オープニング

 司書室棟の一角、大猫灯緒(ヒオ)の部屋。
 部屋の主とその友人とが、向い合せに座して対峙していた。長身痩躯の青年――湯木の手にある獲物を、虎の眼差しで灯緒が狙っている。
 空々しい静寂の中、張り詰めた空気が二人を覆う。
 湯木は相手から視線を逸らさぬまま、真剣な表情で手を動かした。
 灯緒の黄金の瞳が揺らめいて、ふらふらと躍る稲穂を捉える。右へ、左へ、動きに合わせて無感動な視線が行き来する。

 ばしっ。

 目にもとまらぬ速さで飛び出した前肢が、穂先を床に抑えつけた。
 驚いた湯木が穂を引き抜こうとしてももう遅い。ずるずると床を滑った稲穂――猫じゃらしは奪われ、虎にしか見えない猫は満足そうに鼻を鳴らす。
 勝ち誇った顔で黄金の瞳を湯木へと向けるが、当の本人は悔しがる素振りひとつ見せなかった。
 背中に回した両腕を、大きく振って虎猫の前に差し出す。
 その手には、新たな猫じゃらしがゆらゆらと揺れている。
 しかも二刀流だ。
「……」
 呆れて視線を上げれば、心なしか優越感を滲ませた無表情な顔がある。
「……卑怯だ」
「卑怯もなんも、一本だけとは言っとらん」
 抗議のように溜息を洩らしても、堪える様子はない。

「灯緒さーん、何か依頼がある――って……」

 一触即発の空気を、突如割り込んできた声が切り裂いた。
 フェードアウトしていく言葉と共に扉から顔を見せたのは、五人のロストナンバー。手にしているのは依頼募集の張り紙だろうか、と灯緒は考えて、首を傾げた。
「……おれに?」
 ――なぜなら、ここ数週間、依頼を出した覚えはないからだ。
 どういうことだと隣の友人を見遣れば、彼は無表情のまま首を傾げ、何処から取り出したのかわからない、煮干しの袋を手にしていた。
 ざらららら、と間の抜けた音を立て、虎猫の大きな餌皿が見る見る内に煮干しで埋まっていく。そのまま湯木は、灯緒の足許へと押し出した。
 無言で皿を差し出す友人と、入口に溜まる旅人たちの姿を何度か交互に見遣った後、灯緒は観念したように視線を落とした。
「…………」
 餌皿から溢れるほどの煮干しを見下ろし、無意識に尻尾が緩く動く。
 大好物の煮干し一袋、おまけに猫じゃらし二本も差し出されたとあっては、最早拒否する事は出来なかった。

 ◆

「……【死華遊戯】というゲームの話を聞いた事は?」
 依頼を求めてやってきた五人のロストナンバーを前に、不承不承と言った様子で灯緒は切り出した。
「インヤンガイの一部地区で話題になっているネットコンテンツだ。いわゆる“デスゲーム”――参加者同士の殺し合いを楽しむゲームだね」
 部屋の隅のアスレチック――明らかに人間サイズのソレは、灯緒専用のキャットウォークらしい――に腰掛け、無心に煮干し(二袋目)を貪りながら此方を窺う職務放棄者を一瞥し、虎猫は改めて深い深いため息を吐いた。
「これは、普段は彼の担当なんだけれど」
 これ見よがしにそう告げてみても、湯木はふてぶてしいまでの無表情を貫き通し、悪びれる様子は一切見せない。
 居合わせてしまった自分の不運を嘆くこととし、虎猫は説明を再開させた。
「彼の話によれば、死華遊戯は今までに二度、暴霊に支配された事があるらしいね。ゲームの支配人『シーワン』に憑依して、参加者の意識を壺中天内に閉じ込めている」
 要はそれを助け出してきてほしいわけだ、と憮然としているのか眠たいだけなのかわからない目で語って、灯緒は一度首を傾げた。
「『シーワン』はゲームが終わり、勝者が決まるまで出てこない。暴霊を祓って囚われた人たちを助け出そうにも、一度殺し合いを経てからでないと彼には接触できないようになっているんだ」
 だから、デスゲームへの参加は依頼に必要不可欠なプロセスなのだと言う。最も、勝者が現れた時点で暴霊はおのずから命を断つため、支配人に辿り着けさえすればいい――つまりは首尾よく殺し合いを済ませればいい話のようだった。
「二度も暴霊を退けているからね、今回は向こうさんも張り切っているらしいよ。――『ボーナスステージ』だなんて、表記があるくらいだから」
 平素の穏やかな金眼を冷ややかに細め、悪趣味な、と唾棄するように虎猫は呟きを落とした。穏和な世界司書ですらも嫌悪を覚えざるを得ないほどの、無邪気な悪意が、其処に凝縮されている。
「ステージの詳細は現地の探偵から話を聞けるだろう。とりあえずは行っておいで」

 ◆

 ロストナンバー達は現地で関係者から依頼を受けている探偵と、カフェのような雰囲気のする店で合流した。店の中には壺中天が幾つも並んでおり、これらを時間制料金で利用できるようだ。
「死華遊戯の掟を紙に書きだしてきた。まずはそれに目を通せ」
 探偵の差し出した掌ほどの大きさの紙には、些か人に読ませる気配りに欠けるような荒れた文字がのたくっていた。

――――――――――――――――――――
【壺中天・死華遊戯/列車篇規定】

一 五人の参加者は全員、珠の嵌めこまれた首輪を装着する。珠は参加者の首輪に付いている五個の他、遊戯舞台内に一個隠されており、総数は六個。

二 首輪に嵌めこまれた珠は装着者の死亡により固定具が外れ、取り外しが可能となる。

三 自分以外の参加者の珠四個と、隠された一個、計五個の珠を入手し、遊戯舞台内にある台座へそれら全てを嵌めこんだ者が勝利者となる。

四 首輪や珠を無理に外そうとした場合、首輪に取り付けられた爆弾の解除を行おうとした場合も上と同様。その時点で残っている者全員が死亡する。

五 全ての参加者は「一般の人間」として同一の条件の元で遊戯に参加する。武器は遊戯舞台内で確保し、物品の持ち込みは不可である。

六 参加者が全員死亡した場合、遊戯の支配人を勝利者とする。勝利を掴めぬ弱者は、死あるのみ。

【列車篇特別要項】

壱 十五分ごとに最後尾から一両ずつ、車両が切り離される。切り離された車両は一分後に爆発し、乗っていた者は死亡する。

弐 列車の外で死亡が確定した参加者が持つ珠は、二両目の転送装置へ送られる。

参 制限時間は三時間。制限時間までに勝利者が現れない場合、列車は終点に衝突し、その時点で残っているもの全員が死亡する。

――――――――――――――――――――

「覚えたか? つまりどう足掻こうが殺し合わねぇと話は進まねーってことだ。お前らは舞台内で一個の珠を探しながら殺し合い、集めた五個の珠を台座に嵌める」
 今回の舞台は走行する列車内。今までの舞台よりもずっと狭く、癖のあるステージだ。特別要項に記されたステージ限定のルールも、細かな時間制限が設けられ、参加者の焦燥を煽る内容となっている。
「舞台内は暴霊の影響で多くの罠が仕掛けられてるらしいから、気をつけろよ。珠探しや殺し合いに気ィとられて、罠かかって全滅じゃー格好がつかねぇぞ」

 ◆

 壺中天へと降り立った五人の参加者の脳内に、ステージ説明を兼ねた列車内の情景が流れ込んでくる。駆け抜ける映像は最後尾の車内に迷い込んだ一羽の鳥の視点のようで、二等キャビン四両、一等キャビン二両、食堂車、キッチン車、サロンカー二両、展望車、機関車両と目まぐるしく光景が映り変わっていった。
 やがて《鳥》はサロンカーの扉に引っ掛かっている鳥籠にその身を収め、瞼を閉じた。ステージの説明は終わり、暗闇が全てを覆う。

 鳥の代わりに瞳を開けば、目の前に広大なベッドが置かれていた。
 参加者はそれぞれ個室に一人ずつ配置されたらしく、豪奢な内装が彼らを出迎える。薄絹のような影を落とし、淡い色の光が天井で揺れる中、旅人たちは油断なく周囲を窺う。
 室内には、かつてここに泊っていたらしい乗客の持ち物が無造作に散乱していた。しかし車内に人の気配はない。“走行中に突如全ての乗客乗員が姿を消した、呪われた寝台列車”とでも設定が為されているのだろうか。
 客室の壁に掛けられた、巨大な絵画だけがいやに目を惹いた。
 漆黒にうねる闇を背景に、赤と黄で塗られた髑髏が浮かび上がる。不安を掻き立てるような、内側から疑心を湧き上がらせるような、見る者の心さえも塗り潰す絵だ。頭上に深く被る帽子はせめてもの可愛げと言ったところか。
 何の前触れもなく、髑髏の口許がぱくりと開いた。
 列車が轍を踏む音に紛れて、ノイズにまみれた声を響かせる。
『――ようこそ皆様。お待ちしておりました。まずは皆様を歓迎して、歌でも歌いましょうか』

―― カウントダウンが死を告げ来たる 弱き者、絶望に取り残されて尚顔を上げよ ――

 それはまるで哄笑の如く。
 不愉快極まりない、しかし美しい唄声だった。

―― 覚悟の贄の前にのみ 勝利の雫は降り注ぐ ――

 髑髏が口を閉ざすとともに、ぴたりと歌が、ノイズが途絶える。
 剥き出しの歯を笑みに歪めて、絵画は高らかに、厳かにこう告げるのだった。

『今宵が皆様にとって、快適な殺戮の旅となることをお祈りしております』

品目シナリオ 管理番号2022
クリエイター玉響(weph3172)
クリエイターコメント※このシナリオは、ナラゴニア襲来以前の出来事として扱います。

皆様、こんばんは。玉響です。
ターミナルが慌ただしい中、通常シナリオのお誘いに上がりました。

今回、大口虚WRからシナリオフォーマットをお借りして、壷中天で行われるデスゲームへと皆様を御案内いたします。
前半はとてもどうでもいい裏事情ですので、軽く読み流して頂いて構いません。

列車篇の特別ルール、車両の詳細についてはOPを御覧ください。
こちらではステージの補足説明をさせていただきます。

二等キャビン:
一車両五室が四車両連結しています。
各個室はベッドルームとシャワールームの二部屋になっております。
皆様のスタート地点はここの各個室です(開始時点で、他参加者が何処にいるかはわからないものとします)。

一等キャビン:
一車両二室が二車両連結しています。
こちらはバスルームとリビング、ベッドルームの三部屋になっております。

※ご参加頂くうえで、以下のことに特にご注意ください。

・『死華遊戯』はPCさんの能力設定に関わらず、全員【壱番世界の一般人レベル】の能力でご参加頂きます。特殊能力は一切使用できず、武器やセクタンの持ち込みも不可とします。

・ゲームの勝利者1名は前回同様サイコロを振って決定しますが、プレイングの内容によっては勝利者が変更になる可能性もあります。場合によっては、勝利者が出ないこともあります。

・トラベルギアも持ち込み不可ですので、武器は列車内で探していただくことになります。寝台列車にありそうなもの、を念頭に置いて、お選びください。


それでは、興じましょう。呪われた豪華列車で行われる、血塗られたデスゲームを。

参加者
ファルファレロ・ロッソ(cntx1799)コンダクター 男 27歳 マフィア
相沢 優(ctcn6216)コンダクター 男 17歳 大学生
クロウ・ハーベスト(cztz6189)ツーリスト 男 19歳 大学生(元)
ジュリアン・H・コラルヴェント(cutn5843)ツーリスト 男 26歳 専属エージェント
雪深 終(cdwh7983)ツーリスト 男 20歳 雪女半妖

ノベル

 絵画の中、けたたましい笑い声を残して髑髏は消えた。

 声さえも絵画の闇の奥に消え去るまで、相沢優はただじっとそれを睨みつけたまま立ち尽くしていた。背筋が粟立つほどの悪意だ。腹の中に隠しているどす黒い物を全て見透かして、暴き立てるような、執拗さと陰湿さを備えている。
「……お前の思い通りにさせてたまるか」
 胸の底から湧き出でる冷たさを振り払い、声を引き絞る。
 解き放たれたように動き出した足が、真っ直ぐに扉へと近付いた。そっと耳を宛てる。轍の音と振動がダイレクトに耳へと響き渡る、その中にひとつ、規則的な音が紛れた。革靴が床を叩く高い音。
(早すぎる)
 列車の廊下は一本道だ。武器も持たず、無防備で飛び出すには鉢合わせる危険が高すぎる。そんな中、こんなにも堂々と部屋から飛び出し、立ち去って行く人間がいる。まるで慣れているかのように。
「……ファルファレロさん、かな」
 顔を出したその瞬間に貫かれないとも限らない。
 扉を開く事はせず、同行者を思い出しアタリを付けるだけに留め、優もまた動き始める。
 ベッドからはぎ取ったシーツを右の拳に巻き付け、寝室の隅に立てかけられていた鏡の前に立つ。斜めの姿見が、険しい表情をした己を映し出す。普段、友人たちの前ではほとんど見せないであろう酷い顔だ。眉間の皺が当惑と決心との間で揺れている。
 ――これはゲームだ。
 何度も自らに言い聞かせる。目の前の鏡の奥に。現実ではない。この依頼に参加した五人は皆、お互いがお互いを殺す事を了承している。優もまたそうだ、殺される事に対する悔恨はない。――だが、殺す事に関しては、まだ迷いを断ち切れないでいた。此処には知り合いも多い。彼らと相対した時、果たして己は迷いなく武器を振り翳せるのか、解らないままだ。
 鏡のスタンドを倒し、床に寝かせる。中央にシーツで包んだ右手を当て、深く息を吐いた。
 振り翳した拳を、強く叩きつける。
 破片が飛び散る事もなく、静かに高い音を立てて鏡が割れる。映り込んでいた己の顔が、血を流さずいびつに砕けた。
 放射状に割れた中で、一際大きな破片を摘みあげる。
 鋭角の三角形をした、細いそれは鋭い切先を地面へと向けながら、優の惑う顔を映し出していた。
 この破片が、誰かの血に染まる時。
 己の心もまた決するのだろうと、明確な予感だけがあった。

 ◇

 列車が傾いて、それと同時に身体もまた傾いだ。幼い頃から慣れ親しみ、無意識に縋っていた物が無くなったことで、視野が狭まったような感覚を抱く。しかし首をひとつ振って、ジュリアン・H・コラルヴェントは息を吐いた。道具が一つ喪われただけの事だ、懼れるものでもない。
 先客の荷物から拝借し、武器と定めた金属のステッキを確かめるように握り、廊下を曲がる。
「――動くな」
 その無防備な首筋に、冷たい物が這った。
 失態だ、と見えないように顔を歪める。感応能力を喪ったからか、気が付くのに遅れてしまった。眼だけで背後を窺う。雪深 終の、淡々と乾いた赤茶色の瞳が、突き付けた刃だけをじっと見据えている。
 首筋に突き付けられた剃刀は冷たく、血液に混じって氷の粒が流れ込んでくるようだった。心臓の音が違和を訴える。恐怖か。否、危惧だ。(ここで死ぬわけにはいかない。)耳鳴りがそう謳う。
「手を組まないか」
 焦燥を悟らせないよう息を詰めた耳に、予想外の言葉が聴こえた。
「協定か」
「キャビンの間だけでいい。俺はこの辺りを調べたい。――車両が切り離される前にフリーの珠を見つけなければ、ゲームオーバーだ」
「同感だ。なら、僕は後ろへ行こう」
 元よりそのつもりだった。首筋の刃物が退く。終も頷いて、二人はそれ以上慣れ合う事もなくお互いの目的へ向け歩き出す。

 ◇

 クロウ・ハーベストはふと、足を止めた。狭い廊下の影に隠れ、その姿を窺う。
 少し癖のある短髪。穏和だが隙のない佇まい。
 出逢わなければいいと思っていた。彼が己の前に現れず、死んでくれれば楽だった。しかしこうして出くわしてしまった以上、何も仕掛けないというわけにもいかない。
 狭い廊下の中央で、彼が立ち止まる。細い糸が足許に張られている事に気が付いたようだ。誰が仕掛けた罠かも判らないが、警戒と共に身を屈めた。身を離し、欠片の一つを用いて遠くから糸を断ち切る。
 低く屈む彼の頭上を、何かが駆け抜けた。
 振り返ればそこには針が一本落ちていて、穴の空いた柄には糸が通されている。毒でも仕込まれていたのだろうか、それともただのブラフか。数瞬悩んだ末、彼はそれを拾わずに立ち上がった。――その背後へ、迅速に迫る。ステッキの下方を両手で握り、大きく振り翳した。
 気配に振り返った、優の瞳が大きく見開かれる。
 驚愕に動揺しながらも、やはり戦い慣れた彼は動くのが早かった。片肘を上げる。下ろされたステッキの力が受け流され、後方へ投げ飛ばされた。
「!?」
 武道の応用のような鮮やかな所作に翻弄され、倒れ込んだクロウの頭上に、優が覆い被さる。鏡の破片を右手に、振り翳された鋭い切先は左胸を狙っている。

 真摯な眼光が、影になった顔の中で強く煌めく。
 生を渇望する、強固な意志の色。

 理の内側に組み込まれた、何の力も持たぬ自分ではそれから逃れる事すらできない。
 安堵と恐怖とが入り混じり、しかし最後の足掻きに身を捩じろうとしたクロウの肩を、鋭い破片が貫いた。

 ◇

 手早く準備を済ませ、ジュリアンは目的の車両へと辿り着いた。
 薄暗い廊下の中で煌々と輝く、十二の数字。最後尾の車両である事を示す文字。
 車両の数字の下に表示されているのは、切り離しへのカウントダウンか。残り一分。四つの黒い数字の内先頭二つが零に代わり、無情な音を立てる。刻まれゆく数字。燐光落とす静かな蒼い瞳が、じっとそれを待った。走行する列車が轍を踏む音だけが淡々と響いて、感応能力を喪ったジュリアンの耳を侵蝕する。
 零が三つ並ぶ。切り離しまで残り十秒。
 待ち侘びる彼の前で、数字は瞬間的に形を崩した。数字の周りに現れるノイズ。酷く浮ついて、虚空に見えるそれは此処が現実の世界ではない事を実感させる。白が黒に。黒が白に。背景と文字との色が入れ替わり、表示されるべき数も形を崩し、違う文字を顕す。しかしそれはすぐに、眩暈にも似たザッピングと共に収まった。残されているのは、零零:零三の文字。

 たった一秒だけの異変。
 ――しかし、気付くには充分だった。

 弾かれたように駆け出す。細く長い車両内部を、出口へ向けて。
 扉を開いた瞬間、無慈悲にも音がした。
 車両と車両とを繋ぐ連結部が外れ、速度を喪って置き去りにされようとする十二両目。腕を伸ばし、二つの車両の間に渡したロープ――既に空中をたなびき始めているそれを掴み、眩暈と共に躊躇いなく跳ぶ。右手のステッキを手摺に引っ掛けて、力を籠めて落ちようとする身体を支えた。耳元でステッキの素材が軋む音、力の加減を間違えて軋む腕。振り落とされる前に、と調節の効かない身体を無理に揮って床の上へと這い昇る。
 振り返れば、離れ行く車両がレールの音を火花立てて滑っていく様が見える。それは最早数車両分の間隔を空け、こうして眺めている間にもぐんぐんと小さくなって行った。
「……はは」
 力ない笑いが零れる。
 遠く、レールの先で爆発が轟いた。焔が宵闇を照らしだし、蒼い瞳を鮮やかに染め上げる。爆風さえも衝動に変わる。どうしようもない笑いだけが零れる。
 また、死に損ねた。
 もしもこのゲームを外から見る何者かが居れば、そう捉えただろうか。恐怖に衝き動かされ逃げ出した哀れな男と。
 だが、今はそれでいい。“ここではない”、それさえ判れば充分だった。
 笑みを沈め、進行方向を見遣る。もう他の参加者は先へ行ってしまっただろう。
 立ち止まってなど、いられなかった。

 ◇

 はたと、頭上の男が我に返ったように目を丸くした。ふらふらと、距離を取るように後退する。
「ク……ロウ……!?」
 肩を襲う激痛に顔を歪めたクロウの上げる苦悶の叫びから逃れるように、優は前方の車両へと駆けて行った。倒れ伏したままのクロウを一人残して。
 訪れる静寂と束の間の安寧。一層漏れ出そうになる声を噛み締めて、突き刺さったままの硝子片を何とか引き抜く。改めて、優の選んだという武器を手に取り眺めた。
 鏡だ。
 血まみれのクロウの顔が、欠片の中に映り込んでいる。
 咄嗟に顔に手をやるが、クロウ自身が血まみれなわけではない。当然だ、血に塗れているのは鏡の表面の方で――噫、その血自体が自らから溢れ出ているものではないか。
「……血が、出てる」
 取り留めもない思考が自然な結論に辿り着いて、クロウは震撼した。
 或いはそれは歓喜だったのかもしれないし、戦慄だったのかもしれない。背筋を冷たい情動が走って、しかし彼はそれを静かに受け止めた。熱を以って痛みを訴える肩を、首を捻って眺める。
「そっか。そりゃ、普通なんだから当り前だよな……」
 この場に於いては自らもまた、他の皆と同じように理の中に組み込まれているのだと言う実感。
 それをこんな非日常な場で得られるという不条理に、蒼褪めた顔が知らず、笑みを浮かべていた。

 ◇

 右手の震えを左手で掴み抑える。
 歯を食い縛り、噛み合わぬ根を誤魔化しながら優は車両の出口を目指した。ちらと頭上を見上げれば、扉の上には簡素な文字で九両目と描かれている。まだまだ先は長いというのに、もう息が詰まり始めていた。
 ここは狭すぎる。逃げ場がない。圧迫感の強い、不安と猜疑を掻き立てられる場所だ。規則的に鳴り響く轍の音が、死へのカウントダウンのように聞こえる。
 右手にこびりついた血と、匂いとが感覚に貼りついて離れない。いっそ何処かのシャワールームに飛び込んで洗い落してくるべきなのかもしれないが、その間に誰かが――“彼”がこの車両へやって来ないとも限らないのだ。早く、距離を取っておきたかった。
 刺した。――殺してはいない、筈だ。
 あの瞬間、確かに優の頭は殺さなければならないと警鐘を響かせていたはずだが、身体がそれを拒否した。手元が狂い、或いは初めから狙いすましていたかのように、右手の凶器は彼の肩へと突き刺さった。溢れる血は予想していたよりもずっと僅かで、しかし手を襲う衝撃はずっと大きかった。それは今も、震えや冷たさとして優を襲い続ける。
 この震えを言葉にするなら、恐怖にはならないだろう。寧ろ、憎悪や安堵に似ている。
 誰かを殺める覚悟ならとうの昔にできていたはずだ。優には護るべきものがある。救うべきものがある。その為に友人とも、0世界そのものとさえも敵対する覚悟は決めた。
 その一方で、クロウ――友人を殺さずに済んだ事にどうしようもない安堵をも覚えている自分がいた。それらは決して相反するものではなく、優の中では両立し得る感情だった。
 今はまだ、誰かを手にかけることなんてできないけれど。
 その時が来れば、躊躇いはしない。
 密やかな決意を自覚して、優は拳を握り締めた。――此処からどうやって生き延びるべきか、思考を巡らせる。
 その視界に、不意に腕が現れた。
「!」
 ぎらり、赤が煌めく。
 それは赤ではない。辛うじて血に染まっていない部分に、優の驚いた顔が映り込む。――鏡だ。誰かの血に染まった鏡の欠片が、唐突に彼の目の前に現れた。己が割って所持していたものだと悟る。すぐ後ろに、人の気配がある事も。
 鏡を握るのが誰であるのか、思考が追い付くよりも先に、手は動いていた。首筋に一閃、氷が走る。
 その瞬間は、いとも容易く訪れるものだ。

 ――噫、ほら。
 俺は誰も殺していない。

 誇らしげに唇を歪めた刹那、優の意識は闇へと落ちた。

 ◇

 無人のキッチン車に、蠢く影がひとつ。
 辿り着いたばかりで、既に誰かが居る事に驚愕しながら、終は武器と共にそれに迫った。そっと、物音を立てずににじり寄り、その首筋に鋏を突き出す。しかしそれが皮膚に到達する前に、相手が此方へと振り向いてしまった。
「そんなに殺気立つなよ」
 振り返った男――ファルファレロ・ロッソは、彼の訪れを歓迎するように身を終へ向けた。一歩、距離を詰め損ねた。踏み込まなければ刃物は届かない。
「未だ来たばっかりだ。武器なんざ手にしちゃいねえ」
 おどけるように肩を竦め、ファルファレロは手ぶらの両手を上へと挙げて見せた。鋏を構えたままの終はうっそりと目を細め、油断なく周囲を窺う。他者の姿はない、しかし気を抜く事も出来まい。
「……ここまで?」
「ああ。接触は避けて珠探しに専念してたもんでな」
 皮肉げに唇を歪めたのは、その徒労も今の所無駄に終わったと言いたい為だろうか。実際一等キャビンをくまなく探した終にも、目ぼしい収穫はなかった。“覚悟の贄”の前にのみ“降り注ぐ雫”――シャワールームに罠でも仕掛けてあるのかと立ち入ったが、特にそれらしきものは見つからなかった。
「ところでよ」
 掲げたままの手が、人差し指だけで上空を指し示した。
 指の先には簡素な柄の天井が広がっていた。天井に埋め込まれた、幾つもの小さな電球が数多の光を降らせている。
「あの中に、六個目の珠があったりしないか?」
 その言葉に、閃くものがあった。
 “降り注ぐ雫”。顔を上げなければ見えないもの。
 思わず上空を見上げてしまった終の腹部を、いびつな笑みでファルファレロが蹴り飛ばした。
「!?」
 口を開けて待っていた、冷蔵庫の中へ突き飛ばされる。凍える空気の中、体勢を整えるよりも早く扉を閉ざされた。
 閉ざされた暗闇の向こう側から、声が、聴こえた。

「ココはちょっとした武器庫を兼ねてる。他の奴とかち合う可能性を考えてなかったわけねえだろ」

 取っ手と取っ手の合間を紐で括って結びつける。簡単だが、時間稼ぎには充分だろう。
 嘲笑うように口端を擡げ、ファルファレロは目的の物だけを手にして車両を後にする。

 ◇

 頸動脈から噴出された血で、瞬く間にキャビンの廊下は赤く染まった。倒れ込む身体はまるで関節を失くした人形のように生温かく、そして重い。
 荒々しい息を整える。
「……くそっ」
 呪詛のように言葉を吐き棄て、クロウはヘアバンドで束ねた髪を掻き毟った。青白く痩せた手首に嵌る大きな腕輪も、今はない。奇妙に軽い感覚が、箍の拘束をも同時に緩めていた。
 足許で夥しい量の血に塗れながら事切れる青年は、クロウがこの場で最も親しくしていた相手であると同時に、彼の左肩を抉った張本人だった。
「なあ、ユウ」
 声を掛けても、答えが返ることなど無いと判り切っている。
 右手の鏡を目の高さで弄ぶ。最早人の顔すらも映せない程に染まったそれはクロウと優、二人の血で濡れている。刃物としての切れ味も期待できないだろう。しかしクロウはそれを丁寧に、シーツで包んでポケットに仕舞い込んだ。
「お前は俺を殺せなかった。俺はお前を殺せた。――何が、違ったんだろうな」
 あの瞬間、振り翳した鏡の軌道が逸れた事も、クロウにはわかっていた。友人だから手加減をしたのか、否、そうではないだろう。優は、この期に及んで他人の命を奪う事を拒絶したのだ。
 それはクロウにはないものだ。人でありたいと切望する青年は理から排除され、最早人に戻ることはできない。
 理の外側と言う立ち位置は、能力を打ち消された今も、彼を苛んでいる。解放感と裏返しの不安感。残された、人ではない部分の思考回路。いっそ、ただの人間だからと全てを諦める事ができれば楽だったのに。
「でも、『できないからしょうがない』じゃ済まない事もある。……知ってるさ」
 能力が使えないからといって、相手の一撃を甘受するつもりも、大人しく殺されてやるつもりもない。手の中の得物を握り締め、次の車両へ渡った。
 或る程度の時間的余裕を以って踏み込んだ食堂車には、彼の他には誰の気配もない。一番乗りだろうか、とクロウは首を傾げ、一歩踏み出そうとして、足を止めた。
 迸る赤。食堂車を彩る異質な色。床材に吸収される事もなく、列車が傾く度に粘着性のある液体を撒き散らし続けている。
 目を射るような鮮烈な赤は、テーブルの下から広がっているようだった。入口からは影になって見えない場所。死体を隠すには持って来いの暗がり。
 知らず、唾を呑み込む。
 ゆっくりと屈み、その奥を覗き込もうと――
「!」
 不意に背後に迫った気配に気が付いて、クロウは咄嗟に右へ転がった。先程まで彼の居た場所へ、重い何かが振り降ろされる。地面へ勢い良く叩きつけられたそれは大きく割れて、破片と中身とを周囲に飛び散らせた。濃厚な葡萄の匂いが充満する。
「運が良いな」
 舌打ちと共にそう吐き棄てたのは、砕けたボトルの口だけを手にしたファルファレロ。背中を伝う冷や汗を感じながら、クロウは気丈に笑って見せた。
「罠か」
 ボトルを捨て去って、手ぶらのままファルファレロは頷く。挑発的な手招きでクロウへ立ち上がるよう促し、楽しくてたまらないとでも言いたげにくつりと笑った。
「この中で一番殺し合いに抵抗ねえのは俺だ。言っとくが、手加減なんざ期待すんなよ」
 そういった男は、割れたボトルの代わりに手近にあった椅子の背を掴む。クロウは右手の杖を斜めにして構え、相手の出方を窺った。
 眼鏡の奥の黒い瞳が、乾いたインクのような色が、粘り気のある火を含んでいる。愉悦、或いは昂奮に輝いているようだ。
「……はっ。あんた、どっかおかしいんじゃないの?」
 口の中の血と共に言葉を吐き出せば、ファルファレロは片眉を上げて見せただけだった。唇が弧を描く。がり、と音を立てそうな程に表情が歪む。
「んなもん初めからだ。とっくの昔に箍なんざ外れちまってんだよ」
「ああそうですか」
 左手に力を籠める。痛みさえ無視すれば、動かせなくもない。
 息を吸い、吐き出すと共に振り翳した、その瞬間。
 にィ、と鮮烈な笑みを浮かべたファルファレロが、掴んでいた椅子を放り投げた。
「ッ!?」
 響き渡ったのは、甲高い音だった。
 同時に、食堂車に暗闇が訪れる。しゃらしゃらと降り注ぐ僅かの光、耳障りな音と共に落ちてくる何かを避けるため、クロウは持っていたシーツで顔を覆う。無数の何かがシーツの表面に突き刺さり、滑って落ちていくのが解る。

「“La fine”」

 耳元で、そんな声が聴こえた。

 厭な音が響く。
 粘ついた塊が鼓膜を貫いたようだ。視界の端が赤く染まる。愛用の眼鏡に返り血が飛んだのだと悟る。忌々しい。先程まで昂ぶっていた感情が瞬間的に凍て付いた。血の付着した燭台を無造作に置いて、死体の握り締めていたシーツを拝借し、眼鏡を丹念に拭いとった。視界を遮られては武器を取るのも――銃を握るのも侭ならないではないか。
 床に飛び散った赤ワインと血とトマトソースとが混じり合う匂いに顔を顰め、そして首を捻る。
「……やっぱ、ナマの方が性に合うな」
 確かに青年の後頭部を叩き割った感覚は、非常にリアルに近しかったと感じる。しかし、あくまでもゲーム、と言う認識がファルファレロに理性を飛ばす程のスリルを与えてくれないのだ。今目の前で絶命した男も、この空間から出れば平然と生きているだろう。それでは面白くない。
 口端にも飛んだ血を舐めて、立ち上がる。シャンデリアの欠片を踏みつけて、ぱりぱりと音が立つ。
「じゃあな」
 別れの言葉は、呆気なかった。
 最早彼に用など無いとでもいうかのように。

 ◇

 ――死を。

 それはひた、ひた、ひたと迫り来るもの。

 ――生を。

 小刻みに揺れ、胎動する蔵の中で、終は唐突に目を覚ました。
 降り注いだ雫に頬を撃たれ、その冷たさに意識を呼び起こされたような感覚だった。痺れる腕を持ち上げて頬を拭ってみれば、それは落ちて来たのではなく流れてきたものだと判った。恐らくは、自らの瞼から。
 寒さには慣れ親しんできたはずだった。
 それが今、彼の命を脅かしている。まるで初めて山に入った頃のように。

 ――光を。

 凍て付く心の内側で、幼い終がそう産声をあげた。もっと光を、熱を。感じさせてくれと、生に焦がれる少年の心が叫んでいる。氷の中で眠るように命尽きる、蜉蝣の最期の願いにも似て。希求ですらない。ゆらゆらと揺れる、形すらも留めていない漠然とした何かだ。
 ぐ、と麻痺する掌を握り締める。爪が食い込むほどに力を入れても、掌には痛みどころか感覚さえも通らなかった。
 これが仮想の死だとは理解している。
 だが、少しばかり足掻いてみてもいいのではないかと、気紛れにそう決めたはずではないか。
 狭い蔵の中で、全体重を扉へと押しつける。
 一度、二度。
 張り詰めていた何かが千切れる音がして、扉は容易く開いた。バランスを崩して転がり出る。外の空気が急激に冷えた身体を包み込み、温度差に思わず震えた。時間を確認する。切り離しまで一分もない。咄嗟に近くにあった包丁を握り締めて、終はキッチン車を飛び出した。

 ◇

 進行方向に、彼の立つ車両を含めて二両。
 振り返れば、更に二両が連結されている。

 切り離されたばかりの五両目が、遠いレールの先で爆発するのを見護る。
「随分、減ったな」
 それは人か、車両の事か。
 実感と共にそう呟いて、ジュリアンは展望車の屋根から飛び降りた。車両の上を歩けるか否かは身体能力と言うよりも慣れの問題だ。誰にも会わずに車両を渡るにはこれが最良だと気がついて以来、彼はそうやって移動していた。
 何気ない仕種で、三両目の扉を開く。
 空を切り裂いて、彼目掛け飛んでくる煌めき。
 焦燥を顔に出さず、ジュリアンはごく冷静にそれを躱してみせた。

 咄嗟に閉じられた車両の扉に突き立って、包丁はそのまま床へと落ちた。
「外れたか」
 落胆を詰めていた息と共に吐き出して、終は飄々と笑みを浮かべるジュリアンを見る。二度目の対峙だ。休戦協定は当然のように反故となっている。
「生きていたんだな」
「……何故、戻ってきた?」
 新たな刃物を手に、終は抑えた声音でそう問いかけた。不意の一撃は見事に躱された。逃げるにせよ殺すにせよ、次の隙を待たなければ戦闘に慣れた相手と自分とでは容易く勝負が決してしまうだろう。だから、純然な疑念と共に問いを投げる。
 この遊技場の性質上、前に進む必要はあるが、後退するメリットはない。武器の調達に最適なはずのキッチン車は今しがた切り離されてしまった。今更この三両目に戻ってくる価値はない。
 問われたジュリアンは端正な顔に笑みを浮かべ、何でもないことのように肩を竦める。
「それが必要だから」
 じりじりと、彼が歩くのに合わせて距離を保ちながら終もまた足を動かす。にじり寄る事も出来ず、二人は円を描くように広いサロンカーの中位置を入れ替えた。
「必要?」
「ああ。珠、まだ見つかっていないんだろう」
 それは問いではなく確認だった。六個目の珠を終が持っていない事を、何故か彼は知っている。訝しく思いながらも頷いた。
「そもそも、他に誰が生き残ってるのかすら、俺は知らない」
 つい先程まで冷蔵庫に閉じ込められ、ようやく逃げ出してきた終に、外の状況など窺い知れるはずもなかった。ジュリアンは肩を竦め、僕もだ、と語る。
「相沢とクロウの死体は見たけれど」
「ファルファレロは」
「さあ」
 答えながら、ジュリアンの目は終ではなくその上を見ていた。彼の背後を。
 目の前の彼に隙を見せないよう、視線の先を窺う。扉の上に掲げられた電光掲示板が、四両目の切り離しまで残り数秒であることを告げる。
「……先程から、何を気にしている?」
 鋭い視線に、ジュリアンはふ、と風のように笑むだけだった。
 緊迫した空気が、瞬間的に途切れる。
 何かあるのかと問いかけようとした彼を遮って、颯爽と身を翻す。四両目へと続く扉の向こうに消える。
 扉は傾きと共に勢いよくスライドし、その向こうの光景を遮断した。
 思わず駆け出し、扉を開く。途端鋭い風が吹き抜けて、終の長い髪を滅茶苦茶に吹き散らした。
 切り離され、火花散らして小さくなって行く車両の上に、くすんだ金の髪が見える。
「何を!」
 声を掛けても、軽やかに笑み返されるだけ。刺青の走る右手が小さく弧を描いた。――別れの合図。
 コートの裾を鮮やかに翻し、ジュリアンは車両の内部へと姿を消した。

 ◇

 暴走する列車から切り離されて、車両はレールの上を大きく揺さぶられながら、それでも駆け続けていた。轍と滑車とが噛み合い、擦れ合って火花を散らす厭な音が高く耳を劈く。
 取り残された車両の最期の足掻きを聞きながら、それらをまるで心地よい音楽のように受け流し、広い車両の中央に立つ。

 ――カウントダウンが死を告げ迫る――

 どこからか、あの不穏な歌声が響いた。
 扉の上では、車両の号数と爆発までの時間を示す電光掲示板が、音立てて数字を減らし続けている。刻まれる数字。刻まれる車両。“死”の文字。児戯めいた謎かけだ、と自嘲じみた笑いが漏れる。

 ――弱き者、絶望に取り残されて尚顔を上げよ――

 歌の通りに頭上を振り仰ぐ。
 天井に埋め込まれた照明は、小さな電球の形をしていた。バチバチと、車両が揺れるのに合わせて明滅を繰り返す。その中で、ひとつだけ決して光らない物がある事を、彼は知っていた。恐らくは、あれが。

 ――覚悟の贄の前にのみ――

 零が三つ並ぶ。
 九、八、と数字がひとつずつ刻み削られていく。
 七、六、五、そして数字が裏返る。
 黒の中に、赤の文字が浮かび上がる。

 “死”。

 ――勝利の雫は降り注ぐ――

 その瞬間、かちり、と小さな音が響いた。
 予感が確信に変わる。知らず口許が笑みに歪む。振り仰いだ彼の頭上に、何かが降り注いだ。
 頑是ない子供のように、蒼の走る掌を天井へと伸ばし、――。

 ◇

 熱はなかった。
 ただ、爆音だけが鮮烈に耳を、灼いた。
 遠く、レールの先で焔だけが立ち昇って、それもすぐにトンネルへ入った所為で見えなくなった。茫然と見つめていた所に影が差し、はたと我に返って、終は中へ戻ろうと身を翻す。
 ふと、踏み出した爪先が何かに触れた。視界を下に落とす。
 足許に、ナイフが一本、落ちていた。
 拾い上げて、次の車両へと向かう。三両目を抜け、展望車へと。

 展望車の扉を潜り、初めに目に付いたのは、中央に溜まった深い紅だった。血の色の中で、黒い男が倒れている。
 反応を抑え、無暗に近付かないよう壁際を歩いた。
 ふと鼻を突く芳香。
「寝たふりはよせ」
 終の言葉に、死体が小さく舌を打った。無造作に起き上がる。髪を掻き毟り、ファルファレロは開口一番、不機嫌そうに言った。
「ありゃァ何だ」
 白い指が指し示したのは、車両中央に置かれた鳥籠。サロンカーにぶら下がっていたものと同じようだが、それが何故ここに在るのだろうか。
 しかし、鳥籠そのものに対する疑問よりも強く終の眼を惹いたのは、その中に詰め込まれた物。
 僅か目を瞠り、隙を見せないようにして近付く。
 鳥籠にしては大きな扉を開けば、それはあっさりと中の物を吐き出した。
 焼け爛れ、手首から引きちぎられた人体の欠片。部分的に黒く炭化している。手首だけしか残されてはいなかったが、しかし、それが誰のものであるか、終にもファルファレロにも判っていた。
 皮膚の上に無尽に走る、蔦模様の刺青。
 爛れた表皮の中でもそれは何故か色を喪わず、鮮やかな蒼い光すら放っているようだった。
「――ジュリアンか」
 そしてそれは、燐光の蒼纏う風のような青年の、右半身に走っていた刺青でもある。鳥籠――転送装置に、その死を示すものと共に珠が転送されたのだろう。
「んなのはわかってんだよ。問題はどうして二つあるってことだ」
「二つ?」
 おもむろに振り返った終に、ファルファレロは己の掌を示した。そこには彼らの持つものと同じ珠が二つ。優と、クロウのものだ。次いで終がジュリアンの遺した右手を開けば、そこから現れ出た珠も二つ。
「車外で死んだのはそいつ一人だ。なら何故珠が二つある?」
「……見つけたんだろう、車外で」
 ジュリアンが四号車に居残った理由。
 転送装置の本当の意味。
 “覚悟の贄”の前にのみ降り注ぐ、勝利の雫。
 全てを、終はその瞬間理解した。意地が悪いどころの話ではない。――初めから、誰か一人が犠牲にならなければ彼らに勝利はなかったのだ!
 それきり口を閉ざした終の憶測を察し、ファルファレロはいびつに唇を曲げる。眼鏡の奥の黒い瞳が不穏な光を孕んで、まるで面白い、とでも言っているかのようだった。
「――なら余計に、ソイツの死を無駄にはできねぇよな?」
 俊敏な動作で起き上がったファルファレロが投擲したナイフを素早く躱す。シャツの裾が僅かに裂けたが、傷にはならなかった。
「この期に及んで助け合おうなんて無理だって判ってんだろ。俺は俺の流儀で殺らせてもらうぜ」
「そうか。……何にせよ、俺は足掻くだけだ」
 それは雪山で凍え行く獣の抵抗のようで、弱弱しいが確かに深雪に爪痕を残す類の。諦念に彩られた赤茶の瞳は、しかし死を肯定しているわけでもなかった。
 決意や覚悟、快楽とは違う。酷く静かに、目の前の死と対峙している。
 眼鏡の奥で、ファルファレロの瞳が歪む。手の中で光を燈したライターが、ボトルに火を点けた。高らかにそれを投げる。
 瓶は容易く割れ、アルコールが周囲に飛び散って、瞬く間に炎は燃え広がった。
「……!」
 雪女としての本能的な恐怖が湧き上がる。生き物めいて彼を捉えんと襲う炎から逃げ、炎の流れと退路を目で確認する。
「どうしたこの程度か、本気で掛かってこい!」
 けたたましい哄笑が響き渡る。口端を擡げ、綺麗な三日月の弧を描いて、ファルファレロは高らかに笑い声をあげた。焔への怯えが見える。動きの鈍りが解る。そんなものか、と嘲りめいた笑みを浮かべた。
 だが、終も何も考えていなかったわけではない。
 シャワー室で水を含ませておいたシーツで煙を防ぎ、ファルファレロの繰り出す拳を巧みに躱した。一対一、それも肉弾戦となれば慣れていない自分の方が圧倒的に不利だろう。視界を遮らないように留意し、距離を取る。背を見せないよう、ゆっくりと出口へ迫る。
 一瞬の拮抗。しかし、緊迫の糸は直ぐに断ち切られる。
 身を低くして駆け寄ったファルファレロが、手の中の何かを振った。飛び散った赤が庇い損ねた終の顔面を狙う。
 タバスコか、と気が付いた時にはもう遅い。開いていた目に入り込んだそれは刺激に代わり、思わず蹈鞴を踏んだ終をファルファレロが引き倒した。霞んだ視界が、ぐらりと反転する。
 馬乗りになった男は手にしていたワインオープナーを彼の顔へと近付ける。
 螺旋の切っ先が、その左目に突き刺さった。
「――――!!」
 声にならない声を上げ、悶絶する彼を歪んだ笑みで上から眺める男。殊更ゆっくりとオープナーを引き抜いた後、その両手が彼の頸へと伸びた。元より足りなかった空気が、酸素が供給されなくなる。眩暈と、視野が狭まる感覚。
 苦悶に地面を掻き毟っていた片手が、何かに触れた。
 瞬間的に冷静へと立ち返った頭が、それを力一杯引く。

 何かが突き刺さる、簡素な音。
 声も立てず、圧し掛かる身体が傾いだ。ぐらり、と終の傍に倒れ込んでくる。眼鏡の奥の瞳は見開かれたまま、口許は変わらず楽しそうな笑みを浮かべていた。背中にナイフを突き立てたまま絶命するその表情は晴れやかで、どこか潔さすら感じられる。
 ゲームだ、と言っていた。ならば己の死まで楽しまなければ損だと、そう捉えていたのかもしれない。どちらにせよ、終には判らない感覚だ。右手で開いた扉を支えに、虚ろな片目を庇い立ち上がる。車両の上を渡って一両目との境へ渡り、扉を開けばナイフが突き刺さるよう仕掛けておいた。――こんな使い方をするとは、思っていなかったが。
 酸素が足りず、眩暈に襲われる。燃える中では新しい空気を吸うのも侭ならず、早く脱さなければ、と重く立ち籠める霧のような不快感を振り払った。
 ファルファレロの首輪から外れた珠と、彼が持っていた二つ――そして、焼けた右手とその掌中の二つの珠を手に、終は炎上する車両から抜け出す。

 車両と車両の間を渡ったその瞬間、連結部分が音を立てて外れた。

 燃える展望車が、ファルファレロの亡骸を抱いた車両が、火花散らして去って行く。茫然と、しかし決して目を逸らさぬようにそれが爆発するのを見届けて、機関車両の扉へ目を向けた。
 躊躇ってなどいられない。
 開いた扉のすぐ傍に設置されていた台座に、五つの珠を嵌める。
「これで終わり、か」
 淡々と、乾いた声音で呟けば、独り言であったそれに返る声があった。
「おめでとう」
 いつの間にそこにいたのか。車両の連結部に、車掌姿の壮年の男が佇んでいる。顔立ちは帽子の影になって見る事が出来ない。
「君の勝ちです、君を心から称賛しましょう」
「必要ない」
 素っ気なく拒絶を返せば、シーワンはくつくつと帽子の影の下で笑いを零した。
 ゆっくりと、暴走する列車の速度が落ちていくのが感じられる。
「それでは、ごきげんよう。勇ましき勝利者殿」
 一歩、車掌は後退した。足が車両から外れ、シーワンの身体は空中に投げだされる。
 ソレを攫うように、隣のレールに突如現れた対向車両が彼の身体を引き裂いた。

 そして残されたのは、ただ一人。

【GAME CLEAR】

クリエイターコメント五名様、大変お待たせいたしました! そしてご参加、ありがとうございました。
冥土へ向かう暴走列車の中での遊戯を記録させていただきました。

ダイスの出目は6(振り直し)→5でしたので、今回の勝利者は雪深終様とさせていただきました。おめでとうございます。

本編をお読みいただければお分かりかと思いますが、今回の隠し珠は非常に意地悪な場所に配置してありました。
通常、プレイヤーにとって有利と思えるルールには必ず落とし穴があるものです。転送装置は救済ルールではなく、珠入手の為のプロセスの一つでした。
ただ隠すだけでは見つからない場所とタイミングで、シーワンは『贄となる覚悟』を求めていたようですが――見事お応えいただいた上、最も正解に近かった一名様に栄誉ある役割を振らせていただきました。ありがとうございます。

筆の向くまま自由に捏造してしまいましたので、口調、設定、心情等、イメージと違う点がありましたら事務局まで御伝えください。出来る限りで対処させて頂きます。

それでは、御縁が在りましたら、また何処かの階層で御逢いしましょう。
公開日時2012-10-09(火) 21:50

 

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