|
|
|
|
<ノベル>
1.【銀幕市民広場周辺】冬空に惑う
千曲仙蔵(ちくま・せんぞう)は、広場の惨状に思わず眉をひそめた。
「何故、このような……」
冬の、厳しい、しかし青く澄んで美しい空には、何も知らない小鳥たちが無邪気に羽ばたき、囀りを交わしながら木々の向こう側へと飛び去っていく。雲は眩しいほどの白でもって太陽の光を受け、その白を更に輝かせながら、遠くの空へと立ち去ってゆく。
日々において何の変哲もない、牧歌的ですらあるその景色の下では、悲鳴と怒声と慟哭、金切り声を伴って、異様な光景が展開されていた。
対策課の依頼で聞いた暴徒たちは、初めは全部で十三人だった。
――それが、少しずつ増えていることに、仙蔵は気づいていた。
覚えのある、重苦しい、黒々とした渇望の匂いが、仙蔵の鼻をくすぐる。
あの日のことを思い出して、胸の奥が、ぐずり、と重くなった。
他者の声など何ひとつ届かぬような、不可解な利己に凝り固まった顔で、暴徒たちは、銀幕市民広場に点在する様々なものを――それは主に、不思議や軌跡をもたらすムービーハザードであるようだ――奪い、破壊し、踏み躙っていく。
また、悲鳴がひとつ、上がった。
「やめてください、お願い、やめて、壊さないで……奪わないで!」
傷を癒す不思議な、小さな泉とともに実体化した妖精の少女が、涙を流しながら哀願している。
男のひとりが少女を突き飛ばし、泉へ駆け寄ると、泣き叫ぶ少女を置き去りに、暴徒たちは――不気味な渇望に囚われて自分を見失った人々は――、男と同じく、そこへ殺到した。
ちょっとした病や怪我、心の痛みを癒すと評判だった小さな泉に、暴徒たちの、汚れた手が次々に伸ばされるたび、泉は少しずつ削れてなくなっていく。物理的にどういう力が働いているのかは判らない。ただ、一般家庭の浴槽より少し広いくらいの幅を持っていた清らかな泉が、少しずつ小さくなっていくことだけが事実だった。
「やめて……やめてください、お願い、わたしの意味を、奪わないで……!」
失われて行く泉を前に、近づくことも出来ず妖精の少女が泣き叫ぶ。
暴徒たちは、それに視線を向けることすらなかった。
ただ、自分たちの掌を見下ろして、
「……これで、あいつが、助けられる。喪わなくて済む。もう一度、幸せな家庭を取り戻せる……!」
「待っていて、勇輔。すぐに助けてあげる……もう、苦しい思いは、しなくていいのよ……」
「それでも、まだ足りない。私の渇望を満たすためには。……私が壊れずに済むためには。もっともっと、集めなくては。他の何を、犠牲にしてでも」
「欲しい、欲しい……苦しい。手に入れても手に入れても、まだ、苦しい」
「お母さん、今帰るから。この力があれば、お母さんを、楽にして上げられるもの。――ああ、でも、まだ足りないの? もっと、必要なの?」
「欲しい……手に入れたい、手に入れなくては。僕が壊れてしまう前に、他の誰を、何を犠牲にしてでも」
それぞれに、それぞれの言葉で、同じ類いの内容を口ずさみ、顔を覆って泣きじゃくる少女を置き去りに、次なる獲物を目指して、幽鬼のごとくに歩き出しただけだった。
少女の悲痛な泣き声が耳を刺し、半ば呆然とことの次第を見ていた仙蔵は、それでようやく自分を取り戻す。
「……これは、この力は」
先の、コンサート会場での一件を仙蔵は思い出さずにはいられなかった。
魂をかけて仕えるに足る主人が欲しい、その主を得て、里に再び光を、歓びを取り戻したい、そんな渇望を増幅され、善良な人々に刃を向けた。
ほんの一時ではあれ、仕えるべき主人を得た、あのときの幸福を、胸を打ち震わせるようなあの歓びを、仙蔵はまだ忘れられずにいる。しかし同時に、その結果、守るべき存在にまで刃を向けようとしたこともまた、忘れることは出来ない。
あの渇望が、何のために撒き散らされたのか、仙蔵には判らない。
判らないなりに、この、過ぎた渇望が、結果として暴徒と化した人々を傷つけるだろうことは容易く想像出来、
「止めねば、なるまい……」
仙蔵は、大きな身体には似合わぬ俊敏さで持って、ぞろぞろと歩き始めた暴徒たちの前に立ちはだかった。
今や倍に増えた渇望の申し子らが、ざわざわとざわめいて仙蔵を睨みつける。
「目を覚ませ、貴殿らのそれは、あとになって、貴殿らを苦しめる思いだ。なにものかに与えられ、増幅された感情に、踊らされては、ならぬ」
先ほどの独白を鑑みるに、彼らは、この渇望に囚われるまでは、善良な、普通の、ごくごく一般的な市民のひとりだったのだ。
ただ、どうしても叶えたい願い――それは或いは、叶えたくとも叶わぬ願いだったのかもしれない――をあの渇望によって増幅させられ、いてもたってもいられなくなって、それしか見えなくなって、今、他者を傷つけることの意味すら判らなくなり、こうして暴走している。
自分がそうだったから、仙蔵にも判る。
――だからこそ、止めてやりたい。
正気に返ったあとのやるせなさと、自分への憤りと虚無感とを、身を持って味わったからこそ。
「退け、お前に俺の何が判る。お前も、敵か」
「わたしの邪魔をしないで。わたしは、願いを叶えるためなら、あなたを傷つけることだって、躊躇わない」
「邪魔だ、退け」
「おまえに用はない」
「すべては、願いを叶えるため、――私が壊れないため」
口々に言う人々から、明確な殺気が放たれる。
仙蔵は眼差しを厳しくして身構えた。
「ならば……お相手、仕る」
言うと、暴徒と化した人々が、全身に殺気を、そして不可解なエネルギーをみなぎらせた。
決して楽観視出来ない状況だったが、武器は使えない。
彼らは、どうしようもない渇望を刺激され、増幅されて、自分でもわけが判らないままに道を踏み外しかけている犠牲者、被害者なのだ。
そこに血を流させることは、仙蔵には躊躇われた。
「邪魔を、するなああァッ!!」
ごわ、という音を立てて、男のひとりから、鎌鼬めいた風の刃が放たれる。
「邪魔をしないで!」
「消えてしまえ、私の妨げになると言うのなら!」
「あっちへ行って、どうして邪魔をするの!」
一体どうやってその力を手に入れたのだろうか、何の変哲もない、ごくごく普通に見える人々から、鎌鼬を始めとして、白い光を伴った衝撃波や、雨のように降り注ぐ雷の矢、火の蛇、氷で出来た鋭い槍などが、一斉に仙蔵めがけて放たれる。
「……」
仙蔵は唇を引き結んだ。
すべてをかわすことは出来ないと踏んで、急所を庇いながら自らエネルギーの奔流へと突っ込み、身体のあちこちを熱や刃にかすられつつ、一気に彼らの真ん中へ踊り込む。
「う、うわあッ!?」
「やめて、お願い、邪魔をしないで……行かせて、行かせてよ……ッ!」
「どうして叶わないんだ……どうして。皆、あんなに幸せそうなのに、僕は無力で、こんなにもちっぽけだ」
どういう力の作用なのか、腕から剣を生やし、またはどこからともなく刃物を取り出し、仙蔵を排除しようとする人々の、悲痛で悲壮な叫びを聞きながら、彼は人々の間を素早く擦り抜ける。
擦り抜けながら、仙蔵は、口震術『病葉』を使用し、人々をその影響下におく。
「あ、あれ、身体が……う、動かな……」
「どうして、脚が重いの、動けないの……?」
独特の方法で唇を震わせることで、空気に干渉し、目標の周囲に空気の渦のようなものを作り出すこれは、決して広範囲ではないものの、傷つけず一般人の動きを制限するという意味では最良の方法だ。
「……済まぬ」
空気の渦に取り込まれ、動きが鈍った人々の首筋に軽く手刀を当て、三十名弱の暴徒たちを一気に無力化する。
倒れた人々を、やわらかい草むらに移動させてやり、どんな悲嘆が彼らをこうも駆り立てたのだろうかと、その渇望が叶わなかったとき、彼らはどうなるのだろうかと思って、ほんの少し心を痛めていた仙蔵は、背後に、異様なまでに唐突に気配が現れたことを感じ取り、思わず息を詰めた。
「……ふむ」
静かで低い、男の声が聞こえる。
「彼らが得た、『奇跡を奪うための力』は師が与えたもの。だが、それ以外は、彼らが望んで得たものだ。ヒトとは、願いがすぎると攻撃的になる生き物なのだろうか?」
「ヒトは、心が苦しみに冒されると身体までが病むという。その複雑さが、ヒトに、願いのゆえに他者を傷つけるという結論を与えるのか。――私には、判らないことだらけだ」
そろそろと仙蔵が振り向くと、静かな声は、ペルシャ風の甲冑に身を包み、血に濡れた、もしくは血の色をした剣を片手に提げた男と、黒い革でアレンジされたペルシャ風のドレス、露出度の高いそれに身を包んだ、艶かしく美しい女のものだった。
ふたりの、エキゾティックな顔立ちを見詰め、ふたりの言葉を反芻して、仙蔵は油断なく口を開く。殺気、敵意は感じられなかったが、それは、気を抜いていい理由にはならない。
「……貴殿らは、何者だ」
眼前の光景にもまったく動じていない男女。
奇妙な威圧感と神々しさを持ち、そして、仙蔵の胸をぐずぐずと重く熱くする、この場に満ちる渇望の空気に、微塵も心を騒がされていないらしい二人。
それが何を意味するのか判らない仙蔵ではなかった。
「俺か? 俺は、アエーシュマという。こっちは、ドゥルジだ」
貴様に教える名などない、と言われるかと思えば、男は拍子抜けするほどあっさりと名乗り、かすかに笑みすら浮かべてみせた。隆々たる体躯にものものしい装備、血塗れの剣という出で立ちでなければ、ずいぶん魅力的で、親しみの持てる笑みだった。
「……何を望んでいる。何のために、このようなことを。ヒトの愚かさを、嘲笑いたいとでも言うのか」
「嘲笑う? ――まさか」
返った声があまりに真摯で、仙蔵は思わず眉を潜めた。
アエーシュマと名乗った男は、意識を失って倒れ伏す人々を、いっそ愛しげですらある眼差しで見詰める。
「我が性は暴虐、義なき猛。俺は、本来ならば、終末の戦いの折、救世の主によって斃されるべき者だ。――だからこそ、俺は知りたい」
「何を知りたいと言うのだ。こんなにもたくさんの人々を操り、傷つけて、一体何を求めていると言うのだ」
自分の望みのために他者を傷つける後味の悪さ、居た堪れなさ、そしてそれがどれだけ自分の矜持や信念を揺らがせるかを、仙蔵は身を持って知っている。彼らが、それでもなお知りたいという何かに興味を抱きつつも、そのことで流される血と涙が容易く想像され、仙蔵は唇を引き結んで身構える。
「お前はどうなのだ、千曲仙蔵」
名を呼ばれ、仙蔵は眉をひそめた。
名乗ってもいないはずなのに何故、と思いはしたが、彼らが、コンサート会場での一件に関わっているのなら、知られていてもおかしなことではないだろうと思い直す。
「お前とて、あの時、求めただろう、ただひとつの何かを」
「……それは」
「それと同じだ。俺たちは知りたい……ただひとつの意味を。かの結晶がもたらす終焉と同等に、その答えを、結末を求める」
「それは、一体……」
「ここは面白い街だ。故郷であれば、戦うしかなかった相手と、同じ目的のために手を携えるのだから。私は不実と不義、偽りを司る者。だが、それゆえに、この街では、真実を求めている」
答えになっていない答えとともに、艶かしく、どこか慈愛すら含んでドゥルジが微笑み、そっと手を伸ばして仙蔵の頬に触れた。
――その手は温かく、そして指先はやわらかかった。
仙蔵は身動きをすることが出来ない。
ふたりを捕らえ、一連の事件について尋ねなくてはと思うものの、仙蔵には、彼らと本気で戦うことで、倒れた人々を巻き込むわけには行かないという意識がある。
ふたりから感じる威圧感が、畏怖だということに、仙蔵は気づいていた。
彼らの属する世界までは判らずとも、ふたりが、神に属する存在なのだということは、判る。
だからこそ、迂闊には動けないのだ。
「さて、目的は果たした、戻るとするか」
「此度の結晶は悲壮だな。だが……他者を思う気持ちこそが、ヒトの根本なのかも知れぬ。だからこそ不快ではない」
「やはり……その思いとやらこそが、我々の答え、なのか……?」
「――また会おう、千曲仙蔵。そう遠くはない先に、この街のどこかで」
「そうだな、次は殺し合いになるのかも知れないが……俺は、お前の命が行き着く先の、その結露を、見てみたい」
「ああ……そうだ、私も、見てみたい。それこそが、我々の、願いなのだから」
かすかに微笑んだふたりが、悠々と踵を返し、去って行くのを、仙蔵は、半ば呆然と、そして彼らの言葉を何度も反芻しながら見送るしかなかった。
――命の行き着く果て。
それを見たい、と彼らは言った。
一体どういう意味なのか、この一連の事件にそれがどう関わっているのか。
まだ、答えは、見えない。
2.【市街地の片隅】ロック・マイ・ソウル
そこもまた異様な戦場と化していた。
ほのぼのとした現代ファンタジー映画から実体化した、“人を幸せにする”と評判のカフェテリアと、そこの主人夫妻が、暴徒たちに取り囲まれている。
“人を幸せにする”コーヒーを淹れる以外の特殊能力を持たない、老夫婦が、常軌を逸した眼差しで店と、自分たちとを見据える暴徒たちを前に、抱き合って震えるしかないのは、致し方のないことだった。
「いけません、それはいかなる解決にも救いにもならないのですから!」
対策課から話を聞いて駆けつけたマイク・ランバスは、暴徒たちと、主人夫妻の間に割って入りながら大きな声を上げた。
この周辺では、すでに、“食べると幸せになれる”と評判のチョコレートを売るムービースターと、近くの森に実体化した“手を触れて好きな人の名前を唱えると両思いになれる”と評判の樹、同じく近くの森に実体化した小さな神社の、“願いごとをしながら潜り抜けると幸運が舞い降りる”と評判の鳥居とが襲われ、破壊もしくは傷つけられて、その不思議な力を奪われる、という事件が起きている。
それが誰の仕業なのか、この光景を見て気づけぬものは、いるまい。
「己の心と向き合わぬ幸いは、いずれ貴方がたに災いをもたらします、どうかそれに気づいてください……!」
暴徒の数は、およそ二十人。
その誰もが、マイクの呼びかけになど一切の反応をみせず、誰からの言葉も届かぬ頑迷な目つきをして、次なる『獲物』を睨み据えている。
時折、その誰かが呟く、「幸せになりたいのに、どうして」という言葉が、マイクをやるせなくする。
「皆さん、どうか――……」
「退け」
誰かが、主人夫妻の前に立ちはだかるマイクを乱暴に突き飛ばした。
充分に鍛えてあるはずのマイクが、思わず息を詰め、よろめいたほどの力だった。
それを合図に、渇望に心を狂わされた人々が、マイクを次々に突き飛ばし、押し退けて、主人夫妻へと殺到する。
老婦人が恐怖の悲鳴を上げるのが聴こえた。
「いけません、どうか思い留まっ……!」
揉みくちゃにされながら、人々を必死で押し留めようとしていたマイクは、誰かに背を強かに蹴り付けられてバランスを崩し、地面に膝をついた。更に誰かが、マイクの後頭部を殴りつけ、肩や脇腹を蹴り付けて、転倒させる。
「ぐ、……ぅ……ッ!」
無言の拒絶、無言の怒りを感じ取り、マイクは、急所を庇いながら唇を噛み締める。
(一体、何故)
老いた主人の、嘆きに満ちた懇願が聴こえる。
どうか我々から生き甲斐を、生きるよすがを奪わないでくれというそれに、誰かが応える様子はない。
(一体、誰が、こんな)
この襲撃、集団パニックとでも言うべき現象を引き起こしている何者かは、一体何を望み、何を目論んで、これをなしているのだろうか。
この事件の先に、一体どんな答え、どんな救いがあるというのだろうか。
「いけません、どうか……」
こめかみを蹴り付けられ、意識が朦朧となる。
暗転しそうな自我を必死で叱咤して、マイクは声を枯らす。
「目覚めたあとの絶望など、誰も、望んではいないはずです……!」
人間は誰でも、意識的にであれ無意識下においてであれ、何かしらの救いを求めている存在だろうとマイクは思う。
人間は弱く、ちっぽけで、それゆえに容易く迷いが生じ、また彼らの望みが真実叶えられることは少ない。真実、純粋な幸福のみの中で生きることは難しく、求めるものを手に入れることもまた難しい。
人間は迷い過ちながら生きるしかない生き物なのだろうと思いつつも、その迷いと過ちゆえの苦しみを、少しでも分かち合いたいと、分かち合いともに受け入れることで癒したいと、マイクは思っている。
「お願いです、自分の心と向き合ってください、貴方の中の真実を、曇った渇望で殺してしまわないで下さい……!」
人間は弱い。
けれど、しなやかで美しい。
マイクは、自分にとっての真実を、見失いたくはなかった。
だからこそ、心を尽くし、声を枯らして呼びかけ続けた。
彼らの心に呼びかけることで、少しでも彼らの魂を揺らし、震わせれば、正気に戻るのではないか、という願いを抱きつつ、自分の魂のためにも、呼びかけ続けた。
しかし、応えるものはない。
なすすべもなく地面を転がり、尖った砂利を握り締めて、マイクが自分の無力を思った時、
「己が真実を、曇った渇望で殺すな、か。――……いい言葉だな」
耳に心地よい声が響き、一陣の鋭い風がそこへ吹き込んだ。
風が――それは、黒いコートに身を包んだ、背の高い美しい男の姿を盛っていた――混乱を極めるこの場を吹き抜けると同時に、低い呻き声を上げた暴徒たちがばたばたと倒れ伏していく。
「杵間山麓の暴徒たちは、自然の猛威によって大切なものを奪われた結果、それを自ら制するにたる力を求めて、ハザードで発生した杵間山の自然を、それの持つエネルギーを欲したようだったが……こちらの渇望は、少し、抽象的だな」
しなやかな長身痩躯が、眩しいほどの金の髪とともに踊るたび、暴徒たちはなすすべもなく昏倒していく。
見れば、男の手には、テーザー・ガンなどと呼ばれる、所謂スタン・ガンが握られていた。
「幸せになりたい、か……そうだな、誰でも、そう願うだろうな」
慈しみめいた声で呟き、男が、舞のように踏み込み、テーザー・ガンを閃かせて、次々と脱落者を作り上げていく。
マイクはその隙に飛び起きて、なお老夫婦に掴みかかろうとしていた男の鳩尾に拳を叩き込み、昏倒させると、そこへ殴りかかってきた若い女の首筋を指できつく圧迫して意識を刈り取った。
「ど、どうして……」
崩れ落ちる間際の、哀しみに満ちた彼女の表情、
「私も、幸せに……なりたい、って……思うことすら、許されないの……」
その独白に、また、胸が痛む。
「すみません、ですが――……」
女を道に横たえ、がたがたと震えている老夫婦に手を差し伸べながら、マイクは緑の目を伏せる。
彼女に――幸いを求めるがゆえに渇望に囚われてしまった人々に対して、マイクがしてやれることなど、恐らくなきに均しい。幸せになりたい、幸せに生きたいと言う願いを嘲笑うことも、マイクには出来ない。
「幸いなど、自分の手で掴み取るしかないだろう。そのために自分がどうするかという選択が、その人間の第一歩を作るというだけのことだ」
マイクが血の滲んだ頬や唇を拭っていると、あっという間に十数人の意識を刈り取ってしまった男が、淡々と言いながら近づいて来て、マイクにハンカチを差し出した。
「……すみません」
シャノン・ヴォルムスと名乗った彼のことは、銀幕ジャーナルでよく見かけるので、一方的に知っている。孤高のヴァンパイアハンターたるこの美貌の男にも、たくさんの渇望があり、命と心を捧げて悔いない愛しいものがいることを。
だからこそ、マイクは、
「いや。俺も、彼らの気持ちは、判る。――……だからこそ、止めてやらねばと思っただけだ」
シャノンのその言葉に、共感を込めて微笑み、頷いたのだった。
苦しみと過ちを乗り越えて前を向く姿を、力強く美しいと思う。
「ありがとうございました、シャノンさん。助かりました。ご夫婦も、無事だったようですし……よかった」
「……ああ、そうだな」
マイクは、未だ恐怖が覚めやらぬ様子で、抱き合ったまま硬直している夫婦に、ひとまずここではないどこかで一晩過ごすように提案し、ふたりが友人宅へ泊めてもらうと言って準備に戻るのを見送る。
シャノンは、携帯電話で救急車を呼んでから、難しい顔をして周囲を見遣った。
「何か、気懸かりなことでも?」
「いや……ああ。あまりよくない予感がする」
「……そうですか」
「ここ以外でも、パニックは起きているようだったな?」
「ええ。あちこちで同時に……とは、誰の企みなのでしょう? そして首謀者は、一体何が望みで、こんなことを? 善なる人々に絶望を味わわせることで、何かを引き起こしたいと考えているのでしょうか?」
思案しながらマイクが言うと、シャノンは小さくかぶりを振った。
「判らん。この力は、今までに銀幕市で揮われたどんなものとも違う気がする。容易くヒトから理性の箍を外し、狂わせる……まさに神の業というやつだ。神ならぬ俺に、その理由など判るはずもない……が」
「が、なんですか?」
「何故だろうな、『奴ら』は、決して、邪悪な思いでこれをなしているのではない、という気がする。善意ではないが、悪意でもないという確信がある。――だからこそ、性質が悪いのかもしれないが」
ぽつりぽつりと落とされる、雨だれのようなシャノンの言葉を、マイクが反芻し、思案していると、救急車のサイレンが聞こえてきた。
「……この方たちは、病院にお任せするとして……少し、探索の範囲を広げてみた方がいいのかもしれませんね」
「ああ、そうだな」
「では、私は……あちらへ」
「そうか。俺は……海岸の方へ行ってみようと思う」
「はい……では、お気をつけて」
「ああ、マイク、お前も」
互いに言葉を交し合って、老夫婦が友人宅へ避難するのを見届けた後、マイクはシャノンと判れて歩き出す。
「……渇望、か……」
人間の心は、かくも深く複雑で、難しい。
せめてこれ以上、傷つき涙する人間が増えないようにしたい、と思ううち、知らず知らず、マイクの歩調は速くなる。
3.【工場地帯→住宅地】脈打つ渇望
工場地帯の一角に、ミケランジェロの事務所はある。
それが起きたのは、彼が、どこかで道に迷って戻れなくなったという親友を迎えに行くべく――ちなみに、連絡をくれたのは、親友とは縁もゆかりもない、善意の通行人だ――、溜め息をつきながら事務所のドアをくぐった時のことだった。
遠くの方で爆発音がした、そう思った瞬間、ミケランジェロは確かに、自分の胸の奥がゴツリと音を立てたのを聞いた。
「……ッ!」
その感覚を知っている。
晩秋に、そしてそれほど遠くない過去に、いやというほど味わった、重苦しく狂おしい感情の塊。神である彼をも容易く飲み込み、狂わせようとした、不可解にして絶大なる渇望の波だ。
あのコンサート会場での事件以降、胸の奥に凝る渇望の毒が、ぞろりと音を立てて蠢き、ミケランジェロの息を詰まらせる。
「……」
胸を押さえて呼吸を整えたあと、ミケランジェロは事務所に取って返し、モップを引っ掴んで飛び出した。
チャンスだ、と思った。
彼に渇望の毒を埋め込み、暴走させ、親友に刃を向けさせた何者かが、何かの動きを見せたのだ。
「ひとまず……久我を、捜しに……」
ミケランジェロの記憶には空白がある。
あの日の記憶は、神音のマネージャーの、久我正登という青年を捜していた、というところで一旦途切れているのだ。何が起きたか判らないと首をかしげている、その自分を覚えてはいるが、久我を捜していた――そして、そこに確かに彼はいたのだ、という確信もある――十数分間の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちている。
だからこそ、ミケランジェロは、久我を見つけ出し、彼に会うことが真実に近づく第一歩だろうと考えていた。
「……出ねェ、か」
助手に持たされた携帯電話の向こう側には、神音がいるはずだったが、何度コールしても、神なる歌い手が出ることはなかった。
忙しいのかもしれない、と携帯電話をツナギのポケットに突っ込み、ひとまず先ほどの爆発がなんだったのかを確かめようと足早に進んだミケランジェロは、眼前に広がる光景に、思わず唇を引き結んだ。
そこには、確か、つい先日まで、心優しい機械人形たちが住む、小さな集落があったはずだった。
機械人形たちは無口で、表情を動かす複雑な機能は有してはいなかったが、周辺に住まう人々の仕事を手伝ったり、事件に巻き込まれそうになった一般人を助けたり、集落の隅で花を育てていたりと、彼らがやさしい心根を持った善意の存在であることは、この辺りの誰もが知っていた。
それが、今や。
「ああ……これが、頑健な身体と、なにものにも負けない強い力。素晴らしい……!」
顔中を機械油で汚して、無邪気なほど――それゆえに悪寒が走る――澄んだ笑みで壮年の男が笑う。彼の身体のあちこちに、機械人形たちの一部だったと思しきパーツがはめ込まれ、軋んだ音を立てている。
「目が欲しかったの。何でも見える目、光を映す目が。見える、ああ、見えるわ……!」
無邪気に笑う少女の目には、グラススコープのような、機械人形の目がはめ込まれ、機械的な瞬きを繰り返している。
「やった、立てる、歩ける……これで帰れるよ、お母さん。僕、おうちに、帰れる!」
歓喜の声を上げながら飛び跳ねる少年の両足は、幾つもの金属でつなぎ合わされた、機械人形のそれに変わっていた。
「そのために……」
ミケランジェロは、今や廃墟と化した機械人形たちの集落を見下ろす。
「こいつらを、バラしたってのか。それは、こいつらにとっての死に、他ならねェのに」
そこにもはや、ゆったりとした動作で集落を行き来する機械人形たちの姿はない。
ミケランジェロの目に映るのは、全身をバラバラに砕かれて、必要な部分を奪われた、憐れな鉄屑だけだ。そこに、無機質だがどこか温かい、穏やかな、善意の機械人形たちの姿はなく、無残な姿をさらしたまま、フィルムに転じることも出来ないのは、その一部が、暴徒たちの身体になって生きている、生かされているからだろうか。
もくもくと上がる黒煙は、暴徒たちから身を隠そうと閉められた門を、誰かが爆破した所為だろう。
暴徒たちは、全部で十八名。
誰もが、その身体のどこかに、機械人形たちから奪った鋼のパーツを埋め込み、満足げに、かつての機能を取り戻した自分の身体を見詰めている。
「よかった。これで、壊れずに済む。これで、私の願いは、成就する」
まだ若い女が、鉄製に変わった右手を見詰めて、うっとりと呟く。
無造作に転がる集落の隅で育てられていた花は踏み躙られ、枯れ朽ちていた。
「ヒトを犠牲にしてようやく成就する渇望、か……」
ミケランジェロの咽喉元を、苦い何かが込み上げる。
暴徒たちを責めることは、ミケランジェロには出来ない。
彼もまた、渇望の毒に踊らされ、親友を、身勝手な――しかしあまりにも強く真摯な――思いから、永遠に眠らせようとしたのだから。
「……」
ミケランジェロは手にしたモップを宙に滑らせ、魔法陣を描いた。
今、彼らをどうするべきなのか、ミケランジェロには判らなかった。
「何が最善なのかも、俺には判らねェ……せめて、これ以上、罪を重ねずに済むように」
もしも、渇望の毒に踊らされているうちに、親友を殺してしまっていたら、ミケランジェロは生涯を自責と悔いの中で過ごすことになっただろう。自分を許せぬまま、己が罪から解放されることもないまま、意識が、魂が朽ちるまで、悔恨の中にあっただろう。
渇望が、人々の奥底にある根深い何かを引きずり出すことに間違いはない。しかし、それに踊らされて罪を犯すことは、彼ら彼女らの本意ではないだろうとも思う。
本来ならば、人間とは、誰もが、どうにもならぬ願いを抱えながら、苦しみ傷ついて涙を流しながら、自分と向き合い、折り合いをつけて、生きて行くものなのだろうからだ。
「――……眠れ、今は安らかに」
その言葉とともに、複雑な文様を浮かび上がらせた魔法陣が赤い光を放ち、光の色をした羽毛となって、恍惚としている人々を包み込む。
「ああ……」
誰かの溜め息が聞こえた。
それきり、身体のあちこちに鋼のパーツを埋め込んだ人々は、ゆっくりと倒れ、静かな寝息を立て始める。
「……」
ミケランジェロは無言のまま、ポケットから携帯電話を引きずり出し、言葉少なに救急車と対策課の出動を要請すると、モップを携えたままで歩き出した。
「人間は、弱ェ……けど、」
言葉の先を続けられず、黙り込む。
ずるり。
渇望の毒が、また、鎌首をもたげているのが、判る。
「……久我を、捜さねェと」
悩みを振り払うように首を横に振って、ミケランジェロは足早に歩き出した。
彼の、神としての感覚が、まだ何もかもが始まったばかりだということを教えてくれる。
ぐずぐずしてはいられない。
* * * * *
ミケランジェロが、勘、もしくは神の持つ超感覚とでも言うべきそれに導かれて住宅地の一角に辿り着いた時、そこには理月(あかつき)と壱衛(いちえ)がいた。
ふたりは、小ぢんまりとした、小綺麗な一軒家の前で、暴徒と化した三十人あまりの人々と向かい合い、彼らが一軒家に入ろうとするのを、押し留めているようだった。
武器を手に、次々に襲いかかってくる暴徒たちは、少しずつ増えて来ているようにも思われた。
「何ごとだ、壱衛、理月!」
人ごみを掻き分け、時に蹴り倒しモップの柄に物を言わせて殴り倒しながら、ふたりのもとへ辿り着く。
「お、ミケ……じゃなくてタマ」
「それどころじゃねぇって判っちゃいるが、逆だッ!」
「あ、そうだっけ」
思わず突っ込みを入れるミケランジェロの視線の先で、暴徒たちの手にしたナイフや包丁、果てはのこぎりやチェーンソウなどという物騒なものがかすったのだろう、理月はあちこちに傷をこしらえ、血を流していたが、痛みに頓着している様子はなく、片手に美しい白銀の刀を握ったまま、邪気のない笑みを浮かべてミケランジェロを見遣った。
その邪気のない、年齢が判らなくなるような幼い笑みに、ミケランジェロは思わず親友を思い出し、それから小さく息を吐いて、奇声とともに飛び掛ってきた男を蹴り倒した。
「……ここの家には」
静かな眼差しに相応しい静かな声で、壱衛がチラとミケランジェロを見遣る。
「金銭的な意味合いでの幸運をもたらす、小さな神が住んでいる」
「金銭的?」
「あいつらの独白を聞いてみたら、皆、不況とかいうのの所為で、苦しい目に遭ってるみてぇだ」
「……そのために、その……神ってのを?」
「だろうな。私に飢えや貧しさは無関係だが……食わねば生きられぬ人間たちにとっては、もっとも根源的な渇望だろうとも思う」
淡々と言った壱衛が、不思議な金属で出来た腕の一部から楔型の金属片を作り出し、網のような形状に変化させて、人々が家に入り込めないように、門のあたり一面にそれを被せる。
「邪魔をするな、畜生、コレを退けろ!」
「お金、お金を用意しないと、あの子が死んじゃうの、お願い通して……ッ!」
「何で俺がこんな目に……解雇さえされなきゃ、こんなことには……!」
「邪魔しないで、あんたたちムービースターなんかに、現実を生きる私たちの気持ちや辛さが判るはずもないんだわ! 私にはお金が要るのよ……だからそこを退きなさい、退きなさいったら!」
手に手に武器を持った人々が、壱衛の作り出したシールドを打ち据えながら喚き散らし、泣き叫ぶ。ミケランジェロは小さく息を吐いた。
「一番リアルで、やるせねェな、金の問題ってのは……」
「うん……現代社会とかいう世界が、すげぇ大変だってのは判るし、俺、故郷での生活に比べたら、かなり恵まれてるもんなぁ。何も言えねぇや」
理月が困ったように微笑む。
ムービースターなんか、と罵倒されても、それに対して怒りを感じている様子はなく、ミケランジェロは、こいつも大概お人よしだ、と思った。
「で、その神ってのは、どうしてんだ?」
「『家族』が守っている」
「『家族』?」
「彼の、この街での、親であり兄姉である者たちだ」
「……ああ、なるほど」
では、その小さき神が害された時、金銭などという即物的な問題以前に、『家族』を失って嘆き哀しむものがいることもまた、事実なのだ。
「壱衛、アレ、出来ねぇか」
ならばひとまず暴徒たちを鎮圧し、小さき神の身の安全を守るべきだろうと、ミケランジェロは、以前、親友の愛した神を押し留める際にも用いた、彼と廃鬼師の合わせ技を提案する。
「……出力を落とせば、意識を奪う程度に威力を抑えられそうだな。お前から電力をもらうことになるが」
「構わねェよ、好きに持ってけ」
「承知した、では、遠慮なく」
言葉が返ると同時に、壱衛の腕から黒いコードが伸び、ミケランジェロの手首に巻きつく。すると、身体全体から、根源的な何かが吸い取られていくような、脱力感を伴った悪寒がミケランジェロを包み込む。
「気色悪ィ……」
思わず顔をしかめ、ごちる。
門の手前で刀を構えたまま、理月が見守る先で、網状のシールドを形成していた賢者の鋼が、もともとの、楔のかたちを取り戻し、『入り口』が開いたことに色めきたった人々が雪崩れ込むより早く、
「少し痺れるが……勘弁してくれ」
どこまでも淡々とした壱衛の言葉が響くとともに、白いエネルギー波が、人々を包み込んだ。
ばしり、という弾けるような音は、電撃が彼らを打ち据えるものだろうか。
低い悲鳴、呻き声、そんなものをほんの一声上げて、暴徒たちがばたばたと倒れていく。五十名弱にまで増えていた暴徒たちが、ひとたまりもなく意識を失っていくのを見届けて、ミケランジェロは門から外へ脚を踏み出した。
倒れた人々を確認すると、幸いにも外傷はないようだったが、一応、救急車を呼んでやるのが親切というものだろうか。
「金ってのが、人間にとってどんだけ重要か、なんて判ってる。だから、即物的な、なんて言えねェが……」
苦悶に満ちた表情で倒れ伏す男の顔を見下ろして、ミケランジェロはごちる。
「だが、金銭のために、無関係な誰かを害するやり方で、本当に願いが叶うとも、思えねェし、な」
「ん、俺も、そう思う」
刀を腰に戻しながら理月が頷く。
あの時、悲壮なまでに追い詰められていた白銀の眼差しは、今は穏やかさとやわらかさを取り戻していて、ミケランジェロは、他人事と知りつつ、少しホッとする。
「あの時はごめんな、タマ」
「ミケだ」
「あ、そうだった、悪ぃ。刀冴さんがそう呼ぶからさ、つい」
「……」
天敵の名が挙がり、思わず沈黙するミケランジェロだが、そこで突っ込もうが主張しようが頭を掻き毟って地団駄を踏もうが、どうにも無意味なような気がして口を噤んだ。何故自分にはこんなに天敵というか敵わない人間が多いのだろう、と、奇妙な諦観が滲んでやるせなくなる。
そんなミケランジェロの胸中など知らぬげに、理月はかすかに笑みを浮かべて彼を見つめる。
「俺は弱い……弱くて醜い。でも、弱くて醜い自分を知ってる。弱くて醜い自分から目を背けねぇ自分になろうって思う」
自分の不幸ぶりの理由を自分に問いかけるという無意味なことをしていたミケランジェロは、理月の言葉に、緩い微苦笑を浮かべた。
「……吹っ切れたみてェじゃねぇか」
「ん、そこまではまだ行けてねぇけど。でも……」
「でも、なんだよ?」
「それも俺だって、言ってくれた人がいるから。だから、怯まずに前を向こう、って、今は思えてる」
「なるほど。そりゃァ……悪くねェな」
きっと、理月も、渇望が二度と消えないものだということを理解しているのだろう。
それを苦しく思い、情けなく思おうとも、立ち止まらずに進もう、諦めずに戦おうと思えるだけの強さと意志を、彼は得ることが出来たのだ。
「俺は幸せ者なんだ」
無邪気に微笑む理月は、少年のようだ。
「たくさんの人が、俺のこと、大事にしてくれる。皆が、それもお前だって、そんなお前も好きだって、言ってくれるから」
「……そうか」
かすかに笑い、ミケランジェロは理月の肩を叩いた。
ん、と笑顔で頷いた理月が、
「――ッ!?」
唐突に顔色を変え、ミケランジェロを突き飛ばす。
直後に、がちり、という金属音。
「な……」
尋常ではない膂力を持つ理月に思い切り突き飛ばされ、かなりの勢いで吹っ飛んでたたらを踏んだミケランジェロが、一体何を、と振り向くと、
「何者だ、あんたら」
理月は、再び白銀に輝く刀を抜き、赤い髪の少年のナイフを受け止めていた。
「俺? 俺は……うーん、なんだろ?」
首を傾げる赤髪の少年の背後には、彼とまったく同じ顔の、青い髪の少年がいて、こちらの様子を伺っている。
ふたりの肩に、真っ白なバッキーが乗っていることに気づいて、ミケランジェロは眉をひそめた。
「ムービーファン? ムービーファンが、俺たちに何の用だ?」
「ん、別に? 様子見ってか、味見みたいな?」
「味見? 何のことを言ってんだ、あんた」
「『ムーンシェイド』の理月に、『Michael-Angelo』のミケランジェロ、それに『鉄塊都市30××』の壱衛か……どれも手応え、いや歯応え? ありそうで、今から楽しみだ、うん」
自分だけで納得している赤い少年に眉をひそめつつ、ひとまず事態を打開すべく、モップを手に彼へ歩み寄ろうとしたミケランジェロの前に、赤い髪の少年と同じナイフを手にした青い髪の少年が立ちはだかる。
「赤、ふざけている暇があったら、早く結晶を」
「や、うん、判ってるよ。でも……改めて訊かれたら、悩んじゃうよな、俺ってなんだろ、って」
小首を傾げる赤い少年と、彼を促す青い少年は、十代半ばから後半程度に見える。しかし、彼らの持つ雰囲気は、無邪気でありながら妙に老成し、また、奇妙な虚無を孕んでいた。
バッキーが偽物でないとして、ムービーファンであることが真実だとすれば、人間としての匂いの希薄な少年たちだった。
「それを知るために、僕たちはここに、お師匠様の元にいるんだろう。――赤、早くしろ、余計な手間はかけたくない。ただでさえ、向こうで、要らない時間を食ってしまったんだから」
そう言った青い少年の、黒いパーカーのポケットから、色鮮やかな紐で結わえられた、灰銀色の三つ編みが覗いていることに気づき、油断なく身構えながらミケランジェロは眉をひそめる。
「その、髪……」
見覚えのある色だ、と思った。
ミケランジェロの呟きが聴こえたのか、理月とがっちり組み合いながら、赤い少年があっけらかんとした声を上げる。
「そこの、壱衛……だっけ? そいつの、中身の」
「……何をした」
やはり、と思うと同時に、髪を切り取られるなどということが、日常の範囲内で起きるはずもないという事実に、ミケランジェロは紫の双眸を眇める。
じわりとした怒りが声には滲んだが、
「別に、何も」
青い少年は淡々として堪える様子もない。
「――赤、早くしろ、お師匠様をこれ以上お待たせしたくない」
彼の言葉に、赤い少年は理月と組み合ったままでぐるりと周囲を見渡し、それからにやっと笑って背後に跳び退った。
「OK、完了! 回収終わったぜ、戻ろう青」
「待て、師ってのは……」
問う暇もあらばこそ。
ぱっと身を翻した赤と青の少年が、驚くべき俊敏さと素早さで走り去っていく。
「待て、話は終わってねぇ!」
それを追って理月が恐ろしい速さで走り出したのを、思わず呆然と見送りかけたミケランジェロは、
「……追おう」
壱衛の言葉に我に返ると、壱衛とともに理月を追いかける。
色んなことが絡まり過ぎてワケが判らねェ、一体何が、どこでどうなっているのか、誰かもう少し具体的に、判りやすく説明してくれ、と、全力疾走の態勢に入りながら、ミケランジェロは思った。
4.【パニックシネマ周辺】渇望のゆりかごにて
狩納京平(かのう・きょうへい)は、対策課で話を聞いて駆けつけたパニックシネマ周辺で、二十数名の暴徒たちと対峙していた。
幾つかの報告の中で、京平がパニックシネマ周辺を選択したのは、ここが、市役所から近く、人通りが多いだろうという理由からだった。
「で、何がどうなってるんだよ?」
京平の問いに、自分たちを取り囲み、睨み据え、殺気立った気配を振り撒く人々を特に恐れるでもなく見詰めていた真禮が、ふむ、と呟いて指先を頤に当てる。
金の散る瑠璃の目はどこまでも静謐で、悪魔か妖怪以外のなにものでもない外見を持つ彼に対して、初対面でありながら、対策課で、彼が先んじて鎮圧に向かっていることを聞いていたのを抜きにしても、何故か京平は、警戒心を欠片も持てずにいるのだった。
「この近くに、運命や未来を見通すと評判の巫女が住んでいる」
「ムービースターか?」
「そのようだ」
「……そんじゃ、そいつを狙って……?」
「さて、詳しくは、オレには判らぬが。ただ……彼らは、ひどく不安がっているようだ。この街にかかった魔法云々というだけではなく、自分たちの先行きや未来があまりにも不透明であることを、ひどく怖れている」
巫女の姿は、ここには見えない。
どうしたのかと問うと、配下に命じて妖霊城に保護させたという答えが返った。不安から逃れたいという渇望に駆られて殺到した暴徒たちは、当人がいないことを知らぬまま、京平たちと睨み合っていることになる。
「まァ、いい……放ってはおけねぇ、しな」
呟くと同時に胸に去来するのは、先日の、コンサート会場でのあの事件だ。
あの時のもやもやが、京平の中では、まだ少し尾を引いている。
あの時、完全に渇望に囚われ、苦しみのあまり暴走していた京平が誰かを害さずに済んだのは、ひとえに、彼が最初に本気で挑んだムービースター、対策課からの依頼を受けてコンサート会場を訪れていた男が、京平を圧倒する武力で持って、彼を昏倒させてくれたからだ。
お陰で、魔王リアティアヴィオラが鎮められると同時に覚醒した京平は、正気をも取り戻せたのだが、それがなければ、京平は、明確な救いもなく、納得も出来ないまま、渇望の赴くままに、“師匠を取り戻す”という願いを叶えるべく、罪もない誰かを手にかけて、全身を血と罪で染め上げていたことだろう。
「あれも俺……なんだよな」
あまりに醜い利己に、やりきれない気分になるのは事実だ。
不可解に増幅されていたとはいえ、それは、確かに、自分の中に凝る渇望なのだから。
しかし、
「……思い悩んでも、仕方ねぇ、か」
過去を振り返り、悔恨ばかり抱いたところでどうにもならない。
京平からたくさんのものを奪ったあの男を許すつもりはないし、彼は死ぬべきだと思う。この世から消えたところで同情しないだろうとも思う。
その、憎しみが完全には消えていないという事実も、自分にとっては真実でもあるのだろう、と、漠然と思ってもいる。
そういう、もやもやとした思いを、他の誰かに味わわせたくない、と感じているのもまた事実で、京平は、ひどく殺気立ちながら、おそらくは真禮の外見に怯んでだろう、なかなか襲い掛かってはこない人々をちらと見遣り、
「……効くかどうか判らねぇが」
と前置きして印を結んだ。
咽喉の奥から、静かでありながら朗々とした言葉が紡ぎ出され、周囲に響き渡る。
「緩くともよもやゆるさず縛り縄、不動の心あるに限らん」
それは、他者の動きを妨げる、不動縛りという名の呪法だ。
効くかどうかは、半分は賭けだったが、彼らが不可解な力を手にしながらも明確に人間であることに間違いはないのだろう、京平が呪文を唱え終わると同時に、武器を振り上げ、一歩踏み出そうとしていた暴徒たちの動きが、ぎくしゃくと強張った。
「な、あ……」
そこから、一ミリたりとも身動きできなくなって、暴徒たちの間に、動揺と驚愕が広がる。
「い、行かなくちゃ、いけないのに……」
どうやっても動かない、己の身体に歯噛みしながら、まだ若い女が苦しみに満ちた言葉をこぼす。
「未来を手に入れなくちゃ。私が壊れてしまう前に、確かな力を、手に入れなくちゃ。それなのに、どうして……ッ」
悲痛な、血を吐きそうな声に京平は沈黙し、瞑目し、小さく息を吐いた。
――あの時の自分が思っていたことと同じだ。
あの時の京平は、師匠を取り戻すことだけが、自分の生きるよすがのように思っていた。それを叶えるためならば、他の何を犠牲にすることも正義だと、十全で、最善なのだと、本気で思っていたのだ。
覚醒したあと、そのあまりの視野狭窄ぶりに、あまりにも追い詰められた己に、苦笑するしかなかった京平だが、それはつまり、ヒトは誰でも、容易く、渇望の坩堝に落ち、自らを見失ってしまうということに他ならないのだと、今この時に、気づいてもいた。
「師匠だったら……何て言ったかな」
嗚咽を漏らす女の首筋に、小さく詫びて手刀を入れ、彼女の意識を刈り取りながら、呟く。
「自分は納得してんのに、勝手に仇討ちなんかされちゃ、迷惑……かな」
師の、晴れ渡った空のように鮮やかな笑みが脳裏を過ぎる。
彼はきっと、京平に復讐など求めてはいないだろう。
ただ、京平に、自分らしく、幸せに生きろと、それだけを願っていてくれるだろう。
「……だったら、俺は、」
今の、憎しみを捨て切れてはいない自分を受け入れながら、師が望むように生きるしかないのだろうと思う。それこそが、京平が生涯をかけて果たすべきことなのだろうとも、思う。
容易くはない仕事だ。
憎しみに身を委ね、ただ激情のままに突き進めばいい復讐行とは、何もかもが違うのだから。
「……」
それでも、投げ出したくない。
そう思う。
たくさんの出来事を経て、創り上げられた自分を、信じてやりたいとも。
「こちらは終わったぞ、京平。……ん、どうした、何かあったのか」
京平の呪法によって自由を奪われた人々を、言霊を用いた不思議な力で持って眠らせて回っていた真禮が、京平を見下ろして首をかしげている。京平は苦笑して首を横に振った。
「何でもねェ……気にすんな」
吹っ切ったわけでも、何もかもに決着がつけられたわけでもなかったが、京平が前を向き、未来を見据えて歩こうと自分なりに選択したこともまた、事実だった。
「……そうか、なら、よいのだが」
何かを感じ取ったのか、穏やかに微笑んだ真禮が、不意に眉をひそめて背後を振り返る。
どうした、何もいねぇだろそっちには、と言いかけて、京平は口を噤む。
「あんたは……確か」
いつだっただろうか。
とある女に、今の事務所となっているビルとの出会いと関係を語って聞かせたことがあった。
「……アナーヒター」
だが彼女は依頼人ではなかった。
「確か、拝火教では水と豊穣の女神だったはずだよな、あんた? 結晶とやらを集めて、一体何をする気なんだ……?」
そう、今、ふたりの目の前に立っているのと同じ、色鮮やかな布を身体に巻きつけてヴェールを被り、四角い黄金の耳飾りと、星をちりばめた黄金の頭飾りをつけて、美しい刺繍のなされた帯を高く締めた、神々しい乙女は、ヒトならぬ、神威にあふれる存在なのだった。
「わたしはアルゾヴィ・スーラ・アナーヒター、清浄なる水。ヒトと歩み、ヒトを見つめ、その行く末を見届けるもの」
あの時と同じ名乗り。
金色の双眸がやわらかく細められて京平を見つめる。
「あなたの結晶は……やはり、美しいわ。それこそが、ヒトの強さなのかしら」
くすくすと咽喉の奥で転がされる笑い声は、水晶の鈴が鳴り響くようだ。
「あん時も……妙なこと言ってたよな、あんた。あんたと、あんたの仲間は、何のために、こんなことを? 善なる神々が、なんで、」
「許してとは、言わないわ」
「え」
「ヒトの幸いのために存在するわたしたちが、ヒトを苦しめていることを、わたしたちの誰もが理解している。心を痛めていないわけでもないわ。――けれど、それでも、わたしたちは知りたいの」
「……だから、何をだ。何を知りたくて、こんなことをしてる」
京平は眉をひそめた。
この街のあちこちで起きている不可解な事件が、彼女、アナーヒターの属する一派の引き起こしたことなのだとして、確かに、目の前のアナーヒターは、人々の苦しみや慟哭を喜ぶ人物のようには思えない。その彼女が属しているのだから、事件の大元である一派もまた、決して絶対悪などというものではないのだろう。
ならば何故、とアナーヒターを見詰めれば、彼女は、慈しみにも似た眼差しで京平を見詰め、艶やかな微笑を唇に咲かせた。
「この世界に実体化して、わたしたちはたくさんの変化と行き逢い、たくさんのままならないものを経験したわ。そうね、師の在り方が最たるもの。それでもわたしたちはここに在るし、この街の理は変わらない。――では、わたしたちは、何なのかしら。何を持って、わたしたちは、己を、自分と断ずるべきなのかしら」
「それは、どういう、」
「もうじき判るわ、そう遠くない未来に。どうかわたしを、わたしたちを止めに来てね。その果てにある最後の結晶が、きっと、わたしにとっての答えなのだろうと思うから」
答えに近い言葉でありながら、決して明確な意味には迫れていないアナーヒターの物言いに、京平が更なる問いを発するよりも早く、女神は軽く地面を蹴り、空へと浮かんだ。
清冽な水の匂いが鼻をくすぐる。
「待て、まだ――……」
訊きたいことがある、と言い切ることは出来なかった。
激しい風が吹きつけて、京平の視界と言葉を奪ってしまったからだ。
「う、わ……ッ」
思わず、反射的に目を閉じた京平が、次に目を開けた時、そこにはもう、美しい女神の姿は、なかった。
「……在り方……理? 一体、何のことだ……」
師とは誰なのか、変化とは、ままならぬものとは何なのか、疑問は尽きない。
同時に、女神の残した最後の言葉が、京平の心に深く残った。
――わたしたちを止めに来てね。
それは、つまり。
「消滅を、望んでる、って……ことなのか……?」
無論、それも、推測に過ぎないが。
京平には、それが、物悲しく切ない、悲壮な叫びのようにも、思えた。
5.【海岸】虚刃、顕現
ルークレイル・ブラックが海岸の暴徒たちのもとへ向かったのは、無論、その近くに停泊している海賊船を、ひいてはそこにいる仲間たちを危険に晒さぬためだ。
ルークレイルが、事前に、暴徒たちが揮う不可解な力について調べておいたのは、海賊団のポリシーである、『殺さない』を決して譲るまいという覚悟の表れでもあった。殺さずに無力化するために、不可解な力の隙をつく方法をまず模索するのが、ルークレイルという男なのだ。
「……これは、どう考えるべきなんだろう……?」
海岸で騒ぎを起こしている暴徒たちは、どうやら、海や水によって、大切なものを喪った経験を持つ人々であるらしかった。
それゆえに、海という巨大な、一個の生命とでも言うべき場を支配しコントロールするすべを求めて、様々に不思議な、奇跡に満ちた海洋系ムービーハザードがあちこちに存在するこの海岸へとやってきたのだろう。
ルークレイルは、家族である海賊団以外の人間には打算的で冷淡だが、呪いのように激しい渇望と、そこから自身を救い出してくれた『家族』というものへの感謝と愛情とを身を持って知っているため、大切なものを喪ったがゆえの渇望によって狂わされ、暴走している人たちに対して、冷淡にはなりきれそうもなかった。
それは、一歩間違えば、自分が辿っていた道でもあるからだ。
――無論、同病相憐れむといった感情のために、海賊団を危険に晒すわけには行かないことを、ルークレイル自身が一番よく理解してもいるのだが。
「まぁ、いい。まずは彼らを何とかしよう」
ルークレイルの表情が冴えないのは、実は、暴徒と化した人々に関することではなかったが、今はそれに思いを馳せるより、彼らを鎮圧することの方が先だ。
「俺がこの装置を作動させたら、ベルゼブルは彼らを捕獲して、眠らせてやってくれるか。――出来るんだな?」
「ああ。俺にとって一番力加減が難しいのは、連中の動きを止めることだからな。それをお前がやってくれるなら、何とでもなる」
「そんなに難しいものなのか」
「下手をすると、挽肉にしてしまうかも知れん」
「……ああ、それは確かに大事(オオゴト)だな」
真顔で頷きつつ、ルークレイルは、自分たちを――渇望の成就を妨げる邪魔者を、胡乱な、殺気のこもった目で睨み付けている暴徒たちに、バイクの後部座席に括りつけられた、直径80センチほどの、黒い傘のように見える装置を向けた。
「耳を塞いでおいた方がいいぞ、ベルゼブル」
言いつつ、装置を操作していくルークレイル。
無傷で彼らを無力化するためにルークレイルが選んだのは、LRAD(Long Range Acoustic Device)と呼ばれる音響兵器だった。大音響によって、人々から戦意を、攻撃の意志を削ぐための兵器だ。
血を流さずにこの場を収めたいと、知り合いの傭兵に頼んで貸与してもらったものだが、これも、対人用で非殺傷性のものの中では、転倒や打撲の危険がつきまとう高圧放水などよりも安全に暴徒を鎮圧することが期待されてはいるものの、大音圧に曝された場合(特に130dB SPL以上では瞬間的であっても)、2008年時点の医学では治療困難な音響外傷や感音性難聴などの永続的な障害が残る危険性があり、人道上の問題点が完全に排除されたわけではないため、使用には注意が必要となる。
「……行くぞ」
小さな頷きが返るのを確認し、スイッチを入れると、途端、どう、とも表現し難い、音の塊が周囲を震わせ、暴徒たちがびくりと痙攣するのが見えた。
それと同時に、ベルゼブルが魔法で編み上げた光色の網を展開し、暴徒たちを絡め取ると、我に返ってじたばたともがく人々に向けて、眠りの靄を作り出していく。
海や水というものに、何かを返せと泣き喚いていた人々が、完全に静かになるまで、ものの五分もかからなかった。
「憐れだとは思うが……だからと言って、それは、罪のない誰かから奪ってもいいという許しにはならんだろう」
呟くと、ルークレイルはジャケットの胸ポケットから携帯電話を引っ張り出した。
対策課と病院に電話をかけ、意識を失った人々の搬送と対処とを依頼した後、今度は尻ポケットから煙草を引っ張り出して一本咥えると、
「ヒトの渇望か。……果てがないな。もっとも、その果てのなさが、ヒトの強さを創るのかと思いもするが」
指先に火を灯したベルゼブルが、煙草に火をつけてくれる。
「……そうだな」
火の礼を言ったあと、ルークレイルは、対策課で知って以降、ずっと意識の中にある事実を反芻し、煙を吐き出した。
「どうした、ルークレイル。気持ちが晴れないか」
「ん? いや……ああ」
ベルゼブルの問いに、曖昧な答えを返し、それから、
「そういえば、唯瑞貴はどうしているんだ? レヴィアタンの討伐戦以降会っていないが、元気にしているのか?」
ふと、何の気なしに尋ねると、ベルゼブルの表情が、ほんの少し曇った。
「……どうしたんだ?」
「行方が判らない」
「何だって?」
「あの、神音という歌手のコンサート会場で起きた事件の、一週間後くらいだったか。同じ事件に関わった友人と出かけて以降、誰も姿を見ていないんだ。魔王陛下ですら、あいつの居場所を見つけることが出来ずにいる」
「どういうことだ、それは……?」
「恐らく、魔王陛下に匹敵する力を持った何者かの影響下にあるんだ。……つまり、あまりよろしくない状況ということだな」
「……そう、なのか……」
眉をひそめたルークレイルが、思案する表情になったのも無理からぬことだった。
実は、ムービースターやムービーハザードが多く標的となっていることに着目し、銀幕市の脅威の一端となっているダイモーンとアンチファンの関与を疑っていたルークレイルは、暴徒となった人々が狂おしい渇望を与えられた場所もしくは、何か一連のきっかけがあるのではないかと考え、次々に寄せられる情報の山を引っ掻き回して、彼らが立ち寄った場所、目にしたもの、耳にしたものなどから、共通の事項を探していた。
百を超える人々の資料の中から、ルークレイルが執念で探し当てた、たったひとつの共通項。
それは、その全員が、この街で数回にわたって行われた、神音のコンサートに出かけている、というものだった。それだけが、この百数十人の間で完全に一致した共通項だった。
神音の居場所を尋ねると、植村から、今は別件で出かけている、との答えが返った。
それに対してモーションを起こす暇もなく――何せ、彼にとっての最優先項目は『家族』に関することだったので――、ルークレイルはここに来たのだが、神音と、神音のコンサートという共通した布石に、不吉な思いを抱かずにはいられない。
思わず沈思黙考の態勢に入ったルークレイルだったが、
「くそ、逃げられたか……」
「何てぇ素早さだ、本当にただの人間か、あいつら」
どこか聞き覚えのある声が、彼の意識を現実に引き戻した。
「あ、ベルゼブルさん、それに……ルークレイルだっけ、あんた。理晨の友達、だよな?」
闊達な、邪気のない声は、理月というムービースターのものだ。
顔を上げ、首を巡らせて見れば、案の定そこには、レヴィアタン討伐戦でともに第二部隊にて戦った、漆黒の傭兵の姿があり――彼を演じた俳優である人物は、ルークレイルに具合のいい銃を譲ってくれた友人だ――、その隣には、やはり同じ第二部隊で戦った、ミケランジェロというムービースターの姿があった。
「理月に……ミケランジェロだったか。どうした、こんなところに」
「いや……こっちの鎮圧も済んだみてェだな?」
「ああ。ルークレイルが、面白い道具を用立ててくれたからな、あまり苦労せずに済んだ」
「そっか、怪我人が出なかったんなら、それが一番だよな。あ、そうだ……なぁ、ベルゼブルさん?」
「ああ、どうした?」
「こっちに、赤い髪と青い髪の、まったく同じ顔した、十代半ばくらいのボウズがふたり、来なかったか」
「いや、見ていないが」
「……そうか、んじゃ、どこに消えたんだろ。仕方ねぇ、もう一回壱衛と連絡取るか」
首を傾げ、頭をがしがしと掻き回した理月が、タマよろしくー、などと言い、ミケランジェロに、タマじゃねぇミケだッ、などと突っ込まれているのを不思議そうに見ていたルークレイルは、海岸から少し離れた堤防に、金髪に緑の目の、やはり見覚えのある青年の姿を見い出して何度か瞬きをした。
「……シャノン・ヴォルムス」
小さく名を呟くと、理月が振り向き、彼に向かって手を振る。
「ホントだ。おーい、シャノン! どうしたんだ、こんなとこで?」
黒いコートが憎らしいくらい様になった美貌の人物、やはり第二部隊でともに戦った男が、
「他に騒ぎが起きているところはないかと思って見に来たんだが……こちらは鎮圧されたようだな」
海岸に横たえられた人々を見遣りながら言う。
では、シャノンも一連の騒ぎの収束に尽力したひとりなのだ、と、そちらの様子を尋ねようとしたルークレイルだったが、それを口にするよりも早く、唐突に、
――ばさり、
と、大きな羽音がした。
それとともに、背後に膨れ上がる、異様な威圧感。
気配は、三つ。
弾かれたように、シャノンが振り向き、身構える。
「……渇望は、散らされてしまったようだな」
「そのようだね。深く根付くものと、一過性のものがいる。――この違いはなんなのだろうね、それも興味深い」
低く傲然とした声と、やわらかく穏やかな美声。
シャノンより少し遅れて振り向いたミケランジェロが、目を見開く。
「お前……久我……!」
「おや、貴様は先日の。渇望の毒の味は、どうだった?」
久我と呼ばれた男が、くくく、と嗜虐的な笑い声を立てる。
ルークレイルは眉をひそめるしかなかった。
立っているのは三人、全員が男性だ。
ひとりは黒髪に金の瞳、右手の甲には獅子の頭、左手には巻きつく蛇の刺青のある、黒いコートの壮年の男。
ひとりは黒髪に黒目の、背の高い、三十代前半から半ば程度の男。――肩には、ありえない色のバッキーが鎮座している。
そしてもうひとりは、黒髪に金の眼、背に大きな翼を負った、神音と非常によく似た顔立ちの少年だった。
取り合わせの奇妙さよりも、彼らの放つ異様な威圧感、畏怖とでも呼ぶべき雰囲気の方が気になった。
「久我、お前は一体……」
ルークレイルが眉をひそめると、彼は、冷酷な、傲然とした笑みを浮かべた。
「それは、私であって、私ではない男の名前だ」
「何だって、それは、」
しかし久我は、久我であろうと推測される男は、ルークレイルに次の言葉を紡がせなかった。
「……ふむ、第一陣は、まぁ、こんなものだろう。手応えとしては問題ない、帰るぞ」
「そうだね、陣の出来上がりも気になることだし、そろそろお暇しようか。赤と青も、じきに戻ってくるだろうからね」
「御意。では、館までお連れ致します」
淡々と、ルークレイルたちの存在など見えてもいないかのように、やりとりが続けられる。
「待て、まだ話は――……」
彼らこそが、この一連の騒ぎの元凶だ、という確信に衝き動かされ、ルークレイルが彼らに向かって手を伸ばそうとするよりも、理月が、ミケランジェロが、シャノンが、ベルゼブルが身構えるよりも早く、
びゅうッ
黒い颶風が、彼らと、男たちの間に、飛び込んだ。
颶風は目にも留まらぬ速さで彼らの間を駆け抜け、次々に彼らを打ち据えて、砂浜へと転倒させる。
「な、……ッ!?」
黒い姿のそれを見上げて、驚愕の声を上げたのは、誰だったか。
「では、ご機嫌よう、銀幕市民の諸君。また、じきに、新しい宴が催されるだろう……是非とも、華麗に踊って見せてくれたまえ」
悠々と、飄々と、金眼の男が踵を返し、久我と思しき男がそれに倣う。
「ま、待て、」
砂にまみれた手を伸ばしたのは、ミケランジェロだった。
だが、その手は、身体ごと、目にも留まらぬ速さで揮われた、黄金の剣の鞘によって、砂浜に叩きつけられる。
「ぐ、……!」
少年の翼が大きくたわみ、ふたりの男を包み込む。
「何で……」
砂浜に倒れ伏したまま、呆然と声をこぼすのは、理月だった。
衝撃や痛みによってではなく驚愕のために、立ち上がれずにいる彼らの目の前に、佇むのは。
獅子頭の柄を持つ黄金の剣、蛇の飾りが縫い付けられた漆黒の衣装、炎のような真紅のショール。艶やかな黒銀色の髪に、瞳孔が金という不思議な赤瞳、額には禍々しい文様の。
「何でだよ、唯瑞貴……!?」
悲鳴のような理月の呼び声。
しかし、青年は――行方不明になっていた流浪の剣士、唯瑞貴は、何も言葉を発することなく、冷ややかですらない、虚無しか見えない眼差しで、それぞれに衝撃を受けているルークレイルたちを見下ろしているのみだった。
感情ひとつ伺えない、虚ろで無機質な表情に、悪寒ばかりが込み上げる。
「――……戻るぞ、『器』。今はまだ、『その時』ではない」
翼の少年が静かに言うと、
「御意」
唯瑞貴は、唯瑞貴であるはずの青年は、やはり一切の感情が伺えぬ声で言い、右手を宙に掲げると、鬼火のような青い光を放つ黒い蝶を大量に呼び寄せて、その中に身を滑り込ませた。
「唯瑞貴、待て、一体何が――」
ベルゼブルの言葉にも、一切の反応はなく、
「無駄だ、これはもう、『器』でしかない」
金眼の少年の、ただ事実を言う口ぶりにも反応を見せることなく、そのまま、蝶が消えると同時に、唯瑞貴の姿も見えなくなる。
「……顔見せとしては、劇的でよかったかもしれないね」
くすり、と、男が笑ったのが聴こえた。
そう思った次の瞬間には、眼も開けていられないほどの強い風が吹きつけ、三人の姿も、その風に吹き散らかされるように、消える。
――取り残された人々は、呆然と、その場に蹲るしか、なかった。
何故、どうしてという問いも、今は虚しいだけだった。
一連の騒動に倍する規模の暴動、集団パニックが、銀幕市の各地を揺るがすのは、ここから一週間の後のことである。
|
クリエイターコメント | 皆さん今日は、ノベルのお届けに上がりました。 ご参加、どうもありがとうございました。
渇望をキーワードに繰り広げられる終末の物語の、第一弾をお届けいたします。
皆さんが、満遍なく探索と鎮圧を申し出てくださったため、情報の取りこぼし、暴徒を暴徒のままで見逃してしまうことはありませんでした。
が。
――さて、結果は。
記録者は、特に語るべき言葉を持ちませんが、そう遠くないうちに、この事件の続報と、それに関する依頼とが、対策課に入ると思いますので、その折には、どうぞご助力をお願い致します。
OPのコメントでも申し上げましたとおり、登場率の偏りと、後味の悪さとをお詫びしつつ、次なるシナリオでお会いできるよう、祈る次第です。
それでは、どうもありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-01-25(日) 13:40 |
|
|
|
|
|