凍り付いた灰色の空から雪がちらちらと舞い降りてくる。 白銀に染め上げられた世界、山間にぽつんと佇むこの広大にして孤独な日本家屋で、果たして一体どれだけの血が流れたのだろう。 雪深終は、そっと目を閉じる。 頬に落ちてくる結晶の冷たさを受け止めながら、思考は過去と現在を行き来しながら真相へと繋がっていく。 そして、終は目を閉じたまま、いつの間にか背後に迫っていた人影に向けて、ただ一言告げる。 「貴方以外、犯人はあり得ないと思ってた」 * 迎えの車で長い雪道を上っていった先――木々の合間を抜けてようやく辿り着いたそこには、重厚にして厳かな雰囲気をまとった日本建築が鎮座ましましていた。 「うん、うちの旦那が喜びそうだわ」 後部座席から降り立ったニコル・メイブの第一声は、刑事であるがゆえに行動の自由がままならない夫への想いだった。 続く終は、そびえる門を前に、ささやかな問いをなげる。 「ニコル、俺が来て本当によかった?」 「もちろんだよ」 むしろ終がいなければ始まらないといっても過言ではない。 白のシャツに濃紺を基調とした羽織袴を合わせた終の出で立ちは、ジャケットにパンツルックといった活動性重視の洋装であるニコルとの対比で一層この場に似つかわしかった。 彼がここに来ることこそが正しいのだと言わんばかりだ。 そんなふたりの前で、分厚い木製の門がぎちぎちと鈍く軋んだ音を立てゆっくりと開かれる。 「お待ちしておりました、雪見終様、ニコル・メイブ様。君枝様がお待ちです」 出迎えてくれたのは、ニコルとあまり年の変わらないクラシカルなメイド服の使用人だった。 「どうぞ足下にお気をつけください」 ややハスキーな使用人の声で案内されるまま、ふたりはしんと冷え切った空気が立ち上ってくる廊下を進む。 まるで迷路のように長い長い道程を折れ曲がる間、視線を向ければ、右手には延々と閉じた障子が続き、左手には見事な日本庭園が広がっている。 しかし、家全体が何とも言えず陰鬱で、当主を失ったという理由だけとは思えない胡乱な空気が漂っていた。 「君枝様、お客様をお連れ致しました」 襖のひとつが開かれると、いやに広々とした畳の間におかれた漆塗りの卓袱台でひとり、正座して俯く少女の姿が目に入る。 彼女の白い肌はすっかりと青ざめていて、まるで熱を感じさせない。 だが、使用人の呼びかけとともにこちらの来訪を知った途端、 「ニコル、来てくれたのね!」 彼女の暗い表情がパッと輝いた。 いそいそと立ち上がってこちらにやってくる頃には、頬に微かな赤みが刺している。 「きみの頼みだからね、来ないわけがないよ」 「ありがとう。雪深先生も、ようこそおいでくださいました。先生の探偵としてご活躍は、女学校時代からニコルより伺っています」 そんな君枝に、終は少々居心地悪そうに首を傾げる。 「いや、俺はたいしたことはしていない」 「終の探偵っぷりは幼馴染みの私が一番近くで見てるんだよ、たいしたことないわけないじゃない」 ばしんっと思い切りよく終の背を叩けば、男性にしては小柄な身体がはずみでよろりと前のめりに揺れる。 「痛い、ニコル」 「ごめんごめん。さてと、で、きみが手紙に書いてた“殺人予告”って言うのは?」 「あ、ごめんなさい。どうぞ、ニコル、先生、こちらに」 立ち話でいたことを恥じるように俯いてから、君枝はニコルたちに座布団を勧める。 いつのまにか茶の準備までされたその場所で、依頼主でありかつての級友でもあった彼女から話は始まる。 「これが、例の脅迫状です」 折りたたまれた質のよい和紙を広げれば、そこには、墨の滲んだ歪な文字が不揃いながらも綴られていた。 『業深き者たちよ 己が身に宿す花の命の いと短きことを知れ 樹』 「……ん~」 もっと直裁的な表現をイメージしていたニコルは、眉を寄せて、首を右に左にと傾ける。 文面からしてあまり気分の良いものでないのは確かだが、かといって、これが今すぐ何らかの具体的な手段に訴えるような脅迫状には見えなかった。 一体なぜ、君枝はこれを読み、殺人予告という発想に至ったのかをまず知りたいとすら思う。 そんなニコルの隣で、終は短く問いを口にする。 「この最後の、樹というのは?」 「それは『いつき』と読むんです。……樹は私の双子の兄で、10歳の時に不意に家を出たきり、音信不通となってしまっていて」 父とも年の離れた姉たちとも折り合いが悪かったのだと君枝は言う。後妻である自分たちの母親が他界してからは尚更、関係は悪化していったのだとも。 「そういう人物が7年を経て、何故今こんな手紙を?」 「わかりません……ただ、もしかすると兄が、父の死をキッカケに復讐をはじめたのじゃないかしらって」 要領を得ないままに、彼女は己の不安を不定型に告げていく。 「父の死も、もしかするとただの事故ではなかったのかも知れないって、そう思えたら余計怖くなってしまって」 ヒトがヒトを殺そうとする時、想いだけでなく実行に移すためにはそれ相応のエネルギーが必要なのだ。 それだけの動機を、一体彼女はどこに見出しているのか。 だが、終やニコルが彼女の抱えている問題に踏み込むより先に、障子が勢いよく開け放たれる。 「君枝! どこに行ったかと思ったら。探偵のお客様ってどういうこと!?」 飛び込んできたのは喪服の洋装に身を包んだ華やかな女性の、突き刺さるような声だった。 「桜子お姉様」 それまでわずかとは言え穏やかさを伺わせていた友人の表情が、ぴしりと強ばる。 「私達になんの相談もせずに探偵を呼ぶだなんて、あなた、どういうつもり?」 「脅迫といっても所詮はイタズラじゃないの? だいたい、いまさら樹の名前を騙るってなんなのよ!」 「満足に初七日の支度もできていないのに、そんなことをしている暇があなたにあるわけ?」 桜子に続いて次女の桃恵、三女の梅代がそろい、まるで刃のように鋭い言葉を投げつけてくる。 聞いているニコルの方が段々と不機嫌になっていく。 しかし君枝はただ大人しく、俯き、『はい』と小さく返事を返すばかりだ。 「まあ、いいわ」 ひとしきり君枝への嫌みを吐き出してから、彼女たちはようやく、無言を通していたニコルと終に視線を向ける。 「その子の遊びに付き合わせてしまって申し訳ないけれど、気が済んだらお帰りいただけます?」 客人に向かってずいぶんな台詞を吐いてから、彼女たちは部屋を出て行った。 ふつりと、ニコルの中に怒りが湧き上がる。 それは自分に対する物ではなく、大人しい級友が粗雑に扱われていることへの怒りだ。 「あのさ、君枝」 「ごめんなさい、驚かせてしまって。そうだ、ニコル、先生、よかったら家の中も案内させてください。泊まって頂く部屋も奥に用意しているんですよ」 だが、あらゆる言葉を遮るように、友人は努めて明るく振る舞い、立ち上がり、ニコルへと手まで差し伸べた。 「うん、じゃあ、お願いしたいな」 一通り案内されたふたりは、最後に、蝶の標本が欄間に飾られている客間へと通された。 夕食までここでくつろいでいてほしいと言い置いて、支度があるからと彼女は姿を消した。 終とともに残されたニコルは、床の間に飾られた掛け軸や高価な花瓶を眺めながら、卓袱台に頬杖をついて、先程までの時間を整理してゆく。 整理すればするだけ、疑問は次から次へとわいてくるのだが、引っかかったのは最初の一歩からかもしれない。 「あのね、終はあの脅迫文、どう思った?」 「不自然だ、ひどく」 「だよね、うん、不自然。なんでアレを脅迫だって君枝は思えたのかな。花の命は確かに短いけど」 「桃恵は何故あの時、いまさら、とか、騙る、なんて言ったんだろうか。まるで既に死んでいるかのようだ」 ここではないどこかに視線をおいて、終は語る。 「可能性を思う。樹はもうこの世にはいない、という可能性。ただ、10年前の失踪の本質が、本人の意思なのか殺人なのか事故なのか自殺なのかで意味合いは更に大きく変わる、そう、変わるんだ」 「会話噛み合ってないけど、まあいっか。終はそれが気になるわけね?」 彼の中ではいま、どんな《絵》が形作られているのだろうか。 そして、終の中でその絵は、いつ、どんなカタチで完成を迎えるのかと、ニコルは思う。 だが、それを問いかけても、まだ答えは返ってこないのだろうこともよく知っている。だから、あえて問いかけはしないのだが。 「雪だ」 不意に、遠くを見つめていた終の瞳に、好意と興味の光が差す。 「吹雪が来る」 終の天気予報は何故か外れない。 彼が断言するなら、これから吹雪となるのだろう。 「こういうところって、あんまり雪がひどいと外界から隔離されちゃうはずだよね」 探偵の天気予報を聞きながら、何気なくさりげなく告げたニコルの台詞は、やがて不吉なカタチで現実の物となる。 「夕食の支度が調いました」 メイド服の使用人がふたりを呼びに来る頃には、窓の外は本格的に降り始めた雪で真っ白になっていた。 広々とした座敷に膳が並び、上座の当主が座るべき場所は空いたまま、向かい合わせに序列にそって人が並ぶ。 そこで、長女と次女には既に夫がおり、当主を失った現在、実質的な相続については遺言状の開示が待たれているということが会話の端々から拾うことができた。 だが、それ以上の情報を得たいと望んでも、君枝に発言権は与えられていないらしく、彼女の客人であるニコルと終に対しても最低限の礼儀すら払われる様子がない。 これならばいっそ食事の場所を分けてくれて構わないんだけど、と思うニコルに対し、終はだじっと彼らのやりとりを観察しているようだった。 「そういえば、桃恵はいつになったら来るのかしら?」 「調べたいことがあるとかで書斎にこもるとは言ってたんだが。すまないね、誰か呼びに行かせよう」 年長者として当主代理を務めている桜子の訝しげな台詞に、桃恵の夫が申し訳なさそうに告げる、その声に被さるようにして、突然の悲鳴がその場を大きく震わせた。 空気がざわりと不吉に揺れる。 「行こう!」 一体何事かと視線が交わされるなか、終の手を引き、立ち上がったニコルの行動は誰よりも早かった。 他の使用人たちも慌ただしくやってくる中、声を頼りに辿り着いたのは、先程案内してもらったばかりの《書斎》だった。 「し、死んでる……! 死んでるんですっ!」 廊下で腰を抜かしているのは、ニコルたちを案内してくれたメイド服の使用人だ。 その傍らをする抜けて中に入り込めば、視覚を圧迫するかのような三方の壁を埋める書棚と文机の間で、血だまりの中に倒れる次女の姿が確認できた。 「……血液は固まりはじめているけど、身体はまだ温かい」 不用意に指紋などをつけないよう気遣いながら、ニコルは彼女の身体に触れ、これまでの経験を元にした検死の真似事をしていく。 ぱっくりと裂けた傷口を晒す首は奇妙な方向に折れ曲がり、荒々しい力業を疲労していながら、彼女の周囲には何故か桃の花がいくつもいくつも落ちていた。 「……ツクリモノ、か」 終は足下に落ちていた花のひとつを拾い上げる。 血に汚れた花弁の感触は本物とはほど遠く、それが薄い和紙を切り抜いて作られた細工であることが知れた。 手は込んでいるが、この真冬に本物の花を用意することは叶わなかったらしい。 「……花を汚すみたいで、本当にいや」 ぼそりと呟いたニコルは、自身の言葉をあえて掻き消すように、後を追ってやってきた桜子をはじめとする家人たちへ牽制の声を張り上げた。 「落ち着いてください。無闇に手を触れないで! 警察が来るまで現場はそのままに!」 君枝を除けば、そこでは最年少であるはずのニコルが、誰よりも俊敏に冷静に場を仕切る。 幼い頃から事件を引き寄せる終と行動を共にしていたからか、あるいは、ことあるごとに現場で鉢合わせていた年上の刑事であり現夫の影響も大きいのか。 現場保存の鉄則を忠実に守り、更には梅代を最後に見たのは誰なのか、この書斎で彼女は一体何をしようとしていたのか、その間自分はどこにいたのか、第一発見者はどういう状況であったのか、アリバイの確認までの事情聴取を、そうと悟らせずにさらりとこなしていく。 終はそれを一歩引いた場所から、じっと観察していた。 「一体誰……誰が樹を騙っているの?」 「不審者を招き入れたのは誰!? どうして誰も何も見ていないの!?」 真っ青になりながら唇をわななかせて呟く桜子に、ヒステリックに怯えを振りまく梅代、 「お兄様、どうして……」 不安がカタチを為したことに戦く君枝は、発見者となった使用人に縋るようにして呟く。 「とにかく警察だ、警察を呼べ!」 高圧的な声を張り上げる桜子の夫の虚勢はいっそ痛々しいくらいなのだが、そこへ、血相を変えてやってきた年嵩の女中の言葉がさらなる混乱を場に引き入れた。 「奥様、旦那様、電話の線がすべて切られています! これでは警察を呼ぶこともできません」 怯える者たちから正常な判断を奪うには十分な台詞だった。 その中で終は小さく小さく呟きを落とす。 「……この犯行は女性には難しいかも知れない……でも、いったい誰がどうやって?」 現世を映してなどいないのかも知れない眼差しがどこに向けられているのか、その意識が今何を描いているのか、ニコルには分からない。 ただ、長い付き合いの中で、終の中で真実に向けた何かが動き出していることだけは確信できる。 「とにかく今夜は現場をこのままにして、皆さん一度部屋に戻りましょう」 いつまでもここにいても仕方がない。一度場を解散させなければならないと判断し、ニコルは告げる。 「……ねえ、明日になったら、何かが変わっていると思う、ニコル?」 発見者となった使用人とともに、最後まで残っていた君枝は、別れ際、泣き出しそうな複雑な表情で呟いた。 ――けれど、夜明けは希望を連れては来なかった。 残された者たちは、目撃する。 母屋と離れを繋ぐ渡り廊下から望む庭園、その中心で梅の花と共に血に染まって横たわる三女の姿を。 先祖代々の遺影が並ぶ仏間の欄干に、腹部から血を滴らせながら吊され、桜の花で飾られた長女の姿を。 そして、 「なんで……?」 ニコルは連鎖する死を告げるために友人の部屋を尋ね、その襖の前で立ち尽くしていた。 彼女が眠っていたのだろう布団、そして床一面に、こんなにも人の身体の中には血液があったのかと、そう思わずにはいられないほど絶望的な量の血液が広がっていた。 独特の、生臭く錆付いた血のニオイが立ちこめているなかに、本来あるべき君枝の姿はどこにもなかった。 死体として発見されたのでなければ、希望はまだある。 できることなら無事でいてほしい。 そう、神に祈るような気持ちで部屋を眺め、一度視線を落として目をつむり、そして終を振り返る。 「私達、どうして昨日の晩、眠れてしまったんだと思う?」 一晩中起きていることだってできたはずなのに、抗いがたい睡魔に襲われ、目覚めた時には既に死の連鎖はここまで及んでいた。 ひとりは膨大な本に見下ろされた書斎で桃の花弁を散らし、ひとりは雪に埋もれた日本庭園で梅の花を散らし、ひとりは遺影が見下ろす仏間で桜の花を散らした。 そして。 花の名を持たない少女――君枝だけは大量の血液だけを残して、彼女の名を暗示する如何なるモノも残さず、忽然と姿を消した。 誰が、何故、なんのために、この惨劇を繰り広げているのか? 樹とは果たして何者であるのか。 閉ざされたこの空間で、一体どこにどうやって潜むことができるというのか。 捜索もしたのだ。 男性陣や使用人とともに、昨夜のうちに屋敷の内外をできる限り探索した、にもかかわらず君枝の双子の兄《樹》の姿はどこにも見いだせなかった。 「ねえ、終、……私には、樹が本当は何がしたいのかが分かんないんだよ」 妹を護るためにイジワルな姉たちを排除しにやってきたのか、過去の因縁によって復讐を果たすために帰ってきたのか、あるいは遺産を目当てにしてきたのか。 どこがオカシイのか分からないのに、何かがオカシイと感じている、このブレとズレが言葉にならず、もどかしい。 「あの子を手に掛けた犯人だけは許せない、なのに、その姿を掴めないのが悔しい」 くっ…と唇を強く噛みしめるニコルに、終はそっといたわしげな視線を向け、ゆっくりと首を横に振った。 「ちがう……見るべき所はそこじゃない。そこじゃない。確かめるべきなのはそこじゃない」 吹雪によって閉ざされ、犯人によって意図的に孤立させられたこの屋敷の中で、本当は何が起きているのか。 終は告げる。 「ヒトは誰しも己の中に深淵を持つ」 まるで神託であるかのように、厳かに、真摯に、探偵は紡いでいく。 「人も形ある物であれば真実もまた物の痕跡でしか覗えない」 「なんの話?」 終の思考はひとつの可能性に行き着き、ソレを肯定することで、バラバラだった真実の形を見据えているらしい。 「ニコルも、本当はもう分かっているはず。犯人は、“樹”で間違いない。ただ、分かりやすいカタチでその姿を取っていないだけ……庭園に出よう」 Thinking time Start!
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