★ 逃げたライオン ★
<オープニング>

 街中に、ぺたぺたと張り紙が張られ始めたのが今朝の事。それが昼になっても止まる様子はなくぺたぺたぺたぺた増えて行くので、住人から対策課に苦情が入った。
 曰く、「気持ちは分かるけど三十センチ置きに張るのは止めてくれ」。
 大袈裟なと思いつつも苦情が来た以上は、対処すべきだろう。しかもその張り紙の主がムービースターなら、対策課のお仕事だ。
 溜め息混じりに市役所を出た植村は、側の壁を見て思わずびくりと後退ってしまった。
 住人からの苦情は正しい。大袈裟なことなど何一つなく、本当に三十センチ置きに張り紙がしてあった。
「ま、またこれは迷惑な……」
 どうせ剥がすのもこちらの仕事になるのだろうと思うと、溜め息を禁じ得ない。とりあえず張り紙の内容を一読すると、剥がして回るのは後回しにして住人の目撃情報を元に張り紙の主を探しに行った。



「そこのあなた。一心不乱に張り紙をされているあなたです、あなた」
 角を曲がると、少し先に一心不乱といった様子で張り紙をしている人物を見つけた植村は、急いで駆け寄ると張り紙を続ける男性の肩を引いた。
「……?」
 胡乱げに振り返ってきた男性は、どこか冷たげな目をしていた。カラーコンタクトを入れているわけではないのに薄すぎるグレーの瞳が、余計にひやりとした印象を与えるのだろう。
 不審そうに植村を見下ろしてきた相手は、首を傾げて口を開く。
「何か?」
「な、にかではなく。街中に延々と張り紙を続けておられるのは、あなたですね」
 分かりきったことを確認すると、まだ大量の紙束を足元に置いている相手は得心がいったように頷いた。
「そうだ。見つけてくれたのか」
 ありがとうと続けられる言葉は少しも柔らかみや温かさを帯びず、どこか人を馬鹿にしている風にも聞こえた。ただ彼の目は思ったより純粋に見下ろしてくるので、声に感情が出難いだけなのかもしれない。
 とりあえず植村は、そうではないのですと頭を振った。
「あなたが大層心配してお探しなのはよく分かるのですが、」
「いや、別に。あれはあれで好きにしていると知っているから、俺は心配などしていない」
 植村の言葉を遮って訂正してくる相手に僅かに沈黙した後、そうですかと頷いた。
「心配をされておられないのなら、話は早いのです。そのどうでもいい探し物のために、」
「どうでもよくはない。心配はしていないが、戻ってこないと困る事態になる」
 いちいち人の話の腰を折ってくる相手に、幾らか額が引き攣りそうになる。それでも根気よく話を続けるべく、一度深く息を吐いて気を落ち着かせる。
「とにかく、ここまで張られた張り紙はさすがに目に余ります。目立つところに一枚張られたなら、次は別の場所に移動してくださいませんか」
「ふむ? これは迷惑なのか」
「とても。それに、これだけ大量に張ってあると悪戯にしか思われません。多く印刷されたのであれば、後はビラとして配られたほうがまだ効果的でしょう」
 張り紙はもう止めてくださいと心から告げると、相手の男性はそうかと呟いて足元のまだ大量の紙束を見下ろした。どこかしら途方に暮れたように息を吐いた男性は、申し訳なかったと頭を下げると紙の束を持ち上げてそのまま歩いていく。
 聞き分けがいいといえばいいのだろうが、既に張りつけた物を処分する気はなさそうなので慌てて呼び止める。
「待ってください。理解して頂けたのはいいのですが、あちらの張り紙も何とかしてくださらないとっ」
 困りますと続けると、紙の束を抱いて移動し始めていた男性は何故か深い溜め息をついた。
「面倒だな……。上司に言われたのでなければ、俺はこちらで暮らしていけそうにない」
 あいつがいれば適当に処分もしてくれただろうにと幾らか恨めしそうに呟いた男性は、ふと何かを思いついたように顔を上げて植村を見てきた。
「これも何かの縁と思って、あれを探すのを手伝ってもらえないか」
「この張り紙にある、猫探し、ですか?」
「俺はこの張り紙を剥がさねばならない。それにあれは、俺の前には出てこないだろう」
 助けてもらえると有難いと言いながら、張り紙を一枚手渡された。
 素っ気無い字で認められているのは、猫の特徴。灰青の毛並みのロシアンブルーで、指輪を飲み込んでいるらしい。
「指輪を飲み込んでいる、のですか」
「ああ。あれは、王の命には逆らえない。猫にされても尚、愛情は薄れんらしい。だから余計に、預かり物を返したくはないのだろうが」
 面倒臭い連中だと、どうでもよさそうに他人事のように語られ、植村は事情がよく分からないままも張り紙を止める為だけに頷いた。
「分かりました。猫探しに協力してくださるよう、こちらで呼びかけてみます。それと、これには連絡先がないようですが、」
「それなら、上司の携帯電話に。……ああ、番号がいるのだな」
 言って頷いた男性は、植村に渡した張り紙に幾つかの数字を書きつけた。
「これで上司に直接繋がるはずだ。俺は張り紙を剥がし終わるまであちらに戻らないが、連絡してくれれば上司が指示をされるだろう」
 それでは宜しく頼むと頭を下げた男性は、今度は黙々と張り紙を剥がしていく。愚痴一つ溢さない背中は申し訳ないながらどこか薄気味が悪く、人ならざる印象を拭えない。
 ちらりと彼の正体を詮索しかけた植村は、素直に従ってくれているのだからと思い直して小さく頭を振った。
 とりあえず張り紙に対する苦情はこれでどうにかできそうなので、対策課に戻って探し猫の依頼をするべく植村は踵を返した。

種別名シナリオ 管理番号937
クリエイター梶原 おと(wupy9516)
クリエイターコメントこれで。今度こそ終わるはずの、黒男絡みの最後の依頼になります。
猫を探してくださるもよし、張り紙剥がしを手伝ってくださるもよし。ひょっとして入るかもしれない妨害に備えてくださるもよし。黒男に関わるのも最後と思って、寛大にお付き合いくださいますと幸いです。
妨害があっても基本的に怪我をする要素はない話と思いますが、気が立った猫に引っかかれる噛みつかれるくらいはするかもしれませんのでご用心ください。

それでは、心優しい方々のご参加をお待ちしております。

参加者
ミケランジェロ(cuez2834) ムービースター 男 29歳 掃除屋
花咲 杏(cyxr4526) ムービースター 女 15歳 猫又
ジャスパー・ブルームフィールド(csrp6792) ムービースター 男 21歳 魔法使い
香玖耶・アリシエート(cndp1220) ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
白闇(cdtc5821) ムービースター 男 19歳 世界の外側に立つ者
<ノベル>

 花が咲き零れる気配に機嫌よくジャスパーが足を運んでいると、うなぁんとどこかしら不服げな猫の声が聞こえた。おやと首を傾げて様子を見に行こうとすると目の前を猫が横切っていき、青灰の毛並みにどこか懐かしく目を細めて微笑ましく見送った。それからその猫が出てきたほうへと足を進めると、壁一面にぺたぺたと続いている迷惑な張り紙を見つけた。
「気合入ってるデスねー」
 頑張りましたデスと何故かうんうんと頷きつつ張り紙の一枚を眺めると、迷い猫を探してほしいという依頼らしい。
「エリザベスがいなくなったら、僕も悲しいのコト極まるデスからネ!」
 因みにエリザベスとは、食虫植物だ。勿論、人だってぺろりと食べる。普段は彼が言い聞かせているから甘噛み程度に留まっているが、迷子になったら周りの被害という意味でも確かに一大事だろう。
 とにかくジャスパーは大真面目に飼い主に同情し、任せるデスよと張り紙に対して意気込んでみせた。
「頑張ってお手伝いするデスよ。青い猫さんデスねー。……今も見ましたデスね?」
 おやと再び首を傾げて、猫が去っていった方角を眺めるが当然のように姿は見えない。ちょっと考えたジャスパーは、ダイジョブですと誰にともなく請け負った。
「いざとなったらマタタビあるデスよ! 探すしたら捕まえられるデス」
 張り切るデスよーと楽しそうに宣言したジャスパーは、どこまでも善意で猫探しを開始した。

 そうしてジャスパーが猫探しを決めた張り紙から数百メートル離れた路地で、白闇も同じ張り紙を眺めていた。
「これは、あの時の猫か……? 本当に指輪を飲み込んだのか」
 以前関わった世界壊しの依頼の後、残された指輪を目の前で猫に浚われた。それも張り紙にある青灰の猫だったし、指輪を飲み込んでいる同じ毛並みの猫はそう多くはないだろう。
「猫違いだったとしても飼い主が探しているに変わりないなら、探す程度は手間でもないか」
 もし思った通りの猫だったなら、聞きたい事は色々とある。それにあの時の面々は彼よりも深く関わっていたようだから、猫を探す間に誰かを見つけられるかもしれない。あれ以来、彼は依頼人には会っていないが、元気にしているかどうかくらいは噂に聞けるだろう。
「あの悪趣味な男がどうなったかも、気になるところだからな」
 いくらそれを互いに望んでいたとはいえ、目の前で自殺志願者が刺されたまま消えたとあっては寝覚めが悪い。生死のどちらでも特に感傷はないが、事実を知るのは依頼に関わった者の当然の権利だろう。
 とりあえず猫探しを決めた白闇は、期せずしてジャスパーとは反対方向に足を向けた。

 対策課に顔を出した杏は、一枚の紙を手に戻ってきた植村を見つけた。新しい依頼かと聞き耳を立てて伺っていた杏は、聞こえた単語に反応してカウンターに飛び乗っていた。
「うわっ、いきなりどこから、」
 抗議しかけた植村のネクタイを取って引き寄せ、手にしている紙を覗き込む。
「これ、」
 言いながら何故か課内を見回し、もう一度まだ植村が手にしているそれを覗き込む。
「ちょおちょおちょお、これて!」
 なぁと食いつきそうな勢いで植村の肩を揺さぶった杏は、とうとう植村の手からそれを取り上げてまじまじとそこに書かれている情報を読み直す。
 ぱっと見ただけなら、それはただの迷い猫探しの張り紙だ。家の猫知りませんか、とか、そんな感じのあれだ。けれどこれはどう見たって、杏がよく知るあの猫に違いなく。
「瑠璃はんやん! なぁ、植村はん、これ瑠璃はんやろ!? て、何で首押さえて蹲ってんの、そんな場合ちゃうやん!」
 きりきり答えたってなぁと爪を立てそうな勢いで詰め寄ると、何か様々を諦めたような様子でよろよろと立ち上がった植村が溜め息をついた。
「猫の名前までは聞いてませんから分かりませんが、もしご存知の猫でしたら探すのに協力して頂けますか?」
「それはええけど、この張り紙どないしたん?!」
 誰が張ってんのと尋ねると、しばらく考えた後に首を傾げられた。
「植村はんー?」
「すみません、私としたことがうっかり。男性ではありましたが」
「黒尽くめの!?」
「いいえ、どちらかといえば白かったですね。その張り紙に連絡先はお聞きしました、どうやら彼の上司に繋がるようですが見つかればそこに連絡してほしいと」
 言いながら張り紙を指差され、その連絡先である単語も確実に彼女の知った猫である可能性を高くする。
「おおきに、ほなこれ貰て行くわ!」
 植村から奪ったままのそれを揺らして言い置き、杏は即座に対策課を走り去っていた。

 前回、世界を壊すと息巻いていた少年に手を貸してから、ミケランジェロは暇を見つけてはその少年のところに足を運んでいた。
 世界を称する兄を目の前にして結局竦んでしまった事も、彼の思惑通りに刺し貫いてしまった事も、少年にとっては激しい自己嫌悪の原因となったのだろう。しばらくはひたすら泣いて暮らし、それを通り越すと今度は魂が抜けたみたいにぼんやりと過ごしている。
 薄々そうなるだろうと察してはいたが、あの兄弟が望んだ結末を止められなかった。否、止めようと思えば幾らでもできただろうが、それをしても少年が壊れると予想できたなら好きにさせたほうがいいと、止めずに見届けた。その結果が予想通りでも驚かないが、後味が悪いのも確かだ。
 以来、あの兄弟に関わったのが運の尽きだと思って訪ねるのだが、その度に少年は噛みついてくる。相変わらず可愛げはないが、ミケランジェロが訪ねて感情を前面に出せるなら進歩の内だろう。
「しっかし面倒臭ェ兄弟、」
 兄弟だなと呟きかけたミケランジェロは、ずらりと張られた張り紙を見つけて言葉を止めた。
「──面倒臭ェ連中だ……」
 溜め息と一緒に実感を込めて吐き出したそれは、その張り紙に描かれた猫に見覚えがありすぎたから。そもそもの始まりは、この猫を護衛してほしいという依頼だった。
「確か、あン時も、」
 最初は巻き込まれたのだったかと思い出しながら、ふと嫌な予感が過ぎる。
「ミケはん発見!!」
 うにゃーんっと鳴きながら、猫が空から降ってきた。



「てめェ、頭に張りつくなっ。離れろ、この猫娘っ」
「えー、こんなラブリーキュートな女の子に抱きつかれてんねやからもっと喜んでぇなぁ」
「猫が何抜かしてやがるっ」
 離れろと頭に降ってきた猫を引き剥がすべく努めるのに、思いきり頭に爪を立てられる。
「っ、爪を立てんなーっっ!!」
「嫌や、そしたら引き剥がす気やんーっ」
 意地でも離れへんと尚更爪を立てるのは、さっきまで思い出していた依頼に巻き込んだ張本人。猫型も人型も取れるらしく、都合のいいようにころころと使い分けては時折人を台車か何かと勘違いしている猫娘──杏だ。
 とりあえず流血沙汰になる前に諦めるほうが早そうなので、引き剥がそうとしていた手を離してぐったりとしゃがみ込んだ。途端に爪は引っ込められ、頭に張りついたままの杏はにゃあんと正に猫撫で声で鳴いた。
「あーくそ、何しに来やがった。つーか、どうやって見つけてんだ?」
 色んな意味で痛い頭を押さえながら尋ねると、杏はごろごろと喉を鳴らしながら顔を洗い出したらしい。てめこの野郎と手を伸ばしかけたが、しゃきーんと擬音までしそうに爪を出された気配がして諦める。察した杏は、肉球でぷにぷにと誉めるように頭を叩いてくる。
「ミケはん、案外物持ちええやん? 最初にうちが渡した鈴、まだ持ってはるやろ?」
「あ? 鈴?」
 何の話だと顔を顰めたが、そういうと最初の依頼の時に逸れても大丈夫なようにと渡された鈴があった。無造作にツナギのポケットに突っ込んだまま忘れていた、というのが本当のところだが、どうやらそれを辿って発見されているらしい。帰ったら捨ててやると密かに呟いていると、猫さん発見デスよー! と、またしてもどこかで聞いた声がした。

 タンポポの綿毛を飛ばして猫を探していたジャスパーは、ぴこぴこと引っ張られるように揺れる一本に教えられるまま足を向けて前方に猫を発見した。
「猫さん発見デスよー!」
 言った時にはそれを詠唱代わりにしゅるしゅると蔦が生え始め、何かしら派手な台に乗っていた猫を捕獲すべく動き出す。手荒にする駄目デスよー! と命じたせいで蔦はそんなに敏捷性はなく、うにゃんと驚いた声を上げて猫は近くの壁に乗り移って逃げてしまった。
「ああ、逃げられマシタです」
 残念と息を吐いたジャスパーは、残念なのはてめェの頭のほうだろ! と唸る、蔦に絡まれた物体に近寄って見下ろした。
「あ、ペンキの人デス。新しい趣味デスか? 何とか言うデスネ……、縛りプレイ! デスねっ」
「人聞きの悪ィ事を嬉々として言うんじゃねェ! って誰のせいだ!」
 言いながら持っていたモップですぱすぱと蔦を切って立ち上がったペンキの人──基、ミケランジェロは何故か怒り心頭で詰め寄ってくる。ご機嫌斜めデスねーとぽつりと呟くと、ひくりと彼の頬が引き攣った。
「だから誰のせいだと思ってやがる、この似非魔法使いが!」
「似非ナイですよー! ボクはケッキとした魔法使いデスのコトよ!」
「けっきって何なんだ、れっきだろが……」
 疲れるとだるそうに額に手を当てたミケランジェロは、怒りを持続させるのも面倒そうに溜め息をつくと側の張り紙を指した。
「で、お前もこの猫探しか?」
「そうデス、エリザベスがいなくなったら心配デスから、飼い主さんに返すがいいデスネ!」
 頑張るデスよー! と拳を作って宣言すると、ミケランジェロが何だか不審げに眉を顰めた。
「飼い主って、……ひょっとして分かってねェのか?」
「えー、さすがのジャスパーはんでもそこまで天然ちゃうんちゃう?」
 ミケランジェロの呟きに答えたのは、先ほど彼を見捨てて側の壁に避難していた黒猫だった。目が合うときゅうと目を細めた黒猫は、壁から飛び降りながら人型に変化した。
「キョウさん、お久し振りデスよー」
「久し振り。せやけどいきなり蔦で捕獲しよとか有り得へんわー。猫虐待やで」
「ごめんなさいデス。でもちゃんと手加減スルして切れマシタですヨネ?」
「そういう問題じゃねェ!」
 反省しやがれと叱られてしゅんと反省したが、ふと我に返って首を捻った。
「でも探すしマシタ猫さん、この辺にいるはずデスが」
 おかしいデスと首を捻りながら言うと、杏がにんまりしてミケランジェロの腕を叩いた。
「ほらほら、もうこれは猫探しせんならん運命やねんて。諦めて手伝いよし」
 嬉しそうににっこりして告げる杏の言葉に、それ知ってるデスよーと手を上げた。
「ノリ、の……ノシつけた船デスねー!」
「船を貰ってどうする」
 すかさず入った突っ込みは、ミケランジェロや杏の声をしていなかった。

 白闇は探索魔法を使って猫を探し始めたが、生憎とこれは効果が短い。魔法陣を保つのが不得意で、数分で描いたそれが消えると共に効果も切れてしまうのだ。
「居場所くらいはこれで発見できるだろうが……」
 捕まえるまで保つかと呟いている間にも反応があり、猫の居場所は易々と分かる。これなら持続したまま捕まえられる距離だと急いで足を向けると、幾つかの角を曲がった先で見慣れた顔触れが揃っているのを見つける。
 声をかけるより猫の捕獲が先かと通り過ぎかけたのだが、
「ノシつけた船デスねー!」
「船を貰ってどうする」
 聞こえたそれに、思わず突っ込んでしまっていた。
「船貰う、お得デスよ?」
 きょとんとした様子で答えるジャスパーに、そういう問題じゃねェと頭を押さえているのはミケランジェロ。お久しゅうと手を上げてくる杏に軽く会釈してから、はっと我に返る。
「違う、あなた方も猫を探しているのではないのか? 早くしないと逃げられる、」
 逃げられるぞと最後まで言うより早く、がさりと物音がした。全員でそちらに顔を向けた時には青灰の毛並みは勢いよく逃げ出していて、捕まえようとした時に魔法の効果が切れた。
「っ、私としたことが……!」
 突っ込んでいる暇はなかったと悔しげに吐き捨てながら後を追おうとすると、ミケランジェロがやめとけと小さく頭を振った。
「気配が消えた。大方、あれも黒尽くめなんかと同じで、ある程度の力が使えるんだろ」
「それにしても水臭いわ、こんな側おんねやったら声くらいかけてくれたらええのに!」
 別に瑠璃はんに危害なんか加えへんのにと憤慨した様子でぼやく杏に、ジャスパーがきょときょとと目を瞬かせた。
「ルリさん?」
 不思議そうに繰り返し、首を傾げ、ミケランジェロと杏を眺めてぽんと手を打った。
「ミケランジェロさんがペンキ被った時の猫さんデスねー!」
「この似非魔法使いが、いい加減にお前とは本気で決着つける必要があるみてェだな……?」
 売られた喧嘩は買う主義だとモップを握り締めて声を低めたミケランジェロに、事情を聞くのはやめたほうがよさそうだ。とりあえず揉め事は当事者たちで解決してもらう事にして、逃げた猫にまだ愚痴っていた杏に視線を向けた。
「あなた方も今の猫を探しているなら協力したほうが手っ取り早いだろうが、どうだろう?」
「せやんね、人手はあったほうがええわ。白闇はんは今のて魔法? またそれ使える?」
「使えなくはないが、限度はある。探し出す事はできるが、捕獲に至るかは見ての通りだ」
 距離が離れていれば尚更保証はないなと肩を竦めると、そうかーと唸りながら杏が顎に手を当てた。
「まぁ、地道に探すんも続けるとして、瑠璃はんが行かはりそうなとこ誰かに聞けへんかなぁ」
「誰かって、こっちにいる知り合いなんざ、」
「ツバメさんしかないデスねー」
 聞くしマスか? と振り回されるモップを器用に避けながら無邪気に首を傾げるジャスパーに、手を止めたミケランジェロがモップを収めながら面倒そうに頭をかいた。
「まァ、それしか方法がねェなら聞くくらいすりゃいいが。あれが素直に答えるたァ思えねェな」
「ツバメさん、ルリさん襲うしてマシタですよネ? 隠れるスル場所は知ってますデスか?」
「それも疑問やけど鴉はんの事思い出させるんも何かなぁとは思うねんけどでも! 今はとりあえず、瑠璃はんに指輪吐き出させるんが先決やと思うねんっ。気ぃ悪いあの鴉はんが聞いた瞬間爆笑しはったたくらいの事してはんねんから、一刻も早よ!」
 ぐぐっと握り拳で主張されるそれは、どこかしら恨みが篭っているようにも聞こえる。触らぬ何とやらに祟りなし。聞かなかった事にしようと流そうとした白闇たちを他所に、ジャスパーがにこにこと言う。
「キョウさん、根に持つするデスねー」
 さらっと悪気なく一言を付け加えるせいで、当たり前やんかー! と杏が爆発した。
「人がせっかく好意で提案したげたのにあの黒尽くめ、ひたすら爆笑しよってんで! そらもう息も絶え絶えに大受けや馬鹿受けや! ホンマあのおっさん生きとったら、とりあえず一発しばいたらん事には気ぃすまへんくらいの所業やで!」
 怒り再発と主張する杏に、ミケランジェロは片耳を塞ぎながら溜め息をついた。
「指輪を飲むってのァ、猫娘の提案だったのか?」
「せやよ。最初ん時みたいに襲撃あったら困るやん、安全に運ぶにはそうしたってもえーでて言うたげたのにっ」
 思い出すだに気の悪いと拳を震わせる杏に、白闇は少し考え込んだ。
「白闇はん? どないしたん?」
「いや。それを聞いて爆笑したという事は、彼には元よりその発想がなかったのかと思っただけだ」
「まァ、そうだろうな。それより、猫は探さねェのか」
 やめるなら楽なんだがなと欠伸混じりに言うミケランジェロに、止めるわけあれへんやん! と杏が噛みついているのを見降ろして、白闇も小さく頷いた。
「そうだな、今はまず猫を探すほうが先決だろう」
「でハ、頑張って探すデスよー!」
 やたらと張り切って腕を突き上げるジャスパーに、杏も任しときー! と調子を合わせて同じく腕を突き上げた。



 そうして猫探索チームが猫を探したり逃がしたりまた探し出す前に結束している中、香玖耶は猫探しの張り紙を見てそれを張っている人物をこそ探して歩いていた。
「こんな不親切な張り紙、絶対あの人たち絡みに決まってるわ!」
 描かれている猫の特徴からしても瑠璃と呼ばれていた「勇気のないライオン」だろうし、説明が足りないのはあの映画世界の連中の得意技だ。彼女が少年に返してくれるように頼んだ指輪を飲み込んでいる猫も気にかかるが、事の元凶たる黒尽くめの男性や上司たちがどうなったのかも知る権利があると思う。
(あの時はまだあの人も生きていたみたいだけど……、今はどうなのかしら)
 弟の好意を利用して、自殺を図った馬鹿だ。本来であれば誰が止めようと治療して引き摺り戻し、迷惑をかけたあらゆる人たちに謝罪させて当然だと思う。けれど実際に彼がいる場所を探す事もしていなければ、助けるべく動く事もできていない。
 それをするなと言うのが、あの少年のたっての願いだからこそ動けずにいた。
『兄者が死ねるのはここでだけなんだ、兄者はここだからやっと死ねるんだよっ。お願いだから邪魔しないでよ、今あんたが助けたら僕が……、僕が刺した──、っ、意味がなくなるじゃないか……っ』
 兄の望むまま彼を刺した事は、覚悟していた少年をそれでも打ちのめすほどの衝撃だったに違いない。暇を見つけては会いに行くのだが、最近になってようやくノックの音に反応して布団を被るようになった。
(最初の頃は、見ていられなかったけど……)
 誰が訪ねて行ってもひたすら泣いているか、魂まで抜けたように放心しているのが常だった。夜が近づいてくると窓辺に張り付き、闇を操る兄がそこにいるのではないかとばかりに目を凝らして外を眺めている姿が痛々しかった。そんな彼が彼女の到来を知り、顔なんか見たくないとでも反応してくれるのは少しずつ彼が自分を取り戻しているようで嬉しかったのだ。
 それに、と、心中に付け足しながら香玖耶は僅かに口許を緩めた。
(あのくらいの子の意地っ張りは、慣れてるもの)
 まだ可愛げはあるほうだわと、同じくよく少年を訪ねているミケランジェロが聞けば複雑な顔をしそうな事を呟く。それも併せてくすくすと笑っていた香玖耶は、前方に張り紙を剥がしている人影を見つけて笑みを消し、意識を切り替えた。
 それは、見かけた事のある誰かではなかった。けれど何となく覚えがある気がして、躊躇わずに口を開いていた。
「樵さん? あなた、心のない樵さんよね?」
 問いかけると几帳面に張り紙を剥がしていた男性は顔を向けてきて、違うと断言した。
「役目は巡った。今の私は西の魔女の従者だ、心のない樵はこの街の何処かにいる」
 俺ではないと答えて張り紙を剥がす作業に戻るあまり表情を動かさない男性に、以前に会ったのは彼だと確信する。
「元樵さんでも従者さんでもいいんだけど、以前に一度会ったのを覚えてない?」
「? ……ああ、黄緑が連れてきた招かれざる客か」
 そんな事もあったかとどうでもよさそうに呟いて、彼は淡々と張り紙を剥がしていく。相変わらずの態度に会話する気が萎えそうになりながら、香玖耶は今にも男性が剥がそうとしている張り紙を指差した。
「この張り紙にあるのって、瑠璃さんよね? あなたと同じ……役目が巡る前の、勇気のないライオン」
「そうだ。今も俺と同じ、西の魔女の従者だ」
 答えながら退くように指示して張り紙を剥がす男性の背を眺めながら、眉を顰めた。
「待って、今も西の魔女の従者だとしたら、どうして瑠璃さんは鴉さんの預かっていた物を奪って逃げたの? しかもそれを飲み込んでるなんて、本当に彼女は大丈夫なの!?」
「あいつがあれに指輪を飲むように命じたから、あれは命に従って逃げた。指輪を飲み込んだ猫と同程度には危険だろうが、それ以上ではない」
 問いかけには答えられているが、会話に必要な話の幅が一切ない。まるで黄緑さんたちみたいだわと目を据わらせた香玖耶は、噛み砕いて問いかけ直す。
「確か預かり物って、二つ同時には持てないんじゃなかったの? 今の瑠璃さん、二つ持ってる状態なんでしょう?」
「上司が西の魔女となるには、力が揃っていなくてはならない。役目が巡るべく案山子が起った時点で、返されていなかった預かり物は今あれが持って逃げている物だけだ」
「成る程、だから指輪を飲んでいる事実以上には大変じゃないのね」
 ほっとして息を吐くと、剥がすほうに集中していた男性がちらりと視線を向けてきた。
「もしあれが預かり物を無理に二つ持っていたからといって、お前に何の関係がある?」
 不可解だと呟く声は馬鹿にしているようではなく、心底分からないといった印象を受けた。
「関係あるなしじゃなく、危険な事をしている相手を見たら普通は心配するものでしょう?」
「そう、なのか? ……お前は昔の上司と話が合いそうだな」
 あの人も分からない主張が多かったと肩を竦めた男性に、昔の? と聞き返すと無造作に頷かれる。
「今はまだ完全ではない。あれが戻ればまた変わるのだろう」
「あれって、瑠璃さんが飲み込んだあの指輪? 鴉さんが刺青をあれに移すのは見てたんだけど、あれは何なの? 燕さんは確か、上司さんの一部、みたいな言い方をしていたけど」
 上司は世界に残る為に四つに分かれた、のだったか。一度は怖い意味で受け取って慌てたものだが、結局あれが何なのかは聞かされていない。
 男性は再び張り紙剥がしに戻りながら、どうでもよさそうに答える。
「あれは上司の一欠片だ。一番大事で、一番どうでもいい物」
 謎かけみたいな言葉は、彼らの世界共通の癖なのだろうか。恨めしげに目を据わらせると、初めて男性は僅かに優しい色を浮かべた。
「上司も、よくそうしてあいつを睨んでいた。俺たちの話し方は、別の世界の人間にはついていけないのだったか」
 回りくどいらしいなと肩を竦めた時には、見間違いかと思うほど淡々としている。
「だが、俺たちは上司ほど物事をそのまま言い表わす事はできない。それはその物体の真名にも通じる」
「あ。ごめんなさい、あなたたちは気安く真名を口にできないのね」
 香玖耶の謝罪にも適当に頷いた男性は、とりあえず端まで剥がしたところで縮こまった身体を伸ばすように伸びをして見下ろしてきた。
「俺はまだ張り紙を剥がさねばならないが、まだ何か聞きたい事があるのか」
「瑠璃さんが行きそうな場所に心当たりはない? それと、どうして瑠璃さんがあれを持って逃げているのかも分からないかしら」
 他にも聞きたい事はあるのだが手始めにと尋ねると、そんな事かとばかりに男性が片眉を跳ね上げた。
「行きそうな場所は知らないが、理由ならはっきりしている。王が命じたからだ。あいつは気紛れで分かり辛くて皮肉屋でどうしようもない奴だが、それでも自分の【世界】を見捨てられるほど薄情ではない。より確実に助かる方法を思いつけば即座に実行に移す、そしてあれは猫にされてなお愛情のままにそれに従う」
 それだけだと答えると義理は果たしたとばかりに離れて行こうとする男性の服を捕まえ、分からない事が増えすぎよ! と必死で引き止めた。
「猫にされたって、瑠璃さんは元々猫じゃなかったの!?」
「……お前は、猫がオズを倒せると思うか?」
 猫だぞと真顔で聞き返され、ぐっと言葉に詰まる。
 この街は時に問答無用すぎて、感覚が麻痺していたのだろうか。冷静に考えれば世界を救う勇者ご一行様の中に、単なる猫がいて何かの役に立つとは思えない。ひょっとして彼らの世界ならあるかもしれないなと思ったのだが、どうやら有り得ない事態に分類されるらしい。
「じゃあ、勇気のないライオンだった頃の瑠璃さんは猫じゃなかったの?」
「違う。世界が変わるまでは、あれは人だった。あいつが世界になった時、あいつがあれを猫にした。猫になってからも、あれは勇気のないライオンのままだった」
「ちょっと待って、色々待って! 世界になったあいつっていうのは、鴉さんよね? 鴉さんが瑠璃さんを猫にしちゃったの!?」
「そうだ。あれは自分を好く者全てを排除すべく動いた。けれど結局弟は懐いたまま、あれは未だに愛したままだ」
 無駄な事をする奴だと、罵るでもない代わり同情もしない様子で男性が言う。聞きたい時はずっと伏せているくせに、どうしてこんな時ばかりぽんぽんと情報を与えられるのだろう。
 瑠璃が人で、鴉を愛していた。鴉は嫌われようと弟には辛く当たって、瑠璃は猫にした。
 それならば、上司は? 彼は上司には何もしなかったのだろうか。
「鴉さんが自分を好いてくれる者に何かしたなら、上司さんにも何かしたの!?」
「別に何も」
 事実だけを答える男性は、それ以上口を開かない。
(上司さんは鴉さんを愛してなかったの、ドロシーじゃないの? それとも鴉さんも彼女を愛してたから、何もできなかった……?)
 思わず考え込んでいると、離してくれと声をかけられてはっと我に返った。服を捕まえたままだと気づいて慌てて離そうとしたが、まだ聞きたい事があるのだと頭を振った。
「瑠璃さんが人に戻る方法は分かってるの?」
「世界がなくなれば、力は消える」
「っ、なら鴉さんはまだ生きてるのね!?」
 よかったと息をつきそうになったが、男性は時間の問題だと自分の手を見下ろした。
「世界は自ら生命を絶てない。崩壊しかけた世界は、案山子たちの力でのみ傷つけられる。あいつは誰にも世界を継がせない為、致命傷を避けて案山子の攻撃を受けた。世界には自浄作用はないが、治癒能力はある。治す力と殺す力が鬩ぎあって、今のあいつは死より苦しい事態に陥っているだろうが……」
 まだ生きているようだと何かを確認するように軽く拳を作りながら答えた男性に感傷に浸る様子はなく、もういいだろうと緩く香玖耶の手を解いた。
「そんな……、どうして鴉さんを助けようとしないの、助ける方法はないの!?」
「誰かが世界を継げば、その時点で死ねるはずだが。あいつはそれを最も望まない」
「違うわ、殺す方法じゃなくて助ける方法よ!」
 睨むように見据えて叩きつけるように言うのに、男性は冷たすぎる色の目で見下ろしてきてゆっくりと口を開いた。
「助けたいなら尚更、殺してやるしかない。あいつはもう十分に歪んだ……、世界は壊れる。いや、世界を押し付けた時からあいつは既に壊れていた」
 滅ぶのが望みならば叶えるだけだと、彼もまた燕と同じく覚悟を決めた顔で言う。香玖耶は口を開こうとして失敗し、固く拳を握り締めながら俯いた。
 男性が離れていく気配がしていたが、しばらく離れたところで足を止めたらしい。
「もしまだあれを探してくれる気があるのなら、早めにしたほうがいい。あいつが死ねばあれは人に戻る、……指輪を飲み込んだまま」
「っ、まずは瑠璃さんを見つけるのが先決ね。分かったわ、探してくる。あなたはどこに?」
「張り紙を剥がしている」
 上司の命令だと背を向けたまま答えた男性がどんな表情をしていたかは分からないが、強く頷いた香玖耶は踵を返して走り出した。



 香玖耶は風の精霊を呼び出して、猫探しを始めた。シルフと呼ばれる小さな精霊なら、猫が入り込みそうな狭い隙間もくまなく探してくれるだろう。
「それと一緒に、杏さんも探してくれる? 瑠璃さんにも話を聞きたいけど、猫の姿のままなら言葉が分からないから」
 話すという意味では人に戻ってほしいものだが、指輪を飲んだままでは猫の時より大仰な事態になるだろう。鴉がいつ死んでもおかしくないなら尚更急がないと、と急いていると、精霊がふわりと髪を撫でて一方向を示した。
「瑠璃さんじゃなくて、杏さん? ありがとう、あなたたちは続けて瑠璃さんを探して」
 お願いねと頼んで示されたまま杏たちがいるほうへと足を向けると、杏の他に既に三人見知った顔が揃っている。
「杏さん」
「香玖耶はん! 何、自分も瑠璃はん探し?」
「やっぱり杏さんたちもなのね。何か手がかりでも見つけた?」
「あかんわー。せやかて瑠璃はん、すぐ側におったのに逃げはってんで!」
 別に苛めたりせぇへんのにと憤慨している杏に、香玖耶はそうと眉を顰めた。
「今、張り紙を剥がしてた元樵さんを見つけて話してきたんだけど」
「元樵……、ではあの猫はひょっとしてライオンなのか」
「そうよ。鴉さんが案山子、瑠璃さんがライオン。樵さんの名前は知らないけど、その三人があなたたちが継いだ役目の前任者らしいわ」
「勇気のないライオンは、確かミケランジェロさんだったな。二番目に世界を壊すと起った者、だったか」
 確認するように白闇が目を向けると、ミケランジェロも何度か頷いた。
「あの黒尽くめに次いで前任の世界を壊すと決めたのが猫って事か……、あの世界は何でも有りみてェだな」
「あ、それについては訂正。元樵さんが言ってたんだけど、瑠璃さんって元は人だったみたいよ。もう一つ、彼女が指輪を飲んで逃げてるのは王の命令で、それに従ってるのは彼女が鴉さんを愛してるから、らしいわ」
 思いきり不審げに聞き返されたのは伏せながら告げたそれに、全員が一様に驚いた目を向けてきて言う。
「愛してる? ……あれをか!?」やで!?」だろう?」デスよ?」
 一斉に不審げに口を揃えられ、驚くのはそっちなのねと苦笑しながら香玖耶は頷いた。
「元樵さんはそう言ってたわ。だから彼女は、王の命令には逆らえないんだって」
 肩を竦めるように答えると、白闇が考え込んだ様子で口を開いた。
「他人の趣味はさておくとして、あの猫が人だったのなら誰かに猫にされた、という事だな」
「そんな事する奴ァ、あの黒尽くめ以外ねェだろ」
「正解。樵さんに曰く、嫌われようとしてそうしたらしいんだけど」
「嫌われたくて猫にするデスか」
 分からなさそうにするジャスパーに、私も分からないけどと息を吐く。
「瑠璃さんは、世界が消えたら元に戻るらしいの。あの人たち誰も鴉さんを助ける気はなさそうで、今にも死ぬだろうって答えられたわ」
「ちょお待って。ほな鴉はん死なはったら瑠璃はんは」
「指輪を飲んだまま戻る、か」
 取り出すのが余計に手間だなと呟いた白闇に、面倒臭ェとミケランジェロが頭をかいた。
「とりあえず、あの野郎が生きてる間に探せって事だな。しゃあねェ、あのチビを引き摺ってくるか」
「それもいいが、前回から話には出ている上司とやらの指示は仰げないのか? 探すように指示をしたのはまた別人か?」
 白闇が指摘すると、杏があっ! と声を上げて、ごそごそと紙を取り出した。
「植村はんが持ってはったこれに、連絡先書いてあったよーな」
「っ、連絡が取れるの!?」
 それなら話がしたいと香玖耶が強く主張すると、ミケランジェロはそっちは任せたと手を揺らした。
「俺は適当に猫を探しながら、あのチビをとっ捕まえる」
「あ、ほなうちもそっち行こ。こっちは香玖耶はんに任した」
「じゃあ、どこかで合流しましょう」
「でハ、これ差し上げますデスよー!」
 言いながらジャスパーが手を差し出すと、そこにぽんと花が咲いた。
「声はどっちも聞こえるにスルといいデス。後で話す纏めるナイですカラネー」
「めっちゃ可愛え通信機やな。ほなこれは是非ミケはんに、」
 言いながらいそいそとミケランジェロの髪に挿そうとする杏に、やめやがれとかなり本気で抵抗したものの結局根負けして、ツナギのポケットに可愛らしく挿されるので落ち着いた。
「有り得ねェ……」
「似合うてるて、可愛え可愛え」
 何の慰めにもならないだろう台詞を繰り返してミケランジェロの腕をぽんぽんと叩いた杏は、ほなと手を上げた。
「とりあえず、坊のとこ行ってくるわ。お互い、瑠璃はんは見つけたら即確保の方向で」
「了解デスよー。ツバメさんも見つけたら確保スルいいデスねっ」
 ぐっとジャスパーが拳を作り、せやんねーと杏がけらけら笑っている横で白闇がちらりと不憫そうな目をミケランジェロに向けている。
「慰めの言葉は必要か?」
「いらねェ、つか触れんじゃねェ……っ」
 一言でも洩らしやがったら暴れてやると低く呟くミケランジェロに、香玖耶もかける言葉が見つからなくてついと視線を外した。
「こっちは上司さんと連絡を取っておくわね」
「ああ……、俺は猫娘が暴走しねェように押さえつけときゃいいんだな」
「え、えーとえーと、……が、頑張って」
「その程度しか言いようがないな」
 迷った末に香玖耶がかけた言葉に、健闘を祈るとやたらと重々しく白闇が頷き、ミケランジェロは苦笑気味に息を吐くと杏の襟首を捕まえて歩き出した。



「電話スルしますデスか?」
 揺れるサイネリアを見送りながら手を振っていたジャスパーがそう問いかけると、香玖耶は手渡された張り紙を眺めながら頷いた。
「この番号、携帯電話かしら。上司さんって意外とこっちの世界に通じてるのね」
「電話はあるのか?」
「それなら勿論。トラブルバスターには必需品よっ」
 言いながらすちゃっと携帯電話を取り出した香玖耶を眺めながら、白闇は何度か頷いた。
「さすが何でも屋だな」
「トラブルバスタ……、──いいわ、何でも屋で……」
 何だかがっかりした様子で呟いた香玖耶が電話をかけるのを見守っていると、しばらくして繋がったようだった。
「もしもし。あの、西の魔女さん、でいいのかしら?」
『ええ。ルリネコを見つけてくださったのですか』
 電話の向こうから凛とした声が側で聞いているジャスパーたちにも聞こえ、先ほどミケランジェロに持たせたサイネリアと対になる胸ポケットの花を確認すると向こうにまで聞こえているらしい。
「ごめんなさい、まだ瑠璃さんは見つけられてないの。それについてあなたは彼女が行きそうな場所に心当たりはないかしら?」
『それが分かっていたら、ハリネズミに直接行かせたのだけど。あの子は私から離れる事しか考えていないでしょう』
「ハリネズミ? それはひょっとして私の前任の樵か」
 白闇が思わず尋ねたそれは、香玖耶が通訳するでもなく西の魔女にも届いたらしい。
『そう、あなた方がカラスを倒してくれたのですか』
 それはありがとうとあまり実感のこもらない様子で礼を言われ、サイネリアを通してミケランジェロの声が聞こえる。
【あの黒尽くめは、お前の部下なんじゃないのか。倒されたって聞いて礼を言うほど手ェ焼いてたのか】
『手を焼くというと、そうかもしれませんね。彼は、あの世界の誰より分かり辛くどこまでも皮肉屋で面倒な男だったから。あなた方こそ手を焼いたでしょう、ご迷惑をおかけしました』
 相変わらず淡々と謝罪され、向こう側でミケランジェロがやり辛そうに頭をかく姿が見えるようだった。
「カラスさんの上司さんは、寝るしてマシタですよネ? ルリさんが預り物を飲むしてマスのに、起きられたデスカ?」
 不思議に思ってジャスパーが尋ねると、ああ、と吐息を吐くように答えた。
『私は三つ揃えば目が覚めます。西の魔女として行動するのに、もう一つはなくても支障ないのです。ただ少し困った事態が起きるだけ』
「支障はないのに困った事態とは何だ?」
 おかしなことを言うと白闇が不審げに聞くと、電話の向こうでそっと溜息をつかれた。
『影響されたつもりはなかったのですが、どうやら私も毒されているようですね……』
 ごめんなさいと今度は少しばかり気持ちがこもったように謝罪して、するりと布が擦れるような音がした。白闇が退がれと指示した時にすうと空間が裂け、その向こうから女性が現れた。
「っ、あなたが……ドロシーさん?」
 躊躇いながら香玖耶が尋ねると、現れた女性は無造作に頷いた。
「もうあなた方には聞き慣れた言葉かもしれませんが、その役目は既に巡りました。けれどカラスが案山子だった時、異世界から呼び出されたドロシーは私です。元の名は世界に取られたままですから、好きなように呼んでください」
「キミドリさんたちに、ちょっと似てるデスねー」
「彼女たちは私の力を三つに分けた物。似ていても不思議はないのでしょうが、私は会った事がないので分かりません」
 あまり感情の乗らない声は、電話越しだったからと言うわけではなさそうだ。白闇は彼女をしばらく見つめ、眉を顰めた。
「申し訳ないが、ムービースターである事を除いて特にこれといった力は感じ取れない。本当に、あなたがあの悪趣味な男の上司なのか?」
 前回の依頼主でさえある程度の力は感じ取れたがと眉を顰めたまま白闇が尋ねたように、ジャスパーにも彼女から力を感じ取れない。確かに今空間を裂いて出てきたはずなのに、彼女がそれをできたとは到底思えない。
 偽者? と香玖耶でさえ少し身構えるが、彼女はゆるりと頭を振った。
「私は彼らのような特殊な力は持たないのです。私が持つのは、異世界から来たという事実に帯びた力だけ。それはあの世界では強力な力でも、元の世界では平凡なOLに過ぎません」
【OL? おふぃすれでぃー、の、あのOL?!】
 サイネリアから驚いた杏の声が響き、全員で目を瞠っていると彼女はそうですと何の気負いもなく頷いた。
「ここは私の知っている街ではありませんが、私は日本生まれです。向こうの世界には会社という仕組みはありませんし、彼らが私を上司と呼ぶのはカラスの詭弁です」
 初めて会った時から彼は性格が捻じ曲がっていましたからと溜め息混じりに説明されるそれに、全員が思わず深く頷く。ご迷惑をおかけしていたのですねと幾らか申し訳なさそうにした彼女は、先ほどの質問に答え直しましょうと白闇に視線を変えた。
「ルリネコが持ったままの指輪が私に戻らずとも、私は何ら困りません。ですがルリネコは、あれを飲み込んでいるのでしょう? カラスが息絶えた時、世界は崩壊する。世界の力を帯びた物がどんな作用を及ぼすか、分かっていません」
 世界に殉じさせたくはないのですと続けられ、指輪を飲んだ猫以上に危険じゃないの! と香玖耶が悲鳴めいた声を上げた。
「ハリネズミがそう言いましたか? そうですね、作用しない可能性もありますから」
 その場合はその程度の危険ですみますねと頷いた彼女は、ジャスパーたちを見てきた。
「最悪の場合、指輪は破壊してもらって構いません。ルリネコの生命のほうが大事ですので、どうか助けてやってください」
 お願いしますと頭を下げた彼女に反応しかねていると、サイネリアが揺れた。
【瑠璃はんは助ける気ぃやしええねんけど、その指輪て結局何なん? うちとしては実は銀の靴で、ドロシーはんが元の世界に戻るんが嫌で持って逃げてはんのか思てたんやけど】
【日本育ちなら、今元の世界に戻ってるって事なんじゃねェのか】
【せやねん、おかげでますます意味分からへんねん!】
 どないやのとサイネリアに詰め寄る姿まで見えるように杏が問うそれに、彼女は少しだけ躊躇った後に口を開いた。
「心です」
「……心?」
「ええ。私の心」
 それだけですとどうでもよさそうに答えられ、向こう側から杏が抗議しかけた気配はしたが実際には悪ィとミケランジェロの声が届いた。
【あのチビを見つけた、あいつにその声は聞かせたくねェ】
 聞かせねェで繋いだままでいられるかと確認されるので、無理デスと咄嗟に答える。
【なら悪ィが切ってくれ】
 後で探すと言われた言葉を最後にジャスパーが伝達を中断すると、彼女が興味深そうにこちらを見ているのに気づいた。
「誰に私の声を届けたくないと?」
「きっとツバメさんデスねー」
「そう。それなら私は近寄らないほうがいいでしょうね」
 私はあの子に嫌われていますからと頷いた彼女はそのまま踵を返しそうだったが、待って! と香玖耶が腕を取って引き止めていた。
「あなたは鴉さんに心を預けていたの?」
 どうしてと香玖耶が眉を顰め、白闇が疑問を続ける。
「確か頭の悪い案山子が欲しがっていたのは、智恵のはずだろう。心を得たがっていたのは樵だ」
 どうして案山子が心を持つと重ねられ、彼女は少しだけ視線を彷徨わせた後に諦めた。
「ルリネコには私の生命を。勇気のないあの子には、生命を守る事でそれを得てほしかった。ハリネズミには私の身体を。心を抜いた身体に入って何かを感じ取れたなら、それは彼の心がそこに有るという事。そうして残った心を、カラスに」
 呟くように答えられたそれに、消去法デスかと呟くと彼女は初めて自嘲敵ながら笑みらしき彩を浮かべた。
「──いいえ、いいえ。これは全部、後付けの理由です。私はただ、カラスに私の心を持っていてほしかった。世界に残ると決めた時、彼は二度と私を許さないと分かっていた。それでもあの世界は私にとって離れ難い場所になっていたから……、彼が世界になるのならば、尚更。私はあそこを離れたくなかった」
 それはきっと切ない告白なのだろうが、そう聞こえないのは彼女の声に感情が込められていないから。心のない彼女にとって過去の記憶を辿って言葉にしているだけ、誰かに届くほどの想いはそこに乗らない。
 それでも香玖耶は痛ましげに顔を顰めていて、どうしてと強く彼女の腕を握り締めた。
「あなたは鴉さんを愛していたんでしょう? それならちゃんと伝えるべきよ、今なら助けられるかもしれないんでしょう!? 私も手伝うから助けに、」
「彼を助ける気があるならば、見捨ててください」
 詰め寄る香玖耶に静かに答えた彼女は、詰めたすぎる眼差しで紫の瞳を見据えるとにこりともしないで続けた。
「彼の【世界】はとても狭く小さく、ただ弟を中心にした僅かな人間しかいない。それが亡くなればいっそ世界ごと滅びる事もできたでしょうに、彼が生きている以上、私たちも生き永らえ続ける。彼は自分だけの【世界】は絶対に壊せない。けれど誰にも世界を継がせたくない。──死ぬ事さえ許されず、彼がどれだけの長い間、世界で在り続けたか。ここにいる何方も特別な力をお持ちなら、少しはその残酷さを理解して頂けるのでは?」
 ひたと香玖耶の目を見据えたまま、彼女は続ける。
「あの世界は残酷です、たった一人に世界の維持を押し付ける。それができないほど混迷した時、初めて世界は【オズ】になる。世界を継ぐ覚悟をした者が四人だけ、オズを滅ぼして世界になる権利が与えられる。その内の一人は、必ず異世界の者であるように定められています。そしてその異世界の者が世界になる率が高いのは、その残酷なシステムを十全に理解していないから」
 そんな世界なんですと淡々と説明され、ジャスパーも知らず眉根を寄せる。
「彼ほど意志の強い人は、そうないでしょう。これがただの物語なら、彼はとびきりいい王です。絶対にオズになる事なく永遠に世界を治めました、とハッピーエンドのように語られるでしょう。けれどそれは、たった小さな【世界】の為だけに彼が犠牲になり続けるという事。狂えず、壊れられず、ただ連綿と時間だけを紡ぐ。それを絶え難く思うのは罪ですか」
 彼らが定めたルールに抗議するように問い詰めながら、彼女の言葉に棘はない。落ち着き払った声は、心がそこにない為だろう。だからこそ余計にそれが突き刺さり、それでもとかけられる言葉を探していると白闇が口を開いた。
「それを理由に、あなたは愛した相手を殺すのだな」
 責めるのではない淡々とした事実の指摘は、彼女のそれと変わらない。心がないはずの彼女が揺らぐはずもないのに、その眼差しがふらりと揺らいだ。
「誰かが死んだら、悲しいは一杯溢れるデスよ。何にも大丈夫なコトないデス! カラスさんは死にたくても死ぬは駄目デス、だって皆悲しいのコトですヨ!」
 誰かが悲しいは嫌デスと主張するジャスパーに、彼女はそんな無茶をと目を伏せた。香玖耶はその彼女の腕を捕まえたまま、伝えなくちゃと囁くように、けれど強く訴える。
「あなたのその言葉、ちゃんと鴉さんに伝えなくちゃ! 鴉さんの気持ちだって聞かなくちゃ駄目よ、今ここでしかできない事って死ぬ以外にも一杯あるでしょう!?」
 死ぬのなんて最後の最後でいいわ! と強く断言した香玖耶に、彼女は力なく項垂れて取られていないほうの手で顔を覆った。
「やめてください。私は既に、カラスを裏切った。彼の【世界】は誰も彼の死を責めないのに、私が止める事など許されない……っ」
「「「許す!!!」」」
 誰が文句をつけるんだと白闇が聞き返し、そんな奴は私がぶっ飛ばしてあげるわ! と香玖耶が拳を作る。デスねーとジャスパーは笑顔になり、差し出した両手に一杯の花をぽんと出現させた。
「心ナイのは嘘デスねー。綺麗な花を見て笑うスル人は、心が動くした証拠デスのコトよ」
 あげマスと差し出した花束を受け取った彼女は、泣き出しそうな顔を隠したげに花束を抱き締めてありがとうと呟いた。



 今まで存在を聞くだけだった上司との話の続きは気になったが、通信を切らせたミケランジェロを責める気になれないのは彼らを見つけて急いで逃げ出した少年を追うほうが大事だからだ。
「ちゅーか何で逃げるん!?」
 気ぃ悪いわぁと声を低めると、どうして追いかけて来るんだよと悲鳴めいた抗議が返るので無邪気を装って首を傾げた。
「逃げた獲物はとっ捕まえるんが猫の性やし?」
「っ、だから猫なんか大嫌いだーっ!」
 わけ分かんないよと叫びながら足を止めない二代目案山子に、面倒臭ェとやる気なく追いかけていたミケランジェロが足を止める。何してはるん? と追いかけながらも投げるように問いかけるが、彼は答えないまま手にしていた紙の束にさらさらと何かを描いていく。杏が思わず足を止めると、ミケランジェロはどこか楽しそうに目を細めて振り返ってきた。
「ほら、これなら満足だろ」
 その言葉を合図のように壁に描かれた黒い小さな鳥──燕が飛び出してきて、一直線に少年を追いかけていく。気配を察して振り返った燕は悲鳴を上げる間も惜しんで速度を上げるが、実際の燕に敵う速度は人の身では望むべくもない。そう遠くなくあっさりと囲まれた少年は、纏わりついてくる同じ名の鳥を追い払うべくを足を止めて腕を振り回している。
「うにゃあ、思わず一羽叩き落とすとこやったやん」
 みすみす見逃すやなんてと我慢して堪えた拳を震わせながら文句を言うのに、鷹揚に歩いて近寄ってきたミケランジェロはそれは悪かったなと口の端で笑う。
「でもまァ、鳥には鳥だろ」
 捕まえたらいいじゃねェかと肩を竦めながら燕を振り払っている少年に近寄ったミケランジェロは、睨みつけてくる少年の襟首を捕まえて持ち上げた。
「人の顔見て逃げるなんざ、気の悪ィチビだな」
「煩いデカブツ! でもお前なんか、兄者より全然でっかくなんかないんだからなっ」
「いやいや、それ無理あるんちゃう? 実際あのお人とミケはん並んだら、ミケはんのほうが大きかったやん」
「っ、そんな事あるかっ。兄者のほうがでっかいに決まってる! ひ、人としてとか何か色々っ」
 あまりにも無理のある主張を続けた少年からミケランジェロが手を離したせいで、少年は尻餅をついて痛そうに蹲る。
「悪ィ悪ィ、うっかり手が滑った」
「〜〜っ、うっかりですむか……っ」
 痛い〜っと聞こえない悲鳴を噛み殺しながら少年が抗議するのも無理ないほど、痛そうな音がした。杏はちらりとミケランジェロを見上げると、うんうんと何度となく頷く。
「あの大人気ない事この上ない旦那はんより人間小さい言われたら、そら切れるわなぁ」
「……別に気にしてねェぞ、手が滑っただけだ」
「せやねー、ミケはん器大きいから?」
 揶揄するように目を細めながら語尾を上げた杏は、痛いくせに意地でも逃げようとしている少年に気づいてはしっと服を捕まえた。
「坊も、ええ加減諦めよし。何で逃げんのん?」
「逃げてないよ、別に!」
「まァ、お前の行動は読めるけどな。大方、これを探してンだろう?」
 言いながらさっき燕を描いた紙の束を引っ繰り返したミケランジェロに視線を走らせた少年は、さっと目を逸らして違うよと吐き捨てる。
 ミケランジェロが手にしているのは、迷惑極まりなく続いていた迷い猫の張り紙。あまりに情報が少ないそれは、けれど見る人が見れば瑠璃を探しているのは分かる。少年が気づかないはずもなく、相変わらず嘘の下手な少年は顔を逸らした先でふらふらと視線を彷徨わせ続けている。
「まだ瑠璃はんの事狙てんの? 懲りひんちゅーか何ちゅーか、……もう狙う理由かてないやろな」
 瑠璃が持つ一つを返さなくても上司は既に行動している、今更壊したところで何かが変わるとも思えない。瑠璃を連れ戻すのならまだしも、あの指輪を破壊なんて少年が最も厭う「兄に逆らう」事ではないのか。
「別にあんな猫、狙ってないよ」
 どうして僕がと顔を背けて吐き捨てられるが、少年の目は攻撃的な光しか浮かべていない。これで保護する気だと言われても信じられるはずがない。
「それなら、何でお前はこんなところをうろついてンだ?」
「……煩いな、お前もあの女も出歩けって散々言ったじゃないか! だからだよ、散歩だよっ」
「お前が誰かに言われて動くタマかァ?」
 たった一人を除いて、少年を動かせる相手などいない。そしてそのたった一人は既に少年を動かせず、ならば少年が自主的に動くのは「自分で考えた兄の為になる事」だけだろう。
「なぁ、瑠璃はん狙うとか阿呆な事もうやめとき」
「だから狙ってないって言ってるだろ! あんな猫、どうなろうと僕の知った事か!」
 煩いよと癇癪を起こしながら立ち上がった少年は、まるで敵でも見るように睨んでくる。
「兄者があれを返すって依頼したのは、世界としての役割を果たす為に已む無くだ! あんたはそれよりいい方法を教えてくれたから、ちょっと……ほんのちょびっとだけは感謝してるけどっ。でもあれを取り返そうなんてするなら、容赦しない」
 じり、と後退りながらも視線を外さない少年の言葉は杏に向いているようで、はぁ? と思わず聞き返していた。
「うち、あの旦那はんに何もアドバイスしたった覚えあらへんけど」
 何の話と眉を顰めると、いつでも攻撃できるようにモップを構えながらミケランジェロが口を開いた。
「指輪を飲む、ってあれじゃねェのか」
「え、何が? うちそうやって運んだげよかて、」
 言いながら、指輪を飲んで逃げた瑠璃の姿がいきなり脳裏に浮かんだ。
 そう言えばさっき白闇は、彼女の台詞で爆笑したという事は彼にそんな発想がなかったのではないか、と言わなかったか?
 王の命令に従った瑠璃。王の中になかった発想を与えたのは、それでは。
「瑠璃はんが今指輪飲み込んでんのてうちのせい!?」
「そうだよ。兄者はあの時、そうしたほうが確実だって悟ったんだ。あの猫がここを逃げ回ったら、連中もこっちに出て来ざるを得なくなる」
 ぎり、右手の親指を噛んだ少年は、悔しそうに眉を顰めた。
「指輪を返しに行ったあんたたちが、あの女にこっちに来るよう説得したって聞かない率は高い。そしたら僕が……、兄者を──っ、兄者を刺す、意味が、ないじゃないかっ」
 あいつはいつでも兄者を踏み躙ると怒鳴るように吐き捨てた少年が拳を振り上げる前に、モップが繰り出されて少年の腕を留めた。
「やめとけ。こんなとこで無差別に攻撃始める気か?」 
「無差別? 馬鹿にすんなよ、僕の力は世界を壊して威力を増したんだ、そんな間抜けを、」
 するはずがない、と続けた勝ったのだろう少年の言葉は、途中で途切れた。

 ぷつり、と、糸が切れたというのが一番近い表現だろうか。今まで張り詰めていたはずのそれが切れて、幕が落ちた。
 ミケランジェロは押さえていた少年の腕から力が抜けたのを感じて咄嗟に手を伸ばし、崩れ落ちる少年を片手で受け止めていた。
「瑠璃はん!?」
 いつからそこにと杏が驚いた声を上げるのを聞いて、少年の足元にいる青灰の毛並みの猫を見つける。いくら少年に気を取られていたとしても見つけられないはずがないこの距離で、彼らの目を覆っていたのは威力を増したという少年の力だったのだろう。
 その効力がいきなり切れた理由は一先ず横に置いて、捕まえろと声を尖らせると杏がはっとしたように猫を両手で抱き上げた。彼女も何となく嫌な予感がしているのだろう、そのまま急いだ様子で猫に指輪を吐かせるべく取り掛かっている。
 そちらは杏に任せてミケランジェロは少年に視線を戻し、おい、と軽く揺らす。一応小さな反応は見せたが何も声にされず、少年は彼の手を伝うように崩れ落ちてへたり込んだ。
「力が……、消え、る」
 呟いた声をきっかけに、何かがざらざらと少年の中から抜け落ちて行くような感覚があった。間に合うて! と切実な杏の声で目をやると、猫の口からころんと指輪が転がり落ちる。よかったと息を吐く間もなく猫が人型へと姿を変えていて、どうやら少年にとって最悪の事態が起こったのだと理解した。
「兄者……!」
 本当に消えちゃったと顔を覆って嘆く少年を見下ろし、その側で空を見上げて泣く女性を見てから杏へと視線を変える。とりあえず転がり出た指輪は確保しているらしいが、いまいち現状についていけない顔で杏が見上げてくる。
「えーと、瑠璃はんが人やったんは聞いたけど、……これて」
「あいつが死んだんだろう」
 どうでもよさそうな声が唐突に後ろから届き、批難がましい視線を受けているのは大量の張り紙を抱えて歩いてきた男性。
「何しに来た、お前!」
「張り紙の回収だ。……瑠璃猫、元に戻ったか」
 特に感情の乗らない声で答えたこの男性が、どうやら元樵だろう。瑠璃猫と呼ばれた女性は今にも噛みつきそうに男性を睨み、けれどすぐに空を仰いで泣き始める。
 何だこの面倒臭い空間はと居た堪れない気分で首の後ろをかいていると、手の中の指輪を示しながら杏が軽くツナギを引っ張ってきた。俺に聞くなと言いたいのは山々だが、ここでそれをこの内の誰かに返せと言うのもまた問題が山積される気がする。
「あー、とりあえずさっきの連中と合流してみるか?」
「ミケはん、問題丸投げしたろう思てるやろ?」
「じゃあ、お前が何とかしてくれるってのか」
「ないすあいでぃあ!」
 人生困った時は丸投げやでと誉められない事で親指を立てた杏がどこまで本気かはさておき、合流するにはまた花が通じてくれると助かるんだがなとポケットに挿されたままのそれを見下ろすと、計ったように揺れた。
【ミケランジェロさん、応答するデスよー】
「っ、声がでかい、この似非魔法使い!」
「似非ナイですよー!」
 何回言うシタラ理解するデスかと指を突きつけてきたジャスパーに思わず仰け反り、どこから出やがったと思うと残りの面々も駆けつけてくるのが見える。
「……ここまで来てたンなら、花を使う必要どこにあったんだ?」
「ノリです」
 世の中で最も重要聞きマシタ! と真顔でどきっぱり断言され、反論する気も失う。額を押さえて叫び出すのを堪えていると、ルリネコ、とどこか硬い声が女性を呼んだ。
 弾かれたように顔を上げた女性は呼んだ相手を見つけ、複雑な顔をしながらあなたが! と叫んだ。
「あなたが世界になればよかった! そうしたら、そうしたら鴉は死なずにすんだのに……っ」
 鴉が消えてしまったと嘆きながら叫んだ女性の言葉に、香玖耶の側にいる表情の凍った女性がそうだなと俯いた。
「でもカラスは、それを許さなかった」
「兄者が世界になったらお前は帰ればよかったんだよ、だって兄者はお前を帰してやる為だけに世界になったんだから!」
 どうしてそうしなかったんだと少年も声を上げて責め、彼女は消え入りそうな声でそうだなと繰り返した。
「大事な相手が死んで動揺するのは分かるが、言の葉を紡ぐのはもう少し慎重にしたほうがいい。あなたたちも真名を持つのならば、名と言葉の重要さを少しは知っているのだろう?」
「そうよ、彼女を一方的に責めたって何も始まらないじゃない。それにあの人だって身勝手だったんじゃない? 短い間しか知らないけど……、それでも彼が身勝手なのはよく分かるもの」
 溜め息混じりに白闇が指摘し、話し合う事だってできたはずなのにと香玖耶が口惜しそうに拳を作ると、身勝手なのはそっちのほうだ! と少年が彼女を指した。
「自分が帰りたいって言ったんじゃないかっ。僕らの世界なのに、あんな場所にいたくないから帰りたいって! だから兄者はあんたを上司として仰いでやるって言ったんだろ、上司の命令には逆らえないってあんたが兄者に教えたんじゃないかっ」
 殴りかねない勢いで叫ぶ少年の頭を押さえつけるようにして留めながら、ミケランジェロは何の話だと眉を顰めた。どうやら今まで一緒にいた三人も聞いてないのか分からなさそうにしていて、それを察した元樵が口を開いた。
「あちらの世界に召喚されたこの方を見つけた時、当然ながら帰りたいと主張された。大事な会議があって、それに出席しないといけない。もし彼女が欠席すれば同僚が連帯責任で酷い目に遭わされる、と言われた」
 淡々と説明されたそれに、思わず全員が上司を呆れた目で見る。彼女は少しだけ眉を寄せて、あの時は思考が破綻していたんですと言い訳めいて説明する。
「とりあえず絶対に帰らなくてはいけない理由を説明したら納得してもらえるかと思ってそう言ったんですが、寧ろ逆効果でした」
「仕方のない事とはいえ、この方はまだあの馬鹿の性格をご存知なかったからな」
 乗せられたんだと嘆くように額に手を当てた彼女に、元樵は何度となく頷いている。
『それなら、あなたが僕らの上司になったらいいんですよお。僕らはオズを倒さなくてはいけないですしー、あなたもオズを倒さないと帰れない。あなたは倒す力がない、僕らは人数が足りない。ほら、利害は一致してるわけですよねぇ? あなたが僕らの上司になってオズを倒してくださるなら……、僕らはあなたの部下として上司の命令に逆らわず世界を倒すと約束しましょうかー?』
 薄っぺらい笑顔で、胡散臭く目を細めて。軽佻な調子で語尾を上げられ、それでも頷かざるを得なかったのはそれしか縋る術がなかったから。
「それだけ帰りたかったら帰ればよかったんだ! 世界になる資格はあんたか兄者にしかなかった、本当なら兄者は世界になんかならずにすんだのに……っ、あんたが帰りたがったから兄者が世界になったんじゃないかーっ」
 懲りずに掴みかかろうとしながら叫ぶ少年を捕まえてぶら下げながら、ミケランジェロは小さくない溜め息をついた。
「それでもそうすると決めたのは、あの黒尽くめじゃねェのか?」
「そうだよ、兄者が決めたんだっ。兄者が決めた事に僕は逆らえない……、でもその女は! 帰らないって言って、いきなり自分から力を抜き取ったんだ!」
「力を抜き取る? そんな事、そう簡単にできるとは思えないが」
 特にこの人にはと白闇が指摘したそれに、彼女は彼らが持つような力ならばと頷いた。
「でも私が持つ力は先ほども言ったように、異世界から来た事に帯びたもの。帰る事を望む間は、私は異世界の者です。けれどそれをやめたなら、力は失われる」
「上司の命令には逆らえない。鴉が彼女を巻き込む為の言霊は、それでも私たちに作用してしまった。だから鴉は、無理やり彼女を世界から弾く事もできなかった」
 それならあなたが世界になってくれればよかったのにとか細い声で泣きながらも批難する女性に、元樵が溜め息をついた。
「言っても詮無い話だ。俺たちの中で一番強い力を持ったのは、あいつだ。あいつが世界になると決めたなら、誰も逆らえなかったろう」
 終わった話を蒸し返すなとぴしゃりと切り捨てた元樵は、こそっと香玖耶たちの側に回っていた杏を視線で追いかけた。今にも香玖耶の手に渡ろうとしていたそれを目敏く見つけ、ああ、と呟く。
「忘れていた。世界が消滅したなら……、私もお返ししなくては」
 咄嗟に杏を後ろに庇った香玖耶が取り上げないでと交渉する前に、元樵は嘆いたままの二人を眺めている上司へと手を差し出した。全員がきょとんとしていると、元樵が手を、と彼女を促す。
 上司は何度か目を瞬かせたが素直に手を出し、元樵が何かを手渡す仕草をすると彼女の掌にぽうと翠の光が灯る。それは何かの紋様を描くと、するりと彼女の腕に巻きつくようにして解けた。
「今の、鴉さんの腕にあった」
「刺青と同じ模様してへんかった?」
 不審そうに杏が首を傾げていると、元樵はお返ししましたと告げて一礼する。
「どうしてこれをハリネズミが?!」
「あいつから預かりました。瑠璃猫が指輪を飲んで逃げた後、無理やり呼び出されまして。猫が心を飲むのはひどく笑える想像だが、死んだ後にどうなるか分からない物を飲ませるわけにはいかない、と。適当に折を見て俺から返せと、押し付けられました」
 確かにお返ししましたと元樵の言葉が真実だと証明するように、彼女ははらはらと涙を流している。
「鴉……っ」
「──最後まで嘘つきデスねー。悲しいが一杯は、嫌デスよ……」
 うるうると自分まで泣き出しそうに呟いたジャスパーは、けれど伏せた顔を上げた時にはその目に一杯の使命感が燃えている──気がする。
「おい、似非魔法使い、何しやがる気だ?」
 嫌な予感しかしねェぞとミケランジェロが引き攣りながら尋ねたそれに、ジャスパーは勿論とにっこりする。
「お別れは悲しいですが、楽しいで華やかに送るスルいいデスよ!」
 言ってジャスパーが両手を広げると、ぶわっと空一面に花が咲いた。見上げた白闇はすかさずその場を離れ、未だに持っていた少年のせいで咄嗟に動けなかったミケランジェロの上にそれらが一斉に落下してくる。
「菊人形ならぬ、ミケ人形? 言うんやろか、この場合」
 けらけらと笑いながら首を傾げる杏に、ちょっと失敗しましたデスのコトよと悪気のない笑顔でジャスパーが言う。胸の辺りまで花に埋まっているミケランジェロは、てめェ、と声を低めながらとりあえず既に埋まってしまっている少年を高く持ち上げて救出してからモップを構えた。
「絶対ェわざとやってやがるだろ!?」
「似非ないデスよー! 分からない人には身を持って知ってもらうがイイのデス!」
「てめぇなんざ似非どころか贋作で十分だっ」
「パチモン魔法使いかー。流行りそうないなー」
 なぁ、と努めて明るい声で杏が同意を求めた少年は、側に落ちている花をぎゅっと握り潰したまま顔も上げない。元樵は似たような女性の側に寄り、手を貸して立たせると地面に落ちた花を示した。
「世界の終焉は、いつだって美しいものではない。次なるに引き継がれて、また悲劇を巻き起こすだけだ。それを思えば自分の望みを果たし、花に満ちた最後を迎えられたあいつはまだ報われるんだろう」
 そうじゃないかとどこか優しく尋ねる元樵に、女性は泣きながらも何度か頷いた。
 香玖耶は側で泣いていた彼女の肩をぎゅっと抱き締めていたが、彼女とうず高く詰まれた花と少年を見比べて、見ててと少しだけ悪戯っぽく笑った。そのままそっと聞こえないような声で何かを囁いたと思うとふわりと風が吹き、詰まれたままの花を高く舞い上げた。
 空一面に広がった花は、先ほど意図して落とされた時とは違ってふわふわと、ひらひらと、ゆっくり時間をかけて降ってくる。
「黒尽くめのあの人にはこんなに彩り豊かなのは嫌がらせかもしれないけど、こんな意趣返しは許容の内よね?」
 自分も泣きそうな顔をしているくせに強がって笑って見せる香玖耶のそれで、涙を拭った彼女もほんの僅かながら口許にそっと色を落とした。



 手間をかけた事を何度も詫び、張り紙も全部回収しておくと確約して西の魔女とその従者は帰っていった。今までいた空間は世界の崩壊と共になくなってしまったらしいので、対策課に向かうらしい。
 互いに複雑な心中を未だに持て余しているようではあったが、幸か不幸か従者たちは魔女に逆らえない。激昂の末の殺し合いなどとは縁がなさそうだから、ただ見送る事にした。
 問題は、未だにジャスパーが出した花の一つを握り締めたまま動こうとしない少年だろう。彼の場合はあの三人と一緒にいさせるほうが困った事態になりそうだし、前回の依頼後に対策課から保護できる施設を既に宛がわれているので帰る場所はあるのだが。
「なぁ、……その、お腹減らへん?」
 帰ろうなと杏が恐る恐る声をかけても反応を見せず、また繰り返しかと痛ましそうな顔を隠したげに頭をかきながらミケランジェロが呟いた。白闇としても二度目で少し衝撃が和らいだとしても、凍ったように動けない姿は確かに不安ではあった。
「ところデ、一つ聞いてもいいデスかー?」
 間が持たないのか花を出しては消して困ったようにしていたジャスパーが、ふと何かを思い出して首を傾げた。かけられる言葉もなく立ち尽くしていた香玖耶が視線を向けると、ジャスパーは出したばかりのバラで杏の手を示した。
「ルリさんが飲んでた指輪、何デシタか?」
「……あ。せやんな、上司はんの心て樵はんが持ってはってんたら、ほなこれは?」
 言いながらそろりと手を開けて中を覗く杏に、つられて全員が目をやる。僅かに緑を帯びた銀の指輪は消えるでもなくそこにあって、白闇以外の全員がそれは確かにあの悪趣味な男がつけていた物だと頷いた。
 少し躊躇った後に香玖耶が貸してもらってもいい? と尋ね、杏からそれを受け取った。大事そうにぎゅっとそれを抱えた香玖耶は、静かに目を伏せて祈るように頭を垂れる。しばらくしてすとんと座り込み、泣き出しそうな顔で笑い出した。
「本当に、あの人って捻くれ過ぎ!」
 信じられないと涙を堪えながら笑う彼女を見て、少年がようやく不審そうな顔を向けてきた。壊れるしマシタか? とどこか真顔で尋ねているジャスパーに、大丈夫よと片手を上げた香玖耶は、片手で出ていない涙を拭うように顔を拭ってから持っていた指輪を少年に差し出した。
「あの人、これを燕君に渡したかったみたい」
「……嘘、だ」
「嘘じゃないわ。私はエルーカよ、残された想いを見届ける者。燕君にも見えるんじゃない?」
 あの人が残した声だものと微笑んで指輪を渡され、少年はおずおずと受け取ったもののすぐに泣きながら俯いた。
「無理だよ……、だってもう世界はないんだ……、……僕の力も……っ」
 もうないよと嘆く少年に、白闇は一つ息を吐いた。
「持って数分だ、見逃さないようにな」
 言いながら魔法陣を描きつけ、指輪に残る想いを視覚化する。系統の違う力が反作用するのか、あまり明瞭とは言えないが少年の手にある指輪から浮かび上がるようにして映像が流れ出す。
 細切れの無声映画みたいなそれは、泣いている少年がもっと幼い頃を映し出していた。
 少しずつ時間が進み、あまりに弱々しく頼りない小さな子供は、今ここで嘆いているほどには成長できたと知っているのにいつ死んでもおかしくないと思わせるほど弱々しかった。それでも無邪気に懐いてくる笑顔がいつもこちらを向いていて、それが確かに少年の兄の記憶なのだと教える。
 やがて少年の側に、幾らか幼い印象を受ける先ほどの女性が現われた。
「ライオンさんデスねー」
「あ? ライオンってのは二番目に世界を壊すと決めた奴だろう? こんな小っせェ時から知り合いなのか」
「……隣に住んでた。兄者が案山子になった時に、一緒に行くって決めた。僕は連れて行ってくれなかったのに……」
 数合わせのくせにと、兄が構ってくれなくなった八つ当たりみたいに呟いた少年は映像から目を離さないまま。言葉ほどにも尖れずに、懐かしむように大事そうに見つめている。
 やがてその映像の中に倒れそうだった少年が見えなくなり、代わりに元樵が現われるようになった。
「あれて樵はんやんな」
 杏が尋ねた頃には少年がぴくりと反応していて、元樵に続いて上司が現われ始めた。
 それからしばらくはその三人がずっと続き、少年が悔しそうに拳を作っているとようやく元気になったらしい少年がまた現われ出した。
「……さっきから他の奴らが出てこねェな」
「先ほど上司だったかが言っていた。彼の【世界】は僅かな人間でしか構成されていなかったと。ここに映る全員だけが、彼の【世界】だったのではないか?」
「鴉はん、ホンマにたったこれだけのお人らの為に世界頑張ってはったんか……」
 幾らか不憫そうな声で杏が呟いたそれに少年は辛そうに眉を顰めたが、香玖耶がその腕をそっと撫でて柔らかく笑った。
「大丈夫、ちゃんと見てて」
 もうすぐよと、多分この場でたった一人先を知っている彼女が促し、ふらりと視線を迷わせた少年はそれでもまた映像に戻した。
 泣き顔が、幾つも続いた。弟も、猫にした幼馴染も、巻き込んだ樵も、──帰らずに残ると決めた女性も。彼女によく似た女性たちは泣きこそしなかったが批難がましく彼を見て、それぞれ諦めたように目を伏せた。
『そう。諦めてくれ、何もかも』
 頭の悪い案山子がする事だからと、諦めてほしい、何もかも。世界を継がせない絶対も、世界を終わらせる気紛れも、彼の【世界】だけは存続させたい我儘も。そして、彼の生命が喪われる事も。ようやく世界は滅んだのだと、いっそ胸を撫で下ろしてほしい。
 言葉にされなくても伝わってくるのは、それこそが指輪に残る想いだからだろうか。
 映像はゆっくりと霞み始め、今にも消えそうになる。
「兄者!」
 待ってと悲鳴を上げた少年を知るように、ぶれて消えかけた映像が僅かだけ持ち直した。
 そこには半分しか見えなかったけれど、少年が嬉しそうに笑っている姿が映っている。
『ああ……、……俺が守りたかったのは、ただ、』
 これだけなんだ、と、満足したような声が終わるのを待つようにして映像も消えた。
 顔をぐしゃぐしゃにして泣く少年は、指輪を抱えたまま兄者と繰り返している。それでもそこに乗るのは悲哀だけでなく、それにほっとして杏が嬉しそうに少年の肩を叩き、いつまで泣いてンだとミケランジェロが少年を持ち上げた。また花撒くデスかと嬉々として尋ねたジャスパーは丁重に断られてがっかりしたようだが、でハこれで我慢しますと大きな花束を出してにこにこしている。
 白闇は少し離れてそれを見守り、嬉しそうにしていた香玖耶がそっとそこを離れようとしているのを見つけた。
「彼と一緒にいてやらなくていいのか」
「ええ、燕君にはまた会いにいけるから。今は杏さんたちもいてくれるし」
 大丈夫でしょうと微笑う香玖耶がどこか嬉しそうなのが気になって、今の映像が全てだったのか? と尋ねていた。少し驚いた顔をした香玖耶はちらりと少年の様子を窺ってから、そうねと頷いた。
「概ね、あんな風だったわ。気を遣って削ってくれたのかと思ったけど、違ったの?」
「あれは別の力が働きすぎていた、見せまいとするそれを押さえ込んで映像にするにはあれで手一杯だった」
 小さく肩を竦めて答えると、香玖耶はそれじゃああの人の都合だったのかもしれないわねと笑った。
「削られた中には、何が?」
「そうね。彼ら風に言うなら、一番どうでもよくて一番大事な物、があったわ」
「……具体的に?」
 眉を顰めて聞き返すと、香玖耶は優しく微笑んだ。
「つぐみ、さん。世界が取り上げた、彼女の名前」
 どこか悪戯っぽく答えた香玖耶に白闇も、ああ、と呟いた。
「残した中に、あったのか」
「ええ。多分、これが彼女の銀の靴ね。もう彼女が望んだ【世界】はないけれど……、返してくるわ」
 彼女に伝えてあげないと、と頷いた香玖耶は、それじゃあと軽く手を上げた。
「まだ対策課にいると思うから、追いかけるわ。お疲れ様!」
 またいつか、と手を揺らして走っていく銀の髪を見送り、白闇は少年を囲んで慰めたりからかったりしている三人へと顔を向ける。泣き顔のままそれでも答えることはできている少年を見つけて、空を仰いだ。
「守りたい者を守って、あなたは死ねたのか?」
 応える声はない代わり、少し冷たい風が吹いて通り抜けていった。

クリエイターコメントお騒がせ続けました黒男関連のシナリオですが、これにてようやく終了です。長らくお付き合いくださいまして誠にありがとうございました!

前回までにもう少し謎を小出ししていればよかったのでしょうが、最後になってざっくりばらすことになったせいでまた文字数が恐ろしいことに……っ。
けれど参加してくださった何方もが、突つき忘れていたところを疑問に思ってくださいましたので、出し尽くせたと思うのですが。色んな意味で救って頂きました、素敵なプレイングをありがとうございました。

結果として黒男はアレな事(アレて)になりましたが、本人的には満足していると思います。もうちょっと責めたってもよかったかなと思いましたが、残った側を気にしてくださる意見が多かったのでこんな具合になりました。ちょっと詰め込みすぎ感はございますが、皆様のお気遣いが生かせた話になっていれば嬉しいです。

色んな意味でどこまでも長くなってしまった話ですが、最後まで懲りずにお付き合いくださいまして誠にありがとうございました。
公開日時2009-03-12(木) 19:00
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