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<ノベル>
細い息遣いが聞こえる……。
この、赤い廊下の先からだ。
壁も、床も、そして恐らく天井も、血と膿でひどく汚れている。歩けばぴたぴたと音がするだろう。まるで都会の洒落た噴水のように、大量の血が壁を伝い落ちている。血のカーテンは床を血びたしにしていた。
膿を含んではいるものの、血は真新しいようだ。生臭さと鉄の匂いが鼻の奥を突くような気さえした。
細い息遣いが、呼んでいる……。
廊下の突き当たりには、ドアのない、小さな部屋があった。血まみれの椅子が中央に据え置かれている。入り口からそのドアの姿が見える様は、悪趣味なスプラッター映画のポスターさながらだ。
椅子には誰も座っていない。が、だらだらと血を流し続けるその椅子から、息遣いは聞こえてくるのだった。
いや、座っていた。
血でべったりと汚れた黒髪を振り乱し、ジャパニーズ・ホラーの女幽霊もかくやという容姿で、女が泣き叫んでいるのだ。両手は椅子の肘掛けに固定されていた。電撃を浴びせられた者のように、手首から先が持ち上がり、激しく震えている。
ぎぃああああああああああ!
助けてえええええええええ!
「たすけて! やめて! だれかあ! だれかあぁ!」
きゃああああああああああ!
女はひとりだけなのに、部屋からは幾人もの凄惨な悲鳴が聞こえてくるのだった。
女の首や腕や……身体中いたるところに、赤い管が突き刺されている。管はもともと透明だったのだろう。だが、ストローがいやしくジュースを吸い上げる音が、管からはひっきりなしに聞こえてくるのだ。管がまるで生物のように、女から血を吸い取っていく。
どうすることもできない。
部屋の壁を流れる血が、ごぼこぼと泡立ち始めた。泡は明らかに、幾何学的に模様を描いていく。焦げつく匂いが立ち込める。焦げた黒い血は、壁に魔法陣を描き出した。
女ではない何者かが、しゃわしゃわと、空気がこすれるようなささやきで――呪文をつむいでいる。
しゃしゃしゃしゃしゃしゃ……
すすすすすすす……
さささわささわさわさわさわ……
いかなる事象を喚び出す秘儀だろうか……。
『我の識るところである。汝が望むならば、我はその智識を授けよう』
黙っていろ。レオンハルト・ローゼルベルガーは一蹴した。
女は相変わらず悲鳴を上げ続け――とうとう、肉まで吸い上げられた。管を通る肉は、恐らくミキサーにかけられ、ガーゼでこされ、最後の一滴まで血を絞り取られるのだ。
「ヒヨリ?」
男の声がした。現実的で、空気を震わせる、確かな声。
振り返ってみると、そこにはリョウ・セレスタイトが立っていた。部屋の中を見つめ、椅子を見つめ、椅子に座った骨と皮ばかりの死体を見て、彼は呆然としていた。
おねがい! たすけてよ! けいさつでしょ?
けいさつでしょ!
けいさつはなんにもしてくれないのね!
ちくしょう、わたしは、死んだのよぉ!
「わたしたちが……くすりにかわる」
「そんなのいや……人間に生まれ変わりたい」
「くすりにうまれかわるのよ……わたしはくすり……すてきな、くすり」
そのくすりは、こんなに赤い。
椅子には、ほっそりした、美しい女が座っていた。
一糸まとわぬ白い肢体は、マネキンじみているほど均整が取れている。女は顔を上げた。口を開いた。口を開いた。顔のバランスが大きく崩れた。口が開きすぎている。顎が外れているのか。皮膚はどこまでも伸びた。
そして、その口の中から、赤い砂が滝のように落ちてきた。
「くすりをあげるわ」
レオンハルトは亡霊を身体から引き剥がした。
彼は霊媒だ。こうして死んだ者から事件を悲惨な事件を知らされることもあれば、逆に死者に「捜査協力」を要請することもある。死人に口なしというのは、レオンハルトの前では意味を持たない格言だ。
「レオン。血が出てる」
エドガー・ウォレスは心配顔で、レオンハルトにそっと声をかけた。レオンハルトの目からは、確かに、一筋の血が流れ落ちている。
しかしレオンハルトは過剰に心配されることを嫌う。同情などは禁物だ。けれどこうして、強烈な怨念や無念にとらわれた霊と対すると、身体に変調をきたすこともある。ごくまれなことであったし、変調といっても小さなものにすぎないが。
「収穫はあった?」
だから、レオンハルトが無言で目の血をぬぐったのを見て、エドガーは率直に聞くだけにとどめた。
「よほど恐ろしい目に遭ったとみえる。私に、言葉ではなくヴィジョンでメッセージを伝えてきた」
レオンハルトは指の血を眺めながら、淡々と言う。
そして、ふと目を上げ、エドガーを見つめ返してきた。
「リョウはいるか?」
「いや。いつものことだけどね」
「わかった。他には誰がいる?」
「メリッサがいるよ。流しを片づけているところだ」
「では、3人で銀幕署に向かおう」
なぜ、とエドガーは問わない。わかった、と返して、彼はふすまの向こうの配膳室に向かった。
メリッサ・イトウは、ちょうど洗い物を終えたところだった。レオンハルトが部屋をひとつ閉め切って霊と対話している間、ふたりは緑茶を飲んでいたのだ。
「あ……、終わったんですか?」
「そうみたいだ。どうも、何か大きな手がかりを掴んだらしい。これから銀幕署に行くと言っていた。君も一緒にと」
「ワ、ワタシも?」
「彼は無駄なことは一切しない。君が必要だからそう言ったんだ」
エドガーがやさしく言うと、メリッサはたちまち顔を赤らめた。が、すぐに気を取り直し、真顔で頷く。
「ただ、真っ先に口にしたのはリョウの名前だった……彼が関係しているのも間違いないだろう。居場所を知らないかい? 彼、連絡してもいつも留守電でね」
「ああ……ええと……『緊急用』のメアドも携帯番号も教えてもらってるんで、すぐ連絡はつくと思います」
「『緊急用』? 俺はそんなの知らない。……ははあ、君が美しい女性だからだな」
「そ、そんな! や、やめてください!」
「失礼、セクハラで訴えられてもおかしくない発言だった」
「い、いえ、そうじゃなくて……嫌だったわけじゃなくて……その……も、もういいです。リョウさんに連絡しますね」
メリッサはなぜかエドガーにくるりと背を向けて電話を始めた。リョウは『緊急用』への発信に、あっさり応じたようだ。ぼそぼそとメリッサが事情を話している。
エドガーは振り返った。いつからそこにいたのか不明だが、レオンハルトが無言で立っている。
外は快晴で、空気もからりと乾いていた。
エドガーは大きく伸びをして、メリッサは深呼吸する。DP警官が詰所にしている民宿のまわりは、ガーデニング好きな家々が集まっていて、濃厚な花とハーブの香りに満ちていた。
だから、メリッサは民宿の前で深呼吸するのが好きだった。もちろん、エドガーも。レオンハルトすら、ときには心地いい空気だと感じていた。
エドガーたち3人が銀幕署に到着したとき、署内の通称『DP部屋』には、ベネット・サイズモアとリョウ・セレスタイト、そして流鏑馬明日がいた。ベネットは今朝から銀幕署にいたらしい。相変わらず苦虫を噛み潰したような顔だった。ぞろぞろと急に部屋が混み始めたので、その渋面に拍車がかかり始めている。
「やあ、メリッサ。お呼びのようで」
リョウは煙草を灰皿にねじ込み、メリッサに笑顔の挨拶を向けた。メリッサはというと、蚊の鳴くような声で挨拶を返し、赤くなってうつむいてしまった。
「明日がいるとは思わなかった。何かお困りかい?」
「いえ……、皆さんがお仕事をされるのでしたら、あたしはこれで」
「いや。君が現在当たっている捜査にも関連することだ。耳に入れておいたほうがいいだろう」
レオンハルトが無表情に言い放ったので、明日は少し面食らったようだった。彼女もまた無表情だったが。明日は思わずといったふうに、ベネットの顔をちらとうかがった。ベネットは無言で頷き、自分の隣の椅子を引く。
レオンハルトは、全員が席についたところで、5人の顔ぶれを順に見つめながら、口を開いた。
「昨今、世間からは『美女』と称される女性が相次いで失踪しているはずだ。まず、はっきり言っておこう。彼女らは全員すでに死亡している」
『死』というひと言で、小会議室の空気は凍りつき、張り詰めた。明日とベネットが顔を見合わせる。
「無論、殺害されたのだ。この事件には、呪術的な要素が関係している」
「じゃあ、俺の管轄外だ」
「いや。君もすでにこの事件に巻き込まれている」
苦笑交じりの声を上げたリョウを、レオンハルトはぴしゃりと封じ込めた。
「『ヒヨリ』という名に心当たりは?」
レオンハルトの次なる言葉には、リョウも一瞬驚きを隠せず、しばらく無言でレオンハルトの顔を見つめていた。否、なかば睨みつけていた。
「先週一緒に酒を飲んだよ。何度か電話もした。でも、3日前からぷっつり音信不通だ。モデルだって言っててね……とにかく綺麗で、スタイルも抜群だったが……フラれちまったなら、それまでだと思ってた。で、そのヒヨリが、どうかしたのか」
「死んだ」
がたん!
メリッサが首をすくめた。リョウがパイプ椅子を倒す勢いで立ち上がり、レオンハルトの襟を掴み上げたのだ。
「そこは『お気の毒だが』とか言うところだろ?」
「……」
「どんな死に方だ。苦しんだのか?」
「……」
「そうか。ひどい有様か」
椅子を倒した瞬間とは裏腹に、リョウの口ぶりや表情は静かなものだった。レオンハルトは無言のままだったが、やがてリョウは、小さくかぶりを振りながら手を離す。
「ヒヨリさんはおととい、家族から捜索願が出されているわ」
明日が静かに口を開く。
「でも、なぜか、所属事務所は沈黙しているんです。系列会社の雑誌のトップモデルなのに」
「そのヒヨリの友人から、ゆうべ、警察に電話があったそうだ」
明日の話を引き継いだのはベネットだった。
ふたりは、リョウやエドガーたちがこの部屋に入ってくるまで、まさにそのヒヨリの話をしていたのだ――リョウが入ってきたので、話を中断して挨拶していたのだが。
「近頃、後を尾けられていたと。友人のヒヨリが行方不明になったから、不安がピークに達したらしい。本人は、さらわれる、生贄にされると騒いでいる……。誰か彼女の護衛ができないか、明日さんから相談されていたところだ」
「それだけ聞けば充分だ。ヒヨリはいい女だったんでね。仇を討ってやる」
言っていることが、どこまで本気なのかわからない――リョウとはそういう男だ。だが、彼が、これ以上この場にとどまるつもりがないのは確かだった。彼はレオンハルトのそばから離れ、DP部屋のドアに手をかける。
「あの霊がヒヨリなのかどうかはわからない……複数の霊が同時にコンタクトしてきたからだ」
レオンハルトが口を開くと、リョウの手が止まった。レオンハルトは、彼を呼び止めるつもりで言ったのではないかもしれない。ただ、話の続きを始めただけなのではないか。
「『彼女』は、しきりに『薬』と言っていた。麻薬が絡んでいるかもしれない」
いや、これは、リョウに情報を与えてやったのだろう。レオンハルトの隣のエドガーはそう踏んだ。
リョウは何も言わず、部屋を出て行った。
「薬とはな」
リョウが出て行ったあとのしばしの沈黙を、ベネットの低い声が破る。彼はちらと明日の顔を見やり、それから言葉を続けた。
「この時代の日本は麻薬とは無縁と聞いていたが」
「そうでもないわ。コカインやヘロインは見つかれば大事件になるけれど、覚醒剤は相当出回っているし、最近は大麻汚染が本当にひどいの。ヘロインに比べれば大麻は大したことがないかもしれない……でも、れっきとした規制対象よ。日本も言うほど楽園ではないわ」
「そうか。すまん。軽く見ていたかもしれない」
「日本は取り繕うのがうまいから。仕方のないことよ」
「でも、今の銀幕市は、日本の中にあるとは考えないほうがいいような気も……します」
メリッサが、おずおずと話し始めた。
「マフィアもいるし、ヘロインもあります。映画にはいくらでも登場してましたから。幽霊や、神様だっているんです。何でもありの世界なんです。だから……その、女性たちがどうして狙われたのか調べて……とにかく、早く何とかしないと。ヒヨリさんのお友達も、助けなくちゃ」
話しているうち、メリッサの声と表情からは、いつもの引っ込み思案な性分が見せる色が消えていった。最終的には、向かいの明日の顔をまっすぐ見つめていた。強い意志を秘めた表情で。エドガーはその横顔を見て、頷いた。
「調べることもやるべきこともたくさんある。明日さんひとりでは無理だろう。リョウも動いてくれることだし、手分けして捜査に当たろうか」
明日は手元の、ベネットと見ていたファイルに目を落とした。すぐにメリッサやエドガーも見ることになるファイルには、ヒヨリの友人のデータと訴えが記録されている。
相川マリカ。ヒヨリと同じ雑誌で一時期モデルをしていたが、今は女優業に転向して、それなりに仕事も取れているようだ。祖母がイギリスの著名なモデルで、父親は某ブランドのデザイナーらしい。
言うまでもなく、美人だった。
『リョウさんって、面白い人ですね』
ヒヨリは顔いっぱいで笑っていた。
リョウ・セレスタイトという男は、俗に言えば(そして若干古式的に言えば)軟派な性分であり、女性のストライクゾーンが広く、またストライクした場合は口説いてしまうという一面があった。
そんな男であるから、ヒヨリの笑顔など、これまでに見てきた数多の笑顔の中に埋もれてしまうはずだった。
『でも、わかってますよ。リョウさんが「本気じゃない」ってことくらいは』
彼女の言い方は、別段嫌味っぽいわけではなかった。ヒヨリもヒヨリで、その容姿のことだから、きっとこれまで何十回もナンパされてきただろう。ヒヨリにとって、リョウはそんな男たちの中のひとりにすぎなかった。
だから、おあいこだ。
リョウは白旗を揚げるしかなかった。
しかし、そんなやり取りのあとも、何時間もバーに一緒にいて、酒を飲み、話を弾ませていた。打算的なデートは、充分楽しかったのだ。
……楽しかった。
ヒヨリは、いま身の危険を感じているとはひと言も言っていない。楽しい話ばかりして、愚痴のひとつも言わなかった。数日後に何者かに殺されるとは、当の本人も予想だにしていなかっただろう。
それに、もちろん、彼女から麻薬の「ニオイ」など、まったく感じられなかった。いやになるほど犯罪者とかかわってきたリョウだから、善良な一般市民かそうでないかの見分けはつく。ヒヨリは厳しい特殊な世界で懸命に生きているけれど、今まで窃盗のひとつも犯していない、まっとうな人間だ。
『ありがとう。今日はとても楽しかったです。こんなにお酒も飲んじゃって……明日お休みでよかった』
『また連絡してもいいかな?』
『うん。待ってます』
彼女は笑顔を残して去って行った――あれが最後の笑顔だったとは。
リョウは銀幕署を出てすぐ、コーヒーショップに入った。無料で何時間でも使用できる無線アクセスポイントがある。自宅にはもっと匿名性の高い回線があるが、ひとまずリョウは一杯のコーヒーを片手に、ヒヨリの情報を集め始めた。芸能人は、悲しいことに、個人ではなく公の人だ。無防備な回線からでも、情報はある程度集められる。
レオンハルトが彼女の亡霊を見たというだけで、世間ではまだ行方不明者扱いだ。しかも、その情報すら所属事務所『プロダクション・スケッチ』は否定している。
ヒヨリは死んだ。
非科学的な方法とはいえ、レオンハルトの能力は本物である――ここ銀幕市では。リョウも、同僚として彼の能力は信頼している。
ヒヨリの死は真実だ。真実だからこそ、かたくなに失踪を否定する事務所を疑える。
ヒヨリから事務所へ調査対象を変えたリョウが、一ヶ月前のスキャンダルに行き着くのはたやすかった。事務所が抱えている通称イケメンのアイドルが、麻薬所持の疑いで逮捕されていた。
事務所の本部は東京だが――銀幕市にも、支社はある。
「すごくきれいよ」
「うん、とても美しい」
「あ……ありがとうございます……」
明日とエドガーは、「完成した」メリッサを見て、我がことのように満足した。
相川マリカに変装したメリッサが美しいというのは、けっしてお世辞ではない。メリッサとマリカは、その黒髪以外はほとんど似ても似つかなかった。メリッサはもともとお洒落にこだわらず、あかぬけない容姿だ。しかし今は、メイクから歩き方から、完全に元モデルの女優だ。
「じゃあ、あたしはマリカさんをホテルまで送ってきます」
「待て。俺も行く」
いったん出かけていったベネットが戻ってきた。相変わらずの仏頂面だが、エドガーには何となく、彼の機嫌がよさそうなことが伝わってくる。
「ベネット、何か収穫でも?」
「ヒヨリの事務所がくさいとわかった。名前はプロダクション・スケッチ。先月所属タレントが麻薬所持で挙げられてるが、その後報道も捜査もうやむやになっている」
「麻薬に、事件のもみ消しか……いよいよ大事になってきたな。しかし、ヒントも増えている。俺は映画の線を調べてみるよ。……みんな、気をつけて。特にメリッサ、無理はしないようにね。危なくなったらレオンを呼ぶといい。何だかんだ言って結局助けに来てくれるさ」
レオンハルトはすでに銀幕署を出ている。どこへ行くとも言っていない。しかし、集まった面子の中で、もっとも多才なのは彼だ。仲間のピンチにどこからともなく駆けつけるのもわけないだろう、とエドガーは踏んでいた。問題は何を考えているかわかりにくいことと、多くを語らず、しょっちゅう単独行動を取ることだ。
「それじゃ、行きましょう」
明日が最初に、ドアを開けた。
メリッサは、自ら囮を買って出たのだ。
女性ばかりが狙われ、裏には麻薬の影がちらついている。レオンハルトの話によれば、彼女たちは惨たらしく殺された。相川マリカも、こうして自分たちの目に留まることがなければ、今頃ヒヨリと同じ憂き目に遭っていたかもしれない。
マリカは昼間のうちに、友人を装った明日によって、警備のついたホテルに移されている。警察が重要な証人などを保護する際にたびたび使っているホテルだ。警備にはベネットもあたっているし、そうそう簡単に手は出せまい。
マリカの家には、現在、メリッサがいる。ミッドタウンに近い高層マンション、その5階。部屋数も多く、家具もセンスのいいものが揃っている。
なるほど……確かに、家の中にいても、家の外を少し歩いてみても、誰かに見られているような感覚がった。意識しすぎなのかもしれないが。家の中をとりあえず調べてみたが、カメラや盗聴器は見つからなかった。
もっと、超常的な「視線」なのかもしれない。
――こんな環境で、よく何日も過ごしていられたわね。
日が落ちかける中、コンビニに行って夕食を買ってきた。パックの野菜ジュースにコロッケパンだ。緊張しているので食欲はないが、胃には何か入れておかないといざというときに力が出ない。しかし、袋から出したものを見て、甘いものも買っておくべきだったと少し後悔した。ブドウ糖で脳を活性化させたほうが、ESP能力のためになるはずだ。
音が聞こえたのは、無音の居間で食事を始めたときだった。
寝室から聞こえてくるようだ。
メリッサはコロッケパンもジュースも半分以上残したまま、そっと寝室に向かった。
窓を閉めたはずなのに、今は開いている。音は、カーテンがそよ風に揺れる音だった。メリッサは束の間、演技を忘れた。ただ単に、ひとりの女として怯えてしまった。
――ちがう、ワタシは警官。人を助けるための力を持つ。ワタシは警官よ――
どさん、と天井から何かが落ちてきた。
『ブバスディア 緋色の魔陣』
ギャングが暗躍する街、シカゴ。刑事ジャック・アイアンズの元恋人が、惨殺死体で発見される。
しかしこの事件は、想像を絶する悪夢のほんの一部に過ぎなかった!
血糊のエンターテイナー・ベローニ監督が送る、最恐のオカルト・ホラー!
※PG-17指定
その映画では、どういうわけかシカゴのマフィアと魔神崇拝者の組織が結託していた。まともな映画を作ろうと思えば、まず思いつかないトンデモ設定だ。エドガーがそう思ったとおり、この映画はまともな映画ではなかった。イタリア人監督が作るゴア映画はたいていいつもこんな調子だ。血と肉。飛び出す眼球。ゾンビじみた魔物。電ノコとチェーンソー。
『ブバスティア』では、魔神が美女の生贄を要求し、見返りに赤いドラッグを与えていた。ドラッグは〈緋色の研究〉と名づけられていた。草葉の陰のコナン・ドイル御大も、このネーミングには噴飯だろう。いや、激昂されるだろうか。
この映画の存在を突き止めたエドガーのもとに、リョウから情報のおすそ分けが送られてきた。
事務所がその犯罪をもみ消したアイドル、霧谷ジュンヤは、「赤い麻薬」を持っていたらしい。銀幕市で鑑定された結果、成分はヘロインに似ていたそうだが、未知の物質も混じっていたとか。しかもそのクスリは、警視庁にまわすはずが、跡形もなくなってしまったらしい。アイドルのスキャンダルがうやむやになってしまったのは、この不可解な出来事によるところが大きいのかもしれない。
赤いドラッグは、銀幕市の外から出ていない。出られなかった、のだ。自由に出入りできたのは、恐らく、金だけ。
エドガーは映画を2倍速で鑑賞し、殺害現場のアタリをつけた。レオンハルトが事前に残していってくれた、ヴィジョンのメモが何よりも有力だった。
しかし、正しい魔法陣を描き、炭酸ナトリウムにマタタビの汁を混ぜた粉を撒き、呪文を唱えれば、どこにでも血の魔神は現れる。生贄に捧げられた女性はけっこうな悲鳴を上げているので、どこでも堂々と行われたわけではないだろうが――。
――今すぐにでも、やつらの本拠地に乗り込んで、ひと暴れしたい気分だろう?
エドガーの心の中に、どこからともなく、そんな考えが滲み出してくる。
「エドガー」は何も言わなかった。
――レオンハルトが、亡霊に見せられた場所に行ってみればいい。異常な犯人は現場に戻る。サスペンスの基本だろう?
そうだ……せっかく見つけた「儀式に最適の場所」は、使い捨てにするには惜しいだろう。麻薬や金に溺れた人間は、一度きりでやめられない。また同じ場所に生贄を連れてくるかもしれない。
エドガーは白木の鞘の愛刀を、半ばまで抜いた。
その光を見たとき、自分が一瞬笑ったことに、彼自身は気づかなかった。
相川マリカは、ホテルの部屋に案内した直後、ちょっとしたパニックに陥ってしまった。安心感と、今まで溜めこんできた恐怖心がないまぜになって、わけがわからなくなってしまったようだ。彼女は、友人のヒヨリがさらわれ、殺されてしまったことを、うすうす感じ取っているらしい。
明日は彼女をなだめるために、1時間ばかり部屋に残るはめになった。
迷惑だとは思わなかった。
明日にでも、怖いものはある。ただ、表面にはあまり出さないだけで。だから、マリカには深く同情した。
マリカは明日を、「強い人」だと言った。
そのとおりならどんなにいいだろう、と明日は思った。けれど、強さというのは自覚していないほうがいいのかもしれない。
このまま、事件が終わるまで、マリカのそばについていたほうがいいのではないか……。
マリカは、こんな、自分よりも年下の新米刑事が「強い」と思えるほどまいっているのだ。
「強くはないわ。あたしも、マリカさんと同じ。いつも、誰かに守られているの」
そう言い残して、明日はホテルの外に出た。
いつの間にか、外は暗くなっていた。ベネットが乗っている車は、通りの向かい側に止まっている。ベネットの姿は……よく見えない。
遠くに、車が走る音がある。
それがなければ、まったくの静寂だ。やけに静かだと言ってもいい。空気も妙に、生ぬるくて、湿っている。車道を横切ろうと歩みを進めたところで、明日はいきなり何かにつまずいた。
空気と同じくらい、生ぬるいものが横たわっている。
「え……?」
たぶん、死体だった。
ホテルの警備を勤める私服警官だ。ホテルに入る前に挨拶した。うつ伏せに倒れている。
死んでいるか否か、明日は確認できなかった。後ろからものすごい力で抱きすくめられたのだ。
「!!」
グるるるる。
耳元で、そんな獣じみたうなり声が転がった。これだけの力だ、たぶん男だろうとは思っていたが、ひょっとすると相手は人間ですらないのかもしれない。明日はしばらくもがいた。男は明日を殴るでも地面に転がすでもなく、づるづると後ろへ引きずり始めた。どうやら抱え上げたいらしいが、明日が抵抗したのであきらめたようだ。
明日は両腕をすかさず胸の前にまわした。
襲撃者の力が、一瞬かくりと腕から抜ける。
そのまますばやくかがめば、とりあえず拘束からは逃げられた。
振り向きざまに回し蹴り。
ぼすん、と鈍い音。
体勢を立て直しつつ、銃を構える。
そして視界に、そいつの姿が飛び込んできた。
首から下は、コートを着た男――なのだが、頭は人間のものではなかった。いかなる動物のものでもなかった。ただ、目も鼻もない、せり出した巨大な口吻が備わっただけの顔。怪物は口を開いた。あまりにも巨大なあぎとを備えているようだ。開いた口の中には牙がぎっしりと並び、ねばつく涎が垂れ落ちた。よく見れば、袖から出た両手は、膨れ上がり、膿みただれていた。何本かの指は、溶けた肉塊のようになっていて、完全に癒着している。
叫び声は、ライオンのようだった。
『あなたは強い人ね。流鏑馬さん。わたし、怖くて……ほんとに、怖くて……何もできないの』
マリカの言葉が、脳裏をよぎる。
引き金を引いていた。
だが、弾丸はあさっての方向に飛んでいた。怪物の腕が、伸びたのだ。ただれた手が明日の手を叩き、銃を弾き飛ばしていた。
「ベネットさん――!」
そう叫んだ直後、明日の意識も弾き飛ばされた。
顎に、伸縮自在の一撃を食らってしまったのだ。
自分の身体が倒れる音が、他人事のようだった。
明日が襲撃されるところを、ベネット・サイズモアが黙って見ていたはずはない。彼は舌打ちし、ショットガンを手に車を降りた。降りた瞬間に突き飛ばされ、車の側面にいやと言うほど背中を打ちつけた。
まずい。ドアがへこんだかもしれない。
足は何の問題もなく動いた。だから背骨は無事だ。ベネットは自分を突き飛ばした者が何であるか確かめる前に、眼前の人影を蹴り上げていた。
人間の、しかも男なら、その蹴りは急所に当たっていただろう。
ベネットの蹴りは間違いなくその急所にめり込んだが、相手は倒れず、怒りの声を上げて腕を振るってきた。
人間の怒号ではなかった。
ベネットは顔面を狙ってきた相手の腕を、ショットガンを盾にして防ぐ。
ようやく敵の顔を拝めた。
人間の顔ではなかった。
変形した豚のような異形だ。手には指がなく、鋭く太い爪が5本突き出しているだけ。しかし、今さら敵がクリーチャーだったからといって動揺するようなベネットではなかった。何しろ、銀幕市で生きているのだ。
すかさず、胸めがけて蹴りを入れた。
化物は後ろに2、3歩よろめく。
間合いはできた。ショットガンの銃身ひとつぶん以上は。
ベネットはショットガンを構え、引き金を引いた。狙いをつける必要などない。ショットシェルは命中し、化物の胸と腹をぐさぐさにした。飛び散る血しぶきは、生意気なことに、人間の血と同じ色だった。
怪物はぽっかり穿たれた穴から血と内臓をだらだら流しつつも、まだ生きている。いびつな口と鼻からも血を噴きながら、殴りかかってきた。
その手はベネットに届く前に、シールドによって弾き返された。
ロケットランチャーの直撃すら防げるベネットのシールドだ。さすがに、怪物のパンチにロケットランチャー以上の威力はなかったらしい。
ベネットは今度はちゃんと狙いをつけた。
ポンプをスライドさせ、右肩に1発。ポンプをスライドさせ、左肩に1発。
ポンプをスライドさせ、歪んだ頭部に1発。
ようやく怪物は倒れた。怪物の背後にあった商店のシャッターはひどい有様だ。血と脳漿と骨のかけらでべったり汚れている。
ベネットは車の向こうに走り、ホテル前の道を見た。ほんの2分前まで、流鏑馬明日が、襲撃者ともみ合っていたはず――。
だがそこに、明日の姿はなかった。車道に……シグ・ザウエルが落ちている。
明日の銃。日本警察の採用銃。
「クソッ」
ベネットはそれだけ吐き捨てると、車に戻り、無線に手を伸ばす。
運転席のドアは少しへこんでいた。
車には乗らずに無線を引っ張り出したベネットの目に、ふと、シグ・ザウエル以外のものが見えた。歩道のわきに、力なく落ちているもの……。あれは、ウエストポーチか、ヒップバッグか。
細い息遣いが聞こえる……。
自分の息遣いだ。
杵間山が見える場所。銀幕市の郊外……というほど市街地から離れてもいないところだ。雑草が生い茂る、誰かの私有地の中に、打ち捨てられたコンクリートの建物があった。どこかの会社がオフィスにでも使っていたのだろう。机やホワイトボードがいくつか残されていた。
建物には、地下へ続く階段があった。
この下には、やけに細い廊下があるはずだ。突き当たりには……ドアのない、小さな部屋があるはずだ。その部屋の中央には、血みどろの椅子があるはずだ。
エドガーは足音を立てないよう、ゆっくりと階段を下り始めた。
レオンハルトが見せられたヴィジョンとは違い、廊下も壁も、埃で薄汚くなっているだけで、血痕は見つからない。だが、血の匂いは確かにする。ここでルミノール反応でも調べれば、きっと面白いことになるだろう。
廊下の突き当たりから、明かりが漏れている。
光は真っ赤だ。
エドガーにはそう見えた。突き当たりの小部屋が、真っ赤に発光しているように。ごくり、となぜか喉が鳴る。
エドガーはゆっくりと、はやりつつある息を殺しながら、深紅に近づいていった。血の匂いは強くなるいっぽうだ。
椅子がある。
椅子にくくりつけられた死体がある……。
レオンハルトのように、幽霊によって幻覚を見せつけられているのではないか。そう信じたいくらいだ。まだ殺されて間もない、生々しい死体が、次第に近づいてくる。
たすけて……。
声が聞こえるようだ。すすり泣くような……、絶望と苦痛に満ちた、助けを呼ぶ声。
たすけて……。
しかしその声は、永遠に、誰にも届かない。
召喚された魔神は、血から魂を吸い上げるそうだ。美しい女の魂は搾りつくされ、その絞りかすが〈緋色の研究〉と化す。
女は針金によって椅子に縛りつけられていた。針金は手首と首の肉に食いこんでいる。
だが――魔神は血のすべてを絞り取っていくはずなのに、部屋のあちこちに血が飛び散り、また、女の死体そのものも血みどろだった。
「失敗したのだ」
小部屋の壁から、しわがれた声が上がった。
初老の男が、ぐったりと壁に背を預けて座っている。呆然とした目で女の死骸を見つめているが、口元には引きつった笑みが浮かんでいた。
「あるいは、大いなるブバスがこの生贄に満足しなかったか。この女の苦痛を見るだけ見て、去って行った」
エドガーが何も言わないのに、男はだらだらと気だるげにしゃべり続けた。
「そうだ……生贄はブバスディアが目をつけた女でなければならない! ブバスは女神なのだ。醜い女神だ。美しい女に嫉妬する……私の妻は美しくなかったというのか」
「妻?」
エドガーはようやく口を開いた。口の中はからからだったし、久しぶりに口を開いたので、声はささやきのようにかすれていた。
「妻を生贄に? 麻薬ほしさに、妻を?」
どうして、そんなことができる!
エドガーはそう叫ぼうとした。
だが、心の底でのたうっていた感情が、いよいよ激しく噴き上がってきたのだ。
こいつを殺せ。妻を殺せる人間は、他に誰を殺せると思う? みんなだ。自分以外のみんなを殺せる。そんな鬼畜は、殺してしまえ。殺されても、誰も悲しみはしないさ。殺しても、誰も君を咎めない。
殺しても、俺に罪はない。
「〈緋色の研究〉がどんなクスリか、知らないはずはないだろう? おまえはここに来た。すべてを知っているか、知ろうとしているはずだ。あのクスリは、人間を人間以上のものに変えられる。身も心も、違う存在に『飛べる』というわけだ。あとは、他のクスリと同じだ。病みつきになって、逃れられなくなる。最終的には本当に、戻れなくなるのだがね」
「いま、それを持っているか?」
エドガーが尋ねると、呆然としていた男が顔を動かした。濁った目で、ようやくエドガーを見る。
「ない。ないから、もらおうとしたのだ」
「そうか、残念だ」
エドガーの口の端が持ち上がった。
「ただの人間を殺すより、その『違う存在』になった君を叩き斬ってみたかったのだが。……人間は、すぐ死んでしまうからなあ」
彼はエドガーではない。
エドガー・ウォレスを知る者なら、誰もがそう言ったところだろう――。
『彼』は刀を抜いた。
男のうつろな目の中で、その白刃があまりにも凶悪な光を放つ。
メリッサは目を開けられたが、口は開けられなかった。粘着テープでがっちりふさがれてしまっている。おまけに、手足も動かない。首も固定されているようだ。人影が、ぶつぶつ言いながら自分のまわりをうろうろしているのがわかってきた。
自由にできるのは、呼吸と、目を動かすことだけ。
メリッサが懸命に、できるかぎりのことをすると、華奢な男の姿が見えた。顔立ちは整っている……というよりも、中性的で、角度によっては女性にも見えた。背も高く、スタイルがいい。死んでしまったモデルのヒヨリ、自分たちが助けたマリカのように。
芸能人だ。モデルかもしれないし、俳優かもしれない。そう言えば、この顔はテレビで見たような。
うろついている彼が、一般人ではないのは明らかだった。
落ち着きなく、しきりに唇をこすったり皮をむいたりしながら、紙切れを見つめてぶつぶつ言っている。メリッサが目覚めたことにも気づいていないようだ。
窓も家具もない部屋だった。自分が縛り付けられているのは、頑丈そうな金属製の椅子。
視界の片隅の壁に、赤い文字と円が描かれているのがかろうじて見て取れた。
――生贄……、ワタシを、生贄に?
状況が把握できてくると、勝手に涙がこみ上げてきた。
恐ろしいのではない。
――情けない。ダメすぎるわ。
落ち着いて手順を踏めば、簡単に逃げられるはずだ。手順とは――
1、持ち前の転送能力で、目の前の男をどこかに飛ばす。
2、手を固定している針金をどこかに飛ばす。片方だけで充分。
3、自由になった手で残りの拘束を解く。疲れていなければ、転送能力で針金を飛ばす。
以上だ。
簡単ではないか。
それから、応援を呼べばいい。エドガーが言ったように、どこにいるともしれないレオンハルトに呼びかける手もある。どのみち、自分はまだ殺されてはいないのだ。やろうと思えば何でもできる。
しかし、青年がポケットから異臭のする粉を撒き始めたとき、メリッサの心に始めて、恐怖のようなものが忍び込んだ。室内の空気が、急に、生あたたかくなった気がしたのだ。なにものかの息吹が聞こえてきた。その吐息は、メリッサの首筋をぞろりと舐める。青年の呟きが聞き取れるようになってきた。それは日本語でも英語でもない――わけのわからない、「呪文」だった。
――飛ばして!
メリッサのべつの部分が叫ぶ。
――『デポート』よ! こいつを消すの! 飛ばすのよ!
だが、メリッサがその内なる声に応じる前に、青年の詠唱がぴたりとやんだ。
「だ、誰だ、おまえッ!」
そして、ようやく日本語を口にしたのだ。怯えた声に応じる者があった。
「いいぞ、ある程度までなら続けてくれても。いや、そろそろやめといてもらいたいかもな。……生放送は慣れてるだろう? ウェブカムで全世界に向けて生放送中だ。しっかりカメラ見てくれないと困る」
リョウ・セレスタイトの声だ!
無理やり首をひねると、針金が皮に食い込む、世にも恐ろしい感触があった。しかしその努力は無駄ではなかった。味方の――リョウの姿が、はっきり見えたのだから。
リョウは薄く笑いながら、小型のカメラを構えていた。メリッサの視線に気づき、軽くウインク。すぐさまその視線は、後ずさりをする青年に戻る。
「霧谷ジュンヤさん。消えてなくなるヤクのことはごまかしがきくかもしれない。でも、こればっかりは警察も世間も見逃せないだろう。若くてきれいな女の人を、針金で縛りつけてるんだ」
「あ……う……」
青年は、逃げようとしない。逃げられないと観念したのか。
いや、本当に、逃げられないのだ。リョウは催眠能力で、人間を意のままに操れる。
「すみません……僕が殺しました……ヒヨリを……」
「ヘマして、ヤクを事務所から流してもらえなくなった。だから、自分で調達しようとしたな?」
「はい……そうです……」
「馬鹿なやつだ。すまんね、もう少しウィットに富んだ感じの台詞で決めたかったんだが、普通になっちまった。メリッサ……大丈夫か?」
メリッサはやっと、右手と首の針金をどこかに転送した。無意識のうちに、拘束を解こうと動かしていたのか、手首には針金の痕がついて、血がにじんでいる。
リョウがカメラを下ろした。
それが合図だったのか、後ろからどたどたと銀幕署の刑事が室内になだれ込んでくる。青年は呆けたように立ち尽くしているばかりで、あっさり警察に身柄を拘束された。
「メリッサ。何だか、とても……陳腐な言葉だけど、どきっとしたよ。いつもとずいぶん雰囲気が違うね」
メリッサの針金をほどき、口のテープを剥がしながら、リョウが言った。
「や、やめてください」
ようやく自由になった口から、初めて飛び出したメリッサの言葉は、それだった。
「カメラ、まだ回ってるんでしょう?」
「あ、しまった」
遠いところ――いや、すぐ近くから――爆音めいた轟音が聞こえた。
鉄と鉄がぶつかり合う音。
身体が投げ出される。
顎に強烈な一撃を食らって、脳は見事に揺れてしまった。そのあと、薬でも飲まされたのかもしれない。身体と意識が切り離されているようで、動きたくても、明日は動けなかった。担ぎ上げられていた体が床に放り出されたのに、ろくに痛みも感じない。
――銃もない。スチルショットを……持ってくるんだった。かさばるけど……。
のろりとまばたきをするたび、ぬるりと視界が揺れる。
――ああ、そう言えば、パルは……?
どこかの家の中、らしい。異様なシルエットの男が、ドア口に向かっていく。向かう先には……大柄な、誰かのシルエット。
――ドルフ……?
まばたきをする。
――ちがう……。ベネット、さん……。
銃声。ベネットがショットガンを撃ったのだ。しかし、化物は大きくよろめいただけで、倒れない。血の匂いが飛散する。しかも、人間の、血の匂い。
怪物はその顔までも伸ばせるらしい。よろめきながらも、ベネットに咬みついた。ベネットはシールドを張らずに身を引いた。コートの肩口が牙によって引き裂かれ、わずかばかりの血がしぶく。
再び、ショットガンが火を噴いた。
化物は散弾をまともに浴びながらも、大きく真上にジャンプした。そして、蜘蛛のように天井に張り付き、奇声を上げながらどこかに消えていった。
「明日さん、大丈夫か!」
ベネットの声と一緒に、白いものがころころと近づいてくる。
――パル。
白いバッキーは、動かない明日の手にしがみついた。
ベネットが何か怒鳴っているようだ。怒っているわけではなさそうだが、もともと強面な彼が緊張して必死の形相になっているせいで、ひょっとすると叱責されているのではないかという気がしてくる。
「ごめんなさい。あたしは、やっぱり、助けられてばっかり」
朦朧とした意識の中で、それだけは言えた。ベネットの動きが止まったようだ。
「何を言ってるんだ? あんたもいつだって誰かを助けてるじゃないか」
彼の大声は不思議と耳に入らなかったのに、低い、つぶやきのようなその言葉は、やけにはっきりと明日に聞こえた。
『かの魔神は、ブバスディア。架空の神だ。その容姿は、救世主たる神子さえ目を背くほどに醜い。かの者は美を憎み、生き血に込められた魂を好む。かの者はすでにこの地に降臨し、陣と然るべき儀式により、あらゆる時間、あらゆる場所に出現するのだ』
「私は貴様の知識が必要だとはひと言も言っていない」
『然り。此れは我が独白に過ぎぬ』
レオンハルトの背後で、3対の翼を持つ悪魔は含み笑いを漏らした。
場所はミッドタウン、ある高層ビルの地下。まさかこんな街の真ん中に、架空の魔神を崇拝する教団のアジトがあるなど、誰も想像だにしないだろう。
人智を超える知識に憑かれているレオンハルトには、この場所がわかった。
幾人もの被害者も、レオンハルトに救いを求め、幻覚や言葉によって、教えてくれる。
人によって創り出され、人によって喚ばれたものの寝息が聞こえた。
〈無価値の名を冠する者〉。レオンハルトに憑いた悪魔は、魔神との対面を控えて、いつになく高揚しているらしい。付き合いが長いレオンハルトにはわかった。魔神と相対したとき、自分は〈無価値の名を冠する者〉の力を利用しなければならない――レオンハルトがそう考えていることを、悪魔は知っているのだ。
ここに、DPの同僚や明日を呼ぶわけにはいかない。全員で総力戦になるだろう。そして全員が、怪我では済まされないかもしれない。
『汝は、数多の同胞の力を、己が独りで凌駕すると見るか? 虚栄にして傲慢である。〈明けの明星〉が知ればさぞかし歓喜するであろう』
「……そうは思わない。私の力もまた、使い道が限られている。私は貴様の力を借りねばならない……しかも、相当に。貴様もせいぜい頑張るがいい。私の身体と魂を手に入れるまたとない機会かもしれんぞ」
赤錆で覆われた鉄の階段が、暗い深淵の底へ、どこまでも続いている。すでに何百段下りたかわからなかった。恐らくここはすでにムービーハザードなのだ。
コンクリートの壁は、血の手形や、わけのわからない呪文でびっしりと埋め尽くされている。手を触れたくもない邪教と狂気の印だ。それにしても、四方の壁に沿った階段がいつまでも続いているだけで、部屋も見当たらなければ、魔神の信仰者の姿もない。祈りも慟哭もなく、ただ、息遣いだけが聞こえるのだ。
レオンハルトはついに下りるのをやめ、階段の手すりの向こうに広がる闇に、炎の弾を放った。
暗黒の虚空を照らすつもりだった。
だがその炎は、暗闇に命中した。
空気の底を震わせていた息吹が、咆哮に変わる。
ブバスディア!
誰かは、この神は女神だと説いた。しかし、女も男もない姿だ。炎が、そのぶよぶよと膿みただれた体表を舐める。吸血神の姿は、階段の向こうに浮かび上がった。
腐った肉塊。
ひと言で言えばたったのそれだけ。
魔神はその肉塊のような身体から、無数の腕を伸ばした。人間の、女の、すらりと細い腕ばかり。腕という腕は階段の手すりを掴み、レオンハルトのほうへ、その醜悪な肉体を引き寄せた。神は何か言っているようだったが、この世の言葉ではなかったし、人間の舌と言葉では、およそ表現は不可能だった。
レオンハルトの顔に凄絶な笑みが浮かび、背からは3対の黒翼が飛び出した。黒い羽根が飛び散った。がぶり寄ってきた神の表面から、今度は、無数の管が伸びたのだ。
管は腔腸動物ヒドラに似ていなくもなかった。1本1本の先端には、牙をそなえた丸い口腔が開いている。それはレオンハルトの身体に次々と咬みつき、覆い尽くした。
ぢうぢうと音を立てて、吸血神はレオンハルトの血を吸い始めた。
汚れた透明だった管が、たちまち赤に――いや、炎の色に染まる。
〈無価値の名を冠する者〉が、哄笑を上げた。侮蔑と虚栄心に満ちた、勝利の哄笑だった。かれはめったにそう声を上げて笑わないはずだが、笑わずにはいられなかったのだろう。
炎を操る悪魔の血は、炎そのものに変わっていたのだ。悪魔の炎を吸い込んだ神は、怒りと苦痛に満ちた叫び声を上げ――内側から燃え始めた。
――レオン?
エドガーが暗黒の中で身体を起こすと、目の前にレオンハルトが立って、自分を見下ろしていた。相変わらずの仏頂面だが……いまは、どこか、軽蔑の眼差しでいるような気がする……。
――起きろ。
彼は、口を動かさない。ただ、侮るように見下ろしているだけ。
――起きろ、この、人殺しのサイコめ。
「……!!」
我に返ったエドガーの前には、指をすべて切り落とされ、鼻と耳と舌を削ぎ落とされ、髪を頭皮ごと頭蓋骨から剥ぎ取られた死体が座っていた。
爪先から3センチごとにスライスされていった様子も見受けられる。膝の下までで、輪切りは終わっていた。ここから上を斬れば、太い動脈を傷つけて、あっと言う間に男を死なせたはずだ。エドガーの中の『影』は、それを許さなかった。次に、どこを傷つけたのだろう。どこを薄切りにした?
自分の手と愛刀が、血に染まっている。
――これでは、同じじゃないか。ブバスディアと同じだ。俺が、血に憑かれているなら……。血なしでは、生きていけないというなら……。
それに……、死体だ。
死体が残っている。
この男は、人間なのだ。
玄関で、ものすごい叫び声が上がった。まるで断末魔のような。
メリッサとリョウは顔を見合わせ、玄関に向かった。ちょうど、応援に駆けつけてくれた刑事たちが、霧谷ジュンヤを連行していったはずだ。彼が抵抗したのか? それにしては、あまりにも鬼気迫る声だった。
「うわああ、なんだこりゃああ!?」
「は、離れろ!」
「ど、どうなってる!?」
刑事たちが、全身血まみれになっていた。だが、彼らは怪我をしたわけではない。ジュンヤだ、ジュンヤの身体から、血が噴き出しているのだ。まるで全身の毛穴のすべてが血を噴いているかのようだった。
美しかった彼の容姿が、ぐちゃぐちゃと歪み、膨らみ始める。それを目の当たりにする頃には、メリッサは悲鳴を上げていた。リョウは考える前にメリッサを抱き寄せて、その顔を自分の胸に押し付けていた。見たくない者に見せるべきではない光景だ。
「たすけ……て。たすけ……、ぐへッ……たすけ……て……」
アイドルは、赤黒い腫瘍の塊と化した。服は破れているが、むき出しの肉に食いこんでいて、癒着が始まっている。
何より救いがたいのは、彼が、まだ生きているということ。
血みどろになった刑事たちは、誰ひとり、彼に手を触れられなかった。玄関の外で、ようやく誰かが吐き始めたようだ。
ジュンヤは、しわがれた声で、たすけて、たすけてと繰り返す。
「病院だ。救急車……」
「もう呼んだよ」
呆然とした誰かのつぶやきに、リョウが答えた。
「あんたのバッグが落ちてたんだ。中にはバッキーが入ってた。そいつが、走ってくバンを指さすもんでな。あとは車をぶっ飛ばすだけだった」
「そうでしたか。でも、車をぶつける必要はなかったんじゃ……」
「はずみだよ。映画じゃ、犯人の車とめるときはとりあえず体当たりするだろう。俺はお約束に逆らえなかったんだ」
ベネットはむっつりとぼそぼそ話している。が、その大きな手では、明日のバッキーがごろごろくつろいでいた。
明日が連れ込まれたのは、住宅街の一軒家だ。表札がかかっていないので誰の家なのかはわからない。家の中をくまなく調べたのに、犯人は見つからなかった。
玄関先には、犯人が明日の拉致に使ったバンが停まっていて、その後部に鼻先をめりこませた覆面パトカーも停まっている。
ベネットのヒーリング能力で、明日の身体をめぐっていた薬物はほとんど中和されていた。だが、大事を取ってとりあえず病院には行くつもりだ。まだ頭が重くて、軽い吐き気もする。支えてもらわなければうまく歩けない。
自宅の捜索を終えて、覆面パトカーに乗り込もうとしたときだった――家の中から、すさまじい叫び声が聞こえてきた。明日とベネットは、当然、振り返った。
いくら探しても見つからなかったのに、玄関の向こうの廊下で、誰かが血を噴きながら異様な踊りを踊っていた。皮膚が膨らみ、弾け、ただれて、腫れ上がっていく。
明日とベネットは、顔をしかめて、その様子を見守ることしかできなかった。
「あヴぁあががががばばばばば! なんじゃこりゃあ! なんでぁこれァああああああがが!!」
ふたりにも何が起きているかわからなかったが、当の本人にも、何が起きているかわからないらしい。玄関の奥をひととおり真っ赤に染めてから、男は倒れた。倒れたあとも助けを求めている。まだ生きているのだ。
明日とベネットは顔を見合わせた。
一応、救急車を呼んだほうがいいのだろうか。
その後数日間にわたって、霧谷ジュンヤや明日の拉致犯人のような、突然血塗れの肉塊と化した人間が、銀幕市のあちこちで発見された。かれらは「裏返し人間」やら「トマト人間」やら、不謹慎ながらも的を得たスラングで呼ばれるようになった。
裏返しになったトマト人間は、全員、そんな姿のまま生存している。記録されているだけでも、その数は30を超えた。ほとんどは暴力団関係者や少年院の世話になっている不良たちだったが、中には『スケッチ・プロダクション』の重役数名も含まれていた。市議会議員もひとりいた。このニュースは、さすがに全国に流れたようだ。何しろ、国民的アイドルの霧谷ジュンヤが、腐ったトマトになってしまったのだから。病院関係者の制止を振り切って、彼の見舞いに訪れた――というか病室に殴りこんだ熱狂的なファンが数人いたが、ひとりはその場でショック死し、残りは翌日全員ビルから飛び降りた。
全員が全員、銀幕市の病院にいる。東京の大病院に搬送しようとしたところ、こんな有様でも生きていた裏返し人間は、銀幕市を出たとたんに死んでしまったのだ。彼らは苦痛にさいなまれながらも、銀幕市でなら生きていける。彼らを楽にしてやるべきなのか、それとも銀幕市で生きながらえさせておくべきなのか、いつまでも意見は割れそうだった。
「全員、〈緋色の研究〉の中毒者だったみたいだな」
DP警官はその後も調査を続け、リョウがその結果を弾き出した。
「クスリを構成する要素だった魔神が死んだ。間違いなくその影響だろうね」
エドガーが手洗いから帰ってきた。彼はここ数日、しょっちゅう手を洗っている。両手はすでに真っ赤だった。水がひどく冷たくなるまで、念入りに洗っているから。
「……」
メリッサが淹れるコーヒーの香りが、DP部屋の中を満たし始めた。
ベネットは渋面で、明日の白いバッキーをあやしている。小柄なバッキーは、ベネットに撫でられたり、ベネットの腕を一生懸命登ったり、肩でひと息ついたりしている。とてもなごやかな光景なのに、部屋と、飼い主の気持ちは沈んでいる。
リョウがその調査結果を出したところで、この事件は解決した。失踪した女性たちは、霧谷リョウヤをはじめとする、通称トマト人間たちの自宅やアジトで、遺体として発見された。ヒヨリも、ほとんどミイラ化した状態で見つかった。相川マリカはショックでふさぎこみ、心療内科に通っているらしい。
窓の向こうの銀幕市は、快晴だった。明日はいくらか強張った無表情で、快晴の下の通りを見下ろす。
映画かドラマの撮影が行われているようだ。カメラが動き、スタッフに囲まれながら、若い俳優と女優が演技している。公開ロケなのだろう、多くの人が足を止め、撮影の様子を見守っていた。携帯電話のカメラでその様子を撮影しようとした女子高生が、スタッフから注意されている。
そう言えば、今日は、記念公園で、カラオケ大会が催されるそうだ。会場の前では盛大にバーベキューパーティーをやるらしい。明日とエドガーは知り合いから誘われていた。リョウは昨日知り合った女性から誘われていた。たぶん、レオンハルトはエドガーに誘われるだろう。メリッサは行かなければならない。カラオケ大会の幕間に、マジックショーをやってくれないかと頼まれている。
今日も素敵だ。市外の誰が何と言おうと、市内の誰かがどこかでやり切れなさを感じていても、銀幕市はいつもの素晴らしさで一日を送る。誰が病院で寝たきりになっていても、誰がどこかで死んでいても、殺されていても。それでもすぐそこに笑顔がある。カオスなドンチャン騒ぎがある。いつもの日常だ。何食わぬ顔で、いつまでも続きそうな日々が、ここにもある。
ひとり、またひとりと、DP部屋を出て行った。
事件は終わりだ。
今からカラオケとバーベキューに行こう。
〈了〉
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クリエイターコメント | 本当にお待たせしてしまいました。納品締切日の関係で、本ノベルの製作と納品を後回しにしてしまい、申し訳ありませんでした。 銀幕市の陰の部分を描くことには慣れました。楽しくて華やかな部分も充分書いたと思います。わたしのノベルは、おかげさまで「バランス」を保てたようです。 このたびは、オファーありがとうございました。 最後の納品物が、諸口正巳らしいテイストを出せるオファー内容であったことに感謝します。 |
公開日時 | 2009-07-27(月) 18:50 |
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