★ 頭の悪い案山子、逃亡中 ★
<オープニング>

  ──王様、王様、何してござる  空の玉座で、何してござる──

  ──こうてござる、こおうてござる  壊れるほどに、こうてござる──

  ──王様、王様、何見てござる  闇夜に紛れて、何見てござる──

  ──何にそんなに、怯えてござる  何をそんなに、こうてござる──



「主様(ヌシサマ)。どうか、もうそろそろお戻り頂けませんか」
 半ば諦めたような声で、それでもぴくりとも表情を動かさずに促すのは小柄な女性。目の前に広がるのは、星さえ瞬かない深い闇夜。そこに相対する誰がいるでもなく、何もない空間に対しての独り言めいた言葉だが、姿はなくとも応える相手はあるらしい。
「お前、誰に仕えているんですー?」
「主様です」
「へーえー? 僕はまた、僕の上司に仕えているのかと思いましたけどー?」
 皮肉な声は幾つも棘を生やしているが小柄な女性は動じた風もなく、溜め息を噛み殺すような間を置いて淡々と続ける。
「主様。薄紅の主様が、いい加減に痺れを切らしておいでです」
「放っておけばいいんですよー。所詮はブリキの樵に、何ができるんですか」
「……主様の消滅は、おできになろうかと」
 僅かの間を置いて答えられたそれに、深い闇はそれそのものが震えるみたいにして笑った。
「そうですか。ふふ、ようやく僕を殺してくれるわけですかー」
 できると思っている辺りが図々しいですよねぇ? と声にして笑いながら語尾を上げる闇に、小柄な女性は言葉を諦めたように目を伏せた。
 戻る気になってほしくて紡いだ不吉は、どうやら逆効果だったらしい。この気紛れで天邪鬼などうしようもない主は、その渾名のままに頭の悪い行動をしばしば選ってやってのけるのだ。
「主様」
「いいですよー、どうぞご自由にー? 僕を殺してくれるのなら大歓迎ですよお。あの人の前に引き摺り戻されるくらいなら、……ココロを閉じ込めたまま死ぬのは悪くない」
 共に死のうと聞こえないほどの声で囁いた闇は、一面黒しか見えなかったそこに唐突に小さく輝いた銀に、いっそ恭しく口接けた。
「主様、お戯れも程々にしてくださいませ」
「戯れと思うなら、試すといいですよお。僕は堂々と逃げ回っているんですから、捕まえに来ればいいでしょうー?」
 じたばたと逃げ隠れしているだけじゃないですかと、人を小馬鹿にした様子で笑った闇は再び銀を内包して揺れた。
 小柄な女性は見えもしない主をそれでも見据えるように視線を上げて、表情こそ変わらないものの幾らか切迫した声で尋ねた。
「もし私どもが主様を捕まえられたなら。お戻り頂けますか」
「そうですねぇ。考えてやってもいいですよー?」
「お約束ください、お戻り頂けると!」
 そうであれば全力を尽くしますと小柄な女性がその白い面に僅かに苛立ちを浮かべて重ねると、闇は怖いほどひっそりと静まり返った。もうそこに応えるべきは何もないのではないかと思われるほどの長い時間、静寂だけがそこを占めていたが、女性は身動ぎもせず闇を見据えたままでいる。
 やがて、そうと息を吐くように闇が震えた。
「約束しましょう。黄緑、お前の名に懸けて」
「いいえ、主様の御名に懸けてお誓いください」
「……面倒臭いですねぇ。僕は馬鹿で面倒な動物が大っ嫌いです」
「主様の主様の御名でないのは、私の配慮と思し召されませ」
 ぴしゃりと叱りつけるように小柄な女性が言いつけると、殺したいほどむかつく動物ですねぇと震える声が呟いた。
「まぁ、……でも、いいですよー。戯れに、お前の提案に乗ってやりましょうかー。頭の悪い案山子が、その名に懸けて誓ってやりましょう。鬼ばかりの鬼ごっこ、僕ばかりが不利なそのお遊びで負けることがあれば、……帰りましょう」
 くすりと笑った闇は、やがてその黒の中から滲み出るようにして姿を現した。全身を闇で覆い、黒い手袋をした手で黒い眼鏡を押し上げて、どうにか黒だと窺える細い目を尚細めた。
「闇は僕の領域。この不利を補うべく、夜から次の夜までの間を期限にしましょう。道案内は、黄緑、お前たちが務めなさい」
「ですが、薄紅は水色の主様を監視するよう仰せつかっております」
 彼女たちは三人、仕える主は一人につき一人。内の一人が別の主を監視するよう言い付かっているから、実際にこの闇を捕まえるべく動けるのは二人しかいないことになる。けれど闇しか纏わない彼女の主は気に留めた風もなく、それで何か困るんですかー? と聞き返してくる。
「僕が困らないことで、いちいち話の腰を折らないでくださいよお」
 そっちの事情はそっちで適当に処理しなさいねぇと面倒そうに答えた闇は、それからと条件を付け足してくる。
「僕を捕まえるのに、お前たちの手出しは無用ですからー。僕を探していいのは、僕の世界にはない者だけ。その人たちが僕に負けを認めさせたなら、捕まえられたことにしましょうかー」
 それがいいと笑顔で頷いた黒尽くめの男は、抗議の一切を受け付ける気もなければこれ以上の妥協をする気もないと分かる、我儘な強さで断言した。小柄な女性はしばらく黙った後に、ちらりと不審げな目を向けた。
「それは主様を力尽くで押さえ込んでも、主様が負けをお認めにならなければ負けではない、と……?」
「そうですよー? 当たり前でしょう、そんなことー」
 馬鹿な動物って嫌いですよー? と爽やかに笑って言い放つ黒尽くめの男に、小柄な女性は表情は変えないまま痛そうに額を押さえた。
「それでは、主様は何をして負けをお認めになられるのです」
「……僕はね、馬鹿な動物は嫌いです、黄緑」
 馬鹿って救いようがないですからねぇと語尾を上げると、ふいと背を向けた男は手袋をしていない為にやけに目に付く左の白い手をひらりと揺らした。
「それでは、僕にも逃げる準備がありますから。これで失礼しますねぇ」
「主様、」
「猫と樵は、今回のお遊びには手出し無用と伝えなさいねぇ。うっかり殺したくなりますからー」
 それ以外はどんな手を使っても大歓迎ですよーと笑う男はまた闇に紛れ、今度こそその場から消えた。



 ──王様、王様、何してござる  空の玉座で、夢見てござる──

 ──王様、王様、何してござる  探す答えに、惑うてござる──

 ──王様、王様、何してござる  叶わぬ夢に、泣いてござる──

 ──こうてござる、こおうてござる  当てられる日に、怯えてござる──

 ──怯えてござるは、何事か  御身に宿る約束か、御身を表す言の葉か──

 ──こうてござる、こおうてござる  厭うてござる、哀しんでござる──

種別名シナリオ 管理番号648
クリエイター梶原 おと(wupy9516)
クリエイターコメント三作目(?)のシナリオは、前回ご迷惑をおかけした黒男をとっ捕まえてください、という話になりました。ので、存分に甚振ってやってください。
前回でむかついたから一発殴ってやるという方も、よく知らない初対面だけど捕まえるのは得意という方も、お気軽にご参加ください。

ただ自分で宣言しているように、とっ捕まえられるだけでは帰らないという駄目っぷりですので(逃げる手段があるようです)、痛いところを抉ってやってくださると奴も負けを認めると思います。どの辺が痛いところかは仄めかしてはいるつもりですが、分からない時は当てずっぽうでも(笑)。
若しくは面倒臭いから実力行使で気絶させるというのもありですので、その辺はご自由にどうぞです。

今回は案内役として、黄緑と水色が逃げた先の心当たりに先導します。手出しは禁じられてますので単なる道案内ですが、答えられない質問以外は答えます。機械的な受け答えしかしませんが、よろしければ参考までに。
どんな質問をこういう手段で問う等と書いておいてくださると、そこから自動で負けポイントの答えが出るかもしれません。
因みにどちらについていくかで、黒男に辿り着くかどうかが変わります。辿り着かなかった時はどうするかも、念のために書いておいてくださいますと助かります。

それでは、またしても黒男がご面倒をおかけしますがお付き合いくださいますと幸いです。宜しくお願いします。

参加者
ジャスパー・ブルームフィールド(csrp6792) ムービースター 男 21歳 魔法使い
玄兎(czah3219) ムービースター 男 16歳 断罪者
ミケランジェロ(cuez2834) ムービースター 男 29歳 掃除屋
香玖耶・アリシエート(cndp1220) ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
花咲 杏(cyxr4526) ムービースター 女 15歳 猫又
シキ・トーダ(csfa5150) ムービースター 男 34歳 ギャリック海賊団
<ノベル>

 以前に一度だけ関わったことのある黒尽くめの怪しすぎる男を捕まえてほしいという依頼を聞いて、杏は喜んでそれを受けた。面白そうだというのが何よりの理由だが、今度はあの得体の知れない黒尽くめの男を嬲っていいとのことなので、余計に張り切りもする。
「いや、別に嬲れって依頼じゃねェと思うがな」
「ええやん、細かいことは気にせんと。ミケはんかて、クロはんのこと殴ったる! くらいの勢いで参加してはるんやろ?」
 仕返しはちゃんとしとかなあかんと思うねんと拳を作る杏に、前回の依頼で一緒だったミケランジェロは苦笑めいて笑った。ただ否定はされないので、よほどあの時に受けた仕打ちを根に持っているなとひっそり考察する。
 他のメンバーはと周りを見回すと、召集を受けたその部屋の端っこのほうで、こそこそしている二人を見つける。どうやら女性のほうが男性に向かって何かをお願いしているような様子だが、詳しいことは聞こえてこない。それよりも気になる香りに、ひくひくと鼻を動かした。
「なぁ、何かええ香りせぇへん?」
「オレちゃんのガムかもかもー?」
 何やら軽い様子でそう口を挟んできたのは、実はさっきからものすごく気になっている兎耳の青年。帽子とはいえ何故に兎耳がついているのかとか、ゴーグルで顔の大半が分からないとか、兎リュックからはみ出ているのがバットっぽいとか、突っ込みどころは大量にある。
 けれどそれらを尋ねる前に、ぷぅとガムを膨らませてこれこれと示した指が突き刺さり、ぱん! と音を立てて割れてしまった。途端にアヒャヒャヒャとひどく面白そうに笑い転げる彼に、軽く遠い目をする。
「とりあえず……、そのガムちゃうんは突っ込んどくわ……」
 甘ったるい匂いはするが、杏が口にした「いい香り」とは違う。それを気にした風もなく笑っている兎耳を放って視線を巡らせると、体格のいい男性と目が合った。その体格といい、左目を塞ぐような傷痕といい。外見だけ見れば荒事上等といった風で恐ろしげでもあるのに、にっと人懐っこい様子で笑いかけてくれた。
「ん? まさか、俺じゃないよな?」
 さすがに香水をつける趣味はないぜと楽しそうに語尾を上げた男性に、かなり好感を持ちながらちゃうねぇと杏も笑顔で答える。その間に話がついたらしい端っこの二人も近寄ってきて、ますますいい香りが強まった。
 すんすんと匂いを確かめるように近づくと、白いスーツの男性のほうから花のような香りがしている。
「ああ、旦那はんや。何や、ええ香りしてるねぇ」
「花の香りデスね! 気に入ってもらえタラ、嬉しいデス」
「そうか、花の香りかぁ。旦那はんに似合とるね」
 うんうんと頷きながら隣の女性に目をやると、どこかぎこちなく微笑まれた。
「はじめまして。私は香玖耶・アリシエートよ。宜しく……、えっと」
「うちは、杏。花咲杏やわ、よろしゅうに。丁度ええから自己紹介しといて、そこの兎耳のお人もー」
 せやなかったら兎はんて呼ぶえと少し声を張るのは、割れたガムを引き剥がしたはいいがその際に指についたガムと格闘するほうに忙しいらしい姿が見えたから。うにーっとガムを引き伸ばしつつ顔を向けてきた兎耳は、
「玄兎」
 ものすごく端的な自己紹介をして、ガムに意識を戻している。分かりやすいなと笑った体格のいい男性は、シキ・トーダと名乗った。そっちの兄さんはと話を振られたミケランジェロは、面倒そうに頭をかいて口を開きかけたのだが。
「あ、ペンキの方デス」
「っ、ジャスパーさんっ!!!!」
 私があれだけお願いしたのにぃっと悲鳴を上げて白スーツの青年に掴みかかっている香玖耶に、凍りついているミケランジェロを放ってぽんと手を打った。
「ひょっとして、妨害チームのお人らかぁ」
「ふわあっ! ご、ごめんなさいごめんなさい、妨害はあれは依頼だったとはいえそのっ」
「スゴイやられっぷりデシタよネ!」
 かくんかくんと揺さぶられつつ爽やかな笑顔で香玖耶の謝罪を台無しに断言する白スーツの青年に、どうやら悪意はないらしい。けれどミケランジェロはふるふると拳を震わせ、あの時の恨みは忘れねェと声を低めている。
「まぁまぁ、ミケはん、落ち着いてぇな。その恨みは今回クロはんで晴らしたらええやん。どうせ妨害の依頼も、クロはんからやったんやろ?」
「クロはん? えっと、今回捕まえてほしいって言われた黒尽くめの人ではあったけど……、でもごめんなさい!」
 平身低頭して謝罪する香玖耶に、ミケランジェロも毒気を抜かれた様子で頭をかいた。
「あー、……まァ、あんたも依頼だったんだし。恨みはあの野郎で晴らしとく」
 まるで苛めてるみてェじゃねェかと居心地が悪そうにぼやいたミケランジェロに、面白そうに眺めていたシキが口を挟んできた。
「そっちが曰くありげな知り合いなのは分かったとして、その花の香りの兄さんは。名前は?」
「そうデス! 申し遅れマシタ、ジャスパー・ブルームフィールドと言いマス。これは、前回のお詫びデス」
 優雅に一礼して名乗ったジャスパーは、どうぞとすっと手を差し出してきた。何事かと注目すると、いきなりぽんと音さえ立てて赤い薔薇がそこに現れた。差し出されたミケランジェロがものすごく複雑そうな顔をしながらそれを受け取ると、キョウさんにもと向き直ってきたジャスパーの手に今度は小振りの向日葵が現れる。
「へえ。あんた、マジシャンか?」
「いいえ、魔法使いデスよ。生憎と、オズの国の出ではないデスけどネ!」
 シキの問いににこりと笑ったジャスパーのそれで、全員がはたと我に返る。黒尽くめの男を追うのが目的だったと案内役のはずの二人を探し、何故か自己紹介後に地面に寝転がっている玄兎を見つける。何してはんのやろとそろそろと尋ねると、退屈そうにガムを膨らませていた玄兎は顔だけ振り返ってきた。
「オレちゃん、準備体操ちゅー。追いかけっこが始まったら声かけたらいいじゃーん、オレは忙しいんだっつーのぉ」
 言って寝そべったまま足をゆらゆらさせている玄兎が退屈そうなのは、自分たちのせいとも言えるだろう。だからそれは準備体操でもないだろう等の追求はやめておいて、ひっそりと佇むように壁際に控えているそっくりの二人の女性に目をやった。
「えっと、クロはんの逃げた先に案内してくれはるんやんな?」
「主様がどちらにいらっしゃるかは存じ上げません。ですが我らに案内をと仰られたからには、我らが先導せねばならないどちらかにおいでなのだと思います」
 向かって左側の女性──多分、こちらが黄緑だ──が告げたそれに、つまらなさそうにしていた玄兎が勢いよく立ち上がった。
「場所が分かってるなら早く行こうぜぇ! とっ捕まえて、ボコればいーんだろー? オレちゃんチョー得意☆」
 早く早くと足踏みまでして急かす玄兎に、せめてとっ捕まえるで表現は止めておいてと香玖耶が苦笑した。
「捕まえる時にちょっと手荒な手段を取ってしまうかもしれない、だけよね?」
「そうそう、喧嘩っ早いのはよくないぜ?」
 なあ、と香玖耶に笑顔で同意しているシキが誰よりそれを得意分野にしている気はしないでもないが、暴力沙汰は良ぉないわーと杏も頷いておく。
「けど早よ行くんは賛成やわ。クロはんのことや、対峙してから捕まえるまで何や時間かかりそうやし」
「でハ、皆で片方ずつ探しマスか?」
「せっかく六人いるんだから、三三で別れて探しゃいいんじゃねェか?」
 どっちが行き着くかは時の運だろと肩を竦めたミケランジェロに反対するだけの理由もないので、早くしよーぜぇ! と声を荒げている玄兎が切れない内に、どちらについていくかを決めたほうがいいだろう。
「それで、どこに案内してもらうかは聞いてもいい?」
「水色が西の魔女の在処に。私は主様の王宮をご案内します」
「王宮ー? 銀幕市に王宮なんてないじゃーん、オレちゃん知ってるもんねぇ」
 そんなことも知らねぇのー? と語尾を上げる玄兎に、黄緑は空間を繋ぎますと淡々とした様子で答え、水色が続ける。
「主様は心のない樵様と共に、主様の主様が作られた結界と共に実体化されました。連れ戻して頂きたい場所がこちらですので、今回の案内先からは省きます」
「主様は、王座においでの時に実体化されましたので王宮も共に実体化されました。西の魔女も同じく司る空間と共に実体化したようです。銀幕市の均衡を崩してはならないと、主様が同じ世界にある者にしか出入りができないよう封じられましたので、皆様はご存知ないのだと思います」
 二人して声をかけてきた玄兎にそう答えたが、当の質問者はあまり理解に及ばなかったらしく、かくかくと首を傾げている。
「……とりあえず、あんたたちが案内する先に案山子がいるのは確か、なんだろ?」
「そのように願います」
 フォローするようにシキが尋ねたそれに、銀幕市におられるとお手上げですのでと二人は真顔で頷いた。また探す前から不安になることを、と頭痛を覚えそうになっていると、聞いてもいいかしらと香玖耶がそろりと手を上げた。
「さっき、王宮って言ったように聞こえたんだけど。あの黒尽くめの人、まさか王なんて言わないわよね?」
「? 頭の悪い案山子様は、我らの世界を治められます王であられます」
「ちょっと待て、その王の上司って何事だ?」
 王に上司がいるのかと不審も露にミケランジェロが尋ねると、二人は顔を見合わせた。
「我らが存在した時には既に主様は王であられ、主様の主様もおられました」
「王であられることは、頭の悪い案山子様の一面でしかありません。さほど重要な事柄とは認識されていませんが」
 何か問題が生じますかと真顔で聞き返されては、別に何もと言うしかない。確かに相手が王であろうと違おうと、とっ捕まえろという依頼に変わりはない。
「〜〜っ、ごちゃごちゃ話してないで早く行けばいーじゃん! オレは追いかけっこしに来たんだってぇのー!」
 まるで子供みたいに手足をばたつかせて渾身の駄々を捏ねる玄兎の言葉は、現状において最も優先されるべき依頼そのものには違いない。
「あー、そしたら細かい突っ込みは後にして。うちは西の魔女にも借りあるし、水色はんについていくわ。ミケはん、うちのこと運んでな?」
「は? って、いきなり猫になるなよ!」
 怒鳴るように突っ込んでくるミケランジェロに、うにゃあんと可愛らしく鳴いてみせると、がりがりと頭をかいた彼は仕方なさそうに肩の上に乗せてくれる。ごろごろと喉を鳴らして懐いていると、そんなわけでと疲れたようにミケランジェロが続けた。
「仕方ねェから、俺も西の魔女の在処探索だな」
「ふぅん。それなら全員が同じところに行ってもしょうがないから、俺は黄緑についていくか」
 よろしくと片手を上げたシキに、黄緑は深々と頭を下げた。
「じゃあ、私も黄緑さんについていくわ。王宮にいなかったとしても、本来の彼がいるべき場所なんでしょう? 何か分かるかもしれないし」
「僕もキミドリさんについて行きマスねー! 若葉の色デスカラ、きっとダイジョブです!」
 にこにこと邪気もなく断言するジャスパーに、同行が決まった香玖耶とシキも、だといいなとばかりに少し笑う。それなら残るはと視線を巡らせるまでもなく、玄兎は兎リュックからはみ出ていた物をずるずると引っ張り出しているのが目についた。
「俺は水色についていくしー。勘? 予感? ちがーうね、オレちゃん超能力ー☆」
 当たりに決まってるぴょんと楽しそうに釘の生えまくったバットを振り回して笑う玄兎に、こっちのほうが危ねェと当たらないように数歩だけ避けたミケランジェロがぼそりと呟いた。
「……お決まりであれば、移動を開始させて頂きます」
 西の魔女の在処からどうぞと声をかけつつ水色が進み出て、何もない場所でドアを開けるような仕種をした。と、あるはずのない扉は押し開かれていき、その向こうには全面硝子張りの細長い廊下が伸びている。深い夜のせいで外の様子こそ窺えないが、天井付近に小さな光球が等間隔に並んでいて十分に廊下を照らし出している。
「西の魔女と遭遇することもあるかもしれません、ご注意ください」
「ほな、行って来るわ。香玖耶はんやらも、気ぃつけて〜」
「ありがとう、杏さんたちもね」
 香玖耶が答えた声を最後に見えないドアは閉められて、今までいた部屋は完全になくなってしまった。前を見ても後ろを見ても、先が見えないほど延々と同じ廊下が続いている。
「ほんまに、別の空間やねぇ」
「まァ、それはどうでもいいんだが。あの兎耳、もはや見えねェくらい特攻してるぞ」
 あれを追いかけるのか、と、些かうんざりしたようにミケランジェロがぼやいたそれに同意しそうになったのは、杏が目を向けた時にはもはや影も形もなかったからかもしれない。


 廊下が見えるなり何の躊躇もなく走り込んで行った玄兎を追って残る三人もドアの向こうに消えると、見えない扉はそのまま静かに閉まって存在ごと無くなったようだった。
「それじゃあ、俺たちも行くとしますかね?」
 こっちも見えないドアを開けてくれるのかしらと揶揄するようにシキが語尾を上げると、黄緑は勿論ですと生真面目に頷いて丁度反対側にあたる場所でドアを開ける仕種をする。今度は照明はついているのにどこか薄暗い印象を受ける、だだっ広い廊下が現れた。
「……ここが、黒いヒトの王宮デスカ?」
「左様です」
「ここにいるとして、あなたの主様がどこにいるか心当たりはないの?」
 あまり期待せずに香玖耶が尋ねると、黄緑は小さく頭を振った。
「主様の主様の結界が弱まる時、私たちは主様の姿を捉えることができます。ですが、今はその時間帯にはございませんので」
「ってことは、その時間帯になれば嫌でも黄緑たちには主様の居場所が分かる、と?」
 それまで待てばいいんじゃないのかとばかりにシキが問うと、黄緑が顔を向けてきた。
「私は主様の姿を捉えることができます。ですが、水色は水色の主様の姿を捉えることしかできません」
「というコトは、ミズイロさんと一緒のヒトたちは黒いヒトの居場所は分からないデスカ?」
「主様は水色の主様ではありませんので」
 ふざけた様子もなく頷く黄緑に、シキは分からなさそうに頭をかいた。
「でも黄緑が居場所を捉えられるなら、それから全員でそこに向かったほうが手っ取り早かったんじゃないか?」
「私は主様の姿を捉えることができます。主様のお側に赴くこともできます。ですが、主様がどこにおられるかは分かりません。誰かをお連れすることもできません」
 時間の無駄だと思いますと答える黄緑に、分かり辛いと香玖耶がこめかみを押さえた。
「姿を捉えるというのは、居場所が分かるって意味ではないのね? でも誰かを連れて行けないのはどうして?」
「主様の許に侍るは私の役目。故に主様の側に赴くことはできますが、その役目にない方には不可能です」
「ジミに探すがよいデスねー」
 仕方なさそうに肩を竦めて頭を振ったジャスパーに、地道な、とシキが突っ込んだ。
「ま、確かに地道に探すほうがよさそうだな。その分かる時間帯が来るまで、ぼうっとしてることもないし」
「お手数をおかけします」
 申し訳なさそうに頭を下げた黄緑に、質問はしてもいいかしらと香玖耶が尋ねる。答えられることでしたらと頷く黄緑に、俺はいーわとシキが手を上げた。
「今回のターゲットに会ったこともないし、香玖耶たちが聞いたほうが確実だろ。何なら俺が適当に王宮を見て回ってくるから、その間に聞いてるか?」
「それだト、捕まえる役に立てないデスヨ?」
「そうよね。じゃあ、シキが先頭に立って探してくれるかしら。その後をついていきながら、私とジャスパーが質問するのでどう? シキだって、ターゲットの情報はあったほうがいいでしょう」
 どうせ時間はあるんだものねと提案する香玖耶に、それじゃあ探すほうは勝手にやらせてもらうぜと頷いた。
「宝探しと思えば、ま、ある程度は面白そうだからな」
「見つけるオタカラは、男のヒトですけどネ!」
 相変わらず笑顔で悪気なく告げるジャスパーから、シキは溜め息交じりに視線を逸らした。
「人のやる気を悉く失わせるのって、一種の才能かしら……?」
「と、とりあえず、シキの勘を頼りにしてるわ」
 頑張ってと励ます香玖耶に、シキは自棄気味にふんぞり返って笑った。
「おほほほ、実は逃げるのも見つけるのも縛るのも得意なのよ。追跡の経験はないけどね」
「ヘエ。縛るも得意デスカ?」
 あまり分かっていなさそうに尋ね返してくるジャスパーと、ものすごく遠い目で痛ましげに見てくる香玖耶の視線がちょっと痛い。それでもと意地で笑顔でいると、香玖耶が小さく頭を振りながら黄緑を促した。
「……行こう、黄緑さん。突っ込み不足をどこに嘆いていいかも分からないなら、依頼をこなすほうが有意義だわ」
「ひでぇなぁ。ただのお茶目さんだろー?」
「いいから、ここからは真面目に頑張ってね。宝男探し」
「……何か、どんどん嫌な響きになっていくな……」
 やる気を失いそうだと嘆くシキの後ろで、黄緑がひどく心配そうな顔をしていたかどうかは幸いにして見えなかった。


「それで、玄兎はんはどこ行かはったんやろねぇ」
 彼の肩でのんびりと呟いた杏に、呑気だよなぁとミケランジェロは苦笑しながら少し後ろを歩く水色を振り返った。
「ここって西の魔女の在処だって言ってたが、迷路になってたりしねェよな?」
「ないと思いますが、初めて訪れますので保証の限りではありません」
「おいおい、頼りねェナビだな……」
 案内人じゃなかったのかと揶揄するように続けると、水色はその通りですと頷く。
「この空間に皆様だけでは入れませんでしたので。ここまでの案内役を仰せつかりました」
「って、それってこの先は知らんーて聞こえるけど?」
 猫の姿で彼の肩にしがみついたまま杏が呆れたように語尾を上げるのに、水色は左様ですとあっさり頷く。左様やのうてと突っ込んだ杏は、けれど水色がどこまでも本気らしいのを認めて続く言葉を溜め息に変えた。
「とりあえず、まだしばらく付き合ってくれるなら、聞きてェことがあるんだがな」
「お答えできることであれば、何なりと」
「その注釈、嫌ァな予感はするが。西の魔女の在処に、どうして案山子がいるかもしれねェんだ? 前回、預かり物を狙って襲撃を仕掛けてきたのが西の魔女だろ?」
 敵じゃねェのかとミケランジェロが声を低めると、水色は分からなさそうに首を傾げた。
「西の魔女は、頭の悪い案山子様のご家族です。逃亡先に選ばれる可能性はありますが」
「は? 家族!? 家族てあれ、あの血の繋がりがある一親等とか五親等とかの!?」
「はい。二親等と存じます」
「二親等だと、確か祖父母・兄姉弟妹、」
 だったかと幾らか戸惑いつつもミケランジェロが呟いた時、後ろから誰だと声がかかった。
「ここに誰かが入り込むことなんて許可していない! 一体誰の差し金だ!?」
 幾らか甲高い、耳に触る声。少年期に特有の尖った声に振り返ると、人の形を取った杏と同じくらいの背丈しかない黒いTシャツとジーパンに身を包んだ少年がそこにいた。黒いといえば黒いが、あの黒尽くめの男は少なくともあんなに小さくはなかったし、尻尾みたいに後ろで括れるほど髪も長くなかった。
(それに、あいつの髪は黒ってより濃紺だな)
 色の性質が違うと目を細めてミケランジェロが観察している間、少年もこちらをじろじろと眺めていたが。彼の肩に乗った黒猫姿の杏を見つけて、猫、とぽつりと呟いた。
 にゃあん、と可愛い声を出して猫っぽく鳴いた杏のそれを聞くなり、猫! と悲鳴めいた声を上げた少年はどこからともなくサブマシンガンを取り出した。
「な!?」
「猫猫猫猫猫、どうして僕の領域に猫がいるんだ!? 僕は猫の存在なんて許さない認めない邪魔だ消えろ!」

 怒鳴りつけて乱射し始める少年に、正気は求められそうにない。とりあえず当たっては堪らないと踵を返し、落とさないように杏を支えながら隣を走る水色にどういうことだと声を荒げる。
「何だよ、あれは! 西の魔女以外にも危険人物しかいねェのか、ここは!」
「ちゅーか、何で猫を全否定されんならんの感じ悪いー!!」
 うちが妖火で燃やし尽くしたると危険なことを口走る杏を押さえつけたまま、とりあえず俺の肩で火は出すなよときつく申し付けておく。それから水色に視線を変えると、彼女はまた不思議そうに首を傾げた。
「以外というのが分かりません。あの方が西の魔女。頭の悪い案山子様の、弟御です」
「「……は!?」」
 思わず声を揃えて聞き返し、未だにぎゃーぎゃーと叫んで追いかけてくる少年を窺う。
 少年。弟。どう見ても、男。
「男が魔女!?」
「あ、ああ、でもせやわ、魔女て本来は魔力持つ人全般指すんやわ。あのぼんが魔女でも、……まぁ、うん」
 おかしないんかと、自分に言い聞かせるように杏がぶつぶつと呟いているが、紛らわしいだろ! とミケランジェロが叫ぶ。
「あんな坊主が西の魔女なんて! いや今はそれより、この銃の乱射を止めさせねェと、」
 身の危険だと隠れられそうな場所を探しながらひたすら走っていると、少年の怒鳴り声の後ろから別の音が混じり始める。耳を澄ますまでもなくものすごいスピードで近づいてくるらしいそれは、アヒャヒャヒャ! と、けたたましい笑い声に変わった。
「あの声て、玄兎はん、」
 ちゃうやろかと杏が言い切るより早く、うわあっと少年の悲鳴と一緒にぐっしゃがっちゃんと破壊音が続く。恐る恐る足を止めて身体ごと向き直ると、オレちゃんの勝ちぃ! と釘バットを振り回しつつ勝利の雄叫びを上げている玄兎を見つける。
「ああっ、僕のM3が……!!」
 何してくれるんだよと泣き声混じりに批難する声を聞けば、どうやら少年──西の魔女自身は無事らしい。当面の危機は去ったと西の魔女に近寄っていきながら、無造作に振り回されたままの釘バットから身を逸らす。
「助かったぜ、兎耳。けど、かなり先まで行ってたろ。どうして俺たちが襲われてるって分かったんだ?」
「オレが知るわけねぇじゃーん? オレちゃんは追いかけっこしてただけだっしー?」
 そして勝ちー! とバットを振り上げる玄兎に、何と追いかけっこしてたんと西の魔女から意識を逸らさないまま杏が尋ねた。
「空気に決まってるだろぉ。だーってこっちに逃げてきたから、オレちゃんもだーって追いかけてたんだってのぉ」
「空気……」
 空気と追いかけっこ。
 玄兎は口調こそふざけているもののどこまでも本気らしいが、どうしてその字面を見ると遠い目の一つもしたくなるのだろうか。
「……まァ、……とりあえず、助かった」
 呟くように言いながら、壊れたサブマシンガンの前で打ちひしがれている少年と、釘バットを振り回してご機嫌そうな兎耳の青年と、チョーカーに小振りの向日葵を挿した黒猫を肩に乗せたツナギ姿の自分。それを後ろで無表情に見守る女性の絵柄が他人の目にどう映るか、深くは考えないようにしながらも小さく溜め息をついた。


「じゃあ早速だけど、幾つか聞いてもいいかしら?」
 王宮の大体の作りを把握すべくシキを先頭に歩き回りながら、香玖耶が案内をする気はないらしい黄緑に声をかけた。お答えできる範囲であればと繰り返して無表情に頷いた黄緑に、香玖耶は一つ目と指を立てた。
「あなたの主様と、彼が言う上司さんってどういう関係なの? 預け物をする程度には、上司さんはあなたの主様を信頼しているのよね?」
「私は主様の主様ではありませんので、主様が信用されているかどうかは存じません」
「……。黄緑って、普段からそんな受け答えしかしないのかしら?」
 揶揄するように語尾を上げてシキが尋ねたそれに、左様ですがと真顔で返される。口を挟んで悪かったと諦めた様子でシキが手を振るので、聞き方を変えようと言葉を探す。
「上司さんって、普段はあなたの主様のことをどう言っているの?」
「銀幕市に来る前の話でいいデスヨ?」
 すかさず言葉を足してくれるジャスパーに片手を上げて謝意を表して黄緑の様子を見るが、彼女は相変わらず無表情で頭を振った。
「私は主様の主様とお話ししたことがございませんので、分かりかねます」
「一度もデスか?」
「はい。我らは主様の主様に拝謁の機会を賜れる立場にございません」
 淡々と答えられたそれに、香玖耶は眉を顰めた。
「でもあなた、あの黒尽くめの人に仕えているんでしょう? 上司さんとあなたの主様が会っている時はどうしているの?」
「主様の主様がお目覚めになられる時は、我らはそこに存在しません」
「存在しない……、そういう風に振舞えって言われるとかじゃなくて、物理的に?」
「はい」
 思わず振り返ってきて尋ねたシキの問いかけにも、黄緑は平然と頷くだけ。香玖耶はますます顔を顰めて、あなたの主様の同僚にでも聞くしかないのねと溜め息をついた。
「質問を変えたほうがよさそうね。ジャスパーさんは、何かある?」
「そうデスね……、でハ、黒いヒトが預かっているモノって何デスか?」
 前から気になっていたデスとジャスパーが尋ねると、黄緑は僅かだけ眉を上げて無表情に戻り、小さく頭を振った。そのまま黙っている彼女に、周りの様子を窺っていたシキが肩越しに振り返って、その一つきりの目を細めた。
「存じません、って言わないところを見ると、知ってても言えないってところかしらー?」
「キミドリさん! 僕たちはキミドリさんのお役に立ちたいデス!」
 頑張るしマスよと邪気なく詰め寄るジャスパーに、黄緑は初めて困った顔をして俯いた。
「預かり物について、我らは口外できません。主様は……、預かり物のこととなると、とても不機嫌になられますので」
 主様には逆らえませんとひどく辛そうに頭を振った黄緑に、ジャスパーはごめんなさいとしゅんとして謝っている。
「契約者に逆らうと、壊れますデスね?」
「いいのよ、無理には答えなくて!」
 あなたを壊したいわけじゃないのと慌てて止める香玖耶に黄緑はほっとしたように息を吐き、こっちはいいかいとシキが親指で示した壁に目をやった。
「どうもここ、俺の勘じゃ臭うんだよなぁ。あるだろ、隠し扉」
「……ア。あるデスね、ドアが」
 こんな風にとジャスパーが形を指で辿ると、それだけで何もなかったはずの廊下の壁に扉が見えた。ご丁寧に鎖でノブを縛り付けた上に鍵までかかっていて、得意分野だと目を輝かせたシキが早速取り外しにかかっている。
「って、明らかに隠してある扉だけど。開けてもいい、のよね?」
「主様は探索を許可されました。入ってはならない場所はございません」
 頷いた黄緑に、シキはそのつもりだと答えながら鍵に集中している。ジャスパーが手を貸そうかと言い出すより早くかちりと音がして鍵が開き、じゃらじゃらと鎖が下に落ちた。
「ここに、黒いヒトがいるデスか?」
「当たりだといいけどね」
 言いながら肩を竦めると、何の躊躇もなくドアを開けて中を覗き込んだシキが、何だここと呆れたような声を出した。
「黒いヒト、いマシタか?」
「人も何も……、いないんだけどな。つか、どこだっけ、ここ?」
 王宮じゃなかったかとドアに手をかけたまま変な顔をして振り返ってくるシキの言葉で、周りを見回す。照明が付いているにも拘らず薄暗い印象は変わらないが、無駄に豪奢な作りをしているのは分かる。王宮でなかったとしても無駄に金額をかけて作り、維持しているのは間違いないだろう。
「王宮だと思うけど。何なの、突然」
「いや……、まぁ、見たほうが早い」
 ドアを押し開けたまま少し身体をずらしたシキのおかげで、その部屋の様子が窺えた。ジャスパーと一緒に覗き込んだ香玖耶は、呟きの意味がよく分かって唖然とそこを見回した。
 確か、ここは王宮だったはずだ。振り返れば緻密な透かしの入った嵌め殺しの窓や、今にもその羽を広げて飛び立ちそうな天馬の彫刻などが目に入る。その辺の調度品を一つ売り払えば、放蕩の限りを尽くしても五年は悠に遊んでいけそうな金額になるだろう予想はできるのに、視線を戻せばここがどこだか分からなくなる。
「……小さい、デスね」
 控えめな感想を口にしたジャスパーに、貧相だなと身も蓋もなくシキが切り捨てた。
「これだけ厳重に隠してあったんだ、宝物庫かそれに匹敵する物が仕舞ってある、と思ったんだけどな」
 入りもしないでないと断言するシキの言葉は、それでも疑いの余地がない。
 何しろその部屋は、香玖耶の歩幅で二十歩ずつほどの広さしかなかった。その片隅に藁を積んでシーツをかけただけだろう簡単な寝台が陣取っており、空いたスペースには切り離した木を適当に組んだとしか見えない粗末なテーブルと椅子が二脚。しかも高さが違うのは使用者に合わせたのではなく、適当に組み立てたからだろう。
 僅かに胸が痛いほど、懐かしい。豪奢な王宮の中に不自然に現れた、農村の一軒家。
 その日を生きるのに精一杯で、それでも堅実に毎日畑を耕して。冬の寒さを凌ぐには相応しくない隙間風の入る窓は、秋の一時だけ泣きたいほど優しい風景を見せてくれるだろう。
 風に揺れる、少しの金色。それを見る為だけに、毎日を繰り返して生きていくのだ──。
「カグヤさん?」
 どうかしたデスカとジャスパーに声をかけられ、はっと我に返った。意識を戻せばシキも心配そうな顔をしてこちらを見ており、何でもないと頭を振るのが精一杯だった。
「ここは……、何?」
 思わず震えそうな声で尋ねると、黄緑は主様のお部屋ですと淡々と答えた。
「確か黄緑の主様って、王様だって言わなかったかしら?」
 ここが王座なんて言わないでしょうねとシキが頬を引き攣らせて語尾を上げると、王座は王宮の中央にございますと真顔で返されている。
「でハ、ここは黒いヒトの私室デスか? 王の私室にしてハ……、小さいデス」
「王の私室は別にございます。ここは、主様が王宮の中でも特に立ち入りを禁じられた場所。主様以外の誰も、立ち入れない場所にございます」
 黄緑の説明を受けて、足を踏み入れかけていた香玖耶は思わず足を止めた。けれど気づいたらしい黄緑が、どうぞと淡々と勧める。
「主様は、世界にないあなた方には暴く権利を与えられました。探索のお役に立つようであれば、どうぞ」
「……じゃあ、少しだけ」
 中に入っても、見るべき場所なんて多くはない。ぱっと見渡しただけで、そこには何もないと知れるほどに狭いのだから。それでも足を踏み入れた香玖耶は、手を置けばちくちくしそうな寝台に近寄って、その向こうに小さな台を見つけた。
 多分、眠りに就くまでの短い間、ランプを置く為だけの物だろう。そこに刻まれた文字を指で辿り、読めないけれど伝わってくる想いに唇を噛み締めた。
(カエリタイ)
 逃げたい、帰りたい。遠く懐かしいあの日に、戻りたい。この最低な生活から抜け出したい。
 戻りたくない、留まりたい。最低から抜け出せずに、もがくだけのこの日々には帰れない。
「……あなたの主様は、あなたにとっていい王様?」
「王は世界です。良いも悪いもありません」
 良くても悪くても受け入れるということか、存在だけしか認められていないのか。
 知らず拳を作りながら踵を返して部屋を出ると、何も言わずにドアを開けたまま待ってくれていたシキが静かに見下ろしてきた。
「何かあったかい?」
「……いいえ、何も」
 何もないと頭を振りかけると、ぽんと小さな音がして目の前に花の先だけほんのりとピンク色をしているトルコキキョウが差し出された。
「カグヤさんに、差し上げマス」
「おお。やるね、兄さん」
 さすがマジシャンと揶揄するシキに、魔法使いですヨと律儀に訂正しているジャスパーは香玖耶に花を手渡すとその部屋のドアを閉じた。
「秘密を暴くしてモ、背負うはないデスよ」
「背負うことはないですよ、じゃねぇと、通じねぇと思うぜ?」
「? コトないデスよ」
 訂正したシキの言葉尻だけを繰り返すジャスパーに、有難うと応えて貰った花はジャケットに挿しておいた。


 とりあえず暴れないように西の魔女を捕まえながら壊れたサブマシンガンを眺めると、どうやら玩具のエアガンらしかった。
「前回の戦車といい、エアガンといい。お前さん、玩具を媒体にする魔法使いか」
 玩具にしても、実際に当たればそれなりの殺傷能力があるだろう。なまじ実弾を使うよりも弾切れの心配がない分、性質が悪い。
「それにしても猫見て撃ってくるやなんて、良識疑うわぁ。別に恨み買うようなことしてへんのに、何やの」
「煩い、猫が喋るな! 猫なのが悪いんだよ、猫なんか大嫌いだ! 猫も樵も最低だ、僕の領域に土足で入り込んでおいて、何が恨みを買う覚えもないだ!」
 だから猫なんか嫌いなんだとミケランジェロに押さえつけられながら怒鳴りつけた西の魔女のそれで、杏は彼の肩から降りて西の魔女に近づくと、にゃあんと殊更可愛らしい声で鳴いた。ひっと息を飲んだのを見て嬉しそうに目を細めると、動けない西の魔女の鼻先に顔を擦りつけている。
「やめろ馬鹿触るな猫のくせに猫のくせにーっ!!」
「その反応を面白がられてんのが分かんねェのかねェ」
 面倒臭く頭をかきながら呟いたミケランジェロは、壊れたサブマシンガンを面白そうに持ち上げて眺めている玄兎を見てから、西の魔女に視線を変えた。
「恐慌中に悪いが、聞いてもいいか。お前さん、あの案山子の弟だって? それなら何だって前回は襲撃してきやがったんだ。仲悪ィのか?」
「僕が攻撃したのは預かり物だけだ、兄者を攻撃するか! 僕が兄者を助けるんだ……!」
 杏が鼻先を寄せているのも忘れて意志の強い目で睨むように見据えられ、どうやら本気で言っているらしいと分かる。あののらくらと何もかもから逃げているような男でも、西の魔女にとってはいい兄なのだろうか。
 助けたいとはどういうことなのかと重ねて聞こうとした時、壊れたサブマシンガンを放り投げて玄兎が西の魔女に顔を近づけた。
「なぁ、あの黒いのって家出したんだろ? あんた、何で逃げたか知ってるんじゃねーのぉ?」
「兄者は逃げてなんかいない!」
「逃げたじゃん、逃げてるじゃーん。いないといけない場所から、逃げてんじゃーん」
「煩い馬鹿、何にも知らないのに勝手に逃げたとか言うな! 兄者は逃げてない、逃げてないから今……!」
 ミケランジェロを跳ね除けて起き上がるほど強く抗議する西の魔女に、玄兎はしゃがみ込んだままかくりと首を傾げた。
「あのさー。いるべきとこからいなくなったのは、逃げたーってことだっつのー。そんなことも知らないお前のほうが馬鹿って言うんだよ、オレちゃん馬鹿じゃないもんねーっ!」
 失礼な奴ーと僅かに低くなった声で吐き捨てた玄兎に、西の魔女は唇を戦慄かせる。けれど玄兎は気にした風もなく、なぁなぁと少し苛立ったように問いを重ねた。
「上司と黒いのの間に何かあったからー、黒いの逃げてんだろぉ? なぁなぁ、何があったのか教えろよぉ」
「逃げてない! 兄者は逃げていいのに逃げてないんだ! 絶対絶対、渡さないからな! お前らなんかに兄者を連れ戻させたりしな、」
 しないからなと宣言したかったのだろう西の魔女の言葉は、後ろから黒い物に蹴飛ばされて遮られた。がすっと痛そうな音がして頭を抱え込んだ西の魔女の後ろから、鬱陶しいですねぇと溜め息交じりに姿を見せたのは相変わらず闇を纏った黒尽くめの男だった。
「連れ戻すなんて言ったら、僕がここにいるのが丸バレでしょうー? 馬鹿ですか、お前は」
「ご、ごめんなさい、兄者……」
「だから馬鹿な動物って嫌いなんですよぉ。……ああ、こんにちはー。お久し振りと、はじめましての方もいらっしゃいますねぇ」
 逃げている最中とは思えないほど呑気な様子で右手を胸に当てて優雅に一礼する黒尽くめの男に、玄兎のゴーグルがきらーんと光った気がした。とったぁ! と叫びながら釘バットを振り回す玄兎には、捕まえるというよりも攻撃の意思のほうが大きいように思うのは気のせいだろうか。
 けれど黒尽くめの男はすっと闇に溶けて玄兎の攻撃を避けると、ミケランジェロの後ろに忽然と現れた。
「随分と乱暴なご挨拶ですねぇ。僕は捕まえられる気はあっても、殺されてあげる気はないですよー?」
「ほお。捕まる気概があるなら、大人しくしたらどうだ!」
 低く呟きながら怒りを込めてモップを突き出すのに、黒尽くめの男は楽しそうに笑いながらまた夜に溶けた。探すように視線を動かすと視界の端に黒猫姿の杏が映り、そちらに顔を向けた時には滲むように現れた黒尽くめの男に、会いたかったー! と叫んで抱きついているのを見つけた。
「っわあ!?」
「つーかまーえたっ♪」
 ぎゅう、と首筋に抱きついて嬉しそうに喉を鳴らした杏は猫の姿から人型になっていて、傍から見れば可愛らしい少女が久し振りに会った近所のお兄さんに抱きついている、とでもいった微笑ましい姿なのだろうが。ぐえ、と苦しげな音──もはや声とは呼べまい──を洩らしているところを見て、よほどの力が篭っているらしい。
「兄者に引っ付くな、っていうかていうか誰だよ、何だよ!」
「ふっふー。クロはんには借りもあることやし、このまま上司はんとこまで連れ帰って苛めたろー思て」
 捕まえんのなんか容易いわぁと抱きついたまま笑う杏の後ろで、玄兎が兎リュックからごそごそと何かを取り出そうとしている。せっかく捕まえたのに西の魔女に邪魔をされては堪らないと、ミケランジェロが駆け寄りそうだった少年の襟首を捕まえると、じゃーん、と自分で効果音をつけながら玄兎が懐中電灯よりやや大振りの筒状の物を取り出している。
「何だ、それ」
「黒いの捕獲用ネットに決まってるだろぉ」
 言うなりぽちっと相変わらず自分で効果音をつけてネットが発射され、あれでは杏ごと黒尽くめの男を捕獲するのではないかとぼんやり考えながら見守っていると、
「兄者!」
 ミケランジェロに捕まえられたまま西の魔女が叫ぶなり、天井付近で辺りを照らしていた光球がいきなり消えた。うわあっと杏の悲鳴が聞こえて慌てて駆け寄り、光を戻せと片手で捕まえたままの西の魔女を揺らす。
「誰が戻すか!」
「お前の兄貴が怪我してるかもしれねェだろ!」
「兄者がそんな馬鹿をするもんかっ」
 お前は兄者の凄さを分かってないときゃんきゃん吠え始めた西の魔女に、煩い馬鹿ですねぇと怒りに満ちた声が間近で聞こえた。咄嗟に西の魔女を離して声のしたほうに手を伸ばして捕まえようとしたが、残念ですがーと間延びした声は離れた場所から届いた。
「まだ時間もあるのに、こんなにあっさり終わりになんてしないでくださいよぉ」
 言いながらぱちりと指を鳴らす音が聞こえると廊下に光が戻り、さっきまでいただろう場所に目をやるとネットの下でひどいぃともがいているのは杏だけだった。
「あの黒いの、逃げた……!」
 低い声で呟いた玄兎が顔を向けた先には、黒尽くめの男がミケランジェロがそうしていたより乱暴に弟の襟首を捕まえて立っていた。
「案内は、そこの水色だけで十分ですよねぇ? これは始末に終えない馬鹿ですから、ご迷惑にならない内に引き取りますねぇ」
「ちょっ、待ちぃな、クロはん! 一回捕まってんたら大人ししたらどないやの!」
 ネットが邪魔ー! と暴れながら怒鳴りつける杏の言葉に、黒尽くめの男はにっこりと笑ってみせた。
「そんなにあっさり諦めるならー、最初から逃げたりしませんよねぇ?」
「やっぱり逃げてんじゃん。あんた、家出中だろぉ? 上司と喧嘩して家出なんて、ちょーお馬鹿。おっさんがすることじゃねーよなぁ」
 大人しく捕まってろっつの、と言うなりそちらにダッシュして左手を伸ばした玄兎に、黒尽くめの男はくすくすと笑いながら捕まえていた弟を突き飛ばした。咄嗟に避けきれずに玄兎が西の魔女に触れると、いきなり力が抜けたようにくたくたと倒れ込んだ。
「ああ。やっぱり、変な力をお持ちですねぇ。怖い怖い」
「っ、弟を犠牲にするたァ、どういうつもりだ……!」
「どう? どうなんでしょうねぇ。燕、僕を恨みますかー?」
 ひどい仕打ちですかねぇと惚けた様子で首を傾げた黒尽くめの男に、力が入らずにぐったりしたまま西の魔女は弱々しく首を振った。
「兄者……、役に立てなくて、ごめんなさい……」
「本当に、馬鹿で役にも立たない動物ですよねぇ。……まぁ、出直すきっかけになったことは、感謝してやりますよぉ」
 それでは、と再び飛び掛った玄兎を裂けて後ろに跳ね退いた男は、硝子を通り越すようにして廊下から外の空間へと移動した。
「期限は明日の夜まで。僕はこの辺をうろうろしてますから、捕まえたい方はご自由にー」
 面倒臭いのでそれも置いていきますねぇと倒れた弟を置いたまま、じきに明けるであろう夜の中に溶けて消えた。


「えーっと、そろそろ夜が明けそうな勢いなんですが……っ」
「疲れるデスね……」
「疲れたって。疲れるどころじゃねえって。疲れたって。なーもー俺このまま帰っていいかな」
 一番働いたと思いますと壁に凭れてぐったり座り込みながらシキが嘆くと、もう少し頑張るデスヨ! ときらきらした目でジャスパーに覗き込まれて思わず目を逸らした。
「徹夜で頑張った挙句に、そのきらっきらした目で見られると、ちときつい……。寝る。寝るのはいいだろ、寝させてくれ。ちょっと安らかにさー。僕もう疲れたよとか言いたいくらいお疲れなんだぜ?」
「いいからもう少し頑張って、パトラッシュ」
「……うん、姉さん、あんたも結構きついな……」
 無駄足は疲れすぎるとぐったり項垂れながら愚痴ると、一人だけ平然とそこに立っている黄緑を恨めしげに見上げた。
「あんたは一人だけ平気そうだな、黄緑」
「ここは主様の王宮。主様がお側にあれば私が力尽きることはありませんので」
「ってことは、やっぱりあの黒い人はここにいるの?」
 あなたが元気なのはそういうことなのと香玖耶が希望を持って尋ねると、何故かジャスパーが手を上げた。ちらりと視線をやって何かいい提案かいと尋ねると、ジャスパーはにっこりと笑った。
「あの黒いヒト、ミケランジェロさんたちと遭遇したデス。ここにはいないデスよ」
「「…………はぁ!?」」
 思わず香玖耶と声を揃えて聞き返すと、ジャスパーは遅かったデスカとちょっとびくびく聞き返してくる。
「遅かったかってことは、もっと早くから知ってたのか!? つか、もう捕獲済みなのか!?」
「捕獲まだデス。今さっき遭遇したデスが、逃げマシタ」
「でも、どうしてジャスパーさんがそれを知ってるの?」
「ミケランジェロさんと、キョウさんに渡したデス。花が教えてくれマス」
 つらっと答えたジャスパーに、そんな器用なことができるなら最初から……、と、思わずがっくり項垂れる。
「結局、ここで見つけたのはあの貧相な部屋だけってことか……。他に何か為になることはあったか?」
「残念ながら」
 あの部屋に戻って弱みでも握れないか探してみる? と尋ねられ、隠しようのない場所だったろうと答えている間にジャスパーが黄緑に問いかけている。
「今カラ、西の魔女さんのトコロに行けマセンか?」
「主様の許可がなければ、私だけでは西の魔女の領域に干渉することはできません」
「ってことは、こっちは無駄足で終わりってことか。時間が勿体ねぇなぁ」
 せめて何か見つけてりゃここまで疲れずにすんだんだけどなとシキが肩を回して嘆くと、ふと何か考え込んでいた香玖耶が顔を上げた。
「──ねぇ、西の魔女の在処とは別に、あなたの主様の同僚がいる場所があるって言ったわよね。連れ戻してほしい場所。そこに、樵さんや上司さんはいるんじゃないの?」
 いるわよねと香玖耶が身を乗り出させて尋ねると、黄緑は少し躊躇ってから頷いた。
「心のない樵様と、勇気のないライオン様はおられます」
「それなら、西の魔女の在処に行くのは無理でも、そこには行けない? あなたに聞けないことも、同僚さんに聞く分にはいいでしょう?」
「けどそこで何か聞けたとしても、向こうのチームに教える手段は、」
 ないんじゃねぇかと言いかけたシキは、思い出してジャスパーに振り返る。
「さっき、やった花に聞いたって言ったよな。それは、こっちの声も向こうに届くのか?」
「勿論デス。差し上げた花で、話すできマスよ」
「それなら尚更、話を聞く必要性も出てきたわよね。ね、黄緑さん、連れて行ってくれない?」
 お願い、と香玖耶が胸の前で両手を組んで見上げ、お願いしマスとジャスパーがきらきらの目で迫っている。ここは香玖耶を真似て追従しておくべきだろうかと真剣に考え込みそうになっていると、黄緑がそっと息を吐いた。
「主様のご命令の中に、あなた方を結界にご案内するな、というものはありませんでした……」
 諦めたような溜め息と共に紡がれた言葉を聞き、幾らか融通を利かしてくれるようになった黄緑ににっと笑ったシキはようやく立ち上がって伸びをした。
「さて、それじゃあさっさと移動しようぜ。確か、期限は今日の夜まで、だろ?」
 促すと、黄緑がここに来た時のように見えないドアを開ける仕種をする。どこからでも繋がるのかと半ば感心している間にもあっさりと開け放たれ、どうぞと勧められる。
 さっきは薄暗いながらも広い廊下が見えたが、今はぼんやりとした輪郭の掴めない映像だけがドアの向こうに広がっている。僅かに入るのを躊躇ったが、同じく躊躇しているらしい香玖耶を見て息を吐く。
「ま、ここでレディファーストはないよな。何かあったら助けてくれよ」
 頼むぜ兄さんとジャスパーの肩を叩いてドアの向こうに踏み入ると、ぐにゃりと周りの空気が歪んだような気持ちの悪い感触に包まれる。シキさんと後ろからかけられる声は聞こえるので、平気だと片手を上げた。
「だがまぁ……、何つーか。気持ち悪い空気だけどな」
 死にはしないみたいだぜと揶揄すると、香玖耶とジャスパーも様子を窺いながら入ってくる。確かに気持ちが悪いと身動ぎしている二人の後ろから黄緑もこちらに出てきて、見えないドアを閉めた時にその空間に声が響いた。
「騒がしい来客だな……、客を招いた覚えはないが。黄緑、俺はお前の主を連れ戻せと言ったはずだが?」
「主様を連れ戻して頂くよう、依頼した方々です。心のない樵様とお話したいと仰られましたので、お連れ致しました」
 唐突に聞こえてきた声に、頭を下げながら答えた黄緑が薄紅の主様ですと小声で紹介してくれる。声のしたほうに顔を向けると、ぼんやりとした印象でそこに誰かが立っていることしか分からない。
「力を纏って、姿をぼやかしているのね。確かに招かれずに押しかけてきたけれど、黒尽くめの人を連れ戻す協力をしようって言うのに、失礼じゃない?」
「そうだな、無礼は詫びよう。だが、これは俺の意思でどうにかなるものではない。ここは俺たちの主が保つ結界、あの方の意思なくして全ては動かない。今あの方は結界を保つことしかできない状態だ、この姿で構わないのならば話をすることは厭わないが」
 不快に思われるならば立ち去ってもらおうと、淡々と告げられたそれは「心がない」と冠されるに相応しく冷たい声をしている。いっそ帰ってやろうかしらと皮肉にシキは唇の端を持ち上げるが、ジャスパーがはいとばかりに手を上げた。
「黒いヒトの、同僚さんデスよネ? どうして黒いヒト、家出しました?」
「あんな馬鹿の心境など、俺が知るわけがない。逃げたかったと言ったのなら、逃げたかったのだろう」
「でも、何か原因があるはずよ。例えばあなたたちの上司さんと喧嘩をしたとか……、行き違いがあったとか」
「あの方とあいつは、あいつが王になって以降、一度も接触していない。確執の生まれるはずもない」
 俺たちにも滅多と会おうとしない奴だと吐き捨てた相手に、シキは呆れて語尾を上げた。
「一度も接触してない? ……会わせてやろうとしなかったのかい、あんたたち」
「子供ではない、会いたいのならば会えばいい。会おうとしなかったのは、あいつのほうだ」
 確執など生まれようがないと繰り返した相手に、話にならないと頭をかく。香玖耶もじれったそうに眉を顰めた後、上司さんはと少し苛ついたような声を出した。
「上司さんは逃げたあの人について、何て言っているの。連れ戻したら会ってくれるの?」
「あの方は何も仰らない。会う必要もない」
「あなたは、上司さんに会うデスカ」
「足りずとも構わない物は一つだけ。二つもなければ、あの方は存在できない」
 おかしなことを言うとばかりに肩を竦めるのは分かるが、彼らの常識からすればおかしいのは明らかに「この世界」だ。黄緑たちも機械的な受け答えしかしないものだと思ったが、全員がこんな風なのだろうか?
(だとしたら、逃げたくなる気持ちは分からないでもねぇな)
 逃げたところで解決はしないが、逃げたくなる気持ちは分かる。ただ、実際に逃げてしまうのは馬鹿だとしか言いようがないから、連れ戻して話し合いをさせることに異議はないのだが。
「連れ戻してきたとして……、また逃げない保証があるのかね?」
 相手には聞こえないように呟くと、ジャスパーが逃げそうデスねとやっぱり小声で返す。
「あの人があそこまで頑なに逃げたがるのも……、預かり物は守りたがるのも。大事な物だけ、定まっているからかしら」
「まぁ、それ以外はどうでもいいってのはどうかと思うけど。ここに来て、ちったぁ分かる気はする、かい?」
「……ほんのちょっぴり、ね」
 それでも連れ戻すのが依頼よねと香玖耶が小さく笑い、ジャスパーも依頼デスねと笑って頷いた。
「それじゃあ、ここでうだうだと埒の明かない話をしているより、西の魔女の在処に行く方法でも探そうぜ」
「差し上げた花がありマス、空間の位置は掴めるデスヨ」
「なら、精霊に頼んで、」
 やってみようかと話している後ろから、お前たちと声がかかった。今忙しいんですけどー? とわざとらしく語尾を上げると、手を貸そうと淡々とした声が続けた。
「あいつを連れ戻してほしいと頼んだのは、俺だ。王に逆らうことは本来はできないが、今は朝。光は俺の領域だ。一度だけなら、西の魔女の在処へと道を繋げられるだろう」
 ご親切にも提案されたそれに、シキは思わずひゅーっと口笛を吹いた。
「あんた、見かけによらず親切なんだな」
「見えてないデスけどネ!」
「……俺の手がいるのか、いらないのか」
「あ、貸してもらえるなら是非! 繋いでもらうと助かるわ」
 慌ててジャスパーの口を塞ぎつつ頼んだ香玖耶に、見えない相手はこれ見よがしに溜め息をついて輪郭のぼやけた手を揺らした。周りの空気がぐにゃぐにゃと意思を持つように蠢き、何かを手繰り寄せるようにして無理やり開こうとしている感じがする。
「あいつが逃げたままだと……、世界は崩壊する。王のない世界は滅ぶ。あいつも、知っているはずなのに……」
 どうして逃げたんだろうと、戸惑ったような、不安なような、分からない事態に遭遇した子供みたいな困惑した声が、ぽつりと呟いたのを聞いた気がする。
 シキが思わず振り返った時には道が繋がったらしく、姿のぼやけた声が黄緑を呼んだ。
「お前が先導しろ。水色のいる場所ならば、お前にも分かるだろう」
「承知しました。それでは水色の居場所まで、私が先導致します」
 迷わずついていらしてくださいと告げて先を行く彼女の後を追いながら、先ほどの声は誰の物なのだろうかともう一度だけ振り返ったが、ぼやけた空間がクリアになることはなかった。


 ぐったりしたまま復活しない西の魔女を捨てていくわけにもいかず、どうしたものかとミケランジェロが見てくるのでにっこりと笑った。
「そら、ミケはんが担いたげへんかったら置き去りやねぇ」
「って、俺かよ!」
「玄兎はんが担いでくれはる思う?」
 あの様子でと指し示すと、釘バットを力任せに振り回して逃がした悔しさを脆そうな硝子の壁にぶつけている玄兎を見て、ミケランジェロは深く溜め息をついた。
「くそう、あっちのチームなら押し付けられそうなのが一人いたってのに……」
「そう言わんと。このぼん、色々知ってはるみたいやし。えーと、燕はんでええやろか?」
「っ、気安く僕の名前を呼ぶな! 呼んでいいのは兄者だけだ!」
「これだけ噛みつく元気がありゃあ、捨てていってもよさそうだけどな」
 めんどくせェとぼやきながらミケランジェロが無造作に肩に担ぐと、触るなーっとじたばたするが碌な抵抗になっていないようだった。うっせェな落とすぞと脅しつつも担ぎ直し、どっちに行くんだと水色に問いかけている。
「黄緑の主様がどこに行かれたかは、分かりません」
「んー、ここってどのくらいの広さなんやろ」
「オレちゃん、さっき一周してきたぜぇ。だーっと廊下が続いててー、どーんと広くなってー、また廊下ー。ぐるぐるしてんの、ぐるーって繋がってー」
 こう、と空中に輪を描いた玄兎は、何か違うとばかりに首を傾げ、描いた丸を貫くように縦線を引いた。
「何か、生活空間のなさそうな場所だな……」
「とりあえず、その広いとこまで出てみる?」
「っ、どうして兄者を放っておいてくれないんだ! お前たちに迷惑はかけてないだろ!?」
 放っておいてよと悲鳴みたいに噛みつく西の魔女に、迷惑かけてないだと……? と低くミケランジェロが呟いた。
「ペンキだらけで罠にかかりまくってたぴょーん!」
 多分に一番触れられたくないだろうところを敢えて突いたのは、話を聞いていそうになかった玄兎だった。どこでそれをと語尾を上げられ、オレちゃんジャーナルくらい読むもんねーと舌を出されている。
「まぁ、迷惑云々は置いといて。連れ戻してって依頼されてるいうことは、そこにいんならん理由があるんやろ? クロはんかてそれ分かってはるから、捕まったら帰るて約束しはったんちゃうん」
 捕まえたのに逃げはったけどな、と幾らかの恨みを込めつつ杏が言うと、玄兎と睨み合うミケランジェロに担がれたまま西の魔女が、ぐすりとしゃくり上げた。
「そうだよ。兄者は結局、逃げてない。……逃げてないんだ」
「──なァ、聞いていいか。お前さん、何で預かり物を狙ってたんだ? 兄貴が怪我するかもしれねェのに、それでも預かり物が欲しかったのか」
「預かり物なんて要らないよ、あんな物、叩き壊せばいい! あれさえなければ兄者も縛られることはない……、あの女から、解放されるんだ……」
 僕が解放してあげるんだと小さく強い決意に、相変わらず釘バットをぶんぶん揺らしながら玄兎が女ってー? と首を傾げた。
「あの黒い奴の上司、女ってことは……ドロシーか? まだ出てきてねェ主要人物は、ドロシーかオズくらいだろ」
「赤い靴の女だよ、そんな不吉な名前を出すな! お前ら、名前の重要さが分かってないっ」
 妄りに口にするなと背中で暴れる西の魔女を、悪かったと宥めながらミケランジェロは小さく息を吐いた。
「お前らの出身映画がどうかは知らねェが、童話じゃ一緒に旅した仲間だろ。それが上司だの逃げるだの、めんどくせェことになってやがるな」
「何もかも……、あの女が悪いんだ。兄者の覚悟を踏み躙って、……」
 僕が殺せればいいのにと不穏なことを嘆く西の魔女に、杏はふぅと息を吐き出して自分の前髪を揺らした。
「ぼんはクロはんのこと、好きなんやねぇ。瑠璃はんや上司はんから見たら逃げたのに、ぼんから見たら逃げてへん。どーいうことやろ?」
「それはよく分かんねェが、兎耳。あの黒い奴がどこから出てくるかも分かんねェんだから一人で先に、」
「オレちゃん見回り行ってきてやる、お礼はガムでいいぜーい!」
「って言ってる側から逸れるな!!」
 耐え難くうずうずしていた玄兎はミケランジェロが止める声など聞いた様子もなく、いつまでも片付けない釘バットで見た目より頑丈な硝子の壁を叩いたままかなりの速度で走っていく。僕の領域を壊す気かと担がれたままの西の魔女の言葉も、もはや聞こえていないだろう。
 やれやれと肩を竦めると、人型を取った時にパーカーに挿し直した向日葵が小さく揺れた。風で揺れたにしては不自然だと視線をやると、また侵入者かと西の魔女がぼやいた。
「っと、繋がったみたいだな。あ、確か杏って言ったか? ちょっと振り」
 気安く片手を上げて挨拶しながらぐにゃりと捻じ曲がった空間から顔を出したのは、黄緑について行ったはずのシキ。
「シキはん? 何でここに、て、皆でこっち移動してきたん?」
「あ、杏さん。良かった、会えて。黒い人がこっちにいるって聞いたから、樵さんに送ってもらったの。探さなくちゃいけないかと思ったけど」
「ダイジョブです、差し上げた花で分かりマスから! あ、ミケランジェロさん。壁とお話中デスか?」
 多趣味デスね、と多分に悪気はないのだろうジャスパーの言葉に、裂けた空間から抱えた西の魔女を庇って顔面から壁にぶちあったままぞろぞろ出てくる四人を背中に聞いていたミケランジェロが、拳を震わせた。
「お前……、悪意がねェのと悪気がねェのは同義語じゃねェぞ!」
「???」
 分からなさそうに目を瞬かせるジャスパーに、律儀に西の魔女を抱えたまま怒鳴りつけたミケランジェロを、まぁまぁと宥める。
「何で樵さんとこから来はったんか分からへんけど、合流できたんはええことやん。後は玄兎はん見つけて、」
 クロはんとっ捕まえようと提案する前に、そっち行ったー! と玄兎の叫び声が聞こえて全員がそちらを見る。と、先ほど玄兎が走って行った先からこちらに向かって、夜が逃げてくるところだった。
「グッドタイミングってとこだな。ちょっと狭いが、これなら」
「奇遇ね、あなたも鞭使い? 左は任せたわ」
 シキとほぼ同時に香玖耶も鞭を取り出し、声をかけた時にはこちらも計ったように右手左足とを狙って繰り出している。数の暴力ですねぇと溜め息をつくように嘆いた黒尽くめの男は二人の鞭に絡め取られ、けれどその体勢で呑気に肩を竦めた。
 今度こそ取ったと後ろから迫った玄兎はバットを振り被って飛び上がり、何の躊躇もなく彼の頭に振り下ろそうとしている。
「ちょっ、玄兎さん、それじゃ死んじゃう……!」
「それはご遠慮したいですねぇ」
 香玖耶が悲鳴じみて声をかけると、くすくすと笑ったのは黒尽くめの男だった。がっちりと腕と足を捕らえられていたにも拘らず、次の瞬間にはそこから姿を消していた。一番早く反応したのはジャスパーで、杏たちより後ろに控えていた水色よりまだ後ろに出現した男を目視するなり即座に蔦が生え始め、ネット状に編まれたそれが男を捕らえた。
「ご無事ですか、主様」
「お前には、これが無事に見えるんですかー?」
 あいたたたたとわざとらしい声を上げながらネットを被ったまま黒尽くめの男はその場で胡坐をかき、面倒そうに眼鏡を押し上げた。
 また仕損じたと舌打ちした玄兎は、少し先に目標を見つけて迷わず突っ込んでいく。慌ててその襟首を捕まえて引き止めたのは、ミケランジェロだ。
「お前はちょっと止まれって!」
「邪魔するなら一緒にぶっ潰すけどぉ? オレはそいつをボコる為にここにいるんだっつの!」
「連れ戻すの。ね、連れ戻すのが依頼だから。落ち着いてっ」
「せやけど、そろそろ年貢の納め時!」
 言いながら妖火を生み出した杏がそれを投げつけると、やはりそこからも逃げようとしていた黒尽くめの男は首を縮めてそれをやり過ごし、怖いなぁとその細すぎる目を細めて笑った。
「まだ逃げるようなら、今度はその服に火ぃついてしまうかもしれんよー?」
「っ、兄者に何するんだよ! 兄者、今僕が助けるから……!」
 まだ身体に力が入らないのだろう、ミケランジェロに支えられたまま力を紡ごうとする西の魔女に、ジャスパーがやめたほうがいいデスと真顔で諌めている。
「今の状態、普通ないデス。無理をしたら、力が使えなくなるデスよ!」
「兄者が助かるなら、どうでもいいよ!」
 嘆くように反論して力を行使する前、燕、と低い声がそれだけで西の魔女の手を止めた。
「お前、僕がお前の手を借りないと逃げられないとでも思ってるんですか……?」
 お前風情に助けられたくないですねぇと冷たく言い放ちながら立ち上がった黒尽くめの男は、蔦のネットを邪魔臭そうに外して眼鏡を押し上げた。
「やっぱり、あなたも力を使えるデスね。僕の蔦、普通は外せないデス」
「僕は王ですからねぇ。僕の世界でできないことなんて、ほとんどないんですよお」
 面倒ですけどねと冷たい声で呟いた男はネットを放り出し、しゅんとした弟を一瞥するとにっこりと笑みを深めた。
「まだまだ、逃げられそうですねぇ。鬼さん、こちら、と」
 ぱんぱんとわざとらしく手を叩いてくるりと踵を返した黒尽くめの男に、ぶつりと何かが切れた音が聞こえた気がした。おい、とミケランジェロが引き止める声も聞かずに振り切って追いかけ出したのは、玄兎。さっきまでのように逃げるなの類を口にすることもなく、無言で追いかける姿はちょっと怖い。
「何でああ人の神経逆撫でしはんのかなぁ、あの旦那はんは!」
「あの兎耳に本気でボコられたほうが、性格矯正できるんじゃねェか?」
 理解し辛い野郎だと溜め息混じりに呟いたミケランジェロは、ぐすぐすとしゃくり上げている西の魔女を手離せずに持て余し気味ながら襟首を捕まえている。
「えっと、事情が良く分からないけど、玄兎さんが気になるから私は先に後を追うわね!」
「香玖耶だけじゃ、物理的に止められなさそうだ。それを慰めるのは任せた」
 俺もお先にと片手を上げたシキが香玖耶を促して玄兎を追いかけてくれるので、杏は軽く頬をかいて西の魔女を見下ろした。
「あんな態度でも、クロはんのこと好きやの?」
「兄者を助けようなんて……、僕が、おこがましいんだ……」
「弟が兄貴を庇おうってのは普通の発想だろ? どうしてそうなるかね」
「僕たちの依頼、あの黒いヒトを連れ戻すデス。見たくナイ、ここにいるがいいデス」
 玄兎のやりすぎは、きっと先に行った二人が止めてくれるだろう。それでも連れ戻すのが依頼である限り、西の魔女には望まない形にしかならない。
 それでも西の魔女は泣いた顔を腕で拭うと、ふるふると頭を振った。
「兄者は、僕のところに来てくれた。僕は見届けないと……」
 唇を噛み締めて拳を作るのはただの少年にしか見えなくて、連れ戻そうとしていることに僅かな罪悪感を落とした。


 真っ直ぐ伸びていた廊下をしばらく走ると、いきなり視界が開けた。野球場がすっぽり入りそうな大きさのだだっ広い空間が広がっていて、その先は三方向にまた細く廊下が伸びているようだった。どこに行ったかと悩むまでもないのは、その広場で黒尽くめの男と玄兎が対峙しているから。
 玄兎は兎リュックから捕獲用のネットや閃光弾めいた物まで取り出して投げつけているが、黒尽くめの男は面白そうに眺めながら全てを軽くいなしている。痺れを切らして玄兎がただ追いかけ出すと同じように逃げ回るが、その広場から出て行く気はないようだった。
「とりあえず、捕獲してから止める方向か?」
「捕まえても逃げられるみたいだものね……、捕まえてからにしましょう」
 あっさりと同意する香玖耶に、そうこないとなと笑ったシキはぴしりと鞭を鳴らすと黒尽くめの男が逃げる方向を読んで遮るように撓らせる。その先を同じく香玖耶が遮ると、玄兎が僅かに足を速めて左手を繰り出す。逃げ場を失ったはずの男はけれどどこか嬉しそうに笑うと、まるでそこに足場があるように足をかけて上に跳ね上がった。
「三対一は、ちょっと不利ですよねぇ」
 この広さもそちらに利があると、にこにこしながら男が言う。そうして口を開くたびに玄兎の機嫌は傾いていっているようで、右手で振り回す釘バットにはますます殺意が篭っている。
「どうしてあなたって、素直じゃないのよ! さっきの弟さんにしても、もっと他に言いようはあったでしょう!」
「言いよう? 馬鹿に馬鹿と言う以外、言いようなんてないでしょうー?」
「っ、弟さんを助けたくて、あんなことを言ったくせに……!」
「はっ! 僕があれを助けてどうするんです、僕には何の益もないのに!」
 馬鹿なことを言いますねぇと声を振るわせまでして笑う男に、香玖耶はむきになって鞭を振るっている。シキとしても逃げ場を奪う為だけでなく捕獲も狙って鞭を繰り出すが、のらくらと逃げる男に鰻かと突っ込みたくなった。
「馬鹿には馬鹿と言う以外、言いようがないって言葉には賛同しようかしら。あんたって、すごい馬鹿ですもんねー?」
 中途半端に彼の口振りを真似て揶揄したシキに、男はちらりと視線を向けてきた。長く海賊稼業を務めてきて、自身も賞金首になるほどのことを重ねてきた。そのシキが一瞬とはいえ、ぞくりとする視線。すぐにもへらりとした笑顔に紛れる、刹那の殺意。
「大体、逃げ方も生温いし。……下手なだけかしらー?」
「そちらの捕まえ方も、下手なようですけどねぇ?」
 くすくすと笑いながら言い返してきた黒尽くめの男は、鬱陶しそうに右手に絡みかけた香玖耶の鞭を薙ぎ払った。その隙をすかさず狙ったシキの鞭を捕まえた男は、振り下ろされてくる釘バットをそれで受け止めると玄兎の後ろに回り込んで、跳ねるように後ろに逃れた。
「あなた、逃げたいんじゃなくて帰りたいんじゃないの? 王になる前、──王宮に大事に封印していた、あの部屋にいた頃に。過去に、戻りたいのよ」
「──あそこに、入ったんですか」
「あなたが隠れているかと思って。王様でいるのが疲れたから逃げ出したの? それとも、上司さんと何かあったのかしら」
「そんなヘタレ、上司さんも相手にしないんじゃないー? ああ、ママに構ってもらえなくて逃げたわけ。それは家出もするかー」
 香玖耶と一緒になって痛いだろう傷口を暴き立てると、ひくりと男の頬が引き攣った。思わず足を止めるほど反論しかけた男に玄兎の左腕が伸び、後もう少しで触れるところでいきなり男の姿が消えた。
「っ、また消えた……!」
 いい加減にしろと苛立ちも露に玄兎が吐き捨て、即座に顔を巡らせている。この場所からも逃げてしまえばきっとシキたちには追えないのに、男は細い廊下に繋がる場所に滲むように現れた。
「いつまで逃げてんだっつの、お前、ちょーうぜぇ!!」
「逃げられる間はずっと、ですよ」
 逃げられる間だけと噛み締めるように男が呟いた時、
「ドロシーから逃げられるだけ遠く、か?」
 低く尋ねる声に男がはっと顔を上げると、どんっと鳩尾辺りを細い棒で突かれて何歩かよろめいて止まった。借りは返すぜと幾らかすっきりしたように呟いて入ってきたのはミケランジェロで、痛そうに鳩尾を押さえた黒尽くめの男がまた溶けるように逃げる前、素早く距離を詰めていた玄兎が男の頭を左手で押さえつけるようにして床に押し倒した。
「っ、数の暴力ですねぇ……」
「うっせぇばーか、お前なんかオレちゃんだけで捕まえられたに決まってんだろぉ?」
 言いながらテンションが上がってきたのか、クキャキャキャと奇声めいた笑い声を上げながら釘バットを振り上げる。それは駄目! と香玖耶がバットに鞭を巻きつけて引っ張って止めるが、振り下ろす勢いのほうが強いらしい。シキとしてももっと普通の物──例えば自分の拳とか──なら見逃したが、それはまずいと同じく鞭を巻きつけて香玖耶と協力して玄兎からバットを取り上げた。
「何すんだよ、返せよぉ!」
「返すのはいいけど、連れ戻すのが依頼なんだから! 殺しちゃ駄目よ!」
「殺さねぇよ、ただちょーっとバットで撫でるだけ。ちょんと。ちょこっと。どばってなっても、オレちゃん知らねぇけど☆」
 てへ、とばかりに可愛く言われたって、しょうがないなぁと言えるようなことではない。スプラッタは嫌いなのと悲鳴みたいに香玖耶が諌めているので──本人はきっとそのつもりだろう──よしとして、何故かぐったりして動けないらしい黒尽くめの男に視線を変える。
「クロはん、ええ加減に観念したんやねぇ」
「そんなわけないでしょうー? 何ですか、あの左手。反則もいいところですよねぇ」
「お前が言うな。影か闇があれば、お前さん、そっから逃げられるんだろう?」
 そっちのほうが反則だろがとミケランジェロが吐き捨てると、男が笑うように口許を歪める。
「っ、誰か光! 影を消せ、まだ逃げる気だぞ、そいつ!」
『光り輝く乙女よ お出でなさい』
 シキの言葉に被せるようにして香玖耶が歌うなり、ふわりと光が溢れた気がした。否、それは気のせいなどではなく、光で象られた少女がその身で部屋を明るく照らし出していて、僅かの影さえ許していない。
「すごい、綺麗な精霊さんデスね」
「ありがとう、彼女も喜ぶわ。これでしばらく影はできないはずだけど……」
 まだ逃げる気だったのねと幾らか憤然と香玖耶が言うと、逃げ場を失ったはずの男はくつくつと喉の奥で笑い出した。気でも違ったのかとミケランジェロが覗き込んでいるが、億劫そうに手を動かした男は眼鏡を外して上を向いた。
「僕を捕まえることができるのは、僕の世界にない者だけ……。あーあ、一人にしておけばよかったですねぇ」
 そうしたら逃げ切れたでしょうにと囁いた男は、捕まったことに満足しているか後悔しているのか、判然としない。玄兎は兎リュックからするするとロープを取り出して、縛っとこうと何故か釘バットごと近づいていくので慌てて止める。
「ロープなんて無駄だよ、兄者は逃げようと思えばいつでも逃げられる。お前らなんかに、捕まったりするもんか……!」
「そしたら……、名前。名前、当てたらどないやろ? どうせスケアクロウて偽名やろ? 名乗りを嫌がるんは、真名に縛られてるからとちゃう?」
 さっきからぼんも名前呼ばれんの嫌がってるしと杏が提案するなり、広場と廊下の接合地点で壁に凭れかかっている少年がざっと青褪めた。分かりやすすぎる、と、つい香玖耶と口を揃えてしまった。
「この……、馬鹿燕! だから僕はお前が嫌いなんですよっ」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、兄者!!」
 ポーカーフェイスから程遠い弟は兄の批難に頭を抱えて謝罪し、名前デスかとジャスパーが考え込む。
「ヒント、ないデスか。名前では、難しいデス」
「兄弟なら、関連のある名前かもな。燕ってェのは、鳥の名前だろ」
「瑠璃はんて、見たまんまの名前やったやんねぇ。燕はんも見たまま言うたらそうやし」
 燕尾と言われれば見えなくもない髪を隠すように抱え込んだ少年は、本当に分かりやすすぎる。いちいち反応するものだから、見ているほうが哀れになってくる。
「燕……、お前、僕を売り飛ばす気ですか……」
「ち、ちがっ、違うよ兄者! 違う、違って、だって、でも……!」
 うえええと泣き出しながら反論する弟に、黒尽くめの男は溜め息をついて目を伏せた。
 どうやら諦めたらしいと納得し、シキたちも名前を探す。
「見た目が黒い鳥、ってことでよさそうだよな」
「単純に考えて、カラス、かしら」
「キューカンチョーも黒いデスね!」
 楽しそうにジャスパーが続けるが、ぴっぴっといちいち反応する少年を見ていればカラスが正しいらしい。ただそれではまだ足りないのか降参の証も示されないので、何だと首を捻る。
「カラス……、発音じゃねェか。そこの魔女も、小難しい字の発音だろ?」
「あ、そうね、漢字じゃない?」
「カンジ。カンジだと、オテアゲー、デス」
 お任せしますと譲るジャスパーと一緒に、俺も無理と手を上げる。玄兎は隙あらば黒尽くめの男をボコろうとしていてそれどころではないらしく、それを止めているミケランジェロもパスと投げる。
「ちょ、ちょっと待って、私だって詳しくないわよ!? 杏さん、分かる!?」
「えーと。鳥の一本線が足らへんのが、からすとちょうた……? 烏」
 考えながら答える杏の言葉にも反応が見えず、違うの!? と恐慌しつつ香玖耶も考える。
「あの、もう一つなかったかしら!? えっと、何だろう、意味を聞いた時に変な印象を受けたの。牙があるとかないとか……」
「鳥にキバはないデスヨ?」
 不思議そうにジャスパーが聞き返したそれで、杏がぽんと手を打った。
「鴉! 鴉やわ、なぁ、当たりやろ!」
 絶対にそうと杏が断言すると、唐突に黒尽くめの男が身体を起こした。まさかまだ逃げる気じゃないだろうなと身構えたが、自分で外した眼鏡を爪先で器用に取り上げた男はそのまま頭を抱えている少年にそれを投げ渡した。
「預けます。僕が戻ってくるまで、持っていなさい」
「っ、兄者……!」
「自分を追い払う物、馬鹿な案山子。それが僕の名前です。真名をとられた以上、逃げても無駄でしょうね」
 逃げられるのもここまでのようですと薄く笑った男は、シキたちをぐるりと見回して唇の端を持ち上げた。
「馬鹿な動物って、嫌ですよねぇ。ここまで迷惑をかけないと、帰れないんですよ。でも捕まえてくださって……助かりましたよ。どうもありがとうございますー?」
 くすくすと笑うそれはどこまでも自嘲的で、依頼を果たしたという達成感よりは何だか苦い物を残す。それでも僅かに救われるほどに晴れ晴れとしていて、ついていない埃を払って振り返った男はミケランジェロと玄兎を見て微かに眉を顰めた後、ひどく優雅に一礼してきた。
「お手数をおかけしました」
「……今戻っても、また逃げてくる気じゃない、だろうね?」
 まさかねと冗談めかしてシキが肩を竦めると、黒尽くめの男は楽しそうに声にして笑った。
「その時は、また手を貸してやってくださいねぇ」
「冗談やないわ、ちょっとは懲りたらどないやの」
 同じことの繰り返しなんて進歩ないわと杏が切り捨て、今度は容赦なく叩きのめすとミケランジェロが真顔で言う。玄兎に至っては戻ると決めた今でも殴りかかりそうなので、やめといてやれなと止めておく。
「あの、色々と……追い詰めてしまって」
「忘れてください。それで、ちゃらに」
 光の精霊を戻しながら申し訳なさそうにした香玖耶に、僕も色々忘れますとひらりと手を揺らし、黒尽くめの男は踵を返した。
「黄緑、そちらの方々をお送りしてきなさいねぇ」
「はい。主様は」
「水色に開けさせて、戻りますよぉ。捕まりましたからね」
 しょうがないじゃないですかとどうでもよさそうに答えた黒尽くめの男は、水色に先導させてさっさとその部屋を出て行った。
「これで……、連れ戻した、ってことでいいのかしら?」
「はい。主様はお戻りくださいました。ありがとうございました」
「もっとボコればいーのに、つまんねぇーのー!」
 ぶーっと頬を膨らませる玄兎に、一番のお手柄はあんただってと肩を叩いて宥める。
「とりあえず依頼達成ってことで、戻らね? さすがに眠いわ」
 はふ、と大きく欠伸をしたシキは、眼鏡を抱いたまま泣いている少年の頭を突付いた。
「あんた、行くとこねぇなら銀幕市に来たらどうだ? ここで一人でいてもしょうがないだろ?」
「ええねぇ、そうしよし」
「一杯トモダチ紹介するデスヨ! そしたら寂しくないデスヨ、ネ?」
 杏とジャスパーが続いて勧めるが、少年は頭を振って大事に眼鏡を抱いたまま涙を拭った。
「兄者が戻られるの、待ってる。預かってなさいって、兄者が……っ」
「黒いのがまた逃げたら、今度こそオレちゃんが仕留めるしぃ」
 真っ先に教えろよぉと指を突きつける玄兎に、悪気はないらしい。多分。
「まァ、残るかどうかは好きにしろ。つまんねェ時は構ってやるけど、襲撃してくんなよ」
「……怒ってないの……?」
 巻き込んだのにと小声で尋ねる少年に、ミケランジェロはがりがりと頭をかいた。
「気に入らねェのは、のらくら逃げ回ってやがる野郎だ。何から逃げてるか知らねェが、けじめはつけるべきだろ。まァ、今回で鳩尾に一杯入れられたし、戻ったみてェだし。がき相手に怒る理由もねェだろ」
 面倒そうに告げたミケランジェロの言葉に、少年はもう一度涙を拭って小さく頷いた。
「ばいばい」
 まだ薄っすらと涙を溜めたまま手を振った少年のそれで、ぐにゃりと空間が歪んだのが分かる。この領域を治める少年が、彼らのことを追い出すのだろう。
「あのっ、寂しかったらいつでも遊びに来ていいんだからねーっ!!」
 香玖耶が最後にと必死に張り上げた声は、確かに少年に届いたかは分からないけれど。
 うん、と小さく頷いたような声は、空間が閉じる間際に聞こえた気がした。

クリエイターコメント前回、長いと言っていたのが嘘みたいに「より長い」です……。反省はどこで生かされ……っ。

などと長さに関しては打ちのめされておりますが、書き込めたという点ではものすごく満足しております。
すごく丁寧なプレイングを送ってくださったので、無事に黒男の名前にも辿り着けました。
どちらについて行った場合も最終的に辿り着けたのは、樵に会いたいと言ってくださった方のおかげです(笑)。ありがとうございます。

ただ質問して頂いた中で、まともに答えられたことのほうが少なく……。それに関しては心残りもありますが、これ以上はさすがに長さも締め切りも恐ろしいので、ここで〆ておきます。
黒男も無事に連れ戻すことができました、歩いて戻れた(笑)のも皆様のおかげです、誠にありがとうございました。

締め切りも間際、ひどく長くなってしまったことを重ねてお詫びしつつ、ご参加くださいましたPC様に心からの感謝を込めて。楽しんで頂けましたら幸いです。
公開日時2008-07-31(木) 18:30
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