「みなさんにはインヤンガイに向かっていただきたいのです」 世界司書、リベル・セヴァンが告げた。 いまだ居所がわからない館長。しかし、少しずつ、消息を絶って以来のその足取りが掴めてきている。目下のところ、最後に彼の所在が確認されたのはインヤンガイということで間違いないようだ。 一時期を『永久戦場・カンダータ』で過ごしたあと、かれらの異世界侵攻軍とともにインヤンガイにやってきた。だがそのあと軍を出奔し、行方不明になったあと、再びインヤンガイの暴霊域で姿を見られている。「ロストレイルにもスレッドライナーにも乗れない以上、館長は『まだインヤンガイにいる』……そう考えるのが自然です。ですからインヤンガイで大規模な捜査を行うことには意味があるでしょう。もしこの捜索で館長が見つからなくとも、それはそれで事態としては前進です。可能性をひとつひとつ潰していくこと――、それによって私たちは少しずつでも真相に近づけるのですから」 リベルは言った。 かくして、大勢のロストナンバーがインヤンガイへと向かうことになった。 今回も、頼みとするのは現地の探偵たちである。 複雑なインヤンガイの社会の隅々までネットワークを持つ探偵たちの力を、この捜査ではフル活用することになる。ロストナンバーは数名ずつ、インヤンガイ各地に散り、その地を縄張りとする探偵と協力して考えうる限りの捜索活動に力を注ぐのだ。 すでに、探偵への声掛けは行われており、「もしかすると館長に関係するかもしれない情報」について、集まり始めているという。ロストナンバーがその真贋を見極めに行くことになる。「みなさんに向かっていただくのはこの街区です。縄張りとする探偵は――」 リベルはてきぱきと、担当を割り振っていく。「えーと」 『失意の世界司書』鳴海は、何枚ものメモを手に説明を始める。「みなさんに向かってもらうのは『生魂花園(シェンフンガーデン)』です。ここは怪しげな薬剤や治療法を売り物にしている界隈ですが、ここで探偵業をしているフォン・ルゥと協力して探索を進めていただくことになります」 鳴海はメモを忙しく繰りながら、説明を続ける。「フォン・ルゥはそこで薬屋を営みつつ探偵業をしている男ですが、最近奇妙な本を手に入れたとのことです。その本は…」 メモを見ていた鳴海の顔が一気に白くなった。「し、失礼しま…」 口を押さえて慌ててどこかへ走り去っていき、数分後よろよろと戻ってくる。「…ということで、よろしくお願いしま」「その本がどうしたんだよ?」「う」「その本に何か手がかりが?」「っ!」 ばっと、今度はメモをまき散らして両手で口を押さえて鳴海が立ち竦んだ。「と、とに、かく、よろ、しく、うぶぶぶぶ」 そのまま再び走り去って戻ってこない。「……おい」 あれで世界司書やっていいのか? ロストナンバー達はまき散らされたメモを仕方なしに拾い上げる。一人がそのメモに書かれた文字の一つを見つけ、不安そうに読み上げた。「……生皮本……?」 ぱっと見た限りでは、『生魂花園(シェンフンガーデン)』は陰気そうな店が軒を連ねる静かな街に見えた。ただ、通りを過ぎていくと、棚に並べてあるのが何かわからぬ動物を詰め込んだガラス瓶だったり、奇妙な笑みを浮かべてじっと座る老婆だったりして、どうも怪しい雰囲気だ。「ここだな」 教えられた店の名前は『万民招来』。曇りガラスの戸を押し開けると、正面で細巻き煙草のようなものをくゆらせている青年が手にした本を開いていた。「…いらっしゃい」 柔らかな声とともに振り返る顔はまだ年若い。右側の顔を隠した茶色の猫っ毛、大きな瞳が楽しそうだ。「助けてくれるヒト達? よろしく」 調べたいのはこれなんだ、とさらりと見せたのは手にした本、表紙はなめした皮のように見えるが、中身は紙ではなく、分厚い数枚の布を束ねているようだ。「こんなものを見たことがなくて。面白い技術だよね」 造り方を知りたいんだ、とフォンは微笑んだ。どれ、と一人が指を伸ばして、その布に触れた瞬間、『私が見たのはコートの男だ』「っっあ」 悲鳴を上げて飛び退いたのも無理はない。その布が突然めこりと割れて唇になり、話し出したのだ。『背後から襲われて、お前は全てを語るのだと言われた。次に目覚めるとこうなっていた。だから私は全てを語る、私が見たもの知ったもの感じたもの全て』「キーワードが必要らしくてね」 フォンは驚いた様子もなく、しゃべる本を眺める。「一つは見つけた。…『真理について語れ』」 本に呼びかける。唇はすらすらと応じた。『多くの世界が重なっている。それが真理だ。ヒトは真理を求めて旅立ち真理を求めて彷徨う。私は世界を貫くものを知っている。世界を侵すものも。旅人は何を回復させ何を破壊しているのかを考え続けている』「微妙だろ」 フォンは微笑しながら振り向いた。「こいつにもっと語らせたい。こいつの造り方も知りたい。……理由は聞かないことにしない? お互い黙っていたいコトもあるだろうし」 片目を閉じたフォンは薄い唇をそっと舐めた。============!注意!イベントシナリオ群『インヤンガイ大捜査線』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『インヤンガイ大捜査線』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。また、このシナリオは『ヴォロス特命派遣隊』『ブルーインブルー特命派遣隊』に参加している人は参加できません。合わせてご了承下さい。============
「それほど怯えなくても噛みつかないと思うよ」 フォンはじりじりと後じさりしている岩髭正志に微笑した。 「こいつは可愛らしくおしゃべりするだけみたいだから」 これみよがしに口の開いた本を正志に差し出してみせる。 「っ」 正志はなおも後じさりしかけ、ずれた眼鏡を押し上げながら、必死に瞬きを繰り返す。 監察医を目指してはいるが、診る予定なのはきちんとした屍体、こんなふうに生半可な命を見せつけられると気持ち悪さが先に立つ。視線がどうにもそれに張り付いてしまうが、はっきり言って気が遠くなってきて気絶しそうだ。 その岩髭をまじまじと見つめながら、 「ゼロは、岩髭さんはとても頭がいいと思うのです」 シーアールシー ゼロが頷いた。白い服を着た長い髪の美少女、けれども外見に不似合いな透徹した視線で本を眺めた後、 「この本は人の精神を本に封じ込めたか、肉体ごと本に変えられたかだと思うのです」 「うっ」 正志がなおも顔を引き攣らせた。 その二人のやりとりと、微笑しながら本を開いているフォンを、ミトサア・フラーケンは警戒しながら見守っている。見かけは、ショートカットの眼鏡っ娘、紅いマフラーを巻いた14歳のオチビちゃん、だが、右手のレーザーナイフ、左手の金属風の手袋に仕込まれた5つの能力を操るサイボーグ戦士だ。 疑問が次々に湧いてくる。 本はおそらく人間で、目的はロストナンバーへの伝言役だろう。元に戻す方法はあるんだろうか。全てを語り終えたら元に戻るんだろうか。 大体、なぜ、わざわざ人間をこの姿に変身させたのだろう。 それに、フォン自身の意図は何だ? こんな不気味なものを平然と手にできる神経もよくわからないが、その造り方を知ろうとするのが余計に怪しい。但し、治療できない患者を本にして病気の進行を一時的に止める様な役立つ使い方をするなら黙認できる、いや寧ろそれを望むが。 そっと体に内蔵されている様々な兵器を思って腕を撫でた。 もし、単に趣味や収集、利益の為なら、任務後に考えていることがある。 「探偵が皆善人とは限らないよね」 左の奥歯の加速装置を意識しつつ漏らした低いつぶやきを、フォンは気づかなかったようだ。 「気持ち悪い……これは素敵なほど気持ち悪い」 ロノティエは静かに微笑みつつ、差し出された本に手を伸ばした。 「マニアに高く売れそうです」 ああ、でも私も欲しいなぁ。 本を渡したフォンは、同好の士を見つけたというような顔で吐息を漏らしたロノティエに笑みを向けた。 「どうぞ、心行くまで眺めて」 「ありがとう」 ロノティエは本に開いた口を眺め、もう一度、 「『真理について語れ』」 本に呼びかけると、唇は再びすらすらと応じた。 『多くの世界が重なっている。それが真理だ。ヒトは真理を求めて旅立ち真理を求めて彷徨う。私は世界を貫くものを知っている。世界を侵すものも。旅人は何を回復させ何を破壊しているのかを考え続けている』 「全く同じ、か」 考え込みながら、今度は別のことばを試してみる。 「元のお前について語れ」 『……』 「コートの男について語れ」 『……』 「お前の知ってる全てについて語れ」 『……』 「ロストナンバーについて語れ」 『……』 「反応なし、か」 「あなたの名前について語れ」 ゼロがロノティエに代わって呼びかけてみる。 『……』 「あなたについて語れ」 『……』 「生皮本について語れ」 『……』 「モフトピアについて語れ」 『……』 「ヴォロスについて語れ」 『……』 「ブルーインブルーについて語れ」 『……』 「カンダータについて語れ」 『……』 「答える気はないのです」 「うん、ああ、じゃあエドマンド…」 言いかけた正志がふっと視線を上げた。ロノティエの手に開かれた本相手に様々な問いをする仲間を、フォンが楽しげにじっと黙って見つめている。 「どうしたの?」 正志の視線に気づいたフォンが笑みを深めた。 「ネタ切れ?」 「…ああ……うん」 何かに引っ掛かった、そういう顔で正志は口ごもった。その隣でゼロが首を振る。 「まだ試してみるべきことばはあるのです、アリッサについて…」 「いや、もうネタ切れですよ」 続けかけたゼロのことばを正志は遮った。 「僕達には思いつかないキーワードがあるみたいです」 「そうか。さっき呼びかけたことばは、人の名前? 地名みたいなのもあったよね」 フォンがまっすぐに正志を見返す。 「いや、僕達の世界で有名な小説に出て来る名前です、同じ本なら何かに引っ掛かるかと思って」 きょとんとするゼロをわずかな身振りで制して、でも違ったようです、と続けると、フォンはふうん、と目を細めた。 「それより」 ごくん、と正志は唾を呑み込み、フォンを見据える。 「この本をどこで手に入れたのか、知りたいですね。そこから何か掴めるかも知れない」 「……ああ」 フォンはちょっとがっかりしたような顔で立ち上がった。 「それならすぐ案内できるよ。知り合いの骨董屋から、奇妙な手触りの本があると持ち込まれたんだ。もっとも、じいさんはどこから手に入れたのかを話さなかったから、行っても無駄だと思ったけど、君達が一緒なら話してくれるかも知れないね」 じゃあ行こうか、と先に立つフォンに、ミトサアが、続いてゼロが従う。その後を追おうとした正志をロノティエが引き止めた。 「この本だけど」 「え?」 「他のページを見てみた?」 「いや」 「ほら、これ」 「っっ」 正志は再び血の気が引くのを感じた。ロノティエがそっと開いた別ページにあったのは、焼けただれ縮んだ皮膚のようなものと、何かを固く縫い合わせたようなどす黒い糸の縫い目。 「この本の造りから考えて、この残骸、元は『目』だったんじゃないかと思うんだけど」 「………」 正志は暗くなった視界を必死に堪える。 「他のページには『耳』じゃないかと思える穴もある。見る?」 「いえ、え、遠慮しておきます」 「『耳』は残して、『目』は潰した。なぜだろうね? それに」 ロノティエが薄く微笑む。 「これをフォンが知らなかったはずはない。なのに依頼には伝えていないし、私達にも知らせていない」 「……けれど、隠し通すつもりではなかった、そうですよね」 正志はロノティエの冷ややかな視線を見返す。 「隠し通すつもりなら、この本を貴方に渡したりしないでしょう」 「発見するのを待っていた、私達が謎にのめり込むように」 「さっきだって」 先を行くフォンの後ろ姿に正志は鋭い視線を向ける、 「ゼロさんやミトサアさんが次々ことばを並べるのを、まるで待っているようだった」 「…違う世界の知識を得ようとした?」 「おそらく」 吐き気を堪えながら、ロノティエに大事に抱えられている本を眺める。 「さっきからずっと気になっていました。『全てを語る』というのに、本は全てを語っていない。『見たもの知ったもの感じたもの全て』というのに、口しかないなんておかしいですよね」 口にすると抱えていた違和感が形になる。 「キーワードによって引っかかった情報を回答する、という機能は辞書みたいだけれどもそれならわざわざこんな方法で作ったりはしないでしょう」 その情報はフォンから与えられたものだ。 「本の語ることばをそのまま受け取るなら、暗号のように秘したい事柄を知らせたい相手にだけ知らせる手段として作られたのではないかと思うんです」 「じゃあ」 フォンの依頼には裏がある、そういうことか。 ロノティエが静かに本を撫でる。フォンの扱いとは違う、いとおしむようなその動きに少しほっとして、正志は思いついたことを口にした。 「さっきのことばを聞いて思ってました……まるで、録音装置のようだな、って」 「録音装置、な」 「こっちだよ」 先行くフォンが狭い路地から遅れた二人を呼んで、正志とロノティエは足を速めた。 フォンは入り組んだ通りを抜け、街の奥へ奥へと進んでいく。 『生魂花園(シェンフンガーデン)』の街は活気とはほど遠いが、それでも明かりをつけた店棚を整理する男の取り憑かれたような視線や、こっそりと戸口から入る女がひらめかせる赤と紫のけばけばしいドレスの裾から覗く白い脚に、奇妙な熱が漂っている。 「寄らないかい」 通り過ぎた店から唸った低い声に振り返れば、深く編み笠を被った相手がにやりと薄汚れた歯を見せながら続ける。 「いい薬、あるよ」 ゼロはいつの間にか、ロストレイル車掌服と音声変換機を身に着け、さきほどまでの美少女姿とは全く違う、どこか怪しげな大柄の男のようだ。 「本さんの安眠をとりもどすのです」 ゼロが決意を語ると、 「元の姿に戻してあげたいよ」 ミトサアが言い切った。フォンに張り付くように道を進みながら時折鋭い視線をフォンに投げ、周囲の状況と来た道筋を刻々把握し続けている。 「フォン、今までああいう本についての伝承とかを聞いたことはない?」 「ないね」 先を進むフォンの姿は時々ゆらりゆらりと危うげに揺れる。その姿の向こうから眠たげな声が応じる。 「あんなものを見たことはないな。でも」 最近おかしなことは起こっているよ、とフォンは続けた。得体の知れない連中がそこここに現れている一方で、元々インヤンガイに居た人間が次々消えている。 「そこの店の主人は一昨日急にいなくなった」 フォンがひょいと指で指し示す方向に、傾いた棚から零れ落ちる白い粉が見える。今にも途切れそうになりながら、細く続くその流れがいつまで落ちるのか、見ていると不安になる光景だ。 「そっちは一週間前に急に羽振りがよくなって、昨日店を売り払った」 別の方向を指差すフォンはくすくす笑う。木の扉が固く閉ざされたそこには、一筋ぬめぬめとした水が伝い落ちている。 「組織の抗争、人殺し、そりゃあ何でもありな街だけど」 少し前からいろんな流れが滞り始めているのは確かなんだ。 フォンが肩越しに笑みを投げてくる。 「薬が手に入りにくくなった。いろんな品物も。特に滞り出したのは情報かな」 誰もが何かを恐れて口を噤み出した、それだけじゃない。 「何か見えない組織が仕切り出した感じがするよ」 くすりと嗤ったフォンが皮肉めかした声を返す。 「この世界にあるはずのない何かがね。君達みたいなヒトとか」 「もう一つ聞きたい」 通りがかった露店で肉饅頭を買い求めて影生物にやるなど、インヤンガイの雰囲気に混じり込みつつ歩いていたロノティエが、ふわふわした足取りの相手に呼びかける。 「こんなものの造り方を知ってどうするんだ?」 「…」 ぴた、とフォンが立ち止まった。振り返ってくる視線は無表情、笑みが顔から消えている。 「こんなものを何冊も量産した先に何か使い道があるのか」 「…理由は聞かないことにしようって言わなかったっけ?」 「量産…」 三人に遅れまいと足を急がせるが、インヤンガイの陰鬱なこもった気配に次第に不安を強めていた正志がロノティエのことばに瞬きする。 「本なら…あまり気づかれないかもしれないな…」 「何のこと?」 「たとえば…どこかに紛れ込んでも……たとえば重要な何かの打ち合わせをする場所の棚や……机の上にあっても…」 録音機、とまた小さくつぶやく正志を、ミトサアが訝しく眉をしかめて振り返るのに、ロノティエが質問を重ねる。 「造り方次第では本にでもなるつもりか、本にしたい奴でもいるのか」 「……そうだね」 フォンがふいと瞳を和らげた。 「本にしたいやつならいるかもね」 一瞬切ないような苛立つような、初めて笑み以外の表情がフォンの顔に広がった。 「僕が触れた時だけ話せばいいんだ……むかつくことしか話さないから」 「触れた時だけ、話す」 正志はまた繰り返す。 何かもう少しで繋がりそうな気がするのだが。 必要な時しか開かれない耳。潰された目。話すことだけ求められた口。 いやそもそも、人間の顔の中にそれぞれ繋がって存在する機能と、一つずつを取り出して「もの」の中に押し込める、そのやり方。 人間を「もの」扱いする発想はどこかの誰かに似てはいないか。 それに、キーワードで一つの情報を繰り返して話す、まるで録音機のように。 本に話しかける仲間を眺めていたフォンの表情、滞り出した情報をどうしても得たいと思う輩はきっとどこにも居るだろう。理由はどうであれ、その情報を手に入れるために様々な方法をとるに違いない。 止まった流れを動かすにはどうすればいい。 外から何かを放り込むのも一つの手だ、流れを揺り動かし、目を逸らす、その背後で動き回るために。 もしかしたら、今回の依頼は。 「フォン」 正志は意を決して問いかける。 「何?」 「あの本は、新たに情報を吸収したりする、のかな」 「……着いたよ、ここだ」 フォンは尋ねた正志を好ましそうに振り返り、やがて一つの薄暗い店の前で立ち止まった。 「入るよ、大人(ターレン)」 曇ったガラスのはめ込まれた扉がゆっくり開く。 中は明かりがついていない、真っ暗だ。 「いないのかい?」 入り口に立ち止まったフォンが、慣れた風に手探りして、戸口近くのランプを取り上げる。 「しばらく来ないうちに、えらく早い店じまいをするようになったね」 「何かざわざわするのです」 ゼロがゆっくりと暗闇の中を見回しながらつぶやいた。 「たくさんの人間の気配がある。人? いや」 ミトサアの声が尖る。 「っっ!」 ランプが明かりを灯した瞬間、正志は息を呑み、ミトサアが身構えた。 通路の両端、ためらいもなく奥へ進むフォンの掲げるランプが照らし出す、積み上げられた本は全て、ロノティエの手に抱えられた本と瓜二つだ。 「これはこれは」 周囲を見回しつつ、フォンが楽しげに手近の一冊を手に取って、こちらに見せた。 ぎろり。 開かれた本のページの中央から、金色の目がこちらを射抜く。 「こんなのもあるなんてね」 「フォン・ルゥウ!」 驚いていない、知っていた、これらの『本』の存在を。 仲間に走ったその衝撃が教える罠の感覚に、ミトサアが吠えて相手を左手で狙う。 「貴様ぁ!」 「いいの、そんなもの、ここでぶっ放して」 フォンはくすくす嗤いながら、側の本にランプを載せ、両手でそれぞれに本を開いてみせた。ランプから熱が伝わるのか、載せられた本がうねうねと奇妙な動きをするのを、正志は凍りつくような思いで見つめる。 「、、、」 「ひぃいいい」 金色の目がミトサアの構えた武器に怯えたように目を潤ませて瞬きする。同時に、もう片方に抱えられて開かれた本が引き裂かれたように紅の雫を垂らしながら口を開いて悲鳴を上げる。 「君を怖がってる。殺されちゃうって」 「フォン!」 正志は叫んだ。 「貴方は僕達を騙したのか!」 「違うよ、ここがこんなことになってるなんて、僕も知らなかった、本当だよ」 猫っ毛を揺らしてうっとりとした顔でフォンは周囲を見回した。 「この分じゃ大人(ターレン)も、このどこかに居るのかもしれないな」 「これだけの数」 静かにロノティエがフォンの視線の先を追って目を細める。 「どこかにこれを造ってる場所があるのかもしれないな?」 「そうだね。ヒトを『もの』にする術…インヤンガイにはなかったけれど」 フォンがにこやかに視線を戻す。 「君達の世界にはあるかもしれないんだろ」 「…あのことばは!」 正志がはっとして尋ねる。 「この本が語ったあのことばは、貴方が『録音』したのか!」 「思想はあるんだ、ここにも。多重世界の物語。僕達の手に及ばない数々の事件を解決してくれる君達の存在は、それを想像させるに十分だ。けれど、君達はそれを明かさない。僕達はいつまでも、話すだけ、見るだけ、聞くだけ、ここの本達のように」 もう一度、フォンは愛おしそうに周囲の本を眺め回した。 「君達は流れを滞らせている……けれど、滞る流れを取り戻そうとするのは、ヒトの自然な欲望、自然な願い」 閉ざされた場所に『本』は届けられる。 そこで『本』は、見て、聞いて、話して、そして『記録』する。 そしていつか、再び元の持ち主に取り戻されて、そこで閉ざされ隠されていた情報を語り、世界の滞った流れに小さな穴をあけるのだ。 「ここにあるのは、ヒトの欲望そのものだよ」 そして欲望は世界を変え、真実をあぶり出していく。 「その本を君達が持ち帰ればいい」 ロノティエにフォンが語りかける。 「君はそれが気に入っただろ?」 次の瞬間、フォンはぱん、とランプを払い落とした。 「ぎゃあああああ!」 「うぉああああ!」 絶叫が溢れ、棚から弾けるように飛び出した本がばたばたと落ちて、次々と床を這い上がる炎の中で焼き焦がされていく。胸の悪くなる臭いが煙とともに押し寄せる、二度と見たくはない地獄絵図を背景に。 「っ、何てことを!」 「コレクターなら貴重な方がいいよね?」 霞む紅蓮の彼方から楽しげな声が響く。 「こいつぅ!」 ミトサアが加速装置を噛みしめて一瞬にしてフォンに近寄り屠ろうとする。だが、そこにはもうフォンの姿はなかった。 「後ろの扉から出て行ったのです!」 炎が広がった瞬間に、背後に開いた扉から擦り抜けていった姿をゼロが見ていった。 「ちぃっ!」 「ミトサア!」 喘ぎ跳ね回る本達の怒号と悲鳴と炎の中に包まれて、なおもフォンを追おうとしたミトサアを正志は呼んだ。 「戻ってきてくれ!」 「でも!」 あいつを許すわけにはいかない。 悔しげに扉を振り向く彼女に、もう一度正志は強く呼びかける。 「僕らは貴方までも失うわけにいかないよ!」 「っく」 「非常に名残惜しいですが」 ロノティエが抱えていた本をゆっくりと差し上げた。炎を背景に、4本の角が煌めき、体に彫り込まれた美しい紋様がなお鮮やかに照らされて、見る者をこの世ならぬ美で圧倒する。だが、その表情は冷然として細めた瞳の光が暗い。 「これを持ち帰るわけにもいきませんね」 フォンの意図、ひいてはこれを造った誰かの意図が、世界を抜け出るための情報収集にあるならば。 差し上げたロノティエの手の間で、本が微かに身震いする。やがて、呻くようなきしるような声が漏れた。 「…ころして…くれ」 「……願いを叶えよう……アートディーラーとしては不本意だが」 「ロノティエ!」 ミトサアの制止の声が響き渡る中、本は緩やかな弧を描いて炎の中に投げ込まれた。 「脱出するのです!」 ゼロが身を翻す。ロノティエと正志が後に続く。 「結局、この件に関しては、館長の情報はなかったということかな」 「たぶん。フォンは大々的な館長探索の動きに乗じて、うまく情報を操って餌をつくり、僕達のことを探ろうとしていたってことなんでしょう」 ロノティエのことばに、正志はやっぱりインヤンガイは油断ならないと溜め息をつく。 そしてミトサアは。 「こんなのは……認めない…認めないっっ!」 苦悶の呻きを響かせて、炎の中をくぐり抜けて飛び出してくる。脳裏には、人としての命を闘う兵器として使われた過去の思い出が次々と蘇ってきて、癒えたはずの傷までまた疼く。 「次に会った時は、フォン」 きっと殺してやる。 苦しく切ない声で呻いたミトサアは、騒ぎになり始めたインヤンガイを、仲間とともに後にした。
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