がしゃしゃしゃしゃしゃ。 静まり返った闇にきしるような何かが砕けて壊れるような音が響き渡る。 ぎしゃしゃしゃしゃ、しゃ。 立ち上がったその影に星が隠された。 大きい。 だがそれは次の一瞬、空中で一気に砕けて散る。 しゃりーん。 煌めきながら落ちる破片の中に明るく青く炎のように輝くものがある。 空中で翻りくるくると夜闇に飛び、やがて地面に落ちるや否や、再びさきほどの物音が響いた。 ぎしゃしゃしゃしゃしゃ、がしゃ。 それは大小様々な石の繋がり。 その持ち上げた鎌首の中央に、さきほどの輝く青い石がある。 それは何かを乞うように求めるように高く高く伸び上がり、闇に向けて波打った。 ■「竜刻を回収していただきたいのです」 世界司書、リベル・セヴァンはそう切り出した。「ヴォロスはご存知の通り、圧倒的な魔力と叡智を誇った竜族が争い合い、絶滅した後、その骸の上に築かれた世界ですが、その魔力が宿った『竜刻』は、世界図書館の貴重な研究材料です。回収する『竜刻』の場所はわかっていますし、周囲は森の奥に囲まれた岩場で、特別問題を引き起こしそうな動植物もありません、が」 淡々と続けたリベルが一瞬間を置いた。「ただ、この『竜刻』は、逃げる、のです」「は?」 頷きながら話を聞いていた参加者達はきょとんとして顔を見合わせる。「逃げる?」「移動する、ではなく?」「何者かに持ち運ばれているとか、隠されてしまうというのではありません」 リベルは正確さを強調するように繰り返した。「逃げる、のです。実は、一度回収しようとしたことがあったのですが、逃げ回られて、どうしても回収することができなかったと報告されています」「どこに?」「どうして?」 参加者達の質問ももっともだ。 竜刻は生物ではない。それとも、生物の中に吸収されているような形なのか、と問うた相手に、リベルはまた一瞬間を置いた。「岩場からは出ないようです。けれど、捕まりません。なぜそういう状態になっているのか、どうすれば大人しく回収されるのかは、現段階では不明です。報告の一部には空中へ飛び上がろうとしているように感じる、ともありました」 昼間は岩場に紛れて見つけられないようです。 リベルは静かに付け加えた。「夜から明け方にかけて回収をお願いすることになると思います」 差し出した地図には「駅」から岩場までの目印となるものが描かれていた。 竜の骨の回廊、崩れかけた橋の遺跡、森、そしてそこを通り抜けて辿り着く小さな広場。「冷えるかもしれませんので、防寒装備でお願いします」
「空へ逃げようとする『竜刻』……か」 デュネイオリスは背の高い筋骨たくましい体をゆったりと運びながら、静かにつぶやいた。金色の目を通り過ぎてきた骨の回廊から連れの二人に向ける。竜そのものの頭は見据えられると竦むようだが、穏やかな瞳が安心を教える。 「竜の遺骸でしかないと言ってしまえばそれまでだが、それ自体が強い力を持っているとの事だし、そういう能力を得ていてもおかしくはない、と言うことか……興味深いものだな」 「逃げてるっていうカ、どっか行きたい場所が有るんじゃないですカネ?」 アルジャーノが銀色の瞳を輝かせながら首を傾げた。銀色の髪を暮れかけた日差しになびかせ、品の良いスーツ姿の青年にしか見えないが、時折片腕の先をふいに通っている橋の残骸の彫刻に擬態させてみたり、再び手に戻して、橋の崩れかけた一部を口に運んでぼりぼり齧ったりしている。 「用事があるなら、済ませた後に穏便にご同行頂くっていうのでいかがでショ。竜刻とはいえ意思有る物を無理矢理持って行くなら、それは”拉致”デショ?」 拉致、のことばに一瞬ニフェアリアスが動きを止め、やがて眼鏡を押し上げながら口を開く。 「行きたい場所があるのなら、それを叶えてからの回収でも構わないでしょう」 にこりと笑った紫の瞳は細められて表情がわからない。ひょろりとした外見はマッチ棒のように細く、印象が淡い。 「空のどこを目指していたのか……上空に何があるのか」 独り言のように付け加える。 「希望が叶ったとき、何が起こるか興味もありますしね」 「空か」 岩場を囲む森に入り込んでいきながら、デュネイオリスは低くつぶやいた。 「上を調べてみる価値はありそうだ」 太陽は静かに没した。 森に囲まれた岩場は静まり返り、さっき通った時にはそこかしこで響いていた小動物の声もしなくなった。 「静かデスネ」 アルジャーノが膝を抱えてデュネイオリスが開こうとしている包みを見つめる。 「それは何ですか」 「冷えるだろうと思ってポッドシチューを作ってきた」 尋ねたニフェアリアスの手にカップを渡してやりながら、デュネイオリスは頷く。 「……いい匂いですね」 意外そうに眼を見開く相手に、デュネイオリスは料理は楽しいぞ、と応じた。 「趣味が高じて喫茶店も開いている」 「今度伺いますよ」 「これ、甘くないデスカ」 如才ないニフェアリアスの声にアルジャーノがおそるおそる表面のパイ生地をカップに崩し込んだ中身に鼻を寄せる。 「甘いのは苦手か?」 「お腹壊しマス」 「岩も食べられるのに意外ですね」 みなさん意外な面をお持ちなんですね、とカップを傾けたニフェアリアスが、ぴくりと指を止めた。 がしゃしゃしゃしゃしゃ。 「来たか」 「あそこデス」 アルジャーノが岩場の隅から巨大な蛇のように鎌首をもたげた塊を指差した。名残惜しげにポッドシチューを一口、すぐさま人間の形態を解いて液体化し、近寄っていく。 「気をつけて」 ニフェアリアスがカップを口に運びながら、明るく青く輝く光を視線で示す。 「岩が繋がっていますね……次々と」 竜刻が磁石のように、じわりじわりと岩を引き連れ繋がりながら、どんどん巨大な塊に育ち、高く伸び上がっていく。 「そのようだな」 デュネイオリスは気遣わしげに空を見上げ、周囲の気配を伺った。殺気も悪意もない。攻撃や反撃も感じ取れない。空には暗闇に細かな宝石を散らしたような星々と、それに森の端からじりじりと上がってくる巨大な月。 「……まさかとは思うが、月の光に引かれている……という可能性もあるか?」 ぎしゃしゃしゃしゃ、しゃ。 しゅるるるる、る、る、る。 竜刻を額に頂く蛇がのたうつような有様で蠢く岩の周囲を、アルジャーノはきらきら輝く光の帯となって、まとわりつくように寄り添うように、一緒に波打ち、空へと伸びていく。滑らかでしなやかな銀色の鞭が月光を跳ねて、星空の中に浮かび上がる。アルジャーノを避けるように、岩の蛇は中空を逃げ回り、なるほど、これではなかなか捕まりそうにない。 「む!」 だが、突然、岩の蛇がきしみ音をたてて動きを鈍らせた。 ぎしゃしゃしゃしゃしゃ、がしゃ。がしゃ。がしゃ、がしゃ、がしゃ! 「危ない!」 伸び切った綱を断ち切れない飼い犬のように、竜刻が引きずった岩の鎖がびん、びん、と強く波打ち、次の瞬間一気に力を失ったように崩れ落ちた。天空に残ったアルジャーノが空中の銀波の中で青年の顔を覗かせ、不思議そうに瞬きする。 「コレ、持ち帰らなくちゃいけませんカ?」 アルジャーノが地上のデュネイオリスとニフェアリアスに尋ねた。 「集められた竜刻、何に使われるのかわからないんデショ? これほど逃げたがっているの、理由があるんじゃないデスカ?」 無機質的な光を帯びて、銀の瞳がニフェアリアスに向いた。 「変な事の片棒担ぐことになったらヤダナ。竜刻、悪用されたりしないんデショカ? 竜刻集めるの、ほんとにチャイ・ブレの意思なんですかネ」 アルジャーノは逃げ回る竜刻の側を飛び回って、何か気持ちに伝わるものがあったのかもしれない。 ニフェアリアスはそう思いながら、カップをゆっくり地面に置く。巨大な力を持つものには、その力を利用される危険が常につきまとう。竜刻が自らの力を不安がっているのかどうか、触れてみれば、ニフェアリアスにはわかるだろう、その全てが。だがしかし。そこまで関わる事の危険性もまたニフェアリアスにとってはおなじみのもので。 再び岩を引き連れ集まり立ち上がっていく、天へ天へと伸び上がっていく岩の蛇が、その尾だけを地上に縫い止められているようにのたうち回る様を、再び慰めるように、あるいは共に遊ぶようにその周囲を光の流れとなって飛ぶアルジャーノを、そしてそれらの運命を司る神のように背景となって浮かび上がってくる巨大な月を、ニフェアリアスは静かに眺めた。 「自分が空の星だと思っているのかもしれません。戻りたがっているのかもしれませんね」 けれど、どこに戻れるっていうんでしょうね。そんなところなんて、もうなくなってしまっているかもしれないのに。 つぶやきながら、諦めたように腰を降ろすニフェアリアスを見かねたように、デュネイオリスがゆっくり翼を広げて舞い上がる。 「それでも、竜刻は星ではない。依頼された仕事は竜刻を持ち帰れということだろう……可能性は薄いが、月の光を遮ってみようか」 ゆっくり岩の蛇にのしかかるように羽ばたいて影を落とせば、確かに僅かにそれを避けるように岩の蛇は向きを変えるようでもある。 「アルジャーノ、そちらで広がっていてくれ…追い込んでみよう」 「わかりマシタ」 ふわりと光の幕のようになったアルジャーノが待ち受ける方へデュネイオリスは岩の蛇を追い立てていくが、なお上に、上に、伸び上がり競り上がり、ついにはこれまでより遥かに高く上空へ体を伸ばした相手が、耳障りな音をたてて崩れようとする瞬間。 「ぴ!」 いきなり地上の岩の尾が断ち切れた。限界まで伸び切っていた岩の鎖が空中で散り、アルジャーノの体を流星のように次々と貫く。 そして、いましめを解かれた竜刻は歓びの声を上げるかのように、アルジャーノの青年の顔の額を突き破って、まっすぐその向こう、彼方の空へ。 「アルジャーノ!」 「大丈夫、デス、驚いたダケ」 デュネイオリスが慌てて勢いで跳ね飛んだ竜刻を追いながら見下ろすと、一瞬地上で奇妙な笑みを浮かべて見上げるニフェアリアスの姿を見た、気がした。だが、竜刻が岩場を越えて森の先まで飛びそうな気配に、速度を上げて竜刻を追い、ついに手を伸ばした、と。 「うっ」 正面に煌々と輝く月、掌に握り込めそうな輝く青い竜刻、静謐で荘厳な光の交錯の中、デュネイオリスの意識を掠めたのは、激しい渇望。 なぜ、もっと自由に豊かに、ただ飛んでいられなかったのだ。 戦うしか、なかったのか。 力の向かう先はそこではなかったのではないのか。 『デュン』 デュネイオリスの耳の奥にこだまする声。 「アティ…?」 もちろん後悔などしていない。かけがえのない存在を、かけがえのないものを守るために、選んだ道だったのだ、それぞれに。 破滅を望んでいなかった。幸福を望んでいた。誰もみな、本当に大事なものと信じて守る為に戦った道、それでも、その結果がこの世界なら。 我々の力は、何のために、存在したのか。 「…く」 もっと、自由に、もっと、豊かに、もっと、思う存分、飛びたかった、この空を。 デュネイオリスは今にも掴もうとしていた掌を開いた。 「我が本分を、全う、すべし」 その願いは痛いほどわかる。 が、次の瞬間、竜刻がふいにデュネイオリスの掌の中に落ちてきた。跳ね飛んだのかと思ったがそうではなく、まるでおさまるところへおさまるのだと言いたげに。 「捕まえ、マシタネ」 「そうらしいな」 アルジャーノの声にデュネイオリスは苦笑した。 「どうやら私の掌が気に入ってもらえたらしい」 「その竜刻、どうされるんですか」 駅へ戻りながら、ニフェアリアスはデュネイオリスに尋ねてくる。 「依頼通り、渡すつもりだ」 月光に照らされた道行きは明るい。心配していたほどの寒さもないが、ニフェアリアスは体を竦めて歩いている。 「それともお前が持っていくか? さっき岩の尾を切ってくれただろう」 「立ち上がろうとして転びそうになったとき、手にしていたカップがぶつかったんですよ」 「助かった、ありがとう」 ニフェアリアスはついと目を逸らせ、隣で手の先を鳥に擬態させて、竜骨の回廊の周囲の骨の間を飛び回らせているアルジャーノを眺めながら、 「ただ、自由に飛べることのかけがえなさ」 低い声でつぶやいて、ふと気がついたように謝った。 「カップをだめにしてしまいましたね、すみません」 「…そうだな、ではお詫びに今度店に客として来てもらおう」 デュネイオリスが穏やかに応じる。 「ええ是非伺いますよ」 にこりと目を細めるニフェアリアスの側で、アルジャーノが、じゃあ私もゼヒ伺いマスネ、と繰り返した。
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