「「こんなことを頼めた義理じゃねえんだが」 赤蟻がそう切り出して、虎鋭は紅をつけた小指を止めた。「笹宮が『化物夜伽』を『弓張月』に呑ませてこいと言われた?」 獲物の手入れをしていたリオも訝しげに顔を上げる。 宵の『弓張月』の裏手、ぼちぼち忙しくなる頃合いを見かけて話を持ち出したのも、自分の気になる女が困っていると聞かされた、それを何とかしてやりたいと思う気持ちが照れくさい、そんなところだろう。「『花王妃巡礼』をやり遂げたのが、やっぱり落ち着かなかったのか、『涙宮』」 リオは苦々しい顔になる。 『花王妃巡礼』と呼ばれる『弓張月』の一番娼妓としての顔見せを、ロストナンバーの助けを得てリーラは立派に済ませた。その際、『幻天層』『金界楼』『闇芝居』『銀夢橋』という主立った娼館を回ったのだが、その一つ『銀夢橋』を仕切る『涙宮』は、どうにも腹の虫がおさまらなかったと見える。 笹宮はリエ・フーがインヤンガイに帰属して楊虎鋭となった時からの知り合い、『銀夢橋』に属しながらも、それとなく虎鋭やリオのことを気にかけてくれている娼妓だ。その縁を『涙宮』は逆手にとったらしい。 リオは『花王妃巡礼』の時の『涙宮』の振舞いを思い出して小さく息を吐く。「やりそうだけどね」 見かけは、白とピンクのメイド服様のドレスに、銀細工のティアラをつけた愛らしい少女、左の頬に大きな涙の粒を模した紫と赤の化粧、そこにきらきら光る宝石の粒を貼りつけている『涙宮』は、リーラに小水をぶっかけておきながら、ふっくらとした唇の甘えた口調で「呑めと言わないのは宮の優しさですのん。ありがたく思し召せ」と言い切るような性格だ。「……もういいぜ、姐さん」 虎鋭は向き合っていた娼妓の唇に最後の一塗りを仕上げて頷き、指を拭いた。「おんやあ、美晴姐さん、えらく別嬪になったじゃねえか!」 赤蟻が驚いた声を上げ、美晴は嬉しそうに鏡を覗き込む。「ほんになあ、虎鋭の化粧は評判通り見事なもんや、これで気ぃよぉ座敷に着けるわ」 そう喜ぶ美晴の片袖は空中でふわふわ揺れている。他店の厳しい折檻で腕を失ったのだ。「おおきになぁ、虎鋭」「花代はちゃらでいいぜ」「へえへえ、おおきに、そのうちな」 身軽に立ち上がった相手を微笑んで見送り、虎鋭は険しい顔で振り返った。「いいじゃねえか、『銀夢橋』での『化物夜伽』、受けて立とうぜ」 銀鳳金鳳も異論ないだろう、とリオを見やってくるから、頷き返す。「『化物夜伽』は宵に蝋燭を灯してから夜が明けるまで、聞いたこともないような化物の話をし続ける趣向……インヤンガイでやるなら、当然よからぬものも呼び寄せる。話し手の準備と護り手の準備、両方がいるな」「護り手は俺が手配しよう、リオもいるしな、守りは任せてくれ」 赤蟻が頷く。「じゃあ、話し手は僕が準備する。虎鋭は『弓張月』の守りを頼む」 誰に頼むのか察した虎鋭がにやりと笑う。「わかった。リーラの義足も仮合わせが始まったとこだし、よからぬものに紛れた阿呆がいるかもしんねえしな」 それにあいつらなら。「聞いたこともねえ化物の話なら、腐るほど知ってるだろうぜ」 くすくす零した笑みが懐かしい顔ぶれを思い出している。 『銀夢橋』では地下二階の広間を『化物夜伽』に準備している。 無論、同席する『涙宮』もいつもに増して着飾っている。重ねたパニエに薔薇色のスカートとビスチェ、結い上げた金髪に黒真珠と銀のティアラ、手首に銀と真紅の薔薇を結ぶ。「宮、『弓張月』の連中、逃げましたらどうしましょう」「銀鳳の男振りもたいしたことがないものと嗤ってやればいいだけですのん」 『涙宮』はぷっくりとした唇にきらきら光る薄紅を塗りながら、「つまらぬ話があれば、お前達も指差し嗤っておやり、ここはインヤンガイ、そんな話などとうに聞いた、と」 頬に新たな宝石を貼付け、『涙宮』は鏡の中から背後に畏まる笹宮を見つめる。「笹、『弓張月』の『化物夜伽』を楽しみにしておりますのん」 細めた瞳がちらちらと嘲笑を閃かせた。
「ずいぶんと、いろんなお顔がありますのん」 月陰花園娼館『銀夢橋』の一番娼妓『涙宮』は、地下二階、和室あつらえの間に集まった面々をからかうように見渡した。 「軍籍、赤祭、学徒、猛禽、化猫、川鼬、壱眼、小娘、骨翼、餓鬼、縫女、銀娘……そなた達の語り物なら、さぞかし宮を楽しませてくれましょう。笹、蝋燭に灯を」 『涙宮』の背後に控えていた、笹宮は無言で部屋に並んだ蝋燭に一つ一つ灯をつけていく。部屋の中央の行灯のみで薄暗かった部屋が、あっという間に互いの表情まで見えるほどに明るくなる。 同時に、ロストナンバー達は二つのことに気づく。 「蝋燭の数が多いのです」 銀娘、そう呼ばれたゼロが首を傾げた。 「ほんとだ、二十あるよ」 確かに仕事は学究の徒だけどね、と白衣の袖を軽くたくしあげて、金町 洋が数える。 「かーず、まちがえーたのです」 化猫というより猫又と呼んで欲しかったノラ・グースが頷き、 「そんなわけはねェでやんス」 確かに川に絡んでますけどねェ、川鼬とは芸のない、と流渡が肩を竦める。 「他に何かの意図があるってことだね」 縫女とはつまらぬ呼び名だとダンジャ・グイニが苦笑し、 「どういうことですか」 骨翼と呼ばれたオゾ・ウトウが眉根を寄せる。 「ちっちっち、その顔はよからぬことを考えてるな?」 壱眼のイテュセイが指先を振ると、 「小娘でさえうんざりするようなことだろう」 冷ややかにシュマイト・ハーケズヤが言い捨て、 「ミス涙宮のおつむりに相応しいお遊びでしょ」 餓鬼のあたしにはわからないわ、とメアリベルが肩を竦める。 「あの、笹宮さん、その頬は」 赤い服に白くなるほど青ざめたミルカ・アハティアラが覗き込み、 「…」 ちろりと玖郎は猛禽の眼差しを放ち、 「……娼妓の顔に誰が望んで傷をつけるのか……知っていそうだな、『涙宮』」 低い声で軍服姿の鷹遠 律志が問う。 「…く」 辛そうに背けた笹宮の左頬に赤く爛れた傷がある。ちょうど、煙管の火を叩きつければできそうな火傷の痕だ。 「闇話はたくさんあればあるほど楽しみも増すもの。宮は笹に二十の話を所望いたしましたのん。そなた達の話は十二、後の八つは、笹に語ってもらいますのん」 どうぞ、ご案じなさらずともよいですのん。 「一つはその左頬、後七つ、宮は本当に楽しみですのん、笹」「…っっ」 化物夜伽を最後まで見事務めておみせ。 笹宮はびくりと体を震わせ、蝋燭の灯から逃げるように、部屋の隅に体を固くして控える。 「……では、まず俺から語ろう」 鷹遠 律志が居住まいを正した。 「見ての通り俺は軍人。軍では諜報活動を担当していた……いわばスパイだ」 現地の娼婦と恋仲となり一子を儲けたが、上層部の指令で僻地に転属となり生き別れになった。 間諜に情けは禁物、隠れ蓑として現地で妻子をもうけることはあっても、あくまでそれは芝居に過ぎない。 「なのに、恋をしてしまった」 外見にはおよそ不似合いな、淡い声が零れ落ち、すぐに元の口調に戻る。 「なればこそ妻子を盾に脅されれば服従は否めん。妻子への未練を残し向かった新たな戦場で、俺は凶弾に倒れた……その時、混濁する意識の中で不思議な夢を見た」 律志は一瞬口を噤んだ。黄金の瞳をゆっくり瞬く。その気配、その表情、この月陰花園で、そっくりな瞳を思い出さぬ方がおかしい。『涙宮』は顔を動かさないが、背後に控えた娼妓達が訝しげに、やがてざわりと顔を寄せて囁き合う。 その囁きが一つの名前に固まる前に、律志は口を開いた。 「淡く霞む夢に出てきたのは一人の少年。齢十二、三か……誰かによく似た顔の造作で、誰かによく似た黄金の目をしていた」 誰だかその時はわからなかったが、今はもうわかっている。 「それは成長した息子……虎鋭だった」 奇妙な話だろう。生き別れた時は首も据わらぬ赤ん坊だったというのに、俺は死に際に息子の将来を幻視したのだ。 「ただそれだけの話、怪談というには物足りんか」 冷ややかな『涙宮』の視線に律志は苦笑する。 「あるいは因縁、禍福は糾える縄の如し」 正直、不義理をし続けた息子に合わす顔がない。戦場で再会はしたが……今更父と名乗り出た所で、新たな人生に踏み出した息子の邪魔となるだけだ。 俺ができるのはただ、こうして陰で手を貸す事のみ。 「涙宮よ。貴女は名高き花街の娼婦だ」 当たり前だと言いたげに綻びかけた『涙宮』の微笑は、続くことばに凍りつく。 「娼婦が恐れ怯えるのはどんな化け物よりも自らの容色の衰え、それによる客離れ………わかるだろう? 恐怖とは内側に芽吹くものだ」 陰湿な根回しは自らを貶めるだけ、リーラが気に喰わぬなら美貌と芸を磨いて見返せばいい。 「俺の惚れた女なら……上海の楊貴妃なら、きっとそうした」 「……なるほど」 『涙宮』は冷笑を返した。 「どこぞの馬の骨ならば、きっとそうした。けれど、宮は『銀夢橋』の『涙宮』ですのん。宮が崩れる時は『銀夢橋』も終わるとき、お客様の夢の終焉ですのん」 容色の衰えが怖くて一番娼妓なんぞ張れませんのん。 『涙宮』は黒真珠のティアラの頭を無邪気そうに傾ける。 「宮は、リーラなんぞ、気にはしておりませんのん。木の歯車の音を五月蝿く思うだけ、美貌も芸も宮にこそあり、他の娼妓に張り合うことなどありませんのん」 他に話はないなら、次の語り物を用意おし。 冷たく言い放つ唇はぬれぬれと光に妖しく輝いている。 「笹、灯をお消し」「…」 笹宮がふ、っと律志の前の蝋燭を吹き消す。瞬間、炎に赤々と笹宮の顔と醜い傷痕が照らされ、顔を焼いた炎を思い出すのだろう、苦しげに歪んだ顔がすぐに薄闇に沈む。気のせいか、灯が減った部屋に、笹宮の顔が少し安堵の色を浮かべたようだ。 「では、次はわたしが」 ミルカがごくりと唾を呑んで、口を開いた。 「他の世界にいないような生き物も、例えば壱番世界だとお話の中にしかいないような生き物も、わたしの故郷の世界にはいます」 目を見張るほど鮮やかな赤い服、晴れやかな楽しみと喜びの気配を滲ませて、ミルカはことばを継ぐ。 「それらは可愛らしかったり、悪戯好きだったり、もちろん怖いのもいます。けれど、本当に怖いのは『目に見えないもの』なんじゃないかなぁって思うんです」 微かに翳った不安そうな声音、ここが蝋燭灯る穏やかな和室と言うよりは、吹雪渦巻く厳寒の世界であるかのような錯覚、思わず耳をそばだてたのは、微かな振動とともに何かが激しくぶつかったような気がしたからだ。ミルカ自身も、何事かを感じたのだろう、一瞬探るような視線を天井に向け、やがて思い直したように視線を降ろして話し出す。 「これは、わたしがおじいさんから聞いたお話です」 前置きして、 「わたしの住んでいた村は冬は雪が深くて、吹雪で外に出られない日もあります」 降り積もる雪は樹々も野原も湖さえも呑み込んで、山を覆い道を隠し、どれほど目を見開いても視界を真白く塗り潰す。 「そんな日に、誰かがドアを叩く音がしても、けして答えてはいけない、そう言います」 ミルカはまるで、部屋の中に、そのドアがあるかのように紫の瞳を細めた。 「もし何かの用事で出かけることがあって、雪で視界が奪われるなかに誰かに呼ばれた気がしても、けして答えてはいけない」 渦巻く雪の中から、請うように尋ねるように響く声、ひょっとすると自分の懐かしい知り合いで、行方不明になっていたけれど無事に生きていて、けれど最後の力を振り絞って救いを求めているのかも知れない、それでも。 「その『いきもの』には昔は名前があったそうですが、今では誰も覚えていないそうです」 忘れられたのか? いや、そうではない。 「元々は『名を呼んではいけない、食べられてしまうから』といった言い伝えがあったそうですけど…、名を知る人を残らず食べてしまって、誰も覚えている人がいなくなって。それでも彷徨って、自分の名を呼ぶ人を探し続けている……」 もしうっかり答えて、その名前を言い当ててしまったら。 その『いきもの』が、まさしく、失われた誰か、だったとしたら。 けれどしかし、誰もがそのように思う『いきもの』、そんなふうに無数の人々が想いを重ねる『いきもの』は、きっともう『誰』でもない。 だからそれは、たとえ名を呼び、相対したとしても、それと目に見える何かではないのだろう。 「だから、そんなときは息を殺して。その『いきもの』が静かに去っていくまで、ただ何も言わずに時が過ぎるのを待つのです」 ミルカは真面目な表情で話を締めくくった。 「その話で恐ろしいのは」 『涙宮』はくすりと笑った。 「その『いきもの』がなぜ、名を知る人を残らず食べてしまったのかということですのん。たとえば、名前は本質を語るもの。その本質を知られたくなかったから、そういう理由もありますのん」 すっと差し上げた盃、無言の命令に『涙宮』の背後から艶やかな光を跳ねる酒がとくとくと注がれる。満足そうにその盃の縁を含み、べったりと口紅を残して酒を啜った『涙宮』は、顎をしゃくった。ミルカや他の面々の前にも、鮮やかな朱塗りの盃が置かれる。 「それでもなお、名を呼ぶ者を探すのは、いつか白日のもとにそれが晒されるのを待つ恐怖に耐えかねてかも知れませんのん……我が身の無事を願うあまりに、助けを求めた隣人を見捨てた、その業が」 たゆたう酒に、それぞれの顔が映り込む。 だが、その像は揺れて乱れて、顔のようで顔ではない。 それを認めるのを待っていたように、『涙宮』は口を開いた。 「ならば、雪の中から呼びかけてくるのは、遠い昔に隣人を見捨てた我が身の姿、酷薄で非情な、人以外の存在に成り果てた姿ですのん。名前を定めず、本質を語らず、穏やかで優しい人の仮面を被り続けるために黙り込む」 『涙宮』はにっこりと唇を引き上げる。 「宮はそういう愚か者は好きですのん」 ひくり、とミルカは体を強張らせ、思わずトナカイのヴィクセンのぬいぐるみを抱える。 ふ、と蝋燭が吹き消される。 「では、あたしからは、涙に関わるお話を一つ」 金町 洋が手を上げた。 「ある所で最初に豆腐屋、次に、染め物屋、さらに商いをしていない人も、次々に倒れ伏し気が狂ったように暴れ出し、焼物をしている一家だけ無事で済んだ」 モカブラウンに染めたベリーショートの黒髪に、蝋燭の灯がちらちらと跳ねる。 白衣を羽織った色白の肌は遊郭の中にあってもよく目立つ。 「多くの者が発狂していく中で、必ず最初皆、虫の影が見えると訴え、酷く痒がったそうなんです。かいちゃいけないと涙を流し、身悶えながら床に伏し」 ところが、そのうち目のかゆみが引く。身体も軽くなるもんだから、良くなったのかと身を起こすと。 「ぜーんぶ逆さに見えるんですって」 くるんと掌をひっくり返してみせた。まっすぐに『涙宮』を見つめる瞳は光を吸い込み跳ね返さず、ただただ真っ黒に見える。 「天井は床の方に、右手に持つものは左手にって具合に。そのうち、周りの物にぶっつかったり転んだり、目がおかしくなったと毟り出す人も出た」 軽妙な語り口とは逆に、洋の顔は笑っていない。 「で、高名な探偵や学者が色々と調べてみたらば、どうも目に見えないほど小さなモノが、居る。豆腐屋が朝一番に、染め物屋がここぞの仕上げに、使っていた井戸のなかにね」 これが、つま先や口から身体の中に入り込むと、目に移動して、暫くすると目の奥からここに移るんですって。 洋は自分の頭をとん、と指で突いてみせた。 「それが頭の中で悪さをしていたと」 無事だった一家は、井戸水じゃなく、雨水を煮て漉した水を使っていた。 「後に井戸を封じ、余所に移っていったという話です」 なぜ原因が解ったか? 「学者さんが、試したみたいですよ、ヒトを使って」 うっすらと笑みを広げるのがうそ寒い。 「手に井戸水を漬けたら……患者の涙を人に移したら……どうなるか。目がかゆいと訴え始めたら、目を………っとここから先は止めときます」 準備された盃をそっと遠ざけ、お茶を一杯所望、と声をかけたのに、『涙宮』が頷いて笑う。 湯気をたてる温かな茶が運ばれて、洋はそれをゆっくり啜った。挑戦するように、『涙宮』に目を据える。 「こちらは井戸をお使いで?」 「今度は水の中の得体の知れない『いきもの』の話。壺中天の中で蠢くウィルスのようなものですのん?」 優雅な仕草で涙の化粧を施した方の瞳を、『涙宮』はそっと指先で撫でてみせる。 「今供した茶の中に、その『いきもの』がいるかも知れない。『銀夢橋』は生憎井戸を使っていないが、今の話を楽しむためにこの先井戸を使ってみるのも一興ですのん」 けれど、ねえ、学徒さん。 「宮達がするのは、世界が逆さに見えようと、明日滅んでしまおうと」 するりとビスチェの胸元を撫でる。白くふっくらとした膨らみは、ビスチェに押さえ込まれて苦しげだ。 「男に抱かれることですのん」 甘い声が嘲笑った。 けどまあ、かゆみがおさまらないのは困るかもしれませんのん。 「『弓張月』なら歓迎だろう」 何かを思い出させるような視線を、ちらちらと周囲の下半身に遊ばせる。くくく、くく、と娼妓連中から笑みがこぼれた。 「かゆみ封じの『いきもの』もどこかで見つけてきてほしいもの……見つけてこれたら、宮が高値で買い取りましょう」 ふ、と蝋燭が吹き消される。 「では、次はおれか」 赤褐色の散切り髪をくきりと傾げてみせて、いささか狭苦しく座を占めていた痩躯を緩めたのは玖郎、鉤爪のある逞しい鳥足を組み直す。二重鉢金の奥から金色の目を瞬いて、 「おれとひとの感覚が重ならぬは承知している。ゆえに、ひとの感ずる恐怖をはかるはかなわぬが、異世界の化物の話を聞く場に混ざるには、おれもかたらねばなるまいな」 「においを感じ出向いた先は、人里の中で多少面倒だった」 低い声が話し始める。 「庭木へ降り立ち、満開の花に身を隠すごとく家内の気配をうかがえば、ふらりと女が顔を出した。女は俺の姿をみとめ一度目を見開いたあと、満面の笑みをうかべた」 ああ、匂いに惹かれてやってきたのかい? 綺麗なもんだろう、辺りも一面花盛りだ。 しかしあんたは、私と同じものを見て同じ様に見えるのかな? なあ、人には見えないものが見えるんじゃないのかい? 「女は尋ね続ける」 例えば、花の一つ一つが人の首に見える事は? 花を相手に悲鳴を上げちまう、そんなおかしな光景さ。 けど、生首を見て魂消るのは仕方ないだろう? 花が首に見えちまうのはおかしくても、その反応自体はまともだろう? 「女は機嫌が良かった」 だから本当におかしい奴ってのは、花が首に見えているにも拘らず、花でも愛でるかの様に、それを眺める奴だろう。 しかもそれを端から見る分には、そいつがおかしい事に気付けない。 それなら本当におかしい奴など、判別できやしないじゃないか。 怖ろしいねえ、怖ろしいだろう? ああ、鳥には少し難しい話かねえ。 「そう言い女は、大皿に活けた生首を、愛でるように眺めた」 ごくり、と周囲が唾を呑む。その反応に、やはり訝しげに玖郎は首を傾げる。淡々と、物語の感想を告げるようにことばを続ける。 「ひとから鬼へ化す境目というのか、なりたてとは、おそろしいものだな」 だが、恐怖について語るにも、鳥の視点はやはり違った。 「天敵の存在もわからぬとは。無防備すぎて、罠かなにかと訝ったほどだ」 天敵とは何か。 さきほどの玖郎と同じように、周囲が訝しそうに首を傾げる。 それを同意、共感ととったのか、玖郎はゆっくりと頷いた。 鬼は概ね土行にあたる、そう知っているものがそこにどれほどいたのだろうか。 それでも、次の一言に、すとん、と皆の腑に落ちる。 「無事に食えたが」 ほっとしたような、安堵の声音の無邪気さに、さすがに『涙宮』がわずかに身を引いた。 その姿を隠そうとしたのか、笹宮ではなく、慌ててすぐ側の娼妓が蝋燭を吹き消す。 「化物が化物を語るというわけですのん」 灯の減った室内で、『涙宮』は用心深く玖郎を見やった。 「さすがに宮も人喰いが来るとは思いませんのん」 人喰いではない、木行の天狗の寿命は土行の物怪を食らう毎に延びる、ただそういう食性の話だ、と玖郎がなおも訝る様子で首を傾げる。鉢金がきらりきらりと蝋燭の灯をを弾く。 「おはなしはおはなしでもー、怪談話なのですー」 冷えきった気配を打ち砕くような明るさで、ノラ・グースが胸を張った。 「ふふん、ノラも物の怪、こわーいおはなしだってへっちゃらなのです。ふひひ、おそれおののくがいいのですー!」 貰ったカンペを高々と差し上げる。 「もう一杯」 『涙宮』が面白そうに盃を上げる。 「インヤンガイにも、『悪魔』さんがいらっしゃると聞いたのです」 ノラのお仲間にも、「悪魔」さんがいらっしゃるのですがー。ノラのおはなしは、そーんな「悪魔」さんに纏わるおはなしなのですー。 「悪魔さんは、いっつもけーやくしょを抱えていろんなとこに飛び回ってるのです。そのけーやくしょを受け取って、お名前を書くと、お願い事を叶えてもらえるのです!」 ある日、そーんなけいやくしょをいーっぱい貰って、いーっぱいお願い事を叶えて貰おうとした人がいたのです。 悪魔さんは「程々になー」と言ったのですが、その人は聞かずにいっぱいお名前書いたそうです。 「あうあう、欲張りさんなのです」 ノラはいささか気の毒そうに瞳を瞬いた。柔らかな毛で包まれた尻尾がひょいひょいと背中で動く。 「そんな欲張りさんにも、やっぱり力の『代価』を求めるのが悪魔さんのお仕事なのです」 そんな欲張りさんですから、そのうち「代価」が払えなくなっちゃって。 で、最後は……最後は欲張りさんその人が「代価」になっちゃったのです。 「くくく」 ノラは肩を竦めて斜めに『涙宮』を見やった。とんでもなく恐ろしいことを語るように、小さな牙を剥き出してみせる。 「欲張りさんは欲張るあまり、『代価』として魔界に連れてかれちゃったそうですが。欲張りさんは今や、たくさん貰った『力』で悪魔さんのしもべになっちゃったそうです」 ……ふひひ。 欲張りさん欲張りさん、インヤンガイにも来るのでしょうか? 沈黙。 『涙宮』が微かに俯く、ノラはしてやったりと顔を突き出し、恐怖に怯えた顔を見られないように蝋燭を吹き消すのを待ったが。 「欲張りさん、か」 くすくすくす、と『涙宮』は笑い出した。 「欲張りさん欲張りさん、このインヤンガイにも一杯居ますのん!」 あーっははははっ。 朗らかで明るい笑い声、沈み込み落ち込み切った空気が一掃される。 「しかも化猫さん、その欲張りさんは魔界においては力に恵まれ、ついに他の者を狩るまでに出世した。そのどこが怖い話ですんのん」 「ぴ」 ノラが尻尾を二本ぴんとたて、泣きそうな顔になる前で、『涙宮』は振り向いた。 「笹、おいで」 苦しそうな顔で笹宮が灯に近づく。 「ゆっくりと蝋燭を吹き消すのん。お前の顔がお客様にようく見えるように、しばらく灯に照らされてから」 「……」 笹宮が一瞬顔を歪め、やがて諦めたように蝋燭の灯に顔を近づける。それに向かって『涙宮』は突然灯の方から強く息を吹きかけた。 「あ…っ!」 ちりりっ、と笹の髪が燃え焦げる臭いが広がる。とっさに顔を背け、慌てて掌で焦げた髪を叩く笹宮に、『涙宮』が冷ややかに命じる。 「笹、灯を吹き消しなさい」 振り返った『涙宮』の顔が削げたように強張っている。震えながら、笹宮がもう一度蝋燭に口を尖らせながら近づく。 「『弓張月』はこの程度の話しか準備できないのか?」 嘲笑う横顔がふ、と吹き消された灯に消える。 「物語るのは不得手ですが、僕で役に立てるなら」 ぼそりと控えめな声で、オゾ・ウトウが口を開く。 「怪談はともかく、珍しい化物話と言われれば心当たりはあります。化物…と言っても、普通の生き物の話ですが」 浅黒く武骨な顔立ちのオゾが黒い目で『涙宮』を見た。 「僕の故郷では集落と外の危険な世界との境を守る仕事がいくつかあります。そうした仕事に就くような人は、それだけの胆力のある人だけなのですが…」 一旦ためらい、静かに話を再開する。 「そうした中に、次第に慎重に…いや、慎重を通り越して臆病になっていく人が出ることがあります。まれに度を超して…安全な場所を離れたがらず、仕事を辞めざるを得なくなり、健康に細心の注意を払い始め、果ては疑い深くなり、付き合いも減っていく者が……」 昔のことを思い出すように、けれどその思い出すことで、心に傷みを負うような表情で。 「そうして閉じこもっていたのが突然、それも悪天候の時にふっと集落を飛び出してしまうんです」 そうなると、急いでその人の行方を捜さなければならぬ。 半日以内に見つけられないならば、集落に逃げ戻る。防壁を強化し、嵐が過ぎるまで集落の全員が家に閉じこもる。 オゾは『涙宮』の顔から目を逸らさない。落窪んだように見える目が、黒々と蝋燭の灯で作られた影の中に沈んで、穴のように見える。 「なぜなら」 開いた口から、深い響きの声が訥々と話を紡いだ。 見つけたら、体は漆喰の彫像のようになっているだろう。 体の穴から、芥子粒大の黒豆のような物がボロボロと飛び出す前に、燃やさねばならぬ。 「もがこうとも」 あらがう犠牲者に意識があるのか、寄生した相手が動かしているのかは、誰も知らぬ。 「逃がさぬように」 朴訥で誠実そうな唇から漏れる容赦のない始末。 「そうしなければ」 取り憑いた小さな化物に乗っ取られる前、『感情を操られている』段階で見つけ出せれば、犠牲者を助けられるとも聞くが、手遅れであった場合は、治療によって感染を広げてしまう危険があると聞く。 「……」 ぷつりと切れたことばの後の沈黙は雄弁、まるでオゾがその化物に乗っ取られており、その感染を広げるために、操られてわざわざこの『銀夢橋』に入り込んだかのようで、浅黒い肌も眺めているうちに、真っ白く変色してぼろぼろ崩れていくように感じる。 部屋の外をざああっと細かな砂粒が洗っていくような音がした。芥子粒大の黒豆のようなものが、飛び跳ね回りながら降り掛かってきたならば、およそそんな音がしただろうという気配、娼妓達が不安げに身を寄せる。 音は部屋を包むように広がって、けれどもすぐに消えていった。 静まり返った部屋の中、ふ、っと蝋燭が吹き消された。 「残虐な非道を正当化する、その理屈は楽しいものですのん」 ややあって、『涙宮』がうっすらと笑み綻んだ。 「その者が、内側から喰い尽くされる前に、誰かが関わればよいものを、そうできなくなるのが人の性との話にも聞こえますのん」 異界の『いきもの』は、意味深く、その有り様も楽しきもの。 「芥子粒のような黒豆ならば、どこにもすぐ潜めますのん」 周囲を見回す、もう一度、あの不可思議な音が聴こえないかと待つように。 やがて、ゆっくりと洋の方を振り向く。 「目に入らぬ小さき『いきもの』、人の心もそうですのん」 ミルカを見やり、目を細めて嗤う。 「宮は『銀夢橋』にて数多くの薄汚れた『いきもの』を見たが、どれも愛しきものですのん」 もちろん、一番愛しきは宮ですのん。 「ではあっしからも一つ」 流渡は小さな黒い数珠玉のような瞳を光らせた。 「あっしの生まれた所には村の外れに川がありやしてねェ」 被った笠を少し押し上げる。まるで空中に異界を探すように。 「昼間はただの川でやんスが夜になるとねェ、時々ぼんやり灯が見えて音が聞こえるんでやんス。ばっちゃばっちゃと川を渡るようなねェ」 けど、その音が聞こえても川に行ってはいけないんでやんスよ。 それは妖怪が暴れる死者の魂を三途の河の向こうに運ブ音だそうでやスから。 皆それとなく耳をすませる、同じ音が聴こえないかと。 「もし、川でその妖怪に見つかったら、体が動かなくなっテ魂引っ張り出されて一緒に連れて行かれるそうでやんス。行きたいなラ、お前も一緒に連れて行ってやろウってなもんデ」 飄々とした仕草で手を上げてみせる。 「で。昔、その話を利用しようとした女がいやしてねェ」 夜中に旦那と2人蛍狩りと称して出かけやしテ。 件の川の畔で旦那の頭を殴って、溺れ死にさせやしてねェ。 「何せそんな話があるもんでヤすから、音しても誰も来ないんデ」 怪しい妖怪話のある川だ。夜更けともなり、しかももがくような呻くような音がしても、いや、そんなことはあるまいと思ってはいても、闇夜に沈む川まで誰が見に行きたいものか。足を滑らせ、川に落ちても、きっと誰も助けに来るまい、同じ亡者に引き込まれまいとして。 「事が終わって帰ろうとしたら、その妖怪が後ろにいたそうデ」 してやったりと自慢げな女の顔は凍りついたことだろう、そんなものは居るはずもないと高をくくっての仕業だったのだから。 「その後でやんスか、さァ?」 ただ、川の中で二つの土左衛門が見つかったそうで。 その魂は誰がどこへ引いていったものやら、村人達の会話が想像がつく。たとえ、そうではないにしても、そうしておいた方が、いろんなことに都合がいい。 「互いに沈めあったのかも知れませんのん。死んだと思った亭主が、息も絶え絶えに女房に襲い掛かったのかも知れませんのん」 『涙宮』のことばに、流渡はひょいと笠を下げた。 「さほど怖くはない? それは失礼いたしヤした。しかし」 おやァ? 何か音が聞こえやセんか? ばっちゃばっちゃってねェ。 灯が見えやセんか? ぼんやりした灯がねェ。 耳をそばだて、目を凝らす娼妓達がそっと周囲を見回す。 「……体が動かなくなってヤきてやセんか?」 言うの忘れてやしたが。 「その妖怪、イタチそっくりだそうでやんスよ?」 笠を再び押し上げる、その影で黒い目がきらきら輝いている。 「ひどく気まぐれで、気に食わない人は連れて行くそうでやんスよ?」 「あ、消えた…」「体が、動かないっ」「きゃっ」 ざくっ、と音が響いて蝋燭の一本が掻き消えながら倒れて落ちた。そちらに目を奪われた隙に流渡は素早く外へ出る。 「…話し手は臆病ですのん」 『涙宮』は笹宮に命じて倒れた蝋燭を片付けさせ、半分に減った部屋の灯で残る話し手を見やる。 「あちらの世界への橋渡し、化物夜伽はその昔、枕経代わりに使われたと聞きますのん」 死の世界との境の川なら、インヤンガイには無論のこと、この月陰花園にも無数に流れておりますのん。 「それと気づかず渡る莫迦、それと知って渡る莫迦、話の通り、橋渡しがいる川ならば、ここらにある川よりよほど行き届いた道ですのん」 男と女の川は渡りたくとも渡れない川ばかり。 「となれば、宮もそこを渡す化物ですのん」 くすくす笑って、次は、と促す声に、 「これは私が本当に体験した出来事です…」 蝋燭に斜め上から顔を近づけたイテュセイが話し出した。 大きな一つ目がぐるんと動く。蝋燭に下から照らされた顔に、娼妓達が小さく悲鳴を上げる。 「昔々、あるところに平和な村がありました…昔々でもちゃんと体験した話だって場!」 ふざけた口調で身振り手振り豊かに話し出すイテュセイ、口許に手を当て、くっくっく、と笑いながらことばを続ける。 「村にふらりと現れた神父が宿で死にました。でも、原因はよくわからない」 ただ、死んだ神父の部屋に不思議な置物が残されていた。素材がわからず、造形もこのあたりのものではなく、どこからか神父が持ち込んだものだろうということになって、奇怪な風貌にそれとなく村はずれに放置された。 「それからというもの、村で怪異が起こり始めちゃいました。どうしてだろうねえ、これまた、わからない」 悪夢を見て発狂するもの、風邪をこじらせて身体が歪んでいくもの、うろうろと彷徨いながら奇声を上げて歩くもの。 同時に、元からそこにいたかのように、村人とにこやかにふれあう見知らぬ人々が現れ出した。家へ訪れ、話し込み、仕事を手伝い、住み込み、やがては、その家がまるで我が家のように振舞いだし、ことば巧みに取り入って、村人を外の仕事に送り出す。 「元の村人はというと、これが、じわじわと何の不思議も感じないまま、自分たちが住んでいた家を追い出されちゃった。どこに住んでいるかと言うと、村の共同ゴミ捨て場。そこで寝起きして仕事へ行くようになっちゃった。わからないことはまだあって」 仕事もそのものも、鼠を捕まえては村の井戸へ投げ込むという、仕事というより災厄を呼び押せるような奇行、なのに、皆それを何の疑問もなく行っていく。 「村にはどこからともなく現れた人々が人そっくりな暮らしをまね、人はゴミ捨て場で暮らすうちに、奇妙に体が変形し、人と獣の間のような姿になり、ついには森へ追いやられていく……なのに、だあれもそれをおかしく思わない、これ一つの不思議!」 村人達は、それでも自分達はいつものように暮らし、いつものように村に居ると思い込んで暮らしていく。森の中で獣そのものとなって、おうおう喚き、駆け回りながら。 「そうして村は乗っ取られ、入れ替えられていったのだった………」 イテュセイはおどろおどろしい声で呟き、見開いていた一つ目を半眼にした。これからが山場ですぞの気配を満たし、大きく息を吸う。 「さて、どれほど歳月が流れたのか」 ある旅の修道士が、人が何ものかと入れ替わってしまった村へやってきた。 人々は貧しいけれども明るく暮らし、仲良く日々を送っている。 よい村に出くわした、事情が許せばここにしばらく居を据えようか。 そう考えていた修道士は、ある日、道端に転がった人とも獣ともつかぬ骨を見た。これはどんな獣かと村人に問うと、村人は『森の獣の肉をとった』と朗らかに応じる。 見るからに大きなその骨は、四つ足とは言い難く、かといって他の何の生物かと言われても困る。骨だけからあえて言えば、『ヒト』だろう。だがしかし、朗らかで明るい村人達が互いに殺意を向け合うなどとは信じ難い。或いはひょっとして、この村人達は山賊の集落で、そこに誤って入り込んでしまったものが『森の獣』として殺されることになったのではないか。 不安と不信に駆られて、改めて修道士が骨を確認しようとすると、村人の一人がどう見てもわざとらしい振舞いで、骨の近くでよろめいて倒れ、あっという間に骨を砕いてしまった。やたらと謝るものの、表情は明るく、後悔一つ浮かんでいない。それどころか、まるで骨などなかったように話をする。 今まで見たことがないその骨と、どうにも奇妙な村の気配に、修道士は好奇心に駆られ、意を決して森の中へ入り込み、変わり果てた村人達の姿を見た。 「修道士ったら、驚いたの何のって!」 イテュセイは明るく間の手をいれた。 しかも、その村人達の集落の中央に、奇怪で奇妙な、何の素材かわからぬ置物が一つ安置されている。その周囲をゆらゆらと、時にずるずると、村人達は酔ったように歩き回り、その置物をこの上なく大事なものを見る瞳ですり寄っていく。 置物の不気味な力を恐れた彼は、その村を逃げ去り、二度と訪れる事はなかったという。 「それからなんやかんやしてまあ、その置物は消滅して村の怪異も消滅して、めでたしめでたしなんだけど」 イテュセイはさらりと言い放って、『涙宮』の顔を眺める。 「その村人達はどうしたのですのん」 そして、置物はどうして消滅したのか。 『涙宮』は訝しげに首を傾げる。 「ん? 元の村人? ああ、戻れるわけないじゃん!」 イテュセイはからからと笑った。 あそこまで変形してしまって、人から離れてしまえばとてもとてももう無理でしょ。 「体験談だとしたら、壱眼はどこにおりましたのん」 村人ですか、修道士ですか。 「ん? 体験談だよ」 イテュセイはにっこりと大きな瞳を細めて笑い、さらりとぶちまけた。 「あたしが置物」 ひ、と微かに息を引く音、急いで部屋から出た方がと腰を浮かす娼妓を、『涙宮』は一瞥した。 「みっともないまねをするなら『銀夢橋』に沈めますのん」「っ」 びくりと震えた娼妓達ががたり、がくりと腰を落とす。怯えた瞳は、イテュセイだけではなく、『涙宮』にも向けられる。 「今宵は化物夜伽の名にふさわしく」 『涙宮』はイテュセイを眺め、いなくなった流渡を探し、玖郎を見やる。 「なかなか楽しい話も聞けますのん。壱眼の力が及ぶまでに、残りの話も聞きたいものですのん」 ふ、っと蝋燭が吹き消された。 二十もの蝋燭がついていた部屋の明るさが、半数ほどが消えたとは言え、ずいぶん薄暗くなったものだと気づいたものは居たかどうか。 だが、それに気づかせぬようにだったか、たまたまの偶然か。 「よくある話でごめんよ、休憩の心算で聞いとくれ」 口を開いたのはダンジャ・グイニだった。 「旅の途中で傷を負い、癒すため或る町に寄ったときのことだ」 嘗て栄えた鉱山の町だが今は寂れている。 傍には滝と川。 最初の夜。 外で猫が盛んに鳴いていた。 にゃあ。おにゃあ。 女の影が窓を叩く。 「あたしは応えないで眠ったよ」 翌朝。 白く濡れた道を宿の主が洗っていた。 その夜も猫の声がして、女が窓を叩く。 おんにゃあ。 希う様な切ない声だが、してやれる事は何も無い。 「死体が一つ見つかった」 手足と首を真後ろに捻られ、胴を横から齧られた男の死体。 無数の小さな齧り痕。 住人は騒ぐことなく、死体を無言で片づける。 傷が癒え、或る夜出立したグンジャだったが。 「猫の声にふと振り返った」 道が白く濡れていた。 塔ほども大きい芋虫の様な者が、家々の窓を一つ一つ覗き、叩く。 ふやけて白くに色が抜けた様な、体の至る所で、ふやけた女達が蠢いている。 無数の奇怪なほど細く小さな手が彷徨い、腹で赤子達が泣く。 頭の一つが溶けた飴の様に垂れ下がる。 ぶよぶよ揺れて此方を向いた。 目は中に血が滲み、濁っている おんにゃあ。おんぎゃああ。 「嘗てこの街に、働く男の為に女も集ったんだ」 様々な事情で女や赤子が滝に捨てられ、川辺に遺体が流れ着いた。 道を濡らすのは体液だ。 住人はじっと堪える。 「応じなければ害は無いんだ」 応じれば死ぬ。 夜来る者は倒してもまた現れる。 住人も夜来る者も哀れだが、流れ者が町の業に軽率に触れるべきではなく。 菓子を投げて静かに去った。 「……」 『涙宮』は声もなく、目を見開いて無言でダンジャの顔を見ている。 確かにここは花街、娼館『銀夢橋』。 そのように造られる話も、そのように造られる怨嗟もよくよく知られたものだが、ダンジャの語り口は突き放して静かで、その化物が今隣に居たとしても、表情一つ変えることなく立ち去るかのような気配がある、その静けさに別種の恐怖が湧き上がる。 今本当に、ここには何も居ないのか。 目の前に居る化物、妖怪、あやしの類ながら、見て聞いて触れて感じ、恐怖という箱にラベルを貼って閉じ込め、棚に片付けられる。 だがしかし、本当はそこには真の恐怖が居座っているのに、我が身では恐怖と感じることはできず、誰も恐怖と騒ぐことがないために、恐怖と察することさえできずに、いつの間にやら恐怖の牙で喰い裂かれて滴り落ちる肉片と化しているのではないか。 それを目の前に見ていたとしても、ダンジャの瞳は依然静かで、今彼女がするように、ふっと蝋燭の灯を吹き消して、ただ立ち去っていくだけなのではないか。 こちらは恐怖のただ中で、しかも、それさえわからず恐怖に貪られながら、えへらえへらと笑っていることに、最後の最後に気づいてしまうのではないか。 「次を」 掠れた声を『涙宮』が漏らした。 「次の話を、さあ早く」 「マザーグースをご存じかしら?」 メアリベルが立ち上がった。 「マザーグースは子供達の間で広まる童謡」 マザーグースのおばあさんはご亭主の背中に跨って空を飛ぶ。 そうするとジャックのママがやってきて、鵞鳥おばさんの背中に跨って空を飛ぶの。 「おかしいわよね、魔女は箒で空を飛ぶのに!」 メアリベルの暗い灰色の瞳は興奮にきらきら輝く。踊るように両手を差し上げ、謳うようにことばを続ける。 マザーグースは鵞鳥の事。 羽を抜かれた鵞鳥はあまりの痛さに月までジャンプ。 のっかればお空もひとっ飛び。 こうして手を叩けばほら。 ぽん!と音たてやってくる。 「けあああっっっぎゃああっっ」 嗄れた声が響き渡った。メアリベルの赤毛が楽しげに揺れる。 ぎゃあぎゃあうるさく啼き騒いでは自慢の羽を撒き散らす。 「あはは 誰かさんそっくり!」 トゥイートルダムとトゥイートルディ―、ミス涙宮と双子みたい! ほら、とってもご機嫌でミスをつついて追っかけまわす。 髪の毛を毟られて血が出ても泣いて謝っても許さない。 どうやらミスの事がとっても気に入ったようね。 「怒らせちゃったらごめんなさい、メアリってば正直者なの」 メアリベルは、紺色のワンピースの裾を両手の指先で摘み、しとやかにお辞儀した。それでも、楽しげなからかう口調はそのままに、メアリは話し続ける。 「ミスは高飛車孔雀を気取ってるけど中身はみすぼらしい鵞鳥さん、やがてはぶくぶく肥え太って屠られる哀しい運命、意地悪は嫉妬の裏返しの虚勢でしかないって知ってるよ?」 くつくつ笑うメアリベルは取り出したフォークとナイフを煌めかせる。 フォアグラはフォークとナイフで食べるのが淑女のマナー。 ミス涙宮もメアリが美味しく食べてあげる。 ぴかぴか光るフォークとナイフで切り分けてね。 いやならミス涙宮に跨って空を飛ぶ! さあさあ早く。もっとメアリを楽しませて! 「お尻を叩いて叱ったらもっと高く跳び上がるかしら」 部屋中に響く悲鳴と笑い声、はしゃぎ回る影達が蝋燭の炎に踊る。 やがて、メアリベルは蝋燭の灯に顔を突き出した。可憐な唇を尖らせて、ふ、っと息を吹きつける。 怖がらなくても大丈夫。 蝋燭消したら真っ暗闇。 「お化粧が涙で溶けちゃってもだあれも気にしないわきっと」 笑い声を堪え切れないように響く声に、深い溜め息が重なった。 「今のは夢? それとも幻?」 くったりと肘掛けに体を預けていた『涙宮』が瞬きしながら体を起こした。その頬に描かれていた涙の化粧が、薄汚れて霞み、張りついていた宝石が消え失せている。 「宮様、これを」 差し出された化粧道具を、『涙宮』は払いのけた。 「笹、余計な気遣いは無用ですのん」 笹宮の背けた右頬の火傷を眺め、我を取り戻したのか、苛立たしげに唇を噛む。 「『弓張月』め、姑息な手を。どこぞの幻影封じの札でも破っていたのか」 指先で崩れた涙の化粧を擦ると、激しくぶたれたような痕になった。 「いずれにしても、あと二つ」 次は一体どんな話ですのん。 「元の世界にいた頃、友人が看護婦をしている妻から聞いたという話だ」 シュマイト・ハーケズヤが応じた。 「友人の妻の勤める病院にAという入院患者がいた」 シュマイトは、ふわふわした琥珀色の髪を軽く振り、藍色の瞳で蝋燭の灯を見つめる、まるでそこに謎が隠されているように。 「ある夜、Aはトイレに行きたくなり、病室を抜け出した」 薄暗い廊下をそろそろと歩いていると、曲がり角の向こうで何かが一瞬、光った。 気にせずトイレに行こうとしたが再び何かが光る。 こんな夜、消灯時間も過ぎたはずなのに、あれは一体なんだろう、と、目を細めたとたん、荒々しい足音と共に、目を光らせた怪物のような女がAに向かって走ってきた。 「Aは慌てて逃げ出したが女はいつまでも追ってくる」 ついにAはトイレへと逃げ込んだ。 跳ね上がる鼓動、喘ぐ呼吸。額にも脇にも背中にも冷たい汗がびっしょりだ。いつあの女に見つかるか、それまでの無事に病室に戻れるのか、気が気じゃない。 トイレの個室に入って息を潜めていると、足音が遠ざかって行ったように聞こえた。 ああ、よかった、逃げ切れた。 だが、安心したAがふと上を見上げると、天井から先ほどの女がぶら下がっていた。 「翌朝、Aはトイレで血まみれの死体となって発見されたそうだ」 シュマイトは悲惨な結末を淡々と話し終えた。 「さて、諸君」 名探偵が謎解きをする顔で見回すように、シュマイトは周囲を見回した。 「今の話、疑問に思った点はないかね?」 「はいはーい、あります! 女はどうやって天井からぶら下がっていたのか! 穴を開けたの?」 イテュセイが元気一杯手を上げたが、シュマイトは黙殺、けれどふと、奇妙な表情を浮かべた。 何かを確認するようにもう一度、集った者の姿を一人一人見つめていく。 やがて、問いかけるような瞳のまま、『涙宮』を振り向いたが、相手が何も応えないのに一息ついて、ことばを継いだ。 「そう、Aが死んでいたのなら、この夜に起こった事件は誰がどうやって目撃していたのか。友人の妻もなぜそれを知っていたのか」 論理的に考えて、それが可能なのは当事者であるもう一人しかいない。 つまり、友人の妻こそが怪物だったのだ。 「その友人と妻が元の世界で今どう過ごしているか、わたしは知らない。友人の無事を願うばかりだ」 ぱちぱちぱち。 いささか耳障りな拍手が響いた。 ふ、っと蝋燭が吹き消される。 拍手の主は『涙宮』だ。満面の笑みを浮かべた顔は、始まった頃より老けたように見えた。 「怪物の正体がわかる話は安心ですのん」 その怪物さえ避ければいい。 「ところで、そなたは、その話を誰から聞かれたのか」 友人か、それとも友人の妻、その人からか。 「それが、このお話のもう一つ怖いところですのん」 そのお話を聞いた小娘は、なぜ無事でここにいるのか。 怪物が、なぜ自らの正体を、身近に居る誰かに語りたくなってしまったのか。 「全ては語られたものですのん」 そなたが怪物でないとの証はどこにもない。 「友人はご無事ですのん」 だって、その小娘はこの世界に居るのだから。 「さて、次は」 「ゼロなのですー」 ゼロが顔を上げた。 「ゼロは『全てに安寧を』願うのです。『涙宮』さんの望む恐怖に満ちた世にも恐ろしい怪異について、際限なくお話したいのです」 その前に、とゼロは口調を変えた。 「曰く、百物語や化物夜伽のように名は様々なれど人を集め怪を語るに、語り手が予定の人数より少なくとも案ずることは無いのだとか」 「異界との境が薄くなるという時間帯、『逢う魔が時』、その時に黄昏の向こう側から遣って来ると言う『誰そ彼』らがいつの間にやら語りの場におり、足りぬ分の怪を語ってくれるのだとか」 「その貌はけして明らかになることがなく、会の終わるころにはいつの間にやらいなくなっているのだとか」 「その話は不思議なことに内容が記憶に残ることが無いのだが、向こう側の者の語り故、誰も聞いたことのないような奇妙な物なのだとか」 「そして、聞いたという記憶だけは朧気に残るのだとか」 「吹き消された蝋燭や食べられた茶菓が確かに残されているのだとか」 溢れるように吹き出るように、まるでゼロが語るというよりは、ゼロから何かが零れ落ち広がり部屋を満たしていくように、幼い声が呪文じみて続いていく。 「趣向を凝らした語りをしたものには『誰そ彼』らは来訪の証も兼ね贈り物を残していくとも謂われており、それは術師であればわかるだろう強い呪力だけはある使い道の無い意味不明な物体なのだとか」 「この種の怪語りの会に遣って来た『誰そ彼』らを侮辱するものは報復を受けるとも謂われているのだとか」 「ある者は『誰そ彼』がいつの間にかいなくなる際に身体の一部を持って行かれ、ある者は運気を持って行かれ一月ほどで文無しとなり、甚だしきは異界に連れ去られ二度と見られることは無いのだとか」 そして、唐突にゼロの語りは止まる。 「ゼロは確認したいのです」 「何を」 「今灯っている蝋燭は、部屋中見回してもこの蝋燭一本なのです」 「…えっ」 『涙宮』がぎょっとしたように瞬きし、周囲を見回す。 確かに部屋の中に灯っているのは、ゼロの前にある蝋燭一本、始まる前に二十本確かに灯っていたはずなのに、残り八本はどこでどうして消えてしまったのか。 「どういうことですのん」 『涙宮』が眉を逆立てた。 「笹、なぜ何本も蝋燭を吹き消した。そんなことを命じていませんのん」 「確かに一つの話に一本、蝋燭を吹き消しました、『涙宮』」 たった一本残った蝋燭の光の輪は小さく、集った顔のほとんどは闇の和室に沈んでる。その闇から漂うように笹宮が応えて、『涙宮』がなお苛立つ。 「そんなことはありませんのん、一つの話に一本の蝋燭、それを守れば、きちんと八本残るはず」 「ゼロはもう一つ確認したいのです」 頓着しない声が尋ねる。 「遠くから微かに聞こえるざわめきや気配、これは朝のもののように思えるのですが、もう朝が来たのです?」 「……え…っ」 再び『涙宮』が体を強張らせ、何を感じたのだろう、急ぎ外を確認しなさい、と娼妓の一人に言いつける。転がるように走り出ていった娼妓がほどなく戻って、こう告げた。 「確かに、宮様、明け方の光が射しております。もう間もなく明烏が鳴きましょう」 「そんな馬鹿なこと」 『涙宮』はうろたえたようにもう一度和室を見渡した。 地下室の間には朝日は射さない。けれども、ほとんどの蝋燭が消された間で、たった一本の蝋燭に照らされた銀色の少女に跳ね返る光が、朝日を思わせるほんのりとした明るさで、居並ぶ顔を照らすようだ。 数は十二、何度数えても、夜伽に集まった語り手は十二人。 残ったただ一つの蝋燭の側で、ゼロがにっこりとあどけなく笑った。 「では、ゼロがこの話を終えたとき、『化物夜伽』は見事終わりとなるのです?」 「いいえ、そんな、そんなことはあるはずがありませんのん!」 『涙宮』がパニエを乱して立ち上がる。 「蝋燭二十本、話し終えねば、朝が来るはずありませんのん!」 「ああ、そういうことなんだ?」 洋の声が響いた。 「始めから、終わらないと知ってたんですね?」 ミルカの声。 「十二人しーか、いないかーら」 ノラの声。 「途中までしか保たないと踏んだのか」 シュマイトの声。 「笹宮さんを同席させたのは」 オゾの声。 「足りぬ時間の責めを負わせ」 律志の声。 「弄ぶためだったのか」 玖郎の声。 「でも、そんなことを考えてるから」 イテュセイの声。 「こんなもんを呼び寄せたんでやんスよ」 流渡の声。 「ねえ、そうでしょ?」 メアリベルの声。 「外からの奴らは防いだが」 ダンジャの声。 「生み出したものの始末は約束していないのです」 ゼロがぽつりと言い放った。 笹宮が、ゼロの前の蝋燭に唇を近づける。 その顔を見た瞬間、『涙宮』が息を引いた。 「笹、お前……お前……待て、笹」 続くことばを察したようににんまりと微笑む顔を『涙宮』は凝視する。 「お前、お前、なぜ『右』の頬に火傷しているっ!」 『笹宮』は、口を尖らせ、息を吸う。 「お前は、一体…」 『涙宮』の声が震える。 ふう……っ。 蝋燭が吹き消される。 明烏の声が響いた。 別れを告げて、切なげに。 それが誰かの悲鳴とそっくりだったとは、後に語られた闇話になる。
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