緑の世界樹の下。 白い衣服を身につけた美しい青年「原初の園丁」シルウァヌス・ラーラージュとその周りに園丁たちが立っていた。その一段下にドクタークランチ、ゴースト。更にその背後には元図書館側のロストナンバーたちも控えていた。今回の任務について必ず参加義務があると命じられていたのだ。 部品が存在する以上、ロストナンバーたちに拒否権はない。 集合がかけられ、世界樹の前に通される前にこれみよがしにスイッチを弄ぶゴーストが語った。「今更、念を押すことはないと思うがお前たちの命は俺らが持ってる。……ってことになってるんだよなァ、けど、いいことを教えてやると、ナラゴニアでこっちにきたやつらは爆弾を埋め込んでなかった……なぁんてどうする?」 その場にいたロストナンバーたちはぎょっとした。「ただし、裏切り防止のためにある細工をした。さあて、その細工はなぁんだ。ただ爆発して死ぬだけじゃツマラナイ。裏切りがわかった地点で狂戦士になって死ぬまで周りの奴らを殺しまわったり、毒がまわって苦しみもだえたり、ああ、たとえば裏切った本人じゃなくて、別のやつが死んじまうとか。っても、これはたとえばの話だぜ? ふふ。本当はどうなるか試してみるのもいいかもな。……こんなことをいうのは、そういう可能性のある任務だってことだって察しがいいならわかってると思うが……裏切り行為がばれないと思わないことだ。お前らの部品には監視機能がついているから一発だぜ? うっけけけ」 ゴーストは不吉な種をロストナンバーたちの心に撒いた。「では、我々は世界図書館に全面戦争を仕掛ける。それについてお前たちの役割はわかっているな」 静寂のなかにシルヴァヌスの声が朗々と響き、恐ろしい作戦を告げる。「うっけけ、お任せあれ! じゃあ、オレサマ、ゴーストはアリッサの首を狙いましょう。混乱のなかならわりとあっさりと殺せるでしょう。リーダーを討てば負けを認めるしかないだろうし。ついでにクランチの作った爆弾を街のなかに仕掛ければ面白いでしょうし」「では、私はそれらの用意とともに図書館への攻撃」「クランチ君。君はもうひっこんでいてくれてかまわない」 クランチの発言を遮った者がいた。――シルウァヌスの脇には不遜な表情の園丁であった。年老いた樹の皮のようなしわの重なった体であったが頭頂に生えている花だけは真新しい。そして淀んだ眼光は鋭かった。「私はブルバキ・モルダヴィア、お前たちには図書館を破壊していただく。くくっ、私が作ったノエル叢雲によって……!」☆ ☆ ☆ 音がする。 それは破壊を欲する者の哄笑か、助けを求める者の悲鳴か、はたまた……。 彷徨える森と庭園の都市・ナラゴニアは一つに留まることは許されない、どこまでも漂い続ける運命にある。 それを逆手にとって「原初の園丁」シルウァヌス・ラーラージュは、なんとナラゴニアでターミナルに攻め込んだ。 黒と白のチェス盤のなかに建つ都市からは声が止まない。空中を飛び交う閃光。都市からあがる炎。「まるで宴だな」 桜色の髪の毛に白い騎士服の女――ゴーストは出発前のナレンシフ乗り場にある、大きく開かれた発車入り口から下を見てぽつりと漏らした。「ふん、しかし、こんな行動に出るとは、ブルバキ・モルダヴィアといい、シルウァヌスも耄碌したもんだ……クランチもそうだが、そろそろ潮時かと思ったんだがなぁ」 ゴーストは背後から近付いてくる気配に振り返った。「おお、きたきた。さーて、お前たち、仕事はわかってるな?」 ゴーストが見る先にいるのは、世界図書館からナラゴニアへと寝返った……ヒイラギ、東野楽園、グレイズ・トッド、世界樹旅団ではシエラと名乗っているディーナ・ティモネンの四人。「わかっているわ。館長……アリッサの暗殺でしょう」 楽園は両手に毒姫を抱いたまま物騒なことを呟く。細い手がそっと毒姫の頭を撫でた。「そうしたら、ずっとあの人と一緒にいれるのね?」「それはお前の頑張り次第だろう? ナラゴニアでは大口叩いて取り逃がしたものなぁ。今回もそうならないといいけど」 ゴーストの嫌味に楽園の目が鋭い刃のように細められる。「おー、こわいこわい~。うっけけ」「無駄口叩いてるんじゃねぇよ。俺らの乗るやつはどれだ」 グレイズの声にゴーストは手前のナレンシフを指差した。「あれだよ。野良犬ちゃん。せっかちだと一人でイッちまうことになるぜ? ああ、お前らにこれを渡しておく」 ゴーストが投げ寄こしたのは小さな黒い塊だった。受け取った四人は手の中におさまっるそれをしげしげと見つめた。「これは?」 ヒイラギが慎重に尋ねる。「クランチの作った爆弾だ。これ一つで小さな建物なら一発で破壊できる。……お前らは俺とまずは図書館に移動する。そして、図書館についたらそれをどこでもいいからセットしつつアリッサを目指す。途中邪魔もはいるのは想定内。お前らには敵を殺すか、足止めをしてもらう。ここの誰でもいい、見つけ次第、アリッサを殺して、首をもってこい」 にぃとゴーストは唇をつりあげる。「とても簡単だろう? どうせクランチのやつやブルバキが暴れて警備は手薄になっているだろうし。爆弾はいいタイミングで爆発するように既にセットしているから、それは置くだけでいい。もし敵に爆弾が発見されても四つあればどれか一つくらいは爆発するだろう。爆発音もしくは俺が合図したらすみやかに建物から退避、そのあとナレンシフで一度、ナラゴニアに戻る。以上だ。お前たちの働きは期待しているよ。世話してやっている可愛いお前たちに相手にオレサマも出来ればこれは使いたくないしな」 いつの間にか、ゴーストの手にはスイッチが握られていた。「なぁ。欲しいものを手にしたいだろう。苦しいのはいやだろう、復讐したいだろう、……オレサマはクランチと違って優しいし、嘘はつかねぇ。ちゃんと達成すれば御褒美をやる。わかったならさっさとナレンシフに乗り込め」 優しい声から甘く、最後は石のように冷たい声でゴーストは告げた。四人が顔を見合わせてナレンシフに歩きだそうと「シエラ、お前は待て」 ゴーストが呼ぶのにディーナ、シエラが足を止めてふりかえる。それに残りの三人が視線を向けるがゴーストは手を振って三人にはやくナレンシフに乗り込むように促した。 ゴーストが自分が保護したシエラを特別に可愛がっていることは誰もが知っていることだ。 二人きりになるとシエラが口を開いた。「なに、ゴースト」「お前はとうとう、俺との賭けに勝っちまったな。……クランチにはそこまで可愛がっているなら、シエラだけはどんな任務にも俺の一存で連れていっていいと言われていた。だが俺はそれをあえてせずに、選ばせた。お前が、裏切ればいいと思っていたけど、お前はここにいる。だから俺も、本当の意味で覚悟を決める」 ゴーストがシエラの細い体を両腕で抱擁すると耳元に唇をあてて囁いた。「いいか、よく聞け。誰も知らないことだがクランチが死んだら、【部品】は機能を完全に失う、スイッチも意味がなくなる。俺が今までクランチの能力の欠陥を隠蔽してきたが、今回は別の任務につくからどうなるかわからねぇ。もし異変を感じたらすぐに俺の名を叫んで、ナレンシフまで退避して一人でも逃げろ」 ゴーストは抱擁をとくと額にキスを送った。「お前は俺を選んだ。だから俺はもう試さない、裏切らない、離しはしない。……守ってやる。くくく、まさか、俺という存在を肯定する奴とこんな風に巡り合うとはな。だから世界ってのは面白く理不尽で愛しい。くそったれめ! さぁて、楽しく遊ぶか! 宴のはじまりだ! うっけけ!」☆ ☆ ☆ ターミナルは外部からの襲撃を想定して作ってはいないため、都市は容易く混乱に陥った。 戦いに自信がある者たちは襲ってくるワーム、旅団との攻防戦を繰り広げる。 そのなかで世界図書館はいちはやく無力なロストナンバーたちの避難所のひとつとなった。もともと、そこには非力な司書たちが複数存在し、緊急事態である今はここに匿われることとなった。 しかし、最も目立つそこを狙わないものはない。 いかに堅牢な城も陥落しなかったことはないのだから。 それにいちはやく気がついたロストナンバーは胸騒ぎを覚えて駆けだした。 無力な司書たちを守ること、それにアリッサは無事だろうか? と。======!注意!イベントシナリオ群『進撃のナラゴニア』について、以下のように参加のルールを定めさせていただきます。(0)パーソナルイベント『虹の妖精郷へ潜入せよ:第2ターン』および企画シナリオ『ナレンシフ強奪計画ファイナル~温泉ゼリーの下見仕立て観光風味~』にご参加の方は、参加できません。(1)抽選エントリーは、1キャラクターにつき、すべての通常シナリオ・パーティシナリオの中からいずれか1つのみ、エントリーできます。(2)通常シナリオへの参加は1キャラクターにつき1本のみで、通常シナリオに参加する方は、パーティシナリオには参加できません。(3)パーティシナリオには複数本参加していただいて構いません(抽選エントリーできるのは1つだけです。抽選後の空席は自由に参加できます。通常シナリオに参加した人は参加できません)。※誤ってご参加された場合、参加が取り消されることがあります。======
死者の腹のような冷たさと静寂のなか、シエラの手の中にある黒い爆弾が怪しげな光を放つ。 「ゴースト……この爆弾、タイマーセット済なのね」 ゴーストはただ微笑むだけだが、シエラはそれですべてを理解すると片方の手を伸ばして、柔らかな桜色の髪の毛を撫でた。 さら、さらさら。取り戻すことのできない時間のように髪の毛が揺れる。 「素直で優しいね、貴方は……今日はそんな貴方が私を切り刻んで零世界に送り返す日」 その言葉にゴーストの目がすっと細める。止める間もなく、シエラは手に持っていた爆弾を口のなかに入れた。肉体が異物を否定するのを精神力でねじ伏せて飲むことに成功したシエラにはどこか壊れた人形のように笑う。 「ヒイラギは、たぶん、館長を庇うわ。その瞬間に同士討ちの判定が入れば私たちは狂乱する、よね? 正気でなくても任務を果たす必要があるの」 ゴーストは愚かではない。わざわざ自分たちを使うのはそれ相当のことを考えているはずだ。 「貴方じゃ、私は救えない。救う必要がない」 シエラは、笑う、嗤う、わらう。笑い続ける。 「貴方に感謝してる。生き伸びてくれたら嬉しい、役に立ちたいと思っているわ……だから、今から私と賭けをして」 さらさらと、シエラの手から花べんのような髪が零れて、落ちて、落ちていく。 「賭けの内容はね」 最後までゴーストは黙って聞き、頷いた。 「いいわ。賭けに乗ってあげる。私のシエラ・スティグマ」 ゴーストはシエラの額にキスをすると背を向けた。 ★ ★ ★ 世界図書館の裏から侵入しようとしたゴーストたちは、立ちふさがる人影に足を止めた。 「やぁやぁやぁ!」 大げさなほどに両手をひろげて出迎えたのは神。 ターミナルでは「あなたの心の大黒柱、エウダイモニ君です」という台詞とともに神出鬼没にして変幻自在な不思議な存在。今は白い衣服を着た男――誰もが神と思う姿で傲慢な笑みを浮かべている。 グレイズが飛びかかろうとするのをゴーストが止めた。 「わざわざ出迎えに?」 神はにこりと微笑んだが、いきなり両手で顔を抱えて苦悶する。 「もちろんだとも! と言いたいが、私はね、ゴースト君、君にいいたいのだ。君は実に残念だ。あ~残念だ! 一時は君も、私の心躍らせる超越存在の一種かと思ったが。何のことは無い、単なる誰かを護ることで自分を保とうとする平易で退屈な存在な凡俗に過ぎなかったとはね……弱みを」 演技かかった嘆きをした神の手はシエラを指差す。 「得た者は、その者と同じ次元に落ちてしまう」 そこで神の眼は無感動にゴーストを見つめていた。 「かつては耳に心地よかった君の笑いも、もはや心動かされるものがない……またひとつ退屈になってしまった……実に残念だ! ああ、それとも、それともだよ! 君はそれを切り捨てて私と悠久の神遊びに興じようと?」 「ご冗談を……俺じゃあ、退屈させるだけだぜ?」 「そんなつんつんしていていいのかなぁ~」 一瞬で神の姿はゴーストたちの目の前から消え、再び現れたのは 「世間話するくらいの余裕がないと戦いで疲れがでちゃうぞ? ほぉら、リラックス、リラックス!」 ゴーストの後ろから現れた神が、その肩を揉んでいる。後ろに控えていたシエラ、楽園、ヒイラギ、グレイズは瞠目、空気に緊張が走る。 ゴーストはゆっくりと首を動かし、神の顎に人差し指を添えると口づけを交わすほどの至近距離で見つめ合う。 「肩に触れるのはいいが、いきなり女性の髪の毛に触れるなんて、マナー違反だ。髪は女の命だぜ?」 「おや、そうかい! それは失敬、失敬!」 その瞬間、神の体を鋭い針となった影が貫き、足から飲みこむが、別のところからまたしても笑い声が響く。 先ほど立っていた場所に神は当然のように立っていた。 「ううん、これなら多少は楽しめそうだ。よーし、これから宣言しよう、私はここ一帯に、君やその後ろにいる者たちに向けて超思念波を送ろう。その瞬間、平和な心が開花し、同時に死ぬ! どうだい?」 「御断りしても勝手にはじめるんだろう?」 駄々っ子を見るような目でゴーストは神を見つめて小首を傾げた。 「それをするのは一時間後、でなければフェアじゃないと思わないかい?」 「ほぉ、なぜだね?」 「退屈がいやなら、ぎりぎりまであがく者を見るのもオツだぜ。むろん、途中で壊しても構わない。ゲーム盤をひっくり返すのは自分次第、けど、はじめからひっくり返したのでは意味がない。自分も駒になって動いてみればいい」 「うむ」 神は腕組みをすると唸って、ニヤリと笑った。 「君はなかなか心得ているね」 「ゲームは常に上からではなくて、参加するから面白いのさ」 「よーし、それならば!」 「ゲーム開始。グレイズ、燃やせ」 その瞬間、青い炎が神の足元で燃えあがった。 「あはははははははははは! 楽しみにしているよ!」 高らかな笑い声とともに青い炎に包まれた神は消えた。 「そのうちなにか仕掛けてくるからそのつもりでいろ。さてと、ヒイラギ」 「はい」 「行け」 ヒイラギは頷いたあと、天を仰いだと思えば、その姿が消えた。 ★ ★ ★ ナラゴニアを見たとき、ニコル・メイブの女のカンが働いたというべきなのか、すぐさまノートを開いてペンを走らせるとアリッサに連絡した。返信はすぐに来た。アリッサがまだ図書館にいることを知ると、急いで駆けだしていた。その間にも何度か短い文字のやりとりを繰り返し、ニコルはアリッサにセクタンをジェリーフィッシュフォームに変更するように促した。 『秘密のビーチに隠れるって、どう? これなら海底にも行けるでしょ? レディにはあとで一緒に謝ってあげるからさ。他にもそっちに向かっているのがいるはずだから、彼らと合流しながら向かうわ。彼らが別に隠れるところを考えていたら、そっちに行きましょう。とりあえず、用意はして待っていて』 世界図書館の前で片手に大きめの荷物を持った黒装束の青年が走っているのにニコルは気がついた。 その青年が真っ直ぐに駆けていくのが、どう考えても自分と同じ方向なのだ。 「もしかしてきみもアリッサのところに向かってるの?」 ニコルの言葉に前を行く青年――ヴェンニフ 隆樹は走るスピードは緩めずに首だけ動かす。その横にニコルは並んだ。 「私もよ。アリッサにはノートで連絡をとったんだけど」 ニコルは自分の提案した逃亡ルートを素早く説明する。それに隆樹は頷いた。 「いいと思うけど、そのままの格好で逃げたんじゃ危険だ。僕の知る限り、自分の知っている相手なら一発で見つけることのできる奴が、ナラゴニアに一人、いる。シャドウ、今はゴーストって名乗っていたが」 ナラゴニアで潜伏する際、銀猫伯爵の影に隠れていた隆樹はゴーストが自信満々に告げていた言葉を思い出し、眉間に皺を寄せる。 このチャンスにあいつが動かないはずがない。 ゴーストはターミナルに一度訪れる。それをここで有効活用しない手はない。自分が敵ならば、必ずそうする。 その対策の準備をここに向かいながらしてきたのだ。 「あいつは捕虜のとき、ターミナルを見ているし。アリッサやレディカリスのことも見ているんだ」 「つまり、あいつにはアリッサやレディを見つけることが出来るってわけね」 ニコルも隆樹が考えている可能性に、顔を険しくさせる。 「まぁ、それを逆手にとって待ち伏せするつもりだけどね、僕は」 「あら、頼もしいじゃない」 二人は意見交換を交わしながら世界図書館の建物内に入り、アリッサが待つ館長室を目指した。その途中、同じ目的のマドカ、最後の魔女との合流にも成功した。 「こういう終焉の迎え方も嫌いじゃないけども、如何せんやり方が美しくないわね。気に入らないわ」 ナラゴニアの襲撃に最後の魔女はいたくご立腹で、瞳が冷ややかに輝く。 「んー、わたしはよくわからないけど、なんでロストナンバー同士なのに戦うのかな? だってわたしたちって旅団が持ってるもので欲しいものなんてないのに」 マドカが首を傾げる。 「図書館と旅団で、お隣りさんじゃダメなの?」 無邪気な問い掛けをするマドカは覚醒して間もないために知らないのかもしれないが、旅団は、ロストレイルを襲撃した過去があるのだ。 世界を食らう世界樹と、秩序を保つ世界図書の存在は似て非なる存在でしかない。 「出来たら、よかったんだけどね」 ニコルはため息まじりに呟いた。 アリッサは不安を押し殺した笑顔で四人を出迎えた。 「みんな、来てくれて、ありがとう! ニコルが言ったように、セクタンは変えておいたわ」 「セクタン、かわいー! あっ、わたしからのプレゼントだよ!」 マドカが差し出したのは小さなカプセル薬と水風船だ。 「わたしが開発した薬! 飲んだら十分間は完全に死体だよ! これでさ、なんか危ないときは死体になって騙すの。あと、水風船は同じものだけど、強力版で、かかれば二秒できいちゃうやつ! 敵に投げるの!」 マドカが自信満々に説明する。 「わたしが、アリッサのフリをして逃げ回るでしょ? 危なくなったら、死んだフリをするの!」 「それはやめたほうがいい」 マドカの作戦に反論したのは隆樹だった。 「囮を使うことは僕も考えたから賛成だけど、仮死状態にする薬は敵に使うのはいいが、自分たちが飲むのはやめたほうがいい」 「どうしてよ」 マドカが唇を尖らせる。 「首を切られたり、心臓を貫かれたら死ぬからだ」 きっぱりと隆樹は告げた。 「あいつらは首なりなんなりをとって殺した証拠を持ち帰ろうとするはずだ」 「そうね。仮死で、動けなくなったら逃げようがないわ」 ニコルも静かに隆樹に同意する。 「そっかぁ。失敗、しょんぼり」 「くくく、そんなに落ち込むことはないんじゃないかしら? 薬は敵には有効なのだし、使えれば一発逆転が狙えるわ」 最後の魔女が静かに微笑むのにしゅんと項垂れていたマドカは、ぱっと顔をあげた。 「そっか! そうだよね。ふっかーつ!」 元気なマドカの様子に隆樹は肩を竦めたあとアリッサと向き合った。ここに来る前に集金をする仲間に今もっている有り金全部を渡すかわりに変装用の衣服を一通り借りてきたのだ。 そこにはアリッサを男の子に変装させる一式も揃っている。 「思ったより、背があるな」 不思議そうにアリッサが首を傾げる。その前でヴェンニフが隆樹の体を包んで竜体となった。 『スイマセン、護衛トシテ、ワタシガ、カゲのナカにハイッリマスがイイデショウか?』 「護衛は必要だわ」 ニコルの言葉にアリッサは頷いた。それにヴェンニフは影分身を使用してアリッサの影のなかにはいった。 「僕はここで敵を待つ」 「最低でも二人ひと組で行動したほうがいいんじゃないの?」 ニコルか反論するが、隆樹は冷静に首を横に振った。 「一人だからこそ、あいつらも油断するはずだ。僕たちの目的はアリッサをなにがなんでも護ることだろう?」 「それは」 隆樹もニコルもわかっていた。 アリッサという世界図書館のシンボルが失われれば、負けだ。 隆樹の黒い瞳は最悪の事態も想定内に覚悟を決めている。 アリッサが不安な顔をするのにニコルは、そっと、その肩に手をおいて落ちつけてやりながら静かに頷いた。 「先、ノートを見たらローナから連絡があったわ。ホワイトタワーからこっちに向かってるって、彼女に囮作戦を教えたら、自分のコピーを使うって」 「コピーか……ローナが大量に囮を作れば敵を混乱されるな。その隙にアリッサを逃すなら、下手にみんなで護衛せずに、単独のほうが敵を欺けるかもしれないな」 「ふ、ふははははははははは! なんと涙ぐましいんだ! 諸君! 神君はとっても感動して涙がちょちょ切れているぞぉ!」 全員の緊張の糸を叩き切るような演技かかった大声。 なんと執務机の上に神が両手を広げて立っていた。 隆樹とニコルの呆れた目も、マドカの「おもしろーい、解剖してみたい」のきらきらの眼差しも、天敵を見たような最後の魔女の眼も、すべて受け止める、これぞ神の業! 「いやいや、私もたまたまここに読書にきていてね! いや、偶然、偶然! もしくは必然! 我が身も犠牲にする君らに私から特別プレゼントだ。向こうはゴースト君がいるぞ! それに裏切り者ならディーナ君、楽園君、ヒイラギ君にグレイズ君もいたなぁ!」 さらりととんでもない情報を神は太っ腹にも投げ寄こした。 「それ、本当なのか?」 「神君、嘘つかない!」 詰め寄る隆樹に神はウィンクで応える。 「ゴーストか……気配を知られているのはきついな。僕は動かないほうがいい。かわりにヴェンニフが動くが……相手がどう出るか」 それにヴェンニフが尻尾をひらひらと動かした。その態度はなにかを吟味し、どこか期待しているようであった。 「よくわからないけど、わたしもがんばるー! 水風船、役に立てるよね?」 「ああ……じゃあ、悪いけど」 マドカから水風船を受け取った隆樹の背からヴェンニフが顔を出し、この場にいるアリッサ以外の者の記憶を食べにかかる。ゴーストがいる以上、ヴェンニフが護衛についていることを知っているのは自分とアリッサだけでいたほうがいい。 ゴーストが仲間の記憶を読んでばれては護衛の意味がないからだ。 ニコルたちが部屋から出ていったあと、隆樹はマドカの水風船をドアが開いたら落ちるように設置、素早く着替えると、安楽椅子に腰かけて影でアリッサとの身長差を調節する。 その傍らにはアリッサのトラベルギアの傘に偽装した鈍姫を置く。 男装したアリッサを連れて部屋を出たニコルは一瞬だけ違和感に首を傾げて振り返った。先ほど出た部屋に誰かいたはずだがどうもそこのところが虫喰いにあったように抜け落ちている。仲間であることは覚えているので大丈夫だと納得する。 「マドカと、最後の魔女だと長いからラストって呼んでもいい?」 「私のことを? ふふ、素敵なセンスね。いいわ。特別に許してあげる」 「ローナと合流しましょう。アリッサ、打ち合わせどおりに。私たちはローナの作った囮を本物らしく護衛して敵がこっちに注目している隙に逃げる。問題は、その前にあいつに見つかる可能性ね」 「さぁて私はこれで!」 ニコルの言葉を無視して神は背を向ける。 「ちょっと!」 「神には神の意思があるのだよ。まぁがんばりたまえって、おっととおー?」 去ろうとする神の腕を最後の魔女が強引に引っ張り、まるでダンスに誘うようににじり寄る。 「あなたが本物の神ならねぇ。あなた、本物かしら? このターミナルにはなりすませる者もいるのだし」 にやりと神は不遜に笑う。 「ふふ、しかしだねぇ、最後は常に一つ。神にとっても最後は一つ、唯一無二。だが唯一神は二つあったとしても問題はない、誰がその違いがわかるのかなぁ!」 「なら神は多すぎるのね」 最後の魔女は小声で告げた。 「お願いがあるんだけれども。楽園さんが私たちと合流しやすくしてくれないかしら?」 神は少しだけ首を傾げた。それは肯定とも否定ともとれる仕草だった。最後の魔女が目を剣のように細めると、神の姿はさっと消えてしまった。 ふんっと最後の魔女は鼻で笑う。 「まぁいいわ。さぁ、行きましょう」 ★ ★ ★ 楽園はノートを開くと、そっとペンを動かしていたが、不意に後ろから肩に触れる手があったのに乱暴に払うと驚いたことにそれは楽園自身だった。叩かれた拍子に後ろにいた楽園はどろりっと溶けて地面に――本来の影に戻った。 くすくす。 背後でゴーストが笑っているのにからかわれたと理解した。 「触らないでちょうだい、下種」 鋭いナイフのように楽園はゴーストを睨みつける。 「図書館がノートで連絡をしているのか確認する邪魔をしないでちょうだい」 「ふーん。まぁ、いいけど」 ゴーストが手を動かすと黒い羽が現れる。ひらひらと一枚、二枚……足元に落ちるとごぽっと音をたてて影の兵士と影犬を誕生させて通路を疾走する。 斬――きゃいん! 憐れな影犬の悲鳴が轟く。 ひらりっと黒い人が舞う。 ナレッジキューブを使用して呼び出した瞬間移動のセエレを駆使した移動と剣術で高倉霧人が目にもとまらぬ速さで斬ったのだ。その姿はどこか不遜にして、隙だらけ。しかし、その実際は恐ろしいパワーを秘めている。 影の兵士たちには恐怖も、畏怖もなく、愚かにもつっこんでくるのに霧人の刃が踊り、そのたびに兵士が斬られていく。 「さて、そろそろ頃合いじゃないですか?」 心地よい注目に浸りながら霧人はにっと笑った。 「隠しておきたかった札の一つ。切るには頃合いか」 厳かな声で告げながらディラドゥア・クレイモアは手にはナレッジキューブを使用した魔法構成を開始する。 「我が」 肉体よ、刃であれ、 魔道よ、情念であれ 魂よ、呪いの祝福を 「魔道に不可は無し!」 高らかに告げた声に合わせて美しく、強靭な剣が生み出される。 「行くよ。もう一人の父さん……っ!」 魔術の使い手であるディラドゥアは「自然の覚醒」において図書館に入ったあと敵の位置を感知したとき霧人とハクア・クロスフォードを見つけると、協力を申し出た。 ハクアの提案のもと、三人での作戦は至ってシンプルだった。 ディラドゥアは「幽体化」を己とハクアに施して姿を消して霧人に先行を任せる。敵が霧人に気を取られている背後に待機している二人は敵の位置数値を計算後、「次元の扉」を出現させて横に飛び出す。 完全なる不意打ち。 「行け!」 空中に生み出される光の魔法陣とともに鋭い光の矢が飛び、楽園とディーナを吹き飛ばす。 ゴーストたちの連携が崩れたのをチャンスにディラドゥアの魔術構成が開始される。 自己暗示で限界値まで魂を高めた状態で父の剣を柱として己の精神を「神」とする。それは英雄の魂とともにあることを選んだディアドゥアが持つ最高の技。 「はぁああ!」 切迫の声とともに振るわれる刃は炎を纏わせた最初にして最大の一撃。 肩から胸にかけて斬られたゴーストの身がぐにゃあと歪む。予想していた衝撃ではないことにディアドゥアは眉根を寄せた。 見るとハクアや霧人の相手にしているグレイズ、ヒイラギも同様だ。 にぃと笑うその女の顔がぐにゃぐにゃと崩れて影になるのを見て罠にはめられたのだと悟った。 「影によるなりすまし!」 「……楽園が危険だ」 ハクアは拳を握りしめた。 ハクアの魔法は見た目こそ派手だが威力はたいしたことがないことは承知していた。蝶たちで身を護り、さらに大量の蝶を通路にばらまく。あたかも敵の眼から自分たちの姿を隠そうとするように。 投げた火炎瓶に蝶のまき散らした粉に着火して、襲撃していたディアドゥアと自分たちを隔てる炎の壁となった。 これにはチームを分ける働きとシエラの動きが鈍くさせ、更には判断力をなくさせる狙いがあった。 「前には進めないわ。私たちは逆の道をいきましょう。ぐすぐすしていては目的が果たせないわよ?」 あとは魔女のところまで誘導して、至近距離で閃光弾を投げて完全に目を潰して、自分の調合した薬を打ち込む手はずになっている。 楽園はここに至るまでに世界図書館側にノートを使ってメッセージを送っていた。 『私一人じゃ無理。彼をはめるには貴方達が必要よ』と、符号を使い、魔女とハクアの協力を別々に得ていた。 楽園の真の目的はゴーストの殺害。 そのためにはシエラを世界図書館の者たちに引き渡し、自分をダシに使ってもいいと持ちかける予定だ。 シエラは大人しく楽園に従った。角を曲がるとその先に最後の魔女とニコル、マドカが待っていた。 一瞬のチャンス。 そのとき楽園は違和感を覚えた。 魔女の足元で――灼熱の宴がはじまる。 シエラは爆発に怯えることもなく飛び出す。手のなかに生み出した罪の茨で魔女の首を掴み、片手に持つナイフで声が出ないように裂く。容赦のない動きにニコルがマドカを背にして駆けだすが、再びの爆発。爆発、爆発。 繰り返される灼熱の宴。 「死にたくなければ下がっているのねっ!」 楽園の手のなかの閃光弾もまた勝手に爆発―― 一瞬の閃光。 乱暴にシエラは魔女を壁に投げ飛ばして気絶させると、再びの爆発の宴が建物を破壊していく。 魔女たちと楽園とシエラの間に炎の壁が生み出される。 楽園は異変に気がついた。 「蝶が、出てこない……?」 「きみのスイッチ、私が預かっているの」 シエラが無表情に告げる。その手にはスイッチがあった。 楽園が眉根を寄せたのは一瞬のこと。すぐに冷静さを取り戻す。 「そう、私はただの小娘というわけね。いつから私が裏切っていると思ったのかしら?」 「はじめからだよ」 ディーナは淡々と答える。 「このチャンスに仕掛けてくる……私はヒイラギだと思っていたけど、君だったんだね。君は知らないけど、先まで一緒にいたのは影で作った偽物。ゴーストは君の記憶を違うものとすり替えたもの」 ディーナは続けた。 「ゴーストはね、ナラゴニアできみたちの尋問に立ちあう予定だったの。……何万人もの人間を食べて、その記憶から人のとる行動パターンを把握してるから、統計結果と過去のスキャンを、クランチはゴーストに求めていた。クランチは誰も信用しないけど、ゴーストは嘘をつかないし、能力についてはとても信用していた。あのときは別の用事と、嘘を見抜ける人がいたからきみたちの前には出てこなかったけど、クランチは取引の内容をすべてゴーストに教えて、その上で私たちを任せた。ゴーストならうまく私たちを使うと思って」 「統計ですって? 私がそれで裏切りやすいっていうの? 根拠がないんじゃないの?」 「ゴーストは、記憶なんだよ。自分のとりこんだ記憶データからすべて判断してる。千回同じパターンなら、その次が違うなんてことはありえない。きみの取引時の行動、あえてこちらを選んだこと……けど、確かな証拠はきみの行動。私たちの誰もノートを見ることも、文字を書くこともしなかった。必要がないから。ゴーストは言ったわよね? 監視システムで裏切れば一発でわかる……常にゴーストは私たちの行動を見ていたし、聞いていたの」 符号連絡は用心だったが、そもそもノートを使うという行動に出た地点で裏切りは発覚していた。 「そう、あいつの言葉を私は疑いすぎたというわけね」 「どうしてゴーストの言葉を信用しなかったの」 「あんなのを信用できて?」 「先も言ったよね? クランチは誰も信用していない。だから「部品」を使って、人を支配する。そんな彼がゴーストを信用しているのはなぜだと思う? ゴーストは嘘がつけないからだよ。ゴーストが捕まって尋問したときのことを覚えている? あのときゴーストは私たちに嘘をひとつもついていなかった。それはね、ゴーストはナラゴニアの亡命者に聞いたように、記憶の塊だから。自分を構成する記憶を偽ることは自己否定になるから出来ないの」 だからディーナはゴーストの言葉を信用した。今回の「たとえ」話も、そのなかに真実の欠片があると予想したのもそこからだ。 「ナラゴニアでも、ゴーストは銀猫伯爵が捕虜にする提案をする前に、きみたちを見つけようとすれば根こそぎ見つけ出して、殺すことも出来た。けどしなかった、今回の監視システムのことも、本当は私たちにいわなくていいのに、口にした」 「真実しか言えないから、あえて私たちを疑わせる行動をしていたわけね?」 「そこまでは知らない。けど、ゴーストは私たちを試していた。ずっと」 「そう、はじめから掌で踊らされていたわけね。……ならあなたに聞きたいわ。あなたは嘘も偽りも言えるのよね? それでゴーストを肯定した? 嘘をおっしゃい。認めたから認め返す、甘やかしてくれるから好きでいてあげる。それが本当の愛といえるのかしら?」 楽園は小首を傾げる。 「その意味ではお礼を言わなくちゃね。あなたを見ていると私を見ているようだわ」 楽園は溺愛されるシエラを見て、己と同一視して同族嫌悪を覚えた。 結果、それが彼女にこの作戦を踏み出させた。 「あなたたちを見ていると私が殺すよりも自分のせいで私が死ぬほうがあの人にとって重い罰だと気がついたの。たかが小娘の甘えた依存を愛なんて虚飾で飾る幼稚さに嫌気がさしたの。まぁ、あなたはこうして捨てられて、ただ利用されたと証明されたわけだけど」 シエラは静かに否定を口にした。 「私もゴーストも、互いに認めても、愛してもいない。依存もしていない。……本当に利用しあっていただけ。私はナラゴニアに亡命したとき、ゴーストはまだ万全じゃなかったから身を守るための盾が、私は力と名が必要だったから懐くふりをしたの。そんな私の下心を見抜いたみたいだけど」 皮肉にシエラは笑う。 「私は人質としての価値はないけど、少しでも多くきみたちを殺すことはできる。だからここに自分から残ったの。……私ね、一度もゴーストに好きも、愛しているも口にしていない、抱きしめてもいない……拒絶しつづけた」 どこか懺悔めいた言葉をディーナは吐きだした。隠された瞳が、泣いているようにすら見えた。 話に夢中になっているふりをして楽園はトラベルギアの鋏を握りしめると大きく振り上げた。いくら戦闘能力がないといっても不意打ちならば……それはとても甘い考えだった。 楽園はその場に崩れる。 「仮死状態になっただけだから、安心していいよ」 崩れた楽園にそれ以上は興味がないと言いたげにシエラは別方向を見ると、そこが激しい爆音をあげて崩れていく。 爆風に楽園の体が紙切れのように飛びそうになるのを掴んだ手があった。体がまったく動かない状態で、心だけは動いていた。 軍服 背の低い この人は 楽園の唇は名を紡ぐことが出来ないが目だけは相手を見ていた。彼は帽子で顔をたくみに隠し、楽園の体を危険がないところまで移動させると上着をかけた。 「上着のポケットにスイッチが入っている。すぐに助けがくるであります」 それだけ言うと彼は去って行く。呼びとめる術は、楽園にはない。 「そっちにいる限りあなたの願いは叶わないと思うよ?」 炎と瓦礫の山からシエラを発見したニコルが叫ぶ。 「願い? 私の願いはね」 ――世界図書館がなくなる、ことだよ? ニコルの言葉はシエラには届かない。なぜなら、彼女は世界図書館を心から憎んでいるから、このターミナルが滅べばいいと思っているから。 それこそ、世界図書館に属していては叶わない。 ニコルが緊張する気配が伝わってくる。それを無視して進もうとしていたのに足を止めて無造作に転がる死体を見た。もしかしたら先ほどの爆発に巻き込まれた者だろうか。それはシエラにとっては良く見た。そして作り慣れた 「……あ」 シエラの声が震える。 その死体は幼い少女だった。どこかで見たことがある顔。 「はなちゃん?」 少女の首、胸を鋭い棘のようなものに貫かれて、血を流していた。 「……私の望みは」 フラッシュ、蘇る、夜の――少女の死体はなくなっていたが、シエラのなかで灼熱が――爆発する。 「世界図書館なんて、ここにいる奴らなんて」 震える声で咆哮をあげる。 「すべて滅んでしまえ!」 爆発が轟く。轟く、轟く。 「いた」 シエラは紅蓮を背負い、怯えたアリッサを見つけた。逃げ出そうとする彼女を追い立てられた猟犬のように追い詰めていく。 「しねぇ!」 黒い茨がアリッサの腕を掴み、さらに伸びて胴、足を拘束する。 世界図書館を憎みながら、シエラの手にはトラベルギアを握りしめられていた。嫌悪しながらも利用する。手段を選ばぬほどに彼女の狂いは頂点に達していた。 振り上げられたナイフがアリッサの首を突き刺す。しかし、予想していた悲鳴はあがらなかった。 なぜなら ふりかえったアリッサは――ここに来る前に魔女たちと合流していたローナの生み出した分身によるダミー。 ローナは隠密行動を主に世界図書館に不審な変化がないかのスキャン、結果、ヒイラギが無造作に置いてあった爆弾を回収、解体したあとニコルたちと合流した。 同時にダミーを攻撃されたチャンスに足を狙った射撃による拘束を狙っていた。シエラの右足を弾丸が貫通する。 シエラはこれが罠だと理解すると目を見開き、ダミーを爆発させる。それにダミーに埋め込まれていた爆弾も炎を吹く。 重なり合う爆発が踊る。 ★ ★ ★ 扉が開いた。その瞬間、隆樹は設置しているトラップが侵入者に落ちるのを見たが、そこにはなにもなかった。 目を見開いた瞬間、背後で気配を感じた。 転移行動! ――隆樹は反射的に鈍姫を持つとアリッサが最後の抵抗のために傘を突き刺すように見せかけて刺そうとした。 ぬるりっとした影が鈍姫を掴み、更には赤い血を滴らせた鋼糸が刃に巻きついていた。 「影にもぐれるのがお前だけの特権じゃないぜ?」 「!」 鈍姫の刃がまるで痛みを訴えるように震え、ぱきんと、脆い音をたてて砕けた。 「なっ!」 「ヒイラキの物質劣化は有効ね」 砕けた刃を影が音をたてて飲みこんでゆく。隆樹の手元には柄の部分が残るのに影が強欲に手を伸ばす。隆樹は不要となった柄を捨ててバックステップして逃げながらヒイラギの動きに警戒した。 ヒイラギの加速。隆樹に間合いをつめて掌打が放つ。体内の魔力で肉体を強化、加速させて回避にまわる。それにヒイラギは遅れをとらない。一瞬トラベルギアによる反撃を考えたが、物質劣化を持つヒイラギを相手には通用しないと判断し狭い室内を猫の爪から逃れる鼠のように隆樹は逃げる。 アリッサを護るためなら命も賭ける、最悪道連れも考えているが、無駄死をするつもりはない。 「くっ……!」 ヴェンニフを呼ぶ。しかし、返事はない。 「ヴェンニフ!」 隆樹は飢えた獣の咆哮を聞いた。 ★ ★ ★ 通路を駆けていた一人の青年の前でゆらっと青い炎が揺れた。青年は足を止めて、目を大きく開く。 空気が熱い。――世界図書館の中が燃えている! 危機を察して青年が方向転換しようとすると、ごぉ! 炎は生物のように吼え、青年の周りをぐるりっと囲んだ。 「!」 青年は自分の足が動かないことに気がついた。見ると足が凍っている。 「見つけたぜ、アリッサ」 炎のなかから姿を現したのはみすぼらしい野良犬だった。 「動くなよ。炎の扱いは不安定なんだ。丸焦げにしちまうかもしれねぇからな。……ちっ。こっちが正解だったわけだな」 アリッサを見つけるのに、ヒイラギの千里眼と透視能力を駆使する傍ら、ゴースト自身も遠目の魔法を使い、探索にあたった。その結果、可能性が二つに絞られた。 「敵はどうせ囮を使ってくるのは想定内。そのために俺がここにきたんだからそうしてくれないと……いま、この建物のなかをうろちょろしているのでアリッサの可能性は一人、そしてもう一つ、まったく動かないアリッサらしいやつがいる。どちらも知った奴の気配があるから二つとも潰す」 グレイズは単独で青年のもとへ、ゴーストとヒイラギはまったく動いていないアリッサの元に向かった。 グレイズがアリッサに近づいていく。 ――グレイズ、ナラゴニアのことを思い出せ 今までの戦いで世界図書館と世界樹旅団は互いの手の内は探りあってきたとゴーストは告げた。あとは可能性を潰していくだけ、とも。 油断は一切していなかった。アリッサに手を伸ばした瞬間、その影からヴェンニフが飛び出すとグレイズの記憶を食らいにかかる。記憶を虫喰い状態にして、目的もすり替えてしまえば 「っ、てめぇええ!」 グレイズが吼え、それに合わせて炎が勢いを増し、あたり一面に広がっていく。アリッサが息を飲む。 それは黒い龍と傷だらけの野良犬の食いあいであった。互いに爪を出し、牙をむき出して命と存在をぶつけあう。 影が……ヴェンニフは炎の効果に気がついた。グレイズが牙をむき出しに笑う。 「手の内を晒し合ったなら、潰すだけだぁ!」 ヴェンニフは逃げるよりも、食らうことを選んだ。グレイズを頭から飲みこもうとする。それに咆哮が応える。 グレイズがヴェンニフに壁まで吹き飛ばされ、転がる。青く燃える炎は主でも容赦なく業火の痛みを与える。 頭がくらくらして、食われた記憶に意識が混乱しはじめた。俺はどうしてここにいる? どうしてここで戦ってんだ? くそ。 頭をふったグレイズは目を見張った。炎に飲まれた通路の先に人影があった。敵かと思ったが違った。それは 「金の」 炎に焼けて、醜い姿でも少しだけ残った金色の髪からわかった。ふっと彼は自分が知っている一番優しい笑みを浮かべると、青い炎に飲まれて悲鳴をあげた。 ずきりと背中が痛む。火傷のあとが、いたくて、いたくて――たまらなくなる。 「あっ」 青い炎は揺れる。金色を、ピンクを、黄色を飲みこんで、燃えていく。グレイズは悟った。俺の記憶が食われた。 「……っ!」 グレイズは頭を抱えて声をあげる。それは大声で祈る声にとてもよく似ていた。 「俺の」 グレイズの手が床に触れると、そこから氷が生まれる。足も氷で覆い尽くし、滑る。 「俺の復讐の邪魔は誰にもさせねぇ!」 グレイズはヴェンニフに突撃し、氷で作った剣に青い炎を纏わせて、薄まっているその身を突き刺した。 ヴェンニフは獣の声をあげる。 「うおおおおおおおおおおああああああああ!」 野良犬はもうただの野良犬ではない。血を、牙を、手に入れた、狂犬となった。 ★ ★ ★ 「さて、神君から、ビックプレゼントだ!」 ★ ★ ★ 倒れていた最後の魔女は混濁した意識のなかで、差し出された手を反射的に掴んでいた。 とたんに傷が癒えていく。 手の主が――神が魔女の左耳に触れてきた。 まだ声のでない最後の魔女には抵抗するすべがない。 「このままではつまらないからね、神君から、特別なプレゼントをあげよう!」 指が耳の穴にはいり、くすぐったさとともに不愉快さに魔女が身をよじるが脳に直接刺激が走る。 「ついでに君の力は私には通じない。なぜならば私は神だからねえ! 君の力でみんながなにもできなくなっても私だけはやりたい放題! まさかに神だ!」 傲慢に神が言う。 魔女は最後にいくつかの顔を描いて意識を手放した。 そして最後の魔女は声なき声で歌い始めた。 世界図書館を包むレクイエムを。 ★ ★ ★ ヒイラギは自分の持つ麻痺の毒を鋼糸に塗りての攻撃を繰り返し、じわじわと隆樹の動きを鈍らせ、ついには床に倒すことに成功した。黒い瞳が獰猛な龍のようにヒイラギを見上げる。 「行くぞ。ここには用はない」 「はい」 部屋を出ようとしたとたんに爆発音がどこか遠くで聞こえた、気がした。いや、それは勘違いではてない。建物全体が嘆きを歌う様に大きく揺れている。 千里眼、透視能力を駆使するヒイラギは顔を険しくさせる。 嘆きの振動がなにを意味しているのかを理解しているからだ。 ゴーストは何も言わない。部屋を出て、眉根を寄せた。 「ふん、とうとう、無効化か。予想よりも遅かったな。ヒイラギ、お前はどうだ」 問われたヒイラギはとぼけたように首を傾げた。 「使えませんか? 私は感じませんが」 「へぇ」 「……私のことを疑っているんですか?」 「まさか! じゃあ、悪いけど、グレイズのところまで飛んでくれ」 恭しく手を出すゴーストにヒイラギは黙って手をとり、千里眼で見たそこへと転移した。 炎のなか気絶したアリッサを片腕に抱えたグレイズが目を爛々に輝かせて振り返った。 「てめぇらか……始末しようとしたら、一匹、逃した。いきなり力が使えなくなっちまった!」 「無効化能力を持つ最後の魔女だな」 ちっとグレイズは舌打ちすると、左手に目を向けた。たとえ今は使えなくてもいつでも力が使えるようにと意識を集中させておく。 「このままでいいのか? あんたのお気に入り、死ぬぜ?」 グレイズが声をかけるののに無視してゴーストは進みだす。まるですべて承知しているといいたげに。 「はっ、あんたならお気に入りの女を助けるために手段を選ばないと思ってたぜ。俺の提案は受け入れたのにな」 「ラビットホールは興味深い。……シエラは、あれでいいのさ。あれはあれの望みを叶えるし、賭けはまだ続行中」 ゴーストの独り言にグレイズは不愉快げに顔をしかめたが、それ以上、言葉を交わすことはうちきった。 楽園が裏切ると断言したゴーストは、シエラを一人残し、グレイズとヒイラギの影から本物そっくりの偽物を作り出すと、ヒイラギの転移能力によって世界図書館の建物の奥まで移動した。 そのとき、グレイズはアリッサをただ殺すのではなく、ラビットホールに行くことを提案した。それをゴーストはいともあっさりと受け入れた。 単独でアリッサに向かう道すがら、グレイズは追跡を払うため、手当たり次第に目につくものに火をつけまわった。 「あれは」 ヒイラギは炎の先に影を見て身構えた。そこに立って微笑んでいるのは主が 手を伸ばしても、届かないものを、誰もが欲しがる。滑稽だと思わないか? ゴーストはその声にはっと瞠目する。落ちる。正確には感覚だけが。長い廊下はいつの間にか白い花で覆われ、周りには息苦しくなるほどの書を詰め込まれた天にも届きそうな本棚。そこに一人の人物が立っていた。書を手にした者はゆっくりと、悲しげに瞳を伏せる。 「……ここには、マチルダのすべてがある。私の知らないことが……お前は知っていたのだな」 ゴーストは答えない。ただ無感動に見続ける。 人物が変わる。 「うっけけけ! 死人を生き返らせることだって出来る!」 記憶の底の底に沈めていた――淡い衣服に身を包めた死人使いが両手をあげる。 とたんに、ゴーストの身はその場に崩れ、あどけない目で見る。淡色の唇が震えながら紡ぐ。やめて、と。 死人使いは笑う。笑う。笑う。 そしてまた人物は変わる。 銀猫伯爵が微笑んでいた。彼女は首を横にふる。手を伸ばす。けれど届かない。大量の血が銀猫伯爵の口から溢れだし、その場に崩れる。彼女は声なき声で悲鳴をあげる。やめて。と。死体は消え、かわりに一人の男が立っていた。クランチが嘲笑う。 「お前は、いつもいつも信じた者に裏切られるのだな!」 その瞬間、クランチの首が吹きとび、ころんと地面に転がる。 彼女は立ち上がる。 どこか虚ろな瞳。手には誰かが彼女の手に握らせた、ゴーストが食ったはずの鈍姫があった。 けたけたけとクランチの首は笑うのに、彼女は頭を踏み潰す。 大鴉の嘆きの声が響く。 一瞬の夢を見て、茫然と立ちつくすヒイラギは我に返るとグレイズと視線を合わせ、床に腰かけたまま動かないゴーストを見つけた。 「おい、てめぇ、どうしたよ!」 「少しおかしいですよ。この気配、先ほどまでのゴーストと」 ヒイラギが言い終わらないうちに、足元がひどく不安定になった。見ると、大きな穴が――底のない奈落へ 「ふふふ、さすがに、これでチェックメイトはつまらないだろう! 本当はアリッサにばけて首を斬られたとき、君たち、全員殺すつもりだったが、なかなかに君たちは有能だったね! そんな君たちに神君からのビックプレゼントだ! 今こそ、チェス盤を大きくひっくり返すとき!」 グレイズが「てめぇ!」と怒鳴るのを聞きながらヒイラギは動かないゴーストを見て確信した。 「あなたは、誰ですか」 彼女は、答えた。 「マチルダ」 落ちる。 ★ ★ ★ 終焉を望み。最後の魔女は歌う。終わりの唄が、響く。崩れたチェス盤に彼らは並ぶ。 ★ ★ ★ 炎の燃えるなかディアドゥアはそれに真っ先に気がついた。 「空間転移!」 「かなり大掛かりですね」 横にいた霧人がのんびりと声を漏らすが、その落ちてきた人物を確認したハクアは声をあげた。 「アリッサ!」 グレイズに捕まってぐったりとしたアリッサにハクアは魔法を使い救出を試みようとして、自分の力が使えないことに気がついた。 「まさか」 霧人も、そしてディアドゥアも同様の状態だった。三人は顔を見合わせた。 「どういうことだ、これは」 「……可能性として、この場合は最後の魔女さんのことが考えられますが……姿が見えないほどの長距離まで可能でしたか?」 霧人の問いにハクアは眉根を寄せた。 「わからない、ただ、今以上の好機はない」 ハクアの目が捕えたのは、身を出来るだけ小さくして眠る赤ん坊のような――ゴーストだった。 「魔法は使えないが、剣は我が手にある!」 ディアドゥアは剣を構えて駆ける。ゴーストの前で大きく振り上げて、降ろす。そのとき、眠っていたその小さな身が動いた。 鉄の音が響く。 「っ」 ディアドゥアの剣を、鞘にはいったままの鈍姫が受け止めた。その隙をついて霧人が横からぬっと現れる。目にもとまらぬ早業で横から叩き斬ろうとするのに無垢な瞳をした彼女はゆらりと立ちあがり、飛んだ。 「!」 落ちる瞬間をディアドゥアは見逃さず、真っ直ぐに突き刺すと、ふわっとその上に彼女は爪先で立つ。 黒い鴉の羽を背から露わした――嘆きの大鴉は足を器用に刃に乗せ、ディアドゥアの頭上に落下。 「っ」 力任せに剣で弾くのに彼女は抵抗しない。宙に飛びとくるくるとまわって地面に着地し、ディアドゥアの背をとると突く。霧人の攻撃が真っ直ぐに伸びるのに彼女は身を少しだけ揺らし横に逸れる。淡いピンクの髪が霧人の剣と絡みあい、二人の男と一人の女は静寂のダンスを踊る。 黒い羽が散る。 ディアドゥアと霧人の息もつかせぬ連携攻撃にゴーストはたった一人で応戦する。ときとして剣の先が柔らかな肌を裂くが、それでも彼女は止まらない。ただ戦うことだけを使命とした人形のように突き技を繰り出していく。 「はぁ!」 ディアドゥアの生み出した隙をついて霧人が黒い翼を根から叩き落とす。飛び散る血、黒い羽が舞う。 しかし。 彼女は止まらない。 剣を盾にするディアドゥアに向けての攻撃は加速を増し、同じ場所を何度も繰り返し続け、ディアドゥアは後ろへとじりじりと下がっていくのに霧人も眉根を寄せた。 「これだけ傷つき、動きつづけて息ひとつ乱さない?」 「わたしは、……死体だから」 はじめて彼女は応えた。 「私は、もう死体だから、もう何も感じない。……生き返っても、それは変わらない。力を封じられたシャドウは、蘇った私には勝てない。今だけの仮初の生、どうでもいいわ。誰が私を救っても、……ねぇどうして、あなたたちは私の邪魔をするの? 私は、ただ」 彼女はそこでぼんやりとした目をした。 「わからない。どうしてあの人は死ななくてはいけなかったの。あの人は、あんな寂しい死に方をしていい人ではなかったのに……誰が裏切ったのか、誰がああしたのか……目の前で、彼が、あいつが……わからない。けど、ただわかるのは、誰一人として生かしてはいけないということだけ!」 たび重なる生死の扉をくぐりぬける作業、目の前で繰り返された悲劇に彼女は崩壊を望み、停止した。 彼女を突き動かしたのは向けられた殺意。 死んだあとも体は本能的な生を望む。 「ふ、ふふふ。あはははは。うっけけけけけけけけ! あああ、ああ、そうよ、私は、もうなにもない……誰が、あの人を殺したの? 誰が裏切ったの?」 透明な涙を零し続けるのにマチルダは微笑み、ディラドゥアと霧人に迫った。 ハクアはアリッサを救おうとグレイズとの距離をはかっていた。たとえ魔法が使えない状況でも何もしないという選択は彼にはなかった。そのとき、腕を掴まれて、はっと振り返るとニコルが背にいた。彼女の鋭い目と目があう。 「楽園は?」 「マドカが治療して無事よ。スイッチもある……私が行く。アリッサをお願い」 「しかし」 「接近戦は私の得意分野。マドカたちを護って、ラストの魔法が切れたときが本領発揮のときだよ。それに私はなんか知らないけど力が使えるみたいだし」 ニコルは果敢に駆けだした。グレイズはアリッサを盾にニコルを威嚇する。 「こいつを殺すぞ!」 「させない!」 ニコルの目はグレイズの肩の動きに注目する。動くときはいやでも体の部分が動くものだ。それで先の行動を予測する。決してミスは許されないが、グレイズは無防備に見えた。隙をついて出鼻をくじいてやれば勝機はある。と、横から投げられた糸に気がついて後ろにさがる。 ヒイラギがグレイズの前に立ちはだかる。 音もない動きだったのにニコルは自然と緊張する。天敵と会ったときの獣のような警戒が肌を刺激する。息を殺し、足先からゆっくりと歩く。それにヒイラギも合わせて動き、二人は円をかくようにじりじりと向き合う。 動き出したのはニコルだ。それにヒイラギも動く。 「はぁ!」 ニコルは目に力をこめる。見極めればいい。そう思ったとき、ヒイラギの姿が消えた。 「!」 背後だと判断して振り返ったときには、横にいた。 「っ!」 ヒイラギの拳に腹を打たれたニコルは地面に倒される。胃を焼く様な痛みに襲われ、アバラの骨が数本だがひびがはいったか折れたと判断する。 「ニコル! これ使って!」 「マドカ!」 隠れていたマドカが持っていたスプレーを投げるのに、ニコルは受け取ろうとする。それにヒイラギは警戒して次の一撃でニコルを仕留めるために迫ってきた。ニコルはマドカから受け取ったスプレーを使おうとして、それが使えないことに悟った。 「どうして!」 マドカは知らなかった。トラベルギアは本人しか使えないのだ。 ヒイラギが迫る。 「ニコル! スプレーを投げろ!」 ハクアの声にニコルは言われたままスプレーごと投げると、それをハクアが撃った。撃ち抜かれたスプレーはハクアの光の弾丸に破裂し、ヒイラギを吹き飛ばした。 「今だぁ!」 ニコルは地面を蹴って立ちあがると、ヒイラギに体当たりを食らわせようとした。視界を一時でも奪えたのに最大のチャンス。しかし、透視と優れた経験からニコルの攻撃を悟り、ヒイラギは片腕で受け流す。 ほとんど気力による行動だった。 「……っ、主と、関係ないところで、死ぬわけにはいきませんから」 衝撃に、一分だけ気絶していたシエラは起き上がり、目を焼く痛みに慌てて予備のミラーシェードをかけた。 「……っ、ごーすと」 シエラは戦うゴーストの姿を認め、目に力をこめて、力が使えないことに気がついた。 「こんなときに」 奥歯を噛みしめて、シエラは立ち上がる。 「力がないから奪われるんだ」 シエラは人を殺し続けてきた。ターミナルにきてなにかを護ろうと思った。けど、それはずっと力のある相手に奪われてしまった。いいや、違う。無意識に自分が弱者だと思いこもうとした。そうすることで己を護りたかったのかもしれない。 あの子を殺されたとき。 シエラは安易な逃げ道として狂うことを選んだ。そして己が奪われたことを弱者として。 けど、本当にそうだったのか。 「ゴースト」 護ってくれた彼がそうであるように。 「はなちゃん」 あの子がそうであるように。 「私は、」 シエラは血と痛みを――脳内で痛みを意図的に感じないように自己暗示――走り出す。 「ゴースト!」 ★ ★ ★ 狂いつづける終焉の唄が/強制的に力を引き出された魔女の肉体は限界を迎え/止んだ。 ★ ★ ★ その瞬間、グレイズの炎が勢いよく噴射し、あたり一面に燃え広がった。それと同時に戦っていたマチルダが崩れると、すっと片手をあげた。その手にはいつの間にか貝が握られていた。 「くそったれのあばずれっ!」 苦々しく吐き捨てたゴーストはこの場一帯に貝の夢を発動し、強制的に全員の精神をのっとりにかかる。 ハクアは故郷、大切な家族を。ニコルは最愛の男との結婚式を。マドカは死体を。霧人は悪魔との邂逅を。ディアドゥアは家族をころした禍神を。ローナは闇の中に己が捨てられる――夢を。 「おい、そろそろ時間だ……ああ、くそ! 記憶の混乱のせいで頭がいてぇ……これじゃあ、ラビットホールを見つけている暇はねぇなぁ。時間切れだ。グレイズ」 忌々しげにゴーストは声をあげて頭を振った。この場にいる全員が夢に囚われているのを確認したのち、それに気がついた。 ローナは戦闘不能となり、その身が危険に晒された場合は自衛モードが発動される。 現在燃える炎に、ローナは危険に晒されていた。 制御そのものが自動戦闘システムに完全に移行。目は光を失い、その唇は何も紡がない。まるで兵器だ。いいや、実際、いま、彼女は兵器になっていた。 自分のチェンバーとの通信機能による装備チェンジが可能であるローナは自衛モードとなった場合、装備制限をすべて解除される。 急速にコピーを十体生み出し、それぞれ装備が違う状態で動き出す。 その十体が、容赦なく攻撃を開始した。 狙いはゴースト。 「ゴースト!」 ゴーストが動く前に、シエラが駆けだす。 「!」 シエラの体は宙に飛び、鮮血が散る。 ゴーストはシエラの体が蜂の巣になる前に腕を掴んで、懐に引き寄せると風の防御壁を発動して、ローナの攻撃に耐える。 「シエラ! 死体がいくら攻撃されたところで死ぬことなんてないのに」 ゴーストは死体を乗っ取って存在している。ゆえに死体が燃えるか、復元不可能まで追い詰められなければ存在できる。 そのために治癒能力を持っているマチルダの肉体を器としたのだから。それに今は魔法が使えるから自分で自分の身くらい護ることは容易い。 だのに、シエラは無駄だというのに動いた。 「……ゴースト、無事?」 「待ってろ、いますぐに……治癒を、っ、細胞の死滅のほうが早い……茨を使いすぎだぜ。シエラ」 血に染まったシエラは笑う。 「あなたが無事でよかった……あのね、ゴースト、生き延びてね? 私、すこしは、世界を面白く、できたかな?」 「しゃべるな」 「そんな顔、しないで、ゴースト、私、今度こそ、あなたの、手を……とれ、た。いつも、失敗してたけど、今回は失敗、しなかった、よ? ちゃんと、あなたの、手をとれた。ずっと、ずっと、とりたかった」 何度も世界はシエラを、嘲笑い続けた。だから今度こそは自分が奪う側になるのだと思っていた。けど、本当は自分は弱いのだと、奪われるしかないのだと、守れない言い訳がほしかったのも真実。 ゴーストがローナによって殺されると判断したとき、冷静をなくしたと同時に言い訳を捨てた。 護れないことへの。自分への。 飛び込んだのは自分の意思だった。ただ目の前でゴーストに死んでほしくなかった。それだけ。 「あのね、ゴースト」 「なんだよ、シエラ」 ゴーストはシエラの手をとって治癒をし続ける。その肉体はもう治癒魔法では助けられなくても。 「私、あなたが……好きよ」 ゴーストは何も言わない。どんな顔をしているのか見たいのに、もう暗闇で見えない。だからシエラはかわりに手に力をいれる。 何度も手のなかを落ちた。つなげてもらった命を、どうすればいいのかわからなかったけど。 今なら、あのときの気持ちが、ゴースト、貴方の気持ちが少しだけわかった。 満ち足りた笑みを浮かべて、シエラはゴーストをあらんかぎり力で抱きしめる。 血に濡れた抱擁は何もかもが真っ赤に染めて。 「貴方が好きよ、ゴースト」 もう一度、言葉は紡がれて、落ちる。その瞬間に抱きしめていた腕は力をなくし、無へと沈む。 ゴーストはその瞬間、シエラだけを見ていた。そのため貝の夢から自力で抜け出したハクアとディアドゥアの攻撃魔法に対する対応が遅れた。今まで己を護っていた壁が消し飛び、現れたディアドゥアの剣の一撃が心臓を突き刺す。 「散れぇ!」 「……っ、否定する!」 ほぼ同時。 ディアドゥアの剣から放たれた青い雷撃はゴーストの身を焼く。 鈍姫を飲みこんだゴーストはディアドゥアの剣そのものを否定し、打ち砕いた。ゴーストは両腕にシエラの遺体を抱えたまま立ち上がると顎を狙って蹴りを放つが、ディアドゥアは後ろへと避ける。 激しい爆音が轟き、風が走る。 「爆弾があったので、すこしはやめさせていただきましたよ」 霧人だった。 彼は悪魔の力を使い、楽園の持っていた爆弾を引き寄せると、そのタイマーを少しだけ操作した。その爆撃によって周囲が吹き飛ぶのに合わせて、グレイズからアリッサを奪い返し、今は自分の腕のなかに抱きあげている。 「ディアドゥアさん、逃げるとしましょう。アリッサさんも取り戻しましたし……それにしてもアリッサさんはいい匂いがしますね」 霧人の言葉にディアドゥアは眉根を寄せる。その隙をついてゴーストは駆けだしていたが、それに十体のローナの追撃、ゴーストの体が吹き飛び、なにかが落ちるのを見たニコルは動いた。 「スイッチ! ……とった! ここにスイッチはあるわよ!」 その言葉にヒイラギの動きがとまるが、グレイズは駆けだし、床に落ちたもうひとつのスイッチをとると自分のものか確認し、その場から背を向けて素早く駆けだした。 ゴーストはそれぞれの動きを見ると、ふっと口元に笑みを浮かべた。 「グレイズはよく働いてくれたし、仕方ない」 ゴーストの手がシエラの腹を突いた。そしてそこから一個の爆弾を取り出した。 「逃がしてやるよ。わんちゃん! 望みを叶えな!」 取り出した爆弾をゴーストは力いっぱい床に投げると閃光が走る。――グレイズが館長室に設置していた爆弾が爆発した。 「どうする」 ニコルがヒイラギを見る。 「私は死なないことが目的ですから。投降します」 ヒイラギは、ディアドゥアの魔法と霧人の悪魔によってこの場から退避するのにくわわった。 炎は唸り、建物が崩壊していく。 ゴーストはシエラの遺体を抱き、その光景を見つめていた。 「十年内に俺を愛してくれるやつがいるから死ぬな、それが賭け、ね。……賭けはお前の負けだ。シエラ、俺はお前が俺を好きだというのに賭けた。だから、十年はいらない」 不意に奇妙な唄が流れてきた。 約束通り神が歌っているのだ。 ぼくらはみんなーいきているー、わーむだってー、おけらだってー 「……もうちっと、選曲しろよ。……きぃ、お前の娘の力、借りるぜ?」 コピーの神を食らい、その波動を読んだゴーストは今までに食らったなかで、精神を繋げ、他者に流す力を持った者の力をあわせる。 神の唄に、ゴーストの――名もなき子守唄がかぶさり、世界図書館に響きわたる。 最期の悪ふざけ。 「シエラ……おやすみ」 ゴーストは最後にシエラにキスを送る。その上に大きな瓦礫が落下した。 世界図書館は血と涙、死と罪を演じる舞台となり、その役目を終えたように炎に包まれ、崩壊した。
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