「大丈夫かね」「はあ、何とか」 白髭園長の問いに、経理担当は弱々しく笑う。「君が高所恐怖症だとは思わなかった」 早く言いたまえ、と軽く咎める声に経理担当は意外そうに眉を上げる。「私も気づきませんでした。けれど高所恐怖症ではなくて、速度恐怖症ですね。ジェットコースターがあんなに速く走るものだとは思ってもみなかったな」 でも、楽しかったです、と呟く声に、白髭園長は立ち上がって、窓から見える小さな遊園地を眺める。「私も楽しかったよ」 観覧車、ジェットコースター、回転木馬、お化け屋敷、ミラーメイズ、コーヒーカップ、バイキング、ゴーカート、射的場、チェーンタワー……他に食堂、売店、花壇に囲まれた噴水がある。トイレも4カ所、休憩のためのベンチは20カ所、チケット売り場も各ブースの他に2カ所、入ってすぐのイベント会場ではキャラクター・ショーや手品、アクロバットなども見せていた。交通手段も駅から5分、バス停留所から3分と悪くない。 だが、ここはもう閉園が決まってしまった。 現在は、これまで当地で営業してきたお礼を込めて、残り時間を存分に楽しんでもらおうと、一日に一つ、アトラクションを無料にしている。 先日は観覧車に続き、ジェットコースターを無料にした。来客はなお増えたようだ。銀髪の異国の女性が一人で乗っていた。怖さに泣き出した子どもに唄を歌って慰めていた。竜のデザインの頭巾の少年は身長制限ぎりぎりだったが、何度も乗って楽しんでいた。スレンダーな女性が、恋人なのだろう、ジェットコースターに酔ってしまった小柄な男性を介抱していたのもまた、幸せな光景だった。「園長は回転木馬に乗られたことは?」「おいおい、ジェットコースターが好きなんだぞ、あんなまったりしたものに乗る訳がないだろう」「では、お誘いします。回転木馬に乗りませんか」「君と、私と、がかね」 いささか引き攣り気味の白髭園長に経理担当はにやりと笑う。「確かにウチの回転木馬は古びています」 けれど、と楽しげにことばを続ける。「メリーゴーランド、カルーセル、呼び方はいろいろあっても、私にとってはずっと『回転木馬』です。ウチのは、1907年にヒューゴ・ハッセが作り上げた、としまえんの『カルーセル・エルドラド』ほどじゃないですが、二階建てだし、馬達もそれぞれ色も違うし凝ったリアルな造りだし、馬車も女神や天使がついているし、天井や回りに描かれている絵は世界の絶景だし、ライトアップした時なんか黄金の王冠ですよ。中央の階段を上がって、二階のリリオムに跨がって巡っていると、不器用な男の姿を描いたリチャード・ロジャースとオスカー・ハーマスタイン2世の『回転木馬』が彷彿と」「リリオム?」 白髭園長は思わず話を止めさせる。「馬に名前をつけているのかね?」「う」 経理担当ははたと口を噤んだ。「あの、その」「……不思議なものだな、一緒に長く務めていたのに、君がそれほど回転木馬を好きだなんて知らなかったよ。……よし、明日は『回転木馬』を夜間に無料開放しよう」 そして、と白髭園長は微笑んだ。「君のリリオムに乗りに行こう。私にはどの馬がいいか、君のお勧めを聞きたいんだが」「モルナールがいいです、リリオムの前の青い馬です」 経理担当の嬉しそうな顔に、白髭園長は大きく頷いた。「皆さん、いろいろとお疲れ様です」 鳴海はぺこりと頭を下げた。「新たな世界の探索も進んでいますね。館長からも皆さんのお疲れを少しでも減らせるようなことを考えて欲しいと言われてまして……」 先日から時々お願いしている依頼ですが、と微笑む。「壱番世界の、閉園間近の遊園地です。閉園までの時間を楽しんで頂こうと、一日に1つ、アトラクションを無料にしています。今回は『回転木馬』だそうです。お知り合い同士、あるいはお一人ででも如何でしょうか」 今回は夕方から夜に遊園地に着く予定です。「閉園時間が少し伸びるようです。ライトアップされた遊園地を楽しんで頂けるかも知れませんね」 真夜中には戻りますから、乗り遅れないようにお願いします、と鳴海はチケットを差し出した。
「みんなで行くんですからお弁当くらい持って行きたいですぅ☆ でも初めてお会いする方もいらっしゃいますしぃ、あんまり和食和食しない方が良いでしょぉかぁ? どう思います、鳴海さぁん?」 川原 撫子はポニーテールを揺らしながら、鳴海に相談を持ちかける。 「そ、そうですねえ」 「必要なものはぁ、リュックにレジャーシート、緑茶と紅茶入り冷水筒2本、お弁当6人前」 「6人前?」 「サンドイッチ、ロールサンド、お握り、冷めても美味しい洋食系おかず☆ そんなとこでしょぉかぁ」 「6人前?」 「うん、いいですぅ、では、出発ぅ☆」 「あの、撫子さん」 チケットは4枚、参加者は4人、でも確か今6人前って言いませんでした? 鳴海の突っ込みをよそに、撫子は大きく一つ頷いて、いそいそと準備に離れていく。 「昼食・オヤツ・夕食を遊園地で食べますよねぇ☆ 少なくとも1度は4人で食事出来るはずですぅ」 持っていく品物を指折り数えて歩いていく足取りは軽い。 「せっかく遊園地に着いたんですもん、みんなでお昼にしましょぉ☆」 着くなり、そう他の三人を弁当に誘う撫子に、青銅色の肌で豊満な肢体を持ったルサンチマンはわずかに首を傾げる。白い鳥の仮面の奥で赤い瞳が瞬き、また元通りに首を戻すと、ゆっくりと遊園地を見渡した。 目の前では、二階建ての大きな円形の舞台のようなものに、天使や綺麗な女性の像が彫りつけられた馬車や色とりどりの馬が載せられ、音楽とともにゆっくりと回っていた。あれが回転木馬なのか、と改めて凝視する。 その奥には噴水があり、カップルや小さな子どもを連れた家族連れが行き交う。左右にはミラーハウス、お化け屋敷、ゴーカートと示された看板、巨大な舟が揺れ動くものもある。奥には報告書にもあった、ジェットコースターに観覧車、お茶を飲むためのコーヒーカップの巨大なものが、人を乗せてくるくる回りながら動いているのも見て取れた。 遊園地。そう聞いた瞬間に、笑う女性と子ども達や、親しげに手を伸ばしてくる男性、老いた夫婦が振り向いてくるような光景が脳裏に浮かんだ。気がつくと、チケットを受け取り、ここへやってきていたが、いざこうしてみると、何をするのか分からない。 いそいそとベンチ近くの芝生にシートを広げ、弁当を並べ出す撫子の側に近寄り、見よう見まねで手伝ってみる。 「遊園地ではこんなふうに食事を摂るのですか」 水筒のお茶を配り、おにぎりやロールサンドイッチを手渡す撫子が、そうですよぅ、しっかり腹ごしらえしてから出かけましょう☆と頷くのに、シートに座ってみると、ふいに胸を押し上げるような懐かしさが過った。 だめよ、そんなに慌てなくていいの。もっとジュース! はい、これもおいしいわよ。…はほんとに…が好きだねえ。うん、あたし…は大好き! これもやろう、さあ! 「…」 耳の奥に甦る騒がしいほどの声。瞬いて、戸惑い、渡されたおにぎりをじっと見つめる。それからもう一度、それぞれにぱくつき始めた周囲を見渡し、考え込む。 『ここは私に異変を齎す。皆笑っている。妙な所だ。だが不快でないと感じる』 「2段のメリーゴーランドなんて珍しいじゃないですか! 閉園間近と聞いて舐めてました反省です!」 吉備サクラは、デジカメやスケッチの入った自分特製の裁縫セットを持参していた。勢いよくロールサンドイッチをほうばりながら、鋭く回転木馬の隅々をチェックしている。そのうち、我慢し切れなくなったのだろう、デジカメを手に立ち上がって回転木馬の受付に走っていった。すぐに戻ってきて、Vサインをしつつ、満面の笑顔で報告する。 「許可とってきましたよ! これは服やアクセサリーに使えそうな意匠です!しっかり記録して帰ります!」 全体像をまず撮って、それから一つ一つの馬や馬車を追いかけて撮っていく。 「こういう夢のあるワンポイント、女の子は好きだと思います。男の人でも馬の意匠を少し考えて、ネクタイの柄にするなら行けると思います」 回転木馬に乗っている相手には、回転木馬もチーフのワンポイント刺繍を考えているから資料にしたい、と話しかけている。中には、積極的にポーズをとってくれたり、ここのこういう柄が好きだな、とか、こういう服につけたいと思う、とか話してくれる子もいて、サクラは浮き浮きとスケッチにペンを走らせた。 「これ、ヴォロスの民族衣装にワンポイントで取り入れたら受けそうな気がします…」 回転木馬の意匠を取り込んだスケッチのラフ画が増えていく。 「あの、俺も、ちょっと行ってくる」 撫子から渡されたおにぎりを何とか平らげると、雪深 終は腰を浮かせた。 遊園地がどういうところなのか、興味本位で来てみたが、同行者は女性ばかり、そういうものなんだろうかと戸惑っていた。 (別に場違い、ではない、よな…多分。遊園地か…少しクラシックな印象が、だからこそ楽しめそうな…) 同行者からすれば、やや年齢層は高めな方に入る、だが初めて見るものばかりで、あちこち見て回りたくてうずうずする。自分がおにぎりを食べつつ、しきりと周囲を見回していたことは意識にないが、手持ちの懐中時計を来るや否や、園内時計と合わせて、遊び切る気は十分あった。 さっきからどんどん落ちる日が気になって気になって仕方がなかった。夜になったら、今薄ぼんやりとした光の中で見えている少しはげかけた風景の絵や、柔らかい印象の天使の像なども、灯がついて陰影が全く変わるだろう。中から見た景色も全く変わってしまうに違いない。 両手を払い、急いで回転木馬に駆け寄っていくと、ちょうど前回の時間が一巡したところで、ばらばらと人が降りてきた。いつもはどうなのかわからないが、結構並んでいる人もいるし、全員乗切れるかどうか。 「はい、どうぞ。二階も空いてますよ」 「ありがとう」 ちょっと一瞬目を見開かれて、それでも嬉しそうに促されて、終も嬉しくなった。ちょうど目の前にあった、黒い馬に跨がってみる。周囲で見ているよりも視界は高く、地面で立っている視線の二倍近い高さになった。何人もの人が乗ってきたのだろう、鞍の形を模した木彫りは、どこか全体に丸みを帯びて優しい印象、子どものためなのか、首の横に小さな握り手がついている。くるくると金色の巻き毛を彫り込んだ頭部を覗き込むと、青く塗られた大きな瞳が見返してきた。 「…うん」 精巧には作られている、瞳の睫毛まで植えられている、それでも、生身の馬よりずいぶんと小さいし、固いし、どこも動かないはずなのに、なぜだろう、賑やかになっていた音楽が一段落して、新たな音色が始まり、緩やかに動き出していくと、脚の間で馬が微かに身震いしたような感覚があった。 景色が流れ出す。撫子が座って後片付けをしているレジャーシート、デジカメ片手に回転木馬を追いかけてくるサクラを振り返る。するすると背後に流されていく姿を見送り、顔を向け直すと、やはり人数の加減で今回のには乗れなかったのか、ルサンチマンが順番を待ちながらじっとこちらを見上げている。一度は通り過ぎ、ついでもう一度回ってきて、同じ姿のルサンチマンを見つけ、終は手を振った。 指先に風が当たり、ゆっくりと上下し始める馬の背で、それを貫く柱を握って、同じように手を振ってくる見知らぬ親子連れにも手を振り返す。 ぶんわか、ぶんわか、ぶんわか、ぶんわか。 少し時代遅れの、幾重にも響く音色が、回り巡る光景と一緒にぐるぐると周囲を流れていく。 ぶんわ、ぶんわ、ぶんわ、ぶんわ。 少し速度が上がったようだ。太陽が今地平に落ちていくのだろう。見る間に暗さを増す遊園地に、次々と光が灯り始める。左右に揺れるランプのようなバイキング、時計輝く明るい広場、馬蹄形の光に囲まれた入り口、色鮮やかな品物が満ちる売店、二つ目の光を放つゴーカート、青いライトが交差するお化け屋敷、回る光のコーヒーカップ、空中に向かって光を放ちつつ昇るゴンドラの観覧車、鎖とライトが入り乱れて弾ける回転ブランコ、悲鳴と歓声を乗せて走り過ぎる赤い光のジェットコースター、色とりどりの光が明滅するゲームセンター、内側から光を放っているような眩いミラーハウス。 ぶんわぶんわ、ぶんわぶんわ。 揺れるバイキング、明るい広場、手を振り続けるルサンチマン、馬蹄の入り口、売店とゴーカート、デジカメを向けるサクラ、お化け屋敷、回るコーヒーカップ、花火のような観覧車、駆け寄ってくる撫子、ぎらぎら輝く鎖の回転ブランコ、赤い光と悲鳴のジェットコースター、ゲームセンター、眩く輝くミラーハウス。 ぶんわぶんわぶんわぶんわ。 回る視界に目を細めて、頭上を見上げれば、外からは目に入らなかった天井に、青空と舞う天使や鳥が描かれていた。丸いすべすべした頬にぱっちりとした目を見開いて、赤ん坊天使が羽ばたいて過ぎる。周囲の壁に花びらが散らされ、二階を支える土台には金の蔦の意匠に囲まれた鏡、僅かに一階と回る速度が違うのだろう、黒馬に乗った終が、窓から通り過ぎる光景のように映っては消える。 バイキング、広場、ルサンチマン、入り口、売店、ゴーカート、お化け屋敷、コーヒーカップ、サクラ、観覧車、回転ブランコ、ジェットコースター、撫子、ゲームセンター、ミラーハウス。 ぶんわぶんわ、ぶんわぶんわ。 少しずつ速度が落ちてきたようだ。鏡の中を通る終の姿がくっきりと見えてくる。覗き込む視界に、黒馬の青い目と視線が絡んだ気がした。ふと見上げる二階への黄金の階段、次は二階の馬に乗ってみるのもいいかも知れない。 ぶんわ、ぶんわ、ぶんわ、ぶんわ。 バイキング、広場、ルサンチマン、入り口、サクラ、売店、ゴーカート、お化け屋敷、コーヒーカップ、撫子、観覧車、回転ブランコ、親子連れ、ジェットコースター、ゲームセンター、ミラーハウス、バイキング、広場、ルサンチマン…。 ぶんわか、ぶんわか、ぶんわか、ぶんわか。 ぶん……ぶん……ぶ………ん。 「……ふう…」 それほど高速で振り回されたわけでもないのに、どこかふわふわと頼りない足下を気にしつつ、終は馬から降りた。懐中時計を出して、時間を確認する。 まだもう少し時間があるようだ。他のところも見て回り……少し買い食いもしてみるか。 「これはどういうものなのですか」 ルサンチマンは順番を待っている間、受付の女性に尋ねてみた。遊園地のアトラクションとしては古典的なものだとか、元々狩りのために馬の練習をするためのものだとか、あれこれ聞いているうちに順番が来て、前から並んでいた人がぱあっと散って好きなものを選んでいくのを眺めつつ、二人乗りの馬車に興味は魅かれたが、少し離れたところのピンクの馬に跨がった。 ぶんわか、ぶんわか、ぶんわか、ぶんわか。 音楽の調子が変わり、ゆっくりと舞台が回り始める。並んで順番を待つ親子連れが、さっき自分がしていたように手を振ってくるのに、片手を上げて振り返す。 「きっと作法なのだろうな」 ピンクの馬はむっちりとした自分の脚に挟まれて、それでも揺らぐことなく静かに上下しつつ回っていく。ばさばさと跳ね上がるほど豊かな茶色のたてがみを表現して彫り込まれた頭部を抱え込む。両腕に巻き締められる程度の太さだが、ゆったりと動く感覚に奇妙な安堵が広がる。 ねえ、見てよ、ピンクのお馬! …は緑だよ! そうれもっともっと! 再び自分が、誰かと一緒に笑いながら、同じような木馬に乗っていたような感覚に戸惑って体を起こした。視界を光が掠める、笑いかけてくる女性の顔。伸ばされた指、引き上げられて、抱きかかえられる、だがその感覚が腕に戻る前に、幻の視野は薄闇に消える。思い切り手を振っている親子連れに気づき、また手を振り返した。同じ景色がぐるぐる回っているだけなのに、なぜだろう、風の向きか、灯り出した光のせいか、馬の影が揺れ動いて中央の鏡に、周囲の馬達に、同じように乗る人々に反射して、重なりあって、円形の場所を回っているというより、どこかへゆるゆると流れていくような気になってくる。 「……」 酩酊する感覚に目を閉じると、この回転木馬の機構が直接自分に語りかけてくるような気がした。今までとても大事にされていたのだろう、ささやかなペンキのはげはあるものの、何度も補修の跡があった。動きも滑らかで、繰り返し調整されているのか、それぞれの木馬が微妙に遅れて上下しバランスも申し分ない。 こんなふうに使ってもらえて、道具として嬉しいだろう。 込み上げてくる不可思議な感覚、この場所の安寧と幸福とを保ちたい。 馬に乗ったまま、両手にギアを装着し、素早く鳴らして【調律】を使う。トラブルが起こりそうな状況を一掃し、ここに居る者達に【必要な事象】を招く。 「わあ…っ」 歓声が上がって目を見開くと、どこから零れてきたのだろう、風に運ばれた花びらが、灯にきらきらと輝きながら回転木馬の中へ舞い込んで来た。乗っている人々が、馬の背中から手を伸ばし、声を上げて花びらを受ける。普通の風ならば、そのまま吹き過ぎるはずの花嵐は、くるくると回転木馬とともに回り続けている。 ぶんわぶんわぶんわぶんわ。 「おお…これは…」 「凄いですね、何でしょう一体」 二階からも声が響いて、ルサンチマンは振り向いた。白い髭を蓄えた紳士が驚いた顔で二階の木馬から身を乗り出して、花の舞う回転木馬を見回している。側の木アの乗った男が、危ないですよ、と袖を引き、少し微笑んで言い足した。 「きっと誰かが何かしてくれたんですよ」 「誰かが何か? 何かとは何だね」 「何かっていうのは、そりゃあ何かですよ」 閉園になるこの遊園地への贈り物ですかね。 「贈り物か」 白髭の紳士が考え込み、ふと降ろしてきた視線がルサンチマンを捉える。 ぶんわ、ぶんわ、ぶんわ、ぶんわ。 回る木馬の舞台の中、周囲から照らす光に刻まれた影、二階を見上げるルサンチマンの姿は彼らにどう映っているのか。 「お礼を申し上げます」 「え」 「楽しい催しをありがとうございます」 ルサンチマンは仮面を外し、相手に向かって一礼し、微笑んだ。 「君は…」 驚いたように目を見開く相手が、側の男に合図する。 「おい、見たまえ」 ぶんわか、ぶんわか、ぶんわか、ぶんわか……ぶん…ぶん…ぶん……ぶん。 ルサンチマンは振り返った。まだ子ども達が並んでいる。急いで代わってやらねば、閉園までに乗れなくなってしまうかも知れない。まだまだ乗っていたいけど、順番はまた来るだろう。 「おい、君、ちょっと!」 背後に響いた声に心を残しながら、急いで回転木馬から降りると、少し離れた場所で泣きじゃくっている子どもを見つけた。 「ママ! どこ? ママーッ!」 きょろきょろしながら、一瞬見間違えたのだろう、急いでルサンチマンの所に走り寄って来て、抱きつく寸前、怯えた顔で立ち竦む。 「ま…まま…」 「どうしたのだ?」 「ま……ママーッ! ママーッ! ママーッ!」 「迷子になったのか?」 「ママーッ! ママーッ! ママーッ!」 「おい」 「わああああんっ!」 「お……」 「わああああああんっ!」 「少し待て…そうだ、回転木馬に乗らないか?」 「わああ………ん…っ……かいて…ん…?」 「そうだ、あれだ、綺麗だろう。面白いぞ」 ルサンチマンが指差した回転木馬に、男の子は少し泣き止んだ。 「面白い?」 「ああ、面白い。何なら、私も一緒に乗ってやろう」 そうだ、それなら馬車に乗るのも楽しいかもしれない。 わくわくと跳ね出す胸に戸惑いながら、ルサンチマンは男の子を連れて回転木馬に向かい出す。もちろん、チケット売り場の店員に、迷子の放送はいれてもらうつもりだ。母親が来るまで、しばらく一緒に居てやろう。 大丈夫よ、もう大丈夫。心配したわよ、一人でどこに行っていたの。…はおてんばだからね。わからないの、わからなくなってしまったの、ごめんなさい、ごめんなさい。 「……さあおいで」 またも脳裏を彩る懐かしい響き、柔らかな光に一瞬目を閉じ、ルサンチマンは手を差し出す。男の子は不安そうに、けれどしっかりと手を握りしめてきた。 「きれい、だけど…もしかしたらメリーゴーランドって、外から見る物なのかもしれません」 サクラは溜め息まじりに回転木馬から降りてくる。 二階の馬、一階の馬車に、それぞれ一回ずつ乗った。細やかな意匠や、深みのある色合い、モチーフになりそうなものもたくさんデジカメにおさめたし、スケッチもした。 「回って回って綺麗だけど、最初はいろいろな景色が見えてるような気がするけど…結局同じ場所にいるんですよね」 そうなのだ、サクラはぐるぐると回転木馬で回りながら、何度も巡ってくる風景を丁寧に見てとろうとした。夕刻から夜にかかるまでの色の変化、光の移り変わりは確かに美しかったけれど、とっぷりと日が暮れてしまってからは余計に、周囲のアトラクションに灯る光ばかりが視界に入って、同じような光景としか見えなくなってしまった。 煌めく光、微妙に揺れ動く木馬達、確かに綺麗は綺麗だけれど、じっと回転木馬の中に目を凝らせば、そこではただ木彫りの馬達が上下しているだけでしかない。白髭園長達が乗りに行ったという二階の馬も、確かにそれぞれの馬に小さな銀色のプレートが首に掛けられていて、名前を示しているようだったけれども、そしてまた、それぞれの馬は色も意匠も少しずつは違っていたけれども、木彫りの馬は木彫りの馬、全く違う体格であったり気性であったりするわけもなく。 振り向いた回転木馬は、光を飾り、灯に彩られて、まさに黄金の花冠のようだ。 けどだからといって、そこから何がどう動くというものでもないのではないか? 撫子は、食後、二階の馬に何度も乗っていた。色を変え、場所を変えて楽しみ、 「高いですぅ、すごぉい☆」 そうはしゃぎ続けていた。 確かに二階の馬に乗ると、ただでさえ高い視界が一層引き上げられる。光り輝く一階の光景が見下ろせて、それはちょっとだけ飛行機気分と言えなくもないが、だからといって、同じ場所をぐるぐる回っているのには変わりがない。 一階の馬車に一度だけ乗った撫子と、サクラは膝を並べて乗った。 「私、ちゃんと先に進めているのかなって不安になります。一歩ずつ進んでいるつもりですけど、思い返すと全く前に進んでいないような気がするんです」 ぶんわか、ぶんわか、ぶんわか、ぶんわか。 「どの世界に居たとしても私は服を作っていると思います。それは絶対なんです。でも…」 ぶんわ、ぶんわ、ぶんわ、ぶんわ。 口ごもって俯いたサクラの気持ちを慮ったのか、撫子は大丈夫ですよぉ、サクラちゃん、と笑ってくれた。 「きっとサクラちゃんは、自分の道を見つけて、ちゃんと進んでいけると想いますぅ☆」 実はそうやって慰めた撫子自身も、胸の内に密かな祈りを捧げていた。 (コタロさんが一緒に乗ってくれたら喜んじゃうけど、男の人は回転木馬が凄く恥ずかしいらしいから今回は我慢して誘いませんでした) ぶんわぶんわ、ぶんわぶんわ。 (キラキラしてここだけで夢の国な気がします。女の子は簡単に夢を見れちゃうんです) ぶんわぶんわぶんわぶんわ。 回る回転木馬の外にルサンチマンが立って、また律儀に手を振ってくるのに、満面笑みで手を振り返す。少し離れた場所から、何かをもくもくとほうばりながら戻ってくる終が、やはり撫子に気づいて手を振ってくれたから、こちらも大きく振り返す。 ぶんわ、ぶんわ、ぶんわ、ぶんわ。 (貴方と貴方だけの夢をみたいなって思います。貴方がどの世界を選んでもついて行きたい、ついて行かせてほしい) 胸に広がってくる甘酸っぱい想いに天井を見上げると、天使の微笑みが応じてくれる。 ぶんわか、ぶんわか、ぶんわか、ぶんわか。 (頑張りますから…置いて行かないで下さいね?) ぶん…ぶん……ぶん……ぶん。 回転木馬が止まった。 「サクラちゃん! 何か食べに行きましょう!」 「うん」 立ち上がって、考え込んだサクラを促す。 もう、そろそろ最後だろう。 フライドポテトと鳥の唐揚げを腹に収め、アップルパイをもぐもぐしながら、終は薄紅色の花柄意匠を施された上蓋の懐中時計を開いて、また時間を確かめる。 (本来は時間を忘れて愉しむべきものだろうか…けど、逆に、流れ過ぎ行く時を実感したいのか) 締めた蓋をそっとなぞり、変わる色を眺めて、回転木馬が止まるのを待った。 湿気を孕んだ風、着いた時よりも、ずいぶん空が濃くなった。あれほどたくさん居た人もかなり帰ってしまったのだろう、回転木馬から降りてくる人々も、そのまま入り口に向かう人が多くなった。 また乗っていたらしいルサンチマンが立ち上がり、ついで、その隣から小さな男の子が一緒に立ち上がり、おやと思う。だが、すぐに男の子は、ママーッ、と声を上げて、回転木馬の入り口に居た女性に走り寄っていった。ルサンチマンはそれを追うこともなく眺めている。サクラと撫子はいなかった。 近寄っていくと、ルサンチマンはまだ乗るつもりなのだろう、今度は二階へ上がっていく。終も食べ終わったアップルパイの包みを捨て、急いで二階へ上がっていくと、そこには六頭の馬が居た。それぞれに首に銀色のプレートがかけられている。経理担当は、ついにここまでやったのか、と思わず手に取って眺めた馬は、黄色の『ヒューゴ』。ルサンチマンも、一頭ずつの名前を確かめているようだ。 赤の『リリオム』、緑の『リチャード』、紫の『オスカー』、青の『モルナール』、それにピンクの『ジュリー』。 「リリオムにしようか」 ルサンチマンが一瞬誰かを捜すように、周囲を見回し、赤の馬に跨がった。燃えるような赤色、真っ黒なたてがみに金の馬銜、頭を振り上げたような造形、経理担当、なかなか激しい性格らしい。青い肌の彼女が乗ると、まるで神話に出てくる魔界の女性のように見える。 ふと、終の脳裏を懐中時計の由来が掠める。 ちょうど相対する位置にあった紫の『オスカー』を選んで跨がった。銀色のたてがみ、白い馬銜、ぐっと俯き行進しているかのような様子。なるほど、二階は色だけではなく、キャラクターもそれぞれに表現されているということか。 「閉園間近なの少し勿体無いな…」 (でも何かどっちもきっと同じ様なものな気がしていて…いつか終わりは来る、ことのその“理”が、俺にはまだ理解出来なくて…どこか何かがふわふわしている) 音楽が始まる。 ぶんわか、ぶんわか。 音の合間に、さっきまでは感じなかった空隙がある。森閑と静まり返った夜の気配だ。 ぶんわ、ぶんわ。 夜が深まった分、回転木馬の輝きはさっきより増したように思える。一階にまばらになった人の影が、余計に回転木馬を輝かせているのかも知れない。乗り手をなくした馬達が、悠然と光の中を走っていく。動かないはずの木彫りのたてがみや尻尾が、光の波に翻される。固く噛み締めた馬銜の縁から泡を吹く馬、唸りを漏らす馬、巡って視界から消えるその一瞬に、こちらを振り向いて嘶くような錯覚がある。 ぶんわぶんわ。 ふと視線に気づいて顔を上げると、中央の細い柱を挟んで対の位置で、ルサンチマンが仮面の奥からこちらを見つめていた。 懐中時計は刻んでいるのだろうか、今ここに居る二人の存在の場所と時間を。 ぶんわ、ぶんわ。 見つめ合いながら木馬の上下に身を任せていると、今とかこことか、そういったものがどんどんあやふやになってくる。果てしなく前へ進みながら、それでも一歩も前へ進むことないこの道のりは、ひょっとすると『時間』や『場所』を越えたところへ繋がるための儀式なのかも知れない。 ぶんわか、ぶんわか。 回転木馬の速度が落ちる。 光の柱に伴って引き上げられていた感覚が、再び地上に戻される。 ぶん、ぶん……ぶん……ぶん……。 ごとん。 「ふう…」 どちらからともなく溜め息をついて、ルサンチマンと終は、馬から下りた。
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