これは少し前のことであります。 三白眼の小男が彼女に語ったのは、ただの"事象"だった。 ヌマブチがいたのは夜烏の哭き声さえも聞こえぬヴォロスの街の闇の中。 数人の集団が一人の男に指示を受けている建屋の外、漏れ聞こえてくる声のみを拾い集め、その意味を推測することに全力を傾けている時である。 ふと、厚手の軍服の裾、その布を何者かが撫ぜるのを感じ、視線を下へと向けてみる。 奔る戦慄。 物音を立てず、悲鳴を呑み込むことに成功した僕は褒められてしかるべきだと思える、その存在。 細い肢体。 いかにも物を得るのに難渋しているとわかる痩せた躰は肉が削ぎ落とされ、無力さを愛らしさでカバーする、その獣。 「ニャア」 小さく聞こえる声の主は、喉の喘鳴音と共にヌマブチの足元に居座って離れようとしない。 硬直したヌマブチへと物をねだるべく、細やかな鳴き声を繰り返す。 にゃあ。 にゃあ。 にゃあ。 このようなものはここにはいない。いないんだ。 必死で足元の存在から意識をはずし、内部へ耳を傾けて、二度戦慄した。 ――猫が五月蝿いな ――何かいるのではないか 冗談ではなかった。 今この時、自分の存在を見破られてしまい連中を取り逃がせば、依頼の遂行が甚だしく困難となるのである。 己だけの依頼であれば問題ない。 しかるに今回の依頼は複数人数によるものであり、なおかつ個別に小目標を達成することが、後の戦術的有利を構築する事に繋がっているのである。 故に、この失敗は作戦の成功率を著しく落とすことを意味する。 それは、御免被りたいところでありますな。 自分が戦術的行動で足を引っ張る等ということは許容できるものではなかった。 が、猫である。 よりによって猫である。 ――盛っているんだろうが、気が散る。追い払ってこい 聞こえた一言に、ヌマブチは一度瞑目する。 確かに猫である。 だが所詮は抵抗力すらもたぬ、爪も牙もない、ただの四つ足だった。 その難敵に対する恐怖はしかし、任務失敗の恐怖を上回るものではない――理性が本能を上書きする。 す、と身を屈め、その鳴き声をあげる口を首ごと片方のみの手で掴む。 痩せ細った獣の骨は脆く、ひねりを加えられた結果漏れ出る音は、枯れ木が折れる音よりなお小さく。 扉の開く音と、ヌマブチがその死体を手に抱えて少し離れた物陰に身を移し終えるのはほぼ同時の事であった。 何もいないのを確認した後、出てきた男は再び室内へと入り込んでいく。 ヌマブチは手に持っていた物を物陰に核し終えると、再び先ほどの場所まで気配を殺し、その身を移した。 啼く仔はもう、いなかった。 もう一つ。こういう事もありましたな。 作戦は恙無く終了し、街から少し離れた村で一行は時間を潰すことにした。 迎えのロストレイルはその村から少し離れた先の渓谷に降り立つ予定だったが、その予定時刻が夜であり、想定より早く達成し終えたがためにそれまでの時間つぶしが必要であったからだった。 他の面々は近くの沢に遊びにいくものと、酒場で飲むものとに別れた。 ――いずれの組にも同行しなかったのはヌマブチだけであり、彼は目的もなく、ただその辺りの空気を感じようとでもするかのように、普通の人らしく散歩を行っていた。 「待って待って、こら、逃げちゃだめ!」 不意に上がった声。 男が瞳だけを動かして視線をやってみれば、そこにいたのはまだ若い少女。 そしてその腕から逃げ出したらしき雄鶏である。 雄鶏は少女の手を忌避し逃げまわり、少女はその奔放な動きに翻弄されていた。 足元に来たそれを捕まえるのは容易かった。 追いかけるのではなく、逃げる先を限定し、待ち構えた手の中へと誘い込む。 柔らかな細首をその手に捉え、ヌマブチは羽ばたこうとするその羽根を脇と腹を使い器用に押さえ込んだ。 「ありがとう、助かりました!」 生きている鶏をもらうなんてはじめてで――そう言って笑いかけてきた女性から目をそらすようにしつつ、ヌマブチはちょっとした気紛れを発揮した。より正確に言うならば、こういう申し出をするのではないかという考えに基づいた、意図的な気紛れである。 「生きているものを扱うのが初めてでは大変でありましょう。それがしが下処理を手伝いましょうか」 それは男性が物慣れぬ女性に申し出る妥当な台詞のはずだった。 だが思いの外目の前の女性が逡巡していることに、ヌマブチは自身の言動が何かおかしかったであろうかと振り返る。 どこも問題がないはずだが。 そう思いつつも「余計なことであれば……」と言おうと口を開きかけた瞬間、女性が笑みを浮かべて「それじゃあお願いします」と返してきた。 「外でというわけにもいきませんし、こちらへどうぞ」 案内されたのは、女性の家。 はたとヌマブチは思い当たった。なるほど、目の前の女性が一人暮らしであれば、一般常識に照らして判断するに成程自分のような成人男性を案内するのに躊躇することであろう。 これはしまったか――若干の後悔が湧きでたものの、もはや辞退の機は逸してしまっている。 ならばさっさと"処理"を済ませて辞去することとしよう。 そう考えたヌマブチは、女性に案内されるままに勝手口の外、家の裏側へと足を踏み入れる。 薪等の資材が置かれる脇に――作業をするためのものであろう――台を見つけ、幸いとばかりに騒ぐ鶏を抱えて行く。 その最中、それまで緩んでいた腕の力を十二分に強める。その上で、軽く数度腕を回す。 これにより断末魔の叫びをあげる暇もなく、雄鶏は彼岸へと渡ることとなる。 その雄鶏の痙攣する躰を逆さとし、取り出した小刀で首を一息に切り落とした。 反射と重力に従い流れ出した血はやや少しの後のその勢いを弱めた。 そんな鶏の躰に残った血を絞りだすかのようにひとしきりもみほぐしたヌマブチは、背後の女性が何故か硬直する気配を感じつつ、黙々と作業する手を止めないでいた。 己は異分子であり、妙齢の女性の家からはすみやかに辞去する必要がある。 その常識の為にも、彼は手早く作業を終える必要があり、それにあたって女性の様子を伺う必要性は微塵も感じられなかった。 血の流れが凡そ止まったのを確認し、横に置いた薪で火を熾す。 同時に、女性に対し大きめの鍋に水を満たし火にかけるように依頼する。 青い顔をしながら頷いた女性がしばらくして用意した鍋を火にかけて、暫し。 沸騰直前程度まで熱せられた鍋。そこへ血抜きを終えた鶏を静かに漬け込んだ。 更にほんの少しの時間、火を管理しながら待っている。 やがて、ほどよい状態になったと見てとったヌマブチは、火から鍋を下ろし、湯より取り出す。 火は後の為にと消さぬようにし、ヌマブチは脇の小椅子へ腰を下ろして手を動かし始めた。 夏の空気の中、湯気が立つほどに暖められたその鶏の羽根は大きなものであれば手で軽く引っ張るのみで楽に抜けていく。 手櫛の要領でざくざくと羽根の処理を終えたヌマブチは、そのまま火にくべられていた薪の燃えさしをとり、細かい羽毛を焼きはじめた。 俗にいう鳥肌が顕になりきったところで、排泄器官の周辺を流水で軽くあらい、下ごしらえの半ばを終えていく。 おおよそ白く清潔感をもった物体となったそれは、しかし未だに肉である。 ヌマブチは女性に鶏の足を軽く支えておいてもらうよう頼むと、握った刃物を器用に扱い、速やかにその付け根部分へ切り込みをいれた。 大腿部の関節を外し終えた後、胸肉の辺りに刃を入れる。周辺の内蔵を傷つけないように気をつけつつ手早く入れられた切れ込みにそって、次第次第に鶏が開かれていく様はある種芸術的な手並みであったが、同時に臓物の臭いが周囲に当然の如く漂って。 茶味の強い肝臓等、色鮮やかなそれが目に飛び込んだ瞬間、手伝いの為に鶏を支えていた女性はそこから目を逸らした。 気づいていないわけではなかったヌマブチであるが、作業を優先し特段気に留めることもない。 一つ一つの手段は理法に則った作業であり、最後に排泄器官周辺の肉ごと切り出した内蔵を、湯で煮ている間に用意していた地面の穴へと投げ込んだ。 単なる反射がまだ残っていたのだろう。食堂部分を極めて付け根に近い部分で切断した際に、最早物体でしかない鶏の肉がぴくりと震えたように見えた。 ざくざくとした手さばきを終え、最後の仕上げとばかりに肉に埋もれた小骨を取り出す作業にかかろうとする。 その瞬間、女性に限界が訪れた。 「――ご、めんなさ、いっ!」 絶え絶えに告げた声を残し、女性はヌマブチから直接見えない物陰まで走っていく。 音だけで、嘔吐しているのだとわかるその様子にヌマブチは手を止めた。 ――また何か失敗したのか。 仕上げの段階にある肉を作業台に置き去りにし、ヌマブチが女性へと近づいていく。 青い顔をした女性に大丈夫かと尋ねると、苦笑しながらではあるが、応えがあった。 「ありがとう、私だけだと多分できなかったわ――でも、忘れちゃだめよね。こうして私達は生きてるんだもの。ありがとう、貴方は強いわね」 何のことやら、というしかない謝礼であった。 肉にするために縊り、解体すること。 全ては必要な作業であり、女が取り乱したような光景はそれに付随する事象でしかない。 無視して作業を進めればそれでよいもの――だが、それが一般にはそうではないのかもしれないと思い至る。 「どういたしまして」 後は骨をとるだけであるからと告げ、ヌマブチは手を洗うとその家を後にした。 是非夕食を、との誘いについては固辞で応じた。 怪々とした心地であったが、その正体を見極めるにはいささかの時間を要したものである。 「あれは実に不可思議でありました。何故に下ごしらえすべき対象に思い入れを抱くのか。所詮はただの肉ではないか、と。ところでその後、帰宅したそれがしは、自宅を掃除したのでありますがね」 そこでヌマブチが手にとったのは、父の手紙だった。 『死ぬな』 幾多の文字の中にあって存在感を放つ、震えた3文字の字句。 自分はその時の依頼で、本来殺されることのなかったであろう、しかしややもせずになくなることになっていたであろう命を一つ。加えて逃げ惑う事で必死に生きようとしていたであろう命を一つ、断った。 いずれも状況下において間違った行動をとったとは思えぬものである。 無抵抗な猫。 食用に育てられなお逃げ惑う雄鶏。 死の狭間にてこの地に至った自分自身。 いずれも"生"である。 人が本来的に殺しを厭うものであることは理解している。 ゆえに、女が生命の断たれる過程を見せつけられた事に対して嫌悪感を抱いた事は不思議ではない。 人は、本来的に生を望むものであると理解している。 生きようと穢く足掻く者は、この目で数多見てきたものである。 父の手紙に綴られた言葉は"おそらく"温かい。 彼は故郷を懐う事で、己の生を諦めずにいたのだろうか。 子の生きるを望んだ親の想いは、今やその子の手の中に在る。 だが、果たしてその子は"生きて"いるのであろうか。 他の生命に何らの感慨もいだかぬまま、必要に応じてその生命の灯を消すような自分は、果たして人たりえるものとして"生きて"いるのであろうか。 『きちんと食べているだろうか。きっと背丈では苦労していることだろうが、どうにか大きく育ってほしいものだ』 余計なお世話だと想いはしても、子を想う親の心に対し、ありがたいと想うべきであるという理解しかでてこない。 「解らん」 幾度も幾度も文面を追ってなお、一向に揺れぬ己の心。 そこにあるのは、虚ろなる迂路の道のみであり、理解を欲する人の心というものは、己の手に触れることが出来る場所にあるように思えぬままである。 そんな事を思い描いたのが、数日前のことであり。 故に彼は目前に座する女性にまたも問いかけたのだった。 「人は何故生きるのでありましょうな」 またですか、という表情で目線を返す少女に、ヌマブチは口の端を歪めて皮肉げな笑みを浮かべた。 「失礼。ですがこれが」 某のライフワークでありますからな。そう言って立ち上がると、帽子を被りなおしその場を立ち去るヌマブチ。 その後姿を無言で見送りながら、仮面の少女はゆっくりと冷めたお茶を飲み干した。
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