奇妙な依頼だった。 「旦那様を救うふりをしていただきたいのです」 探偵に紹介された男は、開口一番そう願いを立ててきた。 「ふりかい?」 小首を傾げながら問い返してみせるダンジャに、女は頷きを返す。 「私の主は、心を病んでしまっているのではないかと、そう思うのです。主は毎夜うなされては、暴霊が現れると言って飛び起き――もう、半年近く、満足に寝ることができていません」 紹介してきた探偵が事前に説明したところによれば、彼はこの街区に住まう名士の秘書であるという。 「主の心を救える人物を探して欲しい」という依頼に困り果てた探偵が、やむをえずダンジャへと依頼をもちかけてきたのだった。 「お前さんの言う『旦那様』は、誰かに恨まれる覚えでもあるのかい?」 この世界において暴霊はある意味尋常の存在だ。 だからこそ、「ただ現れた暴霊」に苛まれ、追い詰められるとなると余程に後ろめたいことがあるんじゃないか。 そんなダンジャの問いに、男は再び頷いた。 「旦那様は、富裕な家に生まれた方でございます」 富豪の子息として生まれ育ち、この瘴気満ちたインヤンガイにおいて何不自由なく無垢なままに育てられた男。 やがて男は結婚し、子を為し、だが早くにその妻子を亡くしたのだという。 「それからだそうです。旦那様は、様々な事件や事故――あるいは娼館で生まれた子供。歓迎されない子供達を引き取って、育てられることを生きがいとなされるようになりました」 幸いにも、男には無数の不労所得の源があった。 霊力を用いた様々な機器を手広く扱うメーカーの株を過半近く所有し、安定株主としてそのメーカーにその身を守られている貴族として。 無数の不動産を所有し、富裕層の居住区として開放しているが為、富裕層達が自らの安全を守るべく勤しんだ結果得られた最高度の治安維持機能を持つ物件と土地。 その他にも様々な財産が男を守り、男の「趣味」を可能たらしめた。 人の善しか知らぬといわれる男は、哀れとみるや手元にひきとり、教育を施し、世に送り出してきた。 「旦那様を悪く言う人等、一人もおりませんでした――そう、あの人を除いては」 そう言ってダンジャを見やった秘書が語る男の有り様は…… 「貴女が私を守ってくれる方ですか――ルィ・フォンです」 よろしく、と寝台の上で頭を下げる男。 人間は食をたたれてもしばらくは生き続けることができるが、水と睡眠が無ければ早々に死出の旅路を歩き出す。 どうにか水だけは飲めているようだが、一日に数十分微睡めれば良い方という男は衰弱し、最早半身を起こすのがやっとという有様であるようだった。 「無理をおしでないよ。そのとおり、私はダンジャ。しばらくお前さんの側につかせてもらうよ――寝ようとしたら、暴霊が現れるって聞いたんだがね、実際のところどうなんだい?」 誂えられた椅子に腰をおろし、穏やかに問いかけるダンジャ。 その老成した有り様に、見た目にはわからぬ何かを秘めているのだと感じた男が、虚空を見つめるように視線を遠くへと投じた。 「毎夜現れては無言で見つめてくるんです――十五番目の息子。レイ……私が死に追いやった子です」 苦悶の表情を浮かべるルィ。 それは、彼の心に深くささった刺だった。 『お前に拾われた時から、お前の全てが憎かった』 ある時発覚した、マフィアも噛んでのルィの暗殺計画。 首謀者の名が、レイだった。 レイや彼に協力するマフィア達は、ルィを護衛する周囲の"力"によって制された。 だがその力はルィの手に及ぶものではなく、彼の制止をそれらは聞きもせず、レイを彼岸へと送り届けることとなる。 それからだった。 ルィが浅い眠りへと陥る度に、"彼"が現れる。 「何も言ってくれないんだ」 そろそろ還暦を迎えようという男が、苦しそうな、切なそうな、そんな声を絞り出す。 「色々と話しかけるんだ。何故だ、どうしてだ。何がいけなかった――だが、どれも答えてくれやしない。私は、どうしたらいい」 悄然とするルィ。その俯く横顔を眺めながら、ダンジャは小さくため息をつく。 「ならまずはそいつの意見を聞くところからかねぇ……今日は、横にいさせてもらうよ」 そう言うダンジャの言葉に、ルィはゆっくりと頷く。 だが、それから三日、ダンジャが暴霊の姿を見ることはなかった。 それでも、ルィは飛び起きる。 起きる度に錯乱し――秘書にその体を押さえつけられた。 「彼がいる、どうして皆わからない! 何故、皆私に何も言わない!!」 「旦那様、ここには誰もおりません! 落ち着いてくださいませ!」 そんなやりとりが繰り返された三日の後、明け方にようやく浅いねむりへと旅立ったルィの部屋を出て、ダンジャは扉の外に待機していた秘書へと語りかける。 「さすがにこのババアも、見えない、いない、気配もない、そんなものを相手にするのは荷が重いね――ふりをして欲しいってのは、つまりそういうことかい?」 こくり、と頷いてみせる秘書。ダンジャは「気が重くなるねぇ」と言いさし、深々と息を吐いた。 いる気配を見せない暴霊。 それでも惑うルィ。 三日三晩、注意深く観察し続けていたダンジャが、不意に気づく。 ――ああ、これかい。 その夜も、それは訪れた。 泥濘みの中に使っているかのように、ぶよぶよとした空気の塊にこの身を圧迫される感覚を覚え瞼を開けば、彼がいる。 今日もまた、彼は黙ってルィを見つめてくるのだ。 「――それほどに私が憎いのかね……何故憎むか教えてくれないか」 それでも男は語らない。 ただじっと、男の恨みをその身に受け止める。 既に彼はこの心休まらぬ生に飽いていた――いっそのこと、自ら命を……そう思いかけた瞬間、不意に声がした。 「性質の悪いまやかしさね」 その声に邪魔されるかのように、彼の息子の一人、レイの姿が掻き消える。 まるで蜃気楼が誰かに発見されたのに気づいたかのように。 その瞬間、ルィは"瞼を開いた"。 「どういうことだね」 落ち窪んだ眼は目の前に転がされた者の姿を捉えているようで捉えていない。 ただ、その横に立つダンジャにのみその視線が注がれていた。 「わかってみれば簡単なことさね――あんたが見てた暴霊なんていやしなかった。確かにあんたは見てたかもしれない――夢の中で、ね」 夢の中は、実質にしたら一瞬が数時間にもなりうる世界。 その何倍にも引き伸ばされた世界にほんの一瞬、その呪いは作用する。 そしてその呪いの条件は、深い眠りに落ちようとすること。 その瞬間の一瞬だけ"回路"が開き、ルィを不眠へと誘って行ったのだ。 「それで? お前さん、こいつに見覚えはあるのかい?」 ダンジャに促され、ルィはゆっくりと頭を振ってみせる。 「いいや――」 ずっと眼をルィからそらしていた男が、ゆっくりとその眼をルィへと向けていく。 だがもう、ルィの瞳が男のそれをとらえることはない。 「そんな者は知らん。知らんものが、私を呪うはずもない……家の外へ叩きだしてきてくれないか」 「――そうかい? ならそうするよ」 少しだけ肩をすくめたダンジャが、男を部屋の外、そして敷地の外へと連れ出し、道路へとその身を放り出した。 「いいかい? お前さんがもう一度同じ真似をしようもんなら、今度は見逃してはあげないよ」 しゃがみこみ、男のの視線に合わせて言うダンジャ。 応えを待つことはせず、彼女はルィの下へ向かうべく踵を返した。 「本当は知っているんだろう?」 ダンジャの声に、ルィは一度、頷いた。 「どうして見逃すんだい?」 「当然の報いだからですよ」 己は偽善者だから、とルィは言う。 息子を亡くし、妻を死なせた。 その無聊を慰めるべく、親のない子、歓迎されざる子を手元に引き取っただけ。 だが、結局己の虚を埋める事はできなかった。 自分を無条件で愛し、受け入れ、想ってくれる。信頼を寄せ、決して裏切らず、この身の側に居続ける。 そんな存在が欲しいという己の欲望を満たすために、徒に幾人もの人生に介入した。 これを偽善といわずなんというのだろう。 そういうルィの表情は、自嘲にあふれたそれ。 信頼し、信頼される関係がつくれないのならば、ただ想いを投げてくる存在であってもいい。 己を絶対とする存在にいてほしい。 憎しみでも、暴霊でも構わない――確かにそう思っていた。 そう告白するルィの姿は、ダンジャにはどうしてか滑稽にしか見えないもの。 家族を失い、残されたのは己の手で築いてきたわけではない多額の財産。 全てを得ているように傍から見れば思われる彼であっても、彼の中ではそうではなかったのだ。 「あんたは、信頼できる者が欲しかったんだね」 それが得られていないと、そう思ってしまうから。 自分自身が、自分に対して嘘を付いているからこそ、自分に嘘をつかない第三者が欲しかった。 そして次々と家族を増やし――そして、心の中で切り捨てたのだ。 それが、彼の子らが彼を恨んだ理由なのだとは、今持って悟ることもせず。 だから、あんな暴霊の幻覚に溺れてしまうのさ。 そう言ったダンジャの言葉は、男には届かない。 ルィへ施された呪いの施主は、レイと同じく彼の息子の一人だった。 ルィの身を心から案じ、心を配り、本音を打ち明けられるように思えた数少ない人物の一人、のはずだった。 「世の中こんな事ばかりだ。あぁもう、本当に生きていたくない」 「子供みたいな事をお言いでないよ」 思わずといった調子でこぼれ落ちた言葉を叩き返し、ダンジャは名士の胸倉を掴んで見せる。 「あんたは確かに自分を騙すために、偽善に手を染めたのかもしれないね」 それでも、とダンジャは言った。 「それでもあんたの偽善は、誰かに一日生き延びる食事を与えたはずだよ」 「そしてその誰かは、この世の何処かでお前さんに感謝したはずさ」 そういうと、ダンジャは胸ぐらをつかむ手をはなし、ルィをベッドに押し戻した。 「それでも孤独だ、生きていたくないと言うなら、好きにおし」 悄然と言葉を聞いているように見えるルィ。 その様子に、この言葉だけでは奮起することはないのかもしれない、とダンジャは思う。 だが、それでも。できるならば、気づいて欲しい。 ダンジャはそれだけを思い、ルィに背を向けて、部屋の扉をくぐり抜けた。 扉の向こうにいたのは、秘書の青年。 ルィの身を案じ、彼の世話をやき、その心を思いダンジャに依頼を持ちかけた、有能な秘書。 「己を人格者と勘違いした人間は山と居る。彼は誰よりも正直で好感が持てるよ……後はこんなババアの役目じゃない――全てはお前さんたち次第さ」 そう言って廊下を歩み去るダンジャ。 その背後に向かい、秘書はゆっくりと頭を下げた。 彼もまた、ルィの娘。 ルィの偽善によって、一日のパンを手に入れてきた、一人の子供だった。 ルィが、其のことに気づくかどうか、ダンジャにはわからなかった。 それでも。 いつの日か、気づいてあげて欲しい。 青年が、第三の刺客となる前に。 そう思いながら、ダンジャは陰と陽のすれ違う街の道を、ゆっくりと歩み続けるのだった。
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