ターミナルにいくつかある墓地の一つ。 その内の一つには、特徴的な墓碑が有った。 そこに刻まれている名はない。 ただ、句が一句、刻まれているのみ。 ――汝の悼む名を懐え 故郷から放逐され、懐かしき人がどうなったのか、定かではない0世界。 しかし時は常に流れ行く。 其の中で、おそらくは亡くなっているであろう、近しいもの。 亡くなっている事を知りながら、故郷に戻れぬがゆえにその墓前に立てぬもの。 この世界において知り合いながら、他の世界でその生死が不明となったもの――おそらくは、その運命が確定的なもの。 誰にも看取られず、忘れ去られたもの。 そのような者達を悼む為に建てられたと云われる、その標。 ひっそりとした墓地。 深閑の空間にいる少女は、今日も一人、仮面を身につけ墓所に佇む。 かつてマスカローゼと呼ばれた少女。 彼女は今もまだ、そこに仮宿を構え、日々を過ごし続けていた。 ふと、物音がして少女が振り返る。 そこには、誰もいない。 ただ杜が涼に歌うのみ。 ふと、思う。 かつてこの墓地を訪れては旅立っていった彼方のもの達は今どうしているのだろうか。 かつてこの墓地で言葉を交わしながら最近訪わぬものは、今いかにしているのだろうか。 ただ杜の声だけが響くその墓地で、彼女は一人、物思いに耽っていた。======<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆するシナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。======
13号が帰還して、20年の時がたった頃――ライベは故郷たる世界に、足をおろしていた。 「心臓に呪われし母よ。長の不在、許し給え――さぁ、私が帰ってきましたよ」 くつくつと笑う男の顔に現れるのは喜び。 軽く情報をとって回って理解したのは、今なお魔物との戦いが一進一退のままであるということ。 遅すぎなかった。 魔物と人との決戦に送れずにすんだ。そのことがありがたい。 「これもとっさに炎魔法を残していったせいですか。まぁ、この現状を鑑みるに、正しかったのでしょうね」 それは誰かが聞いたとして、意味の分るセリフではなかったことだろう。 別に、ライベも誰かに聞かせようとしているわけではないようだった。 元々、炎、氷、雷は魔物側の魔法。 それを人側にしたのが、彼の母だった。 本当は対抗である地、水、風の魔法だけが元々人側が用いるもので、残る三つは、ただ人がそれを真似て扱えるようになっただけに過ぎない。 ここは、そういう世界だった。 故郷へ帰ったライベが為すのは、無論戦い。 それだけが彼の存在意義、今なお生きる、そして帰還の理由。 それに、母の呪いを解くには、『魔竜の脳髄』を調べる必要があった。 ただただ、ライベはその機会を待ち続ける。 魔竜を狩るもの。その位置にある理由はただ一つ。 魔竜の脳髄を倒す必要がある、ただそれだけのことだった。 そしてそれが目的の全て。 それが成せた時――ライベは兄弟たちと共に消滅するだろう。 それが、「魔竜より生まれし者」の決まりであると、彼らは己に言っていたのだ。 いつになろうと、私はそれを成すために。 街の街路に張り出した席で珈琲を味わっていた彼の後ろの席に、情報屋である兄弟が、腰を下ろす。 「頼まれていた情報だ――」 それは、新たな戦いの日々に刻まれる、一頁の冒頭句。 まあ、私の「慈悲なぞ無い」精神を満たすためもありますけれどね。 † † † かつてヴォロスにて、竜と同化した人間がいた。 0世界にて、世界計をその身に宿し、狂った科学者と自爆した人間がいた。 インヤンガイにて世界を壊そうとした魔王がいた。 チャイ=ブレの中の者は、どうなったのか。 図書館と旅団の戦いにて多くの命が失われた。 多くの者が帰属し、天命を全うしていった。 妾は、まだここにいる。 竜というもの。それに纏わる神。かってヴォロスのその地で崇め称えられていた信仰も、やがて薄れる。 それでもヴォロスの宙には未だ竜が守護しているのだろう。 フアンが見上げる空は、色みのすくない空。 視線を移せば、常緑の緑。 無数に地に置かれた、苔一つ無い墓石達。そして、墓守。 横たえたその身は、長大な竜としての姿のまま。藤紫色のその地肌を地面に触れさせ、ただ只管時の遷ろいを眺めている。 そこは、いつもと変わらず、これまでとかわらない。 この0世界にて起こった戦争など遠い昔話。 知っている者の方が圧倒的に少なくなった。 いずれも再帰属するか、元の世界へ戻るか。チャイ=ブレを倒すための研究に心血を注ぐようなものも、中にはいるのだが。 だがたとえ知っていても、大半の者の記憶からは消えつつある。 人は――人でなくとも。過去を忘却の溟に沈め、それでようやく歩み出せるものが、多いのだから。 世界計を宿した者も、狂った科学者も、チャイ=ブレに飲まれた者も、記録としてしか残らぬ。 それでも、自分は忘れないでいようと思う。 魂の行方、それは世界の掟によって変わるのだという。 魂となってもその世界から逃れることはできぬのだというのならば。 ならばでは、我らは。そして彼らは。 この銘なき墓に眠る者達は。 世界から外れた身の魂は、果たしてどこへと誘われるのか――。 風が、また一迅。 共に、救える世界を救っていた同胞は、見つけるべき世界、というよりも己を大事に思ってくれる若子に連れられ離れていった。 良きことかな。そして羨ましいことかな。 幾多の年月が過ぎ、各々の世界の変遷を見てまわってきた「彼女」だからこそ、変わらぬ生き物の本質を見守りたいと、思うことが増えた。 「……どうにも、ふとしたらここで考える癖がついてしもうたのぅ」 地面に横たわり名もなき墓を、墓守を遠くから眺めやる竜は、誰共なしにつぶやいた。 目の前で風に揺れている枯れかけた花を一輪摘み取り、戯れに生を吹き込んでやる。 理の外より己の考えを貫くことが、理の内にあるものにとって、どれほど傲慢なことなのか。理解はしているが、譲るつもりは、またない。 これが妾の選んだ道。これが、妾が進む道。 妾は、まだここにいる。 † † † ワールド・エンドステーションに至って後、数年。 ティーロは壱番世界を謳歌した後、己の故郷の階層を見出してターミナルを旅だった。 伴とするのはただ、デウスだったものを封じた指輪のみ。 「なぁ、デウス。お前もいろんな世界、みたいよな?」 無精髭を生やした顔に笑みを浮かべ、指輪に語りかけるティーロ。 自らの世界を目指す旅の途中で、様々な世界を渡り歩き、様々な世界を見て回った。 その果てに、彼は己の世界へと辿り着く。 こらした目で見据えた先。 その旅路の果てに、彼は懐かしき地へと舞い降りる。 ――そこは、異世界からの帰還者を受け入れてくれる、彼の故郷そのものだった。 「遅い帰還だな」 忌々しげな視線を投げかけてくる将軍の声は、硬く、強い。 「は、殿下におかれましてはご機嫌よろしいようで、何よりです」 「何がよろしいかこの愚鈍が」 おい、また愚鈍かよ。 思わず内心で突っ込んだティーロだったが、顔には不敵な笑みを浮かべて顔を上げてやる。 「異世界に旅立っていたとのことだが、宮廷魔術師の身分でどれだけ長い間この国を不在にしたと思っている。少しは反省してみせんか」 椅子の肘掛けに右肘をのせ、かるく拳の形にした右手に顎を載せたけだるい格好で追求する相手。 さて、何からいおうか。 「そうですな、殿下。そんな不詳の宮廷魔術師ですから、どうでしょう、引退しようと思うんですがね」 かく、と相手の肘が砕ける。相変わらず面白い人だな。 「お前は本当に阿呆か!?」 「人の顔を見るなり愚鈍やら阿呆やらないでしょうが」 アハン? といわんばかりに肩をすくめるティーロ。壱番世界で無駄に色々みた経験は、挑発に使うには大概身のあるものばかりだ。 案の定、姫将軍――もはや普通に将軍か。の額に青筋が浮かんでいるのが見て取れた。 「貴様がいない間もその職が空白だったのは、な。見合うだけの人材がいなかったからだ。やめるなら勝手にやめろ! だがその前に弟子くらいは作って残していけ!」 「はいはい。かしこまりました」 もういけ、というように手振りで示されたティーロはそれだけ言うと、マルツィア――いつの間にか、ティーロとほぼ同じ年齢になっていた――に最敬礼をして、部屋を出ていこうとする。 「あぁ、おい」 なんですか――そう言おうとして振り向いたティーロ。そこには書類を見ながら(そしてとても不満そうにしながら)座るマルツィアの姿があった。 「よく、戻ってきた」 「殿下にお会いするためだけですよ」 「こ、この――っ!?」 数度瞬き、くつくつと笑いからかうような調子で言うティーロ。動揺を隠せず書類の束を床に落としたマルツィアの様子に満足してティーロは今度こそ執務室を後にする。 閉まった扉に何か非常に固いものが投げつけられたかのような音がした。 † で、どうしてこうなるかねぇ。 戻って数年。急仕込みの弟子に宮廷魔術師の職を押し付け、独身のまま、都より少し離れた島で悠々自適な隠居生活を送っていたはずのティーロは今、光に包まれた巨大な「神」に相対していた。 「あん、何でお前がでるのかって?」 指輪に宿る友人――デウスの問いかけに、ティーロは苦笑して答える。 「あれの素体になってるのさ、前にやんちゃしてたところを俺が痛めつけてやったんだが命だけはっていうんで放り出したのさ。そしたらまぁ、今度は先祖と融合してパワーアップして舞い戻る? 少年漫画でもあんまりねーよなほんと」 くっくっと笑ってティーロは、白く輝く光――熱の余り、目を焼きつくさんばかりに輝くその「神」に向かい合っていた。 絶対防衛圏侵入まで、あとしばし。 「ま、オレが甘ちゃんだったからだな。俺が責任とらなきゃなんねぇだろ」 少し距離をおいて立つ、何人もの他の国の王子や、魔導師。 かつてない世界の危機に、再び合従連衡がなされた珍しい光景、というところだった。 ――いつもそうして協力してりゃいいのによ。 思う気持ちは、内心のみにとどめおく。 「なんかこの光景、前にも見たことある気がするな」 天空で輝き、ゆっくりとこちらへ移動してくる光の魔人。 コタロや、撫子――懐かしい友人達の姿が、思い起こされた。 「あいつらの子供さ、ああお前の兄弟な。スゲェ力持ってるらしいぜ」 「ティーロ!」 デウスに語りかけていた彼の背後から、マルツィアが声をかけてきた。 騎上の将軍は、身軽い調子で愛馬から飛び降り、かけてくる。 「勝てるか?」 「やってみなきゃわからんでしょうよ」 不敵に笑うティーロに、マルツィアが舌打ちする。 「わからんとはなんだ、勝て!」 相変わらずわがままな姫さんだなこの殿下。 ま、そこが可愛いんだけどな――年とったんだから、少しは落ち着けよ。 とはいえ、そりゃ俺も一緒か。 苦笑して、ティーロは語りかける。心とは違い口調は少したどたどしさが出てしまう。 「あの、さ。なんだ、その。これが終わったら――殿下、一緒になるか?」 一瞬何を言われたかわからないとばかりに目を見開いたマルツィアが、顔を真っ赤にさせて、叫ぶ。 「遅いぞ! この愚鈍!」 さて、いきますかね。 左頬には張り手の痕。 右頬には思ったよりも柔らかかった感触を残して、ティーロは不敵に微笑んだ。 他の面々が、次々と光の魔人へ向けて突撃をかけていく。 「今度こそアレだな。死ぬな、オレ」 死亡フラグもたんまりまいたしナー。 とはいえ、思い残しはあんまりない。チャイ=ブレについても、出来る限りのことはした。 後は――まぁ、僥倖が起きた時に考えよう。 魔人に近づくにつれ、光に視界がやかれていく。 ――その後彼らがどうなったかは……誰も、知らない。 † † † その日も、ゆっくりと梢を揺らす風が、涼な音を立てていた。 夜もなく、昼もなく。時の遷ろいを感じさせない常緑の緑の下、薄明の差し込むその墓地を榊原は訪れていた。 ゆるゆるとしながらも一定の歩調で歩む途上には、下草を管理している仮面の少女のしゃがみこんでいる様が見て取れる。 小さく鳴った音につと視線を向けてきたその仮面越しの瞳に、榊原は小さく顎を上下させ、挨拶を送る。 マスカローゼもまた、慣れたものであったのだろう。 二人の間にそれ以上のやりとりが重ねられることはなく、どこか森の奥から聞こえる鳥のさえずりを背景に、生死不明の青年と、常に己を殺し続ける少女は交差する。 榊原は、ゆっくりと碑銘の無い墓碑の前に立つ。 別にそこで誰かを悼むわけではない。 ただ、この空間が自然と己の心身に馴染んでくれることにささやかな喜びを覚えているのだ。 そして彼はしばし佇んだ後、その感謝の証として香りを嬉しむことのできない花束を供え、一つ一つ、墓碑の周りを清めていく。 そうしている間も、この区域に降り積もった沈黙と静謐は死にも生にも属することの出来ない薊を優しく包み込んでくれている。 前来たのはいつだったでしょう。 ふとそんな疑問が浮かんだのは、丁寧に整えられた下生えや磨き上げられた墓碑の一角に、そろそろ花弁が落ちてしまいそうになっている、誰かの供えた花の姿を見た時だった。 薊がこの墓地を訪うのはそれほど頻繁に、ではない。 数年、あるいは10年に一回の訪問。それでも長い年月を積み重ねる中で、墓守の少女とそれなりの顔見知りになる程度の回数は訪うているのも事実だ。 黙々と作業を進める二人。 だが、その空間はしばしの時を経て、唐突に破られた。 「ローゼ! 来たぞ!」 † トレードマークとすらいえる着物に麦わら帽子。 手には苺のかごを抱えたソアが墓地を訪れたのは、チャイ=ブレの体内へロストナンバー達が侵入して、帰還できないものが出て。 そして13号が旅立ち、帰ってきて。 そうした一連の事象がすぎてしばしの時が経ったころのことだった。 あの人は、結局帰ってこなかった。 ソアが思い浮かべるのは、褐色の肌、人を食ったような笑み、粗野な態度。それでいて女子供に優しい妙な男の煌めく、瞳。 あの人にはいっぱいお世話になった。そんなに凄く親しくしていたわけではないけれど、でも、そんな私ですら寂しいし、悲しい。 ソアは知っていた。多くの人の前で沈黙を守り続ける仮面の墓守が、その彼の前では例外的に感情を出すことが多かったことを。 今では、彼女がそう出来る相手は、殆どいないのだ。 一見した様子はいつも変わらない仮面の少女の内心を想像し、ソアはその優しく穏やかな胸の内が、少し締め付けられるようになるのを感じた。 彼女が本当はどんな気持ちなのか、わからない。それでも、とソアは思う。 お話を、したい。 あの人のかわりになれるわけではないだろうけど、「友達になってやってくれ」と頼んできたあの人の言葉に従うわけではないけれど。 わたしが、わたしにできる形でマスカローゼさんと接し続けていきたいと思うから。 「あの、マスカローゼさん。苺、どうですか?」 墓参りをすませたソアがそう問いかけると、墓守は不思議そうな視線を向けてくる。 「美味しいですよ! 食べてください。美味しいのを食べると、笑顔がでます。明日の活力になりますよ!」 「――ありがとう、ございます」 若干の困惑を見せながらも、素直に受け取るマスカローゼの様子に、少しだけソアは安心する。 だからどうした、そんなものはいりません、と言われることまで覚悟していただけに、いささか拍子抜けした感も否めない。 ただ、受け取ってもらえた事自体は、素直に嬉しい。 「あ、あの!」 勇気を振り絞って本題を。 不思議そうに小首を傾げる少女の手をとって、目を見つめて、ソアは言う。 「マスカローゼさんがわたしのこと何とも思っていなくても、わたしはマスカローゼさんのことお友達だと思ってますから」 言った。言った瞬間、なんだか気恥ずかしくなって、下を向いてしまう。 「あ、その……でも、あの、迷惑はかけたくないから、煩わしく思うならそう言ってくださいね」 真っ赤に頬を染めながら言うソアの手が、小さく握り返された。 「ここは、誰でもが訪う場所です――誰であろうと、拒む理由はありません。お茶を楽しみにいらしていただいても、私はかまいません」 ほんの少し、声に笑みが混ざっている気がして、ソアはぱっ、と顔をあげた。 その時にはもういつもの無表情のそれであったけれども。 良かった、とソアは心からそう思う。 その次の瞬間、初めての「嵐」が訪れた。 † 「お前が墓守だな!」 輝く黄金の髪、全身の刺青、猛獣の牙のアクセサリを身につけたバーバリアンの狩人が墓場に乱入したのは、ソアが初めて本格的にマスカローゼと交流を始めた、まさにその時だった。 「いざ勝負だ!」 「な、なんですかっ!?」 混乱するソアを脇におき、ルンは狩猟刀を抜き放つと、マスカローゼに向かって、大上段から振り下ろす。 切られる、ソアが胸を掻き抱くようにして目をつぶったが――数秒後。おそるおそる開けた目に映ったのは、半身をひねって刃先から逃れつつ狩猟刀の峰の部分を片手で掴み、ルンの首に小柄をあてるマスカローゼの姿だった。 「何の真似ですか?」 少女の声は当然ながら、硬い。 「凄いな!」 だが帰ってきた応えはよく意味の通らないものだった。 「ルンの剣、そんな簡単に受け止めるとは凄いな墓守! 名前はなんだ?」 あまりに一方的な言い振りに、墓守は呆れながら、そちらから名乗られては、と応じる。 幾分か苛立ちを含ませるもの。 「ルンはルンだ。お前は?」 「マスカローゼです」 端的に応えるが、ルンははじけたような笑みを見せる。 「分かった、ローゼだな。ローゼ、何故こんなところに引きこもってる。外はいろんなことがあって楽しいぞ! な、ソア!」 急に話題を向けられて、ソアは慌てる。 「え、あ、その……」 思わずあわあわとした彼女にこだわることなく、ルンはマスカローゼへ向き直った。 「な! ソアもそうだと言ってるぞ!」 いえ、まだ言ってないですけど――虚しいツッコミは言葉になることがない。 「私はここにいるのでよいのです」 淡々と応じたマスカローゼの左手を、ルンがとった。 「ローゼ、動くのいやか? 死にたい死人か? わからんが、わかった。よし、一緒に依頼に行こう」 「いえ、ですから……!」 流石に全く話を聞かないルンの様子にいらだちを隠せなくなってきたらしい。 少々声を荒らげかけたマスカローゼだったが、重ねられるように、ルンの一方的な託宣が降りてくる。 「数字は生きてる、ないは死人。死人は死なない。死にたければ、動け。死ねばまた生まれる。大丈夫、お前強い。見れば分かる」 意味がわかりません!! そう言いたそうなマスカローゼの気配を、ソアは濃厚に感じた。 だが、当のルンはといえば待ったく感じた様子がない。 「さぁ、図書館いくぞ、依頼受けに行こう!」 手を話すことを許さないその強力が、抵抗すらも諦めかけるマスカローゼを引きずっていく。 嵐のように現れ、嵐のように唐突にさっていったルンの存在。 ただ一人図書館に残されたソアは、しばしの後、はっ、となってかけ出した。 流石に、このままふたりきりではマスカローゼが厳しいだろうと、思い至ったのだった。 † 「ローゼ! 来たぞ!」 墓守と榊原の二人だけの静謐に訪れたのは、やはりルンとソアだった。 ぺこり、と遠慮がちにお辞儀をするソアの横で、遠慮という文字を知らないらしいバルバロイの娘が莞爾とした笑みを見せている。 「お仕事、お疲れ様です、と……お弁当作ってきたんです、一緒に食べましょう」 今朝チェンバーで採れた大粒のいちごも持ってきました。今日はこれを皆さんの所に配ってるんですよ。 そう言って笑うソアに一つ頷いて、マスカローゼは小さな机へ二人を案内してやった。 いつのまにか、榊原の姿は消えている。 境目ではなく、生者の空間に傾いたので姿を消したのだろうと、マスカローゼは考えた。 「サンドイッチと、前に教わった、コロッケとかハンバーグを入れてみました! マスカローゼさんに教えてもらったおかげで、洋風のおかずも結構作れるようになったんですよ」 席につき、お茶が用意されるなり、にこにこ笑いながら差し出してくるソア。 「うまかったぞ! ルンはまだまだ食べ足りない、さっさと食べよう!」 明らかに来る途中でつまみ食いしたらしいルンが、はやくはやくと机を軽く叩いてせかし、ソアが、「もう、ルンさんったら」と呆れたような笑みを浮かべている。 「どうですか……? 少しはうまくなったでしょうか?」 「――とても、美味しいと思います」 ぱっ、とソアの表情が明るくなる。 あの後、手を握られたまま別の世界へ連れて行かれ、手を握られたまま依頼を遂行し、手を握られたまま戻ってくる中で、ルンはマイ・ウェイを発揮し続けたし、ソアはそんな二人、特にマスカローゼをなにかれとなく心配し、手伝ってくれた。 その後もおりにふれ――主にルンが一方的に連れ出すために――外の世界へと連行されることが増えていた。 自然、墓の手入れが疎かになる期間ができるので、ここにいる間は黙々と朝から夜(便宜上ではあるが)まで作業をする日課に、より勤しむようになっているのも事実である。 ふと、ソアが何かを思うように周囲を見渡しているのを感じ、「どうかされましたか?」と問いかける。 「ターミナルが変わり始めてから結構経つけど、ここは変わらないですね」 「ここは、終わりの地ですから」 ソーサラーにカップを置いて、マスカローゼは応える。 恬淡と応えるマスカローゼに視線を向け、どういうことか、と目だけでソアは問う。 「終わりの地の先はありません。あるのは、終焉の維持――それに、亡くなった人がもし魂で舞い戻った時があるならば……少しは見知ったままの場所があったほうがよいでしょう」 それは、どのロストナンバーにとっても言えるものかもしれなかった。 世界から切り離され、悠久の揺蕩う時を生きる者達。故郷に帰り着けば、変わってしまった故郷が目の前にある――その時の気持ちはどのようなものだろう。 ただ、少しだけ思い至る部分はある。 「どんな人生を送っても命の行き着く先は同じですもんね……」 それは、人であろうと、獣であろうと、ロストナンバーであろうとそうでなかろうと、かわりはしない。 「でも、変わらないものって安心します。私はこの場所、心穏やかになれて好きですよ」 そう言って答えたソア。少しだけマスカローゼの口元に、微笑みが浮かんだように見え、「私もです」と声にならない声を聞いたような気がした。 「難しい話。よくわからん、わからんからルン心が言うとおりにする!」 盛大に頭上に?マークを浮かべていたルンが、そう言ってサンドイッチを手にとった。 「お腹へった! ソアもローゼも、食べよう!」 「――そう、ですね」 くす、と今度は本当に微笑みを形作ったマスカローゼが頷くと、ソアも、「はい」と笑んで手を伸ばした。 † ソアとマスカローゼが帰り、食器類を片付けたマスカローゼ。 「今度うちに泊まりにきてくださいね」と言ってきたソアに対し、「お邪魔にならないときにでも」と答えると、何か勘違いしたらしく、「お、お気遣いなく!」と赤面で返してきた。 時間もそれなりにたっており、今日の仕事は切り上げて帰ろうかと考えたマスカローゼだったが、その時に至って、初めて無銘の墓碑の傍に、人が立っているのに気づく。 榊原、だった。 「もう、帰るの?」 こちらを眺めてくる墓守の少女を見て、榊原は微笑んだ。 「ええ、今日はもうよい時間ですので」 「如才なく相手にするの、うまいんだね」 そう言ってみると、苦笑のような表情を口元に浮かべ、「なんのことでしょう」と帰ってくる。 なるほど、楽しんでいたのか。 けれど、榊原の捉える彼女の本質は、それとは違うもののようだったから――だから、問いかけた。 「ねぇ、ワールドエンドステーションに、行ってみない?」 「……何をしに、いかれるのです?」 一瞬の躊躇い。問いかけることへの躊躇いだと理解し、榊原は言う。 「世界を生み出す作業や、思索にふけって過ごす日々のため」 榊原にとって、どの世界群も、自分の居場所ではなかった。 どの世界も、その世界に生きとし生けるもののためにある世界。 だから、生と死の理の外に存在し続けている自分自身の場所ではない。 その感覚が、ずっと拭えないままだった。 ワールド・エンドステーションの話を聞いた時、世界群ではない世界という場所なら、ひょっとして自分自身がのんびりと過ごせる場所になるかもしれないと思った。 そして、自分がそうであるならば、この子もどうかな、と――ただ、純粋にそう思った。 同じもの。 世界群において、無意味にただ存在し続けることだけを許された、奇遇の少女。 「まぁ、良ければだけど」 それも本心だった。 どちらでもよいし、どちらでも構わない。 ただ、そこにいたから声をかけてみたという感覚が、近いかもしれない。 その言葉を聞いて、しばし考えている風情だった少女が、そっと少女自身の顔のマスクへ手を寄せる。 とられたマスクの下から現れたのは、醜いワームの表出した姿。 「――私はこのような者ですから、仰りたい所はわかる気がします」 「じゃあ、行く?」 そこら辺を散歩する? と問いかけでもするような軽い口調だった。 「いいえ――ここの、世話がありますから」 軽く首を振って笑う少女。再びつけられたマスクの下に、その表情の殆どは隠される。 「最近、少し考えを変えまして」 「そうなの?」 「ええ――変われない……変わらない。そういう物も、場所も、人も。必要な時と人が、いるのだと思うようになってきたんですよ。私自身は世界にとって存在する意味はないと思ってます――でも、私がここにいて、変わらぬ空間を維持し続けることで、心安んじられる人々がいる。それならば、私はここにいるべきだと思うのです。少なくとも、死者がかえってくる場所を維持し続けなければいけませんから」 そういって、「ごめんなさい」と小さく頭を下げるマスカローゼに、榊原は軽く肩をすくめて笑った。 「そっか、じゃあ邪魔しちゃわるいですし、僕も帰りますね」 小さく手を振って、榊原は歩き出す。 その背後で、深く頭をさげる少女の気配を感じたが、榊原が歩みを止めることは、なかった。 † † † それはまた、違うある日。 オジロワシがその気高き雰囲気をそのままに、人の姿を得て動いているかのように見える――事実それに近い風情の男が、墓地の一隅で盃を重ねている。 同席するのは、銀髪で、眼鏡の奥に理知的な心の有り様を移す瞳を持つ男。 誘ったのは、村山の方だった。 たまさか墓地を訪れたイェンスを呼び止め、それなりに上の部類に入る酒を示し「付き合わないか」と問いかけた。 「なに、潰れそうになったらおくってやるよ」 そう言って笑った村山だったが、すぐにその酒量に舌を巻く。 けっしてざるのように呑むわけではないが、恬淡と杯を重ねるイェンスに、逆に村山の方が酔いを深めてしまう結果になっていた。 「伊達に妖怪飼ってねぇな、先生」 からかうようにかけた声に、イェンスは苦笑しているのみである。 イェンスが知っているかはわからない。 だが、村山が今日ここで飲んでいるのは、かつての現地協力者のことを不意に思い起こしたからだった。 その現地協力者もまた穏やかで、だが、強い男だった。 イェンス・カルネヴィンの、父である。 『パパはお前もママも愛している。強くなれなくて良い、でも優しい人間になってくれ』 今でも、あの背中は思い出す。 連れさらわれた我が子を取り戻し、下衆の極みとしか言えない男とその部下を村山とともに蹴散らした男。 最後の瞬間、息子をかばう父親となった男。 一瞬の、油断としかいえない瞬間のそれは、最早不運というべき類のものであっただろう。 目の前のイェンスが、その男の息子であることを村山は知っていた。だが、言うつもりはなかった。 悲劇は曖昧なものとして忘却の溟の中に揺蕩うべきものだと思っているからだ。 泣き虫だが素直な性質を好ましいと思わせた当時の幼い子供は、今こうして穏やかな目をした男になっている。 それでよいのだろう、と村山は思う。 かつての男と、目の前の男の関係は、村山が昔憧れた、親子というものへのイメージそのままであった。 「今日は、亡くなった人達を悼むつもりできたんですよ」 イェンスがぽつりと零したのは、酒を飲み交わし始めて、一時間が経った頃だった。 他愛もない話の中で、時折見せる遠くを見るような瞳。 何かを思い起こそうとするような表情を見せながら、彼はそう言った。 「父は――何らかの事件に巻き込まれて死んだと聞いていましてね。それは、僕のせいだと、思っていたこともあった」 違う、と思わずいいそうになった村山だったが、どうにかその衝動を抑えこみ、先を促す。 「人と衝突するな。我を押し殺せ。母の口癖でした」 さもないと、父のように死ぬ。不幸になる――と。 それが、イェンス自身の心を縛っていたことも、恐らくまた事実なのだと。 それはイェンスの中に小さなひっかかりを生み出していた。 『パパはお前もママも愛している。強くなれなくて良い、でも優しい人間になってくれ』 その笑顔をはっきり覚えていたイェンス少年の中で、父の死を、嘆きの為か、あるいは心底からか、憎々しげに語る母の表情は小さく、けれど抜けない刺となって存在感をしめしていた。 「最近、とみに思うんですよ。幼い子と過ごす中で――僕は良い保護者でいられるのだろうか、と。身近では親というものを母の他に知らないイェンス。 だが、その母は、イェンスの心にしっかり根ざす「父」を否定した。 どういうものが良い父親なのか。 迷っているのだ、と吐露するイェンスを、村山はじっと眺めていた。 「先生よ」 猛禽の瞳そのままにイェンスに視線を向け、村山は問う。 「親父さん達を、恨んでいるか?」 問いに、イェンスは首を振ってこたえた。 「攫われた僕を、命をかけて助けてくれた人です。恨めるはずがない」 それは、父のことを誇りに思うという、その思いが聞いて取れるほどはっきりと滲んだ応えだった。 「なら、答えはでてるんじゃないか。先生には、十分な見本がいるってことだろうよ」 そう言って、村山は手にした盃を一気に飲み干し、空にする。 少し目を見開いたイェンスもまた破顔し、同様にした。 「ところで、さ。ナウラ君のことなんだけどもね」 今度は村山が何事かとばかりに首を傾げる番だった。 「良かったら、彼を認めてやってくれないか」 子供だって、誰かを案じ、力になりたいと真摯に願うことに違いはない。それは、父が死んだ時の自分もそうだったのだから、と。 「頼りなければ、傍にいてやれば良い。それが大人じゃないかな」 しばし、そう語るイェンスを眺めた村山だが、一度、確かに頷く。 その内心が、あのころころ笑い、無邪気に父にまとわりついていたチビがそんなことを言うようになったのかという思いであったことは、悟られない努力をする必要があった。 なるほど、これが親心か、とも思う。 「先生よ」 なんでしょう、と応じる男に、村山は笑っていう。 「あんたは自分で思うより、ずっと良い親だと思うぜ」 自己満足にとどまらない、ナウラやアルウィンへの態度への、素直な感想だった。 「なぁ、また何処かで会おうや。お互いに帰属してもよ」 「――そう、ですね。ぜひとも」 森の中から吹いてきた風が、二人の体を撫ぜていく。 酌み交わされる盃は、自然長く重ねられていった。 やがて潰れたのは、村山の方だった。 「おやおや――ほら、村山さん。帰りましょうか」 おぅ、と応じるぐったりした村山に肩を貸して、墓守の少女に目だけで礼を送り、イェンスは家路につく。 肩にのる村山の手に、なぜだか懐かしい感情を覚えた。 「お互いがそれぞれに帰属したとして――また、会える気がするね。遠い未来か、いつかの過去か」 小さく囁くイェンスの中に浮かんだ懐かしさの正体は、なんとなく理解できていた。 攫われ、父に助けられたあの前後。 父とともにいたおじさんがいた。 さらわれた時、父を信頼して諦めなかったが、その信頼の一部にはおじさんの存在もあったことは、覚えている。 もうどんな顔をしていたのか、どんな声をしていたのか、あまり覚えていない。 薄靄がかかったような記憶の中にいるあのおじさん。 きっと、村山みたいな人だったのだろうと、そう思った。 † † † 我輩の話を聞いてくれるかマスカローゼ。 そう人頭蛇尾の魔王が問いかけてきたのは、13号が帰還して5年程が経過した頃の事だった。 黒き蛇体の鱗はマスカローゼの手のひらほどもあり、黒爪は鋭く尖る。美髯を湛えた偉丈夫の頭部には水牛を思わせる力強い角が双角に飛び出ている。 だが目がいけない。 決定的に優しさを持つその光が、彼の風貌を、風采の上がらぬ素浪人に貶めていた。画竜点睛を欠く、とまさに言うべきものだろう。 もっともそれは「魔王としてはいけない」ということであって、彼個人としては愛すべき要素であるといえた。 そんな彼が、しおれたような、それでいてどこか心の中からあふれる何かを必死で押しとどめるような、そんな顔をしていた。 「我輩、つい先日ヴォロスはメイムを訪ねたのだ。我が友を訪ねてのことであるが、同時に託宣に委ねたいことがあったのだ――正しく、メイムは我輩が見るべき夢を供してくれた」 ざり、と身動ぎした下半身が地との摩擦にうなりを上げる。 魔王が見た夢は、つまりは彼の故郷の今の有り様であった。 そこにあるものは、彼の置き去りにしてきた国を必死に立て直し、そして今なお彼の帰りを待つ、姉の姿。 「我輩の世界は半年程前に見つかっていた。しかし我輩は怖くて仕方なかったのだ」 魔王は硬く目をつぶり、語り続ける。 「勇者達が、そして部下や親類の期待の眼差しが。あそこに帰れば再び我輩はそれらに晒される。そのような些事に怯えるとは何と不甲斐ない王であることか」 最後の方は、自嘲するようなもので、ただただ左右に顔を降るばかり。 「しかし姉は――同じものにさらされているというのに、果敢に、そして華麗に戦い敵を圧倒していた。その間、我輩は何をしていたのであろうか」 友と語らい、友誼を深め、戦争に巻き込まれながらも穏やかな日々に安穏としていたのではないか。 国の事を思わぬ日がなく、まんじりとしない夜をうなされながら――己や、父母の名を呼びながら飛び起きては何事もなかったかのように政務にあたる姉の姿に、血の涙すら流せぬ身ではないか。これを恥と言わずして、何というべきか。 「悔しい」 ぽつりと、重低音で響く声が漏らした。 彼が頭を垂れているのは、銘なき墓碑の前。 傍らに立つマスカローゼに懺悔しているのではない。 本当は、父母に、そして遠くにあってなお戦い続けている姉に、懺悔しているのだ。 「姉は、強い。しかし我輩は弟として、姉の弱き面を知悉しているのだ。彼女は我輩と何も変わらぬのだ。それなのに、我輩はこうして全てを姉に擦り付け、のうのうと生きておる」 開かれた目は、爛々とした熱を帯びていた。 「我輩はどうすればよいのか」 「過日ここを尋ねた"友人"ならこういってました。『心が言うとおりにする』、と」 魔王が、はっ、と顔をあげる。 「そういうことなのでしょう。私には分かりかねる境地ではありますが、一理かと思います」 仮面の奥のマスカローゼの表情を、魔王は見て取れない。 だが機械的な依頼を行う彼女には珍しく、真摯に対応しているらしいことが魔王にも伝わったのだろう。 「かたじけない」 重く頷く彼の言葉が、墓場を吹く風にのってマスカローゼへと届く。 父は、勇者に討たれた 夢が真実の一片を有しているのならば、母はこれから父の後を追う 姉は、これからも一人で戦うだろう 己が何をしたいのか、何をなすべきなのか。 期待、畏怖、重圧。 そうした外から受ける何がしかの事象は、最早魔王の心を縛るには足りなくなっていた。 ――帰ろう。守るべき故郷に帰ろう 「かつてマキシマム・トレインウォーでドクタークランチの記憶を見た事がある。彼の元居た世界で送ってきた人生の記憶であった。我輩も本来故郷で送るべきだった人生があるのだろうと、思う。彼のように引き返せない訳ではないのなら、戻るべきだと我輩の心は言っておる」 そう高らかに宣ずる魔王の傍で、マスカローゼはただその往くべき途を歩みはじめる姿を眺めている。 だが、魔王にとってもう一つ、足りないものがあった。 「――マスカローゼよ、不躾な願いを一つ聞いてはくれぬか」 何でしょう、と応えたマスカローゼに。 魔王は、稚い子が宝箱をひっそりと差し出して、鍵がないの――と訴えるような表情をしている。 「我輩に、魔王に、魔王という立場に、益荒男に相応しい名を付けてほしいのだ。一人前でない者は名を持たない。我輩はこれより帰還する。その前に名で縛ってほしいのだ」 我が魔王たらんとするために。 「本来ならば、我輩が自身で名付けるべきものであろう――だが悲しいかな、我輩は我輩が我輩へ猛き名を付けるに足らぬことを知っておる。引き換えマスカローゼ、お主はかつてただ一人で一国を相手にし、ロストナンバーを相手にし、未だ自分自身をその名で縛りながら、それでも内心に気高き心を保つ強さを持っておる。それが、例え弱さに根ざした強さであるとしても、である」 予想外のことを言われ、珍しく本心から言葉に詰まるマスカローゼは、しかし次の言葉に頷きを返した。 「その強さが、我輩は欲しい。それこそが我輩に必要な強さであり、だからこそ我輩は――マスカローゼに名付けて欲しいのだ」 「――」 ぽつり、とマスカローゼが言葉を漏らす。 重厚な響きを持つ名であるな、と魔王は言う。 「それは壱番世界の伝承に伝う、国の名に纏わるもの。その都市を通り、難題を解決した英雄は伝説の王となり、始まりの王ともなったもの。これから蛮勇英傑の道を往く貴方へこの名を送りたいと思いますが――いかがでしょう?」 「素晴らしき名である。ありがたく、頂戴する」 マスカローゼの両の手を手に取り、それを額へと押し頂いた魔王は重ねての礼の後、墓場を後にした。 † それは魔王と勇者の軍団が一同に会した広大な平原。 不在であった本来の魔王が、それもこれまでは魔王城に篭って勇者の一軍を受けて立つだけのはずであった魔王軍が初めての攻勢にでて織りなされた決戦場。 魔王は慣習ではなく、心のままに、為すべきことをなそうとしていた。 その瞳に宿る色は、黄金の鋼。糖蜜の炎。煉獄の陽光。 弱さを自覚し、強さを備え、強大な器を持つにいたった、漢の瞳。 突撃の瞬間を待つ勇者の一軍に相対し、誰よりも戦闘にたった魔王は、高らかに宣する。 「我輩は魔の王である」 その声は朗々と響き、戦場を渡る。 「血肉をわけし我が同胞の為に舞い戻ってきた。これより人間達に宣戦布告する」 かつてない、魔王の宣戦布告。晴れていた空がそれに呼応するかのようにかき曇り、雷雲は地に幾筋もの光を落とそうとする。 「聞けよ我が名を! 我は魔の王、ゴルディアロス! 覇道を歩む者と知れ!」 鬨の声があがり、両軍の馬蹄が、様々な足音が響く。 ……今度は負けぬぞ、勇者よ
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