フリーチケットを使って訪れたのは壱番世界、日本の、とある山深い場所にある小さなまちのさらに奥にある古民家だった。 鍛丸の知己である者の持ち物である古民家だが、住環境の不便さゆえか、持ち主はあまり滅多にこの古民家を訪うこともしないのだそうだ。 だが、訪い住まう者のいない邸宅というものは、想像よりも早くに劣化してしまう。それは防がなければならない。 という事情が関与しているのかいないのか、鍛丸は四季ごとにこの古民家を訪い、換気や掃除のついでに連れ立って来たロストナンバーたちと共に酒の席を設けてみたりもしている。 多少騒いだり、――あるいは人と異なる見目をもつ者が周辺を出歩いたところで、注意をうけることもない。驚き腰を抜かす者がいるわけでもない。何しろ近隣には民家がないのだ。周りにあるのは山の斜面を利用し拓かれた田畑のみ。 「裏手の山に、古い桜があるそうなんじゃ」 閉ざされたままでいた雨戸を開きながら、鍛丸は連れ立って来たロストナンバーの面々を見やる。 それは見事な山桜だという。その桜の花を肴に、皆で宴席でも設けようぞ。そう言い出したのは鍛丸だった。 夏に花火を催した際に同行してきた雪深 終が、古民家を囲む山々を見つめていた。 山の高い場所にはまだ融け残る雪があるらしい。吹き降りてくる風が冷たいのはそのためだろうか。もっとも、終にとってその冷たさは身を震わせるほどのものでもないのだが。「花火以来……だな」 独り言のように呟いた終に、鍛丸はうなずいた。「今回も楽しもうぞ」「そうだな……」 さほどに感情の揺らぎを浮かべることのない双眸を瞬きさせて、終は鍛丸に首肯した。 ハクア・クロスフォードは古民家の庭先で眼下に広がる風景を見つめている。 春を報せる花々が咲いていた。冬から目覚めたばかりの淡い緑が大地を染め、その中で、菜の花やレンギョウが鮮やかな黄を差している。 空にあるのは雪解けの川を思わせる澄んだ水色。糸のような雲が幾筋か、のんびりと漂い流れていた。 鍛丸が花見を主催すると聞いて、自分も一緒にと名乗り出たハクアは、眼前に広がるのどかな風景に目を細めつつ、同居している小さな少女のことを思う。 ゼシカがこの風景を見たら、どんなふうに喜ぶだろう。 せめて何か土産のひとつも持っていければ。つかの間、そう考える。 月代に剃り上げた頭髪、折り目正しい和装。 実年齢よりも年上に見られがちな老け顔の男――橡は、古民家の台所を拝借し用意してきた茶をテーブルに並べつつ、雨戸の向こうに広がる山の景色に頬をゆるめた。「すっかり様変わりしたと聞いたが……」 覚醒する前に暮らしていたのは、壱番世界における史実上では幕末と呼ばれる時代だった。あの頃に比べれば建物も食も何もかもが様変わりしたと聞き及んでいる。 が、眼前に広がる風景は、少なくとも橡の記憶にあるそれと大きな違いを見せてはいない。運良く、なのだろう。苦手とする女性もいないようだ。橡はわずかな安堵を得つつ、湯のみをひとつひとつテーブルに並べていく。 一つ、二つ、三つ、四つ「ん? 橡殿。茶の用意、ありがたい。……が、湯のみの数がひとつ多くはないかの?」「え」 鍛丸に声をかけられ、橡は湯のみの数を検める。 五つ。 今ここにいるのは橡と鍛丸、終、そしてハクア。――四人だけのはず。「さ、先ほども確認したはずなのだが」 言いながらもう一度人数を数えなおす。 一人、二人、三人、四人、「……一人多い?」 終が眉をしかめた。 橡が、今にも卒倒しそうなほどに顔面を蒼白とさせたのは、この直後のことだった。 =========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>鍛丸(csxu8904)あれっ 一人多いぞ(cmvm6882) 雪深 終(cdwh7983) 橡(cnmz5314)ハクア・クロスフォード(cxxr7037) =========
橡は震えていた。 先ほどまで庭で駆け回り遊んでいたドッグフォームセクタンの小弥太を呼び戻し、胸にしっかりと抱えながら部屋の隅で忙しなく辺りを見回している。 終が、何事かとばかりに橡を注視していたが、それもほどなく鍛丸によって制された。鍛丸は小さくかぶりを振りながら言う。 「すまぬが、弁当の用意を手伝ってはくれぬかの」 「……ああ」 うなずき、畳の上から腰を持ち上げる。それから横目に再度橡を検めた。 橡は小弥太の名を呼びながら、まだ震えている。 「ああっ……! 鍛丸殿!」 部屋から姿を消そうとした矢先の鍛丸の名を呼ばわって、立ち止まりこちらを見た鍛丸にわずかな逡巡を見せた。 「何じゃ? 橡殿」 呼び止められたはいいものの、それきり視線をうろうろとさ迷わせたまま口を開こうとしない橡に、鍛丸はわずかに首をかしげる。 橡はそれからわずかな間そうやって迷いを見せていたが、やがて意を決めたように視線を鍛丸に向けた。 「その、鍛丸殿、その、だな。……こ、ここって、その、」 「うむ」 「で、出ちゃう?」 「は?」 交わされた会話が途切れ、数拍。庭咲きを舞う蝶の姿を見つけたのか、小弥太がワンと一声吠えた。 「出ちゃうとは?」 訊ね返す鍛丸に、橡はハッとしたように顔をあげる。それから大仰にかぶりを振って、わざとらしい笑顔を満面にたたえた。 「な、何でもない」 言いながらそっと顔をそらした橡を、鍛丸の後ろで終が不思議そうに見つめていた。 三人から少し距離をとった場所で、ハクアは眉根を寄せながら部屋の一角に目をやっている。 視線の先に小さなテレビが置かれていた。先ほどまでは確かに電源はオフになっていたはずだが、誰がつけたのだろう。音楽番組にチャンネルが合っている。 MC二名とトラックマスター一名の計三名からなるスリーピースユニットが歌っている。R&B、ソウル、ヒップホップ、ファンクといったブラックミュージック、ダンスクラシックと、実に多彩な音楽性を備えたユニットだが、むろん彼らをハクアが知るはずもない。 「……いつの間に電源入れたんだ」 誰に向けたものでもない独り言だったが、橡を飛び上がらせるには充分なものを含んでいる。 橡は忙しなく部屋のあちこちを見回した後、料理の準備に向かった鍛丸たちの後を追って姿を消した。その後を小弥太が追いかけていく。 「アニマルセラピーか」 元気に吠えながら主を追いかけていった小弥太を見送って、ハクアはやはり誰に向けたものともなく呟いた。 ◇ 時は留まることもなく滔々と流れる。 時の流れから放逐された身ではあっても、ターミナルを出て時の移ろう世界に立てば、嫌でも確認する事になる。 四季は移ろう。時の理を外れ、老いを迎える事もなく、どれだけの歳月を経ても変わらぬ齢のままでいるロストナンバーたちを置いて。 桜もまた咲いては散る。仄白い花びらは、春先に降る名残の雪のように空に舞う。そうして地に伏して腐ち、腐ちた花は土壌と化して、次代のための苗床となるのだ。 ◇ 山桜の下に敷かれたゴザの上、並べられたの重箱の数の多さに、ハクアが感嘆の息を吐いた。 ソメイヨシノのそれに比べれば紅の色味の強い花が、心もち肌寒さを残す風に揺らぎわずかに吹雪く。 広げられた重箱の中を飾るのは桜の塩漬けと菜花を用いた混ぜご飯。紅と緑の見目にも鮮やかな合わせの飯の横、ふきのとうの味噌を入れた卵焼きもある。 手鞠に握られた握り飯は一見では巻かれた海苔のため、中を窺い見る事は出来ない。が、青じそやじゃこ、おかかといった、多彩な具を混ぜ込んだ飯がその中で身を潜ませていた。 むろん、白ごまを混ぜ込んだ酢飯で作ったいなり寿司もある。飯物だけでも充分に多様なものとなっていた。 根菜の炊きもの、鶏の甘辛煮、桜とカブで作った即席の甘酢漬けなどなどといった和風の重箱が並ぶ中、感嘆しつつ目をすがめるハクアの前に、橡がそっと別の重箱をひとつ差し伸べる。 「クロスフォード殿は南蛮由来の御方とお見受けする。煮物ばかりではつまらぬだろうかと思うてな」 わずかに視線を泳がせながら手渡した重箱の中、橡が用意した洋風の料理が並べられている。リーフレタスとハムとチーズを挟み込んだサンドイッチ、そら豆のクリームチーズあえ、菜花の豚肉巻き。彩りも華やかに、ハクアの目を楽しませた。 「すまない」 簡易な礼を述べ、再び重箱を検めた後、ハクアはもう一度橡を見つめる。 「うまそうだ」 言われた橡は照れくさそうに、やはり視線を泳がせた。 「湯のみと箸……五つずつでいいんだよな」 終が口を開く。その声に、橡の表情は再び一変したのだけれど。 ◇ 終の言葉に顔面を蒼白とさせた橡が小弥太を呼び寄せるのを、鍛丸は微笑みながら見ていた。 「賑やかなのは楽しいもんじゃな」 隣で重箱をつつく何者かの気配を感じ、桜の塩漬けを浮かべた茶を口にする。それからはたりと気がついて、鍛丸は目を瞬いた。 視界の先、小弥太を抱き寄せ頬ずりしている橡がいる。その隣にはハクアが、そこからわずかに離れた場所で終が皿と箸を手にしていた。 合わせて四人。では今自分が声をかけたのは、果たして。 横目に、たった今声をかけた相手の姿を検める。そこには誰の姿もない。ただ桜の紅が風に踊っているばかり。 「ふむ」 うなずいて、再び湯のみを口にした。 桜の下には何者かが住まうという。それは鬼であったり、死者の霊であったり、禍のものであったりもするようではあるが、いずれにせよ。 「西行桜も妖怪と化した桜であったな」 ひとりごちる。 美しさゆえに人を惹きつけるのが桜の罪だと歌に詠んだ西行の夢に、老桜の精が出てきて桜の咎とは何ぞやと問うた話。 桜はただ咲くだけだ。咎などあろうはずもない。そう言って舞った桜の精の舞を、花の吹雪に重ねて思う。 鍛丸はかつて山桜の傍に住んでいた。ロストナンバーとして覚醒した後、しばらくの時をそこで暮らしていた。 覚醒を迎える以前には許嫁もいた。凛とした美しさを備えた女だった。 どれほどの歳月を経ても老いを重ねる事のない身となった鍛丸を、人々は口々に鬼よと口汚く罵った。 けれど女は毎日のように鍛丸のもとを訪い、他愛のない会話を重ねてくれた。 山桜は花と葉とが同時に開く。赤茶けた葉を伴い開くその花が咲いて散るのを幾度も幾度も繰り返し見送った。女はいつまでも鍛丸を訪った。童の姿のまま時を止めた鍛丸に対し、女は留まる事なく齢を重ね続けた。 齢を重ねれば、当たり前に死という結末を迎える事となる。 後悔の念を抱かぬわけではない。覚醒を迎えた後、もしも再びすぐに再帰属を選択していたならば、仮に齢に開きは生じたとしても、少なくとも同じ歳月を過ごす事は出来ていたはずだ。 けれど、 団子に手を伸ばし、鍛丸は静かに笑う。 例え鬼でも貴方は貴方。許嫁の言葉は甘やかな棘だ。仇を討つ事のみに囚われていた鍛丸を、女の言葉は咎めるともせずに柔らかく射抜く。 「思うんじゃよ」 誰に向けたものとも知れない言葉を吐いた。桜が風に散るのを感じる。横で誰かが重箱をつつく。 「ロストナンバーは特別な者などではなく、ただ時の流れに置いて行かれた者に過ぎんのかもしれんとのう」 応えはない。 鍛丸は苦く笑い、団子をかじった。 ◇ アニマルセラピーにいそしむ橡をなだめつつ、ハクアは鍛丸に倣ってゴザの上に座る。 ターミナルに咲く桜は仄白く、花が散った後に緑の葉が伸びてくる。だがここにある桜は赤茶けた葉を伴った、いくぶん色の濃い紅色の花を咲かせていた。ターミナルに咲くのはソメイヨシノが主流なのだという。むろん、言われてもあまりピンとはこないが。 紅色の花が風に舞い上がる。空は鮮やかな青で染められていた。 覚醒する以前は花を愛で楽しむ事など考えもしなかった。覚醒を迎え、初めて花見というイベントがあるのを知った。知ったばかりの当初は、おめでたい行事もあったものだと考える程度のものだった。花の下で浮かれ騒ぐ者たちの気持ちが知れなかった。何がそうまで楽しいのか、と。横目に眺め、通り過ぎるばかりのものだったのだ。 けれど、それから十数年という歳月を経た。 時の流れから放逐されたロストナンバーには歳月の移ろいによる見目の変化は訪れないが、それでも、心情的な面においての変化は少なからず迎える事となる。 出会いもあれば別れる事もある。老いを重ねないというだけであって、基本的には不死というわけではない。致命的な事態を迎えればロストナンバーであっても死ぬのだ。 そうした中でハクアもまた、父を亡くした少女ゼシカを引き取り、生活を共にするようになった。 覚醒した後は人との間に壁を作り、必要最低限程度の交流のみを交わしていた。他人と深く交わる事など考えもせず、ただただ静かに、ひとり、思索に耽る時間を長く過ごしていた。 自分に訪れた変化には驚きを禁じえない。しかしその変化は比較的に心地よいものであって、決して悪いものではないとも思う。 変化を迎えているのは、何もハクアやハクアの周辺だけに限らない。 時の流れの無い0世界においても、それは確実に訪れている。 アリッサは父親との再会を果たした。ファミリーの中でも変化は生じている。不穏の種は決して潰えたわけではない。それでも、喜ばしい変化は確実に生じているのだ。 そうして、帰属を迎えるロストナンバーたちも序々に現れるようになってきた。そのための兆しを見せ始めた者も少なくない。 時の移ろいを放逐されたとはいえ、その流れに関わらないで生きていくのはきっと難しい。きっといずれは考えなければならない事も多くあるのだろう。 ハクア自身もそうだった。 人との交流を避け、ひとり静かに暮らしていたあの頃は、考えた事もなかった。――否、考えようともしなかった。いずれ生じるであろう問題に、まるで気付いてなどいなかった。 けれどそれは違う。今は判然として理解出来る。気付いていなかったのではない。気付こうとしていなかっただけなのだ。 ――故郷へと戻るか ――それとも別の世界に帰属するのか もしかするといずれ故郷へと通じる道も見つかるかもしれない。 故郷に置いてきた妹、神父。彼らとの再会を望まないはずがない。けれど故郷に戻れば、ハクアの立場ゆえに彼らの身を脅かす結果にもなるだろう。 考えれば身がすくむ。 何より、今は、ゼシカの事も考える。母を亡くし、父を亡くしたゼシカ。もしも今再びハクアとの別れを迎える事となれば、あの子はどう思うのだろう。 涼やかな風が頬を撫でた。 知らず、眉根にしわを寄せていた自分に気がついて、ハクアはゆっくりと目を上げた。 横から差し出されたグラスを受け取り、簡易な礼を口にする。グラスを口もとに運び、その中で揺れる酒の波の上に浮かぶ桜の花に気がついた。 今はまだ答えなど出ない。 花びらを沈めないように心をくべながら、ハクアは静かに酒を飲む。 ◇ ひとしきり小弥太で心を慰めた後、橡はひっそりと移動した。自身にとってのベストプレイスはゴザの隅。隅ならば一帯を見渡す事も出来る。 花見に参加させてもらうにあたって、橡なりの礼の意味をこめて、重箱の用意やセッティング等には積極的に手伝いを申し出た。煮炊きは不得手というわけでもない。桜湯やら桜餅といったものも多く作った。 けれど、ひとつ。少なくとも橡にとっては不穏な気配がする。それはどうにも消える事なく、この宴席のどこかでさまよっているのだ。 桜の下にはあらゆるものが引き寄せられるとは言うが、余計なものまで寄って来る必要はない。 わずかな警戒を抱きつつ、橡は杯を手に取った。酒が注がれる。礼を述べ、一口運んだ。そうして深く息を吐く。ようやく心を落ち着かせつつ、改めて山桜の花を仰ぎ見た。 春の野山の安穏とした風景に心がなごむ。杯を干せば、再び酒が注がれた。再度礼を返しつつ、橡は穏やかに目を細ませる。 「俺が覚醒する前は『花は桜、人は武士』とも言ったもんだが」 小さな笑みを含ませながら橡は告げる。横にいる誰かがうなずきを返した。 「しかし俺は、もし生まれ変わるならば、武士などは御免蒙る」 言いながら、再び杯を口にした。 「……俺やあそこが、碌でもないだけやも知れぬがな」 百年前。 あの頃は何を口にしても血の味ばかりが広がった。どれほどに評判の高い美酒を飲もうとも、どれほどに甘い餅を口にしようとも、口中に広がるのは決まって鉄の臭いを含んだ生臭い血の味だった。 評判の高い化けもの屋敷を押し付けられ、その脅威に気絶したまま迎えた百年余。目を覚ましてみれば0世界は世界樹の来襲に見舞われていたし、それが過ぎてみれば0世界は樹海へと姿を変えた。 面妖たる変化を眼前に迎え、目を覚ましたはいいが再び卒倒し気を失いそうになりもした。 そんな橡も、覚醒する前は幕末の動乱のさなかに身を置く一介の武士だった。 世は動乱の中にあったし、彼が生まれ育った藩においても世情の動乱は容赦なく波を寄せて来ていたが、それでも彼には幼馴染や仲間が多くいた。齢を重ね、腕を磨きあい、春にはやはりこうして桜を愛でつつ酒を飲んだ。 気の好い連中だった。共に藩の、国の未来を語り、自分たちがどのように生きていくべきかを熱く語り合いもした。 けれど、覚醒を迎えた後、橡は齢を重ねる事もないままに、あまつさえ気を失ったままに百年を無為に過ごしてしまった。 藩に残してきた彼らは、その後、あの迫り来る動乱の中、何を思い何を考えて生き、死んでいったのだろうか。――思えば知らず涙が浮かぶ。 好ましく思っていた者も呪わしく思っていた者も、ことごとくに皆が死んだ。もはや橡を知る者などただのひとりでさえも残ってはいない。 滲む涙をも干すような勢いで、橡は杯を一息に干した。 視界の中、桜の花にじゃれる小弥太が走り回るのが見える。 宴席には鍛丸やハクア、終の姿があるのも知れた。橡はうつむき笑って眦を緩めた。 ――今再びこうして誰かと穏やかに花見を迎える事が出来ようとは。 「俺には勿体無いなあ……」 呟いた言葉に、そんな事はないさと隣で誰かが応えた。その言葉にくすぐったさを覚え、橡は笑って肩をすくめる。それから礼を返そうとして横に目を向け、 「こ、小弥太ぁあああぅああ!! 来てうぇえええぇ!!」 そこに誰の姿もないのを知って、橡は再び小弥太を呼んだ。 ◇ 橡が何度目かになる叫びをあげている。 小弥太があるじの元に駆けて行くのを眺めつつ、終はふと視線を移ろわせた。 そういえば、誰が持ち込んできたのか、いつからか気がつけば桜の下にカラオケの設備が揃っている。もっとも、おそらくは、今この場にいる者の中でそれに気がついたのは終だけのようだ。わずかな違和感もなく、ごく当たり前のようにそこにある。自然すぎて誰も意識すらしていないのだろう。 目を細め、終は再び視線を移ろわせる。 風が運んできた桜の花びらが終のすぐ目の前でふわりと舞って、それからゆっくりと踊るように終の膝元に落ちた。 つかの間ぼうやりと花びらを見つめ、思い出したように目をしばたいて、紅色の花びらを拾い上げる。 目の前にまで持ち上げた手のひらの中、桜は何を語るわけでもなく、ただひっそりとそこにいる。 ――昔 あれはまだ子どもの時分だった。住んでいた家の裏庭に、桜の木が植わっていた。 毎年必ず見事な花を咲かせるその桜は、春に生まれた終のための樹だと、虚ろな記憶の中、終の祖母が笑って告げている。厳寒の中、遠い春を待ちわびながら眠るその桜の下で、凍りつき、眠るように死んでいた祖母。 けれど追憶はひどく漠然としていて、とても曖昧で、――つまりその記憶が事実たるものであるのかどうかすら、今となっては判然としない。 ぼうやりと考えて、けれども終は小さくかぶりを振った。 いいや、今は祖母にまつわる記憶に想いを馳せるべき時ではない。 過去の記憶を思い出したせいか、わずかにかじかみ始めたような錯覚を覚えだした指先を軽くさする。 山の奥深くには雪女が住まうのだと教えてくれたのも祖母だった。 けれど、少なくともこの山中には雪女が住まうような場所はない。あるいはもっと山の奥深く、人の足の寄らぬ辺りまで分け入って、万年雪の残る場所にまで行けば、この地に住まう雪女に出会う事もあるのだろうか。 小弥太が吠える声がする。 興に乗り始めたのだろうか。カラオケで歌う声もする。流れ出した歌は、少なくとも終は聴いた事のないものだった。そういえば先ほど、あの民家の中にあったテレビで流れていた歌によく似ているような気もする。 歌っているのは男のようだった。試しに、手のひらの中の花びらに冷気をのせ、男に向けて飛ばしてみる。歌声がわずかに震えた。 鍛丸が男に酒を勧めている。そういえばあの男の名前は何だっただろうか。考えてはみたが、まるで気に留めるでもなく対応している鍛丸を見ていると、どうでもいい事のようにも思えた。 ――不思議な感覚だ。 己がこうして人と交わり、誰かの民家に招かれ、人の生活の匂いに季節の移ろいを思うなど。 こうしていると、己も確かに人の住まう里で暮らしていた人間であったのだと、ことさらに強く感じられるような気もする。そうしてその感覚を覚えるのは、決して悪い事ではないようにも思う。 風に舞う桜の吹雪に目を細め、そのままゆっくりと視界を伏せた。 降り注ぐ陽光は、終を微睡みの淵へと誘っていく。 うつつに覗く夢の中、見えたのは遠く懐かしい、穏やかな故郷の風景だった。 ◇ 渡されたマイクを手に、鍛丸はしばしの間思案する。 鍛丸の前に流れた歌は、鍛丸には無縁とも言えるような楽曲だった。が、その歌詞はロストナンバーの事を歌っているものであるようにも思えて、嫌いではない。 ロストナンバーは永遠にエンドレス宴会 桜と共に刻み続けた歳月 古い花に、新しい酒 新しい人生 やり直したい運命 永遠に彷徨う旅人 むろん、アーララッなどと歌われたところで、その曲調に乗れるわけでもなかったが。 ハクアなどは怪訝な顔をしている。 囲まれているっ! 酒瓶によ! 陽気な魔方陣 髷が二本みえるようになってからが本番だぜ 俺たちの友情! そんな歌詞を聞き止めたのだろう。あるいは、果たして誰がそれをこの場で歌っていたのかが判らない事を怪訝に思っているのかもしれない。 いずれにせよ、鍛丸はマイクをしげしげと見つめた後、小さく息を整えた。 「儂は最近の歌は分からんのでのう。古いものしか歌えんのじゃ」 断りを入れてみる。やんやとはやし立てる声がした。小弥太を抱えた橡も手を叩いている。見れば、先ほどまで怪訝な表情で何事かを思案していたようだったハクアも、こくこくと小さく首肯していた。 鍛丸は思い切ったように咳払いをひとつして、それから不慣れな手つきでマイクを持った。 九重に、咲けども花の八重桜、いく代の春を重ぬらん。 しかるに、花の名高きは、まづ初花を急ぐなる、 近衛殿の糸桜。見渡せば柳桜をこきまぜて 唄い始めたそれは、西行の夢に現れた老木の精が、桜の美しさを語ったとされる謡曲の一節を、そのまま歌詞となしたものだ。 朗々と唄う鍛丸のその声に、山桜が静かに舞い踊る。 都は春の錦燦爛たり。 千本の桜を植え置き、その色を所の名に見する、千本の花盛り、雲路の雪に残るらん 歌声に、微睡みの中にあった終の意識が浮上する。伏せていた眼を持ち上げて、歌に踊る山桜の紅をぼうやりと見つめた。 お目覚めか、と、隣の男が声をかけてくる。終は小さくうなずいて、それから再び鍛丸の唄に耳を寄せた。 桜の下に春を想えば、眠気が強く訪ってくるように感じられる事がある。それは冬が終わり春が来れば眠りに微睡む雪女としての性であるのかもしれない。 手にした杯の中、酒が注がれる。それを一息に干せば、意識は再び微睡みの底に沈もうとした。 「……あの頃はずっと眠っていたのではないのかと、……そう思う時がある」 独り言のように落とした言に応えるように、桜がふわりと宙に舞う。 橡の腕を放れた小弥太が、桜の花が風に舞うのを追いかけるようにして駆け回っている。 橡は小さく息を吐き、呼気を整えるため、杯の中で揺れる酒を干した。 膝元近くに落ちてきた桜の花を手にとって、その美しさにまなじりを細める。 ――ああ、そうだ。 思いつき、山桜の木を仰ぐ。 落花のいくつかを土産に持ち帰る事は出来ないだろうか。――邸で待つ奇兵衛や、知己である少女に。 笑顔の面を被り決して心の底を見せぬあの男が、果たして何を考えているのかなど、橡の知るところではない。誰も奇兵衛を理解しようともしない。当人もそれを期待してなどいないのだろうが、それでも。 それでも 「あやつが花を愛でるのは、知っている」 ひっそりと告げてみた。 扇子で顔を隠し、喉を鳴らすようにして笑う男の姿が、桜の紅に浮かんで消える。 毘沙門堂の花盛り、四天王の栄華も、これにはいかに勝るべき。 鍛丸の歌は続いている。 その声に耳を寄せ、詞が含む意味を思いながら、ハクアはひとり、杯を干す。 杯の中、波打つ酒の上に桜の花びらが二枚、浮いていた。その紅に目を落とし、ハクアは静かに目元を緩める。 ――考えは尽きない。答えなど分からない。少なくとも、今はまだ。 きっとこの場にいる誰に訊ねても、正答を持つ者などいないのだろう。いつか必ず、それぞれがそれぞれの意思で進むべき道を選択していくのだ。そうしてそれが各人にとっての正答となるのだろう。 考えても、今はまだ自分が進むべき道など見えても来ない。 視線を持ち上げ、桜を仰ぐ。 桜の花は、ハクアの思案など預かり知らぬといった顔で、ただ静かに舞っていた。 ◇ 蒼穹はいつしか暮れかけていた。吹く風は肌寒さを一層強め、桜の花は風をうけて波打ち、宵の到来を報せて唄う。 「次の春は、おんしに逢いに来れるかのう」 言いながら幹を撫でた鍛丸の言葉に、今は誰も応えを返す事はない。
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