ヴォロスの辺境に見渡す限りの草原がある。 そこに小さな小屋を建てて暮らす一家があった。 父親の名前はラール、大柄な男だ。黒髪に茶色の目、畑仕事で鍛えたがっしりした体躯、毎日一所懸命に働いて家族を養っている。 母親の名前はベスタ。金髪に近い茶色の髪と青い瞳、朗らかで明るく、料理が得意だ。 二人の間には子どもが一人。名前はタビタ。黒髪、青い目、この間6歳になった。ラールの畑仕事も少し手伝えるようになったし、何よりもこの春、兄になるので張り切っている。「おかあさん、おかあさん!」「はぁい」 ベスタは振り返って、取り込んでいた洗濯ものの手を止めた。 畑から駆け戻ってくるタビタが、いつものように一直線に飛びついてこようとして、寸前思いとどまる。「マール、元気?」「元気よ」 ベスタはお腹をさすってみせる。 タビタが突き出たお腹をこわごわ触っていたのはついこの間のことだったのに、今はもうその中にいる子どもに勝手に名前をつけてしまい、いつ外に出てくるの、と毎日楽しみにしている。「マール、早く出ておいで」 ぼく、待ってるから。 頬をすり寄せ囁くのに、これこれとベスタは窘めた。「あんまり早く出て来ちゃ困るでしょ。せめて、おとうさんが帰ってからでないと」「うーん」 ラールは出産のまじないに使う水を『麗しの泉』へ取りに出かけた。三日後には帰るはずだが、確かにそれまでに産まれてしまっては困る。「それに、ゆりかごも編まなくちゃいけないし」「うーん」「おとうさんが帰ってきてから編んだので間に合うかしらねえ」 ふう、とベスタは思わず額の汗を拭った。 材料の蔓は十分に揃えてくれている。出かけている間に編めると思っていたのだが、どうも体調が思わしくない。はっきり言って、何だか産まれてしまいそうな気がする。「ぼく、編むよ!」 少しは教えてもらったし、と意気込むタビタの気持ちは嬉しいが、生まれたての赤ん坊を寝かせるかごだ、中途半端な出来でも困る。「……それよりもねえ、タビタ」 ベスタは考えた後、切り出した。「『旅人』さんにお願いしてきてくれないかしら」「『旅人』さん? うん、わかった。ぼく、頼んでくる」 ぱっと顔を輝かせたタビタは、いそいそと少し離れた小さな洞窟へ向かった。 洞窟は、人一人が通れるか通れないかの狭い入り口、中はかなり深く遠く続くと聞く。一人で入っちゃ駄目だって言われてるけど、いつか探検してみたい。 けれど、今はそれを我慢して、タビタは洞窟の入り口で大声で叫んだ。「『旅人』さーん! マールのゆりかごを編むのを、手伝いに来てくださーい!」 さーい、さーい、と声が反響して響くのを確かめ、これでよし、とタビタは頷いた。 洞窟のうんと奥に、『旅人』さんと呼ばれる不思議な人たちが居て、時々タビタ達を助けてくれる。両親が出会った時も助けてもらったそうだ。 困った時にはこの洞窟にお願いしてくれ、そうすれば、私達にはわかるから。 そう言い残したことばの通り、今までもいろいろ助けてもらっている。「…そうだ」 思いついて、タビタはちょっと小さな声で付け加えた。「『旅人』さーん。できたら、ぼくと少し遊んでくださーい」 父親不在の家と母を守るのは自分の役目だとは思っているけど、時には少し淋しくなる。ゆりかごを編むのを手伝ってくれるついでに、ちょっと遊んでくれるともっと嬉しい。「待ってまーす!」 よし、これで十分だ。 いつかの父親のことばをまねして胸を張り、タビタは急いで家に戻った。「ヴォロスからの依頼です」 鳴海はおそるおそるチケットを見せた。「内容は、えーと、赤ん坊のゆりかごを作ってほしい、です」「はあ?」「何それ」 世界の新たな展開か、と期待に満ちた顔がきょとんとするのに慌てて付け加える。「ついでに6歳の男の子と遊んでもらえると」「何で」「出産間近の母親のために、父親は特別な水を取りに行って不在です。母親はぼつぼつ産まれそうだと感じているんですが、出産準備ができていません。そのお手伝いを……ああ、それに」 鳴海は急いで『導きの書』を繰った。「父親の出向いた『麗しの泉』ですが、出血を止めたり回復を早めたりする不思議な水です。最近水が枯れ気味で、住民が困っているとの話もあり、原因調査もお願いできたらと」「おいおい」 むしろ、そっちの方がこっち向きの仕事じゃね?「そ、そうですかね。あ、でも、困ってるのは母親ですし、依頼は男の子からですから」 突っ込みに、理由にならない反論をした鳴海は、「頑張って、ゆりかごを編んで、男の子と遊んで上げて下さい。よろしくお願いします」 こういう、小さな願いを叶えるのも、世界の安定には大事だと思うんですよね、と小さく付け加えて頭を下げた。
タビタは『旅人』の訪問を待ちかねていたのだろう。草原の彼方からゆっくり近づくロストナンバー達を見つけたのは彼が先だった。 「あっ、『旅人』さん! 『旅人』さあーん!」 ぴょんぴょん跳ね飛び、大きく手を振りながら声を上げているのに、走って迎えにはやってこない理由は、小屋に近づいてわかった。 ベスタの姿がない。張られたロープの側には山盛りの洗濯ものが積まれたまま。煙突から、頼りなく細く上がる煙。 「うっ、うっ、よかったあっ、来てくれたあっ」 ついに堪え切れずに走り寄ってきたタビタの顔は今にも泣き出しそうだ。 「おかあさん、昨日から、元気なくてっ」 葡萄の房の髪飾りをつけ、白いワンピース、ブーツ姿のゼシカ・ホーエンハイム、手首にリボンを結び、いつもの古びたドレスよりは簡素な、女中風の仕事着ドレスを着たオフィリア・アーレ、何やらいろいろ詰め込んでいるらしい色鮮やかなリュックと銀色ホース付き樽を背負った川原 撫子、何やら大きな板のようなものを持っている、狼の尻尾と耳付きアルウィン・ランズウィック、と一渡り見回した後、タビタはすがるように撫子を見上げた。 「あの…っ…本当に、頼んで大丈夫?」 「あら、あなたよりはお姉さんよ」 タビタの不安に、オフィリアは緑の目を細めて言い返す。人形じみた茶色の髪、確かに見かけは少女だけれど、元メイド、妊婦と男の子の二人だけで出産を迎えなくてはならないことを心配して参加したため、状況は十分に理解している。 とにかく中へ、と招き入れられ、タビタが孤軍奮闘していたのがよくわかった。 入り口付近に積まれた薪はかなり使われていて、割らずに使えそうなものがもう残り少ない。ゆりかごの素材だろうか、木箱に入った蔓や布は中途半端に組まれたままだ。コンロにかかっていた鍋には薄いスープのようなものが底に少しあるだけ、汚れものも水桶の近くに積み上がっている。 それでも、奥のベッドの周囲は何とかこぎれいに片付けられ、枕元のテーブルには木鉢に入れたスープとパンが準備されている。苦しむ母親を見守っていたのか、側に蔓が載せられた椅子が据えられている。 「ああ……『旅人』さん達…」 ベッドに寝ていたベスタは、心底ほっとしたような顔で四人を迎えた。 「ありがとうございます。何だか急にお腹が張り出して…」 心配そうな相手に、撫子は覗き込みながら笑ってみせた。 「初めましてぇ☆私は撫子って言いますぅ☆タビタくんに頼まれてやって来ましたぁ☆ベスタさんは無理せず休んでくださいぃ☆まず揺りかごを編んで、ご飯の支度をして、薪の準備をしますからぁ☆」 明るい茶色のポニーテールを揺らせる撫子に、ベスタは小さく息をついた。 「ああ…嬉しいわ」 私が調子を崩しちゃったから、あの子はほんとに一人で頑張ってくれてたの。 「けれど、何もかも間に合わないって、慌ててて」 ごはんも碌に食べさせてやれていないの。 訴えるベスタを見返す撫子の瞳は、日差しを受けて甘い茶色だ。 「パンを焼いたりスープを作ったりは得意なんですよぅ☆材料取りに行くところからだと時間かかっちゃいますけどぉ☆」 安心させるようにリュックを降ろし、中の荷物を確認しながらウィンクした。 「お湯沸かさなきゃならないと思いますのでぇ、薪割りしますぅ☆タビタくんと山に取りに行っても良いですけどぉ…在庫はどれくらいありますかぁ?」 「薪ならそこに……助かるわ」 「清潔な木綿のさらしは沢山持ってきましたからぁ、良かったら使って下さいぃ☆」 リュックから取り出したのは、その他にも鉈、乾燥した孟宗竹一節、小刀、錐、紙やすり。横から覗き込みながら、タビタも目を丸くしている。 「おとうさんみたい……これ全部お姉ちゃんが使うの? 薪も割れるの? 力持ちなんだね」 「ぐ★」 そこは一応女性に対しての配慮なりなんなりないと大きくなってモテないぞとか突っ込みたいところだが、押し殺して撫子はにっこり笑って振り返る。 「タビタくんも一杯頑張ってくれたからぁ☆ここは私達に任せてぇ☆ちょっと一休みしてきてねぇ☆」 「う、うん、でも」 「タビタ!」 アルウィンが茶色のふかふか髪の下、満面の笑顔で呼びかけた。 「かーちゃん、安心してマール産めるよーにな」 離れ難いタビタの気持ちは何となくわかるから、タビタを案じるベスタに笑う。 「とーちゃんかーちゃん元気だと子供も元気。だから無理しないで任せろ。使う物とかお洗濯しとく?」 遊べと言われても、タビタも心配や不安ですぐには遊びに夢中になれないだろう。先に少しでも一緒に手伝おう、そういう気配を読み取ってくれたのか、ベスタが促した。 「じゃあ、ごめんなさい、お洗濯はできたけど、畑まで手が回っていないの、水やりと雑草取りをお願いできる?」 「うん、行こう、タビタ!」 「うん!」 元気のいいアルウィンに促され、それでもずっと外に出て走り回りたかったのだろう、タビタがいそいそと走り出していく。 「ねえ、その耳と尻尾、本物? 触っていい?」 遠ざかりながら、興味津々のタビタの声が響く。 「さて、ではかかりますかぁ☆」 「まずは片付けからですね」 腕まくりをし洗い物にかかる撫子、おっとりとした動作ながら手際良く部屋を片付けていくオフィリア、ゼシカはぞうさんじょうろで散らかっている道具や箱に水をかける。ゼシカのトラベルギアの力で、よいしょ、よいしょ、と体をくねらせた洗濯バサミが立ち上がって一列になって外へ出て行き、小さな箱達がころんころん転がりながら、元片付けられていたらしい隅へ積み上がっていく。驚きに目を見張るベスタに、ゼシカはおずおずと近づいた。 「あのね、ベスタさんにお願いがあるの……おなかなでなでしていい?」 愛らしい青い瞳にねだられて、ベスタは微笑む。 「ええどうぞ」 ほっとした顔でゼシカは握りしめていたこぶしを開いて、ベスタの張ったお腹に触れた。掌の下で勢いよく小さな突起が蹴り返し、ぱっと顔を輝かせる。 「あ、動いた! 元気な赤ちゃん……きっとお兄ちゃんに負けない位のお転婆さんね」 「きっとそうね……まだ予定日は先なのに、もう出たがってるんですもの」 嬉しそうに笑うゼシカに、ベスタは目を細める。その優しい笑みに、ゼシカはどこかうっとりと呟いた。 「ゼシもね、ぼんやりとだけど覚えてるの」 おなかをなでる優しい手のぬくもり、『待ってますよ』と囁く男の人の声。 「ママとパパのこと」 そろり、そろり、とベスタを撫でるゼシカは、遠い昔の自分がベスタのお腹に眠っているように思っているのかも知れない。やがて、一つ頷いて顔を上げた。 「ゼシね、お母さんのお手伝いする」 赤ちゃんがぐっすり眠れるゆりかごを編むわ。わからない作業は一から教えてもらってうーんとがんばる。お料理やお洗濯、なんでも言ってね。 「ゼシもうお姉さんだもの、孤児院では先生のお手伝い一杯して褒められたんだから」 孤児院、と口にした時、ベスタが一瞬眉を寄せ、それから静かにゼシカの頭に手をやった。大切で愛おしいものを守るように艶やかな金髪を撫でる。 「ありがとう、ゼシちゃん。じゃあ、一つだけ、お願いしてもいいかしら」 小首を傾げてゼシカは見上げた。 「お家の片付けもご飯の支度もお洗濯も、いろいろお願いしたいけれど、ゼシちゃんにしかできないことをお願いしていい?」 小さく頷く。 「マールはここに居て、タビタは頑張ってくれていて、ラールはきっともうすぐ帰ってくれるだろうけど」 私は今、ちょっと不安で寂しいの。 「少しだけ一緒に居てくれる?」 ゼシカはつん、と胸が突かれたような気になった。 依頼を受けた時から、幸せ一杯、素敵な家族だと思っていた。ゼシカの母親は彼女を産んですぐに亡くなった。父親はどこかに行ってしまった。寂しくない、必ずまた会えると思っている、言い聞かせている、けど、本当はちょっとだけ寂しい。 差し伸べられた優しい手に抱き取られるように、ベッドのベスタに身を寄せてくっつく。とくとく響く温かな音、久しぶりに感じる柔らかな匂い、甘い体温。 (ごめんねマールちゃん、ちょっとだけお母さんを貸してね。すぐ返すわ) もう戻れない場所ではあるけど、少しだけ赤ん坊に戻って、甘えんぼになって。 「ゼシも早くマールちゃんに会いたい」 呟いて、目を閉じ、胸の中で考える。 産まれて来たら、子守歌にマザーグースを唄って上げよう。 「困ってる人いればお手伝いするのが騎士!」 アルウィンは高らかに宣言しながら、水桶を畑に運び、タビタと一緒に水を撒く。雑草も結構伸びてきているが、それほど始末には困らなかった。第一、作物が元気で勢いがある。色づき始めた果実もあり、手入れの良さが伺える。 「騎士?」 「そうだ、アルウィンは騎士だ!」 誇らしく胸を張り、タビタに笑う。 「タビタはどんな兄になる? 何してあげる?」 じゃぶん、ばしゃん! 次の水桶をまた担いできて、ざぶん、ばしゃん! 「…強い男になりたい、おとうさんみたいに。困った時とか、絶対、おとうさんはちゃんとしてくれるもん。うん…おとうさんは、騎士、みたいなんだ」 ざぶん、ばしゃん! 「マールが泣いたり、怪我したりしないように、守るんだ!」 ざぶん、ばしゃん! アルウィンは自分の兄達を思い出す。兄達も遊んでくれるし、優しい。悪さをすれば叱られる。兄は妹のお手本だから、兄を見てアルウィンは多くのことを学んできた。アルウィンは兄達を今までもこれからも、ずっとずっと誇りに思うだろう。 「よし頑張れ!」 タビタもきっとそうだろう。きっとマールのいい兄になる。あんなに必死になって、母親と妹を守ろうとするまっすぐな心は、きっとどんどん伸びていく。 「じゃあ、次は遊ぼう!」 「えっ……うん!」 一瞬迷った顔になったが、タビタはすぐに笑顔になった。 そのタビタの前でアルウィンが取り出したのは一枚の段ボール。 「何? 木?」 「これはこうやって使うんだ!」 少し離れた場所にお誂え向きの小さな丘がある。そこへ一気に駆け上り、慌ててついてきたタビタの目の前で、段ボールを尻に敷き込み、そりのように地面を蹴って滑り降りた。千切れた草が飛び、青い匂いが立つ。風を切る爽快感、最後までちゃんと目を開けていなくては変な方向に転がるどきどき感。 「わあああいいっ!」「う、わあああっっ!」 タビタが興奮して隣を一緒に駆け下りてくる。 「今度はタビタ!」「うんっ!」 再び一緒に駆け上がり、交代して顔を紅潮させたタビタが段ボールに乗って地面を蹴った。草の根に滑り落ちていた朝露が、弾かれて日に煌めき、顔に飛ぶ。上下に揺さぶられて、ほら跳ねた! 「わっ…あはははっっ!」「すごいな、タビタっ!!」 バランスを崩して半分転がり落ちながら、吹き零れるように笑い声が響く。 思えばタビタの服もほとんど汚れていなかった。こんなふうに夢中で遊ぶのをずっと我慢していたのだろう。草に塗れ、泥にまみれ、体中汚しても構わない、なんなら一緒に水浴びしてついでに服も洗っちゃえ! 何度も何度も滑り降りてはしゃぎまくる。 「まだまだあるぞ!」「何それ!」 「こうやんだあっ!」「うわああっっ!」 もう一つ、アルウィンが持って来たのはソフトバレー用ボールと空気入れ、目の前で空気を入れて見せて思い切り蹴る。遊びながらルールを教えた。人や獣に強く当てないんだぞ。うん、わかった。いつかマールも遊べるように、柔らかな素材を選んだつもりだ。大笑いしながら追いかけて、蹴って、放り投げてまた追って。 「次何するっ?」「木登りっ!」「それからっ?」「魚釣りっ!」 お日様はまだまだ高い。全力で遊ぼう! 「わかりましたぁ☆こういう感じですかぁ☆」 「ええ、そう、とても上手よ」 撫子は材料の入った木箱の前に腰を据え、ベスタの指導を受けながらゆりかごを編み始めている。 台所には温かな煮物焼き物が揃い、蒸した魚も酸味の効いた果実のソースをかけられて湯気が上がっている。柔らかく似た肉と根菜のシチュー、木の実を入れたパンケーキの香ばしい匂い。 オフィリアは細々とした整理と、干し上がった洗濯ものを畳んで片付けている。一番高い干し竿は撫子がようやく届く高さだったに、遥かに小柄なオフィリアはいつの間にかさくさく取り込んでいて、ベスタが不思議がっていた。 まだ小さいのに、何でもできるのねえ、そう尋ねられて、「そうねぇ、どこで覚えたのかしら?」と自分も訝しげに首を傾げたが、とにかくいろいろなことを心得ていて、配慮があるオフィリアにベスタは安心する。 「お産を手伝いに来てくれる方はいるの? 早まるようなら連絡した方が良いのではないかしら」 いざと言う時の準備だろうか、薪や湯、撫子が持ち込んださらしや布、替えの衣類、それに大きめの桶と清潔なはさみ、糸など、色々な物品を揃え、確認しながらオフィリアが尋ねる。 「…それが……来てくれそうな人はいないの。タビタの時もラールに手伝ってもらって産んだのよ」 「そう」 頷きながら、いざという時は自分が頑張らなくてはならないだろうとオフィリアは覚悟した。経験豊富とは言えないが、一度二度なら手伝ったことがある。問題は小さな自分の体と力だが……ちらりと撫子をみやって頷く。さっきかなりの数の薪を片手に、重そうな木のテーブルを動かしていた。見かけ以上の力があるのだろう、きっと頼りになるはずだ。 ゼシカは今は、ベスタの側でマールに本を読み聞かせていた。メーテルリンクの「青い鳥」、ゼシカが一番好きな本だ。ゼシカの幸せの青い鳥はカササギ、遠く離れた父を思う。 (今度はゼシが会いに行くから……待っててね、パパ) 青い鳥を見失わないように、繋がる細い糸が切れないように祈る。 「ただいま!」「ただいまー!」 賑やかな声が入り口から響いた。アルウィンとタビタが戻ってきたようだ。 「あらあら…楽しかった?」 ぐしょぐしょに濡れた二人の頭に気づいて、オフィリアが急いで着替えさせる。 「うん、すんごく! こんなのもらった見て!」 バレーボールと段ボールを掲げて笑うタビタにベスタも嬉しそうに笑う。 「あ、アルウィンも作るぞ、ゆりかご!」 撫子の作業をいち早く見つけて、着替えたアルウィンが飛び込んでくる。故郷でも冬になるとよく作ったものだ。 「上手に出来たらマールもとーちゃんも喜ぶぞ!」 促されてタビタもやってきた。 撫子の隣で本体の上に被せる覆いを編むのに取りかかる二人に、オフィリアも加わる。本体周囲への縁飾り、底にはクッションになるように布を編み込む撫子の指先に見惚れていたタビタは、アルウィンに突かれて振り返り、目を見開く。 いつの間にか、アルウィンは蔓を筒状に編んで中に鈴を入れて閉じ、布の袋に入れていた。転がしてところころと鳴り、振るとまたちりちりと鈴が鳴る。袋だから舐めても安心、汚れたら洗える、と笑ったアルウィンが、 「ねーちゃん作ってくれたんだー。タビタ達も作る?」 「うん! マールが喜ぶよね!」 それを見ていた撫子が、細かなところにやすりをかけてゆりかごを完成させると、今度は持って来た竹を割って丁寧に削り始めた。 「竹とんぼって言ってぇ、こう削ってひごを差して…こうやって遊ぶんですよぉ☆残りの竹はタビタくんがまた作れるように置いていきますねぇ☆」 ぶん、と飛ぶ竹とんぼにタビタはまた驚き、喜んだ。 「すごいすごい! ラクックみたい!」 「ラクック?」 「時々飛んでくる大きな鳥だよ、ぶーーんって大きな音をたてて飛ぶの」 それは旨いか、とアルウィンは尋ねようとしたが、そろそろごはんにしましょう、とオフィリアの声が響いた。 夕飯はまた賑やかだった。遊び回ってお腹を空かしたタビタは、おいしい、もっと、を連発しながら、次々と出された料理を食べ、こんなに食べたのねえ、この子、とベスタを呆れさせ、ちょっぴり嘆かせた。 「ずいぶん無理をさせていたわ」 そういうベスタの顔が、昼間より少し青くて強張っているのを撫子は見逃さない。タビタがアルウィンと釣り損ねた魚の次なる攻略方法を悩んでいる隙に、そっと声をかけてみる。 「お産婆さん呼んできた方が良いですかぁ?」 「いいえ……さっきから少しずつ、痛みが出てきたわ…今夜に産まれてしまうかもしれない、わ」 ラールが居てくれたら、と小さな呟きを聞きつけて、 「池に行くのはちょっと無理かなぁ…こっちが手抜きになりそうで嫌ですぅ☆」 オフィリアが何か言いたげに空になった皿を片付けていた手を止める。 「タビタ? 眠いか?」 ふと気がつくと、アルウィンと話し込んでいたタビタが眠そうにこっくりこっくりと船を漕いでいる。緊張して母親を守り、遊び疲れて、お腹も一杯になった、もう子どもの体力では限界なのだろう。声をかけていたアルウィンも、そろそろ就寝時間を越えてきている。眠さが募っていいころだが、少しずつ苦しそうになるベスタのことが気にかかる。 「う〜ん…」 とうとうタビタがころりと横になり寝息をたて始めた。撫子が立ち上がり、軽々と抱き上げて、ベッドに運ぶ。ほっとした顔で、それを見やったベスタが、苦しそうに眉を寄せた。 「大丈夫ですか?」 「どうも……来そうね…」 しばらく痛みを堪えていたらしいベスタが、額に汗を浮かべて息を吐いた。 「少しずつ、強くなってきてるわ」 「…アルウィン、ラール見て来る」 「…え?」 すくっ、と立ったアルウィンの灰色の瞳が銀のようにきらきら輝いている。 「マール産まれそうだって言ってくる。少しでも早く帰れって」 「そんな……とても…無理よ……遠いのよ…」 再び痛みが来たのだろう、ベスタは顔をしかめた。確かに痛みの間隔も短くなっているようだ。 「アルウィン、強犬、すぐ行ける、道教えて」 ベスタはアルウィンの勢いに押されるように頷いた。 「『旅人』さん達が……見かけ通りじゃ……ないって……知ってるけど……気をつけて…ね……いくら体が強くても……怖かったら…帰ってくるのよ…?」 「ベスタさんは私達が」 「うん! いってきます!」 安心させるように言い切って飛び出して行くアルウィンを、撫子とオフィリアが見送った矢先、 「あ、あう…っ」 「ベスタさん!」 「お湯とさらし!」 お腹を抱え込んで悲鳴を上げたベスタに、オフィリアと撫子は慌てて駆け寄った。 戸口から飛び出したアルウィンはしばらく走った後、ゆっくり息を吸い込んだ。体の中の力を感じる。どんどん膨れ上がる大きな熱。突き上げる衝動、ぎりっと歯を噛み締めながら見上げると、美しい星々の空だ。 きれいだと思ったとたん、込み上げてきた声が喉を貫き、唇から溢れた。 クゥオオオオオオオーンン! 高く澄み渡った鋭い咆哮。遠くの森で同胞と勘違いしたのか、ウォルルルルウ、と声を返してくるものがいる。体が波立ち泡立ち、走り出しながら前方に倒れ込み、地面に突いた両手のこぶしはもう、狼の前足となっている。 仔狼に変身し、走り出しながらアルウィンは、周囲の獣の会話を聞いた。 『また人間が来たぞ、泉に』『またか』『まただ』『俺達の大切な泉を汚した奴の仲間か』『違う、けど人間はみんな同じだ』『同じだ』『だから魔女がとっちめてくれる』『魔女は味方だ』『俺達の味方だ』『人間を追い出せ』『人間を迷わせろ』『人間に水をやるな』 「魔女…『麗しの泉』に魔女がいんのか。だから、ラール、帰れなくなったのか」 速度を上げて、アルウィンはひたすらに『麗しの泉』へ駆ける。こうしている間にもマールが産まれているかも知れない。不思議な効力のある水を持ち帰ることも大事だけど、マールが産まれるその時に、一緒に居てやることもきっと大事だ。 草原が森になり、丘になり、山あいの裾野になった。アルウィンが進むのに気づいたのか、ちらちらと奇妙な影が行く手に動く。 「おまえら、邪魔すんな! ラール悪いことしてない!」 叫びは猛々しい唸りとなり、殺気に怯えた獣がアルウィンの側から引いていく。 やがて見えてきたのは、切り立つ崖の下に小さく開けた草地だった。 灯を掲げた男が一人、心配そうに周囲を見回している。かなりの勢いで近づいていくアルウィンが見えないはずはないのに、あちらへ向かって灯を上げ、こちらに向かって灯を下げ、まるで迷路の中にいるような振舞い、片手には重そうな革袋を持っているところを見ると、泉の水は何とか手に入れたらしい。 「ラール!」 変身を解いて駆け寄っていくと、相手はぎょっとしたように灯を上げた。 「誰だ」 「アルウィンだ! タビタに頼まれてお手伝いに来た『旅人』だ!」 「タビタに頼まれたタビタ? …おお!」 灯の間近に駆け寄って来たアルウィンにラールは目を見開いた。 「その異形…ひょっとして、『旅人』か!」 「急いで戻れ、ベスタが出発だ」 「出発? ……出産、か? なにっ」 ラールは驚いた顔で瞬きした。 「しかし、出かけてまだ二日ぐらいしかたっていないだろう?」 「そんなことない、うんとたってる! そっか、泉の魔女が傍観したんだ!」 「泉の魔女……じゃあ、あの娘か…っ」 ラールはうろたえた顔で背後の泉を振り返った。 「実は、ここへ来てすぐに道に迷ったという娘に出会って、崖の端まで送り届けたんだ。泉が最近枯れかけている、その原因を探してるとか言っていたが…」 ラールの話によれば、泉に辿り着くのは簡単だった。水を汲もうとした時、黒い髪と緑の瞳の少女に出逢い、請われて崖の端まで一緒に行き、そこにできているという地面の裂け目を覗き込んだ後、ふらふらして座り込んでしまったらしい。気がつけば、辺りは真っ暗になっている。とにかく水を汲んで帰ろうとしたら、今度は森が迫り、道がなくなり、泉の側から離れられなくなった。途方にくれている時にアルウィンが走ってきたと言う。 「とにかく帰ろう、ベスタが……」 「わかった……何だ、あれは!」 ラールがアルウィンの背後に灯を向けて驚く。 急いで振り返ったアルウィンは、暗闇の中空にふわりと浮かぶオフィリアに一瞬体の毛を逆立てた。だが、すぐに一緒に来た仲間だと気づいて、声を張る。 「し、心配ない、アルウィンの仲間」 「仲間? ああ、『旅人』の」 「……失礼いたしました。ラールさんですね?」 オフィリアが静かにお辞儀し、そっと微笑む。 「おめでとうございます……マールさんは無事に産まれましたよ」 「えっ……ベ、ベスタは? タビタは?」 驚いたラールはすぐに残りの二人を気遣った。 「もちろん、皆様お元気です」 「やったーっ! タビタ、にーちゃんだーっ!」 両手を突き上げ飛び上がったアルウィンに、ラールは顔をくしゃくしゃにして笑った。 「おんああ、おんああ、おんああっ」 「おお…よしよし」 「可愛いかというと…ちょおっと微妙ですぅ★」 ベスタの腕に抱かれて、力の限り泣いている赤ん坊に、撫子はいささか引き攣り顔だ。何せ真っ赤だし、皺だらけだし、オフィリアと力を合わせて何とか産まれさせたものの、スプラッタ映画一歩手前の状況に結構疲れた。 「これがマール…?」 さっきようやく起きてきたタビタも、いささか引いている。こわごわ覗き込むが手を伸ばそうとしない。 「ほうら…お兄ちゃんですよ」 「う…わ…っ」 ベスタがマールに触らせてやると、獣が尻尾を立てるようにタビタは硬直した。 「ちっさい…ほそい…なんか折れそう…」 慌てて手を引き、不安そうな顔でベスタを見るのに、あんたもそうだったのよ、と母親は笑い返す。 「ぼくが? ぼくもこんなのだったの?」 こんな変な、真っ赤なもの、だったの? 「捨てようとか思わなかった……?」 「思わないわよ、絶対に」 ベスタが強い声で否定した。 「だってねえ、あんなに待ってたでしょ、タビタ。あんたの時もそうだったのよ、ずっとずっと待ってたの」 早く出ておいで、早く一緒に暮らそうって。 「ふ、うん…」 タビタはそっと指を伸ばし、マールの小さな足に触る。 「うわ……ふにふにだ……ぼくと全然違う」 「あんたも始めはそうだったわ」 「じゃ、じゃあ、マールもそのうち、固くなる? 石とか踏んでも平気になる?」 「きっとね」 でも、妹なんだから、優しくしてやってよね、お兄ちゃん。 「う…うんっ」 囁かれてタビタは大きく頷く。 「…ラールに知らせてきましたわ」 どこかへ姿を消していたオフィリアがふいに戻ってきて、微笑む。 「マールも、ベスタさんも、タビタさんも皆無事だと聞いて、喜んでおられましたよ」 「ラールが? 『麗しの泉』には行けなかったのかしら」 「あうあうあ……む」 ひもじさと寒さで泣き続けているマールに、豊かな胸乳を含ませて抱き、ベスタがほっとしたのと心配なのと半分半分の顔でオフィリアを見た。 「泉の水をちゃんと汲まれたそうですが……魔女に妨害されたようです。今はもう、アルウィンと一緒に帰途につかれておられますよ」 「魔女…?」 あそこにそんなのが居たかしらねえ、とベスタが首を傾げた拍子に、乳首が口から外れたのだろう、ああううん、とマールが切なげに泣いた。 「はいはい、ここよ……おちびマール、あんたはちょっと、おっぱい吸うのがへただわねえ」 くすくすと笑うベスタは、さっきまでの修羅場が嘘のように落ち着いている。すぐに身動きはできなくて、まだまだ疲れた顔色ではあるけれど、マールを胸に抱く姿はどこか神々しくさえ見える。タビタがちょっと不安げに、ベスタの側に体を寄せる。 「マール…こら、マール、ちゃんと飲まなきゃ、大きくなれないんだぞ」 ちょんと頬を突いた顔は、既に兄の気配がある。 「ママ……ベスタさん…」 じっとマールとベスタ、タビタを見つめていたゼシカがうっすらと涙ぐんだ。 「おかしいね、ゼシ、嬉しいのに、涙が出るの」 それを振り切るように、さっきから描いているのは青い鳥の絵だ。お父さんとお母さんとタビタくんとマールちゃん、ずっと仲良く暮らせますように。繰り返し祈りながら、色を塗り重ねる。 「あうううん…」 ふいに何かに呼ばれたように、マールは乳首から口を離した。覗き込む撫子、オフィリアを見上げる瞳は甘い焦茶、きらきら輝く澄んだ色に思わずそれぞれに溜め息をつく。 「綺麗ですぅ☆」 「何て曇りのない」 「ううむあ」 「きゃ、指、ちっちゃあい☆きゅってしてくれましたよぉ☆」 「わたしの手、冷たくはないのでしょうか」 二人が差し出した指をマールが握り、まるで安心したように目を閉じた。そのままくうくう眠り始めるのに、ベスタが苦笑いする。 「あらあら、この子ってば。途中で眠っちゃうと、後でお腹が空くのにねえ、ほら、起きなさい、マール」 「あ、そうなんですかぁ☆じゃあ、えいえい、起きなさい、マール☆」 「起きて、マール」 「マール、起きろ」 つんつん三人から頬を突かれても、それどころかタビタに足の裏をくすぐられても、起きるどころか熟睡してしまう赤ん坊に、四人ともども溜め息をつき。 「いねむり小僧だ」 「でも何だか、幸せそうですぅ☆」 「このまま素直に育ってほしいわ」 「大丈夫よ」 ベスタが二人を見上げて笑う。 「こんな力強いお姉ちゃん達が産まれるのを手伝ってくれたんだもの、マールの行く末は安泰よ」 「…はい」 ようやく描きあげたゼシカが、恥ずかしそうに絵を差し出した。 「…ああ、ありがとう、ゼシちゃん」 ベスタはゼシカの描いた鳥をしみじみと眺める。 「きれいな鳥ね……幸福を運ぶという鳥なのね。…じゃあ」 これで、マールは幸運まで保証されたわけね。 「ほんとだ! ありがとう!」 楽しそうに付け加えたベスタに、タビタが顔を輝かせ、ゼシカもみんなも一杯の笑顔で笑い返す。 「ラングロッソの守りあれ」 数日後、旅立つロストナンバーに、ラールは胸をとんとんと二つ叩いて頭を下げた。 「らんぐろっそ?」 「ああ…あんた達の世界にはないんだっけな」 ラールは笑って付け加えた。 「見えない大きな力、みたいなものだ。俺達の姿をいつも見守り勇気づける」 だから、旅立つ仲間に俺達はこう祈るんだ。 「晴れの日にも嵐の日にも怯えるな。ラングロッソの守りあれ」 じゃあな、と手を振るラール一家の姿が、日差しの中でいつまでもロストナンバーを見送った。
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