「調子はどうかね」「今日は大丈夫そうです」 白髭園長の問いに、経理担当は頷く。「しかし、一体何だったんでしょうね、突然観覧車が止まってしまうなんて」「開園以来なかったことだな」 不安そうな経理担当に白髭園長は頷き、立ち上がって、窓から見える小さな遊園地を眺めた。 観覧車、ジェットコースター、回転木馬、お化け屋敷、ミラーメイズ、コーヒーカップ、バイキング、ゴーカート、射的場、チェーンタワー……他に食堂、売店、花壇に囲まれた噴水がある。トイレも4カ所、休憩のためのベンチは20カ所、チケット売り場も各ブースの他に2カ所、入ってすぐのイベント会場ではキャラクター・ショーや手品、アクロバットなども見せていた。交通手段も駅から5分、バス停留所から3分と悪くない。 だが、ここはもう閉園が決まってしまった。 現在は、これまで当地で営業してきたお礼を込めて、残り時間を存分に楽しんでもらおうと、一日に一つ、アトラクションを無料にしている。 先日は『観覧車』で、思った以上に多くの人が入場し、普段見かけないような人々も訪れて楽しんでくれたようだ。赤いカラーコンタクトを嵌めたワイシャツの男、ベンチで疲れた様子で考え事をする青年、けばけばしいジャケットに顔にタトゥーを入れた若者、痩せて小柄な揺らめくように見える服の少年。 終わり近くになって突如『観覧車』が止まった。慌てて技術者とともに駆け寄った時の光景を園長は思い出す。 チケット売り場に確認すると、幸いにもう誰も乗っていなかったらしく、『観覧車』は営業終了とし、翌日詳しい点検を行うことにして引き上げようとした、その時。「…あの空…何だったんでしょう…」 同じものを思い出したのだろう、経理担当はぼんやりと呟いた。「……綺麗だったな」 白髭園長も思い出す。 鮮やかなオレンジの夕焼けは消えていた。何枚もの薄青いベールがするすると剥がされ、その下の黒いビロードが少しずつ見えてくるように深みを増す空に、いきなり閃光が走った。見上げた人々の頭上を、蒼白い光が走り、風に追われるように吹き散らされ、見ている間にそれが重なって、闇に開く花びらのように散り咲く。「花火、じゃありませんでした」「そうだな」 花火は近所への騒音や光害を考えて、これまで打ち上げてこなかった。見ている人もそれほど多くないのにとか、かかるコストや花火の管理にためらったからだった。だが。「打ち上げても、よかったな」「そう…ですね」 みんなが口を開いて見上げていた。白髭園長も経理担当も、職員も入場者も、通りがかった人々さえも。 その一瞬、閉園されることも、これまでのこともこの後のことも、白髭園長の頭からはすっかり消えていた。 そういうものなのだと教えられた気がした。 ただ一時、全てを忘れて楽しんでもらえればいい、それが遊園地なのだと。 そのための努力をしてきただろうか。お定まりの子犬ショーやだらだらしたピエロの演技に、そういうものだと諦めていなかっただろうか。 こんなもの、面白くないだろう。 そう思っていた本音に耳を塞いでいなかったか。「どうしましょう……無料開放…」 経理担当に尋ねられて我に返る。「『観覧車』のようにトラブルが起きたら」「『ジェットコースター』にしよう」「えっ」 経理担当が驚いた顔になった。リスクもコストも高い。多くの人間が殺到すれば、当然問題も起きやすくなる。「私も乗ろう」「えええっ」 経理担当が仰け反って驚くのに、白髭園長は思わず笑った。 そうだ、思い出してみれば、昔からずっと好きだったのだ、ジェットコースターが。いやむしろ、ジェットコースターに関わりたくて、遊園地の仕事に就いたのではなかったか。「明日はジェットコースターを無料とする」 白髭園長は晴れ晴れと笑った。「しっかり宣伝を頼むぞ。ああそうだ」 君も一緒に乗りたまえ。「ええええええっっ」 経理担当が悲鳴を上げた。「皆さん、いろいろとお疲れ様です」 鳴海はぺこりと頭を下げた。「まだまだ厳しい状況が続いている世界も多い中、館長からも皆さんのお疲れを少しでも減らせるようなことを考えて欲しいと言われてまして……」 見つけました、と微笑む。「壱番世界の、閉園間近の遊園地です。閉園までの時間を楽しんで頂こうと、一日に1つ、アトラクションを無料にしています。今回は『ジェットコースター』だそうです。お知り合い同士、あるいはお一人ででも如何でしょうか」 今回は開園時間に遊園地に着く予定です。「一日十分楽しんで頂けるかも知れませんね」 夕方には戻りますから、乗り遅れないようにお願いします、と鳴海はチケットを差し出した。
開園直後の遊園地に真っ青な瞳を煌めかせ飛び込んできたのは、オレンジ色の肌とたてがみの翼のある小型ドラゴン、ユーウォンだ。他のものには目もくれず、真っ先にジェットコースターのチケット売り場に飛んでいき(いや、一応歩いていったのだが)、 「ただ、って事はチケット要らないの? でもチケット出して、ちぎって貰うの。あれ気分が出るし、やりたいんだよね。何とかさ、一枚出してくれない?」 息せき切って駆けつけてきたかと思うと、立て続けにまくしたてたユーウォンに、売り場の女性はちょっと目を見開いたが、にっこりと笑った。 「はい、無料でございますよ。でも、チケットもお出しできます」 きっと時々そうやってねだる子どもがいるのだろう、にこにこしながら引き出しから緑色のチケットを出した。 「『無料遊覧券』です。これは本日のアトラクションで無料のものに使えるんですよ」 「ありがとう!」 ユーウォンはますます瞳を輝かせた。空を映したような明るい目の嬉しそうな様子に、女性も楽しくなったのだろう、あそこに並んでお待ち下さいね、と入り口を指差してくれる。 「うん、わかった!」 ジェットコースター、ジェットコースターと足取りも軽く行列の最後に並び、目の前のうねうねとした線路を見上げて辿っていく。 二人掛けの六人乗り、三両に繋がった小さな列車がごとんごとんと始めの山を静かに昇っていったかと思うと、ゆったりと一瞬止まり、背後に滑り落ちるのかと思いきや、一気に坂を滑り降りていく。きゃあああああっ、と声が上がり、そのまま次の競り上がりに向かうと、今度はうぉおおおおっ、と唸りに変わる。続いて左右に振られるカーブではぎゃあああとかひええええとか叫びが響き、地面すれすれまで沈んだ時の小さな安堵の気配は、始めの山よりじりじりと高く押し上げられていく線路に、見る見る緊迫していくようだ。 「うっわあああいいい!」 乗り込んだユーウォンは一番前で歓声を上げる。 「朝の風を切って進むの気持ちいい!」 目を開いていると目玉が乾いていきそうだけど、それでも見開く視界に見る見る地上が迫ってくる。影が一瞬視界を掠め、空から急に降りるときの感覚を思い出す。 「お昼のお日様の下で、自分の影に向かって急降下って楽しいよね!」 最後の山から一気に滑り落ちる、そうこれは落ちていく感覚だ。がっちりと肩を押さえつけているストッパーに力の限りしがみついているお隣さんを横目に、ユーウォンはどきどきしながらその押さえつけられている感覚も楽しむ。自分の翼で飛ぶんじゃなくて、小石になったみたい。それとも雨粒かな。 「きゃあああっっっ!」「うひゃっあああああ!」 お隣さんの悲鳴に合わせて、ユーウォンも叫んでみた。体中が目覚めて沸騰するみたい! ぐいんっ、とふいに力の方向が変わって軽くお尻が浮いた。そのままカーブに揺られて目を細める。煌めく陽射しの方向も変わる。蕩けるバターのような夕日の中を突っ走ると、もっともっと楽しいだろう。 「うううっ、とりあえず、もう一回っ!」 終点で元気に飛び降りて、いそいそと入り口に向かう。 さすがに行列は長くなっていた。次までまだまだ待ちそうだ。でも、ユーウォンにとって何を見ても楽しくて嬉しくて面白いことばかりだし、待っている間だって周囲に並ぶ人々を見ているだけでわくわくする。 「カップルが怖い物に乗る気持ちって分からないでもないけど…おれにはなんだか可笑しな事に見える。でも見ているのは楽しいし、面白いよね。皆でわいわいやってるのも楽しそう。一人でつまんなそうな顔してる人がいるけど、なんでだろ?」 時間が違えば、光が違う、空気も違う。見える光景も違うしお隣さんだって違う。同じ体験なんて二度とない。 「何回だって乗りたくなるよ!」 はい、これチケットです! 大きく手を振って『無料遊覧券』を見せながら、ユーウォンはどきどきとジェットコースターをまた見上げる。 「へぇー、この遊園地、閉まっちゃうんだ……。そういえば、壱番世界の遊園地には前も来た事あったけど、あそこも閉まってたなぁ」 銀色の猫型獣人、そう呼ぶにも可愛らしさが先に立つアルドは、遊園地をきょろきょろと見回す。 「遊園地…」 鴉刃は入り口で賑やかな園内を眺めながら、そっと口の中で呟く。 「壱番世界ではデート候補の1つによくあげられるという話であるが…」 「ん?」 隣に並んでいたアルドが素早く聞きつけて振り仰ぐ。 「何、鴉刃? 遊園地、前にも来たことがあるの?」 鋭く尖った犬歯が口からちらりと見える。猫の瞳を象った宝石のペンダントの紅に相手の吸血の性を思う。同時につい先日も責められた、自分の危険を求める衝動的な欲望も。 「誰と?」 「いや、初めてだ」 アルドの銀色の瞳に過った色に、何となくこそばゆくなりながら鴉刃は微笑する。この恋人は見かけよりもうんと嫉妬深くて、時に自分に対する執着をはっきりと見せる…それが時に嬉しくあったりしたりもして。 「ほんと? 何だか鴉刃赤くなってる」 ちかんと光った瞳に、アルドと共になので楽しみたい、そう言い出せなくなってしまった。 「それより、時間が限られているのだろう?」 「あ、そうだ。次に来たときはないかも知れないからね」 アルドは恋人との時間の貴重さに我に返ったようだ。すっと片手を差し伸べてきて、 「それじゃ、最後に思いっきり楽しんじゃおうか、鴉刃!」 「そうだな、ジェットコースターはあそこだ」 「え」 にこやかに返す鴉刃にアルドは引き攣る。 「観覧車じゃないの?」 「それはこの前の依頼だろう。今回は『ジェットコースター』だぞ。どうかしたのか?」 「う、ううん、大丈夫だようん」 ぶるぶると首を振りながら気丈にジェットコースターに向かうアルドの背中にはいささか悲壮感が漂っている気がしないでもない。 鴉刃にとってジェットコースターなどたいした代物ではない。昔からアクロバティックな飛行をしてきたのだ、生身での空中戦やいろいろな意味で降り掛かる火の粉の間を擦り抜けて生きてきたような人生の中で、ジェットコースターの速度も急旋回もいきなりのアップダウンも、まあ多少のスパイス程度のものだ。 だが、アルドにとっては。 「いやあ、その、まぁ、うん」 二人掛けの車輌はほぼ満杯だった。幸いに一番前が空いていたので鴉刃が先に滑り込み、続いてアルドが乗り込む。 「そりゃー、壱番世界では猫と煙は高いところにのぼるものだーって言うよ?」 がちん、がちん、とかかるストッパーに両目が見開かれている。そろそろと伸ばされてきた手に、いきなりこんなところでは気恥ずかしいと、それとなく避けた鴉刃の手を、むんずと握りしめたアルドは、まっすぐに前を向いている。気のせいか毛が逆立っているし、耳もぴんっと立っているし、いつもそれとなく鴉刃に触れてくる尻尾がかちんかちんに膨らんで固まっているようだ。 ごとん、ごとん、ごとん、ごとん。 競り上がっていく車輌の中で、鴉刃は恋人のちょっと尋常ではない様子に心配になる。 「アルド?」 「言うけど、ただ高いだけならいいんだけどさぁ~!」 ごとんっ……。一瞬の静止。アルドが鴉刃の手を力の限り握り締める。だが、それだけでは耐え切れなかったのだろう、ふんわりと鴉刃の方を振り向いて、気弱く笑った次の瞬間、崩壊の序曲が響き渡る。 「まに"ゃああぁぁ―――ッ!!?」「アルドッ!?」 絶叫とともにストッパーをものともせず、アルドは鴉刃に飛びかかり抱きつき抱き締め、引き裂かれるような叫びを上げつつ、うねりくねる線路の上を爆走していく。 「きゃああああっっっっ!!!」 同じコースの最終車輌の右側席で、カンタレラは紅の瞳に涙をためつつ、必死にストッパーと手すりにしがみついている。お隣に誰か乗っていたなら、もちろん相手にもしがみついていただろうが、何せカンタレラの美貌に恐れを為したにーちゃん方が、自前の彼女や一緒に来ていたお仲間の痛い視線を受けるのが嫌さに辞退されたので、空っぽだ。 「いやあああっっっ!」 競り上がり、落とされる。左右に振り回され、地面に潜り込むかのように叩きつけられる。 「あああああああっっ!」 悲鳴だけ聞けば、一体全体どこの誰が彼女にどんな無体を働いているのかと想像したくなるような切なげな叫びだ。いざとなれば必殺の武器にもなる声が、今は哀調を帯びてその表現力を遺憾なく発揮している、助けてくれ、と。 (……! ……! ……!) カンタレラがしがみつきつつ震えつつ、胸の中で呼ぶのはもちろん愛しい恋人の名前だけだ。ぽろぽろと涙が零れる。どうしてこんなことになってしまったのだろう。何が間違ってしまったのだろう。人生とはかくも厳しく選択の結果を味合わせるのだろうか。 本当は絶叫系に乗るのは初めてだった。不安にはなったが、ロストナンバーとしていろいろな経験も積んできている。生死の狭間も何度となく潜ったし、その中を生き抜いてきた。それから思えば、たかが子どもの遊具、完全に安全を保証された乗り物に何の恐怖があろう。そう高をくくって意気揚々と乗り込んだのだ。 だが、違う。これは全く違う。小さな箱の中で無抵抗に拘束され途中で逃れることもできずに恐怖と不安を繰り返し煽るために作られた道のりを速度に強弱つけつつ無限に振り回されるなど、酷い、惨い、惨すぎるだろうこれは! (何と言う恐ろしいものを作ったのだ壱番世界!) 恐るべし。これを楽しみとして味わうとは脅威だ。なるほどプラットフォーム化していても破滅せずに生き延びている世界だ、格が違う。 (ターミナルに戻ったら皆にも知らせてやらねばなるまい!) ぐしゃぐしゃに濡れた顔で強く固く決意する。こんな貴重な情報を持ち帰るカンタレラにチャイ=ブレも大いに働きを認めてくれるだろう。 「きゃあああっっっっっっっ!!!!」 最後の一山で精神が持ってかれた。絶叫を放ちながら堕ちていくカンタレラのパフォーマンスはその後『ジェットコースターの歌姫』と噂され、長く遊園地の語り草になることを彼女はまだ知らない。 「……アルド、大丈夫か?」 「ふにゃあああ…」 ジェットコースターから降りてきたアルドは足下がよろめいている。それを支えてくれながら、鴉刃が心配そうに、けれどどこか恥ずかしげに囁く。 「最初に落ちるときに叫んだり、私に抱き着いてきたりしたが、ああいうのは苦手であったろうか」 髭が揺らめくのがアルドの髭に触れて刺激的だ。体がふるふる震える。それがジェットコースターの恐怖からと思われるかも知れないのは、とても残念だけど。 「……それと、その、だな。……いきなり抱きつくのは、なんだ、その、驚くであろう。緊張の糸を張ってない時にやられると流石の私でも驚くぞ。いやではなかったが、な」 ああ、何て甘い声。甘い台詞。 「はーっ」 半分は仕方なしに、半分は意図的に鴉刃に寄り添ってよろよろと歩く。 「だってさぁ仕方ないだろ、森じゃあんなのなかったし! 今までの冒険で急降下とかしたことあるけど、あんなガッチガチに拘束されたままはさすがにないし!?」 「アルド?」 小さな呟きは聞こえたかも知れないが、鴉刃は確かめようとするように覗き込んでくれる。金色の瞳は右が失われたが、今残った左目でアルドの様子を気遣ってくれるのがありありとわかる。暗殺・斥候部隊所属、龍人のアサシンは今はただ、アルドの不器用で愛しい恋人に過ぎない。 「今度、お前を乗せて遊覧飛行とでも洒落込むか?」 彼女なりに考えて提案してくれた二人の時間、アルドは苦笑しながら応じる。 「遊覧飛行、って、えーと……急降下はナシでお願い、スリルは暫く留守にしてるから」 「なるほど」 くすり、と髭を震わせて鴉刃が笑う。無防備な笑み、それが嬉しくてアルドも笑い返す。近くにいすぎて互いの吐息がわかるから、もっと距離を縮めたくなる。 「一休みするか」 鴉刃も同じように感じてくれたのだろう、噴水の側のベンチに腰掛けさせてくれ、カップの飲み物を買ってきてくれた。有難く受け取る、まだ足がちゃんと動かないから。でも、それを弱虫の理由にしないで、寄り添う手立てに使ってしまう自分の狡さは、恋をしてから身につけたのだろうか。 「…そういえば、ふと思いついたのであるが」 隣で鴉刃が同じようにカップの飲み物を傾けて、続けた。 「アルド、お前は私のどこが、好きになったのだ? 好きとは聞いたが、どこが好きなのかは聞いていなかった気がして、ふと気になってな」 まっすぐな問いは鴉刃らしい。思わず零れた笑みのまま応える。 「僕がどうして鴉刃が好きになったか?」 なんで今更。ううん、今だから聞けるのか、と思いついた。 「んー、何だろ、最初はほんとに、単純に興味があったんだと思う。龍人を見るのは鴉刃が初めてで、猫族にはない雰囲気に惹かれたかな」 ふかふかの毛はない。柔らかな体もない。滑らかな皮膚と鋭い身のこなし。 「初めはまぁ、その、すごいなーとか、カッコイイなーって思ってたけど……くふふ」 やっぱり笑みが零れてしまう。大好きな人にどこが大好きかなんて聞かれたら、こんな顔になるしかないじゃないか。ここまで体を寄せ合っても違和感がないのはきっと、ジェットコースターで抱きついていたおかげ。 「鴉刃は?」 やっぱりこれは外せないでしょう、そう言いたげなアルドの視線に気づいて、鴉刃が珍しく口ごもる。 「……私か? お前を好きになった理由?」 瞳が泳いでいる。アルドの視線を受け止めかねている。以前はそれを拒否ととっただろうけど、今は違う。少しは待つことができる。 「……一目惚れ、とでも言えばよいのであろうかな。いやそうではないのではあるが」 考え考え鴉刃はことばを探す。ジェットコースターが見えては、また不快になるだろうと気を遣って、噴水を挟む位置まで連れ戻ってくれた。陽射しを跳ねて吹き上がる水に、一緒に来たユーウォンが足をつけているのが見える。少し近くにカンタレラが座って、ぼんやりしている。目の前でゆっくり回転木馬が回っている。 「異性として、好きと言ってくれたものなど初めてでな。嘘ではないのはあの状況ではすぐに分かった。……それが、とても嬉しかった」 鴉刃がためらい、そっと小さくことばを続ける。 「同時に、お前がとても愛おしく思えた」 薄く染まった頬の色をアルドは見て取ることができる。逸らした視線をもう一度捕らえたくて、今度はアルドが鴉刃を覗き込む。 「今はやっぱり、可愛いと思うよ、鴉刃」 囁きは少しは男らしく響いただろうか。 「……ホントは僕がもーちょっと逞しかったらよかったんだろうけど。僕、吸血鬼だし、鴉刃にも、迷惑を掛けるかもしれないから」 潜ませた本音の不安を鴉刃は気づいた。慌てた顔で振り返る、その瞳を見据えて、 「鴉刃は……吸血鬼の僕でも、いい?」 そんなこと、と応じた口に顔を寄せる。 もっと、近づこう、心と同じぐらいに。 どこからか、歌声が響いてきて、アルドは力強く鴉刃を引き寄せる。 「はぁ…」 カンタレラは売店で昼を買った。ハムや野菜をぎっしりと挟んだサンドイッチ。泡立つ珊瑚色の飲み物が唇で弾けてちょっとびっくりしたが、サンドイッチは食べごたえがあっておいしい。 「この前、空に花びらが開いたと言うが」 見上げた空は高く青く澄んでいる。急ぎ足の雲が互いに追いかけ合いながら過っていく。 あれは夜だから見えたのだろうか。それともあのときだから見えたのだろうか。 もう一度、カンタレラの目の前で開いてくれればいいのに。 そう思いつつ、サンドイッチと飲み物を食べ終えたとき、近くから泣き声が響いた。 「大丈夫よ、もう男の子でしょ、いい加減になさい」 母親らしい人が泣きじゃくる子どもを持て余している。 「あんたが乗りたいって言ったんでしょ、ジェットコースター。あんなに怖かったなら、どうして乗りたいなんて言ったの。母さん、恥ずかしかったわ、泣きわめいて」 それは、知らなかったからだ。 ぐ、っとカンタレラはこぶしを握る。 それがどんなものかを知らずに近づいたのは愚かだが、それでも近づいてしまうことはあるではないか。ましてや、あの恐怖と不安に晒され続けて、正気を保っている子どもを褒めずに叱るとは何事。 「坊や」 思わず声をかけてしまった。ひくっ、としゃくりあげた男の子は、驚いた顔でカンタレラを見上げている。 「こんな唄を知ってる?」 おまえは私の同志だ、心の友だ、魂の理解者だ。あの脅威に恐れずに立ち向かおうとした勇者なのだ。その誇りを甦らせよ。力よ漲れ。そして、立って再び立ち向かうのだ、人生は困難を撃破することに意義がある。 「あの…」「お姉ちゃん…」 呆然とする二人の前で、カンタレラは高らかに奮迅の唄を歌い上げる。 「さあて、また乗ってこようかな!」 ユーウォンは噴水から足を引き上げる。 昼は食堂で食べた。思ったよりもたくさんのメニューがあって、和洋中なんでも揃っております、あちらにはイタリアン系も、と示された棚も見に行って、迷いに迷って選びに選んだ。食後は噴水で遊び、一息ついて、今また再びジェットコースターに乗りに行く。 「チケットこれです!」 かざした緑の券に、もうすっかり顔なじみになった係の人が笑って頷き、続いて、大丈夫ですか、と半泣きになって足早に歩く男と白い髭の男に声をかける。 その側を、ユーウォンはいそいそと階段を駆け上がる。 さっきより陽射しが傾いてきた。 「ジェットコースターなんて一瞬じゃない」 後ろに座ったカップルの女性がごねている。 「もっと長い時間楽しみたいわ」 「あっけないよね」 斜め前の男が友達と笑う。 「なのに来ると乗っちゃうんだ、何でだろう」 確かに一瞬のスリルを味わうものなのだろう、一般的には。 「だけど、降りたらそれで楽しさが終わり、ってわけじゃない。昨日までのおれとは違うこの楽しさを知ったおれになって、また旅をするんだ!」 一回乗れば一回分、十回乗れば十回分。 同じ行程を繰り返しているようにしか見えないんだろう、傍目には。けれど、乗った本人にはわかる、たとえおなじみのコースでも、そこでは何もかもが違っていく、なぜなら経験した自分がもう違う世界を見ているから。 「帰属したって、同じだ」 ユーウォンにとっては旅が生活であり、人生そのもので…たとえ帰属しようと、旅に終わりはあり得ない。 ターミナルにいようと、どこかの世界へ帰属しようと、たとえ新たな世界にまた再び飛ばされることになったとしても。 旅は終わらない。 全てはユーウォンを造り、育て、満たしていく。 「おれは、どんどん、変わっていく」 競り上がった車輌が走り降り始める。 落ち始めた太陽が、光を乱しながら散らしていく。 「いーーやっほーうううう!!!」 ユーウォンは風に瞳を瞬いて叫んだ。 心は、光に解き放たれる。
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