★ 頭の悪い世界、オズ ★
<オープニング>

 その日、朝から対策課を訪ねて来たのは、意地でも表情筋を動かすまいとしたような無表情な女性だった。とりあえず視線だけでぐるりと辺りを見回した後、目が合ってしまった植村のほうに歩いてくる。
「こちらで依頼を聞いて頂けるという話を聞いたのですが、あなたにお話したので構いませんか?」
 淡々とした声からは、逼迫した色は感じ取れない。さほど緊急時でもなさそうかと心無しほっとしながら、どうぞこちらにと促した。
 お手数をおかけ致しますと頭を下げた彼女は、興味深く辺りを見回すこともなくどこか機械的な仕草で植村についてくる。
 ムービースターなのだろうなと見当をつけ、彼女が出ていた映画を記憶の中から検索しながらソファを勧め、お話をお伺いしましょうと水を向けると女性は再び軽く頭を下げた。
「ありがとうございます、私は黄緑と申します。本日は私の主様より、届け物をして頂きたい旨をお伝えしに参りました」
「あなたの主様、とは、何方でしょう」
「私どもの世界。何れ崩壊する王座を守られる王にございます」
 変わらず淡々と答える女性には、はぐらかす気はないのだろう。ただ彼女から情報を引き出すには、質問の仕方をもっと配慮しなくてはならないようだった。とりあえず先に進めたほうがよさそうだと判断し、どこから何をお届けするのですかと尋ねる。
「主様の許から、主様の主様の許に。主様が預かっておられる物を返却したいとの仰せなのですが、主様は諸事情により王座を離れられません。代わって返しに行ってくださる方をご紹介頂けませんか」
「預かり物の返却……」
 繰り返しながら、彼女が出ていた映画よりも先に最近のジャーナルを思い出していた。
「ひょっとしてそれは、西の魔女が襲撃対象にしている預かり物ですか?」
 魔女の襲撃から守り通してほしいの依頼は、猫ではなく預かり物。そんな依頼が最近あったはずだと記憶を辿りながら尋ねると、黄緑は僅かに眉を跳ね上げた。
「左様です。ですが、かつて襲撃対象であった物ではありますが、今は対象から外れております」
「それは確かな事実ですか?」
「はい。次なる西の魔女様にとって、この預かり物は必要不可欠な物。今の西の魔女様が役目を違えようとされる以上、次なる者へと引継ぎされなければ全てが成り立たなくなりますので」
 襲撃は絶対にございませんと淡々と答える黄緑に、植村は目の前の彼女の様子を窺いながら息を吐いた。
 問いかけに答えは得ている。疑問を解消してもらっているはずなのに、聞きたいことが増えて行く一方なのは何故なのだろうと心中に呟きながら質問を変える。
「その預かり物は、一人で持ち歩けるような物なのですか?」
「はい。主様が指輪に封じてくださるとのこと。その指輪を届けて頂ければ事は足ります」
「……指輪を届けるのであれば、あなたでもよろしいのでは?」
 もっと大掛かりになるからこその依頼ではなかったのかと驚いて尋ね返すと、黄緑は初めて辛そうに目を伏せた。
「私は主様の預かり物に触れることはできません。何より私の存在は、もうじきに消えるのです。この依頼を受けてくださる方を、主様の元まではご案内できますが……」
 そこで言葉を切った黄緑のそれが、何を示しているのか察しはつく。どうしてとか、どうにかならないのかとか、そんな問いかけは既に受け入れている黄緑に対して意味をなさないだろう。
 言葉を堪えるように息をついた植村は、軽く眼鏡を押し上げて質問を続ける。
「預かり物を受け取るには、何らかの資格や条件が必要なのですか」
「いいえ。我らには触れられぬというだけで、主様と世界を異にされる方であれば何らの条件も必要としません。ただ主様は今は玉座を動けませんので、主様の元まで預かり物を取りに来て頂き、主様の主様の元まで届けて頂くという行程が必要になりますが」
 それを苦とされない方であれば何方でもと告げた黄緑は、植村にひたりと視線を据えてからゆっくりと深く頭を下げた。
「多分、これで主様がこちらにご迷惑をおかけすることは無くなるはずです。最後の我儘にございますれば、何卒お力添えくださいませ」



「主様、……」
 気遣わしげに声をかけられ、相変わらず黒尽くめの彼は物憂げに片目だけを開けた。見なくても、そこに黄緑がいるのは分かる。他に人影もないのを確認してもう一度目を伏せ、小さく溜め息をついた。
「僕は確か退がれと言いましたよねぇ?」
 鬱陶しいと尖らせた声で吐き捨てるのに、既に彼に慣れた黄緑は退く様子を見せない。
「主様、本当に、」
「黙れ」
 語気を荒げて言いつけると、さすがに黄緑も口を閉じる。それでもこちらを気にしている感じは伝わってきて、彼の苛立ちを深めていく。
「僕が決めたことに逆らうなんて、お前はいつからそんなに偉くなったんでしょうねぇ?」
「逆らうだなどと……」
 そんなことはと控えめに抗う黄緑に、苛立ちが募って足をかけていた黒い足台を蹴り飛ばした。黄緑にぶつかる前に砕けたそれは、少しも溜飲を下げない。とりあえず大きく息を吸って努めてゆっくりと吐き出し、怒らせていた肩を少し落とした。
「……出て行け、俺の我慢が限界を超える前に。お前を殺せない事実さえ関係がなくなる……、その前に消えろ」
 取り繕うことさえ忘れて、昔のままの口調で静かに告げる。それがどれだけも彼の怒りを表していると知っている黄緑は、もはや口を開くことも諦めて深々と一礼するとそのまま溶けるようにいなくなった。
 目を伏せたままもそれら全てを把握しているのは、彼がここの支配者だからだ。この王宮は彼の住処、彼が世界であるという証。
「もう……、終わりますけどねぇ」
 もう終わる。彼が望むまま、全てが終わる。
 今この状況であればこそ、ようやく彼の願いも叶えられる──。
「永かった……」
 永かった、あまりにも。彼の純然たる想いが暗く染まり、醜く歪むに相応しいほどの時間だけが流れた。時間だけが。
 遠すぎる記憶は既に霞がかかり、はっきりと彼の前には現われてくれない。あれだけの激情と共に刻んだはずの顔さえ、今は遠く朧に霞む。
 くつくつと、彼は肩を震わせて笑いながら玉座の肘掛に頭を置いた。折れそうな体勢に身体が軋むけれど、悲鳴を上げる自身のことさえ気にも止めないで彼は邪魔臭そうに眼鏡を外して細すぎる目を尚細めた。
「喜べ、──。……お前の顔さえ、俺は覚えていない」
 覚えていないと笑って揺れる声で繰り返した彼は、薄墨を伸ばしたような闇だけが占めるその場所に響き渡るような声で笑い出した。
 黒の哄笑は誰にも届かず、ただ闇だけを静かに揺らしている。



 おじさんと唐突な声が耳を打ち、竹川導次は唐突に現れた気配を辿って視線を巡らせた。彼の死角にいつの間にか潜んでいたのは、見た目はまだ幼い少年だった。どこかで見たことがあると思ったのは、顔ではなくその出で立ちだろう。
 いつだったか彼の前に現われて、ふざけた依頼をしてきた男。自分の行く手を妨害しろとにこやかに迫ってきたあの男も、この少年のように闇に紛れるほど黒かった。
 ぼんやりと思い出していると、少年は導次の様子など気にした風もなく見上げてきて口を開いた。
「兄者が、いつだったかお世話になったって聞いた。おじさん、どんな依頼も聞いてくれるんだろ?」
「せやし、どっからそんな話になっとんのや」
 少年の言葉と口振りから、確かにあのふざけた黒尽くめの弟なのだと理解する。ただあの時の男よりもずっと暗く沈んだ目をした少年は気にかかり、何ぞ依頼したいんかと水を向けていた。
 よく見れば濃紺でしかない少年の瞳は、けれど誰より暗く「黒」としか呼べない目で導次を見据えた。
「人を用意してほしいんだ。三人くらいでいい。足手纏いにはならなくて、馬鹿げた正義感なんか持ってない奴。役立たずでもいいよ、邪魔さえしなけりゃね」
「邪魔て、何のや」
 思わず聞き返すと少年は理解の遅い子供を見るような目になり、溜め息をついた。
「決まってるじゃないか、世界を滅ぼす僕の邪魔だよ。誰も兄者を助けてくれない……、それなら僕が助けてあげなくちゃ」
 僕が助けるんだと繰り返すそれは、言葉だけ聞いていれば兄弟愛に満ちた少年らしい台詞なのだろう。ただ少年は導次が眉を顰めたくなるほどに狂気を秘めていて、助けるんだと繰り返している。
「助けんのに世界を壊すんか」
「だって、壊さないと助けたことにならないじゃないか! ああ、心配しなくていいよ、僕が壊すのは僕たちの世界だ。あんたたちのいるこの世界は、何の影響も受けないよ」
「そんなこと聞いとるんとちゃう。たった三四人で世界みたな大層なもん、壊せる気ぃでおんのか」
 聞きたいことは多すぎるが、一番大きな疑問を口にすると少年は呆れたような顔をする。
「当たり前だろ、僕は……、頭の悪い案山子だよ。案山子は世界を壊す者と決まってる。僕にできないことなんかない」
 世界を壊すんだと自分に言い聞かせるように繰り返した少年は、悔しそうに拳を作りながら睨むように見据えてきた。
「本当は僕一人で十分なんだけど、それじゃ駄目なんだ。最低、後三人はいる。四人いないと、世界を壊す資格が無くなるんだ。だから貸してよ、三人。ここは既に別世界だ、誰も帰れないなんて事態は起きない。僕の邪魔さえしなけりゃ無事に帰すよ、だから貸してよ」
 まるで導次の持つ何かを強請るような態度で、地団太さえ踏みそうに畳み掛けてくる少年は年相応に幼く見える。それだけに怖い物があった。
「世界壊したら、お前かて生きてられへんのとちゃうんか」
「僕の生命は兄者の物だ。兄者がいらないって言うなら、いらないんだよ。それでも兄者の役には立てるから……」
 僕がやらなくちゃと、導次の問いに答えるようなずれたような言葉を繰り返す少年は、兄と同じく導次が受け入れるまで引き下がりそうになかった。
(自分の妨害しろ言うより、面倒な依頼やな……)
 兄弟揃って碌でもないと密かに呟いた導次は、億劫そうに溜め息をついた。



 世界は終焉の闇に向かって、鈍い黄昏に染まり始めている。

種別名シナリオ 管理番号782
クリエイター梶原 おと(wupy9516)
クリエイターコメント黒男絡みで三度目の依頼に参りました、梶原です。
これで終わったらいいなの期待を込めたシナリオになります。

今回は、黒男から「預かり物の返却」。
黒い少年から「世界を壊すのに同行」。
この二つの依頼の内、どちらか一つに手を貸して頂けないでしょうか。

参加してくださるPC様にとって、上記の依頼は「互いに知らない」ことになります。
返却を引き受けてくださるなら少年に同行はできませんし、少年と行くなら返却依頼には関われません。
申し訳ありませんが、それを大前提とした上でご参加くださいませ。

因みに少年に同行は「最低三人」というだけで、先着順といった条件はありません。足りない時ばかりは悪役商会から何方かNPC様についてきてもらうことになるでしょうが、多い分には歓迎です。

少年は邪魔をしない人を望んでますが、進んで手伝ってくださっても、敢えて邪魔をしてくださっても構いません。邪魔の邪魔でも、何でもどうぞ。
ただ場合によっては多少の怪我程度はあると思いますので、予めご了承ください。

返却の場合は、持ち逃げ(笑)でもされない限りは怪我の心配はないと思います。どちらにしろ大怪我には至らないと思いますが、ちょっとだけご注意ください。

それでは、どちらの依頼を受けてくださるかの明記だけはお願いして、皆様のご参加お待ち申し上げております。

参加者
ジャスパー・ブルームフィールド(csrp6792) ムービースター 男 21歳 魔法使い
花咲 杏(cyxr4526) ムービースター 女 15歳 猫又
ミケランジェロ(cuez2834) ムービースター 男 29歳 掃除屋
香玖耶・アリシエート(cndp1220) ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
白闇(cdtc5821) ムービースター 男 19歳 世界の外側に立つ者
ディーファ・クァイエル(ccmv2892) ムービースター 男 15歳 研究者助手
<ノベル>

 以前に何度か依頼を受けた黒尽くめの男性絡みでまた依頼が来ていると聞きつけた杏は対策課を訪れ、そこに既に見知った顔を見つけた。
「香玖耶はん、ジャスパーはん」
 久し振りと手を上げると、振り返ってきたジャスパーがにこりと笑いかけてきた。
「こんにちはデス。キョウさんも同じ依頼を受けるデスネ?」
「あの旦那はん絡みの仕事やろ? うち、あの旦那はん嫌い。せやしこの仕事、引き受けたげよ思て」
 にっこり笑って答える杏に、ジャスパーは何度か目を瞬かせた。
「嫌いで引き受けるデスか」
「せやよ。恩売るチャンスやん?」
 嫌いな奴の弱みは握ってナンボやでと半ば真面目に告げると、勉強になるデスとジャスパーがやたらと真面目に頷く。本来ならこの辺で、変な教育をしないんですよと苦笑しながら突っ込んできそうな香玖耶は、けれど今までの会話も聞いていないようでカウンターに手をついて身を乗り出させた体勢で、思い出してくださいと植村に迫っている。何してはるんと思わず指を差して尋ねると、ジャスパーがにこりと笑った。
「キミドリさんたちの出身映画を聞いてるデス」
「ああ。そういうたら、今まで聞いた事なかったか」
 どんな映画やて? と興味本位で尋ねると、さあと肩を竦められた。
「さっきからカグヤさんが聞いてるデスが、思い出せないそうデスよ」
「タイトルが無理なら、せめて触りだけでも。無理ですか!?」
「触り、ですか」
 確かと顎に手を当てて考え込んだ植村は、目を伏せたままぽつぽつと語る。
「ドロシーが元の世界に戻る為にしなくてはいけない事があって……、それがその世界の三人にとっても為すべきだったような?」
「為すべきコト。ドロシーが帰るを手伝うだけないデスか」
 絵本はそうだったようなとジャスパーが口を挟むと、大分設定が違った気がするんですがと植村がようやく目を開けた。
「見た映画は大体覚えているんですが……、申し訳ありません。どうしてもタイトルが出てこないようです」
 そんなはずはないのにとひどく不審そうにしながらも謝罪され、香玖耶も小さく息を吐いて諦めた。
「いいえ、無理を言ってごめんなさい。あの案山子さんが何をしたいのか、映画を見ればはっきりするかなと思っただけなの」
「旦那はんの事やから、ひょっとしたらそれ探られんのが嫌で何か小細工してはるんとちゃうやろか」
 あの手のタイプはやりかねへんでと皮肉に呟くと、それは多いに有り得るわねと香玖耶も頬を引き攣らせた。
「あら? 杏さん、こんにちは。あなたも同じ依頼を受けに?」
「そうやねんけど、それ既にジャスパーはんとした会話やなぁ」
 遅いでと突っ込むと、香玖耶は気づいてなくてごめんなさいと赤くなって慌てて頭を下げてくる。杏はころころと笑うと、気にせんでええよと手を揺らした。
「それより映画が分からへんのやったら、アピール変えるしかないやろ。あの旦那はんが聞いて答えてくれるとも思えへんけど、預かり物さえ預かったらこっちのもんやわ」
「ヌシサマさんの同僚さんに、聞けるするといいデスね!」
 ヌシサマのヌシサマさんでもいいデスと、にこにこと同意してくるジャスパーに香玖耶も毒気が抜かれたように笑った。
「そうね。あの素直でない案山子さん相手になら、そのくらいしてもいいかもしれないわ」
「そうと決まったら、とりあえず荷物受け取りに行こか」
 杏が話を振ると今までそっと控えていた黄緑が近寄ってきて、ご案内させて頂きますと頭を下げた。
「黄緑さん。また案内してもらう事になったわね、宜しくね」
「こちらこそ、また主様がご迷惑をおかけして申し訳ありません。どうぞ宜しくお願い致します」
「キミドリさんは、猫さんや樵さんのいる場所、知ってるデスか?」
 案内してもらえるデスかと何気なくジャスパーが尋ねると、黄緑は少しだけ躊躇った後に小さく頭を振った。
「勇気のないライオン様や、心のない樵様は今も主様の主様の許においでだと思います。あの方々は滅多とそこを離れられませんので。主様の許可さえあれば私がご案内できるのですが……、今回はその前に私が消えるはずですので」
 ご案内は難しいと存じますと、案内できない事だけが心苦しいと知れる様子で答えた。
「消えるて何でなん? ほんまに消えてしまうん? あの旦那はんのせいで?」
 それやったら消えへんように手ぇ貸すでと軽く好戦的な気分で杏が言ったそれに、黄緑はほんの僅かだけ口許に色を刷いた。
「主様のせいではございません。元より我らは存在せぬ者。役目が巡れば元に戻るのが定め。私という形は消えますが、それは元に戻るだけの事……、消えて無くなるわけではございません」
 ご心配には及びませんと淡々と答える黄緑に、香玖耶は複雑そうな顔になった。
「消えるけれど、消えて無くならない……」
「まるで謎かけデスねー」
 外すと消えるデスと冗談めかした言葉は、けれど本人が顔を顰めているせいで意図したほども軽くない。
「黄緑はんはそれでしゃあないて思てはるんかもしれんけど、うちは嫌や。知り合いが消えていくのん、黙って見てられへん」
 消えんでええ方法があるかもしれへんやんと、多分に無理だと感じながらもそう声を張り上げると、そうよねと香玖耶も意気込んだように頷いた。
「あなたの主様の主様って、強力な力を持っているんでしょう? 預かり物を返しに行けば、ひょっとして手を貸してくれるかもしれないわよ。ね?」
「預かり物で脅すデスネ!」
 それはいいデスと笑顔で頷いたジャスパーに、だからねジャスパーさんと痛そうに香玖耶が額を押さえた。
「有体に言うと角が立つの! もう少し表現を柔らかくお願いしますっ」
「? 引き換えに、お願いするデス?」
「せやねー、そのくらいにしといてほしいなー」
 うちらめっちゃ悪人ぽいやんなー? と笑いながら語尾を上げて黄緑を見ると、滅多と表情を見せない彼女は驚いたように目を瞠っていて、やがて滲むようにそうと微笑った。
「依頼を受けてくださったのがあなた方で良かった、と。……分を弁えないながら、そう思ってしまいます」
 ありがとうございますと小さく小さく紡がれた、それが諦念さえ秘めていても柔らかく届いたのは嘘ではなかったと信じたい。



 何を尋ねても「世界を壊す」のだとしか繰り返さない少年は、確かに狂気を帯びてはいるのだろう。まだ十二三にしか見えないほど幼いのに、その瞳の暗さは尋常ではなかった。目の前にいる少年の為に集まった彼らを認識はしているのだろうが、決して「見て」はいない気がする。
「とりあえず、同行者は三人いるのだったか」
「後一人足りねェ勘定だな」
 やめろって事じゃねェのかとどうでもよさそうに続けたのは、ツナギを着たどこかだるそうな男性。少年はその背の高い男性を射殺しそうな勢いで睨みつけたが、ここで彼にまで抜けられると困るという認識はあるのかぎゅっと唇を噛み締めて罵声を堪えたようだった。
 どうやらツナギの男性と少年とは面識があるようで、白闇が訪ねて来るまでに既に一悶着を起こしていたらしい。悪役会の面々が早く出て行ってくれとばかりに辟易しているのは、よく見れば壁に焦げたような跡があったり椅子の足が一本折れていたりするのが自分たちのせいではないからだと推察される。
 中止にしたらどうだと揶揄するように、どこか真面目にツナギの男性が語尾を上げると、少年は怒鳴りつけそうに口を開きかけたが何かに気づいたように顔を巡らせた。
「あの、こんにちは。人手が足りないと聞こえましたので……。僕で何かお役に立てる事がありますか?」
 恐る恐るといった様子で提案してきたのは、白にも近い薄い水色の髪の少年。荒事には向かない人の好さそうな穏やかな顔つきをしていて、断ってやったほうがこの儚げな少年の為だろうとは思われる。
(まぁ、依頼主を含めて全員がムービースターのようだ。誰も彼も、見た目通りではなさそうだがな)
 白闇も特別な生を生きている為だろうか、生きてきた世界が違ったところで特異な能力を持つ者は一瞥しただけで感じ取れる。そういう意味では今回の依頼に集った全員、生半な事ではくたばりそうにない連中だとも言える。
「世界を壊すのに協力してほしい、との依頼だが。それでも君は手伝ってやれるのか?」
「僕は壊すのを手伝えなんて言ってない、壊すのに四人必要だから一緒に来いって言ってるだけだ!」
 壊すのは僕の役目だと強気に主張してくる依頼主の少年を、はいはいと適当にあしらって白闇は目を瞬かせている少年を見た。
「純然たる人助けってわけでもねェだろう。降りるなら今の内だぜ?」
「だから人助けなんかじゃないよ、兄者を助けたいだけだ! 他人なんか知るか!!」
 ツナギの男性が唆すようにかけた声に、薄い水色の少年が反応するより早く黒い少年が噛みついている。降りるように勧めた抗議ではなく、人助けではないとの絶対的な主張にはさすがの白闇も苦笑を禁じ得ない。薄い水色の髪をした少年も事態を飲み込めなさそうに目を瞬かせたが、白闇たちを眺めていってそっと笑った。
「まだ事態はよく分かりませんが……、僕でお役に立てるならご一緒させてください。僕はディーファ・クァイエルと申します」
 宜しくお願いしますと頭を下げる少年──ディーファに、ツナギの男性は軽く頭をかいた。
「ミケランジェロだ」
「皆が名乗るのならば、私は白闇と呼んでもらおう。真名はどうせ聞き取れないだろうからな」
 試しに名乗ってみようかと尋ねるのに、構わねェよとひらりとミケランジェロが手を揺らした。
「どうせこいつも、真名は呼ばれたかねェみてェだしな。なァ、燕?」
 嫌味たらしく呼びかけたそれがどうやら真名なのだろう、少年はげしげしとミケランジェロを蹴飛ばして抗議している。効かねェと苦笑めいて笑いながら少年の襟首を摘み上げたミケランジェロは、呼ばれたくねェなら名乗ったらどうだと水を向ける。そうして彼にぶら下げられた少年は、むぅと拗ねた顔をしたまま白闇とディーファを見て視線を逸らした。
「頭の悪い案山子だよ。案山子と呼べばいい」
「待て。そりゃあ、あの黒尽くめの野郎じゃねェのか。お前は西の魔女だろ?」
 不審げに少年を吊り下げたままのミケランジェロが問うと、少年は煩いなと顔を顰めた。
「いつの話をしてるんだよ、もう役目は巡ったんだ。僕が頭の悪い案山子。あんたは勇気のないライオン」
 言いながら少年はミケランジェロを指し、次に白闇を指した。
「あんたが心のない樵で、最後が赤い靴の女だよ」
「あの、僕は一応男なのですが……」
 どこか申し訳なさそうにディーファが口を挟むと、少年は吊られた体勢のまま軽く暴れた。
「知らないよ、役目の名称と性別なんか関係ないだろ。世界を壊すと最初に起った者が案山子で、後の順番は言った通りだよっ」
 それが僕たちの世界の決まり事なんだと苛々したように説明する少年を取り落とさず持ち上げたままのミケランジェロは、溜め息混じりに頭をかいた。
「東西南北の魔女が必要なのかと思ってたら、俺たちがライオンになるだと? 役目が巡るってこたァ、前回の役目の奴らはどうなってんだ?」
 分からねェとぼやくミケランジェロに、悪いがと声をかけた。
「多少なりとも事情を知っているミケランジェロさんでも分からないなら、私たちは尚更分からない。説明してもらえるなら有り難いんだが」
 敵の形も知らないと不利だろうと肩を竦めると、少年は振り解くようにしてミケランジェロの手から逃れて蹈鞴を踏んだ。一応倒れないようにと頭を押さえて助けると、複雑な顔をした少年はきっと彼ら三人を睨むように見上げてきた。
「世界を壊すのに必要だから集めてもらったんだ、世界を壊すのは僕だからな!」
 邪魔をしたら許さないからなと偉そうに言いつけてくる少年に、ディーファが視線を合わせるように少し屈んだ。
「案山子様、でしたか。お望みであれば手をお貸しします、邪魔をするなとの事であれば極力避けましょう。その為にも、もう少し事情をご説明願えますか? 何も分からないままでは、何がお邪魔になるのかも分かりません」
 宜しいでしょうかと微笑むようにして尋ねるディーファに、少年は困ったような戸惑ったような顔をして視線を落とした。
「説明は確かに私も望むところなのだが、よければ場所を変えないか? どこまでどうやって行くのかは分からないが、ここにいるより外に出たほうが確実に近くなるとは思うのだが」
 話し難そうな少年は白闇が勧めたそれに戸惑ってから頷き、後ろで早く出て行ってくれないかなとばかりに眺めていた悪役会の面々を振り返った。思わずびくりと身体を竦めたのに気づいた様子もない少年は、少し躊躇った後に口を開いた。
「ありがとう。これで兄者を助けられる」
 それだけは感謝してもいいと呟くように礼を告げて小さく頭を下げた少年は、呆気に取られている全員を後目に悪役会を出ていった。



 対策課を出て人気のない路地まで行くと、黄緑は相変わらず無造作に何もない場所でドアを開けるような仕草をした。その向こうには香玖耶とジャスパーが一度訪れた、あの黒尽くめの男性が治めるという王宮が広がっていた。促されるままそこに足を踏み入れると、最後に入ってきた黄緑が見えないドアを閉めて空間が閉鎖されたのが分かる。
「何や薄暗いとこやなぁ。照明費、ケチってんの?」
 初めて訪れる杏がきょろきょろと辺りを見回しながらそう感想を漏らすのを聞いて、香玖耶は思わず苦笑する。精霊を視る事のできる香玖耶にとってこの暗さは闇の精霊の多さを示すだけなのだが、確かにそれを外して考えれば照明が節約してあるようにも感じるだろう。
「カラスさん、あれデスねー。リン……、リンショーカ?」
「それも言うなら、吝嗇ちゃうかなー。つまりケチって事やけどね、ケチって!」
 どこかで聞いているのを前提に嫌味たっぷりに繰り返す杏に、ジャスパーも悪気なく──多分──けちデスねーと追従している。
 黄緑が止めるべきかどうかを迷っている様子を見て、香玖耶が止めようかと思った時。
「これは失礼、猫には薄暗いほうが相応しいかと思ったんですけどねー? お気に召さないようならば、明るくしましょうかー」
 笑うような声が聞こえたと思うと、いきなり目に痛いほどの光がそこに満ちる。うにゃーっと悲鳴を上げて杏が目を押さえて蹲り、それを眺めて溜飲を下げたように笑いながらいきなり闇が現われた。
「これでご満足頂けましたかねぇ?」
「っ、旦那はん、陰険にも程あるで!!」
「心外ですねぇ。僕はご要望にお応えしただけですのにー」
 例え吝嗇家でもお客様の希望には副うんですよー? と語尾を上げる黒尽くめの男性は、光を弱める気がないらしい。主様と諌めるように黄緑が声をかけるが当然のように無視しているので、大人気ないと心中に批評してそっと溜め息をついた時にいきなり影が差した。
「眩しすぎるは良くないのコトですヨ。鳥はヒカリモノが好きデス、困るデスねー」
 人の事を考えるデスよと生真面目に諌めているジャスパーの足許から、しゅるしゅると蓮の葉が生えてきている。傘代わりになるほどの大きさまで成長したそれを無造作に摘んだジャスパーは、大丈夫デスー? と声をかけながら杏と香玖耶にそれを手渡してくれた。黄緑にも差し出したが丁重に断られたので、お揃いデスねーとにこにこしながら自分も蓮の葉を傘のように差して楽しそうにくるりと回した。
「うう、おおきに、ジャスパーはん。旦那はんの性格の悪さ加減がここまで貫いとるやなんて、思てもみぃひんかったわ。うちら、旦那はんの依頼聞きに来たげたのに何ちゅう出迎えやの」
 目ぇ痛いと掌底でぐしぐしと擦っている杏は、帰ろかーと拗ねたように話を振ってくる。けれど黒尽くめの男性は動じた風もなく、飄々としたままどうぞご自由にーと笑う。
「別段、返せなくて困るのは僕じゃないですしー。返そうかなーと思ったから依頼したまでで、駄目になったらなったでその程度の物ですよ」
 お帰りはあちらですよぉと黄緑の背後を示した黒尽くめの男性は、躊躇わず踵を返して離れていく。
「〜〜っ、可愛ないわーっ」
「まぁまぁ、元からああいう人じゃない。それに即座に追い出されてないって事は、それなりに本気で返したがっているんじゃない? 預かってしまえばこっちの物よ!」
「……せやんね、とりあえず預かるほうが先か」
 しゃあないと杏が拗ねた顔をしたままも引き下がるのを見て、ジャスパーは差したままの蓮の葉をくるりと回した。
「それでハ、見失うナイ内に行くデスか?」
「そうしよか。あ、これおおきにな」
 ええ日傘やわと貰った蓮の葉を掲げて見せた杏に、お役に立つ何よりデスとジャスパーが嬉しそうに頷いた。
「主様の無礼、代わってお詫び致します。申し訳ございませんでした」
「キミドリさん、謝るないデスよ。ヌシサマさんが無礼はヒャクモショウチー、デス」
「そうよ、謝るべきはあの人であって黄緑さんじゃないでしょう? だから気にしないでね。それより……もはや背中も見えないんだけど、ついてくるなって事なのかしら」
 まだ煌々と光が焚かれたままの廊下でさっきまで辛うじて見えていた黒は、今は点でさえなく見当たらない。思わず目を据わらせた香玖耶に、どこか楽しそうにした黄緑が頭を振った。
「いいえ。分かり辛いでしょうが、主様はあれでもあなた方を歓迎しておられるのです」
「あれで!?」
「はい、あれでも。この王宮に来客など滅多とございませんので、はしゃいでおいでなのです」
 力一杯聞き返した杏にもめげずに頷いた黄緑に、迷惑なはしゃぎっぷりデスねーと何故かしみじみとジャスパーが言う。
「申し訳ございません。何しろ、あの方はオズ様にございますれば」
 頭が悪くとも仕方のないところにございますと、どことなく棘のあるフォローをする黄緑に苦笑してからふと気づいた。
「オズ? 待って、今オズと言った? あの人は頭の悪い案山子でしょう?」
 それがどうしてオズなのと詰め寄るように尋ねると、馬鹿に説明をさせても気が遠くなるだけですよぉと不機嫌そうな声が唐突に降ってきた。
「説明をお望みなら、預かり物を受け取りに来てもらえませんかねー? 僕がしますよ、色々と。ご説明を、ね」
 馬鹿は黙っていなさいと冷たい声が黄緑を打ち据え、いきなりそこに階段が降りてきた。
「どうぞ、こちらにー。特別に、王座にご案内致しますよぉ」
 頭の悪い世界の玉座ですと自嘲気味に笑いながら告げた声は、階段が届くと同時にぴたりと止んだ。
「いちいち気ぃ悪い旦那はんやなぁ」
「でも招待を受けたら、行くといいデス」
「そうよね。黄緑さんへの無礼も謝らせましょう!」
 意気込んで頷くと階段を上り始めたが、黄緑は何故か一段も上がってこない。どうしたのと尋ねると、私はここでと深々と頭を下げられた。
「私は御前に控える事を禁じられました。どうぞ主様にはあなた方のみご対面くださいませ」
 そしてくれぐれも宜しくお願い申し上げますとどこか母親めいた様子で繰り返され、香玖耶は少し戸惑ったものの小さく強く頷いて階段を上っていった。



 悪役会を出てからどちらに向かうのかと尋ねると、別にどこでもいいよと投げ捨てるように答えられた。
「条件が揃えば、どこからでも行ける。条件が揃わないと、どこからも行けないんだから」
「今は、条件が合わないのですか」
「……まだ少し、ね。四人が揃ったって世界が認めてくれないと、道は開かない」
 早くしてくれないかなぁと呟いた少年は、年相応にも見えた。以前に彼ら絡みで受けた依頼時に見せたように、ひたすら兄だけを慕って待ち侘びているような。
(あの兄貴を相手に、よくここまで献身的になれるもんだな)
 ミケランジェロの印象として、黒尽くめの男性はのらくらとしていて鴉というよりは鰻みたいに思えた。わざとらしい笑顔と間延びした口調は、自分さえ偽っているせいだろう。逃げたいのだとひたすら周りに迷惑をかけた挙句、一心に慕っている弟のところに逃げて巻き込んだくせに最後になって突き放した。何がしたいのかさっぱり分からない碌でもない男を、どうしてここまで慕えるのかが分からない。
 揺れるようにして空を仰ぎながら様子を見ているらしい少年を窺ってそんな事を考えていると、今の間に質問しても宜しいですかとディーファが少年に声をかけた。ちらりと視線を動かした少年は、邪魔にならない為ならねと小憎たらしい仕草で肩を竦める。
「世界を壊すのが目的だとお聞きしましたが、それは危険な事ではないのですか? 具体的にどうなさるのか、お伺いしても構いませんか」
 僅かに心配そうに尋ねるディーファに、少年は小さく溜め息をついた。
「具体的も何も、世界を殺すだけだよ。危険かどうかって聞かれたら、それは危険だよ。勝てるかどうかも分かんないよ」
「っ、まさかお前、死んでやる気じゃねェだろうな!?」
 思わずミケランジェロが聞き返すと、まるで馬鹿でも見るような目で一瞥された。この野郎と目を眇めたものの、そんなわけないだろと思い詰めた風に答える少年のほうが気にかかって言葉を止めた。
「勝てなくても勝たなくちゃいけないんだ。兄者を助けてあげなくちゃ……」
 僕がやらないととぐっと拳を作って震えそうになるのを堪える少年に、白闇と名乗った白い髪の青年が感情の見え難い瞳で見下ろした。
「兄を思うのはいい、それで世界を壊そうとするのも君の勝手だろう。世界の終焉に興味があって手を貸すんだ、それをどうのと言う気はないが。そんなに気負っていては、上手くいくものも行かないのではないか?」
 兄の為を思うならば力を抜いてはどうだと促す白闇を見上げて戸惑った顔をした少年は、視線を落とした。
(兄貴に関わらないでいたら、素直なんだかな……)
 拘りを捨てさせてやれれば、あの偏屈な兄と違って銀幕市でも上手くやっていけると思うのだが。しばらくは様子見で付き合うかと溜め息を噛み殺していると、ディーファが思案げな顔で少年を見た。
「案山子様の口振りですと、世界はまるで……殺せる誰か、のようですね」
 その方を憎んでおられるのですかと寂しそうに尋ねられ、少年は跳ねるように顔を上げた。
「そんなはず……! 僕が兄者を憎むなんて有り得ないっ。僕が嫌われるのは仕方ないけど、僕が嫌うなんて……っ!」
 絶対にないと泣きそうに主張する少年に、黙って聞いていた白闇までが眉を顰めた。
「君は兄を助けたいのではなかったのか」
「助けたいんだよ、助ける為に……っ、僕が殺してあげるんだ……っ」
 もうそれしかしてあげられないんだと、ぐすりとしゃくり上げながら少年が噛み締めるようにして答える。
「世界を壊すってのは……、あの野郎を殺すって事なのか」
 ミケランジェロも思わず呟くように聞き返すと、少年はぐすぐすと泣きながら袖で顔を擦った。
「預かり物を壊してあげられれば良かったんだ。でも、もう無理だ。こっちに来て、兄者が王宮を出てくれた時に僕があの猫ごと預かり物を壊せてたら、兄者はやっと逃げられたのに……。僕がそれをできなかったから、兄者は逃げられなくなった。僕のせいだから、僕がしなくちゃ。僕が世界を壊さなくちゃ……!」
 年相応に見えていた少年は、緩やかな狂気を再び纏い始める。多分に彼にしか通じない理屈で、望まないまま──否、望んで、だろうか──あれだけ慕っている兄を殺す、という。
 自己犠牲という意味では、どこまでも違うのだろう。殺すのは自分ではない、兄なのだから。ただ拠り所とも呼べる兄を亡くして──殺して、果たしてこの少年は生きていけるのか。兄を殺すと称した、これは無理心中なのだろうか。
「お前、兄貴を殺したら……死ぬ気じゃねェだろうな」
 それなら絶対的に手は貸せねェとモップを知らず強く握り締めながら尋ねると、少年は狂気を秘めた暗い黒でそうと笑った。
「僕が死ぬ? 兄者の後を追って?」
 当然じゃないかとでも続けそうな空気のまま、少年はくすくすと笑い声を立てる。
「それができたら、僕は兄者を殺さないよ。殺さなくてもいいって事じゃないか。それができないからこそ……、世界を壊すんじゃないか」
 おかしな事を言うとばかりに肩まで竦める少年に、白闇とディーファも不安そうに視線を交わしている。
「世界を壊して、君や他の人たちが無事でいられるのか?」
「案山子様以外の方々に、被害は及ばないのですか?」
「どうして何か被害が及ぶのさ。僕はただ世界を壊すだけなのに」
 他の連中なんてどうでもいいって言っただろと投げ槍に答えた少年は、どこか期待したように空を見上げた。
「ああ。ようやく世界が動くよ……、兄者が僕を呼んでる」
 世界を壊しにいこうと嬉しそうに笑った少年は、大好きな兄に会いに行けるのが嬉しくて仕方がないといった具合に無邪気にも見える様子で笑った。



 ようこそ、と気乗りしていない様子で声をかけられ、階段を上りきったジャスパーたちは何もないその空間のずっと先に霞むような黒い影を見つけた。
 遠い、と不満げに杏が呟き、歓迎はされてないみたいと香玖耶が肩を竦めた。そうデスネーと相槌を打ちながらぐるりと辺りを見回すと、階下と違ってそこは嫌がらせに光に溢れてもおらず、彼らが最初に訪れた時のようにひっそりとした闇が湛えられていた。王との謁見場にしてはあまりに寂しく、先日探索した時に見かけた過剰なまでの装飾とも縁遠い、淋しくも広いだけの空間。
 杏と香玖耶は近づくべく歩き出していたが、ジャスパーは階段が消えていくのを感じながらもそこで部屋の様子を窺っていた。
「ジャスパーはん?」
 どないしたんと杏に声をかけられ、今行きマスと答えながらも顔を巡らせて何気なく呟く。
「王の私室に似てるデスね。寂しくて悲しいが一杯デス」
 暗いですとすっぱり切り捨てると、いきなり殺意めいた悪意が発生した。手にしていた蓮の葉を咄嗟に前に突き出し、黒いナイフを防ぐ。
「びっくりするデスねー」
 大怪我をするデスよーと呑気に笑いながら葉の強度を戻し、驚いている二人に近寄っていく。大丈夫やったと杏が心配そうに尋ねてくるので、平気デスヨーと笑いながら返す。香玖耶は自分も持っていた蓮の葉を眺め、ジャスパーさんの意思で強度が変わるのねとほっとしたように頷いた。
 ちっと小さな舌打ちは聞こえた気はするが、何すんのんと杏が抗議するとすみませんねーとへらりと笑って謝罪される。
「どうも身体の調子が良くなくてー。ついうっかりー」
「ついうっかりで攻撃されて堪りますかっ!」
 反省しなさいと指を突きつける香玖耶に、黒尽くめの男性は相変わらずしれっとした様子で反省はしてますよー? と答えている。
「それよりそんな覗き趣味を暴露している暇がおありでしたら、さっさと預かり物を引き受けてもらえませんかねぇ」
「覗き趣味て何やの?」
 分からなさそうに尋ねるのは、前回の探索で彼らとは分かれていた杏。それでも僅かに言の葉に乗せただけで攻撃までしてくる黒尽くめの男性を刺激する気はないので、ちょっとねと言葉を濁した香玖耶を真似て肩を竦めておく。
 察しのいい杏は、ふーん? と幾らか納得していない様子で目を眇めると表情が分かるほどの距離までずかずかと歩み寄って、まあええわと黒尽くめの男性に向き直った。
「預かり物を返すいう依頼やて? 何で旦那はんが自分で行かはらへんのん?」
「僕はここを動けないのでー。と、黄緑が言いませんでしたかー?」
 あの馬鹿も役に立たないですねーと黒尽くめの男性が辛辣に目を細めると、杏がせやったねーとわざとらしく手を打った。
「うちも馬鹿な動物やさかい、何回も聞かな分かれへんねん」
 堪忍なーと嫌味たらしく語尾を上げた杏がにっこりと笑いかけると、黒尽くめの男性は眼鏡の奥で細すぎる目を細め、玉座で鷹揚に膝を組んだ。
「ふふ。だから僕は馬鹿な動物が大っ嫌いなんですよー」
「奇遇やねえ、うちも旦那はん大嫌いやわ」
 ふふふはははと冷たい声でしばらく笑い合った二人は、やがて根負けしたように黒尽くめの男性が溜め息でそれを遮った。
「まあ、運んでもらえるならそれでいいんですけどねー」
 こんな事をしている暇に片付けたいんですようと言い訳めいて呟いた黒尽くめの男性に、引き受ける前に聞いてもいいかしらと香玖耶が口を挟んだ。
「黄緑さんは、あなたが崩壊する玉座から離れられないって言ってたわ。それってどういう意味なの?」
「……たまには本気で僕の役に立ってみたらどうなんでしょうねー、あの馬鹿は」
 口を開くと碌な事を言わないと嫌そうに愚痴を溢した黒尽くめの男性は、香玖耶が怒鳴るように口を開く前ににっこりとした。
「そのままの意味ですよー。世界という物は、腐る為にあるんです。この玉座だってもう限界なんですよー。そろそろ世界は交代すべきです」
「世界の交代? それはそんなに簡単にできるの?」
「簡単にはできないから、僕はここを離れられないんですよー」
 何れの崩壊に備えなくてはねとどうでもよさそうに続けた黒尽くめの男性に、世界が壊れたらどうなるデスと眉を顰めた。
「西の魔女さんや、猫さんたちも一緒に滅ぶデスか?」
「旦那はんの大事〜な上司はんも一緒に?」
 嫌味たっぷりに杏が語尾を上げて続けたが、黒尽くめの男性は動じた風もなく笑みを深める。
「世界は、ただそれが崩壊するだけですよー。何かを巻き込んだりしませんし、交代だと言ったでしょうー? 世界が交代したところで何も支障はないですよ」
 僕はただそれを座して待つのみですと、おどけた仕種で告げた黒尽くめの男性は肘掛けに肘を突いて面倒そうにこちらを見てきた。
「そろそろ、預かり物を返しに行ってもらえませんかねー?」
「ヌシサマのヌシサマさんにお届けデスねー! 張り切るデスヨ」
 指輪くださいとジャスパーが手を出すと、口の軽い馬鹿ですねぇと嫌そうに吐き捨てられた。
 杏は嫌そうな男性の様子を見て僅かに溜飲を下げたようで、ちょっと聞きたいねんけどと手を上げた。
「その指輪て、うちが飲み込んでも平気やろか?」
「飲み、えっ、杏さんが指輪を飲んじゃうの?!」
「そのほうがまた襲撃あった時に守りやすいか思て。まあ、ちょっと汚れるかもしれんけど、毛玉吐く要領で吐いて出せるし」
 確実に危険度下げて運べる思うけどどうやろと杏が尋ねると、最初に尋ねられた時から反応していなかった黒尽くめの男性が身体を震わせ始めた。寒いデスかとジャスパーが首を傾げた時、いきなり爆笑する声が響く。
 何事かと思うまでもなく、笑い転げているのは黒尽くめの男性。肩を震わせて身体を折り曲げてひたすら笑っていた彼は、眼鏡を押し上げるようにして笑い過ぎた為の涙を拭いながらようやく身体を起こしてきた。
「襲撃はないと思いますけどー、用心してくださるならお願いしてもいいですかー?」
 是非と力一杯勧められるそれで、杏は嫌そうに目を細めた。
「何や気ぃ悪い反応やなぁ」
「嫌ですねー、こんなに友好的にお願いしてますのにー。あ、何でしたら指輪の角があなたを傷つけないようにー、丸くコーティングするくらいはして差し上げますよお?」
 それだけの労力を割いてもそうしろと勧めてくる黒尽くめの男性の言葉を鵜呑みにできるほど、彼が捻くれている事を知らないわけではない。何を企むデスカと思わずジャスパーが尋ねると、まだくつくつと笑った黒尽くめの男性は眼鏡を押し上げた。
「何も企んでいませんってばー。ただ猫に丸呑みされる預かり物は、腹が捩れるほど楽しい想像なだけですよー?」
 久し振りに爆笑しましたと愉快そうに告げた黒尽くめの男性は、お礼くらいしましょうかーとどうでもよさそうに呟きながらつと左腕を持ち上げた。
 相変わらずどこまでも黒い男性は手袋までして「黒くない場所」を少しでも減らそうとしているようだが、何故か左手だけは剥き出しだった。中指に銀の指輪が嵌っていて、手の甲から服の下まで広がっていそうなのは鮮やかな翠の刺青。
「タトゥー、デスか?」
「旦那はんにしたら趣味のええ」
「綺麗よね……」
 香玖耶が何かに惹き込まれるようにして呟いた時、その刺青がするりと動き出した。
「「なっ!?」」
 さすがに驚いて声を揃えてしまった間も刺青はするすると彼の腕を滑り、中指に嵌めている銀の指輪に吸い込まれるようにして消えていく。やがて全てが指輪に収まるとその証のように、鈍い銀色をしていた指輪がほんのりと緑を帯びている。
 黒尽くめの男は無造作にそれを抜き取ると、軽い調子で放り投げてきた。
「ちょっと、大事なものなんでしょう!?」
 なんて扱いをするのと抗議しながら大事そうに受け取った香玖耶を表情の乗らない顔で一瞥した彼は、宜しくお願いしますねぇと面倒そうに手を揺らすと興味を失ったかのようにそっぽを向いた。
「何か、あれだけ爆笑されたら飲み込むんに抵抗あるけど……」
 受け取ろかと杏が手を伸ばしたが、香玖耶はちょっと待ってと指輪を抱き締めるようにして頭を振った。
「これ、どうしてあなたが返しに行かないの? 本当はドロシーさんに会いたいんでしょう?」
 自分で行くべきだわと指輪を握り込んだまま強く命じるようにして告げた香玖耶に、黒尽くめの男性はわざとらしいほど大きな溜め息をついた。
「僕はここから離れられない、と申し上げたはずですけどねぇ?」
 ちゃんと聞いておいてくださいよと嫌そうに続けられても、香玖耶は怯まず詰め寄っていく。
「それは聞いたわ。でも玉座を誰かが守っていなくちゃいけないのなら、それこそ私が引き受けてあげる。誰かが交代に来たら、あなたが戻って来るまで待つように伝える事もできるわ。これはあなたが自分で返しに行くべきよ、鴉さん!」
 真名を紡いでの命令は、エルーカとして慣れているのだろう。絶対的な力を秘めた言の葉が、黒尽くめの男性に絡みつくのまで見えるような気がする。
「カグヤさん、今日はナイーブです。感情的、デスね?」
「せやねぇ。まぁ、あの旦那はん追い詰めはる分には面白いさかい、やったらええけど」
 こそこそと香玖耶の後ろで小声で話しながら様子を窺っていると、少しばかり苦しそうな顔をした黒尽くめの男性はそれでも闇色に染まった右手を払って彼女の言の葉を断ち切った。
「この領域で、僕の真名を紡ぐとはいい度胸ですねぇ。尤も、されたところで逆らうのは容易いんですけどねー」
 何しろここは僕の領域ですからと笑みを浮かべた黒尽くめの男性は、くだらない問答は手間だから嫌なんですよねぇと心底嫌そうに呟いてぱちんと指を鳴らした。途端に彼らの足許がぱっくりと口を開け、当然のように落ち始める。
「いくら自分の領域かて、やりたい放題かーっ!!」
 怪我したらどないしてくれるんと落ちながらも上を指差して怒鳴りつける杏に、ご機嫌ようーと姿も見せないまま呑気な声だけが届く。
「会いたい人がそこにいるのに……、ちゃんと生きて届くところにいるのに! どうして会いに行こうとしないのよ……っ」
 そんなの間違ってると、指輪が黒尽くめの男性であるかのように握り締めながら振り絞るようにして香玖耶が嘆く。気遣わしげに彼女に視線を変えた杏と同じく心配そうな目を向けようとしたジャスパーは、ふと気づいて下方に目を向けると生えるデスよと囁いた。
 しゅると細い緑が生えたと思った時にはぶわっと増殖し、落ちている彼らにまで届きそうに生え茂って落ちている最中の彼らを優しく受け止めた。
「っと、忘れてた。さっきからおおきにな、ジャスパーはん」
「どう致しマシテー。とりあえず追い出されるしマシタ、届けに行くしかなさそうデスが……どこにデス?」
 教えてくれませんデシタねーと首を傾げると、はっとした女性陣二人が遠すぎる天井──開けられた穴を見上げた。
「届けてほしいんやったら筋通したらどないやのーっ!」
「自分でドロシーさんに会いに行くくらいしなさいよ、このヘタレー!!」
 叫ぶ二人の声に軽く耳を押さえながら、ゼントタナンですネーとぽそりと呟いた。



 嬉しそうに空を見上げていた少年が見ている物は、生憎と分からなかった。けれど少年にしか分からない確かな兆しはあったらしく、嬉々とした様子で彼はポケットからごそごそと何かを取り出した。
「銃……、いや、玩具か」
「当たり前だろ」
 僕の媒体だと浮かれた様子で答えた少年に、複雑な顔をしたままのミケランジェロがぼそりと呟く。
「役目が巡っても媒体は変わらねェのか」
「僕の力は兄者が定めてくれた物だ、変えてもいいって言われたって変えないよっ」
 あくまでも彼にとって「兄」というのは絶対的な存在なのだろう、憤慨したように抗議する様からだけでもよく伝わってくるのに。
 こっちだと促して歩き出した少年は、すぐ側のビルの壁を軽く押した。それはまるで最初からドアであるとでも言いたげに簡単に押し開かれ、何の警戒もなく踏み込んで行く少年に続くと当然のようにその先に広がっているのは別の空間らしかった。
「まるで宮殿だな」
 何故か薄暗い印象を受けるそこは、白闇が感想を漏らしたまま宮殿めいて広く無駄に優雅な装飾が施されていた。
「兄者の王宮だよ。ここから兄者のいる玉座までは、自力で辿り着かなくちゃ」
 案内してもらえるのはここまでなんだと、淋しそうに誰にともなく呟く少年にミケランジェロが複雑そうに頭をかいた。
「世界を壊す以外に、何かもっと別に方法はねェのか。この世界を捨てるってんなら、銀幕市に来ればいい」
 あそこは何でも受け入れてくれるからなと気怠げに見えて真面目に勧めるミケランジェロに、ディーファも強く同意したいのだが。少年は嫌そうにミケランジェロを見上げて、煩いなと拳を作った。
「それで兄者はどうなるんだよ、やっと、やっとここに来て何とか逃げ道が見つかったのに! また兄者を追い詰めるのか、兄者はもう十分に頑張ったじゃないか! どうして皆して兄者を追い詰める事しか言わないんだよ、どうして助けてくれないんだよ!! 兄者は何にも悪くないのに……!」
「どうもお前の言う逃げると、世間一般の逃げるにずれがあるみてェなんだがな」
 あいつは十分逃げてたろうとミケランジェロが続けるなり、少年は玩具の銃を彼に突きつけた。
「あれは僕の失態だって言ってるだろ。せっかく兄者が猫を呼び出してくれたのに、僕が片付けられなかった。あそこで始末できてたら、こんな事にはならなかった……、兄者は逃げられたんだよっ」
 兄者を悪く言うなと射殺せそうな視線と殺気を纏って睨みつけている少年を見下ろしたミケランジェロは、遣り切れなさそうな溜め息をつきながら自分の髪をかき乱す。ディーファが悲しげに眉を顰めて眺めていると、どうやら感傷に浸っている暇はなさそうだぞと警告しながら隣の白闇がいきなり剣を抜いた。
 刀身に金と銀の美しい紋様が刻まれたそれは思わず見惚れるほどだが、その優美な凶器を無造作に振ると黒いナイフが何本も払い落とされたのに気づく。ミケランジェロも手にしていたモップで後続を払い落としていて、少年は兄者だと目を輝かせると玩具の銃を構え直した。
「どうして……」
 思わずディーファが呟くのも気に止めた風はなく、少年は玩具の銃に力を注ぎ込んでナイフが飛んでくる方向に狙いを定めた。ばーん、と子供じみた擬音と一緒に少年が引き金を引くと、銀色のパチンコ玉みたいなそれは実際の数倍の威力を込めて発射された。ディーファなら三人がかりで手を回してやっとといった太い柱に減り込むのを見て、つい頬を引き攣らせる。
 人の身体ならば簡単に貫きそうな威力のそれは多分に兄から投げつけられてくる黒いナイフを見事に撃ち落としてはいるが、何故かその目に悲壮感はなく楽しそうに輝いている。まるで兄と遊べるのが楽しいのだといった無邪気な様子は、ミケランジェロに向けたほどの殺意も乗っていない。兄を殺すという言葉を繰り返しはしているが、どこまで実感しているのか怪しいところなのかもしれない。
(それでも、止めるのは間違っているのですか?)
 やらなければならないのだという使命感にあまりに溢れているから、それがどうにも深刻で切実だから。下手に口を挟むと、少年を傷つけるだけなのではないかとも思う。
「考え事も過ぎると身の危険だぞ」
 戦わないのなら下がっていてくれと白闇に促され、はっと我に返ったディーファは申し訳ありませんと素直に少し下がった。他の三人のように戦えなくても、役に立つ事はあるはずだと一先ず神経をそちらに向ける。彼の中にある金属生命体は危機察知能力を上げてくれる、それでできる事は彼にもあった。
「次の連射が終われば、少し先に進めるほどの間隔があるようですが。どうなさいますか」
「そりゃあ、進まねェ事には始まらねェだろ」
 気乗りはしねェがなと悪態をつきながらミケランジェロが少年の襟首を捕まえて持ち上げた。何するんだよと驚いた声を上げられた時に最後のナイフが投射され、ディーファが前方を指差すと白闇が剣でナイフを叩き落として走り出した。
「自分で走れるよ、離せ!!」
「うっせェな、ガキは黙って吊られてろ」
「じゃあ、あいつも持ち運んでやったらいいじゃないか!」
 どうして僕だけと憤然としたまま指されたディーファは、申し訳ありませんと苦笑めいて謝罪する。とりあえず身を潜めるべき柱に不自由はしないのだが、薄暗い事もあってどれだけの広さがあり、どこまで進んだのかも分からない。
「それで、目的の玉座とやらはどの辺なんだ?」
「上」
 どこまでも端的に答えた少年のそれで、白闇は薄暗い部屋に目を凝らした。
「こう薄暗いと、部屋の正確な広さも分からんな」
「かなり広いようですね。柱以外に壁らしき音は近くには聞こえませんので」
「階段か何かはねェのか?」
 遠いなら面倒だなと独り言めいて尋ねてくるミケランジェロに探索を続けていたディーファは何だかひどく申し訳ない気分になって、報告しないほうがよろしいですかと小さく聞き返した。
「何だ、そんなに遠いのか」
「いえ……、階段は元より柱以外の反応が……」
 彼の中にある金属生命体は、かなり正確に物の位置なども把握できるはずなのだが。今は行けども行けども壁らしき反応が返らず、ディーファのほうが不安になりそうな広さを教えるだけだ。
「……どういう事だ?」
 一体どうなっているとまたしても連射され始めた黒いナイフを剣で叩き落としながら声を尖らせた白闇に、当たり前じゃんと少年が肩を竦めた。
「ここは世界の内でも、特に強い兄者の領域。闇が最も深い場所。闇に限界なんてないように兄者の力の及ばない範囲なんてないし、限界なんてどこにもないんだよ」
 だからこそ兄者は強いんだと本気で自慢して胸を張る少年は、ひどく心に痛い。為すべきと信じて世界を叩き壊したとして、その後の有り様がひどく心配されるのはディーファだけが持つ感想ではないのだろう。まるで何か忠告めいた事を口にしそうな自分を諌めるように白闇は剣を振るい、ミケランジェロは力任せにナイフを叩き落としていたがやがて耐えかねたように声を上げた。
「あー、限界だ。悪ィが俺は一抜けさせてもらう」
 やってられるかと本気で吐き捨てたミケランジェロは、少年が唖然としている間に近くの柱に何かを描きつけた。
「知らねェ場所ならともかく、銀幕市に戻る程度なら俺でもできるからな」
 ここで解散だなと軽く手を上げて描きつけた魔方陣らしき物にミケランジェロが手を当てれば、確かに彼はここからいなくなるのだと本能で悟る。少年も驚いて固まっていたが察するなり必死にミケランジェロの服を捕まえ、どうしてだよと泣き出しそうに咎めた。
「四人いないと駄目なんだ、揃ってないとオズを倒しに行っちゃいけない! あんたが抜けたら成立しなくなるじゃないか!」
「だからだよ」
 やめてと縋る少年を柔らかく押し戻したミケランジェロは、顔を顰めるようにして見下ろした。
「お前に死ぬ気がねェなら協力もしてやろうかと思ったが、お前が兄貴を殺した後も正気でいられる保証もねェだろ。大体、兄貴を殺すって事の深刻さが分かってるようには見えねェよ」
 ディーファも抱いていた疑問を正面からぶつけたミケランジェロに、少年は今までのように激昂するのではなく、分かってるよと小さく小さく呟いて拳を握り締めた。また泣いてしまうのではないかと不安になってディーファが覗き込もうとすると、離れろと襟首を掴まれて白闇に引き摺り戻された。
 途端に少年は俯いていた顔を上げ、分かってるよ! と怒鳴るように宣告していきなり自分の周りに戦車やマシンガン、兵隊の人形など数多くの玩具を取り出した。それらを叩きつけるように手を振り降ろすと、それぞれが発射した空気の塊は今まで叩き落としてきた黒いナイフを巻き上げて、こちらに向かっているそれらに向かって弾き飛ばされた。
 激しい金属音があらゆる方向から聞こえ、どうやら全方向から投げつけられたナイフを撃ち落としてくれたらしいと分かる。
「分かってるよ、兄者を殺すのがどういう事かってくらい! もう兄者は僕の頭を撫でてくれなくなる、何にも教えてくれなくなる。どこまで馬鹿なんだって言いながらも小さく笑ってくれたりとか、僕の面倒の一切を見てくれなくなるんだ。僕が何をしたって笑ってくれない……、話してくれない。動かなくなって……、……それで」
 それで終わるんだと握った拳を震わせながら噛み締めるようにして呟いた少年はまた俯き、黒大理石らしい床にぱたぱたと透明な滴が落ちた。
「でも、僕がそれをできるのはここでだけなんだ。ここがどれだけ虚ろで儚い空間か、僕だって分かってるよ、知ってるよ。ここにいるのは何かの間違いで、気紛れで、あんたたちが映画って呼ぶ物の中に戻ったら僕らはまた同じ事を繰り返すんだ。繰り返す事しかできないんだから……っ」
 変われるのは今だけなんだと必死の言葉はディーファを確かに揺らすのに、それがどうして「殺す」ほうへの変化でなければならないのか。
「映画の中でできなかったのなら、今ここだけでもお兄様と一緒に過ごされては如何ですか? 儚い時間とご存知ならば尚更、ご兄弟で傷つけ合うなど、」
「だから言ってるじゃないか、僕はここでしか兄者を助けてあげられない! 兄者は世界になんかなりたくなかったんだ、僕のせいで案山子にしたんだ、あの女のせいで世界になるしかなかったんだ! それでも世界を次に渡せないから兄者はずっと頑張って頑張って壊れるまで頑張って……っ、何もしてあげられない。僕が世界を壊しに行ったって、兄者に敵うはずない。兄者は世界を譲らない為なら僕だって殺すよ、僕だからこそ絶対に譲ってくれない。そんな想いを兄者にさせたいんじゃないんだ、僕はただ兄者を解放してあげたくて……っ。そしたら何の柵もない今しかできないじゃないか、今だから兄者をやっと殺してあげられるんだ、兄者もやっと死ねるんだっ。これが僕の我儘だってくらい知ってるよ、でもっ!」
 俯いてぱたぱたと止め処なく滴を落としながら、少年は声を震わせた。
「でもここ以外で、兄者を殺したくなんかない……っ。僕の傍からいなくなるなんて想像するのだって嫌だから、元に戻ったら絶対にできない。したくないから……、今だけなんだ……っ」
 たった一度でいいから僕だって兄者の願いを叶えてあげたいんだと、絞り出すみたいな悲痛な声は兄を殺すという意味を彼なりに正確に掴んでいると教える。それでも様々な葛藤を経て辿り着いた結論がそれしかないのだと涙ながらに主張されて、これ以上どう反論ができるというのだろう。
「助けてよ。僕の世界の誰も助けてくれない、別の世界の誰かに助けてもらうしかないんだ。僕の事なんてどうでもいいから、兄者を助けてよ。兄者を殺してあげられるように、僕をそこまで連れて行ってよ……っ」
 一人じゃ無理なんだと悔しげに繰り返され、ミケランジェロは柱を無言のまま殴りつけた。びしりと皹が入ったそれはけれど魔方陣を発動させず、奥歯を噛み締めたままのミケランジェロはそこにいる。
「元より、私は世界の終焉を見に来ただけだが。君の決意が固いのならば、後悔しないですむようには手を貸そう」
「何が正しいのか、何が間違っているのか。僕の口出しできる範囲を超えたなら、……僕も心のままに行動したいです。案山子様がそれで納得されるなら、」
 本当は今でも引き止めたい。間違っていると説得したい。ただ彼の落とした涙がどこまでも胸を苦しくさせるから、同じように泣きたいまま何とか微笑んだ。
「僕の助力を求めてくださるのなら、案山子様を手伝わせてください」
「お前らがそこまで言って俺が手ェ引いたら、俺はどれだけ悪役なんだ」
 嘆くように呟いたミケランジェロは、縋るように見上げてくる少年から顔を逸らしながら溜め息をついた。
「お前の主張を認めたわけじゃねェ。ただ……、覚悟を決めてるなら手ェくらい貸してやるのが一度は引き受けた筋だろうさ」
 少年の主張の全てに納得はできないというのは、ディーファも含めて意見を同じくするところだろう。それでも今ここで彼らが手を引いても少年に諦める気がないのなら、縋ってくる手を振り解いて手を引くのも無理な話だった。
「しかし相変わらずあの野郎は、性根が曲がってやがるようだな。招き入れたなら玉座まで道案内でも寄越せば、」
 いいだろうにとミケランジェロが続けるより早く、今まで閉じていたその空間が微かに揺らいだのが分かった。
「今のは?」
「分かりません、ただ遠く……、何かが降ってくる?」
 広さを探っていたまま範囲を広げて探索したディーファは、不審に顔を顰めながら遙か上方を仰いだ。
「何方かが降って来られるようです。あの高さから落ちて来られては、」
 黒大理石の床。何のクッション材もない冷たいそれは、上から落ちてくる人たちに決して優しくないだろう。
「次から次へとわけが分からないが……、ナイフも止んだようならば行ってみるか?」
「助けられるか微妙なとこだが、見捨てるわけにもいかねェだろ!」
 言うなり白闇とミケランジェロはほぼ同時に駆け出していて、少し遅れたディーファは服の袖で顔を擦った少年を窺った。
「案山子様?」
「兄者の預かり物……、まだここにあったんだ」
 返したんじゃなかったんだと聞こえないほど小さな声で呟いた少年は、ディーファの事など忘れたように走り出した。
「案山子様、どうかされたのですか?」
「どうもしない。どうもしないけど……、兄者の元から離れたならあれは僕が壊さなくちゃ!」
 あの女になんか返さないと憎しみさえ込めて吐き捨てた、少年の行動理念はどこまでの「兄の為」でしかないのだと教えるようでディーファをひどく切なくさせた。



「このいきなり不自然に生えた植物は……。やっぱりお前か、似非魔法使い」
 何人かが駆け寄ってきた気配に顔を巡らせると、どこか苦々しい声がそう吐き捨てた。エセないデスヨー! と主張したジャスパーが噛みついているのは、既に見慣れた顔だった。
「僕はレッキとした魔法使いデスのコトよ!」
「ああ、そりゃ悪かったな。ところでこんなところで何やってるんだ、お前ら」
 ジャスパーの抗議を受け流して呆れ気味に尋ねてくるミケランジェロに、それはこちらの台詞ですとジャスパーが生やしてくれた蔦の海から降りながら香玖耶は後ろから駆けつけてくる三人を見る。見たことのない二人と一緒に、黒尽くめの男性を真似たような少年に気がついて軽く目を瞠る。
「燕君!」
「真名で呼ぶなーっ!!」
 何度言わせるんだと噛みついてくるのは確かに以前に会ったことのある黒尽くめの男性の弟らしく、ここにいる謎は横に置いて丁度会いたかったのだとタイミングの良さに破顔した。
「よかったわ、君に聞きたいことがあったの」
「うちも、うちも! あの旦那はんの預かり物て、ずばり何なん!?」
 いい加減に気になってんねんと杏が手を振り上げながら尋ねると、少年は警戒するように後退って距離を取りながら知らないと硬い声で返した。それから香玖耶たち三人を視線だけで値踏みするように眺めてくるのに気づいて問いかけようとした時、案山子様といきなり後ろに服を引かれてぐえと声を上げている。
「ここにおられる方が、あなたのお兄様ではないのでしょう? どうして攻撃されようとなさるんですか」
 必死に止めてくれた白に近い水色の髪の少年が諌めるように声をかけてくれたおかげで、少年が紡ぎかけていた力が霧散したのが分かる。ひどい怪我をしそうな容赦のない力の大きさに気づき、思わず香玖耶も頬を引き攣らせる。
「ごめんなさい、そんなに真名を呼んだのが気に触った?!」
「というよりも、世界に関してと同じく壊したがっている物があるのではないか? さっきから気配が変わらないからな」
「分かってるなら邪魔をするなよっ。せっかく兄者が預かり物と離れられたんだ、今の内に壊してやるんだ!」
 暴れるようにして薄い水色の少年を振り解いて叫ぶ黒い少年に、後から口を挟んだ白い髪の青年は軽く肩を竦めてみせた。止める気はないとの意思表示にも、邪魔をして悪かったの謝罪にも見えるそれに黒い少年は改めて香玖耶たちに向き直ってくる。
「何なん、世界壊すとか預かり物壊すとか。坊、旦那はんの事好きなんちゃうの? 一応あの旦那はんから預かって返しに行くとこやのに、邪魔したら嫌われるで!」
「いや、この坊主は最初から預かり物を狙ってやがっただろう」
 猫の時もと投げ槍に突っ込んだミケランジェロに、今それ言うたら台無しやんと杏が掴みかかっている。
 けれど杏の指摘で泣き出しそうに顔を歪めた少年は、心配そうに覗き込んだ薄い水色の少年から逃げるように顔を逸らして顔を擦っている。どうやら極端なブラコンが改善されたわけではないらしいと様子を見ながら、世界を壊すとはどういうことだろうと考えているとジャスパーが不思議そうに首を傾げて口を開いた。
「キミドリさん、預かり物は次の西の魔女さんに必要な物と言いマシタ。ツバメさんは西の魔女を辞めたデスカ? これ、本当はツバメさんの物デシタか?」
「それが僕の物のはずがないだろ!? それはあの女の一部だよ! あの女は四つに分かれた、それでようやくあの世界に留まってられたんだっ。目を覚まさないと西の魔女の役目を継げないから必要なだけだ、でもそれだって他の三つが既に揃ってるから要らないんだよ、そんな物!」
「一部って……、これ、ドロシーさんの一部ってつまりスプラッタな意味で!?」
 きゃーぎゃーと思わず悲鳴を上げるものの指輪を粗雑に扱う気にはなれず、かといって大事に持ち続けるのも怖い気がして慌てているとまたじわりと殺気が滲んだ気がした。ふと視線をやると黒い少年の手に玩具の銃が現れていて、撃たれると思った時には香玖耶の前に刀身に美しい文様の入った剣が現れて間を阻んでいた。
「凝りねェガキだな」
「危険が危ないデスよー!」
「ほんまに自分ら兄弟、もうちょっと躾けられといたほうがええで」
 やめろとミケランジェロが少年の頭を押さえつけ、ジャスパーの手から伸びた蔦が玩具の銃に巻きついていて、杏は鋭い爪の伸びた手で少年の頬を諌めるようにして撫でている。
 軽く恐慌していた香玖耶は助けられたことにありがとうと素直に礼を言いながら、とりあえず手の中の指輪を怖い物ではないと信じてぎゅっと握り締めた。それから薄い水色の少年に服を引っ張られて止められている黒い少年に近寄り、手の中の指輪を大事に見せた。
「私はこれをドロシーさんに返しに行くわ。それがあなたのお兄さんから受けた依頼で、どうしても……、会って尋ねたいことがあるから。でも、あなたを追い詰めたいとも思わないの。教えてくれる? 彼女の一部って、どういう事? それを壊したい理由を教えて」
「煩い……、煩い煩い煩い、それをあの女に返すなんて僕が絶対に許さない! 兄者だってそんな事は望んでないっ」
 聞き分けなく駄々を捏ねるみたいに暴れて香玖耶に殺意を向ける黒い少年を、案山子様と呼んで薄い水色の少年が引き止めるのを聞き、杏は爪を収めながら身体を起こした。
「待って。坊、さっきから何で案山子て呼んでんの? それて、その子のお兄はんやろな」
「? 案山子様のお兄様は世界で、オズ様ではないのですか?」
 僕はそうお聞きしましたがときょとんとしたように反応され、香玖耶たちが顔を見合わせるとミケランジェロが面倒そうに自分の頭をかいた。
「何か、役目が巡ったらしいがな。詳しい理由も事情も分からねェ。そっちこそあの野郎と会ってたなら何か聞いてねェのか」
「そういえば黄緑さんがオズって、」
 呼んでいたかと思い出し、説明なら自分がするといって遮った黒尽くめの男性を思い出して拳を震わせた。
「あの人、最初から説明する気なんかなくて、ただはぐらかしたのねっ」
「そういえば、キミドリさんが見当たらないデスねー」
 別のトコロですかネとジャスパーが辺りを見回すと、黒い少年が馬鹿じゃないのと呟いた。
「言っただろ、他の三つが揃ったからその預かり物は要らないんだって。黄緑たちはあの女の力を三つに分けた物だよ、あの女が目を覚ますには一つに戻らないといけないに決まってるじゃないか」
「っ、そしたら黄緑はんは、」
「消えるけど無くならない……、元に戻る。あれは、そういう意味だったの……」
 もう会えないのと指輪を知らず握り締めながら香玖耶が呟くと、話の途中で悪いがと白い髪の青年が口を挟んできた。
「話にいまいちついていけないが、どうにもこちらの本筋からは外れているようだから指摘をしてもいいか」
「っ、白闇様、」
 せっかく話がずれているのにとぼそりと薄い水色の少年が恨めしげに呟き、白闇と呼ばれたのだろう青年は埒が明かないだろうと軽く目を眇めた。
「そちらはそちらで話を進めてくれればいいが、私の依頼人は今のところそこの少年だ。先ほどディーファさんが言ったように階段がないのならば、上に行く術を考えねばならないのだろうが。あれは、上への唯一の手がかりなのではないか?」
 あれ、と無造作に白闇が指すのは「上」。この薄暗い中でも何故かはっきりと分かる、香玖耶たちが落とされた遙か上方に開いた「穴」。
 はっとしたようにそれを見上げた黒い少年に、ずっと服を捕まえたままでいるディーファと呼ばれたのだろう少年が案山子様と繰り返す。
「世界を壊されるよりも預かり物を壊されて事が収まるのであれば、そうされては如何ですか?」
「例え赤い靴の女の一部でも、壊して支障がねェなら俺も協力くらいしてやるが?」
 ミケランジェロがモップを握り直しながら何気ない様子で続け、ディーファも僕もですと少年を宥めるように強く頷く。どうやら白闇は最初からその展開を狙っていたらしく、先ほどは香玖耶を守ってくれた向き出しの刀身がさり気なくこちらに向けられていると気づく。
 預かり物を壊されるわけにはいかないと香玖耶もぎゅっと指輪を握り締めて足を引き、いつでも精霊を呼び足せるように息を整える。一方的な展開は嫌やと杏も不機嫌そうに目を眇め、ジャスパーも不穏な空気を感じ取ったように後から現れた四人から少し距離を取って何となく三人で固まる。
 幾らあの黒尽くめの男性が信用ならなくても、届ける為に預かった物を例え誰が相手にでも破壊させる気はない。ましてやドロシーの一部とまで聞いたそれを壊して何が起きるかも分からないのだから、とりあえず守り抜く為には戦いも已む無しと覚悟を決めていると焦がれるように上ばかり見上げていた少年が駄目だと小さく呟いた。
「預かり物は壊すよ、だってあれがあの女の手に渡るなんて許せない! けど兄者を助けるのに……、もうそれじゃ駄目なんだ……っ」
 世界を壊さなくちゃと、必死の面持ちで少年が言う。聞き咎めた杏が、壊すてどういう事と眉を顰めた。
「旦那はんは、世界は交代するんやて言うてはった。交代するから玉座から離れられへんて」
「リストラクチュアリングですか?」
 解雇通告ですねーと何気ない様子でジャスパーが続け、何かちゃうしと杏が裏手で突っ込む。
「話ややこしなるさかい、ちょお黙っといてっ。それより交代する世界壊すて何の話やの? 交代やから支障ないて言うてはったのに、壊してしもたら困るんちゃうのん?!」
「それはこちらでは既に解決した話だ。世界とは彼の兄の事、つまり彼を殺したところで他に支障はないそうだ」
「ヌシサマさんは案山子でオズで世界ですか? お忙しいデスねー」
「そうでしょうー? 僕ってとっても忙しいんですよねぇ、こんな馬鹿げた話に付き合っている暇なんてないくらいに。やるならやるで、さっさと始めてもらえませんかねぇ?」
 ああ面倒臭いとわざとらしく頭を振りながら、いきなり声が降ってきた。と思うと香玖耶たちの間にできた僅かの影から染み出るようにして黒尽くめの男性がいきなりそこに現れ、眼鏡を軽く押し上げた。
「っ、兄者……!」
「相変わらず役立たずな弟ですねぇ、お前。べらべらと余計な事を喋るしか能がないんですかー?」
 僕を殺しに来たんでしょうにと不愉快そうに吐き捨てる黒尽くめの男性に、黒い少年は身を縮込めるようにしてごめんなさいと謝っている。
「出やがったな……!」
「何だ、この悪趣味な男は」
 ミケランジェロと白闇は即座に反応して、口を閉じろとばかりにそれぞれモップと抜き身の剣で攻撃を仕掛けている。やめてと悲鳴を上げかけた少年はどうにかそれを飲み込むと少し後ろに下がり、両手を前に突き出して戦闘機の玩具を取り出した。
「案山子様っ」
「兄者から離れろ、巻き込まれても知らないからな!」
「構わん、私ならば多少の怪我など怪我の内にも入らない。手伝うと決めたのだ、私は好きに手を貸すから君も好きに仕掛けろ」
「つーか巻き込まねェ程度の気は使え!」
 白闇は当然のように答えながら黒尽くめの男性の対する攻撃の手を休めず、ミケランジェロは俺には当てるなよと悪態をつきながらもやはり鋭くモップを振るい続けている。黒尽くめの男性は白闇の振るう白い剣を黒手袋をした右手で軽く払い、ミケランジェロのモップを蹴り飛ばしと応戦しながらくすくすと楽しそうに笑っている。
「何……、いきなり何なん!?」
「本気でヌシサマさんを攻撃するデスカ!?」
「待って、どういうことなの!? 燕君、」
 兄を助ける為に二人を攻撃するのだとしても、先ほど聞いた言葉のまま兄を殺そうとしているのだとしても。どちらにしても止めなくてはと香玖耶が反応するより早く、動けないことに気がついた。
 咄嗟に視線を下にやると、するりと足元に巻きついて這い上がってくるのは闇だった。見ればジャスパーと杏も同じ状態らしく、闇に絡まれずにすんでいるのは黒い少年が連れてきた三人だけ。
 少年は兄が連れてきた二人と戦っている様を眺めて泣き出しそうな顔をした後、振り切るように頭を振って鋭く手を振った。途端に玩具の戦闘機は本物のそれのように動き出し、二人を相手にまだ無事でいる黒尽くめの男性の上で爆弾らしき物を投下する。
「子供の考えそうなことですよねぇ」
 自分の手を染めるのはそんなに嫌ですかと侮蔑するように感想を漏らした黒尽くめの男性は、両側から振り下ろされてきた剣とモップを受け止めるとそれを支点にくるりと身体を回転させた。そうして投下された爆弾を無造作に蹴りつけて少年に向かわせる。
 はっと目を見開いても動けない少年を庇ったのはディーファで、引っ張り寄せた身体を庇うようにしたまましっかりしてくださいと声を張り上げている。
「案山子様の望みは、お兄様に殺されることではないのでしょう?!」
「そう……、うん。そうだ。兄者は、僕が殺してあげなくちゃ……!」
「そんな馬鹿げた事をできる気でいるのが、子供の強みですよねぇ。これだから馬鹿な子供というのは始末に負えないんですよぉ」
「っ、お前にあの少年を責める資格はない!」
 本気でやれと流れるように剣を振るう白闇が焦れたように吐き捨てると、くすくすと声を立てて笑った黒尽くめの男性はわざわざ白闇に顔を寄せて舌を出した。
「い、や、で、す、よ、お、だ」
「相変わらず、いちいち癇に障る野郎だな……!」
 いっそ本気で俺が叩ききってやりてェよと毒づきながらミケランジェロがモップを振り下ろすと、闇に溶けるようにして姿を消した黒尽くめの男性は自分の弟の真後ろに姿を現した。
 はっとしたディーファが咄嗟に間に入ろうとしたのを柔らかく押し退けた黒尽くめの男性は、黒手袋で覆われた手で弟を指差した。
「お前はどうせ僕には勝てないんですよお。僕がどれだけ何を望んでいるかさえ、お前は知らないんですよねぇ。どうして僕はお前なんかを助けたんでしょう」
 やめておけばよかったと、聞こえよがしな声とわざとらしい溜め息で黒尽くめの男性が凍りついた少年の耳元に顔を寄せる。
「知ってました? 僕はね、お前の事なんか大嫌いですよお? 疎ましい、目障りな馬鹿な動物」
 まだ続けそうな黒尽くめの男性に香玖耶が耐え切れず声を上げようとしたのを、やめてあげてくださいと必死の体で止めてきたのはディーファだった。
「お願いです、どうか、続けさせてあげてください。あの人はここに現れた時からずっと泣いておられる……、ずっと嘘をつき続けておられるんです」
 心音から僕にはそれが分かるんですと、薄っすらと涙を湛えたままディーファが言う。せやけどと影に声さえ奪われたまま杏が反論しようとした時、うわあと叫んだ少年が取り出した玩具の剣を兄に突き立てたのが見えた。
「「……!!」」
 全員の声にならない声が、静かに闇を打つ。本当ならどれだけ強く突いても打ち身程度で終わりそうな玩具の剣は、確かに黒尽くめの男性の身体を貫いている。ぱたぱたと赤い雫が玩具のはずのそれを伝って床に滴り落ち、それを振り返るようにして確認した黒尽くめの男性はそっと口許を緩めた。
「よくできましたねぇ、燕」
「っ、兄者、」
「さて。僕の願いは叶いました……、これでお開きとしましょう」
 ぱちんと黒尽くめの男性が指を鳴らすと、ぐにゃりと辺りの薄暗い景色が歪んだ。兄者と少年の悲鳴めいた声が響くと、香玖耶たちを拘束していた闇もゆるりと溶ける。
「退いて、今すぐ治療を、」
 今なら間に合うかもしれないからと香玖耶が駆け寄ろうとするのを止めたのは、今度は黒尽くめの男性が操る闇ではなく白闇だった。
 抗議しようと顔を向けると視界の端で杏とジャスパーを止めているミケランジェロの姿も目に入り、白闇ともども何とも言い難い顔で泣き崩れている少年の背を見守っている。
「お願い、退いて、私はあの人を死なせたくないの!! だってまだあの人、ドロシーさんに会ってないわ! こんな、こんな風に終わるなんて間違ってる!!」
「間違いだとしても、それをあの人は望まれたんです」
 ずっとずっと呪文みたいに繰り返しておられたんですと、泣きながらディーファが口を開いた。
「案山子様に殺してほしくて、殺されるしか術はないのだとお二人ともがご存知で。それでも言葉ほどには殺したがれずにおられる弟様の為に、あの方はずっと嘘を突き通すしかなかったんです」
 それは多分、今この瞬間だけではなくて。世界になると決めた時から、貫いてきた嘘。今ここでしか叶わない望みの為に、儚く紡ぎ続けてきたたった一つの願いなのだとしたら。
「私たちが安易に定めていい正義などない。あの二人にとって、これが最良と定めた結果でありその術を正義と呼ぶのならば……、これはここでの確かな正義なのだろう」
 私たちがそれを受け入れられるかどうかは問題ではないと、突き放すようにも思える固さで白闇が続けるとそれに呼応するようにぴしりと「世界」に皹が入った。
「世界を継がせる気はない……、俺はこのまま息絶えよう。ようやく……、世界は崩れ去る……」
 よかったと、小さすぎる黒尽くめの男性の声は哀しいくらいに強く香玖耶たちの耳にも届く。薄っすらと微笑みさえした黒尽くめの男性は、側で泣き崩れている少年の肩を押し遣るような仕種をしてずるりと座り込んだ。
「崩壊に立ち会うな。それは世界を継ぐのと同義だ。俺はまだしばらく生き繋ぐ……、お前はあいつらと共に他所の世界に移れ。……泣くな。俺の望みを叶えられて満足だろう?」
「でも兄者、兄者……!!」
「──馬鹿で泣き虫な動物は、大嫌いですよお」
 鬱陶しいですねぇと香玖耶たちが知るまま皮肉に笑った黒尽くめの男性は、既に刺青も銀の指輪も失って頼りなく白い左手をゆらゆらと揺らした。
「それでは、そこの馬鹿の始末は頼みますねぇ。他の連中は自力でどうにかできるでしょうから……、これでお会いするのも最後、という事ですねぇ。楽しかったですよぉ、ありがとうございましたー?」
 それではご機嫌ようーと、先ほど香玖耶たちを突き落とした時とまったく変わらない様子で黒尽くめの男性が告げると、ぶつりと電源を切るようにして空間が強制的に閉鎖された。途端に銀幕市へ通し戻された香玖耶たちが呆然とするしかない中、少年の悲痛な兄を呼ぶ声だけがそこに響いていた。



 それからのことは、慌しくてあまり覚えていない。否、彼らが最初から危惧していたようにひたすら泣き崩れる少年があまりに痛ましく、思い出したくないというのが正確なところだろうか。
「白闇様」
「ディーファさんか。そっちは片付いたか」
「はい。空間処理などは香玖耶様に手伝って頂いて、先ほど終了しました」
「そうか。あの少年は、ミケランジェロさんが対策課に連れて行ってくれるそうだ。まぁ、しばらくは病院暮らしかもしれないが……、悪いが詳細は聞いていない」
 違うところで療養するのかもしれないがなと肩を竦めると、役に立たへんなぁと足をぷらぷらさせながら目の前に座る杏が切り捨ててきた。
 抗議を込めてちらりと見遣るが当然のように堪えた様子もない彼女は、肘を突いて顎を乗せながら、はぁ、と深い溜め息をついた。
「何や後味の悪いことになってしもたなぁ。まさか旦那はんが自殺願望者やったやなんて。逃げんのは構へんけど、逃げ続けたらあかん。増してや死ぬなんて……有り得へん」
 気分悪いわぁと落ち込んだ様子で杏が呟くと、ふわりと鼻先を何かいい香りが掠めた。ジャスパーはん? と杏が思わず顔を上げると、呼ばれマシタと言いながら白闇の後ろからジャスパーが顔を出した。
 皆さんお元気ないデスねーと気楽な様子で評価したジャスパーは、そんな時は花がいいデスと笑顔になってぽんと大きな花束を何もない空間から取り出した。
「花はええけど……、堪忍。今はそんな気分ちゃうわ」
「私も然り、だな」
 さすがに呑気すぎるだろうと白闇が目を細めると、死んでないデスヨ? と何かのついでみたいにジャスパーが首を傾げながら言った。
「何が死んでいないんだ?」
「ヌシサマさんデス。死んでないデスヨね?」
 ねーと気安くジャスパーが同意を求めた先はディーファで、白闇が思わず杏と一緒に身を乗り出させると報告が遅れて申し訳ありませんと謝罪された。
「ほんまに!? ほんまに旦那はん死んではらへんの!?」
「ムシノイキですけどネー」
「ええ、辛うじて、という話なのですが。香玖耶さんと空間処理をさせて頂いた時、向こう側からも干渉する力を感じたんです。解析したところ、その力のパターンはあのオズ様であろうと思われます」
 まだ生きておられるようですとディーファが頷くと、杏は何やしぶといお人やなぁと皮肉を口にしながらもほっとしたように笑って座り直した。白闇はけれど愁眉を解くことができず、辛うじてなんだろう? と聞き返していた。
「辛うじてデスねー。もういつ死んでもおかしくないデスヨ? 日に日に存在感は薄れてマスしネー。でもまだ生きてマス」
 後は他の人のお仕事デスよねと言いながら杏に花束を渡したジャスパーは、ドロシーさんの役目じゃないデスか? と尋ねて、目を瞬かせた杏からそうかと同意を得ている。
「それを案山子様にお伝えするかどうかも、ドロシー様にお任せしてよいのでしょうか」
「いいだろう。どうせ私たちは、彼らにとって余所者だからな。彼ら自身で決着をつけるのが一番に決まっている」
「せやんね! ドロシーはんかて起きはってんたら旦那はんのこと放っておけへんかもしれんし。……あれ、そういうたら預かり物てどうしたっけ?」
「カグヤさんが持ってるデスねー」
 多分とジャスパーが答えたそれで、ディーファがそういえばとポケットを探った。
「先ほど香玖耶様から渡された物が」
 案山子様にお渡しくださいと言われたのですがとディーファがそれを取り出したところを目掛けて、近くの植木からざっと飛び出てきた影があった。
 特に危ない物という認識はなく全員が視線を向けると、柔らかな青灰の毛並みをした猫はディーファの手からそれを奪い取るようにして咥えると、そのままたっと走り去った。
「っ、瑠璃はん!?」
「え、ライオンの猫さんですか?」
 杏とジャスパーがほぼ同時に驚いた声を上げたが、その頃には猫の姿はとっくに目視できないところまで離れていた。
「香玖耶様の預かり物が……」
 呆然とディーファが呟いたそれで杏は何事なんと眉を顰めた。
「預かり物は一緒に持てへんて言うてたのに……。それともドロシーはんが起きはったから大丈夫なんやろか。ドロシーはんに頼まれて取りに来たとか?」
 それにしても水臭いと拗ねたように杏が呟き、事情が分からない白闇はディーファと顔を見合わせて二人に向き直る。
「それで、今の猫は追わなくていいのか?」
 尋ねるなり、もっと早く言うデスよー! とジャスパーまでが抗議してきたが、知るかと切り捨てて白闇はまだ立ったままのディーファに席を勧めた。
「とりあえず私たちが受けた依頼は、終了ということで構わないだろう。お疲れ」
「……気になることはまだありますが……、そうですね。お疲れ様でした」
 晴れやかと呼ぶには物憂げだが少年めいた笑顔になったディーファに、白闇も微かに口許を緩めてそっと息を吐いた。

クリエイターコメントものすごくぎりぎりまでかかってこの長さ、しかもこの終わり方。色々としたい言い訳もございますが、本人は至って楽しく(内容にはそぐわない感想ですが)、頭を捻りつつも纏められたという安堵で今は一杯です。

素敵なプレイングを頂きまして、あれもこれもと繋ぎ合わせるとこのような結果になったわけですが、最初に自分で思い描いていた結末よりは救いがある形になったかな? と思います。……これでも(苦笑)。

ただまだ幾らかぼやかしているところはありますので、最後になるといいなという希望は儚く潰えたような? もしかしたら黒男自身からではないでしょうが、その絡みでもう一回ほどお付き合い頂くことになるかもしれません。
しつこくて大変申し訳ないですが、その際はまたお力添え頂けますと幸いです。

それでは、今回も素敵なプレイングの数々をありがとうございました。相変わらず長くなりすぎましたこと、ひどくぎりぎりの納品になったことを重ねてお詫びしつつ、ありがとうございました!
公開日時2008-11-03(月) 10:00
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