「…という名前のルビーがあるそうなのよ」 『エメラルド・キャッスル』の名の通り、天を突くような尖塔、幾つもの豪奢な部屋、数々の美術品で飾り立てられたチェンバーに住まう、ヴァネッサ・ベイフルックは、いつも軽く不服そうに尖らせている唇を開いた。色白の肌、ふっくらとした頬、柔らかそうな気配は煌めく緑の瞳で裏切られる。「え?」「あなた、耳が遠いの?」 アリッサが聞き返すと、再び赤く塗った唇で繰り返した。「『ブラッド・オブ・ジャスティス』。ヴォロス小村の小さな孤児院の院長が持っているのですって」 それほど大きくはないけれど、とても見事な赤だという。「それに……『正義の血』の名前の通り、ふさわしくない者が持つと、災いがあるという。傷みを引き受ける者だけがその持ち主となれるそうよ」 魅力的ではなくて? うっとりとした微笑みはお世辞にも魅力的とは言い難い、どこか貪欲な陰をちらつかせている。「どんな赤なのか……どんな災いがあるのか」 楽しみだわ。「是非探し出して、持ってきて欲しいの。孤児院の場所は『緑の器』と呼ばれる平野部にあるそうよ、でもわかっているのはそこまで」「でも」 アリッサはおそるおそる、ヴァネッサが全く気に留めていない問題を指摘した。「その宝石は、孤児院のもの、ですよね?」「ええそうよ」「…勝手にヴォロスの住人の持ち物を理由なく奪うなんて、異世界への干渉にあたります」「あら」 あなたはいつも大げさねえ。 ヴァネッサはむくむくした指を唇に当てて、ころころ笑った。「宝石の一つぐらいで何も変わりはしないわよ。どうしても理由が必要なら、そうね…」 緑の瞳が楽しそうに細められる。やがて、「研究のためにしばらく借りる、ということでどうかしら。用が済んだら返すわ」「返す?」 ヴァネッサが? 収集したコレクションを? アリッサの瞬きに相手は軽く肩を竦めてみせる。「ええ、お返し申し上げるわ……何百年後かもしれないけれど」 そらきた。 アリッサは思わず軽く眉を寄せる。「何の研究ですか?」 ロストナンバーに依頼するには厳しい内容だ。彼らはそれぞれのやり方で、様々な世界を大切にしてくれている。「…気にならないの?」「え?」「この宝石は『ブラッド・オブ・ジャスティス』と言うのよ?」 ヴァネッサはうふふん、と含み笑いをした。「なぜ、ヴォロスに壱番世界で聞くような、そんな名前の宝石があるのか。なぜ、誰が、その孤児院にその宝石を託したのか」「あ」「ほらご覧なさい、立派な研究の材料よ」 まずは孤児院の捜索から始めなくてはならない。「成果を期待しているわ」 ヴァネッサは満足そうに微笑んだ。「ということで」 アリッサは小さく溜め息をついた。「ヴァネッサおばさまがヴォロスの孤児院にある宝石を探してきてほしいとのことです」 その孤児院は近くの集落であった戦闘に巻き込まれて親を失った子ども達が身を寄せ合って暮らしているらしい。「けれど、実は正確な場所がわかっていません。『緑の器』という場所にある、とまではわかっているけれど」 ほんとに、ほんとに……ほんっとうに!「ヴァネッサおばさまは言い出したら聞かない方だから…」 きっと孤児院では大切にされている宝石だろう。それを奪い去って来いという依頼、誰だって二の足を踏む。「……それが駄目なら別のでもいいのよ、そう言えばインヤンガイにいいのが、なんて言い出されるし」 はああ、とアリッサは溜め息を重ねる。「とにかく、探し出して、見つけて、何かの成果を持ち帰らないと、いつまでも言い続けられると思います」「…たいへんだな」 いつでもどこでも我がままな上司って居るよね。 何となく似たようなことがあった気もする、と我が身に重なってしまった一人が同情してしまうと、アリッサはひた、と視線を上げた。「……お願いできる?」「う」「頑張って、ね?」「う、う、う…」 微笑みとともにチケットが差し出された。
「今回の依頼は気が進みませんねえ。が、引き受けてしまった手前果たさねばならない。人様の物を巻き上げるような真似は良心が痛みますが…」 ロストレイルを降り立った瞬間から、三日月 灰人は溜め息まじりだ。胸元の銀色のロザリオに触れながら、罪深き我らにお慈悲を、と祈りを続ける。 「そんなに大切にされている宝石なら、ヴァネッサさんには諦めてほしいのだけど…難しそうね。せめて、穏便にお借りしたいわ」 とこれは、自立型空間、ニルヴァーナ。外見上は美しい大きな布を纏った儚げな女性だが、その内側にはターミナルに匹敵するほどの巨大な空間を擁している。今回の依頼に、子ども達との関わりが大切だろうと考え、自分の中に縄跳びや独楽、おはじき、ままごと道具、人形といった、壱番世界でも懐かしいとされる素朴な遊び道具を揃えてきた。何を揃えていこうかということに、アドバイスしたのは灰人と相沢 優、その優もこれまた、よく晴れた空を見上げながら溜め息をつく。 「宝石を持ってくるのが目的だけど、うーん。なんかなぁ」 優のセクタン、オウルフォームのタイムは今その空に舞い上がり、ミネルヴァの眼で『緑の器』を探索中だ。孤児院にせよ何にせよ、集落ならば近くに水場は必要だろうと、川や水辺を探し回っている。 「けど、不思議だよねえ」 独り言のようにつぶやいた。 「『緑の器』はただの野原だって、周囲の集落で口を揃えてる。誰も孤児院なんか見たことがないって」 孤児院というからには、食べ物衣服など周囲と関わりはあるだろうに。そしてまた、『ブラッド・オブ・ジャスティス』の噂が確かに流れているというのに。 まるで、誰かがそこへ辿る道を巧みに隠しているようだ。 「なのにヴァネッサさんはなぜ、この宝石の情報を持ってたんだろう? 誰から聞いたんだろうな? それに……」 空をなおもくるくる舞うタイムを見上げ、手にしたカップから香り高い紅茶を一口、口にした。 「一体誰から孤児院に託されたんだろう? なぜ託されたんだろう? きっとヴォロスじゃ、変わった名前だと思うんだけど、不審に思わなかったんだろうか、院長は」 静かに目を細め、低い声で付け加える。 「もし、託した相手を覚えていないとしたら……託した人は壱番世界出身ロストナンバー…ってことはありえるのかな?」 もしかしたら、孤児院の中に、宝石の他にも壱番世界に関係するものがないだろうか。ヴォロスにあるはずのない変なものとか。 「壱番世界じゃ、オーパーツ、とか言うんだよね、そういうのは」 ひょっとして、ひょっとしたら、壱番世界のそういう『妙なもの』は、他の世界から持ち込まれたものがあるのかもしれないな。 優は考え込む。 「もう少しで見つかるだろう」 パラソルで日よけしつつ、自分の爪で掌を切って血を撒き、使い魔を作り変形させた椅子とテーブルに、ホルダーから出した陶器のティーセット、絹のランチョンマット、見事な刺繍の入ったテーブルクロスを配置、優雅にティータイムを楽しんでいるバルタザール・クラウディオが、唇の端で薄笑いする。 「『緑の器』は思ったより狭い。『兵士』達がもう半分近く捜索を終えている」 きっちり着込んだスーツに手袋、横の髪一房だけ黒く染めた白髪まじりの金髪にサングラスの重装備、なのに、暑苦しく見えずに涼しげな表情は吸血鬼の貴族階級という出身ゆえか。 「入手手段に購入が示されなかったのは大変不自然なのです」 こくこくとおいしそうにミルクティを飲み干したシーアールシー ゼロが、銀色の睫毛を瞬いた。 「ゼロは、出発前レンタル料として現地通貨か貴金属を経費に請求したのです。壱番世界の英語の世界史書と世界地図も。孤児院と村の位置は現地の人に聞けば判ると思っていたのです」 「どれも駄目でしたね」 灰人は私も一杯頂きます、と十字を切り、依頼の前に寛ぎを求める怠惰な精神をお許し下さい、とつぶやいて、カップを傾けた。 「購入する必要はない、とヴァネッサさんからの返事、ヴォロスなのに壱番世界の英語や地図は関係ない、と」 「何か妙な意図を感じるのは、俺だけですか?」 優はバルタザールに小首を傾げてみせた。 「大事なことが逸らされているように感じるのは?」 「これはただの想像なのです」 ゼロが透徹した瞳を優に向けた。 「チャイ=ブレが無関心だったのか、世界図書館成立以前のことなのか、覚醒しヴォロスに転移した図書館の記録に無い壱番世界人がいたのです。消失する前に言葉を覚え絆を育み遂にはヴォロスへ再帰属、壱番世界の痕跡は消えたのです」 「なるほど」 灰人が頷く。 「宝石は壱番世界からの所有物で孤児院はその創立かもしれず、院長が当人かもしれないのです。館長達も本来宝石と所有者について知っており、チャイ=ブレと契約している為か本来無いことになった知識に基づき無意識に判断したのです」 「う〜む」 優が紅茶をお代わりを注ぐ。 「孤児院に宝石は無意味なのに売却されていないのは災いが事実だから…、覚醒と世界放逐の促進作用を持ちそれに気付いた所有者が他へ委ねるのを禁じたのです」 「ありえそう、ね」 ニルヴァーナが戻ってくるタイムに気づいて見上げる。 「私も、院長さんには宝石の由来を聴いてみたいの。何故その名が付けられたか、何故ここに在るのか。それが判れば、研究の目的がひとつ少なくなるでしょう? 早く孤児院に返せるようになるわ」 「そうなんだよな……持ち帰れ、が依頼なんだ」 優が考え込む。 タイムは大急ぎで戻ってくる。周囲の緑の中から、ごそごそとバルタザールの『兵士』達が顔を見せ始めた。 「見つけたようだな」 つかの間のティータイムを演出してくれた品々を片付けて、バルタザールが立ち上がる。 「ごちそうさま……方向はあちら、ね」 ニルヴァーナがにっこり笑って示したも道理、1mほどののっぺらぼうのゴーレムの『兵士』達が、緑の中を割るように左右に並んで道を作っている。 「行くぞ」 「おお我らにすみやかに道をお示し下さる慈悲深き神に深き感謝を! 私の愛しい妻や子にも迷わぬ道をお示し下さいますように! え? 私の妻の話を聞きたい? そうですか、実はここにですね」 進み出した優とバルタザール、ゼロの後に続くニルヴァーナにいそいそと灰人は写真を取り出し始める。 「覚醒やディアスポラやゼロたちの境遇を説明すれば、宝石を持つに相応しいと合意を得るかもしれないのです」 ゼロが彼方に開けた小さな空き地を見据えながら、ぽつりと続けた。 「ヴァネッサさんは全て知った上で依頼したのかもしれないのです?」 緑のトンネルは見えている以上に長かった。左右に一定間隔で立ち並んで道を示してくれるゴーレムがなければ、上空からも植物に覆われた道を確認できず、迷っていたかもしれない。 むせ返るような湿気と青臭い匂いの中をようようくぐり抜けてみれば、唐突に開けたボウル型の空き地の中央、周囲の緑と対照的に干涸びた砂土色の建築物があった。 「ああ…これ、どこかで見たような」 優がつぶやくと、灰人も驚きに目を見開く。 「まるで壱番世界の教会のようですね」 寄り集まった石組み、繊細な彫り物、尖塔の先に十字架こそないが、何かを包むような掌のような金属の飾り物。誰もが一瞬、その掌の中に宝石があるのかと思うような形だったが、そこにはくしゃくしゃとした枝が詰め込まれている。鳥の巣らしい。 その周囲には小さな畑と水場、井戸のような木組みがあった。上は十歳ぐらい、下は畑の側の籠の中に寝かされた赤ん坊まで、十数人の子ども達が忙しそうに楽しそうに、走り回っている。 「……誰?」 そのうちの一人、大きな耳を垂れさせた男の子がこちらに気づいた。 「だれ、あれ」 もう一人、少女が不安そうに立ち止まり、先生呼んでくるっ、と慌てた様子で孤児院の中へ走り込んで行く。じりじりと警戒が広がっていく中、すうっと影が近づくように、灰人が間近の一人の側へ向かった。 「こんにちは」 「こ、こんにちは…?」 一番始めに気づいた男の子がうろたえ気味に答える。 「怪しい者ではありませんよ。見ての通り私は牧師、故郷で孤児院を営んでおります。この辺りにも孤児院があると聞きました。見学を希望したいのですが」 「ぼくしさま?」 ふいに、ぱっと相手の顔が明るんだ。 「ぼくしさま? 先生と同じ?」 「え?」 「よかった、いつか来られると聞いていました!」 にこにこと両手を取られ、今度は灰人の方が戸惑う。 「先生がずっと待っていました!」 さあどうぞ! 「どなたが来られたのですって? 院長先生は今…」 孤児院から少女に手を引かれて出て来たのは、エプロン姿の年配の女性、これもまた灰人を見ると驚いた顔になった。 「あなたは」 「何かお手伝いすることがありますでしょうか」 灰人は彼女が手にしていた洗濯物のバケツを如才なく受け取る。 「子供達は皆戦災孤児だとうかがいました。私も幼い頃両親を亡くし教会で育てられたんです」 「ま、あ…」 「こんにちは、いいお天気ですね」 優もさらりと話に加わった。 「院長先生はお忙しいのでしょうね?」 「ぼくしさまのおともだち?」 灰人と優が親しげに会話を始めたことに、子ども達はほっとしたのか、一気に駆け寄り近づいてきた。 「これ何、鳥さん?」 タイムにこわごわ触れる者。 「みんなで来たの? どこから来たの? あの人たちもともだち?」 他の三人を指差し、立て続けに質問をしてくる者。 「うん、そうだよ。みんなはずっとここにいるの?」 優は笑い返しながら、押し合いへし合いしたせいで思い切り押し出された一人を慌てて受け止める。怯えた顔になったのをひょいと抱え上げると、 「わあ、高い!」 はしゃいだ声に、次々とわたしも、ぼくも、と子ども達が押し寄せた。 「では、私と一緒に遊びましょう」 ニルヴァーナが次々とおもちゃを出してみせた。本来ならば、自分の中に招き寄せて遊んでもらうのだが、子ども達は未だ警戒している気配もある。仲間が目の前で姿を消しては不安が募るだろうと考えたのだ。 「何?」 「どうして遊ぶの?」 年かさの子ども達が生き生きと瞳を輝かせる。 「これはこうして回して飛ぶの」 「これはこの紐を巻き付けて、えいっ、て」 「これはこうして並べて、はい、どうぞ、って。あら、だめ、本当には食べられないのよ、遊ぶだけ」 ままごとの泥団子を戸惑いつつ口に運ぼうとした男の子が赤くなって皿に戻す。その後ろで縄跳びを始める子、独楽を回し始めた子、おはじきを土の上に並べ出す子も居る。 楽しそうに嬉しそうにその様子を眺めていたニルヴァーナだが、ふと何か気がかりなことがあるように眉を寄せ、小首を傾げた。だが、もっともっととねだる子ども達に、次第次第に取り巻かれていく。 「タイム、ジャンプ!」 「わああ!」 優の声にセクタンはくるりと空中で一回転して見せた。わあわあ手を伸ばす子ども達の指先を、ちょんちょんちょんちょん、と踊るように蹴って飛び、またくるんくるんと宙返り。 「もっと! ねえもっと!」 「ようしわかった、はいっ!」 なお声かけしつつ、優はどきどきした顔でタイムを見上げている子どもに、ちらりと宝石の話を振ってみる。 「宝石?」 だが、子どもは誰も不思議そうに首を振る。 「そんなのないよ? あったらもっと、おいしいものが買えるでしょ?」 穴の開いた服も直さなくていいよね? 子ども達のきょとんとした顔はごまかしているようには見えない。 「正義とはなんでしょう。各々心に掲げる正義が違うから戦争が絶えない、私はそう思います」 その背後で、子ども達の声も聞きつつ、女性と並んで、灰人は洗濯物をぱん、と払って干し続けている。 「それに巻き込まれて悲しむ子ども達がいるのは、辛いことです」 「……その苦しみを減じたくて」 しばらく黙っていた女性が、ぽつりとつぶやいて項垂れた。 「先生は頑張っておられたのですけど……」 「……奥におられるのですか?」 「……もう、限界なのです」 先生を助けて頂けますか? 女性の肩が涙をこらえて震えた。 「……こちらです」 女性に導かれて、五人は奥の部屋に通された。 孤児院の一番奥の場所、粗末で小さな石の部屋、日が一杯に差し込んではいるが、ボロを繋いだようなベッドには一人のやせこけた老人、枕元に彫り込まれた棚には木の箱があり、それには『+』が刻まれている。 「先生……来て下さいましたよ?」 「……おお…」 呼びかけられて、老人の血の気の失せた白い顔が僅かに紅潮した。よろよろと手を伸ばして起き上がる、その体を女性が急いで支える。 「クライスト先生」 「クライスト…」 愕然とした顔で灰人が繰り返す。 「ありがとう、マリア、もう行っていいよ」 「…マ、リア…?」 優も同じようにつぶやき、思わず灰人と目を合わせる。その名前の意味を、壱番世界で全く知らない者の方が少ないはずだ。 「あなたがたのどなたが『次の方』ですか…?」 掠れた声で老人は尋ねた。 「『次の方』…?」 バルタザールが眉を寄せる。 「宝石ならば、そこにある……その木箱を取って下され」 クライストは枕元を指差した。ゼロがとことこと近寄り、木箱を持ち、相手に差し出すと、老人は微笑みながら蓋を開く。 「……ああ…」 誰のものかわからぬ溜め息が零れた。 無骨で今にも砕け散りそうなぼろぼろの木箱の中、薄汚れた茶色の布の上に、大人の掌を越えるほどの巨大な紅の結晶が脈打っている。 鮮烈な赤。 乱れ散る艶やかな煌めきの波。 その底に、ゆらゆらと揺れる黄金色の炎。 「なんて…見事な…」 「どうぞ、お願いします」 クライストは嬉しそうに木箱を差し出した。その白濁し始めた青い瞳に涙が盛り上がる。 「もう間に合わないと思っていました。私の体はもうもたない。あの子達を守れない。あまりにも惨い。あまりにも。けれど、間に合うかもしれないと思った、私のように。だからぎりぎりまで待とうと。ぎりぎりまで、何とかと」 ありがとうございます、感謝します、本当に、ありがとう。 「どうぞお願いします、今すぐなら間に合う」 クライストが箱を捧げ持ちながら深く深く頭を下げて、灰人も優もことばを失う。 「…何か誤解があるようだが」 じっと宝石を見つめていたバルタザールが口を開いた。木箱が開いた瞬間から、その宝石が何ものであるか、何かの魔力・霊力が宿っているか霊視していたのだが。 「私は曰くつきの宝石に目がない収集家だ。こちらに『ブラッド・オブ・ジャスティス』があると聞いた。だが、その宝石は本来、正義の血の名の通り、革命を起こす者など正義を背負い戦う覚悟のある者が持つべきものだ。なのに、孤児院にあっては、折角の宝石の力も逆効果になるので、孤児院のためにも引き取らせてもらえないだろうかと考えて訪れたのだが…」 これは本当に『ブラッド・オブ・ジャスティス』なのか? 「え?」 優は慌ててバルタザールを振り返る。 「違うんですか?」 「宝石というより、極めて高いエネルギーの集合体に近い」 「…なんと…」 クライストが見る見る表情を陰らせた。 「『次の方』ではない、と?」 「先生……」 「せんせえ……?」 ふいに背後の扉が開いた。子ども達がおそるおそる覗き込んでくる。 「お話…終わった…?」 「もう痛いの…なくなった……?」 「私…は…」 クライストは怯えたように子ども達に目を向けた。皺の寄った頬に大粒の涙が流れ落ちる。 「すまない……すまないね……まだ……終わっていないのだ…」 必死に作るクライストの笑顔に子ども達が泣きそうになる。 「だが……だいじょうぶだ……まだ……大丈夫だよ……」 「せ…んせえ……」 「大丈夫だとも……」 さあ、もう少し外でマリアの仕事を手伝ってきておくれ? 「う…はい……」 「は…いっ…」 「では、ささやかな慰めを提供しよう」 バルタザールが腰を上げる。手にしたトランプを鮮やかに操りながら、子どもの目を魅きつける。 「もっと不思議なものを見せよう」 「…見せて」 「見せて!」 数人がすがりつくように笑顔になった。子ども達を引き連れて、バルタザールが姿を消す。 出て行く子ども達を見送りながら、ぼろぼろ泣きながら、クライストがつぶやいた。 「……神は……いないのか……? 正義は……なされないのか……?」 出ていく子ども達と入れかわりにニルヴァーナが入ってきた。 「『傷みを引き受ける者だけが持ち主となれる』…院長さんは、子ども達の親を亡くした傷みを全て引き受けているのね?」 びくり、とクライストがニルヴァーナを見る。 「推測でしかないけれど…そうだとしたら、とても悲しくて、とても幸せな傷みね。でも、あなただけが傷みを負うのは少し…違うと思うの」 「……」 「だって、傷みも含めて、それは子ども達の大切な御両親との記憶だから。何もかも引き受けて――奪ってしまうのは、子ども達にとって必ずしもいい事ではないわ」 「あなたは……」 『次の方』ですか。 クライストのことばにニルヴァーナは首を振る。 「いいえ……私もそう。全ての魂を引き受けて…世界を、壊してしまった。正しい行いの為にはバランスも必要だと思うのよ」 ニルヴァーナの瞳は、厳しく切ない。 「的外れな言葉かもしれないけど…院長さんが自分から宝石を手放してくれると嬉しいわ」 「それは……それは…っ」 クライストは激しく頭を振る。 「……どういうことなんですか」 灰人がニルヴァーナを振り返る。 「あの子達はもう死んでいるの」 「えっ」 「……正確には親に殺された子ども達の魂、ね」 「……どういうことなんですか」 優の問いに、クライストが低く啜り泣いた。 「……惨い争いだったのだ。竜刻を取り合って二つの村が殺し合い…その中で互いの未来を封じようと子どもを殺し合い…あげくに」 錯乱した親達が勝利を得るために、子ども達をこの建物に閉じ込めて火を放った。 「逃げ惑う子ども達は、親を愛するがゆえにここから離れられずにいて、残されていた竜刻の力で土くれに魂を封じられてしまったのだ…」 土くれは数十年たってじりじりと崩れていく。自然に崩れた者は魂も飛び去る。だが、事故や誰かに傷つけられて崩れた者は、再びまた始めからやり直すことになる。 「神の罪か? あの子らに何の咎があった?」 子ども達だけで過ごし、幻の虚しい命を永遠に繰り返すのを見かねて、クライストの前の『先生』がここに暮らし、彼らを守るようになった。 「…私は迷いこんできたのだ」 もうどこから来たのかは覚えていない。 「前の『先生』もクライスト、と名乗っていた。この孤児院が周囲の探索や攻撃から守られるのは、この『ブラッド・オブ・ジャスティス』があるおかげ。だが、彼ももう命の終わりがきていて、この宝石を保てなくなった、ちょうどその時、私がやってきた」 「宝石を、保つのですか」 ゼロが首を傾げる。 「この『ブラッド・オブ・ジャスティス』は、持ち主の命の力で輝きと力とこの形を保つのだ」 クライストは淋しげに笑った。 「持ち主の命を喰い続ける、というのかな」 持ち主の命が途切れれば、閉じ込められた力は制御を失って飛び散り、消え失せてしまうと言う。 「それが災い、なんですね」 優が深く溜め息をついた。 「ここを守るために、この宝石は必要だ……だが、私は老いさらばえ病を得、身動き取れなくなってしまった」 今また、私の終わりが来ているのに。 「……ようやく『次の方』が来てくれたと思っていたのに…」 では、この宝石が名高いのは災いのためではなく、希少さや見事さのためでもなく、これを受け継ぐ『次の方』を探すための方便だった、ということか。 「……だから、噂を広げた…?」 だからヴァネッサも知っていた。 「でも、ならば余計に」 この宝石が、あの行き場のない子ども達の魂を護るためのものならば、持ち帰るわけにはいかないんじゃ。 優が苦しそうに顔を歪める。 「合意が得られぬなら諦めるのです。宝石の詳細は院長に聞けば済み研究は完了するのです」 銀色の姿を紅の宝石の光にきらきらと照らされながら、ゼロが頷いた。 「私達がここに来たのは宝石を借り受ける為です」 黙っていた灰人が突然切り出した。涙に濡れたクライストの目をまっすぐ見返し、 「この血に誓い必ず返すと誓います。ですからどうか……」 取り出したナイフで掌を切りつける。見る見る膨れ上がる紅の雫。 「我侭を押し通すなら痛みを引き受ける覚悟も持たねば」 激痛に歪む顔、けれども眼鏡の奥で、いつも控えめなその瞳が揺らがぬ決意と懇願をたたえる。 「正義なんて、人それぞれだから、あんまり好きな言葉ではないけど」 優が同じナイフを取り上げ、掌に滑らせる。 「あの子達やあなたが苦しむのは間違っている」 皆で他の方法を考えて、この孤児院を何とか護れるようにしよう。 「あ…あ」 クライストが押さえた叫びを上げて、二人の掌から流れ出した温かな命を凝視した。 「痛いのです!」 ゼロが拳を握ってあげた小さな叫びに、 「痛いけど孤児院の人達が納得するなら、多少痛いくらい平気かな」 くすりと笑った優の横顔には誇りがある。赤く濡れた手を差し出した灰人の手に重ねて、クライストが抱えている木箱の宝石の上に引き寄せた。 単なるパフォーマンスではない。優は考えていた。 『ブラッド・オブ・ジャスティス』を、クライストは、始め、喜んで差し出そうとした。単に所有を譲るというのではなくて、何かの儀式を迫るように。 名前に由来するもの、働きに由来するもの、そして命を吸い取るもの。 ならば、その儀式はきっと。 灰人も怯まず優の手を握る。 ずきずきと痛み続ける二つの掌から溢れ出た血が、宝石に滴り落ちる。 どくんっ。 宝石が大きく震えた。 どくんっ。どくんっ。どくんっ。 灰人と優の血が滴り落ちるたびに、宝石は震え、脈打ち、輝きを増し、次第に膨れ上がり、二倍になり、三倍になり、やがて突然。 「あっ」 木箱を擦り抜けて、からからと軽い音をたてた赤い石が床に転がり落ちた。 ゼロが急いで拾い上げれば、それもまた、確かに大きく美しく赤い見事な宝石だったが。 「……空っぽなのです」 音がするかを確かめるように、ゼロが耳元で振ってみる。きらきら光を跳ねて、美しいことは美しい、しかし。 「く…っ」 「い、た…っ」 固まりかけた互いの掌を引きはがすように取り戻した灰人と優の目の前、木箱の中でさっきより数倍大きな、しかももっと華やかで美しい宝石が輝いている。 燃えるような深紅、しかも曇り一つなく、覗き込めばなお深い赤が鎮座している。 「宝石が…入れ替わった……?」 灰人にハンカチを渡し、自分もまた手を強く縛りながらつぶやいて顔を上げ、優はあっ、と思わず声を上げた。 いつの間にか、クライストもまた、蘇っていた。 皺のよった、かさつき干涸び、今にも死にそうだった老人が、つやつやと頬を光らせ、豊かな筋肉を取り戻し、誇らしげに顔を上げた青年となって微笑み返している。 「……優?」 「は、い」 俺は名乗っただろうか、と優が首を傾げると同時に、 「灰人?」 「はい」 灰人も驚いて目を見開く。この奇跡を彼はよく知っている。 「……君たちのことが、今この胸に、溢れてる」 クライストは静かに自分の胸を抱き、頭を下げた。 「あなたがたの正義の血が、真実の強さに届きますように」 ぽたぽた、とその瞳から零れ落ちた涙から、花の匂いが広がる。 ふいに辺りが明るくなった気がした。 窓の外で子ども達の笑い声が高らかに響く、まるで世界が生まれ変わったように。 確かに今。 過去の傷みは未来への新たな護りとなった、ロストナンバーの命の力で。 「では……ゼロは」 ふいに、ゼロが満面の笑みで顔を上げた。 この宝石をお持ち帰りなのです。 拾った宝石をしっかり抱える。 「え?」 「あ」 灰人と優がきょとんとし、くすぐったそうな笑みを広げた。 「元、『ブラッド・オブ・ジャスティス』です!」 くくっと笑い声が響くと、戸口に子ども達に取り巻かれたバルタザールが立っている。ニルヴァーナもにこやかに微笑んだ。 「間違ってはいないわね」 仲間に向かって、ゼロは入れ替わった宝石を高く差し上げてみせる。 「依頼完了、なのです!」 傲慢で不愉快で無茶な願いを、誰一人悲しませることなく達成した、勝利の声だった。 「はい、おばさま」 アリッサは宝石箱を開いてみせた。 「ご依頼の品、届きました」 「……あら……持ってこれたの」 おい。 一瞬突っ込みたくなったのは、アリッサだけではなく、どうしても、とついてきた灰人もだろう。 「ずいぶん地味な宝石だわね」 覗き込みながら触れようともしない。 「あの、おばさま?」 にっこりしながら、アリッサが差し出したのを、そのあたりに置いておいて、とヴァネッサはそっけない。 「いやね〜、最近はほんと、名前ばっかりの代物で。『ブラッド・オブ・ジャスティス』なんて何かありそうでも何にもないんだから」 ぱらぱらと手にした扇を動かす。 「ああ、つまんない」 「お、ば、さ、ま」 「そころで、その男は誰なの。何の用?」 「三日月 灰人さんです。今回の依頼に関して、どうしてもおばさまに伝えたいことがあると」 「お聞きしましょう……何なら、その掌の傷について話してくれてもいいのよ?」 報告書には目を通しているはずだろう。 詰りたい気持ちを堪えて、灰人はきっと顔を上げる。 「研究の為に借り受けたんですよね? でしたらどうか、用が済んだら速やかにお返しください」 「あら」 あなたも頭が悪い人? ヴァネッサがうんざりした顔で見返した。 「返すって言ってるじゃない」 研究が済み次第、即刻ね。 そう言いながら、テーブルに載せられた宝石をもう二度と見ないのではないかという気配に、灰人がことばを継ぐ。 「その宝石は正義の血。その称号に相応しい方が持つべきです」 「あらあらあら」 まあまあまあ。 何がおかしいのか、ヴァネッサは大笑いした。 「可愛いことを言うのねえ、これだから、依頼は楽しいわよねえ」 「……おばさま」 まさかまた、新たな依頼を考えてるんじゃ。 薄暗くなったアリッサを放置して、ヴァネッサはぴたりと笑い止み、扇で口元を隠した。緑色に輝く瞳が一気に猛々しくなる。 「既に、相応しい方が持ってる、でしょ?」 ひやりとした口調に沈黙が降りた、次の瞬間。 「冗談よ、冗談。ええ、皆様には心より御礼申し上げるわ。本当にすばらしいわ、ロストナンバーの方々は」 快活な笑いを響かせ、上機嫌でこう付け加えた。 願うことならば、永遠に私の望みを叶えて頂けると嬉しいわ。
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