ターミナルにいくつかある墓地の一つ。 その内の一つには、特徴的な墓碑が有った。 そこに刻まれている名はない。 ただ、句が一句、刻まれているのみ。 ――汝の悼む名を懐え 故郷から放逐され、懐かしき人がどうなったのか、定かではない0世界。 しかし時は常に流れ行く。 其の中で、おそらくはなくなっているであろう、近しい者。 亡くなっている事をしりながら、故郷に戻れぬがゆえにその墓前に立てぬ者。 この世界において知り合いながら、他の世界でその生死が不明となった者――おそらくは、その運命が確定的な者。 そのような者達を悼む為に建てられたと云われる、その標。 ひっそりとした墓地。 深閑の空間にいる少女は、今日も一人、仮面を身につけ墓所に佇む。 マスカローゼと呼ばれた少女。 ふと、物音がして少女が振り返る。 そこにいたのは、世界を旅する者の一人。「――”どなたか”に?」 人の気配が無かったはずの場所に佇む少女に驚いたのだろうか。 無銘墓標へ歩み寄ろうとしていたロストナンバーが、マスカローゼを見て息を呑む。 そんな旅人の様子を、無表情のままに観察する少女。 数秒の、沈黙。「お茶を淹れていますので」 そう言って、少女は踵を返し休憩所へと向かっていく。 付いて来るも、来ぬも自由。 話がしたければ聞きましょう。 独白したければ耳を塞ぎましょう。 ただし、赦しは与えられず、慰めはもたらされない。 全ては、そこに在るだけの。 その背中が、静かにそう語りかけてきた。
樹々の梢がざわめきを発し、作り終えたばかりの墓碑――名だけが未だ刻まれぬそれに腰を下ろして物思いに耽っていた少女が顔をあげる。 仮面に隠された視線の先には、かつて己もいた場所で遭遇したことがある男。 同種の存在の中では平均よりも低い背丈、朱に染まった瞳の三白眼。 緑色に近いカーキ色の軍服に身を包んだその男が無表情のまま歩いてくる。 その手にはおよそ似つかわしくない類の物――花束があり、ぱっと見たところ、墓参りに来ているように見えた。 ようにも何も、ここは墓以外に何もなく、ここに来る者の殆どは墓参りに来る者ばかりである。 そういう意味で、男の荷物は凡そ正しい。 それでもマスカローゼはゆっくりと立ち上がり、近くまで来た男に対し少し首を傾げつつ問いかけた。 「――何をしに?」 ピタ、と止まった軍靴の音。 問われた男は無表情なままマスカローゼを睨め付け、いかにも不服ながら、という体で答えを返す。 「斯様な場所へ、墓参り以外に来る者がいるのでありますか?」 ‡ 『壱番世界では盆、というのがあるらしい』 珍しく弱っていた女に誘われて、目の前で呑まれながら麦茶で一杯やらされるという拷問に付き合わされた日のことだった。 『どうだ、たまには親を想って墓参りしてきたら。少しは自分のルーツを辿って、今生きていることのありがたさを知るべきじゃないか』 座った目の相手である。 「嫌だ」と言えば無理やりいかされるのが目に見えていたこともあり、ヌマブチは渋々に頷き返した。 かくて今ここにいるわけだ。 ――何をしに? まったく、何をしにきたのだろうな。 問われた声にちょっとした引っ掛かりを覚えながらも、御尤もであると言わざるをえない。 「此処には某の父の墓がありますので」 それだけ述べると、マスカローゼはまたしばしヌマブチの顔を見た後、「こちらです」と言って踵を返した。 案内された墓を前にし、花を供え、形ばかりに手を合わせる。 それは飼犬が躾けられた一連の動作を行うように、澱みなく、中身もないただの所作。 かつて見た父の手紙を思い浮かべ、次いでその墓を通すようにして、この世界へ来た後旅を共にしてきた亡き者達の姿を思い起こす。 祈りの語句を口中で唱え、義理を果たしたとばかりに腰を上げる。 途端、少女の視線を背に感じ振り返った。 「形ばかりの礼の滑稽さは自覚している」 酒瓶を探してポケットへと手を這わせたものの、掴めるものは当然何もない。 その気まずさを誤魔化すかのように、ヌマブチはさして変わらぬ身丈の女から視線を逸らす。 「けれどこれすら出来なくなれば某はただの機械ということになります故」 形だけでも、僕は人でいたい。 普段はそこまで露わにすることのない言わでもの心情まで思わず口にしそうになり、それに気づいてまた口をつぐむ。 ターミナルの中心部にはない静けさがやけに口を滑らせるのかと思い、馬鹿馬鹿しいと否定する。 もし普段と異なる事があるとすればそれは場所ではない。 この眼の前の娘であろうと思われた。 「お酒はありませんが」 誘いとも、ただの宣言ともつかぬ言葉を発し、娘は再び踵を返す。 向かう先には小さな四阿屋。 その横に、来客用であるらしき小卓が見えた。 「お相伴に預からせて頂いてよろしいのでありますな?」 ぼそぼそとした問いかけに肩越しに頷くだけで応じる少女。 すぐさま帰るつもりであったが、マスカローゼとのほんの少しのやり取りがヌマブチに気を変えさせた。 1つだけ、気紛れなままに問いかけたいことができたのだ。 ‡ 「噂では霞でも食べて生きているという事だったが、存外元気そうでありますな」 出された茶器を割らないようにそっと手に取り口をつけた後、沼渕は言う。お猪口と違い、ティーカップは弱きにすぎる。 「そちらこそ」 同様に器に口をつけて唇を湿らせた少女が応える。 「随分と、あの頃に比べれば真っ当な生活をされているようですね」 酒に酔わずにふらふら出歩いていることをさして言われたのだと気付き、くつりと笑みを浮かべてみせる。 「そうでありますな。今は五月蝿い医者がおりますゆえ」 そう言って手に持っていた茶器を受け皿に静かに置くと、沼渕は椅子の背もたれにその身を預け、肘置きにおいた両の手を、腹の前で組んでみせる。 「ナラゴニアで別れた以来でありましたか。貴殿がクランチ殿の指示で彼の魔神とヴォロスへ出向いた後は、互いに会う必要性がありませんでしたからな」 「正確には初見となりますが」 仮面の向こう、その瞳がしっかりとヌマブチのそれを捉えてきた。 「記憶の中では、確かにその通りです」 奇妙な物言いだった。が、女の経緯を知っていれば、然程不思議とも思わない。 「ここだけの話だが、フラン? だったか? という彼女より、実は貴殿との方が接し易いのであります」 ヌマブチは背を預けた姿勢のまま、下から睨めあげつつ肩をすくめるという小器用なことをしてみせる。 「某にとってのマスカローゼはどちらかといえば貴殿に近い。でありますゆえか――或いは……どちらにせよ貴殿の空虚さは、接し易い」 こういう時は口を歪めて言うのが作法だろう。 その通りにすると、マスカローゼが仮面の向こうで瞬いたのを感じた。 「いかがでありますかな、伽藍堂の生活は。人と関わらず、人の死の後を見る生活は」 返されるのは沈黙――そう考えていたが、意外にも返答があった。 「存外に趣のあるものですよ」 セルロイドで出来た人形のような笑みだった。 「でありますか」 それに対し何を思うかと考えて、何も思わない自身に心中で苦笑する。 少し離れたところにある墓へ視線だけを滑らせ――沼淵は本題を問いかけた。 「人は何故生きるのだろうな」 生きることに意味はあるのか。 ただ肉の塊として動き、互いに言葉を交わし、何を残そうと、最後は常に死ぬばかり。 そこにある意味がわからない。あるいは己の手でそれを奪ってきたがゆえに、敢えてわからないのだろうか。 いずれにせよ、生の意味を見失って久しい。あるいは最初から知らなかったのかもしれないが。 「死を悼む気持ちとはなんだろうか。命の重みといわれても、そこにあるのは脈打つ肉の塊ではありませぬか」 数量の多寡ならばわかりやすい。目に見て取れる。 男と女のどちらかならば女の方が優先される。これも目に見て取れる。 だがそういった一般的基準からかけ離れたところにある「重さ」というものがわからない。 人間関係によって変動するようなそれが、本当に真実重みをもつようなものなのか。 親が子を思う気持ち、為政者が民を思う気持ち、誰かを憎む感情。 それらに何か違いがあるのか、そのものを理解できないがゆえに、その違いもわからない。 何事か答えようとして少女の唇が薄く開き、そして閉ざされる。 横たわるのは、虚無。 「失礼、余談が過ぎたようでありますな。ま、ご安心を。これは尋問ではなく某のライフワークのようなものであります。故に答え辛ければ忘れて頂いて結構」 そう言って沼淵は席を立つ。 「父の墓がここにある限りは訪れる事もありましょう。それでは」 そう言って男は背を向けて歩き出した。 「死なない限りは、また何れ」 口の中で唱えたその言葉が、少女の耳に届いたかどうか――沼淵にはわからない。 わからないが、それでよい。
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