「師よ。慧竜よ。我は、ヴォロスと多重世界のためにここまで来ました。どうかご加護を」 幾千の世界を渡り歩き、ついになしえた。 ゲームセンターの黒服に身をやつした魔神メンタピ。250年の雌伏の年月を経て計画は実行段階へと到達した。 じゃらりと手の中の牌を転がす。 竜牌によくにているそれは、竜刻では無く、それぞれ世界計から成り立っていた。 数限りない世界を巡り、136個の世界計を回収した。三元牌はワールドオーダーから取得したもの。風牌は落とし子から構築した。残りは滅んだ世界の残骸。「世界計牌ですか」「フランよ。語呂が悪いな」「界牌はいかがでしょう」「そなたもずいぶん心得るようになったな」「カレのおかげです」 今のメンタピは一人では無い。仲間がいる。 チャイ=ブレを討つために艦隊が組織された。 136個の世界計を内在した牌は、それぞれ136の叢雲型巡宙艦に呼応している。 そう、叢雲型巡宙艦はその名が示すとおり、それ一隻が内部に小世界を有する船である。住民は滅んだ世界の亡霊達。 情報量でチャイ=ブレを圧倒する。それが必要条件だ。 ギベオンとの通信が途切れると、メンタピは艦橋から外へ、ディラックの空へと歩み出た。 因果律の外の路線からは世界群の瞬きがまぶしい、あの中のいくつかは叢雲型だ。 いくつかの光点が遠ざかっていく、彼らは万一の敗北に備え、艦隊の全情報を握って離脱する者達だ。たとえ我らが成功したとしても再会するのは星霜の彼方となる。つらい任務だ。「フランはいかなる手段でチャイ=ブレと抗するのか……」 メンタピはほくそえんだ。 チャイ=ブレを殲滅する方法……ワールドエンドステーションで示された可能性。その達成方法は一つでは無いはずだ。 メンタピもまた独力で開発した。そのための136個の世界計だ。 見渡す艦隊の中にも腹案を持っているものを大勢いるだろう。 決め手になるのは誰だろうか。 セクタンからの監視から逃れるため中核メンバーはツーリストから募った。コンダクターの中からもセクタンの目をうまくかわすことができるものも増えてきた。ロストメモリーにも草を放った。 作戦に失敗したら、自らの死はもとより、いかなる惨事が起きるかわからない。 いや、成功しても0世界は失われるだろう。ドッグタグは十分に用意いた。しかし、世界樹の時は園丁達は全て息絶えた。 我々にはロストメモリーに友もいる。だが、それでもなしえねばならぬ大義があった。「全艦発進。チャイ=ブレを世界計に、新たな世界の可能性に還元する」<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆シナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。
§ ガルバリュート・ブロンデリング・フォン・ウォーロード 額に嵌った高貴な――少なくとも外見は――女性の絵姿。 筋肉の鎧を纏う大男は、鋼鉄の面から覗く眼を眩しそうに細めた。 (姫はご立派になられた…………王位継承者として表舞台に立たれる方の傍らに、我輩のような哀れな宇宙囚人はもはや侍るべきではない……ヌマブチ殿にはすまぬが) 北極星座号の探索の最中に友が見出した『スターウェイク』――かつて己が存在した世界 望めば帰属はできたであろう。 しかしその世界はもはや己が居た世界ではなかった。 命を賭して守ったアルガニアの姫君を守るものは別にいる。 故国のために粉骨砕身する姫を支える役目を担うのは、もはや自分ではない。 命懸けで姫を守った結果、『スターウェイク』から己の居場所は消えていた。 瞳を閉じたがらんどうの鋼鉄。 大男は女性の絵姿が納まった額を机に伏せようとし――思いとどまって布を被せた (――そう死兵は戻らず、何も語るべきではない――) ただ、戯れに謎の騎士『肉仮面A(エース)』として暗闘(勿論、正体はバレバレだったが)しながら、敬愛する姫君が作る故国の繁栄を世界の外から見守り、いずれ戦場にて生命果てるまでと漂うモラトリアム。それも王女の婚礼を契機に終わり『ガルバリュート・ブロンデリング・フォン・ウォーロード』いや、ただの『ガルバリュート』もしくは『肉』は故郷の世界に脚を向けることは殆どなくなった。 鋼鉄の如き強靭な肉体を持つものが、巌の如き頑健な心を持つとは限らない。 名乗る名を失ったガルバリュートの鋼鉄の肉の内側は空虚に埋まっていく―― 0世界で時に取り残されたもの達が陥る喪失。 己を手放さず世を捨てずに居られたのは、永久戦場に帰属した友の誘い故。 ‡ ‡ § カンダータ 漂白の時を過ごすガルバリュートは、ロストナンバーとして死地を共にした戦友に請われるままにカンダータに足繁く通うこととなった。 命を鉄火と散らすカンダータの人々は既に代替わりをしており、マキーナとの戦いにおけるガルバリュートの活躍を直接知るものはほとんど居ない。 しかし、生来の生真面目さで全精力を注ぐ漢は、カンダータによく馴染んだ。 旧文明の遺跡に残っていた殺戮機械との戦い、無窮に拡がる荒野を開拓、新たな政治体制の確立、平和故に起きる争いの調停。 幾つもの出来事をカンダータの民と共に過ごすうちに、ガルバリュートの頭上には永久戦場の真理数が点るようになる。 (――我輩が死すべき所は此処なのか? 護るべきものの無い騎士とは――) 帰属の兆候を見せながらもカンダータに根付くことはなく、ガルバリュートはただ黙々とカンダータのために働き続けていた。 己の道を見定めることができず、ただただ只管に―― ………… …… 「ガルバリュート? どうした食が進まないようだが、好みに合わなかったか?」 上の空に漂っていた意識を友――カンダータの真理数を頭上に輝かす有翼の女――アマリリス・リーゼンブルグの声が現実に引き戻す。 「……戦場にいて糧秣に文句をつける兵士などおらぬ……少し考え事をな」 ガルバリュートのその身に似合わぬ小さなぼそぼそとした声の返事に、簡素な部屋着の上に似合わぬエプロンなどをつけていたアマリリスは些か呆れたように肩を竦め羽根を揺らす。 「確かにその通りだ。しかし、日頃の礼にと貴君のために慣れぬ女の戦場に立ち、料理を振舞っている私の立場を考えて欲しいものだ」 「……一般論である」 味の問題ではないと証明するようにソースで煮込んだ肉を、兜の隙間に滑りこませると感想らしき言葉を述べる。 「しかし、カンダータ風味の料理とやらはなかなかに香辛料がキツイ。火を吹かんばかりよ」 「何? そんなはずは、私が女衆に教わった時は……む……グッ!?」 奪うように己の作り上げたシロモノを頬張ったアマリリスは蛙が潰れたような悲鳴を上げた。 算を乱し、女の戦場とやらに駆け戻ったアマリリス、後に響くは水道水の流れる音だけ。 女衆に教わった……か、あのアマリリス殿が……変わるものだ ‡ 「私がカンダータに帰属してはや二十年。大地に刻まれた戦いの傷跡は癒えつつあり、新しい始まりを担う力が必要だ。 なあガルバリュートよ。貴君は帰属を考えないのか?」 「時至らば、自ずとそうなるであろう――」 ここ数年、幾度と無く繰り返されたやり取り、豪放でならしたはずの男の言葉は何時も煮え切らない。 「カンダータは肌に合わないか? 貴君はいつもどことなく上の空だ。無理に私に付き合って貰う必要はない」 「無理をしているわけではない――」 カンダータ特有の強い酒も男の唇の滑りを良くはしない。 ただ、兜の奥から漏れる静かな笑いが男の感情、踏み込むことを拒む鋼鉄の鎧。 「――無理をしているのだな」 今宵、女は貯め続けた言葉を突き入れた。 男の巨体が揺れる、それは主観的な錯覚。 しかし、女の言葉は錐となって鋼鉄の肉体が隠す心根が漏れる。 「……隠せぬものだな。アマリリス殿には敵わぬ……」 兜の奥から漏れたため息は老人のように重たい。 鋼鉄の鎧に隠されたガルバリュートの言葉は、故郷の時間の流れに取り残され、居るべき場所を護るべきものを見失い、己の生きる意味を失った空虚と悲哀に満ちていた。 帰属が可能な程に新たな絆を見出しつつも、心は過去に囚われていた。 「騎士道とは苦しむことと見つけたり……であるな」 兜の奥の表情は窺い知ることはできない。 彼の苦しみは彼の中にしか存在しない――女にできることは 「……今夜は朝まで飲むか。グスタフの孫に貰ったいい酒がある」 アマリリスには、甘い言葉で男を慰撫してやることはできない。 彼女にできることは、酒を枕に男が吐き出す苦悩が全て尽きるまで聞き続けることだけ。 「……すまぬ」 「謝る必要はない」 ‡ ガルバリュートがカンダータに通うようになってから五年が立ったある日、転機が訪れる。 旧世代の遺跡を探索していたアマリリスが不慮の事故で倒れた。 半死半生、意識不明の重体。 有翼人の強靭な生命力が辛うじて彼女の命を繋いでいたが、その意識は闇に沈み覚醒することはないと診断された。 ガルバリュートが0世界の土を踏むのは其の日が最後になった。 意識を取り戻さぬアマリリスの横で献身的な介護に尽くすことが彼の全てとなる。 献身的な介護の中、アマリリスが微かに意識を取り戻したのは三年後。 すっかり筋肉の落ちた腕でアマリリスはガルバリュートに触れ告げる。 「泣かないでくれ、騎士よ。この地で共に生きよう」 息は浅い、医者は首を振る。 それは最後の願いかも知れない。 ――我輩は再び居るべき場所を失うのか 「貴殿が生きるならば仰せのままに」 兜を脱ぎ最愛の友に傅き掌に口吻する。 それは願いであり誓い。 満足したように静かに意識を失う女の傍ら、幾十年振りに素顔を晒した男の真理数は、もはや0世界にもアルガニアにも戻らない意志を示していた。 ‡ 新カンダータ歴 三十五年 満天の快晴のもと、カンダータ地上は最も高いと言われる山の頂上で漢が雄叫びをあげていた。 その傍らには固い絆と情で結ばれた有翼の女性。 「我が名はガルバリュート・ブロンデリング・フォン・ウォーロード。 アマリリス・リーゼンブルグ共に、この身果てるときまでカンダータを見守る一条の槍よ!」 そして双子の有翼の女児が―― ★ ★ ★ § しらき 炎のような髪に、水滴がしたたり落ちる。 雨が降れば石切場での作業は一休みだ。 窪地に雨水が流れ込み足場が滑りやすくなる。それに水の力が強まるなかでの仕事は縁起が悪い。大地神の不興を買うというのだ。 しらきは灰色の空を仰ぎ見、三度笠を被った。 監督からの許可が降りると、職人達はめいめいに散りはじめた。 「なぁ、あんた」 「あ」 「そう、新入り。あんた、見た目の割に腕が良いね。どうだこの後一杯」 そう言って男は杯を傾ける仕草をした。 男の魂胆は明白だ。 しらきの持つ、腕、その一端を盗みたいのだ。ときおりこういうことがある。 この地の王が求める霰石は、劈開が強く、求めるかたちにするのには骨が折れる。うっかり斜めに割れてしまっては、石の切り出しからやり直しだ。 しらきは切り出された石を整え、すぐにでも建材に使えるようにする作業をしていた。石に逆らわず、石の声を聴いて、削り、割り、そして文様の下ごしらえをする。 いっぱしの職人ならその技術は秘するものだが、これそのものに生活のかかっていないしらきには頑なになる理由はなかった。 風来である。 それに酒の誘いを断るには空気がしけりすぎていた。雨滴は冷たく、道具を握る手がかじかんだ。 火の出るような酒が欲しくなってきた。 「そうだな。石は人体のようなものだ。かたい骨があって、やわらかい肉があって、顔がある」 しらきが雑穀の蒸留酒をそのまま口につける。 燗がされており、酒精が鼻につく。 職人達はひるむが、よそ者に負けじと杯を傾けた。 この様子では『秘伝』を根掘り葉掘り聞き出されるのは翌日以降にお預けだ。 ――さて、おれは石に燻りのこる炎を聴いているだけなんだけどな。 世界がまだ熱かった頃の残照。 不思議とどこの世界に行っても、そのなりたちはあまり変わらない。強大な光とか炎とかから世界は誕生したことになっている。それはオリジナル世界計の一部だったころの名残だろうか。 石には組み合わさろうという性質があることを感じていた。 それがあるから世界は大地をもつ。 石切場からくすねてきた霰石をそっと取り出し、囲炉裏に掲げた。ほんのり朱く、透明感のある良い石だ。 新しく見つけたこの世界は暖かい。 永く続く、良い世界の証だ。 しらきはごろりと横になった。少し窮屈だが、狭いところは慣れっこだ。ちょうどはまる隙間を見つけるのは楽しい。 石組と同じ。 トラベラーズノートに長期潜入調査中とだけ書き、目隠し代わりに顔にのせた。 「長居させて貰おう」 職人達はとうにできあがっていた。 ★ ★ ★ § ナイン・シックスショット・ハスラー Input 『使い魔』という奴隷が存在する世界。 Output 七穣八百垓六千五百三十京七千八百四十二兆七千五百四十九億六千五百十三万三千三百三十三世界 Input 先の条件を満たし『魔法局』と呼ばれる管理機構によって統制が取られる世界 Output 三兆二十三億四千五百三十二万六千二百二十八世界 Input 先の条件を満たし『鍵を解く者』と呼ばれる救済者を待望する世界。 Output 六千九百三十五億三千四百五十万七千四十一世界 ……………… ………… …… 北極星座号がワールドエンズステーションに至ってから一年。 この世界群の果てにおいては、星が瞬くこともない極僅かな刹那。 二足歩行する黒猫の『使い魔』ことナイン・シックスショット・ハスラーは、己の知る世界を模る概念をワールドオーダーに投げかけては、その答えを精査し、新たな投げかけを続けていた。 それは想像するだに気の遠くなるような作業だったが、ナインは一時も休むこと無く延々とそれを続けた。 (皮肉なもんだ。クソ野郎共が俺に与えた『監査』の能力がこんなところで役に立つとはな) 彼がクソ野郎と呼ぶ造物主が与えた、強力な解析能力と『監査』対象を逃さないために長時間の補給を必要としない肉体。 対魔術兵器として与えられた能力が、一年間無休の作業を可能とし、彼の求めた答えを引きずりだす。 「……然る条件を満たし、ナイン・シックスショット・ハスラー、レイド・グローリーベル・エルスノールが帰還すべき世界」 『一世界――真理番号は1363629525・一般名:鍵宮魔街ウェイドゥーア――』 (……レイド、見つけたぞ。俺達の世界だ……こんな名前だったのか? まあそんなことはどうでもいい、もうすぐ、もうすぐだ……) 二足歩行する黒猫は、己の首に輪をかけた魔道具の縁をギリッと握りしめ、己の内奥を確かめる。 ふよふよとした肉球に金属が埋まり、胸糞悪い感触が骨に伝わるがそれを思い出させる。 『復讐』 誰もが酔いしれずにいられない甘美な黄金の果実酒 最高級のまたたびよりも遥かに心を染みわたる腐った陶酔 瞼の裏に焼きついた絶望の表情、壊れた玩具を見るような冷めた笑い、滲む赤―― 友朋の、家族の、そして――無為に死んだ同胞の恨みを晴らす時が、己の憎しみを解き放つ時が間近に迫っている。 『――階層:プラス下層』 (プラス……下層??) 渦巻く感情に溺れかけていたナインの耳を違和感のある言葉が刺激した。 黒猫は、狭い額で小器用に眉根を寄せる。 未だ延々と故郷の世界についてしゃべり続けているワールドオーダー。 特定が済んだ後であれば、もはや意味のない言葉のはずであった 「プラス上層の間違いだろ?」 「その質問への答えはNOです。現世界時間で三年前、階層の変更が行われました。現在の階層はプラス下層に位置します」 己が世界を彷徨い歩いている間に、何が故郷で起きているのかと訝ったがすぐにどうでも良くなった。 (――マイナス下層だったぜ。俺に取ってはな。 ……再帰属して帰るだけじゃ終わりじゃねーんだ……これから始まるんだ) 『復讐』 数字でしか己を現すことを許されなくなった生き物、哀れな『使い魔』が願う儀式が始まる。 ‡ ‡ § ウェイドゥーア 季節は冬なのか芯と冷たい空気。 窓一つ無い見慣れた懐かしくもない寒々しい建屋を照らすのは薄い月明かりのみ。 運搬した際に零れたのか、極わずかに漂う胸糞悪い刺激臭は『医療』魔術に使われる薬品の臭い。 (帰ってきたぜ……クソ野郎。相変わらず、灯りもつけずにこそこそと) 故郷の世界に戻ったナインが細長い瞳孔に収める建物、それは、高次元従属獣研究所(Highlevel Slavebeast Laboratory) ――通称ハスラー 二足歩行の黒猫達が攫われ、ナインが胸糞悪い『首輪付き』に成り下がった場所。 ――識別コード:グリーン ――ナイン・シックスショットの入館を許可します 研究所の入り口に立つ歩哨、警備用魔導人形は、数年振りに帰還した獣人を無警戒に素通しする。 研究所内部のセキュリティも、研究者達も、誰も、彼もナインを二足歩行する黒猫を警戒しない。 ――それが当たり前だった。 (そうだ、俺はこのクソッタレ研究所の備品だった。 備品を警戒する奴なんぞいるはずはねえ…………だが、それでいい) 黒猫は腸の奥底から古傷のようにじくじくと湧き上がる怒りを抑え首輪を握る。 まだ、馬脚を現すわけには行かない。 まだ、『首輪付き』のふりをする必要がある。 万が一にもクソッタレを逃がす訳にはいかない。 猫の瞳は、己の感情を移し爛々と輝く。 ‡ 研究所の中で一番に慣れ親しんでしまったクソッタレな扉を蹴り飛ばす。 「……『おかえりなさい』」 中から聞こえた平板などうでも良さそうな声。 「ただいまだ、このクソ野郎」 口汚く吐き捨てシックスショットの召喚する銃を奴につきつけた。 奴の顔に困った笑みが浮かんでいた。 久しぶりに帰ってきたペットの機嫌はどうやら悪いようだと言わんばかりに。 (そうだろうよ……クソッタレ) 俺は、此処に帰る度に殺意を持ってシックショットを……俺のトラウマの元凶であるこのクソ研究者につきつけた。 しかし『首輪付き』――対魔術兵器として改造された俺には、引き金を引くことはできない。 『首輪付き』が『首輪付き』と呼ばれる所以。 悪態をつくことは許可されていた。 このクソ野郎はキャンキャン騒ぐペットが好きってことだ。 嗜虐心をそそりでもするんだろう。 しかし、牙を突き立て喉をえぐることは許されない――俺のような『使い魔』はこいつらの玩具だった。 そう昔は――だが、今は違う―― 猫は嗤った、己の命運を。 ‡ ‡ 数年前――0世界 レイド・グローリーベル・エルスノール。 魔法局直属の『使い魔』にしてその枠を逸脱する行為によってナインの監査の対象となっていた『使い魔』 故郷の世界から姿を消していたレイドを追いかけるうちに異界に飛ばされた俺に……それを見越していたかのようにそこに居たレイドが契約を持ちかけた。 「僕を追いかけるのは辞めないか? 僕とブレイクが故郷に戻った時、魔法局は変わる――『使い魔の解放』いや『復讐』か、君の望みは適うはずだよ。 僕に協力してくれないかい? 『戦の鍵束』として」 何を言っているか理解ができなかった。 ただ薄く伸ばされた金銀の妖瞳が放つ胸を穿つような圧迫感は、本能的な恐怖を換気し尻尾が爆発的に肥大している。 己の知っているレイド――いや『使い魔』とは異なる圧倒的な―― 『イレギュラー!!』 己に付与された第二の人格が叫びをあげた。 魔法局の秩序を破壊するものを修正するプログラム。 「……レイド、離れろ……」 なんで奴を心配する言葉が口をついたのかは分からない。 薄くなる視界とともに意識が黒く塗りつぶされていく。 ナインの意識が消え第二の人格が目覚めた時、目の前のケット・シーは肉片に変わるのだ。 ――輩が死ぬのを二度と見たくない ナインの想いは虚しく刈り取られる。 ………… …… ――パンッ! 「はい、そこまでだよ」 目覚めた意識に触れる聞き慣れた声と柏手。 陽の光に溶ける朝露のように、或いは水に流される墨のように意識を覆っていた黒が晴れ視界が戻った。 そこに存在したのは猫の肉片ではなく、いつも通りの軽い笑いを浮かべるレイド。 「……何をした、修正モードと戦って無事でいられる筈がない……」 「『グレムリンの悪戯』さ。修正モードを実行しているプログラムを壊した。ちょっと意識を持って行きすぎたみたいだけどね」 「馬鹿な、その術は機械だけを……」 「そうやって狭く魔法を定義しているのは『君達』だけだよ。魔法はもっと広く深遠なのさ」 (なんなんだ、こいつは……) 疑問とともに、先程感じた圧迫感が再び滲む。 「返事をしてくれないかい、ナイン」 (……いや、これは機会だ) 「いいぞ、レイド・グローリーベル・エルスノール。 ただし一つ条件がある――」 ‡ ‡ 俺はレイドと密約を結んだ。 このクソッタレどもによって、俺のような兵器を生み出されないように『使い魔』の権利を確約させる。 そのために俺は『首輪を外した』 黒猫の手がぶちりと首輪を、己を束縛する証を引き千切る。 初めてクソッタレの顔に感情が露わになった、驚愕、混乱、恐れ、そして――哀願、絶望 「あばよ、クソ野郎」 (クソ野郎が一丁前の表情をみせんじゃねえよ、其の顔をした俺達を見逃したことでもあるのか!) 瞼の奥が思い出す焼け付く感覚。 復讐に酩酊するナインは、研究者の顔面に銃口を向け引き金に指をかける。 シックスショットの魔弾―― 轟音が研究所の壁を貫く。 闇を貫く光条が一瞬だけ夜の世界を明るく染めた。 研究所内に警報が鳴り響き視界が赤に染まる。 研究室の入り口を蹴破った警備兵にされたもの達に銃口を構えるナイン。 「これが俺達の反逆の狼煙だ!」 『使い魔』であったものの雄叫びと光が再び夜を貫く。 ‡ ‡ § レイド・グローリーベル・エルスノール 故郷の世界へ再帰属した時から違和感はあった。 魔法局――世界を構成する魔術を管理する組織、そしてそれを取り巻く環境。 それは緩やかで巧みな変化であったことを想像させた。 何も変わらぬはずの世界に歪な歯車が一つ食い込んでいる。 ロストナンバーとして異世界に居なければ、レイドもその変化に気づくことはなく『それ』が作る崩壊の海練に巻き込まれていた可能性は高い。 『それ』は、レイドがこの世界から旅だった時、極平凡な魔法使いだった。 ブレイク・エルスノールやその同輩のような綺羅星の如き高い魔術への親和性を持ちあわせて居たわけでもない。 さりとて、老獪な魔法局上層部のように言葉を縦横に巧みに人心を操る才覚を持ちあわせていたわけでもない。 それにも関わらず『それ』は魔法局の要所に侵食し、同胞を増やしていた。 魔法局内部に一大派閥を築き上げていた。 一度其の姿を眼にし、演説を聞いただけでその正体は分かった。 会議の席で支離滅裂な言葉を弄して破滅的展望を語る『それ』は、 ――マンファージ、人に取り憑いたディラックの落とし子 『それ』に賛同の声を上げるものは多い。 マンファージ特有の取り憑いた同種を支配する力に囚われたもの。 ――ブレイクの上司に当たる人物もそこに居た 力ある魔術師である彼が支配の力に屈したとは考えにくい。 『それ』と同じように破滅の色に目を輝かす所以は、ディラックの子を埋め込まれ破滅の使者と化したのか。 会議は馬鹿げた帰結を迎える。 マンファージの目的が、社会の支配であるはずがない。 魔法炉の臨界稼働実験――でたらめなデータに基づく、魔法局の権威を失墜させ世界を崩壊させかねない――の採択。 ‡ 異世界で同胞となっていたナインに探らせることで、彼らの動向を捉えることは簡単にできた。 いや、もはや隠していなかったのかもしれない。 要所にはファージの息がかかったものが配備され、失敗と世界の破壊を前提とした実験はいつでも始められる状況にあった。 世界を管理する組織に生まれた癌細胞は宿主ごと世界を弑す。 秩序の破壊、組織の破壊、大地の破壊、得られるものは何もない破壊のためだけの破壊。 (止めないわけには行かないね、世界が滅びるなんて看過できないし、それが魔法局のせいだなんてね。それに……思っていたのとは違うけど……これはいい機会になる) マンファージの術に侵食された力はないが権力のある者達の顔を思い出す。 力を持ちつつも風見鶏のように大勢に流され、目の前の保身に逃げた魔術師達の顔を思い出す。 そして、会議の記録――満場一致の賛成――事が治まれば、重大な問題になるであろう彼らの弱所。 議決権がない使い魔という立場も都合よく働く。 (ディラドゥア、ヴィクトル、君達に再会するのは意外に早くなるかもしれないね) あの日、レイドがプレインズウォーカーであるディラドゥアに出会い世界の真実を知った時。 魔法の深遠を知り、魔法局という管理システムに束縛された己の世界の矮小さに気づき、それを解くものを求めた。 ――それを『鍵を解く者』と呼んだ ‡ ‡ ――魔法局 静謐の中に揺蕩う夜を幾度と照らす光の海練。 あの光の下で、怒れる一匹のケット・シーがその本懐を遂げようとしている。 「ナインのやつ、派手に始めたね」 金銀のオッドアイがある研究施設の終焉を見つめていた。 ナインが生み出された、かの研究施設はマンファージとは関係があったわけではない。 マンファージとの戦いは、能力によって支配された信奉者の壁を排除しファージと化した者たちを滅する戦い。 ナインの行為は言わば囮のようなものだった。重要施設を狙えばそれだけ人員が分散する。 一箇所に集まる信奉者が減れば減るほど、一騎当千で鳴らす、彼ら『戦の鍵束』は容易にファージを滅することができる。 ナインの我儘は、作戦の埒外ではあったがレイドはそれを容認していた。 かの研究所で行われていた行為――私情が混じらないとは言わないが、この世界の歪を表しているよう感じていた。 (……自分のやってきたことの報いは受けて貰わないとね) 「レイドさん、ナインは?」 戦場の緊迫ではなく、待ち合わせの場所に居ないけどトイレ? と聞いてるかのような気軽さ。 「あぁ、心配いらないよブレイク、あちらにはドミナとニッティを支援に向かわせている。それに今や彼も『戦の鍵束』の一員だ、一匹で十分なくらいさ」 「ドミナとニッティがいるなら安心だねー。でも、ナインさんっていつも以上に張り詰めてたよね。止める人がいないと大変? みたいな」 我が主は、惚けているようでなかなかに鋭い。 直感的に理解するというやつだろうかな? 『俺ハぶれいくノボケヲ止メテ欲シイネ』 「おっと、ラドさん。それさりげに酷くない」 まあ少しばかりの緊張感はもって欲しいと思わないではない。 ‡ ‡ §ブレイク・エルスノール ナインさんの研究所襲撃が始まると同時に、次々火の手が上がって久しぶりの魔法局の夜景は真っ赤に染まっていた。 なんだか、やるき満々のレイドさんを見てると少し肩をすくめてボヤいてしまう。 「帰属して早々、上層部に喧嘩売りに行くとか……。『戦の鍵束』に安息の時は、そう簡単には訪れないようだよブラザー」 『最初ッカラ覚悟ハシテタダロ?』 草臥れ感バッチリの態とらしい溜息をつくと、相棒であるラドがツッコミをくれる。 「せめて朝ごはんくらいまったり食べさせて下さい」 『今ハ夜ダゼ、ブラザー』 「僕が起きた時が朝なんだよ、ブラザー」 流石、ラド受け答えが解っているね。 「ブレイク……こういった指揮を僕が執るのはこれが最後だ。今後は、君に任せるよ。 なんせ君は魔法局至上最強の使い魔である僕を従えて、魔法局の長になる人間なのだから。 いつまでも使い魔の言いなりでは、局長らしく振る舞えないだろう?」 レイドさんはいつに無く生真面目な顔。 だから正直に感じていることを言った。 「うーん、レイドさんさ。正直あんまりピンと来ないんだよね僕が局長になるって話」 「ブレイク、前も言っただろう? 君には其の力も資格もある。それは僕が保証するって」 そりゃあ、僕だって『戦の鍵束』強くなることにだって、偉くなることにだって興味がないわけではないけど。 唐突な……んんー、もしかしてレイドさんの中では唐突じゃないのかな? 「さあ、ブレイク。お話の時間はもう終わりだよ、奴らが来たようだ」 あらら、残念ながら追求する時間はないようだね、また後で聞こうっと。 話の邪魔をしてくれたのは、魔法局の内部を徘徊しているマンファージっぽいなんか眼のやばい人。 それに向かってレイドさんは見得を切った。 「さて、今回はディラドゥアのやり方を見習うとするかな」 ディラドゥアさん?? あれ、もしかして? 「魔法局……我が主の地位を、意志を、尊厳を辱めたディラックの落とし子に対し情け容赦は必要ない。 一匹も残さず、抹消する。僕の逆鱗に触れたことを、後悔することが出来る時間を与えることすら、許さない」 ‡ 糸状に広がる閃光が人の形を引き裂き物体へと変えた。 痛みが神経に走る雷速より早く、無音で空間を渡るレイドの爪がマンファージを引き裂く。 細切れにされた肉片があげる飛沫を背にレイドが宣言する。 「今回仕掛けるこの戦い。我らが戦友ディラドゥアやヴィクトルが居る世界規模では、この程度は準備運動にもならないさ。そうだろう?」 珍しく興奮のような表情を見せる使い魔、その主はいつもの様に飄々としている。 「うん、0世界で教わったことをフルで活用すれば、朝飯前かもね」 (ディラドゥアさんやヴィクトルさんに比較したらそりゃねぇ……) 戦線はレイドの筋書き通り。 ナインらの陽動によって魔法局の護りは分散していた。 道を塞ぐのは僅かな魔導師達を除けば警備用の魔導兵のみ、ロストナンバーとして戦歴を重ねたレイドとブレイクにとって苦戦を強いるものではなかった。 たとえそれが元上司を乗っ取ったマンファージであったとしても。 「もしもーし、聞こえてますー? 僕のことわかるー? ダメかな?」 念のための確認というよりは、自分を納得させる言葉。 ロストナンバーとしての経験から既に上司は戻らないものと分かっている。 ――マンファージに囚われたものは絶大な力の代わりにその意志を喰われる 案の定、元上司の姿をしたマンファージはブレイクの姿を認めると異界の音声で威嚇し、魔力火炎を放出した。 その魔術、ロストナンバーとなる以前のブレイクの遥か高みに合ったはずの術は、瞬く間に霧散した。 『隙ダラケッテ奴ダナ』 魔力火炎の放出で視界がふさがった刹那。 天井ぎりぎりを飛んでいたラドの爪が元上司の首を跳ね飛ばしていた。 主我を失い、ぶるっと震えるマンファージの胴体、魔鍵砲の一撃が制御不能になった魔力火炎ごと塵に変えた。 辛うじて原型を留めたのは地面に転がる頭部。 切断された面から甲虫のような脚が生え、研究所の奥へ走り去っていく姿を見ながらブレイクは呟く。 「ほんと、朝飯前だね。実際食べてないしさ」 『饒舌ダナ、ブレイク』 「戦いにもなってないしね、さて、僕の上司にこんなことしてくれちゃって。 少し気合入れてもいいかもね、弔い合戦ってやつ?」 短い付き合いでしかなかった上司。 知っている人間の尊厳が損壊されている様は気持ちいいものではない。 いつも通り飄々とした口調の中に僅かな感情が滲んだ。 「レイドさん、僕、ちょっと使い魔の主っぽく振る舞っちゃおうかな」 灯りもなく黒く何をかも吸い込みそうな天井を見上げて宣するブレイク。 その心根を察したレイドは、主の前に膝をつき厳かに言葉を連ねた。 「ブレイク・エルスノール。 汝の忠実な使い魔、レイド・グローリーベル・エルスノールにご命令をお与え下さい。 使い魔は貴方の爪牙となりて、貴方の全ての敵を滅ぼしましょう」 レイドに倣うようにラドも膝をつきブレイクの指示を待つ。 天井から視線を降ろし上司であったものが逃げた先を、首魁であるマンファージが居るであろう魔法局の深奥を見据えるブレイクの表情は、戰場に立つ無表情。 「我が僕、レイド・グローリーベル・エルスノールに命じる。 敵はマンファージと化した元魔法局上層員。 彼等の意思、尊厳を守るため、一人も撃ち漏らすことなく殲滅せよ」 「……御意」 『…………御意ダゼ』 上意を受けて首肯した使い魔と下僕が立ち上がり、敵地を見据える。 「……やっぱ、しっくり来なーい。 レイドさんは敬語禁止、敬語が似合ってない使い魔ってなかなかレアだね。 破ったらラドみたく語尾にゃーの刑ね、僕はレイドさんの主なので」 戯けるブレイクの言葉に呆れやツッコミはない、通過儀礼は終わっていた。 レイドの言葉通り、最強の使い魔と従僕を引き連れ魔法局を揺るがす乱を収め行く処まで行くしか無い。 (……まぁ、なるようになるかなぁ) 彼の柔らかな思考は容易くそれを受け入れていた。 ‡ ‡ レイド・グローリーベル・エルスノールの計によって魔法局未曾有の危機・マンファージ事件は、見習い『戦の鍵束』であったブレイク・エルスノール率いる一団によって解決する形となる。 魔法局の権威を屋台骨から揺るがしかねない事件の内部事情は、表沙汰になることはなかった。 ただ当時の魔法局長は更迭され、ブレイク・エルスノールは異例の史上最年少魔法局長へと収まることとなる。 若くして魔法局長の座についたブレイクの代表的な功績は二つ上げられる。 一つはレイドの期待通りに、彼はこの世界の魔法の自由な発展に寄与し飛躍的な魔文明の向上に促した。 もう一つは使い魔の社会的地位の向上、彼は魔導師の良きパートナーとしての使い魔と呼ばれる存在に人同様の権利を保証した。 もっとも悲願していたナインがそれを見ることはなかった。対魔術兵器としての改造、そして無理矢理の解除は彼から長く生きる力を奪っていた。 ‡ ――そして三十年後 巨大な、そう艦船のような施設の中、高みにある席。 たっぷりとした白のローブを纏い、髭を蓄えた精悍な男が外を――虚空を眺める 世界にかかった枷を解いたものとして『鍵を解く者』の二つ名を贈り名されたブレイク・エルスノールは今まさに、旅立ちの時を迎えていた。 「母艦ラドヴァスター発進する。目標、虚空の戦場」 ブレイクの術が作り上げた超巨大ガーゴイルが咆哮をあげる。 最も苦労性のガーゴイルのことだ『人使イガ、荒イゼ』と言っているだけかもしれない。 空間を引き裂き、ガーゴイルの前方に現れるのは世界という星々が輝く虚無・ディラックの空。 かつての友ディラドゥアやヴィクトルの待つ虚空の戦場。 其の戦いを経て、彼の名は幾多の世界に鳴り響くこととなるがそれはまた別の話である。 ★ ★ ★ § クロード とある多国籍企業の不祥事。 近年、規律の緩い国に、廃棄物を捨てる企業が増えている。地元の役人は袖の下をつかまされれば口をつぐむ。――環境規制が守られていない工場の様子を撮影したカメラを抱えてクロードはジャンプした。 落とし子も、イグジストも、そして世界もなにもかも情報に還元される。 だから、0世界は情報を収集する図書館という形を取った。 情報を集める者があれば、逆に情報を届ける者もいる。 クロードはもとの世界に戻り、かつてそうであったように、ジャーナリストとして活動していた。 ロストナンバーであったころも世界群を冒険し、見聞きしたことをまとめ取捨選択して図書館に報告してきた。 「やっていることは変わらないか」 この企業も、表向きの清涼な印象にもかかわらず、地元有力者を抱き込んで違法な操業を行っていた。地場のギャングどもに武器の提供も行うことすらしている。 扉をくぐり、振り向きざまに手をふるう。 すると触れていないロッカーが倒れ、クロードの駆けてきた通路を塞いだ。追っ手の怒号が聞こえた。 クロードは、超能力――念力が使えるが、精神感応などと比べると情報の収集には向かないところがある。 しかし、クロードはあくまでジャーナリストであってスパイではない。ESPで手に入れたという主張されるネタより、足を使って手に入れ、裏付けのとれたネタの方が信用される。それもまた事実である。 ロストナンバーの冒険もそうだった。司書が予言をし、それがそのままに成就されるに任せるだけならば、わざわざ世界群を旅して事件に頭をつっこむことはないのだ。 クロードのペンを通してはじめて、情報は魂を得て、人々を動かすだけの物語となるのだ。 半開きの換気口に身を滑らせ、工場を脱する。 カメラと……汚水のサンプルをスリムなランニングバックパックにつめ、チャックを閉める。 リュックは摩耗に見せかけて交通安全用の反射テープがはがされていた。 そして、塀に向かって駆けだした。 水平の運動量をコンクリートを蹴って、垂直に変換。 一日取り分の高さを飛び上がり、ブロックの隙間に、指先引っかけた。 ここからがパルクールの次に身につけた技。 指に全体重を預けたまま、そこの薄い靴をあげ、つま先を薄く触れさせる。そして、ぐいっと重心を上方に移動。 作業を繰り返すのに要した時間はわずか十を数えるほど。クロードははしごでも届かないような塀を登り切った。 そして、報を届けるべき彼の世界へと躍り出た。 ★ ★ ★ 今日は、北極星座号がワールドエンズステーションから帰還した百九十八回目の記念日。 0世界は、偉大な先人の旅を記念する式典で賑わう最中であった。 ナラゴニアからターミナルを繋ぐ大通りには、恒例となった出店が並び、通りを賑やかす芸人たちが舞い飛ぶ。 往来を行き来する人の顔は笑顔が溢れ、彼らの上げる楽しげな声が0世界を包んでいる。 ――異変は唐突に起きた 不可思議な仕組みで光の途絶えることのない、0世界の大地が影に覆われる。 突然の異常にざわめく人々はその意味を把握できない。 せいぜい、今一番いいところなのにとテキ屋の親父が舌打ちをし、『何かのサプライズとかじゃない?』とデートをしていた少年が少し驚いた風の少女に笑いかけ、手を握るチャンスを逃さない、と言った反応があったくらい。 「あ、おっきなとりさぁーん」 舌っ足らずな幼女の声に反応して、親代わりのような壮年のロストナンバーが空を見上げた。 それは白く、そしてとてつもなく巨大な鳥の翼。 真っ直ぐに歪んだ翼が世界の果てまで、0世界の樹海の果てまで伸びている。 それは正視に耐えぬほど神々しさ放つと同時に吐き気を催す程の禍々しさを放っている。 それが何者であり、それが何を成したのか、その一瞬の出来事を理解できたものは極小数。 極わずかの超越的能力者達が絶望の誰何を上げるよりも早く。 マキシマムトレインウォーと呼ばれる人々の記憶から薄れた古き戦いより存在し、0世界の象徴であったイグシスト『世界樹』が巨大な火柱となって真っ二つに引き裂かれその存在を辞める。 ヒトは想像を超える事象を前にした時、一種の呆となる。 何が起きたか、それは一目瞭然であったが、認識が追いつかない。 イグシストは不滅ではない――それは明らかになっていた事実――だが、それが突如起きて誰が理解できると言うのか 呆然と止まった0世界に、先まで聞こえていた人々楽しそうな笑い声を何倍にもした楽しげな声が響く。 それを発したのは、巨大な薪が存在した場所に浮かぶ場違いな程に可憐な少女の姿。 「あはははははは、リーリス戻ってきたよ。 随分時間がかかっちゃったけど、ただいまみんな。 そうだ、ねえクゥまだ生きてる? 生きているなら、早く会いたいな」 それは図書館を追放され討伐されたはずの魔人――リーリス・キャロン 久しぶりの0世界を睥睨する魔人は、自分を見つめる人々の戸惑いの視線に満足気に嗤う。 「お祭り? みんな楽しそうね、だったらリーリスも仲間に入れて欲しいな。 そうだ! 楽しい楽しい鬼ごっこをしましょう。リーリスが皆を殺すから、みんなはリーリスを殺しに来て、素敵なパーティをはじめましょう」 本当に、本当に心の底から空恐ろしげなほどに楽しげな笑い。 その音色が大気を震わすと漣のように0世界の樹海が色を失い枯れ果て散る。 間違いなく『世界樹』は死んだ。 冬の訪れを思わせる赤茶けた葉が地面に触れた時、0世界に絶望の悲鳴と怒号が満ちた。 後に言うイグシスト・ウォー。 戦争の名を冠しながら、その体をなさぬ一人の魔人によって行われた虐殺事件。 北極星座号がワールドエンズステーションに到達し百九十八年が経過した0世界。 一方的な殺戮ショーが蓋をあけた。 ‡ 太陽のコロナの如き業炎が少女の体を焼き、世界の端から零れる瀑布を遥かに超える水流が少女の体を押しつぶす。 真空の刃が、隆起する大地の槍が少女を引き裂き、伝承に残る究極の剣が、すべての存在を塵に変える絶大な魔術が、世界ごと崩壊させかねない超兵器の一撃が魔人を襲う。 天地開闢を思わせる絶対的熱量――その中央で少女は嗤っている 如何なる魔術も、如何なる武器も、森羅万象の全てを持っても、イグシストを弑する程に強大な魔人を毛筋一つ傷つけることはできない。 「それで終わり? それじゃあ今度はリーリスの番。頑張って耐えてよね」 魔人は前に立つロストナンバー達が束ねる結界。 核の直撃にですら耐えるであろう金剛不壊の障壁を前に、魔人は思考した――頂きますと ただそれだけ、それだけの行為。 触れることすら無く、見ることすら無く、詠唱することすらなく。 ロストナンバーたちは塵すら残さず喰われ消失した。 異常な程に圧倒的な力。 追放された時であっても強力なリーリスだったが、それを塵芥と思わせるほどに絶大。 これ程の異常な力を如何にしてこれほどの力を手に入れるに至ったか――その理由は単純明快 ディラックの空に放逐され、図書館による旅客登録の剥奪され、消失の運命に晒されたリーリス。 トラベルギアの束縛から離れた魔人は、ディラックの空を漂いながら己に襲いかかる落とし子どもを捕食していた。 ディラックの落とし子は世界計の残骸。 喰らうとはその特質を吸収し奪い取ることに等しい。 すなわち幾多の世界計の残骸を喰らった魔人は己をイグシストと等しい存在に変質させていた。 ‡ ‡ 「あーあ、なんかもう期待はずれ」 災厄の始まりから一時間。 リーリスに立ち向かうものは既に疎らだった。 戦いの形式も満たさぬ一方的な虐殺。リーリスの前では、トラベルギアで制限されたロストナンバーの力など誤差に過ぎない。 少しでも彼女を傷つけることができたのは、機械人形が積載するディラックの落とし子の精髄を固めた劣化世界計弾とでも呼ぶべき兵器のみ。 しかし、それらもリーリスの攻撃に抗じることはできず消失する。 リーリスは溜息を付きながら、手をつないだ人間の残骸らしきものをそれと意識せずに踏みにじる。 (……折角戻ってきたのに、これじゃつまらない。もうチャイ=ブレを殺してヴォロスもブルーインブルーも壊して、壱番世界も壊してしまおう。あ、インヤンガイは最後ね、キサとの約束があるから……うん、もうそうしよう) 空を見上げ、世界を飛ぼうとした魔人を聞き覚えのある声が止めた。 「よお、元気そうじゃねえか、リーリス」 § ティーロ・ベラドンナ 「あら、ティーロのおじちゃん、お久しぶり。でも長生きってわけじゃないのね」 少女の顔が嬉しそうに華やいだ。 久しぶりの知己との再会を喜んで――いるわけではない。 彼女にそんな悟性はない。 「オレとっくに死んじまってるからなあ。こんな姿で悪りぃなあ。 フランの研究を見させてもらった時に、チャイ=ブレが本気で覚醒した時に合わせトリガー仕込んでたはずなんだけどよ……なんかお前さんに反応しちまったみたいだな。 ったく、折角のヒーローの登場が完全に台無しじゃねえか」 軽い笑いを浮かべながらも何故自分が此処にこのタイミングで現れたか、その理由はすぐに理解した。 風の精霊達がティーロの耳に囁いていた、0世界の惨状を。 チャイ=ブレが本気で覚醒した――それに等しいかそれ以上の危機が0世界に発生している 「フラン? 誰それ? いいわ、ティーロのおじちゃん。私と遊んで!」 リーリスが喜ぶ理由は、たった一つだけ。 ‡ 幽体のティーロ。 肉体という純然たる魔力を扱う上での束縛から解き放たれ、極短い時間であるが神の如き力を振るう。 ただ消失の定めを待つのみのその魂魄は、トラベルギアの制限もなくあらん限りの術を紡ぐことができた。 嵐が大気を切り裂き稲光が大地を剥ぎ取る。 風解する瓦礫が腐食性のある旋風を放ち、空間ごと敵を吹き飛ばす禁断の魔術をも唱える。 しかし、その魔導の秘奥を尽くした攻撃も魔人の前では蟷螂の斧に等しい。 ティーロが情報と補助を良くする魔導師で単独での戦いは得手ではないことを差し引いたとしても、圧倒的に力の差があった。 (せめてあいつがいればな…………クソ、俺としたことが……ぐっああああああ) 術と術の間隙をついて、幽体であるという法則にすら無視してたリーリスがティーロの喉を掴み、幾度も大地に打ち付ける。 体を伝わる魔力を削がれ、息も絶え絶えに見開いた視界。 「おしまいね、おじちゃん。力を失って消えるなんて許さない。ちゃんと食べてあげるからリーリスと一緒にいよ……」 覚悟を決めた瞬間――絶対の魔人の姿が大きくかしいだ。 リーリスの体に突き刺さり爆ぜるはクロスボウ・ボルト。 その射線の元にある姿は薄汚れた軍服姿――忘れようにも忘れられえぬ友の―― 「あれ、コタロのおじちゃんは死んでなかったの…………って違うね。あなた、誰? リーリスと殺し合いたいの?」 (そうだ……あいつは……カンダータに帰属して、とっくの昔に死んでいるはずだ……だったら、誰が) 返事の代わりにクロスボウの弦が再び鳴り、蹴り足が大地を叩く。 無言で地面を滑るように間合いを詰めるその姿、間違いのない戦友の動き。 はっきりと見えた懐かしいその顔の半分は、剥き出しの歯がついた銀の能面。 ――デウス……! だが、何故だ!? それは、カンダータの旧支配者にて世界計、ティーロが生を共にした超越者。 己が死んだ後、指輪が巡り巡って0世界に至ったのか? それはありえるかもしれない。 己を滅ぼす脅威を感じて戦いを挑んでいるのか。それもありえることだろう。 だが何故!? 何故その姿を象った。 奪ったことが有る姿だからか? 己を倒したものの姿だからか? ――あるいは 変な笑いが口を歪める。 ふと思い浮かんだ妄想を打ち消そうと考えやめた。 (いいさ、俺は俺が好きなように考える。俺が嬉しくなるように考えるさ あいつは、共に存在した俺を助けるために、その親友の姿を象った。 其れが一番の助けになると思って、俺に気を使ってくれてんだ、あのデウスがよ) 友の姿をしたデウスが、友がそうであった淡々と無謀にリーリスに挑む。 デウスは純然たる世界計、イグシストに等しい相手であっても戦いを挑むことができる。 魔力尽き果て体を消失させようとするティーロの前で、法則と事象を書き換えながら鬩ぎ合う超越者達は戦う。 (……リーリス、デウス。 ちっぽけな人間なんか生命体としての枠組みが違うあいつらとホントの意味で分かり合えるはずなんてなかった) リーリスの胸部が爆ぜ、空洞のような暗黒が露出する。 コタロを象るデウスの腕が消し飛んだ傷口からは金属欠片が舞い飛んだ。 (……それが、こうやって言葉を交わして、危機になりゃ現れてくれる。 無理して押し付けてんじゃねえかともおもってたけどよ……。 リーリス、最後に話せて嬉しかったぜ。デウス、俺と居るのは楽しかったか?) 薄れていく意識の中で笑みを刻むと残る魔力をかき集めて最後の術を解放する。 交錯する二つの姿が写真の中の絵のように止まった。 ティーロは其の姿を認めると口を笑みの形に歪め、風の中に消える。 そして、二度と姿を現すことはなかった。 ★ ★ ★ § 荒廃した0世界 0世界に再びリーリスという厄災が訪れた時のこと。 昔を知っている者達は恐怖に震え、または己を奮い立たせて戦いに赴いた。 多くが倒れ、傷ついた。 そんななか、モービル・オケアノスは荒廃したターミナルにいた。 今戦場は、チャイ=ブレの眠る0世界の深奥へと移動しつつあって、図書館の前は不思議な静けさに包まれていた。 永劫の昼は破られ、暗闇のなかディラックの遠くに幾万の世界が瞬いていた。 「私の世界はあの中にあるのだろうか」 0世界の間近からみえる世界の数は、8600個だという。竜人であるモービルは目が良いので、もう少し多くみえるが、自身は100も数えないうちに諦めた。 一つの世界が例えば一万年続くとしたら、0世界から見える星は毎年どれか一つが入れ替わることになる。 今みえる中にモービルの故郷は含まれない。 …… -9137461983726491763297169376491237649172639476 それがモービルの世界の番号。 いつか故郷を滅ぼす。 そう誓ってみたものの。100年を超える冒険の日々は想いを曖昧にさせる。 そもそもはっきりとは覚えていないのだ。 敬愛していた兄を奪った理不尽な世界と、非情な同族。神託や占いを通じて呼び起こした記憶はどことなく他人のように想えてしまうときがある。 それがどこにあるかはとうに判明している。ワールドエンドステーションにはそれだけの可能性があった。 混迷の大地はモービルが去ってからもあまり変化はなかった。殺伐としているにもかかわらず、変化は少ない。図書館は興味を示さず、それ以上の調査はモービルに一任された。 一つの世界を前にモービルの剣はあまりにちいさかった。 新たな世界をチャイ=ブレの関心から遠ざけるためにも、深入りは禁物とされた。――だから安心して良いのよ。壱番世界のようにはならないわ。――と。 モービルの嘆息は司書に誤解された。 その図書館も厄災に破壊された。 破壊された図書館の瓦礫に腰掛ける。 憎しみに身を浸した異形の怪物がうらやましい。自らにそれだけの執念があれば、あの世界くらいはとうに滅ぼせていただろうに。 そしてふと思い至る。 厄災は図書館を破壊し、司書も多くが戦死した。戦場はチャイ=ブレの元だ。モービルも馳せ参じることとなっていた。 「チャイ=ブレ……。イグジストの力があれば、私の世界を滅ぼすことも可能か」 その日以来モービルを見たものはいない。作戦行動中行方不明と記録された。 ‡ ‡ 厄災の混乱を好機として行動した者は他にもいた。 エータは風に飛ばされたぼろきれのように崩壊した図書館を漂っている。 そして、すっと図書館の閉架に紛れて消えた。 不自然だ。 彼は、イグジストの秘密に迫ろうとしていた。 「目的はワタシが『赤の王』になること」 普段は司書に邪魔されて入り込めないが、いまはみな厄災との戦いに出払っている。 かのワーム『赤の王』はエータに数多くの示唆を残した。 赤の王はチャイ=ブレの細胞から生まれ、ロストナンバーの収集した情報を保有し、具現化することが出来た。そして、世界樹の性質も持ち合わせていた。 「ディラックの研究については知らないことの方が多いけど、ディラックの詩編やヘンリー、チャイ=ブレに情報が残ってるはず。他のイグシストのところに同じような研究や情報もあるかもしれないしね」 世界樹とチャイ=ブレ、イグジストは融合し、赤の王を分離することも出来た。 ワームは分離と融合が出来る有機体なのだ。 そして、情報は複製されうる。 ワームですら、ヴォルコフ限界を超えるだけの情報を収拾すればイグジストとなり得るならば……ロストナンバーでもできないはずが無い。 世界の理から切り離されている点では同じだからである。 厳重に閉ざされているはずの禁書書庫に通じる扉は、軋み歪んでいた。 尋常ならざる材質も厄災の前にはもろい。 イグジストに準ずる力があれば、むしろたやすいこと。 エータはすっと隙間に潜り込んだ。 「これが成功すればイグシストがいても悪くなくなると思うんだよね。ディラックは世界群の把握と世界の創造が可能になるって言ってた」 世界群の秘密はロストナンバー達がワールドエンドステーションに辿り着くことによって、多くが解明された。 世界計があれば世界も創造できる。 「世界の創造がどれくらい制御できるかはわからないけど、もしかしたら何も犠牲にならない、ディラックの落とし子にあげるための世界が作れるかもしれない」 ワールドオーダーによる世界の創造は危機と戦うには遅い。 それを加速する手段が欲しい。 「……ワタシが『世界群の把握』をやりたいからってわけじゃないんだよ?」 ディラックは壱番世界を滅ぼさなくてもできるとも言ってた。 「チャイ=ブレが壱番世界を吸収しようとしたのは、情報が必要だっんじゃないかな」 ならば、今は世界を消す必要はなくなったと言える。他のヒトが情報を用意してくれてるんだから。 かつて世界樹であったものの沈黙も、それにならってのことだろう。 「チャイ=ブレも世界樹も残ってて、しかも壱番世界を超えるほどの情報量が集まってる今、実験は良いコトだよね。 他の世界から遠いときにチャイ=ブレに近づいて、世界樹のモノをあげるだけ。 良かったらイグシストを消さなくても悪くなくなるし、ワタシは世界群の全てを知れる。 悪かったら……きっと他のヒト達が良くしてくれるよ。ロストナンバーは何でもできるからね」 エータは一冊の本を開いた。 マントから触手が伸び、ページをなぞる。 本は書かれた光景を幻視させ、エータは情報の洪水に曝された。 夢幻の心臓は鼓動し、百を超える色の虹を放つ。 そして、輝きが収まったとき、古びたマントだけがその場に残された。 それもやがて砂のように消えていった。 ★ ★ ★ § 0世界 0001 ロストレイル発着場 北極星座号が果ての駅に至ってから一年足らず。 生まれ育った世界を発見した者達、旅の終着に満足した者達が0世界を離れ、己のあるべき場所へと帰属し姿を消していく。 0世界のロストレイル号発着場では、大きな荷物を抱え、0世界に別れを告げるものと彼らを見送るもの達の最後の逢瀬がしばしば見られた。 はじまりはそんな風景の一つ―― 「お見送りありがとうございます。 ルイス・ヴォルフ……いや、ルイス評議員候補殿と呼んだほうがいいでしょうか?」 『いつも通り、おちゃめなルイスさんでいいぜ』 別れを告げる穏やかな表情の少年――冷泉律が、そんな風に呼んだことなんて無いよと笑みを浮かべる。 長い毛並みを揺らす白狼――ルイス・ヴォルフは歯茎をむき出しにして、悪戯小僧のような表情で笑いを返す。狼にしては人間的な笑みは、冷泉律の横で色違いのボストンバック(荷物持ちじゃんけんに負けたらしい)を抱えた少年――桐島怜生の表情に何故かよく似ている。 「それでは、ルイスさんロストレイル号がそろそろ来ます。後のことは……」 0世界での生活に見切りをつけた律だが、一つだけ心残りがあった。 今は休眠しているがいずれ目覚め壱番世界を――生まれ育った世界を喰らうであろうチャイ=ブレの存在。 悩む猶予は余りなかった。今しばらく時間が立てば、実際の年齢と止まった年齢との間に塞ぎきれない乖離が発生し、壱番世界の、ただの極普通の日本人に戻ることはできなくなる。 既に身寄りのない自分は、それでもチャイ=ブレとの戦いに身を投じてもいいのではないかと思うこともあった。 しかし、怜生は違う。あいつは俺が残ると言えば残ってしまう、そういう奴だ。 大恩ある桐島の家族を引き裂くようなことはできない ――律は帰るんだろ? 『チャイ=ブレのこととか、しち面倒くせーことは俺達に任せな』 帰属を後押ししたのは、他ならぬ親友の何気ない一言だった。 ルイスの書き言葉が、何故か親友の台詞と重なる。 『冷泉律、おまえは壱番世界に帰り、ただの人として生きるんだ。 もう世界群だの、ディラックの空だの、世界計だの、イグシストだの、そんなことは忘れちまえ。 長い夢みたいなもんだ。お前が壱番世界で生きる現実の中で泡沫のように崩れて消える』 「ありがとう、ルイス。でも、俺はそう思わない。 たとえ当たり前の日々の中で記憶が埋もれていっても、刻まれた経験はずっと俺の血肉になって残る」 首を振る少年に白狼は一つ頷く。 0世界の空に汽笛が響く、別れの時が来た。 「それじゃあルイス、いく健やかに」 武の道を生きる少年は、背筋の伸びた綺麗な礼をし、二度とは振り返らずに親友と共に0世界を後にする。 「なあ律、今日はうち来ねえか? おふくろ達に久しぶりに帰るって言ってあるからよ。ご馳走だってさ」 「そうか、勿論お邪魔でなければ。楽しみだな。おばさんの料理を食べるのも久しぶりだね」 ――律……すまん ルイスの心に無意識に響く声。 こういう時、ロストナンバーと化し自我が生まれ、人に近くなってしまった我が身を疎ましく思わないでもない。 ‡ ルイス・ヴォルフという存在にとって、冷泉律との約束は極めて大きいものである。 それは『ルイス』の魂魄が持つ因果の鎖であり、同質の存在である桐島怜生の意志の反映である。 『約束』――チャイ=ブレの打倒、そして其れに連なる様々事象への対処 「そもそも、世界図書館は強大な存在であるチャイ=ブレからの己達の生命を護るためにファミリーという団体を母体とした機関だ。 その根幹はチャイ=ブレから提供された、いや貸与された技術が成している。 もし、チャイ=ブレが活動を開始し、世界図書館を無用と判断すれば、瞬く間に世界図書館のシステムは崩壊に違いない。 過去どうであったかなんてのはどうでもいい。誰だって、その時できた最善を尽くしてきたはずだ。 しかし、今、果ての駅に至った俺達は、新たな最善を選べるはず。 13人委員会が1人ルイス・ヴォルフは宣誓するぜ。 世界図書館をイグシストに頼らないロストナンバー互助機関として成立させる」 急進的脱イグシスト主義を唱え、13人委員会のメンバーとなったルイス・ヴォルフ。 お茶目なわんわんである(自称)ルイス。その実、意外な程に優秀かつ実行力のある政治家であった。 世界図書館の政治において最も問題となるのは、多元世界を生きる種々様々な生き物たちの常識・価値観の違いである。 幾つもの世界の集合的無意識であるルイスは其の点に於いて極めて有利であった。 力あるものが望まない束縛を理解し、超常存在にありがちな力なきものを蔑ろにする態度もなければ、弱き者が互助するための組織という存在の必要性を理解できる。 幾百の生命が持つ概念を理解できるルイスが票を集めることができたのは、ある意味当然と言えた。 己の主張を耳聞こえ良い言葉に変えて利を説く。 しかし、ただそれだけでは彼はただのいい人でしかなく、茫洋なまま議席を追われただろう。 ルイス・ヴォルフという存在は、政治と言う概念を知悉していた。 直接選挙による政治とは、自分を支援者するものに対してどれだけ利益を与えられるかが肝である。 どんなに素晴らしく高潔な思想でも多くの共感者や支援者が居なければ、実行することはできない。 ルイスの主張はあくまで脱イグシストだが、それを強く主張することで取り込める支援者は限られている。 大多数の日和見て生きる者達に大望は決して響かない。見えぬ敵よりも明日の食事、当然すぎるといえば当然すぎる話。かつてのファミリーがそうであったように。 そこで彼が使ったのがギベオンである。 ルイスはギベオンでの研究を助成し技術革新という形で0世界での生活に利益を提供した。 ワールズエンドステーションでの情報収集を元に協力者達が集めた資材を提供し、高速な移動手段や食料増産技術、世界のデータベース化と言った事業を行いロストナンバーに利益を与えることで支援者を増やす。 会派を、作り票を集め、権力を手中にするルイスは、そのバックボーンであるギベオンの予算を大きく確保。 またその成果をアピールすることで、優秀な人材を集め、学術世界化を行い、研究を後押しする。 そして、より過ごしやすい0世界という名目の元に図書館の権能をイグシストに依存しない形に塗り替えていった。 それは、トラベルギアより優秀な武具であり、トラベラーズノートよりも便利な意志伝達手段であり、パスホルダーよりも簡易な存在保証。 そして、ナレッジキューブに変わる代替燃料の発明、流転機関に変わるロストレイル号の運行機関の発見、より小さな規模で扱える世界航行手段の確立。 百年も跨がぬうちに、幾多の発明がなされ世界図書館は様変わりをしていく。 またルイスは、ナラゴニアの取り込みも率先して進める。目的は資材としての世界樹。 彼らの取り込みは比較的容易であった。旧世界樹旅団は世界樹――イグシストによって望まぬ覚醒を遂げたものも多く、ルイスが彼らにイグシストに関わらない存在保証を与えることで自分の支援者として取り込むことができた。 目的のある行為であるが、確実にルイスの政治力はナラゴニアに浸透し、13人委員会のナラゴニア代表の議席を会派のものとして行く。 もっともその権勢は彼を快く思わないものを増やし、特に世界樹司祭復活に伴い再興した世界樹原理主義者達からは命を付け狙われるようになった。 ‡ ‡ § ギベオン 0010 フラン私邸 家主の性格が現れたこざっぱりとした客間。 部屋の中央にあるテーブルの傍らに立つ紳士然とした男――ラグレスは、見えに相応しい渋みのある声で朗々と弁舌を述べ立てていた。 「端末の常駐を提案した際のフラン嬢の表情と言葉。 やはり、嘗て私が齎した世界樹情報は瑣事であり、大きく期待を損なったと猛省すべきところでございましょう。 北極星座号の伝達せし、イグシスト廃棄超弩級作戦。其の備えを前に私の稚拙な思考など追い付きはしませぬ」 悔恨を現すのか、大仰に首を振り掌で表情を覆い隠すラグレス。 かなり引き攣った表情で話を聞く家主は、飲み下した紅茶の失われた熱に過ぎ去った時間を実感する。 (もう二時間も話しているし……そろそろ……) なんとか切れ目をつけようとツッコミを探したフランが言の葉を舌に載せる前に、再びラグレスはバリトンを響かせた。 「いやいや、違いますぞ、我が身にも未だやるべきことが有りましょう。 万象を吸収し再構成する我が身の特性は情報の保全に有用と省みた次第。 ルイス委員やアヴァロン殿の要望も私の特性を使用すれば瞬く間に成就すること請け合い。 何より食欲と直結せし知識欲も豊潤なる恵みに与れ一挙両得 さすれば、私めは早速幾多の世界に旅立ちます故、暫しお別れに御座います。 しかしながらフラン嬢、長く旅立ちます故、最新情報は我が端末にて更新させて頂きたく。 『此処』に端末の常駐を強く推奨しますが如何に」 「い・や・で・す」 彼氏がその表情を見たらなんというだろうか。 我慢しすぎて頬が変な痙攣を起こしている。 「嫌です……と? おお何ということ、我が愚見はここまでフラン嬢の期待を裏切って居たとは、そうではない? このラグレス、ようやく合点に至りましたぞ。 人型である私の分体が部屋に居ては落ち着かぬというのでございましょう? ご要望とあらば物に徹した兄に習い記憶装置の外観を気取るも善き哉」 フランの返事も待たずに勝手に納得したラグレスは、ニョロリと脚元から分体を生み出す。 ラグレスと瓜二つのその姿は、瞬く間にピコピコと光を明滅させる機械に姿を変じた。 「それではフラン嬢、暫しのお別れで御座います」 慇懃無礼とも言える程の完璧な礼儀に叶った、うやうやしい態度でラグレスはフランの家から辞する。 完全に疲れきった表情の少女は何事か言いただけに誰も居ない扉を眺めているが諦めて大きな、本当に大きな溜息を付く。 「………………」 彼の能力の有益性はよく理解している。 同じものが作れるということが、どれほど科学研究において重要なことであるかなど言うまでもない。 それに、何の係累もないのに、協力を申し出てくれた人なのだ、感謝してしきれない……のだが。 一般常識から大きく乖離した性格と行動は何というか付き合いづらい。その行動が善意であると分かれば分かるほどに。 (人呼べなくなるから……研究室において欲しいだけなんだけどなぁ……) そう思って再び溜息をつき記憶装置へと完全に擬態して、微動だにしなくなった分体ラグレスを両手で抱えようとするが、微動だにしない 「ちょ……何これ、重い……」 どんなに踏ん張っても、床が痛むのも諦めて強く押してもぴくりとも動かないラグレス。 泣きそうな顔でペタンと座り込んだフランの腹部に痛烈な痛みが走る。 「……痛たた、お腹……痛い……」 ――神経性胃炎 この先、彼女は奇妙な協力者達に対して達観した意識を持てるようになるまで胃薬を手放すことができなくなった。 ‡ ワールズエンドステーションのもつデータベースは、人の扱える認識の限界故か散漫で求めるものことが困難。 唯一性の高いと思えるような検索クエリを投げ込んでも、万単位のオーダでレスポンスが帰ってきてしまう。 一つの世界を探索する時間を鑑みれば、ワールズエンドステーションを使用して情報を調べあげる行為は現実的でない時間がかかる。 条件を組み合わせることでより詳細に目的世界を絞るものも居たがラグレスは違った。 万世界があるならば、万の分体を派遣すればいい。 億世界があるならば、億の分体を派遣すればいい。 情報というエネルギーが増えれば増えるだけ、止めどもなく分体を増やせるラグレスにとってそれは可能な行為。 世界運航をする新型ロストレイル号のモデル機を喰らったラグレスはそれを実行に移した。 幾星霜の世界を渡り、知識欲のままに情報を貪り、得られたデータを全てギベオンの記憶端末に流し、必要とあればコピーを生み出す。 ギベオンの研究者達は研究成果をラグレスへフィードバックし、ラグレスはさらなる探索と情報収集に努める。 無限に増える分体から集まる情報を吸収したラグレスの肉体は飽和し、最も吸収に適した形に変異を遂げる。 真なる世界計に張り付く巨大な軟体生物。それが今のラグレスの姿。 ある種、イグシストすら超える多重情報体となりつつあったラグレスは無限の情報を貪りながら夢想に浸る。 もはやこの私を完全に消滅せしめるは覚醒の代償、消滅の定めのみでござましょう。 我が身、危機に瀕すれど世界を跨ぎ、分体を散じさせれば残存する事請合い 情報遺失や存在断絶の回避に複製や模倣子の数がものを言うは古今東西普遍の理 不滅と謳われたイグジストでさえ今や消去可能と目される始末 無常を知るが故に細胞は分裂生物は生殖にて存続に腐心して来たのですから ★ ★ ★ § ディラックの空のどこか 北極星号の冒険以来、0世界に戻ってこなくなったロストナンバーも多い。 超越者達である。 彼らにとって0世界は余りに狭い。厄災によって荒廃してからはなおさらである。 そして、来たるべきチャイ=ブレとの決戦に備えてそれぞれが世界群のまだ見ぬ彼方に潜伏した。 あるいはラグレスのようにワールドエンドステーションを拠点とした。 ――機知路線から遠く離れた世界群の那由多 機知路線から離れる方法は二つ、 一つは、ロストレイルに取って代わる航行装置を開発すること。流転機関相当のエンジンを作成、入手できれば可能である。 これはワールドエンドステーションであればたやすい。ギベオンにおいても実現された。 メンタピはこの手段を採用。 宇宙戦艦と言うべき艦艇が次々とディラックの空に推進した。 そして、今ひとつは、より危険だが、確実にチャイ=ブレの監視から逃れられる方法。 孤独な方法でもある。 ヴェンニフ隆樹は一つの遠征の帰路にあった。 巨大な竜は、満腹し、大きく腹部を膨らませていた。 その頭上に小さく、隆樹が座している。 「僕の影もずいぶんでかくなったものだ」 皮肉な口調に、表情は乾いていた。 倒錯した主従関係。 ヴェンニフは今や、一つの世界に匹敵する大きさがあった。 隆樹が生身でディラックの空に打坐できるのも影の竜のちからあってこそだ。 吐息は虚空に霧消する。 ディラックの空を渡る第二の方法。ワームの力をもちいること。 ヴェンニフ隆樹はいくつものワームを駆逐し、その断末魔を捕食した。 いまやイグジストに準ずる存在に肥大した竜に比して、少年はあまりに矮小。 物理的な大きさと、精神の大きさは別物という勿れ。 ワームの大きさは、含有する情報量に比例するというのが最近の研究である。 瞬きをする。 再び目を開くと、隆樹は石木からなる林にあった。 否、石木は墓跡であった。銘は読み取れない。 生命の痕跡は見えなかった。 魂が失われた世界の言語をロストナンバーは読み取れない。 これは滅んだ世界。ヴェンニフの世界。 「この世界もなにも無いな」 ……ワタシニハ、美味 そびえ立つ一つ一つが世界の墓標。足下を敷き詰めるがれきはワームの残骸。 「僕は、食べるということを忘れてしまったよ」 幾多の世界を駆け回った。ワールドオーダーの言葉、可能性を探し、落とし子を単独で活動不能状態に持ち込める力を付けた。 滅んだ後の世界をみつけ、その残照を喰らい力を取り込む手段を手に入れたことから始まった。 初めは世界1つ、そして小さな落とし子から。1つ取り込んでしまえば、世界を内包しているということで存在を保て虚無の中を自由に移動できた。 かつて、叢雲がそうであったように、自身もワームとなればディラックの空を渡れる。 2つ、3つと、落とし子の大きさ、強さも増していき、ワールドエンドステーションに運ぶ回数も増えた。 今なら、叢雲はもちろんのこと、 ……隆樹、退屈カ? ワームでいられるヴォルコフ限界はもう目の前だ。 ……ナラコノ世界ノ断末魔ヲ、オマエニ聴カセテヤロウ ★ ★ ★ § ギベオン 0025 ギベオンの一角にあるその研究所は色々な意味で有名な研究所であった。 エイブラム研究所―― 隠されている秘密をみれば暴き立てずには居られないクリミナルハッカー。 美しい女とみれば口説き立てずには居られないヘドニズム。 0世界を起点とする全世界群において軽犯罪起訴事案のレコードホルダーであるエイブラム・レイセンが構える研究所。 彼は長く未知の存在であったイグシストの秘密を暴くためにギベオンに居を構え研究生活に没頭していた。 「エイブラムさん……」 機械の排熱音が与える不快な振動の中に女性の声が響く、エイブラム研究所の中では珍しいことではない。 灯りの落ちた暗い部屋の中、一抱えはありそうな巨大なケーブルマネージャを椅子代わりにしたフランが呟く。 膝の上のモバイル端末上に流れる凄まじい量のデータ、ぼんやりとした灯りがフランの眼鏡に写り込んでいた。 「……やはり其の答えしかありませんか」 「ああ……」 返事は球体――壱番世界のアニメでも出てきそうなロボットのコクピットに酷似した――から聞こえた。 「……どんなに検証結果を眺めても同じ答えしかねえぜ。イグシストに変わるシステム。 トラベルギアとかトラベラーズノートつう世界群に関わる物体の代替品を作るには、世界計を使うしかねえ」 空気の抜ける小さな音と共に声の主が姿を現す。 普段は面倒臭がって擬体に応対させているが、所長が、いや女性が相手とあっては本人が姿を表さない道理はない。 インドア派にもかかわらず筋肉質に日焼けした肌。 ピッタリとしたラバーパンツを晒すエイブラム。 「そうですか……」 セクハラまがい、いやセクハラそのものの姿を見てもフランは眉根一つ動かさない。 エイブラムさすがに半裸を見せた程度でどうこうとは思っていない。 フランの横に座ったエイブラムは、端末の入力を奪い参考データを表示させる。 「と言っても世界計のままじゃダメだぜ、力がありすぎてまともに扱えねえ。 世界繭を形成させず落とし子にしてから回収するか……何らかの手段で砕くか、まあそんなところだ」 データを眺めながら少し俯き加減になったフランが唇を噛んでいる。 その表情を見せることの意味は、共同研究者として二十年以上の付き合いになったエイブラムは良く理解していた。 「気に入らねえか、何でだ?」 「そうですね……正直なところ嫌悪を感じています。 直観的な言い方で申し訳ないですが、生まれたばかりの世界を恣意で壊す行為が気持ち悪いです」 考えても見なかった意見に、一瞬キョトンとしたエイブラムが馬鹿笑いした。 「はっ! なんだそりゃ。恋人探しに世界を一つぶっ潰そうとしたあんたが今更なんだってんだ。 まっ、嫌ならやめちまえよ、研究は俺が引き継ぐ」 端末と少女の間に顔を突っ込み、ゴーグル越しに睨めつけるエイブラム。 「自分のやって来たこと、やるべきことは重々認識しています。すでに、多くの人を巻き込んでおきながら今更投げ出す気はありません。 自分が育てた家畜を初めて屠殺するとき感じるような感傷です、すぐに慣れます」 眼鏡越しにエイブラムを見つめる視線に揺れはない。 「そうしてくれ、少なくとも俺はあんたの能力は評価している、この研究を続けるには必要だ」 コクリと頷こうとした少女の顎に、エイブラムの指が触れる。 「ついでに、体のほうも評価してえからその気になったら、何時でも言ってくれ」 「……それでは、計画をプレゼンテーション資料に纏めて、ルイスさんに打診しますのでデータを送付してください。 後、エイブラムさん……これは所長としての勧告です。 公序良俗に反するなと堅いことを言うつもりはありませんが、程々にお願いします。 ギベオンに娘を出すと手つきになって返ってくるでは、我々を助成してくれる方々に申し訳が立たなくなります。 私も貴方のことをかけがえの無い研究パートナーだと思っておりますので……残念なことにしたくはありません」 ‡ ‡ § ギベオン 0040 イグシスト研究が始まり41年、世界計をエネルギー核として使う壱号研究がついに完成した。 通常の物質ではまともに耐えることのできない超エネルギー塊である世界計の破片が安定運用可能となった背景は、アヴァロン・Oが提供したWDGと呼ばれる技術であった。 賢者の石・ミスリルといった魔術的構成物質の科学的解析が、物理的手段では計り得なかった概念をデータとして捉えることを可能とし、概念構成物質である『エーテル』を発見するに至る。 これは壱番世界でいうところの量子コンピューターのように曖昧なカオス観測を許すことになり、ギベオンの研究発展に新たなる地平を齎すことになる。 ‡ ‡ § 0世界 0050 北極星座号の帰還からはや五十年。 冷泉律と共に壱番世界に帰属したはずだった桐島怜生は、その日ターミナルに移住して来た。 「親友をだまくらかして再帰属させるたぁ、人が悪いじゃねえか、え」 『怜生も考えあってのことだろう……ちゃんと別れは告げたのか?』 世界図書館を代表する政治家として、ギベオンの研究者として――対チャイ=ブレの同士として、その地位を固めていたルイスとエイブラムが笑いながら怜生を迎え入れる。 「ああ、つか再帰属しないってのはすぐにバレちまったよ。そりゃまあ、五年も経てばなぁ」 ‡ § 壱番世界 0005 怜生の記憶 『怜生。怜生が壱番世界へ帰らないのは、おまえの意志だから構わない……でも理由だけは教えてくれ』 少年から青年となり幼さが消え、凛々しさの増した親友。五年前から変わらず、少年のままの怜生。 『律。すまん、やっぱ俺は、チャイ=ブレとかを忘れて生きることはできそうもない』 『そうか……一言相談してくれれば』 『……これは俺の生き方だ。律を巻き込めない。律は再帰属して普通の人として生きることに決めたんだろ? 冷泉の家を存続させる……それがお前の選んだお前の生きる道だろ』 (冷泉の家を存続させる……か) ――帰属の理由を問われた時、何時も答えていた本当で嘘の言葉。 何故、本心を伝えなかったのか、それはもはや今更だ。 『ああ……』 短い会話だったが長年の親友達は、それだからこそ己達の道がすでに覆らないことを悟っていた。 背を向けて立ち去ろうとした怜生に、律が投げつけた何か。 開いた掌の中には小さなコンパス、一方向しか指し示すことのできない――壊れた 『道に思い悩んだ時、進むことを躊躇った時、これを見るんだ。 もう俺はおまえの指標にはなれない。これを代わりにするんだ。答えは、常にお前が見ている先にある』 律は俺の性根をよく知っていた。 どんなに道に惑うとも律が居れば、律と一緒なら正しい道が見えた。 それは今日なくなるのだ。 『……ありがとう律。大事にするぜ、じゃあな』 『怜生、今までありがとう――』 続く言葉が、親友の口にした最後の言葉――最後の約束 ――今度、ターミナルで会った時は、遅れてごめんって言うよ 再帰属したものが再び覚醒することはありえない。 そう――ありえない、しかし律は嘘を言ったことはない。 世界の法則と律の言葉。どちらが天秤を傾ける重さを持つかなど問うまでもなかった。 ‡ 「四十五年も前の話じゃんか。とっととと帰ってこいよ、センチメンタル・ジャーニーでも気取ったか?」 「煩いな……」 馴れ馴れしく肩に手を回してくるエイブラムの手を怜生は打ち払った。 ‡ ターミナルへ移住した桐島怜生は、エイブラム、ルイスらと共に精力的に活動を始める。 13人委員会への出馬、ロストナンバーの協力者を募り、ファミリーへの監視体制を強化する。 我武者羅に体を鍛え上げトラベルギアに変わる武器の被験者になる。 全てはチャイ=ブレとの戦いへの備え。 もっともコンダクターでかつ、脳筋な怜生にできることは限られていた。 「世界計使用率3%……凄いですね桐島さん! コンダクターでこの出力を扱える人はいませんよ」 「10%だ」 「10%!? 馬鹿なことを言わないでください。強力なツーリストでようやく扱えるかってレベルですよ、コンダクターが持ったら情報量に耐え切れず消滅してしまいます」 「いいから、渡すんだ……ぬ、ぐ、おおおおおおおおおおお」 「シミュレータレベルをあげます……ほんとにいいんですよね? いくらシミュレータと言っても感じる痛みは本物同然ですし、最悪ショック死するかもしれませんからね?」 「大丈夫だ、俺が死んでも君の責任にはしないと念書書く」 「そういう意味じゃないんですけど……シミュレータHELLレベルで起動。 はい、準備できました。ニーズヘッグ100%再現型と単独戦闘、無理そうならすぐに言ってくださいね」 無茶を歯止めする、あるいは乗ってくる親友も居ない中、怜生は己の体の限界に挑みつづけた。 何度も死にかけ、友人に強化改造を勧められるが頑なにコンダクターであることにこだわり続けた。 人としての矜持、そして其れとともに―― そんなんになったら、あいつが帰ってきた時に俺だってわかんねえだろうが…… 桐島怜生は、ひたすらにひたすらにひたすらに、コンパスだけ見続けて、その先に何が在るか分からなくなってもただひたすらに進む。 針の回らぬ壊れたコンパスは、回らぬ時計のようにただ一方だけを指し示す。 ‡ ‡ § ギベオン 0050 前館長との接触、ワールズエンドステーションへの訪問。 北極星座号の帰還は世界の秘奥に関わる幾多の情報をロストナンバー達に与えた。 其の中でも大きな情報の一つがイグシストの成り立ちとそれを滅ぼす手段である。 「滅ぼす手段が存在する、それは必ず滅びるということ」 北極星座号への旅を始めた時には、全く殊することのなかった小さな世界。 鉄隕石の名を関するその世界――工事中の喧しい音ばかり鳴り響くギベオンの市街を散歩する女が呟く。 些か性根とは乖離した白一色のドレス、『幸せ』と呼ばれる魔女が蹴り飛ばした石が、たまたま開いていた窓から研究室に入り込み、原因不明の故障をしていた機械を起動させる。 部屋の中から聞こえた歓声にクスクスと笑いながら女は考える。 「今はその手段が無くても、きっと遠い将来イグシストは倒される」 そう、きっと―― この世界は遠くない未来、間違いなくチャイ=ブレを倒す力を備えるでしょう ではチャイ=ブレが消滅した時、0世界はどうなるのかしら? 0世界はチャイ=ブレの創造する世界。主が消滅すれば、同時に消滅するのではないかしら? そうでなくてもチャイ=ブレに記憶を捧げた司書達は、あの世界のチェンバーに隠遁したもの達は無事では済まない……のでは? 思索の場所は、いつの間にか地面は舗装されて居ない土。 腕組みをして空を眺める幸せの魔女は、己の頬をトントンと二回、指先で触れた。 それはちょっと幸せとは言えない結末。 0世界には友誼を結んだ人がたくさんいる。 特に食べてしまいたいくらい可愛い子が減ってしまうのは、許しがたい全世界群の不幸である。 幸せの魔女はいずれ訪れるであろう0世界の消滅に備えあることを計画していた。 それは途方も無い野放図、幸せな魔女と揶揄されても仕方ない常人の埒外。 【新生0世界移住計画】 荒唐無稽な思想は、イグシストを研究することを求める人々が集まったギベオンにおいては否定されることはない。 ‡ アクリルパネルのような光沢のある板から伸びるケーブルが、白一色のドレス姿の可憐な女性が付ける些か大きく不格好な黒いヘアバンドに繋がっている。 その女性――幸せの魔女が言葉を紡ぐ度に板の表面に不可思議に絵面が浮かんでは消える。 アクリルパネル――ワンマインドと呼ばれるこの器具は、種族差や世界差における思考や概念の違いを機械的に吸収し、誤解なく意志の伝達を行うツール。 ルイス・ヴォルフによって提唱する脱チャイ=ブレ体制において、トラベルギアに変わるロストナンバーのための道具として考案されたものである。 完全な完成には程遠く、巨大な演算機械を使用してもデバイスに接続された人物の思考を誤解の無い映像として表現するのが限界であるが、殊会議に於いては極めて重宝する道具。 その発明にはアヴァロン・OのWDGシステムをベースとした霊子演算機構が大きく寄与しているがここでは詳細に述べない。 『すでに何回か話している内容ですけど……ゼロさんという不条理な存在は0世界の在り方と非常に酷似しているわ。もし、ゼロさんの特性を受け継ぐ世界が生まれたとなれば、その世界はゼロ世界……即ち0世界となるはず。私の全ての魔力を使って、ゼロさんの作る0世界が幸運にもほぼ100%の確立で、とても少ない周期で誕生するようにするわ』 「ゼロは、ワールドオーダーさんに色々聞いて、皆さんに都合のよいベストなゼロ世界を作るのです」 幸せの魔女を乳白とするなら、純白の衣装に身を包む子供。 0世界の小さな女神ことゼロが、魔女の言葉をついで飛び跳ねながら意気込みを語る。 『そして私は、魔力の提供に注力するために深い眠りにつく……そして、ゼロさんとゼロ世界の完成に幸運を供給し続ける。 その間の保証をして欲しいというのが私のお願い。余りにも可憐な私の寝姿を見たら、何も知らない王子様がキスで目覚めさせてしまうかもしれないから』 ニッコリと微笑む幸せの魔女。 冗談交じりと思える発言もワンマインドの映像が彼女が心の底からそう思っていることを教えてくれる。 「幸せの魔女さん。ギベオンの研究所長として貴女の計画への協力はお約束します。 私が責任をもって、安心して御休出来る施設を提供します」 『ありがとう。それじゃあ、一つ要望を加えていいかしら? 所長さんがたまに添い寝してくれない? そうしたら、私とーても安心して眠れると思うわ』 ワンマインドは、幸せの魔女の赤裸々な妄想もそのまま誤解なく映しだす。 残念ながら、まだまだ改良の余地が多いシステムであった。 ‡ § ワールズエンドステーション 0051 幸せの魔女が、無垢な衣装に身を包むゼロの手を引く。 軽やかな足取りで神父が待つ聖堂の祭壇――ではなく、不可思議なワールドオーダーの護る、世界計のコントローラーへ。 「さあ、ゼロさん。二人の初めての共同作業よ」 「はい、なのです。健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、幸せの魔女さんから幸運パワーを受け取るゼロはリア充として爆発……してはいけないのです。 二人の力を合わせて、理想のゼロ世界を生み出すのです」 「ふふふ、ゼロさんとの子供……素敵。ほんとうに楽しみだわ」 少し別の意味で幸せに成りかかっている魔女。 言動はともかく安寧のレベルが高まっていると認識したゼロは、早速作業にとりかかる。 ワールドオーダー曰く、製作者の特性が世界の成り立ちに反映されることは往々にしてある。 勿論、一概には言えないことだが、その可能性は50%を超える。幸せの魔女の幸運があればそれは確実と言っても差し支えない数字。 そして、望む世界を生み出す方法は極単純だった。それは、望む世界を正しく強く想い描くこと。 世界を生み出すコントローラーを握りしめ瞑目して微睡みに身を任せたゼロは、永き眠りの間に生まれた泡沫のような0世界での生活を思い浮かべる。 それが同じ安寧がえられる世界が生まれることを望む儀式となり、世界を生み出す祈りの詩を織り成す。 如何なる出来事にも触れてきたゼロの胸にだから刻まれた0世界の軌跡。 幸せなときを過ごしたゼロは、世界の欠片を生み出すスイッチを押した。 ――チリーン 夏の日に揺れる風鈴のような涼やかな音と共に、小さな物体がディラックの空に飛び出す。 「あれが、世界繭を形成し世界の体を成すのは凡そ二百年後。その確率は100%だ」 ワールドオーダーは無機質に事象の行く先を告げた。 とさっと音を立て崩れ落ちる幸せの魔女の体をゼロが支える。安らかな寝息がゼロの頬を撫ぜた。 幸せの魔女は全ての魔力を注ぎ、いや今も虚空の空に飛び出したゼロ世界に注ぎ続けるために眠りについた。 「幸せの魔女さん、今しばらくおやすみなさいなのです」 その後、約束通りギベオンに作られた専用施設に幸せの魔女を預けたゼロは、自身の目的『全世界群の階層を一気に上げ皆楽園化』の為の準備に奔走することになる。 ‡ ‡ § ディラックの空 0080 「ロストレイル蟹座号、定観測点α2到達。ラグレスさん、落とし子の検体パターンA-23とG-4をコピーしてください」 「委細承知で御座います。このラグレスのご期待を裏切らぬ完璧な模倣をご覧頂きます」 いつもと変わらず朗々としたバリトンを響かせるラグレス。 胎内に納められた数多の情報から登録された構成要素を取り出し、巨大な容器に収められた己の欠片をディラックの空を渡るワームへと変じる。 蟹座号の中に現れた二体の落とし子。 A-23と呼称された落とし子は容器――ディラックの空を収めた試験官の中を揺蕩っていたが、G-4と呼称された落とし子は恐慌をきたしたように容器に体を叩きつけた。 「期待通りじゃねえか……残念なことにな」 「……そうですね」 データを眺める研究者二人。 「蟹座号、ワールズエンドステーションに向けて前進、定観測点β2まで徐行してください」 女の合図で前進を始めたロストレイル号。 G-4と呼称されたワームの動き――逃亡行動は激しくなるがA-23と呼ばれるワームの動きは以前と変化はない。 「ロストレイル蟹座号、定観測点β2に到着。検体パターンG-4消失」 知らぬ者にとって摩訶不思議な現象も研究者の表情に驚愕を与えることはない。 「ちっ……体系、エネルギー量、生存年数が酷似する落とし子同士で何故こうも違う」 「ラグレスさんがコピーした検体間では常に同じ結果が出ています。如何なるデータをもっても異なる落とし子間において、世界計に吸収される距離における相関を確認できません」 ただ淡々と蓄積されたデータを打ち込む研究者。 「後は……本能的に吸収の危険を感じる距離が存在するってところか」 「検証結果は世界計への吸収距離は個体によって定義されることを示唆しています。危険を感じた場所から吸収される場所までの距離も一定しません」 「ってことは、何をやるにもぶっつけ本番ってことか」 エイブラムとフランが行う落とし子の消失実験は、ディラックの空が物理よって定義されず、世界計毎に定義される主観的概念距離が意味を持つことに示唆していた。 しかし、それを科学が観測可能とするにはまだ暫しの時が必要であった。 ‡ ‡ § ギベオン 0120 果ての駅が発見されてから百二十年、ギベオンの研究は再び大きな変容を迎える。 世界計をエネルギーとして扱う研究は着々と発展を遂げ成果を出していたが、一つ問題を抱えていた。 世界計のエネルギーに耐えることができる物質は限られており、特に兵器としての利用となると世界計一つ扱うにも超越者の干渉が、もしくは惑星レベルの巨大化が避けれなかった。 しかし、それは外部から齎された技術によって解消する。 カンダータにて、完成されたジューン型と呼ばれるロストナンバーをモデルとしたアンドロイド作成技術。 彼女の動力源を世界計の欠片とすることで、簡易に一定レベルで世界計の力を扱うことができる自動兵器が量産されるようになる。 そしてその戦闘AIの構築にはアヴァロン・Oの助力によるところが大きい。 ――高度威力兵器開発研究所 極めて巨大な横並びのシート。 何百と束ねたケーブルで接合された二体の機械人形は、モニター上で弾けるデータ塊となっていた。 「ターゲットA4、G0、V3。同時攻撃――着弾確認」 「被弾係数4、2、8。目標沈黙を確認しまシタ」 シミュレータの上に作られた仮想敵と戦うのはアヴァロン・Oと二期改修用試験型ジューン。 マトリックス上は飛び交う二つの機械の戦闘は亜光速。 かつて壱番世界は北海道に出現した落とし子を瞬く間に無力化した。 「チェックデス――戦闘AIレベルの向上を認めマス。ジューンさん単騎で、A級脅威――ジャバウォックレベルを一方的に破壊可能デス」 「ありがとうございます、アヴァロンさん。これで私達も決戦において皆様方の役に立てるはずです」 無論、ジャヴァオックに勝てる程度の戦闘力でチャイ=ブレとの戦いが安泰となるわけではない。 今の戦闘力のまま、何体ジューンを束ねようとも決戦となれば瞬く間に破壊され、その全てが躯を晒すであろう。 着実に改良を重ね人の役に立つことができる存在となる。 それが彼女の根源的存在意義、其のためには己が破壊されることなど厭うべきことではない。 ‡ ‡ 時は流れ、世代は移り変わり、世界は有り様を変えていく。 世界計を核にギベオンで作られた様々な道具。 世界図書館がイグシストから脱却するために発明された道具は、皮肉なことに0世界から唯一性を失わせる。 トラベルギアより優秀な武具。 トラベラーズノートよりも便利な意志伝達手段。 パスホルダーよりも簡易な存在保証。 司書の予見に相当する運命観測装置。 ナレッジキューブに変わる代替燃料の発明、流転機関に変わるロストレイル号の運行機関の発見。 ロストレイルに寄らない世界航行手段の確立。 もはやロストナンバーが消失の運命から逃れるために0世界は必要なかった。 世界を渡るために図書館の許可を得る必要もない。 その事実は0世界の人口減少に繋がっていく。 0世界以外に冒険の拠点を持つことが可能となったとき、0世界は数ある世界の一つでしかなくなっていた。 チャイ=ブレと世界樹――二つの脅威が存在するだけの ★ ★ ★ § ローナ、壱番世界にて 壱番世界東京。 山の手の閑静な住宅街、その駅前にあるカフェ。 そこでローナは、長手道提督とコーヒーを喫していた。 提督は普段は紅茶を嗜んでいたのだが、今日は気分転換したいのだろうか。 コーヒーは炭のように黒かった。 東京は人の減りゆく国にあって、地方から若者を吸収しつつ静かにたたずんでいる。 プラットフォーム化現象の影響か世界は停滞して久しい。 この街も変わらないようである。 長手道提督もあの頃と余り変わりない。背筋はぴんと伸び、かくしゃくとしている。しかし、それでも降り積もる年月が随所に見られる。 「そうか、ローナの世界も見つかったか……。永かったな。再帰属は大変だが、求めるのか」 提督はローナの頭上に視線をやるも、なにもみえているはずはない。真理数は簡単には浮かばないのだ。 少女型兵器はかぶりを振った。 「いえ、私は遠くから自分の世界を見守ることにしました」 年月が積もるのは、ローナもそうであった。通常、機械の耐用年数は人間より短い。 その所作には使い込んだなめらかさがあった。オーバーホールを重ね、ある限界を超えると機械は無限に生きるようになる。 「そうか」 「私の役回りは私の妹が引き継いでいました」 ロストナンバーは刻に取り残される運命にある。増殖能力を持つローナタイプはなおさらである。 「それに、私は生体CPUにある記録の閲覧を拒むことが出来ません。つまり、私を製造した人たちのディアスポラを誘発させかねません」 「となると、ローナの世界はまだディラックの空へ漕ぎ出す段階には無いと言うことか」 十分に、科学、もしくは魔法の発達した世界は「夢見るもの」を生み出す素地がある。 「はい、ですので、私は0世界からあの世界を守りたいと思うのです」 長手道の壱番世界は今現在もチャイ=ブレからの脅威にさらされている。イグジストの脅威はどの世界にも等しくある。 しかし、なかなか訪れようとしない破滅は、人の感覚を麻痺させ危機を日常としてしまう。 壱番世界の危機を自分のこととして戦い続けるのは人の身には重い。 長手道はしわの重なった指を、ポットに伸ばす。 ローナはとっさに手を出して給仕役を務めた。あらかじめプログラムされたように。 老人は軽く笑った。 「彼女たちの……子供達のことを託してよいだろうか」 「私にですか」 紅茶のおかわりがカップに注がれる。 ローナには看護機能の一環として保育プログラムが搭載されている。しかし、提督が言いたいのはそういうことではないのだろう。 「ああ、他に頼める相手はいないのでな」 「彼女たち――魔法少女大隊のほとんどは帰属されたのですよね」 「そうだ」 元いた世界でそうであったような夢と希望に満ちあふれた魔法少女に戻ったわけだ。 「先日、メイベルが息を引き取った。今は彼女の孫が『この街の魔法少女』だ」 「彼女は、あなたの娘になれて幸せだったと思います」 長手道提督はゆっくりとカップをさすった。深い闇色の液体が揺れる。 「彼女たちにあわせて紅茶ばかり飲んでいたが、本当はコーヒーが好きだったのだよ」 ロストレイルの発車時刻が来た。 一人になったローナが空を見上げると、望遠レンズの向こうに箒で飛ぶ娘の姿が見えた。 今晩は月が明るい。 提督がさってからもローナは席を立たなかった。 ここまでの道のりはあまりに長かったからである。 「ローナ様、お代わりはいかがしますか?」 たっぷり時間が経ってから、給仕に声をかけられた。 「貴方は、真珠さんといいましたね」 「はい」 この娘には大昔の知り合いの面影が残っている。 「今度、原宿におつきあいいただけますか?」 「私と……ですか?」 「やっぱ雑誌で見ているだけでは……ねえ? お店もすっかりかわってしまったでしょう」 客も少なく、彼女と話し込んでしまった。 その晩は、閉店まで店にいた。 「日が昇ったら、不動産屋にでも行こうかしら」 深夜の町並みは涼しかった。 ローナはそよ風に吹かれてロストレイルに乗るでなく、夜の街に消えていった。 ……お断りします。提督。彼女たちにはもう保護者は不要です。私は彼女たちのお友達……としてお仕えできればと思います。 提督は、私の世界をよろしくお願いいたしますね。 ★ ★ ★ § 壱番世界 0220 それは冷泉利津18歳の誕生日を迎えた夜の事だった。 胸騒ぎを覚えて眠れずにいた少年は、電気を消した部屋で何気なしに天井を眺め、今日という日を振り返っていた。 (……誕生日パーティで興奮してしまったかな……父さんの笑っている顔、久しぶりに見たな。母さんは嬉しそうだった……姉さんも) 冷泉流翠円派と呼ばれる厳格な武道の家に生きるがゆえに張り詰めた生活を送っていた少年の胸は、久しぶりに訪れた家族らしい交流を思い出し高鳴っていた。 まんじりと過ごした時刻は丑三つ時。 普段は耳に触れることのない秒針が回る微かな音だけが、灯りの落ちた部屋に染みる。 ――夢と現が交わる宵闇 突如鳴る大きな汽笛が静寂を貫いた。 慌てて飛び起きた利津が窓の外に見たのは、夜空を駆ける列車の姿。 二百年以上前に覚醒した冷泉の名前を継ぐ少年は、新たなロストナンバーとして覚醒した。 その少年の名前がリツであったのは如何なる運命の悪戯か。 ‡ 自分と瓜二つの男が何か話している。 自分に向けて話しているように見えるたが、その相手は自分ではないと直感的に悟った。 話しかけていた男は、言うべき言葉を語り終えたのか口を閉じ姿を消す。 その男の発した最後の言葉だけは何故かハッキリと耳に残った。 ――遅れてごめん (またこの夢か……) 覚醒から一ヶ月、冷泉利津は変な夢を見るようになった。 懐かしいようなそれでいて苛立つような、悔しいような変な夢。 見る度に考え、日々の生活の中で忘れては夢をみて思い出す。 不可思議な夢が頭の片隅に常に残るようになったころ、冷泉利津は再び空を駆ける列車を見る。 己を招き入れるロストレイル号に乗って、冷泉利津は0世界に渡る。 そこは、人々の中に入り混じってお伽噺の中でしか存在しないような化生の類が存在する世界。 軽い感動に包まれながら降りた地面は壱番世界となんの変わりもなく堅い。 昔――歴史の教科書で見た数百年前のような街並みを眺める利津。 その風景が与える感情は、何故か、何故なのか物珍しさより胸に込み上げる懐かしさが勝る。 ――律、律なのか!? 感傷に耽り、ロストレイル号発着場に佇む少年の名を呼ぶ声がした。 年の頃なら同じくらい。暑苦しさに溢れる日焼けした少年が自分の名前を呼んでいる。 初めて聞くはずなのに妙に耳に馴染む声、鬱陶しいくらい暑苦しい顔に何故か親しみが湧き上がる。 見ず知らずの筈なのに何十年もあっていないような――親友 かけるべき言葉が、発するべき名前が見つからず口ごもる利津を少年――桐島怜生が暑苦しく抱擁した。 「おせえじゃねえか、どんだけ人を待たせんだよ!」 耳元で喚き散らす鼻声――心臓が大きく跳ねた。 フラッシュバックするように浮かび上がる幾つもの光景。 誰かと一緒に苦楽を共にする。 時には笑い、時には泣き、そして時には背中を預け一緒に戦った。 沸き上がる感情は郷愁、あるべきところに戻ったような。 そのせいなのか、口をついてでた言葉は本当に、本当に不可思議なものだった。 「――遅くなってごめん」 衝撃を受けたように暑苦しい少年――桐島怜生の動きが止まる。 見る見るうちに怜生の眼に涙がせりあがり、相貌はぐしゃぐしゃに歪む。 「うぉおおおおおおおおおおおん」 男泣きに泣き始める怜生。 それこそ、0世界全体に響き渡りかねない大声は衆目を集め、恥ずかしくなった利津は泣きながら手を離そうとしない怜生を引き摺り、何処かへ行こうとして、ターミナルの警備員に職質された。 ‡ ――食堂 テーブルの上に雑多に並べた軽食を貪っていたエイブラムとルイスが、己達に近づく怜生の姿に気づく。 「よぉ、怜生。ずいぶんご機嫌じゃねえか、彼女でも出来たのか?」 だらし無く椅子に寄りかかるエイブラムが首を傾けて友人を軽く煽る。 「ちげーよ。もっと驚きのニュースだ、凄えニューカマーを紹介するぜ」 「いや、お前が彼女連れてくる以上の驚きはねえと思うぜ」とエイブラムは挑発するが、怜生は珍しく鼻息を荒くするだけで受け流す。 「おい、利津。こいつらが、ま、お前のご先祖様の仲間だった奴らだ」 「ご先祖さまぁ? ったい誰だ……!!?」 怜生の背後から現れた人物。 エイブラムはばかみたいに口をぽっかり開け、脚元に侍っていたルイスも眼を剥き出しにせんばかりに驚愕を示す。 「はじめまして冷泉利津です、よろしく……お願いします」 その姿は、かつて共に過ごした仲間に瓜二つの少年。 「「律!!」」 思わず駆け寄ってハグしようとするエイブラムを半身に開いて受け流しながら脚をかけ倒れる体の鳩尾を利津の拳が撃ちぬき、悶絶するエイブラムの首の後ろを当てた手が長身を一回転させ地面叩きつける。 はっはっと犬らしい声をだして飛びかかってきていたルイスに対して「もう飽きた!」と一言と呟くと エイブラムを受け流した勢いを利用して肘を突き上げる。 『円水』から『火柱』へ繋ぐ業前。翠円派の対多人数戦闘における教本のような動き。 「怜生さん、この人達は? 妙に馴れ馴れしいですけど……」 呆れ顔の利津、笑いながら怜生は懐かしさをひしひしと感じていた。 (いや、お前の対応は律そのものだろ……生まれ変わりなのか?) 「くそ痛えじゃねえか……見た目じゃなくて性格まで瓜二つかよ」 地面に転がったエイブラムが腹を抑えながら立ち上がる。 その表情はどことなく楽しげだ。 「いいじゃねえか、リツが約束通り帰ってきた。それだけで俺は満足だぜ」 「何言ってんやがる、『俺とあいつは別の道を行くことにした』とかセンチメンタルを気取ってた奴の台詞かよ」 「う、うるせえな。本音と建前っつのがあんだろうが」 赤面した怜生を笑うエイブラム、吊られて利津も笑う。 その光景にルイスは二百年以上も前の時間が戻ったように思った。 ‡ 欠けていた一人を迎えた彼らは時を忘れて語りあった。 0世界のこと チャイ=ブレのこと 利津の先祖で自分達の仲間であった律のことを 終わりのないような長い話は利津が力尽きて泥のように眠るまで続く。 利津は再び夢を見た。自分と瓜二つの男が何かを喋る夢。 (この人が怜生さん達が言っていた俺のご先祖様、冷泉律) その姿を明確に認識することで其の言葉がハッキリと聞こえる。 『ありがとう怜生。コンパスを捨てて好きに生きろ』 (コンパス……? 何のことだ、これがこの人の伝えたいこと……なのか?) 目を覚ました利津は、怜生に夢の話を告げる。 「律がそんなことを……なんでだ。いや……わかったよ律」 「何が分かったんです」 ポケットから取り出した壊れたコンパス。 相変わらず一方向しか指し示すことのないコンパス。 止まった導を手の中で弄びながら怜生は空を仰ぐ。 「俺の生きる道がさ。利津、律が言っていたコンパスはこれのことだ」 「壊れてますね……どっちに向けても動かない」 「これお前にやるよ……もう俺には要らないものだ」 「俺のことを律さんと一緒にしてませんか、俺は利津です。返すならお墓にでも……」 「違う、返すんじゃない。受け継ぐんだ」 この日から怜生と利津は一緒に旅に出るようになる。 二百年以上前の日々と同じように、少しだけ違う二人で。 ★ ★ ★ § 0世界の極近くの宙域 そして、時は自らを満たすのに250年の月日をかけた。 壱番世界も、カンダータも、インヤンガイも、世代がずいぶん入れ替わった。帰属したロストナンバーの子孫も、祖先の記憶は曖昧模糊となった。モフトピアだけはあいも変わらずである。 そして0世界の人々も入れ替わり、あの頃のことを覚えている者は少数派となった。 「メン=タピ寂しいか?」 「余は万年を生きた。師がおられる限り、余が煢然を覚えることは無い」 ルンもあまり変わった様子は無い。彼女の場合は三日より昔のことを記憶しているかどうかも怪しいが。 メンタピは玉座にふんぞり返った。 「時に、狩人よ。この度の獲物をどう思う?」 問われてルンは首をかしげた。どうやら真剣に悩み始めたようだ。 「すごい大きいより、すごいすごい大きいってなんといったらいい?」 ――当方ギベオン連合艦隊である。イグジスト撲滅の準備は整った。 ――ギベオン連合艦隊によるチャイ=ブレ攻撃はまもなく行われる。 ――チャイ=ブレ撃滅後は0世界及びチェンバーは消滅すると推測される。非戦闘員は0世界より待避されたし。 ――戦闘員は、死ぬまで奮戦されたし。 今ではギベオンもフランも遠い昔のおとぎ話。 とうの昔に行方不明になっていたと思われたロストナンバーたちから、エアメールが届き、0世界はパニックに陥った。 二十八号は一足先に0世界に潜入しており、エアメール到着にあわせ世界図書館理事達に、脱出計画を渡した。 幸いなのは、厄災以降、0世界の外に拠点を持つロストナンバーが増えたことだ。 ギベオン連合艦隊を待つまでも無く、0世界が新たなイグジストや、驚異的なロストナンバーの攻撃にさらされる蓋然性は高いからだ。 そのなかではゼロの指導する、ワールドエンドステーションにおける新生ゼロ世界作成計画は人気が高い。安定を求めるロストナンバーにとっては魅力的な移住先となっていた。 故に、戦時プログラムに従い、脱出プロトコルが発動し、住民は次々とロストレイルに乗り込んだ。 司書たちが、ロストメモリーたちも列を作る。 ただ、古い記憶を持つ者は問う。 ――世界樹が0世界に根付いたときは、園丁はみな滅んだでは無いか。 その世界樹も厄災で消えてしまっている。 「0世界壊れても、普通の人、大丈夫。魔法少女大隊、世界がなくても、生きてた、聞いた。最近、司書増やしてない。昔ほど、数いない。昔のみんな、もう死んだ。今居るの、覚悟がある奴。だから、多分、大丈夫」 艦隊旗艦では、ルンが獲物を見据えていた。 ‡ ‡ 0世界の薄い繭は、こともなげに破られた。 無限に続く石の樹海が音を立てて割れる。 地は隆起し、下から無限に続くチェスボードの破片がせり上がった。押しつぶされたチェンバーからは様々な文化のなれの果てが溢れだし、ペンキをぶちまけた前衛芸術の様相を見せた。 そして、永遠に続くと思われた青空の遠く向こうに、彼方の世界のきらめきが見えた。 0世界は、無限の広がりを失い、崩壊を始めた。 ディラックの空はすぐそこに見え、艦隊が見える。 厄災によって荒廃した0世界に、ターミナルに仮借無き打撃が次々と浴びせられた。 そして、噴石し、大いなるチャイ=ブレが姿を顕す。 恐怖を感じる者は少ない。 かつてファミリーが盲目な白痴と蔑んだように、戦闘員は仇敵がなにであるのかをよく知っていた。 「一番、着弾!」 「二番、三番、着弾!」 観測手から報告が上がる。 さしものチャイ=ブレもたじろぐ。 「ククク。どうだ世界計弾頭の味は」 ルンは、大弓を得意とする狩人だからか、砲手としても才能を見せた。 射撃管制装置には、精密誘導器のようのものは一切取り付けられていない。それどころがの銃座にはスコープも無い。 方針は、ルンの意の元、獲物の方向に自然と向く。 これがロストナンバーの戦いだ。 かの世界樹との戦いが思い出される。 世界樹との決戦の時はナレッジキューブを応用した兵器そして魔術が大量に使用され、驚異的な破壊力を見せつけた。 しかし、それでも戦いのさなかに突如あらわれた世界計のきらめきは、別の次元の畏怖をもたらした。古いロストナンバーは世界の力を得た灰人の末路を覚えている。 それから、世界計の探索を通じて、ワールドエンドステーションへの道が開けた。 いま、世界群の深淵から集められた世界計は、イグジストを葬るために、猛威をふるっている。 メンタピは、泰然と攻撃を見守った。 「余人が選択を行うと、エントロピーとともに情報が一つ増える。しかし、ブラックホールは異なる。ブラックホールは物質とともに情報も吸い込むからだ」 そして、吸い込むものがなくなると、とても長い時間をかけて、ブラックホールは情報をエネルギーとエントロピーを事象の地平面のこちら側に戻し蒸発する。 とても大きい世界が崩壊するとき、世界はディラックの空に痕跡を残さず、周囲のワームを巻き込んで消滅することがあった。 ディラックの空が支えられる情報には限界があるのだ。 「チャイ=ブレの世界……0世界がチャイ=ブレの有する情報量のわりにあまりに小さいのが長い間の疑問であった。余の計算ではヴォロスが安定して存在しうる世界の上限に近い」 世界計弾頭が着弾する度に、七色に光る幻想が広がる。幻の向こうでは、悪魔が踊り、雄大自然があり、そして人々の営みの記憶があった。 裸のチャイ=ブレはそれらを貪欲についばんだ。 生まれ出た世界は、いつかは滅び、その世界に生きた悠久の記憶をはらんでワールドエンドステーションへと還る。 136の世界計、それすなわち136の世界。それを用いてフェルミ縮退の限界を超えさせ情報ブラックホールを形成する。 チャイ=ブレは0世界もろともディラックの空の特異点と化すはずだ。 そして、特異点ではあらゆる奇跡が可能となる。 限界を超えた0世界が崩壊していく。 情報の奔流にひかれてワームが近寄るが、崩壊に巻き込まれてつぶされた。 やがて、残されたのは膨満したチャイ=ブレだった。 その巨体が、これまた大きなげっぷをしようと口を開けた。だが、なにもでない。 食べ過ぎたのだ。 そして、チャイ=ブレが苦しそうに腹をさすると、さながら蛙のように破裂した。 夢が四散し、艦隊は幻想に包まれた。 ‡ ‡ 激戦のさなか。 0世界に上陸していた二十八号は、チャイ=ブレの体内に侵入していた。 体内は灰色のじめっとした洞窟になっており、伝え聞いた通りであると感じた。ときおり鳴動し、チャイ=ブレの苦しみが伝わってくる。 危険な場所であることは知っている。 二十八号は司書に脱出計画を渡してから、自らもロストレイルで0世界を去る予定であったが、とある予感に、ターミナルの深奥に導かれた。 彼の手にも、世界計の破片があった。 「モービル……、彼は死んだと思っていましたが」 その気配がする。 かつて少年が、自らの世界を呪い大いなる力を求めていたことを知っている。 彼の世界にも二十八号は訪れたことがあった。 原始的で荒々しく、そして素朴であると同時に蒙昧な世界であった。 モービルの味わった苦しみは、厳しい世界ではよく見られるものだ。少年は、進歩しすぎていたのだ。 今では賢人のように振る舞える二十八号も、そのような時代があったようにも思える。 チャイ=ブレが苦しむごとに、洞窟は存在感を薄めていった。 頃合いか。 二十八号は意を決して、透過能力を発動して、チャイ=ブレの肉に飛び込んだ。 モービルは自分を呼ぶ声に気付いた。 かつてイグジストの力を求め、チャイ=ブレの中に入り込んでみたものの、それ以降は強い意志を持てなくなっていた。 茫洋とした時間は思索の機会を与えてくれた。 図書館が献上する冒険の記録が降りそそぐなか、モービルは自分の苦悩を遠く感じるようになってきた。 ……あの世界を破壊したところでなんになろう。 そして、少年は自分に呼びかける応じることを決意した。 ……そうだ、ここから出よう。 再会の挨拶も無く、黙考から引き上げられる。 げっぷのようにモービルと二十八号はチャイ=ブレから放り出された。 異物が体内にいることに我慢ならなくなったのか、二十八号の持っていた世界計の破片に危険を感じたのか。 そして、ディラックの空を埋め尽くす艦隊を見上げたとき、背後でチャイ=ブレが破裂した。 ‡ ‡ 幻想の晴れ上がり。 「なんだ。あれは……」 0世界があったはずの場所に、うごめく蛙がいた……。 チャイ=ブレを幾分かちいさくした姿だった。そして、精悍だった。 かつての飽食した怠惰の王では無い。 チャイ=ブレは滅んだ。しかし、そのあとに残されたのは、また別のイグジストに過ぎなかった。 赤色巨星が超新星爆発を起こした後に、パルサーが残されるように。 起きた現象、世界樹とチャイ=ブレ融合し、0世界が変容したことの再演に過ぎなかった。 仮にこれをイグ=チャイ=ブレと呼ぶとしよう。 先ほどまでの満腹を失った新しいイグジストは貪欲で、飢えていた。 そして、イグ=チャイ=ブレのその全容に比し短い腕がふるわれると、距離の因果を超えロストナンバーたちに襲いかかった。 呆然のていのメンタピは避けることが出来なかった。艦隊は寸断され、イグジストの腕の通過した面は虚無に呑み込まれた。 圧倒的力がメンタピの眼前を通過し、魔神は戦艦と体を破裂させた。 「バカな!」 間一髪。 頭だけになってしまったメンタピをルンが担いで、無事だった艦艇に乗り移った。 「メンタピ、負け癖あり? だからか?」 「そうか! チャイ=ブレもまた特異点の一つであったか! 世界になり損なったワームがヴォルコフ限界を超えて縮退した存在がイグジストならば、この作戦ではチャイ=ブレを新たなイグジストに転生させることしかできない!」 「幼女いない、殺る気出ない。敗因は、幼女不足?」 ルンはメンタピの敗因を的確に見抜いていた。 そして、空を見上げると、無数の星の世界が虚無に呑み込まれつつあった。暗黒が両翼を広げる。 イグ=チャイ=ブレが用心深く、身じろぎをした。 その隙にメンタピの残存艦隊はそれぞれに転身した。 「余の敗北である。おー慧竜よ。見えるぞ慧竜が見える……」 辞世の句でも詠い上げそうな魔神を狩人は叱咤した。 「まだ見ぬ幼女、メンタピ待ってる! ここで終わるな、メンタピ! みんなも!」 ディラックの空に漂うチェスボードの破片には逃げ遅れたロストナンバー達がいた。 彼らを回収しながら、艦隊は、空を埋める漆黒の翼と入れ替わるように、再編成を始めた。 その中に墓石に腰掛けたままの仮面のマスカローズもいた。諦観が仮面の奥から漏れる。生の意志は感じられない。ルンは彼女もついでにさらっていった。 「マスカローゼ! 墓石ももっていくからこい!」 ★ ★ ★ § ゼロ世界 0250 二百年の眠りから覚めた幸せの魔女はゼロと二人、成長した世界の中を確認するように歩いていた。 市松模様に無限に拡がる世界の真ん中にぽつんと存在する台座だけが存在する世界、 0世界と同様に、全ての世界郡の中枢に位置する、階層が変動する事のない世界。 「建物はないのね、折角二百年振りのデートなのに風情がないわ」 「仕方ないのです! ここには、まだ誰も住んでいないのです」 違いは望めば容易にこの世界に帰属できること、そして世界そのものが存在の保証機能を持つことである。 自分と小さなゼロが作った新ゼロ世界を検分する幸せの魔女。 その懐から小鳥の囀る音が響く。 二百年の眠りから目覚めた時に手渡されたトラベラーズノートに変わる意思伝達デバイス。 慌ててポケットから取り出したデバイスの中央にはフランの顔が映った。 「あら、フランさん、ご機嫌よう。ほら、見てくださいな。もうひとつの0世界を」 デバイスを掲げるクルクルと踊る幸せの魔女。 そこから聞こえた声は期待した感嘆ではなく、感情を感じさせない平板な声。 「幸せの魔女さん、ゼロさん。 チャイ=ブレが覚醒し、壱番世界への捕食行動を開始しました。メンタピ様がチャイ=ブレに接触、既に戦端を開いています。 私達、ギベオンの主力艦隊は対イグシスト戦闘のため出撃します。後の事は……0世界のことはよろしくお願いします」 ぶつりいう音と共にデバイスは一方的に沈黙する。 幸せの魔女はゼロを見つめ、ゼロは大きく頷く。 「最後の戦いは始まってしまったのです。ゼロ達はゼロ達のできることをするのです!」 ――二百五十年 人の営みとしては永く、超常の存在においては泡沫の夢。 その永き時間の中で結した果実は収穫の時を迎える。 ‡ ‡ § ギベオン 0250 「資料をお持ちしました。フラン様も今から会議にご出席ですか?」 「ええ、今日の会議は長くなりそうです。すみませんがよろしくお願いしますね」 この世界ができた時と比べ幾分身に纏うものが増えたフランが会釈をする。 さりげなく不自然でない程度に笑みを浮かべ、挨拶をした相手はジューン・M型。 カンダータで親友夫婦の乳母をしていたジューンをベースとした覚醒しないタイプ。 (……彼女に罪はないが今ひとつ好きになれない) ぽつりとフランの胸に浮かんだ感情は、一筋ほども表情には揺るがせない。 二百五十年に渡ってギベオンの長で居た少女は笑顔という鉄面を容易に身に付ける。 「フラン様も私達のどれかを購入なさったらいかがでしょう? 確かに私達は研究補助を主目的として作られておりますが、個人購入される方が皆無なわけでもありません。大量生産品だった私達のプロトタイプはナニーロイドでした。一般家事は充分こなせます」 「そうですね、ただ私は余り家にいることがないですから、掃除程度なら必要なときにお願いすればいいですしね。 それに……家事が必要な時は自分でしたいんです。研究にかまけて、そういうことできなくなったら彼に申し訳ないですから」 こう言っておけば大概の人が引き下がる言い訳――無論事実ではあるが (ジューンがもう少し……人らしいメンタリティを持っていれば良かったんですけど) 人の形をした奉仕者というのがどうにも引っかかる。 「設計図から製作できる技術水準があれば、私達はどこでも製造可能です。それはつまり、私達が鋏や鉛筆と同じ便利な器具である証明でしょう? 例えロストレイルに乗れなくても、便利な道具である事を全うできる今を私達はとても気に入っているのです」 優位な道具である自分の価値が認められている、そのことに誇らしげな顔をするジューン。 彼女の有用性はフランも認めている。事実研究所では千近いジューンが稼働している。 でもプライベートな空間に置きたくはない。 ――変に自分を省みてしまって苛立ってしまう ‡ 会議室は定刻前だと言うに既に着座していないものがない状態だった。 最後に入室し議長席まで歩くフランに対して、多種様々な視線が注がれている。 今日はギベオンにおける最重要決定を行う会議。 否が応でも熱が篭もろうと言うものであった。 「それでは会議を開催致します。まずは定例の報告をお願いします。 それから本日の主たる議題はチャイ=ブレとの戦いに望むスケジュールの決定です」 議長席に座ったフランが会議の始まりを告げる。 その音声は議事堂に渦巻く熱気に反して、静かで感情を感じさせない淡々とした声。 「これで、資材部門から報告を終了します――」 淡々と退屈で重要な報告が行われる。 半刻に渡る数字の朗読が全て終わり、皆が待ち望む本題が始まろうとした時、議事堂が赤色灯と警告音に満ちた。 それが意味する所は一つだけだった。 裏付ける報告はすぐさま行われた。 「0世界観測部から緊急の報告です。 チャイ=ブレの覚醒を確認、壱番世界への捕食行動を開始している模様」 怒声か悲鳴か歓声か、議事堂内が轟と鳴る音声に揺れる。 それを沈めるのは、やはり感情を感じさせないがよく通る少女の声。 「静粛に願います皆さん、ついに来るべき時が来ました。 我々のこの日のために成すべきことを積み上げてきました。 恐れることはありません、長き時間を思い出してください。 皆さん、自分達のやるべきことを思い出してください。イグシストを恐れる日は終わらせるのです」 ‡ ‡ 「よし、お前ら作戦の骨子を説明するぜ」 議事堂の発言者は議長ではなく、対イグシスト戦情報統括長官であるエイブラム・レイセン 完成した統合意志伝達装置『ワンマインド』経由して思考する速度で意志を共有する。 『チャイ=ブレをイグシストを破壊するための方策は二つ 一つがイグシストを超える力で持って無理やり消失を与えることだ。 もう一つは、イグシストを消失させないまでも崩壊させるダメージを与えて身動きを封じて世界計に押し込む。 まあどっちにしても力づくってわけだが使う力の量と作戦がちげぇ」 Case1と思考が走るとともに複数の戦艦が化け物に挑み不可思議な攻撃によって崩壊する様が共有される。 『既に力づくでの破壊を目論んだメンタピ艦隊が敗北した。 概念情報体であるイグシストを消滅させることは現状不可能ってことだ。 そこで俺達は世界計に押し込む作戦を取る』 意識の中にNGが乱舞し崩壊したメンタピ艦隊の姿が消え、巨大なサンショウウオのような姿と壱番世界の世界繭の相対距離が映る 『チャイ=ブレは、空腹で目を覚まし、壱番世界を狙っている。 そこで俺達は壱番世界を牽引し世界計までチャイ=ブレを誘導する。 チャイ=ブレはある意味単純な存在だ、ここまではうまくいくだろう。 しかし、研究成果から分かっていると思うが、ディラックの落とし子は世界計への相対距離が一定値を超えて接近すると逃亡を計る』 QUESTION――何故壱番世界を移動できるのならば世界計の近くに設置しない 『良い質問だぜ嬢ちゃん、後で俺の部屋に来な、花まるを付けてやる。 いいか、チャイ=ブレやディラックの落とし子にとって距離ってのは主観的な意味しか持っていない。 用はだ、彼奴等にとって危険な距離ようは吸収される距離が変わる可能性がある。 ちと揚げ足取りになっちまうが、チャイ=ブレが誰かを支配して壱番世界を移動させてしまう可能性もあるしな。 まあ、そんなことよりだ。 仮にチャイ=ブレが壱番世界を諦めたとして、あいつは別の世界を狙うだけだ。それが許せんのかよ」 機器を圧迫するほどに畝る否定の意志 『よし分かってんじゃねえか。 さて、話を戻すぞ。 危険距離に入って逃亡をはじめたチャイ=ブレを無理やり世界計に押しこむ、これが俺達の作戦だ。 全兵力をぶつけて内部からチャイ=ブレを破壊する。もちろん破壊行為そのものには意味が無い。 チャイ=ブレの持つ情報を拡散させ、世界計に吸収させる。 そして、露わになった核を果ての駅に押し込む、作戦詳細は都度連絡する。 以上だ』 『それじゃあ行くぜ、お前たちの独断専行に期待しているぜ』 ★ ★ ★ § 黒竜 メンタピの艦隊が脱兎のごとく逃走する中、世界の輝きである星々が闇に飲まれていく。 ――蝕 かつて、マーチヘアーを蝕級ワームと呼び習わした。しかし、それはイグジストの正体を隠匿せんとした図書館の思惑が働いていた。 マーチヘアーの当初の呼称、それはイグジスト級ワームである。 イグ=チャイ=ブレは闇夜に咆哮した。 なにものかに怖れるかのように……。 そう、世界群を覆い隠すは我らが仇敵では無い。 ならば、 『チャイ=ブレをイグシストを破壊するための方策は二つ。一つがイグシストを超える力で持って無理やり消失を与えることだ。もう一つは、イグシストを消失させないまでも崩壊させるダメージを与えて身動きを封じて世界計に押し込む』 イグジストを倒す第三の方法、これをロストナンバーは知っている。より強力なイグジストに捕食させることだ。 こうやって世界樹は滅んだ。 メンタピは見た。 虚空に羽ばたく大いなる影。叢雲よりも邪悪。慧竜とは比類できぬ戦慄。 「何者なんだ、おまえは!?」 驚くべき事に呼応があった。 「久しぶりだな。……名前は忘れた、すまん」 何年、何十、何世紀ぶりか? 力を押さえきれぬ。 一体どれだけのワームを喰ってきたことか、どれほどの世界の嘆きをすすってきたことか。 その度に、人の心を削ってきた。 「壱番世界を救うため……の割に、随分と長い時間がかかった」 「バカな、コンダクターだと!?」 チャイ=ブレを滅ぼすというのにその峻別は無意味。故郷を救うという想いだけが途切れ途切れの意識をつないだ。 「僕は、ここまで……だが、悔しいが、もう限界だ。後は後続に、任せるしかない……これで、『隆樹』はお終い」 黒竜に座する少年が荒波に呑み込まれ、彼のギアは破壊された。 銀沙が戦場に舞い散る。 竜の体内のワームと世界の残照が融合し、新たら混沌の種となった。ヴォルコフ限界を軽く超え――、 イグシスト――ヴェンニフの誕生である。 天蓋を覆う翼を誇示し、黒竜は、イグ=チャイ=ブレに襲いかかった。 ‡ ‡ §ギベオン 0250 主力艦隊 ディラックの空とは如何なるものでもないと定義される虚空。 しかし、それは正しい理解とは言えない。 如何なるものでもないのならあば、それは情報を持たず位置も距離も時間も持たない。 厳然たる事実としてディラックの空は存在する、世界群の間の空間として存在する。 ではそれが何であるかと問うた時。 ギベオンの研究者達は少なくとも一つの答えを見出していた。 集合知の取る認識空間――未だ何かに成らないものが認識によって定義され続ける空間 ロストレイル号はその空間に線路という認識を与え世界群の間を駆けていた。 そして――研究者たちの技術の結晶であるギベオン主力艦隊はその理論に基づき、ロストレイル号とは異なる移動方法に到達していた。 それは、特定した座標に対しての認識距離をゼロとすることでディラックの空を渡る航法。 「こちらギベオン艦隊総司令ルイス・ヴォルフ。 チャイ=ブレあらためイグ=チャイ=ブレの存在座標を特定した。 壱番世界牽引作戦を開始する。世界計エンジン起動」 「世界計エンジン、コンディションオールグリーン。いつでもいけます」 オペレータの報告に鷹揚に頷いたルイス。 右腕を掲げ彼は宣言した。 「これよりチャイ=ブレ殲滅作戦を開始する。 ギベオン全艦ワープ開始、目標壱番世界。総員対ショック!」 ‡ 産まれたばかりのイグジストが激突する。 悪夢のような光景。 どちらも飢えていた。 情報に渇望している。 たたきあい、むさぼりあい、浸食しあう、吐き気のする交接であった。 永遠に終わらないライフゲーム。 情報の上をうらすべる波は互いにぶつかり、夢幻の干渉縞をみせた。 その本能は同一、 しかし、千日手に変化が訪れる。 有り得ざる事象が起きた。壱番世界が摩訶不思議な迷走を始めたのだ。それはギベオン主力艦隊の罠。 イグ=チャイ=ブレの本能は憤怒した。誰の断りを得た。 其(そ)世界は、我のえさである。 千年にわたり暖め、大切にとっておいた極上の葡萄酒である。 0世界の世界繭から飛び出し、ディラックの空を壱番世界目掛けて泳ぐイグ=チャイ=ブレ。 強大な存在があるが故、極めて本能的な存在であるが故、イグシストはその異常を未だ認識していなかった。 ヴェンニフに残された滓の咆哮。 ――させじ かの世界は『隆樹』のもの。故に我が喰らうが必然。艱苦に叫換せよ。 牽引され果ての駅へ移動する壱番世界、それを追うイグシスト二体。 揺れるようにディラックの空を流れていたイグシストどもは、突如何かを恐れるように踵を返す。 そしてそこで初めて不遜にも己を罠にハメたものが存在することを認識する。 周囲。 ディラックの空を引き裂いて出現するのは対イグシスト・ギベオン主力艦隊。 叢雲と呼ばれたヴォロスの護り手を模った最低10基の世界計を動力として備える竜型闘艦群。 相転移竜牙砲と呼ばれるドラゴンブレスに酷似した主砲に龍燐の隙間から発射される無量大数の副砲。 起動兵器として量産型対イグシスト殲滅兵器ジューンを星の数程に搭載し、中央には起動兵器部隊を指揮するアヴァロン・Oを核とした一世界規模の超巨大旗艦。 短い腕を掲げて威嚇するイグ=チャイ=ブレ。その存在を恐れることのない龍の群れ、その口腔に翠の光が灯る。 「イグ=チャイ=ブレ準消失ポイント到達を確認、ここからが正念場だ! ティアマト級主力艦光学認識距離ロックオン。黒竜? かまわん! まとめてなぎ払え! ――相転移竜牙砲一斉発射――ッテーーーー」 ‡ 光の渦が全てを空間を満たし、ディラックの空を変質させる。 幾百の世界群を崩壊させうる超エネルギーの奔流。 しかし、この程度でイグシストが滅びるのであれば、メンタピがイグ=チャイ=ブレに敗れることはなかったであろう。 イグジストが存在する空間が刳り抜かれたように光の中に浮かび上がる。 相転移竜牙砲とは、世界計を逆回転させることで発生する情報喪失の嵐。 イグ=チャイ=ブレは己に触れる喪失という情報を書き換え、喪失を無害な光へと変容させていた。 ヴェンニフは黒翼からこれまた黒曜石に光る羽を散らし、おとりとして消えるに任せた。 不遜な挑戦者に対してイグ=チャイ=ブレは触腕を振るう。 距離の概念を無視し、過去未来といった時系列すら湾曲させる攻撃。 限られた概念に生きるものには、必滅のそれを二百五十年に渡るギベオンの研究は埒の中に取り込んでいた。 ――イグ=チャイ=ブレ周囲に認識界面湾曲を捕捉 ――時空座標過去x1、y-3、z6から時空座標未来x3、y3、z-10にかけて飽和攻撃を予見 ――確率干渉波を確認、ラプラス固定フィールドを展開 「対空間防御システム。チャイ=ブレの攻撃を弾き飛ばせ!」 ディラックの空が飽和するように歪み、無限の爆縮が励起する。 連続する爆発は、イグ=チャイ=ブレの多元湾曲攻撃をはじき返した有り様が三次元投影された姿。 イグシストの攻撃を防いだのは、司書の導きの書を代替する予知システムを発展させた、対イグシスト観測システム『マルドゥークの瞳』 膨大すぎる情報処理量故、一艦まるごとを大量の擬体で埋め尽くした統合機構体であるエイブラム以外に扱うことができないギベオン艦隊の眼である。 「よし、前哨戦は予定通りだ。 多元湾曲攻撃が無駄だと理解すれば、チャイ=ブレは逃亡の邪魔をする俺達に直接攻撃をしてくる……来たぞ第二波。 総員格闘戦用意」 イグ=チャイ=ブレの周囲のディラックの空が歪み、数多の落とし子が現出する。 劣化存在である赤の王と同様の取り込んだ全ての情報を破壊の尖兵へと帰るイグシストの直接打撃戦術。 ジャヴァオック、ハンプティ=ダンプティ、マーチヘアー、そして赤の王。 ロストナンバー達が目撃したことのある幾多の落とし子が、何十何百何千何万とディラックの空に溢れ出る。 イグ=チャイ=ブレは有象無象の艦隊に気をとられたか。 ヴェンニフは背後より、イグ=チャイ=ブレに奇形じみた触手を伸ばした。 「さて、わかりやすのがお出ましだぜ」 現出した数多の軍勢に対する備えはすでに出来ていた。 エイブラムが口笛を吹くと艦内放送にアヴァロンの声が流れた。 「機械兵部隊、準備は良いデスカ」 「イエス・コマンダー。 試作機を含め、いつでも私達に出撃を命じて下さい。この戦い、人の命は喪うには重すぎます」 「了解デス。機械兵部隊展開、敵ディラックの落とし子を殲滅してクダサイ」 ‡ ‡ § 0世界とゼロ世界 「んふふーチャイ=ブレのいぬ間に盗人……ゼロは天下の大泥棒なのです(小声)」 黒タイツに似合わぬ緑の唐草模様を頭巾状に被ったディラックの空に浮かぶ巨大な姿。 何か色々と変な聞きかじりが混ざった泥棒の制服を身に纏うゼロは0世界に存在する物体を根こそぎ奪い取り、ゼロ世界へと移送する。 自力でトラベルギアの制限を粉砕したゼロにとって、イグシストの干渉でもない限り造作も無い行為であった。 最も例外は存在した―― 「最後の魔女さんは行かないのですか?」 無限を誇示した0世界も今は、八×八、たった六十四枚のタイルからなるチェスボードに過ぎなかった。 その無事な六十四枚もひび割れ、今にも崩れそうであった。 初めて覚醒した時と同じ大きさで出現したゼロは例外の一人に話しかける。 「この0世界は私の世界。私はここを離れる事はできない。 ……理由は察して頂戴」 「ゼロは、最後の魔女さんが仰っている意味が分からないのです。 でも、分かりましたなのです、ゼロは先に行くのです。最後の魔女さんのアンニュイな気分を邪魔しないのです。 それではお先になのです」 『とてとて』と足音立て歩き去っていくゼロ。 その背中を見送る魔女。 少し噛んだ唇は決意というよりは、諦念の色に染まっている。 (そう……これが私の運命) 諦めに浸るヒロイズムだけが最後の自由。 俄に瞑目し、運命の定める最後の場所に脚を向ける魔女。 がしゃりと鳴る鋼鉄に混じるのは、何を思ったのか『ととと』と声を出しながら戻ってくる幼女。 魔女の憂愁を帯びた表情がきょとんとしたものに変わる。 「ゼロは、最後の魔女さんが戻ってくるのをずっと待っているのです。それでは『またね』なのです」 『とことことこ』と駆け去るゼロ。今度は振り向かず戻らず、手を振りながら光の中に――新しいゼロ世界へ消えた。 最後の自由が消えて、未練が一つ生まれた。 ‡ 存在の雌雄をかけた戦いは続く。 無韻の空間を光点に変え、近づく存在のない虚空の戦場は未だに。 横一列に布陣した破壊人形。 根本となったジューンと同じエプロンドレス姿、その背中を覆う布が引き裂かれ翠の光を放つエネルギーフィールドを展開する。 煌々と輝くその様は、巨大羽根の人造天使。腰溜めに構える超ロングライフルを落とし子の軍勢に一斉に放つ。 「皆様、ここは私めにお任せあれ。無量大数に等しい情報を蓄えた私めのコピー戦力、足止めに最適で御座いましょう。 さあおいでなさいませ。我が分体が織り成す百鬼夜行が貴殿らの相手を致しましょう」 撒き散らされたラグレス分体が幾多の落とし子となりイグ=チャイ=ブレの軍勢と喰らい会う。 一進一退の攻防を続けるギベオン艦隊とイグ=チャイ=ブレの軍勢。 無限を性とするイグシストと限界を理とするヒトとの戦いは、持久戦は、如何なる場合においても人の敗北で結実する。 いわんや、無限と無限を比べることの滑稽さよ。 背後より忍び寄ったヴェンニフは両翼を絶たれていた。 もし、尋常に勝利しうるならば竜がひき蛙ごときに、這いずり回り機をうかがうことも無し。 黒竜はそのイグジストであるところを無限性を引き剥がされ、有限に繰り込まれた。 そして、竜は文字通りしっぽを巻いて戦場から逃げ去ることを強要されるのである。 しかし、その刹那の空隙はヒトに反撃の機会を与えるのに十分なものであった。 ――ギベオン艦隊旗艦中枢 『世界計エンジン吸収、エネルギーチャージ完了』 無数のインジゲータの上で光が何重にも渦巻き、 『WDGシステム出力1000%』 はじけ飛んだ計器から溢れでたエネルギーの奔流が中枢を翠光に染める。 『ギベオン艦隊旗艦』 龍型闘艦の中枢に接続された機械人形アヴァロン。 『変形しマス』 刮目した瞳が銀翠に輝く。 青白い光が龍型闘艦の外壁を走り抜けた。 ――煙を上げる闘艦、一瞬の静寂 全てが止まった其の瞬間に、轟音がディラックの空を揺らす。 はじけ飛ぶ闘艦の外殻、爆散した装甲がチャイ=ブレの落とし子をつぶしながらディラックの空に落ちていく。 瓦解するギベオン艦隊旗艦は己が巻き起こす噴煙の中に姿を消した。 爆散した破片を物ともせず旗艦に襲いかかる超大型の落とし子。 靄から突き出た巨大な手が落とし子の頭部を鷲掴みに握りつぶす。 旗艦を覆う噴煙がゆっくりと剥がれた。 白きベールから浮かび上がるその姿、ディラックの空に仁王立ちする黒く明滅する表面装甲。 その姿は龍を纏う鎧騎士。 遠き記憶を持つものは小竹というコンダクターの最後の姿に思いを馳せるであろう、其の姿がギベオン艦隊の切り札。 その龍型をした超越的機械が備える武装は、ただ一つ右腕部に搭載された幾百もの世界計を束ねた破砕の拳。 アヴァロン・Oの駆る対イグシスト用強化外骨格は、余りの巨大さ故にスローモーションに見える超光速度の拳。 落とし子達を弾き飛ばしその中央に存在したチャイ=ブレへ破砕の一撃を叩き込んだ。 ‡ ‡ 大きな振動に艦全体が揺れる。 青白い光が艦内を走った後、電源灯が全て吹き飛び母艦――強化外骨格アヴァロンの内部は暗闇に包まれた。 「ついに来たか……二百五十年、俺はこの瞬間のためにずっと備えてきた」 遮二無二な修行でコンダクターの許される限界まで体と心を鍛え上げたと信じている。 ゆっくりと手甲を嵌め、その悠久の期間を確かめるように拳を握る。 一寸のズレもなく馴染むその感触は、トラベルギアではなく世界計の破片を変容させたイグシストを倒すための武器。 情報の特異点であるイグシストとの戦いにおいて、通常の武器は何ら意味を持たない。破壊という情報が新たな変容を齎すだけでエントロピーの喪失は発生しない。 ただ一つギベオンの作り上げた例外は、クロックギアと呼ばれる武具。 それを身に纏ったもの意志をエントロピーの喪失へとつなげることができる唯一の手段。 其の威力は外で応酬される破壊の群像に比べれば、蟻の一刺しに等しい威力に過ぎない。 それでもこのギアでチャイ=ブレの核を一撃することはチャイ=ブレは存在を薄め、真の世界計に押しこむ最後の一手になる。 桐島怜生―― 極限まで心身を極限まで研ぎ澄ました二百五十年の月日。 脚甲の紐を結びながらその心は透き通らんばかりに澄み渡っていく。 ――止めたる心、明るき水鏡が如し その表面に浮かんでいた枝葉――冷泉律との約束は同じ名前の少年によって果たされ、彼の心は漣一つなく澄み切っていた この戦いで消え去ろうとも如何なる後悔もなかった。 「怜生さん……いよいよですね。準備はいいですか?」 しかし、水面はまだ微かに揺れる ――ここで若者の代わりに死ねるならそれもまた良しか ‡ § イグ=チャイ=ブレ胎内 二百五十年前に起きた流転機関を手に入れるため突入したチャイ=ブレ胎内同様、イグ=チャイ=ブレの胎内は生臭く露わになった動物の内腑を思わせる光景であった。 しかし、この姿もただの見るものの主観の反映に過ぎない。本質的にイグシストは定まった形をもって存在してはいない。 誰かが想い、誰かが伝え、誰かが認識する、ことによって存在を変容させる、それが情報体の有り様。 イグシストの胎内とは、情報体としての力が優先される世界。 それは人間においては無意識と言われる類。 一つこの世界をの有り様を距離に例えるなら『長く歩いた。だから、もうすぐ着くはずだ』と考えればその後、目的の場所にすぐに着く。 しかし『無限の広さがある。到着できるはずがない』と考えれば、永久に目的の場所につくことはできない。 故に単純な思考をする人間か、イグシストの脅威を知らぬ人間こそがこの場には相応しい。 アヴァロンの拳は、イグ=チャイ=ブレの外皮を撃ちぬいた。イグ=チャイ=ブレの核は眼と鼻の先にある、そう考える人間こそが最も。 ガチ―ガチ―ガ――ガチ ガチ―ガ―ガチ――ガチ ガチ―ガチ―ガチ――ガ 歪に振れる時計の音が臓腑に染みわたる。 それはある時、ディラックの空に生成され、世界になりきれなかった世界計の音。 突如現れた扉一つを隔てた先にそれは『間違いなく』存在する。 「利津行くぜ、これがラストだ」 扉に手をかけようとした怜生の手が弾かれた。 二人の前に立ちはだかる最後のゲートキーパー。 それは利津と瓜二つの姿――冷泉律 「なるほど……ね。チャイ=ブレのやつも粋なはからいをするじゃねえか。 利津下がってろ、ここは俺一人でやる」 ‡ 凍りついた静かな闘気を吹き出す律の武は、地面から丁度胸程の高さ故に乳切木と呼ばれる棒。 神武不殺を唱える杖術の上に翠円派と呼ばれる殺人術を乗せた冷泉の業は、殺意によって貫く一条の線。 鏡面の如き表情に熱き闘志を隠す怜生の武は、軽く肘を曲げた払い手と柔らかく握られた腰溜めの拳。 我流を積み上げ、翠円派を捨てた一気通貫の鉄の意志。全てを砕く人の意地。 武を操るものにとって構えは言葉、明確な意志、迷いなき純粋な想い。 共に捨ての無い一撃必殺にかけると宣言する。 (……死ぬとしてもこれ以上の死に方はない……) 二人の少年――否! 極限まで鍛え上げたコンダクターとその達人が思う最強の強敵。 己に適する間合いを計り、摺足が地面を抉る。 必殺の意志を込めた視線は絡み合い一寸も振れることはなく。 毛の隙を生み出さんと放つ気当たりは物質的な圧すら伴ってみせた。 ――長く短い一寸の間隙 極限の武術を間近でみる少年が喉を鳴らす。 その音が引き伸ばされた弦が弾いた。 「冷泉律、参る!」 「桐島怜生、いざ!」 律の打ち出す両手の捻りは大気を撹拌する螺旋の槍。 対する怜生の踏み出し脚は左で半歩。二度音を立てる捻じり震脚が大地を打ち破る。 もうと沸き上がる粉塵、煙を形どる冷泉の軌跡と払い手が引き裂く白い軌道が重なる。 杖が砕け、手甲が爆ぜ、肉が抉り取られた。 暗闇に赤い珠と武の残滓が跳ね上がり、痛みが神経を走る雷速は、二人の間に横たわる時間に置き去りにされる。 認識よりも早く、怜生の腕は次の行動を決めている。 左手は、初めから捨てていた、振りぬいた払い手は律の乳切木を弾く。 がら空きの律の胸に怜生は正中の正拳を突きつける。 肉に触れ骨が砕ける感触が右手に走り―― 怜生の意識はそこで途絶えた。 ‡ (俺は……どうなったんだ……) 杖の触れ合う激しい音が響く。瓜二つの姿が入れ替わるように立ち代わるように武を舞う。 (……律……利津) 起き上がろうとした胸に激痛が走った。胸から半分程の長さの杖が突き出していた。 カウンターとなって突き刺さったのだろう――心臓が破れ内臓はぐしゃぐしゃ――致命傷だった (多節棍か……律め、澄ました顔でやってくれる……いや武術は虚実を操ってってことか) 微かに動く首を傾けると長い杖を持つ利津が短い杖の律を追い詰めている。 怜生の想像する最強の敵――冷泉律とただの一武術流派の師範代程度である利津の間には、絶望的な実力差がある。 しかし――怜生は右の手甲には律の服が張り付いていた、二人の戦いは相打ちだったのだ 胸を砕かれ瀕死の律と未熟な利津との戦いは、自ずと結果は見えていた――利津は律を倒す。 全ては終わる、チャイ=ブレがくたばるところが見れないのが不満だが…… 最後に律と本気で戦えた、それだけいい。 走馬灯のように風景が流れ始める。 二百五十年、思えば長く遠くへ来てしまった。 帰属しなかったことは幾度も後悔した、いや――利津が居なければ後悔したままだった。 『250年間、頑張ったんなら、その先の世界を見る権利はあるだろ! 死んでもいいなんて言うな。俺は怜生の250年を知らないけど、自分でそれを無駄にするようなことするな! 生きるためなんだろ、生きて夢を叶えたいから今踏ん張ってるんだろ!』 もう、この戦いで死んでもいいと冗談めかして言った時。 凄まじく激昂した利津の言葉が思い浮かぶ。 『皆が必死に用意してくれた兵器なんだ! 今、そこで生きてる俺が使わないで誰がやるんだよ! チャイ=ブレは俺たちで絶対に倒すんだ!』 「リツ――ごめんな。後は頼む――」 満たしたはずの心に残る微かな未練、それが何故か嬉しくて怜生は笑った。 ‡ ‡ ガチ―ガチ―ガ――ガチ ガチ―ガ―ガチ――ガチ ガチ―ガチ―ガチ――ガ 耳障りな不協和音が響く。 如何なる支えもなく浮かぶ、巨大な漆黒の砂時計。 それがチャイ=ブレと呼ばれ、イグ=チャイ=ブレへと変じた出来損ないの世界計。 この場に至ることができたロストナンバーはたった一人。 冷泉利津 「これがチャイ=ブレ……なのか、どうすればいい、俺は」 (怜生さんならともかく俺が、こんな巨大なものを倒せるのか) 迷いを振り払うために首を振った利津は、助走をつけて宙に浮かぶ砂時計にギアを投げつける。 一直線に飛ぶ棒状のギアは、砂時計のチャイ=ブレにぶつかり、砕けて消えた。 砕けたギアの破片がキラキラと宙を舞い踊る、耳障な不協和音に変化はない。 倒せるのか? 其の疑問は瞬く間に己への不信になる。不信はチャイ=ブレを倒せないと言う無意識に繋がり、無意識は現実になる。 全ての矢は潰えた―― 耳障りな不協和音が鳴る度に圧倒的敗北感が胸を埋める。 (負けた……怜生さんが、みんなが積み上げた全てが……俺じゃダメなのか……誰か) 膝を折り屈する少年は込み上げる吐き気を抑え胸を掴む。 硬い感触が掌の中にあった―― ‡ ――遠くで誰かが私を呼んでいる、後を頼むと ――遠くて私が叫んでいる、誰か助けてくれと ギベオン旗艦。 アヴァロンが突然空を見上げた。 『んー、アヴァロンどうした。もう乗るか反るかだ、後は待つだけだぜ』 「誰かが私を、私が私を呼んでいる。私は行かねばならない」 『はっ? 何言ってんだ。おい、アヴァロン』 エイブラムがモニター越しに見たアヴァロン・Oの眼は燃え盛る赤。 無機質な瞳ではなく、夕映えを反射する穏やかな海のような紅。 ‡ ガチ―ガチ―ガ――ガチ ガチ―ガ―ガチ――ガチ ガチ―ガチ―ガチ――ガ 耳障りな不協和音に少年の嗚咽が混じた。 イグ=チャイ=ブレを破壊するすべは失われ、ギベオン艦隊は壊滅し壱番世界は貪り喰われる。 それが確定した未来――察したが故に少年は無力に泣いた (誰か、本当に誰も居ないのか、誰か俺を助けてくれ……) 耳障りな不協和音が少年の嗚咽と唱和する、地面を叩く少年の拳のリズムに一つ足音が混じった。 「アヴァロン……さん、何で此処に」 「君の声に応えて、私よ」 機械の銀ではなく穏やかな紅い瞳、無機質ではなく情の篭った声。 己の知るアヴァロンと大きく違う彼が己の名前を告げた。 「私の名前はアラン。異世界の私よ、君はまだ戦える」 「アランさん、でも俺にはもうギアもない……それに俺では……」 「手に掴んでいるものを見るんだ利津」 握りすぎて硬直していた拳をゆっくりと開き、そこにあるものを見つめる。 ――動かないコンパス 「分かっているだろう利津。君は受け継ぐんだ」 コンパスに篭もる思い――自分と同じ名前の人が怜生が駆け抜けた世界への 利津の目に強く静かな意志が灯る、失われた人から受け継いだ意志。 「ギアは此処にある。この私がギアだ、私の力を全て解放すれば、必ずや世界計を破壊できる。頼む冷泉利津」 言下にある意味、それは―― 「アラン、わかったよ。じゃあ行こうか――」 ‡ ‡ ディラックの空を巨大な流星が流れていく。 それらは流れ流れ果ての駅に至り、全てを吸収され消えるであろう。 永きに渡り、幾多の人々を束縛した宿業は今終わりを告げた。 ‡ ‡ § ゼロ世界 チャイ=ブレとの戦いは終わりを告げた。 世界は変容を遂げたが平穏な日時は取り戻された。 新しいゼロ世界も以前と変わりのない、チャイ=ブレと世界樹だけがなくなった0世界として時を刻み始めた。 二百五十年に渡る技術の変容は、ゼロ世界をただの世界群の一つと変えていたが、それも住む者達の安寧には全く関係がないことだ。 ナレッジキューブではなく、世界計の破片を機関にするようになったロストレイル号の発着場。 この世界を作り上げた二人の女性が別れを告げていた。 「それではここでお別れなのです! ゼロは世界群の外を目指して旅に出るのです」 「ええ、さようならゼロさん。私はもう少しここにいることにするわ、何か起こりそうな気もするし」 抱擁する二人の女性。背の高い乳白色を纏う女性が額に軽くキスをする。 「オマジナイよ、いつか目的を果たした友人と再会する幸せを願って」 ‡ 「それじゃあ、俺は行きます」 共に戦った仲間達に見送られて少年は再び旅に出る。 動かないコンパスの指し示す方向に向けて。 新たな旅路に踏み出す一歩に後ろから追いかける声が重なった。 振り向いた少年は笑う。 「遅かったじゃないか」 ‡ § ワールズエンドステーション イグシストとの戦いが終わった後もラグレスは真なる世界計に取り付き、無限の情報を貪り続けた。 帰属などは致しませんぞ 知り得てしまった世界の広がりを自ら狭める等最早到底無理難題 我々は人に作られた存在故に人の因果に縛られぬとは主の弁 即ち主は何某かよりの脱却を夢見ていたのでしょうか 主に夢を見ているのは私でしょうか然もありなん 物と者の狭間にある無窮の生に終着駅はございません 世代を移り変える事無くただ現に在るのみなのです昔も今も 無限を無限に倍する情報を体に収めた彼は、何時しか真なる世界計となりラグレス世界群を形成するが、それはずっとずっと遠い、銀河が寿命を迎えるその時より先の話。 ★ ★ ★ § どこか未開の世界 チャイ=ブレとの戦いのさなかに行方不明になっていた、二十八号、モービル、エータは見知らぬ世界で気がついた。 緑豊かだが、厳しい世界。 モービルの世界と似ているところがあるが、月の色が違っていた。 土地の蛮族によると三人が漂着した夜に、流れ星が降ったという。エメラルドに輝く月をかすめ、そらを線が横切り、近くに落ちた。 そのためか、二十八号、モービル(蛮族が認めるだけの屈強な肉体があったことも幸いしている)はなにやら戦士座の眷属と間違われたよう。エータはただの物として扱われた。 エータはこの未開の地に関心を示さず、二十八号の持ち物として、集落に放っておかれるに任された。 パスホルダーもトラベラーズノートも機能しなかった。 そのことによりチャイ=ブレは倒されたのだと判断された。しかし、ロストナンバー達と連絡は取れない。 部族とともに狩りに出向けば、気も晴れる。 ある日、族長の息子が狩りの途中に怪我をした。獲物を追い込む途中に、沢に滑落したのだ。肉食獣と戦ったわけでもなく、不名誉な負傷だ。 部族は、若者を見捨てた。 モービルはやるせなさにとらわれ、薬を探すと言い残して一人山に入っていった。 二十八号とエータだけが残された。 死を待つ若者の天幕に二十八号が入る。 「君を助けることはできます。しかし、これから君の仲間、家族、部族彼らとは二度と会えなくなるかもしれない。それでも君は行きますか」 若者は苦しそうに見上げるしかなかった。 すると、二十八号は一つの歯車を懐から取り出した。 「これは、歯車というのだね。動力を伝達するためのものだ。大きい力を小さい力に、小さい力を大きい力にかえることが出来る」 エータの説明に、若者は不思議そうにそれに手を伸ばした。 歯車は世界計の部品である。 二十八号はチャイ=ブレとの戦いで、これを使い損ねた。 或いは、使わずにいたからこそあの激闘の中から生きて、ここまでたどり着くことが出来たのだろう。 「世界は広い、そして世界の外にも世界が広がっています」 二十八号とエータは冒険の旅の話をした。 若者は二十八号とエータのどちらにも劣らず知識欲が旺盛で、多くの質問をした。 一晩二晩が過ぎた。 そして、モービルが手ぶらで失望のみをかかえてかえってきた時には、若者の傷は癒え、その代わり、彼は覚醒して永遠にこの世界から去っていた。 モービルの眼前には空の寝台と、世界計の歯車があった。 手にとって、転がし、感触を確かめてみる。 「私は、兄を助けたかっただけなのか……」 天幕から出てみると、ロストレイル号が留まっていた。 世界計の活動が感知されたのか、螺旋特急はあの戦いで行方不明になったロストナンバー達を回収して回っているという。 「世界群にはさまざまな可能性が散らばっている。旅を続けなさい」 モービルはそのままゼロ世界に戻らず、世界群を巡る旅に出た。大剣には、世界計の歯車がはめ込んである。 二十八号はゼロ世界で、深い思索の瞑想に入ることにした。 エータは、後日、ワールドエンドステーションのオリジナル世界計に挟まっているところを発見された。その事件で、多くの世界計の破片が世界群にばらまかれ、騒動となった。 だが、それはまた別の物語である。 ‡ ‡ 戦士座の眷属を失った部族は、当惑したが、希人にはよくあることとしてすぐにそのことを忘れた。 物語が伝説になったころ、部族は新しい希人を迎えていた。 当初部族の戦士達は希人は女のくせに角も鱗も牙もないと侮っていたが、じきに彼女が狡猾な狩人であることが知れると、部族に迎え入れた。 必然の流れとして求婚されることとなる。 「んー。いいけど、ルン、依頼をこなしたら帰る」 依頼という、聞き慣れない言葉は無視され、素朴な婚礼が開かれた。 婚礼の儀が最高潮を迎えるのは、太古より眠り続ける幻獣に結婚の報告をするところだ。幻獣は差し渡し戦士十人分の大きさがあった。 歓声が悲鳴に変わったのは、とうに死していたはずの幻獣がとつじょ前足を伸ばし、まじない師をなぎ倒すと、またがってバリバリと食べ始めたことだ。 一族の守り神が動くところを初めて見た参列者達は恐慌をきたした。 立ち上がってみれば、雄々しい角が天をつき、更にその大きさが増した。 それは壱番世界で言えば、檮杌とでも呼ぶべき獣だった。針の毛に覆われた牛のような体躯で、鱗に覆われた部族の者より、ルンの方がその姿に近かった。 それ故の親近感は、たちまち畏怖へと転じる。 「ルン、依頼こなす!!」 嫁入り道具に携えていた弓矢を構えると、一射。 やぐらを突き崩し、降って湧いた苦しみに暴れる獣。 哀れ、花婿は押しつぶされていた。 部族は、ようやくに『依頼』と言う不吉なことばの意味を悟った。 ルンと檮杌の戦いは木々をなぎ倒し、罠を仕掛け、追い込み、沢を飛び越え、月影に踊り、三日三晩にわたった。 エメラルドの月がきれいなよく晴れた晩だった。 葉々の隙間からお互いの眼光が刺さり合う。 ルンはツタにぶら下がりながら、谷を滑空しようとしたところ、ツタが切れ宙に放り出された。 好機とみた檮杌は大きな口を開けて跳びかかる。 が、それはルンの仕掛けた罠であった。切れたツタの反対側で倒木を支えていた戒めが取れ、檮杌の眼前に迫った。そのとき、ルンは幾度目の矢を放った。 矢は狙い過たず、檮杌の口蓋に吸い込まれ、脊椎に刺さった。神経を打ち抜かれた獣は四肢を大きく広げけいれんした。それはルンの罠を軽く粉砕し、その残された片眼は仇敵であるルンを見据えて、エメラルドに夜をうつしていた。 月が覆われる。 空中のルンは、上から降ってくる断末魔の巨獣を避けることが出来なかった。 地に叩きつけられる。 ルンは下敷きになり、腰から下を挟まれた。 「あれれ、動けない」 どんなに腕に力を込めても、檮杌の死体はびくとも動かなかった。足の感覚が無い。 ひょっとしたらちぎれているのかも知れない。 戦いの音がやんだことにより部族の勇敢な戦士達が、おそるおそる崖の上からのぞき込んできた。 しかし、彼らは檮杌がまた動き出すのではないのかと怖れて、ルンを助け出そうとしなかった。どうせ、彼女の花婿は既に死んでいるのだ。 ――ルンは死んで神さまの国に来た。 だから神さまの役に立つ 薄れて砕けてまた死ぬまで ルンはここの住人 かつて、ルンはロストナンバーになったばかりのころ、そのようなことを言っていた。 「ルン死ぬの二回目? つぎ、あるのかな?」 死んだ獲物の鼻頭を軽く叩くと、動かなくなった。 ★ ★ ★ § ゼロ世界 0251 「うん、結構楽しめたけど。これでお終いね。おじちゃんも消えちゃったし」 足元に砕けたクロスボウを踏みにじり、少女は子供が飽きた玩具を放るように人型の機械を投げ捨てた。 0世界にもはや生き物の気配はない。リーリスに恐れをなして逃げたのだろうか、チャイ=ブレの気配すらしなかった。 「みんな、逃げちゃったの? もっとお祭り楽しもうよ」 リーリスはまだ気づかない。己の周囲の風景が大きく変わっていたことに。 § 最後の魔女 「ええ、皆、この世界から逃げました。そして、チャイ=ブレは既に消滅しているわ」 「へぇーいつの間に? リーリス全然気づかなかったけど??」 見た目の相応のキョトンとした表情を浮かべるリーリス。 「ええ、ティーロさんが最後の魔法で貴方の時間を凍結しましたから。 悠久の牢獄、凍れる時、封印の縛――貴方は微動だにすることがなかったわ……そして、誰も触れることもできなかったけど。 でも私が来たからそれは終わり。 私の前では全ての魔術が、全ての魔法が、全ての奇跡が、全ての祈りが、そして、全ての存在が消える」 「ふーん、じゃあ貴女のお陰で、リーリスはおじちゃんの魔法から解放されたってこと?」 最後の魔女は首肯すると彼女の鎧がガチャリと鋼が咬み合う音を立てる。 「それじゃ、お礼しないとね。苦しまずに、すぐに殺してあげる。逃げていった子達を追いかけないと、まだまだ楽しみ足りないの」 リーリスがぱちぱちと瞬きする、それだけでも人を消するには十分過ぎる魔力。 しかし、最後の魔女は何事もなかったように存在を続け、唄うように言葉を紡ぐ。 「長かったわ……この数百年間。 『最後の地』を求め、あてのない苦痛に満ちた旅を続ける日々。 それが今、ようやく終わる……。そう、今私が立っているこの場所こそが『最後の地』 最後の魔女が最期を迎えるに相応しい場所」 「何を訳の分からないことを……少しは力があるみたいね。いいわ、それなら直接殺してあげる」 まともに会話にならない最後の魔女に、少し苛立たしげな表情を覗かせたリーリス。 その細腕が鎧ごと首を掴み握りしめ――れない。 力が全く発生しない――見たままの十歳の子供の力しか―― いつの間にか翠色の水晶破片が最後の魔女とリーリスの周囲を舞っている。 魔女の手がリーリスの手を握りしめる。 強くない力、それでも振りほどけない、ハッとして見上げたリーリスの目に映る魔女は、ただ天命を悟った聖人のようであった。 「さぁ、今こそ約束を果たしましょう、リーリスさん。私達は本来存在する筈の無い存在。存在してはならない存在。私と共に次の地平へ旅立ちましょう……」 最後の鍵で砕かれた竜の硝子細工。 魔女と少女の脚元にある砕けた台座から翠が吹き上がり続ける。 最後の鍵は扉を開けた――存在してはならないものを、世界の歪みを全て消滅させる扉を。 翠が世界を埋め尽くす、その中央に居た最後の魔女とリーリスもまた。 「……やめろ……やめて……やめな……」 如何なる力も終わりには抵抗できない、この世界は終わる、それは同じ世界ができた時に起こる必定。 「思い出したわ。全ての記憶を。私はこの刻の為に存在していた」 彼女は、最後の日を唄い続ける定めを負った哀れな少女。 世界と共に消え去り、次に世界が消失するその刻まで、安らかな眠りと楽しい忘却の中に生きることが許される。 「またねはないわ。さようなら小さな女神様」 崩れ落ちる空、崩れ落ちる大地、崩れ落ちる世界、そして自分―― すべてが消えた空の中で己の発する音だけが、ただただ反芻し続けた。 最後の魔女と呼ばれた少女は、其の記憶と存在がなくなる瞬間まで、この体が好きになった歌を歌い続ける。 ‡ 「世界を検索して貰いたいのです。全ての世界郡の中枢に位置する、階層が変動する事のない世界』はいくつあるのです?」 ワールドオーダーの頭上に文字とも記号ともつかぬ謎のモノが明暗を繰り返し、その答えを返す。 「その条件に合致する世界は1個あります」 ★ ★ ★ 客観では測る手段はない。主観で言うところのとてつもなく長い時間が過ぎた。 ★ ★ ★ チャイ=ブレもゼロ世界もギベオンも何もかも全てが忘れ去られた遠い遠い未来。 幼い精霊竜フラーダは、故郷の世界を見つけ帰属していた。 世界は『闇』に凌辱され滅びの縁にあった。 だが、まだ『光』は死んでいない―― 死んでいなければやり直せる。バランスは、元に戻る。 幼き竜の心に湧きあがった恐怖を上回る使命感。 それを胸にフラーダは世界を翔び、『闇』を裂き、戦う。 それは果ての見えぬ暗闇を何千何万もの灯火で照らそうとする気の遠くなるような戦いの日々。 『闇』に汚染された自然を、人を、竜を、神を――全ての存在に光を灯す 其の戦いの中でには、いつか神託の夢で見た光景もあった。 『闇』に汚染され、邪悪な自我をもった樹木との戦い。 その頃には幼い竜は強く逞しく成長していた。 言葉遣いもしっかりとしたものとなり、昔のあどけなさなど消え、強く凛々しい顔になっていた。 世界を駆けまわるフラーダ。『闇』と戦う『光』の竜、その噂は希望と共に世界に飛び、 昔の英雄に先代が殺されてから何百数年ぶりの白き精霊竜の再来に人々は歓喜し、安堵した。 神も祝福と共にフラーダを迎え入れた。 皆の希望がフラーダの心の支えであり、同時に責務でもあった。 神話の存在ではなく、ロストナンバーとして過ごした精霊竜は護る力の根源を知っていた。 ‡ ‡ 虚無を羽ばたく巨大な黒い竜の姿があった。 竜は不滅でありイグジストであった。 竜はとある世界にこだわっていたはずだ。その理由は長い刻をかけて収集した雑音の中に埋もれていった。 ただ、時折、うまそうに取り出す記憶。 死してなお、自分が生きていると信じこむ、哀れな魂すらない記憶。 ――美味。 しゃぶってもしゃぶっても尽きぬ石榴。 ふと、魅力的な芳香が漂ってきた。光り輝く世界。 ――其はなんぞ。 気を引かれ、黒竜は自慰する舌を止めた。 ‡ ‡ フラーダの世界は、徐々にバランスを取り戻しつつあった。 闇は光に照らされ朝靄のように溶け消える。大地に陽が差し、新しい命が芽吹いた。 何十年とかけて、徐々に世界は光に包まれていく。 人々の顔に喜びが戻り、フラーダの心に安らぎが生まれた頃――それは起きた。 相剋――光が強くなれば闇は其の姿を強くあわらす 宙より『闇』が落ちてきた。 星を包む竜の姿をした『闇』が。 その闇は、嘗て英雄を取り込み、英雄を殺し、この世界を凌辱した『闇』そのもの。 再び現れた『闇』は星そのものを漆黒に染めた絶望になっていた。 人々の顔が絶望に染まり、世界のバランスは再び崩れ始める。 膝を居る人々、其の前で唯一『闇』を見据え立つ竜――希望の白い姿 フラーダは成長していた。 先代、そして神以上に。ロストナンバーとなった運命が、ヴォロスの守護者達と同様に、世界を護る意味を知る程に成長していた。 十数メートルの身体は、闇に比べれば塵にも等しい大きさ。 だがそれでも、フラーダは目に白き光を宿し飛び上がった。 フラーダ――護る!!! 空を覆う闇の天蓋が、真昼のような白に染まった。 後に伝説は語り継がれる。 光の精霊竜の伝説が。
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