0世界に広がるチェス盤が、一面の森に変貌した。 見渡すかぎりの緑を目の当たりにすれば、だれもが疑問を抱かずにはいられない。 ――これまであったチェス盤の大地はどうなったのか。 ――植物の生態や、自然環境はどうなっているのか。 現地でつぶさに調査を行えば、なにか新たな情報を得られるかもしれない。 そう考えた雪深 終は、すぐに世界図書館に申請をしに向かった。「樹海内の生態や環境がどうなっているのかが、気になる。水源があるか等、できる限り調べてみたい」 目隠し姿の司書が、終の話した内容を書類に書き留める。「どこまで調べられるかは、わからないが……」 司書は構いません、とかえす。「できたばかりの樹海ですから、わたくしたちにとっても未知の領域です。どんなささいなことでも、情報をお待ちしております」 「お気をつけていってらっしゃいませ」という見送りの言葉に頷き、終は世界図書館を後にした。 その翌日。 終は三名の同行者とともに、森の入り口に立っていた。「どうだ」 はるか上空に滞空し、方角を見定めていた玖郎に問いかける。 舞い降りた天狗は、終に向かって小さく頷いた。「ターミナルと世界樹が目印になる。これだけ大きければ、どこへ向かっても迷う心配はなかろう」 景観に変化のない地上を往く者ばかりでは心もとないが、空を飛べる者が居るのは心強い。「できる限り手を尽くして、少しでも、有益な情報を持ち帰りたいわ」 村崎 神無がつぶやき、森の暗がりを見据えた。 口調こそ静かなものの、その金の瞳は好奇心に満ち、いつもより輝いて見えるようだ。 続けて、ニコル・メイブが終に問いかける。「ワームと遭遇した場合は、どうする?」「『虫』は、積極的に駆除する方向で」 今回のメンバーは、それぞれある程度の戦闘能力を持つ者たちだ。 やり過ごすしてしまうよりは殲滅していった方が手っ取り早い。 また、後に森に入る者たちのためにも、ワームの数は減らしておいたほうが良いだろう。「調査方法は、各々に任せる。ひとまず、疲れたり、飽きたりしたら帰る、としておこう」 四名は頷きあい、まだ見ぬ森の奥へと踏みだした。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>雪深 終(cdwh7983)玖郎(cfmr9797)ニコル・メイブ(cpwz8944)村崎 神無(cwfx8355)=========
雪深 終、玖郎、ニコル・メイブ、村崎 神無の四名が森に入ってから、いくばくかの時が流れていた。 森の様子は穏やかなもので、今のところワームとも遭遇していない。 水源を求めて樹海探索を企画した終は、これまでの調査状況をまとめたノートに視線を落とした。 ページには進んできた経路、調査内容にあわせ、ポラロイドカメラによる写真が添えられている。 デジタルカメラを選ばなかったのは終の趣向でもあったが、こういった現地調査で使用するには、その場で写真ができあがるポラロイドカメラは使い勝手が良かった。 写真のそばにコメントを書き足しつつ、作業を続ける。 これまでに進んできた森は、一定地域ごとに植生が違った。 一日目は、背の高い木の多い、薄暗い森だった。木の実などはなく、居並ぶ木々の幹はどれもうねり、絡み合うようで不気味に映った。 二日目に抜けたのは巨木の森だ。木の幹の一本一本が太く、まるで柱のようだ。葉は屋根のように丸く広がり、そびえ立っている。四人は太い根の下をくぐるように進んだ。 三日目に抜けたのは、白い幹の古木が立ちならぶ枯れ果てた森だった。いくつかの木を切り倒すと、中はすべて空洞になっていた。土も乾燥しており、この地域に水場はなかろうと早々に森を抜けた。 そして四日目の今進んでいるこの森は、壱番世界の植生に似ているようだ。 なお、これまで進んできた土壌に起伏はなく、どこまでも平坦だった。 もとにあったチェス盤の地平と同じと思えば、いくらか納得できる現象だ。 終のかたわらでは、同じくマッピングを行いながら進む神無が拾った木の葉や幹の皮、土のサンプリングを行っている。 小袋に納めたサンプルを荷物にしまい、問いかける。 「水場の気配は、見つかった?」 金の瞳に見つめられ、終は眉間にしわを寄せる。 かぶりを振り、答える。 「……まだ、見つからない」 氷や雪に縁のある身ゆえ、水の気配があればすぐにそれと知れるはずだった。 ――これだけの植物が生えているのだ。近場に水場がないだけで、進めばいずれ視界に入るだろう。 そう考えてあちこち移動してみたが、見つからない。 玖郎に頼み、上空からあたりを視察してもらったが、それでも川や池、それらに順ずる水場は一切存在しなかった。 「樹海の空気からは、ターミナル同様ある程度の湿度は感じられる。だが、まとまった水場の気配が、どこにもない」 同じく水気(すいき)の気配を探っていた玖郎も、茂る葉を手にとり、透かし、揉み潰す。 すり潰した葉からはわずかに水気がにじんだ。 これは、『通常』の植物がもつ水分と同様のようだ。 続いて幹を叩き、その音の響きを探る。 かえってくるのは、低く短い音。 幹に耳を押し当てる。その状態で幹を叩く。 やはりかえってくるのは、水気をたっぷりと含んだ若木の幹の音だ。 (虚ろでもない。まごうことなく、健康な樹だ) つまりこれらの植物は、『通常の植物と同じ様で、生きてこの地に生えている』ということになる。 (欠けたるところ無き葉。水気を十二分にふくんだ幹。しかし、それらの脈に流れる水はいずこより――?) 眼で探すことが叶わないのであれば、地中に求めるまで。 玖郎はおもむろに足で土をかきはじめた。 その意図を察し、終もトラベルギアの長柄斧を使い、大地を掘りかえしはじめる。 「あれ。二人ともどうしたの?」 ひとり先に進んでいたニコルが、両手いっぱいに果実を摘んで戻ってきた。 足で、斧で、無心に土を掘りかえす男衆の姿を見やり、神無に答えを求める。 「水場探しよ。……土を掘っても水が出てこなかったら、この樹海には水源は無いのかもしれないわ」 神無の言葉に、長柄を握りしめる終の手に力が入る。 もとより、ただの樹海ではないとわかっていた。 ――だが、水気があるからこそ木々は瑞々しく生い茂る。まさか、命の根源たる水源がないということは……。 望みをかけて、およそニ時間。 終と玖郎が掘り続けた穴は2メートル近くに及んだが、その穴から水が湧き出すことは、ついになかった。 ◆ ◆ ◆ 「ね。みんなお腹すいてない?」 『樹海には水源がない』という結論に達し、あからさまに肩をおとした終を見かね、ニコルは休息を提案した。 乾いた草地を探しだし、思い思いに腰をおろす。 集めてきた果実を仲間たちの前に広げ、ニコルは「好きなのを食べて」とふるまった。 色鮮やかな果実は、壱番世界の南国のフルーツを思わせる。 「……これ、まだ集めてない果実だわ。食べる前に、サンプルに――」 「大丈夫よ、カンナ。この先に、まだまだいっぱい生ってるから」 調査作業をはじめようとする神無の声をさえぎり、ニコルは嬉々として赤い果実に手を伸ばす。 荒野を生まれ故郷にもつニコルは、これほど鮮やかな色彩の木の実が鈴なりに生るのを見たことがなかった。 0世界の商店や異世界で見かけることはあっても、己の手で木からもぎ取った果実は、また格別のように思える。 「採ってくるときに一応味見をしたから、ひどい味のはないと思うんだけど」 果物ナイフで切り分けた果実からは、さわやかな香りの果汁がしたたる。 終はその果汁をうらめしげに見やりながら、ニコルから果実を受け取った。 「……果実には十分な水気があるというのに、これだけの樹海に、水源がひとつもないとは……」 水にあやかって生きる者として、この事実に少なからず終の心は折れていた。 パスホルダーに常備した水でかき氷を作り、お気に入りのシロップをかけて口に含む。 この地に水場がないとわかれば、舌先を冷やす感覚までもがありがたく、身にしみるようだ。 一方、穴を掘る作業中から、玖郎は沈黙を貫いていた。 空から見たもの。 地を掘って目にしたもの。 これまでの調査内容を、自分なりにまとめるべく思案していたのだ。 (『すがた』とは本来、諸相を生きぬくための必然のかたちだ。木々が水を求めるもまた、生きるため。だが、いのちの根源たる水気がないにも関わらず、かように蒼い若葉が茂るとは) 一向に食事をしようとしない玖郎を見かね、ニコルは手荷物の中から干し肉を取りだした。 万が一樹海で食べ物が見つからなければ、これを食事にしようとあらかじめ用意していたものだ。 ここまでの数日間にも、幾度となく皆で分けて食べている。 「食べる? 金鷲さん」 ――もしかしたら、果実は口に合わないのかも。 そんな不安と、今回初めて共に行動するツーリストへの少しの興味を抱きつつ、干し肉をさしだす。 玖郎はそこでようやく、己の思考を手放した。 ニコルの手にしていた干し肉を認め、小さく頷く。 「……もらおう」 目元は堅牢な鉢金に覆われており、よく見えない。 だがニコルは玖郎が食事を手にしてくれたことが嬉しく、微笑みを向けた。 故郷では『堕ちた鳥』が人の始祖であるとされ、『大鷲の民』として生きてきただけに、翼もつ者への憧れはひと一倍強い。 干し肉を食み、玖郎はまとめあげた考えを口にする。 「土を掘りかえしていて気づいた。この大地には、水気だけでなく、虫のすがたもない」 「そういえば」と、かき氷を平らげた終が顔をあげる。 「穴を掘っているあいだ、それらしい生き物をまるで見なかった」 仮に壱番世界の大地であれば、少し土を掘ればアリやミミズといった虫の姿を見ることができただろう。 異世界の土壌であったとしても、土に棲むなんらかの生き物の姿があって良いはずだ。 「そういえば、樹海に入ってからの数日間、動物も見てないわ」 サンプル収集の作業をしている間に周囲の観察をおこなっていたが、動物の気配はまるでなかった。 神無の言葉に、玖郎が頷く。 「これまで幾度も梢に立って耳を澄ましたが、鳥のさえずり、羽ばたきは聞こえてこない」 「ふむ」と終が息をつき、情報を整理する。 「本来、虫は植物と共生するものだ。花々の花粉を虫が運び、実を結び、果実が生る」 「虫だけじゃないわ。動物だって、果実を食べることで、その種を別の地へ運ぶのに一役かっているはず」 ニコルが大きな瞳をしばたたかせ、首をかしげる。 「……てことは、この樹海の植物は虫も動物もいないのに、花を咲かせたり、実をつけたりできるってこと?」 「これまで調べた限りでは、そういうことになるか……」 唸り、考えこむ終に、ニコルが声をあげる。 「そんなの、でたらめじゃん!」 「そう、でたらめだ」 玖郎に賛同され、思わずニコルが固まる。 「……えっ。本当にでたらめなの?」 「なにか、考えがあるのね」 神無にうながされ、「これはおれの推測だが」と前置きした上で、玖郎が続ける。 「この樹海は世界樹の思惟のまま、いびつに再現された、よせあつめの標本なのではないか」 その言葉に、居合わせた三人はあっけにとられた。 樹海の植物はここで『生ったもの』ではない。 あらかじめどこかに『在ったもの』が、そのまま0世界に『再現』されたのではないか。と、そう言っているのだ。 「……なるほど。そうであれば、これだけの樹海が瞬く間にできあがったのも合点がいく」 先の戦いの結果、なんらかの影響で、チェス盤の大地が世界樹によって書き換えられてしまった。 その結果が、この樹海だというのだ。 ◆ ◆ ◆ 推論をさらに確かなものとするため、四人は休憩の後、ニコルが果実を採ってきたという森へ進んだ。 森の境界は、どこも複数の植生が入り混じるようにしながら、しだいに景色が変わっていく。 たどり着いたのは、彩度の高いが木が生えた地域だ。 赤、青、黄、橙、紫。 視界いっぱいに、色とりどりの果実が生っている。 「まるで、春……いや、夏の森だな……」 鮮烈な緑に包まれ、終はどことなく居心地が悪い。 「ここも、虫や動物はいないようだ」 玖郎が厳しい眼で木々を見つめるのをよそに、ニコルは神無の手を取った。 しゃらんと戒めの手錠が鳴る。 だが、大鷲の少女は気にしない。 「さっき食べた果実、集めるんでしょ? こっち、こっち!」 ひるがえるヴェールを追いかける。 導かれるままに進んだ先は、花と果実に囲まれた広場だった。 視界いっぱいの極彩色に、退魔師の少女は思わず眼を見開いた。 「……すごい」 足元に咲き乱れる花も集めたかったが、まずは果実だ。 神無は先ほど口にした果実をもぎとり、ひとつひとつ、丁寧にラベル付けしていく。 「ほかの世界じゃ、いつもこんなの食べてるの?」 作業を進める神無を手伝いながら、ニコルは時おり、目新しい木の実を口に含む。 「果実は私の世界にもあったけれど、こんなに色鮮やかな森は見たことがないわ」 作業の手を止め、花や果実を手にとっては、はしゃぐニコルを見つめる。 「綺麗……ね、これ、なんて名前なのかな」 掲げ見せられた花に視線を落とし、神無は小さく首を振る。 「わからないわ」 切りそろえた黒髪がふわりと揺れる。 「私も植物に詳しいわけじゃないから、ターミナルに戻ったら、集めたサンプルを司書さんや詳しい人に調べてもらおうと思って」 神無は玖郎のような独自の推察はできない。 だが、こうして見たことのない植物を集め、資料を持ち帰ることはできる。 ――ひとつでも多くのサンプルを集めることで、樹海の理解を深める手助けになれば。 神無が次の果実を手にしようとした、その時だ。 「――!」 殺気を感じ、瞬時に木から飛びのく。 もぎとろうとしていた果実に、黒い針が突き刺さっていた。 針といっても、神無の手首の太さほどはある。 その針に貫かれた果実が、じゅっと音を立てて溶けた。 (これは……!) ゆっくりと木の上から現れたのは、蜘蛛に似た黒い『虫』。 ただし、その多脚は鋭利な針を思わせ、標的としたものを溶かし殺す能力を持ちあわせているらしい。 大きさは神無やニコル、終の腰の高さほどもある。 機械にも似て黒く、無機質さを感じさせる体躯ではあるが、その動きは体重を感じさせないほど機敏だ。 「ニコルさん、離れて!」 叫ぶなり、神無が調査道具を抱えたまま蹴りを放つ。 つま先が空を裂き、幹がはじけた。 だが『虫』はすばやい動きで蹴りをかわし、跳躍。 ニコルめがけて鋭利な脚を伸ばす。 「イツ、クロウ! ワームよ!」 ニコルはあえて至近距離まで『虫』引きつけ、構えた二丁拳銃を発砲。 すんでのところで身をかわした。 ヴェールの端が溶けたが、それ以外に傷はない。 『虫』が花畑に着地したところをめがけ、神無が遠隔操作した刀で斬りかかる。 蠢く脚の一本を切り落とし、間をおかず蹴りあげる。 だが――、 「カンナ!」 『虫』は空中で体を反り返し、再度跳躍。 すぐさまニコルの弾丸が飛ぶも、『虫』は地を蹴り、木を駆けあがり、機敏な動きで捕まらない。 ふいに、あたりに冷たい風が吹いた。 それが終の能力であると気づくのに、さほどの時間はかからない。 「……水源もない。虫もいない。動物もいない……」 そのくせ、植物を荒らす『虫』は居る。 すべての憂さをこめ、終はトラベルギア【雪月花】を手に地を蹴った。 神無・ニコルが追いたてた『虫』めがけ、一閃。 脚と体の一部を凍らせるも、仕留めるには至らない。 「玖郎!」 雪女半妖の声に、天狗は無言で飛翔する。 終はパスホルダーの水を周囲に散らし、うめくようにつぶやく。 「樹海では貴重な水だが、致し方ない」 飛散した水が、中空で次々と氷の刃に変わる。 終が腕を振あげると同時に、刃は『虫』めがけて飛翔。 いくつかが体に、いくつかが大地に刺さり、『虫』の動きを縫いとめる。 次の瞬間には、舞い降りた玖郎が足の爪で『虫』を押さえこんだ。 続けて、両の手の鉤爪を突き刺す。 『虫』と爪の接点で、二度、三度、火花が散った。 獲物が動きを止めたことを確認し、玖郎が爪を引き抜く。 「仕留めたか」 終の問いかけに、「焼ききった」と玖郎。 『虫』の遺骸がぼろぼろと崩れ、土に混ざり、消えた。 「ふたりは、大事ないか」 「ヴェールの端が溶けちゃったけど、それだけ」 「私も、怪我はないわ」 玖郎は二人の答えを待たず、再び羽ばたき「周囲を見てくる」と、飛んでいく。 これまでワームには遭遇していなかったことを思えば、再びまみえる確率は低い。 だが、念には念を、ということだろう。 「いいな……」 ニコルは空を翔ける金鷲の姿を見送り、溜息をついた。 ――私も、あんなふうに風に乗りたい。 神無が調査道具を拾うのを見やり、あわてて我にかえる。 再び果実や花を集めはじめた女性陣を横目に、終は先刻、ワームが現れた木の下に来ていた。 溶かされた果実を探し、念のため凍らせた上で、拾いあげる。 果実は傷み、どす黒く変質していた。 終はこれまでの道程を振りかえる。 数日前に切り倒した木も、伐採後に生気を失ったものがあった。 時おりニコルが花を摘んで歩いていたが、その花にしても『途中で枯れてしまった』らしく、土に埋めている姿を見た。 水はない。 虫や動物もいない。 この0世界の空と同じく、変化しない。 ただ、『生えているだけ』の木々たち。 「……しかし、外からの干渉には、影響を受ける、か」 考えれば考えるほど、不思議な場所だ。 凍てついた果実を見やっていると、玖郎が戻ってきた。 「見ろ」 手にしていたのは、輝く破片。 それは、先の戦いで0世界に飛び散った、世界計の破片のひとつだった。 ◆ ◆ ◆ その後、終は女性二人の様子や食料の様子を鑑み、来たときとは別のルートを辿り、ターミナルへ引きかえすことにした。 時おり、通りすがった森の葉や花、木の枝を持ち歩いたが、そのどれもが数日のうちにしおれたり、枯れてしまった。 帰るまでに傷んではいけないと、神無の果実サンプルは終が念のため凍らせている。 「摘んだら枯れるけど、こうやって土に生えている分は大丈夫って、やっぱり不思議だな……」 ニコルは枯れるとわかってから、花を摘もうとはしなくなった。 もちろん、花は手折れば枯れるものだと理解している。 だが、この樹海の草花なら、あるいはいつまでも咲いているのではないか。そんな淡い期待も、少なからずあったのだ。 それでも、眼に映る花は美しい。 ニコルはその後も調査の疲労を感じさせない軽やかな足どりで、「ねえねえ、こっちは?」「かわいいね」と花を見かけては樹海を駆け回った。 一方、終はそれから桜を探して歩いた。 桜であればなじみがある。観察もしやすく、己のわかることも多い。 実際、樹海に桜の木は生えていた。 満開の桜だ。 故郷では春のおとずれをよろこび歌う木だ。 だが、0世界には季節などない。 桜に出会うまでにも、いくつも植生の違う森を通り抜けており、その中には桜とは違う時候に茂るものがいくつもあった。 触れた幹の手ごたえ。 舞い散る花弁の色。 そのどれもが、故郷で見た桜と寸分の違いなくそこに在る。 ――だが、なにも、聞こえない。 桜は美しかった。 ただ、それだけだった。 (これも、ただ『生えているだけ』、なのか……) 玖郎は行く先々で木を切り倒した。 もちろん、影響を与えた木は朽ちると知ってから、切る木は最小限に留めている。 観察を繰りかえしたのは、樹木の年輪だ。 ――普通は南側へ広がるが、日照に差異なき地では同心円になっていまいか。 そう予想をつけてはみたものの、実際にはどの年輪もばらばらの様相だ。 よくよく調べてみれば、一定の地域ごとに年輪の形はそろっているようだ。 しかし、ひとたび違う植生の地域へ踏みこめば、また別の年輪があらわれる。 また、玖郎は別の事象についてもあわせて着目していた。 同じ種の植物を探し、ある地域では青い果実。別の地域では紅葉、また別の地域では朽ち果てていることを確認した。 「どの樹木も確かに成長過程を刻み、歴史を語っている」 だがそれは、どうやら0世界での歴史とは違うらしい。 ――やはり、先の推測どおりと考えるべきか。 調査を終えて樹海を抜けるとき、神無はふと足を止め、振りかえった。 異世界の植物が地平の果てまで続く森。 うつろうことのない木々。 知らず、サンプルを集めた荷物に手を触れる。 立ちならぶのは確かに、『木』には違いない。 だが、神無はそれらの木に、どこか『違和感』を感じていた。 「やっぱり普通の森とは違うわね。何がとは、はっきりと言えないけど……なんとなく」 ターミナルに戻った後、一行はその足で世界図書館に向かい、全ての資料を司書に提出した。 サンプルはその日のうちにすべて研究にまわされ、回収した世界計も修理されるという――。 そして、数日後。 四人のもとに、司書から連絡が入った。 世界図書館の前で待ち合わせ、目隠し姿の司書のもとをたずねる。 待合テーブルの上に茶と菓子がふるまわれ、先日提出した資料がその端に山と積まれる。 「資料とサンプル、それに世界計の破片も見つけていただき、みなさま、本当にありがとうございました」 終たちが持ち寄った資料はこれまでの他の報告書とも照合され、ありとあらゆる点から調査が進められたという。 「これまでにいくつもの地図が作成され、周辺の樹海の様子は、段々とわかってきています」 先日には拠点も完成し、今後、さらに樹海へ足を運びやすくなるだろう。 「なお、みなさまが調査してくださった植物の植生についてですが、おそらく、玖郎さまの推測どおりであろうという結果が出ました」 「では、やはり」 玖郎の言葉に、司書が頷く。 「はい。あの樹海は、『世界樹が記憶した植物の再現』と思われます」 神無が集めた果実や木の葉、終の撮影した写真を世界樹旅団メンバーに見せたところ、かつて侵略した異世界や、訪れた世界でみた植物があるとの証言を得ることができた。 地平まで広がるほどの植物が生えているのだ。 世界樹が異世界をさすらってきた経緯を考えれば、その種類は膨大なものだろう。 「土にもいくらか種類が見られるようでしたが、特に乾燥しているか否かなどで、その性質に大きな差異はありません。土壌については、複製元から何らかの特徴を引き継いだ、というわけではないようです」 続けて、司書は樹海での水源についても言及する。 「どの植物にも、必要最低限の水分は含まれています。ですから、果実などは味が口に合い、毒性などがなければ、食料とすることが可能です。しかし、樹海内には川や池、地下水といった、一切の水源がないようです」 「虫も、動物も、いなかったわ」 神無の言葉に、司書が深く頷く。 「そう。つまりあの森には、植物以外のものがなにひとつ存在しないのです」 調査中から薄々感じとってはいたが、いざ結論付けられるとどうにも信じがたい。 「……あの樹海は、本当に、世界樹による『異世界植物標本』なのか」 唸る終をよそに、玖郎が口を開く。 「長期的に観察せねばわかるまいが、はたしてあの木々は、うつろうことがあるのだろうか」 司書は「おそらく」と答え、続ける。 「樹海の木々は0世界と同様、『停滞している』ものと思われます。よって、我々が干渉するような事でもなければ、木々が朽ちることはありません」 0世界に朝や昼、夜がこなくとも。 気候が変わらずとも。 それが理由で、樹海が枯死することはないというのだ。 ニコルは戻された資料を手にとり、押し花に目を落とす。 「私たちがこうやって摘んだりしなければ、あの花畑も、果樹園も。ずっとずっと、樹海の中に存在し続けるんだ」 「……それって、なんだか」 神無は口を開こうとして、黙した。 森を去る時に感じた『違和感』。 それを表現するのに、最適な言葉が見つからない。 「うまく、言えないが」 終がぽつりと、口を開く。 樹海でみた桜を思いだす。 うたわない桜の姿が、胸に迫る。 あの桜はこの先もずっと、ずっと、ああして、咲き続けるという。 「花は、散るからこそ……うつろうからこそ、美しいのだと。そう、思うのだが……」 「ことわりを歪め、永遠に在り続ける樹海、か」 玖郎のつぶやきに、司書もしばしの間、沈黙する。 ふいに立ちあがり、声をかけた。 「新しいお茶を淹れましょう。先日集めてくださったサンプルで、茶をつくった者がいるのです。面白い味がしますよ」 胸に抱いた不思議は尽きない。 そのものの『すがた』を歪める在り方も、すんなりとは受け入れがたい。 それでも、楽しみなのだ、と司書は言う。 「これからは、わたくしも樹海へ行けば、すこしは異世界気分を堪能することができそうですからね」 もちろん、ワームがいないとわかった範囲でなければ、足を運べないだろうけれど。 そう付け加え、不思議な色の茶を四人の前にさしだす。 玖郎は目線を送っただけで、手に取ろうともしない。 「ハーブ、とも、違うかしら」 神無がカップを手にとり、香りを確かめる。 そっと口に含むと、紅茶とも緑茶とも違う、不思議な味がした。 「ねえ、あの樹海の植物って、ターミナルで種をまいても育つと思う?」 ニコルの言葉に、司書は首をかしげる。 「さて。それは、やってみなければわかりません」 うまく栽培できれば、こういった茶も多く作れるかもしれない。 あるいは色々な花の種を手に入れて、ガーデニングを楽しむこともできるかもしれない。 ――桜は、どうだろう。 枝を折れば朽ちるといわれる桜は、ターミナルへ移すことは難しいだろうか。 温かいカップを手にし、訪れた樹海の記憶をたぐり寄せる。 終は樹海にあったいくつもの桜の木を思い出し、胸中でつぶやく。 (いずれ、また。会いにゆこう) あの樹海に心を添わせるには、すこし、時間がかかりそうだけれど。 鼻先にふわりと、甘い香りが漂う。 終は静かに、カップの茶が冷めるのを待った。 了
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