忘れ物と思われる、伝承の研究ノートを見つけたのだった。 ノートには、この地域で行われる夏祭りのことが特に入念に記してあった。 夏祭りが、以前は山への感謝と祈念を兼ねた儀礼だったということについてである。過去の儀礼が「村の神社の夏祭り」という形で残り、現代まで続いている。 以前と現代で、住民にとっての意味合いがどれだけ変化してきたのか、その考察が書かれていた。 場は神社であり、今も昔も変わらないが、かつての夏祭りの様相はこうだった。 村の代表は【グ】と呼ばれ、儀礼の主役を務める。彼は山の神に一年の報告と来年の無事を祈念する。 その様子を見守る者たちとして【ベツ】がいる。彼らは面を被り、儀式の間は【グ】を見守るだけで口を開いてはいけないことになっている。それがルールだった。 ただし儀礼の最中、言葉を漏らすなど不作法を働いた者がいた場合、その者は神隠しに遭い、集落は凶事に見舞われるというのである。 ノートに貼り付けられた古い郷土史のコピーには、そう記してあった。さらに手書きで、鷸の考察が書き加えられている。 ──不作法者とは暗にそうし向けられたのではないか。村に凶事が起こるというのは後付けで、食料危機の対策や口減らしを山のせいにするため、または村の鼻つまみ者を排除するために儀礼が行われていたのではないか。【ベツ】が仮面を被るのは、彼らが“神隠し”の役目を担っておりそれと悟られないためであろう。 ──つまりそれは、口減らし、あるいは村の規範から外れた者を合理的に処理するための仕組みとして構築されたのだと思われる。 処理。 そのひと言で済まされた事象に、ヒバリは戦慄する。 それは殺人である。一人の人間を殺すために、人は仮面を被り、舞いを踊り、対象に羽目を外させる。 儀礼と面は、その血を隠すためのものなのか。 ほう、ほう……と何かの鳥が頭上を飛んでいった。 ヒバリは、消えかかった細道を見つけた。道を目で追っていけば茂みの中にある崩れた民家へとつながっていた。柱は折れ壁は倒れ半壊した状態である。放置された家がそのまま崩壊し誰も修復しなかったのだろう。 かつてはここにも住んでいた者がいた。それが忘れ去られ、こうして埋もれて消えていく。 鷸の文章は続いている。 ──本当に【ベツ】によって殺されたしまった者も居ただろう。しかし。逃げ延び、どこか違う世界へ旅立った者もいたのではないか。 文字通りの“異世界”へ──。 ヒバリは奇妙な違和感を覚える。特に最後の一文だ。 鷸は何を見ていたのだろう。何かまるで、異世界がどこかに実在しているような書きぶりではないか。 森は暗く、どんどん深くなる。 もしや──彼はそこに行ったのではないか。 排斥され、こことは法則を異とする世界へ──。 先へ、先へ。ヒバリは目前の森の暗闇を、矢のような視線で射る。 急げ、急ぐのだ。 足がもつれそうになる。草で足を引っ掛けたのか、いや違う。鷸に会いたいからか、いや、それも違う。それは彼が探す人物と同じ思い、同じ焦燥感だった。 何かあるんだ、この先には。 ヒバリは確信した。 そこに鷸ジィが居る── パッと視界が開けた。 目下に広がるのは、赤い提灯の明かりだった。明かりは点々と木組みの櫓へと繋がり、その周りを浴衣を着た者たちが踊りながらゆっくりと回っている。その周囲には香具師たちの露店が立ち並んでいた。 一瞬、ヒバリは混乱し、自分が見ているものが何だか分からなかった。 村の夏祭りだった。 彼は突如、切り立った崖の上に出て、その光景を見下ろしていたのだった。 なぜ──? 自分は山の奥へと入っていったのではないのか。ぐるりと回り込んで、また村の方へと向かっていたのか。 集まった人たちの熱気が彼の方まで昇ってきていた。誘われるように、ヒバリは崖伝いに山を降りていった。茂みを掻き分け、踊り手たちと同じ地に立つ。 幼い兄弟が軽くヒバリにぶつかり、笑いながら走り去っていた。足取りも遅く彼は櫓の方へと近付いていく。 彼は瞬きも忘れ、踊り手たちを見ていた。 面だ。 踊り手たちは面を被り、ゆらり、ゆらりと踊っている。男なのか女なのか、老人なのか若者なのか分からない。見分けがつかない。ただ彼らは踊っている。 暑い。汗が目の中に入り、目をこすった。それでも分からない。ただ、暑い。 ああ── ヒバリは確信した。 ここに鷸がいるのだ。この中に、鷸は消えてしまった。 ――遠く、何処かで警笛が聞こえた気がした。 * 結局、彼は爺さんを見つけることは出来なかったのさ。 壱番世界では、ある日突然人が消えるという現象が起こるそうだ。 「神隠し」なんて言い方をして、それを神サマのせいにしちまうところもある。 俺たちからしてみれば、それは真理数を失って、ロストナンバーになっただけのことなんだろうけどな。残された人たちにとっちゃ、何か理由をつけたくなるものなんだろうよ。 だが、彼が追ったモノのことを考えてみると、不思議な気もする。 爺さんは本当にロストナンバーになったのか、あるいは違うどこかへ旅立ったのか──。 ううっ、考えると止まらなくなるな。 実在したロストナンバーたちの話に戻ろう。 壱番世界のロストナンバーたち──いわゆるコンダクターだな。彼らは自分の世界を見失ってはいないのに、再帰属もできずに宙ぶらりんだったわけだ。 だが、俺たちは年を取らない。そのまま一般社会で生活していくことはできないワケさ。 俺の記録によると、壱番世界に別れを告げて帰らない奴もいたし、数年のちに何とか再帰属できて帰っていく奴もいた。 もちろん俺の身体は一つしかないからな。その後どうなったか追いきれなかった連中もいる。 例えば、あの親子なんかもそうだ。 * 幸せかって? 正直全くピンと来ねえ。けどな、悪かねえとは思ってるさ。 ── ファルファレロ・ロッソ 好きよ。私を幸せにしてくれる貴方。でも、捨てたりしたら絶対に許さないんだから。 ── 幸せの魔女 * 目線を合わせ、お互いのグラスを持ち上げる。 それが二人の乾杯の合図だ。 ファルファレロ・ロッソはフォア・ローゼスのロック。幸せの魔女は白いカクテルを。ホワイト・レディーという名に自分にぴったりだと選んだものだ。 青で統一された静かなバーである。このニューヨークではありふれた類の店ではあるが人影が少なく、二人はこの落ち着いた雰囲気を気に入っていた。 二人が座るカウンターにはバーテンダーが居て、その後ろの大きな水槽の中では色とりどりの熱帯魚たちが泳いでいた。人も魚も、二人の旅人たちに気を払ってなどいない。 実は二人が来るのはこれで5件目だった。チャイニーズ・レストランに、流行のハラルフード・レストラン。洒落たレストラン・バー。場末のアイスクリーム専門店、最後にこのバーにたどり着いたというわけだ。まだ時間が早く、他の客など誰もいない。 幸せの魔女はよく食べ、よく笑った。久しぶりの壱番世界だ。ファルファレロも同じようには振舞わなかったが、少しは楽しんでいたように見えた。彼にとってもこの街は生まれ故郷である。何某かの思いを抱いていたのだろう。 二人は0世界にあるゲームセンター「メン☆タピ」の共同経営者であり、友人であり、愛人であった。 ──不思議ね。この人との付き合いも長くなったわ。 幸せの魔女は、目を細める。 それぞれ結婚していないのだから愛人という表現も合わないのだが、恋人というのがどうもしっくり来ない。 ──行くぞ。 と、いつものように、彼はただ呟くように言っただけだった。幸せの魔女も行く先は聞かなかった。 だって、愛しのファレロさんからのお誘いですもの。心の中で、自らの問いに答えを出す。そこが地獄の果てでもご一緒させていただくわ。……もちろんそれなりの幸せを与えてくれるのならね。 「てめえは食いすぎだ」 ファルファレロはバーボンを飲み干し、ボソッと言う。彼がロックグラスを置くと、間を置かずに新しいグラスが代わりに置かれた。 「そうかしら。だって貴方が何も言わないから」 「言ったって聞きゃしねえだろ」 返事代わりに微笑んでみせる幸せの魔女。 「あなたも……丸くなったわね。久しぶりの故郷はどうだった?」 「この街か?」 元マフィアのボスは視線をぐるりと巡らせた。 「街並みも変われば、人も変わるさ。俺の組織も随分変わったみてえだ」 ああと幸せの魔女は相槌を打った。 「貴方の右腕だった男のこと?」 「乗っ取られたのはいい。あいつの方がよっぽどボスに相応しい器だったってことさ。それよりも──」 彼はさらにグラスの中身をあおった。 「あいつが変わっちまったってことさ。抗争なんか仕掛けやしねえ。切った張ったは昔の話だってんで、ヘラヘラ笑って握手で解決さ。奴はスポーツ・バーをチェーン化して事業化に乗り出した。奴はもうマフィアじゃねえ。いっぱしの会社社長さ」 話しながら、ファルファレロの脳裏にニューヨークの街並みと自らの記憶が交差した。彼らが過ごした汚物まみれの路地裏や場末のバーのある一角は、皆、新しいファッションビルとして生まれ変わっていた。クソッタレ。彼は呟いた。残ってればいいというわけでもないが呟かずにおれない。クソッタレ。 しかし最も納得がいかないことは──。 あいつが変わっちまったことがな。もう一度、同じ言葉を彼は呟いた。 「俺はどうやらアイツのことをダチだと思ってたらしい」 らしくない発言だと思ったのか。ファルファレロは言うなり末尾に冒涜的な言葉を付け足した。バーテンダーが肩をすくめてみせる。 だが、幸せの魔女は笑った。ふふっ、と可笑しそうに。 「そういうのも幸せの一つなのかもよ」 「どういう意味だよ」 「だって、相手を好きだったことに気付けるって素敵じゃない? 私もそうよ。幸せを溜め込むことは大好きだけど。無くしたものを取り戻そうとしたり、代わりになるものに追いすがるのも楽しいわ。必死になるってエキサイティングでワクワクするもの。そのときはそうと解らないけど、全て終わったあとの爽快感っていったらないわ」 彼女の幸福そうな目に、一瞬だけ剣呑なものが宿る。 「もし貴方が私を捨てたら、私、きっと貴方を殺したくなるもの。必死になって、興奮しながら貴方に追いすがるの」 らしい発言に、ファルファレロは笑った。彼は彼女のこういうところが好きだった。 ロックグラスの中身をあおれば、ふと思い至るものがある。 隣りの彼女は何かを必死に求めてきたはずだ。普遍的なもの。誰もが欲しがるもの。──幸福というものを。 「そうか。幸せとやらが手に入ったのか」 「It may or may not be true。──そうとも言えるし、そうとも言えないわね」 ニューヨーク風の言い回しを使って、ニッコリ微笑む幸せの魔女。 ふん、とファルファレロは鼻で笑った。しかしそれは嫌味なものではない。 「あなたはどうなの? 今は幸せ?」 「俺か? ……さあな」 逆に問われれば、すぐに答えが出てこない。 「ピンとこねえな」 とはいえ、彼女の前では意外に素直になるのだった。「まあ、うるせえ娘と婿にせっつかれて、ぬるい家族ごっこに付き合うのもまんざら捨てたもんじゃねえ……とは思っちゃいる」 「ぬるい家族ごっこ?」 幸せの魔女は可笑しそうに笑った。そのフレーズが面白かったのだろう、身体を揺らせて彼女が笑うと、髪が揺れて爽やかないい匂いがした。バーの仄かな明かりの下にあって、彼女の金色の髪はきらきらと輝き、ミステリアスな色を帯びた瞳は艶やかにこちらに向けられた。 ファルファレロは言葉を失う。思わずそんな彼女に見とれてしまったのだ。 「──ついて来い」 彼女とあの場所へ行こう。ファルファレロは早々にその場を切り上げた。 どんなナイトスポットかと思いきや、ファルファレロが幸せの魔女を案内した場所は広々と広がる墓場だった。緩やかな傾斜のある緑の台地に、墓石が好き勝手に並んでいる。 ブルックリン地区にある著名な墓地である。 大きな十字架の形をしたもの、神殿のような造詣をした豪勢なもの、故人を偲ぶための石のアートが奇妙な饗宴を為していた。 辺りはもう夕暮れだ。当然、彼らの他には誰もいなかった。 「静かね」 幸せの魔女は微笑みながら呟いた。 この私を怖がらせて楽しむつもりかしら、などと思いながらファルファレロの背中を追っていけば、それが突然足を止める。 何事かと隣りに足を進めると、彼が一つの小さな墓を見つめていることに気付く。墓石には「大河に眠れ」という言葉と中にいるはずの人物の名前が刻まれている。 まあ、と気付いた彼女は声を上げる。 「──俺の墓だ」 小さな声で言うと、ファルファレロはおもむろに銃を取り出した。 「中身が入ってねえ、空っぽの墓だがな」 何を感じたのだろう。しばしの沈黙の後、彼は無造作に銃を上げた。狙いは自らの墓。刻まれたその名に狙いを定め──撃った。 鴉が数羽、銃声に驚き頭上から飛び立っていった。 「これで俺は二度死んだ」 彼は自らの墓を見つめ、口端を歪めた。 彼の名前のど真ん中に鉛弾がめり込み、石には蜘蛛の巣のようなヒビ割れができている。 「……だから、また生き直せる」 「昔のことは、昔のことね」 ようやく真意を掴み、幸せの魔女がそっと付け足すように言った。ささやかな儀式で、彼は過去を吹っ切ったのだ。 ファルファレロはうなづいた。 「こーゆーのは、やっぱ見物人が居なきゃなんねえだろ」 「そうね」 「それがいいオンナだったら言うことねえ」 微笑んだ幸せの魔女の肩に手を置くファルファレロ。 「見な」 振り向かせれば、眼下には黄昏時のニューヨークの街が広がっている。これもファルファレロが彼女に見せたかったものの一つだった。 やがて夜がくれば、地上に瞬く星々を見ることができるだろう。 と、幸せの魔女は広がる大都会の街を見渡しながら、あるものを見つけて怪訝そうに目を細めてみせた。 「まあ、妬けるわね」 「何がだ」 「私のほかにも、あなたが二度死んだところを見ていた女がいるじゃないの」 不思議そうな顔をする彼に、彼女は遠くに見える自由の女神を指差した。「ほら、あそこに」 彼は吹き出すように笑った。 「あの女のことか。ハッ、そうだな」 笑いながら、ファルファレロは彼女の身体を引き寄せる。 「一緒に馬鹿やれて楽しかったぜ。俺はてめえより先にくたばるだろうがよ」 そうね、と幸せの魔女はその名の通り幸せそうに微笑む。 「それだけ、伝えときたかったんだ」 幸せの魔女は彼に身をゆだね、ささやく。 「ねえ、ファレロさん、目を瞑ってみて?」 悪戯に微笑む魔女。察して、ファルファレロは片目を瞑り、やがて両目を閉じた。 彼女は彼に顔を近づけ──むにっと鼻を摘んだ。 目をぱっちりと開くファルファレロ。その様子に幸せの魔女は声を上げて笑った。 「うふふふふ、ファレロさんったら、可愛いわねぇ。この私から少し期待しちゃった? 期待しちゃった?」 からかって、くすくす笑えば、ふてくされたように彼は彼女を睨みつけた。抗議の言葉を口にしようとした瞬間、突然、幸せの魔女は彼の唇にキスをした。不意打ちだった。 舌打ちし、彼はまた冒涜的な言葉を呟いた。 「私は今まで貴方から沢山の幸せを貰ったわ。それじゃあ、今度は私が貴方に幸せを与える番。そして、その幸せを貴方は何倍にもして私に返してくれるのでしょう?」 I love you──。 墓地で囁かれるそれは、愛の言葉。 好きよ、ファルファレロ・ロッソ。純白の女はふわりと優しく微笑んだ。彼女は決してそれとは違うけれど、まるで神から遣わされた天使のようだった。 弾かれるように、ファルファレロは手を伸ばした。 強く彼女の身体を抱きしめる。痛いわと言おうとした幸せの魔女の唇に自分の唇を重ねる。彼は、強く、むさぼるように彼女の唇を吸う。 強張った彼女の身体が、やがて柔らかく彼にしなだれかかった。 ざざぁっと沸き起こった風が夜の木々を揺らし、二人の姿を覆い隠した。 * 彼には確か娘がいたはず? そうだよ。よく知っているな。 彼女は別行動を取ってたようだ。ま、そりゃそうだよな。彼らは愛人関係なんだからな。 ああ、もちろん。俺は娘の方も見ていたよ。 彼女は実家を見に行った……みたいだな。 * さようなら、ベル。さようなら、パパ、ママ──。 さようなら、今までの私。 ── ヘルウェンディ・ブルックリン * そこは、コンクリートの味気ないアパートが立ち並ぶ一角だ。 地面の冷たいアスファルトの中で、スカートを履いた女の子たちが踊っている。カボチャのような馬車に乗っているのはシンデレラだろうか。王子と踊るお姫様の頭上には鳩らしき鳥が飛んでいて、それが白いチョークが書き出す線へとつながっていく。 今、鳥を描き終えたのは、白いチョークを手にした幼い少女。 彼女はチョークで自分の世界を描きながら、ふと、目を上げた。 自分の世界の端に、誰かが入ってきたからだ。誰だろうと少女は相手を見上げた。それは黒いゴシックロリータ風のワンピースを着た少女である。ローティーンの赤い瞳の女の子だ。 ──すてき。 幼い少女は口をぽかんと開けて、立ち上がった。なんて可愛くて素敵な女の子なのだろう。ドレスは黒いけれど、まるでプリンセスのようだ。 「お姉ちゃん、誰?」 話しかけると、口ごもったように目をそらす。 「お姫さま?」 そう言うと、少女はプッと吹き出すように笑った。違うわ、違う。彼女は近寄ってきて少女の肩に触れた。 「私はヘルよ、ヘルウェンディ」 首をかしげ少女は彼女を見上げた。以前も会ったことがあるような気がして、彼女はじっと相手を見つめる。 「ベルのお姉ちゃん、だよね?」 黒いワンピースの少女はさらに口ごもった。イエスとは答えられない自分がそこにいる。 一緒に遊ぼう。代わりに違う言葉を口にして、彼女はしゃがんで妹に視線を合わせるのだった。 ヘルウェンディ・ブルックリンは、長い間留守にしていた自宅を後にして、ベルと名乗った少女と共に街を歩いていた。 ヘルとベル。二人の手はしっかりと繋がれている。 彼女は母と養父の様子をこっそり見に行って、それで帰るつもりだった。しかし二人は買い物か何かで出かけて不在であり、会うことは出来なかった。 家の前で出会ったベルは──彼女の妹は、家の中での留守番で退屈するあまり“ひみつの抜け道”を使って外に出て一人で遊んでいたのだという。 「ひみつの抜け道?」 「そう。ベルしか知らないの」 ヘルウェンディは微笑む。それはきっと、あそこのことだ。知っている。 あの部屋には鍵の壊れた小窓があって、そこから外に出ることが出来るのだ。もちろん身体が小さくないとあの窓は通れないのだけど……。 「お転婆さんね」 頭を撫でれば誇らしげにベルはニッと笑う。私にそっくりね、お転婆さん。ヘルウェンディは心中でもう一度語りかける。さぞかしパパとママも手を焼いているんでしょうね。 「内緒だよ」 ベルは口に人差し指を当てて言う。 「ママは危ないから一人で外に出ちゃ駄目って、そればっかりだし。パパは、ベルはもっと女の子らしくしないとって、そればっかり」 と、口を尖らせながら、「ベルはもう大きいし大丈夫なのに!」 「そうね」 ヘルウェンディは、歩きながら自分が過ごした街を見る。子供の頃ここにあったバーバーがミニストアに変わっている。彼女の視線に、店頭で新聞を売っていた黒人の女が怪訝そうにこちらを見返してくる。 そうだ。彼女は思いついてそのミニストアでチョコレートバーを二つ買った。包装を剥がしてベルに渡してやると、幼い少女はぱぁっと笑顔になってかぶりついた。 「この辺でよく遊ぶの?」 「うん。クリスとセディと、それからコニーも来るよ」 それらの名前は友達のものなのだろう。ヘルウェンディはチョコレートバーをかじりながら、妹からいろいろな話を聞いた。街のことで、自分の知らないことも多くなった。 自分はそんなにここを留守にしていたのだろうか。ヘルウェンディは街角のアイスクリーム屋の売り子が、いつもの老女ではなく若者に変わっているのを見かけて思う。自分の容姿は変わらないというのに、街はこうして変わっていく。それだけではない。両親も、妹のこのベルも、これから年を取って変わっていくのだ。ヘルウェンディだけを残して──。 「ヘルは素敵ね」 脇の少女が言うのを聞いてヘルウェンディは現実に引き戻される。 「え?」 「お洋服もかわいいし、お買い物もできるし、お姉ちゃんだし。ベルはヘルみたいになりたいな」 そうか。ヘルウェンディは目を細めて妹の頭を撫でる。ここには彼女たちの世界がある。 ベル。それは、大人になれないピーターパンを見守る小さな妖精。祝福の鐘の音。 貴女もいつか大人になるわ。 ほんとう? ええ。そして素敵な女性になる。 お姉ちゃんみたいに? もちろんよ。もっともっと素敵な人になるの── 追いかけっこに隠れんぼ。壁いっぱいにお絵かきをして怒られ、慌てて二人で逃げた。ストリートミュージシャンの歌に合わせて二人で踊ったり。アイスクリームやドーナツ、たくさんのスイーツをいっぱいに口に頬張って。それは一日限りの姉妹ごっこ。 これまでの帳尻合わせのように、二人の姉妹は笑いあって目一杯遊んだ。 遊び疲れたベルを家に連れ帰ってきた時には、もう辺りは暗くなっていた。 家には明かりが付いていない。──良かった、とヘルウェンディは胸をなでおろす。両親には会いたかったが、会わずに立ち去りたかった。自分は、ここには居ないはずの人間なのだから。 「ヘル──!」 背後から声を掛けられ、はっと振り返る。 そこには彼女の母と養父が立っていた。しまった、とヘルウェンディ。彼らはちょうど今、帰ってきたところなのだろう。母の目には大粒の涙が溢れ、養父は顔をくしゃくしゃに歪ませた。 ヘルウェンディは気まずさに身体を強張らせた。言葉が出てこなかった。 だって、既に彼女は彼らに別れを告げていたのだから。もうここには来ない。そう決めていたはずなのに。 「ママ! パパ!」 沈黙を破るように、ベルが彼らに向かって走った。母がその身体を抱きしめ、それでもこちらを見ている。 何も言えなかった。 ヘルウェンディは俯き、妹にまたねと小さく呟いて。彼らに背を向けた。 「またね、お姉ちゃん」 ベルは無邪気に声を掛けてくる。ヘルウェンディには見えなかったが、母は彼女を引きとめようと歩き出していた。 「ヘル──待って」 と、街角からぶらりと一人の男が姿を現す。 ヘルウェンディは彼に気付き、ため息のように小さく息を付いた。ほら、クソ親父が迎えにきたわ──。 「ファレロ……!」 彼の姿は、母の歩みをも止めていた。それに気付き、半ば安堵したように笑うヘルウェンディ。 「来たの?」 「帰るぞ」 乱暴に彼女の頭をかきまぜて、彼はそれ以上何も言わずに歩き出す。息を呑む母を残して、ヘルウェンディは走ってその背中に追いついた。 背中に母や義父の視線を痛いほどに感じた。しかし彼女は振り返らなかった。 あの家を離れても、二人は恋人同士のように腕を組んで、一緒に街を歩いた。 父は何も言わない。 どうしようもない男だが、いつもよりは少しだけ優しい気がした。そんな父に寄り添い、彼女は目を閉じる。 ──こいつが隣にいてくれるなら、エンドロールも悪くない 、か。 * 親子って不思議なもんだよ。 あれだけいがみ合っていたのにな。血の繋がりが成せる業なのかね。 俺には分からないな。 壱番世界の話ばかりだって? 何だよ、俺は様々な世界に飛んでるって言ったろ。 そうさ、もちろん自分自身の世界を見つけて帰っていった奴もたくさんいたさ。 前と同じように暮らしていける奴もいれば、そうはやっていけない奴もいる。何しろ、周りと年齢が食い違ってきてバレちまう場合もあるわけだからな。 そうやって元の世界に帰った奴の中でも、幸運にも、ロストナンバー経験がそのまま役立って、どんどん出世して高い地位に登りつめた奴なんかもいる。 そうそう、あいつの場合なんかもそうだ──。 * いや、私もそろそろ落ち着きたいなとは思ってるんだけどね。 ── 九條 稜輝 * 茶室の中は物音ひとつしなかった。 九條稜輝は、ただそこに胡座をかき床の間を眺めている。見事な書がそこに掛けてあったからだ。彼は着物ではなくスーツ姿であったが、不思議とその雰囲気に溶け込んでいた。 「震驚百里、不喪匕鬯、と書いてありますの」 女性の声が静寂を破る。 「震──雷のことですわ。雷が百里を驚かせても、匕鬯(ひちょう)を喪なわず、と。匕鬯は古代の祭りの道具のことです。雷がとどろいても心をしっかり持っていれば、手の物を取り落とすことなどない、という意味です」 「そうですか」 稜輝は、にこりと微笑んで頷いた。 「わたくしの父が書いたものですの」 彼女も顔を上げて微笑んだ。淡い向日葵色の着物をまとっている。重ねの赤の線が彼女の白い首筋を際立たせていた。美しい人だ。稜輝は素直に思う。 「これも何かのご縁ですわね」 「ええ、まあ」 稜輝はあいまいな返事をしてしまった。彼女は資産家で知られる名門、桜庭家の一人娘で、名を美月(みづき)といった。桜庭家は稜輝の九條家とも近しく、錬金術師を輩出することは少なくとも、良き理解者であり、九條家の支援者のひとつだった。 彼女は一人娘で、男子の兄弟がなかった。今回、都会の喧騒を離れた奥座敷の料亭で会食を楽しみ、こうして二人きりの茶席が設けられているのは、両家の引き合わせである。 つまりこれはお見合いなのだった。 美月はまた手元の茶筅に視線を戻した。微かな音をさせて茶を立てると稜輝の前に淡い桃色の茶椀を置く。 「稜輝様は、どこだか遠い国に修行に行かれていたとか」 はい、と稜輝。螺旋特急に乗って異世界を渡り歩いていたとは言えなかったため、彼は錬金術の修行を兼ねて、誰も知らない異国に行っていたことになっていた。──嘘は言っていませんからね。稜輝は心中で付け足しながら、美月の立てた茶を口にする。 「戻られてからのご活躍は本当に目覚しいものでしたわね。錬金術師の中で貴方のことを知らない者などおりません。30代前半にして九條家第52代当主に就任されたのですもの」 「大したことはではありませんよ」 答える稜輝はあくまで落ち着いている。確かに彼の就任は一族の中では異例の早さであった。周囲は騒然となり、彼は内外から奇異の目で見られたものだった。さらに当主となってから仕事は多忙を極めた。今や世界中を飛び回って腕を振るう毎日となってしまったが、もはや彼にとってそれは自然なことになっていた。 この世界にはまだ様々な脅威がある。まだ解明されない錬金術に手を触れ、魔に犯された者たちがいる。彼らは闇に紛れ、人々の安寧を脅かそうとしているし、九條家のもつ錬金術を盗もうとしている連中も山ほどいる。 この世はまだ平和とは程遠い状態なのだ。 「稜輝様」 美月は身じろぎをし、長いまつげを伏せながら彼の方を向く。「私、あなたにお伝えしておかねばならないことがあるのです」 改まって何だろう。稜輝も居住まいを直す。雰囲気に流されそうになっていたが、これはお見合いなのである。 「お手を貸してくださいませ」 え? と、声を上げて稜輝はそろそろと左手を差し出した。美月がその手を両手で挟むように包み込む。 彼女と半日ほど一緒にいるが、手に触れたのは初めてだった。稜輝の胸が高鳴る。 しかし──そんな彼の期待を裏切るほど、彼女の手はひんやりと冷たかった。氷のように冷たい手は稜輝の手を撫で、離れていった。そこには小さな和三盆糖が残されている。 「父が亡くなったことはご存知でしたか?」 「いえ」 短く答える稜輝。 「私、嘘をつきましたの。父は死にました」 「そうなんですか?」 どうぞ、と菓子を勧められたが、稜輝は口にしなかった。 「父は私に言ったのです。桜庭の血を絶やすな、と。でも」 あの冷たい手がそろりと伸びてきて、稜輝の膝の辺りに触れる。 「貴方と一緒なら、私──」 彼女の腕から刃が飛び出し、稜輝はそれを素手で掴んだ。 それは瞬く間の出来事だった。 白い手の甲から突き出すそれは、きらきらと美しい光を放っていた。金剛石の刃だ。稜輝の手の平をやすやすと切り裂く硬度を持っている。 稜輝は鮮血を飛ばしながら背後へと跳び退いた。 チッと舌打ちするのは美月だ。美女は着物の裾をはしたなく肌蹴ながら間合いを取った。 「僕を殺すつもりでしたね」 「ええ」 ぽたり、ぽたりと彼の手から血が流れ、畳に染みをつくる。 対する美女の目は爛々と輝き、肉食獣のように稜輝の様子を伺っている。 「貴方のことが気に入りましたわ。だから一緒になってもいいと思いましたの。私の中で貴方は、ずっと永遠に生き続ける」 「なるほど、僕を“傀儡”にしようと」 短い時間の中で、稜輝は目の前の女が何をしてきたかに思い至る。彼女は禁忌の術に触れたのだ。他人の魂を奪い人形として操る技。彼女はその技に酔いしれ、万能感を得てこの場に立っている。 「お父上も貴女の──」 「ええ。父が授けてくださった術ですもの。今もとても幸せに過ごしていますわ」 顔をしかめる稜輝。自らに近しい桜庭家までもが、このようなことに陥ってしまうとは。錬金術とはなんと罪深いものなのだ。 「稜輝様、貴方のことが好き」 濡れそぼったような瞳で彼女は稜輝を見、艶やかな唇で囁く。九條家の若き当主の胸に様々な思いが去来して、四散した。 「残念です」 最後に呟いたのは、その言葉だけ。 「──我、真理の扉を開かん」 稜輝が口にしたのは錬成開始のキーワード。指を伝って流れ落ちる自らの血で、錬成陣を描くのは自らのジャケットの上だ。 彼女が床を蹴るのと同時に陣が完成する。紺色のジャケットが生き物のように広がり、まるで稜輝が大きな翼を広げたように伸びて、両側から美月を挟み込むように迫った。 「なっ!?」 彼女は驚き、目を見開いてしまう。まさかこの短い間に稜輝が術を完成させるとは、夢にも思わなかったのだろう。 しかし迷いは一瞬だった。美月は刃を突き出し稜輝の胸へ踏み込んだ。 輝く刃が彼の鼻先にまでぐんぐんと迫ってくる。稜輝はそれを冷静な目で見つめている。あと数センチというところで、ガクン、と刃が空中で静止した。 目の前の彼女を黒い布のようなものが絡みつき、彼女をしっかりと捉えていた。踏み込む前の一瞬の迷いが命取りとなったのだ。 苦しそうに呻く美月。 だが彼女は刃を動かし、ジャケットの呪縛を切り裂いた。くるくると回りながら自らの身体についた残骸を振り払う。 「貴女とは戦いたくない」 小さく言う稜輝。すでに次の錬成陣を完成させ、彼の手には片手持ち用のボウガンが握られている。美月は目を見張った。彼は武器を持っていなかったはずだ。この僅かの間にあれだけの武器を生じさせることができるとは──。 ふふ、と着物の美女は笑った。 「私の負けですわね」 身を翻し、茶室の小窓を刃で破壊しながら外へと躍り出る。この場を退くことにしたのだろう。逃げ去る美月は斜に振り向き、最後に言葉を残していった。 ──貴方のこと、諦めませんわ、と。 九條家の若き当主はため息をついて、彼女の背を見送った。 僕は出来れば平穏な生活をしたいと思っているだけなのに、と、呟きながら。 * 元の世界に戻って、社会的な立場になって落ち着くやつもいるってことさ。 彼の場合は中々大変そうだがな。 幸い、ロストナンバーになってた期間が数年だったから、周囲にもそれとバレずに済んだんだな。 彼みたいに、すぐ帰属していった奴らも多かったみたいだ。あとに話す業塵のおっさんなんかは、かなり長くロストナンバー続けてたみたいだが、あのおっさんは物の怪だからなあ。 そうそう。彼女も1年後ぐらいにすぐ帰属できたんだな。 女の子は変わるっていうけど、彼女もそういう感じだったよ。うん。 * わたし普通の女の子よ。学校にも通ってるし、友達と甘いもの食べるのも大好き。 でもね、一年のうち一日だけは違うの。わたしには秘密のお仕事があってね──。 ── ミルカ・アハティアラ * 肌寒さが増す時期だというのに、人々がふわふわと浮き足立っている。 彼らは街のあちこちでトナカイや赤い帽子の彼のオーナメントを目にし、モミの木の飾りに目を細める。そして、どこかで鈴の鳴る音を聞くと、期待に満ちた目でそちらを振り向いたりするのだ。 クリスマスまであと二週間だ。大人にとっても、子供にとってもそれはワクワクする楽しみがいっぱいに詰まった日。 夕暮れが近くなると、街中にあるハイスクールから生徒たちが街に繰り出してくる。彼らはもうサンタクロースを信じている年ではなかったけれど。それでもクリスマスを心待ちにしていた。美味しいものを食べたり、気になる相手とデートをしたり。楽しいことは盛りだくさんだ。 下校を急ぐ生徒達の中に紫色の瞳をした少女がいる。彼女の名は、ミルカ・アハティアラ。友人の少女と3人で歩いているものの、彼女は周りと少しだけ違っていた。 制服の中から、古風な懐中時計を取り出して時間を確認し、急いで帰らなくっちゃと口走る。脇の友人たちが不思議そうに彼女を見た。 「ミルカ、今日もダメなの?」 「うん、ごめんね」 「ねえ、タワードーナツ食べに行こうと思ってたの。わたしらだけじゃ食べきれないかも」 「だよね。でも、ほんとにゴメンね」 友人の手を握り、謝るミルカ。 「クリスマスが過ぎたら、ゼッタイに一緒に行くから」 彼女の真剣な様子に友人たちは微笑み、しょうがないなあと呟く。 「太ったらミルカのせいだよ」 ごめんね、と彼女はもう一度言って、友人たちに手を振って家路を急ぐのだった。 「──不思議ね、ミルカって」 彼女が去ったあと、片方の少女が呟いた。 「クリスマスが近くなると、すぐ家に帰っちゃうのよ」 「お爺さんの手伝いをするって言ってたよ」 もう片方の少女が答える。 「お爺さんの何が忙しいの?」 さあ、と肩をすくめてみせる少女。 「この時期に忙しいって言ったら、サンタクロースとかね」 「まさかあ」 キャッキャッと笑いあう二人。 その鼻先にふわりと白いものが舞い降りる。少女たちはゆっくりと灰色の空を見上げ、落ちてくるものに気付くのだ。 「──あ、雪だ」 ミルカは、雪が振ってきたことに少しだけ笑顔になった。 彼女は足早に道を歩いていた。早く家に戻って、秘密の倉庫に所狭しと並べられたクリスマスプレゼントの整理をしなければならないからだ。 そう。友人たちの推測は外れてもいなかった。彼女は、サンタクロースの弟子であり、見習いだった。 彼女の背はすらりと伸び、もうあの頃とは違う。異世界にテレポートしてしまい、そのまま旅を続けていた頃とは──。 仕事を任させる範囲も増えた。理想とした大人の自分にはまだまだ届かないけれど、あともう少しすれば弟子とか見習いとかいう肩書きは外れるだろう。 ときたま、懐かしくロストナンバーだった頃のことを思い出すことがある。友人になった者たちと冒険をしたり、遊んだりして過ごしたこと。自らの能力を使って、0世界を脅かそうとしていた怪人の胸元に迫ったこと。他のサンタクロースに出会い、祖父以外の者からこの仕事の話を聞いたこと──。 すべてが彼女の経験となり、ミルカ自身となっていた。 足早に道をゆくと、脇にフットボールのコートが見えてきた。同じハイスクールの男子生徒たちが練習をしているようだ。雪が降ってきても、彼らはボールを追いかけ声を張り上げている。 ふと、ミルカは足を止める。 ベンチに座り、コートをじっと眺めている少年に気付いたからだ。 フットボール部には顔立ちも良い少年が多く、ミルカの友人たちは皆、誰それが格好良いとか、こうした練習試合を見て声援を送っていた。 でもミルカだけは、あのベンチの少年をいつも見ていた。 彼はなかなかレギュラーになれず、ベンチに座っていることが殆どだった。でも彼女は知っていた。彼が子供の頃からどれぐらいフットボールが好きなのかを。 7才のクリスマスの時に、サンタクロースに初めてボールをもらい、飛び上がるように喜んでいたこと。 すべて知っている。 だから──ミルカはいつも心の中で彼を応援していた。大丈夫よ、と彼女は彼を見つめながら呟く。大丈夫、もっとあなたは上手くなるわ。大丈夫よ、私、あなたかどんなにフットポールを愛しているか、知ってるもの──。 しばらく彼を見つめると、笑みをこぼしミルカは小さく手を振った。 またね。彼に別れを告げて、家路を急ぐのだ。 彼女には、年に一度の大事な大事な仕事があるのだから。 クリスマス・イブの夜。 それは人々にとって特別な日であり、ミルカにとっても大切な一日。 ふわふわした白い袖飾りのついた赤い上着をまとい、同じ飾りのついたケープを羽織る。夜空は寒いものね、と呟きながら彼女はそのほっそりした手に赤い手袋をはめる。 白い雪のような飾りのついたお揃いの膝上丈のスカートに、赤いロングブーツ。ブーツには白いポンポンがついていて彼女が足を動かせば跳ねるように揺れた。 大事なプレゼントリストを入れたショルダーバッグを斜め掛けして、ミルカは姿見の鏡を見る。そこにはサンタクロースの女の子がいる。みんなに笑顔を届けるサンタクロースが。 彼女は髪を手櫛で整え最後にとんがり帽子を被った。ロストナンバーの頃は大きくてブカブカだったそれは、もう彼女のために設えたようにピッタリだった。服は新調したけれど、この帽子だけは昔のままだ。 柊の葉に触れ、ニッコリと微笑んでみせるミルカ。 「──準備は整ったかい?」 背後から声を掛けてくるのは祖父だ。はい、とミルカは元気に振り返る。そこにはフォフォフォと温かく笑う祖父と、トナカイのヴィクセンが待っている。 「なら、行こうか」 「はい!」 プレゼントを山ほど積んで、ミルカたちは雪降る夜空へと飛び出していく。 今年のクリスマスも来年のクリスマスもずっと先の先まで。皆が笑顔でいられるように。 ――だからこの特別な日に、サンタは笑顔で街を飛び回るのだ。 * 俺もプレゼントもらったことあるよ。彼女に。 でも、もう彼女は自分の世界に帰っちまったからなあ。 残ってる俺らにとっちゃ、寂しい話だよ。 確かに元の世界に戻れば、年齢を重ねるようになってくわけだけど、彼女みたいに自分の仕事をきちんと得て、多くのものを得る元ロストナンバーも多いのさ。 そうそう。彼のこともそうだな。 彼は自分のやりたいことが見つかって、壱番世界に戻って仕事に就いて、家族も出来た。彼はきっと幸せだったんじゃないかな……? * ロストナンバーになったことが、俺にとってなんだったのか。今でも思い起こすことがあるんだ。何年か経ってようやく分かってきたよ。 俺はロストナンバーになって学んだんだ。いろいろな人間、いろいろな価値観を持った人がいて、俺の見てなかった世界でもいろんな人たちが一生懸命生きているんだってことを。 ── 坂上 健 * 「ヒロムー? ヒロム、どこだー?」 ──まったく困ったバカ息子だ。小5にもなって。 人混みをかき分け、裏路地に抜けながら坂上健は独りごちた。春節イベント真っ盛りの昼時に、横浜中華街でランチしようとしたのが無謀だったか。 ここにしようと店を選んで入ろうとしたら、息子だけがいなかった。どうやらお調子者の彼は何かに気を取られ迷子になってしまったようなのだ。せっかくの休日、妻の両親と娘とみんなで洒落込んだというのに。 「すみません、お義父さん」 健は勢い良く頭を下げる。「先に飯食ってて下さい。イベント時の中華街の昼食戦争は半端じゃないので。ナミコはママとおじいちゃんの言う事よく聞くんだぞ? みんなが飯食い終わるまでには見つけ出します。大丈夫、最近この近辺で凶悪犯罪は起きてません!」 自分なら土地勘がある。迷子になった息子をすぐに見つけられる自信があった。 義父も義母も優しい人だ。言い回しが妙でも納得してくれたし、妻は少しだけ心配そうに、でも健に声を掛けてくれた。頼むね、二人の分はちゃんと取っとくから──。 健は混雑する通りへと足早に歩き出した。 彼は現役の警察官で、加賀町警察署にも赴任していたことがある。道案内はお手の物だったし、中華街のことはよく知っていた。 健は息子の行動を脳裏に描く。あいつのことだ。甘栗売りに捕まったとか、土産店で何か妙な物見つけたとかに決まっている──。 今まで歩いてきた道を戻り、息子を探していると様々な人々とすれ違った。家族連れ、カップル、観光客のグループ。みんなそれぞれ勝手な方向を見て、店を選んだり道をぶらぶら歩いたりしている。 甘栗を勧められ断ると、反対側の売り子にゴマ団子とマーラーカオの試食を勧められた。思わずそれを受け取っていると、ふと思い出した。 ──螺旋特急に乗っていたあの日々を。 あれから20年近くも経っているというのに、記憶は健の中で鮮やかに生き続けている。 夢中になって空飛ぶ列車を追いかけたら、自分はいつの間にか独りになっていた。狭かった自分の世界を飛び出したら、誰も着いてくる者が居なかったのだ。 もちろん友人や仲間も出来た。それに、守りたい人も。もらった中華菓子の味は、0世界にあるはずの友人の店のことを思い出させた。 こうしてあの頃のことを思い出すのは、久しぶりに一人になっているからだろう。 自警団に加わった頃かそのもっと前からか。健は再帰属が叶えば警察官になろうと決めていた。異世界の様々な人々との出会いを繰り返し、彼の心の中には他人の為になりたいという純粋な思いが芽生えていた。 ワールドエンドステーションを経て去っていく友人たち。その中で健が行ったことは、アリッサにギアとノートと、それから自警団関係の一式も併せて返却し、自分を振り返ることだった。 自分を育ててくれた壱番世界の人のためになることをしたい。 警察学校に入校し、地域部に配属になった。いわゆる“街のお巡りさん”になったわけだが、それは彼が望んだものだった。 凶悪犯罪よりも、地域の困っている人たちを助けたい。健はそう思っていた。当然、凶悪犯罪に立ち向かえるだけの能力は持ち合わせている。ロストナンバーの時にはあらゆる敵と戦い、多くの経験を積んでいたのだから。でも、彼はその能力を市井の人々のために使うことを選んだ。そうするべきだと思ったのだ。 そして彼は壱番世界に再帰属した。 なかなか息子の姿が見えてこない。 歩いている途中、杖を落とした老婦人に会ったので、杖を拾い手渡した。礼を言われ、お安い御用ですよと微笑む。 と、背中側でフッと違う空気が流れた。 「──!」 この気配、仕事中たまに感じる剣呑な──。健は勢い良く振り返った。 しかしそこにいたのは、息子と同じぐらいの年の少年だった。その後ろを黒いコートの男がゆっくりと歩いている。 「あれ?」 彼らは健の目の前を、何事も無く通り過ぎていく。 「ツァイレン……さん?」 それは健が一方的に見知っていたロストナンバー。ターミナルの武人に見えた。彼も自分の世界を見つけて帰っていったのではなかったのか。 まさか、な。 口に出して言う健。それよりは、噂の“白虎叔叔”の方がしっくりくる。 ──さらに、まさか、か。 頭を振り振り、顔を上げる。すると向こうで当の人物が、こちらを振り向いていた。 目が合った。 帽子の縁に手を触れて微笑み、相手は会釈してみせた。半ば慌てて、健は頭を下げた。 もう一度顔を上げてみると、相手の姿はもう人込みの中に消えていた。 「は、ははは……」 健はそこで初めて笑いだした。喉の奥で抑えていた笑いが大きくなり、彼は声を出して笑い出す。道行く人たちの何人かが奇妙なものを見るように彼を見たが、彼は気にしなかった。 やがて健はにこにこしながら歩き出す。今、得たばかりのちょっとした秘密を胸に抱えながら。彼はまた自らの世界に戻るのだ。 「ヒロムー。おーい、ヒロムー」 さあて、あいつはどこにいったかな。 数分後、漢方薬局でのんびりお茶と菓子をもらっていた息子を発見し、健は家族の待っているところへと戻っていくのだった。 「このバカ息子~、お前は俺と一緒に飯抜きだ!」 * 彼は、壱番世界に再帰属した後は警察官になった。ロストナンバーのさ、あれ、名前なんていったけな。えーと、あの彼女とも結婚できたみたいだし。羨ましい限りだよ。 この後定年まで真面目に勤め上げて、可愛い孫たちにも囲まれて、卒寿の祝いまでしてもらってから大往生さ。 いい人生を送ったってことだよ。 かっこいい言い方すればさ、彼はロストナンバーになって本当の強さを手に入れたんだよ。だから自分の世界に戻ってこれた。 羨ましいな。特に結婚のエピソードとかさ。 ……悔しいから、その話はまた今度な。 話を変えよう。 そうだ、この日はどういうわけだがいろんなロストナンバーがこの街を訪れてたんだよ。 彼女のことも見かけたよ。 * お帰りなさい。遅かったね。 ── ニコル・メイブ * 何だか懐かしいな──。 奇妙な思いを抱きながら、ニコル・メイブは横浜中華街を歩いていた。 観光で初めてここを訪れたというのに。彼女は街角で売られていた大きな肉まんを食べながらも、その懐かしさの正体にもとっくに気付いていた。 ある人物のことを思い出すからだ。 ふふっ、と微笑んでニコルはその思いを胸の奥にしまい込んだ。まずはこの街を楽しもう。 旧正月を祝う春節の期間だからか、中華街は一年で最も騒がしい。爆竹の爆ぜる音が方々から聞こえて、隣りの人と話すのに大声になるほどだ。 表通りは人、人、人でごった返していて、激しく打ち鳴らされている銅鑼の方向に人だかりが出来ている。各店を巡る獅子舞が演舞を見せているのだ。 その中にあって、買い食いする白い花嫁姿の彼女の姿は、旅人の外套の効果で目立たずにいた。 買い込んだ肉まんや月餅を抱えながら、ニコルはどうにも歩きにくいと、近道をしようと表通りを抜け、裏路地へと足を踏み入れていく。 そんな時、彼女は見つけたのだった。 幼い少年がうろうろと独りで歩き回っているのを。おそらく道に迷ってしまったのだろう。 助けてあげよう、そう思って近付こうとした時。中折れ帽に黒いコートの男性が少年に接触した。 ──! 目を奪われた。 横浜中華街には“白虎叔叔”なる人物がいて、迷える人を手助けするという。 もしや、彼がその── ニコルは彼らに近付こうとして物陰から手を伸ばした。しかしその指先を丸め、手元に戻した。彼女の顔には笑みがある。 なんだか可笑しかったのだ。 ニコルは彼らの後をこっそりつけることにした。物陰に身を潜める技には長けている。何しろそれは“彼”から教わったものなのだから。 人の居ない路地を歩きながら、中折れ帽の男性は、少年に迷うなと説く。常にその視線は優しく少年に注がれている。 「ははっ、変わらないよね」 そう、ニコルは知っている。 彼は人を導くとき、決して甘やかさない。不確かな迷いを明確な問いに代えて、後は本人の手に委ねる。 でも、その間ずっと傍で見ていてくれる。厳しくて、温かいひと。 「本当……相変わらずなんだから」 嬉しくて、少し泣けた。 少年が両親と出会うのを見て、彼は口端を緩めそこを後にした。 今、人は彼を“白虎叔叔”と呼ぶ。彼には表通りは騒がし過ぎたし、礼を言われるのも柄ではなかった。 ぶらぶらと家路を歩く。彼は人に出会わずにこの喧騒の街を歩く術を知っている。 何故だか彼はこの街がとても好きだった。いつも人が多くて、百年以上残る店もあればすぐに新しい店に変わるところもある。目まぐるしく変わる街だが、それがいい。 ここに居付いて数年になる。彼の元いた世界に文化が似ているのもあるが、彼は、たぶんこの雰囲気と非日常性に、居心地の良さを感じているのだろうと思っている。 この街には人が強すぎる日の光を避けるための陰もある。彼のような人間にはそのちょっとした陰が心地良いのだ。 友人も得て、異世界への旅の合間に住む家も見つけた。 そうしているうちに、やがて彼は自分が年齢を重ね始めたことに気付く。いつの間にか壱番世界に帰属していたのだった。 こんな風に暮らしていくのも悪くない、最近はそう思っていた。 何かが足りない、何かが欠けているような気がしていたが、それも人生のうちだろうと片付けて。彼は静かな暮らしを送っていた。 彼の棲み家は、方角で言うと街の西の方にある。街外れに立つ牌楼、延平門の近くである。白虎と名乗ったからか、友人が気を使って世話してくれた家だ。 小さな中華料理店が立ち並ぶ一角の、雑居ビルの三階である。屋上もあって、彼はそこで野菜や薬になる植物などを育てていた。ささやかな楽しみだった。 一階の広東料理店の女主人に挨拶をし、階段を登っていく。部屋の扉を開こうとして、ふとノブから手を離す。天井を見上げ、しばらく。何かに気付いたのか、彼は屋上に続く階段へと足を向けた。 屋上には、様々な鉢植えが並んでいる。隅にはテーブルが一脚あって、一休みできるようになっていた。背の高いビルの隙間から差し込む光が降り注ぐ屋上へ、足を踏み出し──彼は言葉を失った。 「お帰りなさい。遅かったね」 テーブルに白い花嫁が居る。大きな饅頭を頬張りながら。 この光景は、ああ──。 彼の、ツァイレンの脳裏に様々なものが帰来した。それは長い時間を経たものだったが、思い出すのは一瞬だった。 あの時も、彼女はこうして彼を待っていた。 「ニコル」 唇が彼女の名を呟く。かつて自分を救ってくれた人、そして──大切な人。 「食べる?」 音も無く、彼女は立ち上がっていた。 ツァイレンは動けない。ただ驚いたようにニコルを見つめている。ゆっくりと帽子を外し、かすれた声を出す。 「君は──」 もう耐えられなかった。 ニコルは身を翻し、彼の胸に飛び込む。あのね、私、あの──。何かを言おうにも、涙が溢れて言葉にならない。彼は優しくその背に手をやり彼女を抱きとめる。ふわり、と彼の帽子が床に落ちた。 「すまない」 以前にも、謝るのは無しだと言われたことがあったな。ツァイレンはそう思い出しながらも、許しを乞わずにはおれなかった。 彼女から離れたこと。それは決して疎んじたのではないから。 「君を不幸にすると思ったんだ。許してくれ」 ツァイレンは言う。涙を流しながら、ニコルは笑った。そんなことあるわけないじゃない。ただ彼の広い胸に顔を埋め、背に回した手に力を込めた。もう離さない、とばかりに。 二人から言葉が消えた。 この温もりさえあれば他に何も要らないから。 彼はニコルの髪に触れ額に口付けた。そのまま目蓋にも優しく唇を触れる。もうこれ以上彼女が涙を流さないように。 上を向いたニコルとツァイレンの鼻先が触れ合う。彼女が微笑み、彼も照れたように笑った。彼は少し年を重ねていたけれど、あの時と何も変わらなかった。 彼女の瞳の中には大空が広がり天高く舞う大鷲がいる。翼を広げるその姿に魅入られ、ツァイレンは彼女の世界を覗き込む。 君は本当に綺麗だ。 囁いて、吸い込まれるように彼はニコルに唇を重ねた。止まっていた時間の氷が溶け出し混ざり合うように。二人はお互いの身体を掻き抱く。 隣りの屋上が跳び移ってきた猫が、抱き合う二人を見てニャアと鳴いた。それでも彼らは離れない。 やがて猫が立ち去った時、二人の姿も消えていた。 * いや、誓って言うが俺は、その後は見ちゃいない。 本当だよ。 彼らは翠円派っていう武術の使い手なんだろう? 本当に居なくなっちまったんだ。煙みたいに、ヒュッ、とさ。 え、何? こういう時にくだらない言い訳するのは男の方だって? ……言うねえ。今度あんたのそんな色恋沙汰も聞いてみたいねえ。 横浜中華街ってところは、何でも世界で一番大きなチャイナタウンらしい。ニューヨークにあるのと規模を競ってるんだそうだ。 小さい島国の港町の一街区に四百店ほどの中華料理店がぎっしり詰まっている。 なんだか人気のスポットらしいな。 俺も、この日観光もしたさ。それで、彼らを見かけたんだがな。 * 劉さんっていい人ですよね。どうして彼女ができないのかな。 ── 司馬 ユキノ いや、だからそのお前はいいオンナだし。その…… 何言ってんだ、俺。 ── ヴァージニア・劉 * 白い獅子舞が観客の目を楽しませている。中国の獅子舞は二人で舞うものだ。 中の二人が立てば二階から5メートルほどの高さになる。こうした獅子舞は「採青」とも言われている。それは高いところ──例えば飲食店の二階から吊されたチンゲン菜などの野菜「青」をパクリと食べて回るからだ。 道を行き、踊り、激しく首を縦に振るその様子を見ていて、司馬ユキノは某船橋市の非公認キャラクターに似てなくもないと思い、プッと笑った。 「何だ、どうしたんだ?」 彼女が突然笑い出すので、脇にいる連れ、ヴァージニア劉が声を掛ける。 「何でもないです。日本の獅子舞と違うなあと思って」 「勉強になるのか?」 「ええ、もちろん」 ニッコリ笑うユキノ。 人にぶつからないようにしながら、二人は街を歩く。春節の時は通りが人で埋め尽くされる。まっすぐに歩けないほどだ。 「あ、あの肉まん美味しそうですね!」 「お? おう」 「あっちのタピオカドリンクも!」 「何だよ、なら買ってきてやるよ」 色々珍しいものに、はしゃぐユキノ。それに劉はひょいひょいと人ごみをすり抜けて、彼女と自分の分のジュースを買ってくるのだった。 ユキノは、今は「ヘンリー&ロバート・リゾートカンパニー」のスタッフとして働いていた。本当に言葉通リのコンダクターとなったのである。彼女は、人気のある壱番世界のツアーとして横浜中華街のコースを検討しようと思い、ここを訪れたのであった。 つまりこれはツアーの下見である。 なのに、たまたまターミナルで出くわした友人の劉が、ユキノ一人じゃ危なっかしいからと言って付いてきたのである。 何気に失礼ですよね。と、心中でユキノは呟く。でも、そうした申し出が少し嬉しかったりもする。 「なんだか、ずいぶん前のこと思い出しますね」 「何が?」 「劉さんと、インヤンガイに遊びに行ったことあったじゃないですか」 「ああ、あれな」 劉はいつものように気だるそうに相づちを打った。楽しくなさそうにも見えたが、ユキノはそれが彼の“通常運転”だということも知っていた。 「ここも初めてきたけどよ。まぁ似たようなモンだよな」 彼はユキノと並んで歩きながらタピオカをすする。こうして二人で遊びに来るのは久しぶりだった。お互い0世界で仕事を始めて、それなりに多忙な日々を送っていたからだ。 「どうなんだ、ツアーの仕事は順調か?」 「え? ええ、もちろんですよ」 突然話題を振られ、ユキノはどもりながら答えた。実は先日、添乗員でありながら一人を現地に置き去りにしてしまったことがあったり、チケットの手配を間違えてしまったこともあった。 けれども、彼女は劉にはそう答えた。 「大丈夫です。頑張ってます」 本当のことを言うと、自分はまだまだだと思う。けれどもなぜだか、劉に心配を掛けたくなかったのだ。彼には、きちんとやっていると思ってもらいたかった。 「そんなことよりも、劉さんの方はどうなんですか?」 ユキノは無理に話題を切り替える。 「オレか? オレはまあ……ぼちぼち相棒とよろしくやってる」 「便利屋さんですよね」 「ああ。悪かねえよ。けっこう順調だ」 劉は飲み終えたジュースの空コップを捨てようとして、やめた。以前、ユキノにこの件で怒られたことを思い出したのだ。 「そうですか、へええ今度私も何かお仕事お願いしようかな」 「まあ、お前なら安くしとくよ」 「えっお金取るんですか?」 などと話しながら、ユキノは目を輝かせながら街を見回している。「──あ! 劉さん見て、次はあれ食べましょうよ」 腕を引かれ、彼は唸るような声で返事をした。こうして二人で歩いてると仲の良いカップルに見えるのかもなとぼんやり思う。 女性恐怖症もずいぶんマシになった。ユキノを恋愛対象としてみているわけではないが──。 「どうしたんです、劉さん」 「いや、てめえみたいに気負わず話せる女友達ができたのはいいっこったな、と思ってさ」 「えへへ。何だか照れますね」 今度はユキノが肉まんを二つ買ってきてくれて劉に手渡す。 紙をがさがさやりながら、肉まんを食べようとするユキノ。そこですれ違おうとした男にぶつかる。 「──あ、ごめんなさい」 そのまま相手は何も言わず去っていく。人ごみの中にすぐに紛れていってしまう。 劉はそれを見、すぐにピンと来た。今のは── 「大丈夫か、ユキノ? これ持っててくれ」 彼は自分の肉まんを彼女に押し付ける。そしてきょとんとしたユキノを残したまま、身を翻してその男を追いかけていくのだった。 自分を追う気配に気付き、走り出す男。 劉は相手が裏通りに入り込むのを見、自分もそちらへと入り込む。ここまで来れば躊躇などしない。 スリめ。劉は、鋼糸を飛ばそうと相手の背中を見る。 と、男が走り去ろうとする先に、もう一人通行人の男がいた。どけ! とスリは大声を出して相手を牽制し逃げようとする。 次の瞬間、スリの走りが止まる。通行人の男が、足を引っ掛けただ。 チャンスだ。劉は鋼糸を飛ばし難なくスリを拘束した。 「財布を返しやがれ」 もごもご何か言っているスリの懐からユキノの財布を取り返し、ついでに他の人の財布やら何やらも失敬することにした。 一息ついて、劉は顔を上げる。 先ほどの通行人の男は、いつの間にか姿を消していた。 「えっ、今の人スリだったんですか?」 数分後、戻ってきた劉が自分の財布を持っているのを見て、ユキノは目を丸くした。 「そうだよ、お前はホントにトロくせえな」 ポンとその手に財布を返す劉。 「ご、ごめんなさい……。私、もういい大人なのに、はしゃぎすぎですね」 ユキノは財布を受け取り、がっくりと肩を落とす。劉の言うとおり、なんて自分は鈍いのだろう。もう少ししっかりしないといけないのに。 「いや……あー気にするなよ」 彼女が気落ちしてしまったので、今度は劉が慌てる番だった。 「なんだその、ユキノはいいんだ。今のだってお前が悪いわけじゃねえ。悪りぃのはスリだろ? オレがいるんだしさ、財布返ってきたしよ、まあ良かったじゃねえか──」 「ありがとう」 友人の気持ちが分かって、ユキノはにっこりと微笑んだ。 「劉さんがいっしょに来てくれて、ほんとに良かったです」 「あ、ああ、うん」 「楽しいツアーですもんね」 ユキノは気持ちを切り替えることにした。自分はツアーコンダクターなのだ。この、少しだけ恥ずかしがり屋の友人を楽しませてあげなければ。 「そうだ! 劉さん占いとかしません? 恋愛運とか見てもらったらどうですか?」 劉は、また唸るような返事をした。 占い、というのはちょっと……と思ったが、ユキノの笑顔にホッとする。 「まあ、いいんじゃねえか」 そして彼は今日何度目かになる同じセリフを口にするのだった。 横浜の港や、赤レンガ倉庫。みなとみらい地区の様々なビルが見える。時刻は黄昏時だ。はるか上から見下ろす街は、少しずつ明かりが灯っていく。 「わあ……」 二人は大きな観覧車に乗っていた。港近くにある横浜の大観覧車で上まで行けば横浜付近を一望することが出来る。 そんな中、なぜだが劉は本当に不機嫌そうにしていた。 「くっそ、あの占いババアめ。言いたいこと言いやがって」 「やあだ、劉さんまだ気にしてたの?」 ユキノは振り返って劉の隣りに座る。どうやら彼は立ち寄った占い師のところで、グジグジと何か言われたようだった。 「気にしない、気にしない」 あれからユキノは一環して楽しそうだ。 「さっきみたいに劉さんは、結構頼もしいし、彼女だって絶対できますよ」 「……」 「ニコっとしましょう。ニコッと」 「わーかったよ」 苦笑する劉に、ユキノはにっこりと微笑んでみせる。 「あとは、美味しいもの食べてから帰りましょうね」 「そうだな」 劉は機嫌を直して、つと息を吐く。空はどんどん暗さを増していく。彼らがまた地上に着くころにはすっかり暗くなっているだろう。 観覧車に乗りたいと言ったのは彼だった。一度こういうのに乗ってみたかったのだ。 ふいに訪れた静寂で、彼は自身の世界のことを思い出す。戻りたいとも思わない、生き延びるのが精一杯だったあの頃のことを。 「オレもこの先、誰かを好きになったりすんのかな」 ぽつりと呟く。 そうですよ、とユキノが相槌を打った。劉の視線が彼女の笑顔に移る。 「ユキノは優しいイイ女だし、一緒にいて安心するし……あ、いや、何言ってんだか」 「私も劉さんといると安心しますよ」 邪気のない微笑みで応えるユキノ。劉がすこし動揺していたことにも全く気付いていない。でも、劉はそんな彼女を見ていて癒されるような気がした。 そうだ。彼女はこれでいいのだ。 「私……実は、もうすぐフライジングに帰属するつもりなんです」 ユキノの口から未来のことが滑り出る。 「あと何回、こうして遊べるか分かりません。でも、今日は本当に楽しかったです。劉さんのおかげで、壱番世界の楽しい思い出がひとつ増えました。本当にありがとう」 「いや、オレだってその……」 劉はポリポリと頭を掻き、天井を見て、うーんと唸ってから、またユキノを見た。 「ありがとよ」 「はい!」 照れくさくなって、劉は窓の外へと視線を投げ打つ。 こうして遊んだり、未来のことを考えたりできるようになったのは覚醒してからだ。元の世界じゃ明日生きてる保証もなかった。今、自分がこうして生きて、存在していることが奇跡であるような気がしてくる。 「ああ、そうだ」 そんなことを思っていたら、先ほど見かけた者のことを思い出した。 「オレさっきさ、スリ追いかけたろ? あの時スリの足を引っ掛けてくれた奴がいたんだ」 「? 何の話です?」 「あれツァイレンだったと思うんだよ。元ロストナンバーの」 劉は自分が見かけたことのある武道家のツァイレンのことを思い出していた。横浜中華街で彼に似た人物が目撃されていることも聞いていた。だから──おそらくは彼が、本当にそうなのだと確信した。きっと、この壱番世界に帰属したのだ。 「あいつに聞いてみたかったな」 呟く劉に、ユキノが首をかしげてみせる。 「──今、幸せか? ってさ」 それを聞いて、ユキノは優しく微笑んだ。 人にはそれぞれの生がある。それをユキノはもう知っている。ロストナンバーになり、異世界の様々な違った価値観のある人々と出会い、学んだのだ。 最近はよく思うことがある。生きているとは、即ち、幸福であるということなのではないかと。 辛いことや悲しいこともある。けれど、人はそれを乗り越えることができる。そこには必ず幸せが待っている。 乗り越えられないことなど無いのだとユキノは思う。生き続けている限り、人は挑戦し、あがくことができるのだから。 彼女は劉の言葉に答えた。ゆっくりと、かみしめるように。 もちろんですよ。と。 * 二人のことについて、俺が知っているのはここまでだ。 彼の方は『星川&劉探偵事務所』っていう便利屋でしばらく元気にやってたみたいだし、彼女の方は言ってた通りフライジングに帰属したんじゃねえかな。 そんなことより俺が気になってるのは、彼が彼女と付き合ったのか付き合わなかったのかとか、そっちの方だよ。 だって、彼はその探偵事務所の野郎とカップルだとかいう噂もあったからさ。 どっちなんだ! ってさ。 ……気にならない? ああ、そう。 * おにーさんらの冒険は始まったばかりやで! ── ジル・アルカデルト * その街はまさに壊滅寸前だった。 主要な建物はほぼ全てドラゴンの炎で焼き尽くされ、大多数の者が命を失った。数日間ののち、街は巨大な竜が我が物顔でのし歩く地獄と化していた。 政府などとっくに崩壊している。こんな田舎の街に警察も軍も助けになど来ない。住民たちは仕方なく街の教会に集い、今しか出来ないことをした。 すなわち、神に祈ることだ。 かの魔物の目的は分からなかったが、ただこの街の人間を一人残らず焼こうと考えていることは間違いなかった。巨大生物にとっては、自らの城をつくるために害虫を駆除している感覚だったのかもしれない。 執拗に追い掛け回されるも、人間たちは行き場をなくす。 やがてその教会にも、街を焼いたドラゴンが迫った。為す術もなく、人々が目をつぶったその時。 まさにドラゴンが炎の息を教会に吹きかけようとした時、一陣の風がよぎった。 「ジルキーック!」 魔物の鼻先に何かがぶつかった。 それは小さな人間のようだったが、ドラゴンの炎の向きを変えるには充分だった。教会の隣りの林は焼き尽くされたが、建物は無事に残った。 「危ないところやったわ」 スタッと降り立つその姿は、派手派手アニマル柄のコートに青いピッタリパンツをまとったアフロ頭の男。ジル・アルカデルトだ。 「──教会さん、教会さん。ビィのお願い聞いて──」 と、そこに風に乗って幼い少女の声が響く。 「みんなを連れて危なくないところに逃げて。お願い!」 めきり、と大きな音を立てて教会の建物が“すっくと立ち上がった”。土くれを散らしながら足の生えた教会はぐらぐらと揺れながら、この場から離れていこうと歩いていく。 顔をブルブルと振るったドラゴンは、その光景を見て仰天した。 今、何が起こっているのかが理解できずに。 「って、ォオイ! なんで、あんなアホみたいにデッかいのを相手に、俺とビィちゃんだけなんや。ゼッタイおかしいやろこの依頼!」 「こんなんじゃ、ケーキ屋さんだって残ってないよ!」 見えない誰かに向かって抗議するアフロに、その頭上を飛ぶ妖精も同調する。いたずら妖精のシェイムレス・ビィだ。 「せっかく美味しいお店があるから来たのに!」 騒ぐ二人に、ようやくドラゴンが視線を向ける。新たな敵である。巨体を振りかぶって、魔物は炎のブレスを吐いた。 パッとそれを跳んで避けるジル。 「しゃーないから、やっとくで、ビィちゃん」 「あいよ!」 地を蹴り、跳び、舞うようにジルはドラゴンに挑んだ。相手は巨体だ。素早いジルの動きに付いてくることが出来ない。 ジルはドラゴンの背を走り、頭に蹴りを放つ。 ビィは胸の前で手を組み「お願い」を連発する。 「電信柱さん、電信柱さん、お願い。ビィのお願い聞いて──」 複数の倒れた電信柱が独りでに空を飛び、ドラゴンをボコボコと上から殴った。その様子はさながら、有名な昔話にある亀をよってたかって苛める子供たちのようだった。 やがて鼻柱の一番痛いところをジルに叩かれ、ドラゴンは悲鳴を上げて逃げていく。戦いはたったの二人のロストナンバーにより、かなりあっさりと決着がついてしまったのだった。 「たぶん、あいつ自分の家つくりたかったんちゃうかな」 空を飛んでいくドラゴンを見ながら、ジルが言う。 「じゃ、他の街で同じようなことをするってこと?」 「そうや。てぇことは、追っかけて説得せなあかんわ」 と、ジルが言うと途端にビィは面倒くさそうに、えーと抗議の声を上げた。 「めんどくさ。それよりもケーキ食べようよ」 「他の街なら、まだ残ってるケーキ屋もあると思うで、ビィちゃん」 「あ、そっか!」 二人は、宙を舞う電信柱にまたがり、ドラゴンの追跡を開始した。 北極星号の帰還から数十年。 ジルとビィは今でも異世界を旅し、冒険を続けている。 アフロ曰く。異世界をようさん旅してきて、困っとる人の多さを知ってしもうたから……。俺ってホンマ心配性なんは自覚しとるけれど、放っておけへんねん。せやからお仕事の中で、そしてそのついでも含めて人助けしてくよ! ビィは、たまに彼のことを“アフロ”とか“おい”ではなく、ジルと呼ぶようになっていた。たまに、ではあるが、友情を理解できない彼女の中でも何かが変わってきていることは事実だった。 「あのさ、ねえ、アフロ」 空中を移動する電信柱の上で、ふと妖精が口を開く。 「元の世界帰るのやめちゃったの?」 ジルは目線を上に向ける。彼のアフロにしがみついているビィの表情は全く見えなかったが、口調に何某かの思いを感じることが出来た。 微笑むジル。 「そうやな。──もう兆候も消えてしもうたな」 もぞもぞと居心地悪そうにビィが動いた。何か言いたかったのかもしれないが言葉にならない。たぶん、ジルのことを気にしてくれたのだろう。だから、良かったねとも言うこともできなかったのだ。 「あのな、ビィちゃん」 ふと思い出したようにジルは話を始める。 「実はな……俺には兄貴が居ってんけど、それが凄い秀才で器量良し性格良しでなぁ。なんやろう、あんな完璧人間見たことないわって人やったんよ」 言いながら、見えないだろうと思いつつも首にかけた赤い鎖のネックレスをちょいと引っ張ってみせる。「この赤い鎖も兄貴のプレゼントな」 「ふうん、それが何?」 「うん。それでな、俺はそんな兄貴みたいになりたくて仕方あらへんかったんや。けど……」 胸の中にあるのはロストナンバーになってからの人々との出会いだ。本当にいろいろなことがあって、様々な冒険に身を躍らせた。 「0世界って色んな人が居るやろ、ここで暮らしてる間に気付いたんや。他人になりたがる前に自分を磨かんとアカンってな」 「意味わかんない」 ビィの返事は、つれない。 「アフロはアフロで、ビィのおうちでしょ」 プッと吹き出すように笑うジル。意識してなのか、意識していないのか。ビィの言葉は彼の思いを肯定してくれているようでもあった。 そうやな。とジルは言って笑いを納める。 俺にはやりたい事ができた。 今はそれをやっていくだけやな。 つと、眼下に先ほどビィが逃がしてやった教会が走っていくのが見えてくる。中にいる人間も命は助かったとはいえ堪ったものではないだろう。 本来は冠婚葬祭に使われるべき建物であるというのに。 「そういや、ビィちゃんは好きな人とか居ひんのん?」 ふと思いついたことを聞いてみるジル。 「人なんか好きじゃないよ。食べても甘くないもん」 「……」 その辺りは、まだ彼女には浸透していない概念のようである。くすくすとジルは笑った。 「まだよく分からへんのかもしれんけど、できたらグイグイいかんとアカンよ、青春は勢いやから」 「なにそれ」 「ははは! もしずうっと見つからんかったらおにーさんが貰ったげるから安心しいや!」 ジルの目前にようやくドラゴンの背中が見えてくる。さて、もうひと踏ん張りだ。どうにかして彼と意思疎通をして、人を殺さずに済むところに引っ越してもらわねば。 「そうや、うちらも0世界で家でも借りよか。和室あるとこがええなぁ!」 「大きな冷蔵庫もね!」 ぴょこ、とビィが逆さまに顔を覗きこむ。 「そうやな!」 二人は笑顔をかわし、ドラゴンの背に突っ込んでいくのだった。 * 更に数年後、彼は外見が変わらないのを隠すために、知人に「ブレイクダンスのために海外留学する」と言い残して、壱番世界から身を退いたんだ。 あの妖精はどうなったのかなあ。 何しろああいうの、なんてぇんだ。ツンデレ属性ってのか? どうなったか分からねえけど、でも何だか二人でずっとずっとロストナンバーのままで冒険してそうな気もするな。 いいコンビだよ、連中は。 * くくく。 ── 業塵 * 思えば、ここも変わったものだ。 空き地に打ち捨てられた木材の山に腰掛けながら、業塵はいつものようにぼんやりと行き交う人を見つめていた。手にはバニラのアイスバーがある。濃厚な味が特徴の新製品、ストライク・バーだ。 路面電車が街を走るようになって、夜も明るい街灯が灯るようになった。妖に襲われることも、戦乱に巻き込まれることもなくなったというのに、人々は皆忙しそうだ。 それに、あいすくりんがいつの間にかアイスクリームに変わっていた。業塵は、手の中にあるアイスバーの包装をぴりぴりと丁寧に剥く。今、世間で人気がある甘味はシベリアだが、だんごやどらやき、ホットケーキもまだまだ元気だ。 彼がこの世に生じた時から気の遠くなるような年月が流れていた。 日ノ本は大日本皇国と名を変えたし、この地が昔、鞍沢と呼ばれていたことや、天野守久という男がこの地を守り抜こうと妖と死闘を繰り広げたこと。それらを知る者はほとんど居なくなった。 今となっては──。業塵がこの世界から一時放逐され、異世界を彷徨っていた期間は二十余年に及んだが、それも瞬く間のような出来事だったと言わざるを得なかった。短い間の楽しい思い出だ。 楽しい? 業塵は自らの思いに疑問符を打ち、そして口端を歪める。 笑ったのだ。 思えばあれから、成り行き任せで過ごしている。鞍沢を塞いでおくのも守久の本意ではないだろうと、この地を開放した。新たな住人がやってきてここに住まうようになった。そして数百年のうちに闇は徐々に減っていき、今やこれだけ夜が明るい時代になっていた。 それなのに、何故か彼の周りの騒動は減らなかった。 物の怪も姿や形を変え、この地の平和を脅かそうとしていたからだ。 先日も、冥界博士なる怪人物とやりあったばかりだった。かの人物は、自らの科学力による世界転覆を狙っていて、工事中のビルを乗っ取り精神感応派装置を発動させようとしていたのだ。 それが発動していれば、この街の人間は全て冥界博士の言いなりになっていただろう。まったく、物の怪だろうが不埒な人間だろうが、そういったロクでもない連中は何時の世になっても居なくならないものだ。 と、物思いに耽りながら半分ほどストライク・バーを食べた時だ。業塵は顔を上げ、のっそりと立ち上がった。 女の悲鳴が聞こえたのだ。それほど遠くはない。 やれやれ。彼は、ちょっとだけ残念そうにアイスを眺めるとパクリと一口。棒だけを咥えて、風のように走り出した。 家々の屋根の上を走り抜ける黒い影がいる。小脇にはぐったりと頭を垂れる幼い少女を抱え、その人物は人間とは思えない跳躍力で、走り、跳ぶ。 誰か! 助けて、うちの子が! 屋根の下を必死に追いかけていた母親が、あらんかぎりの声を上げて叫んでいた。バランスを崩して転べば、怪人は瞬く間に先へと逃げ去っていく。 彼女が絶望に顔を歪めた時、その脇を駆け抜け、屋根へと跳躍する影があった。 業塵だった。 彼は易々と人攫いに追いつき、その前へと回り込んでいく。 影はそれに気付くと、足を止めて舌打ちした。長い髪の、目の切れ上がった女である。包帯を巻き隠してはいるが、その肌がきらきらと輝きを放ち業塵は目を細めた。彼女の肌は、爬虫類のような鱗に覆われていたのだ。 「貴様か」 「ぬしの顔も、いい加減見飽きたわ」 つまらなさそうに吐き捨てる業塵。 狂人ラミアー、と呼ばれる女である。彼女は幼い子供を攫っては、その生き血を吸い尽くし殺してしまうという。この街に巣食う怪人の一人であった。 「その子を返し、去ね」 「抜かせ!」 ラミアーは長い爪を振りかざし、直線的に跳びかかってきた。業塵はニタァと笑い、その笑顔が四散した。彼の身体が無数の蟲となって空中に散らばったのだ。百足をはじめ、蝿、蜻蛉に、蜂や蛾、蜘蛛のようなものまで様々な蟲が相手に襲い掛かる。 バックステップで飛び退くラミアー。彼女は目を瞬き、閉じた。次に目を開いた時には光り輝く熱線のようなものが飛び出し、蟲たちを焼いた。目から正体不明の怪光線を発射したのである。 「死ね! 蟲ども!」 焼かれて落ちていく蟲を見ながら、狂女は高らかに笑った。怪光線は、蟲だけではなく電線を焼き、付近の八百屋の看板をも焼いた。 路地に集まり、こちらを見上げていた人間たちが、わああっと声を上げる。 ──懲りぬ奴よ。 と、蟲たちの中から、囁くような声がした。 ゴゾッという奇妙な音に、ラミアーは自らの左腕を見る。そこには、もう何も無くなっていた。抱えていたはずの子供も、彼女の腕も、まるごと無くなっていた。 甲高い悲鳴が上がった。 離れた場所で、ひと際大きな蟲が業塵の姿を形作り、小脇に少女を抱えて実体化した。プッと何かの残骸を吐き出して、彼は隈のある剣呑な視線を狂女に投げかける。 「甘くもない、まずいものを食わせおって」 しかし、最早、ラミアーは会話のできる状態ではなかった。狂ったように悲鳴を上げ屋根の上を転げ回る。やがて立ち上がった彼女は、覚えていろのひと言も無く、左腕を押さえて逃げ去っていった。 どうせ、数日後にはまた腕も元に戻るのだ。業塵はため息を吐きながら、すとんと地上に降り立つ。 「ありがとうございます!」 駆け寄ってきた母親に子供を返すと、路地の向こうにバラバラと棒を持った連中が現れたのが見える。警察隊であろう。 こらーっ、と声を張り上げこちら目指して駆けてくる。彼らには怪人も正義の味方も全部一緒くたなのだった。 息を付く間すらない、な。業塵は肩をならし、ぐるりと視線を巡らせた。 「……旦那、百足の旦那」 と、脇から声がした。見れば、知り合いの男が細い路地から顔を出している。人呼んで“ブン屋のヒサ。業塵のような者たちを“応援する”という名目で追いかけ、面白おかしく新聞や雑誌でその活躍を紹介している輩である。 「こっちですよ、早く」 自称“文士”は物陰から手招きする。業塵に逃げ道を教えてくれるのだろう。彼は素直に従って暗がりへと走りこんだ。ゴミや、寝ていた猫やらを蹴り飛ばして、彼らは逃げていく。 「ラミアーとの死闘、見てやしたぜ」 走りながら、ヒサが言う。業塵は事も無げに、おっくうそうに頷くだけだ。彼にとっては、あんなやり取りは、じゃれ合い程度のものでしかない。 「ゴウさん、早く早く」 まだ追いかけてくる警察隊を振り返れば、脇の家から恰幅の良い女が顔を出しサッと戸を開く。二人が滑り込むと、女はぴしゃりと戸を閉じた。 「土足で悪いね」 「いいってことよ。──ヒサ、あんたが拭いてくんだよ」 「俺が?」 畳の部屋に転がり込めば、家主とヒサが会話を交わしている。業塵はそれを聞き、草履を脱いでみた。 「今更、脱がなくてもいいよ」 家主は大きな声を上げて笑う。仕方なくもぞもぞと座り込む業塵。そうこうしているうちに、警察隊の男たちが外を走り去っていく騒々しい足音が聞こえ、遠ざかっていった。 「いなくなりましたぜ、旦那」 と、ヒサは外をこっそり伺いながら業塵を振り返った。もうこれで安心だとばかりに、ニッと微笑む。 「それはそうと、旦那。……また甘いもんでも食ってたんですかい?」 なぜ、分かるのだ。不思議そうに業塵が彼を見ると、相手は吹き出すように笑って彼の口端を指さした。 「クリームが付いてやすぜ」 あわててごしごしと袖で口をぬぐう彼を見て、ヒサはさらに声をあげて笑った。 「あんたァ面白い人だよ。らしくねえ」 「?」 「正義の味方にゃ、全く見えないって話さ」 数時間後。饅頭を何個も持たされた業塵はその袋をぶら下げながら、街をゆるゆると歩いている。 「あの──すみません」 振り向けば、どこかで会ったことのあるような女がいる。幼子の手を引いて、おずおずと何かを差し出してくれる。 はて? と、ばかりに受け取ってみれば、それはアイスの棒であった。野球ボールのマークが三つもプリントされている。 「貴方様の落し物です。先ほどは本当にありがとうございました」 「気になっておったのよ」 ポツリと呟き、ニタァッと笑う。相手は、先ほど助けた幼子の母なのであろう。彼の落し物──当たりのアイス棒を拾って届けてくれたのだ。 ただ、土下座でもしそうな気配だった母は業塵の笑みを見て、動きを止めて青ざめていた。いわゆるドン引き状態である。 何も言わず、業塵は母親を残して、またゆるゆると歩いていく。 確かにこの街には、多くの怪人や悪人が跋扈している。冥界博士や、透明人間ファントムも強敵で、さすがの業塵も手を焼くことがある。先日などは、世界義勇連盟なる連中から勧誘を受けた。一緒に怪人たちと戦おう、と。 しかし、このままでも良いではないか。業塵は独り思う。彼は気まぐれで自由だ。成り行き任せで大いに結構。彼はその気持ちの正体をなんと表現するか知らなかったが、すでに充分に味わっていた。 それは──安らぎであった。 駄菓子屋で、当たりの棒を見せもう一本ストライク・バーをもらっているところで、業塵はふと壁にあるものに目を留めた。店に張ってあったカレンダーである。 店の主人がアイス棒を彼に手渡しながら、ギョッと目を見開いた。業塵のただならぬ様子に気付いたからだ。 彼は嗤っていた。 空いている方の手で、カレンダーの年号に触れる。指でなぞるそこには「明和35年」とある。 「今年は明和35年か」 「そうですけど、何か?」 くくくと、くぐもった笑みで業塵は答える。数百年ぶりに、あの連中を──小僧共をからかってやろう。 覚悟して死の淵に投げた身を、引きずり戻したらどんな顔をするだろうか。 ニヤニヤと嗤う正義の味方は、自分の思いつきに満足しながら新たなアイスバーにかぶりつくのだった。 * 彼はこのあと東城という大日本皇国の首都に向かうんだ。 他のロストナンバーの……あー、名前なんだったかな。あの、彼だよ彼、 ……と合流することになる。 実は同じ世界の出身者だったんだな。 そういうこともよくあるさ。 やっぱりな、いろんな奴の人生見てて思うよ。 不思議な運命、みたいなものが必ずあるのさ。誰が操作してんだか知らないが、引き寄せられるように巡り合いっていくもんなんだよな。 彼らの絆も──そうだな。 あれは語り草になるよ。 * しっかりしろ、自分で決めたんだろ。 ── 冷泉 律 大丈夫だ。俺は信じてる。 ── 桐島 怜生 * 「ウチの娘がさ、家に連れてきたいって言い出してさ」 「何をさ」 「彼氏だよ」 「……なんだ。そんなことかよ」 「そんなこととは何だよ」 「ああ……それは難しい問題だろうね」 「そうですよね。さすが話が分かる」 「私のところでも同じようなことがね」 「同じようなことって?」 「実は……私にも娘がね」 「えっ、何それ!!」 三人のうち二人の男が、驚きのあまり椅子を蹴り倒して立ち上がる。渋谷にあるカジュアルなレストラン・バーである。二人は店の注目を集めてしまうも、すぐにすごすごと椅子を戻してまた座る。三人ともいい大人である。 座ったままの男が吹き出すように笑い出す。一番年かさで50代手前に見える。 「君たちは本当にいくつになってもウマが合うんだな」 「そうですか?」 言われた当人たちは顔を見合わせる。二人は共に40代半ばぐらいに見えた。洒落すぎず地味すぎない、カーキ色のジャケットを着た方は冷泉律。対して少し派手な赤いパーカー姿の方は桐島怜生。 彼らは目をパチパチやって座っている男を見る。以前はロストナンバーのツァイレンと名乗っていた人物である。 「いや、その、ツァイレン師。いつから、その……」 「いつの間に、やることやっちゃってんのさ」 「私の娘のことかい? うん、まあ、ちょっと前にね」 二人の反応に、元武道家は柔らかく微笑むのだった。こうしたところは本当に昔から変わらない。 「マジかよ。今いくつなんだ」 と、怜生。 「3才かな。よく喋るし、素直で可愛い子だ」 何となく母親の想像するアテがあって、二人は黙り込んだ。 「ただ、近所の少し年上の男の子のことが好きみたいでね。毎日、たっくんと一緒にいたいって言うんだ。あれはキツい」 「ですよねー」 同意する律。話が冒頭に戻った。 怜生はニヤニヤと笑い、いつもの調子に戻って言葉を挟む。 「んー、でもよ。その彼氏に“娘はやらん”なんて言ったらマユちゃんに逆に嫌われるだろうしな。ま、諦めとけ」 「彼氏がいたってことだけでもショックなのにさ。あげくの果てにその野郎を家に連れてくるって言うんだぜ」 「人間、20も齢を重ねれば彼氏や彼女ぐらいできるってことさ」 「その言葉そのままお返ししますよ。十何年後に同じになりますからね!」 「そうだね。でも、まだだ」 がっくり肩を落とす律を慰めるでもなく、二人はからかうように笑った。これは不利だと話題を変えようと、律は親友に目を移す。 「そういや怜生は、何でこないだの子と別れちゃったんだよ。今後こそ結婚するって思ったのに」 「いやー……まあな」 急に振られて怜生は視線をぐるりと巡らせた。 「結局、独り身が良くってな。気楽でいいんだよ」 「そうか? 家族ができるのもいいことだし、楽しいと思うけどな」 「そりゃ結構、結構」 律に迫られるも、話をはぐらかし水割りを飲み干す怜生。 確かに彼は自由奔放を愛する男だし、納得できる部分もあるのだが……。律は首をかしげ、親友の横顔を見た。そこに何か奇妙な違和感を感じるのだった。 あれから数十年。 彼らは壱番世界に帰属し、それぞれの人生を過ごしているように見えた。律は通っていた道場を引き継いで、今でも武道の修練に励んでいる。ツァイレンは彼に自らの会得した技を教えに数ヶ月に一度、律の元を訪れるようにしていた。怜生も師範として友人の道場を手伝っていた。 3人は数ヶ月に一度再会し、こうして飲み屋でくつろぐ仲になっていた。 しかし、本当は一人だけが違っていた。 怜生である。 彼だけは出身世界に帰属せず、ロストナンバーのままだった。 「やりたいことがあるんだ」 と、彼は大きなテーブルを前に座る両親に言った。 桐島家の食卓である。 息子の──怜生が大学を卒業したことを祝おうと、家族三人がそろった日だった。楽しい雰囲気を台無しにすることだったが、怜生は思ったのだった。 両親にあのことを告白するのは今しかない、と。 「何なんだ、改まって」 父はいつになく真剣な眼差しの息子に腕を組み難しい顔をしたまま動かない。母は不安そうに、そして心配そうに眉を寄せ、息子の様子を伺っている。 「一生掛けないと成し遂げられないことなんだ。だから、俺、結婚できない」 両親の目を代わる代わる見て言う。 「だから──孫を見せてあげられない。本当に、ごめんなさい」 頭を下げ、謝る怜生。 彼は22才ということになっていた。就職も決まり、これから社会人になるところだった。たまに茶化して父は、彼女ができたら家に連れてきていいんだぞ、などとも言っていた。 でも怜生の身体は、本当は16才のまま成長していなかった。年に一度0世界に戻り、知り合いに魔術的な処理を施してもらい、まるで加齢しているかのように見せかけているだけなのだった。 彼の成長は止まっていた。彼は今だロストナンバーのまま過ごしていた。 「お前さ、一生掛けないと出来ないことって何なんだよ」 やがて、父が言った。 怜生は苦笑して首を横に振る。 「言っても信じてもらえないよ」 それは彼の悲壮な決意だった。 結婚もせず独りで何年も、何十年も、もしかしたら何百年も過ごすことになるかもしれない。けれども怜生は壱番世界が危機にあることを知ってしまった。いずれ、あのチャイ=ブレと戦わねばならない時がくるのだ。 だから──彼は独りでいることを選んだのだった。 「そうかよ」 やがて父は口を尖らせて、つまらなさそうに言った。 「ま、てめえならそう答えるだろうと思ったよ、好きにすりゃいい」 「そうね」 えっ、と顔をあげる怜生。 父は腕組みをしつつもニヤニヤと笑い、母は優しく微笑んでいた。 「てめえがまともな結婚できるとは、端から期待してねえよ」 「やっぱり律っちゃんに期待かしらねぇ」 「えっ? あれ? そ、そんなんでいいの?」 あんまり、あっさり了解するので怜生の方が焦ったようになるのだった。彼はてっきり問い詰められ、叱られ、悪くすれば勘当でもされるのではないかと思っていた。それが──こんな微笑みで受け入れられるなんて。 「どうせ、やめろっていっても聞きやしねぇだろ」 「でもね、律っちゃんにはちゃんと言うかどうにかしなさいね」 口の悪い父だが、でも視線はしっかりと息子を見ていてくれている。母は、手を伸ばして怜生の肩にそっと触れるのだった。 「律っちゃんとは、後悔しないようにね」 目を閉じ、怜生はただ、ただ両親に頭を下げた。 違えた時間は、それでも進んでいく。 さらに数十年の月日が流れ、3人はそれぞれの時間を過ごした。 ある者にはあっという間で、ある者には長く感じられるものだった。 そんなある日のことだ。 律は還暦を前に、怜生とツァイレンを呼び出した。 話がある。 シンと静まり返った道場の中で、律は言った。目の前には怜生とツァイレンが立っている。ひんやりとした床が素足に冷たい。 「怜生」 彼は長年の親友を正面から見据えた。 「──この世界に再帰属しなかったんだな」 それは質問ではなく断定だった。 「お前は今でもロストナンバーなんだな」 「そうだよ」 少しの間のあと、怜生はゆっくりとうなづいた。隣りでツァイレンが長くため息のようなものを吐く。 「師は知っていたんですか」 「まあね」 「何故、私に黙っていたのですか」 珍しく、声を荒げる律。 「……すまない」 「私だけ、仲間外れにするなんて、どうして……! いつも3人で会っていたじゃないですか、私は──」 彼はツァイレンに向かって怒ったように言う。彼は弁解せず、怜生も何も言わなかった。 彼らは皆、本当は分かっていたのだ。律の苛立ちは本来のものに向けられたのではなかったからだ。だからツァイレンは黙って、弟子の糾弾に応えた。 「律」 やがて、怜生が口を開く。 「お前に家族をもってもらいたかったんだ」 そのひと言で、律は親友を振り向いた。 「俺は、いい家族にも友人にも恵まれた。だからお前にもそうなって欲しかった」 「チャイ=ブレか」 「そうだ」 律は静かな目で、怜生を見た。 彼は親友だ。彼がとった行動の意味は、手に取るように分かる。だから悔しい。悲しい。この過ぎ去った時間は取り返しがつかないのだから。 「この壱番世界は、まだ危機から脱したわけじゃない。そりゃあ俺たちだけじゃなく、みんながいるさ。だけど、何人かは備えておく必要があると思ったんだよ。例えば、俺みたいな奴が」 「怜生……分かったよ」 律は表情を緩め、ポケットから何かを取り出した。それを怜生に差し出してみせる。 その手の平に乗っていたのは、小さなコンパスだった。 「これ──壊れてるんだ」 何かふっきれたような口調で言う律。「壊れてるから、いつも同じ方向を指すんだ。……今までの俺みたいだろ」 と、笑う。 「これからは、これを見て思い出してくれ」 怜生はそれを受け取った。小さな壊れたコンパスを。 途端、彼の胸の奥が熱くなった。 子供の頃からずっと一緒だった。 彼が家族を失った時、本気の喧嘩をしたし、殴り合っても彼らの仲は壊れなかった。 一緒に螺旋特急を見て、ロストナンバーになって、様々な経験をして、壱番世界に帰ってきた。 今に至るまで、彼らはずっと親友だった。 それが──もう、この先は無い。 残るのはこの小さなコンパスだけだ。 これだけを手に、怜生は彼と別れなければならない。 「──泣くなよ」 目を押さえ嗚咽を漏らす怜生に、苦笑する律。 「泣きたいのはこっちだよ。お前に泣かれたら俺が泣けないだろ」 怜生が何かを言うが、それは言葉にならなかった。彼は涙でぐしゃぐしゃになった顔で親友の顔を見上げた。 「しっかりしろ、自分で決めたんだろ」 頷き、乱暴に涙を袖でぬぐう怜生。 「大丈夫だ。俺もちゃんと行くから」 律は泣かなかった。ただ顔をほころばせて、怜生を見ている。 「約束する。今度、ターミナルで会った時、遅れてごめんっていうよ」 分かった。怜生は答え、親友を信じた。 律なら絶対に来る。だから、それまで自分は信じて、生き続ける。胸に思いを刻み込み、怜生は親友からの最後の贈り物を手の中に包み込んだのだった。 その後、桐島怜生という男は姿を消した。 誰も彼がどうなったか知る者はいなかった。 そしてさらに数年後。 冷泉律の葬儀の日、10代後半の少年が焼香に姿を現した。初老の男性──律の武道の師であったツァイレンと共に、道場の関係者として参列したのだ。 彼は桐島怜生と名乗ったが、同姓同名の別人であの桐島家の者ではないという。 焼香を済ませ立ち去ろうとした彼を、ツァイレンが呼び止めた。少し、歩かないか。彼はうなづいた。 外はよく晴れわたり、桜の季節を迎えていた──。 「あんたも元気そうで何よりだ」 怜生が声を掛けるとツァイレンは一つ頷いた。彼は背筋をしゃんと伸ばし、桜並木の下を歩いている。もう70代のはずなのに還暦を過ぎた程から容貌が変わらなくなっている。 まるでロストナンバーみたいだ、と怜生は思っていた。 何とはなく、律の話や昔の話に花を咲かせながら、二人はぶらぶらと花が散る中を歩く。 「怜生、一つ聞いて欲しいことがあるんだ」 やがて、ツァイレンは改まったように彼に語りかけた。 「人の魂は、器である肉体が変わっても魂は変わらない、と私は思っている。ゆえに、死とは魂にとって睡眠や休息のようなものなのだ」 ふわりと花びらが肩に乗ると、それをそっと払ってみせた。 「律はこうして休息を得た。彼の魂はやがてまた新しい器を得て、君と出会うことになるだろう。私もそうだ。私も数年もすれば休息を得ることになる。この世界に帰属したからね。律と同じだ」 何となく怜生には相手が何を言いたいか分かった。 「一人で寂しくないかって言いたいのかい?」 フッとツァイレンは笑った。 「それもある。だが、私が危惧しているのは君の魂についてだ。君は休息を取らずにずっと動き続けることになる」 「心配してくれてるのか」 ツァイレンは怜生を振り向き、じっとその瞳を見つめ、頷いた。 「私も必ず行く。だから、辛くなったら休め。そして友に委ねろ。──私が言いたいのはそれだけだ」 「もちろんさ」 怜生は目を伏せた。 首から提げたものを──親友からもらったコンパスを、ぎゅっと握り締める。 「大丈夫だ。俺は信じてる」 そう呟いた彼の肩にも、ふわりと桜の花びらが舞い降りた。 * ここまで、だ。 俺は見てきたものを全て話したよ。 今度、これを本にまとめてみようと思っている。 ショウゾウケン? なんだよそれ。くだらないこと言わないでくれよ、知らん知らん。 俺かい? ああ、俺自身のこと? 元の世界になんか戻らないよ。俺もそう「死亡者扱い」さ。 戻る気も無いね。 それより、なんてぇんだ。 どこかいい女の子いないかなあ。絶賛恋人募集中だよ。俺もそろそろ……って思ってきちゃったよ。 世界人種種族を問わず、素敵な女性との出会いを心よりお待ちしてますってか? あんたも何かいい話あったら頼むな。 そういや、まだまだ先の話だけどさ、何でも250年後に何か起こるらしいじゃないか。 何なんだ? 興味あるね。 今後はあんたがその話聞かせてくれるんだろ? (了)
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