彼女は、その報せを待っていた。「≪東昇宮≫よりの使者が参られました」 侍女の言葉に、窓際の席に坐していた女は振り返った。視えぬ目で気配を探る。 開かれた扉の向こう、緋色の絨毯が敷き詰められた廊下には、藤紫の袴を履いた娘が一人佇んでいる。東昇宮――朱昏を二つに別つ大河の東岸に存在する、龍王を祀る宮からやって来たと言う若き巫女は、部屋に足を踏み入れ、口を開いた。「“龍燈祭”の日取りが決定致しました」 その言葉に、女は席から立ち上がる。 卓を回り込んで、部屋の外へと歩いていく。あかね色のヴェールがひらりと焔のように閃いて、一瞬、上向いた口端が覗いた。「――姫様?」 報せを持ってきた娘の問いに、女は立ち止まると、頷きを返す。 佳日。 空は青く澄み渡り、この國の安泰を顕わすかのように光を降らせている。「第六小隊に連絡を。“旅人”たちをお招きなさい」 龍の末裔たる女の、静かだがよく透る聲が響き渡った。 ◇「年越し特別便の季節だね」 世界図書館ホールのカウンターの上、司書の誰かが放っていったらしき蜜柑の皮を見上げ、虎猫はぼうやりとした口調で呟く。「きみたちは、どこへ行くかは決めてるのか?」 微睡みを残す黄金の瞳が、ホールを歩く旅人たちを観察するように動いている。「もしも行く宛てがなければ、おれやガラと一緒に朱昏へ行かないかな」 そして、のそりと身を持ち上げた虎猫は、本題を切り出した。「“龍燈祭”が、始まるんだ」 朱昏にとっても年越しの一夜、大河で微睡み続けていた龍王が目覚め、人々を己が河へ招くのだという。この日ばかりは、神域とされる河に船を浮かべる事も許される。 大河の両岸で同時に開かれるこの祭りは、昼は屋台や見世物小屋で盛り上がり、夜には“龍華”と呼ばれる花火が咲く、大々的で賑やかなものになるだろう。「ロストナンバーは両岸の行き来も、大河の中央に坐す龍王への謁見も赦されるだろう」 何十年振りかな、と眼を細め、虎猫は懐かしむように喉を鳴らす。彼にとっては、久方振りの――若しかすれば永劫叶う事のなかったかもしれない、恩人との再会に当たる。感慨深げに閃く黄金の瞳が、旅人たちへの感謝と、祭りへの期待を映し出していた。「すべて、きみたちの頑張りによるものだ。礼を言うよ。そして、楽しもう」 平穏な未来へと続く、この一夜を。 ◇ あかね色の列車が、朱に染まる昏の空を往く。 火に煽られたように車内までも鮮やかな朱に塗り潰される中、窓から地上を見下ろした旅人たちは息を呑んだ。 優雅に煌めく彩。 濃やかに織られた布のように、縒り合された糸のように、黒と、白と、朱と、青と、金の軌跡が、ゆるゆると躍っている。 浪間に浮かぶ五色の燈。 水面に色彩を反射させて、ゆらゆらと、風に流されるままに揺れ、ぶつかり合い、そして弾けて消えてゆく。消えた傍からまた新たな光が生まれて、水面に色彩を燈した。 その合間を擦り抜けるように、幾艘もの屋形船が滑る。 ――龍神に許された一夜。 大河の両岸は、幻想的な光景に賑わっていた。=============●特別ルールこの世界に対して「帰属の兆候」があらわれている人は、このパーティシナリオをもって帰属することが可能です。希望する場合はプレイングに【帰属する】と記入して下さい(【 】も必要です)。帰属するとどうなるかなどは、企画シナリオのプラン「帰属への道」を参考にして下さい。なお、状況により帰属できない場合もあります。http://tsukumogami.net/rasen/plan/plan10.html!注意!パーティシナリオでは、プレイング内容によっては描写がごくわずかになるか、ノベルに登場できない場合があります。ご参加の方はあらかじめご了承のうえ、趣旨に沿ったプレイングをお願いします。=============
臙脂色の車体が、滑るように空を降りる。 大河の傍流の一つの上を往きながら、ロストレイルは東昇宮の敷地内、鎮守の杜の奥深くに停車した。 朱金の虎猫と雀斑顔の娘を先頭に、旅人たちが続々と降りていく。 朱の鳥居を抜ければ、五色の燈が波間に揺れる荘厳な風景と、人々の賑わいが彼らを出迎えた。 由良久秀は知り合いの少女、黒葛小夜を伴って朱昏の地に降り立った。 「逸れるなよ」 「はい!」 云いながら、小夜は僅かに早足で、足の速い由良の隣を歩く。 両脇に並ぶ屋台から漂う食べ物の匂いが、小夜の細やかな空腹を刺激する。それらに気を惹かれる少女の隣で、由良はカメラを構えて雑踏を写真に収めていた。 「由良先生、あれおいしそう」 「……」 少女の何気ない言葉に、由良は暫し無言を貫いた末「半分なら出すぞ」と応えていた。 新年を迎える冬の夜にも、屋台通りは人々の賑わいからなる熱気に包まれていた。 奇兵衛は、穐原将軍の赦しを得て散策に出た菊絵と共に、屋台通りを歩いていく。興味深げに周囲を見回していた菊絵が或る一点で視線を止めたのを視、足を留める。 「買って差し上げましょうか」 怜悧な、色香すらある目を細め、その横顔に声を掛けた。 「で、でも」 「遠慮なさらないでくださいまし。こういう機会も滅多に御座いませんでしょう?」 恐縮し、戸惑いに首を傾げる菊絵へ、まるで子を愛でる親のような優しい声が降る。 穏やかな眼差しに絆されたか、或いは嬉しさが恐縮に勝ったか、菊絵は目を輝かせて大きく頷いた。 そして、微笑む奇兵衛を連れ回し、果物をくるんだ飴や帯に差した風車、斜めに被る白猫の面で身を固める。更には、知人や世話になっている邸の主に土産を渡したいという奇兵衛の頼みに応え、椚紅葉柄の提灯と、朱と金の引かれた白い狐面を選ぶ。 「私が選んだもので、いいのかな」 「無論」 菊絵の選んだ土産を受け取り、奇兵衛はゆるりと微笑んで頷いた。 ツリスガラは一人屋台通りを歩いていた。 道中で購入した酒と年越し蕎麦を手に、路傍にあった見世物小屋の一つへ、ふらりと吸い込まれる。外からも聴こえた、賑やかな祭囃子の音色が音楽に親しむ彼女の耳を惹いたのだ。 鼓と鈴の音が賑やかにリズムを作り、その上を滑る木笛の音色が高く美しい。ゆったりとした、流れるような旋律は彼女の故郷のものとはどこか違っていたが、耳に心地よい。 「音は違えど、祭の楽はやはり何かを奉ずるものなのだな」 祝いと喜びを一身に表現する音楽。感情を持たないはずのツリスガラの胸に、暖かなものが宿る。 「――おや」 見世物小屋を後にしたツリスガラの向かいから、一人の男女があるいてくるのが視えた。ツリスガラはその、女の方にふと目を取られる。 現地の男にしな垂れかかるようにして共に歩く、金茶髪の美しい女。きりりと上がった眦と添えられた朱が、何処か狐を彷彿とさせる、中性的だが絶世の美女だ。 狐目の女は、ツリスガラの視線に気が付いて片目を瞑って見せる。 「あるじ様は楽しんでおられます」 足元から上がる幼い声。 見れば、彼女の周りで三匹――否、三人の金髪の童子が、美女の立ち去った方を眺めていた。 「君たちは……そうか」 嘗て見かけた覚えのある童の姿に何かを悟り、また彼らが手に持ちきれぬほどの食べ物を抱えている事に気づき、ツリスガラは頷いて、それ以上の言及を止めた。 西岸では、年越しへ向けて除夜の鐘が響き渡っていた。 朱昏の死者は、皆儀莱へと渡るらしい。 ――だが、ほのかの霊感は、此の地に渦巻く人々の念を、成仏できなかった人々の想いを感じ取る。 「……仏法の解脱へ至るには、蟠りからの解放を要すると同じに……」 幽玄な足取りで、囁くように言葉を紡ぎながらほのかは鐘楼へと登る。 此の世界でも、現世の執着より解き放たれなければ彼岸へ渡る事は叶わないのだろうか。 「災禍が払拭されても……直ちに人の愁傷が癒える訳ではないわ……」 除夜の鐘を衝く事で、少しでも関わった人々の煩いが消えるよう。 亡くなった人々も未練に囚われる事無く、儀莱へと辿り着けるように。 朱昏の人々の新たな年を祈り、――そして。 (……菊絵さん、どうかお元気で……) この世界に還るらしい顔見知りの少女の姿を思い浮かべながら、ほのかは心を籠めて鐘を一つ、衝いた。 「次はゼロの番なのです」 降りていくほのかと入れ違いに、シーアールシー ゼロが朱金の虎猫を連れながら短い階段を上る。 「ゼロは聞いた事があるのです。除夜の鐘とは108回鐘を付くことにより寝ている来年の太陽を起こして、それにより来年の初日の出を迎える儀式だそうなのです」 「へえ。其れは初耳だな」 虎猫の簡素な相槌を受けながら、ゼロは撞木から下がる縄を握る。 「もしも108回鐘をつかないと、太陽は寝ぼけ眼でのぼってくるのだそうです。太陽さんはゼロに似ているのですー?」 「色合い的には月だけれどね」 「では、太陽さんが灯緒さんで、月さんがゼロなのかもしれないのです」 ごーん、と、どこか間延びした音が大河に響く。 撞木を手放して、何故かお辞儀をしたゼロは、隣の虎猫に番を譲った。 「あまりについた鐘が少ないと、新しい太陽の代役として古い太陽が初日の出にのぼってくるそうなのです」 「それは……なんだか恐ろしいな」 ――その言葉は、新年を迎えた瞬間この世界に何が起きるかを、予言しているかのようだった。 ◇ 周囲の喧騒が遠く、隔たれて聴こえる。 初詣の帰路、小夜と二人連れ立って砂利道を行きながら、由良は何気なくカメラを構えた。 由良の提げるカメラバッグには黒曜石の辰、小夜の持つ小銭入れには琥珀の黄龍の根付が、お揃いのように揺れている。 「由良先生、何をお祈りしたんですか?」 無邪気にそう問われて、由良は僅かに視線を逸らす。 「ああ……まあ、色々と」 ――異世界で祈った所で、御利益などあるのか? そんな疑念を抱いて、おざなりに手を合わせただけとはとても言えない。 「小夜は何を祈った」 返答に迷い、質問に質問で返せば、無垢な少女は疑いもせず、照れたような笑顔を浮かべた。 「今年もお兄ちゃんや那智先生や、由良先生が元気で無事に過ごせますように、ってお祈りしました」 「……そうか」 清らかな眼差しが居た堪れなくなり、煙草を挟んだ手で口許を隠して由良はそれとだけ応えた。 同じく参拝帰りの奇兵衛と菊絵もまた、揃いの、瑪瑙の朱雀の根付を手にしていた。 「さて、新年になりましたので、私からも“お年玉”を」 「?」 お年玉という習慣をよく知らないのか、首を傾げる菊絵に、奇兵衛はゆるりとした笑みで一枚のぽち袋を手渡した。 「開けて御覧なさい」 素直にその口を開け、中身を掌の上に取り出した菊絵は、目を丸くした。 「わ……!」 仄かな光を纏う、小さな紙の華が幾つも幾つも、その掌の上で躍る。 「あ、りがと――ありがとうっ」 紙の花が飛んでいかぬように掌で包み、菊絵は何度も何度も頷く。 「此処は寒い日もあるでしょう。身体には気を付けてくださいね」 「うん。でも、平気」 子を送り出す親のような優しい言葉に、未だ喜びを抑えきれない様子で、菊絵は応えた。 「あそこより、あたたかい、から」 ――この少女は、鉄と雪の世界に覚醒したと云う。 奇兵衛は目を細め、少女のこれからを想った。 ◇ 随分と、酒を深めてしまった。 ヌマブチは先程まで立ち寄っていた座敷船を去り、ひとり岸辺を歩いている。 彼の遺された隻腕は今、三角巾で吊られている。白虎との最後の戦いの折負った傷だ。――雪深終を庇って。 だが、何故自分は彼を庇ったのか、それが解らない。 (彼らに生きてほしかった?) そう考え、この自分が、と己で自嘲する。 ヌマブチの行動理念は多を生かす事だ。覚醒の瞬間、部隊の将校を庇った事でさえ、己より彼が生きたほうが多くの為になると思ったからだ――そう、理由を付けている。 なのに、雪深にはそれさえもない。 反射的に取った己の行動の意味を探るヌマブチの前に、ゆらり、と陽炎が揺らめいた。 短く切り揃えられた黒い髪。 ヌマブチのものとは違う、群青の軍服を着た後姿が目に入る。 (清原少尉) 口に出す事なく、その名を唱える。身を挺して庇った将校の姿。彼の青年とは似ても似付かぬ、しかし何処か冷ややかな気配が近しいのかもしれない。 祭の気まぐれが見せた幻影は、瞬き一つで掻き消えた。 「……あの国は、今頃どうなっているのやら」 あの男は、何処まで進んでいったのだろうか。 無感動であったはずの男の胸に、小さな、小さな灯が燈る。 離れた所に見知った軍人の姿があるのを視とめ、しかし声をかける事無く碧は河原に腰掛けた。 (……神夷へ赴きたかったが) この國に拘るのも、これで最後かもしれない。彼女には帰らなければならぬ場所があるから。 水面に浮かぶ燃え盛るような朱の火が、碧の目の前で立ち昇り、一人の男の姿を取った。 「緋温(ひいろ)」 朱の瞳持つ、ヒトの男の名を呼ぶ。 世界を変えるぞと、鋭くそう言い切った聲を想う。 (俺達は生き残るぞ) (俺は) 「あの時何を言おうとした」 割れる空と爆音の合間に消えた、彼の言葉と、彼の姿を今も追い求めている。 「私にも、世界を変える事が出来るか?」 当然だ、と彼は笑うのだろう。 その言葉が容易に想像できるから、碧は僅か、苦笑めかしてわらった。 ならば、必ず。 「父の許へ――お前のいる世界へ、戻ってみせる」 決意を新たに、碧は五色の燈が躍る水面を見つめていた。 村山静夫と共に川辺を歩いていたナウラは、ふと水面の燈が鮮やかに燃え上がったのを目にし、足を留めた。焔はすぐに鳴りを潜め、代わりに彼女の前に現れるのは、懐かしい人々の影。平沢明人と、探偵社の面々。 「社長、みんな」 幻の向こうの彼らは今も待っていてくれるだろう。 懐かしさに溢れる涙を堪えながら、消えつつある一瞬の幻に向かって声を掛けた。 「必ず、必ず帰ります。やりたい事もあります。それまで――」 力を貸してください。 その言葉は、消えていく仲間たちの幻に届いただろうか。 否、きっと届いたに違いない。 奇妙な確信を抱き、ナウラはぱん、と己の頬を叩いた。 ――自分の覚醒には、理由があるのだ。 それはきっと、彼らと村山を助ける事。必ず故郷に還って成し遂げなければならない、と決意を新たに、ナウラは少し離れた所に居る男に声を掛けた。 村山の前に現れた幻影は、酷く、懐かしい男の姿を取った。 大戦下、彼が従っていた男の姿を。 「――隊長」 自然と手が敬礼の形を取ろうとして――やめた。 今の自分にそれはできない。 代わりに、無言で頭を下げる。 遠く南の島で見た幻影を思い起こす。炎の向こうに見えた、泣きそうな男の貌。彼もまた戦争の被害者だ。 ――必ず。 この命を懸けてでも、あの男を、止めてみせる。 心の裡で上官にそう誓い、村山は顔を上げる。其処には既に幻はなかったが、何処か満ち足りた思いだった。 「村山!」 その背にナウラの声がかかる。 「村山、除夜の鐘を衝きにいきたい」 「はいはい」 「それから参拝も行って、座敷船にも乗るぞ!」 「盛り沢山だな。少しは粋を学べよ」 はしゃぐように言うナウラに、静夫は苦笑した。 ――この、小さな正義の味方に出遭えてよかった、と思う。 次代はこういう者たちが担っていくのだろう、と思わせる、明るい光だ。 (心残りなんて、ねえよな) こんな光を見つけてしまったら。 ◇ 初詣を終えて、アマリリス・リーゼンブルグは彼女の貸し切っている座敷船へと空から舞い降りる。 「おォ、戻ったか」 「ああ」 座敷の中から聞こえた鷹揚な声に、一つ頷いて翼を畳む。 「相変わらずだな」 欄干に凭れ、優雅に酒と景色を楽しむ友人の前に山のように積まれた団子を視、女将軍は苦笑めかして瞳を細める。 「やらんぞ――と言うとるトコじゃが、まあええ。好きに食え」 云って団子の山を指し示す灰燕は、片腕に白い優美な三味線を抱えていた。笑って感謝を告げ、アマリリスは彼と向き合うように腰を降ろす。 「……近々、カンダータへと帰属する」 「あァ、頭のそん数は鉄屑の國のモンか」 「そう。君ともお別れになるな。……“彼岸花”も、一緒に持って行く」 云いながら、腰に刷いた陣太刀を引き抜く。目を焼くような銀の彩が散り、見事な造りの刃が、狭い屋形船の中に現れる。手に構える女将軍の姿と相俟って、その輝きはまさしく咲き誇る剣花。拵えた筈の刀匠がほう、と息を吐く。 「この刀に何度も命を助けられた。今ではもうすっかり、私の大事な相棒だ。――彼方の世界に行っても大切にする」 「ほうか。刃が鈍ってきたらいつでも呼べ、手ずから研ぎに行っちゃるけェ」 「はは、宜しく頼む」 「餞別じゃ。舞え、白待歌」 言葉に従って、灰燕の足許から目映い白焔が立ち昇る。アマリリスの周囲をくるりと回った焔は、五色の光舞う水面へと躍り出て、龍の姿を象った。 銀色の龍が舞う。龍は空中でくるりと円を描くと、鮮やかな焔になりて、やがてアマリリスのソレにも劣らぬほどの大きな翼を備えた。 「……美しいな」 アマリリスは微笑み、暫し、白焔の舞を楽しんだ。 また別の座敷船には、相沢優としだりとが乗り、ふたりだけの景色を楽しんでいた。 「……龍王様に、逢ってきたよ」 「そうか、しだりも。どうだった?」 その静かな面に滲む、決意の色を見守りながら、優は静かに問いかけた。少年の鋭い黄金の瞳が、波間を往く色彩を追っている。 「……しだりは、結界師だから。しだりの世界の調和を保たなければならない。……先達である王に話を訊く事が出来て、よかった」 世界の均衡を護り、律する王。 大切な者との離別をも呑んで、彼はただ微睡みの中で世界を見護り続けている。 彼との対話は、しだりの心にも新たな変化を齎した。 「……北極星号に志願したんだ」 「! そうか」 しだりの突然の言葉に優は目を軽く瞠ったが、すぐに笑みを浮かべる。 「認められれば旅に出る。のーとが使えるなら連絡を入れるね」 ワールズエンド・ステーション。全ての世界へ至る源へ辿り着いた者は、しだりの世界にはなかった。――だから、機会があるならば見てみたいと、若き龍神は思ったのだ。好奇心と言えばそれまでだが、彼にとってはそれ以上の意味があった。 「しだりがそう決めたんなら、俺は見送るだけだよ」 友人の言葉に滲む決意を受け止めて、優は優しく、其れとだけ言う。寂しいと思う心はあるが、それよりも能動的な意思を見せ始めたしだりの変化を喜ぶ心が勝った。 出会いと別れは人生には付き物だ。人はそれを受け止めて、路を進んでいかなければならない。 それに、もし彼が旅立ったとしても、一年後にはまた会えるのだから。 「……ありがとう。水は止まれば澱む、自ら流れを起こしてみるね」 「ああ。いってらっしゃい、しだり」 「……うん」 緩やかに流れる大河の上で、ふたりを乗せた座敷船が揺れていく。 ルサンチマンは、座敷船の上から大河の燈を眺めていた。 目の前では、氏家ミチルの姿をした、彼女の主が欄干に腰掛けている。 「美しいな」 「……はい」 促されるままに料理に手を付けて、その美味に貌に出さずに感嘆する。今日、この場に来なかった二人の仲間にも味わわせてやりたいと考え、そんな自分に戸惑いを覚えた。 悪魔はからりと笑い、欄干の向こうに広がる大河の光景を見据えながら、旋律を口ずさむ。歌を得意とする少女の身体だからこそ、可能な音楽の体現だ。 「この世では、人も神も行動し、未来を変えてきたのだと云う」 謳うように、嗤うように、主は言う。 「ではお前は? 兆しを見せても、未だ言いなりか?」 「――いえ」 咄嗟にそれとだけ応え、ルサンチマンははたと口を噤んだ。歌声が顕わす五色の水面を眺め、静かに魅入る。 水面に映る燈は、まるで自分たちのようだ。 朧で、儚く見えても、幾らでも抗い再び燈り続ける。 ――きっと、言いなりのままでは終わらない。 禽の面の奥で、燈火のような赤い光が揺れている。それを視とめて、少女の姿をした主はくつりと笑った。 「従者の中からお前を呼んだのは偶々だったが……よかったな」 享楽的なその眼差しに、何処か穏やかな、慈悲の色が浮かぶ。 ルサンチマンの中に現れたその変化を、恐らくはこの主こそが、最も満足しているのだろう。 ◇ ロストナンバーの為に運行された座敷船から、世界計の聳える龍王の中州へと続く五色の燈の路を三人の男たちが進んでいく。 「この先に彼が居るんだね」 「噫。私も逢うのは初めてだが」 酒樽を抱えた雪・ウーヴェイル・サツキガハラと隣を行く蓮見沢理比古のあまりの自然体に、虚空は何処か呆れた様子だ。 「いや、それつまり神だろ……なんでそんなに平然としてられんだよ」 「平然とはしていない。この世のカミの根源に逢えるのだから」 光栄な事だと雪が応え、理比古はにこにこと笑う、彼らの反応に虚空は僅かに息を吐いた。 「これは全部我ァが仕入れたもんよ。やらぬぞー」 『――昨夜に続き、未だ呑むか、狐よ』 樽に入った酒を、酔いどれ狐と化した逸儀が空けていく。水上に現れた巨大な黄金の燈。王の眼を模した其れが、驚きを顕わすように瞬いていた。 その岸辺に、白い精霊の姿が現れた。 「龍王、貴方に聞きたい事がある」 真摯な問い掛けに黄金の燈が揺れる。先を促すような仕種に応え、イルファーンは掌を胸元に当てる。 「貴方はこの世界を愛しているのか。――貴方にとって、朱昏とは何だ?」 瞑目。 『全てだ』 そして還る、迷いのない言葉。 『我にとって中津国とは見届け、護り、導くもの。人が其れを情と呼ぶのであれば、そうなのだろう』 深い意味を求めた事もないと、人智を超えた神は応える。 そうか、とイルファーンは頷き、深く首を垂れた。 「僕は世界から捨てられた。もう戻るつもりはない」 人と生きる精霊の存在は、人にとって悲劇しか齎さなかった。 「だが、あの世界を、人々を愛する気持ちは本物だ」 『そうか』 「生き難うてしかたなかろーに」 その告白を穏やかに受け止める王と、その隣で茶化すような声を掛ける逸儀。両者にやんわりとした笑みを返しながら、精霊は姿勢を正した。 「貴方も同じ気持ちなら、判るんじゃないかと思ってね」 『さて。汝は充たされたか?』 「――噫。しばらく傍に居させてほしい」 精霊の申し出を、龍王は受け入れた。 雪ら三人もまた、中州の一角を借りて王と対峙する。 雪が差し入れた酒樽は逸儀を特に喜ばせた。最早人の姿を取るのも忘れ、酒樽に突っ込む姿を王ですら苦笑して眺める。理比古の差し入れた菓子と虚空の淹れた茶も在って、その一角だけは何処か茶席のような長閑さを保っていた。 「俺の親しい友人も竜なんです」 気高くも豪放な漆黒の竜の姿を脳裏に浮かべながら、理比古は言う。黄金の燈火が瞬く。 「彼も、人や世界がゆっくりと行き過ぎてゆくのを見つめている気がする」 穏やかに友の事を語る彼を、雪も、虚空も、暖かな眼差しで見守っていた。 「――長くを生きる事は、寂しくはないですか。小さな命を見つめる事は、愛しいですか」 鋼色の瞳が静かに見上げるのを、龍王の燈はただゆらりと受け容れる。 『大も小もない。中津国を生きる命は全て、我が護るべきもの』 「……そう、ですね」 強大な力と永遠にも等しい命を持ちながら、こうして人と友好的に接してくれる彼らのような存在を、理比古は愛おしく思う。 尽きぬ会話の中、雪が徐に立ち上がり、龍王の前へと進み出た。 水面に浮かぶ五色の燈がぐるりと円を描き、異国のミコの舞台を創る。 黒紙に白墨で、雄々しき龍の描かれたその陣を置き、深く頭を垂れる。 「この世界が永く平らかであるよう、祈念し奉る」 水平に掲げた剣とともに、そう唱え――白銀の剣閃を、舞わせた。 五色の光の中央で、ゆったりと、しかし凛とした所作で異国のミコが舞い踊る。 朱昏の王もひととき、その剣舞に魅入った。 『汝らか』 新たな来訪者――玖郎と雪深終の姿を捉え、王の眼がゆらりと揺らめいた。 終は僅かに頭を下げ、龍王の燈を仰ぐ。 「今まで旅人として何度も世話になった」 そして新しく、住人としての挨拶を――と思い、終は此処へ来た。玖郎はただ無言で、しかし彼にも何かの理由があるのだろう。 「俺は此処に根差し、改めて世話になる……予定だ」 『承知しておる。好きにせよ』 挨拶を終えた終の隣で、玖郎が朴訥に言葉を添える。 朱昏との関わりの中で龍王に問いたい事が幾つか在ったのだ。 「東西の宝珠をひとの預かりとしたは何故か」 『西と東は人の世だからだ。乱を起こし、時代が変わっていくのは人の常だ。それは宝珠が在ろうと無かろうと変わらぬ』 龍王は静かに、それとだけ応える。東西の宝珠は人の手の中に在るこそが是なのだ、と。 「……過日、丹儀速日とまみえた」 『彼(あれ)か』 「もはや枷は不要におもえるが、今更たがえた理を戻すは大儀か」 『先日同じ事を訊かれたが――彼らは自ずから望んで儀莱の地を担っている』 ゆえ、無理に引き戻す必要はない、と龍王は語った。 玖郎もまた、それを強く推しはしない。彼らの最期は己が記憶に留めているのだから。 「……序でと言っては何だが」 徐に終が言葉を切り出す。 「儀莱の様子、を、見せては貰えないか」 ――この手で掴み損ねた命。 儀莱へと渡った彼の姿を、と。 『汝ならばその脚で向かえよう』 「いや……儀莱には、もう、己の身にその時が来るまで出向かぬつもりだ」 『そうか。ならば』 声と共に、彼らの立つ岸に近い水面が、小さな波紋を描いた。 二人が其方へ視線を向ければ、水鏡に映像が結ばれる。 色鮮やかな花に埋もれた島。黄金の花が咲き乱れる集落。 老竹色の着流しに、菊塵の羽織。黒を喪った、生白い横貌。 いつか見た眩惑によく似た姿で、終の求めた男は其処に映っていた。 ふらり、と或る邸の庭に足を踏み入れる。集落の中でも最も大きな、祝女の住まう邸へ。 縁側に坐していた、神夷の装束を羽織る祝女が立ち上がって、新たな住人を出迎える。 その唇が笑みを刷き、何事かを紡いだが、水鏡は音を介さない。 ――槐の花の下、二人の男女は再び出会った。 其れだけを確認し、終は安堵と共に龍王に頭を下げた。 「……邪魔をした」 玖郎もまた、二対の翼を広げ、龍王へ向け朴訥にそう云う。 『構わぬ』 「統治者の在り方を知らずば、棲まうを拒まれるやもと思ってな」 「――玖郎?」 その言葉に、終が驚いたように彼を振り返ったが、玖郎は意にも介さない。 龍王は暫しの沈黙の末、応えた。 『汝は既に北の地より許しを得ておろう。今更我が拒む筈もない』 「……そうか」 頭上に現れた真理数、其れこそがただ一つの赦しなのだと。 朱昏を担う王は、そう語った。 ◇ 祭を終え、続々とロストレイルの停車場へ帰還する旅人たちを、二つの三味線の音色が迎え入れる。菊絵のトラベルギアと、灰燕の従者が奏でる白犬(レタルセタ)のものだ。 「灯緒、達者でな」 「そちらこそ」 乗車口近くで寝そべり、旅人達の帰りを待つ怠惰な猫に、アマリリスが声を掛けた。この列車で0世界へ戻れば、次に乗るのはカンダータ行きの片道切符になるだろう。感慨と共にステップを昇る。 音色が止む。 演奏を終えた三味線を奇兵衛に預け、菊絵は不器用な少女の貌で微笑んだ。 「菊絵」 パスホルダーを受け取り際、碧が菊絵に声を掛ける。 「……世界の広さを知れた事は、私にとって驚きばかりだ」 「うん、私も、そう」 「故郷について、考える機ともなったな。おまえはどうだ?」 これから故郷に還る娘に、碧はそう問いかけた。 「あのね、世界の広い……より、みんなのほうが、もっとすごかったよ。だから、私もちゃんと向き合わなきゃって、思えたの」 「――そうか」 はにかんで応える少女に、碧の唇にも僅かな笑みが浮かぶ。 世界司書たちや、終と玖郎、ほのかにゼロ、少し離れた所にヌマブチの姿まで――今まで彼女に関わった様々な人たちが、菊絵の新たな旅路を見届けんと、その場に留まっている。 「みんな、今までどうもありがとう」 笑顔はやがて、涙に彩られ。 溢れる思い、掠れる聲を抑えながら、菊絵は旅人たちに手を振った。 「さよなら」 そして、列車は岸を発つ。 騒乱の夜が明け、平和な一年を迎えるであろう世界と、西国の守に見送られながら。 <了>
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