|
|
|
|
<ノベル>
F-1出口付近。
地下街の壁に設置された広告用スペースではポスターの中では、女性の唇がキラキラと輝いていた。
「あ。新色、出たんだ」
香玖耶は歩きながら、新作ルージュの名前が洒落た飾り文字で綴られているのを目で追った。
彼女の銀色の長髪と耳元の紅い石のイヤリングが足音に合わせて揺れている。
黒のタイトミニとロングブーツ。エナメルの黒いジャケットを羽織ったその胸元ではロザリオが光っていた。
トラブル・バスターとして受けた依頼の帰り道だ。
地下街に漂う何処か気だるげな空気にあてられて、小さく欠伸をする。
帰ったら、シャワーを浴びて眠るだけだ。夕飯は依頼人にご馳走になってしまった。
立ち止まる。
妙な圧迫感。
自然と後ろ腰にセットしてある鞭に手が伸びた。ホルダーの止め具を指で弾き外す。
そして、香玖耶は心の中でそっと「夕御飯貰っといて良かった」と呟いた。
大通り広場。
T-06が酔いに酔っ払って通路端で伸びているサラリーマンを興味深く覗き込んでいると、その光景を見つけた少女が叫んだ。
「あの人食べられちゃう!!」
「いや、大丈夫だって。あれ、タローだろ? 動物園とこの」
と、少女の隣に立つ少年がぺしと柔らかく突っ込みを入れる。
「え? なに? タロー? なんでそんなラブリーな名前なわけ? あれ」
「いや、実際結構ラブリーだと思うんだけど」
「う、うそー、超クリーチャーじゃん」
「まあ、そうなんだけどさぁ」
という会話が後方で繰り広げられるだけあって、T-06の外見というのは一言で言えばエイリアン、つまり、爬虫類と昆虫類の掛け合わせのようなそれだ。
ただし、首からぶら下げたスケッチブックには『無害』と大きく書かれている。
しかも、猫背に折った1m程の体を酔いどれサラリーマンに撫でられて長い尾を揺らしている。
「……か、可愛いかも」
「あの首のスケッチブックで会話も出来るんだぜ? こう、よたよたの字で、まぁま、だいすき、とか書くんよ」
「し、辛抱たまらん! あたしちょっと一撫で行ってくる!!」
と、少女が駆け寄ろうとするのと同時程、タローの尾の揺れがキチリと止まる。
駆けてくる少女の足音の所為ではない。
空気が変わったのだ。ニンゲン達が気付かないほど密やかに。
この違和感はとても大切なものだ。
最優先事項を厳守する為。
タローは地下街の出口へ向かって駆け出す。
「あ……あー、逃げちゃった……」
「おまえ、そんな欲望丸出しで近づくから」
がっくりと肩を落とした彼女の後ろで、少年がからかう様に言った。
「だってさー」
と振り向いた彼女の前で笑う少年の体は、一分後に桜の花びらと化す。
F-3出口付近。
立ち止まって、霧生は目を細めた。
黒髪の高校生風の少年だが、その足運びと目付きは歳に似合わぬほど落ち着いている。
霧生が立ち止まった事に気付いて、隣を歩いていた男も立ち止まる。
こちらの男、襷(たすき)を頭に巻きつけている。
現代に見合わない格好は頭の襷だけじゃない。全体もって旧時代的な格好をしている。
さっぱりと気の優しそうな大学生位の風貌に、着崩れ気味の緋色の中へ黒の着物を合わせ重着、飛脚のような黒五分ズボンを穿き、手甲と足紐を結わえている。
「どうしたっすか? ご主人」
襷頭の青年が、ふいに立ち止まった霧生の方を不思議そうに見遣る。
霧生の視線が、すぅと流れる。
何かを伺うように視線をゆっくりと地下街の風景に這わせながら、霧生は顎に手を掛けた。
「おまえは大したヤツだな、ネコオ」
集中している様子とは裏腹に、口ぶりは感心半分からかい半分といった面持ちを持つ。
ネコオと呼ばれた青年が、一瞬「そうっすかねぇ」と相貌を崩しかけ
「って、名前で呼んでくださいよ! 褒める時ぐらいせめて!」
全力をもって抗議の声を上げる。
彼の今の名は玉稜と云うのだが、中々その名で呼んでもらえた試しが無い。大切にしたい名前だというのに、全く、この外見若い主人ときたら。
「そんな事より」とスッパリこちらの抗議を切り捨てて、主人は続ける。
「さっきおまえ、今日の運は使い果たしたと言っていたな?」
「え……言ったような言わなかったような」
玉稜の方は何のこっちゃかサッパリ解らず、頬を指先で掻きながら先刻の事を思い返す。
さっき、500円玉を道端の溝に落っことしかけ、無事に救出した際に口走ったような気がする。今思えば、運を安くし過ぎた感は否めない。
「で、こっちの道で帰ろうと言い出したのも、おまえだ」
「……はぁ?」
確かに地下街が珍しくて、こちらの方の道へと誘ったのは玉稜の方だ。だから、何。玉稜は首を傾げた。
「おまえの勘を褒めてるんだ」
蛍光灯の瞬き。
玉稜の頭の隅がピリと痺れる。この感覚は……
「構えろ、来るぞ」
主人の声に四肢への緊張感が変わる。襷を取って耳をさらしながら低く姿勢を取れば、小さな震えが体の表面を走る。
――主人の背後だ。
霧生が、すっと体を退かした先へと、玉稜が体を捻りながら片手を投げ出す。伸ばされた手からザンと伸びる爪。
「鬼、か」
玉稜の爪に引き裂かれ、壁に散らかされたそれを見遣り、霧生が呟く。その主人の言葉を耳に、玉稜はあからさまに顔を顰めた。
「う……また、鬼っすか」
「どうも、俺達は鬼と縁があるらしいぜ? なあ、ネコオ」
主人がにまりと薄く笑いながら言った戯言に、玉稜はぶるぶると嫌そうに全力で頭を振った。
A-1出口付近。
左耳の中に先程まで流れていたのは古いジャズだった。
今は代わりに砂を降らす様なノイズが溢れている。
青い髪を揺らして、青年の振り上げた銃先が小鬼の爪を腕ごと弾き上げる。
もう一方の手に握られた銃口が小鬼の目玉に擦り付けられ、爆ぜる銃声。
そのまま、体を開く様に片腕を逆サイドへと振り回し、飛び掛かってきた小鬼を撃つ。
足裏を床に滑らせると同時に体を折り込む、その上、彼の上半身の残像を裂くように小鬼が三匹過ぎる。
二つの銃口が二匹を撃ち落とし、彼の体から生えるトカゲの尻尾が空中に残った一匹を壁の方へと叩き飛ばした。
それが壁を跳ねて床に落ちるまでの間に、銃声二つ。後方の一匹と前方2時方向の一匹の小鬼が倒れる。
そして、彼が体を起こしながら空の弾装を二つ床に落とす、と同時に小鬼の体が床にバウンドした。
よれよれのパーカーのポケットに銃を突っ込み、小鬼の方へとツカツカ近づいていく。
背中から刀を取り出し。
トン。
小鬼に突き立てた刃を手早く引き抜き、彼は辺りを見回した。
そして、彼――ソルファの眉根が少しばかり寄る。
床に転がる小鬼の死体の数が明らかに少ない。
と感じている間に最初に仕留めた方の死体が、スゥと地下街の冷えた風景に溶けて消えた。
ソルファの表情が、むぅと不機嫌げに顰められた。何か解せない。
パーカーのポケットに両手を突っ込み、銃二丁と弾装二つを指に絡ませるように取り出して、それを体前で交錯させるように装填する。
刹那、通路の折れた先で悲鳴が上がる。そいつを合図に床を蹴る。
立ち並ぶショップのシャッター郡を駆け抜け、曲がり角に転がり出て、通路の状況を視認。
床に這い蹲ったOL風の女性、小鬼が一つ二つ、それより大きい2m程の体躯をした人間大の鬼が一つ、更に奥、同じようにこの通路へ飛び出してきた男。
男と目が合う。黒房を交えた白髪、白い肌、金色の眼、感情の見当たらない顔面の半分を覆う爛れ、そして、手元にはサブマシンガン。 手に持っているというよりは、手首から生えている様に見えるが。とりあえず、今はそれくらいと、男の銃口が何処へ向けられているかだけを確認する。
銃声は女性を挟んで両側から鳴った。
小鬼二匹の体が白髪男側へとすっ飛び、鬼が弾丸の雨に叩かれてこちら側に飛ばされてくる。
駆けたソルファの体が叩き飛ばされてきた鬼の背中側へと潜り込み、鬼の後頭部と背首を至近距離で撃ち砕いた。体を回転させて尻尾で、その屍を叩き除ける。
開けた視界の向こう、小鬼達の首は白髪男の腕から生えた日本刀に因って飛んでいた。
やがて、銃声の反響も消え、耳に静かな空間が返る。
床を這う女性が嗚咽を漏らしながら、ずるずると壁の方へと、縋る様にグチャグチャの髪の毛を引き摺っている。
「……状況ヲ知りたイ」
言ったのは白髪男――ミサギ・スミハラ。
腕から生やしていた日本刀とサブマシンガンが、ずるんっと腕に飲み込まれる。彼は、肉体をゲル状化させて様々なモノを己に取り込み、同化させる。無機物から生物までも。
ミサギの言葉に、ソルファは肩を竦めながら首を振って、女性の方へと駆け寄った。彼女の傍にしゃがみ込み、怪我の有無を確かめる。
ソルファの様子を一瞥し、ミサギは目玉を転がして周囲を見回した。そして、気付く。
「まタ死体が、消えタ」
彼の呟きが終わるか終わらないかの内に、虚空に気配が産まれ――
しかし、生み出された小鬼は、焦点の定まらぬ内に機能を失う。
ソルファとミサギの手に銃。銃口から硝煙が上がっている。
「増殖してイる? ちガウ、これハ」
「な……何匹殺したって無駄よ……ッ」
ソルファの肩に縋りつく女が、震える声を搾り出す。
「これは……鬼遊び」
F-1出口付近。
「これで、とりあえず最後、かしら」
香玖耶が鞭を振いながら言う。
「そうっすね、もうここらのは、あらか――」
唐突に湧き出た小鬼の顔面に驚いて、玉稜の言葉の半分が音にならない悲鳴となった。
「だぁ!!もぅ!!」
玉稜の爪が小鬼を裂いて、とりあえずこの場は静けさを取り戻した。
「片付いたわね。キミ達が居てくれて助かったわ、さすがにこの人数をあたし一人で守るのは骨が折れたもの」
言って、香玖耶は鬼に怯える人々の方へ視線を向けた。
「俺達もっす。っても、油断大敵っすけどね」
はぁ、と玉稜が溜息を零す。
「そうね、どっか安全な場所を確保しないと、落ち着いて話も聞けなそう」
顎に指先をあてながら香玖耶が軽く片眉を顰めた。
助けた人たちの中に、このムービーハザードの元となる映画を知っている人が居る。
その人から詳しく話を聞かないと、閉じ込められたこの状況では対策の立てようが無い。
「それを今から作る」
霧生がコツン、と通路に並ぶシャッターの一つを叩く。
「ドラッグストアっすか」
「中々広そうだからな。まだ無事な人間が他にも居るだろうし、怪我人が出た時に都合も良い」
「ここに皆で隠れるの?」
香玖耶がシャッターの上にでかでかと書かれているチェーンドラッグストアの名前を、心中で読み上げる。
「とりあえず、シャッターが邪魔だな。ネコオ。そこ、と、そこ、と、そこ」
霧生がシャッターを指差し、す、す、すと指先を滑らせながら云う。
「了解っす」
玉稜が己の爪を伸ばす。三つ。金属的な音が霧生の指示した位置で鳴って、カラっとシャッターが僅かに上がった。
「ネコオ君、やるー」
「玉稜っす!! ネコオじゃなくて、ぎょ、く、りょ、う!」
わりと必死げな玉稜を目の前に、香玖耶がきょとんとして、霧生の方を見る。
そして、彼女はやんわりと首を傾げた。
「だって……こっちの子が、キミの事を」
「喧しいぞ、ネコオ」
「ご主人がそーーだから、いけないんっすよー!!」
「おまえなんざネコオで十分だ。そんな事より早くそこの連中を中へ避難させろ。俺は香を焚く」
にべもなく言い放って、霧生はさっさとシャッターを引き上げた隙間からドラッグストアへと入っていってしまった。
あうあうと言い返す言葉を失った玉稜がしょげっと頭を垂れたので、香玖耶は、なんとなくその頭をぽんぽんと叩いた。
玉稜の耳がひるっと揺れたのがちょっと可愛い。
「ともかく皆に中に入ってもらわないと?」
「は、そうっす!皆、中に入るっすよー。大丈夫。ご主人の結界は一級品っすから。俺が保障するっす」
玉稜が気を取り直して一般人達をドラッグストアの中へと誘導する。
ドラッグストアの中には香の不思議な匂いが膨らんでいた。
「結界って、そのお香のことかしら」
店内に入った香玖耶が問い掛ける。
「補助的な魔除けで使っている、退魔香の一つだ。材料と調合は企業秘密」
「残念。でも、ひとまず鬼ごっこから開放されるのは有り難いわね」
香玖耶はにこりと微笑むと、不安そうに身を寄せ合う人々の方へ振り返る。
「で、その鬼遊びって映画について、知っている事を教えてください。まずは現状を知りたいの」
■
通気口の格子がひしゃげて床に落ちている。
そこから連なるダクトのずっと先の先の暗がり。
幾度にも折れ曲がり、幾つもの分岐点を経た先。
T-06の長い尻尾が踊る。
T-06は4回目の脱出を試みた後、悟っていた。
自分達が抜け出す事の出来ない閉鎖空間に閉じ込められたという事を。
脅威に対する対応を変えなければいけない。
受変電室の天井にある通気口の四角い格子が、鋭い衝撃を受けて床へと落下する。
次いで、その四角い穴からT-06が天井へと伝い出た。
逆さまに受変電室内部を観察し、構造を確認する。
限られた空間で逃げ回るだけでは、やがて狩られる。
それは決して許されない。
生き延びる為には狩る側に成らなければいけない。
考え得る最も安全な方法を持って。
そのために、T-06はここへ来た。
T-06には光に溢れた世界も、真の黒で覆われた暗闇も関係が無い。
闇に紛れ、一つ、一つ、排除するのだ。
そうして全てを刈り取る。全て。一つ残らず、脅威を排除する。
(『総ては我等女王陛下の為』)
鋭く尖った尾の先が電源ケーブルを断つ。
■鬼遊び■
明かりが、消えた。
明かりという明かりが一斉に死んだ。
暗闇だ。
突然の事だったのに、ここでは誰も悲鳴を上げなかった。息を飲み、皆ただ身を硬くして怯えた。
真っ暗闇の中、ミサギはそういった気配を肌で感じる。
やがて、青白い光が幾つもの水槽の中にポツポツと戻り、仄かな明かりが皆の顔をぼんやりと照らし出す。
ミサギは熱帯魚ショップに身を潜めていた。幾人かの一般人とソルファと。
コトコトと泡立つポンプの音。
水槽の中を我関せずと泳ぐ魚を見る。
「メ、メインの電源に何かトラブルがあったんだろう……うちは、こういう時に備えて、予備電源を全部水槽に回してるんだ」
気を紛らわすように、この店の主人だという男が誰にともなく説明した。うん、とも、すん、とも、それに返す言葉はない。
「もうすぐ、1時……」
代わりに、そんな言葉を誰かが言った。
停電が起きる直前まで、『鬼遊び』という映画の内容を聞いていた。
それで、状況は判った。
何の事はない、後3時間程身を潜めていれば良いのだ。
ミサギは、床に座り込んだ体勢で片膝を立て、背を丸めながらそれを抱いた。
こういう状況は慣れている。暗い部屋。訪れる時間を待つ。隙間に漂う死の匂い。
温度の無い視線の先、淡く青白い光の中をソルファがすいすいと歩いて、カウンターの方へ行く。
そして、カウンターの内側の棚をごそごそと何か探し始めた。
「あ、あのぅ、どうしました?」
店主の男が問い掛けると、ひょっこりとカウンターから顔を出し
「懐中電灯」
一言。
「ああ、はい、はい、ありますよ」
店主が他の人間の爪先につっかけながら、カウンターの方へと行って懐中電灯を取り出し、ソルファへ渡した。
それを点け、周囲に軽く振って照らせる大きさを確認しながらソルファは問い掛ける。
「地下街の地図」
「ええ、ええ、あります」
カウンターの後ろの棚に仕舞いこまれていた地図が渡される。
ソルファは地図を受け取り、それにペンで何かを書き入れてからパーカーのポケットへと仕舞った。
「鬼遊びについて、他に知っていることは?」
そこに居る全員に視線を送るが、返事は無い。
数秒ばかり反応を待ってから、ソルファはカウンターの裏を通って、従業員用の出入り口へと向かう。
「俺が出たら鍵を閉めるんだ」
後ろに付いて来た店主へ確認をし、扉に耳を当てる。外に鬼の気配は無い。
「あ、ああんた、もしかして、鳥居を探しに行くのか?」
ソルファは店主の言葉に頷いて、従業員用の扉を僅かに開き、その隙間からスルリと通路の方へと抜け出していった。
店主は、言われた通りに扉の鍵を閉め、店内へと帰る。
そうして、店内には再び静寂が戻った。
音の無い青さの中をキラリひらりと魚が滑っている。
誰も喋らなかった。
息を潜め、青白い光のお零れすら届かない暗がりへと、身を押し込んで、小さな音に耳を澄ましている。
水の泡立つ音に混じって、幾つもの鼓動が聞こえる様だった。
その内、何処か遠くで破壊音が聞こえる。
また違った方から銃声や叫び声。
そうして幾ばくかの時が過ぎ去ると、また静寂が訪れる。
堪えきれない様に嗚咽が漏れた。女が一人泣いている。
髪の毛をクシャクシャにしたOL風の女だ。
ミサギは閉じていた瞼を薄く開いて、泣き声の方を見遣った。
女は唇を片手で握りながら、嗚咽で漏れる音を必死に防ごうとしている。
その目からぼろぼろと零れる涙で、化粧は酷く崩壊していた。
「……怖イ?」
イントネーションの狂った抑揚の無いミサギの声が零れる。
女が、こちらをはっと見上げた。髪と髪の間から見える眼が青白い光を受けてとろりと光っている。
「ちが……違う、の」
ミサギは言葉を待つ。
女は整わない肺の震え全身の筋肉で抑え込もうとしながら続ける。
「か、かれ、彼、鬼に、ころ……殺され、ちゃった、から…このまま、彼が、かえっ、帰ってこなかったら、どうしよう、って思っ」
午前4時までに誰も鳥居を通らなければ、その『彼』の死は確定する。
「わたっ、私、まだ、彼に、なにも、言ってない……どうしよう、なにも、まだ伝えてない、帰ってこなかったら、どうしよう、嫌、どうしよう、探さなきゃ、鳥居、私」
「その足でハ、無理ダ」
とうとうボロボロに泣く彼女の足は鬼に襲われた時に怪我を負っている。
ミサギが己の白髪頭を緩くグシャリと掴む。
そうか。会って、伝えたい事があるんだ。
名前。
名前?
何の名前。
頭蓋の隅で一瞬だけ瞬いたフラッシュバック。
それは余韻だけ残して消えた。
「アンタは、こコニ居ろ」
ずるりと立ち上がりながら言う。
女の肩に己のジャケットを落とす。
「オレがアンタの代ワりに必ズ助ケル」
そうして、彼は従業員扉から暗闇の中へ出た。
暗闇の中に、ホツホツと赤く灯る非常灯が浮いていた。
暫く適当に歩を進めた彼の肩が小さく盛り上がって、そこに顔を出したライトが闇を照らす。
まずは情報が要る。本屋でも探すか。
ふと、己が人を救うために思案を巡らせている事に皮肉なものを感じた。
余りに多くを殺してきたこの身で、今度は人の命を拾い出そうという。
なんだか馬鹿馬鹿しい。
しかし、そうしたいと思った。何故だかは知らない。
救えたら、何か判るのだろうか。
頭の端では、あの微かなフラッシュバックの余韻が漂っていた。
■
真っ暗な中でチンチンと鳴っている。
それは軽薄な音だった。薄っぺらいアルミが小さく打ち鳴らされている音。そんな音が、とても楽しそうに踊っている。
暗闇の中で獲物の気配を探っていた小鬼が四匹、その音に気付き、誘われるように破壊されたシャッターの中へと入っていく。
鬱蒼と商品の陳列される店舗は散らかっていた。
奥の床に非常灯の僅かな明かりを受けて、ちらちらと揺らいで動いているものがある。
一匹がそれに近寄る。
それは猿の玩具だった。
スイッチを入れれば、小ぶりのシンバルを陽気に打ち鳴らすタイプの玩具だ。
小鬼が蹴り飛ばすと、それは陳列棚の端に当って壊れた。
動く事の無い猿の首が床に転がる。
そして、その小鬼が仲間達の方へ振り返り――飛び退った。
一番後ろの小鬼頭が、ずり、と裂けて倒れたからだ。
他の二匹も仲間の異常に気付き、ヒステリックに周囲を見渡す。闇、闇、闇。
唐突に機械的な笑い声が様々な所から上がった。その陽気な声に翻弄されて、小鬼達が暴れ回る。
ぬいぐるみの綿、パズル、列車、ボール、様々な物が散らかされても随所の笑い声は収まらない。
その音の間を縫う様に、何者かが駆けずり回る音がある。
何時の間にか、大きな白熊のぬいぐるみを切り裂いていた小鬼の姿が消えていた。
その事に、残りの二匹が気付いた時には遅かった。ぼとり、と二匹の間に落ちてくる小鬼の屍骸。
それに気を取られた小鬼の背後で、T-06の尾は振り上げられ、次の瞬間に三匹目の小鬼を屠る。
そして、またT-06の姿は闇の中へと潜り込む。
笑い声がホツホツと途切れて消えていく。
闇の中を駆けずり廻る狩人の足音も聞こえない。
隙を伺う様にしていた小鬼が、この場所は不利だと判断したのか、出口の方へと身を転じる。が、そちらへ向かう事はできなかった。
その眼前には天井から、ぽとりと降りてきたT-06の顔があった。
まるで玩具の様に顔を揺らげながら口を開き、剥き出しの歯の奥から無機質な音を立てている。
表情の無い、目玉すら無い顔が、小鬼を見ている。
風を切る音は尻尾のしなる音。
四匹目。
一つの狩りを終えて、T-06は再び天井へと身を翻し、闇の中を疾走する。
全ての脅威を排除する為に。
「鬼に鳥居ときて、連想できるのは鬼門だな」
言ったのは霧生だ。香炉の灰に細い2対の火箸で複雑な文様の箸目を綴っている。
ドラッグストアの中を不思議な香りが満たしていた。
「キモン?」
懐中電灯を顔の下から照らしつつ玉稜が問う。
「キモンって、あの風水なんかで言う鬼門のこと?」
玉稜と同じ様に香玖耶も懐中電灯で己の顔を下から照らしている。
そんな二人の様子を見遣り、霧生は片眉を軽く曲げてから頷いた。
「そう、丑寅の方角、鬼の行きて帰る場所だ。概ね風水や陰陽道で云われる四門の一つ。すなわち、西北、東南、南西、東北をそれぞれ天門、地門、人門、鬼門としたところのそれだ。思想の違いなんかによって意味合いは変わるものだが、乱暴に括って言ってしまえば、この人門、鬼門は陰陽の交わる所から領域の境目を司る。特に鬼門は彼世の領域、鬼の通り道とされるわけだ」
「すると東北の方角に鳥居が出現しているのかしら?」
「さあな。さっき言ったのはあくまで大雑把なイメージだし、諸説紛々ある。鬼門封じとして神社鳥居を東北に置く場合もあるとはいえ……この映画の製作者とやらが、どんな取り入れ方をしているかが判らん限りは、そうだと言い切る事はできん」
「こむずかしいっす……ええと、鬼門。鬼門っすよね。じゃあ、あれっすかね。鬼のまたぐらを、こう、くぐり抜けたら、良かったり?」
「なるほどな……よし、ネコオ」
「はいっす」
「両手を挙げろ」
霧生が真剣な表情で玉稜に命ずる。
「了解っす!」
「そのまま、腰を八の字に振りながら、タコタコ眼鏡、と言うんだ。急げ」
「りょ、了解っす!」
言われた通りに腰を八の字に振りつつ、「タコタコ眼鏡ー!」と元気の良い声を放つ。
「おまえはずっとそうしていればいい」
「酷いっすッッ!!」
「で、馬鹿は放っておくとしてだ」
虐待っすー!と喚くネコオを袖にしつつ、霧生は香玖耶に向き直る。
「ええと……とりあえず、玉稜君への対応については、スルーしていいのかしら?」
「時間が惜しい。で、さっきの続きだが、製作者の意図を探る事が出来れば、その点については、もう少し確定的な所まで踏み込めると思う」
「うーん……」
香玖耶が、ここに居る一般人の中で唯一、映画を観た事があるという女性へと視線を向ける。
「他に、何か……映画で印象的だったこと、ないかしら? 鳥居に関する事以外でも構わないのだけど」
問われて、女性が悩む様に顔を俯かせ……暫くして、あ、と顔を上げた。
「鬼さんこちら」
「手の鳴る方へ?」
なんとなく続けてしまいながら、香玖耶は首を傾げる。
「あの、後編の予告が少しだけあって……そこで流れたその台詞が耳に残ってたので……す、すいません。これくらいしか思い出せることが、なくて」
「ううん、ありがとう」
申し訳なさそうに萎縮する女性に、香玖耶がにこりと笑みを傾ける。
「そうしたら、後は行動あるのみかなっと」
「行くのか?」
「まだ生き残っている人たちがいるかもしれないし、色々と確かめたい事もあるの。情報は待っていても来ない。あなたは?」
「俺はここで結界の維持をしている。そも、荒事向きじゃなくてな。ネコオともう一匹を放って、とりあえず此処に待機だ。生き残りの回収はネコオにやらせよう」
「それじゃあ、あたしが派手に動き回って鬼を引き付けた方が良いわね」
「大丈夫か?」
「大丈夫。職業柄慣れてるのよ。こういった所での立ち回りは、特にね。それに奥の手もちゃんとあるのよ」
「コレを持っていけ」
ぽん、と何かを投げ渡される。
「っと、これ……香?」
「退魔の香だ。いざという時があれば使え。一応魔避けになるし、おっちょこちょいで役に立つか分からんやつが助けに来る事があるかもしれんぜ。鼻だけは効く」
そういって、にやり、と笑う霧生と隅でふにふにいじけている玉稜を交互に見遣って、香玖耶は笑った。
「なるほど、ね。じゃあ、有り難く頂戴するわ」
言い残して香玖耶はドラッグストアのシャッターの隙間から外へと出て行った。
さて、と霧生が先程から隅でいじけている玉稜の方へと振り返る。
「いつまでそうしてるつもりだ」
「う、あ、すいませんっす! タコタコ眼鏡ー」
「それはもういい。おまえは、取り残されてる連中が居ないか確認しながら、この地下街を廻れ。俺も氷魚を出す。手分けしろ」
「見つけたら、ここを案内すれば良いっすね?」
「そうだ。救助を主にしながら、場の特異な所を探せ。特にさっき言った四方を重点的に探って来い。当然、鳥居を見つけたら潜れ。さっきの女が鬼どもを引き付けてくれるとはいえ、油断はするなよ」
「了解っす。ご主人も気を付けて」
「俺の身が危うくなる二手前には帰って来い。行け」
主人の言葉が終わるのをキッチリと待ってから、玉稜は外へと飛び出していった。
玉稜の出て行った後、霧生は「行ってこい」と心中で命ずる。
霧生の周りを漂っていた魚が、ふわり、と霧生の傍を離れて結界の外へと飲み込まれていった。
シャッターをチンと閉じる。
後は結界を維持し、身を潜めながら情報を待つしかない。
「これぞ、隠れ鬼か」
霧生は戯いて、小さく笑った。
■
T-06はそのボンベに書かれた文字に見覚えがあった。
確か、プロパンガスというのは大変危険なものであったと思う。
衝撃などによる爆発事故、そんな映像を何処かで見かけたTVでやっていた。
それともう一つ。
T-06は、鬼達の動きが格段に変わっていっている事に気付いた。
僅かながら組織だった動きを見せ始めている。
先程までそんな素振りを見せる鬼は居なかった。
烏合の衆として襲い掛かってきていたものが、時間の経過と共に性質を高めているらしい。
だがしかし、T-06にとって、それは脅威になり得ない。
むしろ、先程より狩り易い。
何故なら、自分達がそういった存在だからだ。俄か仕込みの奴等とは違う。
こちらは本能が、集団の性質を知っている。
幼い彼らの行動が手に取る様に判る。
焼き鳥屋へとT-06を追い込んだつもりの小鬼達が、仲間を集めて、今、突入しようとしている。
T-06は、その光景を通路の天井の排気口から見ていた。尾をゆっくりと揺らげながら。
その尾の先が、足元に伸びるケーブルに、やんわりと触れては離れる。
ケーブルは天井裏からダクトへと引き出されていた。
そうして、それは焼き鳥屋の調理場の排気口へと伸びている。
排気口にはプロパンガスのボンベが仕掛けられており、ケーブルを切断すれば、それが落下するようになっていた。
鬼達が、獲物を追い込んだ筈の焼き鳥屋へと一斉に侵入する。尾がゆっくりと揺らぐ。
そして、鬼達が一匹残らず焼き鳥屋へ入るのを確認した瞬間、T-06は尾の先でケーブルを切断した。
ボンベの重みに従い、千切られたケーブルがシュルシュルと勢いよく排気口へと飲み込まれていく。
暗闇の中、勢い付いて落下するボンベに小鬼達が切り掛かる。
爆発が店内の全てを飲み込んだ。
ソルファが遠くの爆発音を聞いたのは少し前の事だ。
今は深い静寂の中、ポリ、という音と自分の足音が、淀んだ空気と闇の中に細く響いて消えていく。
ソルファは、傾けた頬と肩で懐中電灯を支えながら、地図を照らして歩いていた。
さしあたって鳥居の在りそうな場所は地図に見当たらない。
ポリ、と生人参を齧る。
鳥居は神道のシンボルのようなものだし、何か祀っている場所……云々。
鬼に聞けるとすれば、それが一番手っ取り早い気がする。しかし、果たして言葉が話せるのかどうか。
と、都合良く頭上に気配。
ソルファは片手に持っていた齧り掛けの人参を、天井の気配に向かって放り投げた。
何かが飛び退った音と、コンクリートに人参が当る音。
避けられたらしい。
そして、人参を避けた何かが、傍の床にタッと降り立った気配。
ソルファは、懐中電灯をそちらへと向けながら、もう一方の手をパーカーに突っ込む。
銃をパーカーから取り出し掛け、ソルファの動きが止まった。
懐中電灯の明かりの中にぽっかりと照らし出されたのは、黒い光沢を持った硬質な頭部だった。
カターン、と床に落ちる銃。
彼の視線の先で、T-06が逃亡を図るために足に力を込めた瞬間。
両手を広げたソルファが、T-06へと襲い掛かる。
逃れきれず、T-06の体はその両手にしっかりとホールドされてしまった。
そして、両者の攻防は静かに続く。
逃れようと身を捩るT-06に対して、頬ずりをするソルファ。
相手を怯ませようと頭をがじがじ齧るT-06に対して、頬ずりをするソルファ。
大変わけが判らない。
混乱したT-06の頭に、ロケーションエリアの展開、という選択肢が浮かぶ。
が、同時にT-06の脳裏に飼育員のお兄さんの顔が現れた。
『タロー……絶対にその力は使っちゃだめだよ。駄目、ほんと、お願い』
青い青い顔の必死の語りかけを思い出して、T-06はロケーションエリアを使う事を取り止めた。
と、ソルファの意識がT-06から逸れた。闇の中に一匹の小鬼を発見したからだ。
T-06を拘束する手が緩む。
T-06は、その隙にソルファの腕の中からするりと抜け出して、床を蹴り、天井へと張り付いた。
そして、天井をサカサカと這って、排気口からダクトへと身を潜り込ませていってしまった。
一方。
ソルファの方は、幸せな時を邪魔した小鬼に対して、たいそう冷ややかな視線を送っていた。頭から血をたるたる流しながら。
刹那、飛び掛ってきた鬼。その爪を逃れて、バク転。
床に落としていた銃を拾い上げ、二回引き金を引く。
小鬼は、腕と足とに弾丸を撃ち込まれ床に転がった。
その体をソルファの足が踏む。
「聞きたい事がある」
問われても小鬼は、何の反応も見せなかった。
やはり、言語を持たないのか。
舌打ちをして、鬼の体から足を退かす。
そして、ソルファはパーカーの袖で袖で顔面の血を拭いながら、動けない鬼を背に歩き出す
イヤフォンが顔を拭う手に引っかかって外れ、左耳に久しぶりの静寂が訪れた。
そういえば、付けっぱなしのまま忘れていた。
ソルファはラジオのスイッチを消そうとズボンのポケットへ手を伸ばしかけ、やめる。
もう一度、イヤフォンを耳に付けてみる。
相変わらずの砂嵐。
いや。
その向こう、砂のカーテンの向こうに、僅かにベースラインが聞こえる。
■
香玖耶は大通りを探る様に歩いていた。
非常灯の灯りが赤黒く壁と、壁の傍の僅かな床を照らしている。
彼女の歩む大通りの中央にあるのは深い闇だ。
懐中電灯の明かりに照らされた部分だけがポッカリと白く照らし出されている。
シャン……、と聞こえる。
「鈴の音……?」
シャン……、と再び。
さっきより随分と近い。
ハ、と気付く。
(――マズイ)
カツ、と床を蹴って思いっきり横に飛び、カフェの窓ガラスを突き破る。
ガラスの割れるけたたましい音を、ゴォウという風圧が追う。
香玖耶は店内の床を転がって、すぐさま体を起こした。
体のあちこちに熱さを帯びた痛みを感じるが、自分の体はこれくらいなら放っておいても勝手に治る。
問題は、あっち。自分の体が立っていた場所に凄まじい勢いで飛んできた、アレ。
ガラスの割れた窓の向こうで、巨大な目玉がこちらを覗き込んでいる。
ず、と巨大な鬼の手が振りかざされたのが判る。
(壁ごと薙ぎ払うつもり!?)
即座にカフェの奥へと身を転じる。
轟音を立てて、鬼の手がカフェの壁を薙ぎ砕く。
粉塵の舞う中、香玖耶の体が淡く発光し、彼女の手に玉が浮かぶ。
詠唱している余裕は無い。精霊の真名だけを呼ぶ。
彼女の前に、ふっと炎が灯り、一瞬の後に吹きすさぶ様に燃え上がる。
契約に従って現れた火蜥蜴が、体を倍に膨らませ、鬼に向かって炎を吐き出した。
カフェの窓から大通りへと噴き出した炎が、圧し包んだ鬼の体を焼き尽くそうとする。
が、それは鬼の表面を焦がすに留まった。
「詠唱破棄で呼んだとはいえ……丈夫ね」
香玖耶は鬼が炎を振り払っている間に、瓦礫の隙間から大通りへと抜け出していた。
鬼の方を一瞥して様子を確認する。焼け焦げた表面がボコボコと泡立って驚異的なスピードで再生している。
香玖耶は、ひとまず倒してみる、という選択肢を頭から追い出した。
そして、鬼の意識がこちらから逸れている間に、精神への接触を試みる。
(……構造と機能があるだけ。感情は無い。再生の性質からなる死を介しての機能向上……これは、小鬼達の精神に触れた時と一緒ね。後は特に……いや、待って……この子だけ、自ら行動範囲を限定している? ルール?)
鬼が、ゆっくりとした動作でこちらに向き直るのが判る。
(……どうしようかな、他に探れそうな事もなさそうだし。出来れば隙を見て逃げたいところだけど)
騒ぎを聞きつけてか、通路の入り口から小鬼達が大通りへと姿を表しているのが見えた。
■
「こりゃまた、派手に……」
玉稜が、様々な物の焼け焦げた焼き鳥屋の中を伺いながら零した。ここであっただろう爆発の様を想像させる。
辺りには熱く煙る匂いが雑多に飛び交っていたが、用があるのは、その中に一つばかり混じる異質な場の匂いだ。
「やっぱり……ここも匂うには匂うんだけどなぁ」
玉稜はクンクンと床や虚空に鼻を寄せながら呟いた。ふにゃふにゃと曖昧な力場を探り当ててはみたものの。
(っても、力のある場所、というよりは、なんていうかな……食卓で言う所の白米よりお椀っていうか……)
どうにも巧い表現を自分の中で見つけられず、ぼりぼりと頭を掻いて悩んでいたが
「ま、いっか」
考える事にすぐ飽きた。
多分、ご主人にそのまんま伝えれば判ってもらえる。きっと。
一人頷いて、そこの場所の特徴だけ覚え、両手で床を叩き飛ばして猫の様に走り出す。
自分に課せられた使命は人命救助と情報収集だ。
既に、匂いを辿って隠れていた人間達を発見し、ドラッグストアまでの案内を氷魚に頼んだ。
ご主人手製の香を渡したから、ドラッグストアまでの道のりは大丈夫だろう。
で、問題は情報収集の方だ。
さっきの曖昧な感じの情報じゃなくて、主人を唸らせるものが欲しい、もっと、こう、ばしーんと決まる感じのが。
具体的に何、って考えると困る。なんか、映画のことが、わかるやつ、なんかなんかそんなの。
そんな事を考えたり、考えなかったりしながら、玉稜は軽やかに様々な店先を過ぎていく。
小鬼達の群れも幾つかあったが、良い塩梅に暗いものだから、さっさと間を抜けて抜き去ってしまう。
その内、あれ? と思う。
妙な気配が天井を走っている。
気になって、ぴょい、ぴょいと壁を蹴り飛びながら天井付近まで飛び上がった。
排気口の蓋の取れている所があって、そこの端に掴まる。
そして、すぃっと排気口の中に顔を入れてみる。
予備電源で回される空気の音の中、ダクトの奥を何かの足音がすたたたたと遠ざかっていくのが聞こえた。
「ネズミ……にしちゃデカイよな?」
うーん、と眉を寄せながら悩んだが、ダクトは狭すぎて自分の体じゃ入り込む事ができない。
「……天井かラ、人が生えテる」
声は下から聞こえた。びっくりして、着物の下の尻尾がピンと伸びた、のを掴まれた。
「ぎゃッッ!!」
思わず排気口の端から手を離してしまう。
ミサギの懐中電灯に照らし出されていた玉稜の尻がドシーンと床に落ちた。
「大丈夫カ?」
「った……たた、何するっすか、もぅ」
「スまなかっタ」
ミサギが玉稜の方へ片手を差し出す。
差し出された手に素直に応じながら、玉稜はミサギの方を見る。
ミサギのもう片方の手には映画雑誌が広げられていた。
玉稜が、ばしーん、と楽しそうに言い放ったので、ミサギは首を傾げる。
「アンタ、頭ハ打ってなイヨな?」
■
あのでかいのが暴れ回ってくれたおかげで、周囲の壁やシャッターが破壊されて随分と動きやすくなった。
香玖耶は、セールワゴンを鞭でひっくり返し、群がる小鬼達にCDをぶち巻きながらCDショップから隣接する店へと駆け抜ける。
ワンテンポ遅れて巨大な鬼の体躯がCDショップの内装をめちゃめちゃに押し潰した。
「同士討ちが怖くないってのも、ねぇ」
これで、ちまちまと邪魔だった小鬼は随分と減った。
逃げ出すのがさっきより楽になった……がしかし、あの巨体で中々素早いし、勘も良い。
(さて、どうしよっかなぁ)
何か使えるものはないかと店々を駆け抜けながら、店内にあるものを物色していく。
雑貨屋を過ぎ、スポーツ用品店を過ぎる。そして、アクセサリーショップを過ぎ、ない。
「あ」
何気なくショーケースへ向けた懐中電灯の明かりの中にあった物が目に留まる。
床を蹴る様に足を止めてショーケースの中にある物をよくよく確認する。
これは、もしや……
「やっぱり!! このシルバー、駅前のショップで半年待ちって言われたのに!」
たまらず声を上げた。
なんて、なんて、灯台元暗し! こんな所にあるなんて! 今度絶対に買いに来ようー、とウキウキして振り返れば、大鬼と目が合う。
「あ……あのね、すごく欲しかったの。それが、見つかって……ね?」
そんなことは。
鬼にはさっぱり関係が無かったので、問答無用でこちらを押し潰すべく突撃してくる。
「あああやっぱりー!」
鬼の体の隙間を縫って、大通りへと転がり出る。
「て、遊んでる暇はなくて! さっさと逃げなきゃ」
言葉通り、さっさと体を起こすと、香玖耶は半壊した雑貨屋を通って小通路の方へと曲がり込んだ。
それから路地から路地へと幾つか道を変えながら暫く走ったが、巧い具合に鬼の目を逃れたらしく、追ってくる気配は無い。
(やっぱり、あの範囲からは出られないのかしら……ルールに則らない限り)
と、考え事をしていたら十字路で誰かと衝突しそうになる。
「きゃっ!?」
寸での所で、お互い身をかわして衝突は避けられた。
衝突しそうだった相手の姿を見て、香玖耶は目を瞬いた。
「……頭、怪我してるの?」
香玖耶がそう問い掛けると、一筋つるりと顔面に血を垂らしたソルファが、なんとも切なげな表情をして、ほぅと溜息を漏らした。
■
「熱帯魚ショップに居た人に頼まれたっすね?」
「知ってルのか?」
「あそこに居た人らは、ばっちり結界の方へ案内したっす!」
玉稜とミサギの二人は暗闇通路を駆け抜けてドラッグストアの方へ向かっていた。
ミサギのライトが照らす光の中に鬼の集団が浮かび上がる。
「アンタ、耳がイいんだロ?」
ミサギが掲げた腕の先にヌルリとサブマシンガンが生える。
「へ?」
「塞いダ方がイイ」
言うが早いか、ミサギが前方にひしめいていた鬼の集団へとサブマシンガンを乱射する。
うひゃあ、と耳を倒しながら玉稜が飛んで、弾丸の取りこぼした小鬼を踏んだ。そこで一回転するように身を翻して、足場の小鬼を爪で裂き、飛ぶ。
そして、弾丸を逃れて空中に逃げた小鬼達を蹴る、弾く、裂く、「邪魔だっつーの!」ってに罵倒する。
「しかし、こいつら。最初の頃より動きがよくなってき――」
その最後の「き」は、そのまま音無く「きゃあ」という口の形になる。
小鬼を足場に天井付近まで飛びあがっていた玉稜の目の前に、薄明かりに浮かぶ、なんか、怖い顔があった。鬼とは全く別次元の。クリーチャー丸出しの。眼の無い硬質な顔面。
T-06の方も排気口から顔を出した先で、いきなりそんなモノが飛んでくるとは思っていなかったわけで。
ごちーん、と間の抜けた音がして、二つの体がぼててっと床に落ちた。
「……何ダ?」
ミサギが床に落ちてきた黒い物体の首根っこを掴んで拾い上げる。
T-06は小柄な体を空中に持ち上げられ、尾っぽがぶらんっと垂れた。
「……無害」
「すっごく有害だったっすけど……」
玉稜が未だチカチカと目の前で星の飛ぶ頭を、うー、と抑えながら首を振る。
「ソウ書いテある」
くるっと、玉稜の方にT-06が首からぶら下げているスケッチブックを向けて、それをライトで照らす。
照らし出された、でかでかと『無害』のニ文字。
「うっわー、胡散臭い」
玉稜が正直な感想を漏らす。
「殺スか」
「い、いや、はやまんないで! ちょっと待つっすよ!」
にょきっと日本刀を生やしかけたミサギの腕を玉稜が押しとどめる。
日本刀が大人しくミサギの体に還るのを見てから、玉稜はスケチブックへと恐る恐る手を伸ばし、一枚捲ってみた。
「タローって名前なんだ……」
そのタローが、名前を呼ばれて反射的にぷらんぷらんと尾っぽを揺らしている。
「もしかして、言葉通じるん――」
ふいに玉稜が押し黙る。
「どウした?」
猫の耳をそばだてる様にしながら、神妙な顔をしている。
「すいません、俺、先に行くっす!」
言葉を終えるか終えないかの内に玉稜は駆け出し、あっという間に闇の中へと消えてしまった。
それを見送ってから、ミサギはタローの顔を覗く。
「……タロー? またナ」
床に降ろすと、T-06は排気口へと跳躍する。
天井の向こうへと姿を消す尾を背に、ミサギは玉稜の後を追ってドラッグストアへと向かった。
■
二つの走る音が響いている。
「どっち?」
別れ道に差し掛かり、香玖耶が声を向けた方で、左耳のイヤフォンに手を当てながら走るソルファの指が、ついっと方向を指し示す。
「……本当、喋らないわよね、キミ」
その言葉に頷くソルファを見ながら、香玖耶はぽりぽり頭を掻いた。
さっきは、そっけなくも必要な事を喋ってくれたわけで、喋れないというわけではないらしいけれど……それから、彼の声は聞かせてもらっていない。
と、心の中を覗かれた様なタイミングでソルファの声がする。
「待ってくれ」
ソルファが短く言い放ってキュと足を止めた。
香玖耶も少し遅れつつ立ち止まる。
ソルファは何やら細かな書き込みのされている地図に書き込みを加えてから、一つ頷き、その場所へと立ち入って行く。
香玖耶は、彼が歩み入る場所へ続こうとして、うっと躊躇した。
「ちょっと……ここって」
ソルファが振り返って、香玖耶の様子に首を傾げる。
「この中にある様だが、来ないのか?」
香玖耶が眉根を寄せながら見る先、そこには『男子トイレ』と書いてあった。
「……緊急……緊急事態だから!緊急事態!」
誰に向かってか、そんな事を並べ立てる香玖耶を、ソルファは不思議そうに眺めていた。
中は、ぱっと見、何も無かった。
しかし、気まずさを表情に浮かべながら辺りを伺っていた香玖耶が、一点の虚空に、それを見つける。
「うん……ここ、穴が開いてる。この感じは、むしろ……道」
その言葉を聞いて、ソルファが何かを納得したように小さく頷く。
「ここから外に出られるけど、逆は無理みたい。人間の体はこちら側へは戻れない……なんだか、不完全な感じ」
香玖耶の頭に鬼門、という言葉が浮かぶ。しかし、地図で見る限りここは方位的に南西側だ。しかも、南西と言えないほど随分と中途半端な位置にあるが。
「なにはともあれ、この機能は活用すべきよね」
■
ドラッグストアのシャッターの向こう側の気配を探りながら、霧生は舌打ちを打った。
「まずいな……」
シャッターの外の通りに鬼の気配が色濃い。どうやら、ここに身を潜めているのを勘付かれたらしい。
しかも、まだこちらに手を出す様子は無い。奴等は仲間の数が集まるのを待っているようだった。
その行動から、鬼達が異界出現時より明らかに賢くなっているのが判った。
(そうか。奴等に経験ってのがあれば、死と生の繰り返しは……面倒くさい造りをしている)
こちらを一網打尽にするつもりなのか、どんどんと外の気配の数が増えている。
「この数……俺の結界で抑えきれるかわからん。アンタ達は奥の方へ行っていろ」
一般人達が言われた通り、店内の奥の方へと身を潜める。
ズン、とシャッターに衝撃が走る。
鬼達が鉄製のシャッターを打ち破ろうとしているらしい。
シャッターに走る衝撃が繰り返されるたびに、一部がこちら側へと盛り上がり、亀裂が走る。
店内に絶望的な悲鳴が上がる。
「心配するな」
霧生が目を細めながら言う。
「ここで死んでも、誰かが鳥居をクリアすれば帳消しだ……もし、死の記憶が疎ましいってんなら、俺のとこに来な。その記憶、始末してやるよ」
彼は、「それに」と付け加える。
「あいつが俺の窮地を見逃すとは思えん」
霧生が、ケラと笑った刹那、シャッター越しに「ごしゅじいいんーー」と遠く声が聞こえる。
玉稜が小鬼達の集団へと突入して、シャッターに体当たりを繰り返している一団を蹴散らかした。
「ご主人! 無事っすか!?」
玉稜の声がシャッターを挟んで飛ぶ。
「氷魚の通ったヤツから片付けろ。いいな。散!」
シャッター越しに聞こえた霧生の喝と共に玉稜が飛び上がった。
霧生の言葉通り、氷魚がシャッターから外へと滑り出して小鬼らの体を潜り抜けていく。
記憶を喰らう魚である氷魚が小鬼達の、ここ数時間の経験を齧り取り、動きの鈍った小鬼が玉稜の爪に引き裂かれる。
そして、追って現れたミサギのサブマシンガンが鳴り響く。
■
香玖耶とソルファがドラッグストアに戻った時、ドラッグストアの店先は酷い有様だった。
シャッターはひしゃげ、看板は傾き、壁は崩れかけ、玉稜は生傷だらけ。
その生傷だらけの玉稜だが、霧生が無傷だったことが余程満足だったらしく、なんだが香玖耶と分かれた時より元気なように見えた。
なにはともあれ、見つけた穴から一般人を外へ出す運びになる。
しかし、先程の男子トイレへ向かう途中。
「ここだ」
言って、地図を片手にソルファが立ち止まったのは男子トイレとは違う場所だった。
「え、さっきと違う……」
「移動しているようだ」
訝しげな香玖耶を見遣って、ソルファが左耳のイヤフォンをコツと叩いた。
「もしかして、ここじゃないっすか?」
ちょろりと辺りを探っていた玉稜が通路の端っこの虚空にクンクンと鼻を寄せる。
香玖耶が近づいていって、確かめる。
「本当に移動してる……」
香玖耶の声に、ソルファが頷いた。
ソルファ達が見つけた穴から外へ抜け出せる事を知って、喜びの声を上げた者は少なかった。
ミサギが約束を交わした女も、細い嗚咽以外の声を上げる事は無かった。
ミサギがドラッグストアの隅で彼女を見つけた時、彼女の姿は変わり果てていた。
頬は扱け、髪は更に乱れ、生気は薄れ、微かに枯れた嗚咽を漏らし、まるで老婆の様だった。
ずっと泣き続けていたのだろう。
彼女と同じように焦燥し悲壮に暮れている者は他にも居た。
皆、失った者の事を想い、このまま会えないかもしれない事を憂いている。
ミサギの奥底にある何かが、蝶の羽ばたきの様に微かに微かに瞬いている。
それが何だか相変わらず判らない。
どうすれば判るのだろう。
彼らを穴の方へと送り届ける間、一人一人が失い人を気に掛けながら穴を通っていく間、ミサギは、その事をぼんやりと考えていた。
「絶対に、救わなくちゃね」
隣で香玖耶が一人零したのを聞く。
そちらを見る。
「救えタラ、何か判ルだろうカ?」
香玖耶はぱちくりと瞬きをした。
いきなり奇妙な質問をされて彼女は暫し戸惑ったようだったが、ふと、表情を和らげ首を振った。
「何も、判らないかもしれない」
「……そウカ」
でもね、と香玖耶が続ける。
「それでも解は何処かにある」
ミサギがきょとりとするのを見ながら、香玖耶は一つ微笑んだ。
■
一般人を異界から脱出させた後、一行は情報を整理すべく、その近くのファーストフード店の一席を陣取っていた。
「……一番色濃く反映されているのは、やはり陰陽道だな」
霧生がテーブルの上に、目を通していた映画雑誌を広げる。ミサギが本屋から持ち出してきた雑誌だ。
懐中電灯に照らし出されているのは、ある雑誌の写真。
鬼遊び前編の一幕で、異界を呼び出すシーン。
光が飛び交う中、少年達がすさぶ風に煽られている。
そして、中心にはCGによって描かれた円形の陣が浮かび上がっていた。
「つまり、鬼門絡みで考えて正解だろう。でだ、鬼門が彼世の領域という話はしたが、対して、人門というのは現世の領域を示す場合がある」
「ならさっきの穴は性質から人門、と言って良いのかしら。あちらから、こっちへは来れないみたいだったけど。後、存在していた方角が中途半端で、尚且つ、動き回ってた」
香玖耶が顎に手を当て、答えを求めるように霧生へ視線を向ける。
「ネコオが、『力の無い場』を見つけている。地下街の中心から見て、四門に当る所だ。考えられるのは、力としての門が、場としての門とは別に存在していて、動き回っているって所だな……そして、この雑誌によると映画の後編では、前編で異界の外に居た者が、異界の中で走っている場面がある。こちら側に迷い込んだ、という書き方をしているから、完全に現れた人門を通ってきたと考えられる」
「場としての門へ、力としての門を重ねれば、完全な門として現れる……のかしら」
「おそらくな。問題は、何に影響されて移動しているかだが」
「それなら心当たりがあるわ。『鬼さんこちら、手の鳴る方へ』」
香玖耶が、ぺち、と自分の両手を打ち合わせてみせる。
「後編の予告編で言ってる台詞よ。ある鬼が、力の中心になってて、それを異界の中心に呼び込む事で、鳥居を呼び出す。そういう事なんじゃないかしら?」
「あの鬼ら全部を呼び込むのか?」
「ううん、呼び込むべき鬼は一匹。目星は付いてる。鬼達の中心にいる、妙にでっかい鬼」
香玖耶が大通り広場の辺りを指差す。
「精神に接触した時、この子だけ自分の行動範囲を限定するルールを持っていたの」
香玖耶が大通りの辺りに、くるんと指先を滑らせる。
「それで」
と、ソルファがテーブルの上にもう一枚の地図を置く。
「こっちは俺の拾っていたラジオ電波の強弱の移動。大鬼の動ける範囲と、移動の範囲は良く似ている」
「なるほど……穴と鬼との距離も、異界の中心と人門の場との距離と整合するな。その大鬼を中心として四門の力が動いていると見て間違いないわけだ」
霧生が、とん、と顎を指先で叩いた。
「鬼を呼び込むのは、この位置」
言いながら地図上の地下街に引かれた中心線の交わる所を指す。
「人門が、大体この辺りに出現するだろうから」
玉稜の見つけてきた位置と中心との距離から、中心を挟んで正反対の場所に記しを付ける。
「鬼門の出現位置はこの辺だな」
「人門の方が救いの鳥居としては、それっぽいような気はするけれど」
「人門をくぐって異界に入ってきたヤツが鬼に追われているシーンがあるからな。人門が正解とは考え難い。ああ、それから、他に現れるかもしれない天門、地門は無視して構わないだろう。境目としての意味合いが一番濃いのは、鬼門だ」
「結局、俺達は何ヲすればイい?」
「オレ達のすべき、行動だけ教えて欲しいっす……」
「まあ、色々と言ったけど、事は単純明快よ。大鬼を地下街の中心地まで引っ張りだして、この地図の印の辺りに出てくる鬼門を誰かが潜る」
「そういう事だ。ただ、油断は出来ない……完全に出現した鬼門の周囲に何が起こるか判らん。なにせ、本来は鬼の通り道だからな」
「何が出ヨうと、蹴散らシてしマえば問題はナイ」
ソルファが頷く。
「鬼門の方はアンタ達に任せる。俺は、大鬼を中心に繋ぎ止める結界を張る」
「アタシも手伝う。あの鬼はかなりの暴れだからね」
「あの、ご主人。俺は何をしたら良いっすかね?」
「鬼を呼んで来るのが、おまえの仕事だ」
「え、おれっすか!?」
「当たり前だろう。この中で一番速く走れそうなのは、おまえだ」
「う、でも、どうやって鬼を呼んだらいいっすかねぇ……目の前で尻でも叩いてみせる、とか?」
「そんなものは決まってる」
『鬼さんこちら』
■御児遊び
T-06はダクトの中を全力で逃げていた。
向こうの方から何か巨大な物が天井を破壊しながら押し迫ってきているのだ。
当然、天井もろともダクトも瓦礫と化していっている。
押し潰されてしまうよりは、と排気口から通路の天井側に這い出たT-06が見たのは、必死の形相で駆ける玉稜と、その後を追う巨大な鬼の姿だった。
「鬼さんこちらー、手ーの鳴ーる方へぇええええ怖い怖い怖い怖い怖い!!」
怒涛の勢いで向かってくる大鬼に追われて泣きそうになりながら、玉稜が必死に通路を駆け抜けていく。
「やばいっす、追いつかれるっす!」
T-06も天井を玉稜の鏡写しの様に駆け逃げていたが、鬼の頭が天井を打ち崩す振動で足元を捉え損ねて、空中へと投げ出される。
グ、と身を守る様に丸めたT-06の体が、勢い付いた鬼の目玉と衝突。
鬼は声無く仰け反った。
玉稜は、後方で何が起こったのかは判らなかったが、鬼の気配が少し離れた事に感謝しながら、必死に地面を掻いて距離を稼ぐ。
その進行方向では、霧生と香玖耶が鬼を捉えるために待ち構えていた。
玉稜の泣き声と鬼の鈴の音、周囲の壁と天井を破壊してくる音とが段々と近づいてきている。
霧生が鬼の拘束位置定と定めた場所に四隅に香を焚きながら、じわりと笑んだ。
「あいつの泣き声が一番喧しいな」
「頑張ってー! ネコオ君、もうすぐ!」
玉稜の駆けて行く方、大鬼の拘束地点で香玖耶が声援を送る。
「玉稜っすぅううう!!」
その魂の叫びと共に玉稜が香玖耶の横を駆け抜ける。
そして、香玖耶と霧生の意識は、玉稜の後を追って飛び込んでくる大鬼に向けられた。
タイミングを計る。
香玖耶の体が淡く発光して、掌より玉が浮かび上がる。
風の精霊の真名を呼ぶ。そして
「蒼天を巡る清しい涼風よ、嵐天を駆ける荒ぶる轟風よ。疾く集い来りて――」
つと紡がれる詠唱。
「彼の鬼を閉じ込めよ!」
彼女の命と契約に従い、そこに在る筈の無い風が吹く。
湧き出た涼風と、うねる轟風が香玖耶の目の前へ迫った大鬼を絡め取り、捉え、風の檻となる。
鬼門が現れると同時に、ソルファの左耳に流れたのは鮮明な音のコンテンポラリージャズだった。
そのBGMをバックに落ち着いた声のDJが、もう5分もしたら四時ですね、と言う。
ソルファは、鬼門出現と同時に一斉に通路へ湧いて出た鬼達を見遣った。
びっしりと蔓延った鬼達の奥に鳥居らしき物が見える。
両手の銃の感触を確かめ、トカゲの尻尾を振った。
「アンタは、何分デいケルと思ウ?」
ソルファの横に立つミサギが、相変わらず表情の無い声で問い掛ける。
鳥居の向こう側にも鬼の姿は見えた。
「検討も付かない」
「同感ダ」
ミサギは今日初めてソルファと会話した気がして、少しばかり眼を細めた。
「そうイエば、マだ互いに名前ヲ知らなイな。俺ハ、ミサギ」
「ソルファ」
「ソルファ。どチらかが、鳥居ヲ通れレバいい」
「同感だ」
そして、銃声。
鬼を撃って斬って撃って斬り撃ち捲くる。
倒すためでも身を守るためでも無く、ただ鳥居に向かって突き進むためだけに。
■■
午前4時過ぎ。
光が溢れていた。
蛍光灯の安っぽい光が、地下街に溢れていた。
そこに居る人々をコンクリートの壁が冷たく見守る。
「……本当に、ありがとうございました」
ミサギにそう言った彼女の後ろでは、状況に付いて行けず未だ放心している男が立っている。
彼女がミサギへ差し出したジャケットに、今までに染み込んだものとは違う新しい涙が落ちた。
結局、あの奇妙な感覚について、何も判らないままだ。
ただ、目の前の彼女の笑顔は、知らない誰かを思い出させるような気がした。
今は、それだけだ。
その様子を香玖耶は遠くから見ていた。
背に当る厚いガラスの向こうのポスターの中で、相変わらず女性の唇がキラキラと輝いている。
両手を絡め伸ばしてンと伸びをする。
それから、欠伸。つい、出てしまった辺りはばからぬ大欠伸。
帰ったら、シャワーを浴びて……少しだけ何かをお腹に入れて眠りたい。
銀色の髪をなびかせて、歩き出す。
彼女の横を駆け抜けたT-06が、通路から伸びる階段に飛び込む。
地上を目指して階段を駆け上がって。
T-06が地上へと出た時、空はまだ暗かった。
夜明けの予感を孕んだ風が、スケッチブックの端を揺らした。
そこでようやく、T-06の本能は休息を得る。
吹く風に目を細めながら、霧生がからかう様に笑みを浮かべた。
「しかし、よくよく鬼に追われるヤツよな、おまえは」
「こ、今回はごしゅじんの指名じゃないっすか!」
不満そうに言いながら、玉稜は頭に被った襷の端をきゅっと結ぶ。
「まあ、女性に怨が募って鬼に転じるという話は良く聞く。女、怨が訛ってオニだ、てな風に言うヤツもいる。女に尻を追いかけられるなんざ、男冥利に尽きるじゃないか。なあ?」
「全然嬉しくないっすよー! 命賭けっす!!」
「女と追いかけっこ演じる時ァ、大体そんなもんだ」
歩きながら、霧生が楽しげに笑い、玉稜が嫌々と頭を振る。
夜が明け始めていた。
ソルファは人参の先をポリっと齧り、白む空を眺める。
ラジオでは、今日は一日秋晴れ、だから皆で紅葉を見にいこうよう、などと言って笑っている。
鳥の声が聞こえ始めて、やがて朝が来る。
ラジオのスイッチを切る。
そして、イヤフォンを取って、ポケットにしまった。
|
クリエイターコメント | この度のシナリオ参加、真に有難う御座います。 長くなりました。 素敵なPC様方とプレイングに浮かれながらウキウキでプロットを組んでいたら、あらまあ。 組み終えた時に、長くなるなぁとは判ってはいたのですが……ついうっかり書いてしまったわけで。 なにはともあれ 苦難を乗り越えて読み終えてくださった方、本当にありがとう御座います。 ほんの一文でもPC様方の素敵っぷりを感じて頂けたらば嬉しいです。
|
公開日時 | 2008-11-07(金) 18:40 |
|
|
|
|
|