その日、世界司書たちは図書館ホールに集められていた。なんでも館長アリッサからなにかお達しがあるというのである。彼女が新館長に就任してから初めての、正式な館長通達。一体、何が発せられるのかと、緊張する司書もいた。「みんな、こんにちはー。いつもお仕事ご苦労様です」 やがて、壇上にあらわれたアリッサが口を開いた。「私が館長になるにあたっては、いろいろとみなさんにご迷惑をおかけしました。だからってわけじゃないんだけど、世界司書のみんなの『慰安旅行』を計画しました!」 慰安旅行……だと……? ほとんどの司書たちが言葉を失う。「行き先はブルーインブルーです。実はこの時期、ジャンクヘヴン近海で、『海神祭』っていうお祭りをやってるの」「あ、あの……」 おずおずと、リベルが発言の許可を求めた。「はい、リベル。バナナはおやつに含みます」「そうではなくて……われわれが、ロストレイルに乗車して現地に向かうのですか?」「あたりまえじゃない。慰安旅行なんだもの。年越し特別便の時に発行される、ロストメモリー用の特別チケットを全員分用意してあります。あ、念のため言っておくけど、レディ・カリスの許可もとってあるからね!」「……」 そうであるなら是非もない。 時ならぬ休暇に、司書たちは顔を見合わせるばかりだったが、やがて、旅への期待が、その顔に笑みとなって浮かび始めるのを、アリッサは満足そうに眺めていた。「コンダクターやツーリストのみんなのぶんもチケットは発行できます。一緒に行きたい人がいたら誘ってあげてね♪」 さて。 この時期、ジャンクヘヴン近海で祝われているという「海神祭」とは何か。 それは、以下のような伝承に由来するという。 むかしむかし、世界にまだ陸地が多かった頃。 ある日、空から太陽が消え、月が消え、星が消えてしまった。 人々が困っていると、海から神様の使いがやってきて、 神の力が宿った鈴をくれた。 その鈴を鳴らすと、空が晴れ渡って、星が輝き始めた。 ……以来、ジャンクヘヴン近海の海上都市では、この時期に、ちいさな土鈴をつくる習慣がある。そしてそれを街のあちこちに隠し、それを探し出すという遊びで楽しむのだ。夜は星を見ながら、その鈴を鳴らすのが習いである。今年もまた、ジャンクヘヴンの夜空に鈴の音が鳴り響くことだろう。「……大勢の司書たちが降り立てば、ブルーインブルーの情報はいやがうえに集まります。今後、ブルーインブルーに関する予言の精度を高めることが、お嬢様――いえ、館長の狙いですか」「あら、慰安旅行というのだって、あながち名目だけじゃないわよ」 執事ウィリアムの紅茶を味わいながら、アリッサは言った。「かの世界は、前館長が特に執心していた世界です」「そうね。おじさまが解こうとした、ブルーインブルーの謎を解くキッカケになればいいわね。でも本当に、今回はみんなが旅を楽しんでくれたらいいの。それはホントよ」 いかなる思惑があったにせよ。 アリッサの発案による「ブルーインブルーへの世界司書の慰安旅行」は執り行なわれることとなったのだった。「う…ふぅ」 鳴海はもう一度、胸に染みる潮風を吸い込んだ。 世界司書達の慰安旅行。そんなもん今までなかった、らしいが、何だか最近疲れ気味の自分には有難い。 「海神祭」の昼間の賑やかさ、隠されている土鈴を探し回り、屋台を冷やかし歩き回った熱は、まだ体に残っている。夜になってもまだ熱気溢れる通りを外れていくと、海の上を渡る細い通路が交差している場所へやってきた。なだらかに下降していく通路は、少し先で海面すれすれまで降り、どうやらそこで小舟の出入りする船着き場になっているらしい。 帰れなくなるかな、と一瞬迷ったが、とにかく少しでも知らない場所を歩いて情報を集めることは大事なことだ。 そろそろと進んでいって船着き場の端に腰を降ろし、靴と靴下を脱いで海水に火照った脚をつけた。そうっと覗き込むと、ジャンクヘヴン周囲でもよく見つかっている、海底に沈んだ遺跡の端だろうか、薄白く突き立った柱のようなものが暗い海からぼんやりと浮かび上がって見える。 ちろん。 甘く丸い音が手元で鳴って我に返る。 ちりりりり。 どこかから続けて鈴を振る音がする。 見上げれば、晴れた空には満天の星。「……はぁ……」 なぜこんな気分になるのだろう。 数々の報告書を読み、『導きの書』を読み解いて、仕事は充実しているし、成果も着々と上がっている。 なのになぜこうも、泣きたくなるような切なさに胸が詰まるのだろう。 りりりん。 誰かがまた鈴を鳴らしている。 星を下さい。 誰かが昔の祈りに重ねて願っている。 光を下さい。 鳴海もまた、そっと鈴を差し上げて振る。 ちろちろちろちろ。「……いい音だね」 静かに響いた声にびっくりして振り返れば、依頼を受けたロストナンバー達が同じように空を見上げ、鈴を鳴らしている。「晴れてよかったな」 満天の星だ。 笑い合う顔にまた泣きそうな気持ちになる。「そうですね……そうだ、もしよければどうぞ。屋台で無理矢理買わせられ、い、いや、買ってみたんですが、まだ口をつけてませんし」 『海神水』という目に痛いような青い飲み物とどう見ても食べ物らしくない、これまた紙に包まれた真っ青な『海神焼き』を差し出して笑い返す。「あ、ああ、いやそれは、なんだか食べると確実にまずいことになりそうな」「お仕事お仕事」「おい」 ロストナンバーが引き攣るのに、またちろん、と鈴を振って見せた。「あちこちで鳴っているね」「そうですね」 一つ、また一つと重なっていく鈴の音に耳を澄ませ、心を委ねる。鳴り響き、満ちていく鈴音。それはまるで、海中からも響いてくるような気がする。「海の中からも聞こえないか?」 覗き込むロストナンバーにざわりと不安が広がる。まるで、ふいに波が盛り上がって連れ攫っていきそうに思えて。その波が自分も呑み込みそうに思えて。「危ない、ですよ」 危険な依頼を頼みたくない。みんな無事で戻ってほしい。「大丈夫だよ、穏やかだ」 そういうあんたこそ、脚なんか突っ込んでるじゃないか。「は、はは……お仕事ですから」 ざぶり、ざぶりと脚を嬲る波に吸い込まれそうになる気持ちを堪えながら、鳴海は必死に鈴を振り、広がり満ちていく音に願った。 みんなを無事に戻せるように、すこしでも的確な情報を得られるように。 星を下さい。====!お願い!イベントシナリオ群『海神祭』に、なるべく大勢の方がご参加いただけるよう、同一のキャラクターによる『海神祭』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。====
「お隣よろしいでしょうか?」 「あ、はい」 胸迫る思いを抱いて海中を覗き込んでいた鳴海は、ふいに話しかけられてどきりとした。いつ近づいていたのだろう、隣にゆっくりと腰を降ろす牧師服姿の男を眺める。鳴海の視線に気づいて、相手はノンフレームの眼鏡を少し押し上げ、微笑んだ。 「三日月灰人と申します」 「あ、初めまして、ではなくて、あのその、鳴海、といいます」 世界司書です、と説明しなくてもいいことばを付け加えると、灰人はまたひっそりと微笑んだ。 「……鳴海さんというんですか。なんだか他人とは思えませんねえ」 静かな声で続ける。 「日頃司書の方とこうしてゆっくり語り合う機会などありませんし、私でよければ仕事の愚痴や悩み事、何でも相談に乗りますよ?」 「え」 戸惑った鳴海の警戒を解くように、 「これでも牧師ですので……」 「ああ…」 鳴海は小さく頷いて、ようやく笑みを返した。 「ありがとうございます。けれど私も一応世界司書なので、よければ、今まで経験された旅や依頼のことを話して頂けませんか」 ひょっとすると、語り損ねたことや、後に新たな気づきを得た場合もあるだろうし。 「それがひょっとしたら、この先の世界を救う場合も…」 「何、私の話が聴きたい? よくぞ言ってくれました」 だが灰人は途中から鳴海のことばを遮って、いそいそと写真を取り出した。 「これは…」 「最愛の妻、アンジェです。もうすぐ子供も産まれるんです」 綻ぶ笑顔、それは写真の女性の微笑みと呼応するような優しさだ。 「彼女らの為にも壱番世界を滅びの運命から救う方法を捜さねばと決意して旅立ったのですが」 なるほど、と頷くと、ふと灰人は顔を曇らせた。 「だめですね……寂しくて。特にこんな星の綺麗な夜は……」 ああ、そうでしょうね。 鳴海は灰人に吊られてまた空を見上げた。黒いビロードに金銀の砂が撒かれたような夜空、周囲には鈴の音が鳴り響き、何が寂しいのかと問われれば答えに窮する、それでも灰人の胸を過った切なさはよくわかる気がする。 「そ、そうだ」 鳴海は急いで結局誰もまだ手をつけていない目に痛いような青さの『海神水』とどう見ても食べ物らしくない、これまた紙に包まれた真っ青な『海神焼き』を差し出した。 「如何ですか」 「おや、これは……『海神水』に『海神焼き』? えっ、一口どうかって?」 鳴海の手の中のものを見た灰人がひくりと引き攣った。どうやら屋台で見たことがあるらしい。 「で、では」 鳴海が生真面目な表情で差し出し続けるのに諦めたのだろう、覚悟したような顔で『海神焼き』をばくり、いや、ばくばくばく、と一気に食べ切った。 「だ…だいじょ…」 「いや、これはこれで…」 笑顔になった灰人はそのまま固まる。 「三日月さん? 灰人さん?」 動かない。名前の通りというか、食べ物の名前通りというか、真っ白に燃え尽きたように無反応だ。 「か……灰燼焼き…?」 ど、どうしよう、と鳴海はうろたえた。手にはまだ『海神水』がある。 「こ、こうなったら私も一気にこれを飲んで」 同じ運命を分かち合うべきかもしれない、そう悲壮な覚悟を決めて飲み物を差し上げたとたん、 「そんなにずっと海に浸かってると、風邪引いちゃうよ、お兄さん?」 柔らかな声がかかって振り向いた。金色の髪をなびかせ、赤い瞳を煌めかせ、どう見ても少女にしか見えない姿、けれどロストナンバーが外見とそぐわない中身と能力の持ち主であることはよくわかっている。 「ふぅん、くれるの? じゃぁ半分こにしよ?」 「あ、こ、これは」 差し上げた『海神水』を相手は自分に勧められたと思ったらしい。リーリス・キャロンよ、と片目をつぶって名乗った少女は、可愛らしく微笑みながら、鳴海の手からコップを奪い、こくり、と飲んで戻す。灰人はまだ戻ってこない。ひょっとしたら助けを求めにいかなくてはならないんじゃないか。けれど目の前の少女の誘いを断るのもあんまりで。 「ええい、いただきます!」 がぶと飲んだ。口の中に一瞬、ヴォロスのゲテモノ酒として有名な芋虫系のブガガリ酒や、インヤンガイの奇蜂熟酒を思わせる味わいと刺激臭が広がって、もうだめだ吐く、と思った瞬間、リーリスに覗き込まれて思わず呑み込んでしまった。 「げ…」 「舌、青くなってる?」 ぺろりと舌先を覗かせるリーリスの仕草に思わず引き込まれて涙目で舌を出してみせると、 「あはは、お兄さんも舌が真っ青になってるぅ~」 リーリスが明るく笑う。ああ、そういえば彼女は通常の生態系の存在ではなかったんだ、彼女が無事でもこちらが無事とは限らないじゃないか。 「あ、は、は」 喉が焼ける。胸が焼ける。胃が、いやいや一気に腸まで焼けちゃったかもしんない。必死に笑い返しながら鳴海は視界が回るのを感じる。そこへ、 「やぁ鳴海君、お久しぶリ。相変わらず元気なさそうだネー」 のんびり楽しげにワイテ・マーセイレがやってきた。いつものスーツ+マント姿に、今夜は首からじゃらじゃらした骨やら石やらを繋いだようなネックレスのようなものをかけ、手の網に、なぜか勝手にごとごと動く白い箱と、精巧に作られた金属製の蜘蛛が黄金と青色の球体を抱えている細工ものを下げていて、いつもに増して怪しい雰囲気だ。 「ご、ごんばんば」 吐きそうだったり死にそうだったり、それでも何とか挨拶を返して、それは何ですかと尋ねてみると、 「ああ、このお土産? 占いをやっているからどうにもこういう呪術的というかまじないな品には興味あってネ」 ワイテは機嫌よくそれぞれの品を見せてくれる。 「占いに興味あリ? なら占ってあげようカ?」 ワイテはあふあふしている鳴海とリーリス、ぶっ倒れたままの灰人を銀色の目で眺めながら、側に腰を降ろした。 「ま、占いは当たるも八卦当たらぬも八卦。信じる信じないは本人の勝手だけド。ただ、占いは道標の1つにしか過ぎないということデ。あっしはその道標に基本的には全力で従うようにしてるけどネ。その結果今ここにいるってことデ」 「だ、だるぼど」 ああ、もうだめかもしんない。 鳴海が目を閉じかけた瞬間、 「ところでこの世界、アオイロイチゴウとかってあるのかナ? 一体どうやってこんな色だしているのやラ。飲まない食べないなら貰うヨ。不味かったら吐き出すけド」 「い、いや、いば、のぶどこどでじだ」 鳴海が掴んでいたコップの中身を覗き込み、ワイテがとんでもないことを言い出して、慌てて残った『海神水』を飲み切った。もう終わった、これで自分の人生は終焉を迎えた、いやこんなところでこんな幕引きとはとんでもなかった、それともよかったのかな何かの役に立てて? ちかちか点滅する意識の中で、ふいにリーリスの顔がアップになった。 「星が欲しいの?」 ああ、そういえば、そう願ったような。そうだもし、もう終わりならば、確かに自分は星が欲しい、望みを叶え人を救い彼方に去ってしまった遠い星が。 そうつぶやいたのかつぶやかなかったのか。少女がぎゅ、っと鳴海の手を握り、鳴海もしっかり握り返す。 「ふぅん。それじゃ、リーリスの手をしっかり掴んでね? もう少し、星の近くに行ってみよう?」 「ぐ、わ!」 「いってらっしゃイ」 ワイテの声に送られて、一気に空中へ巻き上げられる。 「あ、あ、あ」 不安定に体が揺らいで吐き気と衝撃が増すかと思ったが、何だか上空へ上がってしまうと不思議に気持ちは落ち着いてきた。足下のそこここで鈴が鳴り、明かりが灯り、人々が行き交う。なおも高く高く舞い上がっていくリーリスの手をしっかり握る、その手から何か気力というか、痛みというか、何か命の覇気が消えていく気がするが、それはある種の安らぎにも思える。傷みも苦しみもない、何もかもなくなる静かな世界に落ち込んでいくような。 ひょっとすると、自分が望んでいたのは、こういう感覚だったんだろうか、そう思い始めたあたりで、 「ね、ここなら星の中みたいでしょ? 上も下も真っ暗で」 リーリスの声が静かに聞こえた。 「…願うことには気をつけろ、叶うかもしれないから。ホントに星が落ちてきたら、この辺の人、みんな死んじゃうもの…ね、お兄さん」 星が欲しい。そうか、そういう意味にとったのか、この少女は。けれど、自分が欲しいのは、本物の星じゃなくて。 そう言い返そうとして、リーリスを振り向いたが、 「ここで眺めるだけで我慢しない? 欲しがるだけじゃ、どうにもならないこともあるもの」 続いたことばになぜか胸を突かれた。 ああ、そうだ、本当に。眺めるだけで満足していればよかったものがある。欲しがるだけじゃどうにもならなかったことがある。いやあったような、何か、記憶の彼方に、永遠の天国を思わせるような、何か。 「魅了されたから、魅了したいの。一緒に居たいから、一緒に居て欲しいの。でもそれは…きっと誰にも伝わらない」 きっと少女の話していることは別のことなのだ、けれどそれは、こんなにも自分の胸を貫くことばで。知りたくなかった真実で。わかりたくなかった現実で。それでも……向き合うしかなかった…現実で。 何と言うこともなく、遥か下の灰人のことを思った。愛しい人々と離れて世界のために闘うロストナンバー達、魅力的な彼らもいつかは帰属する世界を見つけていくのだろう。けれど自分は。 「……ああ、そうか」 失いたくない。無事で居てほしい。数々の依頼をそのすばらしい能力やキャラクターで成功させる彼らに魅かれないわけはない、大事に思い、守りたいと願い、けれどその願いは彼らとの別離に繋がっていて。 「寂しかったから」 リーリスが静かに囁いた。 「寂しい相手に惹かれただけ。喜ばせてあげたくなっただけ。寂しいから、一緒に星を眺めたくなったの」 胸に迫る。 このひと時でも、一緒に星を眺めよう、そう願う想いはかつてどこかできっと同じく味わった願い。 「おりようか、お兄さん」 「あ、はい」 風を巻いて降りていく。灰人がゆっくり身動きしていてほっとする。その側にいつの間にか、別のロストナンバーが居るのが見える。茶色の大きな耳の少女。片手をかざしてこちらを指差し笑ってる。ワイテがこちらを見つけたのか、片手でシャッフルしながら手を挙げている。そう言えば、占ってくれると言ってたな、と思い出す。 地面が次第に近づいてきて、リーリスが間近に体を寄せてくる。温かな体温にほっとすると、耳元近くでふいに今までとは全く違った、儚い小さな声が響いた。 「私この前依頼で失敗してね、知り合いが目の前で殺されちゃった」 声は潤まない。けれど傷みを抱えた声音が背中から胸を刺し貫く。 「多分体は他の人の入れ物になって、魂は人殺しの道具に作りかえられちゃったと思う。私、ちょっとだけ泣きたかった。だから、泣いてる人のところへ来たの。私…人の感情、見えるから」 思わず強く手を握る。 泣いていたのだ。いつの間にか自分は。あの世界で泣いていた、それに自分で気づかなかった。だから、あれほど切なくて。だからあれほど、海の底に消えたくて。それにリーリスが気づいたのは、能力だけではなくて、同じ傷みを抱えたから、では? 「人はいつか必ず忘れる時が来る。お兄さんは、それがほんの少し他の人より早かった」 リーリスがなお微かな声でつぶやく。 「なくしたものを嘆かないで。忘れても前に進もうとした自分の選択を嘆かないで」 それはまるで、自分に言い聞かせることばのようにも聞こえて。 「辛かったら泣いていい、忘れていいんだよ、お兄さん?」 「……ああ、本当に、そうだ」 思わず囁き返す。 「どんなに辛い想いをしても、泣いて、忘れて、それでまた、次の一歩を探して」 人は前へ進んできたんだったよね…? 僕は、絆を失わないことを星に祈るのではなく、後悔しないことを星に祈るべきだったんだね? 鳴海の声にリーリスは無言で降下を速める。 「降りてきたネ」 ワイテが片手で流れるカードを楽しそうに見やって、上空から相手に目を戻す。 「で、ほんとに潜るノ?」 「はい!」 マリアベルはにっこり笑って準備体操を続ける。 「ランプも持ってきたし!」 面白そうな言い伝え。 「星。海においては方角を知るための道しるべだね。迷わず帰れるように、船は星を頼りに進むんだとか」 よいしょ、よいしょ、と体を丁寧に伸ばす。夜の海は昼間と海流も違う、水温もかなり変化するし、低くなるはず。重圧には強いけど、凍えて身動き取れなくなるのは困る。 「ジャンクヘブンらしい言い伝えかも。その正体も知りたいけど、せっかくの旅行だし、目一杯楽しまなきゃね」 「で、その楽しみ方が宝探シ?」 仕事じゃないノ? 「だって、海の中から鈴の音が聞こえるなんて、面白そうなことは見逃せないね。遺跡の中から聞こえてくるのか、それとも波の音がそう聞こえるのか」 茶色の大きな耳がぴくぴくと動く。きらきら輝く澄んだ紫の、好奇心に満ちた瞳。 「遺跡と、鈴の音の正体を探ってみるよ。これでもトレジャーハンター。泳ぎも得意だから」 片目をつぶるその元気さ、星を願い祈りに満ちて鈴を鳴らす夜の中で、それこそ彼方の星のように弾けるエネルギー。 「さっきからずっと探っているけれど、地上の鈴の音以外に鈍いけど不思議な反響で聞こえてくる音があるんだよね」 ふんふん、と思わず鼻歌が零れるのは、楽しみなターゲットを見つけた興奮。 「何があの音を鳴らしているのか。海の生き物か、それとも遺跡か」 「生きもノ?」 ワイテが思わずシャッフルの手を止めた。 「なるほド、それは思いつかなかったネ」 鈴音を鳴らす海中生物。確かにジャンクヘブンならではの結論かも知れない。 「もし、何も見つからなかったら、代わりに貝でも探そうかな」 焼いて食べてもいいし、綺麗な貝なら、せっかくだから鳴海司書に持って行ってみよう。 くすり。マリアベルは横目でひくひくしながら眉を寄せて唸っている灰人を見やって笑った。 「口直しの食べ物がないと危なそうだしね」 「確かニ」 呼吸はしてるから、まあ命に別状はないようだけド。 「じゃ、いってきます!」 ざぶん、と暗闇の海に小さなランプ一つ掲げて滑り込んだマリアベルの姿を見送り、ワイテがそれもまた星のようだ、と眺めていると、 「あれはどこへ出かけたのだね?」 背後から声がかかって振り向いた。 鋭い顔つきの初老の男性だ。緑色の髪の毛を緩く三つ編みにし、三つ揃えのスーツにインバネスコート、ジャンクヘブンにはいささか暑苦しい出で立ちだが、本人は至って涼しい顔だ。 「海中から鈴の音が聞こえるんダ。その正体を突き止めに出かけたのサ」 そちらはずいぶんと買い物を楽しんだようだネ。 ワイテの視線は男が抱えている大量の書物と、鳴海の『海神』シリーズとどっこいどっこいの鮮やかな魚のフライや緑の甲殻生物の串刺しなどに吸い付けられている。 「ああ、あちらの方で昼間、古本市があってな。手書きの書物なのだが、これがまた美しい文字で描かれている」 男は近くの木組みに腰を降ろし、トランクケースを置いた。緑の瞳を瞬かせ、手にしていた食物を積まれた木箱の上に並べてみせる。 「グラフェン・サートウ、写本家だ。印刷技術なぞでは、魂を書き写す事はできん。そこへいくと、ここの文字は美しく命がこもっている。つい夢中になりすぎて、食事を忘れていた。一緒に食べるか?」 やや傲岸な物言いだが、ワイテはひょうひょうと並べられた食べ物を覗き込み、じゃあ、これでも頂こうかナ、と薄緑色の不定形のフライに手を伸ばす。素材は不明だが、香ばしい匂いは食欲をそそる。 「味はまあまあだが、食べにくいのが難点だな」 グラフェンはと言うと、鳴海の『海神水』よりなお発色鮮やかな色とりどりの魚のスープを啜り、そのまま食べると口が裂かれそうですが大丈夫ですか的な、とげとげした甲殻類の真っ赤な中身をおいしそうに食べている。 「ああ、これも買ってきたが、どうだ?」 続いて楽しげに取り出したのは何が入っているのかわからない、赤や緑や紫に色づけされた饅頭だ。 「かなり危なそうじゃなイ?」 「うむ……」 口から甲殻類のひげを抜き出した後饅頭に噛みつき、グラフェンは思い切り顔をしかめた。さすがに吐き出すことはしなかったが、果物と氷がざらざらと混ざったジュースのコップを掴んで一気飲みする。 「止めとくネ」 「そうだな」 旺盛な食欲も肉饅頭でとどめをさされたのか、一息ついたグラフェンは周囲の鈴音に耳を傾ける。 「波音と……鈴の音」 思い出したように、食べ物の山の隅にあった小さな鈴に触れて鳴らした。 ちろん。 「せっかく手に入れた書を見るためにも、是非とも星には盛大に輝いてもらいたいものだ」 「確かに満天の星空だネー。実に綺麗ダ」 ワイテはフライを呑み込んで、これはおいしかったヨと付け加えながら空を見た。 「あっしは占い師。タロットの大アルカナにも星があるんだけど、意味、知ってル?」 グラフェンは知っているとも知らないとも答えず、ただ興味深そうに視線を向ける。 「正位置は希望とか、将来への期待とか、そんないい意味。星に願いをとか言うしネ。逆位置は不安とか、消極的、考えすぎ、そんな意味」 「同じものなのに配置で意味が変わるのか」 「うン。逆位置でも、まぁ現状ではそんなに悪くはない意味」 彼女は新しい意味を見つけにいったのかもしれないネ。 ワイテの視線が海に戻る。マリアベルはかなり深くまで潜っていってしまったのだろう、明かりは波間に紛れて見えない。 「トレジャーハンター……宝物を見つける者……失われていた価値を見いだす者」 「…腹ごなしに追いかけてみよう」 グラフェンはトランクから魔術書を取り出した。手にしていた鈴に向かって何事か密やかに詠唱すると、鈴がほのかに光を宿す。同時に自らに何か施したのか、淡く輝く膜に包まれて、船着き場の端からゆっくりと足を踏み出す。ふわり、と一瞬浮かんだ体はすぐに海中に静かに降りていった。手元に光る明かりを受けて、光の繭のようになったグラフェンの姿が、みるみる遠ざかっていく。 「ずいぶん深いな、ここハ」 鳴海君、ここに落ちたら危なかったんじゃないノ。それとも落ちたかったのかナ? 独り言を呟きつつ、ワイテが手にしたカードは塔。ぐるぐる上下を入れ替えて眺めていると、 「ふ、はあああ」 「ただいま〜」 大きな溜め息とともに鳴海とリーリスが戻ってきた。 「あ、おいしそ〜、食べていいかな」 「いいんじゃないノ?」 ただ、その饅頭系は止めた方がいいかモ、そう言いかけたが、リーリスが既にぱくんと食いついたのに、ま、いいか、と視線を鳴海に戻した。 「お疲れさマ」 「は、は〜〜い」 なぜか鳴海はさっきにも増してへとへとで顔色は真っ白だが、それでも気力は少し戻ったようだ。同時に、倒れていた灰人がもぞもぞと同じぐらい白い顔をして起き上がった。 「……二・三分ほど卒倒していたようです。こうして息を吹き返したのも神のご慈悲、おお偉大なる主よ感謝します」 おもむろに十字を切り、両手の指を組んで深々と感謝を捧げる。 「いつのまにか皆様が。ここにこうして集えたこともまた神の恩寵、縁の不可思議、人生の神秘。今宵はお話できて楽しかったです」 薄暗くはあるが微笑みを浮かべた灰人が、いえいえ、こちらこそ、と慌てて笑み返す鳴海の手をしっかり握った。 「鳴海さん、そう暗い顔をなさらずとも貴方とて私どもの大切な仲間です。司書だからと肩肘張らず不安な時、心細い時は頼ってくださっていいんですよ」 「……そう、ですね…」 いつの間にか、自分一人でいろんなものを背負ってる気になってました。 「そんな力もないくせに」 鳴海がちょっとしょんぼりしたのに、 「……些か説教臭かったですかね、はは」 照れ笑いをした灰人が、ふと、 「本音を言えば私とて故郷の妻に忘れられてるのではと怖くて怖くて堪らない。司書の方々は元の世界の記憶を失ってるとお聞きしましたが、私にも記憶の綻びがある。ひょっとしたら、もう妻は……」 心を何かに抜き取られたような顔になり、慌てて首を振る。 「いえ、よしましょう。今宵は同じ悩みを分かち合えただけで十分です」 「同じ…みんな……同じ」 鳴海がリーリスを見やる。 「彼女と上空から見下ろしたとき、地上でたくさんの明かりが見えて、たくさんの鈴の音がしました。それら全てが星を願ってる。けれど」 それら全てが星そのものであるようにも見えたんです。 「タロットの大アルカナの『星』は、逆位置でもそんなに悪くない」 ワイテが一枚のカードを抜き出して見せた。 「未来は不安定かもしれないけど、実際はそうでない可能性も大いにあり得ル。悲観的になりすぎているのかもしれないネ? 占う方にとってもでるだけで随分と安心できるカードだヨ」 だからってわけじゃないけど、満天の星空の夜は実に安心できル。 「癒されるというか何というか、とりあえず良い物を見ているのは事実サ」 ワイテの声に、鳴海もリーリスも灰人も空を見上げる。 星、煌めく空。 鳴海が何かに呼ばれたように海へ目を向ける。 「マリアベルとグラフェンが海中探査に向かってるヨ」 ワイテが教えて、皆今度は海へ向かって目を転じる。 揺らめく暗闇の海中、白く揺れるように見える塔、そしてその周囲を巡るように光が動き、無数の泡を輝かせながら浮かび上がってくる。 「あそこにも…星がある……」 星は、既に、こんなにあったんだ。 鳴海のつぶやきが、再び周囲で鳴り始めた鈴音に紛れていく。 「美しいな」 グラフェンは遺跡の中の回廊を巡る。 壁にところどころ掠れて消えかけている文字が彫り込まれている。まさか遺跡を探索して、このような美を見つけるとは思わなかった。指先でそっと辿る。空気の層を介しても、文字の流麗な滑らかさがよくわかる。 「これは…」 文字の少し上に小さな空間があり、そこは別室に突き抜ける穴、まるで何かを吊るすような突起がある。気づいて、手にしていた明かりの灯った鈴を嵌めると、まるで測ったようにぴたりと入った、そのとたん。 るろろろろろ。 鈴が海流に揺らされてまろい音を響かせ始めた。 るろろろ。るろ。るろろろろろろ。 何かの音楽のように、途切れては鳴り、鳴っては止まる。柔らかで優しい振動が壁を伝わり、水流を伝わり、体に染み渡ってくる。 「不思議なものだな」 この空間はもともと空気穴のようなもので、そこにこのような鳴りものを入れて音色を楽しんだのかもしれない。それが今、海の底で、空気ではない海水に揺らされて、また、訪れた者を楽しませる、今度は耳だけではなく全身を。 作り手はそんなことを想像しなかっただろう、この建物が海中に沈むなどと。そしておそらくは、飾られていた鳴りものは、この遺跡が沈んだ時に砕けたり割れたりして失われてしまったのだろう。それを今、グラフェンが再び据え付け、新たな音色を響かせることになる。それもまた、想像もされなかったことだろう。 この鈴はここへ置いていこう。 グラフェンは微笑みながらその場を離れる。 遥か彼方、あるいは近くに、この音を頼りに誰かがやってきて、そしてこの壁の美しい文字を眺め、柔らかな音色に体を浸され、新たな想像を楽しんでいくだろう。 彼の瞬間記憶能力をもってしても、欠けた文字の回復はできないが、それでもかなりの部分は手元に残せるだろう、そう考えて、壁の文字を伝いながら元の場所へ戻って行こうとすると、角度が変わったせいか、遠くにそびえる塔が見えた。 その回りをゆっくり旋回しつつ舞い降りてくるように、茶色の耳をなびかせる姿がある。先に潜っていた彼女の姿だ。 回廊に立って眺めているグラフェンに気づいたのだろう、手を大きく振りながら側へやってくると、持っていた掌ほどもある見事な桜色の貝殻を見せた。 「ああ、それも美しい……何だ?」 頷くグラフェンににこにこと、他にも何か教えたそうに指差す彼方、伸ばされた手を握って回廊を蹴ると、そのまま塔へ向かって引き上げられていく。 やがて、上から眺めた白い塔の天辺あたりまでやってきて、相手が示したかったものがわかった。 塔の先端にはちょうど鈴を嵌められるような穴が幾つも開けられている。今はそこを海水が流れていくことで、風音のような擦れ合うざわめきのような音が響いているが、あの部屋の空気穴のように、ここにも鈴をそれぞれにはめ込んでいたなら、幾つもの音が重なり合い、風や塔の振動で様々な音色が街に響き渡っていただろう。 桜貝を手にしていた娘はにこりと笑って、ごそごそとどこからか小さな鈴を引っ張り出した。意図を察して、グラフェンも手を伸ばす。 娘の手とグラフェンの手、二人で一つの鈴を、穴の中の突起に取り付ける。 るりりりり。るろる。るるる。 海中で鳴る土鈴の音は、地上ほどにははっきりは聞こえない。けれど肌を直接撫でるような、甘くて優しい響きを広がらせている。 鳴り出した音に二人しばらく耳を傾けていたが、ふいに手を引っ張られてグラフェンは上を見上げた。 海面と思しき場所に地上の光が落ちている。それはまるで、地上で見上げた夜空の星のようだ。 見下ろせば、海中の遺跡に残してきた鈴もまた小さな音を響かせ続けている。 「相似形だな」 隣に居たマリアベルが突然大きく目を見開いたのは、自分がグラフェンと海中に浮かぶ光景と、さっき夜空に浮かぶ鳴海と少女の姿が、まるで合わせ鏡のように重なったからで。 天空に星。 地上に星。 海面に星。 海中に星。 星のただ中、ジャンクヘブンは浮かんでいる。 なんて不思議な光景。 これは一体何の符号だろう。 何かの謎が秘められているんだろうか。 だとしたら、どうしたら謎が解けるんだろう。 その向こうには何があるんだろう。 そうやっていつも、未知の世界に飛び込んで、ついにはこんなところまで来ちゃったんだなあ。 去来する切なさと、それでも知らないものを見つけにいこうとする衝動は表裏一体。 くい、と腕を引かれた。 空気を纏い、いささか鋭い顔の初老の男性は、それでも瞳を和らげて呼びかけている。 「灯りさえあればどんなに暗い道であろうと怖がる事はなかろう。暇ならば一緒に探索しに行くか?」 指差しているのは海上。 海中を探索しにきていたはずなのに、自分が旅立った世界に、まだ探し切れていないものが一杯あると知らされるなんて。 ああ、そうだ、探しにいこう、トレジャーハンターの名にかけて。 「うん、いこう」 いこう。 いこう。 謎を解き、失われた宝物を見つけ、新しい夢を発見しに。 桜貝とグラフェンの手を握りしめて、大きく茶色の耳を羽ばたかせる。 いつかお土産とたくさんの温もりを抱えて、帰るんだ。 ざぶりとマリアベルが海面に顔を出したとたん、 「お帰リー」 ワイテがまったりと手を振る。 「ごめんなさい、ずいぶん頂いたわ」 かなり減った食物にリーリスが笑う。 「だ、大丈夫でしたか、ところで何か収穫でも」 鳴海がそこはきっちり尋ね、 「お二人ともご無事ですね! これこそ神の奇跡の御業! 海中のソボボゲドンとかモガジャブッシュとかに襲われもせずに戻ってこられたことに神に感謝を!」 「何なのそれ、ってかいねーよそんなの」 灰人に思わず突っ込んだマリアベルの横で、 「ずいぶん歩き回って小腹が空いたな」 水から上がったグラフェンが再び赤と緑と青色のシマシマ魚の切り身を取り上げた。如何にもどうにかなりそうな怪しげな香り。 「そ、それはっ」 「神のお慈悲を!」 鳴海と灰人の悲鳴の前で、グラフェンはこれみよがしにばくりとやる。 しまった。ジュースがもう一杯必要だったな。 込み上げる笑い。 鈴が鳴る。 星が輝くのは、空ばかりではないと。 地上にも、海中にも。 失ってしまった過去にも、不安定な未来にも。 星はいつも輝いている。 その音を胸に。 再び皆、進むのだ。
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