「心をひとつ、救っていただきたいのです」 リベル・セヴァンは静かにそう切り出した。 言葉こそ淡々としていたが、彼女の蒼の双眸には、かすかな悼みの色彩がある。「場所はインヤンガイの一画、街区で言えばリューシャン」 インヤンガイと言えば、つい最近巡節祭と呼ばれる祝祭が賑やかに執り行われたばかりの世界だ。かの陰鬱なる霊力都市にも、楽しい時間は存在するということだろう。「私が詩的な物言いなど、と思われるかもしれませんが……私の導きの書が、死者の慟哭をひとつ、拾ったようなのです」 リベルが言うには、リューシャンという街区には、巡節祭終了後少し経ってから行われる静かな祭があるのだそうだ。「祭と言うよりも、奉り、かもしれません」 浄焔会(ジョウエンエ)と呼ばれる、もう三日もすれば執り行われるそれは、リューシャンの中央広場に特別にしつらえた大きな祭壇で、調合された様々な薬草や穢れを祓うための形代、無念を抱いて死んだ人々の遺品などを焼き、すべてを焔に載せて天に送り届けるための祭だという。 それに関わることなのかと誰かが問えば、リベルは小さくうなずいた。「彼女は、恨みの念を取り除いて、心残りと苦しみを癒し、現世への執着を断ち切ってほしいのだそうです。このまま居座って、誰かに害なす存在へと成り果てる前に、自分を解き放ってほしいと」 そこで一旦言葉を切り、「現地の探偵に協力をお願いしておきましたので、詳しくはそちらを。彼の方でも、どうやらこの件を解決すべく動いているようですから、私が五月蝿く何かを申し上げるよりも判り易いでしょう。――ただ、そうですね」 どこか遠くを見つめたリベルの脳裏には、いかなる思いが去来しているのか。「出来得る限りの優しい結末を、私は望みます」 彼女はそう言って、よろしくお願いします、と頭を下げたのだった。 * * * * * どこか草臥れた風情の探偵は、シュエランと名乗った。 彼の事務所は小さくて狭いが、丁寧に整理整頓がされていて、居心地が悪いとは感じない。「……何、助手が綺麗好きでね、俺としても助かってるんだが」 シュエランが、旅人たちに、狭くて済まないが、とソファを勧めつつ今回の案件に関する資料を取り出していると、女性がひとり、ティーカップの載ったトレイを手に入って来た。 流麗な所作でカップを置いてゆく彼女を面映げに見つめてから、シュエランは女性をハイリィと紹介した。 聞けば、哀しみのあまり狂ってとてつもなく大きな事件を引き起こした彼女を、別の旅人たちが説得して目覚めさせたとかで、現在は罪の償いのため、こうして探偵見習いをしているのだと言う。「生に勝る償いはないと俺は思うんだよ。生きてなすことにこそ意味がある……こんな、芥だらけの街であっても、だ」 シュエランはそう言い、茶を勧めて、旅人たちがめいめいにカップを取るのを見計らい資料を提示した。「簡単に言うと、暴霊が出た。死体憑依型の暴霊で、自らの骸を動かしている状態だ。暴霊はまだここに留まっているが、多分誰かを害そうとか苦しめようという意識は持っていない」 暴霊となったのは、今年で三十七歳になったばかりの女性。 名をユイファという彼女には、年の離れた弟と、弟と同い年の義妹がいる。 弟の誕生と同時に両親をなくしたユイファは、自分の人生すら捧げて彼を育てた。 姉の愛情を一身に受けて、弟、ヤンフォンは健やかに成長し、リューシャン街区の特別なお祭である浄焔会に関わる職人となった。「浄焔会ってのは、苦しみの多い日々の中で、この辺りの人間がすべての重荷を下ろすことを許される大切な日なんだ。だから、その職人は尊敬されるし、同時に高い技術を求められる。ヤンフォンは二十二歳という若さで、熟練の浄焔職人に劣らぬ焔を創る」 死んでいった人々への哀惜、未だ癒されぬ苦悩、重苦しい過去。 そんなものを慰め、癒し、明日への架け橋とするために、浄焔会はある。 人々は、美しく清らかな焔に、浮き世の憂いをほんの一時忘れ、喪われたすべてのものに、変わらぬ――しかし決して悲哀ばかりではない、強い思いを捧げる。 ユイファが、そんな貴い祭の職人となった弟を、どれほど誇りに思っていたか、想像に難くない。 姉と弟、ふたりだけの、慎ましいが穏やかで優しい日々に新顔が加わったのは一年前のことだという。 ヤンフォンが、師匠である浄焔職人の娘と恋に落ち、所帯を持ったのだ。 ユイファはそれをとても喜んで、義妹となった娘、リーファンを、実の妹のように可愛がり、慈しんだ。リーファンも義姉に懐き、またとても頼りにして、三人は実のきょうだいのように仲良く暮らしていたという。 それが崩れたのが、半月ほど前。 その頃、ヤンフォンとリーファンは浄焔会の準備で忙しく、連日帰りが遅かったのだそうだ。 ユイファはそのことを酷く心配していて、事件の起きた日も、あまりにも帰りの遅いふたりを心配して――そう、何かあったのではないかと――探しに出、そして。「暴霊にな、殺されたんだよ」 詳しくは判っていないが、男の霊だという。「目撃者が、倒れたユイファの傍に影だけを見た、男の哄笑を聞いたって言ってる。……詳しく調べたが、そいつに関してはよく判らない。また何かあったら頼むかもしれないが」 シュエランはそう言って重い息を吐いた。「……ユイファは優しい女だった。年の離れた弟を、両親が遺してくれた宝物だと言って憚らず、自分は独り身を貫いてでも、弟と義妹の幸せのために働いた。弟夫婦も、そんな彼女を心底愛していた」 なあ、それでも届かない思いってのはあるのかね。 シュエランはそう呟き、資料の一枚、薄い紙を指先で弾く。「結論から言うと、ユイファは弟夫婦への怨み言で凝り固まって暴霊になった。何故そうなっちまったのかは俺には判らないが、憎しみの言葉を吐きながら、今もこの街区のどこかを彷徨っている」 どうしてわたしが。 どうして誰も助けてくれなかったの。 どうしてお前たちは幸せなのに、わたしは。 どうしてわたしから何もかも奪っていくの。 憎い、大嫌い、憎い、お前たちが代わりになればよかったのに。 どうしてわたしが死ななければならなかったの。どうして。 憎い……苦しい、苦しい、辛い、憎い。 そう、経文でも読むような陰鬱な声で、歌うように――啜り泣くように言いながら、夜の街をふらふらと歩くユイファの姿が、あちこちで目撃されるのだと言う。「もちろん弟夫婦は暴霊になったユイファを放っておこうなんて思ってないし、今でも自分たちの所為で彼女は死んだんだって自分たちを責め続けてる。せめて次の浄焔会で彼女を見送りたいと切望している。だが、何故か、ユイファは弟夫婦の前には現れないんだ」 恨んでいると言い、憎しみを撒き散らしながら、何故かもっとも憎いはずのふたりの前には現れない暴霊。 そこに真実が隠れているような気がするんだ、と、話を結び、シュエランは、ユイファの暴霊を探し出し、説得して、浄焔会の会場まで連れて来てほしい、そして彼女の魂を解き放ってやってほしい、と頭を下げた。 * * * * * 苦しい。 苦しくてたまらない。 哀しくてたまらない。 何も見えず、何も聞こえない。 どうしてわたしはここにいるんだろう。 どうしてわたしはこんなに苦しいんだろう。「憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、どうしてわたしが」 違う、そうじゃない、本当はそうじゃない。 そんなことが言いたいんじゃない、そのために留まっているんじゃない。「大嫌い、憎い、おまえたちが死ねばよかったのに、わたしを殺したのはおまえたち、憎い、苦しい、呪われてしまえばいい、苦しい、憎い」 違う、違う、違う。 どうして伝えられない。 どうして言葉にならない。 ――そうだ、わたしは、あいつに殺されたとき――……。 ああ、どうすればいい。 本当に伝えたい言葉を、どうすれば伝えられる。 苦しい。 憎い。 それは間違いじゃない。 でも、何故苦しいのか、何故憎いのか――何が憎いのか、その一番の理由を、判ってほしい。それだけなのに。「許さない、許したい、許せない、――……許して」 ああ、どうか、誰か。
1.無窮のいたみ 「……彼らも、辛いだろうな」 古ぼけた扉を見遣りながらロウ ユエがぽつりとつぶやくと、クロウ・ハーベストが青い双眸を彼に向けた。 「自分たちが遅くならなければ、姉を死なせずに済んだんだから」 「そうだな」 扉の向こう側からは、咽び泣く男女の声と、それを静かに宥める声とが響いてくる。 「少し、気になることがある」 ユエが言うと、クロウは小首を傾げた。 「気になること?」 「ああ。心残りがあったから暴霊になったのは確かなことだろうと思う。誰だって幸せになりたいし死にたくない、何故自分が……と思うのは判るんだ。だが、ユイファは、弟夫婦の前に現れてはいない。口では何を言っていても、彼女がこの世に縛り付けられているのは、彼らへの恨み辛みが原因ではないんじゃないかと」 憎しみを撒き散らしながら、しかし誰を害することもなく、ただ彷徨うばかりの暴霊。 ――世界司書リベルも言っていたではないか、暴霊が救いを求めていると。誰かを傷つける存在になり果てる前に、自分を解き放ってほしいと切望しているのだと。 それはつまり、ユイファが、弟夫婦への憎しみのみでこの世に留まっているのではないという証明に他ならないのではないかとユエは思うのだ。 「何より、憎しみが本心であったなら、ひとりきりの肉親とは言え自分のことをそっちのけで弟を最優先とは行かないのでは?」 「……そうだな」 「それとも……愛が深過ぎたからこその憎悪なのかな。だが、裏返せばやはり、つまりは弟たちを愛しているということになるんじゃないかと思うんだが」 「判らない。出来ることなら、俺がそれを問いたいと思ってるくらいだ」 クロウがどこか物憂げな表情で首を横に振ると同時に扉が開き、若い夫婦を支えるようにして、同行者ハクア・クロスフォードが姿を見せる。 涙で顔をぐしゃぐしゃにした男女は、ハクアに縋りつくように、まるでたったひとつの寄る辺のように彼の腕や服を掴み、涙で言葉をつっかえさせながら何度も何度も姉を救ってくれと懇願している。 「本当は判っているんです……僕たちは姉さんに甘えすぎていた。姉さんがいてくれるからと、彼女に余りにも沢山のものを預け過ぎていた……姉さんが本当はどう思っているのかなんて、想像もしなかった」 「義姉さんが暴霊になったのも、私たちを憎むのも、当然の報いなのだと思います。余りにも今更の後悔です。私たちは、もっと義姉さんに感謝しなくてはならなかった……もっともっと、すべきことがあったのに、何もしなかった!」 尽きぬいたみと苦しみは――取り返しのつかない後悔は、喪われたものが二度と戻らないからこそだろう。ああしておけばよかった、こうすればよかったと自分を責めたところで、何一つとして叶いはしないのだ。 「ユイファが姿を現さないのは、何故だと思う?」 どこまでも静謐なハクアが、透き通った翠玉の眼で見つめると、夫婦は首を横に振り、項垂れた。 「判りません……せめて罵ってもらえたらと思うことが醜い利己であると判って、望まずにはいられない」 「私たちのことが余りにも憎過ぎて、姿を現すことすら厭っているのかもと思います。私たちは、謝ることも、義姉さんの憎しみを受け取ることも出来ない……」 それも、きっと自分たちの所為なのだろう、と夫婦はまた新しい涙を流す。 それを見て、クロウが何とも言えないやるせない表情をした。 ロストナンバーとなった者たちは、ユエがそうであるように、様々な過去や事情を抱えている。彼にも何か、傷やいたみがあるのだろう。 「……どうなんだろうな」 ユエが呟くと、四対の視線が彼に集まる。 「俺には、ユイファと君たちの間にあった感情が嘘だとは思えない。嘘だけで続けられるようなものじゃないだろう、家族なんて。ユイファは自分が死んだら君たちが自分を酷く責めることは判ったはずだし、実際君たちはその通りだと思っているだろう?」 喪われた人々が一体何をどれだけ思っていたかなんて、当人以外の誰にも判らない。 それほど遠くない昔に喪われた、ユエの家族や同胞が、彼に対して何を伝えたかったか、彼をどう思っていてくれたのか、もう二度と確かめることが出来ないように。 「俺は思うんだよ。ユイファは、本当はそうじゃないことを伝えたいんじゃないかって」 それが儚い希望ではないとユエは断じる。 憎いと言いながら未だ暴走もせず、ただこの世に留まっていることが証だ。 「そんな、……でも」 「……お前たちは自分を責めているようだが」 惑う夫婦に向けられる、ハクアの声は素っ気ないほど静かだ。 「それは、お前たちだけが原因か」 「そうです、それ以外に何が」 「ユイファを殺したのは、お前たちではないだろう」 「! それは……」 「自分を責めることを悪いとは言わないが、苦しんでいるのはユイファも同じだ。憎しみであれ愛であれ、それはお前たちを思ってのことではないのか?」 「……ッ」 「お前たちは焔を創る職人と聞いた。浄焔会だったか、祭までに必ずユイファを見つけ出してやる、だからお前たちはすべてを焔に込めればいい。――俺たちもいる、恐れずに向き合え」 淡々とした、しかし温度のある言葉に、夫婦が身を震わせる。 「しかし、姉さんは、僕たちを憎いと……」 「……そのことだけど」 ヤンフォンが言いかけたところへ、クロウが小さく手を挙げる。 視線が彼に集まった。 「話を聞くに、どうも不自然な気がするんだ」 「不自然、とは?」 「死ぬのは怖いし苦しい。とんでもない恐怖で絶望だろうって思う。ショックの余り恨み辛みに凝り固まることだってあるかもしれない」 「ああ」 「だけど、本当に、それは彼女の意志だけなんだろうか?」 「どういうことだ」 片眉を跳ね上げてハクアが問うと、クロウは肩を竦めた。 「どうも違和感が拭えないんだ。今のユイファが、資料で見たり、住人の話を聞いたりして得たユイファ像とあまりにもかけ離れている気がして」 優しく気立てがよく、弟夫婦を愛してやまなかったというユイファ。 自分の人生を捧げるほど愛していたはずのふたりを呪い続けるユイファ。 確かに、その変異は余りにも唐突だ。 「――つまり」 クロウの青い眼が一同を見渡す。 「もしかしたら、ユイファは暴霊に殺された時、何かされたんじゃないか、って」 「!」 ヤンフォンが息を飲み、リーファンは低く悲鳴を上げて口元を覆った。 ユエは顎に手を当てて頷く。 「……考えられないことじゃないな。暴霊には特殊な力を持つものもいると聞いたことがある」 「その可能性は俺も考えた。その暴霊に、憎しみを吹き込まれた、もしくは増幅されたのかもしれない」 「ああ、俺のイメージはそんな感じ。その所為で自分の思いとは正反対のことしか言えないんだとしたら、ふたりの前に姿を現さない、現せないのも判る気がしないか?」 言ってから、クロウは、まあでも、と続ける。 「もちろん、本当は単純に、憎くて仕方ないだけなのかもしれないけどな。可能性としては、ゼロじゃないと思う」 「……そうだな」 ユエが再度頷くと、なら、とハクアが声を上げた。 「ユイファを見つけ出すことと、彼女が何かしらの力の影響下にあるのだとしたら、それを解除することが必須になってくるな。……先行した探索組にも連絡しておこう」 その言葉に首肯し、クロウが歩き出す。 「まあとにかく、探さなきゃ話にならんな。つっても人探しに便利な能力なんてないから、うろつくだけだが」 「はは、それは俺もだ」 ユエは小さく笑って彼の隣に並んだ。 ヤンフォンとリーファンに再度浄焔会のことだけ考えるよう念押しをしたハクアが、更にその横に並ぶ。 「……残された時間は少ないのだとしても」 ぽつり、呟いたのは、クロウだった。 「せめて真実を伝えさせてやりたい」 ――まるで、自分は出来なかったから、とでも言うように。 2.オモイノウラオモテ 午前11:30。 ロストナンバーたちがリューシャン地区を訪れてから二日が経った。 ユイファの目撃情報はあちこちから寄せられるが、彼らはまだ、彷徨う暴霊に出会えてはいない。 浄焔会は明日の夕刻七時から。 つまり、猶予は、三十時間ほど。 「……いない、わね……」 オフィリア・アーレは小首を傾げて周囲を見渡した。 哀しい思いを抱いた霊魂が通り過ぎていった痕跡は感じられる。 しかし、ユイファはここにはいない。 「こちらも見当たらないな……本当に、どこにいるんだろう」 傍らの冷泉律も空を見上げて腕組みをしている。 彼の、色素の薄い眼差しの先には、薄暗い上空を飛ぶオウルフォームのセクタンがいて、周辺をくるりと回転していた。 「ねえ、律」 「ん、何?」 「さっき、弟さんたちと何を話していたの?」 「ああ」 オフィリアの問いに、律が少し笑った。 「お姉さんを殺した暴霊を憎まないで欲しい、って」 「そう……」 「誰かを憎むよりも誰かを想って生きて欲しい、って言った。もし大切な誰かを遺して死ぬようなことがあれば、俺は多分そう願って死ぬから。――ユイファさんもきっとそう願っていると思うんだ。ふたりが彼女自身にそれを確かめられるようにするから、って約束してきた」 「弟さんたちは、何と?」 「何が本当なのか判らないし、自分たちの罪に変わりはないけど、よろしくお願いしますって。ハクアさんが言ったように、向き合おうとし始めてるみたいだった」 弟夫婦は、本当にユイファを愛していたのだろう。 彼らはそれを甘えだと言って自分たちを責めていたようだが、ユイファに守られていると判っていたからこそ、のびのびと美しい焔を創ることが出来たのだろう。 ――ユイファは、そんなふたりを、自分たちばかり幸せになってと責めるような女性だったのだろうか? ユイファ自身の幸せもまた、彼らの傍にあったのではないのだろうか? 憎しみも苦しさも、生きている限り誰にでもあるものだとオフィリアは思う。 きっと、ユイファの中にもあったはずだと。 しかし所詮それは表層のことで、結局のところ、最期には、遺して逝かざるを得なかった人々の哀しみを思い、ただ心配しただけなのではないかと思うのだ。 と、そこへ、 「駄目にゃ、こっちにもいないみたいにゃ」 軽やかな身のこなしで、薄汚れたビルの隙間から猫が駆け出してきた。 そう思った瞬間、猫はオレンジの毛皮をまとった猫獣人・ポポキへと姿を変え、オフィリアと律の元へ歩み寄る。 「でも、色々判ったこともあるにゃ」 ぴんと尻尾を立てて言うポポキへ、オフィリアは色鮮やかな緑の目を向けた。 人形とは思えない精巧さで、双眸が静かな光を放つ。 「何が判ったの、ポポキ」 「にゃ、主にあの姉弟の生い立ちなんかにゃ。……オイラ最初、ユイファはヤンフォンに姉弟以上の想いを抱いてたんじゃないかと思ってたにゃけど、違うみたいにゃ」 少々照れ臭げに頭を掻き、クムリポ族の誇り高き戦士は、新たに判明したことを提示していった。 ユイファとヤンフォンの両親は、ヤンフォンが生まれた翌日、産院に押し入った強盗にナイフで滅多刺しにされて殺されたこと、当時十五歳だったユイファは、我が身を削るようにして働き、奇跡的に無事だった弟を育てたこと。当時両親が遺したわずかな蓄えは、今でも手をつけないまま弟夫婦の将来のために残してあること。 弟夫婦のために生きていたと言って過言ではないユイファにも、二十代半ばの頃には『いい人』がいたらしいこと、――しかしその彼も、通り魔によって殺されてしまったこと。 だからこそ彼女は、自分のすべてを弟と、弟の愛する娘に捧げたのだろうということ。 「クロウが言ってたにゃ、ユイファは暴霊に殺されたとき何かされたんじゃにゃいかって。だけどオイラ、ユイファには確かに憎しみもあったと思うのにゃ」 「ああ……それは、俺も思うよ。憎しみって言葉で括るのは乱暴かもしれないけど、たとえ相手が家族だって、腹の立つことも苛々することもあるだろうから。ただ、それを上回る愛情があるから破綻しないんだろう」 「そうだにゃ。ユイファは、弟が所帯を持ったり祭の準備で遅くなったりする中で、自分だけ置いてけぼりにされるようにゃ、弟が自分から離れていくようにゃ寂しい気持ちになってたと思うにゃ。――その上に、自分だけ死ぬとなれば尚更にゃ」 ユイファは確かに弟夫婦を愛していた。 しかし同時に、自分が入り込めない場所があることを寂しくも思っていた。 その寂しさを憎しみに変え、ユイファの心残りを捻じ曲げているのが彼女を殺した暴霊の力なのではないか。 ロストナンバーたちの現在の認識は、大体そんなものだろう。 「ともかく、一刻も早くユイファを見つけるにゃ。話はきっとそれからにゃ」 ポポキがそう言って、ぴんと張った髭をひくりと動かした時だ。 「あ」 律が声を上げ、 「にゃっ」 ポポキは尻尾を立てた。 「……感じたわね」 オフィリアは、薄暗い通りの向こう側を見遣る。 哀しい、重苦しい霊魂の気配が、ゆっくりと通り過ぎていくのが判る。 「行きましょう」 言って、オフィリアはふわりと浮かび上がった。 返事を待たず、気配の元へと急ぐ。 ――ユイファはすぐに見つかった。 「憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、どうしてわたしが」 身体のあちこちに無残な――明らかに致命傷と判る傷痕を覗かせ、寒々しく陰鬱な、しかし胸を締め付けられるほどの哀しみを覚える呟きを零している女など、ユイファ以外にいるはずもない。 「大嫌い、憎い、おまえたちが死ねばよかったのに、わたしを殺したのはおまえたち、憎い、苦しい、呪われてしまえばいい、苦しい、憎い」 呪いの言葉を撒き散らし、足を引きずりながらユイファは歩いていく。 まるで傷ついた巡礼のようだとオフィリアは思った。 彼女を見ていると、誰かを思い出す。……ような気がして依頼を受けた。 ひとりは嫌。惨めは嫌。……寂しいのは、嫌。 そう苦悩する、ひどく身近な誰かに、ユイファの姿が重なる。 しかし、ユイファはその誰かよりずっと優しく強い人だという確信があって、だからこそ、そんな人が苦しいままでいるべきではないと思うのだ。 「憎い、苦しい、憎い、苦しい、苦しい、哀しい、辛い……許して、どうか、許して」 一体誰に許しを請うているのだろうか、ぽろぽろと零れる切ないコトノハに、律が唇を引き結ぶのが見えた。 ポポキが懐から複雑な紋様が描かれた札を取り出す。 同じものを、オフィリアも律も、他のロストナンバーたちも持っている。 これは、『ユイファが自分を殺した暴霊の影響下にある場合』の対処方法としてハクア・クロスフォードが聖属性の魔法を封じて作った護符で、一枚一枚の威力はそれほど大きくないようだが、枚数が重なるにつれ、ユイファを縛る悪しき力を少しずつ解いてゆくだろうとのことだった。 「じゃあ……俺から」 静かな足運びで近づき、律が手にした札をそっとユイファに触れさせると、ぼろぼろに傷ついた身体がびくりと震えた。 「あ、あ、あ……」 「聞こえますか、ユイファさん」 「目を醒ますにゃ、ユイファ。待ってる人がいるんにゃから」 ポポキが護符を触れさせると、ユイファは大きく目を見開いた。 「逢いに行こう、ね、ユイファ」 ふわり、と彼女の傍らに舞い降り、オフィリアもまた静かに告げる。 「あなたの憎しみ、哀しみ苦しみもすべて受け入れたいと弟さんたちは言っているわ。そんな彼らだからこそ、あなたは自分を捧げて悔いなかったんでしょう? あなたの誇りを信じて、あなたたちで築き上げたものに、逢いに行きましょう、ユイファ」 彼らも、……あなたも、『このまま』は辛すぎる。 そんな思いとともに護符を触れさせる。 「あ、ああ……」 ユイファがまた、びくりと震えた。 見開かれた双眸に、ほんの僅か、理性の光が宿る。 ――そう思った瞬間、彼女の身体は、まるで今までここにいたことが嘘だったかのように、幻のように掻き消えた。 「はにゃっ!?」 「……消えた。そうか、こうやって出たり消えたりしながら彷徨っているから、目撃情報は多くてもなかなか出会えなかったのか……」 独白し、律がオウルフォームのセクタンを見上げると、セクタンは上空を旋回し、どこかへと飛んでいく。 それを見送った後、オフィリアはまた空へと舞い上がった。 「探しましょう、まだ時間はあるわ」 護符三枚分の力がユイファには注がれた。 他のロストナンバーたちも、じきにユイファと出会うだろう。 きっと大丈夫だ、そんな根拠のない確信とともに、オフィリアはインヤンガイの街並を行く。 3.寄る辺なき苦悩、ひとつふたつと 「なあ。……やっぱり、憎いものなのか?」 彼女の姿を目にした時、クロウ・ハーベストが口にした第一声がそれだった。 身体のあちこちに惨い傷痕を残したユイファが、空気の中から滲み出たとしか思えない唐突さで目の前に現れたことへの驚きよりも、それを知りたいと言う気持ちの方が強かったのだ。 「俺も、あんたの弟と同じ、遺された側の人間だ。だから、訊きたいんだ」 クロウが、恋人と幼馴染を理不尽な暴力で亡くしたのはいつのことだったか。 無差別殺人の犠牲となった彼女らは、クロウにとって世界のすべてで、生きる意味だった。持って生まれた能力も、それを使う意味も、彼女らの傍らにだけあった。 それなのに、その場にいなかったばかりに自分はふたりを救えず、また自分だけが生きている。 クロウは、ユイファと弟夫婦の関係に、己が境遇を重ねていた。 ユイファが弟夫婦を憎んでいるというのなら、彼女らもまた、無様に生き残った自分を憎悪しているのだろうかと、お前が死ねばよかったと罵倒したいと思っているのだろうかと、複雑な――足元がぐらつくような不安な心持ちになる。 だとすれば、自分はこれからどうすればいいのだろうか、と。 「……自分が死んで、親しい奴が生きていたら……やっぱり憎いのか?」 ユイファを見つめる眼差しは、背丈は大きくとも――表情はそれほど変わらずとも、恐らく、庇護者を見失い帰る場所をなくした幼子のような色彩を孕んでいただろう。 「なあ……頼む、教えてくれ」 童子のような頑是なさで言いながら、ぼんやりとどこかを見つめているユイファに、そっと護符を触れさせる。 「ああ……」 安堵めいた溜め息がユイファから漏れる。 話に聞いていたより格段に静けさを増した眼差しが、しかしまだどこか茫洋とした風情で空を見上げる。 「わたし……にくい、だけど、ちがう、ほんとうは、わたし」 たどたどしい言葉が、かさかさにひび割れた唇から零れた。 痛々しい姿に、これだけでもどうにかしてやれないかと、傷を消し去る能力を持つというユエを探したが、先ほどまで確かに近い場所にいたはずの青年を見つけ出すことは出来なかった。 「……何か言いたいなら聞くぞ。こう見えて、愚痴を聞くのは慣れてるんだ」 自分が喪ったふたりの少女を思い出すから、ユイファたちの境遇を他人事とは思えず、また彼女を案じてはいるが、ユイファが何故こうなったのか、何がしたいのかなどはさっぱり判らないので、クロウはとりあえず言いたいこと、伝えたいことを口にした。 「なあ、せっかく会って話が出来るんだ、行ってみないか。――それとも、会うのも嫌なくらい、憎いのか。そういうものなのかな」 答えが返ると思って口にしていたわけではなかった。 どこか自分に言い聞かせるように話していただけだった。 しかし、 「いいえ」 唐突に応えはあった。 ユイファの茫洋とした眼差しは、クロウを見てはいなかったが、 「ほんとうは、にくんでなんか、いない」 ほろり、と零れた言葉は、確かにクロウへの返答だった。 「わたしがにくいのは、わたし」 「え?」 思わず問い返すと、 「あのこたちをゆるせず、あのこたちがぶじだったことをよろこぶよりも、わずかでもにくいとおもってしまったわたしが、わたしはいちばんにくい、ゆるせない」 朴訥に、幼女のようなたどたどしさで、ユイファが言葉を落として行く。 「ほんとうよ。あのこたちのことを、いまでもあいしているわ……」 それは、突き詰めて考えれば自分の救いにもなり得るのではないか、と、 「クロウ、こっちに――……ッ、ユイファ」 思わず言葉を失うクロウの元へ、彼とユイファに気づいたユエが走り寄ってきた。 「こんなところにいたのか。よかった……出会えて」 ユエは無残な姿に痛ましげな表情を見せ、ハクアの創った護符を触れさせながら、そっと傷痕を撫でた。それだけのことだったのに、彼の手が触れると同時に、引き裂かれ貫かれた惨い傷痕が消える。 傷が消えただけで、命が消えたことまでは隠せないはずなのに、事実肌は青褪めて冷たく、張りも失われつつあるのに、生前と同じ姿を取り戻したユイファは、先程よりも格段に穏やかに……安らかに見えた。 「ユイファ、俺たちと一緒に浄焔会に行ってくれないか」 やはりまだどこかぼんやりとしたままのユイファを真っ向から見つめ、ユエが言葉を重ねる。 「弟と会って、君が本当に伝えたかったことを伝えて欲しい。このままだと彼らは、自分たちには幸せになる資格がないと言い出しかねない。彼らは苦悩しているんだ、ユイファ、君への愛と後悔のゆえに」 命は、いついかなる場所であれ、どんな世界であっても、常に容易く喪われる。そして、多くの場合、二度と戻っては来ない。 「俺は沢山の死を見てきた。なくす辛さも、置いて逝かれる怖さも、もう二度と会えない哀しみも、嫌というほど知ってる。だけど……だから、ユイファ。交わせる言葉があるのなら、伝えていってくれないか。遺される者たちへの、せめてもの慰めに」 滔々と重ねられる思いの中に、ユエの歩んで来た道のりと、彼の背負う哀しみが見える。 「わたし……」 ユイファの視線が動き、クロウとユエを交互に見つめる。 「……あいたい」 ぽつり、そう言って、不意にユイファは姿を消した。 空気の中に溶け込むように、現れた時と同じ唐突さで。 あとには、同一ではないがよく似たいたみを背負う男ふたりが、祈るような眼差しで立ち尽くすばかり。 4.昇華、遭遇 ロストナンバーたちが事件に関わってから三日目の、午後六時。 浄焔会まで、あと一時間。 歪は、小さなカンテラを手に薄暗い路地を歩いていた。 カンテラの中には、ごくごく小さな、蝋燭より少し明るい程度の焔が灯り、周囲を静かに照らしている。 「――……こんなところにいたのか」 ユイファは、浄焔会の会場に近い、通り一本を隔てただけの路地の片隅に佇んで、ぼんやりと壁を見つめていた。 ハクアの護符が功を奏したのか、もう彼女は憎悪を口にしてはいなかった。 誰かを呪ってもいなかった。 ただ、どこか所在なげに、立ち尽くしているだけだった。 「ユイファ」 歪は視力を完全に失っているが、それ以外の感覚は飛びぬけて発達している。視力を失ったがゆえに磨き抜かれたと言って過言ではない。 今の歪には、ユイファの表情すら手に取るように判る。 見える訳ではなく、感じるだけのことだが。 「……逢いたかったんだろう、ふたりに」 言ってカンテラを掲げると、定まらなかったユイファの視線に光が灯った。 「あ……」 「判るか、やはり。あんたの弟妹が、あんたのために創った焔……どうしてもあんたに見せたかった焔だ」 歪は、直接ユイファの言葉を聴きたいと思って探索に加わった。 その時、目印になればいい、と、弟夫婦に会い、彼らに焔を創ってもらって来たのだった。 「行こう、ユイファ」 カンテラを掲げ、手を差し伸べる。 「迎えに行ったんだろう、ふたりを。顔が見たい、会いたい、結局はそれだけだったんだろう」 結果、ユイファは理不尽な――無慈悲な暴力の餌食となり、殺されてしまったけれど、 「行こう、ふたりの元へ。自分から眼を閉じていては、何も見えない」 開くための眼を失った己とは違い、ユイファにはまだ見ることが出来るのだから。 「わたし……」 ぐらり、と、ユイファの身体が揺らぐ。 歪は咄嗟に踏み込んで彼女の背を支え、そしてハクアから託された護符を巻いた手で、そっとユイファの手を取った。冷たく強張り、硬く筋張った、しかし何よりも貴い手だ、と、思った。 「逢いたい、あの子たちに」 ユイファの眼差しに、静かな理性が宿る。 歪はホッとして、破顔した。 確かにユイファが自分を取り戻す瞬間を観ることが出来たから。 「――でも、あの子たちは、わたしを許してくれるかしら」 「あんたは、ふたりがあんたを愛していないなんて思うのか?」 歪が笑って尋ねると、ユイファは首を横に振った。 血の気の失せた唇に、ほんの僅か、笑みが浮かぶ。 「ありがとう……わたしを呪縛から解き放ってくれて」 「どういたしまして、と言いたいところだが、俺だけの功績じゃない。それは、浄焔会の会場であんたを待ってる人たちに言ってくれ」 「ええ」 小さく頷き、ユイファは歪の手にしたカンテラを見つめた。 歪はカンテラをユイファに渡す。 「あの子たちが、わたしのために創ってくれたのね、これを」 「ああ」 「とても……美しいわ。あの子たちの気持ちが、真っ直ぐに伝わって来る」 「そうだな。焔は言葉とは違う。嘘も誤解もない……ありのままの、ふたりの想いのかたちだ」 焔は小さなカンテラの中で幻想的に揺らめいている。 「そうね、本当のことを、今なら、言えるわ……」 ぽつり、とユイファが呟いた。 その先は聞かずとも判ったので、歪は頷いて彼女を促す。 ――通りの向こう側から、ハクアが顔を覗かせた。 彼の持つ、最後の護符を触れさせれば、ユイファの浄化は完全になされるはずだ。 「さあ、ユイファ、」 ともに歩き出しながら言いかけた歪の言葉――歩みが止まったのは、ユイファの所為でも、ハクアの所為でもなかった。背中につめたい芯を差し込まれたような、不快で不気味な……どこか危機感をあおる感覚のゆえだった。 「歪、どうした」 向こう側から、眉をひそめたハクアが問うてくる。 歪は唇を引き結び、 「……先に行ってくれ、ユイファ、ハクア。少し、気になることがあるんだ」 訝しげにこちらを振り向きつつも進んだユイファが、ハクアの元へ辿り着き、彼が手にした護符によって完全に浄化されたのを見届けてから、踵を返した。 「すぐに戻る」 言って走り出す。 路地の奥へ向かって。 「……誰、だ……?」 歪の足取りは、視力がないとは到底思えないほど確かで、そして速い。 飛ぶようにと称するのが相応しい速さで汚れた路地裏を駆け抜けながら、先ほど感じた『何か』を探す。 何かがいた。 そいつは、陰に隠れて自分たちを見ていた。 にやにやと、下卑た笑みを浮かべて。 確認したわけでもないのに、確信だった。 「ユイファは正体不明の暴霊に殺されたんだったな……」 呟き、気配を探ると、どろりとした何かが近くにいることが判って、歪は表情を厳しくした。 あれはよくないものだ。 放っておけば、また誰かが餌食になる。 それもまた、確信だった。 「どこだ……」 全身の感覚を研ぎ澄ませ、空気の動きすら感じ取りながら、ビルとビルの間にぽっかり空いた、空き地ともいえない空き地へと踏み込む。どうやらここで行き止まりであるらしい。 『あはは、は』 癇に障る笑い声が、どこかから聞こえた。 「!」 姿は見えない。 『よく気づいたね、褒めてあげよう』 優越感に満ちた言葉と、くすくすという笑い声は、恐らく、二十代半ばから後半程度の男のものだ。 「お前は、誰だ」 この声の主こそがユイファを殺害し彼女を狂気に縛り付けた暴霊だという確信があって、また、このまま放置してはいけないという壮絶なまでの危機感が募り、歪は広場の中央で身構え、腰に佩いた一対の剣を抜き放った。 肌がびりびりする。 その何者かは、歪の問いには答えず、ただまた癇に障る笑い声を上げた。 『さあ、誰だろうね』 ゴウッ! 不意に予測もつかないほど激しい、横殴りの風が吹き付け、歪を吹き飛ばす。 成人男性としては通常程度の身長体重を持つ歪が、なすすべもなく巻き込まれ浮かび上がらされて壁に叩きつけられたほどの、物理的な圧力すら伴った、異様としか言いようのない、生臭い風だった。 「……ッ!?」 薄汚いコンクリートの壁に背中を強かに打ちつけ、息を詰めつつも剣は手放さず、すぐに態勢を立て直して身構えるのが歪の歪たる所以だ。 そんな歪の耳元を擽ってゆく、 『まだ早い……』 残酷な愉悦に満ちた囁き。 「何、」 『でも、すぐに判るよ。きっと、すぐに』 くすくすくす。 あはははははははははははははははははははははは。 哄笑、――そして、また、つむじ風。 風が収まった後、そこにはもう、何の気配も感じ取れなかった。 「……」 歪は黙ったまま剣を腰に戻し、空を見上げる。 何が見えるわけでも、感じられるわけでもなく、ただ不吉さだけが募った。 5.雄弁なれ、無音の浄焔 午後七時。 周囲には夜の気配が満ちつつある。 「姉さん……!」 ハクアに連れられて浄焔会へとやって来たユイファの姿を目にするや否や、ヤンフォンとリーファンは驚愕の表情をし――それはすぐに歓喜へと変わった――躓きながら彼女へ駆け寄り、そして彼女に抱きつき、抱き締めた。 「義姉さん、義姉さん、ごめんなさい、ありがとう、愛してる……!」 冷たく強張った、もはや血の通わぬ身体に怖じることなく、ただ最後の再会を許されたことだけを喜んで、ふたりはひたすらに感謝を、愛を告げて、もう一度逢えた喜びと別れの悲哀とを、涙というかたちで表現してみせた。 ――折しも、ここだけはすっきりとガラクタを片付けられた広場の中央では、浄焔と呼ばれる美しい、大きな焔が、わずかな空気の揺らぎによって、様々な表情を見せているところだった。 どんな材質の、何という品を燃やせばそうなるのかは判らないが、焔はあちこちで色合いを変え、風合いを変えた。 大きさでいえば、壱番世界の日本の民家が一軒、丸々入るくらいだろうか。 周辺の住民たちが、ぼろぼろになった服や人形、紙束、萎れた花、陶器の欠片、家具の一部など、様々なものを運んでは、炎の中に投じていく。 そのたび、焔は一際明るく燃え、新たな色を加えるのだ。 小さな子どもを抱いた女性が投げ込んだ革靴は、穏やかな蒼に。 背の高い少年が投じた一通の手紙は、情熱的な朱金に。 年老いた女性が捧げた花束は、目の醒めるような黄金の色に。 それぞれが、たくさんの色彩となって、焔を彩ってゆく。 焔はものを燃やすときですら音ひとつ立てず、様々な人たちの思いを飲み込んでゆく。 ユイファはそれらを、慈しむような――ひどく誇らしげな眼差しで見つめ、微笑んでいた。 「ありがとう……ごめんね。哀しい、苦しい思いをさせてしまって、ごめんなさい」 ユイファの青白い手が、弟夫婦の頭を、頬を撫でる。 「そんな、姉さん、悪いのは、」 「わたしはもう逝かなくてはならないけれど、ずっとお前たちを見守っているわ」 「っ!」 「最期に一目逢いたかったの。逢って、伝えたかった。たったひとりで死ぬことよりも、お前たちに何も言えないことだけが苦しかった。心残りだった」 「義姉さん……」 「愛しているわ、今までと変わりなく、ずっと。醜い思いがわたしになかったわけではないけれど、わたしの真実はそれだけよ。信じて……覚えていて」 「姉さん、僕は、僕たちは」 「忘れないで……ほんの少しでいいから、記憶の片隅に留めて。そして、幸せになりなさい、お互いを大切にして、よく寝てよく食べて、よく働いて、そしてよく楽しみなさい。それが、わたしの幸せでもあるのだから」 ユイファの肉体から、何かが抜け出ていこうとしている。 それが、ユイファを見守る全員に判った。 悪意から解き放たれ、伝えたかった言葉を伝えて、彼女は満たされたのだ。 心残りを失った暴霊は、この世界に留まることは出来ない。 だが、それは、とても幸せな、そして安堵すべきことではなかっただろうか? 「ありがとう……さよなら。元気で、どうか、哀しまないで。いつも笑っていて……いつも、幸せでいて」 焔は燃えゆく。 たくさんの思いを、哀しみを飲み込んで。 別れの悲嘆を受け止め、巡り行く命を抱くように。 「姉さ、」 「――……さよなら」 それが、ユイファの最後の言葉。 もはや命のない身体から、ふ、と力が抜ける。 「姉さんッ!」 「嫌よ、義姉さん!」 悲鳴のような弟夫婦の叫びの中、ふわりと薫風が吹いた。 それは姉の骸を抱いたまま泣き崩れるふたりの髪を撫で、 (わたしの願いを叶えてくれてありがとう、旅人さんたち) ロストナンバーたちの鼻腔を擽ってから、軽やかに空へと昇っていった。 あとには、煌々と燃えゆく焔が揺れるばかり。 「おまえが救われてよかった、ユイファ。どうか……安らかに」 まるで穏やかな夢の中にあるだけのような、穏やかで幸せそうな表情で弟夫婦の腕に抱かれたユイファを見遣り、ハクア・クロスフォードが小さく呟く。 「ああ……美しいな」 移した視線の先の、焔を見つめる翠玉の双眸には、何かを懐かしむような、悼むような色彩があった。 その傍らでは、難しい顔をして戻ってきていた歪が、目を覆っていた包帯を解き、浄焔職人に差し出している。 「これを……灼いてもらえるだろうか」 職人が頷き、包帯を受け取ると、彼は鬼面を懐から取り出し、顔を隠した。 「故郷に殉じることは、出来なかったが……」 小さな、誰に聴かせようというのでもない呟き。 「どうか見届けてほしい、俺の旅路を」 誰への言葉なのか、鬼面で表情は伺えなかったが、静かな言葉のそこかしこにいたみが滲む。 「探したい人がいるんだ。何も覚えていないのに、ただもう一度逢いたいと魂が叫ぶ。出会えるのかどうかすら俺には判らないが……そのために生きるのも悪くはないと思う。だから……どうか、しばらくの暇を赦してほしい」 焔へと投じられた歪の包帯は、神秘的なほど鮮やかな紫銀の焔となって、夜の空を彩った。 「……こういう光景を見ていると」 ロウ ユエは真紅の双眸を細めて焔を見上げていた。 「あいつらを、ちゃんと弔ってやりたかったと思ってしまうな。……叶わぬことだが」 唇には微苦笑が浮かぶ。 「なあ、それでも……俺は生きていくしかないんだろう」 彼の背負う重い何かと、同等の強靭なエネルギー、意志とでも言うべきそれの感じられる言葉だった。折れることも曲がることもよしとはせず、ひたすら戦い抜き意志を貫く、それが永訣を経て彼が辿り着いた答えなのだろう。 「オフィリア、どうしたのにゃ」 小首を傾げた猫獣人、ポポキが、物憂げな眼差しで焔を見つめるオフィリア・アーレに声をかけている。 「いいえ……綺麗な、清らかな焔ね」 「そうだにゃ」 「だけど……だから、かしら。少しね、寂しいとか、羨ましいって、思ってしまっただけ」 「羨ましい? はにゃ?」 「……わたしはとても不自然だから、自分の身体を軽いと思ってしまうのね、きっと。確かなつながりが、羨ましくてたまらないんだわ」 「んー、よくは判らないにゃけど、オイラも焔を見ていると不思議な気分になるにゃ。ここで、皆と一緒に焔を見ることになるにゃんて、ほんの少し前までは思っても見なかったのにゃ。……こういうのを縁とかつながりというのにゃ、きっと」 ポポキの言葉に、オフィリアはくすりと笑った。 「……そうね」 「そうにゃ」 ポポキが胸を張り、髭をぴんと張る。 そこから少し離れた場所では、クロウ・ハーベストが、やるせないような寂しいような、そんな複雑な表情で焔を見ている。 「……燃やすものがないな。出来ることなら、送ってやりたかったが」 彼の、ぽつりとした呟きの端々にも、喪ったものへのいたみが滲む。 どうすることも出来ない苦悩が。 「……」 冷泉律は、それら、人々の様子を含めた浄焔会を、父親の形見のデジタルカメラで撮影しながら、美しい焔を見つめていた。 「きっと、これもいい土産話になる」 満足げに言って、またファインダーを覗く。 ――突然の事故で律が両親を喪ったのは、彼が十三歳の時だった。 突然の別れは、律に日々を懸命に、大切に生きることの貴さを教えた。 自分が死んだ時、両親に胸を張って会うために、自分はこんなに頑張ったのだと言うために――沢山の土産話を持って逝くために、律は精一杯前を向き、顔を上げて生きるのだ。 「……ユイファさん、よかった」 安らかな表情で永遠の眠りに就くユイファの頬を、ヤンフォンとリーファンが撫でている。悲嘆の表情は、涙は消えていなかったが、最期に言葉を交わせた喜びと、当人に生きろと言われた希望とが、少なくともふたりの絶望を消し去ったようだった。 きっとユイファも、それを喜んでいることだろう。 「いいな、あの人たち」 ぽろりと本音が漏れて、律はハッと口元を覆った。 「……何を言ってるんだ、俺は」 彼らは辛い別れを経験したばかりなのに、羨ましいだなんて。 そう自らを戒めるものの、家族と逢えた彼らが羨ましい、妬ましいと言う気持ちは消えず、律は唇を噛んだ。 「素直に祝福も出来ないなんて」 そんな自分に嫌気が差し、今のような自分にこの場所にいる資格はない気がして、焔から遠ざかる。 物陰に隠れ、デジタルカメラに遺された両親の画像、最期の写真を出すと、ほんの少し気持ちが穏やかになるのと同時に、胸を締め付けられるようないたみが咽喉元を込み上げる。 「やっぱり……」 ぽつりと呟くと、涙がひとつ、ぽろっと零れた。 「逢いたいよ、羨ましいよ。父さん母さん、どうして俺は、もう二度と逢えないの」 ユイファの安らかな顔が脳裏を過ぎる。 ユイファは救われたのだ。 自分は両親の最期を看取れず、逢うことも叶わなかったが、彼女と弟夫婦は出会えた。救い足り得る言葉を交わすことが出来た。 その事実に安堵したこと、自分のいたみが和らいだ気がしたことも、嘘ではなかった。 肩の上のセクタンが、律を促すように羽ばたく。 迷うな、と言われたような気がして、律は微笑んだ。 「……うん」 デジタルカメラの映像を消し、再び浄焔の傍らへ戻る。 同じロストナンバーたちが声をかけてくれるのへ応えながら、また焔を見上げる。 美しい焔だ、と素直に思った。 このいたみが癒される日は、まだ来ない。 同じように焔を見上げるロストナンバーたちも、この地域の住民たちも、きっとまだ癒されてはいないのだろう。 それでも、焔は燃えゆき、日々は連なってゆく。 厳格なまでに、立ち止まることを許さず、彼らを追い立ててゆくだろう。 「生きて歩むことに意味がある、か」 白銀の焔が天辺で揺らいだ。 翡翠色の焔が、地面を舐めるように踊る。 ――人々の思いといたみを飲み込んで、浄焔会は今しばらく続く。
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